伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

難聴

難聴の娘と歩んだ40年と娘自身の子育て

 吃音親子サマーキャンプや岡山での吃音相談会の案内を、間にはさみました。今日は、22日の続き、「スタタリング・ナウ」2011.9.20 NO.205 で特集した、NPO法人全国ことばを育む会元理事長の加藤碩さんの文章を紹介します。明日は、加藤さんのもうひとつの文章と、その後に、娘さんである恵さんの文章も紹介します。加藤さんもすごいけれど、娘さんの恵さんもすごい、そう思います。
 
難聴の娘と歩んだ40年と娘自身の子育て
      NPO法人全国ことばを育む会理事長 加藤碩

はじめに
 耳が不自由な私の娘は、今年40歳。7歳年下の手話通訳者の夫と9年前に結婚して、3人の子どもを産み、職場での仕事を持ちながら子育てに大忙しの日々を送っています。
 現在娘は京都で生活しており、私は山口市が住居ですから、高校卒業の18歳までは一緒に生活していましたが、それ以降の年月は京都と山口の別々の生活です。それでも月に数回はメールを交換したり、三人の子どもたち(私にとっては、7歳、4歳、2歳の孫)との生活の様子は、孫たちの元気な電話などで様子が伝わりますので、5人になった彼女たち一家の生活には、大きな期待と関心を抱きながら私も生活しています。
 伊藤伸二さんのご期待にこたえられる文章になるかどうかは分かりませんが、娘との40年をふりかえって、いくつかのことを書いてみることにいたします。

医師の宣告で立ち上がれないほどのショックを受けた30数年前
 「この子の耳は聞えていませんよ」と大学病院の医師から突然の宣告を受けて、私はどうしようもない気持ちになり動転しました。ヨチヨチ歩きの娘が耳からはみでるような大きなイヤモールドをつけている姿を見るだけでもたまらない思いでした。妻の方が立ち直りが早く、「現代の医学でどうしようもないものなら、教育の力に頼る以外にない」と決断したようでした。私は妻のこの明確な決断におずおずとついて行きました。私自身の落ち込みはどうしようもないほどで、立ち直りにはかなりの時間を要しました。
 これは多分かなり後になってから(娘が高校生の時かと思います)、その時の私が落ち込んだ様子を正直に娘に伝えたことがあります。娘はこのことをものすごく喜んで、「父さんが私のために昔落ち込んでくれて、しばらく立ち直れなかったらしい」とかなり多くの人に話していたようです。自分のために父親が「落ち込んでくれた」ということが余程うれしかったのでしょう。肉親同士の思いというのはそんなものなのかと思ったりしています。

娘の人生は娘自身が歩む、娘の進路は娘自身が決める
 私たち夫婦は子育てについて、あれこれ議論もしましたが、結論的には「娘の人生は娘自身が歩む、娘の進路は娘自身が決める」という考え方を貫きました。これは私たち夫婦もそのような立場で歩んできたので、自然な成り行きでした。
 娘は体も小さく、育ちそのものが他の子どもたちと比較するとずいぶんとゆっくりでしたが、子育てについての考え方では夫婦で一致していましたので、娘の伸びていこうとする力に信頼をおいて「ゆっくり、ゆっくり、あせらず、あきらめず」の子育てを貫きました。他の子どもとの違いや遅れはあまり問題にしないで、娘自身の発達の順調さを評価しました。娘のよいところ、得意だと思えるところを発見して伸ばしてやろうという立場に徹していました。通知表では、国語や算数は概ね五段階評価で「2」(「3」の評価も時々はありましたが)が多かったと思うのですが、図工(美術)に「5」がいつもついているのには注目していました。中学2年の秋、台風が山口県の中央部を直撃しているさ中なのに、提出期限となっている美術作品を学校に提出に行くと云って、合羽を羽織って玄関を飛び出した娘に、作品制作への異常ともいえる熱意を感じたのもこのころでした。

