伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

竹内敏晴

響き合うことば 2

 昨日のつづきです。
 僕は、ヘレン・ケラーとサリバンの話をしています。「奇跡の人」は、これまで、映画でも舞台でも、幾度も上映、上演されています。有名な「ウォーター」の場面の解釈、「奇跡」といわれることのとらえ方にはいろいろあるようですが、竹内敏晴さんから教えてもらった、ここで紹介する話が一番ぴったりときます。
 どもっていたがゆえに悩み、苦しくつらい思いをしてきた僕にとって、「ことば」は特別なものでした。なめらかに流れることばさえあれば…と思っていましたが、ことば以前にお互いを思い合う、響き合う関係性があるのだと思います。

2003年2月15日 石川県教育センター
 《講演録》 響きあうことば
             伊藤伸二・日本吃音臨床研究会会長


ヘレン・ケラーとサリバン
 〈変わる〉ことについて、エリクソンの基本的信頼感、自律性、自発性、勤勉性と関連させて、子どもの発達に関係する一つの事例として、ヘレン・ケラーの話をしようと思います。
 この4月、大阪の近鉄劇場に、大竹しのぶ主演で『奇跡の人』という芝居がきます。早速申し込んで、久しぶりに芝居を観に行くのです。
 『奇跡の人』は、アン・サリバンとヘレン・ケラーの話ですけれど、ヘレン・ケラーの話をどこかで聞いたことのある人、ちょっと手を挙げていただけますか。(たくさんの手が挙がる)
 ありがとうございます。大分多いので、話し易いですが、当時、芝居よりも映画でした。アーバンクラフトがサリバンで、パティー・デュークという名子役がヘレン・ケラーでした。
 この芝居がまだ日本で紹介されない前に、先程話しました竹内敏晴さんが、演出しないかと言われたときに、竹内さんがシナリオを読んで疑問をもったそうです。『奇跡の人』の有名なシーンは、食事中に暴れ回り、水差しから水をこぼしたヘレンとサリバンが格闘をして、ポンプから水を入れさせている時に、ヘレンの手に水があたって、「ウォーター」と言う。そこで奇跡が起こったとして、『奇跡の人』というタイトルがっいたのでしょうけれども。竹内さんは、「そんな馬鹿げたことがあるか。殴り合って格闘して、ワーッとなっているときに、ポンプの水でウォーターなんて、そんなことが起こるはずがない」と思って、その芝居の演出をしなかったという話をしてくれたことがあります。
 私は、竹内さんの話に興味をもって、ヘレン・ケラーの自伝と、『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』(明治図書)の2冊の本を読みました。サリバンが、ホプキンスという親友に、ヘレン・ケラーとのかかわりについて、手紙を出していて、手記のようなものを丁寧に読んでいくと、竹内さんがおっしゃるとおり、全然違うことが分かりました。大竹しのぶさんの芝居が、「ウォーター」のシーンをどう演じるか、とても楽しみにしているのです。

まず、からだごとの触れあい
 ヘレン・ケラーは、目が見えない、耳も聞こえない、ことばのない少女ですが、7歳のときに、家庭教師として雇われたサリバンとヘレン・ケラーの関係が始まります。ことばを獲得して、話せるようになって、日本でも講演している人です。
 『奇跡の人』という『奇跡』は何を指すのでしょうか。「ウォーター」と、ことばを発見したことが奇跡だとして、芝居では『奇跡の人』とタイトルをつけているのでしょうが、サリバン自身が、自分の手紙に「奇跡が起こりました」と書いているのは、この場面ではありません。
 サリバンが出会ったときのヘレン・ケラーは、全くしつけられていなくて、食事の作法についてサリバンはこう表現しています。
 「ヘレンの食事の作法はすさまじいものです。他人の皿に手を突っ込み、勝手に取って食べ、料理の皿がまわってくると、手でわしづかみで何でも欲しいものをとります。今朝は、私の皿には絶対手を入れさせませんでした。彼女もあとに引かず、こうして意地の張り合いが続きました」
 サリバンは、このヘレン・ケラーと向き合った後、こう言っています。
 「私はまず、ゆっくりやり始めて、彼女の愛情を勝ち取ろうと考えています。力だけで彼女を征服しようとはしないつもりです」
 これはサリバンの覚悟なのでしょう。一筋縄ではいかない。からだごとぶつかって、自分も一緒に生きるところで彼女と向き合わなければ、彼女のことは理解できないし、彼女が変わらない。基本的信頼感がお互いになければ、家庭教師として、教えることはとてもできないということです。
 それを確立するために、2週間という期限を区切って、小屋に二人で住まわせてほしいと申し出ます。一つの小屋で、食事から何から完全に二人きりの生活です。これまでは自由奔放に勝手気ままに生きてきたヘレンにとって、この閉ざされた空間で、サリバンと二人だけの生活は、非常に厳しいのですが、濃密です。これは、乳児期・幼児期の母と子の関係に近い関係です。サリバンに従わないと、食事すらできない。信頼はともかく、柔順に従わざるを得ない状況です。
 初日の食事のときの格闘の後は、サリバンの雰囲気を感じると逃げていたヘレンが、二人きりの生活の中で変わっていくのです。6日から7日目のことですが、サリバンは、こういうふうに親友に手紙を書いています。
 「今朝、私の心はうれしさで高鳴っています。奇跡が起こったのです。知性の光が私の小さな生徒の心を照らしました。見てください。全てが変わりました。2週間前の小さな野生動物は、優しい子どもに変わりました。今では、彼女は、私にキスもさせます。そして、ことのほか優しい気分のときには、私のひざの上に1,2分は乗ったりもします。しかし、まだキスのお返しはしてくれませんが」
 家庭教師と生徒の関係を越えて、人間と人間の生身のぶつかり合いの濃密な生活の中で、この基本的信頼に近い感覚が芽生え始めたのでしょう。この関係ができたことを、サリバンは、「奇跡が起こった」といっているのです。ここまでの取り組みがいかに大きなことかは、サリバンの「奇跡」ということばで分かります。随分とおとなしくなったヘレンを見て家族はとても喜んで、2週間という約束だから、また家に戻してくれという。サリバンは、まだまだそんな状態ではないからもう少しこのままの状態を続けたいと強く訴えるのですが、約束だからと家の人がつっぱねる。そして、2週間後に家に戻ったのですが、最初の夕食がすごい勝負なのですね。

自律から自発へ
 そのあたりは芝居でどうなるか興味深々なのです。誰も助けてくれない、閉ざされた小さな小屋では、彼女はナプキンをつけて食べるようになった。自分の父や母のいる安全な場面に来たときにもそれができるか、です。勝負だったのですね。これが人間ではなくて犬の調教だったら、調教したことは、場所が変わってもできる。でも、ヘレンは人間ですから、そうはいかない。そこで、最初の晩餐のときに、ナプキンをおこうとすると、彼女はダーッとナプキンを放り投げて、またわしづかみで食べ始める。要するに、最初に出会ったときと同じ状態に戻るのですね。ヘレン・ケラーとサリバンの勝負です。
 教えた食事の作法でやらせようと思っても、バーっと振り払って絶対させてくれない。芝居や映画では、この格闘でこぼした水差しに水を入れさせるために、食堂から引きずり出す。そして、ポンプのとこで「ウォーター」と感動的な場面になるのですが。サリバンの手紙によるとそうじゃない。その晩は仕方ないから、そのままにしておいて、次の朝、何とも言えない気持ちを抱きながらも、サリバンが食堂へ行ったときに、ヘレンが先に席についていて、ナプキンをしている。サリバンが教えた方法ではなくて、自分のやり方でナプキンをしていた。それは、竹内敏晴さんから言うと「それはサインだ。つまり、サリバン、あなたが教えようとしたことは要するにこういうことなのでしょ。要するに、形は違うけれども、こういうものをつけて食事をしろということを教えたかった。それを私流にすると、こうなんですよ。それをあなたは受け入れるか。私の自律性を認めるか。私を尊重するのですか」という問いかけだった。それに対してサリバンが、「それじゃだめでしょ。私があれだけ教えた方法でやりなさい」と無理強いしたら、その後のヘレンとサリバンの関係はなかったでしょう。すごい勝負どころだったと、竹内さんは言います。
 サリバンは、やり直しをさせなかったということで、「OKだ。あなたはあなたのままでいい。そのあなたのやり方でいいんだよ。そういうふうにして食事をしてくれればいいのだ」と、無言のOKを出すのです。
 ヘレン・ケラーの自伝と、サリバンの手紙を読み比べると、随分面白い。ヘレンは、自分自身のことだから、手づかみで食べたことなど書いてないし、かんしゃくの発作という表現はあっても、サリバンと凄い格闘があったことなど、まったく書いていません。しかし、サリバンは明確に書いています。
 二人きりの生活の中で基本的信頼が芽生え、この場面で自律性が尊重されたことによってさらに信頼感は確実なものになっていきます。
 基本的信頼の階段をのぼり、自律性、自発性、勤勉性の階段をのぼり、どんどん学び、言語を獲得していくのです。サリバンとヘレンが一緒に階段をのぼっていったのだと思います。
 母と子の関係や、教師と生徒、カウンセラーとクライエントとの関係にしても、どちらかが一方的に相手を信頼するから基本的信頼感が育つのではありません。母親から子どもへの一方通行ではなくて、母親自身が子どもを信頼するという関係は重要です。いろいろ大変な事があっても、私はこの子どもを育てることができる、大丈夫なんだという自信。その信頼が、子どもに伝わり子どもは母親を信頼する。サリバンはヘレンに対しで「この子は力がある。きっと変わる」という、人間として成長していくという大きな信頼があったのだろうと思います。
 その信頼に対して「本当にあなたは私のことを信頼してくれているのか」という、すごい強烈な問いかけを、サリバンから教えられたのとは違うナプキンのかけ方で、無言で試したのだと言えます。それに対してサリバンは「あなたはあなたのままでいいのだよ。それでいいのだ」と言う。このメッセージを受けて、食事が終わってから、ヘレンがサリバンのところへきて手をつなぐのです。OKを言ってもらってありがとうなのか、私を認めてくれてうれしかったのか、手をつなぐのです。そこから本当の意味での相互の基本的信頼が深まったのでしょう。

深いやすらぎと、集中の中で
 それからは、二人でいつも手をつないで、山道を歩き回り、ものに触り、いろんな事を一緒にする。お互いにゆったりとした、安心できる人間関係の中で、リラックスした中で、その「ウォーター」が起こるわけですね。ヘレンは自伝でこう書いています。
 「私たちは、スイカズラの香に誘われて、それに覆われた井戸の小屋に歩いて行きました。誰かが水を汲んでいて、先生は私の手を井戸の口に持っていきました。冷たい水の流れが手にかかると、先生はもう一方の手に、初めはゆっくり、次にははやく、『水』という字を書かれました。私は、じっと立ったまま先生の指の動きに全神経を集中しました。すると突然私は、何か忘れていたことをぼんやり意識したような、思考が戻って来たような、戦標を感じました。言語の神秘が啓示されたのです。そのとき、『W-A-T-E-R』というのは、私の手に流れてくる冷たい、すばらしい冷たい何かであることを知ったのです。その生きたことばが魂を目覚めさせ、光とのぞみと喜びを与え、自由にしてくれました」
 この場面をサリバンはこう書いています。
 「井戸小屋に行って、私が水を汲み上げている間、ヘレンには水の出口の下にコップを持たせておきました。冷たい水がほとばしって、湯飲みを満たした時、ヘレンの自由な手の方に『ウォーター』と綴りました。その単語が、たまたま彼女の手に勢いよくかかる冷たい水の感覚にとてもぴったりしたことが、彼女をびっくりさせたようでした。彼女はコップを落とし、くぎづけされた人のように立ちすくみました。そして、「ある新しい明るい表情が浮かびました。彼女は何度も何度も、『ウォーター』と綴りました」
 芝居や映画では、格闘し、つかみ合いながらのあの感動的な『ウォーター』が実際にはなかったことがはっきりと、ヘレンの自伝からも、サリバンの手紙からでも分かるのです。
 私は人間と人間を結びつけるのは、ことばだと思っていました。そして、どもるためにことばがうまく話せない私は、人間と人間との関係が作れない、保てないと思っていました。ところが、ヘレンとサリバンの初めのころの関係の中では、全くことばがなかったわけです。人と人とが向き合う関係の中で、教える、教わるという役割を越えた関係の中で、響き合ったのではないかと思うのです。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/06/04

響き合うことば

 2003年2月15日、不登校、引きこもりの子どもの保護者、学校関係者、適応指導教室の担当者、相談機関など、様々な場で子どもの支援に当たっている人を対象にした研修会が石川県教育センターで開かれました。その時の僕の講演記録を、石川県教育センターの相談課が冊子としてまとめてくださいました。「スタタリング・ナウ」2005.6.18 NO.130 で、講演記録の三分の一ほどを掲載しています。タイトルは、「響き合うことば」でした。部分的な紹介なので、タイトルと合致しないように思われるかもしれませんが、この後、自己表現へと話は続いたようです。機会があれば、続きを紹介したいと思います。

