伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

東日本大震災

幸せのかたち

親の会パンフレット表紙 今月号の「スタタリング・ナウ」の印刷が終わって、昨日、家に届きました。今月号は374号で、僕は、それだけの数の巻頭言を書いてきたことになります。
 今日、紹介する「スタタリングナウ」2013.5.20 NO.225 の巻頭言を読み返しました。
 NPO法人・全国ことばを育む会発行のパンフレット、両親指導の手引き書41『吃音とともに豊かに生きる』が完成し、それを読んだ人たちの感想文が寄せられた号の巻頭言です。パンフレットの中で、私は、2011年3月11日の東日本大震災の津波で亡くなった阿部莉菜さんのことを紹介しました。その阿部莉菜さんが生きていた女川町にやっと行けたという思いと、そこで感じた、僕自身のこれからの旅の行く道を指し示す思いが重なって、自分で読んでいても驚くほどの力強さを感じ、身が引き締まる思いがしました。ずいぶん前に書いたものですが、まだまだがんばらなければならないと改めて思いました。

  
幸せのかたち
                      日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 そこは、ただ一面、荒涼たる空き地が広がっているだけだった。この地に足を踏み入れないと、私の新たな一歩が踏み出せないと思っていた。やっと立てたその土地は、人の動きもなく、一軒の建物の工事さえ始まっていない。アベノミクスで浮かれている政府や多くの人から、もう忘れ去られているような気がした。悔しさ、寂しさ、怒り、悲しみがこみ上げてくる。この国は、幸せのかたちを考え直す、最後の機会を失ってしまった。
 2013年5月の連休にやっと訪れた、宮城県牡鹿郡女川町は、吃音親子サマーキャンプに3年連続して参加した4人家族の阿部さん一家が幸せに生きていた場所だ。どもることでいじめにあい、不登校になった小学6年生の莉菜さんが、キャンプで仲間と語り合い、生きる力をつけて、その後楽しい中学校生活を送り、4月から仙台の高校へと、夢を膨らませていた場所だ。常に人のことを考えていた母親は、高齢の隣人を助けようとして、莉菜さんと一緒に津波にのみ込まれた。莉菜さんが、キャンプの作文教室で書いた「どもっても大丈夫」の作文は、今後の吃音の取り組みのあり方に、力強いメッセージを残している。
 短い作文だが、その中には、吃音の苦悩、新しい生き方の息吹、決意が込められている。その後の彼女の生きた姿と、この作文は、今、私の大切な宝物となり、これからの私の吃音の取り組みに、勇気を与えてくれる。
 NPO法人・全国ことばを育む会が発行して下さったパンフレット、両親指導の手引き書『吃音とともに豊かに生きる』に、彼女の作文を紹介でき、3・11から学んだ、レジリエンスや防災教育を入れることができたのが、何よりもうれしい。
 私はこれまで何冊も本を書いている。そのひとつひとつに魂をこめて書いてきた。常に時間のかかる仕事だった。流行作家の○○時間で書き上げたなど、とても考えられない。1978年『どもりの相談』を書いたときも2年がかりの大変な作業だった。今回のパンフレットは時間的にはそれほどはかけていないが、私のこれまでの吃音の体験と、私にとっての3・11が重なり合い、書いても書いても満足できなかった。木下順二の『夕鶴』のつうが、好きな与ひょうのために、自分の羽を抜いて織物をつくるのに似た、命を削っての仕事だったような気がする。
 なかなか完成しない原稿。期日を延ばしていただいてやっと書き上げて、数日後、あれだけ元気だったのに大きく体調を崩してしまった。無理を続けていたからだろう。手にした人にとっては、55ページの小さな冊子だが、阿部莉菜さんの人生と一緒に、私の人生を差し出した思いがある。
 書籍のまえがき以外で、自分が書いたものへの思いを書いたのは初めてのような気がする。それだけ思い入れが強いものだったので、今回、深く読んでの感想がとてもありがたかった。
 今回は、私と一緒に活動する、どもる人のセルフヘルプグループである、NPO法人・大阪スタタリングプロジェクトの人たちの感想が中心になった。ひとりひとりが、自分の吃音の人生を振り返りながら、自分のことばで表現する感想に、私は改めて、この仲間がいるからここまで来ることができたのだと、強く思った。ひとりひとりの人生と想像力が、私が書いた以上の広がりをもっている。「吃音を治す・改善する」の立場からは、到底紡ぎ出しようもない「吃音の豊かな世界」がそこに広がっていた。吃音が治らないことを嘆くどもる人、治せないことに無力感を感じる臨床家はいる。しかし、治らなくても大丈夫。吃音とともに豊かに生きる世界をぜひ知って欲しい。
 津波のためにその後の人生を絶たれた阿部莉菜さん。小学4年生から連続してキャンプに参加して、27歳になる長尾政毅さん。ふたりは、キャンプで出会っている。
 女川町で莉菜さんの冥福を祈った翌月に、彼の結婚式に私は列席する。言いようのない思いが巡る。短くても、長くても、吃音とともに幸せに、豊かに生きた、生きる人々の人生を伝え続ける私の旅が、新たに宮城県女川町から始まった。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/10/19

