伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

竹内敏晴

竹内敏晴さん、ありがとうございました

 日本吃音臨床研究会が毎月発行しているニュースレター「スタタリング・ナウ」の最新号である今月号は、先月号に続いて、昨年秋亡くなられた谷川俊太郎さんを特集しています。2000年、全国難聴・言語障害教育研究協議会協議会山形大会で、谷川さんと僕が記念対談をしたのですが、その対談の収録を、2号連続で紹介しました。
谷川俊太郎1 谷川さんとの出会いは、山形大会の2年前、僕たちの主催する吃音ショートコースというワークショップに、ゲストとして、竹内敏晴さんと谷川さんが来てくださったときでした。竹内さんと谷川さん、おふたりからたくさんのことばをいただきました。記念対談での谷川さんの、奥深いことばを懐かしく思い出していたところ、このブログで、竹内さんの特集をしている号を紹介する偶然が重なりました。「スタタリング・ナウ」2009.10.25 NO.182 より、巻頭言を紹介します。

竹内敏晴さん、ありがとうございました
               日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 1999年2月11日、竹内敏晴さんの大阪レッスンの旗揚げとなる講演会の日は、強い吹雪と雨が混じる悪天候だった。参加者は少ないだろうとの予想をはるかに超える185名の参加者に、この時代が竹内敏晴を求めているように感じられた。
 時、バブル崩壊後の不況の真っ只中。社会の閉塞感は人々に緊張を強いている。社会に、がんじがらめに絡め取られた、「からだと、こころと、ことば」が悲鳴を上げていた。吉本興業の陳腐な笑いに代表される、考えることを放棄した、明るく脳天気に生きているかに見える人にとって、竹内レッスンは必要がない。また、強気で、経済評論家の勝間和代を目指す人々や、いわゆる勝ち組にとっても、竹内レッスンは必要がない。自分なりの人生を生きたいと願いながら蹟いたり、生きづらさを強く感じている人。そして、その生きづらさがどこから来ているのか、自分でもつかめない人。しかし、真摯に人生を生きたいと願う人々が集まってきた。
 自分を変えたいと思っても、何を変えればいいのか、その糸口がつかめない。ことばによる説明や説得ではなく、自分自身のからだの実感を通して、他者との関係において、自分でそれに気づいていく。竹内レッスンはそんな場だった。
 吹雪の日から10年間、日本吃音臨床研究会が主催する大阪の定例竹内レッスンは、やすらぎと集中の場となり、大勢の人々が集まった。
 人が変わるには、まず自分に気づくことが必要だ。世間に対し、目の前の他者に対してもつ身構え、相手にあわせてしまうからだ。相手と近づくのではなく、相手を拒否する自分のからだとことば。多くの人々のレッスンに立ち会い、人が気づき、変わって行く現場に出会えたのは幸せだった。
 緊張を強いられる場では、人は自分に気づけないし、変われない。緊張せずに、安心していられる安全な場がまず必要だ。竹内レッスンでは、必ず二人組で、互いのからだを揺らし合い、やすらぐことから始める。心地よい、安心できる場には、常に大きな歌声と、大きな笑い声があった。
 一方、他人の目を意識する緊張の場で、自分を支え、からだとことばで表現する場も必要だ。大勢の観衆の前でひとり舞台に立つ芝居は、多くの人にとってたやすい課題ではない。「12人の怒れる男」「ゲド戦記」「銀河鉄道の夜」などをモチーフに、竹内さんが脚本、演出し、レッスンを重ねた数々の舞台で多くの人が輝いていた。それは、緊張ではなく、集中することを身につけた人々の表現だった。それは日常生活に生かされた。
 私が最初に出会った20年以上前の竹内さんは、精神的にも肉体的にも疲れておられるようで、レッスンも辛そうな時があった。だから、「いつ、竹内さんがレッスンできなくなるか分からないから、今の内に出会っておいた方がいいよ」が、冗談で竹内レッスンに周りの人を誘う私の常套句だった。しかし、いつしか、その常套句は使えなくなった。不思議なことに、年をとるにつれてますます元気になっていく。3年先のスケジュールを話題にする竹内さんに、少なくとも90歳までは現役でレッスンを続けて下さるだろうと、信じていた。
 6月初旬、竹内さんから、「膀胱がんが見つかったが、手術を受けず、現役でレッスンを続けたいので、どんな治療があるか選んでいる」と電話があった時も、不死鳥のようによみがえることを期待した。7月の大阪のレッスンは通常通り行ったものの、8月末の東京のオープンレッスンでは、車いすの姿で見守ったと聞く。
 9月7日、数人のレッスン生の歌う、竹内さんの大好きだった、「ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む…」の歌声と共に、84歳の生涯の幕を下ろした。
 出会いから20年以上。「私も聴覚・言語障害者だ」とおっしゃり、どもる私たちを仲間と考え、常に最優先でレッスンなどの計画に応じて下さった。おかげで、私たちは、たくさんの素晴らしい体験をし、たくさんのことばをいただいた。
 それらを伝えていくのが私たちの役割だ。
 これまで、多くの人に安らぎを与えてこられた竹内さん、今度はご自分がゆっくりとお休み下さい。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/02/19

第19回吃音親子サマーキャンプ〜表現活動〜

 「スタタリング・ナウ」2008.10.21 NO.170 では、2008年の第19回吃音親子サマーキャンプの報告をしています。この年のサマーキャンプの日程は、8月29・30・31日でした。夏休みの最後の最後でした。こんな日程なのにたくさん参加してくださったこと、覚えています。
 今日は、サマーキャンプのプログラムの中の表現活動にしぼって報告している文章を紹介します。単なる付き添いではない親たちの表現と、子どもたちの演劇活動です。

第19回吃音親子サマーキャンプ
 今年のキャンプの日程は、8月29・30・31日。夏休みの本当の最終に当たる。キャンプが終わった翌日から2学期が始まる学校が多い。こんな日程で果たして参加があるだろうか、少し心配だった。予想どおり、日程的に厳しいので、今年は残念ながら涙をのんで参加を見合わせます、というハガキをもらったりすると、申し訳ないなあという気になってくる。それでも、申し込みは、130名を越えた。
 今回は、表現活動にしぼって紹介しよう。(報告:溝口稚佳子)

親たちの表現活動〜意義〜
 親は、子どもの付き添いではない。キャンプでは親自体がひとりの参加者なのだ。親のプログラムは子どもと同様ハードなものだ。
 親の話し合い、作文、吃音学習会が子どもの活動に平行して行われる。そして、子どもの演劇の代わりとなるものとして、親の表現活動がある。子どもたちの劇の上演前に、親の表現活動を取り入れて10年になる。
 きっかけは、子どものことばや声にとって何かレッスンのようなものはないだろうかという母親の素朴な問いかけからだった。声を出すには、からだが大事だということで、子どもが劇の練習で使っていない集会室を利用して、からだの揺らしをしたり、歌を歌ったりする「からだとことばのレッスン」が始まった。せっかく練習したのだから、子どもたちの前で披露しようと、子どもたちの劇の上演の前座を務めることになったのが始まりである。
 今ではキャンプのひとつの名物となり、重要なプログラムで、大きな相乗効果を生み出している。

◇親たちのがんばりは、子どもたちへの励まし
 どきどきしながら、もうすぐ始まる劇を待っている子どもたちの前で繰り広げられる親の、詩をことばとからだで表現するパフォーマンス。人前で飛んだり跳ねたりする、日頃見慣れていない親の姿に、初めて接する子は、驚き、そしてはっとして大きな拍手をする。お父さんやお母さんもがんばっているのだから、と劇の上演前の緊張した子どもへの大きな励ましになっている。「がんばれ」と言われるのとは違う、実際にからだで示してくれる応援となる。吃音について一緒に取り組んでいるという一体感が、親と子どもに生まれる。
◇子どもたちの劇上演に対する見方の変化
 大勢の前に立ち、ひとりで自分を支える、引き返すことのできない場に立つ、そんな子どもの気持ちがよく分かるという親は少なくない。自分も味わったあのどきどき感を胸いっぱいに感じながら、みんなの前で演じる子どもたちを見ることができるだろう。
◇スタッフに与える大きな影響
 初参加のスタッフにとって、親の表現活動は大きなインパクトを与えるようである。ここまでするのか?というくらいのはじけた親の姿に感動した、勇気をもらったという感想をよく聞く。

 これまで、谷川俊太郎の「生きる」、北原白秋の「祭り」、草野心平の「誕生祭」などの詩を使ってきた。最近は、「荒神山ののはらうた」。工藤直子の「のはらうた」を題材にして構成している。はじめのころは見本を見せて、このようにしたらと提案もしたが、最近は親が話し合い、ふりつけをし、練習をして見事な舞台を作り上げる。
 キャンプ最終日、上演前の90分が練習時間だ。親たちが集会室に集まってくる。初めて参加した親は、一体何が始まるのだろうかと、不安げだ。何度も参加している親でもそれぞれに表情が違う。この表現活動を楽しみにしている親もいるが、嫌だという親もいる。それは子どもも同じだ。劇を楽しみにしている子どもも多いが、これさえなければもっと楽しいのにと思っている子どももいるだろう。苦手なことに挑戦するのは親も子どもも同じなのだ。そう覚悟を決めて練習する親の姿を見て、毎回感動する。
 みんなで声出しのための歌を歌って、表現活動に入るための準備をする。その後は、話し合いの時の4つのグループに分かれ、練習が始まる。相談して、やってみて、また相談して、という繰り返しだ。あちこちで笑い声が起きている。真剣に、まじめに話し合いを続けてきたメンバーによるこの練習のもつ意味は大きい。話し合いで泣き、笑い、しんみりとした親同士の連帯感、仲間意識がさらに深まっていく。

