伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

竹内レッスン

安らぎを送りあうこと

竹内レッスン 春風社 表紙 1999年2月の旗揚げ講演から2ヶ月後の4月から、竹内敏晴さんの「からだとことばのレッスン」の大阪定例レッスンが始まりました。大阪レッスンは、僕たち日本吃音臨床研究会が事務局になりました。定例レッスンは、大阪の他に東京と名古屋で行われていましたが、大阪の特徴として、どもる人の参加が多いことと、「たけうち通信」という名前の通信を季刊で発行していました。「たけうち通信」は、竹内さんの書き下ろしのエッセイ、レッスンの概要、レッスン参加者の感想、竹内さん関連のイベントの告知など、竹内さんに関するいろいろな情報が満載でした。『竹内レッスン―ライブ・アット大阪』(春風社)は、この「たけうち通信」掲載の竹内さんのエッセイを中心に構成されています。
 今日は、その「たけうち通信」の記念すべき第1号に掲載の、竹内さんのエッセイ「安らぎを送りあうこと」を紹介します。

安らぎを送りあうこと
                          竹内敏晴


ことばの歓び

 この春から、大阪で毎月レッスンをすることになりました。ということにすらすらと運んだのは、ここ十年近くになるけれど、どもりの人たちと年数回ずつレッスンしてきた、その熱意と楽しさの発展形ということになるからだろうと思う。特に昨年の秋に大勢集まった、『どもる人のための公開レッスンと上演』の、ひたむきさのほてりは今でもわたしに脈打っていて、レッスンのために近鉄電車に乗って三輪山の麓や室生の里あたりを巡って大阪へ近づいてゆくと、いつかからだがあったかくなって来る。
 ひっかからずに声が溢れ出て来るためには、まず舌や顎の力が抜けて息を深く吐けること。そのためにはからだ全体がいきいきとはずむこと。またそのためには、まず、からだの方々の、胸だの股関節だののこわばりに気づいて、これが弛んでいくこと、そのためには、と、レッスンはどんどん、言わば元へ元へ、からだの根源へと遡って行くのだが、さてその一つの段階がふっと越えられたとたんに、からだ全体がふわっとゆるんで、声がぽーんと跳び出して来る。それに立ち会い手をかす時の楽しさと言ったらない。
 どもりとかいわゆる言語障害の人に限ったことではない。先日ある町の、女性たち、と言うより母親たちの集まりに呼ばれた時に提案されたテーマは「言いたいことが言えない」だった。―もちろん親も子もふくめてのこととしてだが―話の途中で、まず声を聞かせてください、と童謡を歌ってもらったら、口をほとんど開けない人たちが一杯だったのに驚かされた。まず奥歯に小指をはさんでみて、口腔の内をひろげて、舌を前へ出して、さて一杯に息を吐いてみよう、とオハナシというよりレッスンが始まってしまったのだったが、この、歯を噛み締めている身構えがそもそも、からだの奥から流れ出て来る息を、ひいては「自分のことば」を、「噛み殺している」のではあるまいか?つまり、歯の間をあけて「息を吐くこと」は、自分を閉じている「身構え」をほどいてゆくことに違いないので、ここから出発しなくては「言いたいことを言う」ことには辿りつけまい。知的な理解や心理操作の範囲を越えた、からだの実践の問題がそこにはあるだろう。
 アメリカのフレデリック・ワイズマン監督がフランスの国立劇場を撮った、「コメディ・フランセーズ―演じられた愛」という映画がある。四時間に及ぶ大作だが実に面白かった。芝居の稽古の初めの段階から上演の有様までがちりばめられているのは演出者のわたしにとって力の入るシーンだったに違いないが、座員の選出から座員で構成される委員会の経営討議の模様、特に電機部門機械部門からかつらや小道具の人たちまで二十いくつという組合との交渉と協力、国家予算からの補助額の交渉に至るまで、フランスという、市民社会の先達における、いわば、俳優という市民たちの自立した団体運営のちからとでも呼ぶべきものを浮かび上らせて見せてくれたのが快い驚きだった。
 そのフィルムの一シーンに、初老の幹部女優が若い俳優とせりふを稽古する風景があった。一言二言言い直させてからかの女はこう言うのだ―ことばの一こと一こと、音の一つ一つを言いながら―「口の中で歓びを味わうのよ、歓びを!」これは世界最高水準の、音声言語表現の現場のことだ。しかしやっと一語を、ひっかからずに発することができるという段階でもやはり同じことが目指され、そして味わいうるはずだろう。どもりだけでなく、多くの人々にとって今、語ること、ことばで表現することは、苦しみとなりつつある。豊かに、一語一語を、一音一音を、口の中に歓びをひろげて語れるようになれたら素晴らしい、わたしも、あなたも。あらためて、レッスンに出発しよう。

