伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

野口体操

羽鳥操さんのご著書『「野口体操」ふたたび。』

 野口三千三さんと羽鳥操さんを紹介してきました。
 今回は、羽鳥操さんが以前送って下さったご著書の紹介です。
 一度の出会いにもかかわらず、忘れずに、ご著書をお送り下さること、大変うれしいことでした。お手紙にはこう書かれていました。

 
このほど新刊本としては十数年ぶりに、『「野口体操」ふたたび。』を世界文化社から上梓いたしましたので、お送りさせていただきます。
 今回は、東京藝術大学で生まれ育った「野口体操」にフォーカスして書き下ろしました。驚くほどのスピードで変容著しい現代に生きる私たちは、ことにデジタルの波にのまれて生身の身体感覚を失いかけています。加えて感染症パンデミックによる閉塞した現状に、誰もが「いったい、何を拠り所としていけばいいのか」と少なからず問いかけています。
 創始者・野口三千三は、戦争の体験を通して、自分自身のからだの内側に目を向ける体操を考案しました。野口が模索した身体(自然)への回帰は、今、この時代にあってこそ、必要とされるのではないでしょうか。
 ご高評を賜りますとともに、広くご紹介いただければ幸甚に存じます。
                           2022年3月吉日


 僕は、こんな返事を書きました。

 
羽鳥操様
 大変ご無沙汰をしております。
 コロナの感染は、少し減少傾向にあるようですが、まだまだ油断できない状況の中、お元気なご様子、うれしく思いました。
 このたびは、ご著書『「野口体操」ふたたび。』をお送りいただき、ありがとうございました。私もこの本に導かれ、野口体操に触れてみようと考えました。
 コロナ禍の中、新刊を出されるエネルギー、敬意を表します。コロナ禍だったからこその出版だったのかもしれませんが。からだ、ことば、コミュニケーション、人と人との直の出会いなど、様々なことを考えさせられました。ご著書の年表に名前がありました竹内敏晴さん、今、竹内さんの書かれたものや話されたことを読み返し、年報を制作していますので、より、その思いを強くしました。
 おわりにで、オンラインでの仕事について書かれていました。対面での話を基本としてきた私も、初めは慣れないオンライン、Zoom、Web配信など、必要に迫られて、助けてもらいながら活動していましたので、共感できました。
 この時代、大切なことが書かれているだろうと思います。大切に読ませていただきます。
 私は、相変わらず、吃音にかかわって生きています。子どもたちのための吃音親子サマーキャンプや、臨床家のための吃音講習会など、2年間、イベントはほぼ中止になりましたが、ブログやTwitter、Facebookなどで発信を続けています。今年は、なんとか、対面で、それらの集まりが開催できるようにと願っています。
 金子書房から出版しました「吃音の当事者研究」、お送りします。お読みいただければ、幸いです。
 暖かくなったと思ったら、寒い日もあります。どうぞ、おからだ、ご自愛下さい。
                                  2022年3月20日
                日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


「野口体操」ふたび。 羽鳥操 表紙『「野口体操」ふたたび。』
羽鳥操  世界文化社
発行日 2022年3月30日初版第1刷発行


 野口三千三さんが僕たちに問いかけて下さったのが、「吃音をなおそうとすることは、気持ちのいいことですか?」でした。羽鳥さんのご著書の、第一章は「きもちいい」をみつけようです。その部分だけを紹介します。多くの人に読んでいただきたいと思います。

