伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

基本的信頼感

響き合うことば 2

 昨日のつづきです。
 僕は、ヘレン・ケラーとサリバンの話をしています。「奇跡の人」は、これまで、映画でも舞台でも、幾度も上映、上演されています。有名な「ウォーター」の場面の解釈、「奇跡」といわれることのとらえ方にはいろいろあるようですが、竹内敏晴さんから教えてもらった、ここで紹介する話が一番ぴったりときます。
 どもっていたがゆえに悩み、苦しくつらい思いをしてきた僕にとって、「ことば」は特別なものでした。なめらかに流れることばさえあれば…と思っていましたが、ことば以前にお互いを思い合う、響き合う関係性があるのだと思います。

2003年2月15日 石川県教育センター
 《講演録》 響きあうことば
             伊藤伸二・日本吃音臨床研究会会長


ヘレン・ケラーとサリバン
 〈変わる〉ことについて、エリクソンの基本的信頼感、自律性、自発性、勤勉性と関連させて、子どもの発達に関係する一つの事例として、ヘレン・ケラーの話をしようと思います。
 この4月、大阪の近鉄劇場に、大竹しのぶ主演で『奇跡の人』という芝居がきます。早速申し込んで、久しぶりに芝居を観に行くのです。
 『奇跡の人』は、アン・サリバンとヘレン・ケラーの話ですけれど、ヘレン・ケラーの話をどこかで聞いたことのある人、ちょっと手を挙げていただけますか。(たくさんの手が挙がる)
 ありがとうございます。大分多いので、話し易いですが、当時、芝居よりも映画でした。アーバンクラフトがサリバンで、パティー・デュークという名子役がヘレン・ケラーでした。
 この芝居がまだ日本で紹介されない前に、先程話しました竹内敏晴さんが、演出しないかと言われたときに、竹内さんがシナリオを読んで疑問をもったそうです。『奇跡の人』の有名なシーンは、食事中に暴れ回り、水差しから水をこぼしたヘレンとサリバンが格闘をして、ポンプから水を入れさせている時に、ヘレンの手に水があたって、「ウォーター」と言う。そこで奇跡が起こったとして、『奇跡の人』というタイトルがっいたのでしょうけれども。竹内さんは、「そんな馬鹿げたことがあるか。殴り合って格闘して、ワーッとなっているときに、ポンプの水でウォーターなんて、そんなことが起こるはずがない」と思って、その芝居の演出をしなかったという話をしてくれたことがあります。
 私は、竹内さんの話に興味をもって、ヘレン・ケラーの自伝と、『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』(明治図書)の2冊の本を読みました。サリバンが、ホプキンスという親友に、ヘレン・ケラーとのかかわりについて、手紙を出していて、手記のようなものを丁寧に読んでいくと、竹内さんがおっしゃるとおり、全然違うことが分かりました。大竹しのぶさんの芝居が、「ウォーター」のシーンをどう演じるか、とても楽しみにしているのです。