「美大に行きたい」「美大の受験塾に行かせてほしい」
 高校2年生の秋、娘から突然「東京か京都の美大(芸大)に行きたい」「美大の受験塾に通いたい」とおとなしい娘にしては、かなりはっきりした希望が述べられました。高校の美術の先生に伺うと「高校2年生からでは、デッサンも色彩構成もかなり手遅れだ」「一浪を覚悟しないと」ということでした。しかし、それからの娘は親の目から見ても大きな変貌を遂げて、1日としてサボらずにデッサンに打ち込み、私たちが素人目で見てもデッサンは見る見るプロのように上達していくようでした。そして、かなりまぐれ臭いのですが、先生が無理だとみた大学に一浪せずに合格しました。
 耳が不自由なことから、大学生活、寮生活ではかなりな困難を経験したようですし、最初は友達との齟齬もあったようですが、それからの5年間の大学生活は制作に打ち込み、たくさんの友達も作り、アルバイト(補聴器屋さんのダイレクトメールの住所書き)もし、自動車の免許も取りました。最後の2年間は様々な展覧会で賞も取り、作品が世界を回ったものもあります。最高の賞金は京都市美術展の准大賞で50万円の賞金を札束で見せてくれたりもしました。
 ところがなかなか自分の進路は決められなかったようです。一時は自分の能力を過信して、友達とアトリエを建てて作品を作ってプロを目指したこともあるようですが、見事に挫折しています。私たちは「自分の進路は娘自身で決める」と当然にも思っていましたから、「そのうちになんとかするだろう」とわりとのんきにかまえていました。

障害者施設の指導員として
 そのうちに「精神障害者施設で働くことにした」と言ってきました。「大変な人たちがたくさんいるところで、耳の不自由なことが普通の人よりも結構役に立つ」というのです。私たちは半信半疑でしたが、精神障害で苦しんでいる若い人たちから、娘が耳は不自由だが結構たくましく生きていることに対して、信頼の気持ちが生まれ、心を開いてくれる人があるらしいということで、そんなこともあるのだなと、娘の意思にまかせることにしました。結局一職員として3年間働きました。
 そのうちに京都市聴覚言語センターの関係者から、「あなたは聴覚障害者なのだから、うちの採用試験を受けて、正規の職員として働かないか」と誘われ、現在勤めている施設の職員となって約10数年働いています。
 子育てと仕事で、作品制作は今のところあきらめているようですが、雑誌の表紙絵やポスターなどは頼まれて描いています。

「私、結婚することにした。相手は7歳年下の手話通訳者」
 そんなある日、娘から突然FAXが入り「私、結婚することにした。相手は7歳年下の手話通訳者だ」というのです。そしてあまり間をおかずに、彼を連れて山口の家に現れました。まだ少年のような若者でした。私は、娘に「自分たちの結婚は自分たちで決めたらよいが、相手の親族から認めてもらう努力は尽くすべきだ」「しかし、女性が7歳も年上で耳が不自由だというのは、ハードルが高い。このハードルと向き合う努力を2人が真剣にするのなら、父さんは応援するよ」と答えました。2人はその後、彼の郷里の宮崎県まで行って、このハードルを乗り越えて帰ってきました。
 後で彼のお母さんから「恵ちゃんが、あまりに素直で、かわいいのでするすると認めてしまいました。耳のことは気にしていません」といわれて、2人は幸運だったなあと思いました。

三人の子どもの子育てと娘の「子ども観」
 今、娘は京都市聴覚・言語センターで耳が不自由で、他にも精神障がいなど重複した障がいを持つ人々に紙すきの技術や民芸品の制作を指導しつつ、家庭では3人の子どもを育てています。家庭生活も職場も有能で若い手話通訳者の夫との二人三脚が力を発揮しています。
 私が驚きもし、感心しているのは、娘の子育ての姿勢が実におおらかで一般的な社会常識にとらわれていないことです。今の日本の教育界では、学カテストの実施に見られるような文部科学省などの「競争をよし」とする教育観が支配しています。私の娘はそのような教育観とは百八十度正反対の「子ども観」「教育観」の持ち主です。どこかで誰かに教えてもらったというのではなく、いわば天性のものだと思います。
 小学2年生になる長男が、繰り上がり、繰り下がりの足し算、引き算に苦労しています。その息子に対して「そんなにあせってできるようになろうと思わんでもいいよ。お母ちゃんなんか6年生になるまでできひんかった。大人になるまでには、必ずできるようになる。お母ちゃんみたいに遅れた子でも、大学に入れたんやから」という調子です。
 そして子どもたちには、楽しいことをたくさん経験させてやろう、のびのび遊ばせてやろう、本をたくさん読んでやろう、自然と親しませてやろうといつも考えているようです。ですから子どもたちは、平気でまいにち遊びに精を出しています。
 私たち夫婦もこの度肝を抜くような「子ども観」に少々あきれていますが。