レジリエンスと防災教育

 僕は、「吃音は予防教育だ」、とよく言ってきました。早期自覚教育の必要性も話してきました。2011年3月11日の東日本大震災を経験して、より一層その思いを強くしました。
 今、かなりいろいろな分野で浸透してきた「レジリエンス」。僕たちは、かなり早く出会い、取り入れ、その育成に力を入れてきました。「スタタリング・ナウ」2013.3.20 NO.223 より、巻頭言を紹介します。

  
レジリエンスと防災教育
                日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 東日本大震災から2年。今年も3月11日がやってきた。私の大切な、吃音親子サマーキャンプの教え子を津波で失ったことも含めて、この日は私にとって、特別の忘れたくない一日だ。
 亡くなった多くの人々に思いをはせ、残った者として、この一年をどう生きたのか、これからの一年をどう生きるのかを考える大切な一日だ。私には、大晦日から元旦を迎える一日以上の意味をもつ。
 かつて経験したことのない、地震と大きな津波の連動、原子力発電所の人災を考えたら、日本人の死生観、人生観が大きく変わるだろうと思った。一時的にその機運があったかに見えたが、被災地以外の日常は、経済重視の、元の人生観に戻り、日本は、大転換のチャンスを逸してしまった。これらについて発言したいことは多いが、本紙の主なテーマは、吃音をどう生きるかだ。吃音に絡めて大転換を提案したい。
 3・11から私たちが教訓とすべきものを整理すると「レジリエンス」と「防災教育」にたどりつく。それは私にとっては新しいことではなく、ことばは違うが、「早期治療から早期自覚教育へ」や「悩む力、どもる力」などですでに書いてきたものだ。新しい年を迎えるに当たって、私たちが学び、展望すべきことを考えたい。
 昨年の私たちの活動は「ナラティヴ元年」だった。ナラティヴ・アプローチを学ぶ中で、精神科医の小森康永さんから、「レジリエンス」の概念を教えていただき、さらに、国重浩一さんをご紹介いただいた。新しくいろんな人と出会っていけるのは、「吃音を治す・改善する」を目指していないからだ。つくづくありがたいことだと思う。
 スクールカウンセラーとして被災地に入った、臨床心理士の国重浩一さんから、被災地の子どもたちの様子をお聞きした。
 世間一般で言われているような、PTSD(心的外傷後ストレス障害)で子どもたちは大変な状況に必ずしも陥っていない。自然災害は誰の責任でもないと受け止めていると話して下さった。
 「逆境を乗り越え、心的外傷となる可能性のあった苦難から新たな力で勝ち残る能力、回復力」というレジリエンスの概念は、たくさんのどもる子どもたちと重なった。どもることを指摘されたり、からかわれたりしながら、音読や発表で苦戦しながら、子どもたちは、時に落ち込みながらも、元気で生き延びている。
 かわいそう、治してあげなくてはという「脆弱性モデル」ではなく、「レジリエンスモデル」でどもる子どもとつきあいたい。そろそろ、子どもは守られるだけの存在だという子ども観から脱却しなければならない。
 今回、「津波てんでんこ」で知られる防災教育の徹底さが、生死の明暗を大きく分けた。石巻市の大川小学校では全校児童108人中74人が津波の犠牲になった。なぜ教師は子どもたちを助けられなかったのか、苦しい中で検証が続く。一方、群馬大学・片田敏孝教授から「地震がきたら、家族を待たずにてんでんばらばらで逃げろ。ひとりでも生き延びろ」の防災教育を受けた釜石市の小学・中学生は、2926人中、学校の管理下になかった5人を除いて全員が、津波から逃げ「釜石の奇跡」と言われた。しかし、子どもたちは「日頃教えてもらったことを実践したまでで、奇跡でも何でもない。これは僕たちの実績だ」と話している。
 このふたつの体験から私たちは何を学ぶか。
 吃音は、どもること自体には何の問題もない。吃音をマイナスのものととらえ、吃音を隠し、話すことから逃げる、シーアンの吃音氷山説の水面下が大きな問題なのだ。吃音を理由に人生の課題から逃げる劣等コンプレックスに陥ることで吃音は問題となる。そうならないための予防教育を、私は早期自覚教育として提案してきた。
 これが、防災教育に似た「予防教育」だといえる。ことばの教室で、吃音キャンプで、予防教育を受けた子どもたちは、レジリエンスを発揮して、元気で生きている。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/09/29

