伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

野口三千三

表現とからだと癒やし (2) からだと言葉の結びつき

 自己紹介の後、鴻上さんのコーディネーターで、話がすすんでいきます。からだと言葉の結びつき、からだをほぐすことと気持ちをほぐすこと、ちょうどいい力の入れ方と抜き方など、興味ある話題が続いていきます。
 最後の方で、鴻上さんが僕に「伊藤さんは明後日、舞台に立つんですね」と声をかけて下さっています。秋浜悟史作の「ほらんばか」という竹内敏晴さん演出の舞台の主役をすることになっていたのでした。話は身体について進んでいますが、僕は、身体としての言葉が壊れるという経験をしています。人前で講義や講演などでの「説明、説得的な言葉」では僕は、その頃、ほとんどどもらなくなっていました。しかし、竹内さんは、それでは演劇、人間の情念を演じる言葉としてはダメだと、厳しく稽古を付けてくれました。この稽古の中で、それまで、人前ではほとんどどもらなくなっていたのが、人前でもどもるようになった、おもしろい経験をしています。その芝居が、このシンポジウムのすぐ後のことだったんですね。とても、懐かしい思い出のひとつです。

表現とからだと癒し (2)
     コーディネイター 鴻上尚史
     第21回日本文化デザイン会議'98青森『異和感の…』(1998.10.30〜11.1)

自分が言いたいことを一所懸命に言う

鴻上 伊藤さんは、なおす努力の否定ということをおっしゃっていたことがありますね。その根底には、的確に話せて、早いテンポでこの現代社会の流れにのることが、どもる人の最終目的だと言われてきたということがあるわけですね。

伊藤 世間で言われている"普通"とか"効率"ばかりを追いかけていくと、身体も壊れていくし、気持ちも沈んでいくんです。どもりは簡単になおると言われることもありますが、小学校1年頃まで持ち越した人のどもりが完全に消えるということは、おそらくないんです。なおらないものをなおそうとしてあがくことは、その人の生き方を非常に苦しいものにしていきます。それで、効率のいい話し言葉を目指すことは捨てて、自分の気持ちを、どもりながらでも言うという方向へ視点を変えていくことのほうが、生き方として楽だと。そのへんから、なおす努力の否定ということを言い始めたわけです。

鴻上 伊藤さんに持ってきていただいた日本吃音臨床研究会の機関誌の中に、『情けない』と言いたかったんだけど、その言葉がすごく言いにくいので、『悲しい』と言葉を変えて言ったと。でも本当は、自分は『情けない』と言いたかったんだという文章があったんですが、僕はそれを読みながら、自分は本当はこう言いたかったんだけど、それを言わなかったとか、言えなかったということってあるなと思ったんです。もっと言えば、本当にこれは自分が言いたかった言葉だろうかというのは、常に思っていることだと思うんです。これは、どもる、どもらないに関係なく、非常に普遍的な問題なんじゃないかという気がします。

身体をほぐすことで気持ちもほぐす

鴻上 羽鳥さんに野口体操のビデオをもってきていただいたので、それを拝見しましょう。
《野口体操 ビデオ上映》

羽鳥 これは野口三千三先生が82歳の時の映像で、亡くなる半年前に撮ったものです。先生の言葉の一つひとつは、本当に82年間、身体の中でずっと育まれてきたものなんです。妥協のない先生で、動きの説明にしても、ズバッとすごいことをおっしゃるんですよ。こんなことを言って、傷つけちゃうんじゃないかと思うようなことを言われます。でも、相手を肯定して、その中から言葉が出てくるわけで、身体の底から出てきた言葉というものは本物ですからね。言葉というのは頭で考えて話してるのかもしれませんが、もしかするとおなかの底から、あるいは指先や足の先から、考えてることが言葉になって出たのかもしれない。鴻上さんは戯曲を書かれる時に、身体の中に言葉を探しませんか?

