伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

杉田峰康

2004年夏、60歳の僕はかなりハードに動いていました

 「スタタリング・ナウ」2004.9.18 NO.121 で特集した第7回吃音の世界大会での基調講演を紹介してきました。シャピロ博士の講演自体は、昨日で紹介し終わったのですが、最終ページの《編集後記にかえて》を読んで、なんというハードなスケジュールをこなしていたのだろうと我ながら驚き、感心したので紹介したくなりました。
 どれも、よく覚えており、懐かしいです。こんなビッグイベントが立て続けにあったんですね。うーん、当時は若かったなあと思います。若いといっても60歳になっていましたが。2004年、ちょうど今から20年前の僕の夏です。

夏の報告(編集後記にかえて)
 にぎやかだった蝉の声が、いつの間にか涼やかな秋の虫の声にかわっています。季節は確実に移り変わっているようです。殊の外暑かった今年の夏、会員の皆様、読者の皆様にはいかがお過ごしでしたでしょうか。日本吃音臨床研究会はおかげさまで充実し切った夏を過ごすことができました。何人かの会員の皆様とも直接お会いすることができ、うれしく思いました。
 日本吃音臨床研究会の夏は、2冊の本の完成から始まりました。『知っていますか? どもりと向きあう一問一答』(解放出版社)と日本吃音臨床研究会の年報『杉田峰康ワークショップ・生活に活かす交流分析』が本格的な夏の到来を前に完成しました。
 7月28・29日、大阪で全国公立学校難聴・言語障害教育研究協議会の全国大会が開かれました。記念講演は「鞠と殿様」の陽気なお囃子にのって登場した桂文福さん。長い間、続けてこられた人権講演やご自分の吃音のこと、NHKの福祉番組、「にんげんゆうゆう」がきっかけとなった日本吃音臨床研究会や伊藤伸二との出会いなど、参加者を笑いの世界に引き入れていました。伊藤がコーディネーターをした吃音の分科会は、実践発表者も参加者も全員が顔を見合わせるよう、円く座って話し合いました。
 8月1日は、北九州市立障害福祉センターで吃音の講演と相談の集いが開催されました。仕事の範囲をはるかに超えたセンターの言語聴覚士の田中愛啓さんと志賀美代子さんの献身的な好意で毎年開かれています。今年も会場に入りきれないほどたくさんの参加がありました。
 8月3・4日は、大分で九州地区の難聴言語教育の大会。基調講演者は、2001年の吃音ショートコースでワークショップをしていただいた、交流分析の杉田峰康さん。吃音分科会の助言者が伊藤伸二というまたとない機会に、完成したばかりの交流分析の年報を会場に並べることができました。全難言の九州大会の懇親会はいつも盛大に行われます。その交流会で、伊藤は「万歳三唱」を頼まれ、「ばばばばばんざい」と万歳をして、みんなにも「ばばばばばんざい」をしてもらい、大いに盛り上がりました。
 8月6・7・8日は、島根県少年自然の家で、臨床家のための吃音講習会。気さくな梶田叡一・京都ノートルダム女子大学学長の提言を受け、参加者同士、顔を突き合わせ、ゆったりじっくりと自己概念教育について深めることができました。「まっ、いいか」が合い言葉になりました。
 夏のしめくくりは、第15回目を迎えた吃音親子サマーキャンプでした。吃音についての話し合い、作文、劇「飛ぶ教室」の練習と上演、親の学習会など、子どもたちの成長を感じながらのキャンプでした。キャンプから帰ると、吃音ショートコースの申し込みの第一号のFAXが届いていました。実りの秋の到来です。夏の経験をもとに、じっくり温めていければいいなあと思っています。(「スタタリング・ナウ」2004.9.18 NO.121) 


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/04/24

交流分析と吃音 3

 杉田峰康さんが、ご自分の専門分野の心身医学と吃音をからめて、お話いただいています。真摯に向き合っていただいたこと、感謝の気持ちでいっぱいです。杉田さんとの対談の紹介は、今日が最後です。杉田さんはじめ、本当にいろいろな方に吃音ショートコースに来ていただき、対談させてもらったなあと思います。幸せなことでした。

2001 吃音ショートコース 対談 3
            交流分析と吃音
                       杉田峰康・伊藤伸二


真理は汝を自由にする

伊藤:さきほどおっしゃった「真理は汝を自由にする」ですが、僕はそれに似たようなことで、「真実は人を傷つけない」と思ってるんです。どもりはぜったい治らないとは言わないけども、多くの人が治らなかったのは真実なんです。治らないと言うと、本人も、子ども、親も傷つくから言えないと言う。治ると言って実際に治らないことの方が人を傷つけると僕は思うんですけど、「傷つけたくない」が延々と続いている。

杉田:私どもは「あなたにとって、治るとはどういう意味ですか」と基本的な質問をするんです。完全な健康になりたいとの返事なら無理ですとはっきり言います。完全な健康なんか、歳とれば、みんな病気になるんだし、結局、自分の体の真実を知って、それとうまく付き合って、出来る限り、社会適応していく。薬を飲みながら、病院通いながら社会人としての責任を全うしていく。完全に健康を回復しなければ退院しないというのもおかしいですね。
 「真理は汝を自由にする」は、精神分析の考え方でもあるわけです。自分についての真実をはっきり知る。心が傷ついたトラウマは消えないわけですよね。心の外傷体験、例えば、性的ないたずらをされた人は、おそらく男性が恐いとか、男性を避けたいという気持ちはいつまでも残ると思います。しかし、治療グループに参加して同じような不幸な経験をした人がいるという真実を知ると、仲間がいるという支えが体験できそれも一つ真実ですね。私一人だけじゃなく同じように苦しんでる人がたくさんいる。苦しみの程度もあるでしょうが、この真実によって楽になり、自由になっていく。完全な人間はいないという真実。不完全な人間の方が多いという真実、人間は間違いをするものだという真実に気づけば、みんなで一緒に生きているという真実も受け入れられますね。

人生脚本

伊藤:人生脚本についてですが、どうして僕たちはどもりを治そうとここまで思いつめたか。それは言葉では言わないけども、母親なり父親なりの養育者が、どもってると、かわいそうだなという表情をしたり、言葉では決してかわいそうだとは言ってないんだけども、それを敏感に感じ取って、どもるとお母さんを悲しませるとか、そういう、非言語的なメッセージが強く働くと思うんです。

