伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

竹内敏晴

いのちが激しく動く〜竹内敏晴さんのレッスンをめぐって〜 2

 一昨日の続きです。この座談会の詳細は、『竹内レッスン』(春風社)に載っていす。お読み下さい。
 「ことばが詰まっているときというのは、その人のからだの中から声が生まれようとして、一番激しく動いている、一番激しく生きているときだ」、この竹内さんのことば、忘れられません。どもる人がどもりながら伝えるときは、いのちが激しく動いているときなのです。

伊藤 僕たちは「吃音とともに生きる」と、吃音を治そうとはしていなかったから、竹内さんに吃音を治してもらおう、少しでも軽くしてもらおうという発想は僕たちには全然ありませんでした。
 ただ、竹内さんに来ていただいたときは、少しずつことばに目覚め始めてきていたときでした。吃音の不安をもちながらおそるおそることばを出すというのは、相手に伝えたいというよりも、どもることばを相手に伝えたくない、つまりしゃべりたくないというのと同じです。そこを突破していくには、従来の吃音矯正ではとても間に合わないと思ったのです。
 どもらずに話そうとすると、しゃべらないことに行きつかざるを得ません。どもってもいいという前提があるからこそ、ことばが出ていくんです。どもってもいいけれど、力のあることばを出したい、ことばを豊かにしたい。相手に向かっていこうとするその結果として、ことばが出やすくなったということは、いっぱいあります。

竹内 言いにくいのは苦しいものね。とにかく少しでも言いやすくなったほうがいいですよね。ただ、言いやすい、というのはペラペラしゃべるということではありません。自分の中の気持ちがまっすぐことばになっていく、その筋道をつけるということですよね。
 レッスンに今年のはじめから来るようになった人がいます。その人と呼びかけのレッスンをやってみたら、いきなり相手に「来て下さい」と怒鳴るんです。それでは、相手の頭を声でひっぱたくようなもので、それは呼びかけることではない。その人の頭の中には、一所懸命声を届けなければいけないという思いがあるのでしょう。だから、ともかく急いで届けようとする。しかし、そうやっても声は届きません。ことばとは人と人との関係なのであって、声を届けようと一人でがんばった瞬間、相手との間のつながりは切れてしまうんです。その人、ずいぶん考え込んでしまいました。「なにかフッと内側から出たらしゃべれ」と言ったら困っちゃって、でもちっちゃな声で「来て」と言いました。その途端に相手の人がぱっと振り返った。呼びかけるということは、人が人に働きかけることであって、声を屈けることとは全然違います。そこを誤解して、必死にことばをぶつけようとするのは相手を叩き出すことであって、呼ぶことではありません。次に会ったときの彼、しゃべり方が変わっていました。

伊藤 僕たちが継続して竹内さんに大阪に来てもらった一番の理由は、よろこびです。

東野 僕らは、メルロ=ポンティの言う「情報伝達としてのことば」を使って、滑らかに流暢に話をしようと、そればかり追いかけてきました。でもうまくいかない。ところが竹内レッスンで、歌を歌ったり芝居をしたりする中で、もう一つ「表現としてのことば」があることを知りました。ことばをしゃべるってこんなに楽しいことなのか、声を出すってこんなに心地いいのか、表現ってこういうことだったのかと実感できました。
 それともう一つ、一音一拍で、息を出し話していく。だから当然、話はゆっくりになる。それは自然なこと、いいことなのだということが分かりました。民間吃音矯正所では、「母音を伸ばしながらゆっくり話をしたら、どもらない」とずっと教わってきました。でもそんな話し方するのはどもる人だけで、僕らは特別なことをやらされているという意識がありました。ところが、どもりの有無とは関係なしに、そういうふうに話をすれば、声も出るし、表現としても豊かになる。竹内レッスンに参加していなければ、こんなにゆっくり一音一拍で話す話し方に自信が持てなかったと思います。

竹内 昔の浅草のおじいさんやおばあさんたちは、もっとゆっくりだもんね。「はー、そうか、そういうふうにしゃべれば、フン、フン、なるほど」と、こう聞いて、またこちらが何か言うと「はあ、はあ、ねえ、そうするとよろこびがある。うん、よろこび、うーん、それで?」という具合に返す。江戸っ子はたんかを切ってシャキシャキしゃべるイメージがあります。たとえば職人はそうですよ。だけど、生活の場では相手の言うことを一つ一つくり返してしゃべっていくんです。

東野 職場は情報伝達のことばがいっぱいだから、みんなテンポが早い。ポンポンポンポンしゃべるのがいいとされています。

川崎 僕は以前、相手の顔からちょっと目をそらして、口も横に向けて、口をほとんど動かさずにしゃべっていました。なにかを伝えることよりも、自分がどもりだということを知られないのが一番大事でした。

赤松 とにかく、悩んでいたころは、スラスラ言うことばかりに気がいってしまっていました。結局、自分の思いを伝えることに向かっていないようなことがありました。「おはようございます」と言うときでも、「お」が出なかったらどうしようと心配ばかりしているから、平べったい「おはようございます」になってしまうんです。

川崎 そういうしゃべり方を小学校から、社会人になってもしていました。大阪吃音教室で勉強して、どもってもいいと言われたって、しゃべれません。息が100%あるうちの2割か3割だけ使ってしゃべっていました。それが、竹内レッスンで息の出し方を教わって、息が深くなっていきました。それでやっと深い話し方ができるようになったんです。

伊藤 どもる人がずっと持ち続けている迷信があります。息を吸うのが肝心という思い込みです。ところが竹内さんは、「吐くことが大事」と言われます。その迷信を打ち破っただけでも、革命ですよ。

竹内 原則として、そのことは言っていたけれどもね。でも、実際に息を吸うとどうなるかということは、どもる人とレッスンしなかったら分からなかった。見ていると、しゃべる前にまず息を吸って、それでとたんに詰まっているものね。

伊藤 「わーたーしーは」というのでも、昔、僕らが吃音矯正所で習ったのは、一音一音はっきりと言う。「わ」でもう吸っているわけですよ(笑)。「た」「し」「は」って、音はゆっくりになるけれど、そのつど吸うからすごくしんどいんです。それと、息を吐いてから入れて「わたしは」と言うのとでは、同じゆっくりでも全然意味が違います。これが分かったのはありがたいことでした。

東野 声を出すよろこびの中にもう一つあって、それは、たとえば「息を出せ」ということを竹内さんが誰かにやっている、それを周りで見ていますよね。だんだん声が出てくるでしょう。あれが他人事とは全然思えなくて、うれしいんです。

伊藤 他の人のレッスンを見ていると、うれしいし、よく分かるよね。「ああいうふうにすれば声が出るのか」「確かに、ここにこう力が入ってるな」と手にとるように分かります。
 表現するよろこびというのもありますね。舞台でシナリオを読んで、ことばで表現するなんて、僕たちにはできないものと思い込んでいました。特に僕自身が表現のよろこびに目覚めたのは、唱歌、童謡です。「咲いた、咲いた」と、本当に今咲いているということを歌詞に流していく。歌ではどもらないんです。どもらない歌でこれだけ表現できる。自分のこれまで持っていた表現ではないものに目覚めました。

新見 僕も、声を出すよろこびを味わえたのが一番です。今までは、力を入れないと声は出ないと思っていました。抜けた瞬間に声が出るという感覚が、何となく分かりました。

伊藤 それと継続の力だと思いますね。いろいろなことを聞いても、それがからだに染みてこなければならない。レッスンに通って3年4年と経つうちに、ようやく新見さんのからだに染みてきたんじゃないでしょうか。

竹内 レッスンにどんな意味があるのかということをよく言われるけれど、同じことでも、人が背負っている状況や歴史によって、焦点の当て方が変わってきます。たとえば、私がことばがゆっくりだといっても、ことばがしゃべれなかった人間独特の、特異なものがあるわけではありません。一番基本的なことが実現してゆくのにいろんな姿があるだけです。よくしゃべれる人たちは、しゃべれることが当たり前であって、そこから上に行こう、行こうとしています。かといって、よくしゃべれる人たちが、そこから先だけやれば、ちゃんと表現できるのかというとそうじゃない、根の部分に戻らないとだめです。呼びかけるからだの流れとか、日本語としては一音一拍による声そのものの力とか。根のところは吃音の人だろうと誰だろうと同じだと思っています。

溝口 どもっていることばとか、どもってことばが出てこない時間とかは、私にとって本当に見たくも触れたくもない、嫌な部分でした。ところが竹内さんは、そうではない。それも含めて自分のことばなんだということに気づかせて下さいました。竹内さんが、「ボ、ボ、ボクはあなたが好きだ!」って言ってくれたんです。

伊藤 そう。喫茶店ですごいおっきな声で。

竹内 念のために言いますが、恋の告白ではないですよ(笑)。

溝口 からだが震えるようなものが伝わってきました。「これがわたしのことばだ」っていう感じがいっぱいわーっと押し寄せてきた気がしたんです。

竹内 いや、そのことばをどこかで言った記憶はあるけれど、喫茶店でどなったとは(笑)。

溝口 私にとって、あそこがスタートだったように思います。小手先で治そうとか、できるだけ滑らかにしゃべろうとかいうのではなくて、もっと深いところで、そのままでいいというのを大事にしながら、それでも相手に伝わることば、自分が楽になる話し方を求めていきたいという気持ちが芽生えました。

竹内 いまはどもらなくなった吃音の人が以前レッスンに通って来ていて、二年目に芝居をやったんです。相手役の女の人と「裸足の青春」という劇のテクストを持って読みあわせをするんだけど、片一方はかなり重度の吃音で、ことばが出てこない。相手の女性は立って待っているんだけれど、いつまでたっても相手が言わないから、イライラしてくる。すると、彼がウーと言って、「こここ、こうだって」ってようやく何か言う。相手は待ち構えているから、間髪入れずに返事をする。すると、途端に向こうが次言わなきゃとあせって、また「とととと」ってどもる。それが三遍か四遍くり返したときに、私はその女の人に「だめだ」と言ったんです。ことばが詰まっているときというのは、その人のからだの中から声が生まれようとして、一番激しく動いている、一番激しく生きているときだ。その時間をあなたはゼロにして、なんにも感じないようにしておいて、ようやくことばが出てきたらまたすかさず返事をしている。それは相手のことばを何も聞いていないということだ、と言いました。彼女はしばらく黙っていたが、分かりましたと言いました。それから答え方の気づかいがまるで変わりました。すると、今度は彼のほうも変わってきます。「ここで今言わなきゃ、今言わなきゃ」というあせりがなくなってくるから。どもっているときというのは、本当に大事な、いのちが一番激しく動いているときなんです。(了)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/09/26

