伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

論理療法

吃音と論療法

 昨日、僕の巻頭言を紹介しましたが、このときの「スタタリング・ナウ」では、1999年秋の吃音ショートコースを特集しています。テーマは、吃音と論理療法でした。石隈利紀さんの講義、演習、僕との対談、そのどれもが楽しく、充実していました。
 今日、紹介するのは、吃音ショートコースが終わってから、講師である石隈さんが寄せてくださった文章です。石隈さんの興奮が伝わってくるような文章です。再度読んでまたうれしくなりました。論理療法とは出会うべくして出会ったのですが、石隈さんとも出会うべくして出会ったのだと、僕は思っています。

 
吃音ショートコース〜吃音と論理療法〜
  やわらかく考える人生の達人たちへ
               筑波大学 石隈利紀


 1999年、10月23日(土)、24日(日)の吃音ショートコースは、私にとって生涯忘れぬ出来事になった。10月22日(金)、午後8時45分に東京は飯田橋近く会場で、研修会の講師の仕事を終え、私は東京駅に向かって急いだ。研修は、終了後の移動のために、すでにスニーカー(というより運動靴)に履き替えていた。研修会が終わるが早いか、私は会場を飛び出した。私は足が速い。喘息もちの私は「ゼンソク力」で走れるからである。京都まで行ける最終の新幹線のぞみ69号に飛び乗った時、安心感で久々に大きな“ホッ”をついて、ビールを飲んだ。吃音ショートコースの会場に今日中に到着するためには、「この新幹線にのるべき」であったのだ(これは条件付きの、ラショナルビリーフである)。
 京都駅に着くと、タクシーに乗って高速を通って栗東まで行く。タクシーの運転手さんに、事務局の溝口稚佳子さんから送ってもらった地図を見せた。運転手さんは、地図を見ながら不安げである。私もちゃんと会場に着くのだろうかと不安になった。車は高速を走るので、車に乗ると私は後部座席のシートベルトを探した。そしてシートベルトをやっとみっけた。しかしシートベルトを装着する相手(止め口?)がない!この時とれる行動の選択肢はなにか。「運転手さんに頼んで助手席に乗せてもらう」、「ベルトを体につけその先を自分の手で持つ」「運転手さんのプロの腕前を信じて、シートベルトをあきらめる」など。自己主張の弱い私は、一番目の選択肢を実行できず、二番目の選択肢を実行した。シートベルトを自分の手で車にのったのは生まれて初めてであった。私は高速を怖さとつき合いながら「走った」。
 目的地に近づくと、さすがに少し安心した。車は山の中をひたすら走るだけで、運転手さんには自信があるように思えなかった。目的地の会場に着いて、暗い中に伊藤伸二さんと溝口さんの顔が見えて安心した。寒い中、外で私を待って下さったお二人に、(心の中で感謝の手を合わせて)実際はあまりの疲れで、十分お礼も言わず部屋まで案内してもらった。参加者の多くの方が、まだ起きて、話し合っておられたのが印象的であった。
 いよいよ研修会。午前部の発表と会場の雰囲気がとても、あたたかく、そして真剣であった。午後、いよいよ、私の出番である。「私は論理療法の話を立派に伝えるべきである」、「私は、吃音の人が傷つかないよう、いやな気持ちにならないよう、会話をすべきである」、などというイラショナルビリーフで不安と緊張が高まった。
 午後の研修会の初めの儀式で、伊藤さんが、私の恩師である山本昭二郎先生(神戸松蔭女子学院大学教授)との関係を話された。伊藤さんが大阪市中央児童相談所でことばの発達の遅れた子どもの指導をしていた時、プレイルームから外に出ること、子どもを2泊3日のキャンプに連れて行くのを許可したのが、当時児童相談所判定係長であった山本先生であったというのである。私は心が暖かくなるのを感じた。伊藤さんと私はそれぞれ別の人生を歩んでいる。距離のある人と人が今日出会うのだと思っていた。しかし、山本先生という共有の友人にとって私たちの間の距離はすでに近いものであったことを、伊藤さんのお話で、実感した。すると、会場の皆さんの前に出る私は少し楽になった。結果的に、私は「少しでもお役に立つ研修会でありたい」というラショナルビリーフをもつことができ緊張は適度になった。
 1日目の研修会は、皆さんの食い入るような視線と演習への参加で大変盛り上がった。論理療法についてのお話をし、演習を進める私はとても充実していた。会場の多くのみなさんが、私の話に頷いて下さった。笑って下さった。質問もでた。論理療法の研修が、みなさんに伝わるのは、皆さんの人生と論理療法(柔らかい考え方)が近いからだということことに気づいた。みなさんは、吃音の自分とつきあう中で、柔らかい考え方をしようと日々の人生の中で工夫されていることが、伝わってきた。
 そして、感動の時が来た。
 「私は人前でうまく話せないから・…」
の後を埋める選択肢を探す場合である。論理療法の研修会の講師を何度も経験している私は、数個の選択肢が出ることを予測していた。しかし、「しゃべりたいことがあっても、話すことを敬遠してしまおう」、「代わりに誰かにスピーチをお願いしよう」、「友達に相談しよう」と、選択肢がすぐに出てくる。さらに続いて出る。「ていねいな話し方をしている」「表情でカバーしよう」、「文章力をつけよう」。そのうちにさらにマイクが会場を回り始めた。「聞き上手になった」、「同じような苦しみをもっている人を理解できる」「うまくないなりに自分らしく語ろう」、「先生の弟子になろう」(ありがとう!)、「うまく話ができませんとことわってから話を始める」、「自分の意見が言えない」「あらかじめ決めてから話そう」「今からでも言語教室に行こう」「私はテープレコーダーで取ろう」などなどである。一つずつ選択肢が増えていった。一つひとつの選択肢の幹に、一人ひとりの人生がある。私はとても感動した。そして自分でもびっくりしたが、泪が出てきた。
 私は泪もろいほうである。ビックコミックを読んだり、はぐれ刑事純情派を見て泪を流したりする時がある。しかし、カウンセリングの場面で泪を流すことは、まれである。研修会の講師をして泪が出たことは一度もなかった。それは「相手の役に立つ専門家でありたい」というビリーフがとても強いからである。しかし、今回は心が自然に動き、胸がつまった。そして泪が出ていた。それは、私の人生が皆さんの真摯な人生にふれた瞬間であった。いろいろな場面で、選択肢を探しながら、自分とつき合い自分の人生を生きていく。みなさんは、それを真剣に、逞しく、柔らかくやっていらっしゃる。凄い。私はかなわない。私もそうなりたい。みなさんに出会えてよかった。私は心からそう思った。人生の苦しい場面で、いくつかの選択肢を持ち、自分なりに生きることは簡単ではないが、工夫できることである。それを確認した。
 2日目の伊藤伸二さんとの対談『吃音と論理療法』はひたすら楽しかった。のり過ぎて伊藤さんや皆さんに失礼があったのではないかと後で心配になった。柔らかい考え方、そして(できる範囲で)自分を語る勇気は、人生を楽しくする。人生を共有する相手がいれば、人生は何倍も楽しくなる。2人の時間を充実させてくれたのは、伊藤さんと私の対談のせいばかりではない。会場の皆さんが一緒に"対談"を楽しみ、会場の皆さんが自分を語って下さったからである。対談をする二人には論理的療法を少しでも伝えたいという緊張があり、それに応じる皆さんの熱心な質問があったからである。柔らかく、楽しく、しかしちょっぴり厳しい、幸せな午前の時が流れた。
 私が担当する研修日程を終えて帰路に着くことになり、午後のプログラムの特別講演、芥川賞作家村田喜代子さんの『吃音礼讃』を聞かずに帰るのが心残りであった。村田さんとご挨拶だけできたが、村田さんは、第一印象で逞しく、柔らかで、優しい人のように思えた。私も村田さんの本を読んでみたいと思った。
 不安。興奮。感動。緊張。喜び。私の心が、とても忙しく動いた2泊3日であった。生涯忘れない3日間になった。
 次の週、伊藤さんと溝口さんからの暖かいお手紙と皆さんからのアンケートが届いた。私はそれを何度も読んで、勇気と知恵をいただいた。3日間の出来事を私の心の箱にきちんと入れて、ときどき「元気グッズ」として出してみたい。
 ありがとう。お元気で。またどこかで、お会いできますように。(「スタタリング・ナウ」1999年12月 NO.64)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/02/13