杉田:昨日の佐々木さんの例のように、口では言わないけども、目つきとか、雰囲気とか、態度そのものから困った心配だというメッセージを伝えてしまうことがありますね。それこそ、直すべきことなんでしょうね。そのために再決断療法などで、「ありのままのあなたでいいんですよ」というメッセージを、親が我が子に伝えるのは、葛藤を乗り越えるプロセスとして必要でしょうね。

伊藤:親子の関係と臨床家もそうですが、吃音はある程度、軽くなったりすることよりも、自分を大切に生きることが大事だと思うんです。そのために、どういうふうに臨床家が、親が関わっていけばいいのかというと、「どもってもいい」という〈許可証〉をあたえることだが、僕たちの主張なんです。吃音親子サマーキャンプは「どもってもいい」が大前提としてあります。そういう雰囲気でやっているキャンプをしていることを日本特殊教育学会という学会で発表しました。すると、二人の吃音研究者からそれは危険思想だ、「どもってもいい」なんて言われたら困ると強く反発されました。研究者、臨床家としては、「どもってもいい」ものをどうして研究しなければならないのか、臨床するのかということなのでしょうかね。

杉田:心身医学の草創期では、人間関係のふれ合いや人生観も病気に関係する、生きる意味が病気を左右するんじゃないかと言いますと、内科的な病気は生物学的な原因によるもので、薬物や検査を中心にするのが先決で、最初から人間関係を調べる必要などはないと相手にされなかったり、宗教じゃないかと批判されることもありました。しかし、東洋の思想の中には宇宙との一体感があれば、心の中も身体的にも統一されているという考えもあります。科学は再現可能で、数字で表したのが科学で、そうでなければおかしいとの主張があります。しかし、面接一つとっても、科学だったら、池見先生と同じ言葉を使って、同じやり方をすれば同じように治っていくはずです。ところが、面接療法のマニュアルは作れない。一人一人の面接療法の結果は違うわけです。科学的発想で、最終的に心理療法の教育はビデオを見せればいいという時代が来るかというと、来ないでしょう。外科の手術などは、先輩がしたとおりにすれば同じ結果がでる。ある先生が薬を処方して、若い先生も同じ処方すれば、同じ結果が出るはずですが、そうでないことがあるんです。臨床経験豊かな温かい人がらのお医者さんからいただく薬と、卒業したばかりの知識中心の医者が出した薬は全く同じでも効き方が違う。こういう実験の結果から、科学にも限界があることが分かります。人が治っていくとか成長していくのは、教育の場では再現不可能で、数字に表せない領域、ある意味では、芸術に近いような領域ですね。
 私どもを真に自由にする真実とは、人間的に心と心がふれ合うとか、何のために生きるとか、エゴイズムから解放されて、本当に意味のある人生を生きるとか、そういう体験の方が真実であると思います。言葉を自由にしゃべれることは便利かもしれませんが、あんまりしゃべると言葉は人を傷つけることもありますね。むしろ、吃音の方々が、いい聞き手になって下さる方がいいと私は思いますね。

伊藤:本当にそうですね。僕らの仲間でも、どもってた時の方がすごくつきあいやすくて、いい人間だったのがいます。どもりが軽くなったりすると、しゃべりすぎ、人を傷つけることを平気で言うようになりました。かえって、嫌な人間になっていく場合があるんですね。

杉田:一つの言葉を一回言えばいいのに、何回も言うと、言葉は致死量になるわけですよ。睡眠薬は1錠のむとよく眠れますが、20錠のんだら明日の朝は目がさめません。言い過ぎの言葉で人は傷つくでしょう。私どもも、言葉の生活の中で、本当に自分が成長するような言葉をいただいたてきたかと思い起こすと、傷ついた言葉の方が多いんじゃないですか。おそらく、吃音の方がことばで他人を傷つけるというのはほとんどないじゃないですか。

伊藤:そうなんですよ。吃音を認めて、どもっても誠実に話す人なら、話すことで人を傷つけるようなことはないでしょうが、普通にベラベラしゃべることが価値があると思い込んで、普通に近づかなければならないと思う人だったら、しゃべる相手が練習台になってしまいます。そこでは人を傷つけることが起こる可能性はありますね。(「スタタリング・ナウ」 2004.7.24 NO.119)

対談はこの後、ますます佳境に入っていきます。この続きは、2001年の年報に掲載されているのですが、残念ながら、この年報も在庫がありません。日本吃音臨床研究会のホームページで紹介したいと思います。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/04/15

交流分析と吃音 2

 大阪吃音教室の2024年度が昨日、新しい会場である大阪ボランティア協会のセミナー室で始まりました。初参加者5名を含む17名の参加がありました。ホームページを見た人や僕の開設している吃音ホットラインに電話をくださった人たちが、吃音という共通項で集まりました。これから1年間、互いの経験を出し合い、吃音と上手につきあうことを探っていきたいと思います。
 昨日のつづきを紹介します。
 同じ程度のどもる状態であっても、深刻に悩む人もいれば、全く悩まない人もいます。吃音をどうとらえ、どう向き合うかによって、大きく影響を受けることもあれば、全く日常生活に支障がないこともあります。吃音と上手につきあうため、交流分析は、大きな強い味方になってくれます。

2001 吃音ショートコース 対談 2
            交流分析と吃音
                       杉田峰康・伊藤伸二


「どもってもいい」と心身医学の発展の歴史

杉田:自由を妨げるのは〈禁止令〉です。禁止令は非常に多くの場合、「べき」が中心にあって、「こうしなければいけない」、「完全でなければならない」、「完全に健康でなければならない」という完全神話が背景にあります。「べき」から自由になる必要があります。時々、べきを全部外す練習なんかもいいと思います。小さい頃から親や先生や、マスコミが言ってきた、一見「べき」にみえるものを外して生きてみたらどうなるか。
 例えば、「節約すべきである」。節約は大事なことですが、あまり「べき」が強くて、電気を消すべきだと考えすぎると、老人がいる家では、家庭の中でつまづいたり、ぶつかったりして怪我をする。お年を召したら、「節約しろ」から少し自由になって、電気ぐらいは自分の人生で怪我しないために、明るくする。定年退職した人で、お金はたくさんあるのに、「節約しよう」とばかり言う人は、「楽しんではいけない」という禁止令に縛られて、うつ病になります。停年後は、自分の人生の重荷を歯を食いしばって生きていく生き方からも自由になることも必要ですね。
 「吃音は悪いもの、劣ったもの」というメッセージを、自分たちの時代で修正して、次の時代に渡さないということは非常に重要だと思います。世代継承をしない。次の子どもに私と同じ苦しみを味合わせない。禁止令から自由になりましょうということ伝えていきたいものです。