いのちが激しく動く〜竹内敏晴さんのレッスンをめぐって〜

 竹内敏晴さんの「からだとことばのレッスン」は、東京と名古屋、大阪で定期的に開催されていました。それぞれ運営は独立していましたが、大阪のレッスンは、僕たち日本吃音臨床研究会が主催していました。竹内さんがお亡くなりになるまで、毎月第2土日、應典院でレッスンは続きました。大阪のレッスンには、僕たちが事務局をしていたこともあって、どもる人の参加が多くありました。その人たちが集まって、竹内レッスンをめぐって話し合った、2006年4月の座談会を紹介します。(「スタタリング・ナウ」2007.5.21 NO.153 より)

  
いのちが激しく動く
 
伊藤 竹内さんの、『ことばが壁かれるとき』を読み、レッスンを受けたいとずっと思っていました。
 自分たちのことばにしっかり向き合って、変えることができるものならば変えたいと、竹内さんに来ていただいて20人ぐらいでレッスンを受けたのがすごく面白かった。民間吃音矯正所の発声練習や呼吸練習と全然違う、正反対に近いことを聞いたりして、目が開かれる思いがしたんです。それで、年に一、二度、大阪に来てもらうようになりました。
 どもる人たちも基本的に声を出したいが、声を出す喜びや楽しさをあまり経験していない。力いっぱい声を出すことが、からだとしてどんな感覚なのか知らなかった人たちにとって、心弾む体験でした。6年後、みんなから「芝居をやりたい」という声があがりました。レッスンのテキストとして使っていた「夕鶴」をぜひ舞台でやりたいと挑戦し、その北海道公演が大好評だった。大勢の前でやることの面白さを味わいました。練習と違って、本舞台のときはみんなうまかったです。

竹内 練習ではハラハラドキドキ、本舞台でも全然声が出ない。それが、あるところでバーッと声が出始めた。しゃべるのも、あのころは全然声が出なくて、えらい苦労しました。本舞台で、息が止まってしゃべれなくなって、シーンとしている中、ポツリと言う。そのたびにお客さんハーハー、向こうもみんな吃音の人だからね。

伊藤 あの経験が大きかったと思います。そして、大阪スタタリングプロジェクトの30周年を記念して、1998年に大阪市立総合医療センターのさくらホールで「夕鶴」や「木竜うるし」「トムソーヤー」他を上演しました。170人ほどの観客で、あれだけ来てくれると思わなかった。大成功でした。
 それからしばらくして、定期的な大阪の毎月レッスンが始まりました。どもる人たちに、もっと竹内さんに出会ってほしい、声のことをやってほしいという思いがあったんです。一つの方針としては、東京と名古屋でやっているレッスンとは違うものをという思いでした。東京は、表現にどんどん進んでいたけれど、大阪では、ことばの基本のことをずっとやる、くり返しでもいいから、ことばのことを丁寧にやるレッスンがほしい、それなら僕たち日本吃音臨床研究会が主催してやる意味があると思ったんです。2月の旗揚げのための講演会は大勢集まり、4月の第1回レッスンは50人集まりました。

竹内 話は飛ぶけど、去年、「十二人の怒れる男」をやろうという話が伊藤さんから出た。「そんなでっかい芝居をやるのは大変だよ、できないよ」と言ったんだけれど、この人は、恐れを知らない人で(笑)、やりたければやろう、なんだよな。大阪弁だの広島弁だのそれぞれの生まれ故郷のことばでアレンジして19人、そのうち吃音の人が半分以上出演したけれどみごとな舞台でした。

東野 竹内さんが初めて来て下さったとき、とても新鮮でした。普段は、大きな声を出すとか、からだを動かして歌を歌うとかの経験がありません。大きな声を出したのは、吃音矯正の発声練習の時だけで、効果がないからしなくなっていました。
 ところが竹内レッスンでは、治すとか治さないとかではなく、からだを動かすこと、声を出すことそのものがとても心地よかった。そして、自分では気づかなかった、意識してこなかったからだの緊張や堅さ、習慣になっている身構えを指摘してもらいました。これもとても新鮮でした。
 僕は、当時電話で悩んでいて、何とかしたいと竹内さんに質問したら、「話すときにちっともわたしの目を見ていない。それがあなたの問題ではないか」とおっしゃった。自分に意識が向いていて、相手に向かっていないのではないかとの指摘でした。確かに僕は相手の目を見て話していない。ちゃんと言えているか、どもらずに言えているかに意識が向いていて、相手に何かを伝えたいという姿勢が希薄だったことに気づいたんです。
 それで、電話は相手が見えないけれど、受話器の向こうに相手がいると思って、とにかく何か伝えてみようと意識しました。それから電話をかけることがずいぶん楽になったんです。
 また、吃音矯正所ではまず、息を下腹部にたっぷり吸わないとだめだと言われましたが、竹内さんからは、反対に吸ってはいけない、息は吐くものだ、息を吐かないとことばは出ないと言われました。吐いて吐いたら、勝手に入ってくる。これは、僕がいつも吃音教室でどもる人たちに伝えていることです。

赤松 私は会社に入って20年。電話をかけたり受けたりは、どうにかクリアしてきたけれど、人にかかってきた電話をとって取り次ぐときに声が出ない。「誰々さん、電話です」が言えない。その話をしたら、「指を指して、誰々と言ってみたらどうか」とアドバイスを受けました。随伴運動になったかもしれないけれど、だんだん大きく指を指さなくても、小さく軽く指を出すだけで済むようになりました。以前とは格段に変わり、そのうち、指さしをしなくてもよくなったんです。自分の名前が出にくかったけど、一音一音をはっきり言うよう練習することで一語一語、しゃべり方がはっきりしてきました。気がせくと、早くなるが、気をつけて一語一語きっちり出すようにすると、完全に黙ってしまうことはなくなりました。でも、これはどもりが軽くなったというわけではないです。
 小学校のときから、芝居には一切縁がありませんでした。「夕鶴」では、緊張感はすごかったけれど、「できた!終わった!」という解放感とうれしさを感じました。芝居の中ではどもらない。不安がないから、どもりそうだという気も起こらない。一語一語をきちんと出してしゃべると、大丈夫なんだという気はしている。それを普段の生活の中で全て生かせるわけには、なかなかいかないんですけど。

竹内 「誰々さーん」と指さして呼ぶというのは、つまり、ことばとは声を出すことじゃなくて、働きかけること、アクションだということです。「夕鶴」で与ひょうをやった伊藤照良さんが、眠っているのに子どもたちがワイワイやっているので、「えーい、うるさいのう」と言うんだけど、何回も「う、う、う……」となり、出てこない。あのとき、しゃべろうとしないで殴りとばすつもりでバンと腕をふりまわして怒鳴れと言った。そうしたら「うるさいのう」といっぺんに声が出た。からだ全体が動いたときにポーンと声が出るのです。

川崎 僕は、今年の公開レッスンの「十二人の怒れる男」の芝居の中でどもる不安がありました。特に、最後のシーンの「生かしてやろうよ」というセリフ。僕は母音がものすごい苦手なんです。でも、竹内さんに、「息でしゃべれ」と言われ、不安がなくなりました。息せききって、とまでは言わないけれど、ハァハァ言いながら言って、「生かしてやろうよ」というせりふを言いました。
 竹内さんに初めて出会ったのが、10年前の吃音ショートコース。それまでいろいろなワークショップには参加していたから、人のからだに触れることは慣れていたし、目を見て話すのもできていました。声もそこそこ出ていたつもりでした。ところが、僕が、後ろで目立たないように腕を組んでいたら竹内さんに「ちょっと出て来なさい」と言われ、ものすごく嫌だったんだけど(笑)。竹内さんは、「その手は何ですか。自分で自分を縛っている」とおっしゃった。
 結局、意識は自分に向いていたということです。声は大きく出しているが、意識が相手に向かわずに、自分がどもるかどもらないか、そればっかり考えていたんです。
 銀山寺でのレッスンで、竹内さんは、自分の肩を押させて働きかけながら声を出させるということを何度もしていました。あのとき、声の大きさじゃなくて、声がどこに向かっているかが大事だ、ということがわかりました。僕は障害を持った子ども相手の仕事を13年間していますが、以前は「聞いてくださーい」と大声で全体に呼びかけていました。それが無理して声を張り上げなくてもスッとみんなこっちを向いてくれるようになったんです。

伊藤 川崎さんと初めて会ったとき、初対面なのにベラベラベラベラ、ちっともどもらないで流暢に話す。どもらない人かと思いました。

竹内 大阪吃音教室に呼ばれた最初のレッスンでみんながしゃべるのを聞いて呆然としたんです。はじめは確かにつっかかるけれど、あとはベラベラ、いっぱいしゃべる。ことばがうまくしゃべれなくて、やっとことばをつむいでやってきた私などから見たら、こんなによくしゃべれる連中が、なにをオレにレッスンしてもらう必要があるのかと(笑)。「あなたがたは自分がどもる、うまくしゃべれないから何とかしたいと思っている。うまくしゃべれる人たちを標準にして、上ばっかり見ている。でも世の中にはもっとしゃべれない人もいる。そういう人たちを置き捨てて、よくしゃべれる人たちの仲間に入ろうとしてばかりいる。でも、もっとしゃべれない人がいるという見え方の中で考えてほしい」と言いました。

伊藤 そのことばは、僕もすごく印象に残っています。

竹内 そうですか。私は吃音を何とかしようとは全く考えていません。ただ、自分のことば、自分の表現を見つけてほしいと思うだけです。そういう意味でいうと、川崎さんも、うまくしゃべれているけれど、自分のことばはしゃべっていなかった。そういうことを言うのは、きつすぎるかなという思いがありました。スラスラしゃべれている。ちっとも真実なことばに聞こえないけれども、その人にしてみたら一所懸命しゃべっている。それを、「ほんまにそれがあなたのことばか」という言い方はできなかった。芝居をやるようになってから、だいぶずけずけ言うようになりましたけれどね。

新見 最初に竹内レッスンに出たとき、大勢の前で歌うとか、踊るとかが、すごく嫌でした。大阪のレッスンに参加するようになってからも、ずっと半信半疑で、吃音と何の関係があるのかと思っていました。ところが参加するうちに、だんだん自分のからだや声、人との接し方がわかってきた。今までは人と接することが嫌だったけれど、レッスンに参加して、人と接したり、人に対して動いたりする中で、心に動くものがあってはじめて声が出るということが分かりました。