野戦病院からエステティックまで
  あるいは、「からだほぐし」について


 毎月のレッスンに現れる人たちの、初めの声を聞いた時、そして特に、床に仰向けになって相手の人にからだをゆらしてもらい始めるのを見ている時、近頃のわたしはため息が出てしまうことがある。
 ―まるで野戦病院だなあ、こりゃひとりひとりが手負いの戦士に、いや時にはけものに見えて来る。目をつむって横になっているかれの手先をぶら下げてゆらゆらとゆすろうとすると、ごつんとひっかかる。肩甲骨の外側にかたまりができてるみたいだ。抱えおこしてふれてみようとすると背中がごわっごわっと硬い。かれはコンピューターの設計部門で働いている。
 ある女の人は胸を抱くようにそっと入ってきて部屋の隅に静かに横になっている。右を下にしたまま目をつむって身動きもしない。腰も痛む、胸が詰まって息ができない、足の裏まで痛い、と言う。なんでそんなになってまで働いているのと言えば、仕方ないでしょ、と喘ぐように呟く。かの女は養護学校の教員だ。
 かつてレッスンを始めた頃やってきた人たちは、昼間の労働で得たなん枚かのお札を握りしめて、日常生活ではあらわしようのなかった感情を爆発させ、未知の自分に出会い、表現を手探りするためにからだをぶつける時間へと没入していった。
 今来る人々にも同じ願いが秘められていることをわたしは感じ取らずにはいられないのだが、とりあえず、まずは、疲れ切ったからだが休みたい、楽になりたい、のびのびと息をしたい、と坤いている、と感じる。
 人にふれられるだけでイタイ!とわめくからだにてのひらをあて、息を合わせ、いつか仰向けになったからだを、ゆっくりゆらしながら波を送る。
 かつてはこのレッスンは「脱力」と名付けられ、後には「からだほぐし」と呼ばれた。演技者にとって舞台でコチンコチンになってしまうことは致命的だから、これは不可欠の訓練だったが、わたしはこれをただ「ゆらし」と呼び、ちょっとためらいながら「安らぎを送りあうこと」とも言う。
 勿論この変化の間には十数年の過程があるので、かいつまんで述べておくと
 ―「脱力」と呼ぶと、あ、力を抜かなきゃ、と意気ごんでしまう人が多くて、これではますます力が入ってしまう結果になる。「力を抜く」ことが、達成されるべき至上価値に祭り上げられたりもする。力を、意識して抜くことはできない。ただ重さを大地に、ひいては相手の手にゆだね切ることができた時が、結果として「脱力」になっているということに過ぎない。
 それにもっと弱ったことは、たとえ基礎訓練の場でいくらうまく脱力ができて舞台に立ったとたんカチカチになってしまうのは一こうに改まることがない。そこでわたしは、いつ自分に力が入って来るか、その瞬間に気づくこと、に重点を置くことにした。かなりの人は、自分のからだが固まっていることに気づいていない。それが自分の「自然」だと思い込んでいるので、緊張したまま固定してしまった自分のからだを見ると、あっけにとられる。だが、この自己知覚が研ぎ澄まされて来ると、人前に立ってぐっと肘が脇腹にくっ着き始めたとたん、ふっと気付く。そこで息を吐くと共に肩を落としていくことができる。
 社会人や学生へもレッスンが広まるにつれて、「からだほぐし」という呼び名もひろがっていったようだが、この名づけもわたしには初めからしっくりしなかった。「ほぐす」という行為は、もともとはもつれた糸を解いてゆくことだろうが、一般的には固まったものを振ったり叩いたり力まかせにばらばらにしてゆくイメージがある。しめって固まった小麦粉やセメントを崩して粉々にするイメージで、結局のところ乾いた小さい固体の集合体になる感じだ。実は名づけの問題ではなく、ゆすり方がそうなってしまうのだ。
 もっとからだの内に流れているものがめざめて来る感じを言い現したい、と思ってるところへ、若い学生たちが「ゆらし」と呼び始めた。これがいい、からだの内にゆらゆらと波を送るのだ、と。わたしは「ゆらし」に時間をかける。もはやただ肉体の緊張をほぐせばいい、のではない。からだの内にひろがる波に身をまかせてゆられているうちに眠ってしまう人もあるが、突然ふっと全身がゆるんで、息が深ぶかと流れ入って来て、あくびが続けざまに起こり、涙が止まらなくなり、からだが溶けてしまったようになることも多い。からだの知覚の変容が始まるのだ。ゆすられ終わって床に横たわっている時の感じをことばにしてみると、実に豊かで多彩で、浅いのも深いのもあるけれど、さし当たりわたしは「安らぎ」と呼ぶ。その感じは海のようにからだの内に、いや時には外へ地の果てまで、広がっている。とにかくこれが、他人の価値観に追いまわされることからの断絶であり、自分、というものの原点になりうる、と言っておいてもいいか。
 もっとも近頃やって来る若い人たちの中には、Tさんのホームページで、レッスンを受けてびっくりするほどキレイになった人のエピソードを見てやって来た、という人もある。わたしは十年以上前東京で研究所を開いていた当時、年度末の募集のキャッチフレーズに、「シバイをやってキレイになろう!」てのはどうだと言ってみんなを抱腹絶倒させたことを思い出した。イケルイケル、とか、ほんとだもんね、とわめくオチャッピイもたしかにいたのだが。
とにかく、新しく、未知の、からだへの問いかけと表現へのひろがりとへ、出発します。ゆっくりと、息を深く、歩いていきたいと思います。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/02/20

