伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

竹内敏晴

竹内敏晴さんに壊された私のことば

 昨日は、『演劇と教育』〜竹内敏晴さんを悼む〜の特集に掲載された、渡辺貴裕さんの文章を紹介しました。今日は、藤原書店『環』〜竹内敏晴さんと私〜に掲載された、「竹内敏晴さんに壊された私のことば」と題する僕の文章です。
 僕たちは、竹内さんの大阪定例レッスンの事務局を10年続けました。10年間、8月を除いて毎月、竹内さんに会い、話を聞きました。そのほか、吃音ショートコースのゲストとして来ていただいたり、吃音親子サマーキャンプの芝居の事前レッスンでもお世話になりました。たくさんのことを学びました。
ほらんばか1 名古屋と東京で上演された芝居「ほらんばか」で舞台に立ったこと、僕にとって忘れられない思い出です。(「スタタリング・ナウ」2010.11.28 NO.195 より)

  
竹内敏晴さんに壊された私のことば
                    日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二
    藤原書店『環』〜竹内敏晴さんと私〜vo1.43/2010.Autumn


 私は、竹内敏晴さんに、意図的に「ことばを壊された」、おそらく唯一の人間ではないかと思う。壊されたとは、世間一般の価値観からすればのことで、私にとってはありがたいことだった。あまりどもらなくなっていた私は、竹内さんの芝居の稽古の結果、再びどもるようになった。
 私は21歳まで、吃音に深く悩み、民間吃音矯正所で必死に治療に励んだが治らず、治すことを諦めた。どもりながら日常生活を続ける中で、親しい人とでは相変わらずどもるものの、大学の講義や講演など、人前で話すときは、ほとんどどもらなくなっていた。
 吃音を治すではなく、どもる人が、もう少し楽に声が出ないかを探っていたころ、竹内さんに出会った。20年以上も前のことだ。どもる人とレッスンを受け、声を出す楽しさ、喜びを味わった。楽しくて、私はその後、毎月レッスンを続けた。毎週大阪から名古屋の大学の講義に通うなどの熱意に、竹内さんは、私を芝居の主役にと考えて下さった。私の吃音の悩みの始まりが、小学2年生の学芸会で「セリフのある役」から外されたことによることをご存知だったからだ。大学の講義が始まる前の1時間を稽古に当てて下さった。その時のことを、私の『新・吃音者宣言』(芳賀書店)の紹介文にこう書いて下さった。
 「伊藤さんは、台本を熱のこもった声で朗々と読み上げた。ほとんどどもらない。まっすぐにすらすらことばは進む。この日のわたしの手帳には『ほとんど絶望的になる』とある。つきあって数年かなりレッスンをし、ことばに対する考えは共通しているつもりでいたのだが、からだにはなにも滲みていなかったということだろうか。『説得、セツメイ的口調の明確さを、一音一拍の呼気による表現のための声に変えていくことができるか』・・(中略)劇の上演はすさまじい迫力だった。東京の劇団にいる青年が、幕が下りた後訪ねてきて、これほど感動した芝居はなかった、と息を弾ませて言った」
 芝居は、東北地方の青年が、新しい農業を根付かせようと格闘し、狂気のはてに恋人を殺してしまう、秋浜悟史作『ほらんばか』だ。情念の世界を演じるこの芝居は、「吃音を治す」に、「治すではなく、どう生きるかだ」と闘う運動家として、「説得、セツメイ的な口調」が身にっいている私には、無理だと考えたそうだ。しかし、私の劇へのこだわりを知っているだけにさせてもやりたい。竹内さんは迷いに迷う。
 奇妙な声で人気があったある女優が、このままでは芸域が広がらない、声を変えたいと竹内さんのレッスンを受けに来た。しばらくレッスンをしたが、このままレッスンを続けると、人気の声が壊れるかもしれない。話し合い、本人の意志でレッスンを中止した。竹内さんにはこのような経験があるから、私に稽古をすることを躊躇したのだそうだ。伊藤なら、壊れたとしても、自分なりに受け止め、対処するだろうと信頼し、覚悟を決めて、竹内さんは、私を主役にし、激しい稽古を付けて下さった。
ほらんばか2 夏公演のこの舞台は、晩秋に名古屋でも再上演された。そして、その冬、私のことばは見事に壊れた。金沢市での新任教員研修の講演。120人を前にして、ある文章を読み上げている時、ひどくどもり、その後の話も話しづらかった。人前でこれほどどもったのは、ここ30年で初めてのことだ。その日から私は、人前でも、普段でも同じようにどもるようになった。自分ではまったく気づかなかったが、人前ではどもらないようにとコントロールしていたのだろうか。「情報伝達のことば」と「表現としてのことば」の乖離がなくなったことを私は喜んだ。そのように受け止めた私を、竹内さんも喜んで下さった。
 その後、日本吃音臨床研究会主催で、竹内敏晴さんの「大阪定例レッスン」が始まり、丸10年が過ぎた。そして、11年目の6月にがんが発見されながらも、私たちの吃音親子サマーキャンプで行う劇の台本を書き下ろし、合宿で演出指導をして下さった。7月には、定例レッスンをいつものようにこなして、9月にお亡くなりになった。
 「私は聴覚言語障害者だ」と、吃音について強い関心をもち、どもる私たちを仲間としていつも大切にして下さった。毎月の大阪のレッスンの時、宿舎に戻る前に立ち寄る、ハーブティーの店で1時間ほど、生きること、ことばについて、プライベートなことまで包み隠さずいろいろと話して下さった。このひとときは、私にとって至福の時間だった。
 学んだことを、『親や教師、言語聴覚士が使える、吃音ワークブック―吃音を生きぬく力が育つ―』(解放出版社)の中に、多くのページをさいて残せたことがうれしい。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/04/14

レッスンを通して学んだもの

 2009年9月、竹内敏晴さんが亡くなりました。吃音親子サマーキャンプの大切な柱のひとつ、表現活動としての演劇は、竹内さんの全面的な協力で成り立っていました。その後を継いでくれたのが、現在、東京学芸大学教職大学院准教授の渡辺貴裕さん。吃音とは全く関係のない渡辺さんは、学生の頃から現在までずっと、吃音親子サマーキャンプのスタッフとしてかかわってくれています。その渡辺さんの、『演劇と教育』〜追悼竹内敏晴さんを悼む に書かれた文章を紹介します。(「スタタリング・ナウ」2010.11.28 NO.195 より)

レッスンを通して学んだもの
  『演劇と教育』〜追悼竹内敏晴さんを悼む 竹内さんと『演劇と教育』〜2010 NO.621
                      渡辺貴裕 岐阜経済大学(当時) 