竹内 初めて来てぴんとくるものがあったから通うようになった、というのなら話は分かりやすいんだけれども、そうじゃなくて、何だかよく分からないのに通う。あなたは一度も休んでいないですね。なぜですかね。今ふっと思い出すのは、新見さんが増田さんとはじめて出会いのレッスンをやったときのこと。あのとき二人の間で何かがスーッとつながった感じがしました。
 それから、「ああ、これだけ声が出た」ということが起こった。そのとき、たまたま出た声にすごいリアリティがあった。決定的でした。細々とした声がやっと出たというようなものじゃない、ボソッと出た声にびっくりするような力があった。それを何とか、もうちょっと引っ張りだしたいと思ってきました。それがこの間の舞台でのセリフ。「ようそんな口きいたな。今度そんなことぬかしたら、ただじゃ済まねえ!」このおとなしい新見さんが、「ただじゃ済まねえ!」。バーンと来て、びっくりした。もっとも、その前にいくつかのステップがあって、彼はそれを一つ一つ、確実に踏んできている。

伊藤 新見さん、レッスンに参加するようになって、日常生活で変わってきたことありますか。

新見 声が出ないときには、どうあがいても無理という諦めがつきました。もがけばもがくほど、声は出ないし、それはもうそれでいいと。

竹内 こういうふうに彼がしゃべっていることに一番びっくりします。前は、「うん」とか「わからん」とか「そうです」とかしか言わなかったからね。
 からだに声が出てくる状態が作られると、ことばは自分の中から出るようになるのかな…。こうしたらこうなる、みたいなプログラムがあってレッスンしているわけではないので、起こってきたことに私もびっくりします。

新見 あのとき、何か心突き動かされるものがありました。だから、ものすごい腹が立ったんです。それで一挙に声が出ました。

伊藤 これまでの生活の中で、突き動かされたりものすごく腹が立ったり悔しかったり悲しかったりってなかったのですか。

新見 あっても表現できなかったんです。押し殺していた、というか…少し自分で鈍感になっていたところはあります。どう感じ、どう受け止め、どう表現したらいいか分からなかったという感じです。

長尾 中学生の時にさくらホールでの芝居を経験し、「十二人の怒れる男」にも出演しました。自分の声に対して意識を持ち始めたのが高校生の頃。合唱部の先生から発声や合唱の技術を教えられ、興味を持ち、それをふだんしゃべる声にも応用できないかと考えました。
 自分がどんな発声をしているのか、どんな声なのか、を確かめてみたいと思いました。レッスンを実際に受けてみて、自分がこうしたいと思っているのと違うことをしていたらしいということが分かりました。
 高校の合唱クラブで腹式呼吸をずいぶん指導されたが、原理も何も教えてくれなくて、ただ単にこんなイメージでやれと…。できないときには先生が矯正してくれたんですが、どんな理屈で成り立っているのかが分からない。
 はじめに声を出すレッスンをやったとき、全然声が出ませんでした。なぜだろうといろいろ考えてみました。普通にしているときは腹式呼吸ができているのに、いざ声を出すときになるとできない。
 腹式呼吸と声を出すことが連結していないんです。腹式呼吸はするけれども、歌を歌う段になったら何もしていない(笑)。
 高校までは吃音をある程度コントロールしていた記憶があります。それなりに詰まらずにしゃべれていました。ところが、しゃべりに応用したいと思って腹式呼吸を習ったのに、腹式呼吸をやればやるほどコントロールできなくなったんです。

伊藤 お腹からいい声が出始めた途端に、吃音のコントロールが崩れたわけでしょう。吃音矯正では腹式呼吸がとても強調される。「腹式呼吸で息をたっぷり入れ、出すときに、息にことばを乗せろ」と。私もそれを試みたが、日常的には身につかなかった。ところが竹内レッスンでは息を吐くことだけが強調される。そうすると、全く意識しないでも腹式呼吸が自然とできるようになるんです。

竹内 意識しなくてもね。息というのはもともと肺の中に70%ぐらいまで入っているんだと思うんですよ。なのに腹式呼吸法では、残り30%を入れてから吐き出そうとするから、いっぱいにしたところで力が入っちゃう。でも、もともと肺の中に空気がある程度あるわけだから、これをギューッと絞って出す。出切っちゃったところで力をパッとゆるめればバーッと入ってきます。100%入る。出さないで、余りのところに一所懸命入れようとしても無理なんです。私は腹式呼吸ということばは使いません。横隔膜呼吸と言います。腹式呼吸というと、腹筋を使う呼吸になりがちです。
 今までレッスンを受けてよかったとか、こういう苦労もあったという話をしてくれたけれども、現在吃音を何とかしたいからレッスン受けているわけじゃないでしょう。結果として楽になったことがあっても、そこを強調すると、そのためにレッスンをやっているという話になりかねない。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/09/24

私の声とことばの履歴書

 「吃音はどう治すかではなく、どう生きるかだ」、これは、僕の一貫した、ベースとなる哲学です。かといって、声やことばに関して何もしないということではありません。声やことばには人一倍関心があり、これまで、「声の教養」を劇作家・鴻上尚史さんから、「表現としてのことば」や「一音一拍、母音を押す」を竹内敏晴さんから学んできました。
 吃音を治すためではなく、相手に届く声を求めてきました。それは、竹内敏晴さんの「からだとことばのレッスン」で、声を出す喜びや楽しさを味わったことがはじまりでした。
 「スタタリング・ナウ」2007.5.21 NO.153 の巻頭言を紹介します。

  
私の声とことばの履歴書
                      日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 吃音はどう治すかではなく、吃音と共にどう生きるかが大切だと、私は30年も前から提案し続けてきた。その「治すかではなく」が、常に誤解を受けてきた。吃音を認めて生きることは、声やことばに関しては何もしないと受け止められたのだった。しかし、私たちが、実は声やことばに対して一番取り組んできたのではないだろうか。
 どもる人のセルフヘルプグループの大阪吃音教室においては、読むことや話すことのトレーニングを取り入れたり、演劇にも取り組んできた。また、どもる子どもたちの吃音親子サマーキャンプも、吃音について話し合うことと、ことばの表現に取り組む劇の上演が2つの大きな柱になっている。
 声やことばに私たちが本格的に取り組み始めたきっかけは、竹内敏晴さんとの20年ほど前の出会いにある。その出会いは衝撃的だった。
 グループのリーダー研修会で、体をゆらし、童謡や唱歌を、今ここで生まれる表現の歌として腹から声を出して歌った時の弾んだ気持ちと、声を出す喜びは今もはっきりと思い出すことができる。
 息が流れ、その息と共に声が出て、歌となっていく。からだがいきいきとし、うれしくなる。声を出すとはこれほど楽しく、体と心が喜ぶものだったのだ。この感動は今も忘れない。
 吃音に悩んでいた頃の私にとって、声を出すことや思いをことばにすることは、相手に近づくためではなく、相手との距離を置くためのものだったと言えるだろう。私のどもることばを聞き手がどう受け止めるか、常に不安と恐れがあった。近寄りたくて発したことばは、時に相手から拒まれた。
 声を出すたびに身構え、からだはこわばった。どもることばを相手に聞かれないようにと、ことばを自分のからだに閉じこめた。
 私が声に関して取り組んだのは、謡曲の師範である父親から手ほどきを受けた謡曲と、大学時代のクラブの詩吟と講談師・田辺一鶴さんから教わった講談だった。かぼそかった声が詩吟でだんだん大きくなり、講談で話のリズムをつかんだ。一時期、お前の話は講談を聞いているようだとよく言われ、喫茶店では恥ずかしいから、もっと小さな声で話してくれと友だちから言われた。
 その後、セルフヘルプグループをつくり、リーダーとなった。人を遠ざけてきたことばは人と人とを結びつけるものになった。リーダーになって人前で話すことが多くなり、大勢の前で話す場に慣れ、話すときの不安や恐れがやわらいでいった。
 20代の終わり、私は大学の教員となった。吃音について独自の哲学をもち主張することばをもっての講義や講演では、家族や友人と話すように話していたのでは伝わらない。一音一音を丁寧に、相手に伝えたいという熱意をもって、相手に伝わるように私はゆっくりと話し始めた。しばらくして、日常生活や親しい人との会話では、相変わらずどもるのだが、大勢の人の前で話す時は、ことばをゆっくり目にコントロールすることが自然と身についたのか、あまりどもらなくなった。
 その後、「吃音と共に生きる」プログラムを作る時、声やことばにも取り組みたいと考えた。国語教育の朗読、アナウンサーの訓練、歌手や声優のボイストレーニングなど、様々なワークショップを経験し模索を続けたが、どもる私たちが取り組みたいと思えるものとは出会えなかった。その後、出会えたのが竹内敏晴さんのレッスンだった。
 今の私は、また人前でもよくどもるようになった。8年ほど前に、私の講演を聞いた人が、今の私のどもる状態にびっくりするくらいだ。自分では意識していなかったのだが、自分の考えを人前で話すとき、竹内敏晴さんの言う「説明・説得的な口調」が身についていたのだろう。それを壊して「表現としての声」を育てて下さったのが、竹内さんだった。今、自然にどもる私が好きだ。
 どもる私たちにかかわり、その延長として大阪で毎月開かれるようになった竹内レッスンの様子を、日本吃音臨床研究会編集の「たけうち通信」をもとに竹内敏晴さんが本として出版して下さった。
 私たちの声とことばの履歴書でもある。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/09/22

影との闘い

 竹内敏晴さんの大阪での定例レッスンの旗揚げ講演会を開催したのは、1999年2月11日でした。強風で雨と雪が交じる最悪の天候の中、当初の予想をはるかに超える185名の参加がありました。以来、竹内さんが亡くなるまで、大阪定例レッスンの事務局を続けました。毎月第2土日、大阪市天王寺区の應典院が会場でした。
 生のレッスンを見てもらおう、参加者にもレッスンを体験してもらおう、1年間のまとめとしてレッスンを受けてきた者で小さな舞台を作ろう、そんな思いから始まったのが、公開レッスンでした。2007年の公開レッスンでの、アーシュラ・ル=グウィンの『ゲド戦記―影との戦い』は、竹内さんの脚色によって、幻想的な、迫力ある舞台となりました。僕も、その舞台に出演したのですが、そのときのことを巻頭言を書いています。「スタタリング・ナウ」2007.3.18 NO.151 より紹介します。