伊藤:どもる人のセルフヘルプグループの活動の中から、真実に目覚めた人間にとって、そういう役割が大事だと思っています。吃音の取り組みの大きな流れは、どもりで悩んでいる人と出会うとやっぱりかわいそうで、治さなきゃならない、と揺れている。そして、「治すべきだ」となる。その中で、僕らの姿勢が、あまりにもかたくなだと言われても、少なくとも日本吃音臨床研究会だけでも、きちっと歯止めをかけたい。油断をすると、やっぱり「治すべき」という方向にいきます。臨床家として、セルフヘルプグループの世話役にとっても、治したいという人に「辛いよね、やっぱり治した方がいいよね」は楽だからつい言ってしまう。治したいという人に、「どもってもいい」はある意味でエネルギーのいることなんです。

杉田:これはある意味で、心身医学の発展の歴史でも同じだったといえましょう。

伊藤:あー、そうなんですか。

杉田:内科の領域に心理学を入れるなんて、と従来の医学の抵抗がありました。私の恩師の池見酉次郎先生は、内科の領域に心理学を入れて、心身一如の立場から人間を全体的に見て、病気を心と体の両面から追究しようとされました。心療内科が出来た当時、暫くの間、心療内科は科学的でないなど厳しい批判も受けましたが、今日では、心身症は常識になって、21世紀は心身症という言葉すらなくなるであろうといわれます。何故かというと、全ての病気が心と体が互いに関係するので、身体、心理、社会環境、さらには生態学を含めて、全人間的なアプローチをしなければならないからです。いろんな意味で医学教育と医療制度にもチャレンジし、今はだいたいどこに行ってもストレスがもとに病気がおこることが認識されてきています。心身症医を標榜されて開業なさる先生方も増えております。しかし、ときどきマイナスの面も起こります。なんでもかんでも、心から起こると言って、一種の新興宗教みたいに患者さんを集めて治療することは、いうまでもなく誤りです。心療内科の歴史は長い主体性確立の歴史でした。
 不登校も同じようなところがあります。親の育て方が悪いと母親を悪者にする。父親も非難されることも時々ありますけれども、そもそも不登校の本当の原因はわからないんです。10人10色ですね。それを悪者探しで、何々がいけないと決めつけていた。そして、「学校へ行け」と登校刺激を与えるが、ある子どもは行けても、大部分の子どもは行けない。このように従来の教育の方法ではよけい行けなくなるからと、文科省も登校刺激を与えないようにと指導しています。学校へ行けと言わないで親子の関係を改善すると、結果はずっといい。今、学校にようやくスクールカウンセラーが入り始めて、全体的にものを見て、人間関係を良くして、生徒の立場から気持ちを理解しようとするといい結果が出始めました。
 お母さんは「あんたが学校へ行っても行けなくても大事な人間よ」と、休んでる間に、一緒にご飯食べたり、遊んだりする。子どもが休んでるときに、「単語くらい覚えなさい、教科書くらい開けなさい」などと、学校の延長の様なことを続けないで、思い切って心のふれあいを回復する。私は可愛がられて大事な人間だ、人間として産まれてきて良かった、愛されてるんだと、お母さんお父さんとのふれあいで感じ取ると、多くの子どもがモゾモゾと動き出すんです。親の期待する学校に行くか行かないかは関係なく、どこへ出しても、この子は生きていけると信頼する。学校へ行きたければ20歳になってからでも、もう一回高校行ったっていいんですものね。そういう生き方を選べるようにしっかりした心を育てるように指導していくのは、皆さんの考え方と似ているんではないかと思います。
 おそらく、今までの吃音を治す方法では、症状が一時良くなっても、根本的な自分の人生観や考え方が手つかずでは、劣等感や自己否定感情が残ります。思い切って、根本的な問題である人間関係や、親子の心のふれあいを回復することが大切ですね。

伊藤:そうですね、不登校や拒食症状を吃音に置き換えれば、十分考えられると思います。交流分析や心身症の治療に関わってこられたご経験から、吃音について何かご質問いただけますか。

「治したい」から、「そのままでいい」へ

杉田:吃音の人の何人かは、治すことを中心とした民間吃音矯正所に出入りされていました。しかし、今日では、そうしたクリニックも、だんだんに全人間的な立場に変わってきているようです。しかし、今だに、やはり、リラックスしてみんなの前で話させるとか、言語の修正が中心で、ありのまま生きるところまでは行ってないと思うんですね。私が一番伺いたいのは伊藤さんがどういういきさつで今の到達点にお立ちになったかですね。

伊藤:私たちも最初は、治したいにばかり縛られてたんです。どもっている自分は仮の人生で、どもりが治ってからが本来の自分なんだと。治りたいと思い詰めて一生懸命治す訓練をしました。私はどもりが治ると宣伝する吃音矯正所で4ヶ月一生懸命治すために頑張ったんですが、治らなかった。私だけでなく、同じ時期に治療を受けた300人ほどの全員が治らなかったという事実に向きあうと、これまでの、「どもりは治る」という情報は何だったんだと、疑問がわきました。ひょっとしたら、どもりは治らないのではないかと思うようになりました。治らないものに対して、治そうとしている。そして、治さなければならないというメッセージをずっと子どもの頃から与えられ続けてきた。この「治る、治せる」という呪縛から抜ける必要があったのですが、簡単なことではなかったですね。

完全主義

杉田:交流分析から言えば、間違いなく〈禁止令〉ですね。呪いですね。完全でなければいけないとか、治っていない事実があるのに、事実でないものを一生懸命追いかけて、「完全たれ、完全でないのはダメ人間」と追いつめる。

伊藤:そうですね。どもる人が自分の言語生活の中で、どれだけどもっているのかを計ってみると、もちろん症状の重い人も色々様々ですが、多くの人は、例えば、10%くらいしかどもってないことが分かる。それを「話すからには完全でなければならない」と考えると、90パーセントのどもらない部分を見ないで、10パーセントが許せなくなる。完全主義がすごく強い。紀元前560年ごろに、どもりを治して、大雄弁家になったデモステネスに憧れて、吃音の専門用語で、デモステネス・コンプレックスというのがあるくらいです。完全主義、完全癖と言っていいのでしょうか。それがどもりの大きな問題なんです。

