伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

当事者

当事者の役割

 昨日は、桂文福さん、桂福点さんが登壇された「みのお市民人権フォーラム」の人権落語二人会に行ったことを報告しました。早速、招待してくださった文福さんから、「おおきに」と、ラインがきました。本当に、人を、出会いを、大切にする、まめな文福さんです。
 さて、今日は、これまた長いおつきあいをさせていただいている大阪セルフヘルプ支援センターで出会った、現大阪公立大学の松田博幸さんの寄稿文を紹介します。セルフヘルプグループのおかれている状況について、ご自分の体験を織り交ぜながら、書いてくださいました。その号の巻頭言から紹介します。(「スタタリング・ナウ」2008.5.20 NO.165)
 吃音の定義と、吃音の問題の定義とは違うもの、当事者が行うべきことは、吃音とは何かの定義ではなく、吃音の問題とは何かを明らかにし、その問題解決の道筋を模索すること、など、当事者の果たす役割について、一生懸命書いた巻頭言だと、今、読んでも思います。

  
当事者の役割
                     日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 国際吃音連盟では、再び吃音の定義についての論議が始まった。2007年5月、第8回クロアチア大会で前会長のオーストラリアのマーク・アーウィンが強引に採択しようとした吃音の定義だ。
 私たちの強い反対でその吃音定義は撤回され、議論はもうないものと思っていたのだが、マークにはセルフヘルプグループが主導権をとって吃音とは何かを定義する強い意欲があるようだ。
 吃音症状といわれるものは、氷山に例えれば、海面に浮かぶごく一部であり、海面下に沈んでいる大きな部分、恐れや不安や回避の行動が吃音の問題なのだとし、これを、吃音シンドロームと名付け、吃音の定義の柱にするという。
 私は吃音を氷山に例えたジョゼフ・G・シーアンの説は大好きだ。しかし、これは、吃音の問題を、それも吃音に悩んでいる人の問題についてのこと、と限定した方がいいと、私は思う。
 どもる人全てが悩んでいるわけではない。どもっていてもほとんど吃音を問題とせず、つまり、氷山の海面下の部分がほとんどなく、自分なりの人生を生きている人がかなり多いのだ。受ける影響に大きな差のある吃音について、吃音シンドロームとして定義してしまうことに私は反対なのだ。
 私は、第一回吃音問題研究国際大会を開いたときから、吃音は、吃音研究者、臨床家、当事者が対等の立場に立ち、互いの意見に耳を傾けながら、よりよい方向を見つけ出そうと連携を訴えた。
 専門家は、様々な実験や調査研究によって吃音を明らかにしようとしている。吃音定義は専門家の手に委ねた方がいいと私は思う。
 しかし、吃音がどもる人の生活や人生にどのような影響を与えるのか。吃音にどのように悩んでいるのか、は当事者が一番知っている。私たち当事者が行うべきことは、吃音とは何かの定義ではなく、吃音の問題とは何かを明らかにし、その問題解決の道筋を模索することなのだ。
 吃音の定義も、吃音の問題の定義も同じようなものではないかと思われるかもしれない。
 しかし、マークの主張する吃音シンドロームを強調して吃音を定義されると、吃音のマイナス面ばかりが浮き彫りになるだけでなく、どもる人の行動、思考、感情までが症状として、治療の対象になり、臨床家の手に委ねられてしまうのだ。吃音治療重視のマークには、その意図があるのだ。
 吃音の定義から、どもりながら豊かに生きているどもる人の存在が消えてしまうと、吃音の問題の解決の大きなヒントを失うことになり、吃音を生き方の問題としてとらえる、セルフヘルプグループの役割も希薄になってしまうのだ。
 私がこのように専門家には専門家の、当事者には当事者の役割がある、と主張するのは、大阪セルフヘルプ支援センターの長年の活動の中で、セルフヘルプグループの役割、専門職者の役割について、深く議論をしてきたからだと思う。
 1993年4月、大阪セルフヘルプ支援センターの設立大会で、私は初めて幅広い様々なセルフヘルプグループに出会った。以前、共に活動してきた障害者団体とはかなり趣が違っていた。「生活と権利を守る」要求活動と、様々な生きづらさを抱えていることを共通のこととして、「自分らしく生きる」を目指すことの違いだと言えるだろう。
 大阪セルフヘルプ支援センターでは、様々なグループのリーダー、ソーシャルワーカー、医師などの専門職者、社会福祉の研究者が対等の立場で、月例会や合宿をして議論を続けてきた。
セルフヘルプグループ表紙 朝日厚生文化事業団知っていますか? セルフヘルプグループ一問一答 セルフヘルプグループとは何かという共通の問題について話し合うのはとても楽しく、毎月の例会や毎週行われる電話相談の当番など、自分なりに活動を続けることができた。その中で、NHKの番組に二度出演し、朝日新聞厚生文化事業団の冊子『セルフヘルプグループ』や『知っていますか?セルフヘルプグループ一問一答』(解放出版社)の本の編集にかかわることができた。
 この活動を支え続けている、大阪府立大学の松田博幸さんが、現在のセルフヘルプグループの置かれている状況について書いて下さった。大阪セルフヘルプ支援センターの存在に感謝します。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/12/09