鴻上 やっぱり躰から出る言葉を探しますね。羽鳥さんは野口体操を始められて、どういうところで身体と言葉の結びつきを感じられたんでしょうか。

羽鳥 身体の動きが言葉であるし、言葉は身体の動きだということなんですけど、今は心という言葉も身体という言葉も使わなくなってしまいましたね。心でも身体でも、どっちでもいいというようなことになってきたんです。ビデオの最後に『自然直伝』と出ましたが、それは、自分の嫌なところも汚いところも、情けないところも悲しいところも、それでいいんだよって、先生が言ってくださってるのかなと思います。だから、野口体操に来て、形の上では全然柔らかく見えなくてもいいんですよ。自分がその時に、どれだけほぐれてるかということのほうが大事。形じゃないんですね。

伊藤 これでいいんだという気持ちになると、確かに身体は楽になるんでしょうけど、でも結局は、ほぐれてるようで、ほぐれてないんですね。身体がほぐれると気持ちも楽になる、つまり、気持ちよりも身体が先というほうが本物のような気がします。確かに吃音を受け入れることで楽になる部分はいっぱいあります。でも、それだけでちょっと足りない。その時に身体を楽にすると、もう少し前に進めるんですね。

鴻上 意識の持ちようでリラックスしようということだけだと、やっぱり限界があるということですね。上野さんは10年ダンスをやって、今はだいぶリラックスしてるんですか。

上野 すごく緊張している時に、緊張を解こう解こうと思うと、絶対解けないんですよ。例えば、台詞のことを集中して考えて、緊張を忘れることが大事で、緊張を解こうとかリラックスしようと思うことのほうが邪魔なような気がします。野口体操を始めて、大事なのは力を抜くことかなと思いました。

ちょうどいい力の入れ方、抜き方

羽鳥 ちょっと鴻上さんと一緒に、野口体操のぶら下がりをやってみますね。私がぶら下がりますので、鴻上さんは私の腰を持って、左右に優しく揺すってください。どうして優しくやるかと言うと、力を入れてしまうと、感覚が鈍くなるんです。鴻上さんの手で、私の中身を感じとってほしい。ぐっと押されると、身体が抵抗して、緊張してしまいます。それではほぐれるわけがない。日常生活の中でも、余分に力を入れすぎて暮らしてると、感覚が鈍くなるんです。余分な力を抜いて、感覚で動きをとらえるようにしてほしいですね。《ぶら下がり実演》

鴻上 僕がイギリスに留学していた時、今のぶら下がりによく似たレッスンをイギリス人の先生がやっていたんです。そのビデオがありますので見てください。《ビデオ上映》

鴻上 ムーブメント・ティーチャーといつて、身体の動きの先生が三人、ギルドホール演劇学校にいたんです。このレッスンでは、胸を開いてあくびをして、膝の力を抜いて、肩の力を抜いて、頭を落として、お尻の穴が天井に向くようにしています。

羽鳥 ぶら下げていく方向が野口体操と違っていて、末端、つまり頭から動いていますね。野口体操の場合は土台から崩すんです。下から順々に崩していったほうが楽に崩すことができるんですよ。身体のいろいろなところをたるませて、たるみ曲線をつくるんですね。くるぶしから膝の関節、膝、骨盤、それから胴体、首という具合に、自分の体の関節が持っている方向にまかせながらたるませていく。そうすると自然にたるんで、頭は最後になるんです。そして、お尻の穴が真上を向く。たるむというのは、力を抜いて、動きが自由になることなんです。

鴻上 そういえば伊藤さんは、明後日、お芝居の舞台に立たれるんですよね。本番近いんですから、ちょっとこわばってる体を楽にしていってください。

羽鳥 でも、ほぐしすぎちゃってもだめなんですよ。ちょうどいいたるみ方、ちょうどいい緊張というのが大切なんです。ちょうどよく力が抜けた時に、ちょうどいい力の入れ方がわかるんです。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/07/21

野口三千三さんから羽鳥操さんへ

 野口三千三さんのことを紹介してきました。
 出会いから随分後になって、僕は再び野口三千三さんに出会うことになります。
 野口三千三さんに師事し、「野口三千三授業記録の会」代表で、野口体操の講師としてその普及に力を尽くしてこられた羽鳥操さんとの出会いです。1999年でした。
 演出家の鴻上尚史さんがコーディネイトされた、第21回日本文化デザイン会議 '98青森に、シンポジストとして参加しましたが、そのときのシンポジストのお一人が、羽鳥操さんでした。このデザイン会議、本当は竹内敏晴さんが出席されるはずだったのですが、どうしても行けなくなり、竹内さんから「伊藤さん、代わりに参加して下さい」と依頼されて、参加したものでした。テーマは「表現とからだと癒やし」、メインタイトルは「異話感の…」でした。
 「スタタリング・ナウ」を順に紹介してきて、本当は、今日は、NO.47を紹介する予定でしたが、野口三千三さんと関係の深い羽鳥さんとの出会いを紹介します。
 まず、「スタタリング・ナウ」1999.4.17 NO.56の巻頭言からです。

