伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

障害者手帳

第7回 新・吃音ショートコース 2日目

新・吃音SC 1 10月13日、新・吃音ショートコースの2日目が始まりました。
 都合で、この日から参加する人も2人いました。2日目は、1日目のオープンダイアローグで一人の女性に関わって対話を続けた時間について、彼女本人と、その場に居合わせた人たちが気づいたことや考えたことを丁寧にふりかえることからスタートしました。僕は、この、体験したことをふりかえることをとても大事に考えています。
 僕は、これまで、エンカウンターグループやカウンセリングの場に何度も参加していますが、ある場で悩みを出して話し合いの中で、それなりに問題が解決したように見えていた人が、また別のカウンセリングに参加して、同じような問題を出している場に何度も遭遇しました。何度も自分の同じ悩みを話すことを繰り返しているのです。ストンと落ちていないのだろうと思いました。そんな経験があるので、僕は、昨日の僕と対話した人に、1晩寝て考え、整理したことを話してもらうことにしました。話題提供者は、ゆっくり、じっくり振り返っていました。ひとつひとつ噛みしめるように、自分の思いをことばにしていっているのが分かりました。その場にいた人は、その過程を共に歩んでいるように見えました。
 自分の課題を提供した人は、昨日、自分の問題を出して、みんなで考えるということを体験しました。それがそれで終わってしまったら、これは、ひとつの体験で終わってしまいます。体験したことを振り返ることで、それは経験になるのです。それは、もう一つの自分が、自分を見ることとも言えます。それがメタ認知です。その経験を、ことばとして表現し、学びへと結びつけていってほしいと話しました。体験から経験へ、そして学びへ、です。彼女が自分に誠実に体験を振り返ったことで、僕たちも一緒に時間を共有した意義を感じとることができて、そのセッションを終えました。

新・吃音SC 3 次に、アドラー心理学について知りたいというリクエストがありました。僕は、アドラー心理学の基本前提を伝えました。覚えやすいように、語呂合わせになっています。
「こぜに、もった」です。
「こ」→個人の主体性…人生の主役は自分であること。
「ぜ」→全体論…行動も感情も全部含めて私だということ。
「に」→認知論…誰もが主観的に物事を見ている。
「も」→目的論…人の行動には目的がある。
「った」→対人関係…すべての行動には必ず相手がいる。
 そして、アドラーは、共同体感覚を大切にしているのだと話しました。共同体感覚とは、自己肯定・他者信頼・他者貢献の3つで成り立ち、一つが欠けてもだめで、それぞれに関係があり、ぐるぐると廻っています。このことを僕のセルフヘルプグループの体験を通して説明しました。

 ことばの教室の担当者から、社会人になってから自分の吃音を説明するかどうか、どう説明してきたか、成人のどもる人への質問が出ました。
 どもる子どもたちが、クラスの子に、「なんでそんなしゃべり方なの?」と聞かれてどう答えるか、どう説明するかを考えているからだとのことでした。参加していたどもる大人は、説明していない人がほとんどでした。わざわざ言うことではない、どもって話したらそれで分かるだろうということなのでしょう。もし、聞かれて説明する必要があるならば、どもる自分を認めて、吃音について勉強しているなら言ってもいいだろうという話になりましたが、そういう人なら言わなくてもいいだろうということになりました。
新・吃音SC 2 僕は、人が自分の周りの人に対して、吃音の理解を求めて、吃音を公表することは、大事なこととは思いません。まして広く社会に公表するなど何の問題解決にもならないと思います。自分の身近な人、それを僕は半径3メートル圏内の人と言いますが、その人に対して、必要なときに必要であれば言えばいいだけのことです。また、伝えるときに、小さなぼそぼそとした声では伝わりませんから、大きな声が出せるようにしておくことも大事だと思います。とここまで来て、リクエストのあった、楽しく声を出すレッスンをしました。谷川俊太郎さんの詩をみんなで読んだり、ひとりひとり読んだり、母音を意識してゆったりと息を深くして歌を歌ったりしました。気持ちのいい時間でした。

新・吃音SC 4 そして、午後4時前になり、ひとりひとりのふりかえりの時間になりました。ふりかえりを少し紹介します。
・久しぶりに吃音のことをたっぷりと考える時間になり、楽しかった。
・フィッシュ・ボウルで、話題提供者の話を自分と重ねて話していたのがよかった。
・これまでしたことのないことをいっぱいしたなあと思う。話を聞いてもらって、みんなからいろんな話を出してもらった。これは、口に出さないと起こらないことで、口に出すことが大切だと分かった。新しい考えができそうな予感がする。
・吃音の公表が前提になっているところがある。公表する側、公表される側、その双方のメリットとデメリットを考えていきたい。
・対話の中で考え、ことばが生まれていくことを体験した。
・声を出すのが気持ちよかった。
・障害者手帳を取得するかしないかの話がおもしろかった。どんなことも、メリットとデメリットを考えていきたい。
・参加者のまじめで誠実なかかわりの中で、対話がすすみ、ことばが生まれ出てくる場に立ち会えて、なんともいえない心地よさを味わった。

 何のプランもなく、始まった2日間でした。その時、その場で生まれてきた思いのままに、すすめてきました。人と人とが出会う、この濃密な時間が、僕は大好きなのだと改めて実感しました。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/10/24

吃音は、障害か?

