伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

梶田叡一

我の世界

 2004年の第4回臨床家のための吃音講習会での梶田叡一さんの話を紹介してきました。話の流れを優先させたので、「スタタリング・ナウ」2005.9.18 NO.133 の巻頭言の紹介がまだでした。
 吃音に悩んでいるとき、吃音が占める割合が大きくなり、「どもる私」が全面に出てしまいます。もっといろんな私がいるはずなのに、どもっている私だけが大きくクローズアップされるようです。映画監督の羽仁進さんは、「どもる人の奥にある世界を豊かにしよう」とメッセージをくださいました。梶田叡一さんも、内面の自分としっかりと向き合い、それを豊かにすることを提案してくださいました。
 僕も、まだまだ我の世界を磨くことはできそうです。

  
我の世界
                 日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 吃音は他者との関係の中ではじめて問題となる。どもることで息が苦しくなったり、からだが緊張することはあっても、どもること自体で苦しむことはない。どもった私を他者がどう見ているか、感じているかという他者の視点、評価が気になって悩むのである。
 私たちはどもることを他者から指摘されたり、笑われたりすることで、否応なしに、他人の目を意識せざるを得なかった。社会と向き合う私の前面には常に吃音が立ちはだかった。吃音を通して他者や社会をみつめていたことになる。子どもの頃から、社会に適応するために、我々の世界に生きるために、どもらずに話せるようになりたいと願ってきた。
 社会に適応する力は必要だが、そればかりにからめとられると、肝心の我の世界がおろそかになる。社会と向き合うときのどもる私は、私のごく一部にすぎないのに、吃音に深く悩んでいたときは、その吃音が私の全てを代表しているかのように思っていた。どもる・どもらないとは無関係の自分の豊かな我の世界があるはずだ。話さなくても我の世界を楽しむことはできる。楽器やスポーツやダンス、何かを育てたり作り出す、絵を描く、好きな音楽を聴く、本を読む、映画を観るなどたくさんのことができる。
 学童期、劣等感にからめとられていた私は、エリクソンの言う勤勉性が全くなかった。勉強もせず、友達と楽しく遊ぶこともなく、学校やクラスの役割も引き受けなかった。当時の通信簿には、そうじ当番をよくさぼると記されている。本読みや発表ができなくても、話さなくてもいいクラスの役割はあったはずなのに、私はしなければならないこと、したいことをせず何事に対しても無気力になっていた。
 思春期の私は社会に適応したいと願いながらできなかった。ゆえに私は孤独であった。このことが後になってみると、ある面では私に幸いしたらしい。本当はしたくないのに友達に合わせて時間を浪費することはなかった。周りに合わせようとしていたら、多くの無駄なエネルギーを費やしていたことだろう。
 私は、仲間を必要とせず、社会にも合わせようとせず、ひとりの世界に入っていった。孤独の辛さを紛らわせるために、私は映画と読書にのめり込んだ。中学生から映画館に入り浸った私は、1950年代の洋画全盛時代のほとんどの洋画を観ている。ジェームス・ディーンの「エデンの東」に何度あふれる涙を流したことだろう。世界・日本文学全集と言われる多くを読んで、自分では経験できない世界を味わった。我々の世界に入れず、不本意ながら我の世界の中に入り込んでいったものが、今私が生きる大きな力になっている。
 人間関係をつくりたくて、夜のコンビニエンスストアを俳徊し、たむろして時間をつぶす若い人たちを見て、私は吃音に悩むことによって内的な世界に入ることができた幸せを思う。
 私のように不本意ながらではなく、我々の世界に適応することはしばらくの間は諦めて、奥にある内面の自分としっかりと向き合い、それを豊かにすることだけを考える時期が必要なのではないかと最近考えるようになった。自分の喜びや楽しみのために、能動的に時間を使うのだ。私の場合、我々の世界に未練を残しながらの中途半端なものだった。それであったとしても私にとってよかったと思えるのだから、我々の世界に合わせることをとりあえず一時期断念し、自分に向き合い、自分を豊かに育てるのだ。
 楽しみを豊かに持つことは、自分自身の根っこの中の自信となっていく。その自信があってこそ、どもっていても大丈夫、「私は私だ」と、奥にある豊かな世界を意識しつつ生きることができるのだろう。
 子どもの頃から否応なしに我々の世界を意識せざるを得ないからこそむしろ早く、我々の世界に適応することはとりあえず置いておいて、我の世界を豊かにする。それは、我々の世界に生きるには周りからはマイナスのものと思われているものを持っている人々の特権ではないだろうか。
 国際吃音連盟ではどもる著名人をリストアップして、ホームページに掲載しようとしている。どもるからその人たちは一芸に秀でたり、成功したりしたのではない。どもる、どもらないにかかわらず、自分の奥にある内的な我の世界を大切に生きたからこそ、様々な分野で活動ができたのだ。このリストアップの動きが、「どもってもいい。我の世界を大切に生きよう」という声に結びついていけばいいのだが。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/06/19

我の世界と我々の世界 2

 吃音講習会の時の梶田叡一さんのお話を紹介してきました。
 僕が梶田さんを講師として講習会に来ていただきたいと仲間に提案したとき、当時、京都ノートルダム女子大学学長でしたが、忙しい学長職の人に断られるに決まっているという人がほとんどでした。島根県松江市での開催なので、合宿の形式にした40名ほどの参加者の講習会です。僕は、梶田さんの本はたくさん読んでいました。そのことを強みにして、梶田さんの出身が松江市だということを手がかりに、心を込めてお願いの手紙を書きました。すると、「小さな集まりが好きなので行きますよ」と快諾してくださいました。その言葉通り、たくさん話をし、質問に答えて、また話していただくという、とても贅沢な時間を過ごしました。お酒が好きで、夜遅くまで話につき合っていただきました。本棚にあるたくさんの梶田さんの本を眺めては、懐かしく思い出しています。
 我の世界と我々の世界を行ったり来たりしながら自由自在に生きること、僕自身は、かなりそうできているのではないかと思います。21歳からは、自分の納得のいく人生を歩いてきました。
今回で、梶田さんのお話は終わりです。(「スタタリング・ナウ」2005.9.18 NO.133)

第4回臨床家のための吃音講習会・島根 2004.8.7
    我の世界と我々の世界
                梶田叡一(現・兵庫教育大学学長)特別講演


自由自在に生きる
 自由自在に生きるということは、自分のいろんな条件が完備することではありません。事実は変わらないのです。不完全で不満足な条件を、パーフェクトではないものを与えられて、私の命が機能しているわけです。だったら、自分に与えられたものは存分に楽しんだらいいし、ないものねだりをしてもしょうがないと思うのです。ないものねだりが一番いけないです。どこへ行っても私は私のペースで私なりに生きていく。だからといって、世の中のネットワークから自分だけ逃がす必要はない。世の中のネットワークは大事にする。そして、仮の主語として、我の世界は、とっても大事。しかし、世の中のことも、自分自身のことも、どちらも、どこかで、「まあいいか」と思えること。一所懸命になりすぎるのがいけない。できれば死ぬときに、ああ、いい一生だったなあと思って死ねるかどうかです。
意識としての自己 梶田叡一 今、お話したことは、私の本『意識としての自己』(金子書房)の中に書いております。また、見て下さい。
 私はどういう者だとか、私は自信があるとかいう自己概念は、結局自分の意識の中のあるひとつのあり方でしかなくて、事実の問題じゃない。意識の中での、主語述語の組み立て方の問題です。若いときからあまり死ぬことにとらわれたらいけないですが、ときどき、自分が自分だけの固有の命を生きていることを思い出すときには、死ぬんだよなあということを思えばいい。勲章をもらっても意味ないし、私も伊藤さんも本をたくさん書いているけれど死んでしまったら、ほぼナンセンスな話です。どういう所に住んで、家族は何人いたなんて、どうってことないことです。まして、吃音があったかどうかなんて、死ぬということと比べたら別にどうってことない話です。
 ひとつは世の中での価値、我々の世界での価値観があるけれど、これを一度全部ちゃらにしてしまう。もうひとつの我の世界の価値、たとえば私は石川さゆりがいいとか、私の中での価値観ができている。最後はそれもちゃらですよ。一度全部ちゃらにして、物を考えるためにはメメントモリという死ぬということを考えたらいい。自分が死んでしまうのではなく、頭の中での考えた死です。生きている間は死ということにこだわって、とらわれて、つかまえられて、意味づけとして、死という事実があると考えたらいい。私は人生をこう意味づけると考える。そして、くれぐれも言いますが、死ぬことだって、私に責任がある話じゃない。もっと言えば、今、生きていることだって、ほんとは私に責任ないです。そう思ったら楽でしょ。これが自由自在に生きるということです。

位置づけのアイデンティティ
 心理学の本を見ますと、アイデンティティということは、たとえば自分は男だとか女だとか、自分は学校の教師だとか、そういう我々の世界での位置づけのことを言っています。
 年齢も全部我々の世界の符丁です。性別も、役割も、自分は長男だ、何人子どもがいる、親と一緒に住んでるとかが、普通アイデンティティです。それが自己概念なんですが、自己概念の中で一番自分中心的面、たとえば私にとって一番中心的面は、学校の教師であれば、それがアイデンティティになる。これが〈位置づけのアイデンティティ〉です。
 我々の世界のネットワークの中で、世の中から与えられた、いわば符丁、シンボル、サイン。こういうものの中で、私をどう規定していくかです。吃音も、世の中で、そういうカテゴリーを与えられて、そういうものかと思っている。ダウン症だって、引きこもりだって、登校拒否だってそうです。世の中で生きていく上で、全部ちゃらにする必要ない。事実として知っておけばいいが、これにこだわらなくするにはどうしたらいいかがひとつの大問題だと思うんです。事実であっても、それにこだわると、ちょっと窮屈なところがある。上手に世の中からはみださない形で、どうやってそれにこだわらないようにするかです。
 私は親だけれども、自分のアイデンティティを親にすると、窮屈になります。親でもあるけれどなあ、ということです。私は教師だとなると、日本ではなんとなくいい子をしていないといけない感じになる。自分の全存在が位置づけの間にからめとられたら、こんなつまらないことはありません。これが、最初の罠です。