論理療法と吃音〜出会うべくして出会った論理療法

 論理療法との出会いは、かなり以前に遡ります。初めは、國分康孝さんの本でした。これほど真剣に読んだ本はなかったと思えるほど、メモをとりながら読みました。そして、國分さんから紹介された、筑波大学の石隈利紀さんが講師として来てくださった吃音ショートコースで花咲いた感じがします。石隈さんとの対談は、本当に楽しくおもしろく、僕はこれまでたくさんの人と対談をしていますが、あんなに弾んだ対談は後にも先にもありません。石隈さんとは、その後もお付き合いは続き、「論理療法上級編」のワークショップ、「親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会」には、2度も講師として来ていただいています。
 研修会や相談会で出される質問や相談内容に答えるとき、僕は、よく「できるだけたくさんの選択肢を持とう」と言います。それも、奇想天外のものも含めて。論理療法を、選択肢療法と名づけたのが石隈さんです。僕の原点ともいえる考え方なのです。
 「スタタリング・ナウ」1999年12月 NO.64の巻頭言を紹介します。

  
選択肢療法
          日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 アルバート・エリスの論理療法に初めて出会ったのは、『論理療法』(國分康孝他訳、川島書店、1981年)を読んだときであった。私と同じように考える人がいるのだと、こう説明すればいいのかと、味方ができたようで、とてもうれしかったのを覚えている。
 1975年、私は「吃音はどう治すべきかではなく、どう生きるかの問題だ」として、「どもりを治す努力の否定」という問題提起をもって全国吃音巡回相談と吃音に悩む人の生活実態の調査の旅に出た。35都道府県38会場での相談会と大勢のどもる人への聞き取り調査の旅の中で、論理療法に通じる考え方が養われたのだと思われる。
 「吃音であれば多くの人が悩んでいるはずだ」
 この思い込みが、推測であり、事実ではなかったことが分かったことは、この旅の最大の収穫だった。吃音の状態の軽い重いが、悩みの浅さ深さには直接結びつかないことを大勢の人の声として聞いたことも、私の目を大きく開かせてくれた。
 吃音の特徴として『波』現象がある。ひどくどもるときとあまりどもらない時があるのだ。相談会と平行して行った吃音の悩みの調査の中で、吃音が重いときが必ずしも悩みが深いときではなく、吃音が自分でひどいと思っていても、友達に恵まれ、何かに熱中していたときは吃音にあまり悩まなかったこと。反対に、周りの人がほとんど気づかない状態の時でも、楽しくないことや不安が続いていた時は吃音の悩みが深かったということを多くの人が語った。
 全国吃音巡回相談会の中で、私の中に論理療法的なものが育っていたために、書物で論理療法と出会ったときに仲間と出会えたと直感したのだろう。私がそのように考え実践してきたことが、果たして論理療法と本当に通じる、つながるものなのか、検討したいと思っていた。だから吃音ショートコースの最終日の石隈利紀さんとの『吃音と論理療法』の対談は願ってもない機会だった。
 この対談をどう展開するか。講義と演習の中からもっと知りたいことを参加者に代わって石隈さんに質問していく形にするか。初歩的な疑問から尋ねていくか。いくつかの切り口は考えられたが、決められないままに対談の時間がきてしまった。朝食をとりながら、これまで私の生きてきたこと、実践を石隈利紀さんに論理療法で実証していただこう、ふとそう思って、何の準備も打ち合わせもなく、対談が始まったのだった。
 参加者はもちろん、対談の当の本人たちも全く予想もしていなかったような話し合いが進んでいく。楽しく弾み、次から次へと話題が飛んでいき、整理されていく。笑い声が常に起こった。私は数多くの対談を経験しているが、こんなに楽しく弾み、正直に自分を出せ、自分自身が楽しんだ対談はこれまでに経験がない。
 対談をしていて当の本人がこんなに笑ったのは初めてだ。どもりの事でこんなに笑えるとは。とにかくおもしろかった。何人もの参加者がそう言って下さった。楽しい笑いの中でも論理療法の神髄のようなものは石隈利紀さんが引き出し、整理して下さり、あっという間に2時間がすぎた。時間が許すならこのままずっと話していたいと思った。
 これまで忌み嫌ってきたどもりについての対談が、参加者の聞き手にとっておもしろく、楽しいとは、笑いが常に起こるとは、論理療法が私たちのグループに根づいてきたことの証しかもしれない。
 私は、どもりは治すべきだという主張に、上手につき合うことを提起した。そして、どもる人にこの主張を押しつけるのでなく、こっちの道もあるのだよとひとつの選択肢を増やしたにすぎないと自覚し、それを書いたり言ったりしてきた。選択肢は、私の大切なキーワードだった。
 石隈さんは、論理療法は選択肢療法でもあると言われた。これでますます論理療法は身近になり、親しめるものとなった。
 さらに、もうひとりの講師の芥川賞作家の村田喜代子さんが、講演で「どもるのはどもらせる相手が悪い」という、これまでどもる人が考えもしなかった視点で吃音にっいて話して下さった。愉快だった。吃音ショートコースは楽しく、深まり、たくさんの出会いをもたらせて終わった。(「スタタリング・ナウ」1999年12月 NO.64)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/02/12

