伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

大阪セルフヘルプ支援センター

障害を生きる 6 病気や障害とどう向き合うか〜河辺美智子さんの体験から〜

 今日で河辺さんの体験の紹介は終わりです。
 僕は、大学や専門学校の講義の中で、僕が出演したテレビ番組を見せていたのですが、セルフヘルプグループの活動を説明する時には、NHKの福祉番組『週刊ボランティア』をよく見せていました。そこには、大阪セルプヘルプ支援センターの活動と、大阪吃音教室の活動が紹介されているのですが、大阪セルプヘルプ支援センターの紹介では、河辺さんが、電話当番で応対している場面が出てきます。毎年、彼女を見続けていたので、いつも出会っているような錯覚を覚えていました。僕の中では、その場面の彼女のままストップしています。数年前、大阪セルフヘルプ支援センターの古い仲間が集まったときは、出会えなかったので、随分長いこと会っていないことになります。今回、こうして紹介ができて、とても懐かしい気持ちになっています。できたらお会いしたいとの気持ちが膨らみます。
 河辺さんはできるだけ脳を使うこと、そのために新しいことや自分のしたいことを自分で選んですることだと言い、考えて、選んで、実行しています。それが、自分が自分の人生の主人公になることだと思います。僕は糖尿病と心臓病はあるものの、今は元気です。この元気を持続させるためにも、好奇心を常に持ち続け、新しいことに挑戦したいと考えています。「吃音を治す、改善する」からは言語訓練以外考えられず、全く発展はありませんが、「吃音と共に豊かに生きる」には、とても大きな鉱脈があります。かつての論理療法、認知行動療法、交流分析、アサーションなどに加えて、最近では、レジリエンス、ナラティヴ・アプローチ、当事者研究、医療社会学者のアーロン・アントノフスキーの健康生成論、オープンダイアローグ、ポジティブ心理学など、学ぶことがたくさんあって、僕の好奇心の炎はますます燃えさかっています。これも全て吃音のおかげだと感謝しているのです。では、河辺さんの「病い」から学んだ提案に耳を傾けます。

  
病気や障害とどう向き合うか 5
                      河辺美智子(61歳)


ひとりひとり皆違う
 私の体験の話はひとまず終わります。
 私が一番お話したいことは、医療の主人公は患者であるということです。
 医者は手術をすすめましたが、私は断り続けました。決定権は私にあるのです。また、「患者はみんな違うんだ」という接し方をしてほしかった。
 それから、セルフヘルプグループに行くと、共に悩んで共に考えて、共に喜ぶ、この共にということが大切です。医者も患者も共に人間同士として、根底は、共に人間どうしとして接してほしいと私は思います。

生きる意欲と意志
 「ここまで病気がふりかかってくると、それぞれの場面で絶望すると思うけれど、ここまで勉強して、今こんなに明るい表情でお喋りしているエネルギーというのは、どこから、なぜ出てくるんでしょうか?」
 とは、よく質問を受けるのですが、その意欲、意志も脳なんだと思います。私はそこが壊れてなかったんでしょうね。高次脳機能障害の人って、みんな意欲がなくなる、やりたいという気持ちがなくなる。自分ができないということが分からない。それを受け入れられない場合が多いのです。私の場合は、まず自分ができないということを受け入れた。受け入れたことで、やろうという意欲が強く残った。障害者として産まれてきてるから、子どものときから、そういう意欲は脳の中に強くあったのだと思います。
 小学校の時代から体育、運動はできない。中学校のときに、体育ができないからと「1」とつけられた。なんで産まれたときから心臓が悪くて体育ができない人間に体育を「1」とつけないといけないんや。そういう思いを12歳のころからもっていました。
 私の娘が12歳のときに、体育に「3」とつけられましたが、理不尽なことだとは本人は何も考えないでしょうね。私はずっと考えていた。体育が「1」だったから、公立へは行けないので、行かせてもらえる私立に行った。そこに短大があったんですけど、結婚もできないだろうから、何か仕事をみつけないとだめやと、父は薬学部に行かせようとしました。私もそのつもりだったのですが、高校3年のころに急に社会福祉を考え出した。私は薬学部に行きたくない。高校の3年くらいからものすごく勉強し出した。英語と国語と社会があるからそれだけ勉強した。程度の低い高校だったから、英語は全部100点だった。国語も、100点ではもったいないから150点をあげると言ってくれた。行きたい大学に合格しました。
 私の通った私立の高校からそんな大学に行ったことないんです。卒業式のとき、いい成績の人に何か賞をあげるんだけど、私はその中に入らなかったんです。体育ができなかったからというだけで。だから校長はごめんなさいとものすごく頭をさげていましたね。
 自分の意欲、意志は、産まれたとき小さいときからあった。勉強したいと思ったときには、強い意欲が出てくると思っていた。産まれたときからの障害者だから、それが根底にあったから、ヘルペス脳炎になった後遺症にも強かったんだろうと思います。壊れた脳でも、壊れていない脳がなんぼか残っていたから。
 私の体験からいって、脳は使った方がいいですね。慣れたことばかりしないで、新しいこと、新しいことをずっとやっていった方がいいですね。そしたら、脳の遊んでいた分を使うことになる。医学的なことは知りませんが、体験から言いますと、脳は、まだ全然分からない広大な宇宙だと思います。ものすごい優秀な脳をみんな持っていると思うので、遊ばせている脳を使って、楽しみにまでもっていったら生活が充実してくると思う。