言語聴覚士の仕事

 今日は、3月11日。2011年から、14年経って、また、3月11日が巡ってきました。
 宮城県の女川町から、家族4人で吃音親子サマーキャンプに参加していた阿部莉菜さんとお母さんのことを思い出しながら、過ごしています。東日本大震災の津波で亡くなり、何度もこのブログで取り上げてきました。
 70歳まで、僕は、言語聴覚士養成の専門学校や大学で、吃音の講義を担当していました。多いときは、同時に、7校で講義をしていました。昼間、講義をして、同じ学校で夜間にも講義をするということもありました。
 言語聴覚士の存在は、どもる人にとってどのようなものなのだろうと思うことがあります。専門職ができたことは、ありがたいことではあるのですが、吃音が治療の対象となったことについては、僕は、少し心配しています。専門職や制度がなかった頃、どもる人は、自分でしっかり考え、自分の力で自分の人生を切り拓くしかありませんでした。また、それができるのが、吃音だと思うのです。
 今日から、ひとりの言語聴覚士の取り組みを紹介しますが、吃音についてこのように考え、実践してくれる人が増えることを切に願います。
 「スタタリング・ナウ」2010.1.23 NO.185 より、まず巻頭言です。

言語聴覚士の仕事
    日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 私は、言語聴覚士養成の専門学校数校で、吃音の講義をしている。これから臨床家になる学生に、吃音に興味関心をもってほしい、そして、どもる子ども、どもる人のいい味方になってほしいと、祈るような思いで、一所懸命に話をしている。
 私の講義に出会う前、学生はほとんど吃音に興味も関心もないことが多い。どもるという現象は、緊張したりあわてたりする時、誰もが経験することで、それがどうして、言語聴覚士の仕事になるのか、イメージがわかないという。「吃音」「どもり」ということばすら、専門学校に来て初めて知ったという人がいる。
 私自身の吃音の苦悩の歴史、ある青年の事例検討などを通して、吃音がこれほどまでに、その人を悩ませ、人生に大きな影響を与えることがあると知って、まず、大きな驚きをみせる。そして、100年におよぶ吃音研究臨床の歴史を話すと、これだけ、科学医学が進歩発展しているにもかかわらず、吃音の原因も、吃音のメカニズムも、分かっていないことにため息が出る。
 これまで学んできた他の言語障害には、検査方法があり、その検査結果にそって治療プログラムがあるのに比べ、あまりの違いに面食らうのだ。
 私の講義は、グループでの話し合いと発表、そして常に感想や意見を求め、それに対してまた私がレスポンスを返すなど、ディスカッションのように講義が進んでいく。だんだんと、吃音に興味関心が向いてくるのが、学生の発言で伝わってくる。吃音の症状の検査法や訓練法の話では、学生もあまり吃音に興味がもてないだろう。治せないにとまどいながらも、どう生きるかを考え始める。
 吃音に強い劣等感をもつと、劣等コンプレックスに陥り、「これさえなければ私は幸せだ」と考える吃音の悩みの話は、自分の問題と照らし合わせて聞いている。弱みや劣等感のない人はまずいないだろう。それと向き合い、どうつきあうかは、学生にとっても共通する課題なのだ。
 吃音親子サマーキャンプの様子が収録されている、TBSのニュースバードの40分のビデオには、学生はとても大きな関心を示す。自分とあまり年齢の変わらない高校3年生の涙の卒業式の様子や、吃音の悩みを出し合い、しっかりと自分の意見を言う話し合いの姿を見て、うらやましいとまで言う。そして、私たちに何ができるのかと、関心が広がっていく。
 講義の最終日、吃音にとても興味がもてた、吃音に強い言語聴覚士になりたいなどというふりかえりを書く学生がときどきいるのがうれしい。
 昨年5月、新潟県で行われた日本コミュニケーション学会の、久保田功さんの発表はうれしかった。「吃音を治す、改善する」が言語聴覚士の仕事だと狭く考えず、二人の青年に誠実に取り組んだ実践報告に、「みんな、ちゃんと聞いておいてよ」と思いながら聞いていた。
 「吃音は治らないから、難しいからと尻込みをする言語聴覚士が多いのは残念だ。どもる人の問題に目を向け、どうすれば軽減できるかを考えて援助をすることは言語聴覚士にとって大切な仕事だ。小児も成人も吃音を担当する言語聴覚士が増えてほしいと願っている」
発表の最後に言語聴覚士に強く訴えていた。
発表の後、手を挙げて、どもる当事者として感謝の気持ちを伝えたかったが、時間がなくて発言できなかったのは残念だった。そこで、終了後、そのことを久保田さんに伝え、「スタタリング・ナウ」で紹介していただけないかとお願いしたのだ。
「吃音症状の消失・改善」を至上命令のように感じているアメリカの臨床家にはできない、関わり方だ。タイプの違う二人の青年の就職に関して苦戦していることに関わり、誠実に、専門家として取り組んでいたのがうれしい。
感想をセルフヘルプグループの東野晃之さんに書いてもらった。久保田さんのような言語聴覚士が増え、個人的に関わる専門家と、セルフヘルプグループとの連携ができれば、日本の吃音臨床に明るい道が開けることだろう。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/03/11