 
「野ロ体操があってよかった!」
 コロナ禍の自粛が一旦解けた2020年7月、対面のレッスンがはじまった。
 その時、皆さんの第一声がこの見出しのことばだった。
 私も同じことばを返した。
 「人をダメにするソファに身を沈めて、スマホ片手にデジタル情報の海でサーフィンに興じていると、過剰な情報に肥大した脳は、バーチャルな不安に埋め尽くされてしまう」
 そういう私に、「目の前にある冷蔵庫から、昼間から冷えたビールをついつい取り出してしまいますね」。
 そうおっしゃる御仁がおられる。
 コロナ太りを心配しながらも、やめられない日々が繰り返されたそうだ。
 ストレスがストレスを呼ぶ経験を重ねながら、体操のレッスン再開を待ちに待っていたことを知る。想像はしていたが、体操がこれほど求められているとはゆめゆめ思わなかった。からだを動かすきもちよさを知ってしまった人々がいる。それは野口体操の仲間たちであった。
 "ウェルビーイング"、心身の健康をいかに保つか。
 "QOL(クオリティ・オブ・ライフ)"、生活の質を維持することが難しくなってきた。そのためには、自分のからだをどうしたらよいのか。
 その答えが「野口体操があってよかった!」。
 外出制限が一番ストレスを感じるということは、アンケート結果を待つまでもなく、皆が体感したことだ。そんななかで、一人ではなく、共に体操することから得られるきもちよさは捨て難い。教える立場の私にとっても同様である。
 「独りじゃない!」
 そのことが心のざわつきをなだめてくれる。
 そこで思い起こされるのは「社会的処方」ということばだ。医療だけでは行き届かない身体の不調、たとえば、不眠・うつ・痛み等々。また、孤独やひきこもりが社会的な問題となって久しい。非医療的行為で、そうした問題を解決するコミュニティの必要がいわれるようになった。コロナだけではない、日常の困りごとを地域で手助けしていく方法だという。
 私は、このことばを拡大解釈してみた。野口体操のレッスンでは、地域を超えて集まってくる方々の心身が、安らかになる方法を工夫してみよう。

 野口体操には、一人だけでなく二人で組んで行う体操が、いくつも組み込まれている。
 他者とともに動き、話し、手を添えてもらう。心身の手当をする練習も味わい深い。手を添える人・手を添えられた人、といった一方的な関係だけではなく、その関係が瞬時に交代する。ことばをかえてみると、助ける人が助けられる人、助けられる人が助ける人になる。
 今、この人は、何を必要としているのだろう。必要としていることを感じ取り、何気なく手で触れて手当をする。そうしたことを野口体操では、時代とともに少しずつ形をかえながらも、半世紀以上行ってきている。
 ともにからだを動かすことで、からだの内側に眠っているありのままの"私"に、からだ自体から目覚めていく。生きものとして三十八億年かけてつくられた生命のシステムを活性化するきもちよさを体感できるころには、"私"という意識も消えてくれるようでありたい。
 久しぶりのレッスンで得心がいった。
 医療でもなく心理療法でもなく、いろいろな縛りのないゆるい場。教室に集う方々には、それぞれが背負うのっぴきならない問題はいっとき横に置いていただこう。からだをゆすりながら、ほぐし・ゆるめ・とかす。色や形、味や香り、クリアな音感、外側に張り巡らされた脳の出先機関としての皮膚……。五感の母なるからだをみがいていくこととしよう。


 巻末付録には、野口三千三語録(番外編)があります。
 僕も伊藤伸二語録を集めて、ホームページで公開しようと考えていますので、興味深く読みました。共感することばかりです。そのいくつかを紹介します。

 
☆無理は無理だ。無理をしなければ無理ができる。
 ☆いい加減にやらなければ、いい加減は見つからない。
 ☆私の体操はかたちじゃない。中身が問題なんです。気分が問題なんです。イメージが問題なんです。生き方が問題なんです。
 ☆生きているということのいちばん確かな証拠は、このからだがあるということ。さらに、そのからだが動くことができるということ。
 ☆他の人を尊敬するのも悪くはない。しかし、自分自身のなかに尊敬すべきものがあることに気づくことがより大切である。
 ☆自分がこの世のなかに生きて存在していることの意味に、誇りをもてるようにしていかなければならない。自分の小さな欠点に気づき、自分自身を責めることが美徳である、という倫理観は誤りである。
 ☆今の自分のもつ「弱さ・下手さ・未熟さ…」を、やさしく認めて温かく包み込むことのできない者は、他の人のそれをやさしく認めて温かく包み込むことができないであろう。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/07/24

野口体操から考えた吃音 (3)

 野口三千三さんの話の続きです。ちょっと長くなりますが、今日で最後です。野口体操のいくつかを紹介して下さった後、おわりにというところで、野口さんは、再び、「あなたは、吃音を治そうと取り組んでいますが、それは本当に気持ちのいいことでしょうか?」と問いかけています。
 気持ちのいいことを、楽しく取り組む、これが一番で、僕たちがずっと大切にしてきたことです。セルフヘルプグループの活動も、吃音親子サマーキャンプも、僕たちは自分が楽しくて、気持ちがいいから続けてきたのです。それが、セルフヘルプグループは56年、吃音親子サマーキャンプは30年と続いてきたのです。気持ちよく、楽しくなければとても続くことではありません。同じような価値観に出会いました。
                           