 昨年6月にレッスンを受けたのが最後になってしまった。まだまだレッスンを受けられると勝手に思い込んでいた自分の甘さが悔やまれてならない。
 私が竹内さんに初めて出会ったのは、1999年2月、大阪での定例レッスンの旗揚げとなる講演会においてだった。それから私はレッスンに通い出した。定例レッスン、「仮面」「クラウン」「砂浜の出会い」の合宿レッスン……。
 それらのレッスンの場で、私は、今までに味わったことがない感覚を経験することになった。例えば「話しかけのレッスン」。「こっちへ来て」と自分に向かって言われていても、声が自分のところにやってこない。周りで見ていると声の軌跡がよく見える。自分が呼びかけてみてもやはり声は届かない。誰がやってもうまくいかないんじゃないかと思っていたら、竹内さんに「こっちへ来て」と呼びかけられ、思わず身体が動いてしまう……。人に話しかけたり話しかけられたりなんて毎日していることである。しかし、そこにこうした次元の出来事が存在するなど思いもよらなかった。不思議な感覚だった。
 竹内さんとの出会いがなければ、私は今のような、演劇的活勤や国語教育を研究テーマにする教育方法学研究者にもなっていない。レッスンに足繁く通っていた当時、私はまだ研究の方向性が定まらない教育学研究科の大学院生だった。レッスンを自分の研究に活かすつもりもなかった。ただレッスンが楽しいから通っていた。研究はそれとは別に、戦前の児童文化論の歴史研究をしていた。
 大学院の4年目の中頃から、私は教育現場とのかかわりを持ち出した。研究室で共同研究を行っていた小学校の国語の授業に週に何度も通うようになり、また、他の学校の授業も見に行くようになった。そのなかで私は、「もったいない」ということをたびたび感じた。先生も子どもたちも、「国語の授業ではこうしなければならない」という縛りを暗黙の内に抱えている。読点で一拍、句点で二拍の間を空けてみんなで声を揃えて読むのが良い音読、「話型」を守って発言させれば良い話し合い……。もっと自由にできるのに、そうすればもっと子どもたちも先生も楽しめてかつ充実した学びになるだろうに。そうしたもどかしさは、竹内さんのレッスンを通して耕した身体があったからこそ感じるものであった。そして、そこで掻き立てられた問題意識がその後の私の研究者としての歩みを方向付けることになった。
 竹内さんから学んだことはあまりに大きく、今の私にはそれをまとめられそうにない。また、私は教育学や教育実践について学んでいくなかで、竹内さんが教育分野に及ぼした影響の大きさも知ることになるが、その全体像を描き出すだけの力も今の私にはない。
 ただ、一つ感じることがある。それは、レッスンや著作他を通してこれだけ大きな影響を多くの人に与えていながら、おそらく竹内さん自身には、何かを教えてやろうという意図はまるでなかっただろうということだ。ヒトが人間としてどんな可能性をもっているのか。またその可能性をどうやって(竹内さんの言葉を借りれば)「劈いて(ひらいて)」いくことができるのか。それをレッスンという場を用いて追求していかれた。レッスンのはじめに竹内さんは、先日のどこそこのレッスンでこういう出来事があってこういうことまで見えてきた、今日はさらにその先に進んでみたい、といったことをよくおっしゃっていた。レッスンの中身も変化していった。私たちは、竹内さんのそうした追求に同行させてもらい、それぞれで何かをつかんでいったということなのだろう。
 そんな竹内さんから最後に一度だけ直接的な「誘い」を受けた。昨年6月に行われた、吃音親子サマーキャンプの事前合宿でのレッスン。竹内さんは私に、膀胱がんが見っかったこと、手術は受けずに最後までレッスンを続けるつもりであることを明かされ、おっしゃった。「僕から学んでおきたいことがあったら今のうちに学んでおいてください」。まだ一見元気そうに見える竹内さんからの言葉に、私は戸惑うしかなかった。3か月経たないうちに計報を聞くことになるとは思ってもみなかった。もっと学んでおきたかったと願ってももう手遅れになってしまった。竹内さんの言葉に応えることができなかったお詫びとして、また、それまでに学んできたことの恩返しとして、私もまた自分なりの追求を続けていきたいと思っている。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/04/13

吃音親子サマーキャンプの仕組み

 昨日に続いて、第21回吃音親子サマーキャンプの特集です。20回という節目を越え、吃音親子サマーキャンプの仕組みについて、先月号は、話し合いのもつ意味を、そして今月号は、演劇のもつ意味をまとめています。
 まず、「スタタリング・ナウ」2010.11.28 NO.195 の巻頭言から紹介します。

  
吃音親子サマーキャンプの仕組み
                    日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 21年続いている、2泊3日の吃音親子サマーキャンプのプログラムは実にシンプルだ。
 当初、ある地方自治体の言語聴覚士と実行委員会を作って取り組んでいたが、意見は、このように常に対立した。
◇吃音に悩んでいる子どもに、話し合いや劇など、プレッシャーになることをさせず、仲間と出会い、楽しい経験をさせる「楽しいキャンプ」
◇仲間と出会い、課題に仲間と挑戦し、達成した「喜びを自らつかみ取るキャンプ」
 数年後、日本吃音臨床研究会単独で開催するようになって確立したプログラムは、そのまま現在も変わっていない。遊び、楽しみの要素は、2時間ほどの野外活動があるだけだ。
 初めて参加した人は、遊びの要素のなさと、そのあまりのハードさに驚くが、キャンプが進む中で、そのハードさに慣れ、実はこれが楽しいキャンプなのだと気づいてくれる。おそらく、世界でもこのような吃音キャンプは類を見ないだろう。
 キャンプの3つの柱は次のとおりだ。
 1.吃音に向き合う、話し合いと作文教室
2.劇の稽古と上演
3.親の学習会
90分の話し合いは、初めて参加したことばの教室の担当者や言語聴覚士が、子ども達がここまで集中して話し合いができるのかと驚くほど深い。そして、滋賀のキャンプに参加する子どもが特別な存在ではないのだから私たちにもできると、話し合いやグループ活動をその後の臨床に取り入れるようになる。キャンプで大切にしていることが、全国に広がるのはうれしいことだ。島根県、静岡県、岡山県、群馬県へとキャンプは広がっている。
しかし、演劇活動は、私たちも、竹内敏晴さんとの出会いと、竹内さんの全面的な協力、指導がなければできなかったことで、どこででもできることではないだろう。
「劇の稽古」がどのように展開されているのかを私は詳しくは知らない。その時間帯は、保護者の学習会があるので、立ち会えないからだ。各グループの取り組みは、スタッフ会議で知る程度だ。
今回のグループごとの報告で、各グループが何を大切にして、どう取り組んでいるのかが分かり、興味深かった。竹内敏晴さんのレッスンを何度も受け、吃音だけでなく、ことばや表現について、幾度となく話し合ってきた仲間だから、共通することが多いのは当然だが、その時、その時の参加するメンバーにあわせて、独自の取り組みが変わっていっておもしろい。
キャンプは、子どもたちにとっては、劇と話し合いが両輪で、どちらを欠いても、私たちの吃音親子サマーキャンプにならないことが、今回の報告でもよく分かる。
かつて学校教育の中には、勉強には自信がないが、運動会では活躍するなど、バランスがとれるところがあった。正義のガキ大将も機能していた。しかし今は、自信を失わせないようにとの教育的配慮で、自分が何ができて何ができないかが鮮明にならない。キャンプでは、話し合いでは話せなかった子が、演劇の稽古でイキイキと友だちと関わったり、反対に話し合いや遊びの場ではイキイキしていた子が、演劇では苦戦したりしている。
それぞれが、得意なことと、苦手なことの両方に向き合っている。そして、それぞれの子どもが自分の特徴を活かせる場があり、居場所がある。
話し合いで気になった子どものことは、スタッフ会議で共通のものとなり、演劇の稽古にバトンタッチされる。その連携がうまくいき、変わっていく子どもを私は何人も見ている。話し合いも、演劇も、自分と向き合わざるを得ない、ある意味厳しいプログラムだ。どちらか一方では、子どもの力を見誤ってしまう。子どもの力を信じ、それぞれの子どもに関わり、吃音親子サマーキャンプの、全体としての装置としての「場」を大切に考えるスタッフと、今後もキャンプを続けたい。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/04/11

内的などもり

谷川俊太郎3 昨日に続き、谷川俊太郎さんを特集した「スタタリング・ナウ」最新号の巻頭言を紹介します。医学書院の白石正明さんが、ご自分のFacebookで、この巻頭言について投稿されたということを友人から知らせてもらいました。「スタタリング・ナウ」の一面の写真入りです。谷川さんが、このように、吃音について発言されることは、おそらく僕たちだけに限られたことだと思いますが、それだけにとても貴重なものだと思います。言葉について人生を賭けて考えてこられた谷川さんの率直なメッセージ、大切にしたいです。

 今、ブログ、Twitter、Facebookなどで紹介している月刊紙「スタタリング・ナウ」ですが、4月からの2025年度購読をお願いしている時期です。もし、ご希望の方がおられましたら、郵便局に備え付けの郵便振替用紙をご利用の上、購読費年間5,000円をご送金ください。どもる人やどもる子どもや保護者の体験、ことばの教室などでのどもる子どもへの実践、イベント情報など、吃音に関する情報満載です。主な読者は、ことばの教室担当者や言語聴覚士、どもる子どもの保護者、どもる成人、教育関係者、その他吃音とは直接関係ないけれど、ことばや声、生きることなどに関心のある人などです。