第10回吃音親子サマーキャンプの報告

 昨日は、第10回吃音親子サマーキャンプの1日目を紹介しました。今日は、そのつづき、2日目、最終日の様子です。このとき、初参加で「3日間では短すぎる。来年は1週間にしてほしい」と真剣に頼んでいたK君、大人になってからはスタッフとして参加してくれていました。仕事の関係で、会場に入るのが深夜になることが何度もありました。なつかしく思い出します。

吃音親子サマーキャンプ 報告
     豊中市立庄内小学校 通級指導教室 松本進

《2日目》
劇の練習が始まった
 今回の劇は「ライオンと魔女」。C・S・ルイス(イギリス)が書いた「ナルニア国ものがたり」(全9巻)の第1巻である。このキャンプのために竹内敏晴さんが書き下ろして下さったものだ。
 子どもたちを指導するスタッフが、事前に合宿で竹内さんのレッスンに参加し、この「ライオンと魔女」を竹内さんの演出で直接指導を受けている。大阪のどもる仲間だけでなく、遠く山口県や千葉県のことばの教室の先生やスピーチセラピストが事前のレッスンに参加している。その熱意とエネルギーには、ただただ頭が下がる。シナリオが、だんだんと劇になっていくのは、さすがにプロの演出家だ。私たち大人がまず十分に楽しんだ。
 1日目には見本を見せるのが恒例になっている。練習不足ながらも、キャンプ地に着いてから夕食後の稽古が効いたのかまずまずの出来で、子どもたちも楽しんでくれたようだ。見本を見てあの役をしたい、あの役は嫌だなどと考えていたようだ。
 劇の練習は、好きな子とそうでない子がいる。
 積極的にやりたい役を選ぶ子と、できるだけセリフの少ない役を選ぼうとする子がいる。しかしいったん練習が始まると、スタッフの勢いにも押されて、みんな熱心にやる。中には休み時間もセリフを覚えようと努力している子もいる。この練習はかなり厳しく、泣きべそをかいたり、喜んだり、思わず拍手が出たり、劇のシーンごとにグループが組まれて練習に励む。この練習が実はこのキャンプのメインかもしれない。

ウォークラリー
 2日目の午後は、少年自然の家のすぐ後ろにある荒神山を縦断するウォークラリー。生活グループごとに、時間差をつけて出発する。急な上り下りの多い難コースだった。幼児も何人かいたが、スタッフに助けられながら全員完歩。自然の家からは見えない琵琶湖が、山の上からはきれいに見えた。

親の学習会 担当 伊藤伸二さん
 ウォークラリーの時間帯と平行して行われた。論理療法が中心であった。論理療法とは、あるできごと(A)が悩み(C)を生じさせるのではなく、そのできごと(A)をどう受け取るか、その受け止め方(B、ビリーフ)が悩み(C)を作る、という考え方である。その受け止め方の誤りには、事実に反する・不当な過度の一般化・過剰な反応・絶対論的思考などの非論理的思考がある。まず、親のもちやすい吃音に関して話し合い、次のことが出された。
◇(どもる子どもには)友だちがいないといけない
◇どもる子は、強く、明るく、たくましく生きるべきだ
◇当てられたら答えなければならない
◇あいさつくらいはできなくてはならない
◇人は常に努力すべきである
◇どもる子は、困っているにちがいない
◇どもっていると、自分を発揮できない
◇どもることは恥ずかしいことだ
 この後、親ひとりずつから悩みを聞き、その中に潜む非論理的思考(イラショナル・ビリーフ)を伊藤さんが指摘していった。なかでも論議されたのは、「教師の仕事に集中しなければならない時、子どもとちゃんとつきあえる時間がなかった。その時の愛情不足で、吃音が進んでしまったのではないか?」という親の悩みが出されたときだ。それに対して「母親は愛情を持って、子どもとの時間を常に優先しなければならない」という考え方はイラショナル・ビリーフではないか、という指摘があった。愛情を持って子どもに接するにこしたことはない。しかし、子どもと長時間つきあうことだけが愛情ではないし、家計を支えるために、また仕事に集中しなければならないとき、というのはある。たとえそうでも、子どもは成長するし、いつか理解してくれるものだなどと話し合い、また、多くの親が自分の体験を話した。

《3日目》
最後の練習と上演
 子どもたちが劇の練習をしている間、親たちも、伊藤伸二さんによる「からだとことばのレッスン」を行っていた。そこでは劇上演の前座となる、詩の朗読の特訓が行われていた。出し物は、谷川俊太郎作「生きる」と日本吃音臨床研究会メンバー合作の「どもる」。
 特訓の成果は素晴らしかった。みんな堂々と、よく通る声を出していた。我が子たちを前にして、まず大人が一生懸命な姿を見せてくれたのはよかった。
 次は子どもたちの番である。自分の出番が近づくと緊張し、どもっても懸命に演じる。途中つまってことばがなかなか出てこなくても、共演者も観客もじっと待ってくれる。そして一つの場面をやり終えたときには、観客の拍手と演じた子どもたちの満足がある。参加3回目のある親は、「1回目のときは子どもたちの吃音に目がいっていたが、2、3回目は吃音が気にならなくなり、劇そのものが楽しめるようになった」と感想を述べていた。
 こうして、暑い3日間が過ぎた。
 親の感想として、
◇子どものどもりについて悩みの整理がついていなかったが、ここで一つの方向を見いだすことができた。
◇こういう子どもを持っていることが「つらい」と思ったこともあったけど、話し合ったり劇を見たりして、この子どもで良かったと本当に思えるようになった。
◇「楽しくて、どもっても大丈夫、サマーキャンプ」という印象だ。など