  
影との戦い
                    日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 寒さが戻った早春の日。日本吃音臨床研究会主催の、竹内敏晴さんの公開レッスンが行われた。今年は、アーシュラ・ル=グウィンの『ゲド戦記―影との戦い』。竹内さんの脚色によって、幻想的な、迫力ある舞台となった。
 『ゲド戦記』を一年かけてみんなと読み進む中で私は、「影」とは、吃音に悩む人にとっては、吃音だと強く思った。私と同じような感じをもったどもる青年が自ら希望して、死人の霊を呼び出してしまう場面のゲドを演じた。「影」への不安と恐怖におびえながらも戦い、敗れ、瀕死の傷を負う。九死に一生を得たゲドに、私が演じる大賢人ジェンシャーが優しく、そして厳しく語りかける。
 「そなたが呼び出したのは死人の霊だが、それと一緒に死の精霊のひとつまでそなたは、この世に放ってしまった。そやつはそなたを使って災いを働こうともくろんでおる。そなたは、もはやそやつとは離れられぬ。そやつは、そなたの投げる、そなた自身の無知と傲慢の影なのだ。いいか、ここにいるのだ。十分な力と智恵を獲得して、おのれの身を守れるようになるまでは」
 私は、大賢人を演じながら、吃音に不安や恐れをもち、吃音に闘いを挑み、悩む若い人たちに語りかけているような気分になった。ゲドはその後、再度、影に挑んで敗れる。助言を求めるゲドに、師オジオンがこう語りかけるところで、舞台は終わった。
 「向き直るのじゃ。このまま先へ先へと逃げてゆけば、どこまで行っても、見えぬものに駆り立てられて、見えぬところにさまようしかあるまい。今までは向こうが道を決めてきた。これからはそなたが決めるのじゃ。追われるものが向き直って、狩人を追いつめるのじゃ」
 舞台が終わって、観客との交流のために舞台をおりたとき、一人の若い女性が「伊藤さん、長縄です」とまっすぐに私に近づき、声をかけてきた。思いがけなく、一瞬驚いたがすぐに分かった。翌日が大阪の大学の入学試験で、私に是非会いたかったのだと涙ぐみながら話し始める彼女に、私も目頭が熱くなった。『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』(ナカニシヤ出版)の感想がびっしりと書かれた2通の手紙をいただいていた、岐阜の女子高校生、長縄美帆さんだった。
 「初めて読んだときは、つらかったことをすべて分かっていただけた気がして、涙が出ました。どもるのに教師になれるのかという不安も、佐々木和子さんの話からなくなりました。この本に出会っていなかったら、今の私はありません。伊藤さんに本当に感謝しています。ゼロの地点に立ってからは本当にすごい日々を実感しています。私立の面接の時に面接を恐れなかったことです。以前なら、面接のある大学は避けようとしたと思います。志願理由書にも、吃音の経験から自分の進む道を決めたことを堂々と書きました。どもったらどうしようとは思いませんでした。吃音がきっかけで見えてきた道を叶えるための面接なのに、どもることを恐れるのはおかしいと思えたのです」

 『どもりと向きあう一問一答』(解放出版社)を読んで、北九州での吃音相談会に私に会いに来てくれたのが、広島大学大学院の原田大介さんだ。
 「2005年1月から吃音と向き合うようになり、様々な吃音臨床の場に参加するようになった私の背中を絶えず押して下さったのが、伊藤さんでした。第16回吃音親子サマーキャンプでは私に発表の場を与えて下さいました。2005年7月に演出家・竹内敏晴さんとの個別レッスンを体験できたことや、2006年11月に大野裕さん(慶應大学教授)と私の公開カウンセリングが実現したのも、伊藤さんのご配慮によるものでした。当事者の立場から吃音についての語りを続ける伊藤さんの存在そのものが、私にとっての救いです。私もまた、自分の経験をもとに語り続けていくつもりです」
 送られてきた博士論文の後書きの謝辞に、私との出会いが書かれていた。吃音は闘うのではなく、向き合うものなのだと言い続けてきて、ふたりの若者と出会えた。向き合うとは、揺れ動き、迷い、立ち止まり、時に逃げたりしながらのものだと、大野裕教授の原田さんへの面接に深く共感した。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/09/10

吃音親子サマーキャンプの劇の意味

 第33回吃音親子サマーキャンプが終わって約3週間、ようやくほんの少し、朝晩はしのぎやすくなってきたように思います。今、キャンプの感想がぽつぽつと返ってきています。改めて、夏の大きなイベントだったなあと思います。
 さて、今日は、「スタタリング・ナウ」2007.1.20 NO.149 より紹介します。巻頭言のタイトルは、「キャンプでの劇の意味」です。サマーキャンプの大きな柱である演劇に絞って、その意義を整理しています。

  
キャンプの劇の意味
              日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 私の吃音への苦しいこだわりは、小学校2年生の秋の学芸会『浦島太郎』で、セリフのある役をはずされたことから始まる。「伊藤はどもるからセリフのある役はできないんだ」と友だちから言われ、吃音に強い劣等感をもった。稽古が始まって、学芸会当日までの間に、私はそれまでの明るく元気な子どもから無気力で暗い消極的な子どもへと変わってしまった。吃音に対するマイナスの意識を持ったまま、学童期・思春期を生きた。
 吃音親子サマーキャンプを始めた時、「吃音についての話し合い」と「表現活動としての演劇」は、どうしても入れたかった。私の『浦島太郎』体験が影響しているが、演劇の取り組みは《吃音と向き合い》《吃音とつき合う》上で大きな意味をもつ。
 今回、吃音とは縁もゆかりもなかった渡辺貴裕さんが『演劇と教育』で私たちの吃音親子サマーキャンプの取り組みを紹介して下さった。直接の当事者ではなく、ある意味部外者の渡辺さんが、どんな思いで私たちのキャンプにかかわって下さっていたか、表現活動に取り組んで下さっていたかがよく分かった。それが、多くの人に読まれることは大変ありがたいことだ。
 吃音親子サマーキャンプの意義について、私はこれまでたくさん書いてきたが、「演劇活動」にしぼって今一渡整理しておきたい。

《吃音と向き合う》
 キャンプの大きな柱のひとつである「吃音について話し合う」ことだけが、《吃音と向き合う》ことではない。演劇に取り組むことは、自分がどもる存在であるという事実と向き合うことに他ならない。会話でよくどもる、朗読でよくどもるなど、どもる場面やどもる状態は子どもによってずいぶん違う。
 友達と楽しく遊び、話し合いでも積極的に発言する子が、シナリオ通りに読んで演じていく劇の稽古になるとひどくどもる場合がある。遊びや話し合いではあんなに元気だった子どもが、どもっている状態を周りの子どもに知られ、一時元気がなくなることがある。3日間の劇に取り組む中で、これまでと違った形でどもる事実に向き合う。
《声を耕し、ことばを育てる》
 吃音そのものを治したり、改善することを私たちは目指さないが、声、ことばについては、真剣に向き合い、耕そうとしている。どもっても、その場にふさわしい大きさの声を、表現豊かな声を、耕したい。目を伏せて、うつむき加減に話す子どもに、目の前の人に向かって話しかけようと励ます。演劇は、人と人とが向き合い、響き合うための、格好の教材だと思う。しかも、竹内敏晴さん脚本の劇は、演じていてとても楽しい。
《困難な場面に向き合う》
 ナレーター役を名乗り出た子どもが、最初のことばが出ない。何度も何度も挑戦するが出てこない。周りからの激励やアドバイスにその子どもは怒り出した。そして投げ出した。その子どもに関わり、特訓をしたことがある。「次の日…」の「つ」が言えない。「つ」を言おうとするな、母音をしゃべれと提案し、「ういおい…」。しばらく練習をして、彼はグループに戻っていった。上演での彼のナレーターは見事だった。あまりどもらずにできたことに意味があるのではない。自分が苦手とすること、困難なことに挑戦し、工夫する。サバイバルしていく力を身につけて欲しいのだ。
《自分で自分を支える》
 練習の時はそれなりにできていた子どもでも、140名もの人の前で演じるとなると緊張する。自分以外にも舞台には人が立っているとはいえ、セリフを言うときは、観客の目は一斉にその子どもに注がれる。逃げ出したくなる自分をひとりで支えなければならない。キャンプの場だけでなく、日常生活の中の困難な場でも自分で自分を支えなければならない。どもりながらも演じきるところに何か新しい「力」が生まれるのだ。17年間の中で、最終の上演から逃げ出した子どもはいない。
 まだまだこの他にもあるだろうと思う。今後スタッフや子どもたちと「キャンプの演劇」の意味について語り、確認していこうと思う。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/09/07

第11回親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会、無事、終わりました

講習会3横断幕 7月27・28日の2日間、千葉県教育会館で、久しぶりに講師を迎えて、第11回親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会を開催しました。
 今回の講習会の講師は、長いおつきあいのある東京学芸大学教職大学院准教授の渡辺貴裕さんでした。また、今回のテーマは、「やってみての気づきと対話〜どもる子どもが幸せに生きるために、ことばの教室でできること〜」でした。
 始まる2日前には、多くて40人かなという状況だったのですが、終盤、参加者がぐんと増えて、50名になり、印刷した資料集が足りないかもと心配しましたが、当日キャンセルがあって、結局は48名でした。沖縄、鹿児島、新潟、山形など、遠いところからの参加もありました。
講習会4渡辺さん 講師の渡辺貴裕さんとのおつき合いは、25年ほど前に遡ります。大阪での竹内敏晴さんのからだとことばのレッスンに、レッスン生として参加していた、当時大学院生の渡辺さんに、吃音親子サマーキャンプに参加しませんかとお誘いし、渡辺さんが参加したことから始まりました。竹内さんが2009年にお亡くなりになってからは、竹内さんの代わりに、サマーキャンプの大事なプログラムである演劇の担当として、スタッフへの演劇指導の事前レッスンからお世話になっています。今年も、講習会のつい2週間前、吃音親子サマーキャンプの事前レッスンでお世話になったばかりでした。

 1日目、最初のプログラムは、僕の基調提案でした。どもる子どもとの対話ができない、難しいという声を聞くので、なぜできないのだろうか、なぜ難しいのだろうかということをテーマに話を展開していく予定にしていました。その答えは、昨年6月、鹿児島県大会で話したことの中にあると思うのですが、それは今回の資料集の中に入れていたので、同じような話をすることもないかと思い、急に予定を変更しました。
 そもそも、「どもる子どもってどんな子?」という問いかけから始めようと思いました。吃音とは? どもることとは? という話はよく出てきますし、本にもそのようなことばを章立てしているものを見かけることはあります。しかし、どもる子どもとは?という問いかけはあまり見たことがありません。
講習会1講習会2 そこで、実際に、2人組になり、どもる子どもと担当者になって、対話をすることで、参加者のもつ、どもる子どもの像が明確になるのではないかと思いました。
 参加者のみなさんは、最初からそんなワークをすることになるとは想像されていなかったでしょうから、きっと戸惑われたことと思います。
 どうしても、今、自分が担当している子どもの姿から、どもる子どもを想像してしまいがちですが、実際にはいろんな子どもがいます。今、とても明るく元気でも、将来ライフステージが変わると、どんな悩みをもつか分かりません。担当者の思い込みで、子ども像を決めてしまわないで、当の本人に聞いていくという姿勢を大切にしてほしいと思いました。そのための対話なのです。戸惑いの中で始まった講習会でしたが、最初の頃は、不安げだった参加者も、だんだんと表情がやわらかくなり、その場の自分の気持ちを素直に表して、楽しんでいたように見えました。
 午後の渡辺貴裕さんのワークショップになると、渡辺さんの魔法にかかったかのように、ワーク、ふりかえり、グループで場面やシーンをつくり、ふりかえり、考え、動き、みんなでシェアし、など、頭と身体を目一杯動かした研修会になりました。 次々と出される課題設定が刺激的で、新鮮な研修会になりました。
講習会5伸二とみんな まさか本当に、夜の8時45分まで研修をするとは思っていなかったという初参加者もいましたが、プログラムに書いてあったとおり、きっちり8時45分までして、1日目を終えました。ハードな一日が終わり、心地よい疲れの中に、満足感もたっぷりでした。

