伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

吃音者宣言

世界大会の夢

 1986年の夏、京都で開催した第1回吃音問題研究国際大会。今から38年前のことですが、会場の京都国際会館のホールも、参加した海外のどもる人たちの顔も、閉会式のとき流れた「今日の日はさようなら」の音楽も、鮮やかに思い出すことができます。
 21歳まであれほど悩み、憎んでいた吃音が、世界の人とつながる大切なものになってくれるとは思いもしませんでした。吃音のおかげで広がった世界は、楽しく豊かな世界でした。
 大谷翔平さんの通訳として、長年彼を支えてきた水原一平さんのことが連日報道されています。英語を苦手とする日本人が海外で活躍するには優秀で相性のいい通訳者が必要です。英語がまったくできない僕が海外で活躍できたのも、いい通訳者がいたからです。今でも、その人に僕はとても感謝しています。世界大会の夢を実現させてくれた人でした。
 今日は、「スタタリング・ナウ」2004.3.21 NO.115 の巻頭言を紹介します。1986年の8年前、1978年の初夢の話から始まります。

  
世界大会の夢
                    日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 ―A君、私は今、10階の大ホールのコントロール室にいます。今、まさに私たちの念願だった、どもる人の世界大会が開かれようとしています。
 司会者がどもりどもり、しかも非常に晴れやかにあいさっを始めました。でも、残念ながら同時通訳の人は、ユーモアあふれるそのどもりを再現できずにいるようです。かつて、嘆き、嫌ったどもりがその人にとってかけがえのないものとして尊重されています。世界各国のどもる人がその国の様々な障害を乗り越えて次々と「吃音者宣言」をし、その成果が今、各国の代表によって発表されています。
 一国の大統領がいます。教師や医師もいます。コックさん、トラックの運転手さんがいます。この大会期間中、様々な分野の人々がどもりだけでなく自分たちの職業に関しての交流も進めています。…
 A君、私の初夢はここで終わってしまいました。でも、いつかこの夢が夢でなくなる日がきっと来ることを信じてペンを置きます。
              1978年1月 初春

 ニュースレターの「吃談室」のコラムにこの文を書いたのは、夢の一歩が実現した、1986年の第一回吃音者国際大会の8年前のことだった。
国際大会会場写真 京都大会。海外から参加した人たちが、「夢の世界にいるようだ」と口々に言った。大会のフィナーレ、京都国際会館の大会議場に400の人の輪が幾重にも重なった。キャンプファイアーで歌う「今日の日はさようなら」を、肩を組み、隣の人の温かさを感じながら歌った。最後に目を閉じてのハミングに変えてもらった。そのハミングに合わせて、私は大会会長として、最後の挨拶をする。
 「私は、どもりに深く悩み、どもりが大嫌いでした。でも今、こうして世界の仲間達と出会い、語り、笑い、泣いた。このような体験をさせてくれたのは、どもりに悩んだおかげです。私は今、どもりが大好きになりました」
 これまでの、どもりに苦しんできた出来事が走馬燈のように浮かび、涙があふれた。そしてその涙は、しばらくして喜びの涙に変わっていった。私だけが泣いていたのではなかった。世界大会の記録のビデオを見ると、ほとんどの人が泣いていた。
 久しぶりに参加した、オーストラリアのパースで開かれた第7回世界大会は、参加国が格段に増え、文字通りの世界大会に成長していた。そのウェルカムパーティーの会場に大きな男が飛び込んできた。「シンジ!」と叫ぶ声に、私も瞬時に「マイク・マコービック!」と叫んでいた。抱き合い、18年の年月が一瞬に縮まった。彼は、京都での大会の、きつつきのロゴの入った大きな黄色のネームプレートを首からぶら下げていた。
 今回の大会開催のグループの会長で、この大会を開催したのが、これも京都大会に参加したジョン・ステグルスだった。さらに、大会初日、当時のドイツの会長だったディータ・スタインとも喜びの再会をした。彼も最後に泣いたと言っていた。
 英語ができないと評判のアジアの日本人が、なぜ、第一回の国際大会が開催でき、その後も、国際吃音連盟の創立に貢献ができたのか。一人の女性との運命的な出会いがあったからだ。
 20年前、私は当時大いにもめながらも蛮勇で強引に世界大会開催を決めた。しかし、どこの国にグループがあるかも知らないし、世界各国機関や大学への手紙など、何をするにしても英文の文書がいる。大会中の同時通訳は予定していたものの、準備段階の活動にこれだけ英語が必要なのかと、途方に暮れていた頃、親友の吉田昇平の7回忌の法事が京都であった。私と同じ「どもりの虫」で、吃音に命を賭けていたライバルだった。法事の時間に遅れてひとりで行ったことが幸いし、進士和恵さんと出会うきっかけとなったのだった。若くして病で亡くなった彼が、親友の私の窮地を救った。
 Kazue Shinjiと、Shinji Ito。海外ではよく夫婦と間違えられる。20年間、国際的な活動に対する進士さんのサポートがなかったら、私の夢は夢のままで終わっていたことだろう。改めて感謝する。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/03/29

書くことの楽しみ

 今日、紹介する「スタタリング・ナウ」2004.2.21 NO.114 の巻頭言のタイトルは、「書くことの楽しみ」です。書き出しに、毎日毎日文章を書いている、とありますが、20年経った今でも、それはほぼ変わりません。メモ程度のものも含めると今も毎日何か書いています。ノートや紙に書いていたこともあったと思いますが、今はほぼパソコン相手です。
 2004年の春、オーストラリアのパースで開かれる第7回世界大会に出発する前日に書いていたらしい巻頭言です。国際大会のことも、第6回ことば文学賞のことも、懐かしく思い出しました。