宣言としてのアイデンティティ
 この罠から抜けるためには、〈宣言としてのアイデンティティ〉が必要です。
 「教師でもあるけれど、なんとかでもある」という何かを出していく。便利な宣言としてのアイデンティティとして、私は男だ、女だ、何歳だ、「教師だと言われるけれど、私は人間だ」と言います。「私は人間だ」というのは、位置づけとして相対化するには一番いいでしょう。それでなくて、人には分からないけれども、こういうものだという宣言を自分の中で、もったらいい。教師だとか女性だとか、あるいは親だとかなんとかだという前に、「私はこういうことが私にとって、自分のコアになるんだ」というものです。一番簡単なのは、「人間だ」ということです。
 位置づけのアイデンティティで、他の人がどう自分を呼ぶかを知っておいた方がいい。だけども、それを乗り越えて、がんじがらめにされない。私というものを意識化する。一番自由自在に生きるとしたら、「私はカモである」とか、「空気である」と言ってしまえばいいが、あんまりそれをやると、「熱、あるんじゃない?」と言われてしまう。上手にTPOを見て言わないといけない。人には言わないで、自分でもっていたらいい。「私は水でありたい」とか、「風でありたい」とか。そういう宣言としてのアイデンティティを自分なりに作っていけるかどうかは、とても大事です。宣言としての自己意識、自己概念です。自分が自分とっきあって、自分と対話して、私ってこうなんだから、という土台になるような自己概念です。
宗教教育、宗教的なこだわり宗教ということばを使うと、戦後は、みんな、疎ましく思うようでほとんど勉強することはない。だけど、私はあえて言うけれども、特に障害のある子にかかわるとか、命の問題を考える時、宗教をぜひ勉強してみて下さい。これが、一番関連の深い文化です。
 お釈迦さんだって、なぜ出家したかと言うと、自分が死ぬということ、病気の人がいるということ、などからでしょう。しっかり勉強して、資格をとって、肩書きもできて、大きな家にも住むという右肩上がりの単純化した人生を考えていくと、命の問題は分からない。障害をどう意味づけるかは分からない。人間の一生は、右上がりじゃないと言っているのが宗教です。この宗教でないといけないという宗教心は嫌いです。でも、大きな宗教思想家はいい。
そういう人のものはぜひ皆さん、読んでみて下さい。
 道元や親鶯です。親鷺はぜひ『歎異抄』を、読み返して読み返して下さい。易しい例と易しいことばで、あんなに深いものはないと思います。『歎異抄』を読んでいくと、道元も分かってきます。道元は難しい難しい本ですが、読んでいくと、聖書の中に出てくるイエスのことばが分かるようになります。
 なぜ、幼子の如くならないといけないのか、なぜ野の花を見よというのか、です。いろいろなことで思い煩っているけれど、この花は、誰がどうしたわけでもなく、本人が美しく咲こうとか思ってるわけじゃないのに、こんなに素晴らしい花を咲かせているじゃないか。命の自己展開です。命は自己展開するんです。ユダヤ民族をもった伝説的なソロモン王朝のときの栄耀栄華のときよりも、この花は、はるかに美しいじゃないか、というわけです。
 道元を読み、親鷺を読み、あるいは聖書を読んで下さい。ほかにもすばらしいものがいっぱいあると思いますが、ぜひお読みいただきますと、結局は、この意味づけ、こだわりというのを深く考えていくということが自分の中でできるようになるんじゃないかなと思います。ですから、私は、宗教教育をこれから本当にやらないといけないと主張しているんです。
 何宗の教育でなく、宗教をひとつは文化の問題としてとらえたいのです。教育改革の論議のなかでもずいぶん言いました。そしたら、宗教教育は結構だけれど、宗派でない宗教をだれが教えるのかと言われる。確かに道元や親鷺、イエスなどの宗教的な天才のような思想家のことを、自分でこだわって、勉強して、小学校、中学校、高校で、大学で、宗派的でなく、教えることができる人が日本でどれくらいいるか、と言われました。でも、私はあえて言いますけれど、そういうこだわりを、いろんな意味での、広い意味での教育に関係する人が、宗教的なこだわりを持ってほしいなと思います。

質問 位置づけのアイデンティティは、よく分かりました。宣言としてのアイデンティティみたいなものは持っているような気がするんですが、それを自己中心的なものと勘違いしてしまう危険性はあると思うんです。それを越えて、第3段階の目覚めという本当の本質、本源的なもの、そういうものを持つコツのようなものがあるんでしょうか。
梶田 コツは多分ないだろうけれど、そういうものがあるんだろうなあということを自分の頭の中のどこかで前提にしておけば、自然にそういう方向に近づくと思うんです。
 頓悟と漸悟ということばがあります。頓悟というのはある瞬間に、たとえば石がぱちっという音がしただけで、それに気がついた、悟りを開いた、というものです。まあそれは、そういう人たちに任せておいて、私たちは、漸悟です。漸悟とは、少しずつ少しずつ、ものが見えてくるということです。自分がまず我々の世界に目覚めてからです。世の中というのがあって、自分勝手はいけないよねというのが分かってくる。しかし、自分が生きなきゃしょうがないよね、となる。結局両方をどうやって生かすかという工夫をしないといけない。工夫していくけれど、我々の世界に生きるとか、我の世界に生きるとか、私が生きるみたいな、そこも乗り越えないと、どこかしんどいよねという筋道が見えていれば、私は徐々にそういうふうになっていくと思うんです。
 だから、私は宗教的な神話として、いろんな、ある瞬間に悟ったという、目が見えるようになったという頓悟の話があるけれど、私はそういうことにこだわる必要は全くないと思います。

梶田叡一さんの紹介
 1941年島根県松江市に生まれる。京都大学文学部哲学科(心理学専攻)卒業。大阪大学人間科学部教授、京都大学教授、京都ノートルダム女子大学学長を経て、現在兵庫教育大学学長。
主要図書『自己意識の心理学(第2版)』(東京大学出版会)『生き方の心理学』(有斐閣)『内面性の心理学』(大日本図書)『生き方の人間教育を』(金子書房)など多数。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/06/18

我の世界と我々の世界

 島根で、2004年に開催した第4回臨床家のための吃音講習会での梶田叡一さんのお話を紹介してきました。間がずいぶんあいてしまったのですが、続きを紹介します。
 このときの吃音講習会のテーマは、《どもる子どもの自己概念教育》でした。吃音と向き合い、どもる自分をみつめるには、自己概念教育こそが大切だと考えていた僕たちは、長年、子どもの自己概念教育、自己意識の研究と実践を続けてこられた梶田叡一学長を講師としてお迎えしたのでした。
 前夜から来て下さった梶田さんと参加者は、車座になって、夜遅くまで気さくに語り合いました。基調講演としてのお話は、ご自身の体験を交え、分かりやすいものでした。大事なことは、何度も繰り返していただき、印象に残りました。

第4回臨床家のための吃音講習会・島根 2004.8.7

  我の世界と我々の世界
           梶田叡一(現・兵鰍育大学学長)特別講演


第一段階 我々の世界と我の世界に気づく
 ほとんどの場合、どちらの世界のことも考えないところから出発します。自分の欲求、欲望のままに動いていいと思っている人は、いっぱいいます。言いたいから言う、これは無自覚です。それに対して、ある時期、世の中というものがあることに気がつく。好きなことを好きなときに好きなようにしていると、みんなが嫌う、冷たい目で見られる、したがってみんなから相手にされなくなって、人と一緒にできなくなる。これに気づくのが第一段階です。
 世の中が分かってくると、世の中の決まりやしきたりに関心を持って学ぶようになります。これは、我々の世界で生きる力を身につけることです。ただ、このとき気をつけないといけないのは、こればかりが肥大化してくると、落とし穴、罠にはまります。
 世の中のしきたりばかりにうるさい人がいます。京都なんかとてもうるさい。香典にピン札が入っていたら、ピン札を用意して、死ぬのを待っていたのかと言われます。結婚式のお祝いに、折り目が入っているお札が入っていたら、前からピン札をそろえて準備するくらいは当然だと言われます。
 世の中の決まりも大事にしないといけないが、あんまり杓子定規になったら、どうにもならん。それが、罠ですよ。私は、あんまりうるさい人が嫌いです。
 私が京都ノートルダム女子大学の学長として行ったとき、秘書室長さんに「先生は、この学校を代表して、外に出るんですからね」とものの言い方から服装までいろいろと言われました。でも、言われてもすぐ忘れる。我々の世界、世の中をみつけ、目覚め、約束事は大事にしないといけないが、それだけにとらわれ金科玉条のようにしてしまうと、次の段階に行けなくなってしまいます。