まとめにかえて
 高次脳機能障害になって、これまでできていたことができなくならなかったら、絵なんか全く描かなかったでしょうし、ピアノも弾いたりしようと思わなかったことでしょう。今は、美術館に行くのがものすごく好きになった。あんまり絵をじっと見ているから、後ろの人が怒るくらいです。目をどう描いているか、鼻をどう描いているかまで、じっとみている。
私の障害は、外見上その障害が見えない。親戚の葬式に行ったときに、周りから親しげに声をかけられても、顔はなんとなく分かっても関係が分からない。
最初は、過去を捨てられなかったから、過去の方へ戻って戻ってと思っていました。今はできることなら、自分の過去のことは捨てて、新しいところへ行こうと思って、絵を描いたり音楽を聴いたりしています。
だから、言語訓練にしても、できなくなったことを取り戻すという、紙に描いた絵の名前を言わせるような訓練ではなくて、私がやったことのないことに取り組ませて欲しかった。自分の名前も分からないひどい障害者であっても、自分がやりたいことでリハビリをしてほしかった。
 新しく手にした歎異抄に私は感動したから、その後、歎異抄をもっと読んで理解したいと、朝日カルチャーセンターに行き、辞書で調べたり、訳してあるのを何回も何回も読みました。これはとてもいい、リハビリになりました。絵を描くことも、ピアノを弾くこともそうでした。みんな、病気になったからやり始めたことです。だから、本当にこれからその人の一番やりたいことをみつけてあげて、新しいことに取り組ませて欲しいですね。人間ひとりひとり、顔はみんな違うでしょう。あれはみんな脳が違うからで、だから、自分の脳は自分の脳そのもの、ほかの脳とは違うのです。
 今日はみなさんよく聞いて下さり、話したいと思う質問をみなさんがして下さり、いいリハビリになりました。

 (話の後の質問も文の中に挿入しました。文責は編集部にあります。しっかり聞いて下さり、的確な質問をして下さったことがありがたかったと、河辺さんが帰り際に言われたことが印象的でした)(「スタタリング・ナウ」2002.6.15 NO.94)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/11/13

障害を生きる 2 病気や障害とどう向き合うか〜河辺美智子さんの体験から〜

 大阪セルフヘルプ支援センターで、長く一緒に活動を続けてきた河辺美智子さん。生まれたときから心臓の障害をもち、手術をして心臓病からは解放されるが、その後、ヘルペス脳炎になり、その後遺症とつきあうことができるようになった頃、今度は乳癌を患います。この体験の中から得られた《病気や障害とどう向き合うか》というお話は、強烈で、引き付けられます。特に、言語聴覚士から言語指導を受けて反発する話は、私たちに共通するものを感じます。
 NPO法人大阪スタタリングプロジェクトの大阪吃音教室で話していただいたものを紹介します。

     
病気や障害とどう向き合うか
                             河辺美智子(61歳)