  
書くことの楽しみ
          日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 毎日毎日文章を書いている。完成させた文章だけではなく、メモ程度のものも含めれば、おそらく書かない日はないだろう。それも、吃音に関わることがほとんどで、自分の本質に関わるテーマだから、時に重く苦しい。
 文章を書きながら、怒りや悲しみがわき上がってくることがある。そして、書きながらそれが徐々に収まっていくプロセスはうれしいが、収まった後にまた新たな怒りや悲しみがわいてくる。書くことは自分を生きることであり、今の自分の歩みに立ち会うことでもある。まだ私は、文章を書くことの中に、軽やかな楽しみを見い出せない。それは、私にとっての吃音は、大きな大きなテーマであり続けるからだろう。
 かつて私は、吃音に深く悩み、吃音を治そうと闘いを挑み、他者を自分をひどく傷つけて生きてきた。その苦しみの中から、吃音は闘うべき相手ではなく、和解し、手をつなぎ、共に人生を生きるまたとない伴侶だと思うようになった。
 その吃音を、敵視し、ねじ伏せ、自分の管理下に置くことをすすめる臨床家は少なくない。吃音に取り組む当事者はどうか。明日から出かけるオーストラリアのパースで開かれる、吃音国際大会は、1986年、私が大会会長として第1回の大会を開いて7回目になる。ここまで続き、これからも続いていくことは大変にうれしいことなのだが、国際大会のプログラムを見て、少し不満をもった。私たちの海外への発信が不十分なこともあるのだが、セルフヘルプグループにつながる人たちの意識も、吃音はあくまで闘う相手なのだ。
 第1回で私は大会宣言の中に、「吃音研究者、臨床家、吃音者がそれぞれの立場を尊重し、互いの研究、実践、体験に耳を傾けながら議論をし、解決の方向を見い出そう」と対等な立場に立って、「吃音に取り組もう」という文言を入れた。しかし、世界の動きは、まだ専門家主導で動いているとしか思えないようなプログラムになっていた。吃音の悩みからの解き放ちは、吃音の治療改善にしかないと考えているからなのだろうか。これまで以上に世界への発信の必要性を感じたのだった。
 今回で6回になる、どもる人のセルフヘルプグループ、大阪スタタリングプロジェクトの「ことば文学賞」。今回は、15編と応募も多く、作品の内容の傾向が変わってきたと感じた。
 「ことば文学賞」の入賞選考は、朝日新聞の学芸部の文学担当として、長年作家の文学作品に触れ、ご自身も書き続けて来られた高橋徹さんにお任せしている。毎回私たちの作品を丁寧に読み、大阪吃音教室の「文章教室」で講評して下さる。
 どもる人の苦しみ、悩みから解放されていく喜びを常に共感をもって読み取って下さる。私たちが信頼している選者であり、長い間私たちの書くことを支えて下さってきた師匠でもある。安心して、選考は全てお任せしている。これまでは、吃音の悩みや苦しみと真っ正面から向き合い、そこから新たな生き方を探るような作品が選ばれることが多かった。ところが、今回の入賞作3編は、これまでの選考基準とは趣が違うように私には感じられた。文章を書く楽しさや喜びがある作品だ。
 どもる私たちが、長年「書くこと」をとても大切にして、取り組んできたのには、次のような意味合いがある。

*自分のために書く
 日記に自分の苦悩を書くことから始まって、私は、読み手を意識して書くことで、自分を見つめ直すことができた。
*後に続く人のためになれば、と考えて書く
 吃音にとらわれた苦しみから解放されていくプロセスを書くことは、後輩に自分のしてきた過ちを繰り返して欲しくないための発信となると思った。
*書くこと自体が喜びであり楽しみとして書く

 この三つを繰り返しながら、書いていくのだろうが、私は、自分を見つめるためと、後に続く人への発信の意味で書くことが多い。高橋さんは「ことば文学賞」の選考を通して、書くこと自体を楽しむ書き方もすばらしいのだよと、私に言って下さっているような気がする。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/03/26

私と『スタタリング・ナウ』(10)

『スタタリング・ナウ』100号記念特集
  私と『スタタリング・ナウ』 (10)


 『スタタリング・ナウ』を購読してくださるようになるきっかけはさまざまです。言友会時代からのつきあいのある人、吃音相談会に参加された保護者、研修会や講演会などで出会ったことばの教室の担当者や言語聴覚士、何がきっかけだったか忘れてしまったけれど、長いおつきあいになっている人など、月に一度お送りするニュースレターが、縁をつなぎ続けてくれています。
 NHK Eテレ ハートネットTVのフクチッチで吃音が取り上げられ、「吃音者宣言」が紹介されたことは、放送の翌日に書きました。その後、番組のことを知っていて見たという人から、感想も届いています。元筑波大学副学長の石隈利紀さん、元生活の発見会会長の大谷鈴代さん、落語家の桂文福さん、三重県津市の小中高校時代の同級生に連絡をしてくれた分部紘一さんなどから見たよと連絡がありました。思いがけない近況報告になったようです。
 では、つづきを。

  
『スタタリング・ナウ』は私のお守り
                        石井由美子 会社員(福岡県)

 「えっ、もう100号」早いですね。毎月送ってくるのが当たり前のようになっていて、改めて100号の重みを感じえずにはいられません。
 毎月送られてくる『スタタリング・ナウ』は、忙しい日常生活の中、仲間と吃音へ思いを馳せる大切な時間を作ってくれます。
 伊藤さんの巻頭言は『スタタリング・ナウ』の大黒柱。そして私に毎回課題を与えてくれます。吃音のセルフヘルプグループから日本吃音臨床研究会へと33年間、きょうだいのようにつきあっていただいていますが、今までの『スタタリング・ナウ』の中で《吃音ファミリー》が私には印象に残ります。
 私は7歳からどもりましたが、両親、先生、友人たちから何の隔たりもなく接してもらい、劣等感をあまり持たずに成長できたことはよかったと思います。
 でも一つ困ったことがありました。それは「かわいそうに」という同情でした。私自身もそれに甘えてしまい、何に対しても競争心を持たず、努力しなかったことを今になって反省しています。このようなことから子どもの頃からの接し方が大切になってくると常々思っています。どもる子どもの親・研究者・臨床家・教育現場の教師の方々は、その子にとっての本当の愛とはを考えていらっしゃると思います。何の障害に対しても同じだと思います。
 「どもる子どもの悩みに寄り添い、うれしいことがあれば皆で喜ぶ。この姿はまさに家族そのものだ。この吃音ファミリーは、どもる人やどもる子どもだけのユートピアでなく、ひとり立ちするための母港だと言える。時には厳しく接するし、吃音でない多くの人が出入りする開かれたファミリーだ」(1997.12.20号)
 私の好きな文章です。ひとり立ちのための母港、母港と言う言葉に大きな愛を感じます。そして安心して旅立てるのです。受け止めてくれる大きなファミリー。
 毎回の情報に自分の生活の悩みと照らし合わせ問題点を引き出して、いかに自分らしく生きていけるか問答する毎日です。生きづらくなっていく現代、心のよりどころとして、お守りのように通勤のバッグに入れています。まだまだどもる人の受け皿として200号、300号と続くことを願っています。

【長いおつき合いになりました。吃音ショートコースの常連です。北九州での相談会を、北九州市立障害福祉センターの方と一緒に企画・実行して下さいました】


  込められた"想い"
                         内田智恵 主婦(神奈川県)
 普段の生活の中で、言葉を一言も話さない日は、まずあり得ません。結婚して、子どももいる今、人前で話すことや、苦手な電話をかける機会も増えました。
 以前と比べれば、どもることを受け入れられるようになってはいるものの、思うように話せないことを恥ずかしく思ったり、どもりたくない、どもらないで話すことができたらどんなにいいか…などと感じることも確かです。言葉に詰まったり、言いたいことが伝えられない時などは落ち込んでしまうことも多く、吃音をマイナスにとらえがちになるのですが、毎月送られてくる『スタタリング・ナウ』が届いたその日は、心が元気になって、マイナス思考も吹き飛んでしまいます。
 吃音という共通のキーワードを通して、様々な人たちの生き方や考え方に触れることのできる『スタタリング・ナウ』を読んでいる時間は、私にとって、かけがえのない大切な時間となっています。もし、私が吃音でなかったら、人生や物事に対して、これほどまでに深く考えることはなかったかもしれないと思うと、吃音が貴重なものにさえ思えることがあります。
 以前、『スタタリング・ナウ』に掲載された体験談を読んで、非常に共感し、私自身の体験や気持ちを書いて日本吃音臨床研究会に送りました。勢いに任せてペンをとり、それまでは決して他の人に語ったことのない、自分と吃音とのかかわりを書いたものが、思いがけず『スタタリング・ナウ』に掲載され、びっくりしたことがありました。でもそれはいい意味での驚きで、今まで隠したり、逃げていた吃音を、前向きに考えることができるようになり、吃音をオープンにすることに抵抗がなくなった大きなできごととなりました。
 自分の吃音を語る時、その『スタタリング・ナウ』を相手の人に読んでもらうこともあります。相手の反応は様々ですが、たいていの人は、私の状態や考えを分かってくれ、吃音への理解も深めてくれているようです。吃音と向き合い、自分を素直に語れるようになったことで、新たな出会いが生まれ、いろいろな経験ができたことは『スタタリング・ナウ』のおかげです。
 毎月届く『スタタリング・ナウ』が、時には背中を"ポン"と押してくれ、大勢の方のたくさんの文字や言葉で綴られた吃音に対する"想い"が、私にパワーを与えてくれます。号数が進むにつれて、私と吃音との関係もより豊かなものとなるように、これからも愛読していきたいと思っています。

