大江健三郎さんの訃報に接し、大江さんとのつながりについて、以前の「スタタリング・ナウ」から紹介しました。
「スタタリング・ナウ」の紹介に戻ります。今日は、芥川賞作家の村田喜代子さんにゲストとしてきていただいた吃音ショートコースの特集号のニュースレター(「スタタリング・ナウ」2000年6月 NO.70)です。巻頭言は、そのときの村田さんの講演のタイトルからお借りしました。村田さんは、ご自分の吃音とのつきあいから「どもり礼讃」との演題でお話してくださいました。村田さんのお話は、明日以降に紹介します。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/03/16
「スタタリング・ナウ」の紹介に戻ります。今日は、芥川賞作家の村田喜代子さんにゲストとしてきていただいた吃音ショートコースの特集号のニュースレター(「スタタリング・ナウ」2000年6月 NO.70)です。巻頭言は、そのときの村田さんの講演のタイトルからお借りしました。村田さんは、ご自分の吃音とのつきあいから「どもり礼讃」との演題でお話してくださいました。村田さんのお話は、明日以降に紹介します。

どもり礼讃
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二
村田喜代子さんの、「どもり礼讃」とは何と思い切った表現だろう。ひとりの世界で、自分だけがどもりに悩んでいると思い、なんとか治したいと思い詰めている人にとっては、ある意味で我慢ならないことばではないだろうか。
実際お話を聞くと、どもりに苦労していないわけではなく、どもって立ち往生もする。吃音に深刻に悩んでいる人なら、落ち込みそうなことを、村田さんは、スリリングなこととして楽しんでおられる。窮地に陥ったときの対処が人生を豊かにしているのだと誇らしげだ。
村田さんの、「どもり礼讃」ということばだけを聞くと、反発する人もいるだろうが、どもって立ち往生している様子、その窮地からの脱出の様子は、大いに共感することだろう。
どもる人の多くが、村田さんのように考えることができたら、随分と楽になるだろうと思う。なぜこのような村田さんになったのか。
どのようなどもる人に出会うかが、大きな影響を与えるのだと思う。どもりを嘆き、隠し、不本意な生活を送る人と子どもの頃出会っていれば、今の村田さんはなかったのかも知れない。最初に出会ったというより、うつした叔父が、ひどくどもりながらも、明るく臆せず堂々とどもり倒す叔父だった。親分肌の叔父に弟子入りをしたからだ。その叔父は、どもりをうつしたが、その対処方法も伝授したことになる。
このような明るくどもり倒すモデルに出会う事なく、どもりの暗いイメージだけをもって生きてきた人が、「どもり礼讃」にまで至ることができるだろうか。
子どもの頃どもり倒す師匠には出会えなかった私は、その分時間はかかったが、大勢のどもる人と出会った。その人らしく誠実に生きるどもる人に大勢出会い、さらに自分自身の生き方を問い直し、吃音と上手につきあうことができるようになった。ひとりでは難しいかも知れないが、仲間がいれば、人は変わっていく。
ところで、どもる人間を他者はどう見ているだろうか。人それぞれに大きく違うのだろうが、ひとつのヒントとして、映画や芝居でどもる人がどのようなキャラクターとして設定されているかをみると興味深い。あなたが映画監督とすれば、どもる人間をどう生かすだろうか。
誠実な人間を描くのに、訥々とどもらせる人がいるし、ひょうきんな人間として描く人もいる。どもる症状を強調して、神経質な人間、滑稽な人間、豪快な明るい人間、暗い人間と、実にさまざまな人間設定として、どもる人間は登場してくる。
病気や、障害、いわゆるハンディキャップと一般的に言われているものの中に、こんなに幅広くその特徴を強調して人物を描くものは他にはない。どもり全面否定から、どもり礼讃まで、どもる人本人にとっても他者にとっても受け止め方は実に幅が広いということになる。
24年前の私の著書『吃音者宣言』(たいまつ社)に、当時福岡市教育委員会の指導主事・守部義男さんは、どもる人を自分自身を含めて、まじめで正直で純情だとし、こう書いて下さった。
「人生において、どもりのような適度な抵抗を持ったために、それを克服する努力がそのまま自分を磨くことになった。もともと素晴らしい人格がもっと磨かれるという意味で、私はどもりであることを喜んでいるのです。どもりを持ちながらありのままにふるまえばいい。私は、どもりと徹底的に仲良くなれた、どもりが私を育ててくれたという実感があります」
どる人のセルフヘルプグループを作って、35年。私は吃音一色の人生を送ってきた。仕事は時に変わったが、吃音というライフワークだけはしっかりと離さなかった。おかげで、日本全国の大勢のどもる人、さらには国際大会を開いたために、世界中のどもる人々に出会った。恐らく、35年間、吃音にこだわり続けて生きてきた私が、世界で最も数多く、どもる人やどもる子ども、その親と出会ってきた人間のひとりだろう。
数千人以上のどもる人々との出会いの中では、どもりの苦しみに共感する一方で、どもり礼讃は、すとんと落ちるのだ。どのような人に出会うかが、吃音否定のままか、どもり礼讃まで行き着くかを決定することだろう。(「スタタリング・ナウ」2000年6月 NO.70)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/03/16