伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

吃音者宣言

吃音ワークブック

workbook cover 吃音親子サマーキャンプの集合写真が表紙を飾る、『親、教師、言語聴覚士が使える、吃音ワークブック』(解放出版社)。この本のために、何度合宿をしたことでしょう。その前に出版した『どもる君へ いま伝えたいこと』の出版のための合宿から数えると、かなりの回数になります。毎月のように、全国から集まって、原稿や実践や取り組みを話し合い、形あるものにしていきました。今から思い出しても、あのときのエネルギーは相当なものでした。16人の仲間との長時間にわたる討議の結晶といえるワークブックです。
 今日は、このワークブックが完成した安堵感と充実感があふれる「スタタリング・ナウ」2010.8.22 NO.192 を紹介します。まず、巻頭言から。

  
吃音ワークブック
                     日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 私は今、ひとつの長い旅を無事に終えた後の安堵感と、さわやかな充実感に包まれている。
 1965年の夏、「吃音を治したい」との苦悩の人生から、治らないのなら「どもってもまあいいか」と、どもる事実を認める、ゼロの地点に私は立つことができた。その後の私の人生と、たくさんのどもる人の人生、100年の吃音治療の歴史や、アメリカ言語病理学を検証し、問題点を整理した。そして、ことばの教室などでどもる子どもの臨床に携わる教師の仲間と、「吃音を治さない、治せない」と、再び、言い切る本を出版できたからだ。
 「吃音は治る、治せる」の長い吃音問題の歴史に終止符を打つために、私は「吃音を治す努力の否定」から、「吃音者宣言」へと進んでいった。
 1976年に『吃音者宣言』(たいまつ社)を出版した。「吃音を治す」発想しかなかった時代に、この本は「吃音を生きる」に立ちきった、画期的なものだったと言えるだろう。批判や反発があったものの、多くの人の共感を得たことは、版を重ねて8千冊も売れたことでも分かる。この私の一連の動きを、「伊藤の提起のせいで、日本の吃音研究臨床は遅れた」と一部の言語障害の研究者から名指しで批判されたこともあった。
 では、日本は、アメリカに比べて遅れたのか。
 確かに、吃音を研究する大学が日本ではほとんどないに等しい。言語聴覚士の専門職者が制度化されたのも、近年のことである。つまり、吃音の研究者・臨床家が欧米諸国に比べて極めて少なかった。これは、日本の吃音についてむしろ幸いだったと私は思う。セルフヘルプグループの活動が活発にならざるを得なかったからだ。そのために、どもる当事者が、自分自身で吃音について深く考え、取り組み、ひとつの方向性を出すことができた。ことばの教室でも「吃音を治す、改善する」にとらわれる人が多くなかったのは、そのためだろうと思う。
 では、「治す、改善する」にこだわるアメリカ言語病理学によって、アメリカの人たちは、吃音が治り、改善され、日本のどもる子どもやどもる人に比べて、幸せに生きられ、吃音の問題の解決ができているのかというと、そうはなっていない。
 その事実は、私が大会会長として開催した1986年夏の京都での第一回吃音問題研究国際大会以来、世界の情報が集まり、3年ごとの世界大会で討議され、明らかになっている。むしろ、日本の私たちの方が、「吃音と共に生きる」ことについての実践は先進的で、世界から注目されてもきた。
 「吃音が治る、改善される」ことに関して、言語病理学が発展しているアメリカも、そうではない日本もまったく変わりがない。治療法といえるものすらない現実の中では差がないのだ。
 このような吃音治療の100年以上の歴史を総括することなく、近年「吃音を治す、改善する」や「流暢性の形成」が、どもる子どもやどもる人の幸せにつながるとして、吃音を治そうとする動きが再び出てきた。インターネットの時代は、「どもりは必ず治る」とするインチキな情報を復活させた。
 また、ことばの教室では、吃音を治したいとの親や子どものニーズに応えるべきだとの声に、見よう見まねで、「流暢性形成」のために、危険な「随意吃音」などを指導するところが出始めたとの話を耳にするようになった。
 「歴史は繰り返す」とは多くの分野で言われることだが、吃音は原因も未だに解明できず、治す薬も手術もないなど、確実な治療法が確立されていない。にもかかわらず、「治す、改善する」が日本でも復活しつつあるように私には思える。
 1976年の『吃音者宣言』の時は、日本の実情だけをもとに、セルフヘルプグループ10年の活動からの問題提起だった。しかし、それから34年、私たちは幅広く活動し、世界大会を開いて、世界の実情も検証している。さらに、様々な分野から多くのことを学び体験を整理した。子どもたちのための吃音親子サマーキャンプの活動も加わった。
 34年間熟成したものを、教師の仲間と長い時間討議し実践する作業は、長い旅だった気がする。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/03/30

隠れ蓑と劣等コンプレックス

 岸見一郎さんの「スタタリング・ナウ」読者へのメッセージを紹介しました。
 アドラー心理学では、劣等性と劣等感、劣等コンプレックスを区別します。劣等性は客観的に何か劣っていることです。しかし、劣等性があっても劣等感をもつかどうかは人それぞれです。全く平気な人もいます。アドラー心理学は、劣等感ではなく、「劣等コンプレックス」を問題にします。ある劣等性に強い劣等感をもち、「仕事、人間関係、愛」の人生の課題から逃げることを、「劣等コンプレックス」と言います。課題から逃げる目的のために、劣等性を使うのだといいます。この考えは、とても厳しいものです。吃音の場合、吃音を言い訳にして、人生の課題から逃げることであり、僕は、それを吃音を「隠れ蓑」にしていると表現しています。1976年、『吃音者宣言―言友会運動十年』の本の中で「隠れ蓑」について書いています。
 「スタタリングナウ」2010.4.20 NO.188 に掲載している『吃音者宣言―言友会運動十年』のプロローグを紹介します。
 今、僕は、言友会とは関係がなくなり、また「吃音者」という表現も使いませんが、ここでは、原文のままを紹介します。