【直接お会いしたのは、横浜での相談会の1回のみ、でもこれだけ深いつながりができています。お寄せ下さった体験談は、『スタタリング・ナウ』81号に掲載しています】


  ふり返れば
                  丹佳子 西条市市役所教育委員会(愛媛県)
 私がどもり始めたのは、小学校6年生か中学校1年生くらいの時でした。それまでは、国語の本読みでもきちんと抑揚をつけ、すらすらと読むことができていました。なので、どもり始めたときは、きっとすぐもとのようになれる、すぐ治るから気にする必要はないと思っていました。でも、治らず、だんだんひどくなってきました。授業中わかったと思って手を上げ、指名されたとき、答えの最初の音が出ず、テレ笑いして「忘れました」としか言えないことが増えていきました。先生たちの中には、ゆっくり言ってもいいよといって下さる方もいましたが、私がふざけていると思って授業の最後まで立ってなさいと言った方もいました。そんなことが重なって、だんだん話すことがいやで落ち込むことが多くなりました。
 でもどもることで落ち込んでいることは、周りには悟られたくなくて、どもりがでてもテレ笑いしてごまかし、ぜんぜん気にしてないのよという態度をとっていました。それにどもりには波があるようで、どもらない時期には全然どもらず、そんなときはどもりのことは忘れていました。しかし、再びどもりの時期がくるとやっぱりどもりました。そして、お前はどもりなのだ、これが本当のお前なのだ、どんなに飾ってもこの醜い姿がお前の本当の姿なのだと言われているような気がしました。
 試験でよい点をとったり、いいことがあったりしてうきうきしているときでも、しゃべるときにどもりが出ると落ち込んでその度に、その声が、「ほ〜ら、いい気になってるから、何思い上がっているの」と言っているような気がしました。そして私はいろんなことに対するやる気をすっかり失ってしまいました。小さいころから、あこがれていた語学の勉強もする気がなくなり、将来は安定しているから公務員にでもなればいいやと、地元の国立大学の法科にすすみました。
 大学の4年間は、とにかくしゃべることから逃げた日々でした。何かの代表で話さないといけないときも、私はどもりがあるからと替わってもらいました。ゼミの発表のときは、とにかくどもらないようにどもらないようにとレジメに書いてあることだけ読むようにしていました。周りの人がしていたように、レジメは要点だけをかき、発表するときにそれを肉付けしながらアドリブを入れて話すなんて芸当は全然できませんでした。そして、文系なのに話す訓練のされていない、どもるたびに固まってしまう、プライドだけは高いくせになんの資格もない、そしてどうみても暗〜い女の子は、就職活動での面接試験にことごとく落ちました。
 そのあと職業訓練センターに少し通い、母の知り合いの会社に技術職で採用してもらいました。そこでは仕事もいろいろ教えていただき、技術面ではいっぱしの社会人に育てていただきました。でも電話にはいつも苦労しました。例えば、自分の会社名が言えない、次に相手の名前が聞き取れなかったとき聞き返せないなどです。家の電話で練習していって、うまくいっても、会社ではできませんでした。誰でも簡単にできることが自分だけできないのはすごく恥ずかしくて、電話があまりかかってこないようにといつも思っていました。そして、不景気のあおりで仕事が減っていき、電話も減ってきていたある日リストラになってしまいました。
 でもこの会社にいる間にスラスラしゃべっても中身の薄い人や、ぽつりぽつりしか話さないけれど重みのある言葉を持っている人をみることができました。そして、ぽつりぽつりとしか話さない人にもきちんと固定のお客さんがついていたのをみて、スラスラ話すことだけが能ではないのだな、大事なのは中身があることと誠実さと真心なのだと実感することができました。
 現在はなんとか地元の市役所に勤めることができるようになり、仕事の傍ら、ことばの教室のボランティアや手話サークルに参加し、言葉や表現を考える日々が続いています。
 今年の夏に、『スタタリング・ナウ』に出会い、臨床家のための吃音講習会に出席し、日本吃音臨床研究会の存在を知り、吃音ショートコースにも参加し、その中のいろいろな人に出会えて、以前はどもりについては、心の中では泣きながら表面だけ笑って、しょうがないことなのだとあきらめて受け入れていたのが、今はどもってもいいや、いっぱい言い換えしてもいいや、それでいいんだと思えるようにもなってきました。
 どもりに悩んで自己否定しても死にきれなかった日々、死ねないなら血を絶つために子どもなんかいらないと思った日々。ウチは先祖代々、戦国時代からのどもりの家系らしく、地元にどもり神社として歴史に残っています。それでも生き抜くために語彙力を増やし、言い換えや言い回しを工夫した日々、そしてまだ迷いつづけている人生。今後また生きている限り日々は続くし、つらいこともいろいろあるとは思いますが、どもってもいいやと生きていけそうです。

【吃音ショートコースの報告で紹介した、祖先は戦国時代の武将、丹民部守清光(たんみんぶのかみきよみつ)。どもって即座に声が出なかったために、敵と間違えられて討ち死にし、塚が建てられました。四国の西条市で「民部さん」と呼ばれて人々の信仰が厚く、吃音の神様、足の神様として全国にも知られるようになりました。"由緒あるどもり"の人。講習会、吃音ショートコースとお会いするごとに表情が明るくなっていかれるように思います】

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日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/02/01

