伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

当事者

第13回 吃音と向き合い、語り合う 伊藤伸二・吃音ワークショップin東京


東京ワークショップ1 2日間の合宿を終え、翌12日(祝・月)は、恒例の東京ワークショップでした。年に一度、東京で開催する一日ワークショップです。今年の参加者は、15人。ひとりひとりの人生に耳を傾け、シェアし、豊かないい時間を過ごしました。ずっと昔、吃音ショートコースを開いていた頃、よく参加していた人との懐かしい再会あり、初めての出会いあり、コロナ前の東京ワークショップで意気投合した参加者同士の偶然の再会あり、始まる前から、温かい空気が流れていたようです。

 はじめに、参加者ひとりひとりが声を出しておいた方がいいだろうと思い、簡単に自己紹介をしてもらいました。いつだったか、「簡単に」と言わなかったせいか、自己紹介だけで午前中が終わってしまったということがありました。だから最近は、「簡単に」ということばを入れるようにしています。
 みんなの自己紹介が終わった後、初めての人もいるので、簡単に僕も自己紹介をしました。吃音に悩んできたおかげで、今、とても充実した人生を送っていること、前日まで今年の吃音の取り組みを考える合宿をしていたこと、今、社会からのメッセージがたくさんあって、その中から自分でどうみつけていったらいいか分かりにくい時代になっていること、だからこそシンプルに伝えたいことがあり、それは、吃音は治らない、治せないということ、それを納得して生きることが大切だということ、どもりは治らない、治せないけれど、変わるということ、治っても治らなくてもどっちでもいいことで、それより大事なことがあるということ。そんな話をして、事前に参加者からもらっていたリクエストに沿って、みんなで考えていきました。事前に出されていたのは、次のようなことです。

東京ワークショップ2・吃音のある人生って何だろう
・吃音サバイバルについて
・当事者の話を聞きたい。
・論理療法
・認知行動療法
・健康生成論
・ポジティブ心理学
・言語訓練に代わる、日本語の発音・発声のレッスン
・普段の日本語は難発、第二言語として学んでいるフランス語は連発。どうして?
・孤独を深めて、人とコミュニケーションを避けてきたとき、助けられたことは?
・ことばを発するときの恐怖や不安は、一生涯続くものなのか
・軟起声で話しやすくなったが、同時にどもる人としてのアイデンティティがなくなり、どもる当事者とどう接していいかわからなくなった。

東京ワークショップ 伸二 笑い顔 これだけたくさん、しかも幅広いテーマが出ましたが、参加者ひとりひとりが、それぞれに自分の経験を、自分のことばで話していきました。僕も、自分の経験、今まで出会ったどもる人やどもる子どもの話をたくさんしました。いつもそうですが、こういうとき、僕は、ひとりではない、僕のすぐそばに、これまで出会った大勢のどもる人やどもる子どもがいてくれることを感じます。実際に存在するそれらの人たちの経験を伝えていくことが、おそらく世界で一番たくさんのどもる人やどもる子どもに出会っている僕の使命なのだと思います。

 大勢の前でどもって失敗した。気にしないでおこうと常に自分に言い聞かせていると発言した人がいました。僕は、失敗したなあ、恥ずかしいなあという気持ちを消そうとしないでおこうと言いました。無理矢理消そうとせず、ただそこにとどめておこう、と。感情をなくそうとすることは、難しいです。嫌だなあ、恥ずかしいなあという気持ちを消そうとせず、そこに置いておく。そして、日常生活を大切にして生きるのも吃音サバイバルのひとつなのかもしれません。
 昨年も参加され、今回も参加された人がいます。吃音ではなく、緘黙だとのことです。僕のブログを読んで、ことばが出てこない気持ちが分かり合えるのではないかと思って、昨年初めて参加されました。たった一日、10時から17時までの限られた空間ですが、きっとこういう場が大切なんだろうと思いました。今、刑務所でも、対話が大事だとして、自分のことを語るということを積極的に取り入れているところがあります。何年か前に観た「プリズンサークル」という映画も、そのテーマでした。最近も、新聞に写真入りで載っていました。罪を犯した自分を振り返り、本当の意味で更生するには、語るという行為が大切だということなのでしょう。僕たちは、罪を犯したわけではありませんが、年に一度、自分のことを語り、他人の人生に耳を傾ける、この機会は大事です。年に一度の棚卸し、と考えていいのでないでしょうか。

