伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

應典院

斉藤道雄さんとの出会いのきっかけとなった《「弱さ」を社会にひらく》

 斉藤道雄さんとの、奇跡のような、不思議な出会いとなった、僕の記事を紹介します。
 大阪市内に、應典院(おうてんいん)というお寺があります。「ひとが集まる。いのち、弾ける。呼吸するお寺」が、應典院のキャッチフレーズでした。この應典院は、竹内敏晴さんの大阪定例レッスン会場として、竹内さんが亡くなる直前まで10年以上、そのほか、講演会や相談会など、日本吃音臨床研究会のさまざまな催しの場でした。大阪吃音教室の定例会場でもありました。
 その應典院の秋田光彦主幹が伊藤伸二にインタビューをした記事がTBSの斉藤道雄さんの目に留まり、新番組「報道の魂」につながったのです。
應典院寺町倶楽部のニュースレター「サリュ」のNO.43 2004.10.5発行 から紹介します。

  
「弱さ」を社会にひらく
      セルフヘルプとわたし
                 日本吃音臨床研究会 代表 伊藤伸二さん


 少子高齢化社会を迎え、「弱さ」に目を向ける生き方が求められるようになりました。「弱さ」に目を向けるといっても同じ苦しみや境遇を癒しあうだけの、閉じこもった関係であってはなりません。自閉せずに「弱さ」を力にしてつながりあい、受容する社会を創造するには、どうすればよいのでしょう? また「弱さ」はどのように社会に参加することができるのでしょう? 「どもり」という「弱さ」を社会にひらき、同じ悩みを持つ人たちの支えとなる活動を40年間続けてこられた日本吃音臨床研究会の伊藤伸二さんにお話を伺いました。

互いを支えあうセルフヘルプ
 ぼくは子どもの頃から、ずっとどもりで悩み、孤独に生きてきました。それが、大学の時に初めて同じようにどもりに悩んできた人たちと出会い、自分の話を聞いてくれる人が横にいて、そのぬくもりと安らぎを感じる体験をしました。これは何ともいえない喜びでした。一度その感覚を味わうと、また一人ぼっちになるのは耐えられません。
 1965年、私はどもる人のセルフヘルプグループをつくりました。このグループでは同じように吃音に悩んできた人が集まり、支え合うだけではなく、自分の殻に閉じこもらないで、積極的に社会に出て行く活動をしました。当時は「セルフヘルプグループ」という言葉は日本に紹介されていませんでした。患者会や障害者団体はありましたが、その目的は生きる権利を主張したり、できれば「治す、改善」を目指しています。セルフヘルプというのは同じような体験をした者同士が支えあって、自分の人生を生きようということですから、治らないとか治せない、つまり簡単には解決しない問題をもっているというのが前提なのです。

配慮という暴力
 ぼくは、どもりの苦しみを同じように体験した人と出会うことで、ほっとしたり、力がわいてきたりという経験をしてきました。だから、子どもの頃に「ひとりぼっちじゃない」という経験をしてほしいと、16年前に始めたのがどもる子どもたちのための、吃音親子サマーキャンプです。毎年8月に開催して、全国から140名を超える参加があります。
 そこで16年、どもる子の親に接していますが、最初のころは、「うちの子はかわいそう、なんとかして治してあげたい」「どもりを意識させずにそっとしておいたほうがよいと指導された」「治ることを期待してどもりについて話題にしない」という親がほとんどでした。それは親子を取り囲む社会全体、教師にも強くインプットされていて、子どもの欠点や弱さを指摘したらかわいそうだという、配慮に満ち満ちているからです。ぼくは「配慮の暴力」というのがあると思います。配慮が人を傷つけるということはいっぱいあると思うのです。
 そんな大人のこれまでの意識を変えて欲しいと、本を書いたり、発言したりしてきていますが、なかなか浸透していきません。インターネットの時代で簡単に情報発信ができるために、「どもり治療の秘策」みたいな劣悪な情報が増え、状況は40年前よりさらに悪くなっています。親は治るというメッセージや情報にすがりつきたいわけですから、飛びつきます。
 「どもりが治る」とはどういうことか。ぼくも実際はっきりわかりません。一般的にいうと、空気を吸うように何の躊躇もなく話せるというのが治るということでしょう。また、どもりながらでも、吃音に影響されずに自信を持って生きるというのも治ることだといえるかもしれません。今、ぼくは何も悩んでないし、どんな不自由もないし、どもりで困ることは100パーセントありません。だから、「伊藤さんは、治っているんじゃないか」と言われたらそうだけれども、それを治るといってしまっていいのかどうか。どもりながら「俺は平気だよ」というほうがいい。だから治るという言葉はあえて使わないで、治らないけれども自分らしく生きることはできるんだよというメッセージを投げかけたい。治る、治らないの二元論的な世界から違う見方を提示したのが、セルフヘルプの活動といえるのかもしれません。

弱さに向き合うこと
 だから何が何でも治そうということではなくて、どもりという欠点と言われるものや弱さは弱さのままでいいんだときちんと受け止められたら、社会でひとつの力になる。弱さの持っている強さを自覚できたら、弱さのままでも社会に出ていける。弱さはしなやかですから。これまでは「どもってかわいそう」と弱さの中の弱さを押しつけられたりしました。弱かった人間が強くなると周りから叩かれるという矛盾もありました。そうならないために、きちんと自分の問題を見つめることは大切なのです。
 例えば「どもって恥ずかしい」と思ったのは、一体なぜか?と自問してみる。それは周りの人から、どもるあなたは、こんなことはしなくていいよと配慮されたり、弱い立場を押しつけられたりしてきたことと関係があるのかもしれない。烙印(スティグマ)を押されてそこに安住させられてきた。弱さを自分で演じてきたこともあるでしょうね。それを明らかにしていくというのはある意味でつらい仕事だけれども、それに向き合うということをしないといけない。一人では難しいからセルフヘルプグループがあるんです。
 しんどいけれど一緒に向き合おう。それをしないとただ「そうだね、苦しいね、よくわかるよ」という表面だけの共感に終わってしまう。それだと本当の苦しさは超えられない。

