伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

国際吃音連盟

吃音の予期不安に対する対処の仕方

  吃音の問題の核心となるのは、予期不安です。どもるかもしれない、どもったらどうしよう、そんな予期不安にどう対処したらいいのか、参加者ひとりひとりが考え、自分の体験を話し、それを聞いて体験を重ね合わせていくセルフヘルプグループならではの時間を再現しました。
 僕が担当した、2008年10月の大阪吃音教室の、「吃音の予期不安に対する対処の仕方」の講座の様子をお届けします。(「スタタリング・ナウ」2009.8.24 NO.180)

  
《大阪吃音教室2008.10.3》 吃音の予期不安に対する対処の仕方
                     担当:伊藤伸二


はじめに

伊藤 吃音の大きな問題は、みんなも知っているように、予期不安です。どもるかもしれないという予期不安を持ってしゃべると、普段よりもよけいにどもってしまう。さらに強い不安をもつと、話す場面に出ていけない。吃音の予期不安と、話さなければならない場面に出ていけない場面恐怖が、吃音の中心的な問題です。まず、自分がこれまで、吃音に関して、経験したものすごく不安に思った場面、恐怖にまで高まった場面を書いて、それに対して自分はどう対処したか。その場面から逃げたか。どういうふうな工夫をしたか。思い出せる範囲で、書ける人だけ書いて下さい。

世界の論議から

伊藤 今、国際吃音連盟で論議されていることを紹介します。吃音氷山説です。海面に浮かんでいて、目に見える部分は吃音の症状で、吃音の全体のごく一部です。本当の大きな問題は、海面の下に沈んでいる。その主なものが不安、恐れ、恥ずかしさ、みっともないという感情。僕はこのシーアンという人の氷山説(『スタタリング・ナウ』152号参照)を30年以上も前に翻訳して出版しましたが、今になって、急に世界のセルフヘルプ・グループの人たちが、吃音の問題は氷山の海面に沈んだ部分にあると言い始めた。それは、吃音が治っていない現実に、世界もやっと目を向け始めたということで、歓迎すべきことです。しかし、海面下の問題を、「吃音シンドローム」と名づけて、この不安や恐れや恥や感情は大変大きな問題で、セラピーの重要な部分だと、吃音治療の臨床家に認識させなければならない。そう認識しないセラピストは失格だとまで言われると、とてもおかしなものになる。つまり、専門家に海面下の問題をセラピーしてもらおうという考え方なんです。
 吃音をそのように定義しようとする動きに、僕は強く反対しています。吃音シンドロームという名前をつけられたら、病的なものになって、自分自身では解決できないから、専門家にセラピーしてもらって、不安や恐れや恥ずかしい感情からちょっと楽になろうという論理なんです。
 僕が真っ向から反対しているのは、どもる人がもつ不安や恐れや恥ずかしいという感情は病的なものじゃないからです。吃音で悩んでいる人だけでなく、どもる人の誰しもが持つもので、自分で対処不可能なものではないと僕は思うからです。
 僕は氷山説を昔から評価しています。氷山の海面上のどもるということに関しては、長年臨床研究が続けられてきたけれどほとんど効果がない。でも、海面下の吃音の大きな部分に対してはアプローチできる可能性があるととらえる。ところが、アメリカやオーストラリアでは、これは、非常に大きな問題で、セラピストに委ねなければならないと考える。僕とずいぶん違うと思うんだけど。
T これだけ問題があると言われるのと、これだけ可能性があるんだと言われるのとでは、取り組み方が違ってくる。
伊藤 もっと変なのは、吃音を「オバート吃音」、「コバート吃音」、「吃音シンドローム」の3つに分けて定義するという提案です。ただ単にどもるのを「オバート吃音」。どもることばを言い換えて言ったり、回りくどい言い方をしたり、話す場面を避けると吃音は表面に出ない。つまり、吃音が分からない部分が「コバート吃音」。強い不安や恐れなどネガティブなものをもっているものが「吃音シンドローム」。そして、3つそれぞれに治療が必要だと言う。
 そこで、みんなに聞いてみたいんだけど、「コバート吃音」、つまり、言い換えたり、逃げたりすることを生活の中でやっていないという人、手を挙げてみて下さい。(誰もいない)
 じゃ、自分は、「コバート吃音」もあるなあという人、手を挙げてみて。(全員)
 コバート吃音をいけないことだ、それをなんとか治さなければいけないとなったら、僕たちの、なんとかどもりながらこの社会で生き延びようとする「吃音サバイバル」は、ちょっと難しいよね。どこでもどもることから逃げないで、いつでも吃音と向き合い、吃音と共に生きている。それが「吃音と共に生きる」ことだと言われてしまうと、僕はだめです。
 僕は、大事なことでは逃げないけれど、どうでもいいことだったら、いっぱい逃げている。寿司屋で、「トトトトトトロ」ってひどくどもって食べることもないから、「まぐろ」と言うことはある。小さいことを言ったら、みんな逃げていると思う。自分の言いにくいことばを、いっぱい言い換えをしていると思う。僕も、無意識に近い状態で、瞬間的に言い換えをしています。それがだめなことで、そうすることが治療の対象になるのなら、僕は話せなくなってしまう。このように、吃音を3つに分けようと強く主張するのが国際吃音連盟の前会長です。
 それに対して、僕らは、弱い部分もあるし、隠したい部分もあるし、恥ずかしい思いもある。そんなものを抱えながら生きていくという感じで、いつでもどこでも元気で、どもっても平気というわけにはいかない。それでも基本的には自分の人生を誠実に、大切に生きようと主張しています。この吃音定義の論議がどう決着がつくか分かりませんが、僕は徹底して反対していきます。
 不安や恐れや恥ずかしさは、仲間の力を借りるにしても、自分の力で向き合って対処していくことができる。治療を必要とする病的なものではないと思うんです。ここまでのことは、「合点していただけますでしょうか。(合点、合点)
 オバートであったり、コバートであったり、シンドロームであったり、ぐるぐる回って、この全体が吃音だと思うんだけどね。
N 鴻上尚史さんが、どもる人のことと英語ができないこととを合わせて文章にして下さった中に、自分は英語が下手だから、言いたいことがあっても、簡単な言い回しにするとか、時には発言をやめてしまうこともある。コバート吃音と同じことを外国語が苦手な人はしょっちゅうやっている。じゃ、その人に対して、語学の先生が指導の対象にするかといったら、しないでしょ。
 仕事柄、いろんな障害のある人たちとつきあっているけれど、右手が不自由だったら左手でカバーするとか、いろいろしますよね。あきらめるとか。ちょっとがんばったらいいのに逃げてしまうとか。それを治療の対象とは誰も考えない。どうしてどもる人だけがそう考えるのか非常に不思議。
H どもらない人であっても、ちょっと言いよどんでなかなかことばにならなかったり、言いかけてちょっとこれはやめとこかとやめるときもあるわけで、何もどもる人だけのことではないような気がしますね。なんで、どもる人が、完壁に話をしないといけないと思うのか。
伊藤 そうやね。それがどもる人が持ちやすい完全主義なんだね。デモステネスコンプレックスという名前をつけたりするけれども。ほかの人でも経験するようなことでも、完全にしゃべらなければならないと、思ってしまうと、つらいよね。
 不安や恐れは、克服はしなくていい。上手に不安や恐れにつきあえばいい。対処すればいい。今、皆さんに書いてもらったことは過去のことが多かったようです。過去より現実の、あるいはこれから起こるであろう不安や恐れについて、どんな場面がありますか。

