伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

自己紹介

最悪の事態

 その真っ只中にいるときは、最悪だと思えることでも、後から考えるとそんなに最悪でもなかったということは少なくありません。どもることは最悪なのか、どもると最悪な事態が起きるのか、よく考える必要がありそうです。「どもる人間がどもって当たり前」と認めることで、最悪の事態は最悪ではなくなり、対処できることに変わります。
 僕は、吃音からたくさんのことを学びましたが、最悪の事態を考える習慣がついたことも、そのひとつです。考えることで、打つ手が見えてきました。
 大阪吃音教室の講座「吃音の予期不安と恐れに対する対処の仕方」のつづきを紹介している
「スタタリング・ナウ」2009.9.20 NO.181 から、巻頭言を紹介します。

  
最悪の事態
                  日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 木々が芽吹き、春の息吹を頬に感じ始めると、今でも胸がキューンとなる。吃音に悩んでいた頃、新しい学年が始まる早春は、不安が徐々に高まり、気持ちが沈んでいく季節だった。
 まだ、小学校5年生になったばかりだというのに、私はもう中学校の自己紹介に、大きな不安と恐怖を抱いていた。「伊藤」の「イ」が言えない私は、何度も自己紹介でひどくどもり、立ち往生をした。中学校の自己紹介でも、確実にどもると予想がつくから大きな不安が広がる。その場に出ていくのが恐怖だった。しかし、実際はどもってでも自己紹介はしているのだ。
 高校1年の時、入学式で見初めた女子生徒が私と同じ卓球部に入った。同じ体育館で練習できることがうれしくて、練習に励んでいたが、男女合同合宿の計画を知って、不安と恐怖が私を支配する。辛かった中学時代を支えてくれ、これからの高校生活の唯一の救いになるはずだった卓球を、私は合宿の前日、自己紹介が嫌だというだけの理由でやめた。どもることへの不安、恐怖が私の行動を縛っていたのだ。ここから私の逃げの人生が始まるのだが、卓球をやめたことは今でも悔しい。
 あれだけ長く私を苦しめてきた、どもることへの不安や恐怖は、今はない。どもらなくなったからではない。今でも、自己紹介ではどもる。通信販売や、病院で名前を言わされるとき、「・・イイイ」となる。住所も数字の「イチ」では必ずどもる。しかし、少し時間がかかるだけで、生活に支障はない。
 吃音の問題の核心は、吃音を隠し、話すことから逃げることだと確信したのは、私のこのような悔しい体験があるからだ。そして、逃げる行動の背景には、吃音を大きなマイナスのものとする考え方と、どもるかもしれないとの不安と恐れがある。
 なぜ、どもることへの不安や、話すことへの恐怖を抱くのか、悩みの渦にいる当時には、そのようなことを考えることはできなかった。
 21歳の夏、4か月間、必死で民間吃音矯正所で訓練したが、治らなかった。仕方がないと、「治ること、治すこと」をあきらめた。ここから私は変わり始めた。どもりを受け入れたわけではないが、「どもるのが僕の話し方」とどもる事実を認めざるを得なかったのだ。
 「どもる人間がどもって当たり前」だと考えることで、どもることへの不安、恐怖はほとんど消えた。どもった後の恥ずかしさや、罰の悪さはその後も少し残ったが、不安や恐怖をもちながらでもどもって話しているうちに、それも数年で消えた。
 吃音とはいったい何なのか。あれだけ苦しめてきた、不安や恐怖は何者なのだ。吃音にしっかり向き合い、その正体を考えた。どもること自体が不安や恐怖を生むのではない。どもること、どもった後の結果をどう受けとめるかの問題だったのだ。ポジティブ思考、前向きに、というようなことではなく、事実に向き合い、どもる事実を認めるかどうかで、吃音への対処が大きく違ってくるのだ。
 吃音に悩む人は、ある場面ではどもってはいけない、どもりたくないという。ここでどもることは最悪の事態だと考える。しかし、果たして、本当にどもることが最悪なのか、どもると最悪の事態が起こるのか、検討する必要がある。どもりながら話す話し方を認めれば、最悪ではない。予想した最悪のことは、実際、起こらないことが多い。また、仮に予想した最悪のことが起こったとしても、対処は十分に可能なのだと学んだ。
 私は、吃音に限らず、何かを選択し、行動を起こすとき、常に「最悪の事態」を考える習慣がついた。考えると、打つ手が自ずと見えてくる。最悪の事態が最悪ではなく、対処でき得る事態であることがほとんどだ。これは、大学教員を辞めるとき、第一回世界大会を開催するときなど、その後の私の人生に大いに役に立った。

 「大雨でも三日は続かない、台風は二日も我慢すれば過ぎてしまう。自然界ですらそうなのだ。人間界では、噂をしたり悪口をいったりしても、じきに過ぎてしまうのさ」(老子 加島祥造訳) (つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/02/16