失敗から学び、悩むことを恐れない
 今と違って、ぼくらの時代はがんばれば何かできるんじゃないかという希望がありました。今の子は悩んでいる感じはするけれども、悩み方がすごく下手になっている。悩み方のノウハウを教えるというのは変だけど、「お前の悩み方、変じゃないの」ということを言う大人がいてもいいんじゃないですかね。悩むチャンスを大人が奪っている。それも配慮ということなんでしょうね。失敗したらこの子はだめだと、失敗させないように何とかしないと、と言う。そうではなくて、むしろ失敗したほうがいい、悩んだほうがいいわけですよ。悩むことのなかに工夫があり、発見があり、気づきがあったりするのに、悩むことを恐れてしまう。これからの自分とか、なぜ生きているのか、そういう問いを発見するのも、若い人がもっと創造的に悩むことじゃないかと思っています。
 そのために、弱さに向き合うチャンスや場を、もっと大人が提供していかないといけないですね。向き合うということは苦しいけれども喜びもあり、発見もある。吃音親子サマーキャンプが成功しているのは、ぼくらがどもりながらでも楽しく過ごしている、その姿を子どもたちに見せているからです。大人がモデルとなるような生き方をし、人生の喜び、楽しさを提示することです。じかにふれあえて向き合う経験をさせる。そういう場を与えることが大人の役割じゃないかと思います。
         (「サリュ」應典院寺町倶楽部のニュースレターNO.43 2004.10.5発行)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/06/28

斉藤道雄さんの『メッセージ』

報道の魂DVD 2005年、斉藤道雄さんから送られてきた原稿を読んで、僕が涙が止まりませんでした。そして今、その原稿を読み返して、また涙が滲んできます。
 僕は、不思議な出会いをたくさん経験してきていますが、斉藤さんとの出会いもまたとても不思議な、奇跡のようなものでした。
 「スタタリング・ナウ」2005.11.22 NO.135 で紹介している、斉藤道雄さんの『メッセージ』を紹介します。

メッセージ
                     TBSテレビ報道局 編集主幹
                     TBSテレビ解説委員      斉藤道雄