 孤独を深めて、人とコミュニケーションを避けてきたとき、助けられたことは? については、参加者ひとりひとりに発言を求めました。

東京ワークショップ3・映画や本。特に「エデンの東」や「次郎物語」
・どもったときに、何事もなかったかのように全く違う話に振ってくれた人がいた。それで、その話の中に入っていけた。
・両親が、なんとかしようとしてくれた。両親の愛を感じた。
・吃音親子サマーキャンプに参加したこと。参加するよう背中を押してくれた先輩のおかげ。
・一人でこもって、本を読んでいた。
・どもる仲間に出会えて話したこと
・受け持っていた子どもや親からの手紙が元気グッズになった
・20代で挫折したとき、両親が支えてくれた。
・音楽。上達していくのも楽しかったし、好きなことがあることで支えになった。
・祖父の日記に、自分のことが記されていた。心配し、愛していてくれたことがわかった。
・妻。治そうと必死に努力しているとき、もうやめたらと言ってくれた。そんなことをしているから、よけいに意識するんじゃないかと言ってくれた。
・両親、先生、仲間など、周りの人に助けられてきた。
・グループの仲間。

東京ワークショップ4 午後は、参加者のひとりと僕で対話をしました。その人に真剣に向き合って対話をしていると、知らない間に1時間を超えていました。その内容は、また紹介したいと思います。真摯に、対話を続けてくれたその人、そして、その場を支えてくれたほかの参加者に対しても、感謝の気持ちでいっぱいです。

 濃密なあの時間を、今、こうして言語化することは難しいなあと思いながら、書いてきました。最後に、一人一人、参加しての感想を聞きました。

・当事者の気持ちを聞けたことがよかった。心が動く、おしくらまんじゅうをしたみたいで、温かい振動を感じた。
・困っている、悩んでいるということではなく、どう生きていったらいいかを考えられる充実したワークショップだった。
・本音を聞けたのがよかった。吃音は隠せない、自然体でいたいと思った。
・他の人の人生を聞く時間であり、自分の幼い頃を振り返る、不思議な時間だった。
・どもっているときの「間」を全く気にせず、話したり、聞いたりできるいい時間だった。仕事で、ここにいる人たちと会えなかった時間が長かったが、再会できてうれしかった。
・みなさんの話を聞いて刺激を受け、自分の中で対話をしていたようだ。
・こんな形のワークショップは初めて。自分のことばでしゃべることの大切さを感じた。
・あっという間に時間が過ぎた。もっと居続けたい気分。名残惜しい。
・自分の人生をみつめることができた。吃音という屈折率のあるレンズを通して人生を見てきたが、その他の人と違う見方ができていることを自分の強みとしたい。
・自分のことばで話すことの大切さを思った。
・すばらしい場だった。来年も参加します。
・自分の主宰するグループでも、このような場を作っていきたい。
・バックボーンも、年齢も、いろんなことがバラバラの人が集まり、対等に話ができる、貴重な時間だった。

東京ワークショップ6 伸二アップ みんな、豊かでいい時間だったと言ってくれました。感想を聞いていたら、会場が使えるぎりぎりの時間になってしまいました。リクエストすべてにはこたえられなかったけれど、またの機会にぜひ。みんなで、猛ダッシュで片付けをして、ちょうど午後5時、東京ワークショップを終えました。
 吃音の、奥深い豊かな世界を味わった時間でした。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2026/01/18

当事者と臨床家

 吃音に深く悩み、吃音を否定し続けたことで、人生に大きなマイナスの影響を受けた僕は、治らない、治せない事実を認めないと、より良く生きていくことができませんでした。他のどもる人も同じでしょう。親も、子どもの幸せを願えば、吃音を否定し続けたら、子どもを否定することにつながりかねないと話すと、当初「治してあげたい」と強く思っていた親も変わっていきます。吃音親子サマーキャンプに参加する親たちは、そんなふうに変わっていきました。 ところが、臨床家は「治せない、治らない」ものに対して、それでも治る、少しでも軽減させると考えてがんばっても、自分の人生に何の損失もありません。治すことが、その人の幸せにつながると思い込めば、少しでも、吃音の症状といわれるものを軽減させることが、臨床家の誠意、責任だと考えてしまいます。やっかいなのは、それが善意から出発していることです。 治らない、治せない事実を認めることは、臨床家として、専門家としての敗北だと考えてしまうのでしょうか。敗北ではなく、そこから出発し、臨床家、専門家として、できること、してほしいこと、しなければならないことは、山ほどあります。そういう臨床家、専門家を、僕たちは待っているのです。今日は、「スタタリング・ナウ」2014.5.20 NO.237 より、まず巻頭言を紹介します。