親たちの表現活動〜上演〜
 最終日、午前10時。全員が集まり、さあ開演。こんなナレーションから、それは始まった。

 「今年もここ荒神山少年自然の家に、のはらうたのメンバーがやってきました。荒神山の一日が始まります。朝、おなじみのかまきりりゅうじ君がやってきました」

きまったぜ
かまきりりゅうじ
さっと ひとふり カマを ふったら
あさひ ぐんぐん のぼってくるぜ
ぐいっと もひとつ カマを ふったら
ことり ピーチク うたいだすぜ
きらりと おまけに カマを ふったら
ちょうちょ はたはた おどりだすぜ 
カマの タクトで あさを よぶ
おれは のはらの コンダクター
いえぃ きまったぜ 

 この後、いのししぶんた、こぎつねしゅうじ、あなぐまこうじ、と続く。4つのグループがそれぞれ、子どもたちがびっくりするような、見事な演技を披露する。動きも、声も、ダイナミックで素晴らしい。ユーモアも効いている。
 最後の4番目のグループが終わると、親は手をつなぎ、子どもたちを囲んだ。そして、最後は親全員の温かい大きな声が会場に響き渡り、子どもたちを包み込んだ。

だいちのねがい
だいちさくのすけ
う〜〜〜〜〜〜んと てを ひろげ
し〜〜〜〜〜〜っかり みんなを だきしめる
それが われら だいちの やくめ
それが われら だいちの ねがい

う〜〜〜〜〜〜んと てを ひろげ
し〜〜〜〜〜〜っかり みんなを だきしめる
それが われら 親の やくめ 
それが われら 親の ねがい

 スタッフの一人がこんな感想を寄せている。「子どもにとって普段絶対に見ることのない親の姿。1時間半の練習でよくここまでまとめたものだと感心する。最後に親全員が部屋を取り囲んで一斉に詩を朗読した時は、すごい迫力で感動した」

子どもの表現活動〜劇の稽古と上演〜
 子どもたちによる劇についてもほんの少し触れておく。今年の劇は、トラバース原作、竹内敏晴さんの構成・演出・脚本の『王さまを見たネコ』。
 スタッフの報告を紹介しよう。

 『サマキャンの劇の特徴は、上手に演技することに重点を置くのではなく、それよりもその子どもの声に注目する。本番の出来不出来よりも、練習中にどれだけしっかりと相手に届く声を出すことが出来るかに時間とエネルギーをかける。
 僕たちの劇の練習は、この劇のテーマソングをみんなで歌うことから始めた。でも思っていたとおり、子ども一人一人の声がよく聞こえない。声はその子どもの周囲にとどまり、広がらない。そこで毎年僕のグループの恒例で、楽しく大きな声を出すゲームをした。子どもとスタッフが混じって二手に分かれて肩を組み、一方が「ライオンだー、ライオンだー!」、もう一方が「ゾウだー、ゾウだー!」と交互に大きな声を出す競争をする。最初躊躇していた子どもたちもみんなと一緒だと思いきって大きな声が出せる。きっと、ふだん滅多に出すことのない大きな声だろう。そのうちに大きな声を出す気持ちよさが分かってきて、だんだんと笑顔が増えてくる。メンバーチェンジをしたり子どもたちだけで競争したりと、子どもたちは楽しみながらどんどん大きな声を出していく。
 大きな声を出して心地よく疲れてから、いよいよ台本読みに入った。一回目からみんな意外とうまく読めたが、サマキャンの劇はそれでOKではない。子どもたちを3つのグループに分けて、それぞれに竹内さんのレッスンを受けたスタッフがついて個別練習をした。子どもの中にはどもらない子どももいたが、日本語の特徴である母音が出ていない。どもるどもらないに関わらず、しっかり息を吐く、一音一音母音を押す(一音一拍)、相手に届く声を意識して何度も練習した。今回の劇は場面転換がなく動作も複雑ではないので、いつもより一人一人の声にじっくりと取り組むことが出来た』

 上演が始まると、緊張気味だった子どもたちも、驚くほど堂々とセリフを言い演技する。話し合いでは一言も言葉を発しなかった高等専門学校の学生が、王様役で真ん中で、長いセリフを読んでいる。これには本当に驚いた。話し合いと、劇の稽古と上演の二つのプログラムが有効に機能している。表現することは自分らしく生きること、人間にとって大切な営みであることを改めて思う。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/01/03

谷川俊太郎さんの訃報に接して

谷川俊太郎1 今朝、起きてすぐ、谷川俊太郎さんが亡くなったという速報が飛び込んできました。
 谷川さんは92歳、大往生といえるのかもしれないと思いながら、谷川さんのしなやかな姿やことばから、まだまだ僕たちの前にいて、新鮮なことばを紡いでくださるような気がしていました。
 谷川さんとは、たくさんの思い出があります。直接の出会いは、竹内敏晴さんと一緒に講師として来てくださった1998年の第4回吃音ショートコースでした。そのとき、谷川さんは66歳でした。そしてその2年後の2000年、第29回全難言大会山形大会での記念対談で、谷川さんから指名してもらって、聴衆600名の前で、「内なることば、外なることば」の演題で対談したことです。

 今日は、懐かしい写真とともに、吃音ショートコースでの思い出を振り返ってみます。
 1998年初秋、奈良・大和路で、《表現としてのことば》をテーマに、谷川俊太郎さんと竹内敏晴さんをゲストに、第4回吃音ショートコースを開催しました。
谷川俊太郎2 《表現としてのことば》をテーマにした、谷川さんと竹内さんの3時間の対談、突っ込んだ質問に丁寧にユーモアをもって、谷川さんがご自分の詩と人生を語ってくださった時間、そして最後に谷川さんが自作の詩を2時間、解説しながら朗読された詩のライブなど、吃音ショートコースは、本当に贅沢な時間でした。
 吃音ショートコースの帰り、厚かましくも谷川さんにお願いした僕たちへのメッセージが、すぐ送られてきました。《内的などもり》と題された文章を紹介します。谷川さんの父君の谷川徹三さんのことから、その文章は始まっています。

 
内的などもり
 父がどもりだったので、吃音に私は違和感なく育ちました。父は大学教師でしたが、講義や講演などはどもらずにしていたようです。しかしうちではときにどもることがあって、ふだんは少々もったいぶって喋る美男子の父がどもると、私はどこか安心したものでした。英国の上流階級の喋り方を映画などで聞くと、ときどきどもっているように聞こえますが、あれは一種の気取りでしょう。どもることで誠実さを仮装する習慣のようにも思えます。
 どもるとき、父の言葉はどもらないときよりも、感情がこもっているように聞こえましたが、それはどもらない人間の錯覚かもしれません。しかし私にはあまりになめらかに喋る人に対する不信感があるのも事実で、これは自分自身に対する疑いと切り離せません。私もいわゆるsmooth-tonguedの一人なのです。
 でも私だって自分の気持ちの中では、しょっちゅうどもっています。それは生理的なものではないので、吃音とは違うものですが、考えや感じは、内的などもりなしでは言葉にならないと私は思っています。言葉にならない意識下のもやもやは、行ったり来たりしながら、ゴツゴツと現実にぶつかりながら、少しずつ言葉になって行くものではないでしょうか。
 そうだとすれば、どもりではない人々と、どもる人々との間には、そんなに大きな隔たりがあるとも思えません。せっかちに聞くのではなく、ゆっくり時間をかけて聞けば、吃音は大きな問題ではないはずです。ビジネスの多忙な会話の世界ではハンディになることが、人と人の気持ちの交流の場ではかえって有利に働くこともあると思います。こんなせわしない時代であるからこそ、話すにも聞くにも、ゆったりした時間がほしい。
 先日、日本吃音臨床研究会の活動の一端に触れて、私は言葉についての自分の考えを訂正する必要がないことを確認できましたが、それが吃音のかかえる苦しみや悩みを軽視することにはならないと信じています。


谷川俊太郎3 谷川さんの詩「生きる」をもじって、僕たちは「どもる」という詩を作りました。谷川さんは、その詩を、『これはもうパロディーなんてもんじゃなくて、立派な替え歌ですね。「替え歌」というのはものすごくエネルギーがあるもので、我々も子どもの頃、軍歌の替え歌なんかやっていましたけれど。この替え歌は歴史に残るのではないでしょうか。』と言ってくださいました。「生きる」と「どもる」を並べて紹介します。

  生きる
生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ.
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみすること
あなたと手をつなぐこと

生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと

生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ

生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまが過ぎてゆくこと

生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ


  どもる
どもるということ
今 どもるということ
それは
喉が乾くということ
周りの目がまぶしいということ
ふっとイヤな出来事を思い出すということ
まばたきすること
一人で手を振ること

どもるということ
今 どもるということ
それは 自己紹介
それは デートの誘い
それは 羽仁進
それは マリリン・モンロー
それは 谷川徹三
それは 全ての個性的な者に出会うということ
そして 効率優先の現代社会を注意深く拒むこと

どもるということ
今 どもるということ
つまるということ
隠すということ
逃げるということ
不自由ということ

どもるということ
今 どもるということ
今 ハンドルを切り損ねるということ
今 切符を買えず遠くへ行けないということ
今 衆人の注目を浴びるということ
今 とっさに言い訳が出来ないということ
今 いたずら電話と間違えられるということ
今 今が過ぎてゆくこと