杉田:心身症の中にも、性格的には自我不確実感を持った〈完全主義〉の人が多いんです。それを一応、言葉では強迫性格、強迫傾向と言っていいと思います。たとえば、ものごとをとことん調べないと気がすまない、汚れたら徹底的にきれいにしないと気がすまないとか、極端になりますと、一日中、お掃除をしてる。石鹸を一日に2個くらい洗い流して手を洗わないと気がすまない。これらのこだわり、とらわれの完全主義の背後にあるのは不安ですね。不安恐怖です。そこでの不安恐怖に対する防衛がなされますが、防衛がうまくいきますと、補償というかたちになります。デモスネスの話がありましたけども、とにかく完全にしゃべろうとして、頑張って成功した例ですね。例えば、田中角栄さんは小学校しか出なかったが、ものすごい努力をして、総理大臣になった。ある意味で、成功した例ですよ。でも、その頑張れ、頑張れというのは結局、不安と恐怖ですよね。1%か2%の人が大成功者にあこがれるのでしょうけども、元々は完全主義の自分に対する恐怖と不安に対するが中核にあります。病的になって、「完全にしゃべらなきゃいけない」というと、強迫ノイローゼの一種ですよね。それに失敗すると、自分を責める。ダメ人間、というような、どこかで共通した因子があるんじゃないでしょうかね。
 日本人にはこういう傾向は多いそうですね。物事や体の状態にこだわって、とらわれる森田神経質といわれる性格特性ですね。私の恩師の池見先生はこのタイプだったんです。私が最初にアメリカから帰ってお会いしたとき、私にとって印象的なのは、「杉田さん、私は対人恐怖なんです」と言われたことでした。その時、先生が、慶応大学で講演をするのを聞いたのですが、大変、立派な講演でした。「先生、今日の講演は本当に感銘深く受け止めました」と申しましたところ、「杉田さん、私は対人恐怖で、若い頃から、森田正馬先生のところに通って、ありのままの生き方を受け入れたんです。私が心療内科を作ったのは、私の弱点を克服して、他の人びとに同じようにこういう形で、ありのままで生きる生き方を示したいからです」と話されました。

伊藤:この前、お亡くなりになりましたけども、晩年は対人恐怖は無くなったんですか。

杉田:いいえ、依然ありましたよ。でも、先生はそのことをお認めになって、対人恐怖だけれども、あるがままで生きる。生の欲望が強いから、それだけこだわるんです。そのエネルギーがちょっとゆがむとこだわれるという形になるとよく言われました。池見先生ご本人も不眠症で、過敏性腸症候群で、下痢や便秘で長い間、苦労なされました。でも、下痢をしても体重は減らないんだと発見された。医者として、便通にこだわる自分も含めて色々調べてたら、ストレスを与えると腸が痙攣して下痢になりやすいと分かった。緊張やこだわりが関係するので、森田先生に学んだ、あるがままの生き方を、不眠症、過敏性腸症候群、対人恐怖にもあてはめていかれたわけです。

伊藤:僕らが困るのは、田中角栄やデモステネスなどの一部の成功者なんです。それを例にだしながら、自分も治ったという人が、「私はどもりを治した、あなたも治るはずだ」と圧力をかける。僕らが「どもりは治らない」と言うと、「治った人がいるじゃないか」という。治った人がいるかもしれないが、ごく一部の成功者を挙げて、「治った人もいるじゃないか」と言われても困るんです。僕は、「宝くじだって当たる人はいる、ほとんどが当たらないだろう」と宝くじを例に出します。

杉田:認知の大きな歪みの一例ではないでしょうか。「結論の飛躍」ですね。体育系の人が生活指導で、「朝起きて運動して、腕立て伏せ50回して頑張って県大会に出た。俺に出来ることは君らに出来ないはずない。俺も学校行きたくなかったけど、耐えてやったんだ。この忍耐が君らに出来ないはずはない」などと、例外を全部一般化するのはおかしいのです。「学校に行けなかったら、思い切って汗かいて運動場の一つも走ってこい」こうした教育はその人には役に立っても、体の弱い人に無理なのです。運動場を走らせたら、倒れてしまう。結論の飛躍です。例外は例外と認めず、例外を全部、「俺の通りにやればいいのだ」というのは一種の強要、強制で、それは認知の歪みから来ると思います。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/04/14

交流分析と吃音 1

 「どもりは悪いもの、劣ったもの、恥ずかしいもの」、このスティグマによって、自分を否定し、悩みを深めていったどもる人はどれだけたくさんいることでしょう。21歳までの僕もそうでした。吃音に限らず、苦悩の始まりは、このスティグマが大きく関係しているのだと思います。自分で、他者によって、あるいは社会によって貼られたこのスティグマをはがすために、これまで、さまざまな分野から学んできました。
 今回、紹介するのは、大阪吃音教室でも定番になっている交流分析です。
2001年の吃音ショートコースのテーマは、《日常生活に活かす交流分析入門》でした。日本の交流分析の第一人者である、福岡県立大学大学院の杉田峰康さんを講師にお迎えし、講義・演習、そして僕との対談と、交流分析にどっぷりと浸った2泊3日でした。「スタタリング・ナウ」 2004.7.24 NO.119 から、対談のごく一部分ですが、紹介します。

