伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

水町俊郎

『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』(ナカニシヤ出版)をめぐって《感想》

治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方 表紙 『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』(ナカニシヤ出版)を読んだ人の感想を紹介します。少し長くなりますが、感想を「スタタリング・ナウ」で紹介した全員の分を紹介します。大阪吃音教室の仲間がどのように自分の吃音と向き合ってきたのか、吃音をどう捉えて受け止めてきたのかがよく分かります。

 
「治したくない」と「治りたくない」は違う
                         掛田力哉(養護学校教諭)

 大阪吃音教室に通い始めて1年半になります。
 まだまだ短い期間ではありますが、その短期間の間にも私が見聞きした覚えのあるエピソードや教室での議論の様子が、本書には沢山紹介されています。教室には色々な思いをもって参加している人がいます。正に「例会」の名の通り、週に一度の吃音仲間との語らい、息抜きの場程度に思っている方もいますし、真剣に自身を見つめ、生き方を考える場として考えている方もいます。切実に悩みを抱えている人もいます。人それぞれ思いは違いますが、その様な色々な人が集まり、吃音というテーマについて時には真剣に、時にはバカ話に花を咲かせながら自由に発言しあえるという教室の雰囲気が私は気に入っています。しかし、そんな教室での何気ない会話や議論の中に、吃音を考え、研究する上で重要な要素が多く含まれていることを、本書は改めて教えてくれます。
 愛媛大学の水町先生が、大阪吃音教室での、ある女性をめぐっての参加者たちのアドバイスを例にして「吃音の受容」について述べています。それは、「吃音の受容」というとどもる事が全く気にならなくなる状態と誤解されがちであるが、実はそうではなく、日々吃音に困ったり、「どもりたくないな」という思いを持ちながらも、それに押しつぶされる事なく、自己の責任や役割を果たすべく真摯な努力を続けること、それを通して自身のどもりに対する悩みや困難の比重を結果的に少しずつでも軽くしていく事ではないか、という指摘です。水町先生自身は吃音者ではなく、もちろん最初からその様な見解を持っていたわけではありません。しかし、大阪吃音教室に参加する多くのどもる人たち、どもる人と関わる人たち、また初めてどもる人を見た人たちなど、様々な人たちを対象にした長年の分析、研究、また関わりのなかで、その様な見解に至ったということには、私たちの活動を考える上でも非常に深い意味があるように思われます。治ることない吃音を「治したい」ともがき続けるのではなく、「どもりたくないな」という恥ずかしさを持ちながらも、より良い人生を歩みたい。深く悩む人にはなかなかすぐには理解しがたい事かもしれませんし、悩んでいない人には改めて考えるほどの事ではないかもしれませんが、吃音研究に人生をかけた研究者にそう思わせた何かが、正にこの大阪吃音教室に参加する皆さん一人ひとりの生き方や考え方全てに潜んでいる事だけは間違いなさそうです。全国の書店でこの本を手に取るどもる人たちに思いをはせながら、是非皆さんも本書を通してあらためて、「どもること」について、どもる人が集まって続けているこの活動について、考えてみませんか? 

 ゼロの地点に立ち、そして
                             徳田和史(会社員)

 私が、この本を読むに際し、頭の片隅にあったのは、昨年の大阪スタタリングプロジェクトの忘年会における伊藤伸二さんの、「ようやくこの3月に、『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』が出版されることになった。出版が遅れたのは、どうしても自分自身が納得いかないところがあり、何回も練り直していたからです。私として10冊目の節目ある本となり、吃音問題に関して私の集大成となるもので本望です」とのスピーチだった。
 伊藤さんには大変失礼であるが、私は、どのあたりが何回も練り直した部分なのかを見つけることに興味があった。読み進むうち、このあたりではと想うところがあった。それは、第6章の"マイナスからゼロの地点に立つ"から"未来志向のアプローチ"そして"どもる力"までの展開ではなかろうかと。この展開のなかでは、論理療法はもとより、吃音評価法、交流分析、自己概念等の考え方が取り入れられており、改めて、日頃大阪吃音教室で行われているこれらの講座が意義あるものだと実感した。
 この本を読み終えて私として感じたことは、佐々木和子さんが言っているように、悩める吃音者にとって"居場所"の確保が大切ではないかということ。佐々木さんにとっては、そこが大阪教育大学言語障害児教育課程であったし、私にとっては大阪吃音教室であった。子どもたちにとっては吃音親子サマーキャンプではないかと思う。
 一人悩み、落ち込み、どうしていいか分からない吃音者にとっては、自分の存在を認めてくれる"居場所"があってこそ、そこで情報を得、自ら体験することによって、自己意識・自己概念が芽生え、マイナスからゼロの地点に立つことができ、そして、そこから未来志向のアプローチに向かうこともでき、なおかつどもる力を得ることができるのではないだろうか。

僕が他人に一番解ってほしかったこと
                            堤野瑛一(パートタイマー)

 素晴らしい本でした。この本は、多くの吃音に悩む方たちは勿論のこと、その周りの方たちや、それに、吃音と何の関わりのない方たちにも、出来るだけ多くの人の目に触れて欲しい…、読みながら、そんな気持ちでいっぱいになりました。
 何故なら、この本には吃音のすべてが書いてあるからです。どもりに対しての理解の希薄さや、誤った情報や認識が飛び交う世間に対し、吃音の実態や真実をすべて明かしてくれる。それに、吃音で悩む当事者たちに対して、この先豊かな人生を送るためのヒントを、たくさん教えてくれる。これはそういう本です。
 特に僕は、第2章「吃る人は具体的にどんなことで困り、悩んでいるのか」が感慨深かったです。これは、僕がどもりに独りで悩み、どうしようもなかった頃に、一番他人に解って欲しかった事なのです。この理解が得られず、また伝える事が出来ず、僕は多くの誤解を受けながら独りで苦しみました。自分のどもりを知っている身内ですら、この"どもりの苦悩の本質"は理解してもらえていませんでした。吃音者の多くは、吃音でない人が想像もしないような、特有の事情や悩みをもっていると言えます。著者の水町俊郎さんは、非吃音者にも関わらず、そういった吃音の問題点を的確に鋭く提示され、その研究や調査の結果を著されています。また伊藤さんも、吃音当事者の観点から、それぞれの問題を曖昧にされることなく、ひとつひとつ深く丁寧に掘り下げられています。
 そして何よりもこの本は、問題提示や理解だけに留まらず、行き着くところは"吃音をもちながらも豊かな人生を…"に終結していることが、最も重要なのです。
 このような素晴らしい本が出版されるのもまた、"どもる力"なのです。

吃音を持つフレッシュマンへの応援歌
                            西田逸夫(団体職員)

 第7章のまとめとしてある、「フレッシュマンへの応援歌」というのは、元々伊藤伸二さんが書いた文章の表題であり、この本の一節のタイトルでもあります。私はこの本を通読して、このことがこの本の重要なメッセージの一つだと感じました。
 伊藤さんの前著、『どもりとむき合う一問一答』が、どもりを持つ子どもたちとその親達への応援歌なら、この本は、これから社会人になろうとする吃音者とその親達、すでに社会に出て吃音のことで困っている成人吃音者への応援歌なのだと思います。
 【吃音者の職業】特にお奨めなのは、この本の第7章、「吃音者の就労と職場生活」です。ここに、水町先生が吃音者の職業について調査された表が載っているのです。その表によると、調査対象の吃音者ll3名中、23名が、教師や営業職という、人と話すことが専門の仕事をしています。この他、自営業、サービス業の8名を合わせると、3割近い吃音者が、人と話す機会の多い仕事をしていることになります。水町先生のところに卒業後の相談に来た高校生に、この表を見せたところ、本人は大いに驚き、吃音のせいで就職に悲観的になる必要がないと気付いたそうです。吃音だと就職に不利なのでは? これは吃音を持つフレッシュマンが、よく持つ不安です。それに対する明快な答えが、上で紹介した表です。決して不利ではなく、多くの成人吃音者が、人と接する職業人として日常を過ごしているのです。
 【吃音者のコミュニケート能力】吃音者が人とコミュニケートする能力は、一般に思われているより、そして吃音者自身がそう思い込んでいるより、ずっと高いのではないでしょうか。と言うのも、大阪吃音教室に通う人達には、自分が吃音で困った状況を表現するのが巧みな人が多いのです。話題が吃音のことなので、他の参加者にも伝わりやすいとも言えます。でも、吃音教室以外の場で、非吃音者の人達が自分の抱えている問題を話すのを聞いていると、言葉は滑らかでも問題点をうまく表現出来ない人がどれだけ多いことでしょう。吃音者だからと言って、人とのコミュニケーションが下手とは限りません。吃音のままでも、立派に人とコミュニケートし、暮らしている人が大勢います。「吃音は治るもので、治さなければならないものだ」という情報がはびこっている日本で、この本は貴重な存在だし、多くの方に読んで頂きたいと思います。