野口体操から考えた吃音(3)
                           野口三千三
野口体操のいくつか

 これから私の行っている体操のうちいくつか紹介しましょう。これは自分のからだがどのように動くか、どうあることが気持ちいいのかを知る手掛かりです。自分がからだに対して何かを命じるのではなく、からだが話していることを素直に聴くことです。

《腕のぶらさげ》
 人間が立っているとき、腕がぶら下がっているということは、誰でもが知っています。しかし、当たり前のことだけに、あまり意識していないでしょう。本当にぶら下がっているかどうかを確かめようとする人は少ないでしょう。実は、普段から"ぶら下げ"を確かめていないからこそ、肩が凝ったりするのです。立っている人間にとって、宿命的に故障が起こるのは、おへその真裏のそへ、腕の付け根、首の付け根の後ろです。人間が立つためには、そこを無理せざるを得ないのです。
 だから、からだをいろいろ動かしてみて、本当にぶら下がっているだろうか、腕が解放されるにはどうすればいいのだろうか、とからだに問いかけてみるのです。小理屈ばって肩をいからせないで、もっと楽に自然な状態で生きようじゃないか。"ぶら下げ"とはそういう運動です。
 まず両脚を少し開いて、すっきり立って下さい。そして、からだの形にこだわらないで、楽にすっきりという感じの中で、優しく静かな上下のはずみをつけて、全身の中身を揺すりましょう。肩や腕の中身が緊張していなければ、ぶら下げた柔らかい紐や鎖のように、ゆらゆらと揺れ動くはずです。決してとび上がるのではないですよ、揺するのです。
 揺するということはどういうことでしょう。
 ぐっすり眠っている人を起こすときには、声をかけるだけでなくて揺すります。意識を失って倒れている人がいると、「どうしたの!」と夢中になって揺すります。このとき、揺するという行為の中には、どこか祈る気持ちが含まれています。全身を揺するとき、この祈りの気持ちが大変大事なことなのです。
 祈るような気持ちで、全身を揺すって下さい。宇宙にたったひとっきりしかいない、過去にも、未来にもない、今ここにしかない自分のからだに、祈るように問いかけるのです。

《胴体や頭のぶら下げ》
 「腕のぶら下げ」が確かめられたら、「胴体や頭のぶら下げ」を確かめてみましょう。高く上がる必要はありません。床から離れては激しすぎます。全身をほぐすように、自分にとって一番気持ちのよい抵抗のない揺すり方をして下さい。
 「どうすればよいのですか」それは私が答えるのではなく、みなさんのからだが答えてくれるのです。
 「ほぐす」というのは、とくということです。「とく」というのは、風呂敷を解く、つまり「あける」に通じます。満員電車のように、ぎっしりと詰まっていて身動きできない状態を固いといいます。
 《固い》ということは動き《難い》ということです。あいていればどこへでも行けます。あいていることは可能性の前提条件です。
 私はからだのことは「からだち」といいますが、“から”が“たつ”ということです。揺するのは、あいているところをできるだけつくろう、"から"に内包されている潜在的な生命力・活力を発見させることです。
 この運動は、同じリズム、同じテンポで続けると分かります。時には止まったり、変化をつける必要があります。きちんと形の整ったメトロノーム的なテンポやリズムでは死んだものです。自分のからだの中から、どう動きたいかが生まれてくるのです。そのからだからの声を耳をすませて聴き、それにしたがって動けばよいのです。