  加入者名  日本吃音臨床研究会
  口座番号  00970-1-314142

 では、最新号「スタタリング・ナウ」2025.2.21 NO.366 の巻頭言を紹介します。

内的などもり

    日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 
 『父がどもりだったので、吃音に私は違和感なく育ちました。父は大学教師でしたが、講義や講演などはどもらずにしていたようです。しかしうちではときにどもることがあって、ふだんは少々もったいぶって喋る美男子の父がどもると、私はどこか安心したものでした。
 英国の上流階級の喋り方を映画などで聞くと、ときどきどもっているように聞こえますが、あれは一種の気取りでしょう。どもることで誠実さを仮装する習慣のようにも思えます。
 どもるとき、父の言葉はどもらないときよりも、感情がこもっているように聞こえましたが、それはどもらない人間の錯覚かもしれません。しかし私にはあまりになめらかに喋る人に対する不信感があるのも事実で、これは自分自身に対する疑いと切り離せません。私もいわゆるsmooth-tonguedの一人なのです。
 でも私だって自分の気持ちの中では、しょっちゅうどもっています。それは生理的なものではないので、吃音とは違うものですが、考えや感じは、内的などもりなしでは言葉にならないと私は思っています。言葉にならない意識下のもやもやは、行ったり来たりしながら、ゴツゴツと現実にぶつかりながら、少しずつ言葉になって行くものではないでしょうか。
 そうだとすれば、どもりではない人々と、どもる人々との間には、そんなに大きな隔たりがあるとも思えません。せっかちに聞くのではなく、ゆっくり時間をかけて聞けば、吃音は大きな問題ではないはずです。ビジネスの多忙な会話の世界ではハンディになることが、人と人の気持ちの交流の場ではかえって有利に働くこともあると思います。こんなせわしない時代であるからこそ、話すにも聞くにも、ゆったりした時間がほしい。
 先日、日本吃音臨床研究会の活動の一端に触れて、私は言葉についての自分の考えを訂正する必要がないことを確認できましたが、それが吃音のかかえる苦しみや悩みを軽視することにはならないと信じています』

谷川俊太郎2 「内的どもり」と題する谷川俊太郎さんのこの文章は、竹内敏晴さんと谷川俊太郎さんをゲストに開いた、1998年の吃音ショートコースの直後に、参加しての感想のように送られてきたものだ。
 谷川さんは、これまで出会った父親を含めてどもる人に対しては、自分の感性のままに自然に接してこられたのだろうが、どもる人の集団の、それぞれに違うどもる人を前にして、少し身構えるところがあったのかもしれない。それが私たちと出会って、「言葉についての自分の考えを訂正する必要がないことを確認できました」とある。「吃音について」ではなく、「言葉について」とあるところが興味深い。私たちが吃音に拘泥していないことを喜んでくださったのだろう。
 谷川さんの「生きる」の詩をもじって、即興でつくった「どもる」の詩を大阪吃音教室の仲間が身体表現もつかって朗読した時、谷川さんは大笑いして、「これはパロディーではなく、立派な替え歌ですよ」と喜んでくださった。どもる人の集団の中にいるという意識が吹き飛んだのだと思う。
 だから、「竹内敏晴・谷川俊太郎対談」の時、司会者の私がつい話した女性にもてた大学時代のエピソードに、「それは、ほとんど話さず聞き役になっていた伊藤さんを、誠実な人だと錯覚したんですよ、きっと」のツッコミがすぐに飛んできたのだろう。もうこの人たちには何の遠慮もなくつき合えば良いのだと、安心感をもたれたのだと思う。
 その後、何度もお会いする機会があった。その度に話していただいた、愛、人生、詩についての数々の言葉が、私のからだに染みている。
 対談相手の人選に困っていた全国難聴・言語障害教育研究協議会山形大会事務局に、「たとえば、伊藤伸二のような人」と、実質的には、伊藤伸二を指名した形になったこの記念対談の後半部分を紹介する。対談の最後に、600人の参加者と谷川さんと一緒に歌った「鉄腕アトム」の歌は、今も、私への応援歌になっている。改めて、谷川俊太郎さん、本当にありがとうございました。(「スタタリング・ナウ」2025.2.21 NO.366)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/03/02

谷川俊太郎さん、ありがとうございました

 日本吃音臨床研究会は、月刊のニュースレター「スタタリング・ナウ」を発行しています。「スタタリング・ナウ」は、今月号で、NO.366となりました。今、ブログやTwitter、Facebookで紹介しているのは、昔の「スタタリング・ナウ」です。
 少し前のブログ、Twitter、Facebookで、竹内敏晴さんが亡くなられたときに竹内さんの特集をした「スタタリング・ナウ」を紹介しました。そのときに、谷川さんから、竹内さんに送られたメッセージを紹介しました。
 「スタタリング・ナウ」の最新号を、こんな形で紹介することはこれまでにないことなのですが、竹内さんの次に谷川さんを特集した「スタタリング・ナウ」を紹介することはタイミングとしてとてもいいのではないかと思い、今日と明日、紹介することにしました。
 「スタタリング・ナウ」2025.1.21 NO.365 より、巻頭言を紹介します。

谷川俊太郎さん、ありがとうございました

    日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 谷川さん、夢のような三日間のワークショップをありがとうございました。こんなにこき使われるのは初めてだと笑いながら、私たちのプログラムにつきあってくださいました。100人を超える人たちと、谷川さんを囲んで歌った「鉄腕アトム」の軽快な歌声で一気に場が盛り上がりました。
〈竹内敏晴・からだとことばのレッスン〉
 「からだほぐし」では、無遠慮にも谷川さんにまたがったり、マッサージや、おんぶをしてもらって喜んでる女性がいましたね。みんなとても楽しそうでした。「ららららららー」と喉から大きな声を出した後、「かっぱ」「いるか」「スキャットまで」の詩のレッスンへと続きました。
 云いたいことを云うんだ
 どなりたいことをどなるんだ
 ペットもサックスも俺の友だち
 俺の言葉が俺の楽器
 「スキャットまで」の詩のレッスンのとき、「これをどもる人たちのレッスンに使うのはあまりにもできすぎですよ」とことばをはさみながら、リクエストに応じて詩を読んでおられました。
〈谷川俊太郎 詩と人生を語る〉
 中学校と高校で国語を教えている若い二人の教員が、こんな質問をしてもいいのかと思えるほどの質問をしても、すべてうれしそうに答えておられました。教員が、谷川さんの詩が本当に好きで、実際に授業でおもしろく使っていることが、質問のはしばしから感じとれたからでしょう。他の場所では絶対に聞けない話ばかりでした。
〈対談・表現としてのことば〉
 私が司会をしましたが、とても話が弾んで、竹内さんが、こんなに話したのは初めてだと、おっしゃっていました。対談相手が相性のいい谷川さんだったので、からだの中からいろんなことが出てきたのでしょう。休憩なしの3時間があっという間に終わりました。まだ、つづきを聞いていたいという思いをみんながもったようでした。私も弾んで、つい女性にもてたという自慢話をしていました。すかさず、谷川さんから「それは吃音の誤解ですよ」とツッコミを入れられましたが。
〈谷川俊太郎・詩のライブ〉
 なんといっても詩のライブがハイライトでした。その前座として「生きているということ」で始まる「生きる」をもじって、前日に即興で大阪吃音教室の仲間と作った「どもる」の「どもるということ いまどもるということ つまるということ 隠すということ 逃げるということ 不自由ということ…」の詩には、「これはもうパロディーなんてもんじゃなくて、立派な替え歌ですよ。替え歌というのはものすごくエネルギーがあるもので、これは歴史に残るのでは」と、ほめていただきました。「前座は多い方がいい」との谷川さんのことばに、ことばの教室の教員が谷川さんの詩に曲をつけて歌った後、詩のライブが始まりました。
 参加者は読んで欲しい詩が載っている詩集を用意良くもってきていましたね。終わりの頃の「母を売りに」へのリクエストには、「この方は結構通ですね。渋いリクエストです」と、前置きし、お母さんが認知症になったとき、介護を物理的な問題だけではなく、自分の精神的な問題として考えた時生まれた詩だと解説してくださいました。
 この2年後、谷川さんは、全国難聴言語障害教育研究協議会全国大会で特別講演の依頼を受け、講演はしないが、対談ならと言われました。大会事務局が、いろいろ対談相手を探し回って提案しても、首を振らず、困り果てた事務局が、「では、どんな人がいいですか」と尋ねたところ、「例えば、伊藤伸二のような人」と提案があり、「のような人」が見当つかずに、私に話が回ってきました。
 そして、「内なることば、外なることば」の対談が実現しました。喜んで引き受けたものの、最初は、谷川さんの詩集や散文集を買って、おろかにも準備をしようとしました。でもすぐに、「のような人」が、素手で谷川さんに向き合えばいいのだと考えたら、すっと肩の力が抜けました。
 11月19日の朝日新聞の夕刊、20日の朝刊の一面は、谷川さんが亡くなった記事であふれていました。とても寂しいです。ありがとうございました。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/03/01