《講演録》 響きあうことば
             伊藤伸二・日本吃音臨床研究会会長
 
今、ここでのことば
 こんにちは。私は人前で話を随分してきていますので、本来ならだんだん上手になっていくものでしょうが、私の場合は、最近だんだんと話せなくなってきています。以前ですと、起承転結をつけて、順を追って話さなければならないと思い込んでいたせいか、話したことが、そのまま文章になってしまうぐらい、まとまった話ができた時代がありました。それが最近できないんです。しなくなったというのが正確かもしれません。そして、以前は大勢の前で話すときはほとんどどもらなかったのが、最近はよくどもるようになりました。自分では、まあいいことだなあと思っています。
 読んでいる方もおられるでしょうが、『ことばが劈(ひら)かれるとき』という本を書かれた〈からだとことばのレッスン〉の竹内敏晴さんの演出で主役の舞台に立ったときから、私は変わってきたように思います。『ほらんばか』という芝居で、東北の山村に新しい農業を導入しようとして、周りの妨害で、発狂し、恋人を狂気の中で殺してしまう主人公の青年を演じました。稽古の始まる前の私を、竹内さんはこう表現しておられます。
 「伊藤さんは、台本を広げて、熱のこもった声で朗々とせりふを読み上げた。ほとんどどもらない。まっすぐにことばが進む。しかし、聞いていた私はだんだん気持ちが落ち込んできて、ほとんど絶望的になった。つきあって数年。かなりレッスンをして、ことばに対する考えは共通しているつもりでいたが、からだには何も滲みていなかったことだろうか。説得セツメイ的口調の明確さによる、言い急ぎを、一音一拍の呼気による表現のための声に変えていくことができるか」(『新・吃音者宣言』(芳賀書店)304ページ)
 こうして、竹内さんに徹底的にしごかれました。その時の稽古と本舞台を通して、何かパカッと自分が弾けたような気がしました。明確に、説得力のある情報を伝えることを習慣としてきた私のことばが、表現としてのことばに脱皮したとも言えると思います。
 準備してきたことよりも、今ここでの気持ちや、皆さんの反応を受けながら、生まれてくることばを大事にするようになると、これまでのようなまとまった話ができなくなったのです。これは、今回の話のテーマにもなるのだろうと思いますが。
 先だって、サードステージという有名な劇団の劇作家で演出家の鴻上尚史(こうかみしょうじ)さんに、私たちのワークショップに来ていただいて、大変興味深い体験をしました。
 竹内敏晴さんや鴻上尚史さんから学んだことや、私自身が自分の人生の中で考えてきたことを、今浮かんで来るままに、表現についてお話したいと思います。だから、ちょっと取り留めもなく、あっちこっちに脱線しながらの話になるかもしれませんが、よろしくお願いします。

吃音に悩んだ日々
 まず、私がどういう人間かが背景にないと、話がなかなか伝わりにくいかなと思いますので、ちょっと自分のことを話します。
 私はどもりながらも明るくて元気な子どもだったのですが、小学校2年の学芸会で、セリフのある役を外されてから、吃音に強い劣等感をもち、悩み始めました。それまでなかった、からかいやいじめが始まり、友達も一人減り二人減り、気がついたら友達が一人もいなくなってしまいました。
 アイデンティティーの概念で知られる、心理学者のエリクソンは、学童期を学ぶ時期だとして、劣等感に勝る勤勉性があれば、何事かに一所懸命いそしめば、学童期の課題を達成し、有能感をもって、次の思春期の自己同一性の形成へと向かうと言いました。勉強もがんばるけれど、友達と一緒に何か一所懸命やる喜びや楽しさを感じる時期ですが、私は劣等感の固まりで、楽しかった記憶が全くありません。その頃、授業中に当てられて、ひどくどもっている時も辛かったのですが、それ以上に、他の人たちが楽しく遊んでいるときにいつもポツンといる休み時間や遠足や運動会が大嫌いで、辛かった。これは、人間関係がつくれないことがいかに辛かったかということでしょう。
 自己紹介で自分の名前が言えない不安と恐怖は大きなものでした。小学校5年生の時から、中学校の自己紹介で、どもってどもって、惨めな姿をさらけだしているを想像して、嫌な気分になっていました。中学生になりたくないと思っていました。
 中学生になって、私は両親、兄弟とも関係が悪くなり、家庭には居場所がなくなりました。学校生活はいつも針のムシロで、早く卒業したいと思っていました。当時、暴走族もシンナーもなかったのが、幸いでした。今なら完全に非行少年になっているだろうと思います。親から預かった記念切手を売っては、中学生が保護者同伴でしか映画館に行けない時代に、映画館に入り浸りました。当時の洋画、ジェームス・ディーン、ゲイリー・クーパー、バート・ランカスターなど、ほとんどの映画を見ています。補導されたり、警察に捕まったりしながらも、映画館だけが唯一の居場所で、映画だけが私の唯一の救いでした。
 一番辛かったのは高校時代です。当時は不登校ということばはなかったですが、これ以上学校を休むと卒業できないところまで、私は学校を休みました。国語の朗読の順番が私の目の前で終わると、次は確実に私から始まります。それが、分かっている日は、校門から中に入れない。ひとり映画をみたり、ぶらぶらしていました。
 21歳まで本当に孤独に生きました。人とふれ合いたいと強く願いながら、いつもひとりぼっちでした。友達と会っても、「おはよう」が言えず、「おっおっ・・」となっているうちに通り過ぎてしまう。自分の名前も言えないために、新しい場面や話す場面から逃げる。そのとき一番思ったのが、人間が分かり合えるのは、ことばが全てだということです。だからあの当時、「足がなくても、目が見えなくても、病気になって病院に入院しても、確かに辛い状況かもしれないけれども、しゃべれたら、あいさつもできるし、会話ができる。体が不自由でもいいから自由に話せることばがほしい」と、本気で思っていました。人と人とが結びつくために、自由に話せることばが欲しいと、祈りにも似たことばへの欲求がありました。

どもりは治らなかったが
 21歳の時に、どもりを治したくて、吃音の治療機関に行きました。朝から晩まで発声練習や呼吸練習に明け暮れ、上野の西郷さんの銅像の前や、山手線の電車の中で、昼下がりに、「皆さん。大きな声を張り上げまして失礼ですが、しばらく私の吃音克服のためにご協力下さい」と、演説の練習をしました。今から思うと、よくあんなことをやれたなあと思います。それだけ治したいと必死の思いだったのです。4カ月一所懸命やったけれども、どもりは治らなかった。これから自分はどうしたらいいのか。どもったままで生きるしかないと思ったときに,どもりは恥ずかしいとか隠そうとか思っていたら、私は一生しゃべらない人間になってしまう。人間関係を結べない人間になってしまう。それじゃ損だって思った。ようやく、どもっている自分を認め、向き合うようになりました。
 21歳までの私は、「どもりは悪いもの、劣ったもの」と考え、どもる自分を否定して、どもりが治ってから話そう、人間関係を作ろうと思っていました。自分が大嫌いでした。その頃は、どもるから話せないと思っていたけれど、そうではなくて、自分自身が話さなかったのだ。これは、今から思うと、大変な気づきだと思うのです。何々のせいでできなかったのではなくて、どもるのが嫌さに、自分の選択で話さなかっただけの話です。
 孤独の話、辛かった時代の話をすると、そんなにしんどかったのに、生きてこれたのはなぜかと、あるワークショップで質問を受けました。今まで考えたことがなかったので、「子どもの頃母親に愛されたからかな」と言った後で、ちょっと違うなあと、話が終わってから訂正しました。笑い話みたいですが、当時、入浴剤にムトウハップというのがあって、万病が治ると書いてあった。これを飲んだらどもりが治るかもしれないと、すごい量飲んで、救急車で運ばれたことがあります。今から思えば、死にたかったのかもしれません。
 「どもりのまま死んでどうする。どもりが治らないと死ねない」だったと、あの頃を振り返ると思います。学童期・思春期にしたいことを何一つしないで、人生の喜びも楽しみも感動も経験しないで21歳まで生きてきた人間が、このまま死んでたまるかと思ったんだと思うんです。
 21歳の夏からの私の人生は、苦しいこともあったのですが、どもる人の国際大会を世界で初めて開いたり、何冊も本を出版したり、すばらしい人とたくさん出会えたり、自分のしたいことをしてきた人生だったと思います。来年は60歳になりますが、いい人生だったなあと思うし、だからあのとき死ななくてよかったなあと思うのです。
 21歳までの私と今の私とは全く別人のような感じがします。あのひねくれた、無気力で消極的だった少年がよくここまで生きてきたなというのが実感なのです。中学校のときの同窓会が、一昨年あったんですが、皆にびっくりされました。伊藤は変わったなあって言われました。
 『人間は変わるものだ、変わる存在だ』と私は信じています。
 私は、成長するっていうことばは、あまり好きじゃないので、〈変わる〉と言います。人間が変わるのは、医療の世界で言われる、自然治癒力と同じようなものだと考えています。自分自身に備わっている変わる力が、誰かと出会い、ある出来事と出会い、それが響きあって、自ずと自分の中から力が湧いて、力が出て変わっていく。人間には、そういうものが備わっているのだと思います。

あなたはあなたのままでいい
 私が〈変わる〉出発地点に立てた話をします。
 『新・吃音者宣言』という本の中に、「初恋の人」という文章を書いています。私はそれまで人間が信じられなかった。親も教師も友達も信じられなかった。学童期、思春期と本当に孤独で生きて来た人間が、初めて他者を信頼できて、「ああ、人間って温かいなあ、信頼ができるな」と思ったのは、初恋の人との出会いでした。とってもすてきな女性で、その彼女と出会ったことが、私の一生を変えたと言ってもいい。だから私は彼女に今でも感謝しているんです。その彼女とは、偶然のきっかけで、36年ぶりに島根県の松江市で再会することができました。そのとき、「伊藤さんは、21歳のときにすごくどもりながら、一所懸命しゃべっている姿を見て、私もすごく力を得た」と言われました。私はすごくどもっていた時代を忘れていますが、彼女とは、36年間全く会っていないですから、私の21歳の頃を鮮明に覚えていたわけです。気持ちの持ち方、考え方も、もちろん変わったけれども、私のどもりの症状そのものも変わったと言えるようです。
 彼女とは吃音の矯正所で出会いました。9時から授業が始まるので、話ができるのはその前です。夏ですから、朝早く起きて、二人で学校の前の鶴巻公園で、毎朝、朝ご飯も食べないで授業が始まる前までしゃべってました。そこで初めて、今まで誰にも話せなかった、こんな嫌なことがあった、こんな嫌な先生やクラスの人がいた、家でも母親からこんなことを言われた、そのとき私はどんな気持ちだったかをいっぱい話をしました。彼女は、一所懸命聴いてくれました。人に話を聴いてもらうことが、こんなにありがたい、うれしい、ほっとすることか。どもる自分が大嫌いだったのが、どもっていることを含めて彼女は私を好きになってくれた。愛されていると実感できたときに、人間不信という硬い氷のような固まりが、すっと彼女の手のひらの中で溶けていくような実感がありました。人間は信じられると思えたのですね。
 吃音矯正所は全国にあって、どもる人がたくさん出会っているのに、どもる人の会は全く作られていない。私が初めて、セルフヘルプグループを作ることができたのは、彼女とのありがたい出会いと、それまでがあまりにも孤独で、人とふれ合いたいとの思いが、人一倍強かったからだと思います。
 彼女との出会いの中で得た、なんとも言えない安らぎ、ありがたさ、喜び、安心感。また、ひとりで吃音に悩んでいたと思っていたのが、同じように悩んできた、たくさんのどもる人との出会いは、とてもありがたいことでした。この喜びを知ってしまった私は、吃音矯正所を離れるとまた、21歳までの気の遠くなるような孤独な世界に戻ってしまう。これまでは、孤独でも生きてきたけれど、そうじゃない世界を知ってしまった以上はもうその世界に戻るのは嫌だと思ったわけですね。私の苦しみを分かってくれる同じような体験をした人達といっしょに手を繋ぎたい。それで、セルフヘルプグループを作ったのです。その原動力となったのは、その初恋の人との出会いでした。

基本的信頼感
 私は、エリクソンのライフサイクル論が好きなのですが、エリクソンが言うには、人間は心理的・社会的には、階段を上がるように発達していく。人生を8つの節目に分けて、その時期その時期に達成する課題があり、その課題をクリアしたときに次の段階にいくのだと言いました。最初の課題である基本的信頼感が、基本的不信感よりも勝ったときに、その時期の課題が達成される。私は親から愛され、基本的信頼感から、自律性、自発性へと進みましたが、学童期につまずいたわけです。
 学童期の課題は、劣等感に勝る勤勉性です。私は、勉強も遊びも何かの役割もしないで、逃げ廻り、全く勤勉性が達成されずに、劣等感ばかりが大きくなりました。だから次の段階、思春期の自己同一性の形成にはいかなかったのです。自分が何者か、これからどう生きていくのかがつかめなかったのです。その私が、初恋の人と出会って、自分を取り戻してもう一度階段を上がり始めることができたのは、私には乳幼児期の基本的信頼感が、クリアーできていたからだと思うのです。
 母親との関係が悪くなったのは中学1年生のときからです。私がどもりを治すために、一所懸命発声練習をしていたときに、母親に「うるさい! そんなことしてもどもりは治るわけないでしょ」って言われた。母親に対して、「何で僕がどもりを治そうと思っているのに、母親がそんなこと言うんだ」と泣きわめいていました。それから、母親に対する反発が生まれて、家出を何度も繰り返しました。母親への反発は、父親へ、兄弟への反発になっていった。その母親に対する強い不信感が後で取り戻せたのは、子どもの頃、母親から愛されたという実感があったからです。辛かった学童期を生きられたのも、人間不信に陥った私が、もう一度人間を信じるきっかけを作ってくれたのも、初恋の人との出会いを生かすことができたのも、母親への基本的信頼感だと思います。
 初恋の人と、10日間の出会いの最初の5日間、私は、ことばでいっぱい自分のことを話しました。そして、彼女が聞いてくれた。ところが、6日目あたりからはあまり話さなくなった。話さなくても通じ合える。話すことに疲れたり、話し尽くしたわけではないけれども、お互いが分かり合える世界になったのでしょう。公園で手をつないで、彼女の温かさを肌で感じながら、ベンチに座っているだけで十分だった。ことばだけの世界でなくても人間は、響き合い、通じ合える。これまで僕は、ことばだと思っていたけれども、黙っていても、お互いが愛し愛され、信頼できれば十分伝わるし、長い時間も過ごすことができるのだということが、この時に彼女との経験で分かりました。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/06/03

