先日、紹介した松尾さん親子のどもり旅の続編として編集した『スタタリング・ナウ』(1998年2月21日)を紹介しています。次に、松尾さんの文章を読んだ感想を紹介します。今日は、松尾さんと同じように、どもる子どもの親であり、後にそれがきっかけで、大阪教育大学の特殊教育特別専攻科(言語障害児教育)で吃音を学び、小平市の障害者センターでスピーチセラピストとして働いていた安藤さんの感想です。安藤さんは、松尾さんの「どもり・親子の旅」を読んで、ご自分の親子の旅を振り返って下さいました。その安藤さんとは、僕は公私ともに親しくさせていただきました。最初のパンフレット「どもりの相談」を作ったときも一緒に合宿をしたり、内須川洸先生との年に一度の旅行にもご一緒しました。ご病気で亡くなられましたが、こうして文章を読むと、包み込むような温かさと鋭い指摘とが思い出されます。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/06/12
どもり・親子の旅を終えて
小平市障害者センター言語相談室 安藤百枝
はじめに
松尾さんの「どもり・親子の旅」、とても懐かしい気持ちで読ませて頂きました。
私は現在、スピーチセラピストとして働いていますが、20数年前、当時幼稚園児だった息子とどもりの旅をスタートしたひとりの母親でもあります。その旅がいつ終わったのかはっきりしませんが、松尾さんの文に触発されて、長いようで短かった私共の旅をふり返ってみました。
息子のどもりが重くなり
時々軽くつっかえる程度だった息子のどもりが、5歳の時自家中毒のあと急に重くなった時には、どうしたらよいのかわからず、あわてました。
どもりに関しては、注意したり、言い直しをさせたりしなければ、そのうち治るという程度の知識しかなかった私は、なんとかして治さなければ、と総合病院の小児科を受診し、そこですすめられたスピーチクリニックに通いました。
話す前にフゥーッと息を吐くという練習をして、一時的に軽くなったのも束の間、以前よりひどくなってしまいました。そしてまた、別の吃音研究所に通うという愚かなことをしました。そこでは、機械を背中に背負わせるなどする治療にインチキ臭さを感じ、2回ほどでやめました。
どうすればいいのか戸惑っていたある日、テレビを見ていると、NHK教育テレビ番組「NHKことばの治療教室」が出演メンバーを募集していると案内していました。ここなら信頼できるだろうと応募し、条件に合ったため、メンバーに入れていただきました。
NHKことばの治療教室
ここでの一年間は、それまでの私のどもりに対する考え方が、根底からくつがえされる葛藤の日々となりました。
NHKでの指導は、どもりだけを追放するのではなく、子ども全体を良くすることでどもりを追放しようという考え方で、どもっている子どもをそのまま受け入れ、子どもの話をよく聞いて、話しやすい雰囲気をつくり、どもっても平気でいられる母親になるように、という母親指導が中心でした。しつけについても色々と考えさせられ、反省することばかりでした。
子ども達は別の部屋で研修の先生が遊んで下さり、息子も「今度はいつ渋谷に行くの?」と楽しみにしているようでした。
5人の母親グループの中で私は一番の劣等生で、いつまでも治したいという気持ちが強かったのですが、宿題の日記をつけながら色々な角度から自分を見つめる中で、少しずつ私の中味が変わってきました。
母親が変われば子どもも変わるという見本のように息子の吃症状は軽くなり、自分でも「僕、ウウ、ウ、ウルトラマンていわなくなったね」といっていました。
今思えば、どもりのことをきちんと話す絶好のチャンスだったと思うのですが、当時はどもりを意識させるなんてとんでもないことで、「ウ、ウ、ウってつっかえてもたくさんおしゃべりするほうがいいんだよ」と言ったと思います。
『どもり』ということばは禁句でした。
私の中にも、どもるという症状があることは認めても、『どもり』だとは認めたくない気持ちがあったと思います。
一年間の指導が終わる頃には、どもりも軽い症状での波となり、私自身も一年前の自分からは想像できない位に平気になっていました。
そして心の中では、治らないのかもしれないと薄々感じておりました。その一方で、親がどもる症状を気にしないで、大らかな気持ちで接することができるようになれば、子どものどもりの問題は解決する、という当時の指導の「解決する」ということばに、親の接し方次第で治るのでは、という希望を抱いていました。