第20回吃音親子サマーキャンプ〜子どもたち自身が喜びをつかみとるキャンプ〜

 2009年8月28・29・30日(金・土・日)、滋賀県彦根市の荒神山自然の家で、第20回吃音親子サマーキャンプが行われました。このときの参加者は、どもる子ども42人、どもる子どもの保護者44人、きょうだい13人、ことばの教室の担当者やスピーチセラピストなどの臨床家が17人、通常学級や支援学級の担任、学生などが12人、どもる成人が12人、合計140人でした。
 初参加者が多く、本を読んで、インターネットで検索して、吃音ホットラインに電話をして、ことばの教室の担当者に紹介されて、など参加経路もさまざまでした。8月の最終週なので、学校によっては、すでに2学期が始まっているところもあるようでした。新型インフルエンザの影響のキャンセルも含めると、160人近い申し込みがあり、問い合わせも入れると170人を超えていたと、記録にあります。
「スタタリング・ナウ」2009.11.29 NO.183 での報告を紹介します。

  
第20回吃音親子サマーキャンプ
    〜子どもたち自身が喜びをつかみとるキャンプ〜
                            報告 溝口稚佳子


キャンプは、事前レッスンから始まった

 キャンプの大きな柱のひとつはお芝居。
 演出家の竹内敏晴さんの脚本・演出・構成という贅沢なお芝居をずっと続けている。これまでの脚本を集めたら、かなりの数になり、脚本集として1冊の本ができそうである。
 芝居は、竹内さんが、スタッフに、事前合宿で、演出し、指導をする。スタッフがそれを憶えておき、キャンプの初日に、子どもたちの前で演じる。子どもたちは、それを見て、この役がおもしろい、あの役をしてみたいなと思う。
 今年のキャンプの芝居のための事前レッスンは、6月20・21日、大阪で行われた。
 6月初め、膀胱がんが発見された竹内さんは、体調が悪い中、脚本を作って下さった。脚本が届いたのは、合宿の2日前だった。今年の芝居は、宮沢賢治の「雪わたり」だ。事前レッスンには、全国から23人が集まった。夜だけ顔を見せてくれた人もいる。もしかしたら、今年が、竹内さんの事前レッスンを受けることができる最後かもしれない、そんな思いが私にはあった。
 「雪わたり」は楽しかった。キックキックトントン、キックキックトントンと、竹内さんの魔法にかかったかのように、スタッフのひとりひとりがこぎつねになって弾んでいる。竹内さんが、うれしそうに柔らかい笑顔でみつめていた。これまでずっとこのサマーキャンプを大切に考えて下さっていた竹内さん。これが最後のレッスンかもしれないとの思いはさらに広がり、これまでのたくさんの劇が思い出される。子どもたちにも、声を出すことの楽しさ、からだが弾むことの喜び、そして、仲問と共にひとつの芝居を作り上げていくおもしろさを味わってほしいと思った。

そしてキャンプが始まった

 20回という節目のキャンプ。長年、キャンプにかかわっているスタッフにとっては、いつもとは違う思い入れがあったが、キャンプはいつものようにスタートした。
 開会のつどい。集会室に集まった参加者を紹介する。名前を呼んでその場で立ってもらうが、家族がそれぞれ別の場所で立ち上がるのがおもしろい。複数回参加している人なら、知り合いがいて、1年ぶりに会えた友だちと同じ場所に座って、一緒に来た家族と離れるということもあるかもしれないが、初めての参加者の中にも、子どもは子ども同士で、親は親同士で座っている家族がいる。名前を呼びながら、いつもこの現象を不思議だなあと思う。全体がもう最初からファミリーになっているのだ。
 続いて、出会いの広場。参加者がリラックスし、これから始まるキャンプに向けてのウォーミングアップになるようなプログラムである。今回は、千葉の渡邉美穂さんと高瀬景子さんが担当して下さった。20回キャンプにふさわしい○×クイズ、4つの窓、グループつくり(誕生月ごとに、集まったり、生まれた日が同じ人や同じ名前の人が集まるなど)と続く。最後に、同じ部屋に宿泊する者が集まって、その部屋の名前をみんなで言うというエクササイズがあった。ちょっとした連帯感と大きな声を出せたらいいと考えていた担当者の期待をはるかに超えるパフォーマンスが次々と繰り広げられた。動きはダイナミックで、おもしろい。初参加者が多いのに、これだけ表現できるとは、キャンプのもつ不思議な力なのかもしれない。

キャンプ20回目を振り返る

 20回目に思う。なぜここまで続いてきたのだろうか。なぜ続けることができたのだろうか。仕事ではないし、義務感でもない。この空間が好きだから、ここに集う人たちが好きだから、ここに流れる雰囲気が好きだから、ここに来るとなんか元気になるから、長くスタッフとして参加し続けている人たちはよくそう言う。
 たとえば、渡辺貴裕さん。最初の出会いは、竹内敏晴さんの大阪でのレッスンだった。まだ学生だった渡辺さんは、教育学を学んでいた。いろいろなキャンプにいくつか参加している、演劇にも関心をもつ人だった。伊藤の「キャンプ、おもしろいで。だまされたと思って参加してみて」のことばにのって参加して、もう10回参加してくれている常連のスタッフだ。吃音とはまったく関係がない。大学の教員になってからもこのキャンプを大切に思ってスケジュールに入れてくれている。子どもたちと作り上げる芝居に欠かせない。芝居作りの裏舞台を、子どもたちの生の声を拾いながら解説してくれた一文は、「演劇と教育」にも載り、「スタタリング・ナウ」(2007.1.20NO.149)でも紹介した。子どもたちに注がれる目は鋭く、やさしい。

 たとえば、長尾政毅さん。キャンプの卒業生でもある。同じようにどもる友だちに会いたい、そしていろんなことを話してみたい。純粋な気持ちで参加した小学4年生。自分ひとりではなかった、みんな同じように困り、悩み、そして工夫しながら真剣に生きていた。自分のことを自分のことばで話すことの大切さを知り、他者の体験に耳を傾けることを良き先輩から学び、高校3年生でキャンプを卒業した。毎年の作文教室で、彼の書く作文は変化をしていく。受け入れて、どもっていても平気だと思っていたが、思春期に入り、できるなら治したいと思い、また、いやこのままで大丈夫と思う。この変化を私たちは当然のこととして受け止め、それでも彼の基本となるものは揺るぎないと、信じて待っていた。社会人になった彼は、仕事が忙しい中、深夜になってでもキャンプにかけつけてくれる。

 たとえば、大阪スタタリングプロジェクトのメンバー。自分たちが小学生の頃にこんなキャンプがあったらなあ。こうして親子で、または家族でキャンプに来る子どもたちがなんかうらやましい。成人のどもる人からよくこんな感想を聞く。親にも誰にもどもりのことを相談できずに子ども時代を過ごした人は少なくない。そんな人たちにとって、親子で参加することになっているこのサマキャンは、うらやましいような、あこがれの存在なのだ。
 自分の体験を語って、何かお説教じみたことを言いたいのではない。自分が子ども時代に戻って、考えてみることができる。言語化してこなかった自分の気持ちを追体験してみることができる。わざとではなく、自然にどもりながら話したり、聞いたりする。それは、今、どもって悩みのまっただ中にいる子どもたちに、そうして生きることができることを伝える一番いい方法なのだ。
 子どもたちと一緒に芝居を作り、山に登り、カレーを食べ、スポーツをする。子どもの頃にできなかったことを、つまり、学童期のやり直しをしているのかもしれない。
 親の話を聞く経験も貴重だ。自分の親に聞くことができなかった親の気持ち。こんなふうに思っていてくれたのか、と再発見することもできる。改めて親への感謝の気持ちもわいてくる。