どもるということ
今 どもるということ
人は 注目するということ
人は 笑うということ
雰囲気が和むということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ

いのちが激しく動く〜竹内敏晴さんのレッスンをめぐって〜 2

 一昨日の続きです。この座談会の詳細は、『竹内レッスン』(春風社)に載っていす。お読み下さい。
 「ことばが詰まっているときというのは、その人のからだの中から声が生まれようとして、一番激しく動いている、一番激しく生きているときだ」、この竹内さんのことば、忘れられません。どもる人がどもりながら伝えるときは、いのちが激しく動いているときなのです。

伊藤 僕たちは「吃音とともに生きる」と、吃音を治そうとはしていなかったから、竹内さんに吃音を治してもらおう、少しでも軽くしてもらおうという発想は僕たちには全然ありませんでした。
 ただ、竹内さんに来ていただいたときは、少しずつことばに目覚め始めてきていたときでした。吃音の不安をもちながらおそるおそることばを出すというのは、相手に伝えたいというよりも、どもることばを相手に伝えたくない、つまりしゃべりたくないというのと同じです。そこを突破していくには、従来の吃音矯正ではとても間に合わないと思ったのです。
 どもらずに話そうとすると、しゃべらないことに行きつかざるを得ません。どもってもいいという前提があるからこそ、ことばが出ていくんです。どもってもいいけれど、力のあることばを出したい、ことばを豊かにしたい。相手に向かっていこうとするその結果として、ことばが出やすくなったということは、いっぱいあります。

竹内 言いにくいのは苦しいものね。とにかく少しでも言いやすくなったほうがいいですよね。ただ、言いやすい、というのはペラペラしゃべるということではありません。自分の中の気持ちがまっすぐことばになっていく、その筋道をつけるということですよね。
 レッスンに今年のはじめから来るようになった人がいます。その人と呼びかけのレッスンをやってみたら、いきなり相手に「来て下さい」と怒鳴るんです。それでは、相手の頭を声でひっぱたくようなもので、それは呼びかけることではない。その人の頭の中には、一所懸命声を届けなければいけないという思いがあるのでしょう。だから、ともかく急いで届けようとする。しかし、そうやっても声は届きません。ことばとは人と人との関係なのであって、声を届けようと一人でがんばった瞬間、相手との間のつながりは切れてしまうんです。その人、ずいぶん考え込んでしまいました。「なにかフッと内側から出たらしゃべれ」と言ったら困っちゃって、でもちっちゃな声で「来て」と言いました。その途端に相手の人がぱっと振り返った。呼びかけるということは、人が人に働きかけることであって、声を屈けることとは全然違います。そこを誤解して、必死にことばをぶつけようとするのは相手を叩き出すことであって、呼ぶことではありません。次に会ったときの彼、しゃべり方が変わっていました。

伊藤 僕たちが継続して竹内さんに大阪に来てもらった一番の理由は、よろこびです。

東野 僕らは、メルロ=ポンティの言う「情報伝達としてのことば」を使って、滑らかに流暢に話をしようと、そればかり追いかけてきました。でもうまくいかない。ところが竹内レッスンで、歌を歌ったり芝居をしたりする中で、もう一つ「表現としてのことば」があることを知りました。ことばをしゃべるってこんなに楽しいことなのか、声を出すってこんなに心地いいのか、表現ってこういうことだったのかと実感できました。
 それともう一つ、一音一拍で、息を出し話していく。だから当然、話はゆっくりになる。それは自然なこと、いいことなのだということが分かりました。民間吃音矯正所では、「母音を伸ばしながらゆっくり話をしたら、どもらない」とずっと教わってきました。でもそんな話し方するのはどもる人だけで、僕らは特別なことをやらされているという意識がありました。ところが、どもりの有無とは関係なしに、そういうふうに話をすれば、声も出るし、表現としても豊かになる。竹内レッスンに参加していなければ、こんなにゆっくり一音一拍で話す話し方に自信が持てなかったと思います。

竹内 昔の浅草のおじいさんやおばあさんたちは、もっとゆっくりだもんね。「はー、そうか、そういうふうにしゃべれば、フン、フン、なるほど」と、こう聞いて、またこちらが何か言うと「はあ、はあ、ねえ、そうするとよろこびがある。うん、よろこび、うーん、それで?」という具合に返す。江戸っ子はたんかを切ってシャキシャキしゃべるイメージがあります。たとえば職人はそうですよ。だけど、生活の場では相手の言うことを一つ一つくり返してしゃべっていくんです。

東野 職場は情報伝達のことばがいっぱいだから、みんなテンポが早い。ポンポンポンポンしゃべるのがいいとされています。

川崎 僕は以前、相手の顔からちょっと目をそらして、口も横に向けて、口をほとんど動かさずにしゃべっていました。なにかを伝えることよりも、自分がどもりだということを知られないのが一番大事でした。

赤松 とにかく、悩んでいたころは、スラスラ言うことばかりに気がいってしまっていました。結局、自分の思いを伝えることに向かっていないようなことがありました。「おはようございます」と言うときでも、「お」が出なかったらどうしようと心配ばかりしているから、平べったい「おはようございます」になってしまうんです。

川崎 そういうしゃべり方を小学校から、社会人になってもしていました。大阪吃音教室で勉強して、どもってもいいと言われたって、しゃべれません。息が100%あるうちの2割か3割だけ使ってしゃべっていました。それが、竹内レッスンで息の出し方を教わって、息が深くなっていきました。それでやっと深い話し方ができるようになったんです。

伊藤 どもる人がずっと持ち続けている迷信があります。息を吸うのが肝心という思い込みです。ところが竹内さんは、「吐くことが大事」と言われます。その迷信を打ち破っただけでも、革命ですよ。

竹内 原則として、そのことは言っていたけれどもね。でも、実際に息を吸うとどうなるかということは、どもる人とレッスンしなかったら分からなかった。見ていると、しゃべる前にまず息を吸って、それでとたんに詰まっているものね。

伊藤 「わーたーしーは」というのでも、昔、僕らが吃音矯正所で習ったのは、一音一音はっきりと言う。「わ」でもう吸っているわけですよ(笑)。「た」「し」「は」って、音はゆっくりになるけれど、そのつど吸うからすごくしんどいんです。それと、息を吐いてから入れて「わたしは」と言うのとでは、同じゆっくりでも全然意味が違います。これが分かったのはありがたいことでした。

東野 声を出すよろこびの中にもう一つあって、それは、たとえば「息を出せ」ということを竹内さんが誰かにやっている、それを周りで見ていますよね。だんだん声が出てくるでしょう。あれが他人事とは全然思えなくて、うれしいんです。

伊藤 他の人のレッスンを見ていると、うれしいし、よく分かるよね。「ああいうふうにすれば声が出るのか」「確かに、ここにこう力が入ってるな」と手にとるように分かります。
 表現するよろこびというのもありますね。舞台でシナリオを読んで、ことばで表現するなんて、僕たちにはできないものと思い込んでいました。特に僕自身が表現のよろこびに目覚めたのは、唱歌、童謡です。「咲いた、咲いた」と、本当に今咲いているということを歌詞に流していく。歌ではどもらないんです。どもらない歌でこれだけ表現できる。自分のこれまで持っていた表現ではないものに目覚めました。

新見 僕も、声を出すよろこびを味わえたのが一番です。今までは、力を入れないと声は出ないと思っていました。抜けた瞬間に声が出るという感覚が、何となく分かりました。

伊藤 それと継続の力だと思いますね。いろいろなことを聞いても、それがからだに染みてこなければならない。レッスンに通って3年4年と経つうちに、ようやく新見さんのからだに染みてきたんじゃないでしょうか。

竹内 レッスンにどんな意味があるのかということをよく言われるけれど、同じことでも、人が背負っている状況や歴史によって、焦点の当て方が変わってきます。たとえば、私がことばがゆっくりだといっても、ことばがしゃべれなかった人間独特の、特異なものがあるわけではありません。一番基本的なことが実現してゆくのにいろんな姿があるだけです。よくしゃべれる人たちは、しゃべれることが当たり前であって、そこから上に行こう、行こうとしています。かといって、よくしゃべれる人たちが、そこから先だけやれば、ちゃんと表現できるのかというとそうじゃない、根の部分に戻らないとだめです。呼びかけるからだの流れとか、日本語としては一音一拍による声そのものの力とか。根のところは吃音の人だろうと誰だろうと同じだと思っています。

溝口 どもっていることばとか、どもってことばが出てこない時間とかは、私にとって本当に見たくも触れたくもない、嫌な部分でした。ところが竹内さんは、そうではない。それも含めて自分のことばなんだということに気づかせて下さいました。竹内さんが、「ボ、ボ、ボクはあなたが好きだ!」って言ってくれたんです。

伊藤 そう。喫茶店ですごいおっきな声で。

竹内 念のために言いますが、恋の告白ではないですよ(笑)。

溝口 からだが震えるようなものが伝わってきました。「これがわたしのことばだ」っていう感じがいっぱいわーっと押し寄せてきた気がしたんです。

竹内 いや、そのことばをどこかで言った記憶はあるけれど、喫茶店でどなったとは(笑)。

溝口 私にとって、あそこがスタートだったように思います。小手先で治そうとか、できるだけ滑らかにしゃべろうとかいうのではなくて、もっと深いところで、そのままでいいというのを大事にしながら、それでも相手に伝わることば、自分が楽になる話し方を求めていきたいという気持ちが芽生えました。