子どもへの信頼、人間に対する信頼が根底にある
 娘の子どもへの対応の根底には、子どもへの限りない信頼、人間に対する信頼があるように思います。「この子たちの人生をゆっくり楽しませてやりたい。そんなに急がなくてもゆっくり、ゆっくり進んでいけばよい。失敗しても何度でもやり直しがきく生き方の方が、人間は豊かになって成長していける」というのが娘の人生観、子ども観なのではないかと思います。
 そんな、なんとものんびりした子育てに、孫たち3人ものびのびと育っていますし、私たち夫婦も学ばされています。  (2010年7月25日記)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/05/26

子どもへの信頼

 NPO法人全国ことばを育む会の元理事長の加藤碩さんとのおつきあいも、長くなりました。ときどき、「スタタリング・ナウ」の感想を、几帳面な文字で綴って送ってくださいます。
 「スタタリング・ナウ」2011.9.20 NO.205 は、そんな加藤さん親子の特集です。加藤さんは、お子さんである恵さんが2歳のとき「この子の耳は聞こえていませんよ」と、医者から宣告を受けます。そこからの歩みを綴ってくださいました。吃音と難聴、その似ているところと違うところ、子ども観、障害観、教育観、加藤さんと、それらを語り合ったあの夜の時間は、僕にとってとても豊かな時間でした。
「スタタリング・ナウ」2011.9.20 NO.205 の巻頭言から紹介します。

  
子どもへの信頼
                     日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 「親はなけれど子は育つ」は、井原西鶴の浮世草子「世間胸算用」に出てくるが、それに対して、「あれはウソだ、親がいても子は育つんだ」と言ったのは、堕落論で有名な作家・坂口安吾だ。
 西鶴は、自分が育てなければとあせらなくても、親がいなくても子どもはちゃんと育つものだよと、江戸時代の長屋のような、地域の共同体を信頼した。安吾の言う「親がいても」は、立派な親でなく、子どもの足を引っ張るような親であっても、親の悪い影響をものともせずに、子どもは育つのだということらしい。
 いずれにせよ、子どもには本来育つ力が備わっているとする、子どもへの信頼のメッセージとして受け止めることができるだろう。
 子どもが吃音だと気づいた時、子どもが将来どのような課題と向き合わなければならないか、親として何ができるか不安をもつ。毎日かかってくる私の電話相談「吃音ホットライン」では、そのような親の思いが伝わってくる。3歳に満たない子どもでも、「治りますか」と質問し、治らなければ、小学校に行っていじめられないか、に始まり、将来仕事に就けるか、結婚はできるかまで心配している。幼児吃音の場合、自然に消失することもあるが、消えずに治らない可能性もあることを伝えると、「子どもがかわいそう」と、ふともらす親が少なくない。
 そんな時、「子どもがかわいそう」だとは決して思わないでほしいと、私は言う。子どもは親が考えているほど、そんなに弱い存在ではない。脆弱性があるわけではない。親が手伝っても、手伝わなくても子どもは、その子なりに育っていく。
 3歳頃からどもり始めた私が、学童期・思春期、吃音に深刻に悩んでいた時、両親は何もしてくれなかった。自分自身が吃音に深く悩んだ父親、その夫と生活をしてきた母親が、私の吃音の悩みに気づかないはずはない。しかし、本人が相談してこない限り、どう生きるかは息子自身の課題だと考えたのだろうか。勉強しろとも、友達をつくれとも、何も言わなかった。当時はとてもつらかったが、それは、両親が、「この子はなんとかなるだろう」と私を信じていてくれたのだろうと、今は思う。
 一昨年の夏、山口県で行われた親の会主催の吃音親子キャンプは、豪雨の影響で予定の会場が使えなくなり、ことばの教室の設置校が会場となった。「学校の怪談」を楽しみ、校舎の中庭にむしろをひいてのバーベキューは趣があって楽しかった。その席で私は親の会の加藤碩さんとずっと話し込んだ。難聴の娘さんのことを楽しそうに話す加藤さんに、私はふと、私の父親をだぶらせていた。
 父親とは、どもる子どもをもった親の気持ちについて聞く機会はなかったが、父親は、どもる息子について誰かに尋ねられたら、加藤さんのように話すのではないかと、その時感じた。
 子ども観、教育観、障がい観など、話せば話すほどに共通することがうれしくて、加藤さんに子育ての体験を書いていただきたいとお願いした。
 子どもや生徒、クライエントが、親や教師、カウンセラーをまず信頼することが、子育て、教育、カウンセリングに不可欠だとよく言われる。しかし、反対に親や教師が「子どもは成長し、変わるものだと信頼する」大切さを言う人は多くない。
 かわいそうだからと、両親から、サリバンが言う「野生動物」のように育てられたヘレンケラーを、サリバンは「この子は必ず、言語を獲得し、人間として成長する」と信頼した。教師が先に生徒を信頼したことで、サリバンの教育はあの奇跡を生んだのだ。私はこの例を出して、ソーシャルワーク演習を担当している大学や、言語聴覚士の専門学校の、将来対人援助の職に就く学生に、目の前の相手を信頼することの大切さを話している。
 信用と信頼は違う。銀行が融資するのは担保物件という条件(根拠)を信用するからだが、信頼には根拠がない。成績がいいからでも、体力的に優れているからでもなく、加藤さんも、私の親も、根拠なく自分の子どもを信頼した。
 加藤さん親子の子どもへの信頼はすがすがしい。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/05/22