40名の前での社訓の朗読が不安

A 今度の職場では、朝礼のときに、社訓を章に分けて読ませて、その後に、感想とか意見とかを述べるというコーナーがあるらしい。果たして、人前で社訓を読めるかどうか、とても不安です。
伊藤 はい。ではこの問題を通して、不安や恐れに対しての対処を一緒に考えていきましょう。
人前で社訓を読めるかという不安、恐怖があったとしたら、どういうことが考えられる?
K 社訓を読むということですが、どもらずにきちんと読むことを言っているのか、どもりながらでも読むことを言っているのか。
A どもりながらでも読んでいかざるを得ないなとは思っています。
K そうですよね。じゃ、どもりながらだったら、読めるんじゃないですか。
A そうですけど、もし、ことばが出ずに、止まってしまったら、し一んとなってしまって、「あいつ、どうしたんやろ?」となってしまったときに、手を動かしてでも出ればいいんですけど。
H 「どうしたんや?」と思われることがひっかかっているんやったら、簡単やないですか。どもっていると言えばいい。
伊藤 簡単やなんて、言ってしまったら、結論が早すぎます。物事には順番がある。Aさんのことだけを考えるのではなくて、みんなが同じようなことを経験するとして考えていきたい。社訓を章に分けて読まなければならないということは現実に多くの人に起こりうるので、一緒にそのような場にあったらどうするか考えましょう。
 僕らは、一瞬一瞬何かが起こったときに、いろんなことを考えて、それを心の中でことばにしてつぶやいている。認知療法では、自動思考といいますが、どもって声が出ないときにAさんや皆さんは、瞬間的にどういうことばを思いつく?
A 恥ずかしい。
C かっこわるい。みっともない。
D どもりたくない。
E 立ち往生したらどうしよう。
F 叱られたらどうしよう。
G 馬鹿にされる。
H どもりがばれたらどうしよう。
I 流れを自分のところで止めてしまう。
J びっくりされ、引かれる。
K 何事が起こったかと思われる。
伊藤 こんなくらいですか。このような、瞬間的に思い浮かぶことをことばとして覚えておくと、いろんなときに役立つ。僕らが、不安とか恐れを持ったときに、自分は心の中で瞬間的にどんなことをつぶやいているか、浮かんでくる自動思考をみつけ、そして、浮かんできたこれらのことを点検してみる。浮かんだことは浮かんだことで仕方ないけど、論理療法で言えば論理的に当たっているのか、自分自身を楽にするのか、それとも却って不安に陥れていくのかを検証していくことが必要です。
 「馬鹿にされる」、これはあり得えますか。
A あると思います。どもりについて知らない人は、ことばにつまって、「どどどど」とどもっていることに関して、おかしいな、変なしゃべり方をしていると見てしまって、おかしいんじゃないの、というふうに理解される。
伊藤 問題を自分の力で切り開いていくためにという前提だから、ちょっと考えてね。じゃ、おかしいと思われる、馬鹿にされるという奥には、吃音に対する理解が周りにないからだといえる?
A そう思います。
伊藤 と考えたら、その対処としては、どんなことが考えられる?
A どもりとはこういうものであって、僕のしゃべり方は治らないんですと、分かってもらうしかない。
伊藤 何人くらいの前で社訓を朗読するの?
A 40人くらい。
伊藤 じゃ、対処法を考えましょう。40人が吃音を理解してくれたら、どもっても馬鹿にされることはないわけですね。中には、どんなに説明しても理解してくれない人はいる。弱いところを突いてくる人はいる。でも、多くの人は、吃音とはこういうものだと理解したら、少なくとも馬鹿にはしないね。となると、Aさんのすることは?
K まず説明した上で、どもることはしょうがないから、仕事はきっちりする。どもっていて、仕事をしなかったらどうしようもない。仕事はきっちりする。それでいいんとちがうかなあ。
伊藤 仕事をきっちりとするということが大きな前提となると、僕たちがしなければならないことは、40人の前でちゃんと読むための練習ではなくて、吃音以外のところでちゃんと仕事をして、自信をもつことですね。
 仕事をきっちりした上で、どもりのことを理解してもらうためには、『どもりと向き合う一問一答』や『どもる君へいま伝えたいこと』をしっかり読んで、自分なりにまとめて、私はこういう人間なんだと説明する。しゃべってもなかなか理解されにくいなら、文章にまとめて40人に配布する。そうすることで、少なくとも馬鹿にされるということからは解放されませんか。
A そうですね。
伊藤 はい、これでひとつ、解決策ができました。じゃ次に、「立ち往生したらどうしよう」はどうですか。すごくどもったときに、立ち往生した経験はありますか?
E 電話でまったく声が出なくて、どうにもこうにもならないときが、何度もありました。
伊藤 で、そのとき、どうしたの?
E どうしたんだろ。なんとかかんとかしたんだろうけど、一回電話を離して一息ついた。
伊藤 ちょっと一呼吸おいたりね。ほかに何かある? 僕は、立ち往生しそうな場面には出ていかず、逃げて逃げてばかりしていたから、立ち往生することはなかったけど。立ち往生したときに、こうしたということ、ないですか?
M 立ち往生しても、ひどい連発、醜いどもり方でもいいから、言おうとしたら、なんとかことばはつながりますね。
伊藤 はい。どもってなら突破できますね。そこで、これも常に考えてもらいたいことですが、仮に立ち往生した。最悪の場合、どういうことが起こりますか?
H どうしたんやと声をかけられるとか。
M 低い評価をされて、
H そこまでいかんやろ。
伊藤 それは、ずっと後のことですね。
T 聞いている人が、ざわざわし始める。
N 発言者を変えられる。
伊藤 Aさんの場合、最悪の場合には、どんなことが考えられる?
A 最悪の場合、ほかの人が手をさしのべてくれて、どうしたんやと言ってくれて、私はどもって読めませんと言うしかない。
伊藤 それは、最悪の場面ですか? 最高の場面と違う? 最善の方に、ジャンル分けできるよ。
S 交代させられる。
伊藤 交代させられたら、ラッキーですね。
B くびになる。
伊藤 これが最悪やね。だけど、こんなことでくびになると思う? 仕事ができないというのではなくて、ただ社訓を朗読するだけのことですよ。朝礼は仕事の本筋ではない。自分の仕事として評価されるんじゃなくて、ただ社長の哲学・方針を書いた文章を読むというセレモニーでしょ。
A そうです。
伊藤 その、セレモニーで立ち往生したからといって、くびにはならない。最悪の事態というのは、たかだか笑われるくらいですよ。僕らは立ち往生したら最悪の場面が起こりそうだと思うけれど、たいしたことない。命をとられるわけではない。
 こういうとき、いつも思い出すのは、今から25年も前、第一回の国際大会を開こうと言ったときのこと。みんなが、不安や恐れがある、参加者が少なかったら、資金が集まらなかったらどうしようと反対した。そこで、最悪の場合は何だといったら、赤字が出ることだと言う。赤字が出たら、実行委員のメンバーがボーナスを一回パスしたらいい。それで済むことだから、やろうとなった。そして開催して成功した。最悪のことを考えても大したことはない。そういうふうに考えられたら。
K 今だったら、よく分かりますが、自分がどもりを必死で隠していたとき、自分のどもりがばれたら最悪と思っていたから、そういうときに立ち往生したら最悪です。みんなに自分のどもりが分かってしまう。
伊藤 だから、対処として一番大事な前提は、今の話でいうと、「どもる事実を認める」しかない。どもる事実を認めたくないのであれば、不安や恐れや恥ずかしさは、一生続きます。だから、どこで踏ん切りをつけるかになる。私はどもるのだという事実を認めることができなかったら、残念ながら吃音の恐怖や予期不安の対処は無理です。どもる事実を認めるところが出発じゃないかな。じゃ、どもる事実が認められない人にどうするか。何かある?ここに来ている人たちは、内心は分からないにしても、どもる事実を認めないとしゃあないと思ったり、本気で認めている人であったりする。でも、どもる事実を絶対認めたくない人は、現実にはいっぱいいる。そういう人には、どうしたらいい。
G 知り合いにいる。友だちになって、食事に誘ったりして、この吃音教室の話をしたりする。
伊藤 どもる事実を認められない人に対して、僕たちに何ができるかは、セルフヘルプグループの大きな役割だよね。吃音親子サマーキャンプでも、絶対どもることを認めたくない、そんなキャンプに行きたくないと言う子を母親が無理矢理連れてきて、どもる人たちの中に入れて、自分だけじゃないんだ、どもる事実を認めても最悪のことは起こらないんだ、ということを目の当たりに経験して変わる例はたくさんある。では、どもる事実を認めたくないのはなんでやろ。
N 吃音を知られたら、自分が吃音であることを認めたら、自分が終わりになると思っている。
伊藤 終わりって何やろ。
H 僕は、認めたくなかったときに、このままどもりであったら、僕の人生は展望、未来が開けないとずっと思っていた。まともな社会人になれないんじゃないか、一人前になれないんじゃないか、果たして結婚できるんやろか、とか。
伊藤 それは、Hさんがひとりで悩んでいたからでしょう。自分だけの世界の中での想像だったり、思い込みだったりしたんでしょう。それが、どもりながら、しんどいこともあるだろうけれど、仕事に就き、結婚もしているどもる人たちと出会ったら、どもる事実を認めたくないと思っていた人であったとしても、どもりながらでもこうして豊かに生きていけるなあと思える可能性がある。となると、僕らNPO法人大阪スタタリングプロジェクトの社会的な責務としては、確かに苦しいことや困難なことはあるけれども、どもりながらでもそれなりに生きていけるんだという見本を見てもらうことですね。大阪吃音教室に来てもらったり、情報を提供したりということは可能かな。
 不安や恐れの対処の前提は、どもる事実を認めているということで、スタートしていいですか?
(「スタタリング・ナウ」2009.8.24 NO.180)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/02/13