我々の世界を大事にすることとゆとりをもつこと
 次の段階は、我々の世界を大事にすることが分かった上で、世の中のしきたりを大事にする。しかし、世の中はそういうものだから、「泣く子と地頭には勝てない」から、とにかく頭を下げなくてはいかんと、本気で思ってはいけない。それはそれ、上手にそういうことにしておく。これが我々の世界を大事に生きるということです。世間のこだわりのある人とも、大事につきあいをしなかったら、生きていけないことがあります。だから、無自覚ではダメですが、肩書きのある人はえらい、と本気で思ったらダメです。
 我々の世界を大事に生きるということは、我々の世界の習わしや習慣を大事にしながら、そこにゆとりがなきゃいけない。ゆとりというか、遊びというか、「まあいいか」ということです。そうして、第二段階につながるのです。

第二段階 自分の発見
 私は他の人と置き換えできない命を生きている。
 ヨーロッパの教育で、メメントモリと言われることですが、死ぬということを忘れないようにしようというのです。何が確実かというと、ここにいる人はみんな死ぬということです。ローマの賢人セネガが、人間は自分だけは死なないようなつもりで生きている、と書いているが、これは幻想です。私という人間は、ずっと生きて、ある日突然パッと消える。そう思えば、自分のせっかくの命を、どう完全燃焼していくかが最大の課題になります。別の考え方をすると、いろんなことがあるけれど、結局、死ぬんだから、「まあいいか」です。でも、私は与えられた命を最後のぎりぎりまで完全燃焼することは自分の課題だと思っています。
 私もある日突然脳溢血や心筋梗塞で死ぬかもしれない。また寝たきりになるかもしれない。そうなって、「まだ死ねない。まだお迎えがこない」と言ったら終わりです。寝たきりになってからが勝負です。目をぎらぎらさせて、「わくわくさせてもらった今日一日が持てた」と思わないといけません。それをやるには修行がいるだろうと思っています。そのためには、たとえば「自分にピンとくる本」などが分かってないといけない。ノーベル文学賞をもらっただけでその人の本がいいなんて、たったひとりの世界になったとき絶対ダメです。音楽でも、べ一トーベンやモーツァルトやバッハもいいが、ほんとに、モーツァルトやワーグナーに自分がわくわくするかは確かめておかないと、ひとりになったときに困る。
 私も小さいときからピアノを弾いていたので、クラシックの世界は詳しいですが、やっぱり自分でピンとくるものは、石川さゆりなんですよ。吉幾三もいい、坂本冬美もいい。世の中のネットワークから解放されてたったひとりになったときに、我の世界がちゃんとできているかどうかが勝負です。自分にピンとくるものがあるかどうか、です。
 私は、壺が好きで、若いときから集め、この年になると、人に見せる壺や焼き物があります。でも今一番好きなのは20年以上も前に買った、名前も忘れてるし、箱もない壺です。自分にピンとくるものは、10年、20年経っても飽きない。たったひとりになったときに、自分の気持ちを和ませてくれるものをみつけて大事にする。そういう中で自分をどうやったらわくわく、どきどきさせることができるか、自分とのおつきあいの仕方をマスターしていかないといけない。自分がしんどいときには自分を支えないといけない。調子にのってるときは、自分を抑えないといけない。そういう中で、私はどうやったら今日一日本当にわくわくしていけるか、です。
これも我の世界なんです。これが第二段階です。
 ただし、これもまた落とし穴がある。これに目覚めると、自分さえよかったら、になる。自分で気が済むかどうかばかりを考え、人の目を顧みなくなる。これも恐い罠なんです。私しかいない、独我論的世界が、私は私の命にしか責任を持てないんだから、私がわくわくドキドキしながら生きりゃいい。他の人なんか知るか。他の人は私がそう生きるための手段、道具だという考えになってしまいがちです。
 これは非常に困ったことだと思うんです。そうではなくて、私の独自固有の世界をみつけ、それを深め大事にして、それを土台にして生きるが、同時に我々の世界に生きている。人と人とのネットワークの中にちゃんと身を置きながら、人のためにもなる、人にも喜んでもらう。あるいは人との手のつなぎ合いが自分にとっても心地いい。自分の世界を土台として大事にする。両方を大事にする、これは修行がいりますので、一生かけて考えていいことだと私は思います。

第三段階 こだわりからの解放
 第三段階は、悟りを開くというか、基本的に言うと、もうこだわるのをやめるということです。道元の話に、鐘の音がゴーンと鳴っていると、一体鳴っているのは何だろうというのがある。鐘が震えているから、その前に誰かがそれをついたから、空気が震えているから、私の耳が聞いてるから、ゴーンなんです。まあ、なんでもいいんです。結局、主語を何に置いたかです。道元は、鐘がゴーンと鳴っている、だけでもない。空気がゴーンという震え方をしているだけでもない。私の耳がゴーンというのを聞いているだけでもない。ゴーンがゴーンしてるというんです。何のこっちゃ、よく分からない。
 全てを包括したものがひとつの現象だと言うんです。これを頭に置いて、みなさん、自分が生きていることを考えて下さい。
 今、梶田がしゃべっている現象は、そうです。私は、次に、何をしゃべろうかなんてほとんど考えてない。中味だって、これまで学んだことや聞いたことや見たことを、今、ことばに紡ぎ出している。でも、どう紡ぎ出すか、声帯をどう動かすか、なんて考えていません。自動的にしている。私の頭がいろんな考えを紡ぎ出し、それをことばに翻訳して、それを声帯の動きで、ということでしょ。梶田がしゃべってると言っても、それは間違いじゃないけれども、それは考えてみると、その間にも私の心臓は動いているし、血液も流れてる。梶田において、梶田というひとつの場所において、何事かが起こっているわけです。つまり、梶田という主人公は、本当はどこにもいないわけです。
 我々の世界で、ひとりひとりが主人公だという約束事をしないと、お互いのネットワークができない。けれども、本当は、我々の世界で考えていくのは、主語の置き方です。我の世界で考えてごらんなさい。私がというのがほとんどなくなり、どこかへすっとんでしまう。

大きな力に任せる
 浄土真宗の親鶯は、法然が「南無阿弥陀仏と言えば救われる」と言ってきたのを、「南無阿弥陀仏と言って救われるかどうか、分からん」と言った。ではなんで、南無阿弥陀仏と言うのか、「阿弥陀様、全部お任せしますよ」と言うのが、南無阿弥陀仏なんです。阿弥陀様という大きな存在に、自分のことを全部お任せしますという気持ちが起こって、そういうことばが自分から出てきて、うれしいから、南無阿弥陀仏だ、という。感謝の念仏なんです。私を離れて、阿弥陀様かなんか知らんけれども、大きな力に任せて、自分だけで生きるということをお休みしようという気持ちになったこと自体がうれしいじゃないの、というんです。「南無阿弥陀仏と言ったら極楽浄土に行きますか」と問われれば、そんなこと知るか、です。ただ、自分の先生である法然が言っているから、やってるだけだと言うんです。これが他力というんですね。これが悟りということです。
 私が生きているんじゃなくて、私において大きな力が生きている。自分で生まれてきたいと思って、生まれてきた人はいない。大きな力の中で生まれてきて、大きな力の中で生きてきて、今がある。そして、大きな力の中で消える。命は、そういうものです。
 私はいろんな機会に、妊娠中絶絶対反対を書いてきました。私が子どもを作るとか、私が子どもを産むか決めるとか、そういう考え方がどれだけ思い上がったものか。命は、自分の命だって自分のものじゃない。自分は与えられた命を、いわば仮の主人公として、どう生きていこうかを考えて生きているのです。私が私をしてるわけです。仮の主人公なんですよ。仮の主語のつけかたなんです。そうすれば、私の判断で、なんてことを言うのがどれだけ思い上がりか。もちろん、いろんな事情があるわけだから、私は個々のことについて各める気持ちは全くない。
でも、よく、女には産む権利があるとか、産まない権利があるとか、いう主張を聞くと、何を言ってるんか、と思うんです。何様のつもりか、と思います。

目覚め
 そこまでいくと、「吃音?そんなもの」ということになるんです。みんなそれぞれいろんな意味で限界をもった形の装置を与えられている。この装置の主人公は、私であるやらないやら分からないけれど、仮の主人公として私がやってるとしても、いろんな障害がある。私はこういう条件で生きていくようにと、この命をもらったということです。
 私は小さいとき、本当にお金持ちの家に生まれたらよかったなと思いました。20歳前後まで思ってました。学校に行かないで、アルバイトばっかりやってて疲れます。夏の暑い日に、アルバイトしなくてすむ家に生まれたら、楽に毎日毎日、古典なんか読んで、えらい人と対話したりして、豊かな自然にふれて。そんな暇なしで今まできました。でも、これが私の与えられた条件です。それぞれ自分に与えられた条件があります。隣の人はこういう条件で生きているといっても、それは隣の人の話で、私は私の条件を与えられています。姪のようにダウン症で生まれたら、それも与えられた条件です。私もすごく頭のいい人と出会うと、あっ、すごいなと思うことがある。でも、そんなこと言ってもしょうがない。あの人はあの人なんですから。私はそうじゃないんです。私が私の責任で生きていくと、そんな思いから解放される、これが第三段階です。(つづく)

事実と意味づけ 3

 昨日のつづきです。
我の世界と我々の世界、このことばは、以後、僕たちの大切なキーワードになりました。我の世界と我々の世界、この両方で生きていかないといけないのが人間だ、というお話は共感できます。折り合いをつけながら、楽しく機嫌良く生きていきたいものです。