いのちが激しく動く〜竹内敏晴さんのレッスンをめぐって〜 2

 一昨日の続きです。この座談会の詳細は、『竹内レッスン』(春風社)に載っていす。お読み下さい。
 「ことばが詰まっているときというのは、その人のからだの中から声が生まれようとして、一番激しく動いている、一番激しく生きているときだ」、この竹内さんのことば、忘れられません。どもる人がどもりながら伝えるときは、いのちが激しく動いているときなのです。

伊藤 僕たちは「吃音とともに生きる」と、吃音を治そうとはしていなかったから、竹内さんに吃音を治してもらおう、少しでも軽くしてもらおうという発想は僕たちには全然ありませんでした。
 ただ、竹内さんに来ていただいたときは、少しずつことばに目覚め始めてきていたときでした。吃音の不安をもちながらおそるおそることばを出すというのは、相手に伝えたいというよりも、どもることばを相手に伝えたくない、つまりしゃべりたくないというのと同じです。そこを突破していくには、従来の吃音矯正ではとても間に合わないと思ったのです。
 どもらずに話そうとすると、しゃべらないことに行きつかざるを得ません。どもってもいいという前提があるからこそ、ことばが出ていくんです。どもってもいいけれど、力のあることばを出したい、ことばを豊かにしたい。相手に向かっていこうとするその結果として、ことばが出やすくなったということは、いっぱいあります。

竹内 言いにくいのは苦しいものね。とにかく少しでも言いやすくなったほうがいいですよね。ただ、言いやすい、というのはペラペラしゃべるということではありません。自分の中の気持ちがまっすぐことばになっていく、その筋道をつけるということですよね。
 レッスンに今年のはじめから来るようになった人がいます。その人と呼びかけのレッスンをやってみたら、いきなり相手に「来て下さい」と怒鳴るんです。それでは、相手の頭を声でひっぱたくようなもので、それは呼びかけることではない。その人の頭の中には、一所懸命声を届けなければいけないという思いがあるのでしょう。だから、ともかく急いで届けようとする。しかし、そうやっても声は届きません。ことばとは人と人との関係なのであって、声を届けようと一人でがんばった瞬間、相手との間のつながりは切れてしまうんです。その人、ずいぶん考え込んでしまいました。「なにかフッと内側から出たらしゃべれ」と言ったら困っちゃって、でもちっちゃな声で「来て」と言いました。その途端に相手の人がぱっと振り返った。呼びかけるということは、人が人に働きかけることであって、声を屈けることとは全然違います。そこを誤解して、必死にことばをぶつけようとするのは相手を叩き出すことであって、呼ぶことではありません。次に会ったときの彼、しゃべり方が変わっていました。

伊藤 僕たちが継続して竹内さんに大阪に来てもらった一番の理由は、よろこびです。

東野 僕らは、メルロ=ポンティの言う「情報伝達としてのことば」を使って、滑らかに流暢に話をしようと、そればかり追いかけてきました。でもうまくいかない。ところが竹内レッスンで、歌を歌ったり芝居をしたりする中で、もう一つ「表現としてのことば」があることを知りました。ことばをしゃべるってこんなに楽しいことなのか、声を出すってこんなに心地いいのか、表現ってこういうことだったのかと実感できました。
 それともう一つ、一音一拍で、息を出し話していく。だから当然、話はゆっくりになる。それは自然なこと、いいことなのだということが分かりました。民間吃音矯正所では、「母音を伸ばしながらゆっくり話をしたら、どもらない」とずっと教わってきました。でもそんな話し方するのはどもる人だけで、僕らは特別なことをやらされているという意識がありました。ところが、どもりの有無とは関係なしに、そういうふうに話をすれば、声も出るし、表現としても豊かになる。竹内レッスンに参加していなければ、こんなにゆっくり一音一拍で話す話し方に自信が持てなかったと思います。