 最後に、子どもの感想として、K君(小6)から直接言われたことを書いておこう。
 「お願いですから、3日間は短すぎる。来年は是非、1週間にして下さい。」
「スタタリング・ナウ」NO.62(1999年10月)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/02/04

吃音と論理療法 5

 2022年も残り2時間半となりました。
 今年は、親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会も、吃音親子サマーキャンプも、新・吃音ショートコースも、対面で行うことができました。直の出会いを大切にしてきた僕たちにとって、お互いに顔を見て、対話ができたことは、本当にうれしいことでした。
 このブログも、なんとか1年続けることができました。このような発信の場があることはありがたいことです。「読んでますよ」と連絡をいただくと、励みになります。読んでくださっている人の存在を意識しながら、来年もぼちぼち続けていきます。
 今年最後のブログは、論理療法を日常生活の中で活かした2人の仲間の体験の紹介です。二人の体験を読んで、僕たちが学んできた論理療法をこのように生活に活かしていることがよく分かります。とてもうれしいことです。今年の最後を締めくくるにふさわしい、どもる人の体験の紹介になったと思います。今後も、どもる人の体験、生の声を届けていきます。どうぞ、おつき合いください。2022年一年間ありがとうございました。
 みなさん、良いお年をお迎えください。

初めての発表
                   東野晃之(団体職員・42歳)
 定例の理事会で初めて発表することになった。
 財団法人の団体である私の職場では、予算や決算など運営上の案件は理事会で定期的に審議され、承認を得ることになっている。この会議、市長が議長をつとめ、市の幹部職員や商工、労働団体の代表などが理事として出席するため、かしこまった、固い雰囲気で進められる。私はこれまでは発表の機会がなく、事務局の一員として出席し、上司が案件を説明する様子を見ていた。理事会は、実際は形式的な審議内容になるのだが、それだけに滞りなく進んで当たり前といった雰囲気があり、会議中は独特の緊張感が漂っていた。
 私は会議の日が近づくにつれて「どもらず、上手く発表できるだろうか」と不安な気持ちが大きくなっていき、次第に会議で人前に立つことへの恐れを感じるようになっていた。そこで、大阪吃音教室で学んでいた論理療法でこの不安や恐れの気持ちを考えてみることにした。まず、会議での発表で陥るかも知れない最悪の事態を想像してみた。

☆緊張してひどくどもり、ことばが途切れて不自然な発表になる。
☆緊張して声が上ずったり、頭の中が真っ白になって何を言っているのかわからなくなる。
☆最初の声が出なくて、アノー、エーと何度も繰り返して話す内容がわからない。
☆最も苦手なア行で詰まり、声が出てこなくて立ち往生してしまう

 次にこのような事態になった時、心の中で私が思い描く文章記述(考え方)をノートに書き出していった。

☆市長や市の幹部、上司の前でどもって発表することはみっともないことだ。第一職員としての私の評価を下げるに違いない。
☆もしどもって立ち往生でもしたらきっと無能な職員だと思われるだろう。
☆どもる私を出席者は軽視したり、同情の目で見るだろう。
☆最悪の場合は、途中で発表を交代させられるかも知れない。それはとても耐えられない屈辱的なことだ。

 これらの考えを自分なりに論理療法の手法で吟味し、自問自答して文章にしてみた。
 『たぶん会議では、緊張しやすい私のことだからどもってことばが途切れたり、詰まったりしてしまうだろう。それは私がどもりだから仕方のないとだ。どもらないように意識しすぎると余計どもってしまい、またそれを隠そうとするあまり不自然でわかりにくい話し方をしてしまった経験がある。少しくらいどもって話の間があいてもいいではないか。肝心なことは、出席者にわかりやすく内容を説明し伝えることだ。そのためには、提出する資料とは別に発表原稿を用意しておこう。緊張してあがっても対処できるぐらいに準備をしておこう。
 どもることで自分の評価が下がったり、無能な職員と思われるだろうか。日常の仕事は人並みにやっているつもりだ。今回の発表でどもったからといって今までの努力が帳消しになる道理はない。またこの事業に関しては、年に2回程度会議に出席する役員より私の方が遙かに熟知している。直接業務にあたる私は、上司より現状について把握しているつもりである。本来、この会議に私はなくてはならない人間なのだ。もっとリラックスして会議に臨んでみよう。
 もし、どもって立ち往生してしまったら、出席者の中には私を軽視したり、同情の目で見る人がいるかも知れない。しかし、それはその人が思うことだから、どうにもならないことだ。だからといって私自身がその場で悲観的になったり、人の同情を引くような態度をするのはよそう。どもっても堂々と前を向いて発表しよう』

 大阪吃音教室で学んだ論理療法は、理事会で初めて発表する私の不安や恐れを随分小さくした。不安や恐れの気持ちを生じさせた心の中の文章記述、つまり非論理的な考えを吟味し、粉砕して考え方を整理したことは、精神的圧迫を軽減していった。また最悪の事態を想像してみたことは、心の準備だけでなく、発表に備えるための原稿づくりなど現実的な取り組みにつながった。理事会では、あまりつっかえることなく、無事発表を終えることができた。しかし、仮にひどくどもって立ち往生でもしていたら、どんなになっていただろうと考えてみたりもした。が、それは推量の世界であって非論理的思考の領域である。推量や思い込みはやめて、実際にそんな事態になった時、実感し事実を確かめてみたい。推量や予期不安などによる取り越し苦労は、もうごめんだなと、この経験で思った。(当時・32歳)