当事者の思いとのズレ

 どもる人の悩みは、「どもれないこと」、この一見不思議なことばは、どもる人が言わない限り、どもらない人には分かりにくいことだろうと思います。吃音を否定していると、どもりたくないと思い、どもらないようにどもらないようにとしてしまいます。どもってもいい、吃音に悩んでもいい、そう思えると、どもれるようになり、楽に生きることができるようになるのです。吃音親子サマーキャンプや大阪吃音教室で、そんなどもる子どもやどもる人に、僕はたくさん出会っています。
 今日は、「スタタリング・ナウ」2008.2.18 NO.162 の巻頭言を紹介します。

  
当事者の思いとのズレ
                      日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 どもる子どもの親や、どもる人を支援する臨床家が、どもる人や子どもの幸せを強く願っていることは疑いないことだろう。しかし、どもらない人が、どもる人を理解することは容易いことではない。どもる状態だけでなく、吃音に対してもつ意識や感情もひとりひとり違う。「どもる人」と、ひとくくりにすることもできない。ここに吃音の難しさがある。
 よく障害や病気の理解のために、聴覚を遮断したり、目隠しをして歩いたりする疑似体験をすることがある。この疑似体験をさせるために、道行く人にどもって話しかけたり、店で注文したりすることは、臨床家養成のプログラムとして今でも行われている。どもったときの周りの反応や、どもることで起こる不都合なことは、この疑似体験によってもある程度は想像がつくだろう。だから、何の意味もないとは言わないが、どもる人の苦悩や気持ちがそれで理解できるわけでは決してない。
 親や臨床家の善意や愛情が、かえって、子どもを追い込んだり、どもる人を悩ませることがある。この、当事者と、親や臨床家とのズレはなかなか埋まることはない。そのズレを埋めるためには、私たちが吃音体験の中での自分の思いを語り、文章として残していくしかない。この意味で、ことば文学賞の意味は大きく深い。
 第10回文学賞の最優秀作品、藤岡千恵さんの「一番伝えたいひと」には、一般常識と当事者の大きなズレが表現されていて興味深い。
 藤岡さんの親はスピーチセラピストではない。だが、親の子どもへの対処は、現在どもる子どもの指導法として欧米やオーストラリアでかなり行われているリッカムプログラムそのものだと言っていいだろう。どもると言い直しをさせられて、どもらなければ褒められた。そして、彼女は、吃音の緩和と流暢性の形成を身につけ、家族から治ったと思われるぐらいに吃音のコントロールができるようになった。藤岡さんが経験したこのようなことを、臨床家と一緒に取り組むのが、現在の最新の吃音治療だと言えるだろう。もし、吃音の専門家の指導を受けていたとしたら、藤岡さんは模範生として終了となったことだろう。
 吃音のコントロール法を身につけることが、どもる人の幸せにつながり吃音の問題は解決できたことになる。これがアメリカの言語病理学の中心的な考え方なのだろう。セラピーの中には、吃音受容も入れているのだろうが、親や臨床家の「治してあげたい」との期待に答えようと、どもらないように必死に工夫することで、吃音に対する否定的な感情を強める人はいる。ことばを言い換えたり、言いにくいことは時に言わずに済ませるなど、ごまかすすべを身につけたにすぎなくても、周りの人たちは、吃音が軽くなった、治ったと考えてしまう。するとどもる当事者は、吃音を話題にできにくくなり、吃音に悩んでいても、話せなくなり、ひとり吃音に悩むことになる場合があるのだ。
 セラピーを受ける受けないにかかわらず、どもらないように吃音をコントロールできるようになる人はいるが、吃音が治ったわけではない。吃音をコントロールできるようになっただけでは、吃音に対する否定的な思いは残る。吃音相談で、資料を送るとき個人名を希望する人がときどきいる。吃音に悩んでいることを家族に知られたくない、母親に心配かけたくないからだと言う。吃音をオープンにできず、悩んでいることを隠し、吃音の悩みを話さない。
 「どもりを治してあげたい」との自然な善意が、どもる人を結果として追い込むことになる。言語病理学者や臨床家の中には、どもる当事者が少なくないにもかかわらず、このズレが解消されないのは一体何故なのだろうと、不思議に思うことがある。
 どもらないように吃音をコントロールすることに疲れ、あるいは、コントロールが通じなくなった人が、大阪吃音教室の中ではどもることができ、吃音に悩んでもいいんだと思えるようになる。どもれることがうれしいとその人たちは言う。
 どもる人の悩みは、「どもれないことだ」というのは、どもる人が発言し続けないと理解されないのだろう。「スタタリング・ナウ」2008.2.18 NO.162 

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/11/18
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