  
プロローグ―吃音者宣言の目指すもの―
                       伊藤伸二

 どもりに悩み、不本意な生活を送ってきた私たち吃音者は、一気にその悩みを解消し、有意義な人生を送ることを夢見た。どもりを治したいと願った。その夢を、公的な相談機関がない中で、民間のどもり矯正所に託した。しかし、どもりは治ると宣伝するどもり矯正所で、私たちのどもりは治らなかった。そこで、私たちは長期にわたる努力ができる言友会をつくって、どもりを治そうとした。しかし、どもり矯正所が、どもりを治せなかったように、言友会10年の活動の中でも、どもりを治すことはできなかった。
 私たちは、どもりがr治っていないという」事実を直視する。一方、言友会の活動の中で、どもりつつも明るく生きる吃音者が育ったことを評価した。どもりを持ちながら、明るく生きる人が多くいる事実と、どもりが治っていない事実を前にしても、それでもなお、「どもりを治すことにこだわり続ける」のか、それとも、「どもりを持ったまま自分らしく生きることに確信を持つ」のかの選択を私たちは迫られた。
 私たちは後者の道を選んだ。治すことにとらわれ、治そうと努力すればする程悩みを深めた経験を持つ私たちは、治す努力を否定した。いつまでも、どもりにこだわり続け、そのことでエネルギーの大半を使ってしまい、人間として大切な日々の社会生活がおろそかになってしまうことを恐れたからである。
 どもりは隠そうと思えば隠し続けることができる。人間として当然すべき責務を放棄し、主張すべきことも発言ぜず、人生のあらゆる場面で消極的になっていれば、自分のどもりを隠し通すことはできる。どもりの苦しみから逃れるために、自分を殺し、相手に迷惑をかけても、「どもりだから仕方がない」と言い訳する甘えを私たちは持っていた。自分に甘え、社会に甘える姿勢が続き、逃げの人生を歩んだのだった。
 どもっているのはあくまで仮の姿であり、近い将来どもりが治れば、一気に本来の自分をとり戻し、楽しい生活を送ることができる。「どもりさえ治れば」とますますどもりの殼に閉じこもっていった。そのような生活の中では、都合の悪いことが起これば、それを全てどもりのせいにしてきた。あれ程自分を苦しめたどもりが、逃げの人生の中では、自分を守るための隠れ蓑の役割を果してしまったのである。
 隠れ蓑を捨て、逃げの人生から脱皮するため、逃げている自分、甘えている自分を自覚することから私たちは始めた。逃げている自分を自覚し、意識的に生活の中で逃げない選択を続けていると、これまでできないと思っていたことが、思ったよりできる自分に気づいた。今までの甘えた、逃げた自分の生活態度を変えることは苦しい。またどもることに対する不安や恐れは一朝一タに消えるものではない。不安を持ちながらも、頼りない自分を目覚しながらも、恥をかきつつ自分を出していくしかなかった。
 一方、私たちは、この吃音者の生き方を阻むものにも目を向けなければならない。それは、長いどもりの歴史の中で育まれてきた、一般社会のどもりに対する誤った通念である。「恥ずかしい」「不自由」「みっともない」「小心」「神経質」などのイメージが社会にあり、「どもりは努力すれば治る」という考えも根強い。私たち吃音者が、どもりを持ったまま明るく生きることを、それらが著しく阻害している。私たちは、どもりが治った後の人生を夢みるのではなく、どもりを持ったままいかに生きるかを考える一方、このどもりに対する社会通念を変えていくことに取り組まなければならないと考えた。
 言友会は、10周年を記念した全国大会で、社会にも、自らにも、どもりを持ったままの生き方を確立することを宣言した。この吃音者の生き方を通して、どもりに対する社会通念を変えていこうとしているのである。どもりが、どもりとしてそのまま認められる社会の実現こそ、私たちの願いなのである。
 その道は遠くとも、行かねばならない。
      『吃音者宣言―言友会十年の活動』(P12〜P14)伊藤伸二 たいまつ社 1976年


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/03/21

人生の課題

 僕たちは、吃音ショートコースという2泊3日の体験型のワークショップを開催してきました。
その分野の第一人者をゲストに迎え、話を聞くだけでなく、体験することによっての学びを深めてきました。
 2009年10月10〜12日に開催した第15回吃音ショートコースは、「アドラー心理学」がテーマでした。講師は、岸見一郎さん。休憩時間も惜しむかのように、誠実に参加者と話をし、関わってくださった岸見さんの姿が印象に残っています。
 その後、『嫌われる勇気』が大ベストラーになって、「アドラー心理学」の大ブームが訪れることになるとは、岸見さんも私たちも、そのときには想像もできないことでした。
 そのときの吃音ショートコースを特集した「スタタリングナウ」2010.4.20 NO.188 を紹介します。まず、巻頭言からです。

  
人生の課題
                  日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 人は、変わりたいと思っていても切羽詰まらないと変わる決心がつかないものだと経験から思う。
 小学2年生から私は吃音に悩み始め、深く悩んではいたものの、まだ余裕があったようだ。音読や発表から逃げることも、クラスの役割から逃げることもできたのだから。
 吃音を隠し、話すことから逃げさえすれば、嫌な体験をせずに済む。自分の身を守るために私は、「逃げる」ことをライフスタイルにして、21歳の夏まで生きた。吃音に深く悩み苦しかったが、今から考えれば平穏な毎日だったろうと思う。
 吃音の苦悩から解放される一番確実な方法は、吃音が治ることだ。21歳の夏に吃音を治そうと訪れた吃音矯正所で必死に取り組んだが、私だけでなく、全ての人が治らなかった。
 私はこれまで、「どもりが治ってから〜しよう」と人生の課題から全て逃げてきた。アドラー心理学の立場から言うと、吃音の悩みに逃げ、吃音を理由に、勉強に努力することや人間関係の葛藤から逃げてきた。生きることを怠けていたのだ。
 治らなかった現実を前に、これまでのように話すことから逃げ続けるのか、どもりながら話していくのかの選択を迫られた。家が貧しかったので、私は、大学の授業料を含め、東京での大学生活の一切を自分で工面しなければならなかった。話すことから逃げていた私の大学生活は、話さずに済む住み込みの新聞配達員からスタートしていた。

しかし、夏休み、吃音治療を受けるため、新聞配達店の寮を出て、吃音矯正所の寮に入った。30日間の治療期間を終えると、今度は吃音矯正所の寮を出なければならない。吃音が治らなくても、アルバイトをしなければ、東京での生活ができない。切羽詰まった状況の中で、私は自分を変えようとした。吃音から逃げない決心をして、新聞配達店に戻ることを止めた。そして、アルバイト生活を送るにあたって、ふたつのルールを決めた。
 どんなに苦しくても1か月は我慢することと、どんなに待遇が良く居心地がよくても1か月で辞めることだ。対人恐怖で新しい人との出会いが怖かったから、人に馴れていく意味で、このルールは私には必要だった。
 たくさんの種類のアルバイトをしたが、その中で、神田駅のガード下にあったキャバレーのボーイのアルバイトが一番辛かった。客の注文を調理場に通すとき、いつも「・・トトトトとりのカカ唐揚げ、ゴゴゴ五人前」となった。早く言えと怒鳴られ、殴られたこともあった。しかし、親切なホステスや支配人のおかげで、1か月なんとか耐えられた。この1か月の毎日は苦しくて、明日辞めよう、今日辞めようの連続だった。
 吃音を隠し、話すことから逃げ、人生の課題から逃げていた方が、はるかに楽だった。しかし、その生活では、生きている実感がもてなかった。この1か月は、辛かったが生きている実感がもてた。隠し、逃げる生活にはもう戻りたくない。
 アルバイトと同時にセルフヘルプグループのリーダーとしての活動も続け、私はアドラー心理学で言う、共同体感覚を身につけていった。
 この私の逃げの人生をそのまま文章にしたのが、言友会創立10年目に出した「吃音者宣言」だ。
 1976年、たいまつ社から出版された『吃音者宣言―言友会運動十年』を読み返してみると、吃音をとりまく状況が何も変わっていないと同時に、私の考え方も、40年前と全く変わっていないことに驚く。
 かなり前にアドラー心理学に出会ったとき、共同体感覚や劣等感などのキー概念が、私が苦悩の中から考えてきたことと、とても似ていると思った。特に、「人生の課題から逃げる」、劣等コンプレックスは、私の吃音人生そのものだ。
 昨秋の吃音ショートコースで、念願の「アドラー心理学」を仲間に紹介することができた。アドラー心理学はある意味厳しい心理学だ。しかし、私たちの仲間なら、共感し、受け止めてくれるだろうと信じていた。
 岸見一郎さんが、自分の人生を語りながら話して下さる「岸見・アドラー心理学」に私たちは聞き入り、大きく頷いたのだった。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/03/18