竹内 いまはどもらなくなった吃音の人が以前レッスンに通って来ていて、二年目に芝居をやったんです。相手役の女の人と「裸足の青春」という劇のテクストを持って読みあわせをするんだけど、片一方はかなり重度の吃音で、ことばが出てこない。相手の女性は立って待っているんだけれど、いつまでたっても相手が言わないから、イライラしてくる。すると、彼がウーと言って、「こここ、こうだって」ってようやく何か言う。相手は待ち構えているから、間髪入れずに返事をする。すると、途端に向こうが次言わなきゃとあせって、また「とととと」ってどもる。それが三遍か四遍くり返したときに、私はその女の人に「だめだ」と言ったんです。ことばが詰まっているときというのは、その人のからだの中から声が生まれようとして、一番激しく動いている、一番激しく生きているときだ。その時間をあなたはゼロにして、なんにも感じないようにしておいて、ようやくことばが出てきたらまたすかさず返事をしている。それは相手のことばを何も聞いていないということだ、と言いました。彼女はしばらく黙っていたが、分かりましたと言いました。それから答え方の気づかいがまるで変わりました。すると、今度は彼のほうも変わってきます。「ここで今言わなきゃ、今言わなきゃ」というあせりがなくなってくるから。どもっているときというのは、本当に大事な、いのちが一番激しく動いているときなんです。(了)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/09/26

いのちが激しく動く〜竹内敏晴さんのレッスンをめぐって〜

 竹内敏晴さんの「からだとことばのレッスン」は、東京と名古屋、大阪で定期的に開催されていました。それぞれ運営は独立していましたが、大阪のレッスンは、僕たち日本吃音臨床研究会が主催していました。竹内さんがお亡くなりになるまで、毎月第2土日、應典院でレッスンは続きました。大阪のレッスンには、僕たちが事務局をしていたこともあって、どもる人の参加が多くありました。その人たちが集まって、竹内レッスンをめぐって話し合った、2006年4月の座談会を紹介します。(「スタタリング・ナウ」2007.5.21 NO.153 より)

  
いのちが激しく動く
 
伊藤 竹内さんの、『ことばが壁かれるとき』を読み、レッスンを受けたいとずっと思っていました。
 自分たちのことばにしっかり向き合って、変えることができるものならば変えたいと、竹内さんに来ていただいて20人ぐらいでレッスンを受けたのがすごく面白かった。民間吃音矯正所の発声練習や呼吸練習と全然違う、正反対に近いことを聞いたりして、目が開かれる思いがしたんです。それで、年に一、二度、大阪に来てもらうようになりました。
 どもる人たちも基本的に声を出したいが、声を出す喜びや楽しさをあまり経験していない。力いっぱい声を出すことが、からだとしてどんな感覚なのか知らなかった人たちにとって、心弾む体験でした。6年後、みんなから「芝居をやりたい」という声があがりました。レッスンのテキストとして使っていた「夕鶴」をぜひ舞台でやりたいと挑戦し、その北海道公演が大好評だった。大勢の前でやることの面白さを味わいました。練習と違って、本舞台のときはみんなうまかったです。

竹内 練習ではハラハラドキドキ、本舞台でも全然声が出ない。それが、あるところでバーッと声が出始めた。しゃべるのも、あのころは全然声が出なくて、えらい苦労しました。本舞台で、息が止まってしゃべれなくなって、シーンとしている中、ポツリと言う。そのたびにお客さんハーハー、向こうもみんな吃音の人だからね。

伊藤 あの経験が大きかったと思います。そして、大阪スタタリングプロジェクトの30周年を記念して、1998年に大阪市立総合医療センターのさくらホールで「夕鶴」や「木竜うるし」「トムソーヤー」他を上演しました。170人ほどの観客で、あれだけ来てくれると思わなかった。大成功でした。
 それからしばらくして、定期的な大阪の毎月レッスンが始まりました。どもる人たちに、もっと竹内さんに出会ってほしい、声のことをやってほしいという思いがあったんです。一つの方針としては、東京と名古屋でやっているレッスンとは違うものをという思いでした。東京は、表現にどんどん進んでいたけれど、大阪では、ことばの基本のことをずっとやる、くり返しでもいいから、ことばのことを丁寧にやるレッスンがほしい、それなら僕たち日本吃音臨床研究会が主催してやる意味があると思ったんです。2月の旗揚げのための講演会は大勢集まり、4月の第1回レッスンは50人集まりました。

竹内 話は飛ぶけど、去年、「十二人の怒れる男」をやろうという話が伊藤さんから出た。「そんなでっかい芝居をやるのは大変だよ、できないよ」と言ったんだけれど、この人は、恐れを知らない人で(笑)、やりたければやろう、なんだよな。大阪弁だの広島弁だのそれぞれの生まれ故郷のことばでアレンジして19人、そのうち吃音の人が半分以上出演したけれどみごとな舞台でした。

東野 竹内さんが初めて来て下さったとき、とても新鮮でした。普段は、大きな声を出すとか、からだを動かして歌を歌うとかの経験がありません。大きな声を出したのは、吃音矯正の発声練習の時だけで、効果がないからしなくなっていました。
 ところが竹内レッスンでは、治すとか治さないとかではなく、からだを動かすこと、声を出すことそのものがとても心地よかった。そして、自分では気づかなかった、意識してこなかったからだの緊張や堅さ、習慣になっている身構えを指摘してもらいました。これもとても新鮮でした。
 僕は、当時電話で悩んでいて、何とかしたいと竹内さんに質問したら、「話すときにちっともわたしの目を見ていない。それがあなたの問題ではないか」とおっしゃった。自分に意識が向いていて、相手に向かっていないのではないかとの指摘でした。確かに僕は相手の目を見て話していない。ちゃんと言えているか、どもらずに言えているかに意識が向いていて、相手に何かを伝えたいという姿勢が希薄だったことに気づいたんです。
 それで、電話は相手が見えないけれど、受話器の向こうに相手がいると思って、とにかく何か伝えてみようと意識しました。それから電話をかけることがずいぶん楽になったんです。
 また、吃音矯正所ではまず、息を下腹部にたっぷり吸わないとだめだと言われましたが、竹内さんからは、反対に吸ってはいけない、息は吐くものだ、息を吐かないとことばは出ないと言われました。吐いて吐いたら、勝手に入ってくる。これは、僕がいつも吃音教室でどもる人たちに伝えていることです。

赤松 私は会社に入って20年。電話をかけたり受けたりは、どうにかクリアしてきたけれど、人にかかってきた電話をとって取り次ぐときに声が出ない。「誰々さん、電話です」が言えない。その話をしたら、「指を指して、誰々と言ってみたらどうか」とアドバイスを受けました。随伴運動になったかもしれないけれど、だんだん大きく指を指さなくても、小さく軽く指を出すだけで済むようになりました。以前とは格段に変わり、そのうち、指さしをしなくてもよくなったんです。自分の名前が出にくかったけど、一音一音をはっきり言うよう練習することで一語一語、しゃべり方がはっきりしてきました。気がせくと、早くなるが、気をつけて一語一語きっちり出すようにすると、完全に黙ってしまうことはなくなりました。でも、これはどもりが軽くなったというわけではないです。
 小学校のときから、芝居には一切縁がありませんでした。「夕鶴」では、緊張感はすごかったけれど、「できた!終わった!」という解放感とうれしさを感じました。芝居の中ではどもらない。不安がないから、どもりそうだという気も起こらない。一語一語をきちんと出してしゃべると、大丈夫なんだという気はしている。それを普段の生活の中で全て生かせるわけには、なかなかいかないんですけど。

竹内 「誰々さーん」と指さして呼ぶというのは、つまり、ことばとは声を出すことじゃなくて、働きかけること、アクションだということです。「夕鶴」で与ひょうをやった伊藤照良さんが、眠っているのに子どもたちがワイワイやっているので、「えーい、うるさいのう」と言うんだけど、何回も「う、う、う……」となり、出てこない。あのとき、しゃべろうとしないで殴りとばすつもりでバンと腕をふりまわして怒鳴れと言った。そうしたら「うるさいのう」といっぺんに声が出た。からだ全体が動いたときにポーンと声が出るのです。

川崎 僕は、今年の公開レッスンの「十二人の怒れる男」の芝居の中でどもる不安がありました。特に、最後のシーンの「生かしてやろうよ」というセリフ。僕は母音がものすごい苦手なんです。でも、竹内さんに、「息でしゃべれ」と言われ、不安がなくなりました。息せききって、とまでは言わないけれど、ハァハァ言いながら言って、「生かしてやろうよ」というせりふを言いました。
 竹内さんに初めて出会ったのが、10年前の吃音ショートコース。それまでいろいろなワークショップには参加していたから、人のからだに触れることは慣れていたし、目を見て話すのもできていました。声もそこそこ出ていたつもりでした。ところが、僕が、後ろで目立たないように腕を組んでいたら竹内さんに「ちょっと出て来なさい」と言われ、ものすごく嫌だったんだけど(笑)。竹内さんは、「その手は何ですか。自分で自分を縛っている」とおっしゃった。
 結局、意識は自分に向いていたということです。声は大きく出しているが、意識が相手に向かわずに、自分がどもるかどもらないか、そればっかり考えていたんです。
 銀山寺でのレッスンで、竹内さんは、自分の肩を押させて働きかけながら声を出させるということを何度もしていました。あのとき、声の大きさじゃなくて、声がどこに向かっているかが大事だ、ということがわかりました。僕は障害を持った子ども相手の仕事を13年間していますが、以前は「聞いてくださーい」と大声で全体に呼びかけていました。それが無理して声を張り上げなくてもスッとみんなこっちを向いてくれるようになったんです。

