伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

診断起因説

吃音の豊かな世界

 2回続けて報告してきた第8回新・吃音ショートコースですが、終わった今、「吃音の豊かな世界」を味わうことができたというのが、一番の感想です。今日は、同じタイトルの巻頭言を紹介します。2013.7.22 NO.227 の巻頭言ですが、ウェンデル・ジョンソンの言語関係図やシーアンの吃音氷山説が出てきます。毎月のニュースレター「スタタリング・ナウ」の最新号で、シーアンの吃音氷山説を2号にわたって紹介し、ブログやFacebookで「新・吃音ショートコース」の報告をした今、この巻頭言を紹介することになり、不思議な思いがしています。
 
  
吃音の豊かな世界
                      日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 ―吃音は、子どもの発達のプロセスで誰もが経験する「非流暢」な話し方を「どもり」だと診断することから起こる。吃音は、どもる子どもの「口」からではなく、親の「耳」から始まる―
 これは、吃音の原因論で知られる、ウェンデル・ジョンソンの原生診断起因説だが、大脳半球優位説や遺伝など、どもる人本人に原因を求める素因説に対して、当時としては画期的なものだった。脳に原因を求められても、具体的にどう吃音に対処すればいいか分からない。左利きを右ききに矯正しないというだけのことだった。
 しかし、ジョンソンのこの説は、子どもにどう関わればいいかわからなかった親に対する、子どもへの接し方のアドバイスにつながった。「どもっているのをそのまま受け止めて聞きましょう」「ゆっくり言いなさいや、言い直しをさせてはいけません」などは、現在も通用する。ところが、この診断起因説は、「母親が吃音の原因」だとして、一時期親が責められるという弊害を生み、様々な要因がからみあう吃音を、単純に、診断されることで起こるとは言えないと、原因論としては否定されている。
 一方、ジョンソンのもうひとつの提案、吃音は吃音の症状と言われるものだけの問題ではなく、聞き手の反応や、本人の意味づけの問題でもあるとする、「言語関係図」は、現在にも通用する画期的なものだった。
 1950年代のジョンソンの診断起因説と言語関係図、1970年のジョセフ・G・シーアンの吃音氷山説。時代が流れて、世界ではこの二人の考えは古いものとして、言語病理学の大学院でも講義されなくなり、ほとんど忘れ去られていく運命にあるという。以前、「スタタリング・ナウ」で紹介した「北米の吃音治療の現状」(213号)でそれを知って、驚くと共に情けなくなった。アメリカの言語病理学が役立つものと言えるのは、言語関係図と氷山説以外にはない。あの時代に、吃音について、深く考えた二人の説が、表面的な吃音症状の「流暢性形成技法」に埋没していくのが残念だ。
 ある現象を吃音だと意味づけたことによって起こるとする診断起因説は、今私たちが学びつつある、ナラティヴ・アプローチにつながっていく。
 「誰にでもある、ある話し方の特徴を、マイナスのものと意味づけ、治さなければならないと考えるところから、その話し方の特徴に人は悩み始める」
 私は吃音の悩みをこうとらえている。私は、小学2年のときの担任教師による、不適切な対応によって「吃音は悪い、劣った、恥ずかしいもの」だとのことばを紡ぎ出し、自らのものにしてしまった。それは世間一般の支配的な考え、ドミナント・ストーリーと結びつき、強化されていった。その後に起こる様々なできごとを、このストーリーにそって物語にしていった私は、その物語によって、21歳まで苦しんだのだった。
 吃音の悩みの世界に入る原因、きっかけをこのようにとらえると、吃音への対処は明確になる。今、アメリカ言語病理学などが提唱する、吃音という話しことばの特徴を、治したり軽減したりすることではない。悩み始めた原因となった、吃音をマイナスのものとした意味づけを変え、世間一般の「治すべき、軽減すべき」のドミナント・ストーリーに対抗して、新しい、それに代わる物語、オルタナティヴ・ストーリーを紡ぎ出すことだ。
 ナラティヴ・アプローチが、やっと1990年から始まったのと比べ、子どもを実験に使うなど大きな問題があったが、ウェンデル・ジョンソンが診断起因説を1950年代に公表したことは、吃音の深い豊かな世界を物語っていると言える。
 1970年という比較的早い時期にシーアンが考えた氷山モデルも、現在、発達障害など、さまざまな分野で形を変えて注目されている。
 モノローグ(独語)から、ダイアローグ(対話)へと吃音の語りが変わるのは、セルフヘルプグループの大きな機能としてある。セルフヘルプグループの仲間である生活の発見会での、高松里さんの講演は、私たちへのメッセージでもある。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/10/30