第4回臨床家のための吃音講習会・島根  2004.8.7
  事実と意味づけ
      梶田叡一(現・兵庫教育大学学長)・特別記念講演


我々の世界と我の世界
 人間は、両生類です。かえるが水の中と空気の中で生きるのと同じように、人間は全く原理の違うふたつの世界を同時に生きていかなきゃいけない。ひとつは我々の世界、もうひとつは我の世界です。我々の世界は世の中です。我の世界は、独自固有の自分で、このふたつは全く違う世界なんです。
 人間のことを社会的動物だと言いますが、人間は、人と人とのネットワークの中でしか生きていけない。一食の食事でも、何百人もの人がかかわって、私たちの口の中に入ってくる。お互いが相通じ、ひとりひとりが自分でできるささやかなひとつの役割を果たし、他の役割の人がやってくれたものを全部活用させてもらって生きている。そういう、我々の世界でつまはじきにされたらだめです。たとえば、あいさつがきちんとできないとだめです。私は自分のかかわっている機関では、まずあいさつをやります。私の大学では1年生にあいさつをしようといろんな機会に言います。すると、「私は高校を出て大学に入ったつもりだったのに、小学校に来たような感じ。うるさいことばっかり言われて」と言う。私は、「よかったじゃないの。どこの大学に入ってもそこまで指導してもらえない。同じ授業料で得したね」と言う。あいさつの他には、授業中私語や飲み食いをしない、携帯を使わない、などです。服装についても言うが、これはなかなかです。そういう指導をなぜするか。大学を出て、世の中に出てあいさつひとつできなかったらだめだし、この場ではこの服装は許されるけど、この場ではだめだと分かってないといけない。就職活動のときに付け刃でしてもだめなんです。我々の世界に生きることは、なかなか大変です。自分の役割、ある資格をとらなくてはいけないし、服装や物の言い方も覚えなきゃいけない。そういう中で、私は他の人と一緒にやっていくと意識する社会性、集団性を身につけなきゃいけない。私はこれをやりたいからと言ってやったのでは、どうにもなりません。自己中心性を乗り越えないといけない。これが我々の世界に生きるということです。そういう力をつけなきゃいけない。
 世の中は我々の世界ですから、「やあ、結構。いいお話で」と言わなきゃいけない。何かの交渉のときもそうです。役所との交渉なんかも、こちらの方が筋が通っていると思っても議論してはいけない。何を言われても、「ご指導、ありがとうございます」と言った方がいい。結局はスムースに認めてもらったら勝ちで、議論に勝ってもどうにもならない。特に若い人は、それをよっぽど言っておかないと、「どこがおかしいんですか」と議論をしてしまう。それを言っちゃおしまいですよ。我々の世界で生きるための知恵なんです。泣く子と地頭には勝てない。勝とうと思ったら、別の形で勝てばいい。これが我々の世界に生きることです。自分の気が済むことをしてはいけない。これが自己中心性です。これを子どもたちに分からせないといけない。あるいは、障害のある子の場合は、より一層このことを言わなきゃいけない。

我々の世界で生きていくということ
 うちの大学で難聴の学生がノートをとる人を大学の費用でつけてくれといっている。なんとかならないかと相談にこられたら応じますが、最初から権利だなんて思われたら困ります。難聴の子が入ってくるのはいいことですが、基本的な自分の面倒は自分で見るという決意でいてくれないと困ります。お互い人と人との手のつなぎあい、ネットワークの中で生きていくのが、我々の世界です。障害があれば確かに生きていく上でやりにくいところがあるからいろんな形で手をさしのべればいいし、公的にもそういう仕組みがあっていい。けれども、私は障害があるから、人に面倒を見てもらって当然だ、あるいはほかの人よりも私の事情が優先するんだ、となったら間違いです。我々の世界の原理です。私にも生きる権利があると言います。確かに誰だって生きる権利があるから、みんなで私のこと、お世話して下さいと、権利として当人が思い込むと、我々の世界のルールが崩れていくと思うんです。特に障害のある子には、どこかで分からせないといけないと思います。権利として主張していく部分はあるけれど、それを越えて、なんでもかんでも私の事情を最優先させて下さいとなると、私は困るなあと思います。
 今日の参加者は、障害のある子にかかわる教員の方が多いので強調します。障害のある子にはむしろ普通の子よりも厳しく、自分で自分のことをきちっとする、人を頼るな、人をあてにするな、ということを言わないといかんと思います。障害はハンディですが、一番のハンディは事実としてのハンディじゃなく、「私は障害があるから、みんなが面倒を見てくれて当たり前だ」という意味づけです。誰でもいつでも笑顔で面倒を見てくれるわけがない。みんなひとりひとりが自分勝手な存在です。障害のない人はみんな聖人か、というとそうはいきません。人間は、みんな自己中心的な存在です。自分の事情を最優先したいと思っています。満員電車で席が空いたら私が座りたいと思うのが普通の人です。そういう中で、私は最優先させてもらって当たり前、みんなが自分の面倒を見てくれて当たり前という思いを持っていたら、結局は阻害されるでしょ。みんなその子の周りに近づかないです。世の中は、シビアなもんです。
 障害があってもなくても、誰でもどの子も、自制自戒して、自分をうまくコントロールして、世の中に合わせていくことが分かっていないとだめです。自分の事情を最優先していてはだめだということが分かっていないとダメです。
 子どもに障害があっても、自己中心的でないようにしないといけない。私は特別だ、私はみんなから面倒を見てもらって当たり前だという思いを持たせてはいけない。これが我々の世界で生きるということです。みんなお互いがお互いにとってじゃまにならないように、自分でやるべきことは自分でやって、そして自分の役割、自分が与えられた立場や役割は、精一杯果たして、そういう中で、お互いがお互いのネットワークを上手に組んでいくということです。なんで「おはよう」と言わないといけないか分からないがやはりとりあえず「おはよう」です。これが、我々の世界に生きるということです。

かけがえのない自分の命を生きる
 これは、とっても大事ですが、実は、それだけになったら、空虚な人生になる。いろんな役割や立場をきちっとしていくとしても、それをしていくひとりひとりの人間は、かけがえのない自分だけの命を生きていくわけです。ここにいる10人の先生が立場としては同じですが、教師としての個人は全く違う。教師の役割としては取り替えがきくから人事異動がある。でも、ひとりひとりは取り替えがききません。
 みんな、たったひとりで生まれて、ひとりで生きて、ひとりで死ぬ。縁があって、親子という縁を結んでも短い間です。夫婦が手をとりあって生きていくと思っています。世の中の約束事でやってるだけで、結局は、ひとりひとりが自分に与えられた自分だけの命を自分だけで生きてるんです。私が、今日は暑いと思って、「今日は暑いですね」と言って、みんなは「そうだ、今日は暑い」と、うなずき、通じたような気がするが、暑さの中味はひとりひとり違っていて、全然通じていない。冷たい温かいは、自分で知る、自分で感じるしかない。他人の感じている冷たさを私が代わって感じるわけにはいかない。沖縄の人と北海道の人がここで会って、「島根県も暑いですね」と、島根県の人も交えて三人で盛り上がったとしても、その感じる暑さは、沖縄の人と北海道の人では全然違うんです。普段の当たり前が違うからね。ましてや、悲しい、苦しいなどは、みんな違うんですよ。
 基本的には、我の世界は、私にしか見えてない、感じてない世界が土台にある。土台を前提にして、ことばでおおまかなところを通じ合わせて、破綻のないように手を結んでいる。失恋した人に、「あんたの気持ち、よう分かる」と言っても分かった気になるだけです。自分の個人の事情は、自分にしか分からない。ただ、分かると言ってもらった方がうれしいから、支えになるから、それにすがりつくところはあるけれど、でも、ほんとはそれじゃいけない。私は私がもらった命を引き受けて、その命を私なりに完全燃焼してやっていかなきゃいけないのです。
 ひとりひとりが自分の独自固有の世界を持っていて、結局はその世界の中で生き、死ぬ。自分が見えてるものと、隣の人が見えているものとは違う。今日、梶田が言っていることは、一応みんなの鼓膜まではいっているが、ひとりひとり、どう受け止めるかはまた全然違う。どう意味づけるか、どの部分が記憶に残るかも全部違います。そうやって、毎日毎日を過ごしているわけです。
 客観的ということばを、少なくとも哲学や社会学や心理学では使いません。客観的というのは、みんなが共通にこれはこうだと認めなきゃいけない世界があることです。物理学でも、今、客観性ということが変わりました。どこから観測するか、どう観測するかで、物理的な世界の見え方が違うからです。
 心理学や社会学では客観的と言わないで、間主観性という言い方をよく使います。ひとりひとりの世界しかないけれど、その間にことばによって橋をかけて、お互いが土台として認めてもいいものを、ことばや概念の上で確認する。これが従来、客観的と言われるものです。あるいは自然科学的な方法によると、追試可能性です。こうやったらこうなると、みんなこれを認めないといけないですよね。ことばの上で一致すればいいというだけでなくて、論理や論拠が、みんな、なるほどなというふうになることが、追試可能性です。それだって、結局は主観の中での確認にしか過ぎない。
 みんなが、ということはなく、ひとりひとり、しかない。ひとりひとりが個別に生きて、見ているもの、聞いているもの、持っているもの、ひとりひとり全く違う。ただ、お互い、ことばで伝える技術を人間は編み出したので、それによって、社会的なネットワークが組める。ことばの上で一致したとしても、それの受け止め方やどう具体的な行動に表すかは、みんな違うということです。イメージが違うんです。この、我々の世界と我の世界、両方で生きていかなきゃいけないのが、人間なんです。上手に両方を生きていくようにするのが、教育ということになります。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/06/09