《はね上げ落とし》
 今までの運動は落ちることでしたが、今度は上の方向、つまり重さの反対の方向へ上げる運動です。重さと反対の方向というと、今までとは全然違う運動と思われるかも知れませんが、重さが元だということを実感していただきたいのです。
 まず、左足に重さをのせて、右足の膝を曲げていって下さい。曲げていくと、右足のかかとはお尻につくはずです。この運動は簡単なように思えますが、実際にやってみると難しいものです。どんなに力を入れても、かかとは尻についてくれません。頑張ってやろうとすると、右股の後ろ側の筋肉がけいれんを起こしてしまいます。
 なぜうまくいかないのでしょう。ここでもまた動きの主動力は筋肉だと思い込んでいる過ちに気づいてほしいのです。「今直接仕事をしている部分が、その仕事のエネルギーを出しているようでは、絶対によい動きは生まれない」ということを分かってほしいのです。曲げようとする右脚に力を入れないで、上下の方向へ弾みを取りながら上げると、右脚は曲がって尻を打っことができます。すぐにできる人は少ないようです。力を入れてはいけないと分かっていながら、みなさん方のからだは歪んでいるので、どうしても右脚の筋肉に頼ろうとしてしまうのです。うまくできるようになると、上げようとする右脚もぶら下がっているんだなあと、実感するはずです。
 この運動から、腕のぶら下げと同様に、足も本質的にはぶら下げが大切だということを掴んでほしいのです。歩くとき、動く足に力を入れてはいけないのです。新しく前に出る足はぶら下がっていて振れる足なのです。ですから、足は単に重さ'を受ける場所だと固定して考えてはいけません。2本が2本とも突っ張ったら絶対に歩けません。どうしても1本で重みを受け、片方はぶら下げの状態にあることが、一番自然な形なのです。

《中身を放る》
 次に移りましょう。腕のないからだをイメージして下さい。そして、なくなった腕の付け根から、からだの中身を液体にしてドーッとこぼして下さい。こぼすというと、散らばるような感じがありますので、中身を放るといった方がよいでしょう。
 右、左、右、左、ドーッ。そういうふうに、中身を全部放って下さい。中身を全部出しても、母なる大地からどんどん補給されます。ですから、少なくとも片方の足の裏はいつも下にくっつけていなければなりません。足の裏をよくあけて、吸い付いている必要があります。ときどき中身がよく出たかどうか確かめて、残っているようならちょっと弾みをつけて全部出してしまいましょう。
 中身を全部出しても、母なる大地からどんどん補給されると言いましたが、私は、人間のからだというものは、道、溝、管の集まりだと考えています。管は、入り口があり、通り道があり、出口があるものです。もしそのうちのどこか1か所でも通れなくなると、どんな立派な管でも機能しなくなります。血管や気管や食道だけが管ではありません。からだの全部が管なのです。
 だから、人間が生きていく上で一番大事なことは、自分のからだにいつも好ましい道をっくる能力です。私の名前は「野口三千三」ですが、「ミチゾウ」とは「道をつくる」とも解釈できます。つまり、自分のからだの中に、必要な道をいっでもつくることのできる能力を身にっける営みが野口体操なのです。

おわりに「気持ちがいいかい?」

 これまで、からだと動きについての私の考え方や私が行っている体操のごく一部をお話してきました。もうそろそろ時間が迫ってきていますので、最後に2つのことをお話しておきたいと思います。
 私の話から、みなさん方は「いいからだとは、どういう状態なのだろう」と疑問を持たれたのではないでしょうか。"いい"とは、結局、各々ひとりひとりが見つけ出していくしかありません。
 皆さんが染まって来られた価値観からいうと、"いい"というのは、理想的な形を目標に置いて、自分をそれに近づけようとされてきたのではないですか。だから結局は私に「いいからだとは何か」と聴きたくなるのでしょう。目標を提示してもらわないと不安になってくるのではないでしょうか。
 そうではなくて、固定した目標を持たないで、その都度自分の中に出てくるものに、過去も現在も未来もいっしょくたになった自分の流れの方向に、素直に自分のからだを任せ切るのです。
 私自身、その流れの方向を、「気持ちのいい方向」ということばで表しています。あるいは、「自分が生きていくのに都合のいい方向」「生きるということを保つのに具合のいい方向」とも言えるでしょう。
 ただし、「気持ちいい」ということを、浅く考えると危険です。快楽を求めればいいと、短絡的に考える人も出てきます。これは、理屈よりも日常生活の中で実際に生きていく本当の姿を見つめていけば、自然と解決されます。いつもいつも、「お前、本当に気持ちがいいかい?」と、絶えず自問自答を繰り返し、飽くなき問いを続けることです。そうすれば、自ずと自分が生きていくのに都合のよい方向が見えてくるのです。
 それでは、私からみなさんに問いかけてみましょう。
「あなたは本当に気持ちいいですか?」
「あなたは、吃音を治そうと取り組んでいますが、それは本当に気持ちのいいことでしょうか?」
 苦痛が伴うなら、どこかで無理をしているのです。無理があると、あなたのからだやこころが、歪めたり、固めたりしていることになります。吃音を治そうとするなら、楽しみながらして下さい。吃音を治すことが楽しくなかったら、あなたにとってもっと楽しいこと、気持ちのよいことを探せばいいのです。それは、あなた自身のからだが教えてくれます。じっと耳を澄ませて聴いて下さい。あなたが求めているものは何なのか。(了)

