昨日は、『演劇と教育』〜竹内敏晴さんを悼む〜の特集に掲載された、渡辺貴裕さんの文章を紹介しました。今日は、藤原書店『環』〜竹内敏晴さんと私〜に掲載された、「竹内敏晴さんに壊された私のことば」と題する僕の文章です。
僕たちは、竹内さんの大阪定例レッスンの事務局を10年続けました。10年間、8月を除いて毎月、竹内さんに会い、話を聞きました。そのほか、吃音ショートコースのゲストとして来ていただいたり、吃音親子サマーキャンプの芝居の事前レッスンでもお世話になりました。たくさんのことを学びました。
名古屋と東京で上演された芝居「ほらんばか」で舞台に立ったこと、僕にとって忘れられない思い出です。(「スタタリング・ナウ」2010.11.28 NO.195 より)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/04/14
僕たちは、竹内さんの大阪定例レッスンの事務局を10年続けました。10年間、8月を除いて毎月、竹内さんに会い、話を聞きました。そのほか、吃音ショートコースのゲストとして来ていただいたり、吃音親子サマーキャンプの芝居の事前レッスンでもお世話になりました。たくさんのことを学びました。

竹内敏晴さんに壊された私のことば
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二
藤原書店『環』〜竹内敏晴さんと私〜vo1.43/2010.Autumn
私は、竹内敏晴さんに、意図的に「ことばを壊された」、おそらく唯一の人間ではないかと思う。壊されたとは、世間一般の価値観からすればのことで、私にとってはありがたいことだった。あまりどもらなくなっていた私は、竹内さんの芝居の稽古の結果、再びどもるようになった。
私は21歳まで、吃音に深く悩み、民間吃音矯正所で必死に治療に励んだが治らず、治すことを諦めた。どもりながら日常生活を続ける中で、親しい人とでは相変わらずどもるものの、大学の講義や講演など、人前で話すときは、ほとんどどもらなくなっていた。
吃音を治すではなく、どもる人が、もう少し楽に声が出ないかを探っていたころ、竹内さんに出会った。20年以上も前のことだ。どもる人とレッスンを受け、声を出す楽しさ、喜びを味わった。楽しくて、私はその後、毎月レッスンを続けた。毎週大阪から名古屋の大学の講義に通うなどの熱意に、竹内さんは、私を芝居の主役にと考えて下さった。私の吃音の悩みの始まりが、小学2年生の学芸会で「セリフのある役」から外されたことによることをご存知だったからだ。大学の講義が始まる前の1時間を稽古に当てて下さった。その時のことを、私の『新・吃音者宣言』(芳賀書店)の紹介文にこう書いて下さった。
「伊藤さんは、台本を熱のこもった声で朗々と読み上げた。ほとんどどもらない。まっすぐにすらすらことばは進む。この日のわたしの手帳には『ほとんど絶望的になる』とある。つきあって数年かなりレッスンをし、ことばに対する考えは共通しているつもりでいたのだが、からだにはなにも滲みていなかったということだろうか。『説得、セツメイ的口調の明確さを、一音一拍の呼気による表現のための声に変えていくことができるか』・・(中略)劇の上演はすさまじい迫力だった。東京の劇団にいる青年が、幕が下りた後訪ねてきて、これほど感動した芝居はなかった、と息を弾ませて言った」
芝居は、東北地方の青年が、新しい農業を根付かせようと格闘し、狂気のはてに恋人を殺してしまう、秋浜悟史作『ほらんばか』だ。情念の世界を演じるこの芝居は、「吃音を治す」に、「治すではなく、どう生きるかだ」と闘う運動家として、「説得、セツメイ的な口調」が身にっいている私には、無理だと考えたそうだ。しかし、私の劇へのこだわりを知っているだけにさせてもやりたい。竹内さんは迷いに迷う。
奇妙な声で人気があったある女優が、このままでは芸域が広がらない、声を変えたいと竹内さんのレッスンを受けに来た。しばらくレッスンをしたが、このままレッスンを続けると、人気の声が壊れるかもしれない。話し合い、本人の意志でレッスンを中止した。竹内さんにはこのような経験があるから、私に稽古をすることを躊躇したのだそうだ。伊藤なら、壊れたとしても、自分なりに受け止め、対処するだろうと信頼し、覚悟を決めて、竹内さんは、私を主役にし、激しい稽古を付けて下さった。
夏公演のこの舞台は、晩秋に名古屋でも再上演された。そして、その冬、私のことばは見事に壊れた。金沢市での新任教員研修の講演。120人を前にして、ある文章を読み上げている時、ひどくどもり、その後の話も話しづらかった。人前でこれほどどもったのは、ここ30年で初めてのことだ。その日から私は、人前でも、普段でも同じようにどもるようになった。自分ではまったく気づかなかったが、人前ではどもらないようにとコントロールしていたのだろうか。「情報伝達のことば」と「表現としてのことば」の乖離がなくなったことを私は喜んだ。そのように受け止めた私を、竹内さんも喜んで下さった。
その後、日本吃音臨床研究会主催で、竹内敏晴さんの「大阪定例レッスン」が始まり、丸10年が過ぎた。そして、11年目の6月にがんが発見されながらも、私たちの吃音親子サマーキャンプで行う劇の台本を書き下ろし、合宿で演出指導をして下さった。7月には、定例レッスンをいつものようにこなして、9月にお亡くなりになった。
「私は聴覚言語障害者だ」と、吃音について強い関心をもち、どもる私たちを仲間としていつも大切にして下さった。毎月の大阪のレッスンの時、宿舎に戻る前に立ち寄る、ハーブティーの店で1時間ほど、生きること、ことばについて、プライベートなことまで包み隠さずいろいろと話して下さった。このひとときは、私にとって至福の時間だった。
学んだことを、『親や教師、言語聴覚士が使える、吃音ワークブック―吃音を生きぬく力が育つ―』(解放出版社)の中に、多くのページをさいて残せたことがうれしい。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/04/14