NHK Eテレ ハートネットTV フクチッチ

 1月29日(月)午後8時、番組が始まりました。3時間半ほどのインタビューの映像、資料としてお貸しした冊子、書籍、写真などが、どんなふうに使われ、構成されているのか、楽しみにしていました。
 初めは、4人のどもる人が登場し、自己紹介をして、それそれの体験を語りました。その中のひとり、大学生で看護師をしている女性は、高校生のとき、静岡の吃音キャンプで相談を受けた人で。どもるたびに「すいません、すいません」を連発し、下を向いてぼそぼそと小さな声で話す彼女に、僕は、「すいませんを言うのはやめる。顔を上げて、どもっても言いたいことを言い切る。このことを1年間続けよう」と提案した。そして、1年後、彼女はまた僕に会いにきてくれました。再会したとき、雰囲気、表情がすっかり変わっていて、驚きました。僕が言ったことを実行したとのことでした。同じどもるにしても、ずいぶん違います。アドバイスをすなおに聞き、実行したことが、彼女の強みだったと思います。彼女からは、事前に、この番組に出るのだと電話をしてきました。弾むように明るく話すのが印象的でした。
 彼女の経験も、他の3人の経験も、それぞれに、吃音とは何かということを説明していました。教員採用試験で、どもることを隠し、言いたいことが充分に伝えられなかった男性が、3回目の挑戦のときは、吃音を隠そうとせず、たくさんどもりながらも、自分の言いたかったことは言い切って採用合格通知をもらったと話していました。番組の底に流れるものが、治す・改善する、治すべきものとなっていないことに、安心しました。
 ここまでで半分。いつになったら「吃音者宣言」が出てくるのだろうと思っていました。
 そして、講談師の田辺鶴英さんが登場して、吃音の歴史を講談で語り始めました。デモステネス、ジョージ6世、楽石社の伊澤修二、そして、21歳の僕が登場しました。その後、セルフヘルプグループ言友会の創立へと話はつづきます。本当は、ここで講談師の田辺一鶴さんが出てくるはずだったのですが、時間の制限があったのでしょうか。田辺一鶴さんはどもりを治すために講談を始め、講談教室を毎週日曜日に上野本牧亭で開いていました。僕も講談教室に参加し、その講談教室の参加者と、東京正生学院の僕の仲間が知り合い、そこから言友会創立へという流れだったのですが、割愛されていました。フクチッチ初の講談だったらしいのですが、言友会創立と関係の深い講談の話が出てこなかったのは残念でした。視聴者には、なぜ、講談なのかという説明がなく、不思議に思われたのではないかと思います。講談で説明していく、講談師の田辺鶴英さんが田辺一鶴さんのお弟子さんなだけに、その関係を紹介しないのは、とても残念なことでした。間違いなく、田辺一鶴さんが言友会の創立のきっかけだったのですから。
 講談の中で、何度か、「伊藤青年」ということばが出てきました。そして、「吃音者宣言」の登場です。宣言文の一部、とても大切な部分を文字として、また講談の中で語ってくださいました。会創立10年という節目に、多くの仲間の体験から生まれた「吃音者宣言」、格調高く聞こえました。
 その後、「吃音者宣言」を受けた形で、愛知県の小山裕之さんが経験を語っていました。小山さんも僕の古くからの知り合いです。「吃音者宣言」に出会ったときの感動と、就職のとき、吃音であることを伝えたのは、「吃音者宣言」と出会ったからだと言っていました。小山さんの元気な姿を見ることができたこともうれしいことでした。
 僕の家でのインタビューの映像も流れました。3時間半ほどカメラは回っていたはずですが、当日流れたのは数分?だったでしょうか。いや、もっと短いかも。でも、一番言いたかったことは、ちゃんと収められていました。
 「人生の目的は、吃音を治すことではない。自分がいかによりよく生きるか。吃音は、決して人生を左右するほどに大きなものではない。それをきちっと受け止めれば、あなたの人生は豊かに切り開いていくことができるんですよ」。
 これは、吃音とともに豊かに生きることができると伝えたかった僕からのメッセージでした。
 全体のコメンテーターを務めたのは、金沢大学の小林宏明さんでした。小林さんのこともよく知っています。吃音と共に豊かに生きる、どもりながらも自分らしく生きる、そんな大きな流れに加えて、治したいという人がいる人たちの声にも耳を傾けていきたいとまとめておられました。「困ったら、言語聴覚士に相談をしてほしい」が最後のメッセージでした。フクチッチが子ども向けの番組であることを考えれば、同年代のどもる子どもたちが通っている、ことばの教室の存在にも触れてほしかったなあというのが、僕や、僕の仲間のことばの教室担当者からの率直な感想でした。
 どんな番組になるか分かりませんが…、と前置きをして、友人・知人に、番組のことを知らせていました。見た人から、いろいろな感想が届いています。以前NHKのハートネットTVで「どもる落語家」として紹介された桂文福さんから、良かったという感想の電話がかかってきました。いろんな人が電話やメール、ファックスで感想を寄せてくれました。どこかで紹介できればいいのですが、その中に、吃音親子サマーキャンプに参加した保護者もいました。僕たちの知らないところで、親同士のつながりがあるようで、吃音サマーキャンプ参加の親45人で見たとメールがありました。45人という数字にびっくりしてしまいました。夏にしか出会っていない僕と、TVを通して、この寒い季節に会えたのがおもしろかったのではないでしょうか。
 僕の話の奥には、吃音親子サマーキャンプで出会ったどもる子どもやその保護者、研修会や学習会、講演などで出会ったことばの教室担当者や言語聴覚士の人たちの思いがたくさんあります。それらの声を大切にし、僕自身の体験から見いだしたことばを、今、僕は紡いでいるのです。

 見逃した人へのお知らせです。
 再放送が予定されています。深夜なので録画をしてぜひ、ご覧ください。
   2024年2月9日(金)00:45〜 木曜日の深夜
 また、NHK for school という学校向け教材サイトで、いつでも短縮版が見られるそうです。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/01/30

【お知らせ】1月29日(月)午後8時 NHK Eテレ ハートネットTV「フクチッチ」で、吃音が取り上げられます

 昨年10月、NHK Eテレのディレクターからメールが入りました。フクチッチという番組で、吃音を取り上げたいので、取材したいとのことでした。フクチッチ? さてどんな番組だろうか、調べてみると、子ども向けに、福祉のことを分かりやすく解説し、登場する子どもたちに考えてもらう番組のようです。風間俊介さんがメインの進行役のようでした。フクチッチは、前半と後半に分かれているそうで、後半担当のもう一人のディレクターと一緒に、チームスで、もう少し詳しく打ち合わせをすることになりました。
 時系列で、これまでの様子をお知らせします。

11月1日(水)13:00〜 チームスで取材
 番組で、吃音を取り上げようと考えた経過と目的などを聞きました。吃音者宣言や、東京正生学院での経験、セルフヘルプグループ言友会の活動、ことばの教室でなされているどもる子どもへの関わりなど、僕は、質問に答えながらいろいろな話をしました。どもる子どもの生きる力を育てる取り組みが紹介できればいいなあと思いましたが、さて、どんな番組になるのでしょうか。

11月27日(月)9:30〜 ディレクターが自宅へ
 1日、チームスで話をした、前半担当のディレクターがひとりで、その次の取材についての打ち合わせのため自宅へ来られました。午前9時半から午後1時過ぎまで、4時間弱、たくさん質問が出されました。あの後、いろいろ調べ、取材し、そして、吃音の問題を語るとき、何が一番の転換点かと考えたそうです。はじめは、言語聴覚士の制度ができたことかと思ったそうですが、さらにいろいろ読み込み、調べ、考えた末、大きな転換点は、「吃音者宣言」だと考えたとのことでした。吃音者宣言を出すことになった背景、その頃の様子、出した意図、何を考えていたのか、それらを番組で紹介したいとのことでした。吃音者宣言にスポットが当たることはありがたいことです。古い写真や、セピア色の今にも破けそうなその頃使っていた教本などを引っ張りだしてきました。ディレクターは、「わあ、すごい。こんな資料があるんですね」と感嘆の声を上げていました。でも、番組にどう反映されるのか、未知数です。