言友会誕生のエピソードと言友会活動の思い出

吃音者宣言 言友会運動十年 田辺一鶴さんを特集している「スタタリング・ナウ」2010.1.23 NO.185 を紹介しています。一鶴さんや、一鶴さんが開いた「どもり講談教室」が、言友会誕生のきっかけになっていることは、何度か書いていますが、今日は、1976年出版した『吃音者宣言』(たいまつ社)に収録している、《言友会誕生のエピソードと言友会活動の思い出》を紹介します。一鶴さんとのつながりの中で、「スタタリング・ナウ」2010.1.23 NO.185 に掲載したものです。
 僕は、1992年、長年続けた言友会の全国組織の会長をやめ、言友会から離れました。セルフヘルプグループとしては、NPO法人大阪スタタリングプロジェクトの活動を継続し、日本吃音臨床研究会という、セルフヘルプグループより幅広いネットワークをつくり、現在に至っています。しかし、言友会の創立者である事実には変わりがありません。
 今日、紹介するのは、会の創立5年目ぐらいの時に書いた文章です。読み返してみると、文章表現がおおげさで、気恥ずかしい思いはありますが、誕生までのエピソードを、ひとつの資料としてそのまま掲載することにします。(「スタタリング・ナウ」2010.1.23 NO.185)

  
言友会誕生のエピソードと言友会活動の思い出
                              伊藤伸二


どもり講談教室での出合い
 偶然に会い、なんとなく別れてゆく淡白な出会いの多いなかで、その人と私の出会いは何かが起こりそうな、そんな殺気をはらんでいた。
 民間矯正所に籍を置き、「どもりが治るのならなんでもやってやろう」と意気盛んだった私は、「講談のリズムでどもりを治そう」との田辺一鶴さんの呼びかけにもすぐに応じていた。
 今でこそテレビ・寄席などで大活躍の一鶴さんも、トレードマークのヒゲがまだ生えやらぬほんのかけ出しだった。どもりを治すために講談の世界に入り、講談ではどもらなくなったという実績をふまえての呼びかけだけに、かなりの人が集まっていた。
 1人での個人参加が多いなかで、ひときわ声高にしゃべる集団参加の一団があり、その声がそれでなくてもおとなしいまわりの人達をますますおとなしくさせていた。私が矯正所仲間を大勢ひきつれて顔をみせていたのだった。一応の説明が終った時、おとなしいはずの参加者のなかから異質な人間が前に出て、「先生」と、大声を出した。これまでの説明の間にはみかけなかった顔だった。医者と教師以外の「先生、先生」に不快感を持っている私には、それだけでいやになっていた。
 「私もどもりを治すためのこのような会のできるのを待っていました。私も一生懸命やりますから頑張りましょう」と一鶴さんに握手を求め、贈り物まで手渡した。説明も聞いていないで、私達大集団をさしおいての大きな態度に私達は相当頭にきていた。
 矯正所仲間のなかで、どもることにかけては質量共に1番と折り紙つきのK君には、態度そのものより彼の口から飛び出す流暢な日本語にがまんならなかった。会合が終わるとK君はその人に詰め寄っていた。「君は全然どもらないのになぜこの会に来たのか?それに贈り物なんかして何か魂胆でもあるのか」。仲間内では通じるK君のことばもその人には通じなかったかも知れない。しかし、K君の態度からただごとでないことはわかったらしかった。
 一瞬殺気立った空気が流れ、帰りかけていた人も立ち止まった。「なあ、みんなで食事でもしてゆっくり話そうや」と、声をかけたのは今は故人となられた親話会(どもり矯正会)の依田さんだった。冷静に考えれば彼に詰め寄る積極的な理由を見つけられなかった私達は、その言葉に救われた思いだった。むしろK君の森の石松ぶりにおかしさすら感じていた私達は、むろん全員参加でのぞんだ。
 おなかが一杯になったK君がおとなしかったので話ははずんだ。「遅れて来たんで、すわる場所がなかったんです。それで『チョット』と思ったパチンコで、思いがけずにとれた景品を、持って帰るのもめんどうなので渡したのがどうも誤解されてしまって」と、その人はテレて説明をした。大笑いだった。誤解はとれてもK君にとっては、「私も前はひどいどもりで苦しんだんです」のことばだけは納得いかなかったらしい。それだけその人の日本語は確かなものだった。
 この人こそ、言友会の生みの親、長い間東京言友会の会長をつとめ、全国言友会運動の先頭にも立ってきた丹野裕文その人だった。そして民間矯正所の仲間をひきつれてきていたお山の大将は、当時大学1年生の私で、言友会はこの2人の殺気だった出合いから始まったのだった。

矯正所で格闘するどもりたち
 私には、丹野さんがどもるどもらないより、彼が歯学部の学生で家が歯科を開業していることの方に関心があった。私の歯はやぶ医者に徹底的に痛めつけられていたのだった。私はずうずうしくもさっそく丹野さんの家を今度は一人でたずねていた。これが丹野さんと私のつきあいの始まりである。
 私の虫歯が治るころ、一鶴さんの「講談教室」への参加は随分減っていた。また依田さんの親話会も謡曲が中心で若者の心をとらえることはできなかった。
 私の通っていた矯正所といえば、「ユックリ、呼吸を整えて話せば治る」というのが基本で、「わーたーくーしーはー」の、どこか間の抜けた話し方を守る者が優等生ということになっていた。早口でしゃべりまくる私など、基本に忠実でない劣等生であった。まじめな人間からは、「君は本当にどもりで悩んでるのか」とまじめに聞かれもした。
 ここには北は北海道から南は沖縄まで全国各地のドモリストが集まり、社会人の多くが職を捨ててまできていた。中小企業で働く者に、1ヵ月間の吃音矯正のための東京行きは職を捨てることにも等しかった。よくなったと喜んで帰る人に、「あれは一時的なもので、すぐに元にもどるさ」と、3回目というS氏が先輩顔に話すのが印象的であった。でもみんな一生懸命に頑張っていたし、雰囲気も結構楽しいものであった。
 劣等生の私には、いつの頃からかどもりの治る治らないより、どもりの人がこんなにもいて、それぞれ力いっぱい闘っているのだという現実に関心があった。私はどもりがこんなにも大勢いる、ということが大きなショックだったのだ。

吃音者の組織づくりを決心する
 矯正所の有効期間も終り、講談にもあき始めていた私は、赤倉という学生と丹野さんを訪れていた。当時を振り返って丹野さんは、

 「私は講談のリズムによる矯正法というよりも吃音者の会づくりに興味をもち、毎回出席していたが、その間多くの吃音者と知りあいになることができたのである。そしてその中の数名の人とともに親話会の会合に出席し、一鶴氏の講談教室と合併して新たな会を作っては、と提案したが予期に反して猛反対にあってしまった。
 私としても、以前吃音者の会づくりに失敗している経験があるので、新たな会づくりの意欲はなく、また一鶴氏の教室のように会員の減少を見るにつけても、吃音者の組織づくりの至難さがつくづくわかるのである。
 そんなとき私の家へ、一鶴教室で知りあった赤倉智(日大生)、伊藤伸二(明大生)の2人が訪れ、是非とも自分たちで新しい会を作ろうと相談をもちかけてきた。
 しかし、私としても以前の失敗があるので、即座に応ずるわけにはいかなかった。が彼等の情熱と若いエネルギーならばもしかしたら今度は成功するかも知れない、と思う気持ちもあった。
 そこで彼等に質問した。
 『自分はやり出したからには最後までやり通したい。君達にもその意気込みがあるのか?』すると2人は口をそろえて『必ずやり通す。失敗しても最後まで頑張っていく』と熱意をこめて答えてくれたので、『それでは!』と会づくりをする決心をしたのである」。(『泪羅』7号より)