竹内 昔の浅草のおじいさんやおばあさんたちは、もっとゆっくりだもんね。「はー、そうか、そういうふうにしゃべれば、フン、フン、なるほど」と、こう聞いて、またこちらが何か言うと「はあ、はあ、ねえ、そうするとよろこびがある。うん、よろこび、うーん、それで?」という具合に返す。江戸っ子はたんかを切ってシャキシャキしゃべるイメージがあります。たとえば職人はそうですよ。だけど、生活の場では相手の言うことを一つ一つくり返してしゃべっていくんです。

東野 職場は情報伝達のことばがいっぱいだから、みんなテンポが早い。ポンポンポンポンしゃべるのがいいとされています。

川崎 僕は以前、相手の顔からちょっと目をそらして、口も横に向けて、口をほとんど動かさずにしゃべっていました。なにかを伝えることよりも、自分がどもりだということを知られないのが一番大事でした。

赤松 とにかく、悩んでいたころは、スラスラ言うことばかりに気がいってしまっていました。結局、自分の思いを伝えることに向かっていないようなことがありました。「おはようございます」と言うときでも、「お」が出なかったらどうしようと心配ばかりしているから、平べったい「おはようございます」になってしまうんです。

川崎 そういうしゃべり方を小学校から、社会人になってもしていました。大阪吃音教室で勉強して、どもってもいいと言われたって、しゃべれません。息が100%あるうちの2割か3割だけ使ってしゃべっていました。それが、竹内レッスンで息の出し方を教わって、息が深くなっていきました。それでやっと深い話し方ができるようになったんです。

伊藤 どもる人がずっと持ち続けている迷信があります。息を吸うのが肝心という思い込みです。ところが竹内さんは、「吐くことが大事」と言われます。その迷信を打ち破っただけでも、革命ですよ。

竹内 原則として、そのことは言っていたけれどもね。でも、実際に息を吸うとどうなるかということは、どもる人とレッスンしなかったら分からなかった。見ていると、しゃべる前にまず息を吸って、それでとたんに詰まっているものね。

伊藤 「わーたーしーは」というのでも、昔、僕らが吃音矯正所で習ったのは、一音一音はっきりと言う。「わ」でもう吸っているわけですよ(笑)。「た」「し」「は」って、音はゆっくりになるけれど、そのつど吸うからすごくしんどいんです。それと、息を吐いてから入れて「わたしは」と言うのとでは、同じゆっくりでも全然意味が違います。これが分かったのはありがたいことでした。

東野 声を出すよろこびの中にもう一つあって、それは、たとえば「息を出せ」ということを竹内さんが誰かにやっている、それを周りで見ていますよね。だんだん声が出てくるでしょう。あれが他人事とは全然思えなくて、うれしいんです。

伊藤 他の人のレッスンを見ていると、うれしいし、よく分かるよね。「ああいうふうにすれば声が出るのか」「確かに、ここにこう力が入ってるな」と手にとるように分かります。
 表現するよろこびというのもありますね。舞台でシナリオを読んで、ことばで表現するなんて、僕たちにはできないものと思い込んでいました。特に僕自身が表現のよろこびに目覚めたのは、唱歌、童謡です。「咲いた、咲いた」と、本当に今咲いているということを歌詞に流していく。歌ではどもらないんです。どもらない歌でこれだけ表現できる。自分のこれまで持っていた表現ではないものに目覚めました。

新見 僕も、声を出すよろこびを味わえたのが一番です。今までは、力を入れないと声は出ないと思っていました。抜けた瞬間に声が出るという感覚が、何となく分かりました。

伊藤 それと継続の力だと思いますね。いろいろなことを聞いても、それがからだに染みてこなければならない。レッスンに通って3年4年と経つうちに、ようやく新見さんのからだに染みてきたんじゃないでしょうか。