事実と意味づけ 2

 昨日のつづきです。昨日、紹介した梶田叡一さんの話の中で、前置きとして話しておきたかったと言って話された、下記の内容が印象に残ります。

 「子育て一般について言えることですが、何でも自分のことは自分で考え、自分で決定し、自分でする。つまり、人を当てにしないように育てないといけないと思います」

 最近の吃音を取り巻く風潮の合理的配慮を求める姿勢とは違います。たとえ、配慮されなくても、理解されなくても、自分の力で生き抜いていく子どもに育てたいと僕は思います。そのための、自己概念教育なのです。
 また、今、年に一度大阪吃音教室に来ていただいている禅の老師・櫛谷宗則さんの師匠にあたる内山興正老師が師事していた沢木興道老師のお名前が出てきたことにも不思議なご縁を感じます。
 
第4回臨床家のための吃音講習会・島根  2004.8.7
  事実と意味づけ 2
      梶田叡一(現・兵庫教育大学学長)・特別記念講演

私の経験
 私は、大学4年生から、自活し、大学院の修士課程では、2つの学校で非常勤講師、塾の講師、家庭教師をし、就職した人の3倍くらいの収入がありました。若いときから、自分が食べていくことには非常なこだわりがあります。生活に困ったのは、東京の国立教育研究所で国際比較の若手として仕事をした時の数年くらいで、後は自分の暮らしのことで心配したことはない。どうやっても食べていける。私は、贅沢な食事は嫌いで、ローソンンがあればいい。みなさん、牛肉の輸入が切れてからの外食産業、どこがうまいか、知ってますか? 吉野家もいいけど、私は、あんまり好きじゃない。やっぱり松屋、中卯です。私は女子大学の学長ですから、つき合いの席も少なくない。しかし、おいしいものをつき合いで毎日続けたらほとんど体を壊します。
 私は、恩師も先輩もいません。恩師や先輩が仕事を回してくれる大学の世界では、それでは生き残れません。私は、学部も大学院も、自慢じゃないがほとんど講義には出てないし、卒論も修論も、結局は1年後輩たちが集まって手伝ってくれました。私がこだわった自己意識の問題は、当時、心理学じゃないと言われましたが、私の『自己意識と心理学』(1980年、東京大学出版会)はラッキーなことに、ちゃんとした自己意識の本がなかったから売れました。当時から私は、大学で、自信が背広を着て歩いているとよく言われ、生きていく自信だけはあった。何も根拠のない自信ですが、今でも、私は今すぐ職場をクビになっても、どうやってでも食べていける自信はある。そういうふうに思うと、いろんな細かいことって、「まあいいか」、になる。
 私が博士号をもらったのもそうです。学会の雑誌に投稿するときは指導教官に見てもらうものだそうですが、私はそれを知らず、勝手に自分で書いて出したら、なんとか3回掲載され、内規で博士号の授与の対象となりました。博士論文の諮問のときには、心理学と哲学と社会学の3人の教授がいて、中味が分かる人はいなかった。私もちょっとずるいところがあって、まともに質問に答えていたらぼろが出ますから、「はい、それは本当に大事な問題だと思います。こういう機会をお借りして勉強したいと思います。哲学ではどうなってますでしょうか。社会学ではどうなってますでしょうか」と尋ね、諮問なのに、教授3人で議論して、終わった。これも、今から考えると、自信のもとなんです。どうやっても切り抜けられる。世の中ってその程度のもの、ということです。これが意味づけの問題です。

引きこもった時代
 私は、飲み込みが悪く、大学のどの講義を聞いても全然分からず、1年間ほとんど学校に行かなかった時がありました。私は小さいときから、人の話をじっくり聞いて理解する能力がかなり劣っていました。高校のとき一人の数学の先生から「俺の時間は出てこなくていい」と言われました。一所懸命話しても、ぼけーっとしてる私に腹が立ったのでしょう。私は、自分で教科書を読んでマイペースで勉強すると分かる。ある時期、他の子はみんな分かるのに、なんで俺は分からんのかにこだわったことがあります。特に大学に行ったら何も分かりません。今で言う不登校で、大学の1年間、学校に行かず、引きこもりをしていたら、活字が読めなくなりました。活字は読めない、音楽を聞いても映画を見てもダメ、人ともほとんど話はできない。何をやっても無味乾燥でした。一種、なんか病気になったんでしょうね。汚い下宿にごろごろしていてもしょうがないから、お弁当を作ってもらって、毎日一番安い映画館をはしごしていました。映画もおもしろくないが、時間つぶしにはなる。3本立だと出てくるともう夕方になってる。そういう生活をしながら、ときどき、こんなことしていたら、世の中に出ていけなくなって、今のことばで言えば、ホームレスになるだろうなと思ったことはあります。かなり長いこと思っていました。でも、結局、私はひとりでそこから抜け出しました。ひとりでというか、ひとりの禅宗のお坊さんとの出会いがあったのです。

人との出会い
 乞食興道とも呼ばれていた方で、京都の破れ寺で座禅の会を作られた禅宗のお坊さんです。亡くなられる3、4年前、私を心配した友だちが連れていってくれました。泊まり込みで、朝早くから座禅をして、老師を囲んでお茶を飲むという生活です。一生、家庭も寺も持たず、一生色物の衣を着ず、檀家ももたず、結局弟子も持たずでした。でも、押しかけ弟子がいっぱいおりました。その人が、よく、「座禅をして何になるか?」と私たちに尋ねます。何も言わないで待っていると、こうおっしゃる。
 「座禅をしたら、腹ができるとか、いい学習になるとか言うが、あれは、みんなうそだ。座禅をしても、何にもならない。一生かけてやってきたから、よう分かる。だから、やれ。あんたらは、何かになるということばっかり思って、いろんなことをやっているだろう。これをしたらこうなる、などというもくろみがあるうちは、だめだ。何にもならんことをただ何にもならん形でやる、ということだ。それで食えんようになったらどうするか。簡単だ。餓死すりゃええ。餓死して、たとえば30歳で死んだって、50歳で死んだって、あるいは70歳まで生きたって、別にどうってことないだろう」
 そう言われれば確かにそうです。本を読もうと思って読もうとするからいかん、本を読めないのもまたおもしろい経験だ。映画も、なんちゅうことはない。でも、なんちゅうことがあると思って見るのが間違いだというんです。音楽もそうです。
 私は沢木興道老師の話で、ずいぶんふっきれた面があります。亡くなられた後で聞いたのですが、亡くなられて、その破れ寺に、勝手に、ご縁のある人が来て、その中には、時の首相も財界の大物もいたそうですが、30分でも1時間でも座禅して帰る変わった葬式だったそうです。えらい人だったと、後で知りました。世の中、そのときは、分からなくて、後になってその価値が分かることはいっぱいあります。
 「何かのために、やらなければと思うから、あせりがでる。最後は死ぬ。そうなったら死んだらいい。30年生きようが、50年生きようが、70年生きようが、一生は一生」
 こう言われたらなんとなく反論できなくなりました。私はそれが一番大きな転機になって、非常に強くなったと思います。どうやっても生きていけると思えるようになったのは、この禅僧と出会ったからだろうと思うんです。
 私も、自分のいろんな弱さ、まずさ、いいかげんさをなんとかしなきゃ、社会的にきちっとした位置づけをしてもらえない。これが頭にこびりつき、こだわった時期がありました。その後は、全部、すすすっといきました。大阪大学、京都大学、京都ノートルダム女子大学に行ったときも、私を世話してくれたのは、みんな他の分野の先生です。一所懸命準備して、条件を整えて世の中に乗り出していくのもいいことですが、世の中はそのようにはできてません。穴がいっぱいあるというのが私の実感です。一所懸命になりすぎちゃいけない。全て「まあいいか」とやってると、向こうからいろんなおもしろい話が飛び込んでくる。
 まじめに考えるのもいいが、私はあえて言います。教育関係者は、結局自分で自分をみんながんじがらめにしている。私は、「まあいいか」でいくわけです。「まあいいか」でいっていりゃ、なんとかなる。ただ、その底には、自信がいります。どんなに状況がまずくなっても、なんとかやっていけるという自信さえあればできるんです。私はありがたいことに、根拠のないことですが、自信にだけは恵まれました。

こだわり
 まじめすぎるとこだわりがでてきます。私もこだわりが全くないと言えばウソになりますが、世間的なことではこだわりはほんとになくなりました。子どもたちの進学や就職や結婚などについては心配はいっぱいありました。私は、自分のことはどうやってもやれると思ったが、親というのは全然違いますね。息子本人はどうにかなると思っていても、親は心配で心配で仕方ない。
 私は風采があがらない方でした。ある時期、みんなガールフレンドがいるのに、なんで私にはいないのかと思ったことはあります。風采があがらない、女の子とのつきあいがないのは事実です。私にはガールフレンドがいたためしがない。よくうちの奥さんが、「私が結婚してあげなかったら、あなたは一生結婚できなかったわよ」といばって言います。私は、事実として、もてない。でも、そのうちに、「まあいいか」と思うようになりました。
 事実の問題で一所懸命やりすぎるきまじめさが、私は教育の場面にありすぎるんじゃないかと思います。やはり意味づけをどうするかですが、伊藤さんが論理療法について書いておられる話です。こだわり、感情的な固着、感情的にそのことにこだわってしまう。それからどう抜け出していくかを教育としては考えていかなくてはいけない。事実はどうでもいいと言っているわけじゃない。事実が改善されるようなことがあれば、それはそれでいい。意味づけとこだわりをどうするかについて、もう少し原理的なところから、お話します。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/06/08