 学会発表
                  斎 洋之(製薬会社研究員・40歳)
 昨年、私に学会発表の機会がめぐってきた。発表形式には、口頭発表とポスター発表の二つがある。同僚のほとんどが口頭発表していたので、私も当然そのつもりでいた。上司の主任研究員から、大丈夫かと打診があったが、大丈夫だと答えていた。その後部長と主任研究員から呼び出された。
 「本当に大丈夫か?」
 「大丈夫だと思います」
 「絶対にうまくやれると思うか」
 「100%とは言えませんが、やれると思います」
 「ポスター発表の方がいいんじゃないか」
 「口頭発表の方が聴衆が多く、研究の成果をより多くの人に知ってもらえます」
 部長は私の発表を口頭からポスター発表にどうしても変更させたいらしい。だんだん気分が悪くなってきた。どうして私だけこのようなことを言われなければならないのか。実力的にも、経験もまだ不十分だと思われる私の後輩も、口頭発表している。部長の心配は吃音にあることは明らかだ。
 しかし、私は大学時代に学会発表をする機会があり、その時には練習をかなり積み、なんとか発表した経験があった。だから今回も、人一倍練習を積めばできる自信があり、口頭発表にこだわった。
 「口頭発表だと所長の前でも練習しないといけないし、大変だぞ」
 「みんなもしていることですから、やります」
 「発表の時どもってしまったらどうするんだ?」
 「多少どもることはあっても、発表に支障をきたすようなことはありません」
 「学会発表は自分だけのものではなく、会社を代表しているものだからな」
 部長と主任研究員は、私が何を言っても、口頭発表はさせたくないようであった。しかし、ポスター発表にしろと、命令することに後ろめたさを感じるのか、直接には言わない。あくまでも私の口からポスター発表に変えると言わせたいのだ。
 そう思うとよけいに、悔しさと腹立たしさが胸一杯に広がった。しかし、今決断しなければならない。だんだんことばに窮し始めた時、日頃学んで来た《論理療法》が思い浮かんだ。何故、こうまで悔しく腹立たしいのか。自分の考えを探った。
 『発表するからには口頭で発表するべきで、ポスター発表はランクが一つ下だ』
 『どもりを口実に止めさせようとするのは、絶対許されないことだ』
 悔しく、腹立たしいのはこのように考え、こだわっているからではないかなどと気づいた。
 『このまま頑張って、口頭発表を主張することはできる。しかし、そこまで主張すると、今後の上司との人間関係が難しくなるだろう。また、頑張って主張して、実際学会発表で失敗したら、取り返しのつかないことになるかもしれない。例えポスター発表でも、発表することに違いないのだから、今回は、ポスター発表にしておこう。そして、この次には堂々と口頭発表をしてやろう』
 このように考えたら、少し気持ちが落ち着いてきた。そして冷静に、部長にこう言った。
 「ポスター発表でやれということでしたら、今回はポスター発表にします」
 このように決断しても、気持ちがすっきりはしない。しばらくしてあった大阪吃音教室で、事情を話し、まだ悔しさや腹立たしさの気持ちが残っていると言った。皆は私の、腹立たしさや悔しい気持ちを聞いてくれ、分かってくれた。その上で、多くの人がかかわってくれ、話し合いが持たれた。
◎どもってでも発表したいと、ひるむことなく再度主張したのはすごいと思う。
◎今後のことを考え、今回は上司の言う通りにしようと決断したのはあなた自身だ。
 このような意見を聞く中で、だんだんと私の気持ちが落ち着いていくのを感じた。そして、次のようにさらに自分の考えを整理した。

 『私は、無理にでも主張を押し通すこともできたし、その主張を引くこともできた。その上で、今回これ以上主張しないことを自分で選んだんだから、あれこれ悩むのは止めよう。学会発表をポスターでしたからといって、自分の研究が葬りさられるわけでも、研究者として、だめだということでもない。まして、ポスター発表はできるのだ。口頭発表ができないことを嘆くより、素晴らしいポスター発表ができるよう全力をあげよう』

 こう考えることで、悔しさや怒りの感情は消えていった。こう私が考え方を変えることができたのは、《論理療法》をかなりしっかりと大阪吃音教室で学んでいたからである。
 《論理療法》を知らずに、この場面に遭遇していたら、悪い結果になっていたものと思われる。また、自分で考えたことを大阪吃音教室の仲間に話すことで、さらに確信をもつことができた。仲間の力も大きい。(当時36歳)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/12/31

吃音と論理療法 4

 「吃音と論理療法」、これで最後です。論理療法に出会ったとき、吃音にぴったりだと思いました。それまで考えてきたことが、きれいに説明がつくことに驚き、そしてうれしくなりました。論理療法は、吃音だけではなく、どもる人の日常生活でいろいろ役立っているようです。
具体的な例は、また後で紹介します。

ラショナル・ビリーフと人生哲学
 では何をもってラショナル・ビリーフというのか。原理的には次のことである。
  1)事実に基づくビリーフ
  2)論理的必然性のあるビリーフ
 実際には日常生活で我々に幸福感(C)をもたらしてくれるビリーフのことである。たとえ「かっこよい」「立派な」考えであっても日常生活が楽しくなければ、それは多分、ビリーフのどこかにイラショナルな要素があるのである。
 言い換えれば、論理療法には歯をくいしばって禁欲的に生きるのではなく、今その時を楽しめという発想がある。目標達成主義(結果主義、完全主義)ではなく、プロセス主義である。しかし、だからと言って、論理療法は刹那主義ではない。目先の快楽追究の結果将来苦痛を招くと思われるときには、その目先の快楽を断念するほうが結局は快楽を得ることができると考える。つまり、きわめて実用主義的な発想がある。
 論理療法のもつ人生哲学の第二の特徴は、この世の中で絶対善とか絶対悪はないという考えである。「ねばならない」「すべきである」「すべきでない」に縛られない人生哲学である。したがって「罪障感」も「恥ずかしさ」も「不安」も「落ち込み」も論理療法にはない。特定の「ねばならぬ」を金科玉条のように頑なに持ち続けるから「罪障感」「恥」「不安」「落ち込み」に悩むというのである。どうすれば、とらわれのない状態が得られるのか。それは各自がもっているイラショナル・ビリーフに気づき、それを粉砕することである。

イラショナル・ビリーフの粉砕
 吃音についてのひとつの例を論理療法的に考えてみよう。新入社員が、1週間後に職場の朝会で3分間スピーチをしなければならなくなった。彼の不安、恐怖は次のようなものであった。

 「どもってしまうかもしれない。もしどもったら、それはとても醜い、ひどいことだ。また、同僚全てに自分のどもりがばれてしまう。ああ、なんて恐ろしいことだろう。こんなことはあってはならないことだ。絶対にどもってはならない」
 「どもっている自分の姿を見て、みんなはどう思うだろう。びっくりし、目をそむけ私に憐れみと同情を感じるだろう」
 「その日から、腫れ物に触るかのように私に接するだろう。そして心の中でに『あんなひどくどもってどんなにか苦しんでいるんだろう。かわいそうに』、また別の人は『まともな仕事はとてもできないだろう』と考えて、私を無能な人間のようにみなすだろう。課長などは、私をダメ社員ときめつけ昇進など、もはや望むべくもないだろう」