伊藤 川崎さんと初めて会ったとき、初対面なのにベラベラベラベラ、ちっともどもらないで流暢に話す。どもらない人かと思いました。

竹内 大阪吃音教室に呼ばれた最初のレッスンでみんながしゃべるのを聞いて呆然としたんです。はじめは確かにつっかかるけれど、あとはベラベラ、いっぱいしゃべる。ことばがうまくしゃべれなくて、やっとことばをつむいでやってきた私などから見たら、こんなによくしゃべれる連中が、なにをオレにレッスンしてもらう必要があるのかと(笑)。「あなたがたは自分がどもる、うまくしゃべれないから何とかしたいと思っている。うまくしゃべれる人たちを標準にして、上ばっかり見ている。でも世の中にはもっとしゃべれない人もいる。そういう人たちを置き捨てて、よくしゃべれる人たちの仲間に入ろうとしてばかりいる。でも、もっとしゃべれない人がいるという見え方の中で考えてほしい」と言いました。

伊藤 そのことばは、僕もすごく印象に残っています。

竹内 そうですか。私は吃音を何とかしようとは全く考えていません。ただ、自分のことば、自分の表現を見つけてほしいと思うだけです。そういう意味でいうと、川崎さんも、うまくしゃべれているけれど、自分のことばはしゃべっていなかった。そういうことを言うのは、きつすぎるかなという思いがありました。スラスラしゃべれている。ちっとも真実なことばに聞こえないけれども、その人にしてみたら一所懸命しゃべっている。それを、「ほんまにそれがあなたのことばか」という言い方はできなかった。芝居をやるようになってから、だいぶずけずけ言うようになりましたけれどね。

新見 最初に竹内レッスンに出たとき、大勢の前で歌うとか、踊るとかが、すごく嫌でした。大阪のレッスンに参加するようになってからも、ずっと半信半疑で、吃音と何の関係があるのかと思っていました。ところが参加するうちに、だんだん自分のからだや声、人との接し方がわかってきた。今までは人と接することが嫌だったけれど、レッスンに参加して、人と接したり、人に対して動いたりする中で、心に動くものがあってはじめて声が出るということが分かりました。

竹内 初めて来てぴんとくるものがあったから通うようになった、というのなら話は分かりやすいんだけれども、そうじゃなくて、何だかよく分からないのに通う。あなたは一度も休んでいないですね。なぜですかね。今ふっと思い出すのは、新見さんが増田さんとはじめて出会いのレッスンをやったときのこと。あのとき二人の間で何かがスーッとつながった感じがしました。
 それから、「ああ、これだけ声が出た」ということが起こった。そのとき、たまたま出た声にすごいリアリティがあった。決定的でした。細々とした声がやっと出たというようなものじゃない、ボソッと出た声にびっくりするような力があった。それを何とか、もうちょっと引っ張りだしたいと思ってきました。それがこの間の舞台でのセリフ。「ようそんな口きいたな。今度そんなことぬかしたら、ただじゃ済まねえ!」このおとなしい新見さんが、「ただじゃ済まねえ!」。バーンと来て、びっくりした。もっとも、その前にいくつかのステップがあって、彼はそれを一つ一つ、確実に踏んできている。

伊藤 新見さん、レッスンに参加するようになって、日常生活で変わってきたことありますか。

新見 声が出ないときには、どうあがいても無理という諦めがつきました。もがけばもがくほど、声は出ないし、それはもうそれでいいと。

竹内 こういうふうに彼がしゃべっていることに一番びっくりします。前は、「うん」とか「わからん」とか「そうです」とかしか言わなかったからね。
 からだに声が出てくる状態が作られると、ことばは自分の中から出るようになるのかな…。こうしたらこうなる、みたいなプログラムがあってレッスンしているわけではないので、起こってきたことに私もびっくりします。

新見 あのとき、何か心突き動かされるものがありました。だから、ものすごい腹が立ったんです。それで一挙に声が出ました。

伊藤 これまでの生活の中で、突き動かされたりものすごく腹が立ったり悔しかったり悲しかったりってなかったのですか。

新見 あっても表現できなかったんです。押し殺していた、というか…少し自分で鈍感になっていたところはあります。どう感じ、どう受け止め、どう表現したらいいか分からなかったという感じです。

長尾 中学生の時にさくらホールでの芝居を経験し、「十二人の怒れる男」にも出演しました。自分の声に対して意識を持ち始めたのが高校生の頃。合唱部の先生から発声や合唱の技術を教えられ、興味を持ち、それをふだんしゃべる声にも応用できないかと考えました。
 自分がどんな発声をしているのか、どんな声なのか、を確かめてみたいと思いました。レッスンを実際に受けてみて、自分がこうしたいと思っているのと違うことをしていたらしいということが分かりました。
 高校の合唱クラブで腹式呼吸をずいぶん指導されたが、原理も何も教えてくれなくて、ただ単にこんなイメージでやれと…。できないときには先生が矯正してくれたんですが、どんな理屈で成り立っているのかが分からない。
 はじめに声を出すレッスンをやったとき、全然声が出ませんでした。なぜだろうといろいろ考えてみました。普通にしているときは腹式呼吸ができているのに、いざ声を出すときになるとできない。
 腹式呼吸と声を出すことが連結していないんです。腹式呼吸はするけれども、歌を歌う段になったら何もしていない(笑)。
 高校までは吃音をある程度コントロールしていた記憶があります。それなりに詰まらずにしゃべれていました。ところが、しゃべりに応用したいと思って腹式呼吸を習ったのに、腹式呼吸をやればやるほどコントロールできなくなったんです。

伊藤 お腹からいい声が出始めた途端に、吃音のコントロールが崩れたわけでしょう。吃音矯正では腹式呼吸がとても強調される。「腹式呼吸で息をたっぷり入れ、出すときに、息にことばを乗せろ」と。私もそれを試みたが、日常的には身につかなかった。ところが竹内レッスンでは息を吐くことだけが強調される。そうすると、全く意識しないでも腹式呼吸が自然とできるようになるんです。

竹内 意識しなくてもね。息というのはもともと肺の中に70%ぐらいまで入っているんだと思うんですよ。なのに腹式呼吸法では、残り30%を入れてから吐き出そうとするから、いっぱいにしたところで力が入っちゃう。でも、もともと肺の中に空気がある程度あるわけだから、これをギューッと絞って出す。出切っちゃったところで力をパッとゆるめればバーッと入ってきます。100%入る。出さないで、余りのところに一所懸命入れようとしても無理なんです。私は腹式呼吸ということばは使いません。横隔膜呼吸と言います。腹式呼吸というと、腹筋を使う呼吸になりがちです。
 今までレッスンを受けてよかったとか、こういう苦労もあったという話をしてくれたけれども、現在吃音を何とかしたいからレッスン受けているわけじゃないでしょう。結果として楽になったことがあっても、そこを強調すると、そのためにレッスンをやっているという話になりかねない。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/09/24

私の声とことばの履歴書

 「吃音はどう治すかではなく、どう生きるかだ」、これは、僕の一貫した、ベースとなる哲学です。かといって、声やことばに関して何もしないということではありません。声やことばには人一倍関心があり、これまで、「声の教養」を劇作家・鴻上尚史さんから、「表現としてのことば」や「一音一拍、母音を押す」を竹内敏晴さんから学んできました。
 吃音を治すためではなく、相手に届く声を求めてきました。それは、竹内敏晴さんの「からだとことばのレッスン」で、声を出す喜びや楽しさを味わったことがはじまりでした。
 「スタタリング・ナウ」2007.5.21 NO.153 の巻頭言を紹介します。