2001 吃音ショートコース 対談
            交流分析と吃音
                       杉田峰康・伊藤伸二


伊藤:吃音について交流分析でどう考えるか、昨日から学んだことを具体的に生活に活かすにはどうしたらいいかをお聞きします。まず私が、吃音について交流分析で考えたのは、人生脚本の〈禁止令〉です。過去延々と続いてきた吃音の歴史は、「どもりは悪いもの、劣ったもの。恥ずかしいもの、治すべきもの」という脚本をずっと周りから与え続けらた歴史でもありました。
 私が吃音に悩んでいた、1950年代の新聞や雑誌などの一般的な情報が全てそうでした。公的な相談機関が全くない中で、どもる子どもも大人も民間吃音矯正所にたよるしかありません。民間吃音矯正所が全国を回り、学校の講堂を使って、どもりを治す講習会をしていました。それらの矯正所は、必ず、反社会的な行動や自殺などの「どもりの悲劇」を並び立てました。例えば、金閣寺を焼いた若い僧侶はひどい吃音で、すごく悩んでいたとか、オリンピックの円谷選手が自殺したのは、金メダルのプレッシャーもあったが、吃音も影響していたとか。これらのことが、大きく吃音矯正所の出版する本などに書かれています。その反社会的な、非社会的な行動は、吃音が原因だから、「どもりを治さないと決して有意義な人生は送れない」とし、私たちの吃音矯正所では必ず治すと宣伝しました。
 「吃音は悪いもの、治さなければならない」という脚本に反論する教育機関も相談機関もなく、医学系や心理学系の大学の一部の教授たちも、知ってか知らずか吃音矯正所を支援をしていました。この民間矯正所の垂れ流す情報が、唯一の情報でした。私たちは、他に情報を知りませんから、その脚本を渡されて、「どもりを治さなければ」と治す努力もしてきました。しかし、治らずに、自分を否定して、吃音矯正所に手渡された脚本通りに、有意義な人生が送れなかったと嘆く人も稀ではありませんでした。
 今ここで、私たち私たちが出来ることは、これまでの吃音の人生脚本を変えることです。過去の綿々と続いてきた、「どもりは悪いもの劣ったもの」という吃音に対する認識を、断ち切らないと、そこから起こる二次的な問題の発生の連鎖を切らないと、後に続くどもる人たちに自分たちが縛られた脚本をまた渡してしまうことになる。私たち日本臨床吃音研究会の役割はこの連鎖を切ることだ。吃音の人生脚本を書き換え、後に続く人たちに新しい脚本を渡さなくてはいけない。そう考えて交流分析を学んできました。
 これまで考えてきたことや、実践をそろそろまとめ、提案する時期に来ていると感じていました。その時に、杉田先生と出会え、お教え頂くのは大変ありがたいことです。お力をお貸し下さい。

マイナスの強化因子

杉田:はい。私もこちらにきて、みなさんの実践発表やどもる人の体験を聞かせて頂いて、特に、教育現場で吃音に関しては、あきらかに〈禁止令〉が働いていることを実感しました。私は心療内科に長年勤めてきましたが、吃音の方も少しいらっしゃいました。私は吃音そのものを直接治すことはいたしませんで、全人間的に心理面・社会面・環境面で、総合的にその人が生きやすくなるという事を中心に心身医学的に患者さんにかかわります。これは対症療法ではないわけです。全人間的な視点からその人の生き方、生活習慣、また環境面のストレスも考慮したアプローチです。環境面から見てみますと、今、伊藤さんがおっしゃったマイナスの強化因子が大変多いですね。
 例えば、別の例で言いますと、拒食症は、強化因子のほとんどがマスコミです。女性雑誌は、とにかく「痩せている人は美しい」と書く。すると、深くものを考えない方々が、特に、女性がまずご飯を食べないで痩せる。そうすると周りが、「きれいになったね」と言う。その結果、病気がどんどん固定していく。同じような意味で、マスコミが、「吃音の悲劇」をあまりに主張し、回のり人たちも吃音をマイナスの目で見ると、マイナスの強化の環境になりますね。
 女性のアルコール依存や若者の喫煙がすごく増えてますが、これも、どんどん自動販売機を作って、テレビでどんどん宣伝することが影響していますね。外国では子どもがテレビを見る時間帯では、酒の広告はコマーシャルさせないことになっています。こういうことはアルコール依存の主な原因ではないと思うんですが、強化因子といえましょう。
 次に、問題はマスコミに影響をされやすい人びとです。マスコミがいくら「やせている人は美しい」と言っても、「そんなはずはない」といえる健全な人はいます。栄養失調になって、生理が止まって、ガリガリの体重35kgくらいになったら、赤ちゃんは産めないし、生命も危ないのは常識で考えれば、わかるわけです。それと同じように、吃音が、マスコミに影響されるのも、自分で考えて生きるという主体性がないからでしょうね。
 交流分析では、主体性がない心の状態を、AC(adapted child)と考えます。主体性を欠く人は、親の期待に添おう、親を喜ばせようとする。段々痩せても、「お母さん、大丈夫よ、安心して」と言って、親を心配させないように振る舞う。親の方もこの子がそう言うのだから、まかせましょうと考えて、本気になって事実を見ない。本来の自分ができていない主体性のなさ、マスコミに影響されやすい自我の弱さが問題だと思いますね。誰がなんと言おうとも、自分で観察し、考えて正しいと判断したこと以外は排除するという強さが必要です。
私はここに来る前に、伊藤さんの本を読ませていただきました。私どもは、心理療法を用いてまいりましたが、心がいやされるポイントは「真理は汝を自由にする」ということだと思います。伊藤さんの「治らないという事実を受け入れて、どもりながら実りのある人生を生きる」が、私も真理だと思います。自分のありのまま姿(真理)に気づくとき、人は自由になります。昨日の皆さんの話を伺っていて、あんなに立派に話をなさる方が心の奥の奥では、劣等感に悩んでいるということは、症状が良くなっても、生き方自体はまだまだ吃音を隠してどもることを恐れてることになりますね。どもりながらでも、やるべき事はするとおっしゃっていた方々が自由になられた方々だと思いました。
 日本人がお米とみそ汁の食生活からハンバーガーやステーキの西洋食にしたら、糖尿病は増えましたね。糖尿病は治らない病気ですから、治療は、自分で自分の体をよく知って、セルフコントロールしていくことが必要だといわれます。「私は糖尿病です。低血糖値で倒れたら助けてください」と書いたカードを持って、病気をしっかりと受け止めて、生きていく。今日はそういう教育が中心になっています。そんな意味で「真理は汝を自由にする」と、自分のことをちゃんと知った時、本当の生き方と結びついていくのではないでしょうか。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/04/13

生活に活かす〜実践的交流分析入門 番外編:感想

 「スタタリング・ナウ」2001.12.15 NO.88 で特集した、杉田さんの「生活に活かす〜実践的交流分析入門」の報告は、昨日で終わりました。今日は、そのときの吃音ショートコースに参加されたお二人の感想を紹介します。

    
自分を見つめ直せた3日間
                  奥村寿英(愛知県江南市・ことばの教室教諭)