 こう考えれば、眠れなくなり、やがて食事も満足にのどを通らなくなるだろう。
 論理療法は、上のような文章記述を変えるよう自己に迫れという。不安や憂鬱や絶望感や恥の意識ではなくて、単なる不快や失望だけを感じる状態に変えるよう自分を説得しようという。そしてこのことは、可能だというのである。
 では、上の例で、彼はどういう具合に考え方を変えていくことができるか。

 「私は朝会でどもるかもしれないが、私はどもりなんだ。しかし、どもることはそんなに大変なことだろうか。私がどもることで、誰かが傷ついたり、不利益を被ったりするだろうか。みんなちょっと驚いて、私も少しイヤな気になるだけだ。ましてや、その日一日の仕事に何らさしさわりが生ずるはずもない。朝会のスピーチは儀式にすぎないし、しいて意味をみつけるとすれば、我々社員の自己主張訓練だ。私にとって絶好の自己主張訓練の場ということだ。完壁にやれなくても、これで少しでも度胸がつくなら私にとっては大変なプラスになる。自分のどもりがばれるが、とっくに知られているかもしれない。それにこの際ばれてしまった方が、いつばれるかとビクビクしているより、気が楽ではないのか」
 「どもることをどう思うかは私の態度によって変わるだろう。私自身が『大変な姿を見られてしまった』と恥辱にまみれていれば、周囲も私自身が評価したように評価して憐れみや同情を感じるだけだろう。しかし、『これが私だ。どもるけど仕事はちゃんとこなしている。誰にも迷惑はかけていない』と、平然としていれば、周囲も『なんだ、あの人はどもるのか』とあっさり受け入れるだろう。そもそも他人は、人のことを深刻に受けとめるほど他人に関心を持たないものだろう。むしろ私の欠点(どもり)を知って安心感、親近感を覚える人もいるかもしれない。もしそうなら、私の吃音は人間関係をよりよいものにするために一役買っていることになる」
 「私がどもることは悪いことだろうか。どもりになったのは私の責任ではないし、誰の責任でもない。どもるからといって自分という人間そのものの価値が低いなどとは断じて言えない。むしろ弱い立場の人に対するやさしさは人一倍持っている。これはすばらしいことではないのか」
 「当日は堂々とどもってやろう。どもって落ち込んでいれば、これからどもるたびに落ち込んでしまうことになる。いつも落ち込んでばかりいられない」

 このように、まず、自分が考えた最悪の自分、つまりひどくどもっている状態を想像し、そのような状態になったとしても大丈夫だと考える。思い浮かんだ一つ一つのイラショナルな考え方(文章記述)に反撃を加えていくと、やがて実体のない不安感や絶望感は消えていき、ずっと落ち着いた気分でその日を迎えることができるだろう。
 反撃を加えていく過程をよく観察してみると、自分の信念体系(ナンセンスな考え―Bの段階)を変化させて、その結果として感情が変化した(Cの段階)ことが分かるはずである。間近に迫った不快なできごと(A)に関して、新たな悪くない感情が生じる(C)原因となったのは新たな考え方(B)に他ならないことが理解できるだろう。
 論理療法を学ぶとは、考えることを学ぶ、あるいは習慣が身につくということである。
(吃音と上手につきあう吃音講座テキストより)

文献(川島書店発刊)
『論理療法』 A.エリス他著 國分康孝他訳
『論理療法に学ぶ』 日本学生相談学会編
『どんなことがあっても自分をみじめにしないために 論理療法のすすめ』國分康孝、石隈利紀、國分久子訳


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/12/30

吃音と論理療法 3

 昨日は、今年最後の公式行事で、愛知県名古屋市に行きました。昨年、岩倉市のことばの教室の奥村寿英さんの紹介で呼んでいただいたもので、昨年に続いて、愛知県のことばの教室の教員研修、「愛知県版はじめのいっぽ」の講師です。タイトルは、「どもる子どもが幸せに生きるために〜ことばの教室でできること」です。朝早く家を出て、新幹線で名古屋に向かいました。土曜日の記録的な大雪で、名古屋市内にはまだ雪が残っていました。会場は高蔵小学校の図書室でした。
 9時半から12時過ぎまで、休憩なしのノンストップで話しました。皆さん、真剣に熱心に聞いてくださいました。終わってから、短い時間でしたが、具体的な質問も受けました。今年最後の研修会、気持ちよく対面で終えることができました。
 今日は、吃音と論理療法のつづきです。大阪吃音教室の講座で僕がつくった資料を紹介します。いくつかの論理療法の本をかなり読み込み、作ったものです。

《吃音とつきあう吃音講座》吃音と論理療法 大阪吃音教室資料

a)もしかしたら、どもって失敗し、立往生しているかもしれない
b)そのように人前でどもって立往生することは実に恐ろしいことだ

 吃音問題の中心は、どもることを予期し、不安を持つことだといっていい。不安は、自分の心の中でa)、b)のように思いをめぐらす(心の中で文を語る)ことによって起こると、論理療法では説明する。人がa)の段階に思いをとどめておき、b)の代わりにb')の文を語れば事態は違ってくる。

b')どもって失敗し、立往生することは決して立派なことではないが、だからといってこの世の終わりがくるわけではなく、別に恐ろしいことが起こるわけではない。恐ろしいことだと考える必然性はない。

 このような文を自らに語れば、不安は減少するであろう。また、a)の文だけでは多少の不安は感じても、その場を回避しようとまでは考えない。しかし、b)のように考えてしまうと不安は大きくなり、その場に出るのを避けてしまうであろう。
 不安を解消し、回避行動を起こさないようにするためにb)の文をb')の文に変更することが大切なことである。
 このように人が何かに不安を持ったり、動揺したりするときには自らにその不安を起こさせるような文を心の中で語っているからである。したがって心の中で語る文、つまり考え方を変化させれば、感情の持ち方や行動の仕方も大きく変化する。また、自らが語った文によって不安が生じたとしても、それにめげずその場に出て、どもっても発言をすれば「たとえどもって立往生したとしても別に恐ろしいことが起こったわけではない」ことを体験的に理解することができる。このようにあえて行動を起こすことによって不安が解消される。