言友会結成
 昭和40年10月、13名のサムライが上野公園に集まった。熱っぽい話し合いに、映画好きのA君は、「血判状を作って誓おう」とまで言い出した。彼こそ最初の脱落者だったのだから、血判状を作っておけばとくやまれる。会の名前をつけるのに相当の時間を必要とした。「わかば」「あすなろ」は紅一点のM子さん。政治好きのK君は、「日本吃音同志会」「吃音撲滅同盟」などといかめしい。50近くの名前が出て迷っていた時、それまで押し黙っていた神野芳雄君が重い口を開く、「ことばで結ばれる……ことばのとも……言友会」このことばで「言友会」は誕生した。
 その後の役員人選では、丹野裕文会長、伊藤伸二幹事長以下、11名全員役員という豪華な体制を作りあげた。
 私達は一日も早く会員を集める必要があった。役員ばかりでは会は動くものではないのだ。
 講談・詩吟・弁論・話し方・社交ダンスのクラブ活動中心の例会は厳しい中にも楽しさいっぱいで、役員の自覚で欠席者はほとんどなく、例会後の喫茶店の語らいがまた楽しく、私達は日曜日の例会が待ち遠しくてならなかった。私達にとって丹野さんはよき先生であり、また、兄貴でもあり、丹野さんの魅力が言友会の全てのような感じだった。それでも1ヵ月もすると、会員が増えていたのに例会参加者は減り、寒い冬の数名の例会はさびしさも一段とこたえた。早くもピンチを迎えたのだ。
 翌41年1月中句、言友会の一大転機を迎えた。丹野さんの投書が朝日新聞に掲載されたのだった。言友会のマスコミ界への初陣であった。

◇サークルへの誘い◇
 「現在、日本の吃音矯正はすべて民間に委託されているが、営利が目的で、真に吃音者のためを考えていないようです。それで都内に住む吃音者有志で言友会を作り吃りを吃音者自身の団結の力で克服しようと試みています。
 会員は現在30余人で、弁論、講談などのクラブ活動を行っています。吃音者の参加を歓迎します」。

 反響はすごく、電話や手紙で問い合わせが殺到し、言友会は役員だけの会からの脱皮に成功した。毎週水曜日開かれていた幹事会に新しい人も加わり、熱っぽい話し合いが続いた。終わったあとのおにぎり屋での一杯こそ若い私達をひきつけていた。会の将来を、また先輩の人生をみんなで考え語るうちによく最終電車に乗り遅れ、近くの会員の家で泊ったりもした。丹野さんのエネルギッシュな言動が会に熱っぽい雰囲気を与え、人間関係も血の通ったものになったり、会は除々に力をつけてきた。

言友会発会式
 昭和41年4月3日、朝日新聞は大スクープをやってのけた。他紙に全く載っていない大きな記事。「力を合わせてどもり克服に励む言友会、今日発会式」3段抜きの大きな扱いに、私たちの2ヵ月にわたる努力がむくわれた思いだった。例会にほとんどの会員が参加し、演劇に講談にと練習にはげんでいたのだった。新聞を見ると私はすぐに丹野さんの家に向った。
 2人で会場に向う車のなかで私達ははしゃいでいた。「あんなに大きく出たんだから200人は来るな」「いや300はかたいよ」やけに車が遅かった。みんなもすでに新聞のことを知っていてうれしそうに準備をしていた。記者席、来賓席は前列に用意した。私といえば300人の大聴衆の前での報告を頭にえがいて胸は高なっていた。
 しかし開始の時間が来ても目につくのは準備をしている会員だけ、30分遅らせても結果は同じで、会員すら全員参加でなく、新聞を見てきた人などほとんどいなかった。
 私たちはここでやっと現実に戻らなければならなかった。やたらと主のない椅子席が目立ち、私はそこに目をやりながらこれまでの会の報告をした。どもる元気もなかった。でも、会員は出席者の少ないのに反発するかのような熱演ぶりだった。中でも演劇部の「模擬国会」の迷演には、笑いとひやかしの声援がとんだ。みんな素直に自分の地を出していたのだ。(了)
(『吃音者宣言〜言友会運動十年〜』より)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/03/10

『どもる君へ いま伝えたいこと』(解放出版社)の書評紹介

 昨日は、大阪日日新聞と産経新聞の記事を紹介しました。今日は、全国ことばを育む会と福岡県言語聴覚士会の、各ニュースレターでの紹介文を紹介します。

☆NPO法人・全国ことばを育む会『ことば』NO.241 (2008.10.28)
  新刊紹介 『どもる君へいま伝えたいこと』 伊藤伸二著 解放出版社 1200円+税
             
どもる君へ 紹介記事3  ことば 小学校5年生から中学生に向けて、やさしく語りかける話し言葉で質問に答える形で書かれた本です。「どもり」という言葉を使っています。
 著者自らの経験に基づいて、どもりについての考え方、自分とのつきあい方、友だちとのつきあい方について述べながら、前向きな生き方を方向付けてくれています。読む人は安心と勇気を感じることでしょう。
 著者の伊藤伸二さんは、小学校2年生のとき吃音に強い劣等感を持ち、深く悩み、どもる人のセルプヘルプグループ・言友会を設立。大阪教育大学専任講師(言語障害児教育)を経て、現在伊藤伸二ことばの相談室主宰、言語聴覚士養成の専門学校5校で吃音の講義を担当されています。今年8月に千葉県ことばを育む会の保護者研修会では講師としてお話していただきました。
 目次から抜粋すると
Q3 どうして私はどもるようになったのですか。私が弱いからですか。
Q7 どもりを治す方法にどんなものがありますか。
Ql3 友だちがどもっている私をからかいます。今はまだからかうぐらいだけど、いじめにあったらと思うと不安です。
Q16 お母さんは話すことに自信がないなら、ほかのことで自信をつけなさいと言います。何をしたら自信がつきますか。
Q21 ことばの教室はどんなところですか。
Qは全部で22あります。
 伊藤さんは「どもるのも悩むのも弱いからじゃない」「弱いことは決して悪いことじゃない」と述べ、「弱さを自覚してる君はすてきだ」と応援のことばを書いています。
 どもることに劣等感を持ち、深く悩みながら治す努力を続け、その後、どもりながら自分のことばを話すことを選んで「思いはどもりながら言っても、相手に伝わる」と実感された伊藤さん。「どもりは自然に変わる。ぼくが出会った人のほとんどは、その人の自己変化力によって自然に変わっていた。」と自分の経験や関わってきたさまざまな人の例なども示し、「どもりが治らなくても、自分なりの人生を豊かに生きることができる。」「どもっても大丈夫、何の問題もない。」と力強く述べています。
 最後にあるメッセージ「君が幸せに生きるために」の中では「自分について知ること、どもりについて知ることは、幸せに生きるために必要なことなんだ」と述べ、どもる子どもが持つ長所・可能性を具体的に挙げています。
 どもることも含めてありのままの自分を認めること、その自分の存在そのものに価値を見い出すことに軸を置く考え方は、大人の私たちにも日常の様々なことの中で忘れがちな大切なことを思い出させてくれます。
 また、小学生の作文や大人が作った「どもりカルタ」、そして作家の重松清氏が書いた推薦文とメッセージ、演出家の竹内敏晴氏が書いた特別寄稿「自分の話し方を見つけるために」などを読んで、どもる人のさまざまな心情に寄り添うことができると思います。
 小中学生のみならず、多くの方に読んでいただきたい本です。(「ことば」編集部・藤原育子)           NPO法人・全国ことばを育む会『ことば』NO.241 (2008.10.28)

☆福岡県言語聴覚士会ニューズレター 2008年10月1日発行
  お薦めの本「どもる君へ いま伝えたいこと」 伊藤伸二著
                        (序文:重松清、特別寄稿:竹内敏晴)
                      解放出版社、\1,200+税(10冊以上は\1,000)