   
異話感の…
                   日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 昨秋、2万人近い人々が参加し、青森で開かれた日本文化デザイン会議で、劇作家・演出家の鴻上尚史さんがコーディネイトするシンポジウムに参加した。
 50近く企画されたシンポジウムの中のひとつ、「表現とからだと癒し」で、何が話せるか不安はあったが、メインタイトル、「異話感の・・」に後押しされて参加した。異話感はもちろん造語で、違和感をもじったものだ。会議はこう呼びかける。

 ―社会の豊かさの根源である「多様性」や「複雑系」の問題に光をあててみようと思います。
単なる"違和感"を越えた創造的な、"異話感"をはらんでいることこそ「健全さ」のべースである。多様性や一人ひとりの個性が生み出す豊饒な「異話感」に眼を向けなおしたい。テーマには、このような差異や違和感をポジティブな資源としてひきうけていこうという感性と意志がこめられています―  議長提案 竹村真一

 シンポジウムで、差別用語としての《どもり》という表現が話題になったが、《どもり》を死語にしたくないと話した。
 どもりに悩む人がどもるのと、あわてたら誰でもつっかえますよとは本質的に違う。それを、誰でもどもりますよと表現をされることがある。
 また、子どもにどもりを意識させたくないからと、「どもる」と言わずに「つっかえる」「つまる」としか言わない人もいる。
 一般社会は違和感をもつものと向き合ったとき、どうするのだろうか。排除する、拒否するということもあるが、受け入れようともする。しかし、その多くは、そのままを受け入れるのではなく、自分が受け入れやすいようなものに融合させて受け止めようとするのではないか。
 「つっかえる」「つまる」「あわてて言うとどもる」と表現すると、誰にでもある現象だと言うことができる。これは、多数者が少数者を引き上げようとしているとも考えられる。そこには優劣の関係が現れ、対等の関係は消えてしまう。
 差別用語を使わないようにするということも、優った者の側の言うことだ。これは配慮であったり、善意から出ていたりすることだけに表立っては反論がしにくい。
 多数者の側に融合させようとする動きを、私は、どもりを差別語として使わないでおこうという風潮の中に感じてしまうのだ。
 どもりということばがなくなり、吃音としか使えなくなると、これまでの自分が否定されたような思いになる。単に「ことばのつまり」「つっかえ」ではないこの状態をどう表現すればいいのか。自分がこれまで悩み、もがいてきたことを簡単にことばの言い換えでは済ませたくないのだ。
 現実にどもるという、話しことばの少数者であるのなら、少数者としての衿持をもちたい。
 1998年の夏、国際吃音学会への参加でサンフランシスコに行った時、サンフランシスコのグライド・メモリアル・ユナイテド・メソジスト教会に行った。いわゆる社会的弱者・少数者と呼ばれる人たちが集まり、ユニークな牧師の語りや音楽で有名な教会である。静かな賛美歌ではなく、躍動感溢れる歌声がロックのライブコンサートのように響く。牧師の話は、ユーモアにあふれ、ひとりひとりの参加者に語りかけていく。
 ここに集う人々の何と違うことか。肌の色、顔の輪郭、髪の色と形、そしてことば。様々な国々から来た人たちが今、アメリカの地で生活をしている。からだ全体で、人はそれぞれに違い、そして生きているのだと表現しているように見える。
 アメリカでは、これだけ目を見張るばかりの違う人々が生きながら、違いを認めざるを得ない状況にありながら、どもりに対しては、なかなか受け入れられないようだ。
 私たちが知る限りでは、吃音を治したいと思い、また治そうとするのは私たちよりアメリカのセルフヘルプグループに集まる人たちの方に強い。
 自分を主張しなければ何も起こらない競争原理の厳しいアメリカと日本とでは比較できないことは理解できても、流暢に話す人も、どもって話す人もいてもいいという感覚が何故育たないのか。不思議でならない。
 違いを違いとして認めて、その上で対決するのではなく、きっちりと互いが相手に向き合う。
 私は、と敢えて限定したいが、私は違和感をもちつつ、それを大事にしながら生き続けたい。
(1999.4.17 「スタタリング・ナウ」NO.56)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/07/19

野口体操から考えた吃音 (3)