サマキャン再発見

 改めてサマーキャンプの魅力を考える。おそらくキャンプ史上初めてだと思うが、伊藤が参加者に向かって、キャンプの特徴と効果として話したことばを拾ってみる。

〈楽しさを与えるキャンプではなく、子どもたち自身が喜びをつかみとるキャンプ〉

 一般的に、キャンプというと、子どもたちに楽しみをいっぱい与えようと考える。このキャンプも、第1回から4回くらいまでは、子どもたちは普段ストレスを抱えて生きているのだから、楽しいキャンプをしようと主張するスタッフがいた。楽しいだけのキャンプなら、ほかにもあるし、僕たちがするからには、ちょっと困難なことに向き合い、何かに挑戦し、自分でもできたんだという思いをつかみとるようなキャンプにしたい。発想が違うため、実行委員会はいつもけんか腰で議論が白熱した。5回目から、発想が違う人たちと分かれて、自分たちの思い通りのキャンプをし始めた。今、その頃とスケジュールは全く変わっていない。話し合いをし、芝居をする。子どもたちも辛いと思う。友だちとしゃべっているときは、元気がいいのに、劇のシナリオを見たら言いにくい音があって、そこでどもって、しゅんとなってしまう。でも、そこから一歩踏み出さないといけない。ハードなキャンプであるにもかかわらず、子どもたちは、楽しかったと言い、また来ると言ってくれた。やはり、楽しさは与えられるものではなくて、じわじわと実感できるものではないだろうか。

〈ひとりひとりが主役〉

 与える側、与えられる側がいない。世話をする側とされる側の明確な区別がない。参加者は皆それぞれ自分が楽しんでいる。つまり、全員が主役で参加している。誰ひとり傍観者がいないキャンプだ。

〈リピーターが多く、新しく参加する人とのバランスがいい〉

 10年連続という人もいるくらいで、リピーターが多い。しかし、リピーターばかりでは馴れ合いになってしまう。リピーターと新しい人のバランスがとってもいい。親のグループも、子どものグループも、先輩がいて、自分たちが味わってきたことを後の人につないでいく。初参加の人とリピーターの人のバランスがとてもいいことがこのキャンプの特徴だと思う。

〈サバイバルを学び、考え方や価値観を変えていくきっかけになる〉

 話し合いでは、困ったときにどうするか、など具体的な話をする。キャンプに参加している間は楽しくても、終わって家に帰って、日常生活に出ていくと、困難な場面は待ち受けている。それに自分で向き合って、サバイバルしていく力を身につけてほしい。僕はこうした、私はこうしたと、みんながアイデアを出し合いながら、生きる力、生き延びる力、サバイバルしていく力を身につけてほしい。ひとりで考えているとどうしても堂々巡りになる。話し合いの中で、自分とは違う体験、自分とは違う考え方や価値観に出会う。そうか、そんなふうに考える人がいるのか、と考え方を知ることができる。今までなんとかしてどもりを治したい治したいと思って、どもりさえ治れば自分の人生はバラ色だと思っていた人が、どもったままでもいいんやという考え方の人に出会う。そんな考え方の人に出会って、今まで治そう治そうとばかり思って、治さなければ自分の人生はないとまで思い詰めてきだけれど、自分の考えてきたことはいったい何だったんだろうと思う。どもっていては絶対だめだと考えていたけれど、どもりながらこんなことをしている人もいると知ることで価値観を変えるきっかけになる。いろんな考え方の人に出会って、自分の考え方を少し幅広くする。変えてみる。価値観を変えていくきっかけになる。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/02/26

吃音親子サマーキャンプ20年

 2025年の今年、吃音親子サマーキャンプは、34回目を迎えます。日程と会場は決まっていますが、夏のことなので、まだ本格的な準備に入っているわけではありません。でも、メールでの問い合わせは、少ないですが、来ています。
サマキャン20回 写真 さて、今日は、吃音親子サマーキャンプ20年を特集している、「スタタリング・ナウ」2009.11.29 NO.183 を紹介します。このとき、集合写真を撮りました。サマーキャンプ史上、最初で最後の集合写真、奇跡の一枚です。その写真は、『親、教師、言語聴覚士が使える、吃音ワークブック』(解放出版社)の表紙を飾っています。本の表紙に写真を使う時も、ホームページで書籍の案内を掲載する時も、一人一人に紹介してもいいかどうかを尋ねました。全員が了解してくれたおかげで、今回も、奇跡の一枚の写真を紹介することができました。
 吃音親子サマーキャンプの第1回は、1990年でした。まさか20回も続くとは…と、当時思ったことを思い出します。それが今年は34回。すごいことだなと、自分でも感心してしまいます。まずは、巻頭言からです。

  
吃音親子サマーキャンプ20年
                  日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


1990年の夏はとても暑かった。
 冷房のない民宿の暑さと、初めてのどもる子どもとのキャンプの熱気は、私の記憶の中で決して色あせることはない。あの場、あの空気、スタッフの熱い思い、琵琶湖の静かな湖面とともに。
 1965年、民間吃音矯正所・東京正生学院で、初めて同じようにどもる人とたくさん出会えたとき、「吃音に悩んでいるのは私だけではなかった」という、いいようのない安心感が広がった。そして、せき止められていたダムの水が、一気に川に流れ出すように、どもることの苦しみ、悲しみ、怒りなど、これまで押さえ込んでいた吃音への思いを話した。そして、それを「僕も同じだったよ」とうなずき、一所懸命聞いてくれる仲間と出会えた。
 あのときのうれしさ、喜びは、からだにしみていて、今でも、決して忘れることはない。
 「僕も、生きていていいんだ」
 こう心底思えるほどに、それまでの私は、どもりに傷つき、どもりに振り回され、孤独な、苦悩の学童期・思春期を送っていたのだった。
 1965年秋、私は11名の仲間とどもる人のセルフヘルプグループを作った。様々な活動を共にするたくさんのいい仲間と出会った。いろんな活動を力の限り続けた。そして、いつの間にか「どもりでよかった」とさえ思うようになった。
 セルフヘルプグループでたくさんのことを学び経験し、今は幸せだが、私の失われた学童期・思春期はもう戻ってこない。それがとても悔しい。今、どもっている子どもには、私のような、悔しい学童期・思春期を送ってほしくない。私が経験した安心感や喜びを子どもたちにも味わってほしい。そして、どもりながら、楽しい豊かな人生が送れることを知って欲しい。これがスタートだった。
 なぜ、20年も吃音親子サマーキャンプは続いたのだろう。仕事として、またその延長としてしているわけではない。誰かに命じられて、また、責任感で続けているのでもない。いつキャンプをやめても誰からも責められることはない。やめることができるから続いているのだともいえる。
 あの場が、あの場に流れている空気が、その場をつくりだしている人の輪が好きなのだ。
 あの場、あのときの笑顔、笑い声が好きなのだ。
 話し合いの中で苦しかったことを思い出し、ぽろぽろと涙を流す、うれしくて泣いてしまう、その涙をしっかりと受け止める静かさが好きなのだ。
 そのような場が好きだという人たちが集まってくることがうれしい。
 今年もスタッフが集まってくれるだろうか、あの人は来てくれるだろうか。私は毎年不安になる。そして、その人たちの参加申し込みが届くようになって、さあ、今年もやれるとほっとする。
 今年も40名ほどがスタッフとして集まって下さった。不思議に思う。遠くから交通費を使って、家族を説得し、さまざまな事情を乗り越えてスタッフとして参加して下さる人たち。そうだ、この人たちがいてくれたから、20年間続けることができたのだ。
 キャンプの終わりには、いつもスタッフに立ってもらう。子どもと親を囲むように立つ人たちに、本当にありがたいと思う。人間は一人では何もできない。ひとりひとりの力は小さくても、いい仲間が集まれば、大きな力になる。そして、こんなにいい空間を、知らず知らずのうちに、自分たちでも気づかないうちに作り出している。
 この仲間たちに感謝するとともに、今回は、特別の感慨深い思いがあった。私たちの心意気を感じとって、キャンプのために毎年脚本をつくり、演出指導をして下さった竹内敏晴さんの劇を上演する最後のキャンプになったからだ。
 6月初めにがんが発見されながら、脚本を完成させ、7月に劇のためのレッスンをして下さった。そして9月の初めに竹内さんは亡くなった。キャンプでは、竹内敏晴さんに感謝の気持ちを込めて、大きな拍手をしたのだった。竹内さんの役割を渡辺貴裕さんが継いで下さるのもうれしい。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025//02/25

竹内敏晴さんを偲んで

 「スタタリング・ナウ」2009.10.25 NO.182 に掲載の、竹内敏晴さんを悼む、社会学者の見田宗介さんと谷川俊太郎さん、おふたりのメッセージを紹介します。また、10年間、僕たちが事務局だった大阪の定例レッスンの参加者が集まって、「竹内敏晴さんを偲ぶ会」を行いました。同じ日、東京でも、東京の定例レッスンの参加者による偲ぶ会が開かれていました。