どもりのマイナス面とプラス面
                           橋本貴子(主婦)

 この本を読んで印象に残ったのは第6章の「吃音はマイナス面のみか―吃音力の提唱」です。改めて吃音のマイナス面とプラス面を考えてみました。
 大阪教室に参加する前まで、どもりはマイナスとしか考えられませんでした。就職に不利、会社でやっていけるか、結婚はできるのか、注文や探しているものが言いにくい言葉のものなら店員さんに聞けないなど「百害あって一利なし」と思っていました。ですが、今の私の気持ちは、私が考えていたマイナス面はマイナスと思わなくなりました。
 しかし、どもりたくない場面でどもるかもしれないなあと思っている時や、スーパーなどで探しているものが見つからないときそれが言いにくい言葉のものだったときは、どもりでなかったらなあと思う時もありますが、私はそれをマイナスとは思いません。
 なぜそう思うのかと言うと、どもりであっても「私は私のままでいい」という自己肯定ができたのと、本に書いてある『どもっていても未来は開かれているという視点、前提がある』ということが実感できているからだと思います。
 また、第6章の第5節(1)の「吃音は意味づけ、受け止め方の問題」の中で『どもっていても、吃音を否定せず、話すことから逃げない生活ができれば、吃音は大きな問題とはならない。吃音の問題を大きくするのは、どもる人の吃音に対する受けとめ方であるといっていい』と書いてありますように吃音に対する受けとめ方が変わったからだと思います。
 どもりだからできないのではなく、どもりは関係なく結局は自分が「やる」か「やらない」かだと思います。どもりのせいにするのではなく自分の問題であると思うのです。
 プラス面は本に『吃音に取り組まなければ出会えなかった書物や出来事、すばらしい多くの人たちと出会えた』と書いてあります。年齢、性別、職業に関わらずたくさんの人と出会えるのはどもりでなかったらなかなか難しいことだと思います。
 また、ことば文学賞や感想文や新生の例会報告など文章を書く機会があります。どもりでなかったら日記くらいしか文章を書いていなかったように思います。それにどもりのことで文章を書くと過去を振り返ったり、しっかり自分の内面と向き合うことができるのも良い点だと思います。
 そして、片頭痛など他にも悩みを持つことがありますが、その時はどもりと同じでなぜ自分だけとか、大事な時に片頭痛になるんじゃないかという不安で片頭痛は治らないものかと治療法を探したりしていました。でもどもりと同じで治療法がありません。そういう時は「治らないのなら仕方ない、どもりながら生きるしかないか」とどもりを片頭痛に置き換えると、肩の力が抜けて楽になれます。どもりで悩んだからこそ、どもりは治らないものだからこそすぐに気持ちの切り替えができるのもどもりのプラス面だと思います。
 この本を読んで、まだ気づいていないだけでたくさんプラス面があるかもしれないなと思いました。新しいプラス面をこれからも見つけられる自分でありたいなと思います。

変わるもの、変わらないもの
                          松本進(ことばの教室教諭)

 この本の中で一番ひきつけられた第3章(佐々木和子さんの例)についての感想です。
 30年ほど前、佐々木さん(旧姓、渡辺さん)が大阪教育大学の学生だった頃、私も東京の大学を出て伊藤伸二さんのいる大阪教育大の言語障害児教育教員養成一年課程に入り直した。だから、佐々木さんの学生時代と、その後の長い空白期間を経て2、3年前の吃音ショートコースで会った最近の彼女の両方を知っているわけです。
 本文にもあるように久しぶりに会った彼女はずいぶんしっかりとし、どもりも驚くほど軽くなっていた。劇的な変化と言える。でも、学生の頃と変わらないものも感じた。どもりながらも大きな目で前をまっすぐ見て話す話し方、物事をまっすぐすなおに見つめる視線は、以前と同じだと思った。この本の中の文章も、何のてらいもなく自分の過去をまっすぐ見つめ、自己分析したことがらを正直に記しており、彼女ならではと思った。高校時代の彼女を指導したという島根県松江市のことばの教室の大石益男先生は次のようにコメントしたとある。「和子の性格の魅力は、内面ウジウジしているのに、表面あっさりしすぎるほどにスパスパと決断し、話していくところにあると思う。…」
 人の復元力(?)みたいなことを考えさせられた。佐々木さんは小学から大学のはじめまで、話す場面から徹底して逃げ続けたという。この本の編著者の伊藤さんも小学〜高校まで学校生活に背を向け逃げ続けたという話をよくする。しかし彼女も伊藤さんも、その後劇的に変わったと言っていい。
 果たして劇的に変わったのか、あるいは彼らのある部分は何も変わらなかったのか。なぜ変わったのか、については本人も周囲もいろいろに語ったり書いたりしているが、なぜ変わらなかったのかについては、よくわからない。彼らの学校以外の環墳が安定していて、どんなにつらいことがあっても癒してくれる帰るべき場所が確保されていたからか? あるいは、どもりで悩む前の幸せな幼児期に確固とした人としての核ができあがっていたのだろうか? 人には復元しようとする力が内在しているのか? そして、どこまで成長・変化できるものなのか? 彼らの経歴を知ると、将来のために今は逃げておく、という戦略もありなのかも、とも思ってしまう。
 この第三章でもうひとつ印象的なのは、社会人となった彼女をずっとそばで見てきたご主人の手記「カミさんの吃音」である。それは、彼女を冷静に客観的に観察しており、透明感のある、それでいて愛情の感じられる不思議な文章である。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/05/30

『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』(ナカニシヤ出版)をめぐって

 不思議なご縁を感じる岩手県盛岡市での講演会、研修会のことを書いた巻頭言を紹介しました。そのときの「スタタリング・ナウ」2005.5.21 NO.129 では、水町俊郎・愛媛大学教授との共著『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』の本をめぐって受けた、教育医事新聞のインタビューや、本を読んだ感想を掲載しています。今日はインタビュー、明日は感想と、2回に分けて紹介します。
治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方 表紙
『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』
            編著:水町俊郎(愛媛大学教授) 伊藤伸二(日本吃音臨床研究会)
            出版社:ナカニシヤ出版
            定価:2100円(本体2000円+税)

 愛媛大学・水町俊郎教授は当初、吃音の問題を、非流暢性を改善することとして捉え、吃音を行動療法で治療する研究グループに加わりました。しかし、その後、吃音研究を続ける中で、どもる人自身の吃音についての捉え方や生き方をも含んだより包括的な問題として捉えるべきと考え方が変わってきました。この変化は、どもる人との深いつきあいや、どもる人本人を対象にした研究を続けてきたことによって得られたものです。その研究を紹介しながら、吃音とのつき合い方を提案されています。
 伊藤伸二は、吃音に深く悩んだ当事者であり、吃音が治らなければ自分の人生はないと思い詰め、治ることを夢見て、実際に治療に明け暮れた経験があります。吃音が治らずに、どもる人のセルフヘルプグループを設立し、多くのどもる人と出会ってきました。その中で、自らの吃音を含めてほとんどの人の吃音が治らなかったこと、また吃音に影響される人とそうでない人、つまり「生き方」によって吃音の悩みや、吃音からの影響に大きな個人差があることなどに注目し、「吃音はどう治すかではなく、どう生きるかの問題だ」と提起してきました。
 
 これまで、吃音研究者とどもる当事者の共同の取り組みが必要だと言われながら、一冊の本を作り上げるというようなことはありませんでした。この本は、吃音研究者として、当事者として、吃音の取り組みをそれぞれ40年近く続けてきた、水町俊郎教授と伊藤伸二が何度も話し合い、内容や章立てなど全体の構想を考え、ひとつひとつの章に枠組みをつくり、その章を執筆するにふさわしい、吃音研究者・臨床家とどもる子どもの親にお願いしました。この本では、吃音研究者、吃音臨床家、吃音に悩んだ当事者、どもる子どもの親がそれぞれの立場から自らの体験や研究や実践を出し合っています。
 どもる人本人、どもる子どもの親、どもる子どもやどもる人を指導している教師や臨床家、言語聴覚士を目指している学生など、吃音にかかわる全ての人々に読んでもらいたいとつくられた吃音の教科書になっています。
 