  
私の声とことばの履歴書
                      日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 吃音はどう治すかではなく、吃音と共にどう生きるかが大切だと、私は30年も前から提案し続けてきた。その「治すかではなく」が、常に誤解を受けてきた。吃音を認めて生きることは、声やことばに関しては何もしないと受け止められたのだった。しかし、私たちが、実は声やことばに対して一番取り組んできたのではないだろうか。
 どもる人のセルフヘルプグループの大阪吃音教室においては、読むことや話すことのトレーニングを取り入れたり、演劇にも取り組んできた。また、どもる子どもたちの吃音親子サマーキャンプも、吃音について話し合うことと、ことばの表現に取り組む劇の上演が2つの大きな柱になっている。
 声やことばに私たちが本格的に取り組み始めたきっかけは、竹内敏晴さんとの20年ほど前の出会いにある。その出会いは衝撃的だった。
 グループのリーダー研修会で、体をゆらし、童謡や唱歌を、今ここで生まれる表現の歌として腹から声を出して歌った時の弾んだ気持ちと、声を出す喜びは今もはっきりと思い出すことができる。
 息が流れ、その息と共に声が出て、歌となっていく。からだがいきいきとし、うれしくなる。声を出すとはこれほど楽しく、体と心が喜ぶものだったのだ。この感動は今も忘れない。
 吃音に悩んでいた頃の私にとって、声を出すことや思いをことばにすることは、相手に近づくためではなく、相手との距離を置くためのものだったと言えるだろう。私のどもることばを聞き手がどう受け止めるか、常に不安と恐れがあった。近寄りたくて発したことばは、時に相手から拒まれた。
 声を出すたびに身構え、からだはこわばった。どもることばを相手に聞かれないようにと、ことばを自分のからだに閉じこめた。
 私が声に関して取り組んだのは、謡曲の師範である父親から手ほどきを受けた謡曲と、大学時代のクラブの詩吟と講談師・田辺一鶴さんから教わった講談だった。かぼそかった声が詩吟でだんだん大きくなり、講談で話のリズムをつかんだ。一時期、お前の話は講談を聞いているようだとよく言われ、喫茶店では恥ずかしいから、もっと小さな声で話してくれと友だちから言われた。
 その後、セルフヘルプグループをつくり、リーダーとなった。人を遠ざけてきたことばは人と人とを結びつけるものになった。リーダーになって人前で話すことが多くなり、大勢の前で話す場に慣れ、話すときの不安や恐れがやわらいでいった。
 20代の終わり、私は大学の教員となった。吃音について独自の哲学をもち主張することばをもっての講義や講演では、家族や友人と話すように話していたのでは伝わらない。一音一音を丁寧に、相手に伝えたいという熱意をもって、相手に伝わるように私はゆっくりと話し始めた。しばらくして、日常生活や親しい人との会話では、相変わらずどもるのだが、大勢の人の前で話す時は、ことばをゆっくり目にコントロールすることが自然と身についたのか、あまりどもらなくなった。
 その後、「吃音と共に生きる」プログラムを作る時、声やことばにも取り組みたいと考えた。国語教育の朗読、アナウンサーの訓練、歌手や声優のボイストレーニングなど、様々なワークショップを経験し模索を続けたが、どもる私たちが取り組みたいと思えるものとは出会えなかった。その後、出会えたのが竹内敏晴さんのレッスンだった。
 今の私は、また人前でもよくどもるようになった。8年ほど前に、私の講演を聞いた人が、今の私のどもる状態にびっくりするくらいだ。自分では意識していなかったのだが、自分の考えを人前で話すとき、竹内敏晴さんの言う「説明・説得的な口調」が身についていたのだろう。それを壊して「表現としての声」を育てて下さったのが、竹内さんだった。今、自然にどもる私が好きだ。
 どもる私たちにかかわり、その延長として大阪で毎月開かれるようになった竹内レッスンの様子を、日本吃音臨床研究会編集の「たけうち通信」をもとに竹内敏晴さんが本として出版して下さった。
 私たちの声とことばの履歴書でもある。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/09/22

影との闘い

 竹内敏晴さんの大阪での定例レッスンの旗揚げ講演会を開催したのは、1999年2月11日でした。強風で雨と雪が交じる最悪の天候の中、当初の予想をはるかに超える185名の参加がありました。以来、竹内さんが亡くなるまで、大阪定例レッスンの事務局を続けました。毎月第2土日、大阪市天王寺区の應典院が会場でした。
 生のレッスンを見てもらおう、参加者にもレッスンを体験してもらおう、1年間のまとめとしてレッスンを受けてきた者で小さな舞台を作ろう、そんな思いから始まったのが、公開レッスンでした。2007年の公開レッスンでの、アーシュラ・ル=グウィンの『ゲド戦記―影との戦い』は、竹内さんの脚色によって、幻想的な、迫力ある舞台となりました。僕も、その舞台に出演したのですが、そのときのことを巻頭言を書いています。「スタタリング・ナウ」2007.3.18 NO.151 より紹介します。

  
影との戦い
                    日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 寒さが戻った早春の日。日本吃音臨床研究会主催の、竹内敏晴さんの公開レッスンが行われた。今年は、アーシュラ・ル=グウィンの『ゲド戦記―影との戦い』。竹内さんの脚色によって、幻想的な、迫力ある舞台となった。
 『ゲド戦記』を一年かけてみんなと読み進む中で私は、「影」とは、吃音に悩む人にとっては、吃音だと強く思った。私と同じような感じをもったどもる青年が自ら希望して、死人の霊を呼び出してしまう場面のゲドを演じた。「影」への不安と恐怖におびえながらも戦い、敗れ、瀕死の傷を負う。九死に一生を得たゲドに、私が演じる大賢人ジェンシャーが優しく、そして厳しく語りかける。
 「そなたが呼び出したのは死人の霊だが、それと一緒に死の精霊のひとつまでそなたは、この世に放ってしまった。そやつはそなたを使って災いを働こうともくろんでおる。そなたは、もはやそやつとは離れられぬ。そやつは、そなたの投げる、そなた自身の無知と傲慢の影なのだ。いいか、ここにいるのだ。十分な力と智恵を獲得して、おのれの身を守れるようになるまでは」
 私は、大賢人を演じながら、吃音に不安や恐れをもち、吃音に闘いを挑み、悩む若い人たちに語りかけているような気分になった。ゲドはその後、再度、影に挑んで敗れる。助言を求めるゲドに、師オジオンがこう語りかけるところで、舞台は終わった。
 「向き直るのじゃ。このまま先へ先へと逃げてゆけば、どこまで行っても、見えぬものに駆り立てられて、見えぬところにさまようしかあるまい。今までは向こうが道を決めてきた。これからはそなたが決めるのじゃ。追われるものが向き直って、狩人を追いつめるのじゃ」
 舞台が終わって、観客との交流のために舞台をおりたとき、一人の若い女性が「伊藤さん、長縄です」とまっすぐに私に近づき、声をかけてきた。思いがけなく、一瞬驚いたがすぐに分かった。翌日が大阪の大学の入学試験で、私に是非会いたかったのだと涙ぐみながら話し始める彼女に、私も目頭が熱くなった。『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』(ナカニシヤ出版)の感想がびっしりと書かれた2通の手紙をいただいていた、岐阜の女子高校生、長縄美帆さんだった。
 「初めて読んだときは、つらかったことをすべて分かっていただけた気がして、涙が出ました。どもるのに教師になれるのかという不安も、佐々木和子さんの話からなくなりました。この本に出会っていなかったら、今の私はありません。伊藤さんに本当に感謝しています。ゼロの地点に立ってからは本当にすごい日々を実感しています。私立の面接の時に面接を恐れなかったことです。以前なら、面接のある大学は避けようとしたと思います。志願理由書にも、吃音の経験から自分の進む道を決めたことを堂々と書きました。どもったらどうしようとは思いませんでした。吃音がきっかけで見えてきた道を叶えるための面接なのに、どもることを恐れるのはおかしいと思えたのです」

 『どもりと向きあう一問一答』(解放出版社)を読んで、北九州での吃音相談会に私に会いに来てくれたのが、広島大学大学院の原田大介さんだ。
 「2005年1月から吃音と向き合うようになり、様々な吃音臨床の場に参加するようになった私の背中を絶えず押して下さったのが、伊藤さんでした。第16回吃音親子サマーキャンプでは私に発表の場を与えて下さいました。2005年7月に演出家・竹内敏晴さんとの個別レッスンを体験できたことや、2006年11月に大野裕さん(慶應大学教授)と私の公開カウンセリングが実現したのも、伊藤さんのご配慮によるものでした。当事者の立場から吃音についての語りを続ける伊藤さんの存在そのものが、私にとっての救いです。私もまた、自分の経験をもとに語り続けていくつもりです」
 送られてきた博士論文の後書きの謝辞に、私との出会いが書かれていた。吃音は闘うのではなく、向き合うものなのだと言い続けてきて、ふたりの若者と出会えた。向き合うとは、揺れ動き、迷い、立ち止まり、時に逃げたりしながらのものだと、大野裕教授の原田さんへの面接に深く共感した。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/09/10

吃音親子サマーキャンプの劇の意味

 第33回吃音親子サマーキャンプが終わって約3週間、ようやくほんの少し、朝晩はしのぎやすくなってきたように思います。今、キャンプの感想がぽつぽつと返ってきています。改めて、夏の大きなイベントだったなあと思います。
 さて、今日は、「スタタリング・ナウ」2007.1.20 NO.149 より紹介します。巻頭言のタイトルは、「キャンプでの劇の意味」です。サマーキャンプの大きな柱である演劇に絞って、その意義を整理しています。

  
キャンプの劇の意味
              日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 私の吃音への苦しいこだわりは、小学校2年生の秋の学芸会『浦島太郎』で、セリフのある役をはずされたことから始まる。「伊藤はどもるからセリフのある役はできないんだ」と友だちから言われ、吃音に強い劣等感をもった。稽古が始まって、学芸会当日までの間に、私はそれまでの明るく元気な子どもから無気力で暗い消極的な子どもへと変わってしまった。吃音に対するマイナスの意識を持ったまま、学童期・思春期を生きた。
 吃音親子サマーキャンプを始めた時、「吃音についての話し合い」と「表現活動としての演劇」は、どうしても入れたかった。私の『浦島太郎』体験が影響しているが、演劇の取り組みは《吃音と向き合い》《吃音とつき合う》上で大きな意味をもつ。
 今回、吃音とは縁もゆかりもなかった渡辺貴裕さんが『演劇と教育』で私たちの吃音親子サマーキャンプの取り組みを紹介して下さった。直接の当事者ではなく、ある意味部外者の渡辺さんが、どんな思いで私たちのキャンプにかかわって下さっていたか、表現活動に取り組んで下さっていたかがよく分かった。それが、多くの人に読まれることは大変ありがたいことだ。
 吃音親子サマーキャンプの意義について、私はこれまでたくさん書いてきたが、「演劇活動」にしぼって今一渡整理しておきたい。