 「ぼくは配慮の暴力というのがあると思います」
 小冊子のこのひとことに、僕は引きつけられた。
 配慮の暴力というのは、たとえば「子どもの欠点や弱さというものを指摘したらかわいそうだ」という親の思いこみからからはじまっている。あるいは、「治ることを期待してどもりについて話題にしない」という「大人の意識」のことだ。そうした意識が、子どもが本来もっているはずの力を、押さえつけているのではないか。
 この問題のとらえ方には、なじみがある。そう思いながら、先を読み進んだ。
 話は、吃音者の生き方をめぐるものだった。
 「治るとはどういうことか。ぼくもはっきりわかりません。…だから治るという言葉はあえて使わないで、治らないけれども自分らしく生きることはできるんだよというメッセージを投げかけたい」
 治らないけれども自分らしく生きる、これもまた、なじみのメッセージではないか。
 だれだろうと名前を見ると、伊藤伸二とあった。
 伊藤さんは、大阪の應典院というお寺が出している機関紙「サリュ」の2004年秋号に載ったインタビュー記事(「弱さ」を社会にひらく。セルフヘルプとわたし。)で、吃音について、吃音をめぐる「配慮の暴力」について、そして吃音を治すということ、治るということの意味について語っていた。それを読み終えて僕は思った。ああ、いつかこの人に会ってみたいものだと。会って、話を聞きたい。そしてたしかめてみたい。伊藤さんがいっているのは、僕がかつて受け取ったあのメッセージのことですよねと。「サリュ」の一文は、夜空に打ち上げられた一瞬の花火のようなものだったけれど、僕はたしかにそれを見たし、そこに伊藤さんの存在を感じることができたのですよと。
 いってみれば、そのことを伝えるために、僕は今回の取材に取りかかったのかもしれない。配慮の暴力ということばに出会ってからちょうど1年後、僕は東寝屋川駅にちかいマンションの自宅に伊藤さんを訪ねていた。そこで話を聞き、資料をもらい、この秋からはじまる新番組の企画で、伊藤さんの取材をしたいとお願いしたのだった。
 それがたまたま、年に一度の吃音親子サマーキャンプの時期と重なっていたのである。キャンプには伊藤さんたちの仲間と吃音の子どもたち、それにその親が、全部で140人も集まるという。好機を生かすべく、僕はさっそくカメラマンとともに、キャンプ地である滋賀県の荒神山まで出かけることにしたのだった。2泊3日の短い期間ではあったが、おかげでじつに密度の濃い取材ができたと思う。突然のテレビの闖入で参加者にはずいぶん迷惑をかけたことだろうが、それにもかかわらず快く取材に応じていただいたみなさんには、ここであらためてお礼を申し上げたい。
 もちろん、吃音などという問題にはかかわったことがなく、キャンプにもはじめていくわけだから、取材できることはかぎられていた。しかしそこで子どもたちが真剣に話しあい、劇の練習をするところを見ながら、そしてまたインタビューをくり返しながら、サマーキャンプがどのような場であり、その場をつくりだしているのがどのような人びとなのか、そしてそこでなにが語られ、なにが起きているのかを、多少なりともつかみとることができたと思う。
 ひとことでいうなら、それは長い物語をもつ人びとの集まりだった。
 吃音がもたらす苦労と悩み、そして人間関係のむずかしさや社会との緊張は、他人がなかなかうかがい知ることのできない生きづらさを、吃音者にもたらしている。その生きづらさは、時間を経てこころの奥底に滓(かす)のように沈殿し、重さをもち、それぞれの物語をつくる下地となる。キャンプの参加者はみな、そうした滓や重さや経験をことばにして、あるいは仲間の語ることばに共鳴する形で、自らの物語を紡ぎだしていくかのようであった。
 たとえばスタッフとして参加していた長尾政毅さんは、小学校2年生のころは吃音がひどくて、話がほとんど会話にならなかったという。
 「友だちと話してるときに、やっぱり通じなかった記憶、ものすごいある。これ話したい、だけど一部分も話せずに去っていく、って経験がいっぱいあった」
 どもりをまねされ、からかわれ、「負けじとしながら、だいぶこたえて」いた。ふつうに話せないのが「ほんとにいやでいやで」、でもそれを認めたくないから「逆に強くなろうと突っ張って」いた。それだけではない。吃音を「隠そうっていうことを無意識に」しつづけていたから、表面的にはものすごく明るいいい子を演じていなければならない。そういう無理を重ねながら小中高と進んではみたものの、高校2年のある日、ついに合唱部の顧問の先生にいわれてしまう。「君は、ものすごい自分を出さない、こころを閉ざす子やな」と。
 それはそうかもしれない。しかし、じゃあどうすればいいのか、長尾さんは途方にくれたことだろう。吃音がもたらす厚い壁は、自分で作り出したものかもしれないが、それは作らざるをえなかった防壁であり、そのなかでかろうじて自分を維持できるしくみだった。なぜそうしなければならないのか、どうすればそこから脱け出せるのか、それは周囲ではなく、だれよりも本人が自分に向けなければならない問いかけだったろう。その問いかけに、当時の長尾さんは答えることができなかった。いまそれを語れるようになったということは、果てしない堂々めぐりのあげく、いつしか壁を抜け出していたということだったのではないだろうか。
 ここまでこられたのは、おなじ仲間との出会いが大きかった。そこで長尾さんは目を開かれ、新しい世界に入っていくことができたからだ。いまでは自分が吃音に対してどういう心理状態にあるかを把握し、整理できるようになったというから、克服したとはいえないまでも、吃音との関係を以前にくらべてずいぶんちがったものにしているといえるだろう。しかしそれでもまだ、こころの底に鍵をかけているところがあるんですよと、テレビカメラの前で率直に語ってくれた。
 その長い話は、まだ先へとつづくのである。
 最近、長尾さんはアルバイトで水泳のインストラクターをはじめるようになった。子どもたちに泳ぎ方を教えながら、「名前よぶとき、だいぶ詰まる」ことがあって、危ないときもあったが、「ごまかしまくって」なんとかやってきた。それが最近、仕事が終わったところで先輩にいわれてしまったという。お前、がんばってるな、だけど「これからは、どもらずにやろうな」と。それを「さくっと」告げられた経験を、苦笑いしながら話す胸のうちには、かなわんなあという思いと、どうにかなるさという居直りとが交錯していたことだろう。
 吃音をめぐる長尾さんの物語は、いまなおつづいているのである。いや、吃音者はみな、終わることのない物語を刻みつづけている。それは一人ひとり異なっていて、みなおどろくほどよく似た部分をもっている。
 サマーキャンプでは、そうした物語が無数のさざめきのように、ときに深い沈黙をはさみながら語りあわれていた。そうしたことばと沈黙のはざまで、参加者はみなそれぞれに考えていたことだろう。吃音とはなにか、吃音を生きるとはどういうことか、なぜそれを生きなければいけないのか、それはなぜ自分の課題なのかと。しかしそうした困難な課題に判で押したような答がみつかるはずもない。いやどれほど考えても、そもそも答はないのかもしれない。答がないところでなおかつ考えなければならないとき、人はほんとうに考えているのかもしれない。
 取材者としての僕は、そのまわりをうろうろしているだけだった。ただはっきり感じることができたのは、そこで語り、語られる人びとの集まりのなかに、たしかな場がつくられ、その場をとおしてさまざまなつながりが生みだされているということだった。それはおそらく、絆とよぶことのできるつながりなのだろう。その絆が、吃音をめぐる苦労と悩みから生みだされるものであるなら、そしてまた生きづらさをともにするところから生み出されるものであるなら、僕はそうした絆をすでにそれまでにも目にしていたと思う。それも一度ならず。すでに見たことがある、その場にいたことがあるという、なじみ深さをともなった記憶は、キャンプにいるあいだ、いや最初に伊藤さんのことばに出会ったときから、僕にまとわりついていたものだと思う。
 それはもう20年も前、先天性四肢障害児との出会いにさかのぼる記憶でもある。その後のろう者とよばれる人びととの出会いと、そしてまた精神障害をもつ人びととの出会いにくり返し呼び覚まされた記憶なのだ。その核心にあるのは、自分ではどうすることもできない生きづらさを抱え、苦労し、悩みながらその経験を仲間と分かちあってきた人びとの姿なのである。彼らがみなそれぞれにいうのは、「そのままでいい」ということであり、「治さなくていい」ということであり、「どう治すかではない、どう生きるかなのだ」ということなのである。
 たとえばそれは、北海道浦河町の「べてるの家」とよばれる精神障害者グループの生き方であった。
 彼らとかかわってきた精神科ソーシャルワーカーの向谷地生良さんは、精神病の当事者に、はじめから「そのままでいい」といいつづけてきた。精神病はかんたんに治る病気ではないし、かんたんに治らないものを治せといわれつづけることは、その人の人生をひどく貧しいものにしてしまう。そうではない、病気でもいい、そのままで生きてみようと向谷地さんは提案したのである。そのことばで、どれほど多くの当事者が救われたことだろうか。彼らの多くは、病気は治らなくても生きることの意味を探し求めるようになり、妄想や幻覚は消えないのにむしろそれを楽しもうとさえしている。
 おまけにそこには、川村敏明という奇妙な精神科医がいて、「治さない医者」を標榜し胸を張っている。医者が治そう治そうと必死になったら、患者は服薬と闘病生活を管理されるだけの存在になってしまう。それがほんとうに生きるということだろうか。川村先生はそういいながら、患者を診察室から仲間の輪のなかにもどすのである。もどされた患者は病気の治し方ではなく生き方を考え、お互いに「勝手に治すな、その病気」などと唱和している。
 そこには、「この生きづらさ」をどうすればいいのかと、深く考える人びとがいる。その生きづらさは、それぞれが自ら引き受けるしかないものであり、だれもその生きづらさを代わって生きることはできないという、諦念というよりは覚悟ともよぶべき思いが共有されている。ゆえに浦河では苦労をなくすのではなく、いい苦労をすることが求められ、悩みをなくすのではなく、悩みを深めることが奨励される。みんながぶつかりあい、困難な人間関係を生きながら、しっかり苦労しよう、悩んでみようと声をかけあいながら、すべての場面で笑いとユーモアの精神を忘れない。彼らの生き方そのものが、ひとつのメッセージとなっている。
 そういう人びとを取材していると、さまざまなことが見えてくる。
 そのひとつが、当事者の力というものだ。
 「べてるの家」は、いまや全国ブランドといわれるほど有名になったが、見学者はそれがソーシャルワーカーや精神科医のつくりだしたものと勘ちがいしてしまうことがある。しかし浦河で真に状況を切りひらき、暮らしを築いてきたのは精神障害の当事者たちであった。生きづらさを抱え、苦労と悩みを重ねてきた彼らが仲間をつくり、場をつくり、自らの経験をことばとして物語にしてきたのである。
 まったくおなじことが、吃音親子サマーキャンプについてもいえるだろう。
 伊藤さんをはじめとするスタッフは、もう15年あまりこのキャンプにかかわっているという。そこでどれほどたくさんの子どもや親が救われたことだろう。けれどもしこのキャンプが、吃音の子どもたちを守り、助けることだけを考えていたのであれば、これほど豊かな場をつくりだすことはできなかったはずだ。その豊かさは、使命感に燃えるリーダーがつくりだしたものではなかったのだ。
 キャンプになんどか参加した中学生の宮崎聡美さんや松下詩織さんは、ともに吃音でもいい、治さなくてもいい、あるいは治したくないとまでいっている。中学生でそこまでいえるのはすごいことだし、そういえるまでにはいろいろな苦労や悩みがあったことだろう。そのいい方は、これからも揺れたり変わったりするかもしれない。しかしふたりがこのキャンプで変わったということは、まぎれもない事実なのだ。灰谷健次郎がいうように、変わるということは学んだことの証でもある。子どもたちはキャンプにきて、確実に生きることを学んでいる。そして彼らが、だれに教えられるのでもなく自ら学び、変わっていくということ、そのことが伊藤さんを支え、そしてまたキャンプにきたみんなを支え、動かす力になっている。
 あなたはひとりではない。あなたはそのままでいい。そしてあなたには力があるという、そのことばは、伊藤さんが子どもたちに送るメッセージであるとともに、子どもたちが伊藤さんに送るメッセージでもあるのだと思う。