教育医事新聞  編著者インタビュー   日本吃音臨床研究会 伊藤伸二会長

「吃音とのつきあい方」
「治す」ことから「つき合う」へ  注目される“吃音力”の提唱

 吃音で悩む人は決して少なくない。これに対してこれまではどもらないで流暢にしゃべれるようになることを目標に治療が行われたが、吃音は治すことにこだわらず、どうつき合うかだという独自な考え方のもと、その具体的な方法を展開するのが「治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方」(ナカニシヤ出版・2100円)だ。
 編著者の日本吃音臨床研究会会長・伊藤伸二氏は「この本の特徴は、吃音研究者・臨床家、当事者や親がそれぞれの立場から研究や実践、体験をまとめたこと。このように研究者・臨床家と吃音当事者ががっぷり組んできちんと話し合い、まとめ上げた本は世界にも例がないのではないか」と話す。
 伊藤氏は吃音との取り組みを40年近く続けてきた。その中で、治すことにこだわり続ける限り、吃音者の悩みは解決されないことに気づいた。その結果、吃音の問題を「治す」から「どもる事実を認める」へ、さらに吃音とうまくつき合いながらどう生きていくかという「生き方」の問題として大きく意識転換していく必要があると考えたという。
 内容は、吃音を生き方を含む包括的な問題と捉える意義、吃音者の具体的な悩み、吃音者の生活史から考える吃音とのつき合い方、どもる子どものための吃音親子サマーキャンプ、さらに吃音者の就労の問題やことばの教室での実践にもふれている。
 なかでも注目されるのは第6章で提唱されている"吃音力"だろう。
 「これは共著者である故水町俊郎先生の命名で、どもることは確かに不便だったり、不都合な面もあるけれど、吃音に悩むことで見えてくるものもある。吃音は決してマイナスばかりではないというものです。私自身、21歳まで吃音で悩んだ経験があり、このことは身をもってわかります」
 吃音は2〜3歳で始まるが、最近は、中学、高校、あるいは社会人になってから始まることも少なくない。ストレスの多い現代社会の影響も考えられるという。
 「本書がそういう人たちを励まし、勇気づけるものになることを願っています。また、ことばの教室の担当教師や言語聴覚士、特に言語聴覚士をめざす学生にはぜひ読んでほしいと思います」と伊藤氏は話している。
                     教育医事新聞 2005年4月25日 第248号


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/05/28

水町俊郎・愛媛大学教授との出会い・思い出

 水町俊郎さんの、第2回臨床家のための吃音講習会でのお話を紹介してきました。水町さんは、どもる人のセルフヘルプグループ、大阪スタタリングプロジェクトと深い関係にありました。当事者の体験から謙虚に学ぶ研究者として、僕たちの声を真摯に聞いてくださいました。また、成人吃音の調査研究の対象として丁寧なアンケートをするなど、活用してくださっていました。その、セルフヘルプグループのリーダーである、東野晃之さんの水町さんとの思い出を紹介します。

  
存在感を知る
                大阪スタタリングプロジェクト会長 東野晃之

 水町先生は、私たちの活動の良き理解者であり、吃音との上手なつきあいを目指す私たちに支援をいただいた数少ない吃音研究者の一人だった。
 腰が低く、物腰のやさしい印象は、変わることがなかった。大阪に来られた折には、私たちの大阪吃音教室で講義をしていただいた。最近は、常任講師をされていた「臨床家のための吃音講習会」で年に1度お会いするのが楽しみだった。
 講義では、いつもたくさんのレジメを配って几帳面に説明されていたのを思い出す。吃音研究者や専門家と普段あまり接点がない私たちにとって、アメリカなど吃音治療の先進国の研究やその動向についてのお話は、いつも興味深く、貴重な情報源となった。最新の吃音治療の現状を知るたびに、私たちの吃音とつきあう取り組みは、「これでいいのだ」と再確認し、進むべき方向の裏打ちを得られたような安心感を持った。
 最近はインターネットをはじめ、いろいろなメディアで吃音治療の情報が氾濫している。この時流にのって民間療法などの膨大な情報が流される。吃音に悩む者にとって何が正しいのか、選別し見分けることがむずかしい時代である。この氾濫する情報がもたらす影響は、一吃音者だけでなく、セルフヘルプグループをも巻き込み「吃音症状の改善」に揺れ動き、迷走するグループも見られるようだ。このような時代だからこそ、今、吃音の分野は、見識ある吃音研究者や専門家の適切な助言や発信を求めているように強く感じる。
 私たちは、幸いに揺れ動くことも、迷うこともなかった。今思えば、水町先生の存在があったからだろう。水町先生は、折りにふれて私たちの「吃音と上手につきあう吃音教室」の活動実践を支持して下さった。愛媛と大阪という間では、直接お会いし、お話しする機会はそれほど多くはなかったが、毎月お送りした大阪スタタリングプロジェクトの機関紙を丹念に読んでくださり、会の近況もよくご存知だった。グループ名を改称したときには、賛同と励ましのお手紙に背中を押していただいた。
 お会いすると、よく機関紙への感想やコメントをいただいた。どれも温かく、うれしい内容だった。ずいぶん以前に書いた文章の一節も覚えていてくださり、誉めていただいた。遠く離れていても、いつも身近で見守っていただいているように感じられた。私たちが揺れ動くことも迷うこともなく、自信を持って進むことができたのは、この日本でも有数な吃音研究者の支援があったからだろう。
 ふり返れば、私たちはたくさんのプラスのストロークを水町先生からもらったのである。
 私には、密かな願望があった。さらに深めるために教えていただき、語り合いたいと思っていた。それは受容についてだ。大阪吃音教室での講義でもご自身の不眠症の悩みを混じえて、受容について話をされた記憶があり、機会があればもっと「吃音の受容とは」「障害やハンディを受け入れるとは」などについて話してみたかった。きっと示唆に富んだお話が一杯聞けたように思う。
 水町先生が、私たちの「吃音と上手につきあう吃音教室」を支持していただいた理由には、かってな推察だが、この「受容」についてご自身が深い関心を持たれていたからではないか。吃音者が、吃音を持ったまま吃音を受容しどう生きるか、その具体的な試行錯誤を、私たちの体験談や発言から観察し、研究されていたように思う。
 「吃音症状を見るのでなく、どもる人間に焦点をあてる・・」、私の好きなことばだ。水町先生の講義で紹介された文章の一節である。研究者としての関心や興味だけではなく、一個人として吃音者をみつめるまなざしの温かさが感じられた。もっともっとたくさん教えていただくことや話したいことがあった。失くしてしまって改めてその存在感の大きさを実感した。
 私たちが、お世話になった水町先生にお返しできることは、私たちの活動実践を整理し、後に続く吃音者のために記録していくことだろう。
 自らを謙遜してのことだが、丸善学者と称されるほど多くの海外の吃音研究論文を読み、精査、考証し研究にあたられた。吃音研究や活動実践が、論文や文章に記録される意義を誰よりも感じ、願っておられたに違いない。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/05/01

私の聞き手の研究 3

 水町俊郎さんのお話のつづきです。
 どもる症状ではなく、どもる人やどもる子どもに焦点を当てた研究です。日本吃音臨床研究会や大阪吃音教室、日本放送出版協会発行の『人間とコミュニケーション』や第1回吃音問題研究国際大会など、僕たちの取り組みを紹介してくださっています。

  
私の聞き手の研究 3
                   水町俊郎(愛媛大学教授)