 野口三千三さんの話の続きです。ちょっと長くなりますが、今日で最後です。野口体操のいくつかを紹介して下さった後、おわりにというところで、野口さんは、再び、「あなたは、吃音を治そうと取り組んでいますが、それは本当に気持ちのいいことでしょうか?」と問いかけています。
 気持ちのいいことを、楽しく取り組む、これが一番で、僕たちがずっと大切にしてきたことです。セルフヘルプグループの活動も、吃音親子サマーキャンプも、僕たちは自分が楽しくて、気持ちがいいから続けてきたのです。それが、セルフヘルプグループは56年、吃音親子サマーキャンプは30年と続いてきたのです。気持ちよく、楽しくなければとても続くことではありません。同じような価値観に出会いました。
                           
野口体操から考えた吃音(3)
                           野口三千三
野口体操のいくつか

 これから私の行っている体操のうちいくつか紹介しましょう。これは自分のからだがどのように動くか、どうあることが気持ちいいのかを知る手掛かりです。自分がからだに対して何かを命じるのではなく、からだが話していることを素直に聴くことです。

《腕のぶらさげ》
 人間が立っているとき、腕がぶら下がっているということは、誰でもが知っています。しかし、当たり前のことだけに、あまり意識していないでしょう。本当にぶら下がっているかどうかを確かめようとする人は少ないでしょう。実は、普段から"ぶら下げ"を確かめていないからこそ、肩が凝ったりするのです。立っている人間にとって、宿命的に故障が起こるのは、おへその真裏のそへ、腕の付け根、首の付け根の後ろです。人間が立つためには、そこを無理せざるを得ないのです。
 だから、からだをいろいろ動かしてみて、本当にぶら下がっているだろうか、腕が解放されるにはどうすればいいのだろうか、とからだに問いかけてみるのです。小理屈ばって肩をいからせないで、もっと楽に自然な状態で生きようじゃないか。"ぶら下げ"とはそういう運動です。
 まず両脚を少し開いて、すっきり立って下さい。そして、からだの形にこだわらないで、楽にすっきりという感じの中で、優しく静かな上下のはずみをつけて、全身の中身を揺すりましょう。肩や腕の中身が緊張していなければ、ぶら下げた柔らかい紐や鎖のように、ゆらゆらと揺れ動くはずです。決してとび上がるのではないですよ、揺するのです。
 揺するということはどういうことでしょう。
 ぐっすり眠っている人を起こすときには、声をかけるだけでなくて揺すります。意識を失って倒れている人がいると、「どうしたの!」と夢中になって揺すります。このとき、揺するという行為の中には、どこか祈る気持ちが含まれています。全身を揺するとき、この祈りの気持ちが大変大事なことなのです。
 祈るような気持ちで、全身を揺すって下さい。宇宙にたったひとっきりしかいない、過去にも、未来にもない、今ここにしかない自分のからだに、祈るように問いかけるのです。

《胴体や頭のぶら下げ》
 「腕のぶら下げ」が確かめられたら、「胴体や頭のぶら下げ」を確かめてみましょう。高く上がる必要はありません。床から離れては激しすぎます。全身をほぐすように、自分にとって一番気持ちのよい抵抗のない揺すり方をして下さい。
 「どうすればよいのですか」それは私が答えるのではなく、みなさんのからだが答えてくれるのです。
 「ほぐす」というのは、とくということです。「とく」というのは、風呂敷を解く、つまり「あける」に通じます。満員電車のように、ぎっしりと詰まっていて身動きできない状態を固いといいます。
 《固い》ということは動き《難い》ということです。あいていればどこへでも行けます。あいていることは可能性の前提条件です。
 私はからだのことは「からだち」といいますが、“から”が“たつ”ということです。揺するのは、あいているところをできるだけつくろう、"から"に内包されている潜在的な生命力・活力を発見させることです。
 この運動は、同じリズム、同じテンポで続けると分かります。時には止まったり、変化をつける必要があります。きちんと形の整ったメトロノーム的なテンポやリズムでは死んだものです。自分のからだの中から、どう動きたいかが生まれてくるのです。そのからだからの声を耳をすませて聴き、それにしたがって動けばよいのです。