どもる君へ 紹介記事4  福岡源吾聴覚士会ニュース 「伊藤伸二」氏というと、言友会の創設者、吃音者宣言、国際吃音者連盟の設立に尽力、現在は「日本吃音臨床研究会」を主催、吃音親子サマーキャンプ等々、多くのことばが思い浮かびます。吃音関係の本も多数書かれていますので、一冊くらい読まれたことはあるのではないでしょうか。ただ、伊藤氏の[どもりは治らない。そこから出発する。」といったことばに反発を覚える人も多いようです。
 私にとっては次の2つ点で決して無視できない存在であり、注目し続けていました。その一つは、私自身が吃音者であることからくる経験です。幼児期からどもり続け、民間の吃音矯正を受けたり、精神安定剤を飲まされたりしましたが、吃音が治ることはありませんでした。大きな転機は、中学生の時でした。福岡で初めてできたことばの教室の先生に何回か相談に乗ってもらい、最後に「君のどもりは治らないと思いなさい。治すのではなく、どもりを抱えながら生きていくこと、克服していくことを考えなさい。」と言われました。はじめは「治らない」ということばはショックでしたし、すぐに何かが変わったわけでもありません。大学に入った頃もまだ電話をかけることは怖くて怖くて、という状態でした。それでも、年を重ねるにつれて少しずつ、少しずつ変わっていきました。フッと気づくと自分がどもるということを忘れていることが多くなっていました。
 もう一つは、吃音幼児の環境調整の際、親御さんに最初に伝えていくことは、「ゆっくり話してごらん」「落ち着いて」「息を吸って」などと、何とか治そうとしてやることが逆に吃音を進展させ、悪循環を引き起こしてしまうということです。「治そう」とすることからは出発しません。私の場合は、最初から「吃音は治らない」と宣言することはしないのですが、「お子さんが少しでも生き生きできるようにしていきましょう。治るか治らないかは結果です。それで治らなかったとしても、私のように言語聴覚士にはなれますよ。」とお伝えしていきます。
 そうした私にとっては、単純に「治す」と言われる方がより抵抗があります。「治らない」と宣言することにもう一つ割り切れなさを覚えながらも、教えられることも多くありました。
 さて、この「どもる君へ」は、「小学校5年生から、中学生を頭に置いて」となっていますが、こども向けどころか、伊藤氏がこれまで「吃音」について考えてきたことのエッセンスが限られたページ数の中に凝縮されています。そして、何よりもわかりやすく丁寧に書かれています。
 「治らない」ということについては、「21歳の秋、ぼくは治すことをあきらめ、どもりと向き合い、どもりながら生きようと決めた。『どもっても、まあいいか』と、どもる事実を認める『ゼロの地点』に立った。小学2年生の秋、『どもりは悪いもの、劣ったもの、恥ずかしいもの』とマイナスの意味づけをしたときから、ぼくの苦悩の人生が始まったのだから、プラスでもマイナスでもない、ゼロの地点に立つ必要があった。君も、ここが出発点だ。」と述べています。
 さらに、「自己変化力」「どもりは自然に変わる」ということについて、「自然なものだから、変わる程度も違い、なかにはぜんぜん変わらない人もいる。だけど、考え方や行動が変わり、どもりにあまり悩まなくなり、どもりの問題が小さくなれば変わったことだね。」とわかりやすく書かれています。
 「治らない」ということばを、「今あるがままの自分を認めること」といったことばにすれば受け入れやすいのかもしれません。しかし、吃音は治る、治すべきという強い圧力の中では、いったん「治らない」と思い定めることでしかゼロの地点に立てないという想いがあるのでしょう。そして、その地点に立つことで自己変化力が働き始める…。私は自分の胸にストンと落ちてくるものがありました。
 吃音関係では、昨年はバリー・ギターの「吃音の基礎と臨床 統合的アプローチ」が出版されました。しかし、伊藤氏が指摘するように、これは本当に新しいことなのか?「自己変化力」の観点から、もう一度謙虚に考えてみる必要があると思います。
 そうした意味を含めて、私たち言語聴覚士にとっても必読の一冊だと考えます。[久保健彦]
              福岡県言語聴覚士会ニューズレター 2008年10月1日発行


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/01/31

世界大会の夢

 1986年の夏、京都で開催した第1回吃音問題研究国際大会。今から38年前のことですが、会場の京都国際会館のホールも、参加した海外のどもる人たちの顔も、閉会式のとき流れた「今日の日はさようなら」の音楽も、鮮やかに思い出すことができます。
 21歳まであれほど悩み、憎んでいた吃音が、世界の人とつながる大切なものになってくれるとは思いもしませんでした。吃音のおかげで広がった世界は、楽しく豊かな世界でした。
 大谷翔平さんの通訳として、長年彼を支えてきた水原一平さんのことが連日報道されています。英語を苦手とする日本人が海外で活躍するには優秀で相性のいい通訳者が必要です。英語がまったくできない僕が海外で活躍できたのも、いい通訳者がいたからです。今でも、その人に僕はとても感謝しています。世界大会の夢を実現させてくれた人でした。
 今日は、「スタタリング・ナウ」2004.3.21 NO.115 の巻頭言を紹介します。1986年の8年前、1978年の初夢の話から始まります。

  
世界大会の夢
                    日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 ―A君、私は今、10階の大ホールのコントロール室にいます。今、まさに私たちの念願だった、どもる人の世界大会が開かれようとしています。
 司会者がどもりどもり、しかも非常に晴れやかにあいさっを始めました。でも、残念ながら同時通訳の人は、ユーモアあふれるそのどもりを再現できずにいるようです。かつて、嘆き、嫌ったどもりがその人にとってかけがえのないものとして尊重されています。世界各国のどもる人がその国の様々な障害を乗り越えて次々と「吃音者宣言」をし、その成果が今、各国の代表によって発表されています。
 一国の大統領がいます。教師や医師もいます。コックさん、トラックの運転手さんがいます。この大会期間中、様々な分野の人々がどもりだけでなく自分たちの職業に関しての交流も進めています。…
 A君、私の初夢はここで終わってしまいました。でも、いつかこの夢が夢でなくなる日がきっと来ることを信じてペンを置きます。
              1978年1月 初春

