吃音親子サマーキャンプや岡山での吃音相談会の案内を、間にはさみました。今日は、22日の続き、「スタタリング・ナウ」2011.9.20 NO.205 で特集した、NPO法人全国ことばを育む会元理事長の加藤碩さんの文章を紹介します。明日は、加藤さんのもうひとつの文章と、その後に、娘さんである恵さんの文章も紹介します。加藤さんもすごいけれど、娘さんの恵さんもすごい、そう思います。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/05/26
難聴の娘と歩んだ40年と娘自身の子育て
NPO法人全国ことばを育む会理事長 加藤碩
はじめに
耳が不自由な私の娘は、今年40歳。7歳年下の手話通訳者の夫と9年前に結婚して、3人の子どもを産み、職場での仕事を持ちながら子育てに大忙しの日々を送っています。
現在娘は京都で生活しており、私は山口市が住居ですから、高校卒業の18歳までは一緒に生活していましたが、それ以降の年月は京都と山口の別々の生活です。それでも月に数回はメールを交換したり、三人の子どもたち(私にとっては、7歳、4歳、2歳の孫)との生活の様子は、孫たちの元気な電話などで様子が伝わりますので、5人になった彼女たち一家の生活には、大きな期待と関心を抱きながら私も生活しています。
伊藤伸二さんのご期待にこたえられる文章になるかどうかは分かりませんが、娘との40年をふりかえって、いくつかのことを書いてみることにいたします。
医師の宣告で立ち上がれないほどのショックを受けた30数年前
「この子の耳は聞えていませんよ」と大学病院の医師から突然の宣告を受けて、私はどうしようもない気持ちになり動転しました。ヨチヨチ歩きの娘が耳からはみでるような大きなイヤモールドをつけている姿を見るだけでもたまらない思いでした。妻の方が立ち直りが早く、「現代の医学でどうしようもないものなら、教育の力に頼る以外にない」と決断したようでした。私は妻のこの明確な決断におずおずとついて行きました。私自身の落ち込みはどうしようもないほどで、立ち直りにはかなりの時間を要しました。
これは多分かなり後になってから(娘が高校生の時かと思います)、その時の私が落ち込んだ様子を正直に娘に伝えたことがあります。娘はこのことをものすごく喜んで、「父さんが私のために昔落ち込んでくれて、しばらく立ち直れなかったらしい」とかなり多くの人に話していたようです。自分のために父親が「落ち込んでくれた」ということが余程うれしかったのでしょう。肉親同士の思いというのはそんなものなのかと思ったりしています。
娘の人生は娘自身が歩む、娘の進路は娘自身が決める
私たち夫婦は子育てについて、あれこれ議論もしましたが、結論的には「娘の人生は娘自身が歩む、娘の進路は娘自身が決める」という考え方を貫きました。これは私たち夫婦もそのような立場で歩んできたので、自然な成り行きでした。
娘は体も小さく、育ちそのものが他の子どもたちと比較するとずいぶんとゆっくりでしたが、子育てについての考え方では夫婦で一致していましたので、娘の伸びていこうとする力に信頼をおいて「ゆっくり、ゆっくり、あせらず、あきらめず」の子育てを貫きました。他の子どもとの違いや遅れはあまり問題にしないで、娘自身の発達の順調さを評価しました。娘のよいところ、得意だと思えるところを発見して伸ばしてやろうという立場に徹していました。通知表では、国語や算数は概ね五段階評価で「2」(「3」の評価も時々はありましたが)が多かったと思うのですが、図工(美術)に「5」がいつもついているのには注目していました。中学2年の秋、台風が山口県の中央部を直撃しているさ中なのに、提出期限となっている美術作品を学校に提出に行くと云って、合羽を羽織って玄関を飛び出した娘に、作品制作への異常ともいえる熱意を感じたのもこのころでした。
「美大に行きたい」「美大の受験塾に行かせてほしい」
高校2年生の秋、娘から突然「東京か京都の美大(芸大)に行きたい」「美大の受験塾に通いたい」とおとなしい娘にしては、かなりはっきりした希望が述べられました。高校の美術の先生に伺うと「高校2年生からでは、デッサンも色彩構成もかなり手遅れだ」「一浪を覚悟しないと」ということでした。しかし、それからの娘は親の目から見ても大きな変貌を遂げて、1日としてサボらずにデッサンに打ち込み、私たちが素人目で見てもデッサンは見る見るプロのように上達していくようでした。そして、かなりまぐれ臭いのですが、先生が無理だとみた大学に一浪せずに合格しました。