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2024/07/31

響き合うことば 2

 昨日のつづきです。
 僕は、ヘレン・ケラーとサリバンの話をしています。「奇跡の人」は、これまで、映画でも舞台でも、幾度も上映、上演されています。有名な「ウォーター」の場面の解釈、「奇跡」といわれることのとらえ方にはいろいろあるようですが、竹内敏晴さんから教えてもらった、ここで紹介する話が一番ぴったりときます。
 どもっていたがゆえに悩み、苦しくつらい思いをしてきた僕にとって、「ことば」は特別なものでした。なめらかに流れることばさえあれば…と思っていましたが、ことば以前にお互いを思い合う、響き合う関係性があるのだと思います。

2003年2月15日 石川県教育センター
 《講演録》 響きあうことば
             伊藤伸二・日本吃音臨床研究会会長


ヘレン・ケラーとサリバン
 〈変わる〉ことについて、エリクソンの基本的信頼感、自律性、自発性、勤勉性と関連させて、子どもの発達に関係する一つの事例として、ヘレン・ケラーの話をしようと思います。
 この4月、大阪の近鉄劇場に、大竹しのぶ主演で『奇跡の人』という芝居がきます。早速申し込んで、久しぶりに芝居を観に行くのです。
 『奇跡の人』は、アン・サリバンとヘレン・ケラーの話ですけれど、ヘレン・ケラーの話をどこかで聞いたことのある人、ちょっと手を挙げていただけますか。(たくさんの手が挙がる)
 ありがとうございます。大分多いので、話し易いですが、当時、芝居よりも映画でした。アーバンクラフトがサリバンで、パティー・デュークという名子役がヘレン・ケラーでした。
 この芝居がまだ日本で紹介されない前に、先程話しました竹内敏晴さんが、演出しないかと言われたときに、竹内さんがシナリオを読んで疑問をもったそうです。『奇跡の人』の有名なシーンは、食事中に暴れ回り、水差しから水をこぼしたヘレンとサリバンが格闘をして、ポンプから水を入れさせている時に、ヘレンの手に水があたって、「ウォーター」と言う。そこで奇跡が起こったとして、『奇跡の人』というタイトルがっいたのでしょうけれども。竹内さんは、「そんな馬鹿げたことがあるか。殴り合って格闘して、ワーッとなっているときに、ポンプの水でウォーターなんて、そんなことが起こるはずがない」と思って、その芝居の演出をしなかったという話をしてくれたことがあります。
 私は、竹内さんの話に興味をもって、ヘレン・ケラーの自伝と、『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』(明治図書)の2冊の本を読みました。サリバンが、ホプキンスという親友に、ヘレン・ケラーとのかかわりについて、手紙を出していて、手記のようなものを丁寧に読んでいくと、竹内さんがおっしゃるとおり、全然違うことが分かりました。大竹しのぶさんの芝居が、「ウォーター」のシーンをどう演じるか、とても楽しみにしているのです。

まず、からだごとの触れあい
 ヘレン・ケラーは、目が見えない、耳も聞こえない、ことばのない少女ですが、7歳のときに、家庭教師として雇われたサリバンとヘレン・ケラーの関係が始まります。ことばを獲得して、話せるようになって、日本でも講演している人です。
 『奇跡の人』という『奇跡』は何を指すのでしょうか。「ウォーター」と、ことばを発見したことが奇跡だとして、芝居では『奇跡の人』とタイトルをつけているのでしょうが、サリバン自身が、自分の手紙に「奇跡が起こりました」と書いているのは、この場面ではありません。
 サリバンが出会ったときのヘレン・ケラーは、全くしつけられていなくて、食事の作法についてサリバンはこう表現しています。
 「ヘレンの食事の作法はすさまじいものです。他人の皿に手を突っ込み、勝手に取って食べ、料理の皿がまわってくると、手でわしづかみで何でも欲しいものをとります。今朝は、私の皿には絶対手を入れさせませんでした。彼女もあとに引かず、こうして意地の張り合いが続きました」
 サリバンは、このヘレン・ケラーと向き合った後、こう言っています。
 「私はまず、ゆっくりやり始めて、彼女の愛情を勝ち取ろうと考えています。力だけで彼女を征服しようとはしないつもりです」
 これはサリバンの覚悟なのでしょう。一筋縄ではいかない。からだごとぶつかって、自分も一緒に生きるところで彼女と向き合わなければ、彼女のことは理解できないし、彼女が変わらない。基本的信頼感がお互いになければ、家庭教師として、教えることはとてもできないということです。
 それを確立するために、2週間という期限を区切って、小屋に二人で住まわせてほしいと申し出ます。一つの小屋で、食事から何から完全に二人きりの生活です。これまでは自由奔放に勝手気ままに生きてきたヘレンにとって、この閉ざされた空間で、サリバンと二人だけの生活は、非常に厳しいのですが、濃密です。これは、乳児期・幼児期の母と子の関係に近い関係です。サリバンに従わないと、食事すらできない。信頼はともかく、柔順に従わざるを得ない状況です。
 初日の食事のときの格闘の後は、サリバンの雰囲気を感じると逃げていたヘレンが、二人きりの生活の中で変わっていくのです。6日から7日目のことですが、サリバンは、こういうふうに親友に手紙を書いています。
 「今朝、私の心はうれしさで高鳴っています。奇跡が起こったのです。知性の光が私の小さな生徒の心を照らしました。見てください。全てが変わりました。2週間前の小さな野生動物は、優しい子どもに変わりました。今では、彼女は、私にキスもさせます。そして、ことのほか優しい気分のときには、私のひざの上に1,2分は乗ったりもします。しかし、まだキスのお返しはしてくれませんが」
 家庭教師と生徒の関係を越えて、人間と人間の生身のぶつかり合いの濃密な生活の中で、この基本的信頼に近い感覚が芽生え始めたのでしょう。この関係ができたことを、サリバンは、「奇跡が起こった」といっているのです。ここまでの取り組みがいかに大きなことかは、サリバンの「奇跡」ということばで分かります。随分とおとなしくなったヘレンを見て家族はとても喜んで、2週間という約束だから、また家に戻してくれという。サリバンは、まだまだそんな状態ではないからもう少しこのままの状態を続けたいと強く訴えるのですが、約束だからと家の人がつっぱねる。そして、2週間後に家に戻ったのですが、最初の夕食がすごい勝負なのですね。

自律から自発へ
 そのあたりは芝居でどうなるか興味深々なのです。誰も助けてくれない、閉ざされた小さな小屋では、彼女はナプキンをつけて食べるようになった。自分の父や母のいる安全な場面に来たときにもそれができるか、です。勝負だったのですね。これが人間ではなくて犬の調教だったら、調教したことは、場所が変わってもできる。でも、ヘレンは人間ですから、そうはいかない。そこで、最初の晩餐のときに、ナプキンをおこうとすると、彼女はダーッとナプキンを放り投げて、またわしづかみで食べ始める。要するに、最初に出会ったときと同じ状態に戻るのですね。ヘレン・ケラーとサリバンの勝負です。
 教えた食事の作法でやらせようと思っても、バーっと振り払って絶対させてくれない。芝居や映画では、この格闘でこぼした水差しに水を入れさせるために、食堂から引きずり出す。そして、ポンプのとこで「ウォーター」と感動的な場面になるのですが。サリバンの手紙によるとそうじゃない。その晩は仕方ないから、そのままにしておいて、次の朝、何とも言えない気持ちを抱きながらも、サリバンが食堂へ行ったときに、ヘレンが先に席についていて、ナプキンをしている。サリバンが教えた方法ではなくて、自分のやり方でナプキンをしていた。それは、竹内敏晴さんから言うと「それはサインだ。つまり、サリバン、あなたが教えようとしたことは要するにこういうことなのでしょ。要するに、形は違うけれども、こういうものをつけて食事をしろということを教えたかった。それを私流にすると、こうなんですよ。それをあなたは受け入れるか。私の自律性を認めるか。私を尊重するのですか」という問いかけだった。それに対してサリバンが、「それじゃだめでしょ。私があれだけ教えた方法でやりなさい」と無理強いしたら、その後のヘレンとサリバンの関係はなかったでしょう。すごい勝負どころだったと、竹内さんは言います。
 サリバンは、やり直しをさせなかったということで、「OKだ。あなたはあなたのままでいい。そのあなたのやり方でいいんだよ。そういうふうにして食事をしてくれればいいのだ」と、無言のOKを出すのです。
 ヘレン・ケラーの自伝と、サリバンの手紙を読み比べると、随分面白い。ヘレンは、自分自身のことだから、手づかみで食べたことなど書いてないし、かんしゃくの発作という表現はあっても、サリバンと凄い格闘があったことなど、まったく書いていません。しかし、サリバンは明確に書いています。
 二人きりの生活の中で基本的信頼が芽生え、この場面で自律性が尊重されたことによってさらに信頼感は確実なものになっていきます。
 基本的信頼の階段をのぼり、自律性、自発性、勤勉性の階段をのぼり、どんどん学び、言語を獲得していくのです。サリバンとヘレンが一緒に階段をのぼっていったのだと思います。
 母と子の関係や、教師と生徒、カウンセラーとクライエントとの関係にしても、どちらかが一方的に相手を信頼するから基本的信頼感が育つのではありません。母親から子どもへの一方通行ではなくて、母親自身が子どもを信頼するという関係は重要です。いろいろ大変な事があっても、私はこの子どもを育てることができる、大丈夫なんだという自信。その信頼が、子どもに伝わり子どもは母親を信頼する。サリバンはヘレンに対しで「この子は力がある。きっと変わる」という、人間として成長していくという大きな信頼があったのだろうと思います。
 その信頼に対して「本当にあなたは私のことを信頼してくれているのか」という、すごい強烈な問いかけを、サリバンから教えられたのとは違うナプキンのかけ方で、無言で試したのだと言えます。それに対してサリバンは「あなたはあなたのままでいいのだよ。それでいいのだ」と言う。このメッセージを受けて、食事が終わってから、ヘレンがサリバンのところへきて手をつなぐのです。OKを言ってもらってありがとうなのか、私を認めてくれてうれしかったのか、手をつなぐのです。そこから本当の意味での相互の基本的信頼が深まったのでしょう。