私の聞き手の研究

 それでは聞き手の研究の概要について話します。
 私は心理学的な観点からの研究をしていましたので、吃音者のパーソナリティについて関心がありました。吃音者のパーソナリティに関する今までの研究を、自分なりにずっと過去にさかのぼって文献を調べました。調べるとたくさんの研究がありました。吃音者に対していろんなパーソナリティテストや観察をした結果、吃音者に非吃音者とは違った独特なパーソナリティがあるという事実はないというのが結論なんです。
 吃音のパーソナリティに関する研究で、どもる人とどもらない人に差はないが、違った観点からの研究、つまり、周囲の人は一体どもる人をどういう人間だととらえているかという周囲の人のイメージの研究に関しては、おもしろい結果が出ました。吃音者は、周囲の人によっては違ったとらえ方をされていることが多かったんです。どもらない人より暗いとか、社会性に乏しいとか、神経過敏であると見られているとか、私はそれに非常に関心を持ちました。
 吃音者に直接調査したりテストしたりすると、非吃音者とは変わらない結果が出ているのにも関わらず、周囲の人は吃音者をなんか独特な存在として見ている側面がある。私はそれに非常に興味を持ち、日本でもやってみようと思ったんです。アメリカを中心にした、聞き手に関する研究は、シルバーマンという人が作成したと思うんですが、25項目の質問だけなんです。それぞれに関して、例えば、劣等感のある、真面目か、などを5段階にわけて、どもる人はどのあたりか、と聞いていく。私は聞き手の態度を調べるには、そんな少ない項目では、把握できるはずがないと思いました。それで事前調査もして、質問項目を80項目に作り直しました。項目を増やすと、今までにはとらえることができなかった聞き手の吃音者に対する態度が把握できるかもしれないと考えたのです。
 その結果、どもる子どもはどもらない子どもに比べて、「緊張しやすい」、「おどおどしている」、「消極的である」、「自信がない」など、ネガティブな特性を持っているようにみられている面は確かにあるけれども、それだけではありませんでした。もう一方に、「責任感がある」、「根気強い」、「礼儀正しい」、「誠実である」、「親切である」など、ポジティブに評価されている面も、少なからず、あることが明らかになりました。アメリカの研究では、マイナスの側面からしか周囲は見ていないという結果だったのに、私がやり直してみると、そういう面もないことはないが、逆にどもる子どもたちの方が、高く評価され、好ましいものを持っていると見られているという側面もあるという事実が明らかになったのです。
 今度は、どもる人に対する周囲の今までもっているイメージ、見方が、吃音者がどもっているところを実際見たり聞いたりすることによって、変化するのかしないのかを調べました。
 まず吃音に対してどういうイメージを持っているかを調査をします。そして、次にビデオで小学校5年の男の子が、非常にどもりながら文章を3分15秒かかって読んでいる場面をずっと見せます。どもっている場面を、映像で見せたり、聞かせたりして、今度は、その直後にまた、先程の調査をして、ビデオを見る前と見る後で、変わったのか、変わらないのか、変わっているとしたら、どういうふうに何が変わっているか、どの項目が変わっていたのか、それからどういう方向へ変わったのかを調べました。
 そうすると、ビデオを見て、視覚・聴覚的な情報が入ってきたときの方が変化がたくさん出ました。変容の方向については、どもる子どもに対する見方が、物事へのとりかかりが遅いというように、ネガティブな方向へと変化していく項目もありましたが、実はそういうネガティブな方向へよりも、ポジティブな方向に変わった項目が多かったのです。例えば、「最後まであきらめない」、「情緒が安定している」という方向に評価が移っていきました。引っ込み思案ではないというように、ポジティブの方向へ変化した項目の方が多かったのです。
 私の、聞き手の態度に関する研究では、アメリカあたりの研究とは基本的に違って、ネガティブだけに見られてるんじゃなくて、ポジティブの面から見られてるものもある。実験条件を入れて、どもってる場面を見ることで、むしろ理解が深まるという方向へと変わることもある。これらの事実を明らかにしたということになると思います。
 このように、吃音は周囲からもちろん笑われたり、馬鹿にされたりこともある。しかし、人さまざまだから、いろんな人がいる。いろんなことを言ったりしたりする人がいる。どもっている時に、確かに目をそらしたり、何か変な態度をとる人もいる。それらは全てどもった自分に対するネガティブな反応に違いないと、どもる人の多くは思うかもしれない。けれども、実は聞き手の側に立つと、目をそらす態度も人によって違う。たとえば、相手がどもっているとき、どういう態度をしたら、あの人を傷つけないで済むだろうかなどと、気をもんで下を向いたり、目をそらしたりすることもあるし、相手に対する誠意や配慮であったりすることもある訳です。それをすべて、聞き手の反応を自分がどもりであるということに対するネガティブな反応だととってしまう。吃音者自身が、そういう色メガネで周囲をみるということもあるんじゃないかという指摘は、実は、吃音者自身の中からもちゃんと洞察して出てるんです。
 1975年の出版の本で、伊藤伸二さんが、内須川洸先生、大橋佳子さんと出された『人間とコミュニケーション』(NHK放送出版協会)があります。その中に、自ら吃音者であったマーガレット・レイニーという女性のスピーチセラピストのことが書いてあります。彼女が吃音の講演をし終わって資料を片付けていたら、一人の青年がこつこつとやって来て、「先生、ちょっと」と何かいろいろ質問をし始めた。自分の周囲は自分が吃音であるということで馬鹿にしている。さげすまれてることばっかりだということを切々と言う。その時のことをレイニーは、次のように書いています。
 「彼にとって肝心なことは、自分が自分自身を、吃音者である自分自身をどう思っているか、と自問自答することでしょう。それをしないで、相手がどう思うだろうかと考えるのは、まさに馬の前の荷車です。馬に荷車をつけて動かそうとしても馬が動かない。よく見ると、馬の前に荷車をつけていたから、馬は先に行かないんだ。自分がそれをしているのに、気づいていない、つまり肝心なことを見落としていることに気づかずあせっているのでしょう。恐らく、自分自身に最もひどい批評を下しているのは、彼自身だったのでしょう。長い間、他人から受ける批評より、もっと厳しく自分を批評してきたのです」
 それから当時のノースウェスタン大学の教授であった、ヒューゴー・グレゴリーさん。京都で開かれた第1回吃音問題研究国際大会に参加され、基調講演をされた白髪の方ですが、あの人も自分の吃音経験からほぼ同じようなことを言っておられるんです。それをちょっと読んでみます。
 「私はこれまでの人生で吃音による影響をあまりにも意識しすぎてきたのではないか、あるいは他人が私の吃音をどう見ているかということを意識しすぎてきたのではないかと考えるようになりました。他人は自分が考えているほどには、私がどもっていることも気にしていないこともわかってきました」
 先程も、ウェンデル・ジョンソンが、大人になると周囲の理解を求めるだけじゃなくて、自分が、周囲のあり方をどうとらえるかという自分自身のとらえ方も、自分で追及していかなければいけませんよということを言ってるといいましたけれども、そのことと絡み合わせてみると、非常に理解しやすいんじゃないかと思います。
 そのことと関連して、大阪スタタリングプロジェクトの西田逸夫さんが、川柳でそのことを非常に見事に表現しているんです。『どもること 聞き手 大して気にもせず』。これは非常に名句です。周囲に理解をしてほしい、そのための努力は一方でずっと継続してやらなければいけないことは事実ですが、いろんな人がいるということ考えると、自分自身のとらえ方そのものを追求していくことも欠かせません。これはウェンデル・ジョンソンが言ってることでもあり、日本吃音臨床研究会が論理療法を取り上げているのも、そういう意味合いがあるんだと思います。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/04/30

私の聞き手の研究 2

 2002年8月に開催した第2回臨床家のための吃音講習会での水町俊郎さんのお話の紹介を続けます。一昨日紹介した、〈はじめに〉のところで、水町さんの背景が分かります。
 僕は、学会や研修会など、いろいろな実践発表を見聞きしますが、書いた本人がどういう人なのか、どんなことを考え、何を大切にして生きてきたのか、人柄というか背景というか、それらを知った上で、その実践を読ませてもらうのが好きです。講演もそうです。だから僕も、どんな人間なのか、まず自己紹介をして、話を始めるようにしています。
 水町さんの話の本題に入ります。ウェンデル・ジョンソンの背景である、一般意味論、言語関係図から始まります。言語関係図がわかりやすく説明されています。

  
私の聞き手の研究 2
                  水町俊郎(愛媛大学教授)

一般意味論

 ウェンデル・ジョンソンの背景の、キーワードは一般意味論です。『国語教育カウンセリングと一般意味論』(明治図書)の中に、一般意味論の定義として二つの事例が紹介されています。
 ある若い娘さんはインテリアデザイナーと結婚したいが、「インテリアデザイナーみたいなニヤけた職業のやつと結婚することは許せない」と両親が強く反対して許さない。そのことをその若い娘さんはこういうふうに言っている。
 「デザイナーと聞いただけで何か浮ついた職業のように思う。それじゃ彼が可愛そうです。早く両親に死なれ苦労して学校を出た人で、本当に真面目なんです。父たちはどうして会ったこともない彼をダメな人間と決めこむことができるのでしょう。一度でいいから彼に会ってくれればと思う」
 子どものことで相談にきた母親がカウンセラーに、「うちの太郎はとてもわがままで困ります。親の言うことなどてんで聞きません」と言う。そして、カウンセラーが何を聞いても答えの最後には必ず「うちの子はわがままだから」と付け加える。
  うちの子=太郎=わがまま
  デザイナー=浮ついた職業
 このように、周囲が決めつける固定観念、あるいはレッテル貼りが、両者に共通しています。また、レッテルを貼る心理経過も共通している。「どちらも事実を十分に見極めようとせず、確認しないで、言葉に反応してレッテルを貼っている」ということです。
 論理療法で問題にするようなことを言っています。言葉に反応して、レッテルを貼る。そのレッテルはその人がたまたま見たり聞いたり経験したりした幾つかの例を過度に一般化して得られた産物です。このようにレッテル貼りをするということは、それにある言葉を与えるということです。
 1回レッテル貼ってそれに言葉を与えると、その言葉が一人歩きをして、その後の人間の行動に影響を与えます。言葉はそういう力を持っているのです。そういうことを背景にしながら、一般意味論を次のように定義づけています。
 「一般意味論は人々がいかに言葉を用いるか、また、その言葉がそれを使用する人々にいかに影響を及ぼすかについての科学である」
 一般意味論とは論理療法の基本的な考え方と全く同じなんです。一般意味論の基本的な背景を、私なりに整理をいたしました。