 吃音は障害か? 個性か? 癖か? 病気か? この問いは、吃音親子サマーキャンプの子どもたちの話し合いでもよく話題にのぼります。それぞれにそう考える理由を言って話し合いをするのですが、結論としては、どれでもいい、どっちでもいいになります。それぞれが、自分にとって納得できるものを使えばいいのだと思います。大事なのは、「どもるからできない」のではなく、「どもらないで電話や人前で話すことができない」が事実です。どもりながら電話をしたり人前で話すことはできます。どもらない人のように流暢にはできないだけで、どもりながら、多少の時間をかければできることばかりなのです。
 「スタタリング・ナウ2005.7.23 NO.131 の巻頭言、「吃音は障害か?」を紹介します。

  
吃音は、障害か?

         日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 「吃音は障害か?」
 2005年、国際吃音連盟で論議が続けられた。
 吃音が言語障害の主要なテーマであることは、言語病理学を学ぶ人なら誰もが知っている。アメリカの言語病理学の発展を担ってきた研究者の多くは吃音に悩んできた人で、言語病理学は吃音研究とともにあったともいえる。また「どもり」を差別語だと考えるマスコミの『ことば言い換え集』には、どもりを言語障害と言い換えるよう記されている。
 「吃音は言語障害」であることは自明のことでありながら、「吃音は障害か?」のような論議が成り立つところに吃音の難しさがある一方で、吃音の明るい未来があるのだと私は思う。
 日本のどもる人のセルフヘルプグループでは、創立して5年頃、国の吃音への施策を推進させるために「障害者手帳の取得」運動を展開するかどうかの論議がされたことがある。それから35年後、世界のレベルでほとんど同じ内容の論議が行われていることに、吃音の問題の変わらなさを思う。
 かつて、世界保健機構では、障害を3つのレベルでとらえていた。2001年に改訂され、国際生活機能分類と名前を変え、活動と参加の定義をした上で、〈活動と参加の制限〉が入った。私はこれを〈クオリティーオブライフの低下〉ととらえ、便宜的に障害を4つのレベルで考えることにしている。

1 機能障害 インペアメント
2 能力障害 ディスアビリティー
3 社会的不利 ハンディキャップ
4 生活の質(クオリティーオブライフ)の低下

 吃音は1のレベルの機能障害であることは事実だ。どもって「タチツテト」が言いにくいなど、「吃音症状」といわれているものがインペアメントであることは多くのどもる人に共通することだろう。しかし、どもるというインペアメントがあっても、次のレベルであるディスアビリティー、ハンディキャップ、クオリテイーオブライフの低下になるとはかぎらない。人によって大きく違ってくる。これは他の病気や障害とは大きく異なることだろう。また、それがいわゆる「吃音症状」の重症度とは必ずしも一致しない。
 今回の国際吃音連盟の論議の中で、「吃音はディスアビリティー」だと多くの人は言うが、私は違う。どもるというインペアメントのために、「人前で話ができない。電話ができない。自己紹介ができない」というのがディスアビリティーという人たちの主張だ。私も、吃音に悩んでいた当時は、「どもるから〜ができない」と固く信じてきた。しかし、それらが思いこみであることに気づいたのは、インペアメントとしての吃音を治すことができずに、どもる事実を認め、私の言う「ゼロの地点」に立って、吃音とともに生きる道を探り始めたときだ。「どもるからできない」のではなく、「どもらないで電話や人前で話すことができない」が事実で、「どもりながら」を納得できれば、電話も人前で話すこともできるのだ。どもらない人のように流暢にはできないだけで、どもりながら、多少の時間をかければできることなのである。
 どもっても言いたいこと、言わなければならないことは言う生活をしていると、吃音はハンディキャップにならないし、クオリティーオブライフが損なわれることもない。それは多くのどもる人々が様々な職業について、実際にいきいきと生活をしていることをみても明らかである。
 この論議があったとき、言語聴覚士の専門学校の講義で「吃音を治したり、軽くしたりできないのなら、臨床家として何ができるか」との学生の質問に、私はこんなふうに答えた。
 「インペアメントである<吃音症状>の軽減ができなかったとしても、吃音がディスアビリティーにならないようにする支援は、論理療法や交流分析、アサーティブトレーニングなどを活用して取り組める。また、吃音がハンディキャップにならないようには、社会の吃音の理解を高めるために、臨床家として情報提供をすることもできる。どもる人のクオリティーオブライフを高めるなど、障害の3つのレベルでの取り組みで、どもっていても吃音が障害とならない人生を送るためのお手伝いはできるだろう」
 何ができるか不安を抱いていた学生は、こんなに多くのことができるのかと、大きくうなずいた。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/06/05
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