《はね上げ落とし》
 今までの運動は落ちることでしたが、今度は上の方向、つまり重さの反対の方向へ上げる運動です。重さと反対の方向というと、今までとは全然違う運動と思われるかも知れませんが、重さが元だということを実感していただきたいのです。
 まず、左足に重さをのせて、右足の膝を曲げていって下さい。曲げていくと、右足のかかとはお尻につくはずです。この運動は簡単なように思えますが、実際にやってみると難しいものです。どんなに力を入れても、かかとは尻についてくれません。頑張ってやろうとすると、右股の後ろ側の筋肉がけいれんを起こしてしまいます。
 なぜうまくいかないのでしょう。ここでもまた動きの主動力は筋肉だと思い込んでいる過ちに気づいてほしいのです。「今直接仕事をしている部分が、その仕事のエネルギーを出しているようでは、絶対によい動きは生まれない」ということを分かってほしいのです。曲げようとする右脚に力を入れないで、上下の方向へ弾みを取りながら上げると、右脚は曲がって尻を打っことができます。すぐにできる人は少ないようです。力を入れてはいけないと分かっていながら、みなさん方のからだは歪んでいるので、どうしても右脚の筋肉に頼ろうとしてしまうのです。うまくできるようになると、上げようとする右脚もぶら下がっているんだなあと、実感するはずです。
 この運動から、腕のぶら下げと同様に、足も本質的にはぶら下げが大切だということを掴んでほしいのです。歩くとき、動く足に力を入れてはいけないのです。新しく前に出る足はぶら下がっていて振れる足なのです。ですから、足は単に重さ'を受ける場所だと固定して考えてはいけません。2本が2本とも突っ張ったら絶対に歩けません。どうしても1本で重みを受け、片方はぶら下げの状態にあることが、一番自然な形なのです。

《中身を放る》
 次に移りましょう。腕のないからだをイメージして下さい。そして、なくなった腕の付け根から、からだの中身を液体にしてドーッとこぼして下さい。こぼすというと、散らばるような感じがありますので、中身を放るといった方がよいでしょう。
 右、左、右、左、ドーッ。そういうふうに、中身を全部放って下さい。中身を全部出しても、母なる大地からどんどん補給されます。ですから、少なくとも片方の足の裏はいつも下にくっつけていなければなりません。足の裏をよくあけて、吸い付いている必要があります。ときどき中身がよく出たかどうか確かめて、残っているようならちょっと弾みをつけて全部出してしまいましょう。
 中身を全部出しても、母なる大地からどんどん補給されると言いましたが、私は、人間のからだというものは、道、溝、管の集まりだと考えています。管は、入り口があり、通り道があり、出口があるものです。もしそのうちのどこか1か所でも通れなくなると、どんな立派な管でも機能しなくなります。血管や気管や食道だけが管ではありません。からだの全部が管なのです。
 だから、人間が生きていく上で一番大事なことは、自分のからだにいつも好ましい道をっくる能力です。私の名前は「野口三千三」ですが、「ミチゾウ」とは「道をつくる」とも解釈できます。つまり、自分のからだの中に、必要な道をいっでもつくることのできる能力を身にっける営みが野口体操なのです。

おわりに「気持ちがいいかい?」

 これまで、からだと動きについての私の考え方や私が行っている体操のごく一部をお話してきました。もうそろそろ時間が迫ってきていますので、最後に2つのことをお話しておきたいと思います。
 私の話から、みなさん方は「いいからだとは、どういう状態なのだろう」と疑問を持たれたのではないでしょうか。"いい"とは、結局、各々ひとりひとりが見つけ出していくしかありません。
 皆さんが染まって来られた価値観からいうと、"いい"というのは、理想的な形を目標に置いて、自分をそれに近づけようとされてきたのではないですか。だから結局は私に「いいからだとは何か」と聴きたくなるのでしょう。目標を提示してもらわないと不安になってくるのではないでしょうか。
 そうではなくて、固定した目標を持たないで、その都度自分の中に出てくるものに、過去も現在も未来もいっしょくたになった自分の流れの方向に、素直に自分のからだを任せ切るのです。
 私自身、その流れの方向を、「気持ちのいい方向」ということばで表しています。あるいは、「自分が生きていくのに都合のいい方向」「生きるということを保つのに具合のいい方向」とも言えるでしょう。
 ただし、「気持ちいい」ということを、浅く考えると危険です。快楽を求めればいいと、短絡的に考える人も出てきます。これは、理屈よりも日常生活の中で実際に生きていく本当の姿を見つめていけば、自然と解決されます。いつもいつも、「お前、本当に気持ちがいいかい?」と、絶えず自問自答を繰り返し、飽くなき問いを続けることです。そうすれば、自ずと自分が生きていくのに都合のよい方向が見えてくるのです。
 それでは、私からみなさんに問いかけてみましょう。
「あなたは本当に気持ちいいですか?」
「あなたは、吃音を治そうと取り組んでいますが、それは本当に気持ちのいいことでしょうか?」
 苦痛が伴うなら、どこかで無理をしているのです。無理があると、あなたのからだやこころが、歪めたり、固めたりしていることになります。吃音を治そうとするなら、楽しみながらして下さい。吃音を治すことが楽しくなかったら、あなたにとってもっと楽しいこと、気持ちのよいことを探せばいいのです。それは、あなた自身のからだが教えてくれます。じっと耳を澄ませて聴いて下さい。あなたが求めているものは何なのか。(了)