どもる子どもの支援につながる評価とは

 もう13年、いや、まだ13年なのか、2011年3月11日の東日本大震災から13年の日を迎えました。今年の正月には、能登地方で大きな地震がありました。東日本大震災では吃音親子サマーキャンプに宮城県女川町から3回連続して参加した女子学生とその母親が亡くなりました。一昨年、女川町に行き、お墓に参ってきました。また、能登地方にも友人がいます。まだ電話での連絡はついていませんが、被災地で被災者でありながら多くの人の支援をしていることを、ネットのニュースで知って安堵しています。日常の生活が戻っていない被災地のことを忘れないで、僕は僕にできることを続けていこうと思います。

 板倉寿明さんによる、第3回臨床家のための吃音講習会の概要報告を紹介しました。最後に書いていたように、翌年、第4回臨床家のための吃音講習会は、梶田叡一さんを特別ゲストに迎え、島根県浜田市で開催しました。その後も続く予定だったのですが、常任講師である、水町俊郎さんが病気でお亡くなりになり、吃音講習会も途切れてしまったのです。
 でも、岐阜に始まった吃音講習会の熱気は静かに燃え続け、シリーズ2の「親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会」として、復活しました。
 第3回吃音講習会で、僕が話した「どもる子どもの支援につながる評価とは」の前半部分に加筆し、「スタタリング・ナウ」2003.9.21 NO.109に掲載されたものを紹介します。

どもる子どもの支援につながる評価とは
                       日本吃音臨床研究会 伊藤伸二

 今回吃音評価をテーマとしたのは
 1981年、日本音声言語医学会は、言語障害の検査法を確立しようと、障害別の検討委員会を設置した。吃音検査法検討小委員会が出した試案は、アメリカの言語病理学の検査方法の翻訳を中心としたものを、無批判に受け入れて日本の吃音臨床に導入しようとするもので、私は強い違和感をもっていた。成人のどもる人だけでなく、この検査法がことばの教室の教育現場でどもる子どもたちに使われたら、どもる子どもやことばの教室の担当者は辛いだろうと思っていた。それでも、吃音の指導事例の論文でその効果を示すときにこの検査法は使われる程度で、広がりはなかったので大きな影響はないと思っていた。
 ところが、言語聴覚士の法制化に伴って、言語聴覚士が大学や専門学校で養成されるようになり、吃音に関する専門書が出版され、その中でこの吃音検査法が紹介されるようになった。子どもに使う人が出てくるのではないかと不安になった。この検査方法が今後使われるのは見過ごすことができない。どもる子どもに真に役立つ評価とは何かを考えなければならないときがきたと思い、吃音講習会のテーマを吃音評価とした。