深いやすらぎと、集中の中で
 それからは、二人でいつも手をつないで、山道を歩き回り、ものに触り、いろんな事を一緒にする。お互いにゆったりとした、安心できる人間関係の中で、リラックスした中で、その「ウォーター」が起こるわけですね。ヘレンは自伝でこう書いています。
 「私たちは、スイカズラの香に誘われて、それに覆われた井戸の小屋に歩いて行きました。誰かが水を汲んでいて、先生は私の手を井戸の口に持っていきました。冷たい水の流れが手にかかると、先生はもう一方の手に、初めはゆっくり、次にははやく、『水』という字を書かれました。私は、じっと立ったまま先生の指の動きに全神経を集中しました。すると突然私は、何か忘れていたことをぼんやり意識したような、思考が戻って来たような、戦標を感じました。言語の神秘が啓示されたのです。そのとき、『W-A-T-E-R』というのは、私の手に流れてくる冷たい、すばらしい冷たい何かであることを知ったのです。その生きたことばが魂を目覚めさせ、光とのぞみと喜びを与え、自由にしてくれました」
 この場面をサリバンはこう書いています。
 「井戸小屋に行って、私が水を汲み上げている間、ヘレンには水の出口の下にコップを持たせておきました。冷たい水がほとばしって、湯飲みを満たした時、ヘレンの自由な手の方に『ウォーター』と綴りました。その単語が、たまたま彼女の手に勢いよくかかる冷たい水の感覚にとてもぴったりしたことが、彼女をびっくりさせたようでした。彼女はコップを落とし、くぎづけされた人のように立ちすくみました。そして、「ある新しい明るい表情が浮かびました。彼女は何度も何度も、『ウォーター』と綴りました」
 芝居や映画では、格闘し、つかみ合いながらのあの感動的な『ウォーター』が実際にはなかったことがはっきりと、ヘレンの自伝からも、サリバンの手紙からでも分かるのです。
 私は人間と人間を結びつけるのは、ことばだと思っていました。そして、どもるためにことばがうまく話せない私は、人間と人間との関係が作れない、保てないと思っていました。ところが、ヘレンとサリバンの初めのころの関係の中では、全くことばがなかったわけです。人と人とが向き合う関係の中で、教える、教わるという役割を越えた関係の中で、響き合ったのではないかと思うのです。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/06/04

響き合うことば

 2003年2月15日、不登校、引きこもりの子どもの保護者、学校関係者、適応指導教室の担当者、相談機関など、様々な場で子どもの支援に当たっている人を対象にした研修会が石川県教育センターで開かれました。その時の僕の講演記録を、石川県教育センターの相談課が冊子としてまとめてくださいました。「スタタリング・ナウ」2005.6.18 NO.130 で、講演記録の三分の一ほどを掲載しています。タイトルは、「響き合うことば」でした。部分的な紹介なので、タイトルと合致しないように思われるかもしれませんが、この後、自己表現へと話は続いたようです。機会があれば、続きを紹介したいと思います。

《講演録》 響きあうことば
             伊藤伸二・日本吃音臨床研究会会長
 
今、ここでのことば
 こんにちは。私は人前で話を随分してきていますので、本来ならだんだん上手になっていくものでしょうが、私の場合は、最近だんだんと話せなくなってきています。以前ですと、起承転結をつけて、順を追って話さなければならないと思い込んでいたせいか、話したことが、そのまま文章になってしまうぐらい、まとまった話ができた時代がありました。それが最近できないんです。しなくなったというのが正確かもしれません。そして、以前は大勢の前で話すときはほとんどどもらなかったのが、最近はよくどもるようになりました。自分では、まあいいことだなあと思っています。
 読んでいる方もおられるでしょうが、『ことばが劈(ひら)かれるとき』という本を書かれた〈からだとことばのレッスン〉の竹内敏晴さんの演出で主役の舞台に立ったときから、私は変わってきたように思います。『ほらんばか』という芝居で、東北の山村に新しい農業を導入しようとして、周りの妨害で、発狂し、恋人を狂気の中で殺してしまう主人公の青年を演じました。稽古の始まる前の私を、竹内さんはこう表現しておられます。
 「伊藤さんは、台本を広げて、熱のこもった声で朗々とせりふを読み上げた。ほとんどどもらない。まっすぐにことばが進む。しかし、聞いていた私はだんだん気持ちが落ち込んできて、ほとんど絶望的になった。つきあって数年。かなりレッスンをして、ことばに対する考えは共通しているつもりでいたが、からだには何も滲みていなかったことだろうか。説得セツメイ的口調の明確さによる、言い急ぎを、一音一拍の呼気による表現のための声に変えていくことができるか」(『新・吃音者宣言』(芳賀書店)304ページ)
 こうして、竹内さんに徹底的にしごかれました。その時の稽古と本舞台を通して、何かパカッと自分が弾けたような気がしました。明確に、説得力のある情報を伝えることを習慣としてきた私のことばが、表現としてのことばに脱皮したとも言えると思います。
 準備してきたことよりも、今ここでの気持ちや、皆さんの反応を受けながら、生まれてくることばを大事にするようになると、これまでのようなまとまった話ができなくなったのです。これは、今回の話のテーマにもなるのだろうと思いますが。
 先だって、サードステージという有名な劇団の劇作家で演出家の鴻上尚史(こうかみしょうじ)さんに、私たちのワークショップに来ていただいて、大変興味深い体験をしました。
 竹内敏晴さんや鴻上尚史さんから学んだことや、私自身が自分の人生の中で考えてきたことを、今浮かんで来るままに、表現についてお話したいと思います。だから、ちょっと取り留めもなく、あっちこっちに脱線しながらの話になるかもしれませんが、よろしくお願いします。

吃音に悩んだ日々
 まず、私がどういう人間かが背景にないと、話がなかなか伝わりにくいかなと思いますので、ちょっと自分のことを話します。
 私はどもりながらも明るくて元気な子どもだったのですが、小学校2年の学芸会で、セリフのある役を外されてから、吃音に強い劣等感をもち、悩み始めました。それまでなかった、からかいやいじめが始まり、友達も一人減り二人減り、気がついたら友達が一人もいなくなってしまいました。
 アイデンティティーの概念で知られる、心理学者のエリクソンは、学童期を学ぶ時期だとして、劣等感に勝る勤勉性があれば、何事かに一所懸命いそしめば、学童期の課題を達成し、有能感をもって、次の思春期の自己同一性の形成へと向かうと言いました。勉強もがんばるけれど、友達と一緒に何か一所懸命やる喜びや楽しさを感じる時期ですが、私は劣等感の固まりで、楽しかった記憶が全くありません。その頃、授業中に当てられて、ひどくどもっている時も辛かったのですが、それ以上に、他の人たちが楽しく遊んでいるときにいつもポツンといる休み時間や遠足や運動会が大嫌いで、辛かった。これは、人間関係がつくれないことがいかに辛かったかということでしょう。
 自己紹介で自分の名前が言えない不安と恐怖は大きなものでした。小学校5年生の時から、中学校の自己紹介で、どもってどもって、惨めな姿をさらけだしているを想像して、嫌な気分になっていました。中学生になりたくないと思っていました。
 中学生になって、私は両親、兄弟とも関係が悪くなり、家庭には居場所がなくなりました。学校生活はいつも針のムシロで、早く卒業したいと思っていました。当時、暴走族もシンナーもなかったのが、幸いでした。今なら完全に非行少年になっているだろうと思います。親から預かった記念切手を売っては、中学生が保護者同伴でしか映画館に行けない時代に、映画館に入り浸りました。当時の洋画、ジェームス・ディーン、ゲイリー・クーパー、バート・ランカスターなど、ほとんどの映画を見ています。補導されたり、警察に捕まったりしながらも、映画館だけが唯一の居場所で、映画だけが私の唯一の救いでした。
 一番辛かったのは高校時代です。当時は不登校ということばはなかったですが、これ以上学校を休むと卒業できないところまで、私は学校を休みました。国語の朗読の順番が私の目の前で終わると、次は確実に私から始まります。それが、分かっている日は、校門から中に入れない。ひとり映画をみたり、ぶらぶらしていました。
 21歳まで本当に孤独に生きました。人とふれ合いたいと強く願いながら、いつもひとりぼっちでした。友達と会っても、「おはよう」が言えず、「おっおっ・・」となっているうちに通り過ぎてしまう。自分の名前も言えないために、新しい場面や話す場面から逃げる。そのとき一番思ったのが、人間が分かり合えるのは、ことばが全てだということです。だからあの当時、「足がなくても、目が見えなくても、病気になって病院に入院しても、確かに辛い状況かもしれないけれども、しゃべれたら、あいさつもできるし、会話ができる。体が不自由でもいいから自由に話せることばがほしい」と、本気で思っていました。人と人とが結びつくために、自由に話せることばが欲しいと、祈りにも似たことばへの欲求がありました。

どもりは治らなかったが
 21歳の時に、どもりを治したくて、吃音の治療機関に行きました。朝から晩まで発声練習や呼吸練習に明け暮れ、上野の西郷さんの銅像の前や、山手線の電車の中で、昼下がりに、「皆さん。大きな声を張り上げまして失礼ですが、しばらく私の吃音克服のためにご協力下さい」と、演説の練習をしました。今から思うと、よくあんなことをやれたなあと思います。それだけ治したいと必死の思いだったのです。4カ月一所懸命やったけれども、どもりは治らなかった。これから自分はどうしたらいいのか。どもったままで生きるしかないと思ったときに,どもりは恥ずかしいとか隠そうとか思っていたら、私は一生しゃべらない人間になってしまう。人間関係を結べない人間になってしまう。それじゃ損だって思った。ようやく、どもっている自分を認め、向き合うようになりました。
 21歳までの私は、「どもりは悪いもの、劣ったもの」と考え、どもる自分を否定して、どもりが治ってから話そう、人間関係を作ろうと思っていました。自分が大嫌いでした。その頃は、どもるから話せないと思っていたけれど、そうではなくて、自分自身が話さなかったのだ。これは、今から思うと、大変な気づきだと思うのです。何々のせいでできなかったのではなくて、どもるのが嫌さに、自分の選択で話さなかっただけの話です。
 孤独の話、辛かった時代の話をすると、そんなにしんどかったのに、生きてこれたのはなぜかと、あるワークショップで質問を受けました。今まで考えたことがなかったので、「子どもの頃母親に愛されたからかな」と言った後で、ちょっと違うなあと、話が終わってから訂正しました。笑い話みたいですが、当時、入浴剤にムトウハップというのがあって、万病が治ると書いてあった。これを飲んだらどもりが治るかもしれないと、すごい量飲んで、救急車で運ばれたことがあります。今から思えば、死にたかったのかもしれません。
 「どもりのまま死んでどうする。どもりが治らないと死ねない」だったと、あの頃を振り返ると思います。学童期・思春期にしたいことを何一つしないで、人生の喜びも楽しみも感動も経験しないで21歳まで生きてきた人間が、このまま死んでたまるかと思ったんだと思うんです。
 21歳の夏からの私の人生は、苦しいこともあったのですが、どもる人の国際大会を世界で初めて開いたり、何冊も本を出版したり、すばらしい人とたくさん出会えたり、自分のしたいことをしてきた人生だったと思います。来年は60歳になりますが、いい人生だったなあと思うし、だからあのとき死ななくてよかったなあと思うのです。
 21歳までの私と今の私とは全く別人のような感じがします。あのひねくれた、無気力で消極的だった少年がよくここまで生きてきたなというのが実感なのです。中学校のときの同窓会が、一昨年あったんですが、皆にびっくりされました。伊藤は変わったなあって言われました。
 『人間は変わるものだ、変わる存在だ』と私は信じています。
 私は、成長するっていうことばは、あまり好きじゃないので、〈変わる〉と言います。人間が変わるのは、医療の世界で言われる、自然治癒力と同じようなものだと考えています。自分自身に備わっている変わる力が、誰かと出会い、ある出来事と出会い、それが響きあって、自ずと自分の中から力が湧いて、力が出て変わっていく。人間には、そういうものが備わっているのだと思います。