まず、からだごとの触れあい
 ヘレン・ケラーは、目が見えない、耳も聞こえない、ことばのない少女ですが、7歳のときに、家庭教師として雇われたサリバンとヘレン・ケラーの関係が始まります。ことばを獲得して、話せるようになって、日本でも講演している人です。
 『奇跡の人』という『奇跡』は何を指すのでしょうか。「ウォーター」と、ことばを発見したことが奇跡だとして、芝居では『奇跡の人』とタイトルをつけているのでしょうが、サリバン自身が、自分の手紙に「奇跡が起こりました」と書いているのは、この場面ではありません。
 サリバンが出会ったときのヘレン・ケラーは、全くしつけられていなくて、食事の作法についてサリバンはこう表現しています。
 「ヘレンの食事の作法はすさまじいものです。他人の皿に手を突っ込み、勝手に取って食べ、料理の皿がまわってくると、手でわしづかみで何でも欲しいものをとります。今朝は、私の皿には絶対手を入れさせませんでした。彼女もあとに引かず、こうして意地の張り合いが続きました」
 サリバンは、このヘレン・ケラーと向き合った後、こう言っています。
 「私はまず、ゆっくりやり始めて、彼女の愛情を勝ち取ろうと考えています。力だけで彼女を征服しようとはしないつもりです」
 これはサリバンの覚悟なのでしょう。一筋縄ではいかない。からだごとぶつかって、自分も一緒に生きるところで彼女と向き合わなければ、彼女のことは理解できないし、彼女が変わらない。基本的信頼感がお互いになければ、家庭教師として、教えることはとてもできないということです。
 それを確立するために、2週間という期限を区切って、小屋に二人で住まわせてほしいと申し出ます。一つの小屋で、食事から何から完全に二人きりの生活です。これまでは自由奔放に勝手気ままに生きてきたヘレンにとって、この閉ざされた空間で、サリバンと二人だけの生活は、非常に厳しいのですが、濃密です。これは、乳児期・幼児期の母と子の関係に近い関係です。サリバンに従わないと、食事すらできない。信頼はともかく、柔順に従わざるを得ない状況です。
 初日の食事のときの格闘の後は、サリバンの雰囲気を感じると逃げていたヘレンが、二人きりの生活の中で変わっていくのです。6日から7日目のことですが、サリバンは、こういうふうに親友に手紙を書いています。
 「今朝、私の心はうれしさで高鳴っています。奇跡が起こったのです。知性の光が私の小さな生徒の心を照らしました。見てください。全てが変わりました。2週間前の小さな野生動物は、優しい子どもに変わりました。今では、彼女は、私にキスもさせます。そして、ことのほか優しい気分のときには、私のひざの上に1,2分は乗ったりもします。しかし、まだキスのお返しはしてくれませんが」
 家庭教師と生徒の関係を越えて、人間と人間の生身のぶつかり合いの濃密な生活の中で、この基本的信頼に近い感覚が芽生え始めたのでしょう。この関係ができたことを、サリバンは、「奇跡が起こった」といっているのです。ここまでの取り組みがいかに大きなことかは、サリバンの「奇跡」ということばで分かります。随分とおとなしくなったヘレンを見て家族はとても喜んで、2週間という約束だから、また家に戻してくれという。サリバンは、まだまだそんな状態ではないからもう少しこのままの状態を続けたいと強く訴えるのですが、約束だからと家の人がつっぱねる。そして、2週間後に家に戻ったのですが、最初の夕食がすごい勝負なのですね。