 
祝祭としての生命探求 竹内敏晴氏を悼む
                            見田宗介 社会学者

竹内 見田新聞記事 竹内敏晴は1925年の生まれ、吉本隆明や谷川雁、石牟礼道子たちの同世代者である。
わたしが竹内と初めて会った時、竹内は「ぶどうの会」という、木下順二を中心とする劇団の演出助手をしていた。一人一人の俳優をとても愛して、大切にする演出家という印象だった。
竹内は演出家であり、生涯にわたって演劇の人だった。けれども竹内の名が広く知られているのは、『ことばが劈かれるとき』をはじめ、言語論、身体論、教育論、思想論、近代社会論、などの領野を一気に貫通する、独自の具体的な人間論においてであった。とりわけ教育の世界に竹内の愛読者は多い。〈祝祭としての授業〉という竹内のキー・コンセプトは、多くの教育者たちに新鮮な視界を開いた。
 演出と人間学という竹内の二つの焦点は、どう関わっているのだろうか。小さい集まりの後の雑談みたいな時間に、竹内さんにとって最終、演出のための方法としての人間論なのか、人間論のための方法としての演出なのか、竹内さんの究極にめざすところは何か、と問うてみたことがある。
 「実は」と竹内は分厚い未発表の原稿の束を取り出してきた。表紙には力のこもった太い肉筆で、『演技者は詩人たりうるか』と書かれてあった。
 演技者は詩人たりうるか、という意表をつく表題にわたしが目をみはっていると、「詩人ということは、表現者とか創造者という方が分かりやすいかもしれないけれど」と言って、このような話をぽつりぽつりと語った。
 近代演劇では、俳優のからだは作者の創造と表現のための素材です。「どんな役でもこなせる」ということが、まあ、究極の理想です。けれども俳優自身のからだが、その存在の核の真実の噴出のように動き出すとき、まったく異質の感動が舞台に現出することがある。このある種原的な美学のようなものを、徹底して追求してみたい。いろんなからだたち、ゆがみをもち、ゆがみをはねかえそうとするからだたちが、作者のためでなく、脚本のためでなく、演出のためでもなくて、自分自身の存在の真実を解き放つことをとおして、そこで荘厳されればいい。荘厳とは仏教のことばの展開で、存在するもの(死者と生者)の尊厳と美しさとを、目に見えるような仕方で現出することである。こういう仕方で、俳優たちのからだが舞台の上で、生活者たちの存在が舞台の外で、花咲けばいいじゃないかと。
 竹内敏晴の仕事の独創の核は、この夢を実現する方法論の、おどろくべき現実性、具体性の内にこそあった。「竹内レッスン」の柱となるいくつかの技法、「砂浜」や「出会いのレッスン」、「仮面のレッスン」とその展開形はすべて、近代や前近代の「市民社会」や「共同体」の強いる幾重もの自己拘束、自己隠蔽の無意識の硬皮の層を、ていねいに解除してゆく装置として設定された。
 わたしが竹内と集中して関わったのは一年間だけなのだけれども、この短い時日の間にも、人間が〈真実〉である時にその身体の動きがどのように鮮烈なものでありうるかということの、生涯忘れることのできないシーンのいくつかと立ち会うことがあった。
 神のためでなく、国家のためでなく、経済成長のためでなく、人間の一人一人の有限の生が、他の有限の生たちと呼応することをとおして、現出する豊穣な時の持続を享受するという、人間の歴史の新しく未踏のステージのとば口に立って竹内敏晴は、ただ存在の〈真実〉を解き放つことをとおしてそこに生命の祝祭を現出してしまうという、単純な、けれど困難な、方法論をその生涯をかけて探求し、わたしたちの世界に残した。   2009年9月16日朝日新聞


  声 とどいていますか?
        竹内敏晴さんに

                    谷川俊太郎
あなたが行ってしまった
あなたの声と一緒に
あなたの眼差しと一緒に
あなたの手足と一緒に
あなたは行ってしまった

あなたは今どこにいるのか
あなたがどこにいようとも
今そこにいるあなたに向かって
私たちは呼びかける
声 とどいていますか?

あなたの書いた言葉は残っている
あなたの動く姿の記録も
あなたの叫ぶ声歌う声も
でもあなたは行ってしまった
私たちここに置き去りにして

だが声は生まれる
途絶えずに声は生まれる
ときに堪えきれない鳴咽のように
ときに幼子の笑いのように
あなたが無言で呼びかけるから

あなたは行ってしまった
行ってしまったのに あなたはいる
私たちひとりひとりのからだに
思い出よりも生々しくたくましく
あなたはいる 今ここに


《竹内敏晴さんを偲んで》

 10月18日(日)午後1時、10年間、竹内レッスンの会場だった大阪市天王寺区の應典院に、21名が集まった。ちょうどこの日は、東京・立川で、賢治の学校主催の「竹内敏晴さんを偲ぶ会」が開催されていた。偶然同じ日に、これまで竹内さんにレッスンを受けていた者が東京と大阪に集まったことになる。
 應典院のB研修室に、いっものように床にカーペットを敷き、丸くなって座る。今にも「息を入れて」という竹内さんの声が聞こえてきそうだった。集まった21人ひとりひとりが、竹内さんについて、竹内レッスンについて語ることから始まった。訃報に接したときの驚き、喪失感、存在の大きさ、今後のことなど、何を語ってもいい。次に、亡くなるときに身近にいた者から、竹内さんの最後の様子が話される。大好きだった、♪ぎんぎんぎらぎら 夕日が沈む♪の歌声に囲まれながら幕を下ろした竹内さんの姿が目に浮かぶ。大きな拍手をして火葬に送られたという。
 この應典院の集まりの時、上に紹介した谷川俊太郎さんの詩が配られた。立川での偲ぶ会に参加できない谷川さんが作り、贈られたものだ。
 1998年、私たちの吃音ショートコースの特別ゲストは、谷川さんと竹内さんだった。「こんなにしゃべったのは初めて」と竹内さんご自身が驚かれていた。谷川さんとの対談がなつかしい。

竹内敏晴さんの最新刊『「出会う」ということ』(藤原書店)、10月末発刊予定!!

「出会う」ということ 表紙 "人に出会う"とは何か? 
 社会的な・日常的な・表面的な付き合いよりもっと深いところで、「なま」で「じか」な"あなた"と出会いたい―。自分のからだの中で本当に動いているものを見つめながら、相手の存在を受け止めようとする「出会いのレッスン」の場から。
 "あなた"に出会うためのバイエル。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/02/23

大阪定例レッスンの旗揚げ講演会『日本語のレッスン―声と出会う・ことばが劈かれるとき』

 1999年2月11日、大阪市内の應典院で、4月から始まる竹内敏晴さんの「からだとことばのレッスン」大阪定例レッスンの旗揚げ講演会が行われました。講演会のその日は、強い吹雪と雨が混じる悪天候でしたが、参加者は予想をはるかに超えて185名でした。その講演会に参加した川井田祥子さんの感想・報告を紹介します。川井田さんは、当時、すくーる・ほろんという、らくだ教材を使った自分で決めて学べる塾を主宰されていました。僕は、この講演会の2年前に、川井田さんのインタビューを受け、それ以来おつき合いさせていただいていました。
「スタタリング・ナウ」2009.10.25 NO.182 に掲載されたものを紹介します。

  
私を丸ごと受けてめてくれる他者として
    ―竹内敏晴講演会に参加して―

                   川井田祥子  すくーる・ほろん主宰(当時)
                   (らくだ教材を使った自分で決めて学べる塾)

はじめに

 2月11日、應典院(大阪市天王寺区)で行われた、講演会『日本語のレッスン―声と出会う・ことばが劈かれるとき」(主催:應典院寺町倶楽部 協力:日本吃音臨床研究会)に参加しました。
 協力とある、日本吃音臨床研究会とは、2年前にインタビューの依頼をしたことがきっかけでお付き合いがありますが、「どもることを否定せず、ありのままの自分を受け入れること」をコンセプトに活動を続けておられます。
 そして、10年前に竹内敏晴さんと出会ったことによってさらに活動の幅が広がったと、機関紙などを拝見すると感じられます。たぶんそれは、言葉というものを通して(からだ)や(こころ)を見つめ直す、人間全体を捉えようとする竹内さんの考えに共鳴するものがあったからだと思います。
 この講演は、竹内さんの自身の体験にもとづく話を聴きながら、「ことばとは」「コミュニケーションとは?」などについて、改めて考えるきっかけになりました。そのあたりのことを書いてみようと思います。
 講演会当日に語られた内容の一部をご紹介します。

「ことばが届くと」とは?