あなたはあなたのままでいい
 私が〈変わる〉出発地点に立てた話をします。
 『新・吃音者宣言』という本の中に、「初恋の人」という文章を書いています。私はそれまで人間が信じられなかった。親も教師も友達も信じられなかった。学童期、思春期と本当に孤独で生きて来た人間が、初めて他者を信頼できて、「ああ、人間って温かいなあ、信頼ができるな」と思ったのは、初恋の人との出会いでした。とってもすてきな女性で、その彼女と出会ったことが、私の一生を変えたと言ってもいい。だから私は彼女に今でも感謝しているんです。その彼女とは、偶然のきっかけで、36年ぶりに島根県の松江市で再会することができました。そのとき、「伊藤さんは、21歳のときにすごくどもりながら、一所懸命しゃべっている姿を見て、私もすごく力を得た」と言われました。私はすごくどもっていた時代を忘れていますが、彼女とは、36年間全く会っていないですから、私の21歳の頃を鮮明に覚えていたわけです。気持ちの持ち方、考え方も、もちろん変わったけれども、私のどもりの症状そのものも変わったと言えるようです。
 彼女とは吃音の矯正所で出会いました。9時から授業が始まるので、話ができるのはその前です。夏ですから、朝早く起きて、二人で学校の前の鶴巻公園で、毎朝、朝ご飯も食べないで授業が始まる前までしゃべってました。そこで初めて、今まで誰にも話せなかった、こんな嫌なことがあった、こんな嫌な先生やクラスの人がいた、家でも母親からこんなことを言われた、そのとき私はどんな気持ちだったかをいっぱい話をしました。彼女は、一所懸命聴いてくれました。人に話を聴いてもらうことが、こんなにありがたい、うれしい、ほっとすることか。どもる自分が大嫌いだったのが、どもっていることを含めて彼女は私を好きになってくれた。愛されていると実感できたときに、人間不信という硬い氷のような固まりが、すっと彼女の手のひらの中で溶けていくような実感がありました。人間は信じられると思えたのですね。
 吃音矯正所は全国にあって、どもる人がたくさん出会っているのに、どもる人の会は全く作られていない。私が初めて、セルフヘルプグループを作ることができたのは、彼女とのありがたい出会いと、それまでがあまりにも孤独で、人とふれ合いたいとの思いが、人一倍強かったからだと思います。
 彼女との出会いの中で得た、なんとも言えない安らぎ、ありがたさ、喜び、安心感。また、ひとりで吃音に悩んでいたと思っていたのが、同じように悩んできた、たくさんのどもる人との出会いは、とてもありがたいことでした。この喜びを知ってしまった私は、吃音矯正所を離れるとまた、21歳までの気の遠くなるような孤独な世界に戻ってしまう。これまでは、孤独でも生きてきたけれど、そうじゃない世界を知ってしまった以上はもうその世界に戻るのは嫌だと思ったわけですね。私の苦しみを分かってくれる同じような体験をした人達といっしょに手を繋ぎたい。それで、セルフヘルプグループを作ったのです。その原動力となったのは、その初恋の人との出会いでした。

基本的信頼感
 私は、エリクソンのライフサイクル論が好きなのですが、エリクソンが言うには、人間は心理的・社会的には、階段を上がるように発達していく。人生を8つの節目に分けて、その時期その時期に達成する課題があり、その課題をクリアしたときに次の段階にいくのだと言いました。最初の課題である基本的信頼感が、基本的不信感よりも勝ったときに、その時期の課題が達成される。私は親から愛され、基本的信頼感から、自律性、自発性へと進みましたが、学童期につまずいたわけです。
 学童期の課題は、劣等感に勝る勤勉性です。私は、勉強も遊びも何かの役割もしないで、逃げ廻り、全く勤勉性が達成されずに、劣等感ばかりが大きくなりました。だから次の段階、思春期の自己同一性の形成にはいかなかったのです。自分が何者か、これからどう生きていくのかがつかめなかったのです。その私が、初恋の人と出会って、自分を取り戻してもう一度階段を上がり始めることができたのは、私には乳幼児期の基本的信頼感が、クリアーできていたからだと思うのです。
 母親との関係が悪くなったのは中学1年生のときからです。私がどもりを治すために、一所懸命発声練習をしていたときに、母親に「うるさい! そんなことしてもどもりは治るわけないでしょ」って言われた。母親に対して、「何で僕がどもりを治そうと思っているのに、母親がそんなこと言うんだ」と泣きわめいていました。それから、母親に対する反発が生まれて、家出を何度も繰り返しました。母親への反発は、父親へ、兄弟への反発になっていった。その母親に対する強い不信感が後で取り戻せたのは、子どもの頃、母親から愛されたという実感があったからです。辛かった学童期を生きられたのも、人間不信に陥った私が、もう一度人間を信じるきっかけを作ってくれたのも、初恋の人との出会いを生かすことができたのも、母親への基本的信頼感だと思います。
 初恋の人と、10日間の出会いの最初の5日間、私は、ことばでいっぱい自分のことを話しました。そして、彼女が聞いてくれた。ところが、6日目あたりからはあまり話さなくなった。話さなくても通じ合える。話すことに疲れたり、話し尽くしたわけではないけれども、お互いが分かり合える世界になったのでしょう。公園で手をつないで、彼女の温かさを肌で感じながら、ベンチに座っているだけで十分だった。ことばだけの世界でなくても人間は、響き合い、通じ合える。これまで僕は、ことばだと思っていたけれども、黙っていても、お互いが愛し愛され、信頼できれば十分伝わるし、長い時間も過ごすことができるのだということが、この時に彼女との経験で分かりました。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/06/03

竹内敏晴・大阪からだとことばのレッスン 公開レッスン 2004年3月

 昨日の日曜日は、絶好のお花見日和でした。マンションの敷地の桜も、1週間前には堅いつぼみだったのに、一気に満開に近い状態になっています。今日の雨が花散らしになってしまわないか、少し心配です。もう少し、あの淡いピンクの花を楽しみたいです。
 現実の社会は、世界の情勢も日本の政治も、嫌なニュースばかりですが、自然は変わりなく移ろい、そのありがたさを感じています。

 公開レッスンを終えた竹内敏晴さんのエッセイ「春 うごく」を紹介しました。そのときの公開レッスンに参加出演した2人のどもる人の感想をします。吃音のために、積極的にコミュニケーションをとってきたとはいえない2人の、舞台を経験した後のみずみずしい気持ちが綴られています。

  
観客の空気を感じながら
                                  藤谷征一
 朝9時から舞台を作って、ライトの下で実際に練習してみると、暗い客席の部分が少し不気味で、普段の練習とは全然感じが違いました。客席に観客が入っても同じ事ができるんだろうか、と不安になりました。普段より動きがぎこちなくなって、今まで言われた事が出来ているんだろうか、本番で出せるんだろうか、と思いました。
 6月から定例レッスンに参加させてもらって半年経ちましたが、だんだんと「声が出てきたね」と言われる様になって、自分でもそれを感じる事ができて来ました。
 中二の時に友達に吃音をからかわれて以来、吃音を隠そうとして会話を避ける様になって、できるだけ話さない様にしました。
 一年前から毎週、大阪吃音教室に通い出して、最近やっと吃音がある自分を受け入れる事ができてきて、前より自分からだいぶ話しかける様になってきました。
 苦手な会議での学生の発表でも、発表中にどもって声が出なくなって「まずい!」と思ったときに、竹内さんに教わった感触が湧いてきてなんとか言い切った場面がありました。
 定例レッスンで気付かされる事は多く、例えば感情的になった方が相手によく伝わる、と思っていたのですが、そうではない事を呼びかけで体験して気づくことができました。
 吃音を少しでも軽くしたいと思うばかりだったのですが、それよりも人間関係や表現や発声をする上で大切な事があったんだ、と気付かされました。
 四郎は普段の自分とは違って、引っ張っていく役だったので、自分には違和感がありましたが、でもこうなれればいいなあという役で、やってみてよかったです。
 さて、会場いっぱいに観客の方々が入って、うれしい半面緊張が高まりました。自分の番が近づいて来て、どもって芝居の流れを止めないか不安になりましたが、笑う所は思い切り笑おう、考えずに思い切りやろう、と自分に言い聞かせました。
 いよいよ自分の番で、頭が真っ白になりながらとにかくセリフを言っていきました。竹内さんに言われた、お腹いっぱい・・のセリフは堂々とあごを引いて、不思議なものに対する訝しいさも出す、と、セリフを言ったあと身を引かない、が頭に浮かびました。
 吃音の不安は常に頭をよぎっていましたが、吃音のことは全然感じさせず楽しんでいたと言ってもらい、うれしかったです。自分の番の終わりごろに疲れて声が出にくくなりましたが、なんとか言い切れてほっとしました。観客の空気がよかったそうで、後から考えると自分も観客の空気のおかげで声が出せていた感じがしました。
 狐の生徒で観客の方々も参加されて、よりおもしろくなったし一体感を感じました。参加された方みんな練習より本番の方がよりよくて、いきいきして見えました。終わってから、今でも時々芝居中の四郎の感触がよみがえってきます。充実した時間に参加させてもらって、よかったです。