日本音声言語医学会の吃音検査法
 1983年に開かれた筑波大学での第28回日本音声言語医学会総会で、私はその検査法を批判した。聞き手や場面によって大きく吃音症状が変わる。子どもなら学校での朗読時間や遊びの時間に、社会人なら会社の重要な会議や得意先に電話をしているときに、吃音症状を検査してはじめて、妥当な検査になる。また、吃音には波があり、その日の体調や気分によって大きく変化する。血液検査やレントゲン検査とは本質的に違う。
 仮にその検査結果が妥当であったとしても、その検査結果をもとにどのような治療プログラムを立てられるのか。細かく分類された吃音症状に応じた治療方法があるわけではない。いたずらに細かい吃音症状面に注目し、検査をされ、それがその後の指導に反映されないとしたら、どもる人にとって検査は本意ではないだろう。
 私は糖尿病患者だが、血液検査を受ける。その数値が医師によって私に示され、それを基に生活指導がなされる。今後の私の糖尿病とのつきあいに、検査は不可欠だと思うから、半日がかりでも診察の一週間前に血液検査を受ける。検査結果をもとにして指示された食事療法や運動療法を行えば、示された検査結果の数値は、確実に変化する。
 吃音検査法を使っている人は、どもる子どもに、吃音の検査結果を、「あなたの吃頻度は何パーセント、持続時間は何秒、緊張性は何文節に2回以上あります」と知らせ、その結果をもとに指導されているのだろうか。もし、知らされていないとすれば、その後にも生かされず、自分に知らされもしない、検査をされるだけの吃音検査を誰が望むだろうか。

吃音自己チェック―私たちの吃音評価
 私は、日本音声言語医学会の吃音検査法を批判し、学会の検査法に代わる評価方法を提起した。それは、吃音症状ではなく、吃音が生活にどのように影響しているのかをみるためのものだ。吃音は対人関係の中での問題だ。吃音のために、対人関係がどのように影響されているのかをみることは、その後の指導や対処につながる。他人から検査されるのではなく、自分がチェックし、その結果をもとに、今後どのように吃音に対処するかを考え、その計画を立てることができる。
 20年以上も前、日本吃音臨床研究会の顧問である、内須川洸・筑波大学名誉教授とどもる子どもの親、私たち成人のどもる人とが、何度も合宿をし、2年ほどかけて吃音評価のチェックリストを検討し作成した。その内容は、学会の検査法批判とそれに代わる新しい評価法の提案として、1984年の日本音声言語医学会誌(VOL.25,NO.3)に掲載された。スタタリング・ナウ57号(1999.5.15)でも要約は紹介している。
 この検査法は、一部の人からは評価されたが、私たちがどもる子どもの臨床に広めようという努力をしなかったために、残念ながら一般の目に触れることはなかった。ただ、どもる人のセルフヘルプグループの大阪スタタリングプロジェクトの大阪吃音教室では、毎年使ってきた。
 大阪吃音教室は、1年ごとに、年間スケジュールを作って、「吃音と上手につき合う」ことを学ぶ。当初は初参加の人に必ずこの評価法にチェックしてもらっていたが、最近は、年度の初めに参加者が、評価法を使って、自分の吃音に対する意識や日常生活の態度をチェックしている。吃音症状の消失や改善を目指すのではなく、日常生活に吃音がどのように影響しているかを探り、その影響を少なくすることを目指し、自分が取り組む方向を決める。吃音に対するマイナスの意識や感情はそうは簡単に変えられないので、変えることができやすい行動から変えていくためだ。まず吃音による日常生活からの回避行動をできるだけ逃げない行動に、少しだけ変える。この日常生活を変えていくために、吃音のチェックが役に立つ。そして、また年度末に再びチェックすると、多くの人に変化がみられる。
 自己チェックをしてみると、吃音症状が自己判断で重いと思っている人が必ずしも、吃音が生活に影響しているわけではなく、周りからは、吃音だとは思われていないような軽い人が、吃音についてマイナスの意識度が高く、回避度も高い場合がある。症状は軽くても、吃音からくる影響も悩みも大きい人が少なくない。
 日常生活の行動や人間関係が変化すると、吃音症状は変わらなくても、吃音に対するマイナスの意識や感情も変化する。吃音の症状の改善を目指さなくても、その人の日常生活は充実したものになる。吃音のマイナスの影響は大きく変化するのだ。それは、大阪や神戸の吃音教室、吃音親子サマーキャンプなどで大勢の子どもやどもる人が実証していることだと言える。