  
当事者と臨床家
                      日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 「治せない、治らない、吃音に対して、当事者、親、臨床家の三者のうち誰が一番その事実を認めにくいと思うか」
 大学や専門学校での講義や講演などで、私が時々する質問だ。今、続いているいくつかの言語聴覚士の専門学校での講義でこの質問をすると、当事者や親だと思うと答える学生が多い。その一方で、「吃音は治そうとするものではなく、どもる当事者が、どもる事実を認め、吃音と向き合い、吃音とともに生きる道筋に立つまでが、臨床家の役割だと考える」という私の主張に抵抗を示す学生もいる。
 専門学校の今年のこれまでの講義で、ひとりの学生がふりかえりのレポートにこう書いた。
 「言語に関する学術的な知識と、臨床経験から裏打ちされた手法を使って、言語聴覚士として働こうと、この学校で学んできた者として、伊藤さんの主張は受け入れがたい。そもそも、今学んでいる手法も、私は本当には理解していないままに詰め込んでいる状態なので、それらが経験と合わさって、本当に理解するにはもう少し時間がかかると思う。伊藤さんの言われることを、今すぐ理解するのはとても難しいと思いました」
 言語聴覚士の専門学校で15年ほど講義をしてきているが、その年その年でずいぶんと私の講義の受け止め方が違う。圧倒的に受け入れられて、有頂天になったり、厳しい批判や抵抗に落ち込んだりしながら続けてきた。すべての学生に受け入れられると考えるには無理があることは、百も承知しているのだが、最後まで抵抗する学生には、正直疲れてしまうことがある。それでも今日まで、気持ちよく講義をし続けてきたのは、「吃音に対する考えが180度変わった」「臨床に出る前に、伊藤さんの考えに出会えてよかった」と、感想を書いてくれる学生が多く、その人たちに支えられてきたからだ。

 吃音の世界では極めて少数派の意見を、私が発信し続けなければ、「吃音を治す、軽減する」一色の取り組みになってしまうことを恐れているからだ。学生達の確かな手応えを励みに、これまで講義してきたのだった。仮に、大勢から受け入れられなくても、「英国王のスピーチ」のジョージ6世のように、「I have a voice」だからだ。
吃音に深く悩み、吃音を否定し続けたことで、人生に大きな損失を実際に被った当事者は、治らない、治せない事実を認めないと、より良く生きていけない。親も、子どもの幸せを願えば、吃音を否定し続けたら、子どもを否定することにつながりかねない。当初「治してあげたい」と強く思っていた親も変わっていく。ところが、臨床家は「治せない、治らない」ものに対して、それでも治る、少しでも軽減させるとがんばっても、自分の人生に何の損失もない。その人の幸せにつながると思い込めば、少しでも、吃音の症状といわれるものを軽減させることが、臨床家の誠意、責任だと考えてしまう。治らない、治せない事実を認めることは、臨床家として、専門家としての敗北だと考えてしまうのだろうか。
以前紹介したカナダのアルバータ大学の吃音治療施設「アイスター」などの言語病理学は、いつになったら、その事実を受け止めて、吃音を生きる支援が、言語聴覚士の役割だとの考えに到達するのだろうか。私が、吃音に向き合い始めて50年になるが、その当時と治療法が全く変わっていないことを考えれば、さらに50年は必要とするのだろうか。「治せない、治らない」事実を認めるのが一番難しいのは、臨床家、専門家なのだ。
その中で、「吃音を意識し始めたときから、どもる人は、吃音とともに生きていくことができることを約束されている。そう、基本設定されている」との、前号の主張を、そのまま言語聴覚士の専門学校の学生に提示したら、どのような反応が返ってくるだろう。専門家として、何もすることがないということか、と考えてしまうかもしれない。
金子書房発行の4冊、「当事者研究」「認知行動療法」「アサーティヴ・トレーニング」「論理療法」などを、どもる当事者と共に取り組む友人であってほしいと願っているのだが。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2026/01/16