《吃音と向き合う》
 キャンプの大きな柱のひとつである「吃音について話し合う」ことだけが、《吃音と向き合う》ことではない。演劇に取り組むことは、自分がどもる存在であるという事実と向き合うことに他ならない。会話でよくどもる、朗読でよくどもるなど、どもる場面やどもる状態は子どもによってずいぶん違う。
 友達と楽しく遊び、話し合いでも積極的に発言する子が、シナリオ通りに読んで演じていく劇の稽古になるとひどくどもる場合がある。遊びや話し合いではあんなに元気だった子どもが、どもっている状態を周りの子どもに知られ、一時元気がなくなることがある。3日間の劇に取り組む中で、これまでと違った形でどもる事実に向き合う。
《声を耕し、ことばを育てる》
 吃音そのものを治したり、改善することを私たちは目指さないが、声、ことばについては、真剣に向き合い、耕そうとしている。どもっても、その場にふさわしい大きさの声を、表現豊かな声を、耕したい。目を伏せて、うつむき加減に話す子どもに、目の前の人に向かって話しかけようと励ます。演劇は、人と人とが向き合い、響き合うための、格好の教材だと思う。しかも、竹内敏晴さん脚本の劇は、演じていてとても楽しい。
《困難な場面に向き合う》
 ナレーター役を名乗り出た子どもが、最初のことばが出ない。何度も何度も挑戦するが出てこない。周りからの激励やアドバイスにその子どもは怒り出した。そして投げ出した。その子どもに関わり、特訓をしたことがある。「次の日…」の「つ」が言えない。「つ」を言おうとするな、母音をしゃべれと提案し、「ういおい…」。しばらく練習をして、彼はグループに戻っていった。上演での彼のナレーターは見事だった。あまりどもらずにできたことに意味があるのではない。自分が苦手とすること、困難なことに挑戦し、工夫する。サバイバルしていく力を身につけて欲しいのだ。
《自分で自分を支える》
 練習の時はそれなりにできていた子どもでも、140名もの人の前で演じるとなると緊張する。自分以外にも舞台には人が立っているとはいえ、セリフを言うときは、観客の目は一斉にその子どもに注がれる。逃げ出したくなる自分をひとりで支えなければならない。キャンプの場だけでなく、日常生活の中の困難な場でも自分で自分を支えなければならない。どもりながらも演じきるところに何か新しい「力」が生まれるのだ。17年間の中で、最終の上演から逃げ出した子どもはいない。
 まだまだこの他にもあるだろうと思う。今後スタッフや子どもたちと「キャンプの演劇」の意味について語り、確認していこうと思う。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/09/07

第11回親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会、無事、終わりました

講習会3横断幕 7月27・28日の2日間、千葉県教育会館で、久しぶりに講師を迎えて、第11回親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会を開催しました。
 今回の講習会の講師は、長いおつきあいのある東京学芸大学教職大学院准教授の渡辺貴裕さんでした。また、今回のテーマは、「やってみての気づきと対話〜どもる子どもが幸せに生きるために、ことばの教室でできること〜」でした。
 始まる2日前には、多くて40人かなという状況だったのですが、終盤、参加者がぐんと増えて、50名になり、印刷した資料集が足りないかもと心配しましたが、当日キャンセルがあって、結局は48名でした。沖縄、鹿児島、新潟、山形など、遠いところからの参加もありました。
講習会4渡辺さん 講師の渡辺貴裕さんとのおつき合いは、25年ほど前に遡ります。大阪での竹内敏晴さんのからだとことばのレッスンに、レッスン生として参加していた、当時大学院生の渡辺さんに、吃音親子サマーキャンプに参加しませんかとお誘いし、渡辺さんが参加したことから始まりました。竹内さんが2009年にお亡くなりになってからは、竹内さんの代わりに、サマーキャンプの大事なプログラムである演劇の担当として、スタッフへの演劇指導の事前レッスンからお世話になっています。今年も、講習会のつい2週間前、吃音親子サマーキャンプの事前レッスンでお世話になったばかりでした。

 1日目、最初のプログラムは、僕の基調提案でした。どもる子どもとの対話ができない、難しいという声を聞くので、なぜできないのだろうか、なぜ難しいのだろうかということをテーマに話を展開していく予定にしていました。その答えは、昨年6月、鹿児島県大会で話したことの中にあると思うのですが、それは今回の資料集の中に入れていたので、同じような話をすることもないかと思い、急に予定を変更しました。
 そもそも、「どもる子どもってどんな子?」という問いかけから始めようと思いました。吃音とは? どもることとは? という話はよく出てきますし、本にもそのようなことばを章立てしているものを見かけることはあります。しかし、どもる子どもとは?という問いかけはあまり見たことがありません。
講習会1講習会2 そこで、実際に、2人組になり、どもる子どもと担当者になって、対話をすることで、参加者のもつ、どもる子どもの像が明確になるのではないかと思いました。
 参加者のみなさんは、最初からそんなワークをすることになるとは想像されていなかったでしょうから、きっと戸惑われたことと思います。
 どうしても、今、自分が担当している子どもの姿から、どもる子どもを想像してしまいがちですが、実際にはいろんな子どもがいます。今、とても明るく元気でも、将来ライフステージが変わると、どんな悩みをもつか分かりません。担当者の思い込みで、子ども像を決めてしまわないで、当の本人に聞いていくという姿勢を大切にしてほしいと思いました。そのための対話なのです。戸惑いの中で始まった講習会でしたが、最初の頃は、不安げだった参加者も、だんだんと表情がやわらかくなり、その場の自分の気持ちを素直に表して、楽しんでいたように見えました。
 午後の渡辺貴裕さんのワークショップになると、渡辺さんの魔法にかかったかのように、ワーク、ふりかえり、グループで場面やシーンをつくり、ふりかえり、考え、動き、みんなでシェアし、など、頭と身体を目一杯動かした研修会になりました。 次々と出される課題設定が刺激的で、新鮮な研修会になりました。
講習会5伸二とみんな まさか本当に、夜の8時45分まで研修をするとは思っていなかったという初参加者もいましたが、プログラムに書いてあったとおり、きっちり8時45分までして、1日目を終えました。ハードな一日が終わり、心地よい疲れの中に、満足感もたっぷりでした。

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2024/07/31

響き合うことば 2

 昨日のつづきです。
 僕は、ヘレン・ケラーとサリバンの話をしています。「奇跡の人」は、これまで、映画でも舞台でも、幾度も上映、上演されています。有名な「ウォーター」の場面の解釈、「奇跡」といわれることのとらえ方にはいろいろあるようですが、竹内敏晴さんから教えてもらった、ここで紹介する話が一番ぴったりときます。
 どもっていたがゆえに悩み、苦しくつらい思いをしてきた僕にとって、「ことば」は特別なものでした。なめらかに流れることばさえあれば…と思っていましたが、ことば以前にお互いを思い合う、響き合う関係性があるのだと思います。

2003年2月15日 石川県教育センター
 《講演録》 響きあうことば
             伊藤伸二・日本吃音臨床研究会会長


ヘレン・ケラーとサリバン
 〈変わる〉ことについて、エリクソンの基本的信頼感、自律性、自発性、勤勉性と関連させて、子どもの発達に関係する一つの事例として、ヘレン・ケラーの話をしようと思います。
 この4月、大阪の近鉄劇場に、大竹しのぶ主演で『奇跡の人』という芝居がきます。早速申し込んで、久しぶりに芝居を観に行くのです。
 『奇跡の人』は、アン・サリバンとヘレン・ケラーの話ですけれど、ヘレン・ケラーの話をどこかで聞いたことのある人、ちょっと手を挙げていただけますか。(たくさんの手が挙がる)
 ありがとうございます。大分多いので、話し易いですが、当時、芝居よりも映画でした。アーバンクラフトがサリバンで、パティー・デュークという名子役がヘレン・ケラーでした。
 この芝居がまだ日本で紹介されない前に、先程話しました竹内敏晴さんが、演出しないかと言われたときに、竹内さんがシナリオを読んで疑問をもったそうです。『奇跡の人』の有名なシーンは、食事中に暴れ回り、水差しから水をこぼしたヘレンとサリバンが格闘をして、ポンプから水を入れさせている時に、ヘレンの手に水があたって、「ウォーター」と言う。そこで奇跡が起こったとして、『奇跡の人』というタイトルがっいたのでしょうけれども。竹内さんは、「そんな馬鹿げたことがあるか。殴り合って格闘して、ワーッとなっているときに、ポンプの水でウォーターなんて、そんなことが起こるはずがない」と思って、その芝居の演出をしなかったという話をしてくれたことがあります。
 私は、竹内さんの話に興味をもって、ヘレン・ケラーの自伝と、『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』(明治図書)の2冊の本を読みました。サリバンが、ホプキンスという親友に、ヘレン・ケラーとのかかわりについて、手紙を出していて、手記のようなものを丁寧に読んでいくと、竹内さんがおっしゃるとおり、全然違うことが分かりました。大竹しのぶさんの芝居が、「ウォーター」のシーンをどう演じるか、とても楽しみにしているのです。