ことばの教室での活用
 成人の吃音に悩む人のために作成した吃音チェックリストだが、学童期、思春期の子どもに活用できる。ことばの教室で使う場合、チェックリストをそのまま子どもに手渡して記入させるのではなく、子どもと質問項目を読み合わせながら、チェックする。低学年でまだ難しいと思われる場合には、担任教師や親のチェックを参考にする場合もある。日常生活への吃音の影響度を探った結果をもとに、学級の中で何をしたいか、どうしたいかなどを話し合い、今後のプログラムを相談しながら、子どもと共につくることができる。自己チェックそのものが、子どもと吃音についてオープンに話し合うための教材となる。自分の問題を自分の力で解決していく力が育つことにつながっていく。
 私たちの吃音チェックリストは、大人用につくったものだが、学童期や思春期の子どもに活用することで、項目や表現を修正し、子どもの支援に役に立つ吃音の評価を作っていきたい。そうしないと、日本音声言語医学会の吃音検査法が唯一のものとして使われ始めることになるかもしれないからだ。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/03/11

東日本大震災の被災地と震災遺構を訪ねる旅 6 土門拳記念館と藤沢周平記念館

東日本大震災の被災地と震災遺構を訪ねる旅 6 土門拳記念館と藤沢周平記念館

宿場町セット十三人の刺客セット 宮古から気仙沼に南下し、そこから日本列島横断の旅に出発しました。向かったのは、秋田県庄内羽黒です。羽黒山、月山、湯殿山を合わせて出羽三山と呼ぶそうですが、そのうちのひとつ、羽黒山のスギ並木の石段、随神門、そして五重塔と神秘的な石段を歩きました。その後は、映画好きな僕には興味ある、スタジオセディック庄内オープンエリアへ。たくさんの映画やドラマを撮った所です。僕たちが観た「十三人の刺客」で使われた宿場町のセットがありました。映画のシーンがよみがえってきました。
土門拳・藤沢周平記念館 翌日、以前から行きたかった、土門拳記念館へ行きました。―ヒロシマ・ナガサキ―江成常夫と土門拳 の特別展がありました。土門拳の作品には、よく子どもが登場します。「筑豊のこども」、「江東のこども」などで、子どもの屈託のない表情が印象的でした。今回の―ヒロシマ・ナガサキ―でも、子どもが出てきます。今回の―ヒロシマ・ナガサキ―では、被爆した女性たちのケロイドを、憤怒に震え、泣きながら撮ったそうです。皮膚移植手術の様子は、見るのが怖くなるくらい詳細でした。胎内被爆の子は白血病に苦しんでいましたが、その子のうつろなまなざしに、戦争の不条理と原爆の無慈悲を感じました。彼の、平和への強い願いが表れていました。ヒロシマの原爆記念館に収めて欲しい写真です。
 映像があって、見ましたが、映像の中の土門拳さんは、どもっているようにみえました。土門拳さんがどもるということは聞いたことがあるのですが、映像を見たのは初めてでした。吃音は、51歳の時の脳出血の後遺症だと思っていましたが、そうではなかったようです。
藤沢周平記念館のみ藤沢周平記念館の前で 伸二 その後、藤沢周平記念館に行きました。藤沢周平さんには、大阪教育大学の5日間の集中講義の時、「吃音を治す努力の否定」についてどう思うか、アンケートをお送りしたことがあります。その時、丁寧にお返事をいただきました。記念館には年譜がありましたが、そこにも、ちゃんと、「この頃、吃音に悩む」と書いてありました。
藤沢周平年譜 藤沢周平さんが、「他者を理解できる人に」とのタイトルで、新成人に向けて書いた文章がありました。

      他者を理解できる人に
 一度しかおとずれない青春です。この時期にスポーツ、恋愛、仕事、何でもいいから、自分のやりたいことに思いっきり挑戦してみてください。失敗をおそれる必要はありません。失敗こそ奥行きのある人間をつくるのです。しかし、やりたいことをやるといっても、他人の迷惑を考えない自己中心的なやり方をするのは大人とは言えません。どうか他者の存在を理解できる人になってください。…