野口三千三氏(のぐち・みちぞう)=東京芸大名誉教授・体育学、野口体操教室主宰)29日午前1時58分、肺炎のため東京都文京区の病院で死去、83歳。葬儀・告別式は4月1日午後2時から東京都台東区上野桜木1の14の11の上野寛永寺第三霊園で。喪主は長男和也(かずや)氏。自宅は東京都豊島区西巣鴨2の17の17。
 独自の自然観、人間観による「野口体操」の生みの親。演劇、美術、音楽、教育、医療など幅広い分野で活躍した。体操の哲学ともいえる「原初生命体としての人間」などの著書がある。(朝日新聞 1998.3.30)

野口三千三さんの著書
☆原初生命体としての人間 岩波書店
☆野口体操・おもさに貞く 柏樹社
☆野口体操・からだに貞く 柏樹社


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/07/18

野口体操から考えた吃音 (2)

 野口三千三さんのお話の続きです。
今回は、からだのことが中心ですが、その中に、「発声器官は、特別な練習をしなくても、動くように作られている」と言われているところがあります。なるほどおもしろいなあと思います。
 「人間にとって最も大切なことは、外側に表れたことではなくて、内側で何事かが起こっているということ。外側に表れているどもりという現象にとらわれすぎているのではないだろうか」これらのことばは、竹内敏晴さんもおっしゃっていました。
すうっと、心にしみこんできます。

野口体操から考えた吃音(2)
                           野口三千三

人間の動き
 次に、人間の動きをこのムチによって説明しましょう。
 このムチは、基(元)の部分が竹、中間が革紐、先端が麻縄で作られています。ムチの基本構造は、大きく次の3つに分かれます。

1.基の部分が太く(大きく)、先端にいくにしたがってだんだん細く(小さく)なっていく
2.基の部分が硬く、先端にいくにしたがってだんだん軟らかくなっていく
3.基の部分が重く、先端にいくにしたがってだんだん軽くなっていく

 下等動物から人間に至るまで、すべての生き物の形は、基本的にムチの構造と同じです。人間は筋肉などの複雑な組み合わせによってできているだけです。
 ムチを振ると、ものすごい音がします。基の部分に加えられたエネルギーが先端まで伝わり、先端の速度は音速を越えます。ムチはどこにも硬いところがないからこそ、波をうって激しく打ち当たるのです。つまり、直接仕事をする先端は軟らかい方がよく動くのです。先端の働きは、基(人間で言えば足や腰)から伝わってきたエネルギーをいかに微調整するかにあります。ピアノを弾くとき、指先で弾こうとするとすぐ疲れてしまいます。ボクシングにしても、腕だけを動かしていたのでは強烈なパンチは打てません。
 声を出すことも、同様なことが言えます。発声器官はムチの先端にあたり、その先端には力が入っていてはいけません。例えば、皆さん方は「アーイーウー」と大きな口を開けて発声練習をされるのではないでしょうか。もしそうなら、却って逆効果です。軟らかくしておくべきところに意識を集中し、力を入れているだけだからです。
 発声器官は、特別な練習をしなくても、動くように作られているものです。緊張するからぎこちなく動くだけです。だから、発声器官にこだわらず、からだ全体、特に肩や首を軟らかくすることを考えた方がよいでしょう。