左利きと吃音〜共通点に気づく

 左利きの人は、僕の周りにもたくさんおられるし、その人たちの苦労、しんどさを思ったことはありませんでした。今日、紹介する田原さんに話を聞くまでは、そうでした。お話を聞いて、吃音と似ていること、共通点に初めて気づきました。当事者に言われないと分からないことが、世の中にはまだまだたくさんあります。ちょっと視野を広げることで、同志のような気持ちになれるのだと思いました。自分の吃音を理解してほしいと社会に言うのと同じくらい、自分自身が社会のいろいろな人たちのことを理解したいという気持ちを持ちたい思います。100%は理解できないけれど、少なくとも、理解したいという気持ちは持ち続けたいです。
「スタタリング・ナウ」2000.12.16 NO.76に掲載している田原さんの体験を紹介します。

  
わたしは左利き
                     きこえの教室担当者 田原佳子

「右手を挙げて!」

 えーと、お箸や鉛筆を持つ手が右手だから・・。よく子どもに「みぎひだり」を教えるとき、「箸を持つ手、鉛筆を持つ手が右」と教えます。でも、私は箸を持つ手は右、鉛筆を持つ手は左です。実にややこしいことです。いまだに、「みぎひだり」は反射的には分からず、頭の中でえーとと考えます。助手席に座ってナビゲーターをするときが大変。反射的に答えると必ず右折と左折を反対に言ってしまいます。いい年をして、「みぎひだり」を間違えるなんて脳のどこかがおかしいのではと、いつも家族にからかわれています。

左利きの不便さ

 最近、いろんなことに気づいて驚きます。
 給食を配るとき、麺類を食器に入れるのに人より時間がかかります。先がぎざぎざの麺類用のおたまで配るのですが、つるつる、麺が落ちるばかり。あっ、そうか。みんなこのぎざぎざのところに麺をひっかけて配っている。私の場合、左手で持っているから、ぎざぎざが反対側にいってしまって、ぎざぎざのない丸い方で麺をつかもうとしているから、つるつると麺が落ちるんだ。
 今、駅の改札はどこも自動改札になりました。自動改札ってどうも通りにくいものだと思っていました。あっ、そうか。右手で切符を差し込めばスムーズに通れるんだ。利き手の左手で切符を入れるから、左手がじゃまをして進みにくいということにも最近気がつきました。そうわかってからも、左手で、右側にある差込口に切符を入れて身体の進行を妨げながら、改札を通り抜けています。もたもたして人の流れを止めないようにとあせりながら。
 偏頭痛がひどいのは、そういうたちなのだと思っていましたが、左利きのせいだと思うようになりました。若い頃は感じなかったのですが、左手で右上がりの字を書くためにはけっこう無理な姿勢をしているため、最近とても疲れます。左肩は万年肩こりで、こりごりです。左利きの人が字を書いているのを見ると、とても書きにくそうに見えます。自分もそうなのだろうと思います。
 こう言い出したら、きりがありません。右利き用の道具を左手で使いこなしているので、少しずつ少しずつ気づかないうちに身体に負担がかかっているのかもしれないと思うこの頃です。
 これは私だけで、左利きの人がみんなこう感じているわけではないかもしれません。今時、左利きは珍しくもなく、左利きの人を見ても世の中の人はだれも驚かないと思います。「かっこいいじゃない」と言う人もいます。でも、左利きは今も昔も少数派です。
 少数派で生きていくのって、ちょっとしんどいものがあるなあって思います。私の人生は左利きとともにあり、これからもずっと左利き抜きではあり得ないと思います。
 なんてオーバーな…と思われるかもしれませんが、真剣にそう思っています。