 偶然ですが、二人の吃音の先輩の記念館を同時に訪ねたことになります。

 長かった東北への旅もそろそろ終わりに近づきました。大阪へは、日本海沿いを南下しました。日本海東北道から北陸道を走り、金沢で一泊しました。金沢まで来ると、ああ、帰ってきたと思いました。今回は、宮城・岩手が中心だったので、次回は、福島に行きたいと計画しています。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/09/18

東日本大震災の被災地と震災遺構を訪ねる旅 5 石巻市震災遺構大川小学校

東日本大震災の被災地と震災遺構を訪ねる旅 5  石巻市震災遺構大川小学校

大川小学校2大川小学校 大川小学校3大川小学校校歌大川小学校展示女川町で、今野順夫さんにお会いし、阿部莉菜さん、容子さんのお墓参りをして、女川つながる図書館に行った後、車を石巻市に走らせました。ぜひ、行きたかったところがあります。それは、石巻市震災遺構大川小学校です。すぐそばを北上川が流れていました。学校は、低い土地に建っていました。地震発生が14:46、大津波警報が出されたのが14:52、そして実際に津波が到達したのが15:37でした。約1時間、子どもたちは、運動場で、高台に避難するよう呼びかける放送を聞きながら待機させられていたのです。
なぜ?と思ってしまいます。「山へ逃げよう」と先生に訴えた子もいたと聞いています。実際に行動した子もいたと聞きました。
 パンフレットには、こう記されています。
大川小学校パンフレット    町がありました
    生活がありました
    いのちがありました
    子どもたちが
    学び 遊びました
  石巻市の市内も走りました。石巻には、震災2年後に訪れています。町の真ん中に、家の屋根の上に船がひっくり返っていました。川の近くにある石ノ森章太郎の漫画館にも行きましたが、その日はちょうど休館日でした。町はまだまだ寂しい感じがしました。そこに確かにあった生活、戻るのは難しいようです。大川小学校についてなど、震災関連ではは書きたいことがありすぎて、これ以上は書けません。東日本大震災の被災地と震災遺構を訪ねる旅の記事を終えるにあたって、旅のきっかけになった、阿部莉菜さんのことを紹介した、NPO法人全国ことばを育む会発行の「吃音とともに豊かに生きる」の一部分を紹介します。
 
防災教育と吃音    「吃音とともに豊かに生きる」P.32より 

 被災地では、「釜石の奇跡」と呼ばれる「防災教育」が成果をあげました。大きな津波を経験している三陸地方では、家族てんでんばらばらに逃げて生き延びる「津波てんでんこ」が言い伝えられています。これを防災教育に生かしたのが釜石市です。群馬大学の片田敏孝教授の徹底した教育を受けた子どもたちは、学校の管理下になかった5人をのぞいて、市内の小・中学生およそ3000人全員が無事に生き延びました。子どもたちは、「日頃教えられたことを実践したに過ぎない。奇跡ではなく、実績だ」と話します。防災教育が徹底された地域とそうでない地域の大きな差は、教育の力の大きさを表しています。
 どもることは何の問題もありません。吃音を否定し、劣等コンプレックスに陥って、吃音は単なる話しことばの特徴から、取り組まなければならない課題へと転じます。まだ子どもが吃音を否定していない場合でも、否定するとどのような問題が起こるか学んでおく必要があります。吃音の取り組みは、防災教育に似て、予防教育だとも言えると僕は思います。
 吃音親子サマーキャンプに、宮城県女川町から3年連続して参加した4人家族がいました。小学6年の阿部さんは、6年生になっていじめに合い、不登校になりました。その辛さを僕のグループで泣きながら話しました。90分の話し合いで、顔が晴れやかになり、翌朝の作文教室で「どもってもだいじょうぶ!」と作文に書きました。すぐに学校へ行くようになり、その後もキャンプに参加して、将来の明るい夢を語り、仙台の高校に入学が決まっていたのに、お母さんと一緒に逃げ遅れて亡くなりました。彼女のことは決して忘れないでおこうと、その後の講演などで、作文を紹介しています。