野口三千三氏(のぐち・みちぞう)=東京芸大名誉教授・体育学、野口体操教室主宰)29日午前1時58分、肺炎のため東京都文京区の病院で死去、83歳。葬儀・告別式は4月1日午後2時から東京都台東区上野桜木1の14の11の上野寛永寺第三霊園で。喪主は長男和也(かずや)氏。自宅は東京都豊島区西巣鴨2の17の17。
 独自の自然観、人間観による「野口体操」の生みの親。演劇、美術、音楽、教育、医療など幅広い分野で活躍した。体操の哲学ともいえる「原初生命体としての人間」などの著書がある。(朝日新聞 1998.3.30)

野口三千三さんの著書
☆原初生命体としての人間 岩波書店
☆野口体操・おもさに貞く 柏樹社
☆野口体操・からだに貞く 柏樹社


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/07/18

野口体操から考えた吃音 (2)

 野口三千三さんのお話の続きです。
今回は、からだのことが中心ですが、その中に、「発声器官は、特別な練習をしなくても、動くように作られている」と言われているところがあります。なるほどおもしろいなあと思います。
 「人間にとって最も大切なことは、外側に表れたことではなくて、内側で何事かが起こっているということ。外側に表れているどもりという現象にとらわれすぎているのではないだろうか」これらのことばは、竹内敏晴さんもおっしゃっていました。
すうっと、心にしみこんできます。

野口体操から考えた吃音(2)
                           野口三千三

人間の動き
 次に、人間の動きをこのムチによって説明しましょう。
 このムチは、基(元)の部分が竹、中間が革紐、先端が麻縄で作られています。ムチの基本構造は、大きく次の3つに分かれます。

1.基の部分が太く(大きく)、先端にいくにしたがってだんだん細く(小さく)なっていく
2.基の部分が硬く、先端にいくにしたがってだんだん軟らかくなっていく
3.基の部分が重く、先端にいくにしたがってだんだん軽くなっていく

 下等動物から人間に至るまで、すべての生き物の形は、基本的にムチの構造と同じです。人間は筋肉などの複雑な組み合わせによってできているだけです。
 ムチを振ると、ものすごい音がします。基の部分に加えられたエネルギーが先端まで伝わり、先端の速度は音速を越えます。ムチはどこにも硬いところがないからこそ、波をうって激しく打ち当たるのです。つまり、直接仕事をする先端は軟らかい方がよく動くのです。先端の働きは、基(人間で言えば足や腰)から伝わってきたエネルギーをいかに微調整するかにあります。ピアノを弾くとき、指先で弾こうとするとすぐ疲れてしまいます。ボクシングにしても、腕だけを動かしていたのでは強烈なパンチは打てません。
 声を出すことも、同様なことが言えます。発声器官はムチの先端にあたり、その先端には力が入っていてはいけません。例えば、皆さん方は「アーイーウー」と大きな口を開けて発声練習をされるのではないでしょうか。もしそうなら、却って逆効果です。軟らかくしておくべきところに意識を集中し、力を入れているだけだからです。
 発声器官は、特別な練習をしなくても、動くように作られているものです。緊張するからぎこちなく動くだけです。だから、発声器官にこだわらず、からだ全体、特に肩や首を軟らかくすることを考えた方がよいでしょう。