12月6日(水)10:00〜 カメラ、音声、そしてディレクター3人が自宅へ
NHK取材1NHK取材2 ディレクターとカメラ、音声の3人が自宅へ来られ、リビングは、撮影現場になりました。ディレクターが質問をし、僕がそれに答える形で撮影が始まりました。1976年に、それまでの多くの仲間の体験と活動の中で得られた結晶として提起した「吃音者宣言」は、今も決して色あせることのない宝物だと思っています。多くの人が「吃音者宣言」に出会い、どもる自分を認めて、自分のことばを磨き、届けたい相手に向かって、ことばを丁寧に伝えていく、それを積み重ねていくことが生きることだと確信していきました。田辺一鶴さんや言友会の初期の活動など、なつかしい写真も登場します。これまでの歩みを整理し、振り返ることができ、僕にとってはいい時間でした。

2024年1月23日 
 放映に関する最終のお知らせのメールが届きました。番宣には、伊藤の名前も、「吃音者宣言」のことばも出てきません。どんな扱いになるのでしょうか。ほんのわずかしか出てこないかもしれません。吃音を治す・改善するというのではなく、そして、周りの理解に助けてもらうことを過剰に期待する弱い存在ではなく、吃音とともに豊かに生きる人がたくさんいることを知ってもらう番組であって欲しい。どもる子どもに「生きる力」を育てることが大切だとする僕たちの思いが反映されている番組になっていることを願うばかりです。
 放映は、1月29日午後8時。NHK EテレのハートネットTV フクチッチ、よかったら、ご覧ください。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/01/24

私も自分を語りたい

 先日、卒業式を終えた小学校と中学校の2人の教師の手記を紹介しました。正直な気持ちが綴られているその文面への反響はいつもの『スタタリング・ナウ』より多かったようで、お電話やお手紙をいただきました。その中のお一人、手記を読んで刺激を受け、ご自分のことを語って下さった方の文章を紹介します。

  
私も自分を語りたい
                       横田智恵子(横浜市在住)

 周囲の人の中で、話すことに不便さを感じている人は、見当たりません。日本吃音臨床研究会の存在を知り、『スタタリング・ナウ』を読むまでは、吃音で苦しんでいるのは、この世で自分一人だけではないかと思い込み、吃音について語り、共感し合うことなど、あり得ないと思っていました。
 でも、先月号の『スタタリング・ナウ』NO.8Oで、卒業式を終えた二人の先生方の体験談を読ませていいただき、同じような思いをした、私の気持ちや体験を語ってみようかと思い、ペンをとりました。
 私は以前、幼稚園教諭、また保母として働いていました。卒園児の担任はしたことがありませんでしたが、入園児の担任として、入園式の名前の読み上げをしなければならないことがありました。
 体験談で語られていたお二人の先生方の不安な気持ちは、私にも痛いほど伝わってきました。それは、教師になって、2度目の春のことでした。最初の年は、複数担任で、私は副担任でした。私が前に立つことはほとんどなく、名前の読み上げはもちろん、自己紹介、本読み、家庭との電話連絡などは、正担任の先生に全部任せ切りでした。でも今回は自分が正担任として前に立たなくてはなりません。前年度末、正担任と決まった時からそれまではあまり気にすることもなく、逃げること、隠すことでやり過ごしてきた「吃音」の問題が私に大きくのしかかってきたのです。
 誰にも相談することができず、たった一人で悩み続けていました。何をしても手につかず、ことばにつまり、立ち往生している自分の姿ばかりが、頭の中をかけめぐっていました。「何とかしなければ…」と、入園式の前日になって、園長先生に話してみることにしたのです。
 ふだんの会話では、ほとんどどもることのない私の口から「どもり」ということばを聞いて、園長先生はびっくりしたような、戸惑ったような表情をしていました。「だいじょうぶ…落ち着いて…」ということばが返ってきて、少しは肩の荷が下りたものの、私が相談したからといって、それまでの式の内容が変わるわけでもなく、不安な気持ちは消えることなく当日を迎えてしまいました。
 入園式は子どもにとっても、保護者にとっても晴れの舞台です。式は何のトラブルもなく、順調に進んでいきました。そしてついに名前の読み上げが始まりました。わが子の「ハイ!」というお返事を逃すまいと、ビデオを手にしたお父さん、お母さん方は、耳をそばだてて、子どもの姿を追っています。
 私がどもることは園長先生しか知りません。他の先生方にはついに話すことができませんでした。子どもたちはもちろん、保護者たちも、私を新しい先生として期待いっぱいの目で見ていることでしょう。どんな先生が担任になるかは、親も子どもも一番の関心事です。私の読み上げの様子で、これからの一年間の"先生の姿"が形作られてしまうような気がして、逃げ出したいまでの恐怖を感じていました。園生活は始まったばかり、信頼関係は、これから築いていかなくてはなりません。
 「もし、つまってしまったら、式はどうなってしまうのだろう?」
 「他の先生はどう思うだろうか」
 そして、何よりも気になったのは、「保護者は、私を担任として受け入れてくれないのではないか」
ということと、
 「子どもたちが笑ってばかにされたらどうしよう」
ということでした。
 前のクラスの先生と子どもたちの元気なやりとりが終わり、いよいよ私のクラスになりました。
 言いにくいア行は割とスムーズに出てきました。カ行もだいじょうぶでした。このままいけるかも…と思ったのもつかの間、名簿の先のタ行を意識したとたん、のどの奥がつまるような感じがしたのです。「ダメかも…」こう思ってしまったら、私の場合、ことばがスムーズに出てくることはほとんどありません。タ行の「タカハシ…」になった時、恐れていた"その時"がやってきてしまいました。つらい沈黙が続きました。子どもはきょとんとし、保護者の方はざわざわしています。でも、どうしてもことばが出ません。
 すると、私の隣に立ってマイクを持っていてくれた先生が、小声で「タカハシ…」と言ってくれ、私もそれにつられるように声を出し、何とか言うことができました。その後は、ペースを乱し、言えたりつまったりの繰り返し。でも隣の先生が一緒につぶやいてくれたことで、その場を切り抜けることができたのです。「助かった…」と思う反面、どもってしまった後にいつも味わう、何とも言えない悔しさと気まずさが、私の中に残っていました。
 この後、誰からも吃音について言われたことはありませんでした。多分、気を使ってくれたのでしょう。
 変に気を使われるのも嫌なことですが、配慮をしてほしいなと思うことがあるのも事実です。でもかといって、吃音のことを話題にされるのもつらい。この複雑な気持ちは、どもる人にしか分からないものなのかもしれません。幸い子どもたちからからかわれたこともありませんし、保護者の方ともいい信頼関係が持てたように思います。
 その後、仕事をする上で、やはり思うように話せない不便さを感じていた私は、主任の先生に相談することにしました。
 「どんな場面でもやれるだけやってみて、もし、どうしてもダメならば、他に方法があるか、考えてみたら…」
 「電話がダメならば、手紙でもいいし、園内放送が苦手ならば、各クラスに直接言いに行くとか、いくらでも工夫できると思うよ」
とアドバイスしてもらったことがありました。
 「行動するのみ。話せないことにこだわるのではなく、何ができるかを考えること」
 このことばを聞いた時、私はハッとさせられました。そして、「吃音と向き合ってみようか」と思える大きな一言になったのです。
 先生はまたこうつけ加えました。
 「逃げていたのでは何の解決にもならないんだよ」
と。少しだけ光が見えてきたような気がしました。
 今は、保育の現場から離れ、一児の母として子育てに忙しい毎日を送っています。
 母親になったことをきっかけに、吃音のことを主人に打ち明け、『スタタリング・ナウ』の購読会員にもなりました。これだけでも私にはすごく勇気のいることでした。
 私の親にも物心がついた頃から、今まで吃音の問題で苦しんでいたことを話しました。母は、私の吃音には気づいていましたが、これほどまでに深く悩んでいたとは、思っていなかったようで、「気づいてやれなくてごめんね…」と涙を流していました。今では、私の良き理解者です。
 子どもを通じて、友達になったママにもことばが出にくいこと、電話が苦手なことを話すことができました。
 育児雑誌にも吃音のことを書いて投稿してみました。(掲載されるかどうかは分かりませんが…)
 区の子育て支援センターにも、どもる人が子どもを育てる上で、不便なこと、悩んでいることを相談に行きました。職員の方がとても親身になって、話を聞いてくれ、私でも無理なく参加できる、子育ての集まりを紹介してもらうこともできました。
 新年度からは、モニターの仕事も始めます。仕事の中には、座談会への参加という、抵抗のあるものもあるのですが、ぜひ、挑戦してみようと思っています。
 自分のことが語れるようになってから、私の気持ちは随分変わったような気がします。自分のことを隠さず話すことで、その後がすごく楽になり、前に一歩踏み出していけるのだと思うのです。
 「別にどもったっていいじゃない。吃音のことをもっと語ってみよう」
 そんな気持ちが、今の私の背中を押しています。
 私にだってどもる権利はあるのだから…。
 でも、いざ言おうとしても、「吃音のキ」「どもりのド」が言いづらい。せっかく言おうとしているのに…。これでは、私がどもるということがちゃんと相手に伝わるのだろうか。今ではそんな心配すらしているのです。まあ、言い方や方法は他にもあると思うし…。自分のことが分かってもらえればいいのだから。
 私の「吃音者宣言」は、今、始まったばかりです。
 お二人の先生方の体験談を通して、私自身の吃音とのかかわり方も、また一歩前進したように思います。
 これからも吃音といいおつきあいができたら…。そんなふうに今思っています。(「スタタリング・ナウ」2001.5.19 NO.81)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/05/06