竹内 レッスンにどんな意味があるのかということをよく言われるけれど、同じことでも、人が背負っている状況や歴史によって、焦点の当て方が変わってきます。たとえば、私がことばがゆっくりだといっても、ことばがしゃべれなかった人間独特の、特異なものがあるわけではありません。一番基本的なことが実現してゆくのにいろんな姿があるだけです。よくしゃべれる人たちは、しゃべれることが当たり前であって、そこから上に行こう、行こうとしています。かといって、よくしゃべれる人たちが、そこから先だけやれば、ちゃんと表現できるのかというとそうじゃない、根の部分に戻らないとだめです。呼びかけるからだの流れとか、日本語としては一音一拍による声そのものの力とか。根のところは吃音の人だろうと誰だろうと同じだと思っています。

溝口 どもっていることばとか、どもってことばが出てこない時間とかは、私にとって本当に見たくも触れたくもない、嫌な部分でした。ところが竹内さんは、そうではない。それも含めて自分のことばなんだということに気づかせて下さいました。竹内さんが、「ボ、ボ、ボクはあなたが好きだ!」って言ってくれたんです。

伊藤 そう。喫茶店ですごいおっきな声で。

竹内 念のために言いますが、恋の告白ではないですよ(笑)。

溝口 からだが震えるようなものが伝わってきました。「これがわたしのことばだ」っていう感じがいっぱいわーっと押し寄せてきた気がしたんです。

竹内 いや、そのことばをどこかで言った記憶はあるけれど、喫茶店でどなったとは(笑)。

溝口 私にとって、あそこがスタートだったように思います。小手先で治そうとか、できるだけ滑らかにしゃべろうとかいうのではなくて、もっと深いところで、そのままでいいというのを大事にしながら、それでも相手に伝わることば、自分が楽になる話し方を求めていきたいという気持ちが芽生えました。

竹内 いまはどもらなくなった吃音の人が以前レッスンに通って来ていて、二年目に芝居をやったんです。相手役の女の人と「裸足の青春」という劇のテクストを持って読みあわせをするんだけど、片一方はかなり重度の吃音で、ことばが出てこない。相手の女性は立って待っているんだけれど、いつまでたっても相手が言わないから、イライラしてくる。すると、彼がウーと言って、「こここ、こうだって」ってようやく何か言う。相手は待ち構えているから、間髪入れずに返事をする。すると、途端に向こうが次言わなきゃとあせって、また「とととと」ってどもる。それが三遍か四遍くり返したときに、私はその女の人に「だめだ」と言ったんです。ことばが詰まっているときというのは、その人のからだの中から声が生まれようとして、一番激しく動いている、一番激しく生きているときだ。その時間をあなたはゼロにして、なんにも感じないようにしておいて、ようやくことばが出てきたらまたすかさず返事をしている。それは相手のことばを何も聞いていないということだ、と言いました。彼女はしばらく黙っていたが、分かりましたと言いました。それから答え方の気づかいがまるで変わりました。すると、今度は彼のほうも変わってきます。「ここで今言わなきゃ、今言わなきゃ」というあせりがなくなってくるから。どもっているときというのは、本当に大事な、いのちが一番激しく動いているときなんです。(了)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/09/26

いのちが激しく動く〜竹内敏晴さんのレッスンをめぐって〜

 竹内敏晴さんの「からだとことばのレッスン」は、東京と名古屋、大阪で定期的に開催されていました。それぞれ運営は独立していましたが、大阪のレッスンは、僕たち日本吃音臨床研究会が主催していました。竹内さんがお亡くなりになるまで、毎月第2土日、應典院でレッスンは続きました。大阪のレッスンには、僕たちが事務局をしていたこともあって、どもる人の参加が多くありました。その人たちが集まって、竹内レッスンをめぐって話し合った、2006年4月の座談会を紹介します。(「スタタリング・ナウ」2007.5.21 NO.153 より)

  
いのちが激しく動く
 
伊藤 竹内さんの、『ことばが壁かれるとき』を読み、レッスンを受けたいとずっと思っていました。
 自分たちのことばにしっかり向き合って、変えることができるものならば変えたいと、竹内さんに来ていただいて20人ぐらいでレッスンを受けたのがすごく面白かった。民間吃音矯正所の発声練習や呼吸練習と全然違う、正反対に近いことを聞いたりして、目が開かれる思いがしたんです。それで、年に一、二度、大阪に来てもらうようになりました。
 どもる人たちも基本的に声を出したいが、声を出す喜びや楽しさをあまり経験していない。力いっぱい声を出すことが、からだとしてどんな感覚なのか知らなかった人たちにとって、心弾む体験でした。6年後、みんなから「芝居をやりたい」という声があがりました。レッスンのテキストとして使っていた「夕鶴」をぜひ舞台でやりたいと挑戦し、その北海道公演が大好評だった。大勢の前でやることの面白さを味わいました。練習と違って、本舞台のときはみんなうまかったです。