「左利きは直さなければ・・・」

 「左利きを無理に直すと精神発達によくない、言語障害を起こす可能性もある」
 「左利き、まだ直ってないの?」
 「私は字を書くのは、右に直したわよ」
 「左利きなのに字が上手ね」

 何気なく発せられるこれらのことばに、何も感じないふりをしながらも、心の奥底ではなんて無神経なことばを平気で言うのだろうと、実はズキンズキンときています。特に、「私も左利きよ。でも、鉛筆だけは右に直したのよ」は私の心に突き刺さることばです。「私も左利きよ」と聞き、急速にその人に気持ちが接近し、自分と同じ人に出会えたうれしさに鼓動が高まります。ところが「でも、鉛筆だけは右に直したのよ」で、接近した気持ちを叩きのめされます。
 「書くのはちゃんと右に直したのよ。やっぱり書くのは右よね。あなたは直していないの?」
 この意味が含まれていると思ってしまいます。

子どもの頃

 両親共にスポーツ程度の軽い左利きです。妹は、右利き。私が両親から左利きの遣伝子をしっかりと受け止めたようです。あの頃の親としては、かなり進んだ考え方だったのでしょう。両親に左利きを直すように言われたことは一度もありません。3歳からピアノを、小学1年から習字を習いました。これは、できれば自然と右手も使えるようになればという両親の考えからです。
 小さい頃の私は、廊下を走り回っていたように、けっこうおてんばな女の子でした。小、中の先生から、左利きについて指導された覚えはありませんが、小学3年、4年、6年、中学2年と転校が多く、新しい環境になるたびに、私を左利きと知らない人たちからの視線攻撃を受けました。
 そして、「あら、左利きなの」という言葉を、私が左利きだと初めて気づいた人から必ず聞かされました。そういう視線や言葉を浴びるたびに、左利きだと知らない人の前で字を書くことがとてもプレッシャーになっていきました。
 人前で書かなくてすむ方法はないかと常に考え、できることなら、人がいなくなってから書きたいと様子をうかがっていました。それでも人前で書かなければならない場面はたくさんあります。そういうときは、まず鉛筆を左手に持って、相手を上目遣いにちらっと見ます。そして、この人は左利きと知ってどんな反応をするだろう、どんな言葉がくるだろうとどきどきしながら、書き始めます。こんなに転校しなければ、周囲の人が私のことを左利きと知ってくれている環境だから、堂々としていられたかもしれないと思います。
 それでも、小、中の先生から「左利きを直すように」と言われなかったことは有り難いことでした。言われていたら、もっと違った人格が出来上がっていたかもしれません。

左手で絶対書くな

 入りたい高校に入学でき、心はずむ16歳の春、古文の授業のときでした。机間巡視していた先生が、私のところに来てこうおっしゃいました。
 「高校生になっても、まだ、左利きが直っていないのか。今から右手で書くこと。もし左手で書いているのを今度見つけたら、朝礼で全校生徒の前で恥をかかせてやる」
 こう言われても、私は思ったより元気でした。今思えば空元気だったかもしれません。休み時間になって、クラスメイトが男子女子に限らず、私を慰めてくれました。私の他に、左利きの男子が二人いましたが、言われたのは女の子である私一人でした。この古文の先生にしてみれば、
 「女の子なのに左利きが直っていないなんて大変なことだ。なんとかして直してあげなければ」
 こう考えたのかもしれません。
 思ったより元気だったと言っても、次の日から左手で鉛筆を持つことはできませんでした。こわかったからです。右手でも書けるようになりたくて、4年生の頃自主的に日記を右手で書いて練習していたので、全く書けないわけではありませんでした。右利きの人は、「じゃあ、なんともないじゃない」と思われるかもしれませんが、考えてみて下さい。
 右利きのあなたが、右手は絶対使えない状況になったとしたら。高校のノートってたくさん書きます。私は力のない右手で、必死でノートをとりました。何倍も疲れました。
 この事件は、比較的早いうちに一応解決しました。母は、若い頃高校の事務職員をしていました。この古文の先生と同じ学校に勤めていたことがあったので、母が私の左利きに関する育て方を話してくれました。それでその後また私は、左手、つまり利き手で書けるようになりました。
 でも、クラスみんなの前で、左手で書くことを否定されのです。この事件の前と全く同じというわけにはいかないのは当たり前です。私の心の奥深くに、「左利きはだめなんだ」という気持ちが根付いても仕方のないことだと思います。それにしても、よくひねくれなかったと、自分で自分を誉めてあげたいぐらいです。