まず、からだごとの触れあい
 ヘレン・ケラーは、目が見えない、耳も聞こえない、ことばのない少女ですが、7歳のときに、家庭教師として雇われたサリバンとヘレン・ケラーの関係が始まります。ことばを獲得して、話せるようになって、日本でも講演している人です。
 『奇跡の人』という『奇跡』は何を指すのでしょうか。「ウォーター」と、ことばを発見したことが奇跡だとして、芝居では『奇跡の人』とタイトルをつけているのでしょうが、サリバン自身が、自分の手紙に「奇跡が起こりました」と書いているのは、この場面ではありません。
 サリバンが出会ったときのヘレン・ケラーは、全くしつけられていなくて、食事の作法についてサリバンはこう表現しています。
 「ヘレンの食事の作法はすさまじいものです。他人の皿に手を突っ込み、勝手に取って食べ、料理の皿がまわってくると、手でわしづかみで何でも欲しいものをとります。今朝は、私の皿には絶対手を入れさせませんでした。彼女もあとに引かず、こうして意地の張り合いが続きました」
 サリバンは、このヘレン・ケラーと向き合った後、こう言っています。
 「私はまず、ゆっくりやり始めて、彼女の愛情を勝ち取ろうと考えています。力だけで彼女を征服しようとはしないつもりです」
 これはサリバンの覚悟なのでしょう。一筋縄ではいかない。からだごとぶつかって、自分も一緒に生きるところで彼女と向き合わなければ、彼女のことは理解できないし、彼女が変わらない。基本的信頼感がお互いになければ、家庭教師として、教えることはとてもできないということです。
 それを確立するために、2週間という期限を区切って、小屋に二人で住まわせてほしいと申し出ます。一つの小屋で、食事から何から完全に二人きりの生活です。これまでは自由奔放に勝手気ままに生きてきたヘレンにとって、この閉ざされた空間で、サリバンと二人だけの生活は、非常に厳しいのですが、濃密です。これは、乳児期・幼児期の母と子の関係に近い関係です。サリバンに従わないと、食事すらできない。信頼はともかく、柔順に従わざるを得ない状況です。
 初日の食事のときの格闘の後は、サリバンの雰囲気を感じると逃げていたヘレンが、二人きりの生活の中で変わっていくのです。6日から7日目のことですが、サリバンは、こういうふうに親友に手紙を書いています。
 「今朝、私の心はうれしさで高鳴っています。奇跡が起こったのです。知性の光が私の小さな生徒の心を照らしました。見てください。全てが変わりました。2週間前の小さな野生動物は、優しい子どもに変わりました。今では、彼女は、私にキスもさせます。そして、ことのほか優しい気分のときには、私のひざの上に1,2分は乗ったりもします。しかし、まだキスのお返しはしてくれませんが」
 家庭教師と生徒の関係を越えて、人間と人間の生身のぶつかり合いの濃密な生活の中で、この基本的信頼に近い感覚が芽生え始めたのでしょう。この関係ができたことを、サリバンは、「奇跡が起こった」といっているのです。ここまでの取り組みがいかに大きなことかは、サリバンの「奇跡」ということばで分かります。随分とおとなしくなったヘレンを見て家族はとても喜んで、2週間という約束だから、また家に戻してくれという。サリバンは、まだまだそんな状態ではないからもう少しこのままの状態を続けたいと強く訴えるのですが、約束だからと家の人がつっぱねる。そして、2週間後に家に戻ったのですが、最初の夕食がすごい勝負なのですね。

自律から自発へ
 そのあたりは芝居でどうなるか興味深々なのです。誰も助けてくれない、閉ざされた小さな小屋では、彼女はナプキンをつけて食べるようになった。自分の父や母のいる安全な場面に来たときにもそれができるか、です。勝負だったのですね。これが人間ではなくて犬の調教だったら、調教したことは、場所が変わってもできる。でも、ヘレンは人間ですから、そうはいかない。そこで、最初の晩餐のときに、ナプキンをおこうとすると、彼女はダーッとナプキンを放り投げて、またわしづかみで食べ始める。要するに、最初に出会ったときと同じ状態に戻るのですね。ヘレン・ケラーとサリバンの勝負です。
 教えた食事の作法でやらせようと思っても、バーっと振り払って絶対させてくれない。芝居や映画では、この格闘でこぼした水差しに水を入れさせるために、食堂から引きずり出す。そして、ポンプのとこで「ウォーター」と感動的な場面になるのですが。サリバンの手紙によるとそうじゃない。その晩は仕方ないから、そのままにしておいて、次の朝、何とも言えない気持ちを抱きながらも、サリバンが食堂へ行ったときに、ヘレンが先に席についていて、ナプキンをしている。サリバンが教えた方法ではなくて、自分のやり方でナプキンをしていた。それは、竹内敏晴さんから言うと「それはサインだ。つまり、サリバン、あなたが教えようとしたことは要するにこういうことなのでしょ。要するに、形は違うけれども、こういうものをつけて食事をしろということを教えたかった。それを私流にすると、こうなんですよ。それをあなたは受け入れるか。私の自律性を認めるか。私を尊重するのですか」という問いかけだった。それに対してサリバンが、「それじゃだめでしょ。私があれだけ教えた方法でやりなさい」と無理強いしたら、その後のヘレンとサリバンの関係はなかったでしょう。すごい勝負どころだったと、竹内さんは言います。
 サリバンは、やり直しをさせなかったということで、「OKだ。あなたはあなたのままでいい。そのあなたのやり方でいいんだよ。そういうふうにして食事をしてくれればいいのだ」と、無言のOKを出すのです。
 ヘレン・ケラーの自伝と、サリバンの手紙を読み比べると、随分面白い。ヘレンは、自分自身のことだから、手づかみで食べたことなど書いてないし、かんしゃくの発作という表現はあっても、サリバンと凄い格闘があったことなど、まったく書いていません。しかし、サリバンは明確に書いています。
 二人きりの生活の中で基本的信頼が芽生え、この場面で自律性が尊重されたことによってさらに信頼感は確実なものになっていきます。
 基本的信頼の階段をのぼり、自律性、自発性、勤勉性の階段をのぼり、どんどん学び、言語を獲得していくのです。サリバンとヘレンが一緒に階段をのぼっていったのだと思います。
 母と子の関係や、教師と生徒、カウンセラーとクライエントとの関係にしても、どちらかが一方的に相手を信頼するから基本的信頼感が育つのではありません。母親から子どもへの一方通行ではなくて、母親自身が子どもを信頼するという関係は重要です。いろいろ大変な事があっても、私はこの子どもを育てることができる、大丈夫なんだという自信。その信頼が、子どもに伝わり子どもは母親を信頼する。サリバンはヘレンに対しで「この子は力がある。きっと変わる」という、人間として成長していくという大きな信頼があったのだろうと思います。
 その信頼に対して「本当にあなたは私のことを信頼してくれているのか」という、すごい強烈な問いかけを、サリバンから教えられたのとは違うナプキンのかけ方で、無言で試したのだと言えます。それに対してサリバンは「あなたはあなたのままでいいのだよ。それでいいのだ」と言う。このメッセージを受けて、食事が終わってから、ヘレンがサリバンのところへきて手をつなぐのです。OKを言ってもらってありがとうなのか、私を認めてくれてうれしかったのか、手をつなぐのです。そこから本当の意味での相互の基本的信頼が深まったのでしょう。

深いやすらぎと、集中の中で
 それからは、二人でいつも手をつないで、山道を歩き回り、ものに触り、いろんな事を一緒にする。お互いにゆったりとした、安心できる人間関係の中で、リラックスした中で、その「ウォーター」が起こるわけですね。ヘレンは自伝でこう書いています。
 「私たちは、スイカズラの香に誘われて、それに覆われた井戸の小屋に歩いて行きました。誰かが水を汲んでいて、先生は私の手を井戸の口に持っていきました。冷たい水の流れが手にかかると、先生はもう一方の手に、初めはゆっくり、次にははやく、『水』という字を書かれました。私は、じっと立ったまま先生の指の動きに全神経を集中しました。すると突然私は、何か忘れていたことをぼんやり意識したような、思考が戻って来たような、戦標を感じました。言語の神秘が啓示されたのです。そのとき、『W-A-T-E-R』というのは、私の手に流れてくる冷たい、すばらしい冷たい何かであることを知ったのです。その生きたことばが魂を目覚めさせ、光とのぞみと喜びを与え、自由にしてくれました」
 この場面をサリバンはこう書いています。
 「井戸小屋に行って、私が水を汲み上げている間、ヘレンには水の出口の下にコップを持たせておきました。冷たい水がほとばしって、湯飲みを満たした時、ヘレンの自由な手の方に『ウォーター』と綴りました。その単語が、たまたま彼女の手に勢いよくかかる冷たい水の感覚にとてもぴったりしたことが、彼女をびっくりさせたようでした。彼女はコップを落とし、くぎづけされた人のように立ちすくみました。そして、「ある新しい明るい表情が浮かびました。彼女は何度も何度も、『ウォーター』と綴りました」
 芝居や映画では、格闘し、つかみ合いながらのあの感動的な『ウォーター』が実際にはなかったことがはっきりと、ヘレンの自伝からも、サリバンの手紙からでも分かるのです。
 私は人間と人間を結びつけるのは、ことばだと思っていました。そして、どもるためにことばがうまく話せない私は、人間と人間との関係が作れない、保てないと思っていました。ところが、ヘレンとサリバンの初めのころの関係の中では、全くことばがなかったわけです。人と人とが向き合う関係の中で、教える、教わるという役割を越えた関係の中で、響き合ったのではないかと思うのです。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/06/04
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