新たな吃音臨床への招待 3 ―「第1回親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会」

 昨日のつづきです。2012年8月に行った第1回親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会の2日目の報告です。この日、昼食後の実践講座が圧巻でした。この吃音講習会の名前が「親、教師、言語聴覚士のための…」となっているのにふさわしい時間でした。参加するだけでもハードルが高いであろう臨床家のための講習会で、初めて参加して、突然、僕と公開の対話をしませんかと言われて、簡単には登壇できるものではありません。それを押して、登壇してくれた3人の保護者に敬意と感謝の気持ちでいっぱいになりました。
 保護者は、これまで聞いていた、あるいは信じていた、吃音に関する話とはまったく違う話を1日目に聞き、そうだったのか…と思いつつ、やはり治るものなら治してやりたいという親心が消えない、その正直な気持ちをすなおに、みんなの前で語ってくださいました。公開相談会となった、大勢の参加者の前でのやりとりを通して、保護者に変化が現れるのを、参加者が温かくそっと見守りました。そうして、会場の参加者が、登壇者を、そして、この時間を支えてくれました。
 すべてのプログラムが終わって、最後のティーチイン。通り一遍の感想とは全く違うひとりひとりの語りに、心を打たれた時間になりました。

新たな吃音臨床への招待 3
    ―「第1回親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会」

                2012年8月4・5日 千葉県教育会館
   坂本英樹(どもる子どもの親、教員、NPO法人大阪スタタリングプロジェクト)

2日目シンポジウム(ミステリー・ツアー)

 前日のグループの話し合いの報告と、質問の時間。初日の伊藤さんの話を初めて聞いて、自分がそれまで依拠していた訓練や考え方との根本的な相違に混乱する、言語聴覚士からの戸惑いの声が紹介されたが、伊藤さんは吃音をコントロールするための言語訓練と吃音を認めることの両立は可能かの質問に、議論を繰り返した結果、両立はしないこと、世界のどもる人のほとんどはどもりながら手持ちの力で生きているという否定できない事実の中で、どもることに不本意なまま生きるのと、どもる覚悟を決め納得しながら生きるのとでは全然違うのではないかとコメントした。
 シンポジウムのメンバーはことばの教室の教員として奥村寿英さん、渡邉美穂さん、高木浩明さん、溝上茂樹さん、現在は通級指導教室担当の佐藤雅次さん、言語聴覚士として野原信さん、どもる子どもの親として私、坂本英樹、当事者としてNPO法人大阪スタタリングプロジェクト会長の東野晃之さんである。この企画は当初、それぞれが実践発表してから論議する予定だった。それを急遽変更し、シンポジスト個々の実践、提案の詳しい内容は事前資料に譲り、それを前提に吃音の臨床にとっての「語りの実践(ナラティヴ・プラクティス)」のもつ意味を伊藤さんを道案内役として語り合う、どこへたどり着くか分からない、ミステリー・ツアー、大喜利となった。
 ナラティヴ・アプローチはまず、問題と人を分け、問題そのものを外在化、目に見える形にして考察するところから始まる。東野さんは吃音に悩んでいた頃はその問題をどう整理したらいいのか、自分の中の否定的な思いをどう語ればいいのかがわからず、セルプヘルプグループに参加しても当初は話ができなかったと述懐し、問題を明らかにする、取り出すためには自分を分析する、語るための小道具が必要なのではないかと示唆した。
 ことばの教室の教員もその小道具を自らの実践の入り口に置いている。奥村さんは子どもに吃音について知っていること、わからないことを紙に書いてもらう学習活動を始め、高木さんの実践は積み木で言語関係図をつくることや吃音氷山を描くことを通じて、子どもが形、大きさ、重さを感じることができるだけでなく、それらが変化することまでの洞察を含んだものだ。渡邉さんは「どもりカルタ」が子どもが心身を働かせながらの自分の気持ちの確認になること、さらには自分自身のどもりカルタをつくることで表現する力、伝える力を身につけることができるとして、カルタを友だちに見せて自分のことを語る子どもの姿を紹介。人と人とを結びつけるどもりカルタの可能性を提示した。溝上さんの絵を書いている子どもといろいろ語るという話は、要項表紙のどもりキャラクター「もっちい」の絵に私たちの目を釘付けにした。どれも外在化の好例だ。
 ここで、会場の当事者からまだ語られていない物語を聞くという「聞く」は、AAなどのアノニマス(匿名性)のセルプヘルプグループの原則である「言いっ放し、聞きっ放し」の「聞く」とどう異なるのかとの質問が寄せられた。語りは語りと出会い、対話となることを要請する。教員、言語聴覚士も自己を語らなければ子どもとの対話は成立しない。伊藤さんはナラティヴ・アプローチでは相手に対する「好奇心に支えられた対等な語り合い」から、新たな物語が紡ぎだされるという意味で、「共著者」という考え方を紹介した。傾聴という受容的な聞き方との相違は明らかだろう。
 野原さんからは言語聴覚士として結果を性急に求めてしまう自分がいるとの話があったが、語りが熟成されるのを待つのも、ひとつのスキルである。聞き方を学ぶ、質問の仕方を修養することが語りを豊穣にするための要件なのである。これからその課題に取り組もうとして、伊藤さんは「ナラティヴ元年」を宣言する。
 当事者の発言がこのシンポジウムを構成した。当事者こそがその問題の専門家なのである。