どもる権利

 今年は、桜の開花がとても早く、僕の住むマンションの桜も一気に咲いて、あっという間に散ってしまいました。今はつつじ、そして早くも藤の花が咲いていると聞きます。
 春真っ盛りですが、僕は、この春の初め、早春の頃には多くの思い出があります。嫌いだった早春が好きになったことから始まる「スタタリング・ナウ」2001.3.17 NO.79の巻頭言を紹介します。

  
どもる権利
              日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 早春は、私の一番嫌いな季節だった。
 小学校5年生の頃から、多くの知らない人と出会う中学校での最初の自己紹介に怯えていた。自分の名前が言えずに立ち往生している姿が、すぐに思い浮かぶ。自己紹介は何度も経験してきたことだからだ。言いようのない不安感が、中学生になりたくないとの思いを膨らませる。このまま、春がこないで欲しい。しかし、確実に小学校の卒業式はやってきた。この早春の季節に。
 今でもこの頃になると、あの頃の不安や恐れがよみがえり、胸がキューンとなるが、今はこの早春が一番好きな季節になった。それは、1965年の秋につくったどもる人のセルフヘルプグループの、半年後の発会式の準備を、この頃に胸を躍らせながらしていたからだ。もし、この経験がなかったら、今でも私は早春を嫌い続けていただろう。
 その卒業式を控え、卒業生の名前が言えるだろうか強い不安に襲われ、電話をかけてきた人がいる。小学校、中学校のふたりの教師からだ。
 厳粛な雰囲気の卒業式の場で、担任教師がひとりひとりの生徒の名前を読み上げていく。「青名・・赤松・・」ところが、「徳田」のところで「と」がどうしても出ない。1秒、2秒と時間がすぎていく。壇上に進もうとするが、名前が呼ばれないので歩き出せない生徒。ざわめきと困惑の表情の参列者。その中で真っ赤になり立ち往生している担任教師。恐らく二人はこのような場面を想像したのだろう。
 小学校の教師は、これまでどもることを隠して来たが、この際、自らの吃音を公表しようかどうか迷っている。2年間で築き上げてきた子どもとの信頼関係がそう考えさせたようだ。中学校の教師は、明日から始まる卒業式の練習に不安が広がる。胸苦しい強い不安に目が覚めその後眠れなくなったと言う。
 うまく無事に名前が言えて、あの不安が何だったんだろうと思えるように、何とか切り抜けられたらいいなあと思う。しかし、そうならず、生徒の名前が言えずに実際に立ち往生した場合、その人が考える最悪の場面になったとしたら、どんな選択肢があるか。
 ひどい難発の状態になっても、時間がかかっても最後まで声が出るまで言おうとする。あるいは、「とととととととと・徳田」と連発して無理やり声を出す。あるいは、同僚や教頭に代わりに言ってもらうなど。
 仮にそうなったとしたら、気持ちのいい状態ではないが、本当に最悪だろうか。普段の教育は精一杯し、生徒からも保護者、教師仲間からも信頼を得ているのだ。卒業式のひとつの場面で立ち往生したとしても、それを恥じることはない。こうなれば自分を語るチャンスだと考えたい。率直にその時の状態について認め、自分の吃音について語るのだ。
 どもる人間が、教師として生きて来た苦しみや喜び。君たちの名前は読めなかったけれど、精一杯教師として努力してきたこと。卒業式で、名前が言えずに、周りの驚き、困惑、あるいは冷たい目にさらされながら、人間としてその場に立ち尽くした時の気持ち。
 ことさら明るく語ることはないが、暗く重くならない教師の率直な自己開示が、生徒の心に染みて、これから波乱の思春期・青年期に旅立つ子どもたちへの素晴らしい応援歌となるのではないか。
 どもる子ども、どもる人とは、何か。私はこう定義をしたい。
 「吃音を通して、からだとことば、人間関係、生きることなどを考え、行動するテーマを与えられた人のことである」
 吃音を通して、考えてきたこと、行ってきたことを卒業式の日に、子どもたちに手渡す。子どもたちに、ひとつのモデルを示したことになる。
 ここまで書いて来て、私はふと島崎藤村の『破戒』の主人公・丑松が、父の戒めを破り、自分の担任する子どもたちに被差別部落の出身であることを告白する場面が鮮やかに浮かびあがってきた。小学生高学年から中学生にかけて、何度も何度もその部分を読み返しては涙を流し、丸暗記していたセリフが。
 「・・・皆さん許して下さい。私はエタです。これまで皆さんに隠してきたことを許して下さい・・・」
 どもる人間には、どもる権利があるのだ。(「スタタリング・ナウ」2001.3.17 NO.79)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/04/24
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