大阪吃音教室

 毎週金曜日、いつもの時間に、いつもの場所に集まる、会い続ける、だから、ミーティングと呼ぶ。―こんなセルフヘルプグループの活動を、僕は60年間、続けてきました。もちろん、時間も場所も集まる人の顔ぶれも変化してきましたが、変わらないのは、セルフヘルプグループの活動の底に流れる、気持ち、情報、考え方の分かち合いです。お互いが対等な立場で、会い続け、話し合い続ける中で、大切な価値観が生まれ、多くの人が自分らしい生き方をしていく姿をたくさん見てきました。僕は、セルフヘルプグループが好きです。つくづくセルフヘルプグループ型の人間だなと思います。
 僕にとって大切なセルフヘルプグループ、大阪吃音教室での一コマを紹介します。
 大阪吃音教室は、今も、金曜日の午後6時45分から、大阪市中央区谷町2丁目のCANVAS大阪の2階で、開いています。
 「スタタリング・ナウ」2009.8.24 NO.180 より、まず巻頭言です。

  
大阪吃音教室
                    日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 ひとりで悩み、苦しみ、絶望してきた人たちが、同じような体験をしている人々と出会い、これまで誰にも話せなかった、理解されないと思ってきた悩みや苦しみの体験、気持ちや情報や考え方を語り合い、自分らしく生きる道を探る場を、セルフヘルプグループという。簡単には癒えない心の傷や生きづらさ、治らない・治りにくい病気や障害だからセルフヘルプグループが必要なのだ。
 国際吃音連盟で、世界のどもる人のセルフヘルプグループの情報に接するにつけ、吃音のグループの難しさを思う。吃音が治らない現実に向き合っても、やはり吃音を治したい、治さなければならないと、効果を疑問視しながらも言語訓練に励むグループ。集まって吃音について話し合うだけのグループ。親睦を重視しているグループなど様々である。そして、それらのグループは、決してそのグループ活動に満足せず、どのような活動やミーティングができるか、常に迷い、探っている。
 どもる人のセルフヘルプグループの場合、グループの意義である気持ちの分かち合いは行われていても、体験、情報、考え方の分かち合いの部分が十分ではないグループが少なくない。特に、考え方、価値観の分かち合いは、ほとんどなされていないといっていい。
 吃音は自然に変化し、時に、治した、治ったという人がいるために、治ることへの諦めがつかず、どもる事実を認めた上での活動を徹底できないからだろう。吃音に対するとらえ方、価値観という軸足がしっかりしていないからだともいえる。
 私たちの大阪吃音教室は、吃音は治らないものとして、どもる事実を認めた上で、吃音教室を毎週開いている。世界でも極めて特異な存在だ。
 1987年から、今の大阪吃音教室のスタイルが確立した。それまでは、世界のセルフヘルプグループと同じように、言語訓練的なことと、吃音についての悩みを話し合う親睦が中心だった。それが、大きく変わったのは、第一回吃音問題研究国際大会がきっかけだった。
 私たちの、「吃音と共に生きる」主張は理解できるが、セルフヘルプグループのミーティングでどのようなプログラムを組むのかを提案すべきだと、どもる当事者だけでなく、吃音研究者、臨床家からも指摘された。その翌年から3年ほど大阪吃音教室は試行錯誤をくりかえしながら、現在の大阪吃音教室をみんなでつくりあげていった。
  ・吃音の正しい知識を持つための基礎講座
  ・コミュニケーション能力を高めるための講座
  ・よりよい人間関係をつくるための講座
 この3つを柱とする講座を、20名ほどの運営委員が入れ替わり立ち替わり進行・担当する。30年のベテランから、2年しかたっていない人、年齢も25歳から60歳を超える人、職業も、性格も楽天的で社交的な人や、繊細で物静かな人など様々である。一人一人が講座を担当するにあたって、いろいろな所に出かけて学んだり、書籍や資料で勉強して工夫をしている。担当をやり終えると、充実感が残り、担当を引き受けて良かったと思う。責任を分担することによってやる気も出、自分が分担した部分の内容の理解が深まる。また、準備を含む努力を、他人から認められて意欲が湧いてくる。これまでどもるため人前で話をするのが苦手で、できるだけ避けてきた自分でも、担当ができたということは、大きな自信につながる。また、同じどもる人がどもりながらも担当しているのを聞き、自分にもできるかもしれないと思うようになる。大阪吃音教室の参加者のこんな感想をもつ。
  ・個人の悩みに対応してくれた
  ・発言を強要されず、黙っていてもいい
  ・幅広い友人ができた
  ・明るく、楽しく、元気が出た
  ・吃音の知識がついた
  ・心理療法は職場や家庭で役立った
  ・吃音に対する考えや行動が変わった
 「治らないなら何もすることがないじゃないか」との私たちへの批判に対して、どもる事実を認めた上で、吃音について取り組むことはたくさんあると私たちは主張する。この大阪吃音教室の実践を記録として残すことが、私たちの責任だろう。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/02/12