  引き出してもらった声
                               新見哲也
 声が自分でもびっくりするほど出たので、とても気持ちよかったです。とにかく勢いよくいこうと思っていたのですが、いざとなると足がすくみ、浮き足だっような感じだったのが、(ずいとはいって)で、舞台にあがってから何かふっきれたような感じがしました。後は上田さんに後押しされるような感じで、自然にからだが動いていったように思います。また、「うるさいわい。さあ来い」と言って中野さんのうでをつかんでひっぱる時に、その場でぐっとふんばってもらえたので、私もその分ぐっと力が入り、舞台から力強く押し出すことができたので、声も力強く出たように思います。ふり返ってみると、自分で声を出したというよりか、何か声を引き出してもらえたような感じがして不思議でした。今回、みなさんからよかったと言われ、また自分なりにも精一杯だし切れたので、とてもうれしくて楽しかったです。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/04/08

春うごく

 竹内敏晴さんがお亡くなりになるまで、僕は、大阪での竹内さんの定例レッスンの事務局を10年以上していました。定例レッスンは、大阪の他に東京、名古屋でもありましたが、大阪は、日本吃音臨床研究会が事務局をしていたので参加者にどもる人が多かったこと、年に4度季刊紙として「たけうち通信」というニュースレターを発行していたこと、毎年3月に、舞台を観に来た観客も一緒になって舞台をつくる公開レッスンをしていたことが特徴でした。その公開レッスンについて、竹内さんが書かれた文章を紹介します。「スタタリング・ナウ」2004.5.18 NO.117 に掲載しているものです。

        
春うごく
        竹内敏晴 演出家


  キックキックトントンキックキックトントン
  堅雪かんこ しみ雪しんこ
 呼びかけに応えて客席からばらばらと立ち上がって来た人々が舞台いっぱいにあふれて、出演者といっしょになって踊っている。客席の人たちが笑いながら手を打ってはやし出した。
  キックキックトントンキックキックトントン

 三月の第二土日、大阪のオープンレツスンが始まると、ああ春が立ち上がってきたなあ、と思うようになった。
 應典院というお寺さんの円型のホール一杯に、すわりこんだり椅子に腰掛けたりしているお客さんに、わたしが「こんにちは」と言って、まず歌ってみませんか、と呼びかけると、とたんにわらわらと立ち上がる。「そうら出て来た」という感じさ、とだれかが言っていたが、のどをあけて息を入れてー、止めて、吐いてーから始まって、どうも背中が固まってるみたいだ、二人組みになって、一人が四つんばいになってみて下さい、背中はぶら下がっている? もち上がっていないかな? と始める。背中をゆすってもらって、ぶらんと胸やおなかがぶら下がったら、さて、そこで、膝を床から離して、サル歩きをしてみよう、前足に、いや手に―どっと笑いが起こる―体重をかけて歩いてみて。相手をみつけたらアイサツしてみるとか。とたんにわらわらとみんな動き始めたのには、わたしの方が驚いた。テレたりとまどったりする人がたくさんいるだろうと思いこんでいたので。わ、なんというあったかさ。苦笑いしながら相手の背によじのぼる人もある。大あくびしているサルもいる。それから立ち上がっていって、ヒトに、直立二足歩行のいきものになってと、さて、歌だ。
 「どこかで春が生まれてる」。百田宗治詩、草川信曲。この中に五つ「どこかで」が出てくる。どこかで「春が」「水が」「ひばりが」「芽が」そして最後にもう一ぺん「春が」。この五つはみんな違う。ひとつひとつ、ことばで眩いて、声をひろげて、見回しながら、聞き耳を立てながら、そしてメロディとひとつにして、ことばを歌ってゆく。車椅子のお年寄りたちも介添えのスタッフとうなずきながらからだをゆらしている。お、いい声になってきたなあ、と思いながら歌い納めたが、たまたま後で録音を聞いてびっくりした。なんと澄んだのびやかな声だったろう。

 これから第二部、毎月レッスンに来ている人たちによる朗読劇に入ります、と言ってから、ふつうこういう場合の配役というと、持ち味とかしゃべり方が巧みだとかいうことを基準にして、適材適所という選び方をしますが、ここでは全く違います、言うなれば、不適材不適所、と続けたら客席がどっと沸いた。
 いささか慌てて、つまり、今この人はこんなことにチャレンジしてみたらなにかひとつ突破できるかも知れないな、とか、この人はとても感受性がいいのだけれど、自分の思いに閉じこもってしまう傾きがあるから、今回は他の人や客席の反応にまで向かいあってみる語り手をやってみたらどうか、とか、いうことです、と述べた。そういういわばこちら側の都合による試みというか冒険に立ちあっていただくのは恐縮なのですが、お客さんの前に立った時、もうノッピキならなくなる、後に退く、逃げ出す、ということができない場に立って、エイと自分を前に押し出すことが、ひとつ自分を超えてゆくことになるので、どうか、笑ってそれをはげまし、支え、時に叱って下さることをお願いいたします―
 そして「雪渡り」が始まった。四郎とかん子の兄妹がとびはねながら出て来る。お、やった!実を言うと妹役の山本さんは、先月のレッスンではまことに楽しく充実してやっていたのに上演が近づくにつれ気持ちが不安定になり、当日朝は行方知れず、仕方なく代役の稽古まで終えたところへ、硬い顔して姿を見せた。ヤルカナ? ニゲルカナ? とはらはらして見ていたのだった。伸びやかないい声でぽーんと「かた雪かんこ…」。引っ張られるように兄役の藤谷さんが、詰めた息を吐き出すように「しみ雪しんこ」。いつも背を丸めて下ばかり見つめている顔が、まっすぐ顎を上げて、目は少しまぶしそうにパチパチするが精一杯に雪を踏み立てて来る。
 やれやれよかった。これでまず第一ハードル突破だ。

 藤谷さんはかなり強い吃音である。伊藤伸二さんの紹介ではじめてレッスンに来た時、ほとんど後ろにひっこんでいて、レッスンで前へ出る時はまっ赤になっていた。集まった人々は別にはげましたりはしない。だが見守っている。歌のレッスンが巡っていって、わたしとかれの一対一になると、試みの度にまわりで息を呑んだりほっとしたり息づかいが動く。それがかれをどれだけ支えたかは判らない。が、かれは粘り強く息を吐き、深め、姿勢を整え、相手に手をふれ、足踏みをし、退いてはまた進み、くり返し、からだ全体がいきいきと動く方向へと、探り続けてきた。
 さて、今、まっすぐに、ただまっすぐに、引きこもろうとする自分を見ながら、ひたすらまっすぐに前へ、からだの動きも声の発し方も。そのひたむきさが際立った純粋さを舞台に立ち現わさせた。時におじけづき、ひっかかりながらも、少年の一途な、不器用な、雪の中から狐の子を呼び出してしまう無垢さが、生きた。
 お客さんの中で「あの人のあんな大きな声はじめて聞いた」と言っているのを聞いた。

 大阪のレッスンは、日本吃音臨床研究会の主催だ。どもる人がなん人も参加して来た。
 と言っても、別に吃音を「なおす」ためのレッスンをするのではない。(どもりに限らず、わたしは一般に治療のためのレッスンはしない。ただ、人が自分のからだや声やの有様に気づき、おどろいてそれを見つめ、そこから出発し直してみることがここで起こる。その手助けをするというだけのことだ。)
 わたしは、声の産婆と言われたりするが、ただことばを発するとき、落ち着いて息を吐き、自分のことばを、ぽつぽつでもいい、ひっかかってもいい、語っていけるように、からだを、そして相手とのかかわり方を、整えられればいいな、と願うだけだ。
 念のためにつけ加えると、自分を意識的に強くコントロールしてどもらないようになることは、レッスンの過程で、結果としてはかなりな程度できるようになることもある。しかし、それは、自分のことばを語り、自分を表現することではない。実のところ、自分になり切らない、時には鋭く他人のことばを語っている、という感じがつきまとうこともあるのだ。伊藤伸二さんもそうだが、それに気づき、今は平気でどもり、それをその人の語り口の個性として生き生きとしゃべっている人がなん人もいる。

 新見さんもどもる人の一人だ。はじめてかれに会ってからもう四年近くなろうか。かれは以来、ただの一度も休まなかった。なにがかれをそれほど呼んだのかはわからない。ひっかかったり、口ごもったりしてわたしにはよく聞き分けられなかった声が、じりじりと拡がり、他人と話し交わすのが見られるようになった。そうなってみると、かれの声には他に比べようのないリアリティがある。温かくて強く、重い。柔らかいがずんと人を打ち動かす力がある。しかしどういうわけか、歌う時になると少し困ったような顔をして口ごもるふうだ。わたしは、なんとか、一気にまっすぐに相手に向かって大声を吐き切る、いや叩きつける躍動を、からだ全体で吹っ切ってほしいと思い始めていた。
 前に立つわたしの肩をぐいと押しては一気に相手に向かって声をぶつける。くり返し、くり返し。当日午前の舞台稽古でも、「正面向いて! 大きく足を踏んで!」とわたしは怒鳴っていた。
 いよいよ登場。客席から歩いていった新見さんが一問答の後、一尺高の舞台へぐいと登って「おやじはおるか」と言った時、力強い声がびしっと会場全部を圧した。胸も背もまっすぐに伸び、もともと大柄のかれが、頭ひとつ抜き出て大きく立ちはだかっている感じがした。
 後でかれが言ったところによると、「ずいと土間に入って」とト書きがある、その瞬間に全力を集中していた、と言う。役の行動全体の核心をみごとに掴みとっていたのだ。
 ここまで書いたところで、かれの感想文を読んだ。終わりの方に「自分で声を出したというよりか、なにか声を引き出してもらえたような感じがして不思議でした」とある。自分の努力を超えてなにの力が働いたのだろう。
 「姿が変わる」一瞬に立ちあうこと。これこそレッスンにおける最上のよろこびだ。

 笑い声と拍手のうちに客席が明るくなり、舞台を下りてゆく出演者たちと、立ち上がって来るお客さんとが入れ混じり始めた時、だれかに呼ばれてふり返ったら車椅子に乗った白髪のお年寄りが花束を抱えて若い女性に押されて近づいて来られた。あっと思った。去年「鹿踊りのはじまり」で、客席一杯に手に持ってもらってすすきの原を幻出した。そのすすきの一本一本を作って下さった、当時中野さんの勤めていた福祉施設の、最高齢の人である。今年も、つきそいの若いスタッフと総勢十数人で来て下さった。「来年もまた」とにこにこして言われる。この方は九十歳近いはず、「わたしも頑張ります」と握手した。
 春が始まったなあ。
(「たけうち通信」2004年春号特集=公開レッスンより)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/04/07
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