竹内 練習ではハラハラドキドキ、本舞台でも全然声が出ない。それが、あるところでバーッと声が出始めた。しゃべるのも、あのころは全然声が出なくて、えらい苦労しました。本舞台で、息が止まってしゃべれなくなって、シーンとしている中、ポツリと言う。そのたびにお客さんハーハー、向こうもみんな吃音の人だからね。

伊藤 あの経験が大きかったと思います。そして、大阪スタタリングプロジェクトの30周年を記念して、1998年に大阪市立総合医療センターのさくらホールで「夕鶴」や「木竜うるし」「トムソーヤー」他を上演しました。170人ほどの観客で、あれだけ来てくれると思わなかった。大成功でした。
 それからしばらくして、定期的な大阪の毎月レッスンが始まりました。どもる人たちに、もっと竹内さんに出会ってほしい、声のことをやってほしいという思いがあったんです。一つの方針としては、東京と名古屋でやっているレッスンとは違うものをという思いでした。東京は、表現にどんどん進んでいたけれど、大阪では、ことばの基本のことをずっとやる、くり返しでもいいから、ことばのことを丁寧にやるレッスンがほしい、それなら僕たち日本吃音臨床研究会が主催してやる意味があると思ったんです。2月の旗揚げのための講演会は大勢集まり、4月の第1回レッスンは50人集まりました。

竹内 話は飛ぶけど、去年、「十二人の怒れる男」をやろうという話が伊藤さんから出た。「そんなでっかい芝居をやるのは大変だよ、できないよ」と言ったんだけれど、この人は、恐れを知らない人で(笑)、やりたければやろう、なんだよな。大阪弁だの広島弁だのそれぞれの生まれ故郷のことばでアレンジして19人、そのうち吃音の人が半分以上出演したけれどみごとな舞台でした。

東野 竹内さんが初めて来て下さったとき、とても新鮮でした。普段は、大きな声を出すとか、からだを動かして歌を歌うとかの経験がありません。大きな声を出したのは、吃音矯正の発声練習の時だけで、効果がないからしなくなっていました。
 ところが竹内レッスンでは、治すとか治さないとかではなく、からだを動かすこと、声を出すことそのものがとても心地よかった。そして、自分では気づかなかった、意識してこなかったからだの緊張や堅さ、習慣になっている身構えを指摘してもらいました。これもとても新鮮でした。
 僕は、当時電話で悩んでいて、何とかしたいと竹内さんに質問したら、「話すときにちっともわたしの目を見ていない。それがあなたの問題ではないか」とおっしゃった。自分に意識が向いていて、相手に向かっていないのではないかとの指摘でした。確かに僕は相手の目を見て話していない。ちゃんと言えているか、どもらずに言えているかに意識が向いていて、相手に何かを伝えたいという姿勢が希薄だったことに気づいたんです。
 それで、電話は相手が見えないけれど、受話器の向こうに相手がいると思って、とにかく何か伝えてみようと意識しました。それから電話をかけることがずいぶん楽になったんです。
 また、吃音矯正所ではまず、息を下腹部にたっぷり吸わないとだめだと言われましたが、竹内さんからは、反対に吸ってはいけない、息は吐くものだ、息を吐かないとことばは出ないと言われました。吐いて吐いたら、勝手に入ってくる。これは、僕がいつも吃音教室でどもる人たちに伝えていることです。

赤松 私は会社に入って20年。電話をかけたり受けたりは、どうにかクリアしてきたけれど、人にかかってきた電話をとって取り次ぐときに声が出ない。「誰々さん、電話です」が言えない。その話をしたら、「指を指して、誰々と言ってみたらどうか」とアドバイスを受けました。随伴運動になったかもしれないけれど、だんだん大きく指を指さなくても、小さく軽く指を出すだけで済むようになりました。以前とは格段に変わり、そのうち、指さしをしなくてもよくなったんです。自分の名前が出にくかったけど、一音一音をはっきり言うよう練習することで一語一語、しゃべり方がはっきりしてきました。気がせくと、早くなるが、気をつけて一語一語きっちり出すようにすると、完全に黙ってしまうことはなくなりました。でも、これはどもりが軽くなったというわけではないです。
 小学校のときから、芝居には一切縁がありませんでした。「夕鶴」では、緊張感はすごかったけれど、「できた!終わった!」という解放感とうれしさを感じました。芝居の中ではどもらない。不安がないから、どもりそうだという気も起こらない。一語一語をきちんと出してしゃべると、大丈夫なんだという気はしている。それを普段の生活の中で全て生かせるわけには、なかなかいかないんですけど。