   どもってもだいじょうぶ!
                         小学6年 阿部莉菜
 私は学校でしゃべることがとてもこわかったです。どうしてかというと、どもるから。しゃべっていて、どもってしまうと、みんなの視線が気になります。そして、なんだか「早くしてよ!」と言われそうで、とってもこわかったです。なんだかこどくに思えました。でも、サマーキャンプはちがいました。今年初めてサマーキャンプに来てみて、みんな私と同じで、どもってるんだ、私はひとりじゃないんだと思いました。そして、タ食後、同じ学年の人と話し合いがありました。そのときに思ったのは、みんな、前向きにがんばってるんだ、なのに私はどもりのことをひきずって、全然前向きに考えてなかった。そのとき、私は思いました。どもりを私のとくちょうにしちゃえばいいんだ。そのとき、キャンプに行く前にお父さんに言われたことを思い出しました。どもりもりっぱな、いい大人になるための、肥料なんだよ。そうだ、どもりは私にとって大事なものなんだ。そういうことを昨日思いました。今日、朝起きたときは、気持ちが楽でした。まだサマーキャンプは始まったばかりだと思うけど、とても学校などでしゃべれる自信がつきました。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/09/16

東日本大震災の被災地と震災遺構を訪ねる旅 4 釜石・陸前高田

東日本大震災の被災地と震災遺構を訪ねる旅 4 
 釜石市・「うのすまい・トモス」
 陸前高田市・東日本大震災津波伝承館(いわてTSUNAMIメモリアル)と奇跡の一本松

久慈普代 三鉄久慈普代 駅名 被災地と震災遺構を訪ねる旅の合間に、観光地にも少し行きました。車で久慈まで行き、そこで、久慈―普代間の往復乗車券を買いました。宮古駅の観光案内センターで、「宮古から久慈まで乗ってもいいが、トンネルが多いので、車があるなら久慈まで車で行って、リアス式海岸線のきれいなところの往復をしたらいい」と教えてもらったのです。
久慈普代 赤い鉄橋久慈普代 景色 なるほど、情報はその土地土地で仕入れるに限ります。なぜか半額の700円の往復乗車券が買えて、しかもクーポン券付です。10:39発の三陸鉄道に乗車しました。聞いたとおり、トンネルが多かったのですが、堀内と白井海岸の間がリアス式海岸できれいでした。電車も徐行したり、停まったりしてくれます。


釜石 防災教育釜石 てんでんこ釜石 メモリアル 別の日、岩手県の釜石市に行きました。これも観光案内で聞いて、伝承館のひとつ、釜石の「うのすまい・トモス」へ行きました。釜石祈りのパーク、いのちをつなぐ未来館があります。「釜石の奇跡 津波てんでんこ」についても展示されていました。「てんでんこ」は、「てんでん・ばらばらに逃げるという意味だけではない。それぞれが自分の命は自分で守るという防災教育です」ということばが印象的でした。鵜住居駅のホームに立つと、その奥に、釜石鵜住居復興スタジアムが見えます。釜石 ラグビー1釜石 ラグビー2釜石 ラグビー看板と共に僕は、スポーツの中で、好きで今でもよく観るのは、唯一、ラグビーです。新日鉄釜石の時代からよく試合を見ていました。森重隆、松尾雄治らも現役時代から見ていました。ラグビーのワールドカップがあった年だったか、ラグビーを扱ったTVドラマがいくつかありました。ラグビーというだけで見たのですが、萩原健一、高橋克典らが出ていたのを覚えています。その舞台が、ここ釜石の復興スタジアムでした。歩いていくと、中に入ることができ、ながめていると、関係者らしき人が声をかけてくれました。僕が、明治大学出身で、ラグビーの早明戦は東京まで観に行くと話すと、「僕もラグビーをしていました。明治のラグビーはいいですね。僕も明治に行きたかったんですけど…」と話が弾みました。
陸前高田 消防車陸前高田 松植林陸前高田 一本松 その後、「東日本大震災津波伝承館(いわてTSUNAMIメモリアル)」に行きました。みんなの命を助けるために、最後までサイレンを鳴らし走っていた消防車が展示されていました。少し歩くと、有名な「奇跡の一本松」があります。一本松のそばに、ひっくり返ったユースホステルがありました。ずうっと、広く長く続く松林だったそうです。映像で、その松林が、津波にのまれ、根こそぎなぎ倒されるところを見ました。今、松の植林をされていました。まだ小さいです。この松たちが伸びて、松林になるのは何年後だろうと思います。
 今回は、岩手県と宮城県を中心に回りましたが、次回は福島県を中心に行こうと思っています。福島は、原発事故がからんできます。自分の目で見て、体感し、自分の頭で考えて、どう行動するのか、大切なことだと思います。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/09/15
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