自律から自発へ
 そのあたりは芝居でどうなるか興味深々なのです。誰も助けてくれない、閉ざされた小さな小屋では、彼女はナプキンをつけて食べるようになった。自分の父や母のいる安全な場面に来たときにもそれができるか、です。勝負だったのですね。これが人間ではなくて犬の調教だったら、調教したことは、場所が変わってもできる。でも、ヘレンは人間ですから、そうはいかない。そこで、最初の晩餐のときに、ナプキンをおこうとすると、彼女はダーッとナプキンを放り投げて、またわしづかみで食べ始める。要するに、最初に出会ったときと同じ状態に戻るのですね。ヘレン・ケラーとサリバンの勝負です。
 教えた食事の作法でやらせようと思っても、バーっと振り払って絶対させてくれない。芝居や映画では、この格闘でこぼした水差しに水を入れさせるために、食堂から引きずり出す。そして、ポンプのとこで「ウォーター」と感動的な場面になるのですが。サリバンの手紙によるとそうじゃない。その晩は仕方ないから、そのままにしておいて、次の朝、何とも言えない気持ちを抱きながらも、サリバンが食堂へ行ったときに、ヘレンが先に席についていて、ナプキンをしている。サリバンが教えた方法ではなくて、自分のやり方でナプキンをしていた。それは、竹内敏晴さんから言うと「それはサインだ。つまり、サリバン、あなたが教えようとしたことは要するにこういうことなのでしょ。要するに、形は違うけれども、こういうものをつけて食事をしろということを教えたかった。それを私流にすると、こうなんですよ。それをあなたは受け入れるか。私の自律性を認めるか。私を尊重するのですか」という問いかけだった。それに対してサリバンが、「それじゃだめでしょ。私があれだけ教えた方法でやりなさい」と無理強いしたら、その後のヘレンとサリバンの関係はなかったでしょう。すごい勝負どころだったと、竹内さんは言います。
 サリバンは、やり直しをさせなかったということで、「OKだ。あなたはあなたのままでいい。そのあなたのやり方でいいんだよ。そういうふうにして食事をしてくれればいいのだ」と、無言のOKを出すのです。
 ヘレン・ケラーの自伝と、サリバンの手紙を読み比べると、随分面白い。ヘレンは、自分自身のことだから、手づかみで食べたことなど書いてないし、かんしゃくの発作という表現はあっても、サリバンと凄い格闘があったことなど、まったく書いていません。しかし、サリバンは明確に書いています。
 二人きりの生活の中で基本的信頼が芽生え、この場面で自律性が尊重されたことによってさらに信頼感は確実なものになっていきます。
 基本的信頼の階段をのぼり、自律性、自発性、勤勉性の階段をのぼり、どんどん学び、言語を獲得していくのです。サリバンとヘレンが一緒に階段をのぼっていったのだと思います。
 母と子の関係や、教師と生徒、カウンセラーとクライエントとの関係にしても、どちらかが一方的に相手を信頼するから基本的信頼感が育つのではありません。母親から子どもへの一方通行ではなくて、母親自身が子どもを信頼するという関係は重要です。いろいろ大変な事があっても、私はこの子どもを育てることができる、大丈夫なんだという自信。その信頼が、子どもに伝わり子どもは母親を信頼する。サリバンはヘレンに対しで「この子は力がある。きっと変わる」という、人間として成長していくという大きな信頼があったのだろうと思います。
 その信頼に対して「本当にあなたは私のことを信頼してくれているのか」という、すごい強烈な問いかけを、サリバンから教えられたのとは違うナプキンのかけ方で、無言で試したのだと言えます。それに対してサリバンは「あなたはあなたのままでいいのだよ。それでいいのだ」と言う。このメッセージを受けて、食事が終わってから、ヘレンがサリバンのところへきて手をつなぐのです。OKを言ってもらってありがとうなのか、私を認めてくれてうれしかったのか、手をつなぐのです。そこから本当の意味での相互の基本的信頼が深まったのでしょう。

深いやすらぎと、集中の中で
 それからは、二人でいつも手をつないで、山道を歩き回り、ものに触り、いろんな事を一緒にする。お互いにゆったりとした、安心できる人間関係の中で、リラックスした中で、その「ウォーター」が起こるわけですね。ヘレンは自伝でこう書いています。
 「私たちは、スイカズラの香に誘われて、それに覆われた井戸の小屋に歩いて行きました。誰かが水を汲んでいて、先生は私の手を井戸の口に持っていきました。冷たい水の流れが手にかかると、先生はもう一方の手に、初めはゆっくり、次にははやく、『水』という字を書かれました。私は、じっと立ったまま先生の指の動きに全神経を集中しました。すると突然私は、何か忘れていたことをぼんやり意識したような、思考が戻って来たような、戦標を感じました。言語の神秘が啓示されたのです。そのとき、『W-A-T-E-R』というのは、私の手に流れてくる冷たい、すばらしい冷たい何かであることを知ったのです。その生きたことばが魂を目覚めさせ、光とのぞみと喜びを与え、自由にしてくれました」
 この場面をサリバンはこう書いています。
 「井戸小屋に行って、私が水を汲み上げている間、ヘレンには水の出口の下にコップを持たせておきました。冷たい水がほとばしって、湯飲みを満たした時、ヘレンの自由な手の方に『ウォーター』と綴りました。その単語が、たまたま彼女の手に勢いよくかかる冷たい水の感覚にとてもぴったりしたことが、彼女をびっくりさせたようでした。彼女はコップを落とし、くぎづけされた人のように立ちすくみました。そして、「ある新しい明るい表情が浮かびました。彼女は何度も何度も、『ウォーター』と綴りました」
 芝居や映画では、格闘し、つかみ合いながらのあの感動的な『ウォーター』が実際にはなかったことがはっきりと、ヘレンの自伝からも、サリバンの手紙からでも分かるのです。
 私は人間と人間を結びつけるのは、ことばだと思っていました。そして、どもるためにことばがうまく話せない私は、人間と人間との関係が作れない、保てないと思っていました。ところが、ヘレンとサリバンの初めのころの関係の中では、全くことばがなかったわけです。人と人とが向き合う関係の中で、教える、教わるという役割を越えた関係の中で、響き合ったのではないかと思うのです。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/06/04