 ニュースレターの「吃談室」のコラムにこの文を書いたのは、夢の一歩が実現した、1986年の第一回吃音者国際大会の8年前のことだった。
国際大会会場写真 京都大会。海外から参加した人たちが、「夢の世界にいるようだ」と口々に言った。大会のフィナーレ、京都国際会館の大会議場に400の人の輪が幾重にも重なった。キャンプファイアーで歌う「今日の日はさようなら」を、肩を組み、隣の人の温かさを感じながら歌った。最後に目を閉じてのハミングに変えてもらった。そのハミングに合わせて、私は大会会長として、最後の挨拶をする。
 「私は、どもりに深く悩み、どもりが大嫌いでした。でも今、こうして世界の仲間達と出会い、語り、笑い、泣いた。このような体験をさせてくれたのは、どもりに悩んだおかげです。私は今、どもりが大好きになりました」
 これまでの、どもりに苦しんできた出来事が走馬燈のように浮かび、涙があふれた。そしてその涙は、しばらくして喜びの涙に変わっていった。私だけが泣いていたのではなかった。世界大会の記録のビデオを見ると、ほとんどの人が泣いていた。
 久しぶりに参加した、オーストラリアのパースで開かれた第7回世界大会は、参加国が格段に増え、文字通りの世界大会に成長していた。そのウェルカムパーティーの会場に大きな男が飛び込んできた。「シンジ!」と叫ぶ声に、私も瞬時に「マイク・マコービック!」と叫んでいた。抱き合い、18年の年月が一瞬に縮まった。彼は、京都での大会の、きつつきのロゴの入った大きな黄色のネームプレートを首からぶら下げていた。
 今回の大会開催のグループの会長で、この大会を開催したのが、これも京都大会に参加したジョン・ステグルスだった。さらに、大会初日、当時のドイツの会長だったディータ・スタインとも喜びの再会をした。彼も最後に泣いたと言っていた。
 英語ができないと評判のアジアの日本人が、なぜ、第一回の国際大会が開催でき、その後も、国際吃音連盟の創立に貢献ができたのか。一人の女性との運命的な出会いがあったからだ。
 20年前、私は当時大いにもめながらも蛮勇で強引に世界大会開催を決めた。しかし、どこの国にグループがあるかも知らないし、世界各国機関や大学への手紙など、何をするにしても英文の文書がいる。大会中の同時通訳は予定していたものの、準備段階の活動にこれだけ英語が必要なのかと、途方に暮れていた頃、親友の吉田昇平の7回忌の法事が京都であった。私と同じ「どもりの虫」で、吃音に命を賭けていたライバルだった。法事の時間に遅れてひとりで行ったことが幸いし、進士和恵さんと出会うきっかけとなったのだった。若くして病で亡くなった彼が、親友の私の窮地を救った。
 Kazue Shinjiと、Shinji Ito。海外ではよく夫婦と間違えられる。20年間、国際的な活動に対する進士さんのサポートがなかったら、私の夢は夢のままで終わっていたことだろう。改めて感謝する。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/03/29

書くことの楽しみ

 今日、紹介する「スタタリング・ナウ」2004.2.21 NO.114 の巻頭言のタイトルは、「書くことの楽しみ」です。書き出しに、毎日毎日文章を書いている、とありますが、20年経った今でも、それはほぼ変わりません。メモ程度のものも含めると今も毎日何か書いています。ノートや紙に書いていたこともあったと思いますが、今はほぼパソコン相手です。
 2004年の春、オーストラリアのパースで開かれる第7回世界大会に出発する前日に書いていたらしい巻頭言です。国際大会のことも、第6回ことば文学賞のことも、懐かしく思い出しました。

  
書くことの楽しみ
          日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 毎日毎日文章を書いている。完成させた文章だけではなく、メモ程度のものも含めれば、おそらく書かない日はないだろう。それも、吃音に関わることがほとんどで、自分の本質に関わるテーマだから、時に重く苦しい。
 文章を書きながら、怒りや悲しみがわき上がってくることがある。そして、書きながらそれが徐々に収まっていくプロセスはうれしいが、収まった後にまた新たな怒りや悲しみがわいてくる。書くことは自分を生きることであり、今の自分の歩みに立ち会うことでもある。まだ私は、文章を書くことの中に、軽やかな楽しみを見い出せない。それは、私にとっての吃音は、大きな大きなテーマであり続けるからだろう。
 かつて私は、吃音に深く悩み、吃音を治そうと闘いを挑み、他者を自分をひどく傷つけて生きてきた。その苦しみの中から、吃音は闘うべき相手ではなく、和解し、手をつなぎ、共に人生を生きるまたとない伴侶だと思うようになった。
 その吃音を、敵視し、ねじ伏せ、自分の管理下に置くことをすすめる臨床家は少なくない。吃音に取り組む当事者はどうか。明日から出かけるオーストラリアのパースで開かれる、吃音国際大会は、1986年、私が大会会長として第1回の大会を開いて7回目になる。ここまで続き、これからも続いていくことは大変にうれしいことなのだが、国際大会のプログラムを見て、少し不満をもった。私たちの海外への発信が不十分なこともあるのだが、セルフヘルプグループにつながる人たちの意識も、吃音はあくまで闘う相手なのだ。
 第1回で私は大会宣言の中に、「吃音研究者、臨床家、吃音者がそれぞれの立場を尊重し、互いの研究、実践、体験に耳を傾けながら議論をし、解決の方向を見い出そう」と対等な立場に立って、「吃音に取り組もう」という文言を入れた。しかし、世界の動きは、まだ専門家主導で動いているとしか思えないようなプログラムになっていた。吃音の悩みからの解き放ちは、吃音の治療改善にしかないと考えているからなのだろうか。これまで以上に世界への発信の必要性を感じたのだった。
 今回で6回になる、どもる人のセルフヘルプグループ、大阪スタタリングプロジェクトの「ことば文学賞」。今回は、15編と応募も多く、作品の内容の傾向が変わってきたと感じた。
 「ことば文学賞」の入賞選考は、朝日新聞の学芸部の文学担当として、長年作家の文学作品に触れ、ご自身も書き続けて来られた高橋徹さんにお任せしている。毎回私たちの作品を丁寧に読み、大阪吃音教室の「文章教室」で講評して下さる。
 どもる人の苦しみ、悩みから解放されていく喜びを常に共感をもって読み取って下さる。私たちが信頼している選者であり、長い間私たちの書くことを支えて下さってきた師匠でもある。安心して、選考は全てお任せしている。これまでは、吃音の悩みや苦しみと真っ正面から向き合い、そこから新たな生き方を探るような作品が選ばれることが多かった。ところが、今回の入賞作3編は、これまでの選考基準とは趣が違うように私には感じられた。文章を書く楽しさや喜びがある作品だ。
 どもる私たちが、長年「書くこと」をとても大切にして、取り組んできたのには、次のような意味合いがある。

*自分のために書く
 日記に自分の苦悩を書くことから始まって、私は、読み手を意識して書くことで、自分を見つめ直すことができた。
*後に続く人のためになれば、と考えて書く
 吃音にとらわれた苦しみから解放されていくプロセスを書くことは、後輩に自分のしてきた過ちを繰り返して欲しくないための発信となると思った。
*書くこと自体が喜びであり楽しみとして書く

 この三つを繰り返しながら、書いていくのだろうが、私は、自分を見つめるためと、後に続く人への発信の意味で書くことが多い。高橋さんは「ことば文学賞」の選考を通して、書くこと自体を楽しむ書き方もすばらしいのだよと、私に言って下さっているような気がする。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/03/26

私と『スタタリング・ナウ』(10)

『スタタリング・ナウ』100号記念特集
  私と『スタタリング・ナウ』 (10)


 『スタタリング・ナウ』を購読してくださるようになるきっかけはさまざまです。言友会時代からのつきあいのある人、吃音相談会に参加された保護者、研修会や講演会などで出会ったことばの教室の担当者や言語聴覚士、何がきっかけだったか忘れてしまったけれど、長いおつきあいになっている人など、月に一度お送りするニュースレターが、縁をつなぎ続けてくれています。
 NHK Eテレ ハートネットTVのフクチッチで吃音が取り上げられ、「吃音者宣言」が紹介されたことは、放送の翌日に書きました。その後、番組のことを知っていて見たという人から、感想も届いています。元筑波大学副学長の石隈利紀さん、元生活の発見会会長の大谷鈴代さん、落語家の桂文福さん、三重県津市の小中高校時代の同級生に連絡をしてくれた分部紘一さんなどから見たよと連絡がありました。思いがけない近況報告になったようです。
 では、つづきを。

  
『スタタリング・ナウ』は私のお守り
                        石井由美子 会社員(福岡県)