論理療法の特徴
 論理療法は、1955年頃からアルバート・エリスによって提唱された心理療法のひとつである。
他の心理療法と比べて次のような特徴がある。

1)折衷主義
 精神分析、行動療法、意味論、実存主義、論理実証主義、来談者中心療法、ゲシュタルト療法、サイコドラマなど多種な理論と方法が集大成され、しかも一貫性のある理論に統合されている。
2)自己分析の色彩が強い
 論理療法は、精神分析や交流分析に劣らず自己分析的である。エリスはこれを自己洗脳といっている。また、カウンセラーの援助がなくとも、独力で自己分析が可能な療法でもある。
3)理性に訴える
 これまでの心理療法の多くは、感情が行動の源泉であるというが、論理療法は、感情は思考の産物だと考える。思考を変えれば感情が変わる、感情が変われば行動も変わると考える。
 「頭では分かるが、どうしても行動できない、やはりどもるのが嫌だ、怖い」と私たちは言う。これは論理療法では「まだ本当には頭で分かっていない。分かり方が不十分だ」となる。

論理療法の骨子
 くよくよ思いわずらったり、思い切った行動ができないと悩んでいる人は、その考え方が非論理的(イラショナル)だからであると、論理療法では考える。
 非論理的とはどんなことか。「事実に基づかない考え方」、および「論理的必然性を欠いた考え方」のことである。自分らしく生きられるとは、非論理的な考え方が論理的な考え方に変わることである。考え方が変わるとは、心の中の文章記述が変わることなのである。したがって論理療法とは、心の中のイラショナルな文章記述をラショナルな文章記述に変える療法だということになる。

 「僕のように重いどもりは、女性から好かれるはずがない。それに大学を出てもまともな会社になど就職できず、人並の人生さえ送れない」

 こう思っている人がいるとする。上の文章はラショナル(論理的)であると言えるか。いくつかの非論理的な考え方(イラショナル・ビリーフ)がある。
 まず、何を根拠に「重いどもり」と考えているのか。吃音検査法が信頼できないにしてもこれらを受けた上でのものではないだろう。「重い」であろうと推論しているだけである。推論は事実ではない。推論と事実を彼は混同している。
 また、「重いどもりは女牲から好かれるはずがない」も事実とは言えず、思い込みに過ぎない。聞き手から、すごくどもると思われている吃音者が女性にもてる例は、仲間の中でも少なくない。「好かれるはずがない」という思い込んでしまうと、異性を引きつける人としての魅力を身につける生き方をしようという努力も、女性とつきあうというよりも人間関係をよりよいものにするためのコミュニケーション能力を向上するための努力もしようとしていないだろう。
 さらに、「人並の人生が送れない」という文章記述には論理的必然性がない。自分の思い込みで作った自分の文章記述をあたかも全ての人に共通する必然であるかのように信じこんでいる。
 大手の企業の就職試験にいくつか落ちたとしても、「だから人並の人生が送れない」ということにはならない。「かなりの数の就職試験に落ちた、だから自分の本当にやりたい道は何か、さらに探してみよう」、「だから自分の個性、能力を発揮できる小さい会社に就職しよう」、「だから田舎に帰って親と一緒に住み、親の農業を手伝い両親を安心させよう」、など、いくらでも文章は作れるはずである。たくさんある文章の中からたまたま任意にひとつを選んで将来を悲観しているに過ぎない。
 したがって論理療法ではこう考える。
 できごとそのもの(例:どもる)が悩み(感情)を生むのではなく(人は普通そう思っているが)、できごとをどう受けとるか、その受けとり方(考え方、文章記述)によって悩みは決まるのである。論理療法ではこれをABC理論といっている。

ABC理論
 A(Activating event:できごと)
 B(Belief system:考え方、受けとり方、信条、文章記述)
 C(Consequence:結果の意、感情、悩み)

 AがCを生むのでなく、BがCを生むのである。Aに変化はなくともBが変わればCも変わるのである。これが論理療法の骨子である。
 ところで、今は、そのあとにDとEが付け加えられている。DとはDispute(反論)である。イラショナルな考え方(B)を粉砕する段階のことである。イラショナル・ビリーフをラショナル・ビリーフに修正する段階である。それには、自分自身を逆洗脳(人に洗脳されたイラショナル・ビリーフを解除すること)である。それが成功すると行動が変容する。これがEである。EはEffect(効果)のあらわれる段階である。
 したがってABCDE理論ともいう。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/12/27

吃音と論理療法 2

 1999年秋の吃音ショートコースのテーマは『論理療法』でした。講師は、筑波大学の石隈利紀さん。石隈さんとは、その後、「親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会」にも講師として2度来ていただくなど、長くお付き合いが続いています。
 まず、大阪吃音教室講座資料のまえがきとして書いた、論理療法の取り組みの変遷を紹介します。

 
論理療法 取り組みの変遷  
                          伊藤伸二

 『論理療法』(川島書店1981年発行)と出会う前に、論理療法のべースになることを体験した。それは、私がまだ大阪教育大学(言語障害児教育)の教員をしていた頃のことだ。
 「吃音はどう治すかではなく、どう生きるかにつきる」として、『吃音を治す努力の否定』という問題提起をもって、全国吃音巡回相談の旅に出た。自分自身の体験、セルフヘルプグループの体験、大学の研究室の中で、相談や実践の中で考え得たひとつの考えが、専門機関も相談機関もない全国の各地で一人で悩んでいるどもる人々や、どもる子どもの親に、果たして受け入れられるだろうか。その検証の旅でもあった。(1975年)
 北海道・帯広から九州・長崎まで35都道府県38会場での相談会は、6か月かかり、成人吃音者432名、ことばの教室の教師87名、吃音児の両親72名の参加者と、吃音についてじっくりと語り合った。その旅で得た最大の収穫は「どもりながらも、明るく、健康に自分なりのよりよい人生を送っている」多くの吃音者との出会いだった。
 自分自身が吃音に深く悩んだ経験、セルフヘルプグループに集まる吃音に悩む人々、大学の研究室では、吃音に悩む人としか出会ってこなかった。どもる人は悩んでいるはずだ、困っているはずだとの先入観をもってしまった。論理療法でいう非論理的思考に陥っていたのだった。その先入観を、非論理的思考を、見事に打ち砕いてくれたのが、この全国吃音巡回相談会だった。
 もちろん吃音に悩む人々の相談をたくさん受けたが、それと同じくらいに多くの、明るく健康に生きる吃音者にたくさん出会えた。どもる人全てが悩んでいるわけではなく、吃音治療や指導を受けた経験がなく、また受けようともせずに自分なりの人生を歩んでいる人がいることが初めて分かったのである。どもる人がもつ吃音についての意識は幅広く、吃音がその人に及ぼしている影響も様々だったのだ。吃音のために自分の行動や人生が左右されずに生きている人がいる一方で、どもることを嘆き、自分の殻に閉じこもり、不本意な生活を送る人がいる。これは吃音をその人がどう受けとめているかの違いになる。
 ウェンデル・ジョンソンは言語関係図で、吃音者自身の吃音の受けとめ方の大切さについて言うが、書物で説明を読んだだけでは、その考えは自分のものとならなかった。日本全国各地で直接間接に多くの人々と出会って、初めて理解できたことなのである。その後、論理療法と出会い、言語関係図と私が体験したことが結びついた。そして、日本音声言語医学会の、吃音症状の把握を重視した吃音検査法を批判し、独自の評価法を提唱した。(音声言語医学 VOL25No.3 1984年)