竹内敏晴・大阪からだとことばのレッスン 公開レッスン 2004年3月

 昨日の日曜日は、絶好のお花見日和でした。マンションの敷地の桜も、1週間前には堅いつぼみだったのに、一気に満開に近い状態になっています。今日の雨が花散らしになってしまわないか、少し心配です。もう少し、あの淡いピンクの花を楽しみたいです。
 現実の社会は、世界の情勢も日本の政治も、嫌なニュースばかりですが、自然は変わりなく移ろい、そのありがたさを感じています。

 公開レッスンを終えた竹内敏晴さんのエッセイ「春 うごく」を紹介しました。そのときの公開レッスンに参加出演した2人のどもる人の感想をします。吃音のために、積極的にコミュニケーションをとってきたとはいえない2人の、舞台を経験した後のみずみずしい気持ちが綴られています。

  
観客の空気を感じながら
                                  藤谷征一
 朝9時から舞台を作って、ライトの下で実際に練習してみると、暗い客席の部分が少し不気味で、普段の練習とは全然感じが違いました。客席に観客が入っても同じ事ができるんだろうか、と不安になりました。普段より動きがぎこちなくなって、今まで言われた事が出来ているんだろうか、本番で出せるんだろうか、と思いました。
 6月から定例レッスンに参加させてもらって半年経ちましたが、だんだんと「声が出てきたね」と言われる様になって、自分でもそれを感じる事ができて来ました。
 中二の時に友達に吃音をからかわれて以来、吃音を隠そうとして会話を避ける様になって、できるだけ話さない様にしました。
 一年前から毎週、大阪吃音教室に通い出して、最近やっと吃音がある自分を受け入れる事ができてきて、前より自分からだいぶ話しかける様になってきました。
 苦手な会議での学生の発表でも、発表中にどもって声が出なくなって「まずい!」と思ったときに、竹内さんに教わった感触が湧いてきてなんとか言い切った場面がありました。
 定例レッスンで気付かされる事は多く、例えば感情的になった方が相手によく伝わる、と思っていたのですが、そうではない事を呼びかけで体験して気づくことができました。
 吃音を少しでも軽くしたいと思うばかりだったのですが、それよりも人間関係や表現や発声をする上で大切な事があったんだ、と気付かされました。
 四郎は普段の自分とは違って、引っ張っていく役だったので、自分には違和感がありましたが、でもこうなれればいいなあという役で、やってみてよかったです。
 さて、会場いっぱいに観客の方々が入って、うれしい半面緊張が高まりました。自分の番が近づいて来て、どもって芝居の流れを止めないか不安になりましたが、笑う所は思い切り笑おう、考えずに思い切りやろう、と自分に言い聞かせました。
 いよいよ自分の番で、頭が真っ白になりながらとにかくセリフを言っていきました。竹内さんに言われた、お腹いっぱい・・のセリフは堂々とあごを引いて、不思議なものに対する訝しいさも出す、と、セリフを言ったあと身を引かない、が頭に浮かびました。
 吃音の不安は常に頭をよぎっていましたが、吃音のことは全然感じさせず楽しんでいたと言ってもらい、うれしかったです。自分の番の終わりごろに疲れて声が出にくくなりましたが、なんとか言い切れてほっとしました。観客の空気がよかったそうで、後から考えると自分も観客の空気のおかげで声が出せていた感じがしました。
 狐の生徒で観客の方々も参加されて、よりおもしろくなったし一体感を感じました。参加された方みんな練習より本番の方がよりよくて、いきいきして見えました。終わってから、今でも時々芝居中の四郎の感触がよみがえってきます。充実した時間に参加させてもらって、よかったです。

  引き出してもらった声
                               新見哲也
 声が自分でもびっくりするほど出たので、とても気持ちよかったです。とにかく勢いよくいこうと思っていたのですが、いざとなると足がすくみ、浮き足だっような感じだったのが、(ずいとはいって)で、舞台にあがってから何かふっきれたような感じがしました。後は上田さんに後押しされるような感じで、自然にからだが動いていったように思います。また、「うるさいわい。さあ来い」と言って中野さんのうでをつかんでひっぱる時に、その場でぐっとふんばってもらえたので、私もその分ぐっと力が入り、舞台から力強く押し出すことができたので、声も力強く出たように思います。ふり返ってみると、自分で声を出したというよりか、何か声を引き出してもらえたような感じがして不思議でした。今回、みなさんからよかったと言われ、また自分なりにも精一杯だし切れたので、とてもうれしくて楽しかったです。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/04/08

春うごく

 竹内敏晴さんがお亡くなりになるまで、僕は、大阪での竹内さんの定例レッスンの事務局を10年以上していました。定例レッスンは、大阪の他に東京、名古屋でもありましたが、大阪は、日本吃音臨床研究会が事務局をしていたので参加者にどもる人が多かったこと、年に4度季刊紙として「たけうち通信」というニュースレターを発行していたこと、毎年3月に、舞台を観に来た観客も一緒になって舞台をつくる公開レッスンをしていたことが特徴でした。その公開レッスンについて、竹内さんが書かれた文章を紹介します。「スタタリング・ナウ」2004.5.18 NO.117 に掲載しているものです。

        
春うごく
        竹内敏晴 演出家


  キックキックトントンキックキックトントン
  堅雪かんこ しみ雪しんこ
 呼びかけに応えて客席からばらばらと立ち上がって来た人々が舞台いっぱいにあふれて、出演者といっしょになって踊っている。客席の人たちが笑いながら手を打ってはやし出した。
  キックキックトントンキックキックトントン

 三月の第二土日、大阪のオープンレツスンが始まると、ああ春が立ち上がってきたなあ、と思うようになった。
 應典院というお寺さんの円型のホール一杯に、すわりこんだり椅子に腰掛けたりしているお客さんに、わたしが「こんにちは」と言って、まず歌ってみませんか、と呼びかけると、とたんにわらわらと立ち上がる。「そうら出て来た」という感じさ、とだれかが言っていたが、のどをあけて息を入れてー、止めて、吐いてーから始まって、どうも背中が固まってるみたいだ、二人組みになって、一人が四つんばいになってみて下さい、背中はぶら下がっている? もち上がっていないかな? と始める。背中をゆすってもらって、ぶらんと胸やおなかがぶら下がったら、さて、そこで、膝を床から離して、サル歩きをしてみよう、前足に、いや手に―どっと笑いが起こる―体重をかけて歩いてみて。相手をみつけたらアイサツしてみるとか。とたんにわらわらとみんな動き始めたのには、わたしの方が驚いた。テレたりとまどったりする人がたくさんいるだろうと思いこんでいたので。わ、なんというあったかさ。苦笑いしながら相手の背によじのぼる人もある。大あくびしているサルもいる。それから立ち上がっていって、ヒトに、直立二足歩行のいきものになってと、さて、歌だ。
 「どこかで春が生まれてる」。百田宗治詩、草川信曲。この中に五つ「どこかで」が出てくる。どこかで「春が」「水が」「ひばりが」「芽が」そして最後にもう一ぺん「春が」。この五つはみんな違う。ひとつひとつ、ことばで眩いて、声をひろげて、見回しながら、聞き耳を立てながら、そしてメロディとひとつにして、ことばを歌ってゆく。車椅子のお年寄りたちも介添えのスタッフとうなずきながらからだをゆらしている。お、いい声になってきたなあ、と思いながら歌い納めたが、たまたま後で録音を聞いてびっくりした。なんと澄んだのびやかな声だったろう。

 これから第二部、毎月レッスンに来ている人たちによる朗読劇に入ります、と言ってから、ふつうこういう場合の配役というと、持ち味とかしゃべり方が巧みだとかいうことを基準にして、適材適所という選び方をしますが、ここでは全く違います、言うなれば、不適材不適所、と続けたら客席がどっと沸いた。
 いささか慌てて、つまり、今この人はこんなことにチャレンジしてみたらなにかひとつ突破できるかも知れないな、とか、この人はとても感受性がいいのだけれど、自分の思いに閉じこもってしまう傾きがあるから、今回は他の人や客席の反応にまで向かいあってみる語り手をやってみたらどうか、とか、いうことです、と述べた。そういういわばこちら側の都合による試みというか冒険に立ちあっていただくのは恐縮なのですが、お客さんの前に立った時、もうノッピキならなくなる、後に退く、逃げ出す、ということができない場に立って、エイと自分を前に押し出すことが、ひとつ自分を超えてゆくことになるので、どうか、笑ってそれをはげまし、支え、時に叱って下さることをお願いいたします―
 そして「雪渡り」が始まった。四郎とかん子の兄妹がとびはねながら出て来る。お、やった!実を言うと妹役の山本さんは、先月のレッスンではまことに楽しく充実してやっていたのに上演が近づくにつれ気持ちが不安定になり、当日朝は行方知れず、仕方なく代役の稽古まで終えたところへ、硬い顔して姿を見せた。ヤルカナ? ニゲルカナ? とはらはらして見ていたのだった。伸びやかないい声でぽーんと「かた雪かんこ…」。引っ張られるように兄役の藤谷さんが、詰めた息を吐き出すように「しみ雪しんこ」。いつも背を丸めて下ばかり見つめている顔が、まっすぐ顎を上げて、目は少しまぶしそうにパチパチするが精一杯に雪を踏み立てて来る。
 やれやれよかった。これでまず第一ハードル突破だ。

 藤谷さんはかなり強い吃音である。伊藤伸二さんの紹介ではじめてレッスンに来た時、ほとんど後ろにひっこんでいて、レッスンで前へ出る時はまっ赤になっていた。集まった人々は別にはげましたりはしない。だが見守っている。歌のレッスンが巡っていって、わたしとかれの一対一になると、試みの度にまわりで息を呑んだりほっとしたり息づかいが動く。それがかれをどれだけ支えたかは判らない。が、かれは粘り強く息を吐き、深め、姿勢を整え、相手に手をふれ、足踏みをし、退いてはまた進み、くり返し、からだ全体がいきいきと動く方向へと、探り続けてきた。
 さて、今、まっすぐに、ただまっすぐに、引きこもろうとする自分を見ながら、ひたすらまっすぐに前へ、からだの動きも声の発し方も。そのひたむきさが際立った純粋さを舞台に立ち現わさせた。時におじけづき、ひっかかりながらも、少年の一途な、不器用な、雪の中から狐の子を呼び出してしまう無垢さが、生きた。
 お客さんの中で「あの人のあんな大きな声はじめて聞いた」と言っているのを聞いた。

 大阪のレッスンは、日本吃音臨床研究会の主催だ。どもる人がなん人も参加して来た。
 と言っても、別に吃音を「なおす」ためのレッスンをするのではない。(どもりに限らず、わたしは一般に治療のためのレッスンはしない。ただ、人が自分のからだや声やの有様に気づき、おどろいてそれを見つめ、そこから出発し直してみることがここで起こる。その手助けをするというだけのことだ。)
 わたしは、声の産婆と言われたりするが、ただことばを発するとき、落ち着いて息を吐き、自分のことばを、ぽつぽつでもいい、ひっかかってもいい、語っていけるように、からだを、そして相手とのかかわり方を、整えられればいいな、と願うだけだ。
 念のためにつけ加えると、自分を意識的に強くコントロールしてどもらないようになることは、レッスンの過程で、結果としてはかなりな程度できるようになることもある。しかし、それは、自分のことばを語り、自分を表現することではない。実のところ、自分になり切らない、時には鋭く他人のことばを語っている、という感じがつきまとうこともあるのだ。伊藤伸二さんもそうだが、それに気づき、今は平気でどもり、それをその人の語り口の個性として生き生きとしゃべっている人がなん人もいる。

 新見さんもどもる人の一人だ。はじめてかれに会ってからもう四年近くなろうか。かれは以来、ただの一度も休まなかった。なにがかれをそれほど呼んだのかはわからない。ひっかかったり、口ごもったりしてわたしにはよく聞き分けられなかった声が、じりじりと拡がり、他人と話し交わすのが見られるようになった。そうなってみると、かれの声には他に比べようのないリアリティがある。温かくて強く、重い。柔らかいがずんと人を打ち動かす力がある。しかしどういうわけか、歌う時になると少し困ったような顔をして口ごもるふうだ。わたしは、なんとか、一気にまっすぐに相手に向かって大声を吐き切る、いや叩きつける躍動を、からだ全体で吹っ切ってほしいと思い始めていた。
 前に立つわたしの肩をぐいと押しては一気に相手に向かって声をぶつける。くり返し、くり返し。当日午前の舞台稽古でも、「正面向いて! 大きく足を踏んで!」とわたしは怒鳴っていた。
 いよいよ登場。客席から歩いていった新見さんが一問答の後、一尺高の舞台へぐいと登って「おやじはおるか」と言った時、力強い声がびしっと会場全部を圧した。胸も背もまっすぐに伸び、もともと大柄のかれが、頭ひとつ抜き出て大きく立ちはだかっている感じがした。
 後でかれが言ったところによると、「ずいと土間に入って」とト書きがある、その瞬間に全力を集中していた、と言う。役の行動全体の核心をみごとに掴みとっていたのだ。
 ここまで書いたところで、かれの感想文を読んだ。終わりの方に「自分で声を出したというよりか、なにか声を引き出してもらえたような感じがして不思議でした」とある。自分の努力を超えてなにの力が働いたのだろう。
 「姿が変わる」一瞬に立ちあうこと。これこそレッスンにおける最上のよろこびだ。