斉藤道雄
 1947年生まれ、慶應大学卒業、TBS社会部・外信部記者、ワシントン支局長、「ニュース23」プロデューサー、「報道特集」ディレクターを経て、TBSテレビ報道局編集主幹。
著書『原爆神話五十年』中公新書1965年
  『もうひとつの手話』晶文社1999年
  『悩む力 ベてるの家の人々』みすず書房2002年は、講談社ノンフィクション賞受賞

 ―べてるのいのちは話し合いである。ぶつかりあい、みんなで悩み、苦労を重ねながら「ことば」を取り戻した人びとは、「そのままでいい」という彼らのメッセージを届けにきょうも町へ出かけている。―『悩む力』より


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/06/27

【鯨岡峻さんと竹内敏晴さんの対談】「生きる」うえでのコミュニケーションとは?

 應典院で開かれたコモンズフェスタ2001、僕は、その中で、鯨岡峻さんと竹内敏晴さんの対談を企画しました。
 鯨岡さんとの出会いは、前年の全国難聴・言語障害教育研究協議会全国大会島根大会でした。鯨岡さんは記念講演をされ、僕は吃音分科会のコーディネーターでした。鯨岡峻さんは、発達心理学から幼児や障害児のコミュニケーションを考えてこられました。また、竹内敏晴さんは、ご自身が聴覚言語障害のあった時代や、からだとことばのレッスンを通して多くの人と出会い、コミュニケーションについて考えてこられました。この、人一倍コミュニケーションについて考えてこられたお二人に対談していただきたいと企画し、それが実現しました。
 2001年11月7日、應典院本堂ホールでの対談の一部を紹介します。

「生きる」うえでのコミュニケーションとは?
                     京都大学大学院教授 鯨岡峻
                     演出家       竹内敏晴