竹内 「誰々さーん」と指さして呼ぶというのは、つまり、ことばとは声を出すことじゃなくて、働きかけること、アクションだということです。「夕鶴」で与ひょうをやった伊藤照良さんが、眠っているのに子どもたちがワイワイやっているので、「えーい、うるさいのう」と言うんだけど、何回も「う、う、う……」となり、出てこない。あのとき、しゃべろうとしないで殴りとばすつもりでバンと腕をふりまわして怒鳴れと言った。そうしたら「うるさいのう」といっぺんに声が出た。からだ全体が動いたときにポーンと声が出るのです。

川崎 僕は、今年の公開レッスンの「十二人の怒れる男」の芝居の中でどもる不安がありました。特に、最後のシーンの「生かしてやろうよ」というセリフ。僕は母音がものすごい苦手なんです。でも、竹内さんに、「息でしゃべれ」と言われ、不安がなくなりました。息せききって、とまでは言わないけれど、ハァハァ言いながら言って、「生かしてやろうよ」というせりふを言いました。
 竹内さんに初めて出会ったのが、10年前の吃音ショートコース。それまでいろいろなワークショップには参加していたから、人のからだに触れることは慣れていたし、目を見て話すのもできていました。声もそこそこ出ていたつもりでした。ところが、僕が、後ろで目立たないように腕を組んでいたら竹内さんに「ちょっと出て来なさい」と言われ、ものすごく嫌だったんだけど(笑)。竹内さんは、「その手は何ですか。自分で自分を縛っている」とおっしゃった。
 結局、意識は自分に向いていたということです。声は大きく出しているが、意識が相手に向かわずに、自分がどもるかどもらないか、そればっかり考えていたんです。
 銀山寺でのレッスンで、竹内さんは、自分の肩を押させて働きかけながら声を出させるということを何度もしていました。あのとき、声の大きさじゃなくて、声がどこに向かっているかが大事だ、ということがわかりました。僕は障害を持った子ども相手の仕事を13年間していますが、以前は「聞いてくださーい」と大声で全体に呼びかけていました。それが無理して声を張り上げなくてもスッとみんなこっちを向いてくれるようになったんです。

伊藤 川崎さんと初めて会ったとき、初対面なのにベラベラベラベラ、ちっともどもらないで流暢に話す。どもらない人かと思いました。

竹内 大阪吃音教室に呼ばれた最初のレッスンでみんながしゃべるのを聞いて呆然としたんです。はじめは確かにつっかかるけれど、あとはベラベラ、いっぱいしゃべる。ことばがうまくしゃべれなくて、やっとことばをつむいでやってきた私などから見たら、こんなによくしゃべれる連中が、なにをオレにレッスンしてもらう必要があるのかと(笑)。「あなたがたは自分がどもる、うまくしゃべれないから何とかしたいと思っている。うまくしゃべれる人たちを標準にして、上ばっかり見ている。でも世の中にはもっとしゃべれない人もいる。そういう人たちを置き捨てて、よくしゃべれる人たちの仲間に入ろうとしてばかりいる。でも、もっとしゃべれない人がいるという見え方の中で考えてほしい」と言いました。

伊藤 そのことばは、僕もすごく印象に残っています。

竹内 そうですか。私は吃音を何とかしようとは全く考えていません。ただ、自分のことば、自分の表現を見つけてほしいと思うだけです。そういう意味でいうと、川崎さんも、うまくしゃべれているけれど、自分のことばはしゃべっていなかった。そういうことを言うのは、きつすぎるかなという思いがありました。スラスラしゃべれている。ちっとも真実なことばに聞こえないけれども、その人にしてみたら一所懸命しゃべっている。それを、「ほんまにそれがあなたのことばか」という言い方はできなかった。芝居をやるようになってから、だいぶずけずけ言うようになりましたけれどね。

新見 最初に竹内レッスンに出たとき、大勢の前で歌うとか、踊るとかが、すごく嫌でした。大阪のレッスンに参加するようになってからも、ずっと半信半疑で、吃音と何の関係があるのかと思っていました。ところが参加するうちに、だんだん自分のからだや声、人との接し方がわかってきた。今までは人と接することが嫌だったけれど、レッスンに参加して、人と接したり、人に対して動いたりする中で、心に動くものがあってはじめて声が出るということが分かりました。