 私は難聴で、子どもの頃はうまく言葉が話せませんでした。「おはよう」が「おあお」ぐらいにしか言えなかったのです。40代半ばになって、言語訓練をしているときに声がはっきりと出るようになりました。相手にじかに言葉が伝わっている感覚というのでしょうか、それまでの、相手との間に厚いガラスの壁があるような感じではなく、「じかに届いている」と初めて感じられたのです。
 それからは毎日がお祭りのようでした。たとえば私が「こんにちは」と言うと、瞬時に相手から反応が返ってくる。自分の話したことが相手に伝わっていることがわかる、そのうれしさ、「ああ言葉っていうのはこういうものか」と本当にうれしくて、何度も繰り返しあいさつをしていました。
 しかし、そのうちに変なことに気づいたのです。それは、自分以外の人はよく話せると思っていたのに、どうも違うらしいということです。たとえばAさんとBさんが話をしている。でも、よく聞いているとAさんはAさんで勝手に話し、BさんはBさんで勝手に話している。お互いのつながりがまったくない状態で話をしている。しかもその状況はよくあるようだと気づき本当にびっくりしました。
 ことばを話すことができるようになると、そんな変なことに気がっいてしまい(笑)、自分が一所懸命にあこがれていたことばとはいったい何なんだろう?」という疑問が浮かび、それから「話しかけのレッスン」を始めるようになったのです。

「情報伝達のことば」と「表現のことば」

 フランスの哲学者メルロ・ポンティという人は、ことばには2つの種類があると言っています。
 2種類とは私流に言うと、「情報伝達のことば」と「表現のことば」です。
 「情報伝達のことば」とは、ひとつひとつのことばの意味が社会的に確定しているもの、誰がどう組み合わせても通じるものです。
 一方の「表現のことば」とは、自分が感じていることをなんとかことばにしようとすること。たとえば生後3、4カ月の赤ん坊が「あー、あー」と話しかけてくるような、文章としてはきちんと成り立っていないけれど全身で話しかけてくる意味がわかるということばです。
 人間にとっての根源的な言葉とは「表現のことば」の方で、それが十分にできるかどうかが「人間が人間である」ことにつながるだろうと、私は思います。つまり、ことばというものは情報を伝達するためだけにあるのではなく、人と人とがつながることそのものとしてあるということ。それをもう一度見つめ直すことが、いまとても大切なことだと思うのです。
 ところが社会は、とくに現代社会は「情報伝達のことば」を早く身につけることを子どもたちにも要求します。そしてそれは、「早く社会に適応しなさい」という要求を押しつけていることだとも言えるでしょう。
 子ども自身は自分の体で感じたことをことばにしたいと思っているのに、周囲からそうでないことを要求される。「早く、早く」とせきたてられ、自分が何を感じているのか、どう表現しようかと考えている時間もない。
 自宅近くに住む小学4年生の男の子は吃音の症状が現れました。その子の場合は自分が自分であろうとすることと、他人からの要求に向かって自分を適応させようとする境目で苦しんでいたのだと思います。

「伝える」から「伝わる」へ

 人と人とがどうやって結びついていけばいいのかを一人ひとりが考え直す、そんな時代に私たちはいま立っているのだと思います。夫婦、親と子、学校で先生が生徒とどう接するか、「こうあるべきだ」という考え方をいったん手放し、「本当につながれるのか、つながれるとしたらどうすればいいのか」を問いかけられているのが現代でしょう。
 私は、自分のことばで自分を表現することができて初めて、社会的なことばを使いこなしていくことができるのだと考えます。つまり、自分が生み出したことばをつなぎ、社会で使いこなしていこうとすることができて初めて、他者とのことばのやりとりが十分にできるのだと思います。
 「表現のことば」が十分に使えないうちに「情報伝達のことば」ばかりを要求されてしまっては、自分自身のことばを見つけることができなくなってしまいます。うまく話せなくて感情的になり、泣いたりわめいたりすることでしか自分を表現できないという事態になるでしょう。
 「自分が生きる」のは「自分のことばによって生きる」のです。自分のことばをどう見つけ、他の人とどうつながっていけるのかということを、一人でも多くの人と一緒に考えていきたいと思っています。

おわりに

 竹内さんのお話を聴いた後、私なりにコミュニケーションについて考えてみました。
 最近、マスコミなどで取り上げられる教育改革にまつわる話には、「コミュニケーション能力」をめぐっての議論が活発に行われているようです。
 たとえば、2002年から実施される新学習指導要領では、教師が独自に授業内容を決められる「総合的な学習の時間」が導入されます。そして、「211世紀に向けて国際社会の中で通用するコミュニケーション能力を身につけること」を目的に、ディベートを授業の中に取り入れる試みが広がっているそうです。
 ディベートとは、あるテーマについて肯定側と否定側2つのグループに分かれ、一定の時間内で議論し合い、最後に勝敗の判定を下すというものです。
 けれど私は、コミュニケーションについてまで「評価」が持ち込まれることに疑問を感じるのです。自分を表現しようとすること、それを相手がどう受けとめるかは二人の間の問題であり、評価できるものではないと思うからです。また自分の考えを主張し勝ち負けを争うことがコミュニケーションではなく、話し合いを重ねてお互いの接点を見つけ、まったく別の意見を双方の歩みよりによって生み出そうとすることも必要なことではないでしょうか。
 一方、学級崩壊という問題が起こり、「ムカツク」「キレル」といったことばでしか自分の状態を表現しようとしない子どもたちについて、いろいろな論議が交わされています。子どもたちを問題視してどうにかしようとする前に、ことばにならないものや「表現のことば」を受けとめようとする存在として大人がどのように関われるかが今いちばん必要なことのように思います。
 「自分のことを丸ごと受けとめてくれる他者がいる」と感じられる、つたない言葉でもいいから自分を表現しようと思える、そんな存在でありたい。と同時に、ことばが自分のものになっているか、相手に届いているかを見つめ直す勇気や大切さを、改めて感じる時間でした。

『たけうち通信』第1号1999年4月10日より

 『たけうち通信』は、日本吃音臨床研究会が編集し、10年間発行し続けた。2009年9月、42号の最終号で、竹内敏晴さんと私たちを結ぶ役割を終えた。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/02/21

安らぎを送りあうこと

竹内レッスン 春風社 表紙 1999年2月の旗揚げ講演から2ヶ月後の4月から、竹内敏晴さんの「からだとことばのレッスン」の大阪定例レッスンが始まりました。大阪レッスンは、僕たち日本吃音臨床研究会が事務局になりました。定例レッスンは、大阪の他に東京と名古屋で行われていましたが、大阪の特徴として、どもる人の参加が多いことと、「たけうち通信」という名前の通信を季刊で発行していました。「たけうち通信」は、竹内さんの書き下ろしのエッセイ、レッスンの概要、レッスン参加者の感想、竹内さん関連のイベントの告知など、竹内さんに関するいろいろな情報が満載でした。『竹内レッスン―ライブ・アット大阪』(春風社)は、この「たけうち通信」掲載の竹内さんのエッセイを中心に構成されています。
 今日は、その「たけうち通信」の記念すべき第1号に掲載の、竹内さんのエッセイ「安らぎを送りあうこと」を紹介します。