思えば遠くにきたものだ〜ひとりのビデオジャーナリストとの出会い〜

 今、紹介している「スタタリング・ナウ」NO.68の巻頭言のタイトルは、〈仲間、この素晴らしいもの〉でした。吃音とともに生きる覚悟をした21歳のときから今まで、本当にたくさんの人と出会ってきました。一度きりの出会いもあれば、ずうっと続いているものまで、偶然もあれば必然もある出会いの中で、僕は生かされてきたなあと思います。
 今日、紹介する関口耕一郎さん、偶然、本屋でみつけた『新・吃音者宣言』の本のタイトルに惹かれて、会いに来てくださいました。ちょうど、中学校の同窓会があり、そこにもついてきてくれたこと、思い出します。さらに、吃音親子サマーキャンプに助手を連れて参加し、たくさんの影像を残してくれました。ドキュメンタリーとしてひとつの作品にして、放送局に売り込もうとしておられたのですが、残念ながら引き受ける放送局はなかったようです。今、吃音はかなり取り上げられるようになったので、今だったら、関口さんのドキュメンタリーが採用されていたかもしれません。
 私のところには、竹内敏晴さんが参加した時の第20回吃音親子サマーキャンプの記録としてDVDが残っています。本当にありがたいことでした。今、どこでどうされているでしょうか。私たちは、しつこく、活動を続けていますよ、とお伝えできればと願っています。

  
思えば遠くにきたものだ
               関口耕一郎 (東京都・ビデオジャーナリスト)


 朝6時に東京の家を出て9時間、鈍行電車に揺られ大阪に着いたのは午後の3時を過ぎていた。新幹線だったらすぐだが、さすがにずいぶんと遠いところに来たような気がする。数週間前、本屋で偶然見つけた本が僕をここまで運んできていた。
 「シンキツオンシャセンゲン?」
 初めてその本を見つけたとき読み方さえ定かではなく、一体何を宣言しているのかと思い、なんとなく手に取っただけだった。吃音について何か知っていたわけでも、興味があったわけでもない。だいたい、この「新・吃音者宣言」という本を読むまで、どもりに悩んでいる人がいるということさえ知らなかった。
 どもり。その一つの共通点によって作られている世界は驚くほど広く深い。普段何気なくしている人とのコミュニケーションが、どもるということにより徹底的に意識され、悩み、受け入れ、対立し、そして一つの文化にまで高められていた。そしてそこには、どもりに悩んでいる人だけではなく、すべての人にとって、人との関係や家族、それに自分自身を捉え直し、自分らしく生きていくためのヒントがあるように僕には思えた。
 実際に見てみたい。本を読み終わったとき、そう思った。だいたい格好良くどもるって、どんななんだ? まだアルバイトで生計を立てている僕にとっては大阪は遠いが、つい最近からビデオジャーナリスト(映像版のルポライターみたいな物)として生きていこうと決心した僕にとって、これほど心を揺さぶられながら、大阪に行かずに済むわけがなかった。
 大阪、森ノ宮駅の近くにあるアピオ大阪。その一室で、毎週金曜日午後6時半からの集まりが行われていた。高校生から普通のおじさんまで、これといって共通点のない人達。何も知らずにここに来たら一体どういう集まりかわからないだろう。
 初めて大阪吃音教室に参加された方が二人、最初に自己紹介があり、それから今年度一回目の集まりということで、自己紹介ゲームが行われた。吃音教室といっても、堅い雰囲気はない。リラックスしたもので、時々笑いも起きながら、それぞれ各自のことを話す。
 当たり前の話だが「どもり」という共通点はあってもいろいろな人がいる。よくしゃべる人もいるし、静かな人もいる。話し方もいろいろで、僕なんかよりも全然なめらかに話す人もいれば、つっかえつっかえ話す人、なかなか言葉が出ない人もいる。中にはどもりを楽しんでいるとしか見えない人もいる。格好良いどもり方かどうかはわからないが、確かに思わずその人の話を聞かずにはいられないというような物もある。つっかえるタイミングが絶妙というか、滑らかに話される言葉よりもパワーがあるというのだろうか。
 いろんな人がいるのだが、それでも一つ共通点というか、この集まりの中に流れる雰囲気という物があるように思える。それは、お互いの話をちゃんと聞こうとするゆっくりとしたペースと優しさである。同じ悩みを持った事のある者同士だからこそ持てる思いやりという物なのだろうか。そのペースの中にただ身を置いているだけで、僕も少し癒されたような気がした。
 会が終わった後、近くの喫茶店に暇な人は流れていくので、僕も付いていった。ビールやらコーヒーやら、自分の好きな物を飲んだりしながら、おしゃべりである。初めて来た人もすっかり溶け込んでいた。僕はしゃべるのがあまり得意ではないので、あまり話せなかったけど(ジャーナリスト失格であるが)カレーを食べて、居心地の良い時間を過ごすことができた。また、来月には行こうと思う。僕が使うのは言葉ではなく映像という道具だけど、この集まりの中から何かをすくい取れるといいなと思っている。(2000年4月7〜9日に取材)