 「人間関係非開放度」「日常生活での回避度」「吃音のとらわれ度」の3つの要素からなっているこの評価法の「吃音のとらわれ度」が、論理療法でいう非論理的思考であり、吃音者の持ちがちな自分を縛っている考えを探ろうとした。
 1986年、京都で開いた第1回吃音問題研究国際大会での私の基調提案は、世界各国に受け入れられたが、どう実践すればいいのかと世界各国の代表から質問を受けた。そこで大阪吃音教室で、「吃音とつきあう吃音講座」が始まったのである。そのプログラムの中心をなしたのが論理療法だった。47回の吃音教室のためのテキストが作られた。論理療法の部分を当時のテキストのまま紹介する。10年前に書いたもので訂正したい部分もあるが、論理療法と出会った喜びと勢いがある。今としては適切でない表現に気づくが、そのまま紹介した。その後のことは、今秋の吃音ショートコースで考えたいし、新しく出版された『論理療法と理論と実際』に譲りたい。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/12/25

論理療法と吃音

 大阪吃音教室の講座の定番になっているのは、論理療法、交流分析、アサーション、認知行動療法、アドラー心理学、内観法、森田療法など、たくさんありますが、その中でも、今回紹介する論理療法は、本当に吃音との相性がいいです。吃音のためにあるのではないかと思うくらいです。
 吃音ショートコースで、直接、講義を受けたのは、1999年の筑波大学の石隈利紀さんからですが、論理療法的な考え方とは、ずいぶん前に出会っています。
 今日、紹介する「スタタリング・ナウ」は、1999年3月20日発行のNO.55です。まず、その巻頭言から紹介します。

  
論理療法と吃音
                    日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 論理療法は吃音のためのものかと思えるほど、吃音と相性がいい。どもる人が論理療法によって、自分を縛っている非論理思考に気づき、それを修正できれば、どもる人の悩みはかなり軽減される。生き方が楽になる。
 吃音治療の有効な方法が確立していない現在、論理療法の活用が、どもる子ども、どもる人にとって最も現実的で有効なアプローチになり得るのである。
 アルバート・エリスは論理療法を心理療法のひとつの流派として1950年頃から提唱し始めたが、言語病理学の分野で、1930年代に吃音研究の第一人者として世界的な規模で活躍したウェンデル・ジョンソンの「吃音診断起因説」「言語関係図」に論理療法の源流をみることができる。
 私たちは、言語関係図を、現代に通用する吃音へのアプローチの基本構想として重要視してきた。しかし、一般には言語関係図が十分に臨床に生かされているとは言いがたい。論理療法と結びつくことで、より注目されることを期待したい。
 ウェンデル・ジョンソンは、X軸(話しことばの特徴)、Y軸(聞き手の反応)、Z軸(話し手の反応)という3つの要素の重症度、強さを各軸の長さで表し、できあがった立方体の容積の大きさや形が、その人の吃音問題の大きさや質を表すとした。吃音の問題は、吃音症状だけにあるのではなく、聞き手と、本人が吃音についてどう考え、聞き手の反応をどう受け止めるかも大きな要素であると考えた意義は大きい。いわゆる吃音症状がたとえ重度であっても、周りがいい聞き手であり、吃音者本人が自分の吃音を受け入れていれば、吃音の問題は小さいとした。
 この言語関係図は、自身が吃音者であり、一般意味論の立場をとるジョンソンならではのものであり、論理療法に通じるものである。ジョンソンは、X軸を短縮するために、流暢にどもることを、Y軸に関しては、母親がよりよい聞き手になることを臨床の場で提唱した。ところが、Z軸については《吃音の態度テスト》を提案したが、取り組みについてはあまり言及していない。私たちは、X軸、Y軸よりも、Z軸重視の立場をとり、Z軸へのアプローチとして、アサーティブ・トレーニングや論理療法、交流分析などを取り入れた。その中で、中心的に据えたのが論理療法である。
 吃音の原因は未だに解明されず、有効な治療方法は確立されていない。幼児期の吃音の50%近くが自然に吃音症状が消失することがあっても、小学校まで持ち越した吃音が治ることは難しい。X軸への取り組みは難しく、Y軸については、一般社会の吃音についての理解のためには重要なアプローチだが、他者を変えるには限界がある。
 Z軸へのアプローチが、最も現実的で、最も効果のあるものである。日本吃音臨床研究会では、吃音は治すべきものとしてでなく、治るに越したことはない程度に考え、《吃音を治す》から《吃音とつきあう》へ転換した。上手につきあうために、論理療法が役立つのである。
 私は、他の吃音者と出会うまで、自分ひとりが吃音に悩んでいると思っていた。またどもりは必ず治るはずだと信じてきた。そして、吃音が治らなければ、自分らしくよりよく生きられないと考え、治ってからの人生を夢見た。
 ひとりで吃音に悩む人々の話を聞くと、私と同様の思い込みの世界で悩んできている。多くの吃音者が論理療法でいう、イラショナルビリーフをもってしまうのは、吃音について誤った情報が横行し、吃音者の判断を、思考を歪めているからである。私がどもる人のセルフヘルプグループを作る33年前までは、「吃音は必ず治る」との情報しかなかった。そして、治療者から「吃音を治さなければ、有意義な人生は送れない」とまで言われた。その結果、どもりは悪いもの、劣ったものと思い込んでしまったのである。現在でも、この状況にそれほど大きな変化はなく、吃音者がイラショナルビリーフをもちやすい環境は残っている。
 私たちは大勢の吃音者と出会い、これまで常識と思い込まされてきたことがいかに事実に基づいていないかを知った。どもっても悩まず、人生にマイナスの影響を受けない人の存在も知った。そして、自分を生きやすくするためには、イラショナルビリーフを粉砕しなければならないことに気づいたのである。この秋、論理療法を学ぶ。(「スタタリング・ナウ」)NO.55 1999.3.20)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/12/24
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