実践講座「親の公開相談会を通して、親との関わりについて考える」
3名の保護者と伊藤・高木・渡邊さん

 昼休憩の時間は、第11回(2000年)の吃音親子サマーキャンプの記録を上映した。竹内敏晴さんが子どもたちにレッスンをしている映像は貴重なものだ。映像の中のかつての自分と対面した何人かの人に当時の思いを振り返ってもらった。
 公開相談会は、親として子どもとの関わりをどう考えるのか。教員、言語聴覚士にとっては保護者の思いをじっくり聞く経験になること、また保護者と対話をする伊藤さんの姿を話し方、聞き方のひとつの事例として参考になればとの思いからの企画である。前日のグループの話し合いで、「やはり子どもの吃音を治したい」との思いを持ち続けるお母さん、初めて参加したお母さん、吃音親子サマーキャンプ経験のあるお母さんの3人に、当日公開相談会にしてもいいかと提案し、それを受けて下さった3人にまず感謝したい。
 自己紹介を兼ねての子どもの話から始まった。小学1年の男の子をもつAさんはそのうちに治るだろうと思っていたのだが、学校医に「吃音はほっておいてはいけない」と促され、療育センターの言語聴覚士を訪ね、そこですべての生活場面で「わーたーしーはー」とゆっくり話すという統合的アプローチを指導された。しかし、毎日の生活の中でその話し方が維持できるはずもなく、治らないのはそのせいかとも考えてしまうという。この講習会では初めて聞く話ばかりで驚きと戸惑いの連続だったが、肩肘張って治そう、治そうと思わなくてもよいのかと少し楽になった。しかし、夫の吃音が小学4年の時に治ったので、その父親の子どもだから、治ることへの期待を捨てきれないと揺れ動いている気持ちを率直に話してくれた。
 Aさんは子どもにゆっくりと話しかけ、嫌がらなければ訓練もしたいとの考えがあることに、伊藤さんは子どもとのゆったりとした時間をもつことは大切だが、親の治るかもという期待は子どもを傷つけることになる、吃音に対する親の否定的な思いがちょっとした表情となり、子どもに罪悪感をもたせ、親の前で話すことを避けるようにさせてしまうのではないかと応じ、高木さんは幼い子どもでさえ親の思いは敏感に感じ取るものだと述べた。当事者で教員でもある佐々木和子さんもどもるのがつらいのではなく、治るという思いで見つめられること、治らないのはかわいそう、劣っていると思われることがつらかったという。治るはず、かわいそうというまなざしで傷つくのだと体験を語った。
 また、Aさんは「治らない」と言うことに子どもが傷つかないか心配だと話した時、たとえ傷ついたとしても、そこから手持ちの力で立ち直るのは成長のプロセスとして必要なことだろう。担うべき課題は子ども自身が担わなければならないのだろうと、まさに、ナラティヴ・アプローチ的な対話が展開していった。
 Bさんが語ってくれたのは吃音をサバイバルする話である。Bさんの家族は小学5年の男の子の吃音に関わるエピソードを笑い飛ばす日常を送っているという。ナラティヴ・アプローチではユーモアのセンスを大事にする。ユーモアはその状況を違った角度から見ることで生まれる高度なサバイバル・スキルであり、ドミナント・ストーリーの外に出ることを可能にするものだ。彼はスポーツに親しむ少年として成長しているが、母親としてはこれからの受験、就職、結婚までのことを思うと心配は尽きないから、今回参加したという。
 この話を受けて、Cさんがマイクを握った。二人のどもる子ども、中学3年の男子と小学4年の女の子のお母さんであるCさんは吃音親子サマーキャンプにも継続して参加し、吃音を通して子育てを見つめてきた保護者である。Cさんはどもり自体に対する否定的な意識はなかったが、からかいなどの二次的な問題は気になることとして考えてきた。Bさんと同様、得意なスポーツをもってほしいとの願いから彼に剣道を勧め、習わせたのだが、それは学校以外のつながりが彼の支えになることもあるとの思いからだ。中学に入ると親が提供した選択肢からではなく自分の好奇心、価値観からやりたいことを見つけてきた彼は音楽部に入り、居場所を拡げている。確実に自分をつくっている彼のことを輝きが出てきたと感じている。
 小学4年の女の子は兄の場合とは違う課題があるかもしれないが、時が来たら心配し、悩んでいこうと、そう考えられるようになったところに親としての成長を感じるとCさんは語る。
 親の成長ということに関して、渡邉さんは自分が人生を楽しむこと、その姿を見せることが子どもが人生を切り開いていく力につながる、何事かを為していく子どもの姿を信じようと親としての思いを語り、伊藤さんは障害や何らかの課題をもつ子どもの親として大切なことは何かと問いに、親自身が自分の人生を楽しむこと、子どものためにといって自分の人生を諦めないことだと答えた。社会の圧力、世間の目というドミナント・ストーリーを内面化し、子どもの犠牲になるとやがては我が子を恨むことになるかも知れない。それは子どもにとっても不幸なことだ。親の人生が拡がれば子どもの世界も拡がっていくのである。
 3人の子どもの年齢も、タイプも違う保護者の率直な生の声が対話を繰り返していく中で変化していく様子を聞けた、貴重な時間だった。