響き合うことば

 2003年2月15日、不登校、引きこもりの子どもの保護者、学校関係者、適応指導教室の担当者、相談機関など、様々な場で子どもの支援に当たっている人を対象にした研修会が石川県教育センターで開かれました。その時の僕の講演記録を、石川県教育センターの相談課が冊子としてまとめてくださいました。「スタタリング・ナウ」2005.6.18 NO.130 で、講演記録の三分の一ほどを掲載しています。タイトルは、「響き合うことば」でした。部分的な紹介なので、タイトルと合致しないように思われるかもしれませんが、この後、自己表現へと話は続いたようです。機会があれば、続きを紹介したいと思います。

《講演録》 響きあうことば
             伊藤伸二・日本吃音臨床研究会会長
 
今、ここでのことば
 こんにちは。私は人前で話を随分してきていますので、本来ならだんだん上手になっていくものでしょうが、私の場合は、最近だんだんと話せなくなってきています。以前ですと、起承転結をつけて、順を追って話さなければならないと思い込んでいたせいか、話したことが、そのまま文章になってしまうぐらい、まとまった話ができた時代がありました。それが最近できないんです。しなくなったというのが正確かもしれません。そして、以前は大勢の前で話すときはほとんどどもらなかったのが、最近はよくどもるようになりました。自分では、まあいいことだなあと思っています。
 読んでいる方もおられるでしょうが、『ことばが劈(ひら)かれるとき』という本を書かれた〈からだとことばのレッスン〉の竹内敏晴さんの演出で主役の舞台に立ったときから、私は変わってきたように思います。『ほらんばか』という芝居で、東北の山村に新しい農業を導入しようとして、周りの妨害で、発狂し、恋人を狂気の中で殺してしまう主人公の青年を演じました。稽古の始まる前の私を、竹内さんはこう表現しておられます。
 「伊藤さんは、台本を広げて、熱のこもった声で朗々とせりふを読み上げた。ほとんどどもらない。まっすぐにことばが進む。しかし、聞いていた私はだんだん気持ちが落ち込んできて、ほとんど絶望的になった。つきあって数年。かなりレッスンをして、ことばに対する考えは共通しているつもりでいたが、からだには何も滲みていなかったことだろうか。説得セツメイ的口調の明確さによる、言い急ぎを、一音一拍の呼気による表現のための声に変えていくことができるか」(『新・吃音者宣言』(芳賀書店)304ページ)
 こうして、竹内さんに徹底的にしごかれました。その時の稽古と本舞台を通して、何かパカッと自分が弾けたような気がしました。明確に、説得力のある情報を伝えることを習慣としてきた私のことばが、表現としてのことばに脱皮したとも言えると思います。
 準備してきたことよりも、今ここでの気持ちや、皆さんの反応を受けながら、生まれてくることばを大事にするようになると、これまでのようなまとまった話ができなくなったのです。これは、今回の話のテーマにもなるのだろうと思いますが。
 先だって、サードステージという有名な劇団の劇作家で演出家の鴻上尚史(こうかみしょうじ)さんに、私たちのワークショップに来ていただいて、大変興味深い体験をしました。
 竹内敏晴さんや鴻上尚史さんから学んだことや、私自身が自分の人生の中で考えてきたことを、今浮かんで来るままに、表現についてお話したいと思います。だから、ちょっと取り留めもなく、あっちこっちに脱線しながらの話になるかもしれませんが、よろしくお願いします。