 笑い声と拍手のうちに客席が明るくなり、舞台を下りてゆく出演者たちと、立ち上がって来るお客さんとが入れ混じり始めた時、だれかに呼ばれてふり返ったら車椅子に乗った白髪のお年寄りが花束を抱えて若い女性に押されて近づいて来られた。あっと思った。去年「鹿踊りのはじまり」で、客席一杯に手に持ってもらってすすきの原を幻出した。そのすすきの一本一本を作って下さった、当時中野さんの勤めていた福祉施設の、最高齢の人である。今年も、つきそいの若いスタッフと総勢十数人で来て下さった。「来年もまた」とにこにこして言われる。この方は九十歳近いはず、「わたしも頑張ります」と握手した。
 春が始まったなあ。
(「たけうち通信」2004年春号特集=公開レッスンより)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/04/07

「じか」であること 2

 竹内敏晴さんから、よく「じか」ということばを聞きました。竹内さん自身、いろんなところで「じか」ということばを使って、文章を書いておられます。この「じか」ということば、コロナ禍にあって対面での出会いがなかなか難しかったころ、その大切さを痛感しました。インターネットが普及し、オンラインでいろいろなことができて便利になりましたが、僕たちは、対面でのやりとり、「じか」であることを大切にしていきたいと思います。
 昨日のつづきです。竹内さんの娘さんであるゆいさんの小さい頃の話が出てきます。「スタタリング・ナウ」2004.5.18 NO.117 から紹介します。
                        
  
「じか」であること 2
                        演出家 竹内敏晴

3.子どもは「じか」の世界で生きている
 わたしの娘ゆいが、生れてまだ3か月くらいの頃、わたしはゆいをおなかにのせたままうとうとしていた。うつ伏せになったゆいはすやすや眠ったままわたしが息するたびにわたしのおなかの上でゆっくり上下している。突然わたしはぐいと衝き動かされた気がして目が覚めた。赤んぼがまっすぐわたしを見ている。手とも言えないような小っちゃな2本を懸命に突っぱって「あーあー」と叫ぶ。その声がずしんとわたしを打った。「この子、話しかけてる!」あわてたわたしがなんと答えたか、まったく覚えがない。おっぱいがほしい! でもない、お尻がぬれている! でもない。ただまっすぐに呼びかけている。ことば以前の声で。「じか」ということばを思うとき、真っ先にわたしのからだにうついてくるのは、この時のゆいの目、声、突っぱる手のゆらぎだ。
 毎晩かの女を寝かしつけるのがわたしの役目だ。初めはゆっくりした子守唄や童謡を歌っていた。だんだん短い昔話などをするようになった。ある晩話し始めたら、ゆいがウッウッと言う。なにか催促するような気配だ。ウタ? と聞くとまたなにか言う。なにかパァアンと聞こえる。パン? と尋ねるといやいやをする。ウーンと捻っているうちにふとなにかリズムらしいものに気がっいた。「バッタン……?」と眩いてみたら、ゆいはキャッキャッとはねた。「キリキリパッタン?」キャッキャッ。前の晩に話した「瓜子姫とあまのじゃく」の話かな? 幼い子にはむずかしすぎると思ったけどな、と半信半疑で話し始めていって、あっと思った。「キリキリパッタン」へ来るとゆいが廻らぬ舌でリズムを合わせて声張り上げる。これは昔話の中で瓜子姫が機を織る音の表現で、この後に「カランコカランコ」と梭の走る音が続く。この澄んだ音のくり返しをわたしは好きだったから話したのだが、こんなに幼い子が喜ぶとは思いもかけなかった。
 ところがまだ先があった。遠い山から山びこを返してきたあまのじゃくが、近づいて来る。戸を押し開けて入って来る。瓜子姫をつかまえて裸にして柿の木のてっぺんに縛りつけ、着物を着込んで瓜子姫になりすまし、さて機を織り出す。とたんに「ドッチャライバッチャライドッチャライバッチャライ」。ゆいは「あっ、あっ」と声をあげてはねる。澄んだ音のくり返しだけでなくて、この凄まじい音の変わり方がまたからだをゆさぶるほど面白いらしい。じかな、音のはずみ、からだのはずみ。
 ずっと大きくなってから、ゆいは「くまのお医者さん」の絵本が大好きになった。明日のお出かけを前にして熱を出したケンちゃんが「ぜったいびょうきじゃないんだから」と言い張って寝た夜に、くまのお医者さんがやってきてくれて、言うとおりにしてみたらすっかり直った、というお話である。(「ぼくびょうきじゃないよ」福音館書店)
 ドアの方でとんとんと音がする、とわたしが絵本を読んでゆく。「ぼく、ちゃんとねてるよ、おかあさん」とケンちゃんがどなる。まだ音がする。ケンちゃんはドアをあける―。ゆいが立って、襖をあける。絵本を持ったままずいとわたしが前に立ちはだかる。「そこには しろい おいしゃさんのふくを きた、おおきなくまが かばんを もって たっていました」とわたし。ゆいは、あっと言ったまま立っている。「おや まちがえたかな」とわたし。「ケンも あんまり びっくりしたので、またごほんと せきをしてしまいました」と読むと、ゆいが「ゴホン」「あれれ、きみもびょうきかい」するとゆいが、大威張りで「ちがうよ。びょうきじゃないよ」
 ゆいとわたしは毎日毎日くり返して、ゆいはケンちゃんになり、わたしはくまのお医者さんになった。洗面台へ行っては、「くませんせい」が大きな口をあけて教えてくれた「くましきうがい」を合唱しながら「うがい」をした。「ゴロゴロ ガラガラ ガラッパチ。ガラゴロ ガラゴロ ゴロッパチ。クチュクチュ ペッペの クマッパチ」お話を読み聞かせする、というより、ことばとお話が生まれてくる「場」に、二人一緒に生きたのだ。
 娘が10歳になった頃、わたしとつれあいはある日烈しい言い争いをした。つれあいは厳しいことば使いでどこまでもどこまでもわたしを問い詰める。わたしはと言えば、からだの内をのぞきこむようにしてなんとか一言を探し出す。言い争いはいつまでも果てしなく続いた。
 本を読んだりこちらを眺めたりしていたゆいが、突然、「わかんないなあ!」と言った。「そんなケンカしてなんになるのか、ちっともわかんないなあ」つれあいがきっとなって振りむいた。「どうして?」「それはこうでしょと言うのはいいけど、どうしてソーダネと言わなくちゃいけないの? ひとりはひとりでしょ?」しんとした。だいぶたってから、つれあいがずばりという調子で言った。「まっこと、その通り」ゆいはにこりとした。わたしは感嘆した。娘にも、つれあいにも。

4.「まねる」こと
 ある母親から聞いた話である。
 4歳になる娘が、気がつくといつも同じ姿勢をしている。家でも幼稚園でも。栂指を口にくわえて、人指し指の腹でまつ毛をそうっと撫でている。もう一方の手ではおなかを押さえている。
 気になるので「そんな格好はやめなさい」と叱るとすぐにやめるのだが、いつのまにかまた戻っている。いくら言っても直らない。
 「どうしたらいいと思う?」とかの女は、一緒に竹内のレッスンに来ていた女友だちに相談した。相談された女性はしばらく考えていたが、
 「まねてみるね」と言って栂指をくわえた。人指し指でそうっとまっ毛をさわって、もう一方の手でおなかを押さえた。―しばらく経って、ぽつんと「ひとりぼっち」と言った。「えっ?」「とってもひとりぼっち」母親は胸を衝かれた、という。
 それじゃどうしたらいい?とすぐ対策を立てる、という問題ではない。治療や指導の対象として観察しようとするのではなく、まず、その子の身になってみて、その息づかいを感じ、その子の目で世界を見てみようとする、その姿勢が大切なのだと思う。わたしがただひとつ提案したい「方法」である。
 わたしに依頼されたテーマは「コミュニケーション能力を高めるための技術・実践例」というのだったが、考えてみるとわたしのやってきた「からだとことばのレッスン」は設定された目的のために技術を習得する方法ではない。自分自身への問いかけと、気づき―つまり新しく開かれた世界―への、出発のくり返しである。今わたしにわずかに見えること言えることは、人が「じか」であること、だけだ。(「スタタリング・ナウ」2004.5.18 NO.117)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/04/06

「じか」であること

 吃音はどう治すかではなく、どう生きるかだ、これは僕たちの活動の基本中の基本で、このことを一番大切に活動を続けてきました。伝えたいことはどもってでも伝えるし、どもりながらでも必要なことは伝えてきました。でも、同じどもるにしても、きちんと相手に届く声をもちたいし、相手に働きかけることばをもちたいと考えていました。
 「吃音を治す」ではなく、「吃音とつきあう」にしても、ことばへの取り組みはしたいと思い、単調でつまらないこれまでの言語訓練とは違うものを探していた時、「竹内敏晴・からだとことばのレッスン」に出会いました。竹内さんのレッスンに参加したり、竹内さんに来ていただいてレッスンを受けたりして、からだの中から声を出すことの気持ちよさ、声を出すことの喜び、楽しさを味わいました。その中で、1998年には、どもる人だけの劇団をつくり、竹内敏晴さんの演出で170名もの観衆の前での舞台に立ち、演じることのおもしろさも味わいました。
 竹内敏晴さんの大阪の定例レッスンの事務局も、竹内さんがお亡くなりになるまで、10年以上続けました。レッスンの場以外でも、竹内さんとはたくさんお話をしました。月に一度、第2土日の2日間、竹内さんとの贅沢な時間を過ごしたなあと、なつかしいです。
 竹内さんが書かれた文章と、春に行われた大阪のオープンレッスンについて紹介している「スタタリング・ナウ」2004.5.18 NO.117 を紹介します。

  
「じか」であること 1
                        演出家 竹内敏晴


1.養護学校にて
 ある時わたしは養護学校に人を訪ねて、重複障害児の部屋を通り抜けていった。
 四角い、大きなかごみたいな箱のそばを通った時わたしはふと中をのぞきこんだ。3歳か4歳にしか見えない女の子が箱の底に横たわっていた。ぱっちり開いた目がわたしをむかえた。
 わたしは顔を近づけた。かの女はまじまじとわたしを見て目を離さなかった。わたしはもう一度顔を近づけた。するとかの女の目がふっと笑った。わたしはおでこを寄せてかの女のおでこと軽くごっつんこをした。かの女がククッと声にならない声を立てた。わたしはうれしくなって、今度は鼻の先でかの女の鼻の先をそっと押した。かの女がクックッと笑った。少し離れて二人で見つめあっていて、またおでこを近づけた時、駆け寄ってくる足音がして「あらタケウ…」と呼んだ。わたしが顔を上げる前に「まあ、この子は!」とその声が叫んだ。「この子はゼッタイひとの目を見ない子なのに!」。わたしはびっくりして駆け寄ってきた教員を見、また少女を見た。少女はおだやかにかすかに笑みを浮かべじっとわたしを見ていた。
 どういうことなのだろう? 叫んだ人はこの子とふれあうことはなかったのだろうか?