事実と意味づけ 1


 僕たちは、吃音と向き合い、どもる自分をどう認識するか、自己概念教育がもっとも重要だと考えてきました。
 2004年夏、《どもる子どもの自己概念教育》をテーマに、子どもの自己概念教育、自己意識の研究と実践の先駆者、梶田叡一学長を特別講師として迎え、問題提起をしていただきました。自己概念教育の大切さをずっと提唱し続けてきた梶田叡一さんのお話を紹介します。(「スタタリング・ナウ」2005.8.24 NO.132)

第4回臨床家のための吃音講習会・島根  2004.8.7
  事実と意味づけ
               梶田叡一(現・兵庫教育大学学長)・特別記念講演


教育にかかわることになったきっかけ
 私は、京都大学の文学部の心理学科の研究室で、子どもの問題だけでなく、いろんな障害のある子の発達研究を中心に取り組んできました。ほとんど学校に行かず、まじめな学生ではなかったのですが、就職してから、勉強しました。私は30歳の時、心理学で、自己意識と自己概念の問題で、博士号をもらいました。その後、文部省の機関である国立教育研究所の発達研究の部門で、子どもの発達の国際比較研究にかかわりました。英語も勉強も嫌いで二重苦だから行きたくないと抵抗したのですが、業務命令が出て、スウェーデンで開かれたベンジャミン・ブルームが中心の国際会議に6週間行きました。それが私が教育にかかわった最初です。そのときから、私は教育を一から勉強することになりました。
 30歳以降は、心理学と教育学の両方を専門としています。大きな本屋さんには、心理学のコーナーにも教育のコーナーにも私の本がありますが、今日は、その両方が一緒になったような話をします。私はずいぶん前に『子どもの自己概念と教育』(東京大学出版会)という本を出しました。いまだに売れていますが、それを書いていた頃、こだわっていた問題です。

ダウン症の姪
 私には、30歳を過ぎたダウン症の姪がいます。父親が早く亡くなり、親戚のみんなから、心理学をしている私が頼りにされ、その子も私のことを「パパ、パパ」と言い、父親代わりでこの子にかかわりました。この子が育っていく中で、ずいぶん考えさせられたのは、トレーニングは大事だということです。今、統合教育と言われ、通常学級で障害のある子を受け入れることが主流で、これは、ある意味では、悪くないことですが、下手すると、やることがきちんとやれないまま大きくなってしまう可能性があります。私のダウン症の姪は、小学校は普通学級、中学校は養護学級でした。京都は、非常に統合教育の運動の強い所ですが、高校は母親の最後の決断で養護学校の高等部に行きました。これは正解でした。ここで身辺自立がきちんとできるようになり、卒業後、ひとりでバスに乗って京都の町を歩けるようになりました。今も毎日、作業所に通っています。きょうだいの中でも、その子が一番しっかりして、仕事もきちんとやると親戚中の評判です。
 姪を通して、障害のある子にどうかかわるかをずいぶん考えさせられました。一番いけないのは、「かわいそう」ということです。「かわいそう」というのは、よく言えば、共感でしょうが、その子はその子で生きていかなきゃいけない。だから、その子が、自分の力で生きていけるよう親も教師も、場合によっては、心を鬼にして、しなきゃいけないことがあるのです。障害があると、衣服の着脱を手伝ったり、外に行くときもついていったり、いろんなことに手を出したり口を出したりしてしまいますが、それはできるだけやめた方がいい。これは、子育ての問題だと思います。
 私の娘も、幼稚園の先生を長くしていましたが、育児のために仕事をやめました。私は、だめな父親ですが、娘は非常に子育てに厳しいところがある。今、5年生の女の子と3年生の男の子と3歳の男の子がいます。小学校に行く前から、次の日に着るものを枕元に揃え、洗濯物は自分でたたませています。身辺自立には非常にいいなあと見ておりました。子育て一般について言えることですが、何でも自分のことは自分で考え、自分で決定し、自分でする。つまり、人を当てにしないように育てないといけないと思います。ダウン症の姪にかかわり、うちの孫たちを見ていて、そう思います。これをまず前置きとしてお話しておきたかったのです。

どもる甥の話
 私の40歳ほどになる甥が吃音です。小学校のときは、大変でした。いっぱい話したいことがあるのに、話せないのでいらだつ。母親は京都人特有で口が悪い。甥は次男で、きかん気が強い子で、フラストレーションから、乱暴な行動をとる。しかし、私立の中学の終わりくらいに柔道部に入り、めきめき強くなりました。内弁慶で家の中でフラストレートしていた子が、吃音は変わらないのに、フラストレートしなくなりました。柔道部の連中とつるんで、よその学校の生徒とけんかしては警察から呼び出され、周りは心配していましたが、柔道が縁で、「あんたが中に入った方がいいのでは」と言いたいのですが、攻守ところを変えて、刑務所で刑務官になりました。今は刑務所の柔道部を指導している。
 柔道で実績を上げて、刑務官になり、後輩がたくさんでき、指導する立場になって完全に自信がつきました。吃音も前よりは軽くなったが、どもっています。でも、表情は全く変わりました。吃音の話題も出ないし、表現が下手などと一切考えてないようです。今度8月の半ばに、親戚中が集まりますが、たくさんのいとこたちの中で、リーダーの一人で、親戚の中でも大きな顔をするようになりました。

事実の問題
 障害は、事実の問題です。『五体不満足』を書かれた乙武さんという方がいらっしゃいますね。手や足が不自由なのは事実ですが、事実そのものが何か意味をもつわけではない。手や足が不自由で、車椅子にのっていることは、自分にとって個性だと言ってる。手や足が不自由なのは事実だが、基本的には、「これでまあいいか」という意味づけです。問題は、どれだけその事実が重大な問題なのかという意味づけです。「軽い、軽い」と思ったらいいんです。パーフェクトな人間なんていない。人間誰でもどこかに何かがある。問題は、それをどう意味づけるかということです。
 みんないろいろと弱みがあるものです。私も今日は口がすべって、自分の弱みをいくつか言うかもしれません。人間は同じようにはできていません。私は小さいとき、うちの親がお金持ちだったら苦労せずにいろんなことができるのになと思いました。でも、しょうがない、そういう親からしか生まれなかったわけですから。
 昨日の夜、吃音で苦労してきた人のお話を聞いて非常に感銘を受けました。このままどもっていたら、「将来世の中に出た時に何もできない」との思いがあったが、どもりながら実際にいろんな仕事をきちっとやっている人々を見て、安心なさった。どもるのは事実ですが、「私の将来は閉ざされている」、「ものすごく割を食って生きていかなきゃいけない」、「社会的に恥ずかしい」、「人が相手にしてくれない」、これらはみんな、意味づけです。別のことばで言うと、想像です。想像の中で、この事実がどういう色合いに染まるかです。単なる想像ならいいが、こだわってそのことが頭から離れずに、自分の物の考え方や行動の仕方をからめとってしまうと、身動きがとれなくなるんです。

吃音とこだわり
 いろんな障害がありますが、吃音にしぼって考えてみます。どもるという事実はある。しかし、やっかいなのは、それをどう意味づけていくかです。「私は吃音だ。吃音だ」という気持ちでいっぱいになりがちですが、実は、「私は、若い女性である」とか「私は、こういうことができる」とか、いろんな面があるはずです。それなのに、たったひとつの「どもる」ということだけに、どこまでからめとられてしまうか、ということなんです。
 私は今、教育にかかわり、障害児教育から特別支援教育をどうするかという議論を、中教審の初等中等教育部会でしています。同時に、久里浜の国立特殊教育総合研究所やことばの教室ともかかわっています。しかし私は、専門家じゃないから、あえて言いますが、吃音の場合、いろんなトレーニングがあるが、改善はなかなか難しい。むしろ、下手なやり方をすると、トレーニングして、改善されずに、どもってうまく読めないことが続くと、事実の改善を図っているはずが、こだわりを増大させていることになる。ことばの教室の先生がこれだけ一所懸命に改善しようと取り組んでくれるということは、吃音というのはすごく大きな問題なのか、みたいな感じがしてきます。これは、私の感覚で、皆さんが私に同意する必要はないのですが、私はそう思うんです。
 もちろん、できることがあれば、少しずつでも吃音が改善する方策はした方がいいです。事実が改善されるなら、いいことです。スムーズにしゃべれる方が、しゃべれないよりはいいことかもしれないが、それよりもっと大事なのは、意味づけとこだわりだと思うんです。どうやって生きたって、一生は一生です。世の中で拍手されたいとか、収入が多くなりたいとか、せめて3ナンバーの車に乗りたいとか、あれこれ思い出すと、それらを阻害するようないろんな問題を自分は持っているから、重大なものになります。でも、まあ、今の日本では三度三度なんとか食っていけます。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/06/07

能力促進から自己概念へ

能力促進から自己概念へ

 僕たちが「吃音の夏」と呼ぶイベントのスタートは、7月末、千葉県で開催する、第11回親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会です。今、その準備の真っ最中で、詳細は、もうすぐ、ホームページに掲載されます。その吃音講習会の前身である、「臨床家のための吃音講習会」の第4回は、ちょうど20年前の2004年、島根県松江市で行いました。そのときの講師が当時、兵庫教育大学学長の梶田叡一さんでした。気さくに、僕たちの輪の中に入ってきてくださった梶田さんのお話を特集した「スタタリング・ナウ」2005.8.24 NO.132 を紹介する前に、その号の巻頭言を紹介します。吃音は「どう治すかではなく、どう生きるかだ」の、具体的な取り組みにつながります。