DCモデル

 幼児吃音の臨床のために取り入れられたリッカムプログラムが、今、学童期にも入ってきそうだと聞き、僕は危機感をもっています。本来、家庭は、安心・安全な場でなければなりません。そのままの自分が受け入れられる場でなければならないはずです。自分の気持ちや思いをどもりながら話す子どもの話に耳を傾けて、その気持ちや思いを聞く場です。その安心・安全の家庭に、「どもったら言い直しをさせる」訓練を持ち込むことに、僕は絶対に反対です。
 家庭は、自分の気持ちや思いを言葉にして表現する力を育てる場でもあります。そこに「どもるか、どもらないか」は全く関係ないのです。安心して過ごせ、言いたいことを言って、それを聞いてくれる人のいる場であって欲しいと思います。どんなにどもっても聞いてもらえる経験を通して、「わたしはわたしのままでいい。わたしはひとりではない。わたしには力がある」と、僕たちが大切にしている共同体感覚をもてるようになるのです。
 「スタタリング・ナウ」2009.6.22 NO.178 より巻頭言を紹介します。

  
DCモデル
                     日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 吃音のように紀元前からの長い歴史があり、原因が解明されず、確たる治療法がない問題は、やはり歴史を繰り返していくのだろうか。
 「2〜3歳ごろの、ことばの発達途上にある子どもの、誰にでもある流暢でない話し方を、吃音だと聞き手が診断することによって吃音が始まる」
 1934〜1959年のアイオワ大学の大がかりな調査研究をもとに、ウェンデル・ジョンソンは診断起因説を出し、聞き手の態度、特に母親に対してこう提案をした。
 ・「言い直してごらん」とか、「もっとゆっくり言ってごらん」と言ってはいけません。
 ・子どもが喜んで話したくなるような聞き手になって下さい。
 ・子どものことばに寛大になって下さい。
 このアドバイスは、母親に大きな子育てのヒントなる一方で、診断起因説の底流に「意識をさせてはいけない」があるため、「沈黙の申し合わせ」に結びついた。吃音を話題にしないという弊害もあったが、長年く幼児吃音の臨床の柱となった。
 1980年代半ばから、オーストラリアのシドニー大学のリッカムキャンパスの吃音ユニットから始まったリッカム・プログラムは、単純に言ってしまえば、長年続いたジョンソンに影響された幼児吃音の臨床以前に戻ったとも言えるだろうか。
 2004年、第7回国際吃音連盟・オーストラリア大会で、言語病理学を学ぶ大学院生と議論した。オーストラリアでは、子どもがどもったら、そこで話をストップさせ、言い直しをさせるよう母親に指導すると主張した。実際に母親にも話を聞いたが、子どもがどもると、言い直しをさせていると言った。これが、リッカム・プログラムだ。
 2007年第8回国際吃音連盟・クロアチア大会で、オーストラリアの著名な言語病理学者のリッカム・プログラムのワークショップに参加し、その理論と実際を学んだが、違和感をもった。
 ジョンソンの時代の前に戻ったかのようなリッカム・プログラムだが、以前の「言い直しをさせる」とは違うという。親がモデルを示して、言い直しをさせ、どもらずに言い直しができたら、褒める。しかし、言い直してもどもった場合は、否定しないで、再度言い直しはさせない。これが、以前の「言い直しをさせる」とは違うところらしい。
 どもらずに言い直せたら褒められて、どもったら褒められないのなら、吃音を否定していることと同じではないか。子どもが吃音をマイナスのものと意識しないかと、私は質問した。言語病理学者は、臨床家や親は、吃音を否定的に考えていないから、言い直しをさせても、子どもは吃音を否定的にとらえないと答えた。
 結局は、どもる話し方をやめさせるために、どもらない話し方を幼児期から身につけるべきだという主張ではないのか。それがどうして、吃音を否定していないと言えるのか。納得がいかなかった。
 リッカム・プログラムの影響なのか、国際吃音連盟においても、早期言語介入が叫ばれるようになった。日本においても、脳に可塑性がある幼児期に、流暢性を形成させることが必要で、直接的な言語指導をすべきだと主張する人がいる。
 私自身が幼児期に、どもるたびに言い直しをさせられたら、話すことが嫌になり、「吃音は悪いもの、劣ったもの、恥ずかしいもの」という、私が学童期にもった、吃音に対するマイナスのイメージを、幼児の時代からもってしまうかもしれない。
 リッカム・プログラムの一日のワークショップを経験しただけで、詳細を知らず、臨床結果も調べないで、判断することは早計だ。しかし、私には吃音をマイナスに意識する副作用があるように思えてならない。また、効果を誇る治癒率は、自然治癒とどう違うのか検討の余地があるだろう。
 今回紹介するDCモデルは、リッカム・プログラムが言う治癒率を誇るものではないが、副作用はないだろう。「言い直しをさせるな」から「言い直しをさせなさい」と、歴史のように繰り返される幼児吃音の臨床に振り回されない、普遍的な人間学としての吃音臨床を考えていきたい。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/02/05

当事者の役割

 昨日は、桂文福さん、桂福点さんが登壇された「みのお市民人権フォーラム」の人権落語二人会に行ったことを報告しました。早速、招待してくださった文福さんから、「おおきに」と、ラインがきました。本当に、人を、出会いを、大切にする、まめな文福さんです。
 さて、今日は、これまた長いおつきあいをさせていただいている大阪セルフヘルプ支援センターで出会った、現大阪公立大学の松田博幸さんの寄稿文を紹介します。セルフヘルプグループのおかれている状況について、ご自分の体験を織り交ぜながら、書いてくださいました。その号の巻頭言から紹介します。(「スタタリング・ナウ」2008.5.20 NO.165)
 吃音の定義と、吃音の問題の定義とは違うもの、当事者が行うべきことは、吃音とは何かの定義ではなく、吃音の問題とは何かを明らかにし、その問題解決の道筋を模索すること、など、当事者の果たす役割について、一生懸命書いた巻頭言だと、今、読んでも思います。