治らないどもりをどうするか
そんなあいまいな気持ちで、私共は夫の転勤で大阪へ転居することになり、もう少しどもりのことを勉強したいという気持ちもあって、大阪教育大学の神山五郎教授を訪ねました。
そこで私は「目からウロコが落ちる」という体験をしたのです。
特殊教育特別専攻科(言語障害児教育)の授業を聴講させてもらった時、神山教授や当時専攻科の学生だった伊藤伸二さん達、魅力あるどもる人達が、「治らないどもりをどうするか」というテーマで、どもりながら話し合っていたのです。
はっきりと「治らないどもり」ということばを耳にした時、私の気持ちは落ち込むどころか、むしろすっきりして目からウロコが落ちる思いでした。
テレビや映画の中の吃音者ではなく、ナマの成人吃音の人に身近に接したのは初めてでしたが、嫌な印象は全くなくて、「どもりをもったままいかに生きるか」という授業の内容にもすっかりはまってしまい、次の年、大阪教育大学・特殊教育特別専攻科の学生となりました。
息子のどもりのことは二の次となり、言語障害についての勉強をしながら、どもる人達と一緒に、私自身が自分の人生と向き合う旅を始めたのです。
『吃音者宣言』が発表される少し前の頃です。
息子との旅を終えて
息子との旅が終わった今も、わたしの旅は続いています。私の中で、吃音の受容を、自分自身の受容を確かめる旅でもあります。
息子は3年生までを大阪で過ごしました。幼稚園時代の友達と別れて知らない土地での学校生活のスタートは、不安だったことと思いますが、すばらしい先生に出会えて、どもりが悪くなることも、からかわれたりすることもなく、学校に行くのがとても楽しそうでした。ひとりひとりの気持ちをとても大切にして、子ども達の話をじっくり聞いて下さる先生でした。
松尾さんも、3年の時の担任の先生との出会いが、その後の松尾君の成長に大きく影響していると書いていらっしゃいますが、学童期のどもる子どもに担任の先生が与える影響は、その子の生き方を左右するといっても過言ではないと思います。
当時、吃音親子サマーキャンプはありませんでしたので、将来どもりが重くなったり、悩んだりした時には、大阪吃音教室に託そうと思っていました。大阪吃音教室に中学部や高校部を作って欲しい、と伊藤さんに頼んだのもその頃です。
子どもがどもり始めた時の親の悩みは、今どもっていることだけでなく、この先どうなるだろう、まともな人生を送れるのだろうか、という将来への不安が大きいと思うのです。
社会で活躍している著名人が、どもりながら話されたり、子どもの頃どもっていた、という話を聞いて安心したりもしましたが、身近に接した大阪吃音教室の人達の存在は、私にとってそんな不安をかき消してくれるものでした。
その後、症状が重くなることもなく、楽天的な性格もあったのか、思春期を迎えても、どもることで深く悩む様子もなく、大阪吃音教室とは今のところ縁がありませんが…。
おわりに
『スタタリング・ナウ』40号で、伊藤伸二さんが、「どもりに関しては、吃音ファミリーにお任せ下さい。吃音ファミリーはひとり立ちするための母港です」と書いておられるのを読んで、気持ちがとても広やかになりました。
吃音親子サマーキャンプで、自分の悩みや、どもりについて思いきり語り合い、力を合わせて劇に取り組んだ子ども達の中には、忘れられない共通の記憶と心の結びつきが生まれ、光となって輝き続けることと思います。
松尾君の作文を読むと、日本吃音臨床研究会が目指しているものがじわじわと彼の中に浸透して、輝いていく様子が感じられます。
特に、人権作文「やさしさを見つけよう」は、頭の下がる思いで読みました。彼の内面から湧き出ることばがあふれています。
人を殺すのも生かすのも人だ、と言われますが、だからこそ、人との出会いが大切だと思います。松尾君が、まだ色に染まっていない時期に、日本吃音臨床研究会のどもる人達に出会えたのは幸運でした。
中学生になった彼が、ひとりでも多くの理解者と出会い、ふれあう中で、また違う輝きを見せてくれることを願っています。
吃音ファミリーを母港として、自分の海路図をつくり、ゆっくりと大海に漕ぎ出していって下さい。(1998年2月21日)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/06/12