《すべての存在は重さである》
 意識と筋肉をもった人間が、からだの動きにおいて犯す最大の誤りは、動きの主エネルギーが筋肉の緊張収縮だと思いこんでいることです。
 「からだの動きの主エネルギーは、筋肉の収縮力ではなく、自分自身のからだの重さである」
 これが私の考えです。このことは、自分自身のからだで本当に実感しないと納得できません。実感するのに最も分かりやすい、階段のぼりで説明してみましょう。
 階段をのぼろうのぼろうと意識的に努力すると、どうしても上げる脚や上体や肩に力が入ってしまいます。そうなると自分のからだの重さが負担になり、疲れてしまいます。しかし、階段を踏んだ左足にからだの重さを任せ切ると、そのとき右足にからだの重さを任せると、当然の結果として、階段(地球)から反動のエネルギーが生まれ、左足→左脚→左腰→右腰→右脚→右足と伝わっていくのです。
 つまり、からだの重さをのせる(問いかけ)ことによって、地球から(答え)を受け取り、それがエネルギーとなっているのです。ですから、からだの重さこそ動きの主エネルギーです。
 上にのぼっていくというのは、自分のからだの重さによって、下へ話しかけることです。からだの重さを任せ切ってしまいますから、ほとんど体重を負担と感じず、軽やかにスイスイのぼっていくことができます。ロケットを考えてみて下さい。ロケットだって地球に向かって話しかけるから上がって行くのです。
 人間の動きのあらゆる現象は、重さの原理でまとまったり、流れたり、動いたりしています。そのことが分からず、筋肉と意識に頼ろうとするから、からだ全体が歪んでくるのです。先程私は、どもりの問題で大切なのは、からだ全体や肩や首を軟らかくすることだと言いました。それにはまず、自分自身のからだの重さに任せることを実感するのがよいでしょう。重さに任せてしまう、それが、人間の一番安らかで楽な状態なのです。

《豊かな動き》
 「私なんかからだが固いから、体操なんてとても駄目です」
 こう言う人がいます。私はこんなことを聞くたびに、そういう人たちの傲慢さが気になって仕方がないんです。からだが固いとか、運動神経が鈍いとかを自分で結論づける能力が、自分にあるとでも思っているのでしょうか。
そのような人は、おそらく、体操競技のように自由自在にからだが折れたり曲がったりすることが、やわらかいからだだと思っているのでしょう。そんな柔らかさも、もちろんある種の柔らかさではあると思います。しかし、これは単に外側に表れた形の運動だけを見ているに過ぎません。むしろ私が言いたいのは、たとえ外見的には真っすぐ突っ立っているだけで、からだが曲がらなかったとしても、からだの内部が自由自在に変化したならば、その方が"柔らか"く"豊かな"動きだということです。
 もともと「動く」ということばのもとは、「うごめく」ということばです。これは、「うごうご」という擬態語から出ています。「うごめく」とか「うごうご」という語感からも感じられるように、一つのまとまった動きに対して「うごめく」ということばは使わないのです。小さいものがいっぱいいて、それがはっきり分からないように動くのが「うごめく」ということです。
 外見ではほとんど動かないけれど、からだの中では非常に動いている、ということは日常生活ではしばしば体験しているはずです。たとえば、非常にうれしいとき、非常に悲しいとき、猛烈に怒っているとき、必ずしも大きく動かないけれどからだの中は波打つように動いているはずです。全体の形の変化は少ないけれど、中の変化はとてつもなく大きいわけです。
 このからだの中の動きや変化こそ、豊かな動きであって、私はそれを大事に大事にしていきたいのです。
 だから私は、吃音の人と話すことが少しも苦になりません。吃音の人と話していると、ことばを出そうとしているからだのもどかしさが伝わってきます。その人の中で何かが動いているのが分かるのです。しかし、みなさん方は自分の中で動いているものに気づいておられないのではないでしょうか。どもることを恥ずかしいと思い、劣等感を持っておられると思いますが、どうしてどもってはいけないのですか。考えたことがありますか。
「どうして、どもってはいけないのですか。この質問に答えられる人、手を挙げなさい」
 みんなが手を挙げると、手を挙げられなかった人は自分が劣ったような気持ちになります。「あなた、答えなさい」と言われて、立ち上がったけれどなかなか言えないと、その人はみじめな気持ちになります。早く手を挙げた方が優れている、はきはきと答える人が優れている、そもそもこの考え方が誤っているのです。
 人間にとって最も大切なことは、外側に表れたことではなくて、内側で何事かが起こっているということです。だのにみなさん方は外側に表れている吃音という現象にとらわれすぎているのではないでしょうか。自分の中で起こっていること、動いているものをもっと大切にしてほしいと思います。もし自分の中で起こっていることを実感でき、それがすばらしいものだと分かったら、皆さん方が持っている話し方についての価値観も大きく変化するのではないでしょうか。どもるという外側に表れる形は変わらないけれど、内側が大きく変化するはずです。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/07/17