共に生きる

鯨岡 京都大学の鯨岡です。竹内さんとこうして直にお話できるのは大変な喜びです。
 伊藤さんから与えられた今日のテーマは、「生きる」ことと「コミュニケーション」です。これはすごく大きなテーマなので、対談形式でどのように進めていったらいいかとても迷ってしまいますが、せっかく竹内さんとお会いできたのですから、何とか話をつなげていければと思います。まず私から口火を切らせていただきます。
 「生きる」という問題を、「私」を主語に立てて「私が生きる」と言い始めますと、途端に議論が難しくなって、随分しんどい話になっていくなあという気がします。「私が生きる」という切り口よりも、私たちが「共に生きる」という切り口の方が接近しやすいのではないか。そもそも「生きる」ということは、この「私」が生きるという前に、皆が共に生きることではないか。皆が、という言い方はちょっとまずいですかね。少なくとも身近な人たちと言うべきでしょうけれども、まずは身近な人たちが「共に生きる」ということが基本にあって、むしろ「私が生きる」は、その後から出てくるテーマではないだろうかと思います。そういうところを考えて行けば、たぶんコミュニケーションの問題に話をつなげていけるのだろうと考えています。
 私たちはみな、思春期以降、「私は」「私は」と、「私」にこだわるところがすごく強かった時期があると思います。ところが「私」にこだわる意識が強くなりますと、当然、私の目の前の他者達も「私」に面と向かって対峙する関係になってきます。けれども、「私」というのはそんなに閉じているのでしょうか。「私は」「私は」とよく言いますが、「私」というのは円に描いてくくれるような閉じた「私」なんだろうか。確かに、私のこの身体は私のものであり、唯一無二のからだですが、では私はこのからだの中に閉じこめられた、閉じた存在なんだろうかと考えますと、どうも、そうじゃなさそうです。少なくとも私が研究しようと思っています赤ちゃんとそれを育てる人の関係は、そんな閉じた私とあなたという関係ではありません。
 私が、「私」というところに閉じていきますと、実は他者達も閉じてしまう。そういう閉じた私と閉じた他者が共に生きようとすると、「私とあなた」が分断されたままギシギシしながら生きているというような構図が生まれてくるんです。でも、普段、身近な私たちが共に生きている状態においては、「私」はそれほど閉じていない。「私」は結構、「あなた」(たち)に開かれている。私の方が他者たちに己(おのれ)を開いていくことができれば、他者達もおのずから開かれてくる。そこにコミュニケーションが生まれる素地があるのじゃないかなと思います。
 コミュニケーションと言うと、すぐにことばで何かの考えを伝え合うというように、「伝える」ということに重きを置いて理解しようとします。けれども、私はむしろ気持ちをつなげる、気持ちを分かち合うところにコミュニケーションの基本の形を見ようとします。自分が他者に開かれていくと、他者も開かれてくる。そこに気持ちのつながる瞬間が生まれるのですが、それがコミュニケーションの原点だと思います。つまり、気持ちをつなげあうということがコミュニケーションであり、それが私たちが「生きる」ということにおいて、究極、目指していることなのではないかと思うわけです。
 気持ちをつなぐというと、少し抽象的に聞こえるかもしれません。どんなふうにして気持ちをつなぐのかと言われるかもしれませんが、切り分けられた私と切り分けられたあなたとがよそよそしく向かい合って、対峙する関係のまま気持ちをつなごうとすると、とてもしんどい。向かい合った対峙する関係ではなくて、むしろあい並びの関係になると、実はいろんなところで気持ちと気持ちがつながれてくる。人はやはり一人では生きていけないんですね。誰かと共に生きていきたいという志向性を根本的に持っているんじゃないかと思います。
 私たちは表現することをすごく大事に考えていると思いますが、ここに谷川俊太郎さんと竹内さんの対談が掲載された、日本吃音臨床研究会の年報「スタタリング・ナウ」があります。その中で竹内さんは、聴くということが大事だと述べられています。人と人がつながれていくためには、自分がこう思うことを単に相手に伝えるだけでなく、むしろ相手が何を言おうとしているかを聴こうとする態度が必要です。
 聴こうとする態度の中に、自分を他者へと開いていく根本的な志向性が現れているんじゃないかなと思うわけです。そして、「私が生きる」ではなくて、周りの人と「共に生きる」という視点に立ってみますと、まずは人と共にその場にいようとする、そして、人のことを聴こうとする態度が重要だということが分かるだろうと思います。要するに、気持ちを相手に向けていくということですね。赤ちゃんとお母さんの関係を見ておりますと、お母さんは赤ちゃんを分かろうとして、実に一生懸命、赤ちゃんに気持ちを向けていく。だから赤ちゃんのことがわかる。そこで、赤ちゃんとお母さんの気持ちがつながれていく。私はそこに「共に生きる」ということの原点を見ようとします。
 気持ちをつなぐというところから「生きる」ということを考えてみると、たぶん、コミュニケーションというところにいくんじゃないか。そうすると、竹内さんとうまくお話が絡むのではないかと思って、今日はやってきました。