吃音の問題の箱

 ウェンデル・ジョンソンは、吃音の問題の箱について次のように言います。
 吃音症状であるX軸に関しては、流暢にしゃべるように、です。どもらないようにしゃべりなさいではなく、どもってもいいから、以前よりも楽にどもればいいと言います。流暢に、どもらないで話すことだけで、人間は生きているんじゃないと言っています。アイオワ学派の人たちがそうですが、怖れや困惑を持たず、吃音を回避しないで、異常な行動は最小限にしてどもれるようになりなさいと言っています。二次的な、心理的な問題までいかないことの方がもっと大切なんだと言います。
 Y軸に関しては、子どもに限定した表現の仕方がなされていますが、大人に対しても同じことです。周囲がどうあるべきか。子どもにとって心配、緊張、非難のない意味論的環境を整えるよう求めています。意味論的環墳とは、個人を取り巻く、つまり周囲の社会が持っている態度、信念、制御、価値観あるいは既成概念などのことを言います。「どもることはいけないことだ、どもることは恥ずかしいことだ、すらすらしゃべるべきだ」という意味論的環境の中で子どもが育つと、子どもがそれを内面化してしまって、どもることに対して罪悪感を持ったり、しゃべることを避けようとしたりする。そこが諸悪の根元だという考え方です。
 そうならないようにするために、ポイントを3つ挙げています。
〇劼匹發価値ある一人の人間として取り扱われる。
 どもりだからどうこうじゃない。いろんな個性を持っているいろんな人がいるけれども、一人一人それぞれ意味があるんだということです。子どもを価値ある一人の人間として、かけがえのない存在として取り扱ってほしいということです。
∋劼匹發どんな話し方をしてもそのまま受け入れる。
 どもるからだめじゃなくて、どもろうが、どもろまいが、話の内容が分かればそれでいい。どもることを否定しないことだ。どもる子どもがどんな話し方をしても、まずそれを受け入れるような状況を作るようにしてほしいのです。
わざとどもる「随意吃」。
 随意的にわざとどもることを適切に指導すれば、非常に効果があると書いてあります。今までの意味論的環境は、どもることはいけないことでどんな変な話し方をしてでもいいからどもらないようにしましょうでした。それをがらっと反対のことを求めて、どもってもいいんだよ。どんどんどもりながらしゃべりなさいという。わざとどもるというのは、一朝一夕にはできないだろうが、どもってもいいんだよ、ということになると、どもることを避ける傾向が、結果として弱まることになる。したがって、結果として、どもることが少なくなるだろうという予測が、背景になる考え方としてはあるわけです。
 成人吃音の場合は、周囲の意味論的環境、周囲の在り方が、吃音に対して理解のあるような状況になってほしいという希望は継続してあっていいのですが、もう一つそれに加えて、吃音者自身が、やはり自己変革の努力をする必要があると言っています。つまり、環境が変わってくれるのを待つのではなく、成人吃音者の場合は自らが意味論的環墳を変えていく努力をすべきであるというのです。人が、吃音者である自分に対してどういう目で見ているのか、どもることに対してどういうことを言ったのか、どういう対応を実際にしたのか。現実を見極め、それと自分がどう向き合うかが大切だということです。他人が下す評価が、吃音者自身の生活に影響する度合いは、人によって大きく違います。受け入れるこちらの態度に大きく左右されます。それこそ、人はいろいろですから、周囲はいろんな反応をします。そして、その相手の態度をどう受け取るかによって、その人が受ける影響も違ってきます。ある状況をどう受け取るか、受け取り方の世界が非常に重要だと、論理療法では言いますよね。同じことを、ここでも言っているのです。
 周囲の、吃音者と吃音を否定するような意味論的環境の中で、吃音は起こったのでしょうが、大人になった以上は、過去のことばかり考えないで、自分自身が吃音を持ちながら、どう生きるかを考えないといけません。そのためには、周囲の状況をどう受け止めるか、どう受け取るか、です。受け取り方自体には、今度は自分の責任が出てくると、ウェンデル・ジョンソンは言っています。(「スタタリング・ナウ」2004.10.21 NO.122)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/04/29

私の聞き手の研究

 昨日は、水町俊郎・愛媛大学教授がお亡くなりになったことの巻頭言を紹介しました。
 水町さんは、今夏、第11回を迎える「親、教師、臨床家のための吃音講習会」の前身である「臨床家のための吃音講習会」の常任講師として、共に取り組んでくださいました。水町さんがお亡くなりになったことで、「臨床家のための吃音講習会」は第4回で閉じましたが、8年後に「親、教師、臨床家のための吃音講習会」としてよみがえったのです。
 今日は、2002年の第2回臨床家のための吃音講習会で、水町さんにお話いただいたことを少し紹介します。

治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方 表紙 3 水町俊郎・愛媛大学教授は、吃音のメカニズムではなく、常にどもる子ども、どもる人に関心を持ち続けた吃音研究者でした。どもる時の脳の状態はどうなっているのか、聴覚システムはどうかなどにはほとんど関心を示されませんでした。それが分かったとしても、どもる子どもやどもる人がどうすることもできないし、どもる人をとりまく人々が、どう対応すればいいかヒントを得ることはできません。
 水町さんは、どもる人や、どもる人の周りの態度に関心をもち、研究を続けられました。どもる人を対象にした研究は、当然どもる私たちを抜きにはあり得ません。私たちへの研究調査の依頼が、私たちとのつき合いの始まりです。吃音研究に貢献でき、それが私たちにも役に立つ、喜んで私たちはそれに応じました。これまでは、たとえば質問紙による調査であれば、既に印刷されたものが配られ、それに応えるというものが全てでした。しかし、水町さんは愛媛から何度も大阪に足を運び、調査研究の趣旨を丁寧に説明し、調査項目についても、原案を皆さんで検討してほしいというところから出発しました。水町さんを中心とした勉強会のような形に、私たちの仲間と加わったのでした。
 そのような姿勢で続けてこられた研究が、どもる人に貢献しないはずがありません。多くの示唆を与えて頂きました。その研究の成果を踏まえて出版されたのが、『吃音を治すことにこだわらない、吃音との付き合い方』(ナカニシヤ出版)です。水町さんはご自分が担当する章はきっちりとお書きになって、入院されたのに、私たちが書き上げていないために、生前に出版することができませんでした。とても悔いが残ります。水町さんの吃音にかかわる全ての人々への、30年以上吃音の研究を続けてこられた吃音研究者としてのメッセージが伝わってきます。 その本の一部を紹介することはできませんので、2002年8月、第2回臨床家のための吃音講習会でのお話を紹介します。
 水町俊郎さんのお顔を思い描きながら、お読みいただければ幸いです。(「スタタリング・ナウ」2004.10.21 NO.122)

 
私の聞き手の研究
                       水町俊郎(愛媛大学教授)


はじめに

 アメリカの多くの言語病理学者は、自らが吃音者であるといわれています。日本でも翻訳されている、フレデリック・マレーの『吃音の克服』や論文によると、特に吃音研究の中心的な存在は、トラビスとヴリンゲルソン以外はほとんど吃音者であったと書いてあります。私は吃音だから吃音研究を始めたのではありません。もうちょっとハンサムで頭がよければ、性格がもっと明るければ、など悩みはたくさんありますが、吃音に関する悩みを私は持ったことはありません。
 私は大学は福岡学芸大学で、大学院は広島大学です。福岡学芸大学の当時の恩師が、「しいのみ学園」を作った昇地三郎先生です。現在、96歳。中国に講演旅行され、僕以上に元気な方で、40年以上も前、「障害児教育の今後は、肢体不自由か言語障害だ。君は言語障害をやらんかね」と言われました。その時から、言語障害をテーマにしようと漠然とした思いを持っていました。そういう時に、九州大学の心療内科で、当時日本に紹介されたばかりの行動療法を基に、吃音をチームアプローチしているところから、心理学の立場で入ることを誘われ、吃音にかかわり始めたました。はずみでやり始めたことで、何かの深い思いがあってではありませんが、30年以上続けてきました。
 今回の講座は、〈ウェンデル・ジョンソンの言語関係図を考える〉ですが、私に与えられているのは、Y軸、つまり聞き手に関することです。まずはじめに、ウェンデル・ジョンソンの言語関係図にポイントをおいた話から始めます。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/04/27

誠実、真面目、努力の人

 今日は、「スタタリング・ナウ」2004.10.21 NO.122 より、故 愛媛大学教授・水町俊郎さんの紹介をします。今でこそ、吃音研究の指導的立場にある人たちからは距離をおかれている僕ですが、この当時は、内須川洸・筑波大学教授、水町俊郎・愛媛大学教授のお二人は、僕の考え方、実践に全面的に共感し、著書や論文のなかで紹介をしてくれていました。
治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方 表紙 3 日本吃音臨床研究会と共に歩いてくださった二人の吃音研究者のうちのお一人でした。ちょうど今から20年前、2004年の夏、現役の教授のままお亡くなりになりました。たくさんお話をし、いろいろなことを一緒に取り組みました。でももっと、いろいろなことを一緒に取り組みたかったなあとの思いは残ります。遺作となった、僕との共著の『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』(ナカニシヤ出版)を手にとるたびに、水町さんの分までがんばろうと僕は思います。