 吃音ショートコースに参加するきっかけは、同じ市でことばの教室の担当をしている先生の「とにかくすごい会だよ」と、いうことばでした。「参加している人が、みんなまじめに語り合い、夜の10時まで研修するんだよ」と、ふだんは冷静な先生が、興奮気味に語られるのを聞き、「そんなすごい会なら、一度参加してみよう」と思いました。
 ことばの教室の担当になって2年目。吃音のお子さんも二人担当しています。「吃音は治せない」という伊藤伸二さんのことばに納得したものの、「では、吃音の子どもと、どのように関わっていったらよいのか」と、悩んでいました。伊藤伸二さんの本『吃音と上手につきあうための吃音相談室』を読んだり、8月に岐阜で行われた「臨床家のための吃音講習会」に参加したりして、その答えを探している矢先でもありました。
 会場は日赤滋賀りっとう山荘。紅葉が美しい静かな山中で、合宿をするにはうってつけの場所です。出会いの広場では、まだ堅かった雰囲気が、「真っ赤な秋」を体を動かしながら歌ったり、ゲームをしたりするうちに、だんだんほぐれてきて、講座の頃には自分でも驚くほど初対面の人にいろいろなことを話していました。夕食後にも講座があり、本当に10時まで、(それまでは半信半疑でした)真剣に語り合いました。その後、部屋に移動してコミュニティーアワーになりましたが、そこでもまだ話したりない人どうしが、お酒を飲みながら自分の体験を語り合っていました。吃音に悩んできた人たちの思いの深さが感じられ、知らないうちに、自分まで誰にも話したことのない過去の体験を語っていました。
 2日目は午前中に体験や実践発表、活動報告がありました。どの発表も、その人が吃音や吃音の人と、どう関わってきたかを主張されていて、印象深いものばかりでした。吃音の人は、まじめで、心優しい人が多いと言いますが、その通りだと思います。それゆえ、人を傷つけることを恐れ、「自分さえ我慢すればいい」と、自分の感情を押し殺し、かえって自分を傷つけてしまうことが多い。自分にもそのような側面があり、自分も吃音でこそありませんが、その要素はもっていることを自覚しました。
 午後からは、福岡県立大学名誉教授の杉田峰康先生を講師にお迎えして、交流分析について学びました。交流分析という名前は聞いたことがありましたが、具体的には何も知りませんでした。講座では、まず、自己を知るためにエゴグラムを作るところから始まりました。自分はNP(やさしさ)やA(冷静さ)、FC(感情)が比較的高く出ました。しかし、10年前の自分、20年前の自分だったら、どうだったでしょう。おそらくCP(きびしさ)やAC(人に合わせる)がもっと高く出たと思います。
 最近、父が亡くなり、かえって、その存在を自分の中に見つけることがあります。仕事一筋で、あまり家庭を顧みることのなかった父でしたが、父の無言の教えが自分の中に生きていることを、講座を受けながら感じました。「幼児決断」と「再決断」を、参加者の体験をもとに実践的に学べたことは、一個の人間として自己を見つめ直すよい機会になりました。これまでは、自分のことを「好き」と言うことにためらいがありましたが、今では「自分のことが好きだ」と、はっきり言うことができます。今回の吃音ショートコースで、その思いをさらに強くしました。今後、交流分析について、さらに詳しく勉強して、自分の生活に生かしていきたいと思います。
 3日目は杉田峰康先生と伊藤伸二さんの対談と、ティーチ・インの時間でした。これまでの2日間をふり返り、ここで得た物や感じたことをお互いに共有することができました。自分にとってこの3日間は、自己を再発見するとともに、新しい出会いと再会の場でもありました。ことばの教室担当の先生、STの方、そして、すてきな吃音の方々…。初めて会った人がほとんどなのに、そんな感じがしませんでした。まるで、旧知の間柄のように思えました。そこには、確かにあたたかい空気が流れていました。
 一つだけ要望があります。講座は9時ごろまでに終了して、コミュニティー・アワーの時間を増やして欲しいです。できるだけたくさんの方とお話をしたいので。


  
ありのままを認める〜ショートコースで考えたこと
           埼玉県立小児医療センター保健発達部 香取玲子(言語聴覚士)

 夏の吃音親子サマーキャンプに続き、今回が初参加の吃音ショートコース。第一声は、「参加して本当に良かった!」です。今年は交流分析を学ぶとのことで、正直なところ申し込みに多少の躊躇がありました。自分と真正面から向き合うことが怖かったのです。
 参加は、「言語聴覚士である私」にも、「香取玲子という私」にも、実に大きな収穫をもたらしてくれました。交流分析を通して、それぞれの立場で背負っていた別々であるはずの重荷をきちんと整頓し、改めてしっかり抱えてみることができました。するとどうでしょう!驚いたことに、それぞれの悩みの根っこは同じ、たった一つのことだったのです。
 「ありのままを認ある」
 それがどうしてこんなにも難しいのでしょう?私の両親は、躾にはそれなりに厳しい方でした。父から小言を言われる度に、母からは「口うるさく言うのは、あなたを思うからこそなのよ」とか、「言われなくなったらおしまいなんだから」と励ましを受けました。父も母も平均的な、普通に立派な親です。人間としてもごく普通の人です。当たり前のように我が子を気に掛け、愛情を注いでくれました。そのことがなおさら、「すべて私が悪いんだ」という気持ちに拍車を掛けていました。親に認められたいのに、親の望むような人間になれない……。
 父はおそらく私が二十歳前後の時に、私をあきらめてくれました。伊藤さんのおっしゃる「明らかに見極める」の「あきらめ」です。どんなに父の意にそぐわないことをしても、全く咎められなくなりました。現在、私は28歳ですが、つい最近までの実に8年もの間、父のこのあきらめを私は全面否定の「諦め」と解釈していました。
 ところで、私が仕事でお会いするのは、話しことば(speh)や言語機能(1anguage)、聞こえ等に(医学的診断上)障害をもつとされる子どもたちです。多くの親御さんたちが、「治療」を望んで来院されます。我が子を愛し、現状を問題と感じ、将来を心配するあまり、私の両親と根本的には共通する思いを抱いておられます。それが当然の親心でしょう。これまでの私は、親御さんたちのその思いに少しでも近付きたいと、いっぱいいっぱいになっていました。いつか誰かから「子どものいないあなたに、ましてや障害のある子の親の気持ちが解かるものか」と言われやしないか不安だったのです。それを言われてしまったら二の句が継げない、STとしておしまいだと思っていました。しかし、親に近付こうともがくほど、子どもの気持ちから離れる一方です。本当のところでは、子どもが自分と重なって仕方がないのに。……そんなこんな、どっちつかずのジレンマで、自分が二つに引き裂かれるしんどさは日に日に増していくばかり。仕事をするのが本当につらかった。
 吃音ショートでは、私の事実を認めることから再出発できることに気付かされました。事実はこうです。「私は親ではないけれど、親の子ではある」。とすると、親の代弁者にはなれないが、子どもの代弁者にはなれる可能性があるんだ。子どもの代弁者になりたい!キャンプの時に伊藤さんは、「親は最終的には必ず子どもをあきらめられます。難しいのは、子ども自身が自分をあきらめるということです」という意味のことをおっしゃっていたかと記憶しています。
 私は、親からありのままを認められない期間が長引けば長引くほど、親があきらめてくれた後も後遺症として自分にOKを出せない時期は長引くと思うのです。もっと恐ろしいのは、「とうとう親にまで見放されてしまった。私はもうおしまいなんだ」と、「あきらめ」の解釈を子どもが誤ってしまうことだと考えます。
 吃音ショートコースでの最大の収穫は、私は自分にもOKが出せるかもという、明るい兆しが見え始めたことです。エゴグラムを描くことで、ここ2〜3ヶ月の間に感じてきた自分の変化がはっきりと目に見える形で示されました。と同時に、私の父に対する見方も変化していることに気付いたのです。仕事上では相手を変えよう、「=治療」という発想で人と向き合ってきました。自分にOKが出せたら、私の父にも、出会う子どもやお母さんたちにも「そのままのあなたで十分。それでOKだよ」と心から言えるようになるかもしれません。
 今はすべてをあきらめることを目指しています。あきらめた上で、吃音であることを自らの拠りどころ、アイデンティティとして生きる。日本吃音臨床研究会にはそんなどもる人が大勢いらっしゃいます。
 そんなうらやましい生き方ができるのはなぜ?「吃音」に相当する私にとっての拠りどころって何?これからもずっと考え続けていくのだろうと思います。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/07/02