耳が不自由なことから、大学生活、寮生活ではかなりな困難を経験したようですし、最初は友達との齟齬もあったようですが、それからの5年間の大学生活は制作に打ち込み、たくさんの友達も作り、アルバイト(補聴器屋さんのダイレクトメールの住所書き)もし、自動車の免許も取りました。最後の2年間は様々な展覧会で賞も取り、作品が世界を回ったものもあります。最高の賞金は京都市美術展の准大賞で50万円の賞金を札束で見せてくれたりもしました。
ところがなかなか自分の進路は決められなかったようです。一時は自分の能力を過信して、友達とアトリエを建てて作品を作ってプロを目指したこともあるようですが、見事に挫折しています。私たちは「自分の進路は娘自身で決める」と当然にも思っていましたから、「そのうちになんとかするだろう」とわりとのんきにかまえていました。
障害者施設の指導員として
そのうちに「精神障害者施設で働くことにした」と言ってきました。「大変な人たちがたくさんいるところで、耳の不自由なことが普通の人よりも結構役に立つ」というのです。私たちは半信半疑でしたが、精神障害で苦しんでいる若い人たちから、娘が耳は不自由だが結構たくましく生きていることに対して、信頼の気持ちが生まれ、心を開いてくれる人があるらしいということで、そんなこともあるのだなと、娘の意思にまかせることにしました。結局一職員として3年間働きました。
そのうちに京都市聴覚言語センターの関係者から、「あなたは聴覚障害者なのだから、うちの採用試験を受けて、正規の職員として働かないか」と誘われ、現在勤めている施設の職員となって約10数年働いています。
子育てと仕事で、作品制作は今のところあきらめているようですが、雑誌の表紙絵やポスターなどは頼まれて描いています。
「私、結婚することにした。相手は7歳年下の手話通訳者」
そんなある日、娘から突然FAXが入り「私、結婚することにした。相手は7歳年下の手話通訳者だ」というのです。そしてあまり間をおかずに、彼を連れて山口の家に現れました。まだ少年のような若者でした。私は、娘に「自分たちの結婚は自分たちで決めたらよいが、相手の親族から認めてもらう努力は尽くすべきだ」「しかし、女性が7歳も年上で耳が不自由だというのは、ハードルが高い。このハードルと向き合う努力を2人が真剣にするのなら、父さんは応援するよ」と答えました。2人はその後、彼の郷里の宮崎県まで行って、このハードルを乗り越えて帰ってきました。
後で彼のお母さんから「恵ちゃんが、あまりに素直で、かわいいのでするすると認めてしまいました。耳のことは気にしていません」といわれて、2人は幸運だったなあと思いました。
三人の子どもの子育てと娘の「子ども観」
今、娘は京都市聴覚・言語センターで耳が不自由で、他にも精神障がいなど重複した障がいを持つ人々に紙すきの技術や民芸品の制作を指導しつつ、家庭では3人の子どもを育てています。家庭生活も職場も有能で若い手話通訳者の夫との二人三脚が力を発揮しています。
私が驚きもし、感心しているのは、娘の子育ての姿勢が実におおらかで一般的な社会常識にとらわれていないことです。今の日本の教育界では、学カテストの実施に見られるような文部科学省などの「競争をよし」とする教育観が支配しています。私の娘はそのような教育観とは百八十度正反対の「子ども観」「教育観」の持ち主です。どこかで誰かに教えてもらったというのではなく、いわば天性のものだと思います。
小学2年生になる長男が、繰り上がり、繰り下がりの足し算、引き算に苦労しています。その息子に対して「そんなにあせってできるようになろうと思わんでもいいよ。お母ちゃんなんか6年生になるまでできひんかった。大人になるまでには、必ずできるようになる。お母ちゃんみたいに遅れた子でも、大学に入れたんやから」という調子です。
そして子どもたちには、楽しいことをたくさん経験させてやろう、のびのび遊ばせてやろう、本をたくさん読んでやろう、自然と親しませてやろうといつも考えているようです。ですから子どもたちは、平気でまいにち遊びに精を出しています。
私たち夫婦もこの度肝を抜くような「子ども観」に少々あきれていますが。
子どもへの信頼、人間に対する信頼が根底にある
娘の子どもへの対応の根底には、子どもへの限りない信頼、人間に対する信頼があるように思います。「この子たちの人生をゆっくり楽しませてやりたい。そんなに急がなくてもゆっくり、ゆっくり進んでいけばよい。失敗しても何度でもやり直しがきく生き方の方が、人間は豊かになって成長していける」というのが娘の人生観、子ども観なのではないかと思います。
そんな、なんとものんびりした子育てに、孫たち3人ものびのびと育っていますし、私たち夫婦も学ばされています。 (2010年7月25日記)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/05/26