2.ことばはコミュニケーションのための道具―ではない?
 コミュニケーションとはなにか? 原義にさかのぼれば、ラテン語で「共に、分かちあう」となるが、では、なにを「共に分かつ」のか?
 わたしは幼い頃耳が悪くことばが話せなかったから、他の人との断絶に苦しんだ。16歳でようやく右耳が聞こえ始めたが、40歳を過ぎても、声は内にこもってうまく話せなかった。それでも芝居の演出をやったのだが。
 ある日、ヨーロッパの前衛的な演劇人の発声訓練の文章を読んで、仲間と共に試みていた。突然頭蓋骨全体がピインと鳴り響いた。声が1本の光の柱のように噴き上がった。天井から壁から声がはね返ってくる。
 びっくりした目で見ている仲間の一人を呼んでみた。相手があっという顔になって息づかいが変わった。声がやってくる! わたしの体に滲みてくる。わたしのからだがはずんで、また声が出た。声が相手のからだにふれてゆくのが見える。わたしは喘いだ。声とは、話しことばとは、これほど「じか」になまなましく行ったり来たりするものなのか。
 わたしには毎日毎日お祭りだった。出会い頭に「おーい」と呼びかける。ぱっと相手が振り向く。「こんにちは」と言えば、声がすっと相手のからだに沈んでゆき、相手のからだがするすると動き出して、すうっと声がこっちへやって来る。呼びかける、とは、まわりの人やものがいっしょくたの混沌から、ひとりの「あなた」を呼び出すことなのだ、とわたしは知った。同時に、あなたと向かいあう「わたし」が現れ出る。
 世界は動いている、生きている―わたしはあっけにとられた。今まで自分は厚いガラスのケースに閉じこめられていたのだ、と気づいた。相手の姿は見えているが、声はそこからやってはこない。見えないスピーカーから空間を漂ってくる。呼びかける声もあてどなくひろがって、内容=情報だけは相手に伝わったらしいとガラス越しに見てとることはできる―。そのガラスの壁が吹っとんだ。風にさらされた「わたし」が立っていた。
 しばらく日にちが経って、わたしは奇妙なことに気がっいた。今までわたしは、会話とは向かいあう二人がキャッチボールのようにことばをやりとりしているものと思いこんでいた。が、どうも様子が違う。二人ともそれぞれ勝手なことを勝手な方向へ、代わりばんこにわめいたり眩いたりしているように見える。
 これでいいのだろうか? 人と人とがほんとに話しあうということは、どうすればいいのだろう? わたしはそれを確かめたいために「呼びかけ」「きく」レッスンを始め、やがて「ことば」を語る主体である「からだ」のあり方に立ち戻って考えるようになった。
 たとえば、「夕焼け小焼け」を、集った人々と一緒に歌ってみると、みんな直立不動、電信柱のように突っ立ってお互いのつながりもなく、か細い声でメロディを合わせている。
 「お手てつないでみな帰ろ」と歌詞にあるのに、なぜだれかに駆け寄って手を取って歩き出さないのだろう? 
 「ぞうさん ぞうさん おはながながいのね/そうよ かあさんも ながいのよ」って、いったいだれがだれに話しかけてるのだろう? 呼びかけるものと「そうよ」と答えるものと二人組になってみたらどんな感じになる? 人と人とが顔見合わせ、手を差し出し、関係が変わってゆくと、一人ひとりの息づかいが、身ごなしが、柔らかくひろがってゆく。ことばの様相が動いてゆく。それは実に楽しい発見だった。
 しかし、数年経ったころ、わたしは立ちすくんでいた。人間にとって「ことば」とはなんなのか、わけが分からなくなっていた。
 わたしはことばがしゃべれなかったから、からだの奥にうごめいて形のはっきりしないイメージの切れ端を、なんとかことばに、文章に組み立てて、ひとさまに差し出し分かってもらいたいと必死になっていた。ところが、どうやら世間の人にとっては、「話す」とは、ありあまる備蓄から巧みに取り出した用語を並べ立てて自分を隠すための壁を立て回したり、自分に都合のいい方向に相手を誘い出す道筋を作り出したりする、つまり他人と距離をおき他人を操作する目くらましの術なのだ。ことばはコミュニケーションの道具だと? ウソつきやがれ! かくれみのじゃないか!
 哲学者メルロ=ポンティは、社会のルールを構成する、精密に組み立てられた、情報伝達のための言語と、今生まれ出てくる「なま」なことば、子どもが母に呼びかけたり、恋人への愛の告白や詩など、人のいのちの表現としてのことばとを区別する。かれは後者を第一次言語とし、それが使い古されて社会に定着した用語による前者を第二次言語と呼ぶのだが、これこそ百鬼夜行の壮麗な迷宮だ。それならさらに、とわたしは思う。うまくことばにならない、身悶えや呻き声や叫びなどを第0次言語と呼んでもいいだろう。子どもは(そしてことばの不自由なものも)もともとこの世界に棲んでいる。
 第0次の「からだ」、第一次の切れ切れのことば、をまるごと受けとめ感じ取ることをコミュニケーションと呼ぶならば、これは第二次の、組織立て技術化して訓練することのできる情報言語の場合とは別種のコミュニケーションと言うほかない。おそらく十全のコミュニケーションは、イエスが、送り出す使徒たちに言ったように、鳩のように柔和で、かつ蛇の如く慧く、ウソを見破れなければならないのだろう。
 社会=世間の言語は、人と人のかかわりでさえも情報の交換の範囲に押しこめる。相手に対して礼儀正しく修飾し偽装する「ウソ」のことばである。社会人はどうやってこれを捨てて、なまで「じか」な世界に入ることができるのだろうか。(つづく)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/04/05

2003年 第9回吃音ショートコース【発表の広場】3 なぜ、ここに? ここだからこそ!

 2003年に開催した第9回吃音ショートコースでの【発表の広場】で発表されたものを紹介してきました。今日で最後です。最後は、巻頭言で紹介した、「どもらない人」である掛谷吉孝さんの発表です。
 掛谷さんは、僕たちが事務局をしていた、竹内敏晴さんの大阪での定例レッスンに、毎月、広島から参加していました。そこで出会い、吃音ショートコースや吃音親子サマーキャンプにも参加するようになりました。竹内さんが亡くなってからは、自然と離れてしまったのですが、先日、久しぶりに連絡をもらいました。
 NHK EテレのハートネットTV「フクチッチ」を見て、連絡してくれたのです。「フクチッチ」のテーマが吃音というので、もしかしたら僕が出るかもしれないと思ってテレビを見たら僕が登場したというのです。イベントには参加できないと思うけれど、「スタタリング・ナウ」を購読したいとのことでした。3時間半以上カメラが回り、取材を受けたが、流れた映像はとても短いもので残念だったなあと思っていたのですが、こんなうれしい、おまけのような、掛谷さんとの再会を作ってくれました。

なぜ、ここに? ここだからこそ!
                   三原高校教諭・掛谷吉孝(広島県)

 緊張しますね、やっぱり。発表の広場で話をしてみないかと2,3週間前ですか、伊藤さんに急に言われて、どうしようかなと思ったんですけど、割と安請け合いをしちゃうタイプなので、引き受けてしまいました。僕は吃音でもないし、臨床家でもないのに、なんでここに来てるのとよく言われるのですが、どっちでもない人がここに来てどんなことを思ってるかを話してくれないかと言われたので、まとまったことは言えないのですが、思っていることを話したいなあと思います。
 もし、お聞きになって、それはちょっと違うかなということがありましたら、後でいろいろ聞かせてもらえたらと思います。足りないことは伊藤さんがつっこみを入れてくれるということなので、それに任せたいと思います。
 なぜここに来るようになったかというのは、5年前に、掛田さんが話をされた竹内敏晴さんのレッスンでたまたま伊藤伸二さんに会ったことがきっかけなんです。僕、最初、伊藤さんが何をしている人か知らなかったんです。2回か3回くらいレッスンに通って話をしたりしているときに、伊藤さんがこんなのがあるのだけどと、この吃音ショートコースのことを教えてくれました。そのときは、《表現としてのことば》というテーマで、谷川俊太郎さんと竹内敏晴さんをゲストに呼ぶということだったので、そこだけ聞いて、行ってみたいなあと思って、「いいですね」と言ったら、伊藤さんが「じゃあ、案内を送るから」と言われて、それから何日かして送ってきてくれたんです。いいなあと思ったんですが、正直、案内を読んだときに、さあ、ほんとに行っていいのかなと思ったんです。
 僕は、吃音でもなくて、吃音の人にかかわっている仕事をしているわけでもない、それで行っていいのかなという迷いがちょっとあったんです。そのときに同封されていた、『スタタリング・ナウ』に、読売新聞に伊藤さんの半生記が載っているのを読んで、伊藤さんがいろいろ紆余曲折というか辿ってきた道を書いてあるのを読んでいて、ますます僕が行っていいのという気持ちがあったんです。あったんだけど、伊藤さんの方から声をかけてもらったということがあったし、これも何かの縁かなということと、参加対象という中に吃音の人、臨床家、コミュニケーションに関心のある人という項目があったので、これは自分をここに当てはめていけばいいだろうと半ばこじつけて来ることにしました。
 吃音ショートコースは研修もおもしろかったんですけど、驚いたことが二つありまして、一つは吃音の人ってこんなにいるのか、ということでした。僕は吃音ということで、思い出したのは、小学校の同級生でどもっていた子がいたんです。その子のこと、だいぶ忘れていたんですが、吃音ショートコースがあるよと聞いて吃音という文字を見たときに、その子のことを久しぶりに思い出しました。
 そういえば、あいつはどうしてるのかなあということを思い出しました。僕が吃音ということで知っている人ってそのくらいだったんですけど、ここに来たら仰山、こんなにいるのかなと、先ず一つ目はそれが驚きでした。
 それともう一つ、昨日もコミュニティアワーがありましたけど、どもる人って、こんなにしゃべるの? みんな悩んでるのとちがうの? と思ったんです。正直、部屋の中にいっぱい人がいて、みんなしゃべってる、それにすごく圧倒されました。そのときは、端の方にちょこんとすわっていただけだったと思うんですけど、何なんだろうということをしばらく思ってたことがあります。
 何回かここに来ていて、思うのは、吃音のことで悩んでいるといっても、話したいこととか思っていることはいっぱいあって、それを受け止めるということが、日常でなかなかないのかなと思います。
 僕は、高校で英語を教えているんですけど、一応そういう意味ではことばが専門ではあるのですが、ここに来て分かったことは、ことばにとって必要なのは、内容が明確であるとか、滑舌がいいとか、そういうことじゃなくて、それを受け止める相手が必要なんだということが僕はすごく大きいということです。だから、いかに筋が通っていようが、それを受け止める人がいなかったら、ことばは成り立たないということですね。僕は、ここに来てすごく身に浸みる思いで分かりました。
 それと、ここでコミュニティアワーもそうですが、話してるのを見ていて思うのは、聞き手と話し手というのが役割が固定していないんですよね。この人が聞き役をする、この人が話すというわけじゃない。この人が話してたら今度は後でこの人が聞き手になってるとかね。それがお互いにできてるというのが、僕はここが場としていい所だなあと思います。それは、ここが持っているひとつの場の力かなあという気もするんですけど、お互いが平場でいるというのは、そういうところがあるからかなあと思っています。
 さっき、ビデオであった吃音親子サマーキャンプには、僕も何回か参加をしているのですが、そこで思ったこともいくつかあって、子どもが話し合う時間があるんですね。多分配慮だと思うのですが、僕が高校の教員だから、高校生とかそれに近い中学生の所へ入れてくれてると思うんですが、そこで去年、話し合いをしているときに、普段これが言いたいけど、ここでつまるから困るってことはないか、みたいな話題になって、そのときに、僕の中ですごく印象的なことがあったんです。
 そういうときは早口で言うという子がいたんですね。早口でも分かってもらえなかったらどうするのと聞いたら、いや3回くらい言ったら大体分かってくれると言うんですね。僕は、その3回言えば分かってくれるというのは、すごいと思ったんです。僕だったら絶対3回は言わないと思うんです。2回言ってだめだったらもういいやと思うんですが、その子は3回言ってでも伝えるということをしっかりやろうとしている、これがすごいなあと思ったんです。それを聞いて思ったのは、それくらい真剣さがいるんじゃないかということです。すらすらとことばが出たら伝わるものだというふうに、多分どもらない人はなんとなく思っているんですけど、そんな甘いものじゃないなあと思います。むしろ、その人がどんな気持ちでこの人を相手に伝えようとしているか、そこがないとことばはやっぱり成り立たないんじゃないかと思います。僕は、そんなにことばに対して真剣になっていなかったんじゃないかなあということを考えさせられました。
 伝えることに真剣だということと、その子は早口ででも3回言うということをやってるわけですけど、その子が身につけたというか、自分なりに試行錯誤をしてこれだと思ったやり方だと思うんですね。それは、人によって多分違うと思うんです。どもり方もその子によっていろいろつまることばとか違うと思うし、そうなると、どうやったらうまく伝わるかということをその子は必死で考えて、自分なりに身につけると思うんです。3回言うというのを聞いて分かったのは、真剣さと、もう一つは、自分なりの伝え方をみつけるものだということですね。なんかうまい方法があって、それをやれば伝わるということじゃなくて、自分がこれなら確かだということをみつけてそのスタイルでやるということだと、これが大事だなということが僕の発見でした。
 何年か前に、論理療法がテーマだったことがありますけど、あのときに、唯一のベストじゃなくて、マイベストをみつけたらいいんだという話がありましたけど、僕はそれとつながるなあと思います。マイスタイルが大事だなあと思います。マイスタイルをみつけるということと真剣であるということが大事なんですが、それをみつけるというのはそう簡単にはいかないんですね。
 昨日、夕方の吃音臨床講座で、僕は成人吃音の方に混ぜてもらってました。そこで自己受容とか他者信頼ということで、話し合いをされたんですが、話し合いでこんなことが出てきたということを聞いていて、受容、受け入れるっていうのは、しようと思ってできるものじゃないと思いました。がんばったら自己受容できますとかいう、そういう話じゃないと思うんです。なぜかというと、自分を受け入れるというのは、ひとりじゃできないと思うんです。何かそれを聞いている人がいて、ふっと何か言ったはずみで自分が、(あっ、自分ってこういうことなのか)とか、(あっ、こんなふうに見てくれてるのか)というのが分かったときに、初めて受け入れるということが出てくるんだろうなあと思います。
 ひとつだけ僕の例で言いますと、僕は自他共に認める男前で、それは半分冗談ですが、自他共に認めるマイペースな人間なんですね。去年、僕が職員室ですわっているときに、生徒がこんなことを言ってたんですね。「なんか先生の周りだけ時間がゆっくり流れてそうな感じ」僕はそう言われたときに、ああ、僕はそういう雰囲気を持ってるのかと、それはマイペースというのとは違うと思うんですね。その表現でしかできない言い方があって、なんか僕は妙に納得しちゃったというか、ああそういう雰囲気なんだけど、それがもしかしたら合う子だっているかもしれないなということを思った。それが逆に人をイライラさせることがあるかもしれませんが。そういうときに初めて受け入れるというか、あっ、自分はこうなんだということが分かることがあると思うんですね。それは、人に出会っている中でしか分からないので、僕はここに来てそういうことが感じられたことが自分にとってはすごくいいことで、だからここに来続けてるのかなあと思っています。
 というところで、何かつっこみを入れて下さい。