深いところで、何かがつながる

竹内 竹内敏晴です。今のお話を伺っていて、大変、根本的なことをおっしゃったので、さて、どうお話したらいいか分かりませんが、初めにおっしゃった切り分けられた〈わたし〉と〈あなた〉でなく、共にその場にいる、ということから考え始めさせていただきましょう。
 〈わたし〉は〈からだ〉としてここにある、ということから、わたしは出発しますが、二人がここの場に一緒にいると、話をしてもしなくても、からだとからだとして、もうこの場にいることでつながりがあるわけです。私がAで、鯨岡さんがBとすると、一つの楕円形の中に、AとBがいる。切り分けられたそれぞれの個人でなく、一つの場にいるだけで、どんなに自分が孤立していると思っていてもつながりがある。こちらが動けば、関係が変わりますから、必ず、向こうが動く。向こうが動いたら、こちらも動かざるを得ない。一つの楕円が動くわけで、両方が開けば、楕円が大きくなったり、小さくなったりすることもありますが、そんなふうに、元々がつながっているのだととらえます。
 私の場合、ことばが不自由な人間でしたから、どこかで、ことばでつながりたいという気持ちが随分ありました。しかし、ことば以前にからだの触れ合いの方が大事だろうという気持ちも、元々非常に強いものがありました。今、鯨岡さんの母と子を例に話されたことを聞いてるうちに、私がことばをしゃべりはじめた頃を思い出しましたので、その話をしようと思います。
 しゃべり始めというよりも聞き始めですね。私は子どもの頃は難聴で、聞こえるときと聞こえないときがあって、そのためによくしゃべれなかった。十代に入り、全く聞こえなくなり、16歳の時に新薬が発明され、聞こえるようになりました。それまでは化膿性疾患に対する薬はなかったんです。学校の体操の時間、お天道様がたとえば左から照ってると、しまったと思っても授業中なので動くわけにはいかない。ずうっと照らされると、左耳が熱くなって、家へ帰ると必ず熱を出す。すると、のども耳も痛くて、飲むことも、食べることも、唾をのむこともできず、絶対安静で、何日か寝てる以外に方法がない。それが新薬のおかげで、16歳の時に、左の耳の耳垂れが止まった。音が聞こえてくると、ことばが分かるだろうと、皆さんは思うでしょうが、そうじゃない。この頃、ことばの教室の先生方にもそのことの理解があまりないことが分かったので、この間、ある研究会で初めてその話をしました。
 新薬の開発という条件のために、私のような場合は例外なんです。耳の場合は、それまで聞こえなかったものが手術で聞こえるようになるということはまれです。ところが、目では手術で見えるようになることがあるようです。その場合、目が光を感じられるようになっても、ここに鯨岡さんがいて、そこに本があるというように見えるわけじゃなくて、光の斑点が見えるだけなんです。あそこに白っぽい斑点があって、そこから茶色っぽい斑点があり、それがつながって、また光の斑点がたくさんある。それが、まとまって、一人の人間として見えてくるまでにはいろんなステップがいる。その解説みたいな文章を読んだときに、「ああ、音も同じだ」と思ったんです。いろんな音が入ってくるけれど、鳥の声か、足音か分からない。非常に単純化して言っていますが、鯨岡さんが「竹内さん」と呼び掛ける音が、他の音と違うことは分かるけれども、鯨岡さんから出てきた音とも、ほかの人の声とも分からない。鯨岡さんが私の肩を叩いて、「ねえ、ねえ、君」と言ったら、声と働きかけがつながって、「ああ、これが鯨岡さんの声なのか」とそこで発見できる。直に触れなくても、目の前で話すことでもいいですが、この触れ合いがあって、「はあ、これがこの人から出てくる音なのか」が初めて分かる。そういう触れ合いがないと、声だけで判別できるわけでは全くないわけです。
 人と人との触れ合いを、ことばのレベルで言いますと、皆さん方はそういう時期を幼児の頃に過ぎているので、お気づきにならないが、からだからからだへ触れてきたり、一緒に揺れる体験の時に声が出て、初めて、何かの意味が伝わり、ことばが意味を持ってくる。音ではなくて、これが人の声だと分かり、その人の感情の動きだか、こちらに対する働きかけだかが動いてくる。そういう触れあいの中で、初めて起こってくることが、鯨岡さんがおっしゃった母と子のつながりなんでしょう。私の場合には、皆さんが幼児の頃、自覚しないで通過されたところを10代の終わりになってから、全面的ではありませんが意識的に通過しました。意識で考えなきゃいけなかったために、非常に中途半端なものになったんだろうと思うんです。だから、ことばが成立してくる以前に、からだとからだが触れることがとても大事なんじゃないかと思うわけです。
 こういう話をしますと、どうしてもしゃべりたくなることが一つあります。それはマルチン・ブーバーのことです。彼は、ユダヤ人の哲学者ですが、自伝のようなものに、自分の幼児期のことを書いています。
 小さいときに、両親が別居して父方に行く。牧場をやっていたのか、お父さんは馬を飼っている。そこで暮らしてるうちに、一匹の馬と非常に仲良くなり、手から餌を食べるようになり、撫でたりして毎日一緒に遊んでいた。ところが、ある日、たてがみを撫でていて、「ああ、これはいい気持ちだなあ」と思ったんだそうです。その次の日から、馬は彼の手から餌を食べなくなった。今まで、自然につながっていた、つながってること自体の中で、二人とも生きてたのが、ああ、これは気持ちがいいなと思い、気持ちがいいために撫でるということになった途端に、そこでプツッと何かが切れた。自分にとって気持ちがいいから撫でることは、私に言わせると自分に閉じこもることなんです。だから、気持ちがいいと思った途端に、馬は自分の裏切りに気がついたんだろうか、というような意味のことをブーバーは書いている。
 これは立証はできないことだけれど、私は非常に良く分かる気がするんです。私たちは一人一人、別々だけれども、その中で、何かがつながる、コミュニケートする。わかり合うということの原点に戻ると、少年ブーバーと馬が、毎朝会っていた時のような関係。意識の層でいうと、いつもの私たちの生活の層が意識の上の方にあるとすれば、それよりずっと深いところの層で、そういうものが生きていて、そこで私たちはつながるんじゃないだろうかというようなことを考えるわけです。(「スタタリング・ナウ」2003.5.17 NO.105)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/02/19

應典院・コモンズフェスタ2000 どもりを個性に 桂文福オリジナルの落語家人生 6

 應典院で開催されたコモンズフェスタでの、文福さんと僕の対談を紹介してきました。2時間15分に及ぶ対談は、今、読み返してみても、文福さんの温かい人柄があふれている、楽しい時間でした。
 参加された方の感想を紹介します。