吃音に悩んだ日々
 まず、私がどういう人間かが背景にないと、話がなかなか伝わりにくいかなと思いますので、ちょっと自分のことを話します。
 私はどもりながらも明るくて元気な子どもだったのですが、小学校2年の学芸会で、セリフのある役を外されてから、吃音に強い劣等感をもち、悩み始めました。それまでなかった、からかいやいじめが始まり、友達も一人減り二人減り、気がついたら友達が一人もいなくなってしまいました。
 アイデンティティーの概念で知られる、心理学者のエリクソンは、学童期を学ぶ時期だとして、劣等感に勝る勤勉性があれば、何事かに一所懸命いそしめば、学童期の課題を達成し、有能感をもって、次の思春期の自己同一性の形成へと向かうと言いました。勉強もがんばるけれど、友達と一緒に何か一所懸命やる喜びや楽しさを感じる時期ですが、私は劣等感の固まりで、楽しかった記憶が全くありません。その頃、授業中に当てられて、ひどくどもっている時も辛かったのですが、それ以上に、他の人たちが楽しく遊んでいるときにいつもポツンといる休み時間や遠足や運動会が大嫌いで、辛かった。これは、人間関係がつくれないことがいかに辛かったかということでしょう。
 自己紹介で自分の名前が言えない不安と恐怖は大きなものでした。小学校5年生の時から、中学校の自己紹介で、どもってどもって、惨めな姿をさらけだしているを想像して、嫌な気分になっていました。中学生になりたくないと思っていました。
 中学生になって、私は両親、兄弟とも関係が悪くなり、家庭には居場所がなくなりました。学校生活はいつも針のムシロで、早く卒業したいと思っていました。当時、暴走族もシンナーもなかったのが、幸いでした。今なら完全に非行少年になっているだろうと思います。親から預かった記念切手を売っては、中学生が保護者同伴でしか映画館に行けない時代に、映画館に入り浸りました。当時の洋画、ジェームス・ディーン、ゲイリー・クーパー、バート・ランカスターなど、ほとんどの映画を見ています。補導されたり、警察に捕まったりしながらも、映画館だけが唯一の居場所で、映画だけが私の唯一の救いでした。
 一番辛かったのは高校時代です。当時は不登校ということばはなかったですが、これ以上学校を休むと卒業できないところまで、私は学校を休みました。国語の朗読の順番が私の目の前で終わると、次は確実に私から始まります。それが、分かっている日は、校門から中に入れない。ひとり映画をみたり、ぶらぶらしていました。
 21歳まで本当に孤独に生きました。人とふれ合いたいと強く願いながら、いつもひとりぼっちでした。友達と会っても、「おはよう」が言えず、「おっおっ・・」となっているうちに通り過ぎてしまう。自分の名前も言えないために、新しい場面や話す場面から逃げる。そのとき一番思ったのが、人間が分かり合えるのは、ことばが全てだということです。だからあの当時、「足がなくても、目が見えなくても、病気になって病院に入院しても、確かに辛い状況かもしれないけれども、しゃべれたら、あいさつもできるし、会話ができる。体が不自由でもいいから自由に話せることばがほしい」と、本気で思っていました。人と人とが結びつくために、自由に話せることばが欲しいと、祈りにも似たことばへの欲求がありました。