  
誠実、真面目、努力の人
                   日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 「…吃音をとりまく厳しい状況の中で、吃音問題の解決を図ろうとするためには、研究者、臨床家、吃音者がそれぞれの立場を尊重し、互いに情報交換をすることは不可欠である。互いの研究、臨床、体験に耳を傾けながらも、相互批判を繰り返すという共同の歩みが実現してこそ、真の吃音問題の解決に迫るものと思われる。…」1986年8月11日

 私が起草した第一回吃音問題研究国際大会大会宣言のようには、世界のどもる人のセルフヘルプグループと吃音研究者との関係は必ずしもうまくいっていない。その現実を、オーストラリアでの第7回大会で実感したばかりだった。一方的に情報提供や指導を受けるだけの関係であったり、吃音研究者に理解されないとどもる人が反発する関係がそこには見られ、対等ではなかった。
 幸い、日本吃音臨床研究会には長く私たちに関わり、共に歩いて下さるふたりの吃音研究者がいた。日本吃音臨床研究会の顧問でもあり、30年以上一緒に歩いて下さっている内須川洸・筑波大学名誉教授と、「私は、『スタタリング・ナウ』の愛読者ではありません。熟読者です」といつも言っておられた水町俊郎・愛媛大学教授だ。
 そのおひとり、水町俊郎教授がこの夏、お亡くなりになった。まだまだ、一緒に語り合いたいことがたくさんあった。一緒にしようと考えていた仕事がいっぱいあった。こんなに急に早くお亡くなりになるとは考えもしなかったので、あわてることなく、じっくり取り組もうと思っていた。先延ばしにしていたことが悔やまれる。それでも、3年前には、「臨床家のための吃音講習会」を始めたり、「吃音のテキスト」を出版する話を進めたり、共同の取り組みは動き始めていた。
 ご病気のことは少し前から知っていた。治療の難しい病気で、確率のそんなに高くない治療に挑戦するというお手紙をいただいたときの私の返事が、少し感傷的になっていたのか、すぐに再度お手紙がきた。「私は限りない可能性を信じて治療の場に臨むのですから、病人扱いしないで下さい」というお手紙に、強い生きる意欲を感じた。
 5月23日、次の治療への挑戦のために一時退院されている時に、私は愛媛大学の研究室を訪れた。この度出版することになっていた本の最終の打ち合わせのためだった。共著で書く予定だったある章を細かにつめるためだった。しかし、その章の話にはなかなか入らず、吃音についてのこれまでのいろんな思いを熱っぽく話されていた。同席していたご夫人の啓子さんも、こんなに元気なのは久しぶりですとびっくりされるくらいで、私は内心はらはらしながらも、共感し、うれしく楽しい吃音談義に、しあわせなひとときを過ごした。
 私と会った翌日に再度入院された。私は、病室以外の場所でお会いして、あんなにたくさん話をした最後の人間だったのではないだろうか。
 告別式の日、弔辞のことば、ご子息の挨拶で共通していたことがある。「誰に対しても誠実で、真面目で、努力の人」ということだった。まさに、この生き方を貫いた人だった。ご研究の中で、「どもる人たちは、マイナスのイメージだけでなく、誠実で、まじめで、ねばり強いと見られている。そして実際にそのような人に会ってきた」と、どもる人のプラスの面を強調しておられたが、ご自身が、十分にどもる人の資質を備えた人だった。
 『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』(ナカニシヤ出版)のご自分の担当の章を一気に書き上げてから入院された。ご夫人の啓子さんから亡くなる数日前に、「残念ながら、生きる支えにしていた完成した本を見ることができないと思います」と電話があった。
 吃音研究者とどもる当事者が初めてがっぷりと組んでつくる本。遺言とも言える本の表紙には、愛媛大学教授・水町俊郎、日本吃音臨床研究会会長・伊藤伸二として欲しいと強く要望された。吃音研究者とどもる人が対等の立場で吃音に取り組むことの必要性を、最後のメッセージとしてお残しになりたかったのかもしれない。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/04/26

第3回 臨床家のための吃音講習会

 今夏、11回目を迎える「親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会」の前身である、臨床家のための吃音講習会。1回目は岐阜で、2回目は大阪で、そして3回目は再び岐阜での開催となりました。シリーズ1の吃音講習会は、故・愛媛大学の水町俊郎さんと、岐阜大学の廣島忍さんと僕の3人が常任講師になり、そのときどきの特別ゲストを迎えて開催していました。
 第1回の岐阜は、その日、日本最高気温を記録し、会場のエアコンが切れるというハプニングの中、大勢の参加者と共に真摯に学び合いました。3回目は、1回目に続き、岐阜での開催でした。予想を上回る参加申し込みにうれしい悲鳴をあげながら準備をした実行委員の中心人物、板倉寿明さんによる、舞台の裏側も含めた吃音講習会報告です。(「スタタリング・ナウ」2003.9.21 NO.109)

吃音夏の陣「第3回臨床家のための吃音講習会」
                  岐阜県立ろう学校・岐阜吃音臨研究会 板倉寿明

今回の目玉だったが
 「臨床家のための吃音講習会」を再び岐阜で行うに当たり、具体的なテーマについて参加者が深く話し合える場を作りたいと、分科会形式で参加者が興味をもった実践発表について深めることを計画した。ところが、時間が足りなくなりできなかった。アンケートからも残念の声が多く聞かれ、準備してきた者としても本当に残念だった。

準備「なんとかなるでしょう」
 2回目の開催で仕事の分担、案内状の発送等、ある程度のイメージがあることは心強かった。しかし、締切りを過ぎてから送られてくる参加申し込みや資料用の印刷物には多少動揺した。会場の収容人数は100人なので、定員を過ぎたらお断りと決めていたが、断るのも申し訳ない。結局スタッフは椅子だけでいいということになり、参加許可証の最終番号は100と記すことになった。

メールが届いた
 私たちが最終の準備をしているころ、一通のメールが届いた。どもる少年を描いた『きよしこ』の作者、重松清さんからだった。うれしくてみんなで回し読みしたのは言うまでもない。この吃音講習会のことを重松清さんは気に留めておいて下さったのだ。重松さんのメッセージを紹介しよう。

 「吃音の少年を主人公にした『きよしこ』という小説を書いているとき、ぼくはずっと、あの頃のぼく自身と対話をつづけていました。うまくしゃべれなかった。自分の気持ちをまっすぐに伝えられなかった。ひとと話したり、本を読んだりするのが、怖くてしかたなかった……。あの頃のぼくは、ぽつりぽつりと(何度もつっかえながら)、つらかった思い出を語ってくれました。でも、思い出話の最後に、あの頃のぼくは、ちょっとはにかみながら、付け加えたのです。「うまくしゃべれなかったから……優しさが好きになれたかもしれない」小説家のぼくは、その言葉に導かれるようにして、一冊の本を仕上げたのでした。「優しいひと」になるのはすごく難しいし、すごく嘘っぽい。でも、「優しさが好きなひと」になるのは、できるかもしれない。言葉を口にするときにふと立ち止まること―それは、時としてナイフにもなってしまう言葉の怖さを噛みしめることでもある。そして逆に、言葉の持つ、悲しみを包み込む毛布のようなやわらかさを味わうことでもある。ぼくはそう信じて、そう願って、ときどき派手につっかえながらも、誰かとつながるためにしゃべりつづけています。きっと、この会場には、あの頃のぼくのような子どもたちもいるでしょう。もしかしたら、ふだん、自分の思うことをうまく伝えられずに、寂しい思いや悔しい思いをしている子もいるかもしれない。でも、きみたちはひとりぼっちじゃない。誰かとつながることができる。つながり合うための言葉を、ひとよりもちょっと長めの助走をとって、ひとよりも少し不器用に、口にするきみたち―。ぼくは、きみたちのことが好きです。きみたちがしゃべる、すべての言葉が好きです。あの頃のぼくも会場にいるかもしれない。引っ込み思案なわりには乱暴者だった少年シゲマツ―目には見えないかもしれないけど、仲良くしてやってほしいな」。

重松清 1963年、岡山生まれ。出版社勤務を経てフリーライターに。91年、「ビフォア・ラン」で小説デビュー。99年「ナイフ」で坪田譲治文学賞、「エイジ」で山本周五郎賞。「ビタミンF」で第124回(2000年下半期)直木賞受賞。

講座機峪劼匹發竜媛嗣簑蠅旅渋ぁ
                           岐阜大学 廣罵忍
 「どもってもいい」という言葉が口先だけの励ましになりはしないか、どもる子どもたちはどもることの何を問題と考えているのか、そのことの解明から吃音をもつ自分に自信がもてるような支援が見つかるのではという視点から4人のシンポジストに検討していただいた。
 その中で青山さんの、「暮らし」という視点からその子の吃音を見る提言は、今回の講習会全体を貫くキーワードに成り得たような感がある。吃症状ではなく、どもることがその子の「暮らし」の有り様にどう影響しているのかの視点から吃音をみることに多くの人が納得しただろう。