優しさに包まれ、パワーを吸収した
                              坂上和子

 桂文福さんの公演録を読み、再びあの優しさに包まれたお人柄を思い出しています。本当に親子3人で出席してよかったです。息子は小学5年生ですが、子どもにたくさんのメッセージをいただき、帰ってきてからの1ヵ月は、文福さんのパワーを十分に吸収した様子でした。まずしばらくは「気持ちがむちゃくちゃ楽になった」と言って、毎日「学校で今日は何回発表した」と私に報告していました。機関銃のように勢いよくしゃべる子どもを横目に“おいおい、そんなに早く治るなよ”と寂しいような感情がわいてきたのですが、誰に報告するともなく、しばらく様子を見ることにしました。そして、やはり効果は1カ月足らず、尻すぼみで、またかっこ悪さを自覚しながら日々戦っているようです。定期的に大阪へ通えたらいいだろうなと切実に思いました。でも、昨年、吃音ショートコースに参加できたおかげで、子どもの将来を少し客観的に考えることができるようになり、親としての心構えは準備OKのような気がします。皆さん、お年を召される順に魅力的だと思いました。うちの子は、まだ笑うしかない状態でどもっちゃっていますが、あたたかく見守っていこうと思います。


文福さんから貰った大きな力
                    金森正晃(和歌山県・高野山)

 私は現在、僧侶として和歌山県の高野山に住んでいる。11月6日。待ちに待ったその日は、あの和歌山が生んだスーパースター、桂文福さんに会えるというので朝からウキウキワクワク。一日中落ち着かず、仕事を少し早目に切り上げて大阪へ向かった。
 少し早目に出発したが、5分の遅刻。もう既にお弟子さんの"桂ちゃん好"さんの前座トークがはじまっていた。しかし文福さんの登場はまだ、ギリギリ間に合ったという感じだ。少しすると、派手なピンクの羽織姿で文福さんの登場。
 よ、待ってました!
 前半は文福さんの落語、後半は文福さんと伊藤さんの対談という形であったが、落語も対談も、とにかく文福さんの話はおもしろかった。中でも和歌山弁ネタの話は、和歌山の高野山に住む私にとっては、とても可笑しく久しぶりに腹を抱えて笑った。さすが文福師匠、やっぱり一流の噺家さんである。
 和歌山の人はザ行の音が発音できず、ザ行を含む音はどうしてもダ行になってしまう。ぞう(象)がドウ、ぞうきん(雑巾)がドウキン、れいぞうこ(冷蔵庫)がレイドウコというふうにである。文福さんも故郷を離れ、落語界に入門された頃には、この和歌山弁のせいで随分困ったそうだ。そんなことをおもしろ可笑しく話していただいた。
 実は私自身も高野山に住み始めた頃には、和歌山弁には随分と困った。私の場合、文福さんとは全く反対で、和歌山弁が聞き取れなくて困ったのである。更に、私は島根県出身なので言葉は田舎丸出しの出雲弁、それもどもりながら話すのであるから全く意味不明になってしまう。そんな私も和歌山高野山に住むようになって、はや20年、今ではすっかり和歌山の人間である。高野山が好きで、熊野の森が好きで、有田の海が好きで、和歌山全体が好きだ。そして和歌山の人たちが大好きだ。文福さんはその和歌山が生んだスーパースターなのである。
 伊藤さんとの対談の中で、文福さんは自分の吃音についていろいろと話して下さった。そのお話の中で、文福さんも私たち同様、子どもの頃から吃音に悩み苦しまれていたことを知った。しかし、さすが文福さんである。吃音のことについて話していても、決して重たい暗い雰囲気にはならず、会場から笑いの声が途絶えることのない楽しいものであった。まるで文福さんと伊藤さんの漫才のような対談であった。
 文福さんは不思議なことに高座の上で落語をされている時は全くと言っていいほど、どもらない。私も今まで文福さんがどもる人だなんて知らなかったほどだ。でも、高座を降りて普段の会話になると、よくどもるという。伊藤さんが初めて文福さんから電話をもらった時は、吃音の相談の電話だと勘違いしたぐらい、電話では特にどもるそうである。そんな文福さんが30年近くも落語を続けてこられ、ついには弟子を持ち、“師匠”と呼ばれるようになるには並大抵の努力ではない。文福さんは“努力”の人である。文福さんを常に支えていたものは「落語が誰よりも大好きだ」という一途な思いである。人は誰しも決して諦めずに、自分の心の中に、強い信念を持ち、そして自分自身に絶対的な自信を持ち、目標へと向かってゆくことが大切なのだろう。
 話芸の達人、落語家としての文福さんの成功は、私たち吃音を持つ者に大きな勇気と希望を与えてくれた。私たちは誰しもが文福さんのようになれる。それは決して落語家になれるという意味ではない。あらゆる分野において成功しうる可能性を誰しもが持っているということである。私は今回の吃音を通じての文福さんとの出会いに心から感動した。吃音を受け入れ、吃音と上手につきあっている文福さんは、決して吃音を芸風にしたり、売り物にしたりはしない。それが文福さんの魅力だ。
 私はこの4月、住み慣れた和歌山高野山を去る。兵庫県の湯村温泉の近くに“春来(はるき)”という過疎の村で、今まで住職のいなかった小さな村の小さな寺“萬福寺”に住職として入寺する。これから先、いろいろと大変だと思うが、がんばってみるつもりである。
 “寄席”とは、どんなものでも決して排除せず、全てのものが寄り集まる処であると文福さんは云う。お年寄りも若い方も子どもたちも、そして動物や小鳥までもが寄り集まる処。それが寄席なのである。お寺も同じであると私も思う。私のお寺も、そんなみんなが寄り集まるような寺にしたい。そしてこの寺の名前の如く、萬(よろず)の福を多くの人が持ち帰っていただけるような、お寺にしたい。それが私の夢である。
 今回、文福さんからは、笑いとともに大きな力を貰った。文福さんに心から感謝する。そして、私を20年間、育ててくれた愛する和歌山高野山に心から感謝する。みんな是非、来年から私の寺に遊びに来てほしい。それが私がこれから作る“萬福寄席”なのである。
(「スタタリング・ナウ」2001年2月17日 NO.78)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/04/21