伊藤 「やればできるじゃないか、ゴーシュ君」(『セロ弾きのゴーシュ』の楽長のせりふ)。 つっこみを入れてもらわなきゃしゃべれないと言ってたのに。
 僕は誰かれなしに誘うことはしなくて、どもりのにおいがするなあという人を誘うので、もちろん掛谷さんは吃音じゃないけど、なんかどもり的なものというか、そういう雰囲気がある。最近、どもり始めたでしょ。
掛谷 そう。こないだ、伊藤さんにも言ったんですが、最近たまにどもるんです。これが不思議なことに。長年どもっている人からみれば、ひよっこですけれども。僕はどもっているなあと気づいたときに、思ったのは、どもってるときって言いたいことは、ここまでいってるんだけど、ことばが追いついてないという感じがしたんです。もしかしたらこういうのがどもっている人が持っている悩みに近いのかなあと思って、それは自分でも不思議な体験でしたね。まあ、治そうとは思いませんが。
伊藤 僕、どもる人のセルフヘルプグループって何だろうと思ったときに、どもる人だけが集まってはだめだと思うんです。吃音の場合は聞き手がいてこそ成り立つものだから、できれば理想的にはどもる人半分、どもらない人半分がいて、その中で生きるということとか、コミュニケーションを一緒に考え合うのが僕の考える理想的なセルフヘルプグループのミーティングなんです。そういう意味では掛谷さんは、大変ありがたい存在です。

 どもる人本人でもなく、ことばの教室の担当者でもない掛谷さんの存在は、掛谷さんグループという名前がついて、少しずつ広がってきています。(「スタタリング・ナウ」2004.1.24 NO.113)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/03/25

2003年 第9回吃音ショートコース【発表の広場】吃音を人生のテーマに

 2003年11月に、第9回吃音ショートコースを行いました。そのときのテーマは、先日から紹介している《建設的な生き方に学ぶ》でした。テーマは、毎年違うのですが、恒例になっているプログラムがあります。それが、発表の広場です。どもる人は自分の体験を、ことばの教室の担当者は、実践報告や研究を、どもる子どもの親は自分のどもる子どものことや子育てをしている自分のことを発表するのですが、毎年、内容が濃くて、心に残る3時間になっています。この年、発表者が9名と多く、全ては紹介できませんが、一部を紹介します。文責は編集部にあります。

吃音を人生のテーマに
       大阪教育大学・特殊教育特別専攻科・掛田力哉(大阪府)
 初めて参加した私がこんな場所で話をさせていただいていいのか迷ったんですけど、せっかくいただいた機会なので、私が考えてきたことやこれまでの歩みを通して、私が吃音をどう考えているのかをみなさんに聞いていただけたらと思います。私、声が小さいので、小さかったら「小さい!」と言って下さい。(「小さい!」という声あり)

1.吃音と出会うとき
 自分がことばが出にくいなあと思ったのは、小学校1年生です。クラスの私の前にすわっていたかわいい女の子から「掛田君、しゃべるとき、目ぱちぱちするね」と言われたんです。多分、言いにくいとき、目をぱちぱちしていたと思うんですが、自分ではそれまでは気にしたことが一回もなかったんです。初めて言われて自分の話し方に意識がいくようになってしまいました。自分が人に見られているということに全ての意識がいく人生がそこから始まってしまいました。
 クラスでは静かな子にはなりましたが、書くことが好きでしたので、「作文が上手だね」と言ってくれる先生のおかげで、なんとか学校生活を、ひっそりと送っていたんです。
 5年生のときの担任の男性教師から、「お前は、なよなよしている。はっきり物も言わないし、ほとんど集団の中に入っていかない。もっと入れ入れ」と言われました。でも、僕は、おなかが痛いと言って休んだり、ぜんそくがあったので、ぜんそくのせいにして、体育のスタンツなんてしませんでした。ぜんそくのふりをするということまでしたのは、自分がどもるということを知られたくなかったからだと思うんです。
 私、自分で言っちゃなんなんですけど、ちょっとその頃、女の子に人気があったようなんです。自分の正体を絶対に見せてはいけない、こういう格好悪い姿を見せたら、みんな、がっかりするんじゃないかと思いました。ほんと、考えすぎなんです。自分に意識がいってますから、考えすぎて、閉じこもっていました。
 ある日、みんなが見ている中で、ことばが出なかったので、先生の目の前で、足をバタバタやったんです。そしたら、「人前で、人の話を聞いてるときに足をバタバタさせる奴があるか」と、ダーンと殴られました。そういうことが2年間くらい続きました。

2.「吃音」なぜそんなに苦しいのか
 どうしてそんなに苦しかったのかと考えると、自分の問題が分からなかったからです。吃音ということばも知らなかったし、どもるということが他の人にもあるということも全く知らなかった。多分、自分は気が小さいから、消極的だから、ことばが出ないんだろうと、その思いだけをずっとひきずっていたんです。だから、誰にも話せないし、自分がダメなんだと思っていました。「おまえはおかしい、おかしい」と言われたから、本当に俺はおかしい人間なんだということをずっと思っていた。ほんとに孤独だったんだと思います。どもることそのものじゃなくて、どもるということを自分でも分からない、誰にも分かってもらえない、伝えられない。とにかく自分ひとりで悩んでいたという孤独が一番辛かったかなあと、今思っています。

3.転機
 中学校に入って、さすがに私も変わろうと思いました。入学してすぐに林間学校があって、女装コンテストがあったんですよ。私、なよなよしているとか、女っぽいとか言われてたものですから、女装したら大人気だったんです。かわいいとすごく言われて、男の子からも「手をつなぐの、恥ずかしいぐらいだ」と言われて、それで私はパッーと開けたんです。別に私にそういう趣味があるということではなくて。初めて、自分のマイナスだったところが人に喜んでもらえた。それで一歩を踏み出せたかなと、今にして思います。そのときは分からなかったけど、あれが大きな転機だったと思います。
 また、部活動で陸上を始めたんです。陸上競技は、集団スポーツじゃないですから、自分とだけ闘っていたらいいんです。自分ががんばればいいので、一所懸命がんばっていたら、足が速くなっちゃったんです。そしたら、キャプテンになっちゃったんです。キャプテンになると、自分のことだけを考えてはいられない、チームをどうするかとか、すごい責任を負わされたんです。人のことを一所懸命考えてるときって、どもらなかったんですね。自分に意識がいってるときは、すごくどもるんですけど。いつのまにか自分が吃音であるとか、ことばが出にくいという悩みを忘れるぐらいの生活が始まっていた。人のために一所懸命やったことが、私にとっては、結果的として吃音が治ったというか、軽くなったんです。
 結果的だったんですけども、人のことを考えるということを初めて経験させてもらったキャプテンでした。さらに、みんなからキャプテンやってるし、がんばってるからと、注目されてしまって、弁論大会の代表になってしまったんですよ。それも大変だったんです。私、ことばがぼそぼそしてますよね。ぼそぼそしてるし、はっきりとしゃべらないから、読むときでも、語尾が小さくなる。そしたら、担当の先生が「掛田君は、話し方が田村正和みたいだね」と言ってくれて、これがうれしかった。それを、声が小さいとか、語尾が小さいからもっと大きくしなさいと言うのは簡単だと思うんです。ところが、その話し方を味のあるものというふうに見てくれる、その先生の感性というのが、人を変えていくんだなあと思います。ダメなものだというよりもまずその味を認めるというか、あの感性のおかげで私はちょっと変われたのかなあと思っています。
 高校生になりまして、高校でまた吃音がひどくなったんです。すごく困って悩んでるときに、教科書に載っていた竹内敏晴さんの文章にすごく引きつけられて、こんなふうにことばやからだや心について考えたことがあったかなあと思いました。
 アヨ・ゴッという話を、竹内敏晴さんが書いているんですけど、ご存知の方、いらっしゃいますか。竹内敏晴さんは、耳が聞こえなかったので、「おはようございます」というのを聞いて、でもそれは「アヨ・ゴッ」にしか聞こえない。「アヨ・ゴッ、アヨ・ゴッ」というのが自分にとっては朝のあいさつだったんだけど、大人からはそれを「おはようございますだよ」と教えられて、一所懸命「おはようございます」と言ったら、それを周りの大人は「覚えた、覚えた」とすごく喜ぶ。ところがそのときに、自分の全身をつかって人にかかわっていた喜びも全部消えていて、「おはようございます」というのは、自分にとってはことばではなかったということを書いていた。
 そこで、私はもうガーンときて、それまでことばのことで悩んだけれども、ことばを話すというのは、そんなに単純なことじゃないんじゃないかと思った。ほんとにことばって難しいんだなあ、奇跡みたいなことだなあと思いました。私はそこまで、悩んだくせにことばのことをそんなに大事に考えてきたかなあと思った。もっともっと自分のことば、からだのことを厳しく見ないとあかんなあと思った。悩んだ人間だからこそ、もしかしたら私自身が何かことばやコミュニケーションについて伝えていけることがあるかもしれないなと思ったのが、この竹内敏晴さんの『こどものからだとことば』という本なんです。そういうきっかけで、私は学校で悩んだので、学校の先生になりたいと決心しました。
 そのまま、先生になるために北海道の教育大学に入りました。そこで、初めて恋人ができたんですよ。好きな人には自分の吃音のことを言えなかったんです。やっぱり言えなかった。言ったら甘えなんじゃないかと思った。ことばの問題があるということで、彼女に負担を負わせるのは嫌だったし、電話でも、一所懸命普通に話すふりをして、一所懸命話をしていました。
 あるときから、週末ごとに彼女の実家に行って、その両親ときょうだいと一緒にご飯を食べるという生活が始まったんです。これが地獄でね、彼女にとったら、うちに来て、うちのお父さん、お母さんに見せたいわという気持ちだったかもしれないけれど、地獄だったんです。とにかくなんかしゃべらなきゃしゃべらなきゃと思うけど出ないし、食べてるんだけど、味も分からない。気がついたら、一種類のおかずだけを食べてたんです。何種類かおかずがあるのに、一種類だけをずっと食べてた。そしたら、そこのお母さんから「ばっかり食い」というあだ名前をつけられて、それからは今度はあえて「ばっかり食い」をして、笑わせたりしていた。それがすごく情けなかった。そうなると、愛のことばをささやくということがない。
 ところが、その彼女からはすごく学んだことがあった。とにかく私は人目を気にしてずっと生きてきたので、それは彼女も多分感じてたんですね。この人は人目ばっかり意識して、人と自分を比べて暮らしているなということに気づいてたと思う。
 「お前のことなんかね、誰も見てないんだよ」
って、そういう表現しかできない人だったんですけど、そう言われて、単純なんですけど、そうか、俺のことなんて誰も見てないのかと、人目なんて気にしなくていいんだと思うと、すごく楽になりました。結局、その人とはけんか別れをしたんですけど。そういう、いろんな人との出会いが自分を変えてくれました。
 もうひとつの出会いは、留学生たちがすごく仲良くしてくれたことです。留学生は日本語が下手くそだし、私も日本語が下手くそだから、お互い下手くそな日本語どうしでしゃべっていると、すごく楽なんですね。留学生たちは私の話を一所懸命聞いてくれました。私のことばを日本語の代表として聞いてくれるのは申し訳ないなあと思いながらも、それがすごく楽しかった。「掛田さんと話すのは楽しい」「掛田さんには話しやすい」と留学生たちが言ってくれた。他の日本人と話すときと違って、話を聞いてくれるから話しやすいと言ってもらえたのが、またうれしかった。ああ、そうか、私は話しやすいんだ、ことばで悩んだからこそなのかなあと思った。

4.吃音と共に生きる
 みなさん、聞いてて分かったと思うんですけど、私、最近ほとんどどもらないですね。こういう場に立つ、特に人前で話すのは楽なんです。1対1で楽しい会話をしているのが一番どもっちゃうんですけど、それもだんだんどもらなくなってきた。自分があんなに吃音に苦しんだときのことを、あの悲しさも遠い記憶になってきた。ところが、そうなってくると、最近よく思うのは、困ってた頃のように、私は一所懸命人とかかわってるかなあということなんです。一所懸命どもりながら人とかかわっていた頃の方が、もしかしたらもっと自分らしい自分であったのかもしれません。今、吃音というのは、私にとっては私の全てではないんです。私にはいろんなやりたいことがたくさんあるし、夢はたくさんあります。でも、やっぱり私を作り上げてきたのは吃音のおかげですし、こうやって生きてきて、今、みなさんと会えるのも全部吃音のおかげです。吃音がなかったら、ことばや教育のことを考えなかっただろうなと思うと、私の根幹にあるのは吃音だなと思います。今回初めてそれを皆さんに言えることをうれしく思っています。
 吃音の人たち、今回皆さんに会っても、ほんとに思うんだけど、当たり前のことなんて何もないですね。ことばが話せて当たり前とか、そんなことってひとつもなくて、多分吃音の人ってそういうことを分かってるんだろうと思います。たとえば、暗い顔をしている人がいたら、よく「暗い顔、するなよ」とか言う人がいます。ところが、暗い顔をするにはきっと何か理由があるのですよね。やっぱりそういう人のことを思いやれる気持ちが吃音の人にはあるんじゃないかなって思います。
 「お前、もっと大きい声で話せよ」とか「お前、もっと明るい顔をしろよ」とか、ずけずけと人の中に土足で入ってくるような人は、吃音の人にはいないのではないかなあと思います。
 私はこれからも、教師になりたいという夢を追っていきたいと思うし、その中心に吃音を置き、吃音をテーマにして仕事も自分の人生も作っていきたいと思っています。吃音をテーマに生きていきたいなあと思っています。

 掛田力哉さんは、伊藤伸二の本を読み、集中講義を受けたいと大阪教育大学・特殊教育特別専攻科に入学。同級生である、内地留学の現職教員から参加費のカンパを受けての参加です。
(「スタタリング・ナウ」2004.1.24 NO.113)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/03/23

【鯨岡峻さんと竹内敏晴さんの対談 2】「生きる」うえでのコミュニケーションとは?