講座供 峙媛擦改善される」ということの意味
                            愛媛大学 水町俊郎
 吃音者は吃音を意識したり、悩んだりせず、どもりながらも人前で話せることが「吃音が改善される」上で重要な意味をもつことや、「積極的な生き方」「吃音へのとらわれからの解放」が、「吃音症状そのものの改善」を上回っていることなど、「吃音が改善されること」を吃音者と言語障害児教育の経験者であるクリニシャンとの違いや、吃音者のアサーティブネス(自己表現)の程度と吃音改善の意味のとらえ方との関係の研究から発表。

実践発表1 どもりの私がどもる我が子と向き合って見えてきたこと
                       島根県立浜田ろう学校 佐々木和子
 自分のどもりについてはあきらめ、認めているが、息子のどもりを認められなかった自分の心の洞察から息子のどもりを劣ったもの、治すべきものと価値づけていたのは、流暢な話し方を良しとする偏見であった。息子のどもりを否定することは存在そのものを否定してしまうことになるという気づきの経緯について発表。

実践発表2 自分の思いを素直に表現し、自分らしく生きることを願って
                        岐阜県立明徳小学校 手島香子
 人前ではなるべくどもらないように話し方をコントロールしている子が、ことばの教室でどもりながら自分の言いたいことを話せるようになった事例から相手に受け入れられている安心感や耳コミュニケーションの心地よさを共有しながら向き合うことの大切さを発表。

実践発表3 カルフォルニア州でFluency Shaping Therapyを受けていた児童の指導実践
                 合衆国コロラド州アダムス郡教育局50 川合紀宗
 アメリカでの指導方法として「流暢に話すこと」と「どもり方を楽に変化させること」を目標とする2つがあることを紹介。評価に当たっては、吃重症度のみならず、本人の吃音に対する態度、学級担任、クラスメイトによる教室の様子、家庭における様子や心理的部分の把握が必要であり、指導と評価はセットで考えなければならないと発表。

実践発表4 吃音とインタビューゲーム
                    セルフラーニング研究所所長 平井雷太
 人前で話すことが多く、どもりであることを気づかれなくなった現在も、吃音者であるという自覚は薄れることなく、言葉が出ないかもしれない恐怖を持ち続けていると自己紹介。うまく話せないという気持ちが「書く」力へのバネになり、「相手の話を受けて問いを出していく」「聞いた話をメモしてまとめる」インタービューゲームを紹介。

実践発表5 島根県スタタリングフォーラムでの低学年の話し合い活動について
                         益田市立安田小学校 伊藤修二
 「島根県スタタリングフォーラム」についての概要や低学年の話し合い活動の様子を紹介していただいた。早朝登山で低学年の子どもが「どもりは一生治らないんだぞー」と叫んだという報告には一同びっくりだった。

講座掘〇劼匹發了抉腓砲弔覆る評価とは
                        日本吃音臨床研究会 伊藤伸二
 音声言語医学会・吃音検査法〈試案1>の問題点を指摘するとともに、以前に作成した「吃音のとらわれ度」「人間関係の非開放度」「日常生活での回避度」の評価を元に本当に子どもの支援に役立つ評価を作りたいと提言。詳細は、本紙4ページ以降に。

講演 子どもの言葉は「宝物」
                    講師 長谷川博一(東海女子大学大学院教授)
 子どものことばを治そうとするのではなく、宝物として受け止めていきたい、講演はここから始まった。社会の中で弱者といわれる人たちを標準や平均に合わさせるのでなく、社会の方から歩み寄りをと、そんな願いがあふれるお話は、一貫しておだやかで優しいものだった。「深くあきらめたときに、変化する」「自己受容・他者受容のキーワードは《それでいいよ》」など、どもりの問題を考える私たちと共通のものがたくさんあった。

おわりに
 この講習会ではっきり見えてきたこととして「吃音の評価」として大切なことは、吃音の症状の評価ではなく、その子の暮らし、生活の中で評価を考えることではなかっただろうか。この視点は私たちの財産にしていきたいと思う。
 なお来年の「臨床家のための吃音講習会」は島根県浜田市で行われることになった。島根スタタリングフォーラムでもわかるように島根のことばの教室の先生はとてもパワフル。また、吃音をもつ子どもたちと関わることが楽しくなるような会になることと期待している。
(「スタタリング・ナウ」2003.9.21 NO.109)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/03/09

私と『スタタリング・ナウ』 1

 しばらくブログをお休みしました。最後に投稿したのは、1月5日で、それから10日経ってしまいました。6・7日は、ことばの教室の仲間との合宿でした。親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会をはじめ、2024年度の計画を立てました。8日は、第11回東京ワークショップ、9日は、盛岡市で開催された岩手県きこえ・ことば・LD等教育研究会で講演し、その日のうちに大阪に戻りましたが、『スタタリング・ナウ』の編集、入稿と忙しくしていました。それらについては、また、追々報告していきたいと思います。
 今日は、先日、『スタタリング・ナウ』100号の巻頭言を紹介したので、そのつづきです。
 『スタタリング・ナウ』記念の100号は、読者からのメッセージを特集しています。今、改めて読み返してみて、本当に多くの方に支えられてきたことを思います。200号、300号は、いつの間にか通り過ぎていきましたが、100号は特別でした。支えて下さっている多くの方々に感謝です。
 もし、『スタタリング・ナウ』を読んでみたい、購読を申し込みたいと思われたら、ご連絡下さい。郵便振替用紙をご利用の上、年間購読料をご送金ください。
郵便振替 口座番号 00970-1-314142
     加入者名 日本吃音臨床研究会
年間購読料 5,000円
※郵便振替用紙の通信欄に、住所・氏名を明記ください。


 では、100号記念特集に掲載されたメッセージを紹介します。

『スタタリング・ナウ』100号記念特集
   私と『スタタリング・ナウ』

 100号記念の紙面は、ぜひ読者の皆さんからのメッセージで構成したい!いつ頃からか決めていました。たくさんの方からメッセージをいただきました。ありがたいことだと心から感謝申し上げます。とても今回だけでは掲載することができませんので、次号にも掲載させていただくことにしました。急いで締め切りに間に合わせて下さった方には申し訳なく思います。お許し下さい。今回のメッセージをお読みになり、私もと思われた方は是非お書き下さい。大歓迎です。よろしくお願い致します。
 私たちの活動が、多くの方に支えられていることを改めて実感しました。
 なお、お寄せいただいたメッセージの中の「100号、おめでとう!」の部分を省略させていただきました。できるだけたくさんの方の文章を紹介したいためです。ご了承下さい。

あなたはあなたのままでいい
            大谷鈴代 生活の発見会会長(東京都)

 毎号すみから隅まで読ませていただいています。会長の伊藤伸二さんは、ご自身が幼少のときから吃音に悩み、苦しまれたことを赤裸々に語り、同じ吃音の方たちを温かくリードしておられる様子が、紙面の中からひしひしと伝わってまいります。そして、他方面にわたる吃音のご研究と実践には頭がさがります。神経質の症状に悩む人たちの自助グループで活動している私にとって、自助グループのあり方考え方など、学ぶことが多く、はっと気づかせていただくことがたくさんあります。
 大変失礼な表現ですが、伊藤さんとのおつき合いが始まるまで、これほどまで吃音が生きる上での障害になっているという事実は知りませんでした。ずっと機関紙を読み続けているうちに、吃音であることが、実生活上で大きな壁になっているのだと知り、悩みの深刻さが具体的に分かってきました。その大きな壁を乗り越えるために、伊藤さんは吃音についてのさまざまなご研究をされ、数々の困難を乗り越えて、吃音に対する画期的なお考えをうち立てられたのだと思います。
 伊藤さんは、2002年10月号の巻頭言「変わる力」の中で「言語訓練を受けずとも、吃音を否定的にとらえずに、日常生活を誠実に生きれば、そしてそれが充実した楽しいものであれば、自然治癒力は働く。その人の持っている内在する力で、吃音そのものも、考え方も変わっていく」と述べておられます。
 この吃音を神経症に置き換えれば、そっくり私たち神経質者にも通じることです。
 私の所属している「生活の発見会」は、神経症の人たちが森田精神療法の考え方をもとにして学び、実践している自助グループです。森田療法の神髄は、「あるがまま」といわれており、神経質症状の苦しみも自分本来の向上欲も、「あるがまま」に認めて実践していくことだと教えられます。かって私も神経症に悩んでいた時、この症状さえなくなれば、生き生きした生活が送れるはずだと思ったものです。「あなたはあなたのままでいい」なんてとても思えませんでした。しかし、神経症のからくりを学び、症状を治そうとすることは、反対に泥沼に足を突っ込むような、誤った考え方であることが分かりました。
 生活の発見会会員の中にも、かつて吃音に悩んだ人たちがいます。それらの人たちの吃音がすっかりなくなったかというと、そうではありません。考え方が変わり、今ある自分を大事にし、自分の良さを十分に発揮できるようになったことで、あるとき吃音が出ても、それは大きな問題にならなくなったのです。この考え方は、日本吃音臨床研究会が提唱しておられる方向と同じなのです。双方のグループには共通点が多く、これからも交流を続けながら学ばせていただきたいと思っています。