  
当事者の役割
                     日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 国際吃音連盟では、再び吃音の定義についての論議が始まった。2007年5月、第8回クロアチア大会で前会長のオーストラリアのマーク・アーウィンが強引に採択しようとした吃音の定義だ。
 私たちの強い反対でその吃音定義は撤回され、議論はもうないものと思っていたのだが、マークにはセルフヘルプグループが主導権をとって吃音とは何かを定義する強い意欲があるようだ。
 吃音症状といわれるものは、氷山に例えれば、海面に浮かぶごく一部であり、海面下に沈んでいる大きな部分、恐れや不安や回避の行動が吃音の問題なのだとし、これを、吃音シンドロームと名付け、吃音の定義の柱にするという。
 私は吃音を氷山に例えたジョゼフ・G・シーアンの説は大好きだ。しかし、これは、吃音の問題を、それも吃音に悩んでいる人の問題についてのこと、と限定した方がいいと、私は思う。
 どもる人全てが悩んでいるわけではない。どもっていてもほとんど吃音を問題とせず、つまり、氷山の海面下の部分がほとんどなく、自分なりの人生を生きている人がかなり多いのだ。受ける影響に大きな差のある吃音について、吃音シンドロームとして定義してしまうことに私は反対なのだ。
 私は、第一回吃音問題研究国際大会を開いたときから、吃音は、吃音研究者、臨床家、当事者が対等の立場に立ち、互いの意見に耳を傾けながら、よりよい方向を見つけ出そうと連携を訴えた。
 専門家は、様々な実験や調査研究によって吃音を明らかにしようとしている。吃音定義は専門家の手に委ねた方がいいと私は思う。
 しかし、吃音がどもる人の生活や人生にどのような影響を与えるのか。吃音にどのように悩んでいるのか、は当事者が一番知っている。私たち当事者が行うべきことは、吃音とは何かの定義ではなく、吃音の問題とは何かを明らかにし、その問題解決の道筋を模索することなのだ。
 吃音の定義も、吃音の問題の定義も同じようなものではないかと思われるかもしれない。
 しかし、マークの主張する吃音シンドロームを強調して吃音を定義されると、吃音のマイナス面ばかりが浮き彫りになるだけでなく、どもる人の行動、思考、感情までが症状として、治療の対象になり、臨床家の手に委ねられてしまうのだ。吃音治療重視のマークには、その意図があるのだ。
 吃音の定義から、どもりながら豊かに生きているどもる人の存在が消えてしまうと、吃音の問題の解決の大きなヒントを失うことになり、吃音を生き方の問題としてとらえる、セルフヘルプグループの役割も希薄になってしまうのだ。
 私がこのように専門家には専門家の、当事者には当事者の役割がある、と主張するのは、大阪セルフヘルプ支援センターの長年の活動の中で、セルフヘルプグループの役割、専門職者の役割について、深く議論をしてきたからだと思う。
 1993年4月、大阪セルフヘルプ支援センターの設立大会で、私は初めて幅広い様々なセルフヘルプグループに出会った。以前、共に活動してきた障害者団体とはかなり趣が違っていた。「生活と権利を守る」要求活動と、様々な生きづらさを抱えていることを共通のこととして、「自分らしく生きる」を目指すことの違いだと言えるだろう。
 大阪セルフヘルプ支援センターでは、様々なグループのリーダー、ソーシャルワーカー、医師などの専門職者、社会福祉の研究者が対等の立場で、月例会や合宿をして議論を続けてきた。
セルフヘルプグループ表紙 朝日厚生文化事業団知っていますか? セルフヘルプグループ一問一答 セルフヘルプグループとは何かという共通の問題について話し合うのはとても楽しく、毎月の例会や毎週行われる電話相談の当番など、自分なりに活動を続けることができた。その中で、NHKの番組に二度出演し、朝日新聞厚生文化事業団の冊子『セルフヘルプグループ』や『知っていますか?セルフヘルプグループ一問一答』(解放出版社)の本の編集にかかわることができた。
 この活動を支え続けている、大阪府立大学の松田博幸さんが、現在のセルフヘルプグループの置かれている状況について書いて下さった。大阪セルフヘルプ支援センターの存在に感謝します。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/12/09

吃音の問題とは何か どもる当事者からのメッセージ

 当時、ISA(国際吃音連盟)会長、マーク・アーウィン(オーストラリア)は、吃音を真に社会が理解するためには、どもる当事者が吃音を定義する必要があると考え、ISA理事会に、動議21を提案しました。吃音の定義は、専門家の間でも様々な議論があり、定まったものがありません。クロアチアで開催された第8回世界大会で、ISAとしての「吃音定義」を正式に採択しようとした一連の論議は、吃音の問題とは何か、どもる人のセルフヘルプグループの役割とは何かについて整理しておく意味で大切なことだと考え、「スタタリング・ナウ」編集部で特集しました。
 この論議を受けて、当初、第8回世界大会で「東洋思想とセルフヘルプグループに学ぶ吃音臨床」と題した基調講演を予定していた僕は、「吃音サバイバル」に変更して講演しました。動議の紹介の後、この講演の一部を紹介します。(「スタタリング・ナウ」2007.7.28 NO.155)

ISA 動議 21 マーク・アーウィン

 ISA(国際吃音連盟)は吃音に対する理解を一般に広めるために次のメッセージを伝えていく。

 「吃音は原因が明らかではない言語障害であり、人口のおよそ1%の人たちに見られる。両親、教師、友人そして親戚などの人たちが耳にするどもって話される言葉というのは、問題のごく小さな部分であるという認識を持つことが重要である。どもっている人は隠された吃音に苦しんだり、新たに吃音症候群と称せられる症状に苦しんでいる場合もある。隠された吃音というのは、どもらないために言葉の回避、置き換え、言い換えなどの方法を用いることである。
 吃音症候群というのは、自分の吃音を否定的にとらえることによって経験する様々な症状のことである。これらには吃音がさらに重くなる、自分の話し方をコントロールできなくなる、その結果パニック状態や不安状態に陥り、自尊心は損なわれ、対人恐怖や自己のアイデンティティに混乱をきたす、などの症状が含まれる」

 この動議に、ISAのオブザーバーの言語病理学者から当事者が吃音を定義することへの疑問が出され、吃音臨床家と深いつきあいのあるグループからは、吃音症状に対してセラピーをしてきた臨床家を排除することにつながると、反対意見が出された。しかし、流れは動議が採択されようとしていた時、わたしたちがこの吃音定義には否定的な側面ばかりが強調されすぎていると反対して流れが変わり、動議は否決された。

 しかし、マーク会長は一般社会の吃音理解には、「吃音症候群」と「隠された吃音」の概念を使って説明する必要があると、クロアチア大会での採択を目指して、動議22を提出してきた。

ISA 動議 22 マーク・アーウィン

吃音とは何か?
吃音とは、言葉を思いのままに流暢に発することが困難な障害である。吃音は一般的には音節が不随意に反復されるのだが、単語や語句の繰り返し、音の引き延ばし、さらには言葉を発する前や発している間に異常に長い間があくなどして、程度の差はあれ、その間言葉や音を発することが出来ないブロック(難発)と呼ばれる症状がある。
ISAは、吃音を完壁に理解するためには、聞き手の視点について考える前に、どもる人自身の経験について解説する必要があることを強調したい。ISAの理事会は、吃音症候群(否定的な感情や態度や行動)と、隠された吃音(言葉の回避、言い換え、まわりくどい言い方)などの用語を用いて、吃音と吃音がもたらす影響について論点を明らかにする。

吃音の原因
 吃音は家系的に見られることがあり遺伝的要因も特定されている。しかし、はっきりとした原因はわかっていない。吃音は一般的には器質的な問題ではない。吃音は知的能力に影響があると一般的に考えられているがそうではない。言語障害を除けば、他のあらゆる点において正常である。従って、不安症状や自信が持てない、神経質であるとかストレスが吃音の原因になっているのではない。ただスティグマになりやすい障害であるため、結果として不安状態などになることはよくある。