ティーチイン「2日間をふりかえって」

 2日間、私たちは実によく語り、よく笑った。最後は輪になっての全員の感想の交換である。通常、研修会などの感想は、「勉強させていただきました」という形だけのものになるのだが、次々と語られたのは「楽しかった」、「この場にいることが心地よかった」の言葉だった。その中に、これまで誰にも言えなかったことを、今語らなければと決断した勇気ある自己開示があった。参加者全員でつくりあげたこの場を信頼してくれたからだろう。どもりというテーマがいろいろなところで生き難さを抱えている人とも出会えるものだということを教えてもらうことができた。感想の交換が、交感、交歓へと変化していく時間はこの場がナラティヴ的な空間であることの証明で、それは得がたい体験だった。(「スタタリング・ナウ」2012.10.22 NO.218)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/08/14

当事者の役割

 昨日は、桂文福さん、桂福点さんが登壇された「みのお市民人権フォーラム」の人権落語二人会に行ったことを報告しました。早速、招待してくださった文福さんから、「おおきに」と、ラインがきました。本当に、人を、出会いを、大切にする、まめな文福さんです。
 さて、今日は、これまた長いおつきあいをさせていただいている大阪セルフヘルプ支援センターで出会った、現大阪公立大学の松田博幸さんの寄稿文を紹介します。セルフヘルプグループのおかれている状況について、ご自分の体験を織り交ぜながら、書いてくださいました。その号の巻頭言から紹介します。(「スタタリング・ナウ」2008.5.20 NO.165)
 吃音の定義と、吃音の問題の定義とは違うもの、当事者が行うべきことは、吃音とは何かの定義ではなく、吃音の問題とは何かを明らかにし、その問題解決の道筋を模索すること、など、当事者の果たす役割について、一生懸命書いた巻頭言だと、今、読んでも思います。