 心臓の障害と出産
 私は、生まれたときから心臓の障害者でした。当時まだ心臓外科という領域はなく・心臓治療そのものもなかった時代です。心臓の何の障害か、病名も知らされませんでした。家で生まれたら分からなかったのが、病院で、心臓の音がおかしいことが発見されました。親は女の子が生まれたことを本当に喜んでくれたのですが、「この子どもは心臓の障害者だから、3歳くらいまで生きてみないと分かりません。かぜをひいただけでも死ぬと思って下さい」と医師から言われて、親は育てるのが大変だったろうと思います。
 心臓病をもちながら生活をするとは、外見上は皆さんには分からないでしょう。皆さんがゆったりとした動作や、ゆっくりと歩いている時、私は常に階段を上ったり走りながら生活しているようなものです。
心臓中核欠損で・心臓手術を受ける48歳まで、私は心臓の障害をもって生きてきました。
 医学の進歩で私の20代くらいから東京女子医大と阪大だけで心臓の手術ができるようになりました。
 私が23歳で妊娠したとき・医師からは「中絶しなさい」と言われました。「心臓がこんなに悪い人が赤ちゃんを産むなんて。産めたとしても育てていくことが大変だ。また産まれても死ぬかもしれない」「どうしても生みたい」というと、「心臓の手術をしてからでないと絶対にだめだ」と言われました。
 心臓病の専門医の所へ相談に行ったら、成功の確立は五分五分だと言われました。ものすごい量の輸血をしないといけないとも。まだ、心臓手術は研究の途上だったのです。
 私は、心臓手術を断りました。そして、ひとりじゃなくて、二人、三人、四人も子どもを産んだんです。30代の初めも、風邪をひいて、病院に行ったら心臓の手術をすすめられました。成功率は7割ということでしたが、私は、下の子が高校を卒業するまでは絶対手術を受けないことに決めていました。

心臓手術
 48歳の時、国立循環器センターから電話がかかってきました。決まっていた人がキャンセルして、手術スケジュールがあいたのでしょう。これもひとつの縁かなあと、これまで拒み続けていた心臓手術を受けることにしました。これまで待ったお陰で、成功率は、98%になっていました。輸血しないで、自分の血液をとっておいて、手術をしました。2%に入らなくて、私の手術は成功し、ものすごく元気になりました。
 子どものころからの障害者から、初めて健常者になったことになります。階段を上がることがこんなに楽なのか、赤ちゃんを抱っこする時あれだけしんどかったのに、大きい子を抱っこしたって何の問題もない。本当にびっくりしました。健常者になって初めて、あんなに悪い心臓でよくここまで生きてきたと思いました。手術したあとは呼吸する度に痛みが残ったので、仕事もやめ、何もしなくなってしまいました。
 それもやっと元気になってきたので、何かしたいと思ったときに、大阪セルフヘルプ支援センターの前身、設立準備委員会と出会ったのです。

セルフヘルプ
 心臓手術を急に受けることになったとき、友だちが見舞いにきてくれます。「こんな有名なところで手術できてよかったなあ、うれしいでしょう」と言ってくれる。どんなに勧められても頑なに拒み続けてきた手術を今やっとする決意をしたばかりです。手術を受ける本人は、そんなどころじゃない。見舞いの人は花を飾って、満足して帰られるけれど、私は見舞い客がくる度に落ち込んでしまいます。手術の前日です。見舞い客が来て、落ち込んだときに、手術受けて何週間かたっていた4人部屋の同室の人が一緒に泣いてくれました。私よりもっと泣いてくれました。
 「私なんかあなたよりもっともっと落ち込んでいたのよ。あんな見舞いの人なんか、病院に入れんかったらいいのにね」
 明日、手術というときに、同じ心臓手術の体験者の、生きたことばに、本当にほっとした思いでした。この人たちに出会えてよかったと思いました。それが縁で、セルフヘルプグループを支援しようというところに入っていったのです。伊藤伸二さんに出会ったのもその活動でです。セルフヘルプグループのセミナーや合宿や月に一度の例会や電話相談など、水を得た魚のように楽しく活動をしました。それは、私のひとつの生き甲斐になりました。(「スタタリング・ナウ」2002.6.15 NO.94)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/11/09

障害を生きる

 吃音の夏、吃音の秋が終わり、いい時間を過ごしたこと、ありがたく思っています。
 さて、このブログ、イベントが重なり、過去の「スタタリング・ナウ」を紹介していくブログのひとつの流れが、7月以来、ストップしていました。戻ります。
 今日は、「スタタリング・ナウ」の 2002.6.15 NO.94 の巻頭言です。タイトルは、〈障害を生きる〉、大阪セルフヘルプ支援センターで共に活動をしていた、河辺美智子さんの体験が、この後に続きます。吃音に悩みながら、治したいと願いながら、何ひとつ努力をしてこなかった私と、河辺さんとの違いは何だろうとの自分自身への問いかけは、今も続いています。河辺さんの体験を紹介できる喜びを感じます。随分会っていませんが、今、どうしておられるのでしょうか。