 日本吃音臨床研究会の活動をビデオに撮り、記録に残して紹介したいと取材を申し出て下さり、金曜日の大阪吃音教室だけでなく、翌日行われた竹内敏晴さんのからだとことばのレッスンを土・日と2日間にわたって取材されていた。
 新しい出会いに感謝したい。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/03/04

芹沢俊介さんの書評〜吃る言語を話す少数者という自覚は実に新鮮である〜

 「スタタリング・ナウ」2000年4月 NO.68の巻頭言を紹介しました。津市に住む僕の同級生がみつけてくれた、教育評論家・芹沢俊介さんによる『新・吃音者宣言』の書評を紹介します。
 毎日新聞社発行の雑誌『エコノミスト』(2000.2.29)に掲載されたものです。少数者の誇り、というものは確かに僕の中にあります。それを、このように第三者から言っていただき、うれしい気持ちでいっぱいでした。記事と、文字起こしをしたものとを紹介します。

  
新・吃音者宣言
  伊藤伸二著  芳賀書店  1600円
吃る言語を話す少数者という自覚は実に新鮮である
                          評者・芹沢俊介(評論家)


芹沢さんの書評  長い吃音へのアプローチの歴史は吃音と吃音者を分離し、吃音症状にのみ焦点をあてた歴史だった。症状の消失、改善に一喜一憂するその陰に吃る主体である人間が置いてきぼりにされていたと著者は述べる。
 著者は三歳ごろから吃りはじめた。しかし吃るということが、悪いこと、劣ったことだという意識をもった(もたされた)のは小学校二年生の秋の学芸会のときからであったと書いている。成績優秀だった著者は、ひそかに学芸会の劇でせりふの多い役がつくのではないかと期待していた。だがまわってきたのはその他大勢の役でしかなかった。
 落胆した著者は、友だちに、伊藤は吃りだからせりふの多い役をふられなかったのだと言われ、言いようのない屈辱感を味わう。そして教師への不信とあいまって稽古期間中に、明るく元気な自分から暗くいじけた自分に変わっていってしまった。いじめの標的になり、自信を喪失し、自分が嫌いになっていった。吃ることを自己存在を否定する核に据えてしまったのである。人前で話すこと、人前に立つことを避けるようになった。自己をも喪失した状態になっていったのである。
 著者はすべての不幸の原因は吃音にあると考え、必死に吃りを治そうと試みる。だが治そうとすればするほど、逆に自分の居場所を失うことにやがて気がつくのだ。
 この本はそこから吃ることの全面肯定にたどりつくまでの、著者の涙と笑い、苦しみと喜びの軌跡が綴られている。吃ることを症状として自己の外に置いてしまったことの内省のうえに立った、吃音の自分への取り戻し宣言である。
 吃る自己の全面的受け入れにはじまり、吃る言語を話す少数者としての誇りをもって、吃りそのものを磨き、吃りの文化を創ろうという地点まで突き進むのである。負の価値としての吃りの解体が目指されているのである。
 吃る言語を話す少数者という自覚は実に新鮮である。こうした自覚にいたるにはどうしたらいいか。
 まず吃音症状に取り組むという姿勢から離れること、吃音症状と闘わないこと、矯正の対象にしないことである。吃ることをオープンにしていくことも大切だ。いまでは幼稚園段階で吃音を意識する子どもたちが出てきている。親は子どもと吃音について話しあうために、自己の内部にある境界線を壊しておく必要があるだろう。
 さらには「吃ってもいい」を大前提に吃音を磨いていくには、吃音者は自分の声に向き合うという課題も生まれてくる。言葉とは何かを考えることも大切になってくる。長い間、虐げてきた自分の吃り言葉に無条件でOKを出すと、このように様々な喜びに満ちた未知が開けてくる。
 この本は意図された自分史ではない。そのときどきに発表されたエッセイの集積が、自分史を構成するまでに熟したものだ。子育て論、自分育て論に通底する爽快感あふれる一冊。
  本の著者  伊藤伸二(いとうしんじ)
    伊藤伸二ことばの相談室主宰。
    日本吃音臨床研究会会長
                  (2000.2.29 エコノミスト〈毎日新聞社発行〉)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/02/26

多くの仲間に支えられて

 先日、2023年度も継続して購読していただきたいとのお願いの手紙を同封して、毎月のニュースレター「スタタリング・ナウ」NO.342を、2022年度の購読会員に送りました。 今日、郵便局から、送金の第一報が入りました。ニュースレターが届いてすぐ手続きをしてくださった方からの送金でした。本当にありがたいと、感謝の気持ちでいっぱいです。
 吃音についての僕の思い、どもる人やどもる子ども、その保護者の体験、ことばの教室担当者の実践、さまざまな領域の方との対談、寄稿文など、吃音やことば、生き方などをテーマにしたニュースレター「スタタリング・ナウ」を発行したのは、1994年6月でした。 コロナ禍で対面での行事がストップする中、これまでの「スタタリング・ナウ」をブログでほぼ毎日紹介し続けてきましたが、まだ NO.68までしかできていません。今、NO.342なので、とても追いつけそうにありません。
 「スタタリング・ナウ」の前には、「吃音とコミュニケーション」という名前のニュースレターを発行していました。そのときからの読者の方も大勢いらっしゃいます。たくさんの方に、長い間、支えていただいていることを実感しています。
 今日は、「スタタリング・ナウ」2000年4月 NO.68の巻頭言を紹介します。
 故郷、三重県津市での小中学校時代の友人からの1枚のFAXが、ひとりぼっちで何の楽しい思い出もない故郷のイメージを変えてくれました。

仲間この素晴らしいもの
           日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 「小、中、高校と一緒だった分部紘一です。先週、中井君から連絡が入り、エコノミスト誌に出ていた「新・吃音者宣言」の書評を拝見しました。早速、中根、行方、尾崎、守田…、石田秀生先生にファックスを入れ、君の出版を紹介させていただきました。中根君は、新聞などで見て、貴兄のこれまでの活躍、出版もよく知っていました。津市立図書館に「吃音と上手につきあうための吃音相談室」(芳賀書店)がありましたので、昨日借りてきました。妻と一緒に読ませていただきます。今後の一層のご活躍祈念します」