《すべての存在は重さである》
 意識と筋肉をもった人間が、からだの動きにおいて犯す最大の誤りは、動きの主エネルギーが筋肉の緊張収縮だと思いこんでいることです。
 「からだの動きの主エネルギーは、筋肉の収縮力ではなく、自分自身のからだの重さである」
 これが私の考えです。このことは、自分自身のからだで本当に実感しないと納得できません。実感するのに最も分かりやすい、階段のぼりで説明してみましょう。
 階段をのぼろうのぼろうと意識的に努力すると、どうしても上げる脚や上体や肩に力が入ってしまいます。そうなると自分のからだの重さが負担になり、疲れてしまいます。しかし、階段を踏んだ左足にからだの重さを任せ切ると、そのとき右足にからだの重さを任せると、当然の結果として、階段(地球)から反動のエネルギーが生まれ、左足→左脚→左腰→右腰→右脚→右足と伝わっていくのです。
 つまり、からだの重さをのせる(問いかけ)ことによって、地球から(答え)を受け取り、それがエネルギーとなっているのです。ですから、からだの重さこそ動きの主エネルギーです。
 上にのぼっていくというのは、自分のからだの重さによって、下へ話しかけることです。からだの重さを任せ切ってしまいますから、ほとんど体重を負担と感じず、軽やかにスイスイのぼっていくことができます。ロケットを考えてみて下さい。ロケットだって地球に向かって話しかけるから上がって行くのです。
 人間の動きのあらゆる現象は、重さの原理でまとまったり、流れたり、動いたりしています。そのことが分からず、筋肉と意識に頼ろうとするから、からだ全体が歪んでくるのです。先程私は、どもりの問題で大切なのは、からだ全体や肩や首を軟らかくすることだと言いました。それにはまず、自分自身のからだの重さに任せることを実感するのがよいでしょう。重さに任せてしまう、それが、人間の一番安らかで楽な状態なのです。

《豊かな動き》
 「私なんかからだが固いから、体操なんてとても駄目です」
 こう言う人がいます。私はこんなことを聞くたびに、そういう人たちの傲慢さが気になって仕方がないんです。からだが固いとか、運動神経が鈍いとかを自分で結論づける能力が、自分にあるとでも思っているのでしょうか。
そのような人は、おそらく、体操競技のように自由自在にからだが折れたり曲がったりすることが、やわらかいからだだと思っているのでしょう。そんな柔らかさも、もちろんある種の柔らかさではあると思います。しかし、これは単に外側に表れた形の運動だけを見ているに過ぎません。むしろ私が言いたいのは、たとえ外見的には真っすぐ突っ立っているだけで、からだが曲がらなかったとしても、からだの内部が自由自在に変化したならば、その方が"柔らか"く"豊かな"動きだということです。
 もともと「動く」ということばのもとは、「うごめく」ということばです。これは、「うごうご」という擬態語から出ています。「うごめく」とか「うごうご」という語感からも感じられるように、一つのまとまった動きに対して「うごめく」ということばは使わないのです。小さいものがいっぱいいて、それがはっきり分からないように動くのが「うごめく」ということです。
 外見ではほとんど動かないけれど、からだの中では非常に動いている、ということは日常生活ではしばしば体験しているはずです。たとえば、非常にうれしいとき、非常に悲しいとき、猛烈に怒っているとき、必ずしも大きく動かないけれどからだの中は波打つように動いているはずです。全体の形の変化は少ないけれど、中の変化はとてつもなく大きいわけです。
 このからだの中の動きや変化こそ、豊かな動きであって、私はそれを大事に大事にしていきたいのです。
 だから私は、吃音の人と話すことが少しも苦になりません。吃音の人と話していると、ことばを出そうとしているからだのもどかしさが伝わってきます。その人の中で何かが動いているのが分かるのです。しかし、みなさん方は自分の中で動いているものに気づいておられないのではないでしょうか。どもることを恥ずかしいと思い、劣等感を持っておられると思いますが、どうしてどもってはいけないのですか。考えたことがありますか。
「どうして、どもってはいけないのですか。この質問に答えられる人、手を挙げなさい」
 みんなが手を挙げると、手を挙げられなかった人は自分が劣ったような気持ちになります。「あなた、答えなさい」と言われて、立ち上がったけれどなかなか言えないと、その人はみじめな気持ちになります。早く手を挙げた方が優れている、はきはきと答える人が優れている、そもそもこの考え方が誤っているのです。
 人間にとって最も大切なことは、外側に表れたことではなくて、内側で何事かが起こっているということです。だのにみなさん方は外側に表れている吃音という現象にとらわれすぎているのではないでしょうか。自分の中で起こっていること、動いているものをもっと大切にしてほしいと思います。もし自分の中で起こっていることを実感でき、それがすばらしいものだと分かったら、皆さん方が持っている話し方についての価値観も大きく変化するのではないでしょうか。どもるという外側に表れる形は変わらないけれど、内側が大きく変化するはずです。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/07/17