 大学は、教育学部。
 「左利きはだめ」という気持ちを潜在意識の中に強く持ってしまった私は、左利きの自分が教師になれるだろうかと不安でたまりませんでした。大学での「カウンセリング」の講義が終わるやいなや、その先生のところに相談に行きました。左利きに関する本を教えてもらい、読みあさりました。そして、「何も悪いことをしたわけでもないのにどうして左利きを直さなければならないのだろう!」と強く思うようになりました。
 それでも、潜在意識の中で左利きはだめと思ってしまっている私は、教員採用試験のとき、試験官に左利きが見つかったら絶対合格できないと思い込んでいました。試験官の様子を常にうかがい、近づいてくると、右手に鉛筆を持ち替え、まるで、カンニングが見つからないようにしているような錯覚さえ感じました。
 そんなどきどきした採用試験でしたが、左利きがばれなかった(?)のか、無事に合格し左利きの私は教師になりました。小学校の先生です。

新米の教師時代

 新米先生の私は、だれかに何かを言われたわけではないのですが、なぜか右手でチョークを持っていました。ペンも右手を中心にしてときどき左手で書いていたように思います。そうなんです。私は、なんと《右手に直した左利き》を演じていたのです。本当の自分ではないことを痛いほど感じながら…。
 教員2年目のとき、1年生の担任になりました。クラスにとってもかわいい左利きの女の子がいました。とても上手な字を書きます。ご両親は左利きに関してなんら抵抗を感じておられなかったので、私も同じ考えで支援できました。彼女は堂々と左手で字を書き、おおらかに成長していきました。左利きの子の気持ちはよく理解できるつもりですので、「左利きの子の指導は任しといて!」と胸を強く叩きたくなります。
 今は、オバタリアンで、開き直り、左手で堂々と書いています。それでも、初めての人の前ではほんのちょっぴりびくびくしながら左手で書いています。特に校長先生の前では。これって、変ですよね。変だと思っていても、無意識にびくついてしまいます。もちろん、他人には悟られないようにびくついていますが、このびくつきは、あの高校のときの事件のせいかなあって思います。
 こんなふうに無意識にびくついてしまうことには、我ながら嫌悪感を感じています。
 「どうして左利きを直さないといけないの!」こう憤っているのも同じ私なんですから。人間が同じ人間である自分自身に「直せ」なんて言えるでしょうか。傲慢もいいところです。病気なら何か手立てをするでしょう。いけないところがあったら、もちろん直します。けれど、どうして、左利きがいけないのでしょうか。
 左利きに限らず「直す」、「治す」という言葉は、よほど慎重に使われるべきだと思います。教育界では案外簡単に使われているのではないでしょうか。その人のために直してあげなければいけないという使命感に燃え、本人はとてもいいことをしていると思い込んでいるのではないでしょうか。そう言われた相手がどんな気持ちか、自分が言われたらどんな気持ちがするか、よく考えて発するべきだと思っています。こういう思いというのは、その当事者でないとよくわからないものです。
 《ことば》は、あるときは人を励まし、勇気づけるけれど、残酷なものに変身する可能性を常にもっています。そして、その《ことば》は、その人の考え方、価値観でもあります。子どもたちと日々接する私たち教師は、まず、相手のそのままを包み込み、一つのものさしで見ないようにすることが大切だと思います。その上で、《ことば》を大切に使っていく必要があると思っています。

〈難聴理解の絵本紹介〉
 私は今、難聴教育に携わっています。難聴児とかかわる中で、きこえの教室では生き生きとしていても、学級ではなかなか自分を出せないでいることを知りました。そして、難聴児を取り巻く環境を整える必要性を強く感じました。
 そこで、難聴理解の絵本『ハートはなにいろ』を作りました。できるだけ多くの人に読んでもらい、難聴児のことを理解してもらいたいと思っています。
(「スタタリング・ナウ」2000.12.16 NO.76)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/04/14
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