どもりは治らなかったが
 21歳の時に、どもりを治したくて、吃音の治療機関に行きました。朝から晩まで発声練習や呼吸練習に明け暮れ、上野の西郷さんの銅像の前や、山手線の電車の中で、昼下がりに、「皆さん。大きな声を張り上げまして失礼ですが、しばらく私の吃音克服のためにご協力下さい」と、演説の練習をしました。今から思うと、よくあんなことをやれたなあと思います。それだけ治したいと必死の思いだったのです。4カ月一所懸命やったけれども、どもりは治らなかった。これから自分はどうしたらいいのか。どもったままで生きるしかないと思ったときに,どもりは恥ずかしいとか隠そうとか思っていたら、私は一生しゃべらない人間になってしまう。人間関係を結べない人間になってしまう。それじゃ損だって思った。ようやく、どもっている自分を認め、向き合うようになりました。
 21歳までの私は、「どもりは悪いもの、劣ったもの」と考え、どもる自分を否定して、どもりが治ってから話そう、人間関係を作ろうと思っていました。自分が大嫌いでした。その頃は、どもるから話せないと思っていたけれど、そうではなくて、自分自身が話さなかったのだ。これは、今から思うと、大変な気づきだと思うのです。何々のせいでできなかったのではなくて、どもるのが嫌さに、自分の選択で話さなかっただけの話です。
 孤独の話、辛かった時代の話をすると、そんなにしんどかったのに、生きてこれたのはなぜかと、あるワークショップで質問を受けました。今まで考えたことがなかったので、「子どもの頃母親に愛されたからかな」と言った後で、ちょっと違うなあと、話が終わってから訂正しました。笑い話みたいですが、当時、入浴剤にムトウハップというのがあって、万病が治ると書いてあった。これを飲んだらどもりが治るかもしれないと、すごい量飲んで、救急車で運ばれたことがあります。今から思えば、死にたかったのかもしれません。
 「どもりのまま死んでどうする。どもりが治らないと死ねない」だったと、あの頃を振り返ると思います。学童期・思春期にしたいことを何一つしないで、人生の喜びも楽しみも感動も経験しないで21歳まで生きてきた人間が、このまま死んでたまるかと思ったんだと思うんです。
 21歳の夏からの私の人生は、苦しいこともあったのですが、どもる人の国際大会を世界で初めて開いたり、何冊も本を出版したり、すばらしい人とたくさん出会えたり、自分のしたいことをしてきた人生だったと思います。来年は60歳になりますが、いい人生だったなあと思うし、だからあのとき死ななくてよかったなあと思うのです。
 21歳までの私と今の私とは全く別人のような感じがします。あのひねくれた、無気力で消極的だった少年がよくここまで生きてきたなというのが実感なのです。中学校のときの同窓会が、一昨年あったんですが、皆にびっくりされました。伊藤は変わったなあって言われました。
 『人間は変わるものだ、変わる存在だ』と私は信じています。
 私は、成長するっていうことばは、あまり好きじゃないので、〈変わる〉と言います。人間が変わるのは、医療の世界で言われる、自然治癒力と同じようなものだと考えています。自分自身に備わっている変わる力が、誰かと出会い、ある出来事と出会い、それが響きあって、自ずと自分の中から力が湧いて、力が出て変わっていく。人間には、そういうものが備わっているのだと思います。

あなたはあなたのままでいい
 私が〈変わる〉出発地点に立てた話をします。
 『新・吃音者宣言』という本の中に、「初恋の人」という文章を書いています。私はそれまで人間が信じられなかった。親も教師も友達も信じられなかった。学童期、思春期と本当に孤独で生きて来た人間が、初めて他者を信頼できて、「ああ、人間って温かいなあ、信頼ができるな」と思ったのは、初恋の人との出会いでした。とってもすてきな女性で、その彼女と出会ったことが、私の一生を変えたと言ってもいい。だから私は彼女に今でも感謝しているんです。その彼女とは、偶然のきっかけで、36年ぶりに島根県の松江市で再会することができました。そのとき、「伊藤さんは、21歳のときにすごくどもりながら、一所懸命しゃべっている姿を見て、私もすごく力を得た」と言われました。私はすごくどもっていた時代を忘れていますが、彼女とは、36年間全く会っていないですから、私の21歳の頃を鮮明に覚えていたわけです。気持ちの持ち方、考え方も、もちろん変わったけれども、私のどもりの症状そのものも変わったと言えるようです。
 彼女とは吃音の矯正所で出会いました。9時から授業が始まるので、話ができるのはその前です。夏ですから、朝早く起きて、二人で学校の前の鶴巻公園で、毎朝、朝ご飯も食べないで授業が始まる前までしゃべってました。そこで初めて、今まで誰にも話せなかった、こんな嫌なことがあった、こんな嫌な先生やクラスの人がいた、家でも母親からこんなことを言われた、そのとき私はどんな気持ちだったかをいっぱい話をしました。彼女は、一所懸命聴いてくれました。人に話を聴いてもらうことが、こんなにありがたい、うれしい、ほっとすることか。どもる自分が大嫌いだったのが、どもっていることを含めて彼女は私を好きになってくれた。愛されていると実感できたときに、人間不信という硬い氷のような固まりが、すっと彼女の手のひらの中で溶けていくような実感がありました。人間は信じられると思えたのですね。
 吃音矯正所は全国にあって、どもる人がたくさん出会っているのに、どもる人の会は全く作られていない。私が初めて、セルフヘルプグループを作ることができたのは、彼女とのありがたい出会いと、それまでがあまりにも孤独で、人とふれ合いたいとの思いが、人一倍強かったからだと思います。
 彼女との出会いの中で得た、なんとも言えない安らぎ、ありがたさ、喜び、安心感。また、ひとりで吃音に悩んでいたと思っていたのが、同じように悩んできた、たくさんのどもる人との出会いは、とてもありがたいことでした。この喜びを知ってしまった私は、吃音矯正所を離れるとまた、21歳までの気の遠くなるような孤独な世界に戻ってしまう。これまでは、孤独でも生きてきたけれど、そうじゃない世界を知ってしまった以上はもうその世界に戻るのは嫌だと思ったわけですね。私の苦しみを分かってくれる同じような体験をした人達といっしょに手を繋ぎたい。それで、セルフヘルプグループを作ったのです。その原動力となったのは、その初恋の人との出会いでした。