  
当事者の役割
                     日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 国際吃音連盟では、再び吃音の定義についての論議が始まった。2007年5月、第8回クロアチア大会で前会長のオーストラリアのマーク・アーウィンが強引に採択しようとした吃音の定義だ。
 私たちの強い反対でその吃音定義は撤回され、議論はもうないものと思っていたのだが、マークにはセルフヘルプグループが主導権をとって吃音とは何かを定義する強い意欲があるようだ。
 吃音症状といわれるものは、氷山に例えれば、海面に浮かぶごく一部であり、海面下に沈んでいる大きな部分、恐れや不安や回避の行動が吃音の問題なのだとし、これを、吃音シンドロームと名付け、吃音の定義の柱にするという。
 私は吃音を氷山に例えたジョゼフ・G・シーアンの説は大好きだ。しかし、これは、吃音の問題を、それも吃音に悩んでいる人の問題についてのこと、と限定した方がいいと、私は思う。
 どもる人全てが悩んでいるわけではない。どもっていてもほとんど吃音を問題とせず、つまり、氷山の海面下の部分がほとんどなく、自分なりの人生を生きている人がかなり多いのだ。受ける影響に大きな差のある吃音について、吃音シンドロームとして定義してしまうことに私は反対なのだ。
 私は、第一回吃音問題研究国際大会を開いたときから、吃音は、吃音研究者、臨床家、当事者が対等の立場に立ち、互いの意見に耳を傾けながら、よりよい方向を見つけ出そうと連携を訴えた。
 専門家は、様々な実験や調査研究によって吃音を明らかにしようとしている。吃音定義は専門家の手に委ねた方がいいと私は思う。
 しかし、吃音がどもる人の生活や人生にどのような影響を与えるのか。吃音にどのように悩んでいるのか、は当事者が一番知っている。私たち当事者が行うべきことは、吃音とは何かの定義ではなく、吃音の問題とは何かを明らかにし、その問題解決の道筋を模索することなのだ。
 吃音の定義も、吃音の問題の定義も同じようなものではないかと思われるかもしれない。
 しかし、マークの主張する吃音シンドロームを強調して吃音を定義されると、吃音のマイナス面ばかりが浮き彫りになるだけでなく、どもる人の行動、思考、感情までが症状として、治療の対象になり、臨床家の手に委ねられてしまうのだ。吃音治療重視のマークには、その意図があるのだ。
 吃音の定義から、どもりながら豊かに生きているどもる人の存在が消えてしまうと、吃音の問題の解決の大きなヒントを失うことになり、吃音を生き方の問題としてとらえる、セルフヘルプグループの役割も希薄になってしまうのだ。
 私がこのように専門家には専門家の、当事者には当事者の役割がある、と主張するのは、大阪セルフヘルプ支援センターの長年の活動の中で、セルフヘルプグループの役割、専門職者の役割について、深く議論をしてきたからだと思う。
 1993年4月、大阪セルフヘルプ支援センターの設立大会で、私は初めて幅広い様々なセルフヘルプグループに出会った。以前、共に活動してきた障害者団体とはかなり趣が違っていた。「生活と権利を守る」要求活動と、様々な生きづらさを抱えていることを共通のこととして、「自分らしく生きる」を目指すことの違いだと言えるだろう。
 大阪セルフヘルプ支援センターでは、様々なグループのリーダー、ソーシャルワーカー、医師などの専門職者、社会福祉の研究者が対等の立場で、月例会や合宿をして議論を続けてきた。
セルフヘルプグループ表紙 朝日厚生文化事業団知っていますか? セルフヘルプグループ一問一答 セルフヘルプグループとは何かという共通の問題について話し合うのはとても楽しく、毎月の例会や毎週行われる電話相談の当番など、自分なりに活動を続けることができた。その中で、NHKの番組に二度出演し、朝日新聞厚生文化事業団の冊子『セルフヘルプグループ』や『知っていますか?セルフヘルプグループ一問一答』(解放出版社)の本の編集にかかわることができた。
 この活動を支え続けている、大阪府立大学の松田博幸さんが、現在のセルフヘルプグループの置かれている状況について書いて下さった。大阪セルフヘルプ支援センターの存在に感謝します。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/12/09

当事者の思いとのズレ

 どもる人の悩みは、「どもれないこと」、この一見不思議なことばは、どもる人が言わない限り、どもらない人には分かりにくいことだろうと思います。吃音を否定していると、どもりたくないと思い、どもらないようにどもらないようにとしてしまいます。どもってもいい、吃音に悩んでもいい、そう思えると、どもれるようになり、楽に生きることができるようになるのです。吃音親子サマーキャンプや大阪吃音教室で、そんなどもる子どもやどもる人に、僕はたくさん出会っています。
 今日は、「スタタリング・ナウ」2008.2.18 NO.162 の巻頭言を紹介します。