  
能力促進から自己概念へ
           日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 この夏、言語障害児教育の大きな三つの大会に参加した。全国公立学校難聴・言語障害教育研究協議会宮崎大会、近畿地区難聴言語障害教育研究協議会奈良大会、全国ことばを育む親の会静岡大会だ。
 私はこの三つの大会の吃音分科会のコーディネーターを担当した。提案された実践と、分科会の雰囲気に大きな喜びを感じた。それは、ある研究大会での話が強い印象として残り続いていたからだ。
 数年前、千葉市立院内小学校の実践が、ある研究大会の吃音分科会で発表された。その実践は、子どもたち同士の交流や、通常学級を巻き込んで、子どもが自分の吃音と向き合うすばらしいものだった。6年生のA君が卒業記念として公開録画番組に取り組んだ様子のビデオが流された。私も一度見せてもらったことがあり、多くの人の共感が得られたものと思っていたが、現実はそうではなかった。その分科会に参加した他県のことばの教室の教師から聞いた話では、どもりながら明るく活動するA君の姿に、多くの批判や疑問が出されたと言う。
「吃音症状がひどく、相手に伝わりにくい。伝える手段をもっと身につけさせるべきだ」
「あれだけどもっていたら、6年生としてことばの教室の終了の目安に達していないのではないか」
 このような批判だったらしい。言語障害児教育を担うことばの教室では、吃音症状を改善させなければ意味がないということなのだろう。居合わせたその教師は実践のすばらしさを評価する発言をしたかったが、批判一色の中で発言ができなかったと言う。
 この夏、私が担当した吃音分科会では全く違う雰囲気だった。全難言協宮崎大会の吃音分科会での岡山の片岡一公さんの報告、近畿地区奈良大会の神戸市立稗田小学校の「出会いのひろばの実践」、親の全国大会の吃音分科会の愛知の尾関稲子さんの実践は、いずれも吃音症状にこだわらない、どもる子どもの自己概念に焦点をあてたものだった。参加者の質問や議論は、実践に共感し、学ぼうというものばかりで、実践者に対する批判的なものはなかった。
 この違いは、吃音についての基本的な考え方の違いによるものだといっていい。どもる子どもの支援を、能力発達・促進に置くのか、自己概念に置くかの違いだと言っていいだろう。ことばを換えれば、「どもらなくなった。吃音が軽くなった」という、話すことばの能力発達に視点を置くのか。「どもりながら友だちとよく遊ぶようになった。どもりながらよく発表するようになった。吃音について周りの友達に話すようになった」など、吃音に対する本人の意味づけが変わり、吃音をマイナスのものと強く思わなくなったことに視点を置くのかの違いである。
 吃音への長い長いアプローチの歴史は、どもる状態に対するアプローチだった。アメリカの研究者・臨床家の間で、長い間論争が続けられた「どもらずに流暢に話す」も、「楽に流暢にどもる」も、どもる状態を問題にすることには変わりがない。アメリカの言語病理学はこの位置から一歩も出られないでいる。
 私たちはこのアメリカの言語病理学から多くのものを学びつつも、一歩踏み出し、吃音症状が改善されたかどうかより、本人が吃音をどう受けとめ、どもる自分にどのような自己像や未来像、自己概念をもつかが最も大切なことだ主張してきたのだった。
 この夏の流れがこのまま言語障害児教育に定着するとの楽観的な見方はできないが、少しずつ「治すことにこだわらない実践」が積み重ねられていると思う。数年前、実践が正当に理解されずに寂しい思いをした院内小学校の人たちも、この夏の吃音分科会の雰囲気の中にいたら、意を強くしたに違いない。
 以前よりどもらなくなった、楽にどもれるようになったという視点ではなく、どもりながら何々ができるようになった、どもりながらも表情が明るくなったなど、吃音をどう受けとめるかということの大切さを強調していくためには、自己意識・自己概念教育に対する学習は欠かせない。
 私たちが書物を通して学んだ、日本における自己意識・自己概念教育を提唱し続けてきた梶田叡一さんに直接お話を聞く機会がもてた。私たちへの大きな応援歌として聞かせていただいた。梶田ワールドを共に味わえるのは大きな喜びである。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/06/06

2004年夏、60歳の僕はかなりハードに動いていました

 「スタタリング・ナウ」2004.9.18 NO.121 で特集した第7回吃音の世界大会での基調講演を紹介してきました。シャピロ博士の講演自体は、昨日で紹介し終わったのですが、最終ページの《編集後記にかえて》を読んで、なんというハードなスケジュールをこなしていたのだろうと我ながら驚き、感心したので紹介したくなりました。
 どれも、よく覚えており、懐かしいです。こんなビッグイベントが立て続けにあったんですね。うーん、当時は若かったなあと思います。若いといっても60歳になっていましたが。2004年、ちょうど今から20年前の僕の夏です。

夏の報告(編集後記にかえて)
 にぎやかだった蝉の声が、いつの間にか涼やかな秋の虫の声にかわっています。季節は確実に移り変わっているようです。殊の外暑かった今年の夏、会員の皆様、読者の皆様にはいかがお過ごしでしたでしょうか。日本吃音臨床研究会はおかげさまで充実し切った夏を過ごすことができました。何人かの会員の皆様とも直接お会いすることができ、うれしく思いました。
 日本吃音臨床研究会の夏は、2冊の本の完成から始まりました。『知っていますか? どもりと向きあう一問一答』(解放出版社)と日本吃音臨床研究会の年報『杉田峰康ワークショップ・生活に活かす交流分析』が本格的な夏の到来を前に完成しました。
 7月28・29日、大阪で全国公立学校難聴・言語障害教育研究協議会の全国大会が開かれました。記念講演は「鞠と殿様」の陽気なお囃子にのって登場した桂文福さん。長い間、続けてこられた人権講演やご自分の吃音のこと、NHKの福祉番組、「にんげんゆうゆう」がきっかけとなった日本吃音臨床研究会や伊藤伸二との出会いなど、参加者を笑いの世界に引き入れていました。伊藤がコーディネーターをした吃音の分科会は、実践発表者も参加者も全員が顔を見合わせるよう、円く座って話し合いました。
 8月1日は、北九州市立障害福祉センターで吃音の講演と相談の集いが開催されました。仕事の範囲をはるかに超えたセンターの言語聴覚士の田中愛啓さんと志賀美代子さんの献身的な好意で毎年開かれています。今年も会場に入りきれないほどたくさんの参加がありました。
 8月3・4日は、大分で九州地区の難聴言語教育の大会。基調講演者は、2001年の吃音ショートコースでワークショップをしていただいた、交流分析の杉田峰康さん。吃音分科会の助言者が伊藤伸二というまたとない機会に、完成したばかりの交流分析の年報を会場に並べることができました。全難言の九州大会の懇親会はいつも盛大に行われます。その交流会で、伊藤は「万歳三唱」を頼まれ、「ばばばばばんざい」と万歳をして、みんなにも「ばばばばばんざい」をしてもらい、大いに盛り上がりました。
 8月6・7・8日は、島根県少年自然の家で、臨床家のための吃音講習会。気さくな梶田叡一・京都ノートルダム女子大学学長の提言を受け、参加者同士、顔を突き合わせ、ゆったりじっくりと自己概念教育について深めることができました。「まっ、いいか」が合い言葉になりました。
 夏のしめくくりは、第15回目を迎えた吃音親子サマーキャンプでした。吃音についての話し合い、作文、劇「飛ぶ教室」の練習と上演、親の学習会など、子どもたちの成長を感じながらのキャンプでした。キャンプから帰ると、吃音ショートコースの申し込みの第一号のFAXが届いていました。実りの秋の到来です。夏の経験をもとに、じっくり温めていければいいなあと思っています。(「スタタリング・ナウ」2004.9.18 NO.121) 


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/04/24

どもる子どもの支援につながる評価とは

 もう13年、いや、まだ13年なのか、2011年3月11日の東日本大震災から13年の日を迎えました。今年の正月には、能登地方で大きな地震がありました。東日本大震災では吃音親子サマーキャンプに宮城県女川町から3回連続して参加した女子学生とその母親が亡くなりました。一昨年、女川町に行き、お墓に参ってきました。また、能登地方にも友人がいます。まだ電話での連絡はついていませんが、被災地で被災者でありながら多くの人の支援をしていることを、ネットのニュースで知って安堵しています。日常の生活が戻っていない被災地のことを忘れないで、僕は僕にできることを続けていこうと思います。

 板倉寿明さんによる、第3回臨床家のための吃音講習会の概要報告を紹介しました。最後に書いていたように、翌年、第4回臨床家のための吃音講習会は、梶田叡一さんを特別ゲストに迎え、島根県浜田市で開催しました。その後も続く予定だったのですが、常任講師である、水町俊郎さんが病気でお亡くなりになり、吃音講習会も途切れてしまったのです。
 でも、岐阜に始まった吃音講習会の熱気は静かに燃え続け、シリーズ2の「親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会」として、復活しました。
 第3回吃音講習会で、僕が話した「どもる子どもの支援につながる評価とは」の前半部分に加筆し、「スタタリング・ナウ」2003.9.21 NO.109に掲載されたものを紹介します。

どもる子どもの支援につながる評価とは
                       日本吃音臨床研究会 伊藤伸二

 今回吃音評価をテーマとしたのは
 1981年、日本音声言語医学会は、言語障害の検査法を確立しようと、障害別の検討委員会を設置した。吃音検査法検討小委員会が出した試案は、アメリカの言語病理学の検査方法の翻訳を中心としたものを、無批判に受け入れて日本の吃音臨床に導入しようとするもので、私は強い違和感をもっていた。成人のどもる人だけでなく、この検査法がことばの教室の教育現場でどもる子どもたちに使われたら、どもる子どもやことばの教室の担当者は辛いだろうと思っていた。それでも、吃音の指導事例の論文でその効果を示すときにこの検査法は使われる程度で、広がりはなかったので大きな影響はないと思っていた。
 ところが、言語聴覚士の法制化に伴って、言語聴覚士が大学や専門学校で養成されるようになり、吃音に関する専門書が出版され、その中でこの吃音検査法が紹介されるようになった。子どもに使う人が出てくるのではないかと不安になった。この検査方法が今後使われるのは見過ごすことができない。どもる子どもに真に役立つ評価とは何かを考えなければならないときがきたと思い、吃音講習会のテーマを吃音評価とした。