DCモデル

 幼児吃音の臨床のために取り入れられたリッカムプログラムが、今、学童期にも入ってきそうだと聞き、僕は危機感をもっています。本来、家庭は、安心・安全な場でなければなりません。そのままの自分が受け入れられる場でなければならないはずです。自分の気持ちや思いをどもりながら話す子どもの話に耳を傾けて、その気持ちや思いを聞く場です。その安心・安全の家庭に、「どもったら言い直しをさせる」訓練を持ち込むことに、僕は絶対に反対です。
 家庭は、自分の気持ちや思いを言葉にして表現する力を育てる場でもあります。そこに「どもるか、どもらないか」は全く関係ないのです。安心して過ごせ、言いたいことを言って、それを聞いてくれる人のいる場であって欲しいと思います。どんなにどもっても聞いてもらえる経験を通して、「わたしはわたしのままでいい。わたしはひとりではない。わたしには力がある」と、僕たちが大切にしている共同体感覚をもてるようになるのです。
 「スタタリング・ナウ」2009.6.22 NO.178 より巻頭言を紹介します。

  
DCモデル
                     日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 吃音のように紀元前からの長い歴史があり、原因が解明されず、確たる治療法がない問題は、やはり歴史を繰り返していくのだろうか。
 「2〜3歳ごろの、ことばの発達途上にある子どもの、誰にでもある流暢でない話し方を、吃音だと聞き手が診断することによって吃音が始まる」
 1934〜1959年のアイオワ大学の大がかりな調査研究をもとに、ウェンデル・ジョンソンは診断起因説を出し、聞き手の態度、特に母親に対してこう提案をした。
 ・「言い直してごらん」とか、「もっとゆっくり言ってごらん」と言ってはいけません。
 ・子どもが喜んで話したくなるような聞き手になって下さい。
 ・子どものことばに寛大になって下さい。
 このアドバイスは、母親に大きな子育てのヒントなる一方で、診断起因説の底流に「意識をさせてはいけない」があるため、「沈黙の申し合わせ」に結びついた。吃音を話題にしないという弊害もあったが、長年く幼児吃音の臨床の柱となった。
 1980年代半ばから、オーストラリアのシドニー大学のリッカムキャンパスの吃音ユニットから始まったリッカム・プログラムは、単純に言ってしまえば、長年続いたジョンソンに影響された幼児吃音の臨床以前に戻ったとも言えるだろうか。
 2004年、第7回国際吃音連盟・オーストラリア大会で、言語病理学を学ぶ大学院生と議論した。オーストラリアでは、子どもがどもったら、そこで話をストップさせ、言い直しをさせるよう母親に指導すると主張した。実際に母親にも話を聞いたが、子どもがどもると、言い直しをさせていると言った。これが、リッカム・プログラムだ。
 2007年第8回国際吃音連盟・クロアチア大会で、オーストラリアの著名な言語病理学者のリッカム・プログラムのワークショップに参加し、その理論と実際を学んだが、違和感をもった。
 ジョンソンの時代の前に戻ったかのようなリッカム・プログラムだが、以前の「言い直しをさせる」とは違うという。親がモデルを示して、言い直しをさせ、どもらずに言い直しができたら、褒める。しかし、言い直してもどもった場合は、否定しないで、再度言い直しはさせない。これが、以前の「言い直しをさせる」とは違うところらしい。
 どもらずに言い直せたら褒められて、どもったら褒められないのなら、吃音を否定していることと同じではないか。子どもが吃音をマイナスのものと意識しないかと、私は質問した。言語病理学者は、臨床家や親は、吃音を否定的に考えていないから、言い直しをさせても、子どもは吃音を否定的にとらえないと答えた。
 結局は、どもる話し方をやめさせるために、どもらない話し方を幼児期から身につけるべきだという主張ではないのか。それがどうして、吃音を否定していないと言えるのか。納得がいかなかった。
 リッカム・プログラムの影響なのか、国際吃音連盟においても、早期言語介入が叫ばれるようになった。日本においても、脳に可塑性がある幼児期に、流暢性を形成させることが必要で、直接的な言語指導をすべきだと主張する人がいる。
 私自身が幼児期に、どもるたびに言い直しをさせられたら、話すことが嫌になり、「吃音は悪いもの、劣ったもの、恥ずかしいもの」という、私が学童期にもった、吃音に対するマイナスのイメージを、幼児の時代からもってしまうかもしれない。
 リッカム・プログラムの一日のワークショップを経験しただけで、詳細を知らず、臨床結果も調べないで、判断することは早計だ。しかし、私には吃音をマイナスに意識する副作用があるように思えてならない。また、効果を誇る治癒率は、自然治癒とどう違うのか検討の余地があるだろう。
 今回紹介するDCモデルは、リッカム・プログラムが言う治癒率を誇るものではないが、副作用はないだろう。「言い直しをさせるな」から「言い直しをさせなさい」と、歴史のように繰り返される幼児吃音の臨床に振り回されない、普遍的な人間学としての吃音臨床を考えていきたい。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/02/05