吃音がもたらす様々な影響
 吃音が個人に与える影響が様々であることは明らかである。人によっては、不安が高まると難発や引き延ばしをしたりするが、滑らかに話せる時には、吃音がさほど問題にならない。しかし完全なブロック状態の人もいる。ブロックには、ブロックをはずそうとする随伴行動が伴うことが多い。吃音に苦しめられている人たちは、他者との対話に大きな障害であると実感するだけではなく、彼らの人生に影響を与えるとして考えることがある。
 どもる人は人口の約1パーセントと言われているが、人によっては言葉や状況の回避やことばの言い換えでブロックを隠している。これらは、意図的に隠すという性質から「隠された吃音(コヴァート)」と呼ばれている。この隠された吃音の最大の恐怖は、もし話している間にコントロールを失いブロックしてしまった場合に、周囲は自分のことをどう思うかということである。多くの人は自分の吃音を誰にも知られたくないと思っている。

 吃音に対する情動反応はこの障害の最も重要な部分である。家族、友人、親戚、同僚そして一般の人たちが吃音とはどういうものか、とりわけブロックは聞き手が耳にする非流暢な話し方よりもさらに深い問題があることを理解しなければならない。たとえば、どもる言葉に対する恐怖、どもる場面への不安や周囲の自分に対する否定的な評価に対する恐怖心などで、「吃音症候群」とも呼ばれるものにつながっていく。さらに流暢性を失い、言語のコントロール力を失い、それに伴う不安状態、パニック、うつ、自尊心の喪失、対人恐怖や自己のアイデンティティの混乱などの症状に至る。

吃音の程度は様々である
 吃音の程度は個人によって大きく異なる。ブロックが電話での会話、レストランでの注文、権威のある人に話す場合、自己紹介で自分の名前を言うなど、特定の言葉や場面に限定されることがある。一方、ほとんどの言葉にひどくブロックしてしまう人もその割合は少ないがいる。これらの人たちは、ブロックがひどくない人たちに比べるとあまり不安を感じていないことがよくある。それはブロックがひどくない人たちは、いつどもるかも知れないという不安があるからである。このような現象から、吃音の重さと吃音症候群の重さとは必ずしも連動しないと考えるべきである。明らかに吃音の軽い人が吃音症候群に大きく影響を受ける場合がある。その逆も然りである。

セラピー
 吃音には多くの治療法や器具や言語療法のテクニックがある。これらは、吃音やそれに対する否定的な反応を程度の差はあるものの、コントロールしたり、軽減するために役立っている。ISAはそのようなプロセスにおけるセルフヘルプグループやサポートグループの重要な役割を強調したい。

動議 22の問題点 伊藤伸二

 この動議が、吃音の問題を吃音症状にだけあるのではないと強調したことは、高く評価できる。しかし、吃音の当事者のメッセージとするには、もっと丁寧な議論が必要である。

1.吃音の原因について
 吃音の原因が解明されておらず、吃音の定義も定まっていない現在、当事者が詳しく言及する必要はない。原因は、世界各国で膨大な研究が続けられながら、未だに解明されていない事実を言うだけでいい。吃音の定義は吃音研究者に委ねたい。私たちが説明するにしても、完壁な理解は難しいので、できるだけシンプルにする必要がある。
 しかし、吃音に悩み、生活や人生に大きな影響を受けてきたどもる当事者として、吃音の本当の問題とは何かについては、丁寧に説明することができるし、必要なことだと思う。

2.「吃音症候群」や「隠された吃音」
このような用語は、吃音の研究者や臨床家が問題を説明するのに便利な側面があるかもしれないが、当事者が安易に使うべきではない。この用語を使わずとも、吃音の問題について、私たちが、吃音を隠し、話すことから逃げることで経験したことを率直にそのまま具体的に表現すればいい。
 このような用語が定着すると、吃音症候群や、隠された吃音を治療しなければならないになる。

3.動議自体がもつ否定的な要素
スティグマや一般の吃音の否定的な評価を問題にしながら、この動議自体が否定的な評価を促進する恐れがある。この文章を読んだどもる子どもの親は、吃音とは大変深刻な問題で、早く治してあげなければとあせるだろう。セルフヘルプグループの中で、どもりながらも豊かに生きてきた人たちがいることをもっと強調すべきだろう。

 チャールズ・ヴァン・ライパーは、私たちが発行した、吃音の理解のためのパンフレットの巻頭に次のメッセージを寄せてくれていた。

 「どもりにとらわれるあまり、犯してきた私たちの失敗を、どもる子どもたちが繰り返さないように、また、私たち成人吃音者の仲間が、自分を無価値な人間であると思いこんで卑下することのないように、私たちは自身を変えていかねばなりません。また、社会を啓発していかなくてはなりません。どもるからといってそれにとらわれ、自分の人生を台無しにするのではなく、輝きのある人生を共に送っていきましょう」

 このようなメッセージこそ、どもる人のセルフヘルプグループの私たちならではのものだろう。
 吃音の正しい情報や知識がなく、周りの吃音への無理解もあって、吃音に大きな影響を受けている人々は少なくない。社会一般には、「吃音は簡単に治るものだ」や、「たかがどもるくらいで」と吃音の問題を軽く見る傾向がある。その一方で、吃音に対する否定的な評価も根強くある。この社会の吃音に対する無理解が、吃音の問題解決に大きな障害となっている。
 完全な治療法がなく、世界のすべての国々に十分な専門家がいるとは限らない現状では、セルフヘルプグループとしてなすべきことを、できることを明らかにしなければならない。専門家の力を借りながら、正しい吃音の知識や情報を共有し、セルフヘルプグループで蓄積してきた「吃音と共に生きる」ための工夫を共有し、発信することである。社会の吃音に対する無理解に対して、吃音の正しい理解のためのメッセージを送り続けていくことが大切だ。

ISA総会で動議22取り下げ

 クロアチアに出発の前に、伊藤伸二は理事会に反対の理由を前述の文書で出しておいたために、何人かはマークの動議に反対する意向を表明していた。しかし、ISA総会で会長のマーク・アーウィンは、動議22の採択の必要性を、基調講演のために用意したスライドを使って強く訴えた。動議の説明の後、一人が反対を表明し、伊藤の反対理由が読み上げられたことで、マークは論議をしても採択の可能性が低くなったと考えたのか、論議をしないまま動議を取り下げてしまった。

 マークは基調講演で、吃音症候群、隠された吃音について説明している。彼の講演レジメの一部を紹介する。

 吃音には3つの大きな特徴がある。

◇オヴァート吃音
 繰り返し、引き伸ばし、ブロック
◇コヴァート吃音(隠された吃音)
 言い換え、話すのを止める、回りくどい言い方
◇吃音症シンドローム(吃音症候群)
 言語をコントロールできないという感情や、それに伴って生じるパニック、不安、フラストレーション、怒り、当惑、自信や自尊心の喪失、自己のアイデンティティの混乱などによって、吃症状がさらに重くなる。

吃音を改善するための4つの方法
1.言語病理学のセラピーを受ける
2.ゆっくり話す
3.ゆっくり呼吸する
4.言葉をリンクさせる

吃音症候群を改善するための10の方法
1.アサーティヴになる。アサーティブな人を観察したり一緒に過ごしたりする。
2.自尊心や自信を高める。知識を増やし、多くの本を読み、講座などに参加する。
3.成功体験に焦点を当てる。笑顔を忘れず、リラックスし、人の話をよく聞き、ゆっくり呼吸する。
4.対人関係での不安レベルを測定する。情緒的反応をコントロールする。
5.ネガティブな連想を断ち切る。成功体験を再生する。
6.休息時の不安レベルを下げる。瞑想や自己催眠。
7.成功体験と成功感覚を実践する。成功できそうな状況で実践する。
8.経過を記録する。サポートグループに参加。
9.話し手としてのセルフイメージを変える。日記をつけて成功体験を記録する。
10.ユーモアのセンスと現実的な展望を持つ。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/10/03