基本的信頼感
 私は、エリクソンのライフサイクル論が好きなのですが、エリクソンが言うには、人間は心理的・社会的には、階段を上がるように発達していく。人生を8つの節目に分けて、その時期その時期に達成する課題があり、その課題をクリアしたときに次の段階にいくのだと言いました。最初の課題である基本的信頼感が、基本的不信感よりも勝ったときに、その時期の課題が達成される。私は親から愛され、基本的信頼感から、自律性、自発性へと進みましたが、学童期につまずいたわけです。
 学童期の課題は、劣等感に勝る勤勉性です。私は、勉強も遊びも何かの役割もしないで、逃げ廻り、全く勤勉性が達成されずに、劣等感ばかりが大きくなりました。だから次の段階、思春期の自己同一性の形成にはいかなかったのです。自分が何者か、これからどう生きていくのかがつかめなかったのです。その私が、初恋の人と出会って、自分を取り戻してもう一度階段を上がり始めることができたのは、私には乳幼児期の基本的信頼感が、クリアーできていたからだと思うのです。
 母親との関係が悪くなったのは中学1年生のときからです。私がどもりを治すために、一所懸命発声練習をしていたときに、母親に「うるさい! そんなことしてもどもりは治るわけないでしょ」って言われた。母親に対して、「何で僕がどもりを治そうと思っているのに、母親がそんなこと言うんだ」と泣きわめいていました。それから、母親に対する反発が生まれて、家出を何度も繰り返しました。母親への反発は、父親へ、兄弟への反発になっていった。その母親に対する強い不信感が後で取り戻せたのは、子どもの頃、母親から愛されたという実感があったからです。辛かった学童期を生きられたのも、人間不信に陥った私が、もう一度人間を信じるきっかけを作ってくれたのも、初恋の人との出会いを生かすことができたのも、母親への基本的信頼感だと思います。
 初恋の人と、10日間の出会いの最初の5日間、私は、ことばでいっぱい自分のことを話しました。そして、彼女が聞いてくれた。ところが、6日目あたりからはあまり話さなくなった。話さなくても通じ合える。話すことに疲れたり、話し尽くしたわけではないけれども、お互いが分かり合える世界になったのでしょう。公園で手をつないで、彼女の温かさを肌で感じながら、ベンチに座っているだけで十分だった。ことばだけの世界でなくても人間は、響き合い、通じ合える。これまで僕は、ことばだと思っていたけれども、黙っていても、お互いが愛し愛され、信頼できれば十分伝わるし、長い時間も過ごすことができるのだということが、この時に彼女との経験で分かりました。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/06/03

不思議な縁のつながり〜読売新聞での連載のはじまり〜

 小学校2年生から21歳までの暗黒の時代を経て、21歳からの僕は、本当にラッキーな人生を送ってきたと思います。人に恵まれました。自分のもつ力以上のことができた上出来な人生を送っています。
 今日紹介する読売新聞での連載は、不思議な不思議な、人とのつながりから生まれました。
 1986年、第一回世界大会で「出会いの広場」を担当して下さったのが、九州大学の村山正治さん。村山さんの九州でのベーシック・エンカウンターグループで初めてファシリテーターをさせてもらったとき組んで下さったのが九州大学の高松里さん。セルフヘルプグループの研究をしていた高松さんに紹介されたのが、大阪セルフヘルプ支援センターで、そのメンバーのひとり、読売新聞の森川明義さんと知り合いました。
 その森川さんが、僕の半生を7回シリーズで大きな記事にしてくれました。今回は、その記事を紹介します。
 不思議な縁は、その後も続きます。森川さんに紹介してもらったのが、應典院の秋田光彦さん。應典院は、竹内敏晴さんの大阪レッスン会場であり、また大阪吃音教室の会場でもありました。その應典院の小さなニュースレターに載った僕の記事を読んで下さったのがTBSディレクターの斎藤道雄さん。斎藤さんに紹介されたのがべてるの家の向谷地生良さんというわけです。