 「えっ、もう100号」早いですね。毎月送ってくるのが当たり前のようになっていて、改めて100号の重みを感じえずにはいられません。
 毎月送られてくる『スタタリング・ナウ』は、忙しい日常生活の中、仲間と吃音へ思いを馳せる大切な時間を作ってくれます。
 伊藤さんの巻頭言は『スタタリング・ナウ』の大黒柱。そして私に毎回課題を与えてくれます。吃音のセルフヘルプグループから日本吃音臨床研究会へと33年間、きょうだいのようにつきあっていただいていますが、今までの『スタタリング・ナウ』の中で《吃音ファミリー》が私には印象に残ります。
 私は7歳からどもりましたが、両親、先生、友人たちから何の隔たりもなく接してもらい、劣等感をあまり持たずに成長できたことはよかったと思います。
 でも一つ困ったことがありました。それは「かわいそうに」という同情でした。私自身もそれに甘えてしまい、何に対しても競争心を持たず、努力しなかったことを今になって反省しています。このようなことから子どもの頃からの接し方が大切になってくると常々思っています。どもる子どもの親・研究者・臨床家・教育現場の教師の方々は、その子にとっての本当の愛とはを考えていらっしゃると思います。何の障害に対しても同じだと思います。
 「どもる子どもの悩みに寄り添い、うれしいことがあれば皆で喜ぶ。この姿はまさに家族そのものだ。この吃音ファミリーは、どもる人やどもる子どもだけのユートピアでなく、ひとり立ちするための母港だと言える。時には厳しく接するし、吃音でない多くの人が出入りする開かれたファミリーだ」(1997.12.20号)
 私の好きな文章です。ひとり立ちのための母港、母港と言う言葉に大きな愛を感じます。そして安心して旅立てるのです。受け止めてくれる大きなファミリー。
 毎回の情報に自分の生活の悩みと照らし合わせ問題点を引き出して、いかに自分らしく生きていけるか問答する毎日です。生きづらくなっていく現代、心のよりどころとして、お守りのように通勤のバッグに入れています。まだまだどもる人の受け皿として200号、300号と続くことを願っています。

【長いおつき合いになりました。吃音ショートコースの常連です。北九州での相談会を、北九州市立障害福祉センターの方と一緒に企画・実行して下さいました】


  込められた"想い"
                         内田智恵 主婦(神奈川県)
 普段の生活の中で、言葉を一言も話さない日は、まずあり得ません。結婚して、子どももいる今、人前で話すことや、苦手な電話をかける機会も増えました。
 以前と比べれば、どもることを受け入れられるようになってはいるものの、思うように話せないことを恥ずかしく思ったり、どもりたくない、どもらないで話すことができたらどんなにいいか…などと感じることも確かです。言葉に詰まったり、言いたいことが伝えられない時などは落ち込んでしまうことも多く、吃音をマイナスにとらえがちになるのですが、毎月送られてくる『スタタリング・ナウ』が届いたその日は、心が元気になって、マイナス思考も吹き飛んでしまいます。
 吃音という共通のキーワードを通して、様々な人たちの生き方や考え方に触れることのできる『スタタリング・ナウ』を読んでいる時間は、私にとって、かけがえのない大切な時間となっています。もし、私が吃音でなかったら、人生や物事に対して、これほどまでに深く考えることはなかったかもしれないと思うと、吃音が貴重なものにさえ思えることがあります。
 以前、『スタタリング・ナウ』に掲載された体験談を読んで、非常に共感し、私自身の体験や気持ちを書いて日本吃音臨床研究会に送りました。勢いに任せてペンをとり、それまでは決して他の人に語ったことのない、自分と吃音とのかかわりを書いたものが、思いがけず『スタタリング・ナウ』に掲載され、びっくりしたことがありました。でもそれはいい意味での驚きで、今まで隠したり、逃げていた吃音を、前向きに考えることができるようになり、吃音をオープンにすることに抵抗がなくなった大きなできごととなりました。
 自分の吃音を語る時、その『スタタリング・ナウ』を相手の人に読んでもらうこともあります。相手の反応は様々ですが、たいていの人は、私の状態や考えを分かってくれ、吃音への理解も深めてくれているようです。吃音と向き合い、自分を素直に語れるようになったことで、新たな出会いが生まれ、いろいろな経験ができたことは『スタタリング・ナウ』のおかげです。
 毎月届く『スタタリング・ナウ』が、時には背中を"ポン"と押してくれ、大勢の方のたくさんの文字や言葉で綴られた吃音に対する"想い"が、私にパワーを与えてくれます。号数が進むにつれて、私と吃音との関係もより豊かなものとなるように、これからも愛読していきたいと思っています。

【直接お会いしたのは、横浜での相談会の1回のみ、でもこれだけ深いつながりができています。お寄せ下さった体験談は、『スタタリング・ナウ』81号に掲載しています】


  ふり返れば
                  丹佳子 西条市市役所教育委員会(愛媛県)
 私がどもり始めたのは、小学校6年生か中学校1年生くらいの時でした。それまでは、国語の本読みでもきちんと抑揚をつけ、すらすらと読むことができていました。なので、どもり始めたときは、きっとすぐもとのようになれる、すぐ治るから気にする必要はないと思っていました。でも、治らず、だんだんひどくなってきました。授業中わかったと思って手を上げ、指名されたとき、答えの最初の音が出ず、テレ笑いして「忘れました」としか言えないことが増えていきました。先生たちの中には、ゆっくり言ってもいいよといって下さる方もいましたが、私がふざけていると思って授業の最後まで立ってなさいと言った方もいました。そんなことが重なって、だんだん話すことがいやで落ち込むことが多くなりました。
 でもどもることで落ち込んでいることは、周りには悟られたくなくて、どもりがでてもテレ笑いしてごまかし、ぜんぜん気にしてないのよという態度をとっていました。それにどもりには波があるようで、どもらない時期には全然どもらず、そんなときはどもりのことは忘れていました。しかし、再びどもりの時期がくるとやっぱりどもりました。そして、お前はどもりなのだ、これが本当のお前なのだ、どんなに飾ってもこの醜い姿がお前の本当の姿なのだと言われているような気がしました。
 試験でよい点をとったり、いいことがあったりしてうきうきしているときでも、しゃべるときにどもりが出ると落ち込んでその度に、その声が、「ほ〜ら、いい気になってるから、何思い上がっているの」と言っているような気がしました。そして私はいろんなことに対するやる気をすっかり失ってしまいました。小さいころから、あこがれていた語学の勉強もする気がなくなり、将来は安定しているから公務員にでもなればいいやと、地元の国立大学の法科にすすみました。
 大学の4年間は、とにかくしゃべることから逃げた日々でした。何かの代表で話さないといけないときも、私はどもりがあるからと替わってもらいました。ゼミの発表のときは、とにかくどもらないようにどもらないようにとレジメに書いてあることだけ読むようにしていました。周りの人がしていたように、レジメは要点だけをかき、発表するときにそれを肉付けしながらアドリブを入れて話すなんて芸当は全然できませんでした。そして、文系なのに話す訓練のされていない、どもるたびに固まってしまう、プライドだけは高いくせになんの資格もない、そしてどうみても暗〜い女の子は、就職活動での面接試験にことごとく落ちました。
 そのあと職業訓練センターに少し通い、母の知り合いの会社に技術職で採用してもらいました。そこでは仕事もいろいろ教えていただき、技術面ではいっぱしの社会人に育てていただきました。でも電話にはいつも苦労しました。例えば、自分の会社名が言えない、次に相手の名前が聞き取れなかったとき聞き返せないなどです。家の電話で練習していって、うまくいっても、会社ではできませんでした。誰でも簡単にできることが自分だけできないのはすごく恥ずかしくて、電話があまりかかってこないようにといつも思っていました。そして、不景気のあおりで仕事が減っていき、電話も減ってきていたある日リストラになってしまいました。
 でもこの会社にいる間にスラスラしゃべっても中身の薄い人や、ぽつりぽつりしか話さないけれど重みのある言葉を持っている人をみることができました。そして、ぽつりぽつりとしか話さない人にもきちんと固定のお客さんがついていたのをみて、スラスラ話すことだけが能ではないのだな、大事なのは中身があることと誠実さと真心なのだと実感することができました。
 現在はなんとか地元の市役所に勤めることができるようになり、仕事の傍ら、ことばの教室のボランティアや手話サークルに参加し、言葉や表現を考える日々が続いています。
 今年の夏に、『スタタリング・ナウ』に出会い、臨床家のための吃音講習会に出席し、日本吃音臨床研究会の存在を知り、吃音ショートコースにも参加し、その中のいろいろな人に出会えて、以前はどもりについては、心の中では泣きながら表面だけ笑って、しょうがないことなのだとあきらめて受け入れていたのが、今はどもってもいいや、いっぱい言い換えしてもいいや、それでいいんだと思えるようにもなってきました。
 どもりに悩んで自己否定しても死にきれなかった日々、死ねないなら血を絶つために子どもなんかいらないと思った日々。ウチは先祖代々、戦国時代からのどもりの家系らしく、地元にどもり神社として歴史に残っています。それでも生き抜くために語彙力を増やし、言い換えや言い回しを工夫した日々、そしてまだ迷いつづけている人生。今後また生きている限り日々は続くし、つらいこともいろいろあるとは思いますが、どもってもいいやと生きていけそうです。