ふたりの心の旅路

 昨日紹介した巻頭言に書いたように、吃音親子サマーキャンプで出会ったふたりの体験を紹介します。
 サマーキャンプに長年参加していたふたりが、2004年、相次いで、吃音と向き合ってきた自分の体験を発表する機会に恵まれました。まさき君の「変わっていくこと」と題する体験は、国際吃音連盟のISAD2004オンライン会議に掲載され、多くの反響がありました。また、国際吃音連盟のニュースレター「ワンボイス」にも掲載されました。あやみさんは、宮崎県で開かれたセルフヘルプセミナーに参加し、セルフヘルプグループの活動の中で感じたり考えたりしたことを発表しました。
 まず、まさき君の体験を紹介します。

変わっていくこと
                          まさき(大学1年)

どもってもいい―キャンプとの出会い
 私は自分の吃音がいつぐらいから始まったのかはっきり覚えていませんが、幼稚園の頃にはすでにどもっていました。小学校に入学してから私は、自分の吃音のことで馬鹿にされたり、からかわれたりする毎日が続き、私の心はだんだんと暗くなっていきました。
 そんな中、小学校4年生の夏、私は日本吃音臨床研究会が主催する「吃音親子サマーキャンプ」と出会いました。このキャンプに参加して私は、吃音で悩み、苦しんでいるのは自分ひとりだけじやないということと、私には自分と同じように吃音で悩んでいる仲間達が大勢いるんだということを知り、とても勇気付けられました。この「吃音親子サマーキャンプ」と、そこでの吃音で悩む仲間達との出会い、そしてその仲間達と過ごした3日間は、「どもりでよかった」と思えるほど私の心を明るく、前向きなものへと変えていきました。
 このキャンプをきっかけに、私はあまり自分の吃音で悩まなくなり、「自分はどもっていてもいいんだ」と思えるようになりました。そして、学校生活が次第に楽しくなっていきました。それ以来、私はどんなに吃音でつらいことがあっても明るく、前向きに生きていこうと心に決めました。明るく前向きに考えていれば、たとえ吃音で悩むことがあっても、その悩みに押しつぶされることなく、日々を楽しく過ごすことができると思ったからです。

どもりたくない気持ちも自分―中学生
 けれど、そんな私が中学生になってから、次第に人前でどもることに抵抗を感じるようになりました。そして、中学2年生のある日、国語の授業での本読みでひどくどもってしまい、恥ずかしさと本読みも普通にできない自分への苛立ちから、ひどく落ち込んでしまいました。この時は、なぜか以前のように明るくふるまうことができませんでした。その時、私は今まで自分の本心を偽るために、無理矢理明るくふるまっていたことに気づきました。どもることを恥ずかしいと思う気持ちや、普通に話すことのできる人達がうらやましいと思う気持ちを認めたくなかったから、そういう感情を心の奥に押し込めるために明るくふるまっていたのでした。
 そのことに気づいてから私は、自分の感情を偽らず、押し込めずに自分の吃音と向き合っていこうと思いました。自分の本当の思いを押し殺して生きるということが、とても辛いということに気づいたからです。これからは自分のありのままの感情で、吃音とつき合っていこうと思いました。
 それから吃音で悩むことはたくさんあったけれど、その悩みから逃げずに正面から向き合い、自分なりの答えを出すことで、私はその悩みに押しつぶされることなく、学校生活を送ることができました。

強い劣等感に気づく―高校生
 そんな日々が続き、高校受験の時、私は初めて「自分の意思」で行きたい学校を選択し、その学校の試験に合格しました。この、自分の力で進む道を切り開いたという事実が、私に大きな自信を与えてくれました。
 合格した高校に入学してからも、私は積極的にクラブや学校行事などに参加するなど、とても充実した楽しい毎日が続きました。何をするにも、私は自信に満ち溢れていました。その頃から私は、自分はただ言葉が詰まるだけあって、他の人と何も変わりはしないんだと思うようになり、自分の吃音についてあまり考えないようになっていきました。それ以来、私は人前でひどくどもってもほとんど気にならなくなりました。私は吃音と向き合い、考え続けたことで成長し、強くなったのだと思っていました。
 けれど、本当はそうではなかったことを、一人の音楽教師が気づかせてくれました。その教師は私に、「君はかたくなに心を閉ざしてしまっている。誰と話すときでも決して自分の本心で話そうとしていない。いつまで逃げているつもりだ?」と言いました。その時、私はこの教師の言っている意味がわかりませんでした。自分は心を閉ざしてなどいないし、自分の吃音にも逃げずに正面から向き合い、考えてきた。だから自分は強くなったんだと、私は信じていました。しかし、そう思いながらも、その教師の言葉を聞いた時、私は自分の心の奥底をえぐられたような痛みを感じ、泣いていました。その時初めて、私は吃音を持つ自分に強い劣等感を抱いていることに気づきました。
 小さい頃から負けず嫌いで、人から低く見られることが何より嫌いだった私は、「誰からも尊敬されるような立派な人間」を演じ、皆から認められることで、自分への劣等感を心の奥底に押し込めていたのでした。私は強くなったのではなく、ただ「強い自分」を演じていただけだったのでした。今まで、自分のありのままの感情で吃音とつき合ってきたつもりが、中学生の頃と同じように、自分の本心を偽り、本心で吃音と向き合うことから逃げていたのでした。

声優という夢を阻む吃音
 今まで本心で吃音と向き合ってきたつもりが、そうではなかったということに気づいて、私は自分の吃音とどう向き合っていけばいいかわからなくなってしまいました。それからしばらくの間、無気力な日々が続きました。けれど、そんな日々の中で、私はどうすればいいのかわからないと思いながらも、私の心はとても穏やかで、安らかなことに気づきました。おそらく、それまで私の心を押さえ込んでいた壁がなくなったからなのだと思いました。それから私は、とりあえずゆっくりと、楽に生きてみようと思いました。自分の吃音のことは、これから焦らずにゆっくりと考えていけばいいのだと思ったからです。この時、私は初めて心を開くことが、こんなにも自分の心を穏やかにするのだということを知りました。
 そして、高校3年生になり、開いた心で素直に自分が何をやりたいのかを考えた時、私はひとつの夢を抱くようになりました。それは将来、声優という職業に就きたいという夢です。小さい頃から、声優という職業に憧れていました。けれど、真剣に声優を目指そうと思ったとき、私は自分が吃音を持っている限り、声を使う声優になることは不可能なのではないかと思い、目指すことに戸惑いを感じました。しかし、私にはそう簡単に声優になるという夢をあきらめることはできませんでした。
 だから私は、大学に入学する少し前まで、吃音を100%自分の意思でコントロールできるようになろうとやっきになっていました。けれど、コントロールしようとすればするほど、私の吃音はひどくなっていきました。コントロールするどころか、いっそうひどくなっていく自分の吃音への苛立ちから、私は初めて自分の吃音を憎むようになりました。私は、自分の夢を束縛する自分の吃音が憎くてしかたがありませんでした。