野口体操から考えた吃音

 「吃音を治そうとする取り組みは、本当に気持ちのいいことですか?」との問いかけから始まった野口三千三さんのことばひとつひとつが心に残ります。
 「どもりを治そうと努力しすぎると、ことばだけでなく人間全体が歪んでしまう。
 自分の欠点ばかりに目を向けすぎると、全体が萎縮してしまう。
 喉や口だけがあなたのすべてではない、全身まるごと全部があなただ。
 どもるかどもらないかにこだわらないで、もっと全体をよくすることを考えよう」

 50年前から僕が考えていたことを、他の領域の人たちも同じように考えて下さり、さらに、僕たちが説明しきれなかったことを丁寧に説明して下さっています。とてもありがたいことでした。
 現在の世界の吃音臨床・研究の現状は、あいかわらず「吃音症状」の消失及び改善のための言語訓練が主流です。この現状にもどかしさを感じつつ、今、「スタタリング・ナウ」を読み返しています。とても新鮮な気持ちで、再び、野口三千三さんに出会っている、そんな気がしています。

  
野口体操から考えた吃音
                      野口三千三
はじめに
 私はどもりについて詳しく知りませんが、身体障害や精神障害の問題には関心を持っています。肢体不自由児施設にはよく出かけ、身体障害の人達と親しくしています。また、施設の先生方が、脳性麻痺児の指導の参考にしようと私の体操教室へ来られます。
 「からだや顔の歪みを直そうとしてはいけない」
 「自分にとって動きやすい動作をしなさい」
 私はアドバイスを求められたとき、こう答えます。施設の中だけでなく、恥ずかしがらずに街へ出て、楽な姿勢で歩いてみるように勧めます。からだの歪みを少なくしようとすると、無理な姿勢をとることになります。表面はどうであれ、自分にとって楽な動作を覚えていくと、顔やからだの歪みは一時的にひどくなりますが、次第に少なくなります。そして、平気で自分なりの動きができるようになります。しかし、やっぱりからだの歪みを直したいと努力する人は、はじめの状態に戻ってしまいます。
 どもりの場合も、恐らく同じことが言えるのではないでしょうか。どもりを直そうと努力しすぎると、ことばだけでなく人間全体が歪むのではないかと思います。自分の欠点ばかりに目を向けすぎると、全体が萎縮してしまいます。
 喉や口だけがあなたのすべてではありません。全身まるごと全部があなたなのです。どもるかどもらないかにこだわらないで、もっと全体をよくすることを考えて下さい。これから私がお話することが、何か参考になればと思います。

からだは意識の奴隷ではない
 みなさんがどもっているときには、首や肩が緊張していると思います。どもりそうだと思ったとき、緊張を解こう、力を抜こうとされるでしょう。ところが、力を抜こうとしても、意識的にできるものではありません。
 どもりの問題に限らず、「力を抜こう」とするのは、意識で人間のからだを支配できると考えているからです。そもそもこの考え方が誤っているのです。からだは決して意識の奴隷ではありません。
 私が人間のからだと意識をどのように考えているか、説明しましょう。
 大抵の人は、人間のからだは、骨が中心にあってそこへ筋肉や内臓がつき、一番外側を皮膚が覆っていると考えています。解剖学的に言えば確かにそのとおりでしょうが、しかし、それは死んだ人間のからだを説明しているにすぎません。生きたからだとは、皮膚という袋の中に液体的なものがつまっていて、その中で骨も筋肉も内臓もプカプカ浮かんでいるものです。つまり、からだの主体は体液であり、骨とか筋肉とか内臓は、体液が後で作った道具なのです。発生学的に考えていくとそうなります。
 人間のこころの面も、はじめは非意識であり、意識は徐々にっくられてきたものです。このことは、誕生したばかりの赤ちゃんを考えてみると分かるでしょう。主体は非意識なのです。もし意識が主体であり、からだを思うままに動かせるとしたら大変なことになってしまいます。歩くという簡単な動作でさえ、短い時間で何百という筋肉に対して、時々刻々変化に合わせて数え切れない命令を出さなくてはなりません。そんなことは到底できるわけがないのです。つまり、人間が生きていくために意識の果たす役割はほんの少しであり、非意識こそが主体なのです。この「体液・非意識主体」を無視して、意識によってからだを支配しようとしていることがどんなに多いことでしょう。
 例えば、吃音矯正の方法も、意識的に発声器官や呼吸をコントロールしようとしているのではないでしょうか。意識的に話そうとするから話し方が不自然になったり、喉や口に注意が向き過ぎて話せなくなったりするのです。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/07/15

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