 昨日の続きです。どもる僕たちは、すらすらと流れ出る効率のいいことばを求めてきました。そして、それができない自分を劣った人間だと思ってきました。でも、情報伝達のことばと、今、生まれる表現のことばがあることを知っただけでも、ずいぶん楽になりました。鯨岡さんと竹内さんの対談は、〈生きる〉、〈ことば〉、〈コミュニケーション〉をめぐり、深まり、広がっていきました。竹内さんのヘレンケラーとサリバンの話は、映画も舞台も観ていますので、とてもよく分かります。竹内さんの話に、エリクソンのライフサイクル論を重ねて、僕は何度か講演や講義で話しましたが、よくわかると言ってもらえました。
 対談の続きは、2000年度の日本吃音臨床研究会年報に掲載しましたが、売り切れになっています。また、どこかで紹介したいとは考えています。

「生きる」うえでのコミュニケーションとは? 2
                     京都大学大学院教授 鯨岡峻
                     演出家       竹内敏晴


暮らしの中でのことば

鯨岡 ブーバーの話はとてもいいお話で、ありがとうございました。私たちは今、いろんな場面で、コミュニケーションについて語っています。特に、学校では、「先生と子どもの間でもっとコミュニケーションを」と言うし、家庭の中でも、「夫婦の間で、もっとコミュニケーションを」、「親子の間で、もっとコミュニケーションを」と言う。その場合、ことばによる会話が前提としてあるようです。確かに、そこではことばが必要なのかも分かりませんが、本当に、そこで求められてるのはことばなんでしょうか。私たちはコミュニケーションというと、すぐにことばというところにいってしまって、ことばのキャッチボールをたくさんすればするほどコミュニケーションが深まっていくと考えてしまうところがあります。けれども、本当にそうなんだろうかなと思うわけです。
 ことばは情報を運ぶ道具、あるいはカッチリした意味を運ぶ上ではすごく便利な道具です。それがなければ決して正確な情報は伝わりません。会社の仕事の上で正確な情報を交換しなければならない時には、もちろんことばが大事になるだろうと思います。けれども、普段、暮らしてる時、つまり日々、親しい間柄のなかで共に生きていこうとする時に、そんなにカッチリした意味を運び合わないと生きていけないのでしょうか。たぶん、違うと思うんですね。場面によって、気持ちと言ったり、情動と言ったり、情緒と言ったりしますが、ともかく感性的なものが動いていくところで、何かがつながったという感じが得られるかどうかが身近な間柄では大事です。
 ことばにできないところで何か伝わってくる。分かり合えるものがある。それがたぶん、親しい間柄において「生きる」ことの喜びなのではないかなと思います。「今日、学校で何があった」とか、「仕事でこういうことがあったんだよ」といろいろ語り合う中で、お互いの理解が深まるのでしょうが、そういうことがなくても、「ただいま」、「おかえりなさい」という簡単なことばであっても、そこに、その二人が今幸せに生きている、どこかでお互いを思い合って生きていることが通じ合えれば、もうそれで十分じゃないか。「ただいま」、「おかえりなさい」がなくても、手をつなぎ合えば分かり合えるのかもしれません。私たちはもっと、ハートが動く水準で、つながりたいな、分かり合いたいなと思っているところがあるんじゃないでしようか。
 今、「コミュニケーション」が大事だと言うと、ことばが遅れ加減の子どもの場合には、コミュニケーションのために「ちゃんとことばを習得しなければいけません」とか、「もっと的確に自分を表現できなければいけません」などと、何かしら、ことばの指導にもっていこうとします。しかし、そう考えなくても、私たちはもっと気持ちの上で、向き合えたり、相手のことを思いやれたりできるはずです。さっきの竹内さんの楕円の焦点の話でいえば、お互いが気を配りあえば、その二人はいつのまにか楕円の焦点になって、そこに楕円が自然に出来上がる。その楕円に包まれていれば、私たちはなにかしら安心し、ホッとした気分になる。そういうところが、実はコミュニケーションで一番求められている部分ではないでしょうか。
 二人のあいだをことばでつなごうとすると、むしろ二人はどんどん疎遠になっていってしまうことがしばしばあります。特に西欧の文化には、ことばにできない世界はない、全てことばにできるんだという、〈言分け(ことわけ)主義〉が色濃くあって、西欧的理性はことばに絶大な信頼を置きます。これに対して私たち日本人は、ことばは基本的に〈言の葉(ことのは)〉です。二人の間だけで通用するような言外の意味(通じ合えるもの)を大事にして、ことばは〈言の葉〉だという感覚があると思うんです。それなのに私たちは、いまや、コミュニケーションのために、ことば、ことばと「ことば」に頼ろうとします。もちろん、ことばは大事なものだし、それがなければ困るのですが。
 ところで、ことばによって表現しようとすると、どうしても「私は」という主語がきます。そういう形で自分を境界づけると、今度は相手も自然に境界づけてしまう。幼児の言語発達を考えていますと、ことばは本来、子どもの感性が動いていく中に引っかかってきたものだという思いが強くあります。ところがことばというとそれはカッチリした意味を運ぶ道具だと考えられ、そうなると、それはとても理性的なものになっていく。そして、その理性的なものになったことばをキャッチボールして意味を伝え合うことがコミュニケーションだと考えられるようになってしまいました。
 障害児教育での言語指導やコミュニケーション指導の問題を考えて見ますと、そこらへんにボタンの掛け違いが起こっているところがあるんじゃないかでしょうか。そして、ことばの習得に困難のある子どもたちに対して、ことば、ことばと周りが言い過ぎるために、子どもたちが生きにくくなっているようなところがあるんじゃないかなと思います。
 いま、「コミュニケーション」という今日の主題のためにすこしことばの問題に踏み込んで見たのですが、そういう、ことば観、言語観みたいなものについて、竹内さんからまた少し教えていただきたいのですが。

ヘレン・ケラーとサリバン

竹内 そこまで言っていいのかわかりませんが、ヨーロッパでは、言語をしかも、理性的言語を重視しますね。大雑把に言うと、理性が非常に重要で、論理のことばで語れることが人間性の根本であるといっている感じがする。これはギリシヤ以来の思考の歴史によるのでしょう。そうすると、どうもこれは違うんじゃないかなと思うことがあるんです。昨年ドイツからある教育学者が来て、日本でいくつか啓蒙的な話をして、その話をまとめた冊子を読みますと、ヘレン・ケラーのことが書いてあった。正確には憶えてないけれど、こんなことだったようです。
 「彼女は目が見えず、耳が聞こえないのでことばが獲得できず話せなかった。だからまるで、野獣のように、自分の欲しいままに暴れていた。ところが、アン・サリバンに出会い、サリバンの努力で、ポンプから流れる水の冷たさを手に感じてるうちに、これがウォーターという名前のものかと、はじめてことばというものに気がついた。ことばを知った後は、アン・サリバンの抱擁を受け入れ、キスを受け入れて、様々の感情が動くようになって、人間として成長していった。だから、ことばはとても大事なのです」と。
 私は、ヘレン・ケラーに関しては、何遍も芝居にして、その度に、勉強してきたので、これは明らかに間違いだと言い切れます。事実過程から言って違う。この学者は言語を知った時から彼女は人間性を持ったという、非常に単純な割り切り方をしてる。芝居の「奇跡の人」は非常に有名で、映画になったのが戦後すぐですが、同じ誤りの上に立っている。その原文を随分早く手に入れた人がいて、わたしの友達が演出しないかって言ってきた。読んでみたのですが、わたしが耳が聞こえるようになって、7・8年目ぐらいで、自分の体験からいって、どうしても話に納得できないところがあって、その時は断りました。それから、20年もたってから、神戸の湊川高校(定時制)へ、林竹二先生と一緒に授業に入り、芝居を持っていくことになった。障害のある人、在日朝鮮人やいろんな人がいたので、わたしはこの芝居をやってみようと思った。しかし、書き直さなければならない。おしまいのところで、やっぱり同じ問題にぶつかりました。
 事実のプロセスを言いますと、サリバンは、ヘレンが勝手気ままに動いてるのに対して、一所懸命これをコントロールしようとする。彼女の言い方では、ヘレンはまず服従することを知らなければいけない。それを教えようと一所懸命やればやるほど喧嘩になってしまう。それで、ヘレンと自分と二人だけ小屋に入って、過ごすことをする。ヘレンはサリバンの匂いをかぎつけると、途端に、窓によじ登って逃げようとするくらい寄せつけなかったのが、小屋で生活した何日目かに初めて、サリバンに抱かれて、キスを受け入れるようになる。その時に、サリバンは「奇跡が起こりました」って、喜んだ手紙を書いています。2週間の間に、スプーンでご飯を食べること、ナプキンをつけること、刺繍をすることなんかを教える。彼女がだんだんおとなしくなっていくのを窓の外から見ていた親御さんが喜んで、2週間の約束だからと、「まだ、早い」とサリバンが言うのを家へ連れて帰って、お祝いの晩餐をする。と、ヘレンはいきなりナプキンをむしり取って、スプーンを下に叩きつけて、手づかみで食べ始めて、サリバンの皿にまで手を突っ込む。つまり、サリバンが来た時と全く同じところへ戻るわけです。
 それまでは犬の調教みたいな強制的なやり方をしてきた。犬だったら、小屋にいた時のように教えたことが続くだろうが、ヘレンは見事な戦略を持っていた。小屋ではしょうがないからサリバンの言う通りにするが、自分の自由が認められる時になったら、全部、叩き返した。これは見事なことだと思うんです。
 戯曲では、喧嘩になって、水差しから水がこぼれる。サリバンは、水をもう一ぺん水差しに入れさせようとポンプのところへ連れて行く。そしてもみ合って、その水差しを持たせたまま、水を汲んだ時に、水に手が当たって、「ウォーター」を思い出す。これは、大変、劇的で、華々しくて、芝居としては具合がいいんですが、わたしが一番引っかかったのはこのシーンです。
 「この先公、殺してやりたい」みたいにもみ合って、暴れているのに、なんで、水差しをポンプのところへ黙って持って行くものか。水差しなんか叩きつけて、ぶつかって、取っ組み合いの喧嘩になるのが当たり前なんでね。「そんなばかなハナシがあるか」、が、一番最初の私の反発だったんです。それで、実際のサリバンの友達にあてた手紙を読んでみると、そういうことにはなってない。
 ナプキンもスプーンもたたき返して、とっくみあいが始まったとき、親父さんが止めに入って、「小屋ではあなたに全権を預けたが、家では自分の全権に従え。従わなければこの家から出ていって欲しい」、と言ったみたいですね。サリバンはほとんど目が見えなくて、貧窮院で育って、弟もそこで死んで、身寄りがない。ここを出たら、たぶん生きることができない。随分、屈辱を感じただろうとわたしは思いますけれども、そこから先は、書いてない。手紙にはその晩、ヘレンは私の部屋に来ませんでしたと書いてあるだけです。
 次の日の朝、食事に降りていくと、ヘレンがもう座っていて、しかも、ナプキンをつけてる。ところが、そのナプキンのつけ方が問題で、習ったようにはつけてない。「自分で工夫して、胸に止めていました」とサリバンは書いている。かの女だけが気がついていたわけです。ジーッと座っている。家族はなんにも気がつかないが、サリバンはそれを見て、何も言わないで、自分の席へ座って食事する。食事が終わって、サリバンが立ち上がって自分の部屋に戻ろうとすると、ヘレンがやってきて彼女の手をさする。サリバンは非常にびっくりしたって、手紙に書いています。
 つまり、ヘレンがナプキンをして座っているのは、あなたが私に伝えたかったことはこういうことでしょうってことのサインですよね。しかも、サリバンが教えた通りの仕方ではなくて、その意味を伝えてる。これは、こういうわたしを受け入れますか?という問いかけですね。それに対して、サリバンが何にも言わないってことは「それでいいのよ」っていうサインを返してることです。何もしないことの中に、二人で、ある意味ではものすごい勝負をしている。周りで見てる人達はたくさんいたけれども、そんなことはなんにも分からない。
 その日から、ヘレンはサリバンに心を開いて、一緒に寝て、朝から晩まで、一緒にご飯も食べ、出かけて、花に触ったり、鳥の巣に手を突っ込んだり、指文字を習ったりする。それが、一週間続いて、ある日、水を汲もうとして、「ウォーター」が起こるわけです。
 ことばが分かったから、人間性が戻るんではなくて、はるか前から、人間性が動き、交流が行われている。言語という形はとってないけれども、思考が明確にあって、ずるいといっていいくらいの駆け引きがある。そういうことがあるから、「ウォーター」がいっぺん見つかった時に、他の名前が次から次と意味を持ってくる。理性的言語が先にあるという考え方はいろんなところで、私たちを縛ってると思うんです。さっき、おっしゃった通りで、それを越えていくことがいる。ただ、だからと言って、感情的な言語だけでいいかというわけにはいかない。
 私は戦争中に、少年時代を過ごしましたから、非理性的な言語がいかにひどいか、そういうものに縛られた自分が、戦後になってから、ある思考の論理を自分のものにするために、どれぐらい時間がかかったか。というよりもそういうことがどういうことなのかが分かるまでに時間がかかった。そういう経験がありますので、理性的な言語と感情的な言語がどういうふうに統合されていったらいいかを非常に考えた。ただし、近頃、見てると、吃音の場合も同じですが、論理的なことばをいかに早く、意味伝達を早くするかに、私たちは追いかけられてる。そのために、非常に苦しんでる。コミュニケーションと言うけれども、実は情報のやりとりだけであって、鯨岡さんがおっしゃるようなコミュニケーション、人と人とのコミュニケーションとは遥かに遠いところへ追い込まれつつあるなあというようなことをしきりに思うんです。
                   (「スタタリング・ナウ」2003.5.17 NO.105)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/02/20

【鯨岡峻さんと竹内敏晴さんの対談】「生きる」うえでのコミュニケーションとは?