 先だって、一通のファックスが入った。一瞬、信じられない思いだったが、温かい幸せな気分が胸一杯にひろがった。直ぐに彼に電話をしてみた。
 「シンジの本には孤独だったと書いてあるが、お前とは高山神社で遊んだぞ。津高の教頭になっている中条もシンジのこと覚えていたぞ」
 吃音に悩み始めた小学校の2年生の秋から、ひとりの友達もなく、21歳まで、ひとりぼっちで生きてきたと信じ込んでいた。孤独で生きていた頃は、級友は誰も僕の存在など意識はしていないだろう。完全に忘れられた存在だと思っていた。
 このファックスと電話が一気に僕をその頃へと引き戻してくれた。しかし、名前を挙げてくれた10人の仲間。分部君からすると僕をよく知っているだろうと思った人達だろうが、僕が思い出せたのはわずかに2人だった。中学、高校の卒業アルバムを出して、名前をたよりに探したが、全く思い出せない。仲間と遊んだこと、何かをしたことが、すっぽりと記憶から抜け落ちている。苦しく、悲しかったことだけが、鮮明に思い出されて、記憶を強化してきたのだろうか。
 確かに、彼たちの遊ぶ場所にはいたのかもしれないが、主体的に遊んでいたわけではなかったのだろう。常に僕は人の後で目立つ事なく、そっとついていっていたのだろう。楽しかった記憶はない。
 数日後に、故郷の津市で、急遽ミニ同窓会がもたれたようだ。僕の本『吃音相談室』を酒のさかなに飲んだと、再び分部君から僕が湯布院のエンカウンターグループにいっている間に電話が入った。僕の逃げの人生のはじまりとして鮮明に記憶している卓球部をやめるエピソードにある、片思いの彼女は一体誰なのか、そのあてっこで盛り上がったのだと言う。みんなが一度シンジに会いたいと言っていると、その電話は終わったのだった。
 誰も、僕のことなど気にかけていてくれないし、覚えている人などいないと思っていた。それが一冊の本のおかげで、僕は決して忘れられた存在ではなかったのだと知った。どもりを否定し、自分をも否定して生きていたから、仲間の気持ちも、思いも、僕には触れることはなかったのだ。
 今年の1月3日。島根県の玉造温泉に長期に滞在していた僕は、34年振りに初恋の人に会った。34年の年月は一瞬のうちに縮まり、次から次へと話題はひろがり、6時間以上も話し込んだ。21歳の僕は、今とは違ってかなりひどくどもっていた、それでも一所懸命話していたと彼女は言う。
 中学、高校時代の仲間からの思いがけない連絡。34年振りの初恋の人との再会。20世紀の最後の年に、奇跡のように起こったふたつの出来事。吃音を忌み嫌い、吃音を否定してきた暗い闇の人生を全て照らし出せたのは、新しく吃音とつきあう歩みを大きく踏み出した象徴でもあるだろう。
 日本吃音臨床研究会の中で、共に活動する仲間たち。大阪や神戸の吃音教室の仲間たち。吃音親子サマーキャンプにスタッフとして集まって下さる仲間たち。たくさんの印刷物の発送に休日に集まってくれる仲間たち。
 さらに、私たちの活動に共感し、支えて下さる幅広い多くの人々。多くの仲間がいる。
 吃音が縁で出会う仲間を大切にしていきたい。
(「スタタリング・ナウ」2000年4月 NO.68)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/02/23

「スタタリング・ナウ」入稿の日に

 今日、ほんの数分前に、今月号の「スタタリング・ナウ」の原稿をプリントパックに入稿しました。ぎりぎりまで推敲し、何度も読み直し、声に出して読んで確かめ、そうしてできあがった原稿です。今月号もなんとかしあがったと、ほっとしているところです。毎月、月初めは、こんな思いをしています。
 今日、紹介するのは、「スタタリング・ナウ」NO.63(1999年11月)です。「書くことの喜びと苦しみ」とのタイトルは、まさに、僕の今の心境です。これを書いたのは、1999年で、「スタタリング・ナウ」は63号でした。それから24年、今月号は、342号になりました。

  
書くことの喜びと苦しみ
                日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 さて、巻頭のこの文章。この号は何を書こうか。これまでどれだけ苦しんできたことか。ワープロを自分で打つようになってからは、随分と楽になったが、以前は私が書きなぐったものを、周りの人が清書をしてくれる。そのままでは、とても推敲出来ないからだ。それにまた、手を入れる。また清書する。と、何度も繰り返してやっと出来たことが幾度もあった。周りの何人かの人に感謝したい。今、自分でワープロを打って推敲できる分、周りの人の手を煩わせることはなくなったが、書く苦しみは相変わらずだ。
 吃音をテーマにしたこの一面。いつ書くネタが切れるか、書けなくなるか、いつも不安だ。やっと書き上げ、印刷に廻すときは、ほっとした気持ちになれるが、すぐに1か月は回ってくる。
 1か月に一度、この程度の文章を書くことでもこれだけ七転八倒するのだ。1週間に一度のコラム、毎日連載の記事などを書く人々の頭は一体どうなっているのだろう。
 締め切りギリギリになっても、書くテーマが見つからず、今回はもうだめだ、とても書けないと何度口にしたことか。「そんなにしんどいなら、何もあんたが書くことはないではないか」、そう思われても仕方がないのだが、やっぱり書いている。なぜか。それは、幸運としかいいようがないのだが、幅広い日本吃音臨床研究会の活動があり、多くの人との出会いがあるから書くことが思い浮かぶ。また、この間のあの文章がよかった、励まされたなどと言って下さる人がひとりでもいると、ついうれしくなって「やっぱり僕が書こう」となってしまう。
 この書く苦しみを人に押しつけたくはないし、また、この喜びを手放したくもないのだ。
 こんなわけで、10年以上もひいひい言いながらも、ほとんど欠かさずに毎月一本はエッセイのようなものを書いてきた。その数は150編以上になる。
新・吃音者宣言 表紙 今回、それらを集めて、出版することになった。どれもがいとおしいが、全て載せるわけにはいかない。それぞれに思い入れがあり、そのひとつひとつの文章が、僕は落とすなよと迫ってくる。悩んだ揚げ句、79編を選んだ。
 毎月毎月のノルマは確かに厳しい。何を書いてもいいということでもない。テーマは吃音と決まっている。そして、その月の特集らしきものもある。できればその特集にあった文章としたい。
 このように苦しみながら書いてきたことだが、書き続けることで得をしてきたことは随分多い。新聞や本を読むスピードは速くなった。新聞の隅から隅まで読むのにというより、目を通すにもそれほど時間はかからない。オーバーかもしれないが、必要な記事が向こうから飛び込んでくると言ってもいい。講演などを聞いても、すぐに、自分の書きたい文章に結びついていく。アンテナが常に研ぎ澄まされた状態になっているのだ。意識をしているわけではないが、日常感じたり、起こったりしている事柄は、常に『スタタリング・ナウ』の一面をフィルターにして私の中に入っているのだといえるのかもしれない。そういうと、とても窮屈のように思われるか知れないが、これはこれで結構楽しいのだ。かくして、今日も私の頭の中には、何かがインプットされていく。

 こう独白めいたことを書いてきて、気持ちが楽になった。こんなに、楽な気持ちでワープロに向かうのは初めての経験のように思える。書けない自分をさらけ出す。まとまりのない文でも、今回は許してと甘えているような、そんな気持ちさえしてくる。
 乱筆乱文お許し下さい。(『スタタリング・ナウ』NO.63 1999年11月)


 この巻頭言で書いているエッセイは、『新・吃音者宣言』(芳賀書店)として、出版されました。残念ながら、絶版になっています。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/02/06
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