日本音声言語医学会の吃音検査法
 1983年に開かれた筑波大学での第28回日本音声言語医学会総会で、私はその検査法を批判した。聞き手や場面によって大きく吃音症状が変わる。子どもなら学校での朗読時間や遊びの時間に、社会人なら会社の重要な会議や得意先に電話をしているときに、吃音症状を検査してはじめて、妥当な検査になる。また、吃音には波があり、その日の体調や気分によって大きく変化する。血液検査やレントゲン検査とは本質的に違う。
 仮にその検査結果が妥当であったとしても、その検査結果をもとにどのような治療プログラムを立てられるのか。細かく分類された吃音症状に応じた治療方法があるわけではない。いたずらに細かい吃音症状面に注目し、検査をされ、それがその後の指導に反映されないとしたら、どもる人にとって検査は本意ではないだろう。
 私は糖尿病患者だが、血液検査を受ける。その数値が医師によって私に示され、それを基に生活指導がなされる。今後の私の糖尿病とのつきあいに、検査は不可欠だと思うから、半日がかりでも診察の一週間前に血液検査を受ける。検査結果をもとにして指示された食事療法や運動療法を行えば、示された検査結果の数値は、確実に変化する。
 吃音検査法を使っている人は、どもる子どもに、吃音の検査結果を、「あなたの吃頻度は何パーセント、持続時間は何秒、緊張性は何文節に2回以上あります」と知らせ、その結果をもとに指導されているのだろうか。もし、知らされていないとすれば、その後にも生かされず、自分に知らされもしない、検査をされるだけの吃音検査を誰が望むだろうか。

吃音自己チェック―私たちの吃音評価
 私は、日本音声言語医学会の吃音検査法を批判し、学会の検査法に代わる評価方法を提起した。それは、吃音症状ではなく、吃音が生活にどのように影響しているのかをみるためのものだ。吃音は対人関係の中での問題だ。吃音のために、対人関係がどのように影響されているのかをみることは、その後の指導や対処につながる。他人から検査されるのではなく、自分がチェックし、その結果をもとに、今後どのように吃音に対処するかを考え、その計画を立てることができる。
 20年以上も前、日本吃音臨床研究会の顧問である、内須川洸・筑波大学名誉教授とどもる子どもの親、私たち成人のどもる人とが、何度も合宿をし、2年ほどかけて吃音評価のチェックリストを検討し作成した。その内容は、学会の検査法批判とそれに代わる新しい評価法の提案として、1984年の日本音声言語医学会誌(VOL.25,NO.3)に掲載された。スタタリング・ナウ57号(1999.5.15)でも要約は紹介している。
 この検査法は、一部の人からは評価されたが、私たちがどもる子どもの臨床に広めようという努力をしなかったために、残念ながら一般の目に触れることはなかった。ただ、どもる人のセルフヘルプグループの大阪スタタリングプロジェクトの大阪吃音教室では、毎年使ってきた。
 大阪吃音教室は、1年ごとに、年間スケジュールを作って、「吃音と上手につき合う」ことを学ぶ。当初は初参加の人に必ずこの評価法にチェックしてもらっていたが、最近は、年度の初めに参加者が、評価法を使って、自分の吃音に対する意識や日常生活の態度をチェックしている。吃音症状の消失や改善を目指すのではなく、日常生活に吃音がどのように影響しているかを探り、その影響を少なくすることを目指し、自分が取り組む方向を決める。吃音に対するマイナスの意識や感情はそうは簡単に変えられないので、変えることができやすい行動から変えていくためだ。まず吃音による日常生活からの回避行動をできるだけ逃げない行動に、少しだけ変える。この日常生活を変えていくために、吃音のチェックが役に立つ。そして、また年度末に再びチェックすると、多くの人に変化がみられる。
 自己チェックをしてみると、吃音症状が自己判断で重いと思っている人が必ずしも、吃音が生活に影響しているわけではなく、周りからは、吃音だとは思われていないような軽い人が、吃音についてマイナスの意識度が高く、回避度も高い場合がある。症状は軽くても、吃音からくる影響も悩みも大きい人が少なくない。
 日常生活の行動や人間関係が変化すると、吃音症状は変わらなくても、吃音に対するマイナスの意識や感情も変化する。吃音の症状の改善を目指さなくても、その人の日常生活は充実したものになる。吃音のマイナスの影響は大きく変化するのだ。それは、大阪や神戸の吃音教室、吃音親子サマーキャンプなどで大勢の子どもやどもる人が実証していることだと言える。

ことばの教室での活用
 成人の吃音に悩む人のために作成した吃音チェックリストだが、学童期、思春期の子どもに活用できる。ことばの教室で使う場合、チェックリストをそのまま子どもに手渡して記入させるのではなく、子どもと質問項目を読み合わせながら、チェックする。低学年でまだ難しいと思われる場合には、担任教師や親のチェックを参考にする場合もある。日常生活への吃音の影響度を探った結果をもとに、学級の中で何をしたいか、どうしたいかなどを話し合い、今後のプログラムを相談しながら、子どもと共につくることができる。自己チェックそのものが、子どもと吃音についてオープンに話し合うための教材となる。自分の問題を自分の力で解決していく力が育つことにつながっていく。
 私たちの吃音チェックリストは、大人用につくったものだが、学童期や思春期の子どもに活用することで、項目や表現を修正し、子どもの支援に役に立つ吃音の評価を作っていきたい。そうしないと、日本音声言語医学会の吃音検査法が唯一のものとして使われ始めることになるかもしれないからだ。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/03/11

ご褒美のような時間〜島根は第二の故郷〜

 第25回島根スタタリングフォーラムフォーラムが終わった後、一気に車で大阪に帰るのはしんどいので、松江に一泊することにしていました。長い間、年末年始に2週間ほど滞在していた、懐かしい玉造温泉のホテルを予約していました。
夕食会 そのことを知った島根大学教授の原広治さんが、どうしてもフォーラムには参加できないけれど、私たちに会いたいと、「伊藤夫妻を囲む会」を計画してくれました。コロナの影響を受け、原さんとも久しく会っていないので、喜んでそのお誘いを受けました。フォーラムの会場からホテルまで約2時間、ホテルに着いた頃に、6時前にホテルまで迎えに行くと、原さんからメールが入りました。
 車に乗せてもらって、夕食会場に着くと、なんと13人もの人が集まってくれていました。フォーラムに参加していた人も何人かいます。片付けをして、駆けつけてくれたのです。古くからつきあいのある人たちもいます。島根の大石益雄さんと親しかった大坂さんや安部さん、僕たちの仲間である佐々木和子さん、国立特別支援教育総合研究所の研修の受講生だった、吾郷さんなど、こんなにたくさんの人が集まってくれているとは全く思わず、びっくりしました。
 話は尽きることなく、わいてきます。島根スタタリングフォーラムを始めるきっかけとなったのは、1999年の年末のことでした。恒例の、年末年始を玉造温泉の厚生年金保養ホームで過ごしていた僕が、国立特別支援教育総合研究所で、島根に行ったら電話をすると約束していたらしく、僕の方から吾郷さんに電話をしたらしいのです。僕は、吾郷さんから電話を受けたと記憶していました。玉造温泉に今来ていると話したようで、それならと急遽、学習会のような研修会のような相談会のようなことをしようということになり、暮れも押し詰まった12月27日に、松江市立内中原小学校が会場になりました。そんな急な話だったのに、結構な人数が参加してくれました。そして、その後の打ち上げの場で、どもる子どものキャンプをしようということになったのです。その場に、原さんも、大坂さんも、安部さんも、吾郷さんもいたということでした。本でしか知らなかった伊藤伸二が目の前にいる!と思ったという話を聞いて、僕の方がびっくりしてしまいました。
 それから、島根の言語障害や聴覚障害の子どもを教育する教師の集まりである、島根聴言研とのつきあいが始まったのです。長いお付き合いになりました。フォーラムだけでなく、島根県の県大会など、いろいろな研修会に招いてもらいました。
夕食会2 シリーズ1の、第4回臨床家のための吃音講習会の会場も島根で、そのときのゲストは島根県出身のノートルダム女子大学学長の梶田叡一さんでした。
 2001年、第30回全難言大会島根大会の大会事務局長は安部さんでした。また、2009年の第38回全難言大会山口大会での、吃音分科会の発表者は佐々木和子さんでした。2016年の第45回全難言大会島根大会の吃音分科会の発表者は、黒田明志さんと、今、フォーラムの事務局を担当している森川和宜さんでした。僕は3回とも、吃音分科会のコーディネーターとして参加しました。
 そんな昔の話や、今、担当している子どもの話、これからの研修についてなど、ほんとに尽きることなく、話が弾みました。安心して、いろいろなことを話していました。これが、第二の故郷だと呼んでいる所以のようです。
 こうして、フォーラムが終わったあとに、これだけたくんさの人が集まってくださり、いろいろなことを自由に語り合う、こんな幸せなことはありません。どもりのおかげで、大勢の仲間に囲まれて、幸せな生活を送っていることを再確認しました。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/11/1
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