  障害を生きる
          日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 命にもかかわるような大きな病気を3度も経験し、病気の後遺症で脳に損傷を受け、記憶を失い、ことばも失う。他者の世話を受けなければ、退院できないという中で、一度は絶望し死を決意する。その中から、再び生きる意欲を取り戻し、ことばを取り戻すために、国語辞典で一語一語ことばを覚え、実物と百科辞典をひとつひとつ確認し、絵に描いてことばを獲得していく作業は、大変なことだっただろう。
 河辺美智子さんの体験は、状況は違っても、ことばに悩むどもる人や、言語障害の臨床に携わる人々に大きな示唆を与えてくれるだろう。自らの人生を振り返りつつ、河辺さんの生きる力について考えた。
 先だって、ある同じ市で時を同じくして、吃音に悩む人の相談会と、言語聴覚士養成の専門学校での講義をする経験した。その中で、直接はふれなかったものの、河辺さんの体験は常に頭をよぎっていた。吃音を治したいと、治ることをあきらめられない人々と、臨床家の使命として、治さなければならないと考える人達と出会ったからだ。
 最近私は、これまでほとんど使わなかった、「あきらめる」ということばを誤解を恐れずによく使うようになった。吃音の症状を自分の力で治したり、コントロールすることは極めて難しいから、「あきらめて」、ただ、日常生活を丁寧に、誠実に生きよう。具体的に自分のできることから行動しようとの呼びかけだ。しかし、相談会に来られた吃音に悩む多くの人々は、治ることを「あきらめ」られないと言う。あきらめられないと言うのなら、治す努力をしていますか?と、問答が続く。ほとんどの人が何もしていないと答えた。ひとりだけが、本を声を出して読んでいますと言った。
 一方、臨床家の卵の専門学校の学生は、そのように吃音に悩む人々と向き合うと、やはり専門職として治してあげたいと思うと言う。そして、「治そうとすることなしに、治らないとあきらめ、それを受け入れることなどできるだろうか?」と、疑問を投げかけてきた。まずは吃音を治そうと互いに努力すべきだと言う。
 これは、これまでも延々と繰り返されてきた論議だが、答えは簡単なのだ。納得のいくまで治す努力してからでないと、あきらめられないのなら、私たちの失敗の経験が全く生かされないのは誠に残念だが、実際に納得いくまで、とことん治す努力をしてみればいいのだ。しかし、なぜ、それができないのだろうか。ここに吃音治療の難しさがある。
 私は、小学校2年の秋から吃音に悩み始めたが、常に吃音を治したいと思っていた。吃音を否定し、吃音を隠し、話すことから逃げ、不本意な、学童期、思春期を過ごした。治したい、治そうと思いつめながら、結局私が吃音を治すために努力したのは、やっと21歳の夏からの30日だけだった。ほとんどの年月を、具体的な努力をしないで、ただ、治したい、治るはずだ、との思いだけで過ごしたことになる。私の知る限り、吃音を治したいと願う人の多くは、ただ思うだけで、実際の真剣な努力はしない。民間の吃音矯正所や、催眠療法や、治ると宣伝するところに、ちょっと参加してみるだけのことが多い。自らの力で治すではなく、治してくれる所を探しているにすぎないのだ。
 河辺さんのように、言語聴覚士の言語治療を拒否し、自らの力で、このように意欲をもって懸命の努力をしている人に、私は会ったことがない。この意欲は、自分は何もできないことを受け入れることから出発しているのも興味深い。この意欲、努力と、私を含めてどもる人のことばに対する意欲、努力とはどう違うのだろうか。それは、命と向き合っているかどうかの違いではないだろうか。どもることは恥ずかしいと思う人も、その恥ずかしさに耐えれば、生活できる。さらに、吃音を隠し、話すことから逃げていれば、恥ずかしさ、悩むことからも一時的だが逃れることができる。
 心臓病とつき合いながら、苦しい生活を続けるのとは、質的に違うのだろう。河辺さんの、この心臓病とのつき合いが、絶望してもおかしくない状況で、ことばを再学習しようという、ヘルペス脳炎の後遺症とのつきあい、乳癌とのつきあいにも生かされたのだろう。
 自分が自分の病気の主人公だという考え方の徹底ぶりにも、治療に対する自己決定の力にも驚かされる。出産か死かの瀬戸際の選択の中で、心臓の手術を拒否し続け、そのことで起こる苦しさは自らが引き受ける。そして、手術を受けることも自ら決断する。言語治療も専門家の治療を拒否し、自らの力を信じて、血の滲むような地道な努力で、ことばを獲得していく。
 吃音を治したいと思いながら、自分では何も努力をしないで、21歳まで苦しんで来た私との違いを思った。河辺さんの体験に私たちが学ぶものは多い。(「スタタリング・ナウ」2002.6.15 NO.94)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/11/08
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