野口体操から考えた吃音

 「吃音を治そうとする取り組みは、本当に気持ちのいいことですか?」との問いかけから始まった野口三千三さんのことばひとつひとつが心に残ります。
 「どもりを治そうと努力しすぎると、ことばだけでなく人間全体が歪んでしまう。
 自分の欠点ばかりに目を向けすぎると、全体が萎縮してしまう。
 喉や口だけがあなたのすべてではない、全身まるごと全部があなただ。
 どもるかどもらないかにこだわらないで、もっと全体をよくすることを考えよう」

 50年前から僕が考えていたことを、他の領域の人たちも同じように考えて下さり、さらに、僕たちが説明しきれなかったことを丁寧に説明して下さっています。とてもありがたいことでした。
 現在の世界の吃音臨床・研究の現状は、あいかわらず「吃音症状」の消失及び改善のための言語訓練が主流です。この現状にもどかしさを感じつつ、今、「スタタリング・ナウ」を読み返しています。とても新鮮な気持ちで、再び、野口三千三さんに出会っている、そんな気がしています。

  
野口体操から考えた吃音
                      野口三千三
はじめに
 私はどもりについて詳しく知りませんが、身体障害や精神障害の問題には関心を持っています。肢体不自由児施設にはよく出かけ、身体障害の人達と親しくしています。また、施設の先生方が、脳性麻痺児の指導の参考にしようと私の体操教室へ来られます。
 「からだや顔の歪みを直そうとしてはいけない」
 「自分にとって動きやすい動作をしなさい」
 私はアドバイスを求められたとき、こう答えます。施設の中だけでなく、恥ずかしがらずに街へ出て、楽な姿勢で歩いてみるように勧めます。からだの歪みを少なくしようとすると、無理な姿勢をとることになります。表面はどうであれ、自分にとって楽な動作を覚えていくと、顔やからだの歪みは一時的にひどくなりますが、次第に少なくなります。そして、平気で自分なりの動きができるようになります。しかし、やっぱりからだの歪みを直したいと努力する人は、はじめの状態に戻ってしまいます。
 どもりの場合も、恐らく同じことが言えるのではないでしょうか。どもりを直そうと努力しすぎると、ことばだけでなく人間全体が歪むのではないかと思います。自分の欠点ばかりに目を向けすぎると、全体が萎縮してしまいます。
 喉や口だけがあなたのすべてではありません。全身まるごと全部があなたなのです。どもるかどもらないかにこだわらないで、もっと全体をよくすることを考えて下さい。これから私がお話することが、何か参考になればと思います。

からだは意識の奴隷ではない
 みなさんがどもっているときには、首や肩が緊張していると思います。どもりそうだと思ったとき、緊張を解こう、力を抜こうとされるでしょう。ところが、力を抜こうとしても、意識的にできるものではありません。
 どもりの問題に限らず、「力を抜こう」とするのは、意識で人間のからだを支配できると考えているからです。そもそもこの考え方が誤っているのです。からだは決して意識の奴隷ではありません。
 私が人間のからだと意識をどのように考えているか、説明しましょう。
 大抵の人は、人間のからだは、骨が中心にあってそこへ筋肉や内臓がつき、一番外側を皮膚が覆っていると考えています。解剖学的に言えば確かにそのとおりでしょうが、しかし、それは死んだ人間のからだを説明しているにすぎません。生きたからだとは、皮膚という袋の中に液体的なものがつまっていて、その中で骨も筋肉も内臓もプカプカ浮かんでいるものです。つまり、からだの主体は体液であり、骨とか筋肉とか内臓は、体液が後で作った道具なのです。発生学的に考えていくとそうなります。
 人間のこころの面も、はじめは非意識であり、意識は徐々にっくられてきたものです。このことは、誕生したばかりの赤ちゃんを考えてみると分かるでしょう。主体は非意識なのです。もし意識が主体であり、からだを思うままに動かせるとしたら大変なことになってしまいます。歩くという簡単な動作でさえ、短い時間で何百という筋肉に対して、時々刻々変化に合わせて数え切れない命令を出さなくてはなりません。そんなことは到底できるわけがないのです。つまり、人間が生きていくために意識の果たす役割はほんの少しであり、非意識こそが主体なのです。この「体液・非意識主体」を無視して、意識によってからだを支配しようとしていることがどんなに多いことでしょう。
 例えば、吃音矯正の方法も、意識的に発声器官や呼吸をコントロールしようとしているのではないでしょうか。意識的に話そうとするから話し方が不自然になったり、喉や口に注意が向き過ぎて話せなくなったりするのです。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/07/15

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