 1997年6月の「スタタリング・ナウ」の巻頭言を紹介します。次回からは、森川さんが書いて下さった記事を紹介していきます。

基本的信頼感
                  日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

  動物園のラクダさん
   まんまるお月さん出た時は
    遠いお国の母さんと
     おねんねした夜を思い出す

 小さいころ、泣いたり、すねたりした時、いつも母が私を胸に抱き、この童謡を歌ってくれた。大人になってからも、この歌を口ずさむとき、母の胸の温もりが、母の優しさが蘇る。
 この童謡は、ほとんどの人が知らない。私だけのための歌であり、私の大切な宝物だった。
 アイデンティティとライフサイクルで知られるE・H・エリクソンは、0歳から1歳半ごろまでの発達課題を、《基本的信頼感対基本的不信感》の対の概念で表し、不信感にまさる信頼感がもてたとき、この時期の課題が達成されるとした。
 私は、この歌を口ずさむ時、親から絶対的に愛されているとの確信がもてた。この基本的信頼感が、私のその後の人生に大きな役割を果たした。
 私が、エリクソンをとても好きなのは、このライフサイクル論によって、私がどもりに悩み、劣等感に悩まされ、自己否定の中から、自己肯定の道を歩む道筋が、見事に説明がつくからだ。
どもりに悩んだ学童期、劣等感のかたまりだった。学童期の課題が全く達成できていないために、思春期に自分が自分であることがつかめなかった。吃音を否定し、自己を否定した。
 この自己否定は、私がどもりを治そうと発声練習をしていた時に投げかけられた母のこのことばで決定的なものになった。
 「うるさいわね。そんなことをしても、どもりは治りっこないでしょ」
 温かった家庭が一変して私には冷たい場所に感じられ、私の居場所がなくなった。私はさらに深くどもりに悩むようになった。何度も取り上げられる母には申し訳ないが、私の吃音の歴史で、この出来事をはずすわけにはいかない。
 しかし、私がその後、吃音者のセルフヘルプグループを作ることができたのは、基本的信頼感が基本にあったからだ。自分を信じ、他者を信じることができるようになったのは、母から与えられた絶対的な愛があったからだと思う。
 グループの活動の中で、学童期・思春期の課題を少しずつ達成し、少し遅れはしたがアイデンティティを確立することができた。
 子どもに障害や病気があれば、治してあげたいと願うのは親の自然な思いだろう。一方、矛盾のようだが、例えそれが叶わなくても、《そのままのあなたでいい》との思いが同時にまたは先にくることが、基本的信頼感につながるのだと思う。
 子どもの成績が悪くても、障害があっても、子どもに、いっぱいの愛を惜しみ無く与えることが、親にできる最大のことだ。
 基本的信頼感を、童謡という証拠品まで残して与えてくれた母に、改めて感謝したい。
 新聞に、母とのことを含んだ私のどもりの歩みが、5月、7回の連載で紹介された。
 新聞連載の最終回が掲載された5月17日。その掲載された新聞を車中で読みながら、私は、何の楽しい思い出のない、辛いばかりの故郷の三重県津市に向かっていた。三重県言語・聴覚障害研究会の1997年度総会で講演をすることになっていたからだ。講演の前、小学校、中学校、高等学校を訪れた。誰ひとり、どもりを理解してくれなかった。劣等感、人間不信の芽生える役割しか果たさなかった教師とのかかわりが鮮やかに思い浮かぶ。
 講演では、私の体験を通して、《今、教育で大切なこと》を話したが、この教師とのかかわりを抜いては話せない。私のような体験を、あとに続く子どもにしてほしくないとの思いから、つい教師への願い、期待に力がこもる。
 新聞掲載の最終日。故郷で教師に話すという不思議な縁に、過去とのひとつの決着を感じた。
 今また、新しい旅が始まる。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/20
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