今の私
 けれど、吃音を憎んでも何かが変わるわけでもなく、自分の心が苦しくなるだけでした。その時私は、自分の吃音を憎むということは、自分自身をも憎んでしまうということに気づきました。自分を憎んでしまったら、自分の可能性をなくしてしまうだけで、まして吃音を憎み、無理矢理コントロールした声で声優になどなりたくないと思った私は、それ以来自分の吃音を憎むことはなくなりました。
 そして今の私は、吃音を無理矢理コントロールしようとは思っていません。たしかに吃音をコントロールしたいという思いはあります。コントロールできなければ声優になる夢をかなえるのは難しいと思うからです。しかし、だからといって無理矢理コントロールしようというのではなく、私は、自分がこれから生きていく中で様々なことを見て、聞いて、感じて、そして考えることによって、自然に吃音をコントロールできるように変わっていきたいと思っています。自分の吃音を否定せずに受けとめ、向き合っていくことで、きっと私は吃音と共に変わっていくことができると思うからです。
 このように、私の吃音に対する思いが変わっていくことができたのは、日本吃音臨床研究会の人達や「吃音親子サマーキャンプ」で出会った仲間達のおかげだと私は思っています。この仲間達が私に自分と向き合う勇気を与えてくれたのです。私が悩み、落ち込む度に、私の話を真剣に聞いてくれたから、私は自分の気持ちを整理することができ、変わっていくことができたのです。
 生きるということは変わっていくことなのだと私は思います。これからも私の吃音に対する思いは変わっていくだろうと思います。そして、その度に私は自分の吃音と向き合いながら生きていきたいと思います。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/05/07

吃音の夏

 親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会と吃音親子サマーキャンプ、僕たちが大切にしている大きなイベントの準備が本格的に始まりました。もうすぐ、ホームページ上に掲載予定です。これらのイベントが夏に集中しているので、いつからか、僕たちは、「吃音の夏」と呼んでいました。その原点が、ここにあったのだと、「スタタリング・ナウ」2001.9.22 NO.85の巻頭言を読んで、思いました。
 このときは、第30回全国難聴・言語障害教育研究協議会全国大会島根大会と、どもる人の世界大会ベルギー大会の日程が重なっていました。そのほか、この年は、岐阜で開催した第1回臨床家のための吃音講習会(親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会)、記念講演を頼まれた第25回九州地区難聴・言語障害教育研究会熊本大会、吃音親子サマーキャンプがありました。読み返してみて、とてもハードなスケジュールだったことに我ながらびっくりしています。まだ、若かったのでしょう、濃密な時間を過ごしました。
 今年の「吃音の夏」は、どんな出会いがあるのか、じっくりと味わいたいと楽しみにしています。

  
吃音の夏
                   日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 からだがふたつあればいいのに。こんなに選択に迷うことも珍しかった。吃音の国際的な活動を選ぶか、どもる子どもの教育の全国大会を選ぶか。
 国際大会は、第一回大会の開催者として、国際吃音連盟の礎を作り、ドイツ、アメリカの大会に参加し、スウェーデン、南アフリカ大会の6年間は参加していない。海外の人々は、世界大会を初めて開いた人を特別の思いで評価はしてくれるが、6年間も参加していないと忘れられた存在になってしまう。少しあせりにも似た思いもあって、今回のベルギー大会は是非とも参加したかった。
 日程が重なって、第30回全国公立学校難聴・言語障害教育研究協議会全国大会島根大会の、吃音分科会のコーディネーターの依頼を受けていた。島根県の言語障害学級の担当者が団結して開く、どもる子どもたちのキャンプ、島根スタタリングフォーラムにかかわって3年になり、島根のことばの教室の人達とはとてもかかわりが深い。その人たちが開く全国大会である島根大会のコーディネーターも、以前から依頼を受けており、断りたくない。すると、今度は第25回九州地区難聴・言語障害教育研究会熊本大会の記念講演と吃音分科会のコーディネーターの依頼があった。国内の言語障害児教育の大きな行事が続いたため、ベルギー大会への参加は潔くあきらめることができた。
 島根大会は素晴らしかった。「子どもたちが自分らしく暮らしていくための支援のあり方」のテーマが、基調提案、記念講演、シンポジウムに一貫して見事に流れていた。「子どもの障害を軽減、改善することが本当にその子どもの幸せや暮らしの充実につながるのか?」という、ことばの教室担当者自らへの問いかけだ。私がずっと主張してきたことでもある。せっかく流れるテーマを、吃音分科会ではさらに一歩踏み込みたい。分科会は5時間あり、全国のことばの教室の皆さんとかなりつっこんだやりとりができた。
 島根に続いて岐阜県では、臨床家のための吃音講習会を開いた。日本吃音臨床研究会と岐阜吃音臨床研究会を中心に、岡山、大阪の人達が企画して運営したもので、以前から開きたかったものだ。当初、60名の参加を予定して計画を立てたが、全国から約170名が参加して下さった。臨床家が、吃音だけをテーマに2日間集中して取り組んだ。最高気温39.7度という記録的な暑さの中、クーラーが止まるというアクシデントの中で、どもる子どもへの支援、子どもの親への支援、担当する教師への支援、子どものことばへの支援への提案がなされた。参加者のアンケートには、「これまでに参加した研修会にはない、熱い思いをもてた、充実した講習会だった」と感想が寄せられた。
 すぐに続いた熊本大会。記念講演は荷が重かったが、『言語障害児・者として生きてきて見えてきたもの』と題して2時間、自分の吃音人生を振り返り、言語障害児教育に期待することを話した。講演会は一般にも公開され、450名ほどが参加された。個人の体験は一般化はできず、ひとりよがりになるかも知れないと前置きして吃音で悩んできた中から考えてきたこと、見えてきたことを話した。次の日の言語障害学級の担当者が参加する吃音分科会では、ふたつの事例報告をもとに話し合った。主張が明確なコーディネーターであるために、論点は明確になり、私としては、充実した分科会だった。
 続いて、第12回吃音親子サマーキャンプ。よもや昨年のような146名という多い参加はないだろうと思っていたのが153名の申し込みで、急遽キャンセルが入ったが、140名の大きなキャンプになった。今年、作者のミヒャエル・エンデが亡くなり、その追悼のようなかたちになった演劇『モモ』は、大人も子どもも楽しめた。今年は劇が一番楽しかったと高校生が言ったのが印象に残る。子どもたちの吃音についての2回にわたる話し合い、親の話し合いは、それぞれのグループで深まっていた。子どもたちの、どもりについてもっと話し合いたいという感想も、うれしい。一緒に真剣に取り組む劇の練習。親は親で子どもたちの前で演じるパフォーマンスの練習。子どもの時代に帰って2時間びっしりと練習する姿は印象的だった。涙があふれ、大きな笑いに包まれ、「来年も絶対に参加する」と子どもたちは言いながら、それぞれの生活に帰っていった。
 吃音の臨床家、研究者、保護者、吃音の子ども、本人が幅広く集まり、吃音をテーマに人生を考える。日本吃音臨床研究会の活動趣旨が凝集した、今年の熱い、暑い、吃音の夏はこうして終わった。(「スタタリング・ナウ」2001.9.22 NO.85)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/05/27
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