  
当事者の思いとのズレ
                      日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 どもる子どもの親や、どもる人を支援する臨床家が、どもる人や子どもの幸せを強く願っていることは疑いないことだろう。しかし、どもらない人が、どもる人を理解することは容易いことではない。どもる状態だけでなく、吃音に対してもつ意識や感情もひとりひとり違う。「どもる人」と、ひとくくりにすることもできない。ここに吃音の難しさがある。
 よく障害や病気の理解のために、聴覚を遮断したり、目隠しをして歩いたりする疑似体験をすることがある。この疑似体験をさせるために、道行く人にどもって話しかけたり、店で注文したりすることは、臨床家養成のプログラムとして今でも行われている。どもったときの周りの反応や、どもることで起こる不都合なことは、この疑似体験によってもある程度は想像がつくだろう。だから、何の意味もないとは言わないが、どもる人の苦悩や気持ちがそれで理解できるわけでは決してない。
 親や臨床家の善意や愛情が、かえって、子どもを追い込んだり、どもる人を悩ませることがある。この、当事者と、親や臨床家とのズレはなかなか埋まることはない。そのズレを埋めるためには、私たちが吃音体験の中での自分の思いを語り、文章として残していくしかない。この意味で、ことば文学賞の意味は大きく深い。
 第10回文学賞の最優秀作品、藤岡千恵さんの「一番伝えたいひと」には、一般常識と当事者の大きなズレが表現されていて興味深い。
 藤岡さんの親はスピーチセラピストではない。だが、親の子どもへの対処は、現在どもる子どもの指導法として欧米やオーストラリアでかなり行われているリッカムプログラムそのものだと言っていいだろう。どもると言い直しをさせられて、どもらなければ褒められた。そして、彼女は、吃音の緩和と流暢性の形成を身につけ、家族から治ったと思われるぐらいに吃音のコントロールができるようになった。藤岡さんが経験したこのようなことを、臨床家と一緒に取り組むのが、現在の最新の吃音治療だと言えるだろう。もし、吃音の専門家の指導を受けていたとしたら、藤岡さんは模範生として終了となったことだろう。
 吃音のコントロール法を身につけることが、どもる人の幸せにつながり吃音の問題は解決できたことになる。これがアメリカの言語病理学の中心的な考え方なのだろう。セラピーの中には、吃音受容も入れているのだろうが、親や臨床家の「治してあげたい」との期待に答えようと、どもらないように必死に工夫することで、吃音に対する否定的な感情を強める人はいる。ことばを言い換えたり、言いにくいことは時に言わずに済ませるなど、ごまかすすべを身につけたにすぎなくても、周りの人たちは、吃音が軽くなった、治ったと考えてしまう。するとどもる当事者は、吃音を話題にできにくくなり、吃音に悩んでいても、話せなくなり、ひとり吃音に悩むことになる場合があるのだ。
 セラピーを受ける受けないにかかわらず、どもらないように吃音をコントロールできるようになる人はいるが、吃音が治ったわけではない。吃音をコントロールできるようになっただけでは、吃音に対する否定的な思いは残る。吃音相談で、資料を送るとき個人名を希望する人がときどきいる。吃音に悩んでいることを家族に知られたくない、母親に心配かけたくないからだと言う。吃音をオープンにできず、悩んでいることを隠し、吃音の悩みを話さない。
 「どもりを治してあげたい」との自然な善意が、どもる人を結果として追い込むことになる。言語病理学者や臨床家の中には、どもる当事者が少なくないにもかかわらず、このズレが解消されないのは一体何故なのだろうと、不思議に思うことがある。
 どもらないように吃音をコントロールすることに疲れ、あるいは、コントロールが通じなくなった人が、大阪吃音教室の中ではどもることができ、吃音に悩んでもいいんだと思えるようになる。どもれることがうれしいとその人たちは言う。
 どもる人の悩みは、「どもれないことだ」というのは、どもる人が発言し続けないと理解されないのだろう。「スタタリング・ナウ」2008.2.18 NO.162 

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/11/18
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