桂文福さんをゲストに開催した、應典院でのコモンズフェスタ〜「どもりを個性に 桂文福オリジナルの落語家人生」

 NHK番組の「にんげんゆうゆう」をきっかけに始まった文福さんとのおつきあいは、当時、大阪吃音教室の会場として使用していた應典院でのイベントにつながりました。そのときのイベントのタイトルは、「どもりを個性に 桂文福オリジナルの落語家人生」でした。文福さんがよく話すのでそうなのでしょうが、このタイトルは、文福さんがつけたものではなく、僕がつけたそうなのです。本人が決めたのだと僕自身は思っていました。チラシが送られきて、このタイトルを見て、家族みんながびっくりしたそうなのです。でも、このタイトルで「吃音を全ての生活で隠さない」と決心したと言っておられました。「カミングアウト」ということばで、この体験を言っておられます。今はもう吃音は全開です。「どもって、なまって」が公開の場でも、どんどん飛び出します。周りの人が吃音について知っていて、それを否定しないけれど、わざわざ自分の口から言うことはないということだったのでしょう。明るい文福さんですが、吃音はやはり大きな重しになっていたのかもしれません。僕と出会ってから吃音は一段と成長されていますが、それも楽しんでいるような趣があります。僕たちの頼りになるひとつのモデルです。
 コモンズフェスタでは、落語という話すことが商売の仕事をしてこられた文福さんの話は、参加していた子どもたち、その保護者、そして僕たち成人のどもる人たちを大いに勇気づけました。「スタタリング・ナウ」2001.1.20 NO.77で特集していますが、まず、その号の僕の巻頭言から紹介します。

  価値観が広がる
                     日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 180度の価値観の転換、逆転の発想、マイナスをプラスに、などのことばが流行ったときがある。プラス思考で生きれば脳内に革命が起きる、との陳腐な本が大ベストセラーにもなった。
 人が変わるとは、どういう道筋を辿るのだろうか。実際に180度の価値観の転換ができて、その人が生きやすくなるのであれば、それはそれでいい。しかし、価値観の転換にどうもついていけない感じがするのは、今在る自分を否定する、あるいは自分が否定されることへの抵抗感、嫌悪感からだろう。
 私がどもりに悩み、苦しみ、将来の展望が全くもてずに堂々めぐりをして悩んでいた21歳の頃から、それなりの自己肯定の道を歩み始めたその道筋は、180度の価値観の転換、どもりをプラスに、などというものでは決してなかった。どもりを治したいと、精一杯治す努力をしたが治らず、「まあしゃあないか」と事実を認めたところから出発したように思う。どもりながらも、隠さずできるだけ逃げない生活を続けて数年後、ふと立ち止まったとき、数年前の自分とは随分変わっていることに気づいた。価値観の転換をし、成長を目指して取り組んだことは何一つなかったから、自分の変化に気づかなかった。おそらく傷が癒えるときに薄皮ができ、その薄皮が1枚1枚はがれるようなものであったような気がする。
 昨秋、應典院で開かれたコモンズフェスタで、桂文福さんがどもりについて語ってくださった。
 桂文福さんの落語家としての半生は、涙と笑いに満ちたものだった。どもりでシャイで対人恐怖で赤面症だった文福さんが、個性派の落語家として歩んでいく道は、最近CDとしてリリースされ、全国でヒット中の『和歌山ラブソング』にも似て、『どもりラブソング』そのものだった。
 しかし、どもるがゆえに起こる数々のできごとは、今は笑いとして話され、聞く方もつい大笑いしてしまうが、その真っ只中にいた頃は、不安、恐れ、悔しさ、腹立たしさ、様々な思いがうずまいていたことだろう。その後、どもるがゆえに失敗するテレビのインタビュー番組で「とほほ…」のギャグが大受けする。
 「そうか、どもって立ち往生し、『とほほ…』となるのもありか?!」
 どもっている自分をそのままに、少しだけ価値観が広がったということだろう。
 価値観の転換などという大袈裟なことでは無く、今の自分を否定しないで、自分のできることに誠実に取り組む。そのプロセスの中で、人はいろいろな人やできごとと出会い、結果として価値観が広がっていくのではないだろうか。
 桂文福さんの落語家としての30年の道のりは、古典落語だけを目指すのではなく、どもっているどもりはそのままに、河内音頭、相撲甚句などと出会い、新しい世界が広がっていった。
 文福さんは落語をするときはどもることはほとんどない。しかし、高座から下りて、どもりについて私と話す時、その後の打ち上げ会での酒席で、文福さんは楽しく自然にどもっておられた。そのどもり方は私たちにはとても心地よく、仲間意識が一段と深まった。なんかほっと安心する。笑いと、あたたかい雰囲気がその場いっぱいに広がっていった。
 私たちが相談会や講演会を開くと、「私はこうしてどもりを治した、軽くした。私もこれくらい喋れるようになったのだから、みんなも努力してどもりを軽くし、そして治せ」と言う人が現れる。その言動はどもりに悩む人たちへは励ましよりも大きなプレッシャーを与える。
 文福さんは違う。どもりを打ち負かして話すプロになったのではない。どもりに勝てなくても、少なくともどもりに負けへんでと、取り組んできたから今の文福さんがあるのだろう。
 「どもってもええやんか。そやけどな、どもっていても、おいやん(おじさん)のように、噺家のプロにもなれるんやで。プロになっても悔しいこと、悲しいこと、いっぱいある。けどな、負けへんで」
 悲しみも苦しみもあっていい。あるからこそ喜びが味わえるのだ。その日、遠く広島から、福井から、和歌山などから来た小学生が前の席にずらりと並んでいた。その子どもたちに、ちょっと太った一茶さんが優しく話しかけていた。
 「痩せ蛙 負けるな一茶 ここにあり」 
(「スタタリング・ナウ」2001.1.20 NO.77)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/04/15
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