安らぎを送りあうこと
                          竹内敏晴


ことばの歓び

 この春から、大阪で毎月レッスンをすることになりました。ということにすらすらと運んだのは、ここ十年近くになるけれど、どもりの人たちと年数回ずつレッスンしてきた、その熱意と楽しさの発展形ということになるからだろうと思う。特に昨年の秋に大勢集まった、『どもる人のための公開レッスンと上演』の、ひたむきさのほてりは今でもわたしに脈打っていて、レッスンのために近鉄電車に乗って三輪山の麓や室生の里あたりを巡って大阪へ近づいてゆくと、いつかからだがあったかくなって来る。
 ひっかからずに声が溢れ出て来るためには、まず舌や顎の力が抜けて息を深く吐けること。そのためにはからだ全体がいきいきとはずむこと。またそのためには、まず、からだの方々の、胸だの股関節だののこわばりに気づいて、これが弛んでいくこと、そのためには、と、レッスンはどんどん、言わば元へ元へ、からだの根源へと遡って行くのだが、さてその一つの段階がふっと越えられたとたんに、からだ全体がふわっとゆるんで、声がぽーんと跳び出して来る。それに立ち会い手をかす時の楽しさと言ったらない。
 どもりとかいわゆる言語障害の人に限ったことではない。先日ある町の、女性たち、と言うより母親たちの集まりに呼ばれた時に提案されたテーマは「言いたいことが言えない」だった。―もちろん親も子もふくめてのこととしてだが―話の途中で、まず声を聞かせてください、と童謡を歌ってもらったら、口をほとんど開けない人たちが一杯だったのに驚かされた。まず奥歯に小指をはさんでみて、口腔の内をひろげて、舌を前へ出して、さて一杯に息を吐いてみよう、とオハナシというよりレッスンが始まってしまったのだったが、この、歯を噛み締めている身構えがそもそも、からだの奥から流れ出て来る息を、ひいては「自分のことば」を、「噛み殺している」のではあるまいか?つまり、歯の間をあけて「息を吐くこと」は、自分を閉じている「身構え」をほどいてゆくことに違いないので、ここから出発しなくては「言いたいことを言う」ことには辿りつけまい。知的な理解や心理操作の範囲を越えた、からだの実践の問題がそこにはあるだろう。
 アメリカのフレデリック・ワイズマン監督がフランスの国立劇場を撮った、「コメディ・フランセーズ―演じられた愛」という映画がある。四時間に及ぶ大作だが実に面白かった。芝居の稽古の初めの段階から上演の有様までがちりばめられているのは演出者のわたしにとって力の入るシーンだったに違いないが、座員の選出から座員で構成される委員会の経営討議の模様、特に電機部門機械部門からかつらや小道具の人たちまで二十いくつという組合との交渉と協力、国家予算からの補助額の交渉に至るまで、フランスという、市民社会の先達における、いわば、俳優という市民たちの自立した団体運営のちからとでも呼ぶべきものを浮かび上らせて見せてくれたのが快い驚きだった。
 そのフィルムの一シーンに、初老の幹部女優が若い俳優とせりふを稽古する風景があった。一言二言言い直させてからかの女はこう言うのだ―ことばの一こと一こと、音の一つ一つを言いながら―「口の中で歓びを味わうのよ、歓びを!」これは世界最高水準の、音声言語表現の現場のことだ。しかしやっと一語を、ひっかからずに発することができるという段階でもやはり同じことが目指され、そして味わいうるはずだろう。どもりだけでなく、多くの人々にとって今、語ること、ことばで表現することは、苦しみとなりつつある。豊かに、一語一語を、一音一音を、口の中に歓びをひろげて語れるようになれたら素晴らしい、わたしも、あなたも。あらためて、レッスンに出発しよう。

野戦病院からエステティックまで
  あるいは、「からだほぐし」について


 毎月のレッスンに現れる人たちの、初めの声を聞いた時、そして特に、床に仰向けになって相手の人にからだをゆらしてもらい始めるのを見ている時、近頃のわたしはため息が出てしまうことがある。
 ―まるで野戦病院だなあ、こりゃひとりひとりが手負いの戦士に、いや時にはけものに見えて来る。目をつむって横になっているかれの手先をぶら下げてゆらゆらとゆすろうとすると、ごつんとひっかかる。肩甲骨の外側にかたまりができてるみたいだ。抱えおこしてふれてみようとすると背中がごわっごわっと硬い。かれはコンピューターの設計部門で働いている。
 ある女の人は胸を抱くようにそっと入ってきて部屋の隅に静かに横になっている。右を下にしたまま目をつむって身動きもしない。腰も痛む、胸が詰まって息ができない、足の裏まで痛い、と言う。なんでそんなになってまで働いているのと言えば、仕方ないでしょ、と喘ぐように呟く。かの女は養護学校の教員だ。
 かつてレッスンを始めた頃やってきた人たちは、昼間の労働で得たなん枚かのお札を握りしめて、日常生活ではあらわしようのなかった感情を爆発させ、未知の自分に出会い、表現を手探りするためにからだをぶつける時間へと没入していった。
 今来る人々にも同じ願いが秘められていることをわたしは感じ取らずにはいられないのだが、とりあえず、まずは、疲れ切ったからだが休みたい、楽になりたい、のびのびと息をしたい、と坤いている、と感じる。
 人にふれられるだけでイタイ!とわめくからだにてのひらをあて、息を合わせ、いつか仰向けになったからだを、ゆっくりゆらしながら波を送る。
 かつてはこのレッスンは「脱力」と名付けられ、後には「からだほぐし」と呼ばれた。演技者にとって舞台でコチンコチンになってしまうことは致命的だから、これは不可欠の訓練だったが、わたしはこれをただ「ゆらし」と呼び、ちょっとためらいながら「安らぎを送りあうこと」とも言う。
 勿論この変化の間には十数年の過程があるので、かいつまんで述べておくと
 ―「脱力」と呼ぶと、あ、力を抜かなきゃ、と意気ごんでしまう人が多くて、これではますます力が入ってしまう結果になる。「力を抜く」ことが、達成されるべき至上価値に祭り上げられたりもする。力を、意識して抜くことはできない。ただ重さを大地に、ひいては相手の手にゆだね切ることができた時が、結果として「脱力」になっているということに過ぎない。
 それにもっと弱ったことは、たとえ基礎訓練の場でいくらうまく脱力ができて舞台に立ったとたんカチカチになってしまうのは一こうに改まることがない。そこでわたしは、いつ自分に力が入って来るか、その瞬間に気づくこと、に重点を置くことにした。かなりの人は、自分のからだが固まっていることに気づいていない。それが自分の「自然」だと思い込んでいるので、緊張したまま固定してしまった自分のからだを見ると、あっけにとられる。だが、この自己知覚が研ぎ澄まされて来ると、人前に立ってぐっと肘が脇腹にくっ着き始めたとたん、ふっと気付く。そこで息を吐くと共に肩を落としていくことができる。
 社会人や学生へもレッスンが広まるにつれて、「からだほぐし」という呼び名もひろがっていったようだが、この名づけもわたしには初めからしっくりしなかった。「ほぐす」という行為は、もともとはもつれた糸を解いてゆくことだろうが、一般的には固まったものを振ったり叩いたり力まかせにばらばらにしてゆくイメージがある。しめって固まった小麦粉やセメントを崩して粉々にするイメージで、結局のところ乾いた小さい固体の集合体になる感じだ。実は名づけの問題ではなく、ゆすり方がそうなってしまうのだ。
 もっとからだの内に流れているものがめざめて来る感じを言い現したい、と思ってるところへ、若い学生たちが「ゆらし」と呼び始めた。これがいい、からだの内にゆらゆらと波を送るのだ、と。わたしは「ゆらし」に時間をかける。もはやただ肉体の緊張をほぐせばいい、のではない。からだの内にひろがる波に身をまかせてゆられているうちに眠ってしまう人もあるが、突然ふっと全身がゆるんで、息が深ぶかと流れ入って来て、あくびが続けざまに起こり、涙が止まらなくなり、からだが溶けてしまったようになることも多い。からだの知覚の変容が始まるのだ。ゆすられ終わって床に横たわっている時の感じをことばにしてみると、実に豊かで多彩で、浅いのも深いのもあるけれど、さし当たりわたしは「安らぎ」と呼ぶ。その感じは海のようにからだの内に、いや時には外へ地の果てまで、広がっている。とにかくこれが、他人の価値観に追いまわされることからの断絶であり、自分、というものの原点になりうる、と言っておいてもいいか。
 もっとも近頃やって来る若い人たちの中には、Tさんのホームページで、レッスンを受けてびっくりするほどキレイになった人のエピソードを見てやって来た、という人もある。わたしは十年以上前東京で研究所を開いていた当時、年度末の募集のキャッチフレーズに、「シバイをやってキレイになろう!」てのはどうだと言ってみんなを抱腹絶倒させたことを思い出した。イケルイケル、とか、ほんとだもんね、とわめくオチャッピイもたしかにいたのだが。
とにかく、新しく、未知の、からだへの問いかけと表現へのひろがりとへ、出発します。ゆっくりと、息を深く、歩いていきたいと思います。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/02/20
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