生活に活かす〜実践的交流分析入門 3

 7月に入りました。今年の半分が終わったことになります。カレンダーを見ながら、スケジュールを確認してみると、7月半ばからは、吃音親子サマーキャンプのスタッフのための事前レッスン、親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会、千葉県の研修会と、続きます。プライベートの予定も入って、7月のカレンダーはかなり埋まっています。コロナの頃は、予定がほぼキャンセルで、カレンダーが真っ白になっていたなあと思い出します。コロナ前に戻ってきたことを実感します。
 さて、「スタタリング・ナウ」2001.12.15 NO.88 で特集した、杉田さんの「生活に活かす〜実践的交流分析入門」の報告のつづきです。

  
生活に活かす〜実践的交流分析入門 報告
                   講師 杉田峰康・福岡県立大学名誉教授
4つの人生態度(基本的構え)
 人は、多くの人からストロークを受けて成長し、幼い頃から自分と自分の周囲の人達について、「私は愛されていない」や「他人は信用できない」といった、ある種の確信を抱くようになる。このような人生態度がその後の人生について回る。交流分析では4つの基本的人生態度を挙げている。

1.私はOKである、あなたもOKである(自他肯定)
2.私はOKでない、あなたはOKである(自己否定、他者肯定)
3.私はOKである、あなたはOKでない(自己肯定、他者否定)
4.私はOKでない、あなたもOKでない(自他否定)

 このような自分と他人に対する基本的な思いこみは、人生におけるいろいろな決断と行動を正当化するために使われる。

不適応のからくり
 人間関係がうまく行かない場合、どうしたらいいかを考えると

1.相手に巻き込まれず、自分を客観的にみる
2.自分の内的生活に気づき、それに責任を持つ
3.相手理解のために、自分の内面への気づきを深める

 そのために、私たちにとって自己理解が必要なのである。
 ここで、人間関係のストレスを考えると、心理的ストレスとして、私たち個人のPとCの間で「〜するべき、〜であるべき」という気持ちと「〜したい」という気持ちが葛藤となる。不適応のからくりはその葛藤を出発点とし、そこから不安が起こり、その不安を抑圧し、防衛(ゲーム)が起こる。そこから身体症状や問題行動に発展するわけだが、『葛藤を解決するには、葛藤を育成する』のが一番いい。つまり、「二者選択はすぐにするのではなく、しっかりと悩むと脳は一番いい方法を教えてくれる(脳ぺース)」のを待つのである。
 これは、吃音についてもそのまま当てはまると思う。どもる状態に関わらず、自分の吃音にしっかりと直面しなければ、いつまで経っても「私はOK」と思えない。特に、吃音が軽くて吃音を隠したり、話さないといけない場を避け続けていると、吃音に直面するチャンスはいつになってもやってこない。つまり、いつまでもその人の内面は強烈な「どもることへの不安」に占領され続けるのである。これは、治療を受けて症状が軽くなったとしても同じである。事実、なんとか話し方をコントロールして表面的には全く吃症状が出ていない人でも、いつどもるか分からない不安に常に脅えている人が数多くいる。
 私個人を考えても、私の吃音は比較的軽かったために、学生時代は何とかごまかし続けることは出来た。しかし就職してから、電話や話す場面から逃げることは出来なくなり、話すことに対する不安で仕事が手につかず、その結果会社を辞めてしまった。病院に通っても、心理療法を受けてもこの不安は一向になくならず、苦しい日が続いた。それから何年かして幸運にも日本吃音臨床研究会に出会い、私の苦しかった日は終わった。どうしてこんなことが起こったかというと、それは交流分析でいう『許可証』をもらったからである。つまり、幼児期に親から受けた「どもってはいけない、どもるべきではない」という『禁止令』を除くには、「どもってもいい、そのままのあなたでいい」という『許可証』が必要なわけで、脚本から脱却するには、親からの禁止令を許可証に書き直す必要がある。私はこの『許可証』を日本吃音臨床研究会のメンバーからもらうことが出来た。また、この『許可証』は100%純粋でなければあまり効果はない。どういうことかというと、「どもってもいい、でもがんばって症状を減らそうね」だと、やはりそこには「どもってはいけない」というメッセージが存在する。日本吃音臨床研究会は100%「そのままのあなたでいい」をいいながら、どもる人がよりよい生活を送るためにするべき「努力」を提示することができる。