竹内 初めて来てぴんとくるものがあったから通うようになった、というのなら話は分かりやすいんだけれども、そうじゃなくて、何だかよく分からないのに通う。あなたは一度も休んでいないですね。なぜですかね。今ふっと思い出すのは、新見さんが増田さんとはじめて出会いのレッスンをやったときのこと。あのとき二人の間で何かがスーッとつながった感じがしました。
 それから、「ああ、これだけ声が出た」ということが起こった。そのとき、たまたま出た声にすごいリアリティがあった。決定的でした。細々とした声がやっと出たというようなものじゃない、ボソッと出た声にびっくりするような力があった。それを何とか、もうちょっと引っ張りだしたいと思ってきました。それがこの間の舞台でのセリフ。「ようそんな口きいたな。今度そんなことぬかしたら、ただじゃ済まねえ!」このおとなしい新見さんが、「ただじゃ済まねえ!」。バーンと来て、びっくりした。もっとも、その前にいくつかのステップがあって、彼はそれを一つ一つ、確実に踏んできている。

伊藤 新見さん、レッスンに参加するようになって、日常生活で変わってきたことありますか。

新見 声が出ないときには、どうあがいても無理という諦めがつきました。もがけばもがくほど、声は出ないし、それはもうそれでいいと。

竹内 こういうふうに彼がしゃべっていることに一番びっくりします。前は、「うん」とか「わからん」とか「そうです」とかしか言わなかったからね。
 からだに声が出てくる状態が作られると、ことばは自分の中から出るようになるのかな…。こうしたらこうなる、みたいなプログラムがあってレッスンしているわけではないので、起こってきたことに私もびっくりします。

新見 あのとき、何か心突き動かされるものがありました。だから、ものすごい腹が立ったんです。それで一挙に声が出ました。

伊藤 これまでの生活の中で、突き動かされたりものすごく腹が立ったり悔しかったり悲しかったりってなかったのですか。

新見 あっても表現できなかったんです。押し殺していた、というか…少し自分で鈍感になっていたところはあります。どう感じ、どう受け止め、どう表現したらいいか分からなかったという感じです。

長尾 中学生の時にさくらホールでの芝居を経験し、「十二人の怒れる男」にも出演しました。自分の声に対して意識を持ち始めたのが高校生の頃。合唱部の先生から発声や合唱の技術を教えられ、興味を持ち、それをふだんしゃべる声にも応用できないかと考えました。
 自分がどんな発声をしているのか、どんな声なのか、を確かめてみたいと思いました。レッスンを実際に受けてみて、自分がこうしたいと思っているのと違うことをしていたらしいということが分かりました。
 高校の合唱クラブで腹式呼吸をずいぶん指導されたが、原理も何も教えてくれなくて、ただ単にこんなイメージでやれと…。できないときには先生が矯正してくれたんですが、どんな理屈で成り立っているのかが分からない。
 はじめに声を出すレッスンをやったとき、全然声が出ませんでした。なぜだろうといろいろ考えてみました。普通にしているときは腹式呼吸ができているのに、いざ声を出すときになるとできない。
 腹式呼吸と声を出すことが連結していないんです。腹式呼吸はするけれども、歌を歌う段になったら何もしていない(笑)。
 高校までは吃音をある程度コントロールしていた記憶があります。それなりに詰まらずにしゃべれていました。ところが、しゃべりに応用したいと思って腹式呼吸を習ったのに、腹式呼吸をやればやるほどコントロールできなくなったんです。

伊藤 お腹からいい声が出始めた途端に、吃音のコントロールが崩れたわけでしょう。吃音矯正では腹式呼吸がとても強調される。「腹式呼吸で息をたっぷり入れ、出すときに、息にことばを乗せろ」と。私もそれを試みたが、日常的には身につかなかった。ところが竹内レッスンでは息を吐くことだけが強調される。そうすると、全く意識しないでも腹式呼吸が自然とできるようになるんです。

竹内 意識しなくてもね。息というのはもともと肺の中に70%ぐらいまで入っているんだと思うんですよ。なのに腹式呼吸法では、残り30%を入れてから吐き出そうとするから、いっぱいにしたところで力が入っちゃう。でも、もともと肺の中に空気がある程度あるわけだから、これをギューッと絞って出す。出切っちゃったところで力をパッとゆるめればバーッと入ってきます。100%入る。出さないで、余りのところに一所懸命入れようとしても無理なんです。私は腹式呼吸ということばは使いません。横隔膜呼吸と言います。腹式呼吸というと、腹筋を使う呼吸になりがちです。
 今までレッスンを受けてよかったとか、こういう苦労もあったという話をしてくれたけれども、現在吃音を何とかしたいからレッスン受けているわけじゃないでしょう。結果として楽になったことがあっても、そこを強調すると、そのためにレッスンをやっているという話になりかねない。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/09/24
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