【生活の発見会という、大きなセルフヘルプグループの学習活動は大きな刺激になります。『生活の発見』誌で何度もご紹介いただきました】


視点の拡がり
                      水内喜久雄 無職(愛知県)
 小・中学校、そして就職してからも吃音に悩まされたぼくは、ひとり自分だけの問題としてとらえ、克服しようと努力してきました。もしか、現在みたいに科学的にしかも仲間とともに取り組むことができたら、どんなに人生が変わっていったのでしょう。その姿も見てみたい気がします。『スタタリング・ナウ』は、そんな狭く生きてきたぼくにとって、新たな視点と新たな情報をくれます。だから、楽しみにしているのです。吃音が個性という考え方には少し疑問がありますが、人生の幅を広げ、選択肢を多くする活動の方法をいつも考えています。これからの活動にさらに期待しています。

【吃音体験をもとにした児童書、『けむし先生は泣き虫か』、小学校の授業で、子どもたちとたくさんの詩を読む『こどもと読みたい詩の本』などご著書多数】


オピニオンーリーダーとして期待
                   水町俊郎 愛媛大学教授(愛媛県)
 新聞でいえば社説にあたる伊藤伸二さんの所説から始まる各号を、私は毎号、じっくりと拝読しています。そういう意味では、私は「愛読者」というよりも「熟読者」といった方がいいでしょう。私にとっての最大のメリットは、どもる人の生の声が聞けることです。また、吃音に関するこれまでの「常識」に対して、体験的あるいは論理的に問題提起をされてきましたが、その都度私は、自分の見方の一面性を鋭く指摘される思いがしてきました。これからも吃音問題のオピニオン・リーダーとしてご活躍いただくと共に、その活動の結果を活字として後世に残す努力をお続けいただくよう切にお願い申し上げます。

【私たちの吃音への取り組みを評価し、支え続けて下さる吃音研究者。その実践的な研究は、吃音に悩む人たちに役立っています】


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/01/15

第1回 臨床家のための吃音講習会〜どもる子どもへの支援のあり方を探る〜

 2001年8月1・2日、岐阜大学で行われた臨床家のための吃音講習会についての報告です。
「スタタリング・ナウ」2001.10.20 NO.86 から紹介します。

第1回 臨床家のための吃音講習会〜どもる子どもへの支援のあり方を探る〜

主催 日本吃音臨床研究会/岐阜吃音臨床研究会/岡山吃音臨床研究会/大阪吃音臨床研究会
日時 2001.8.1〜2
会場 岐阜大学(岐阜市柳戸1-1)

 2001年8月1日、岐阜市は、日本最高気温39.7度を記録した。暑い岐阜で、熱い講習会が開かれていた。第1回臨床家のための吃音講習会に、150名近い参加があった。この講習会の意図したもの、準備から当日までのできごと、参加者の生の声から、講習会の概要を報告したい。

第1日目8月1日(水)
 講座 どもる子どもをもつ親への支援
     「初回面接で親に何を伝えるか」村瀬忍(岐阜大学助教授)
 講座 どもる子どもにかかわる教師への支援
     「学級担任、教師へのコンサルテーションを中心に」水町俊郎(愛媛大学教授)
 実践発表
    1 上野雅子(岐阜吃音臨床研究会会員・保護者)
    2 結城敬(成人吃音者・外科医)
    3 青山新吾(備前市伊部小学校教諭)
第2日目8月2日(木)
 講座掘 ,匹發觧劼匹發里海箸个悗了抉
     「レッスンをとおして」特別ゲスト 竹内敏晴(元宮城教育大学教授・演出家)
 講座検(1)学童期の子どもへの支援 伊藤伸二
    (2)ティーチイン どもる子どもへの支援水町俊郎・村瀬忍・竹内敏晴・伊藤伸二


  吃音講習会を振り返って
                 岐阜大学教育学部 助教授 村瀬忍

 地球温暖化現象をうけて日中の気温が40度にも届きそうな真夏。決して交通の便がいいとはいえない岐阜大学で行われる吃音講習会に果たして人が集まるだろうか。準備スタッフの不安をよそに、第1回吃音講習会には150人近くもの参加者がありました。第1回目という重い使命をうけて開催された講習会を振り返り、この講習会は何を提供したのか、また、今後にどのような課題を残したのかについて振り返ってみたいと思います。
 今回の講習会では、参加者の方々の要望を把握する目的で、参加申込書に「メッセージ」という欄を設け、吃音やどもる子どもとのかかわり、吃音臨床について考えていることや感じていることなどを記入していただきました。うれしいことにこの欄には多くのことばを寄せていただくことができましたが、中でも多かったのは、どもる子どもに対して何をどう指導していったらよいのかわからないというものでした。
 吃音指導といっても子どもとただ遊んでいるだけのようだ、楽に話せるようになるための指導方法がわからない、何かしてあげたいのに何もできなくて悩んでいる等々、どもる子どもを目の前にして支援に悩む先生方の苦悩が伝わってきました。
 吃音研究の歴史はわからないの積み重ねです。例えば、すべてとまで言わなくても、せめて半数くらいのどもる子どもに有効な治療法があるのかと問われれば、現在のところまだ見つかっていないと答えるしかありません。そして、こうした「わからない」は、現実の問題として、臨床家の先生方の苦悩に反映されていることを実感しました。
 今回の講習会の大きな目的は、「どもる子どもの指導をどもりを治すということから少し離れた視点で考えてみよう」と提言することだったと考えています。これは、吃音を治す努力が真にどもる子どもを救うことにつながるのかどうか、参加者に問いかけたものでもありました。
 参加申込者に書かれたメッセージの内容から推察すると、「講習会は子どもを流暢にするための何か具体的な指導方法を提示してくれるのだろう」と期待して参加された方も少なくはなかったように思われます。話しづらくて苦しいと訴えてくる子どもに何かをと考える臨床家の思いは素直なものですし、子どもの思いを受け止めようとする臨床家ほど、どうすることもできないもどかしさは大きいものと考えます。しかし、講習会は子どものことばの非流暢に対して直接できることをテーマに取り上げませんでした。にもかかわらず、講習会直後に参加者の方々からいただいた感想には「参加してよかった」との声が多く聞かれました。主催者としては講習会はまずまず成功だったと胸をなでおろす一方で、参加者の先生方のもどかしい気持ちに対して講習会はどう答えたのかを反省しておきたいとも思いました。
 詳しい内容は後の頁に譲ることにして、講座では研究者、臨床家、吃音を経験する本人や親がそれぞれの立場から意見を述べました。これらには、おおまかにいって次の3点の主張があったと私は考えます。
 まず第一に、吃音のことばの問題はなおりにくいという事実があること、第二には、吃音とは、ことばの問題とその問題に対する本人の心理的反応とが複雑に絡み合った、複合的な問題であること、第三には、どもったままでいいことを指導者自身が納得し、吃音のある生活をどもる子どもと、そして親やどもる子どもをとりまく人々とともに考えていくことが必要であることです。
 私たちはこうしたことを研究や経験での裏付けをもって説明しながら、参加者に吃音指導における発想の転換を呼びかけたのです。
 参加者の感想についての詳細もここでは省略しますが、新しい方向性を得てよかったという参加者が多かったことは、大雑把に言って「どもったままでいい」という提言への共感があったのだと考えます。
 これは講習会の目的であり、その意味では講習会は成功だったわけですが、一方でこれが、吃音の指導はことばの流暢性の改善に効果がないものだというお墨付きになっただけであってはならないと考えています。すなわち、子どもとただ遊んでいるだけで指導時間を過ごすことを容認したわけではないのです。専門的な立場から吃音が治らないことを親と子に告げ、吃音のある生活を考えていく指導は、ともすると言語指導の場だけでことばの非流暢を直接に扱う指導より、はるかにダイナミックで複雑なものではないかと私は考えています。方向性は得たものの、実際の指導でとまどっておられる先生もおられても決しておかしくはないでしょう。
 また、印象的な参加者の意見に、「どもったままでいいとはわかっていても、それを自分がどこまで確信をもって信じられるか心配である」というものがありました。このことばが示しているように、今後講習会の提言の重要性を実証していくという課題が、私たちにも参加者にも残されたのではないかと考えています。そして、この課題を消化していくプロセスで生れるもどかしさや疑問に、今後の講習会は答えていく責務があるのではないかと、暑い夏を振り返りました。
 最後に、今回の講習会の開催は地元新聞にとりあげられました。さらに、朝日新聞に吃音についての特集記事が掲載されることになりました。吃音の問題への対処は、まず正しい知識をもつことが基本です。どもる人・どもる子どもの抱える問題に対して、社会的な理解を得ていくためのきっかけに、この講習会はなったのではないかと考えています。(つづく) 
                
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/05/30
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