ゲシュタルト療法の活用
 夕食が済んで、いよいよ交流分析を使って実際にセッションがどの様に進むのか、3人のケースを見せてもらった。初めのケースでは、セラピストとクライアントの問題となっている関わり方について、論理療法的なアプローチもしながら、そこで演じられている「ゲーム」を明らかにしていった。
 次の二つのケースでは、自分の感情、思考、行動にどんな問題があるのかをはっきりさせてから、当事者に前に出てきてもらい、ゲシュタルト療法でよく用いられる「あき椅子」を使って、自分と相手を代表する「あき椅子」から交互に頻繁に発言することを実演することで、自分の行動を規制している「禁止令」に気付いていった。また、一つのケースでは、会場にいる参加者2人が当事者を阻む「壁」になって、その「壁」とのやりとりを通して、自己に気付いていった。その時に「壁」に対する話し方が、明らかに変わっていくのに驚いた。両方のケースとも、親の禁止令に対して自分が幼児に決断した状況を再現し、自分の脚本の分析を通して、自分に許可証を与え、自分で自分の人生をコントロールできるという、とてもいいセッションだった。

交流分析を生活に活かすには
 「人生は楽しんでよろしい」と思えること、他の人との違いを楽しむことが大事。「どもることを楽しんだらどうでしょうか」と提案された。人生を楽しむためにはFC(自由な子ども)を高めればよい。その方法として、メス・ペインティングや箱庭療法がある。ペット療法もNP(保護的な親)が上がる。子どもと遊んだり落語を聞くのもよい。「どもってもよろしい」、「楽しんでもよろしい」といった「許可証」をたくさん発行すればいい。
 A(大人の自我)は選択肢の領域なので高める必要がある。他人の目を意識すると言うことは、マイナスのストロークを受け入れていることであり、他人と同じように感じなければならない必要はない。また、他人の感情に責任を持つ必要もない。自分の考えをそのまま伝えてみる(アサーション)のがいい。自分が変わると、相手との関係が変わり、その結果相手が変わる。例えば、優しい人間にはなれないが、優しい行動をとることは出来る。性格は変えられないが、行動は変えることは出来る。(了)

◇杉田先生のご著書◇
こじれる人間関係 ドラマ的交流の分析 創元社
人生ドラマの自己分析 創元社
新しい交流分析の実際 TA・ゲシュタルト療法の試み 創元社など多数


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/07/01

生活に活かす〜実践的交流分析入門 1

 大阪吃音教室の定番の講座のひとつに、「交流分析」があります。僕は、交流分析を、杉田峰康さんの本から学びました。吃音ショートコースの講師は、その分野での第一人者にお願いしてきましたから、交流分析のときは、もちろん講師は杉田さんです。講義と演習を交えて、長い時間、杉田さんからたくさんのことを学びました。今でも、そのときの杉田さんの口調を忘れることはありません。「スタタリング・ナウ」2001.12.15 NO.88 で特集した、杉田さんの「生活に活かす〜実践的交流分析入門」の報告です。


  
生活に活かす〜実践的交流分析入門
                   講師 杉田峰康・福岡県立大学名誉教授

 2001年11月24日、午後1時から今年の吃音ショートコースのメインである交流分析の講義が始まった。交流分析は、大阪吃音教室でも中心的な講座として長年にわたり勉強している。しかも、その時に参考にする交流分析の本は、たいてい今回の講師である杉田峰康先生の書かれた本だ。また、杉田先生が交流分析を講義されているビデオを会員の一人が持っているため、先生の講義の様子、口調を知っているメンバーは多い。そのご本人から直接講義を受けられるとあって、今年の吃音ショートコースは自ずとワクワクしてくる。

三つの私(構造分析)
 杉田先生は、参加者が既に構造分析をある程度理解しているという前提に立って講義を始められた。まず「心の構造」として、私の心の中に存在する次の「三つの私」を考える。

P=Parent:親的な心(厳しい、批判、義務、保護、思いやり等)
A=Adult:大人の心(冷静に考える私)
C=Child:子どもの心(自由な感情表現、本能的、がまん、慎重、イイ子)

 次に、上記のPとCが未熟な「子どもの心の構造」について聞いた。子どもの心の構造は大部分がCであり、そのCの中に小さなP1、A1、C1が存在し、親の勝手な欲求、例えば「生まれてこなきゃよかった」や「男の子だったらよかったのに」という言葉は呪いのような命令となってP1に働く。
 するとCの中にあるA1は、その幼いリトル・プロフェッサー(生まれながら備わる直感と生存の知恵に富む部分)がする『幼児決断』として、「存在してはいけない」「考えてはいけない」といったような『禁止令』を受け取ってしまう。
 この時、私は自分自身のことについて次のことに気付いた。小学校入学前から吃音矯正所に通っていた私は、親から「どもってはいけない」と言われ続け、その結果私のリトル・プロフェッサーは「自由に話してはいけない」「本来の自分を見せてはいけない」という『禁止令』を受け取っていたのだろう。
 振り返るとこの禁止令がその後30年以上も私自身を拘束していたことになる。

心の働きをグラフにしてみませんか? エゴグラムの演習
 P、A、Cといった自分自身の心の状態(自我状態)がどの様なバランスになっているかをチェックするため、全員でエゴグラムを体験した。
 全部で50項目のチェックリストを杉田先生が順に読み上げ、全員が、はい(○)、どちらともつかない(△)、いいえ(×)とチェックし最後に、○:2点、△:1点、×:0点、で計算し、それをグラフに表す。グラフは左から順に以下の5項目が並び、各自の自我状態のバランスが一目で分かる。

CP:厳しい私、
NP:優しい私、
A:冷静な私、
FC:自由な私、
AC:人に合わせる私

 できあがったグラフを他の参加者と比べてみると、みんないろいろな形をしているのが面白い。ここで、3人のエゴグラムを例にとって杉田先生が比較してみる。すると、FCが高くてACの極端に低い人、それとは対照的な人、Aが優位な人などで、杉田先生がそれぞれの性格の特徴を分かりやすく解説された。
 この吃音ショートコースの参加者全員のエゴグラムで何が優位かを調べたところ、NPとACが高く、Aが低いことが解った。この結果は一般に吃音者に対して考えられているイメージ、つまり吃音者は優しいが、イイ子であったり人に合わせたりすることが多いというイメージと一致しているのが興味深い。(「スタタリング・ナウ」2001.12.15 NO.88)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/06/14
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