 應典院で開かれたコモンズフェスタ2001、僕は、その中で、鯨岡峻さんと竹内敏晴さんの対談を企画しました。
 鯨岡さんとの出会いは、前年の全国難聴・言語障害教育研究協議会全国大会島根大会でした。鯨岡さんは記念講演をされ、僕は吃音分科会のコーディネーターでした。鯨岡峻さんは、発達心理学から幼児や障害児のコミュニケーションを考えてこられました。また、竹内敏晴さんは、ご自身が聴覚言語障害のあった時代や、からだとことばのレッスンを通して多くの人と出会い、コミュニケーションについて考えてこられました。この、人一倍コミュニケーションについて考えてこられたお二人に対談していただきたいと企画し、それが実現しました。
 2001年11月7日、應典院本堂ホールでの対談の一部を紹介します。

「生きる」うえでのコミュニケーションとは?
                     京都大学大学院教授 鯨岡峻
                     演出家       竹内敏晴


共に生きる

鯨岡 京都大学の鯨岡です。竹内さんとこうして直にお話できるのは大変な喜びです。
 伊藤さんから与えられた今日のテーマは、「生きる」ことと「コミュニケーション」です。これはすごく大きなテーマなので、対談形式でどのように進めていったらいいかとても迷ってしまいますが、せっかく竹内さんとお会いできたのですから、何とか話をつなげていければと思います。まず私から口火を切らせていただきます。
 「生きる」という問題を、「私」を主語に立てて「私が生きる」と言い始めますと、途端に議論が難しくなって、随分しんどい話になっていくなあという気がします。「私が生きる」という切り口よりも、私たちが「共に生きる」という切り口の方が接近しやすいのではないか。そもそも「生きる」ということは、この「私」が生きるという前に、皆が共に生きることではないか。皆が、という言い方はちょっとまずいですかね。少なくとも身近な人たちと言うべきでしょうけれども、まずは身近な人たちが「共に生きる」ということが基本にあって、むしろ「私が生きる」は、その後から出てくるテーマではないだろうかと思います。そういうところを考えて行けば、たぶんコミュニケーションの問題に話をつなげていけるのだろうと考えています。
 私たちはみな、思春期以降、「私は」「私は」と、「私」にこだわるところがすごく強かった時期があると思います。ところが「私」にこだわる意識が強くなりますと、当然、私の目の前の他者達も「私」に面と向かって対峙する関係になってきます。けれども、「私」というのはそんなに閉じているのでしょうか。「私は」「私は」とよく言いますが、「私」というのは円に描いてくくれるような閉じた「私」なんだろうか。確かに、私のこの身体は私のものであり、唯一無二のからだですが、では私はこのからだの中に閉じこめられた、閉じた存在なんだろうかと考えますと、どうも、そうじゃなさそうです。少なくとも私が研究しようと思っています赤ちゃんとそれを育てる人の関係は、そんな閉じた私とあなたという関係ではありません。
 私が、「私」というところに閉じていきますと、実は他者達も閉じてしまう。そういう閉じた私と閉じた他者が共に生きようとすると、「私とあなた」が分断されたままギシギシしながら生きているというような構図が生まれてくるんです。でも、普段、身近な私たちが共に生きている状態においては、「私」はそれほど閉じていない。「私」は結構、「あなた」(たち)に開かれている。私の方が他者たちに己(おのれ)を開いていくことができれば、他者達もおのずから開かれてくる。そこにコミュニケーションが生まれる素地があるのじゃないかなと思います。
 コミュニケーションと言うと、すぐにことばで何かの考えを伝え合うというように、「伝える」ということに重きを置いて理解しようとします。けれども、私はむしろ気持ちをつなげる、気持ちを分かち合うところにコミュニケーションの基本の形を見ようとします。自分が他者に開かれていくと、他者も開かれてくる。そこに気持ちのつながる瞬間が生まれるのですが、それがコミュニケーションの原点だと思います。つまり、気持ちをつなげあうということがコミュニケーションであり、それが私たちが「生きる」ということにおいて、究極、目指していることなのではないかと思うわけです。
 気持ちをつなぐというと、少し抽象的に聞こえるかもしれません。どんなふうにして気持ちをつなぐのかと言われるかもしれませんが、切り分けられた私と切り分けられたあなたとがよそよそしく向かい合って、対峙する関係のまま気持ちをつなごうとすると、とてもしんどい。向かい合った対峙する関係ではなくて、むしろあい並びの関係になると、実はいろんなところで気持ちと気持ちがつながれてくる。人はやはり一人では生きていけないんですね。誰かと共に生きていきたいという志向性を根本的に持っているんじゃないかと思います。
 私たちは表現することをすごく大事に考えていると思いますが、ここに谷川俊太郎さんと竹内さんの対談が掲載された、日本吃音臨床研究会の年報「スタタリング・ナウ」があります。その中で竹内さんは、聴くということが大事だと述べられています。人と人がつながれていくためには、自分がこう思うことを単に相手に伝えるだけでなく、むしろ相手が何を言おうとしているかを聴こうとする態度が必要です。
 聴こうとする態度の中に、自分を他者へと開いていく根本的な志向性が現れているんじゃないかなと思うわけです。そして、「私が生きる」ではなくて、周りの人と「共に生きる」という視点に立ってみますと、まずは人と共にその場にいようとする、そして、人のことを聴こうとする態度が重要だということが分かるだろうと思います。要するに、気持ちを相手に向けていくということですね。赤ちゃんとお母さんの関係を見ておりますと、お母さんは赤ちゃんを分かろうとして、実に一生懸命、赤ちゃんに気持ちを向けていく。だから赤ちゃんのことがわかる。そこで、赤ちゃんとお母さんの気持ちがつながれていく。私はそこに「共に生きる」ということの原点を見ようとします。
 気持ちをつなぐというところから「生きる」ということを考えてみると、たぶん、コミュニケーションというところにいくんじゃないか。そうすると、竹内さんとうまくお話が絡むのではないかと思って、今日はやってきました。

深いところで、何かがつながる

竹内 竹内敏晴です。今のお話を伺っていて、大変、根本的なことをおっしゃったので、さて、どうお話したらいいか分かりませんが、初めにおっしゃった切り分けられた〈わたし〉と〈あなた〉でなく、共にその場にいる、ということから考え始めさせていただきましょう。
 〈わたし〉は〈からだ〉としてここにある、ということから、わたしは出発しますが、二人がここの場に一緒にいると、話をしてもしなくても、からだとからだとして、もうこの場にいることでつながりがあるわけです。私がAで、鯨岡さんがBとすると、一つの楕円形の中に、AとBがいる。切り分けられたそれぞれの個人でなく、一つの場にいるだけで、どんなに自分が孤立していると思っていてもつながりがある。こちらが動けば、関係が変わりますから、必ず、向こうが動く。向こうが動いたら、こちらも動かざるを得ない。一つの楕円が動くわけで、両方が開けば、楕円が大きくなったり、小さくなったりすることもありますが、そんなふうに、元々がつながっているのだととらえます。
 私の場合、ことばが不自由な人間でしたから、どこかで、ことばでつながりたいという気持ちが随分ありました。しかし、ことば以前にからだの触れ合いの方が大事だろうという気持ちも、元々非常に強いものがありました。今、鯨岡さんの母と子を例に話されたことを聞いてるうちに、私がことばをしゃべりはじめた頃を思い出しましたので、その話をしようと思います。
 しゃべり始めというよりも聞き始めですね。私は子どもの頃は難聴で、聞こえるときと聞こえないときがあって、そのためによくしゃべれなかった。十代に入り、全く聞こえなくなり、16歳の時に新薬が発明され、聞こえるようになりました。それまでは化膿性疾患に対する薬はなかったんです。学校の体操の時間、お天道様がたとえば左から照ってると、しまったと思っても授業中なので動くわけにはいかない。ずうっと照らされると、左耳が熱くなって、家へ帰ると必ず熱を出す。すると、のども耳も痛くて、飲むことも、食べることも、唾をのむこともできず、絶対安静で、何日か寝てる以外に方法がない。それが新薬のおかげで、16歳の時に、左の耳の耳垂れが止まった。音が聞こえてくると、ことばが分かるだろうと、皆さんは思うでしょうが、そうじゃない。この頃、ことばの教室の先生方にもそのことの理解があまりないことが分かったので、この間、ある研究会で初めてその話をしました。
 新薬の開発という条件のために、私のような場合は例外なんです。耳の場合は、それまで聞こえなかったものが手術で聞こえるようになるということはまれです。ところが、目では手術で見えるようになることがあるようです。その場合、目が光を感じられるようになっても、ここに鯨岡さんがいて、そこに本があるというように見えるわけじゃなくて、光の斑点が見えるだけなんです。あそこに白っぽい斑点があって、そこから茶色っぽい斑点があり、それがつながって、また光の斑点がたくさんある。それが、まとまって、一人の人間として見えてくるまでにはいろんなステップがいる。その解説みたいな文章を読んだときに、「ああ、音も同じだ」と思ったんです。いろんな音が入ってくるけれど、鳥の声か、足音か分からない。非常に単純化して言っていますが、鯨岡さんが「竹内さん」と呼び掛ける音が、他の音と違うことは分かるけれども、鯨岡さんから出てきた音とも、ほかの人の声とも分からない。鯨岡さんが私の肩を叩いて、「ねえ、ねえ、君」と言ったら、声と働きかけがつながって、「ああ、これが鯨岡さんの声なのか」とそこで発見できる。直に触れなくても、目の前で話すことでもいいですが、この触れ合いがあって、「はあ、これがこの人から出てくる音なのか」が初めて分かる。そういう触れ合いがないと、声だけで判別できるわけでは全くないわけです。
 人と人との触れ合いを、ことばのレベルで言いますと、皆さん方はそういう時期を幼児の頃に過ぎているので、お気づきにならないが、からだからからだへ触れてきたり、一緒に揺れる体験の時に声が出て、初めて、何かの意味が伝わり、ことばが意味を持ってくる。音ではなくて、これが人の声だと分かり、その人の感情の動きだか、こちらに対する働きかけだかが動いてくる。そういう触れあいの中で、初めて起こってくることが、鯨岡さんがおっしゃった母と子のつながりなんでしょう。私の場合には、皆さんが幼児の頃、自覚しないで通過されたところを10代の終わりになってから、全面的ではありませんが意識的に通過しました。意識で考えなきゃいけなかったために、非常に中途半端なものになったんだろうと思うんです。だから、ことばが成立してくる以前に、からだとからだが触れることがとても大事なんじゃないかと思うわけです。
 こういう話をしますと、どうしてもしゃべりたくなることが一つあります。それはマルチン・ブーバーのことです。彼は、ユダヤ人の哲学者ですが、自伝のようなものに、自分の幼児期のことを書いています。
 小さいときに、両親が別居して父方に行く。牧場をやっていたのか、お父さんは馬を飼っている。そこで暮らしてるうちに、一匹の馬と非常に仲良くなり、手から餌を食べるようになり、撫でたりして毎日一緒に遊んでいた。ところが、ある日、たてがみを撫でていて、「ああ、これはいい気持ちだなあ」と思ったんだそうです。その次の日から、馬は彼の手から餌を食べなくなった。今まで、自然につながっていた、つながってること自体の中で、二人とも生きてたのが、ああ、これは気持ちがいいなと思い、気持ちがいいために撫でるということになった途端に、そこでプツッと何かが切れた。自分にとって気持ちがいいから撫でることは、私に言わせると自分に閉じこもることなんです。だから、気持ちがいいと思った途端に、馬は自分の裏切りに気がついたんだろうか、というような意味のことをブーバーは書いている。
 これは立証はできないことだけれど、私は非常に良く分かる気がするんです。私たちは一人一人、別々だけれども、その中で、何かがつながる、コミュニケートする。わかり合うということの原点に戻ると、少年ブーバーと馬が、毎朝会っていた時のような関係。意識の層でいうと、いつもの私たちの生活の層が意識の上の方にあるとすれば、それよりずっと深いところの層で、そういうものが生きていて、そこで私たちはつながるんじゃないだろうかというようなことを考えるわけです。(「スタタリング・ナウ」2003.5.17 NO.105)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/02/19
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