診断起因説 秘話

 「フランケンシュタインの誘惑」というNHK番組があります。ずいぶん前に、その番組の関係者から、ウェンデル・ジョンソンの診断起因説にまつわるモンスター研究について取材を受けました。先日、テレビ番組表を見ていて、「フランケンシュタインの誘惑」というタイトルをみつけました。再放送のようです。「母親がどもりを作る」と言われ、母親が自責の念にかられたこともありましたが、ジョンソンの「いい聞き手になりましょう」との呼びかけ自体は、子どものことばにのみ注目していた母親にとっていい提案でした。その程度にしておけばよかったのですが。
 いつか近いうちに、この番組のため受けた取材の資料などをもとに、詳細を「スタタリング・ナウ」で紹介したいと思います。
 「スタタリング・ナウ」2002.3.16 NO.91 の巻頭言を紹介します。

診断起因説秘話
                 日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 ウェンデル・ジョンソンの『診断起因説』ほど、数ある吃音学説の中で、有名なものはない。単一の原因論としては現在では否定されているものの、当時としては革命的なものであり、現在も少なからず影響を与えている理論でもある。
 聞き手への認識を高めたこと、どもる子どもにどう接すればいいか悩んでいた母親に、少なくともマイナスのかかわりを止めさせた点で大いに貢献したと言える。
 その学説が、倫理的にあってはならない実験によってなされたものだという、衝撃的な真実が65年の歳月を経て、明らかにされた。資料の保管のよさ、粘り強いジャーナリストの熱意に驚かされる。
 ウェンデル・ジョンソンの研究が、『モンスター研究』と呼ばれ、人体実験とも批判されるのは、当然のことだろう。ジョンソン本人も、それが悪いことだったと認識したから、その実験を隠そうとしたのだろう。実際に実験を担当した大学院生、被験者に大きな傷を与えたことには疑いがない。
 ジョンソンと同じように吃音に苦しんできた、吃音の当事者の私が、このジャーナリスティックに展開される秘話に触れて、どう感じたかを述べたい。
 まず、被験者の反応だ。報告があまりに長文であったために、全ては紹介できていないのだが、実験をそれとは知らずに受けて、どもる人としての人生を送った人の感想がいくつも紹介されている。その人たちは一様にその実験を知り、驚き、実験者を恨み、現在の不本意な状態を嘆いている。被害を受けた当事者としては当然の思いだろうが、ジャーナリストとしては、このような非道な実験がなされ、このような悲劇が起こったと、センセーショナルに扱いたくなるのだろう。
 「私は、科学者にも大統領にもなれたが…」と、吃音のために、いかに大きな損失を被り、人間関係を閉ざされたことが紹介されている。私にはそれが痛い。
 本来、吃音にならなかった人が、ジョンソンのために吃音になり、どもっていたために人生で大きな損失を被ったと、ジャーナリズムが被験者の悲劇性を強調すればするほど、今現に、ジョンソンのせいではなく、どのような原因かは分からないが、どもって生きている人がみんな悲劇の人となってしまう印象を与える。そもそも、吃音はそんなに忌むべきものなのか。
 「どもっているあなたのままでいい」と心底思い、自分自身へも、どもる人、どもる子どもたちへもメッセージを送り続け、吃音と共に生きてきた人生を、とてもいとおしく思う今の私にとって、吃音へのこの強い否定的なメッセージは、胸苦しさを覚えるのだ。
 吃音になったからといって、それがマイナスの人生になるとは限らないのだ。
 あとひとつ。実験のつもりではなくても、ジョンソンの実験に似たようなことが、無自覚に、一般的に行われていないか、ということである。
 「そのうちに治りますから心配しないで。吃音を意識させるのが一番いけないから、どもっていても知らんぷりしていなさい」
 このアドバイスは、ジョンソンの原因論からくるひとつの弊害だと私は思っているが、現在でも児童相談所や保健所などで言われている。そのうち治ると言われ、どもっているのを見て見ぬふりをして、ひたすら治るのを待ったが、中学生や高校生になっても治らないがどうしたらいいか、という相談が最近実に多い。
 何の根拠もないのに、安易に、「そのうちに治ります。吃音のほとんどは一過性のものだ」と言い切る臨床心理や教育の専門家の意見を新聞や雑誌等で現在でも見受ける。治ると信じていたのだろう。子どもの頃に吃音に一切向き合うことなくきたために、波乱の思春期に問題が吹き出す。そうなってから、吃音と直面せざるを得ないのは、難しいことだ。こうして、吃音に悩み、戸惑う人と接すると、「モンスター研究」と似たようなものを感じてしまうのだ。
 「吃音は必ず治る」と、多額の器具を売りつけたり、書物などで自己の吃音治療法を紹介しながら、実際は効果がない場合もそうだ。その宣伝を固く信じたが、吃音が治らずに悩みを深める。ジョンソンの被験者のように現在の不本意な生活を嘆く人がいる。この現実を暴いてくれるジャーナリストはいないのだろうか。
 「どもっていては決して有意義な、楽しい人生は送れない」とする考え方に、「どもっていても決して悪い人生ではない。自分の人生に、吃音というテーマを与えられたことであり、一緒に考え、取り組むことができる。自分の人生は自分で生きよう」と、私は言い続けたいのだと、ジョンソンの秘話に接して改めて思った。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/07/10
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