【吃音ショートコースの報告で紹介した、祖先は戦国時代の武将、丹民部守清光(たんみんぶのかみきよみつ)。どもって即座に声が出なかったために、敵と間違えられて討ち死にし、塚が建てられました。四国の西条市で「民部さん」と呼ばれて人々の信仰が厚く、吃音の神様、足の神様として全国にも知られるようになりました。"由緒あるどもり"の人。講習会、吃音ショートコースとお会いするごとに表情が明るくなっていかれるように思います】

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日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/02/01

NHK Eテレ ハートネットTV フクチッチ

 1月29日(月)午後8時、番組が始まりました。3時間半ほどのインタビューの映像、資料としてお貸しした冊子、書籍、写真などが、どんなふうに使われ、構成されているのか、楽しみにしていました。
 初めは、4人のどもる人が登場し、自己紹介をして、それそれの体験を語りました。その中のひとり、大学生で看護師をしている女性は、高校生のとき、静岡の吃音キャンプで相談を受けた人で。どもるたびに「すいません、すいません」を連発し、下を向いてぼそぼそと小さな声で話す彼女に、僕は、「すいませんを言うのはやめる。顔を上げて、どもっても言いたいことを言い切る。このことを1年間続けよう」と提案した。そして、1年後、彼女はまた僕に会いにきてくれました。再会したとき、雰囲気、表情がすっかり変わっていて、驚きました。僕が言ったことを実行したとのことでした。同じどもるにしても、ずいぶん違います。アドバイスをすなおに聞き、実行したことが、彼女の強みだったと思います。彼女からは、事前に、この番組に出るのだと電話をしてきました。弾むように明るく話すのが印象的でした。
 彼女の経験も、他の3人の経験も、それぞれに、吃音とは何かということを説明していました。教員採用試験で、どもることを隠し、言いたいことが充分に伝えられなかった男性が、3回目の挑戦のときは、吃音を隠そうとせず、たくさんどもりながらも、自分の言いたかったことは言い切って採用合格通知をもらったと話していました。番組の底に流れるものが、治す・改善する、治すべきものとなっていないことに、安心しました。
 ここまでで半分。いつになったら「吃音者宣言」が出てくるのだろうと思っていました。
 そして、講談師の田辺鶴英さんが登場して、吃音の歴史を講談で語り始めました。デモステネス、ジョージ6世、楽石社の伊澤修二、そして、21歳の僕が登場しました。その後、セルフヘルプグループ言友会の創立へと話はつづきます。本当は、ここで講談師の田辺一鶴さんが出てくるはずだったのですが、時間の制限があったのでしょうか。田辺一鶴さんはどもりを治すために講談を始め、講談教室を毎週日曜日に上野本牧亭で開いていました。僕も講談教室に参加し、その講談教室の参加者と、東京正生学院の僕の仲間が知り合い、そこから言友会創立へという流れだったのですが、割愛されていました。フクチッチ初の講談だったらしいのですが、言友会創立と関係の深い講談の話が出てこなかったのは残念でした。視聴者には、なぜ、講談なのかという説明がなく、不思議に思われたのではないかと思います。講談で説明していく、講談師の田辺鶴英さんが田辺一鶴さんのお弟子さんなだけに、その関係を紹介しないのは、とても残念なことでした。間違いなく、田辺一鶴さんが言友会の創立のきっかけだったのですから。
 講談の中で、何度か、「伊藤青年」ということばが出てきました。そして、「吃音者宣言」の登場です。宣言文の一部、とても大切な部分を文字として、また講談の中で語ってくださいました。会創立10年という節目に、多くの仲間の体験から生まれた「吃音者宣言」、格調高く聞こえました。
 その後、「吃音者宣言」を受けた形で、愛知県の小山裕之さんが経験を語っていました。小山さんも僕の古くからの知り合いです。「吃音者宣言」に出会ったときの感動と、就職のとき、吃音であることを伝えたのは、「吃音者宣言」と出会ったからだと言っていました。小山さんの元気な姿を見ることができたこともうれしいことでした。
 僕の家でのインタビューの映像も流れました。3時間半ほどカメラは回っていたはずですが、当日流れたのは数分?だったでしょうか。いや、もっと短いかも。でも、一番言いたかったことは、ちゃんと収められていました。
 「人生の目的は、吃音を治すことではない。自分がいかによりよく生きるか。吃音は、決して人生を左右するほどに大きなものではない。それをきちっと受け止めれば、あなたの人生は豊かに切り開いていくことができるんですよ」。
 これは、吃音とともに豊かに生きることができると伝えたかった僕からのメッセージでした。
 全体のコメンテーターを務めたのは、金沢大学の小林宏明さんでした。小林さんのこともよく知っています。吃音と共に豊かに生きる、どもりながらも自分らしく生きる、そんな大きな流れに加えて、治したいという人がいる人たちの声にも耳を傾けていきたいとまとめておられました。「困ったら、言語聴覚士に相談をしてほしい」が最後のメッセージでした。フクチッチが子ども向けの番組であることを考えれば、同年代のどもる子どもたちが通っている、ことばの教室の存在にも触れてほしかったなあというのが、僕や、僕の仲間のことばの教室担当者からの率直な感想でした。
 どんな番組になるか分かりませんが…、と前置きをして、友人・知人に、番組のことを知らせていました。見た人から、いろいろな感想が届いています。以前NHKのハートネットTVで「どもる落語家」として紹介された桂文福さんから、良かったという感想の電話がかかってきました。いろんな人が電話やメール、ファックスで感想を寄せてくれました。どこかで紹介できればいいのですが、その中に、吃音親子サマーキャンプに参加した保護者もいました。僕たちの知らないところで、親同士のつながりがあるようで、吃音サマーキャンプ参加の親45人で見たとメールがありました。45人という数字にびっくりしてしまいました。夏にしか出会っていない僕と、TVを通して、この寒い季節に会えたのがおもしろかったのではないでしょうか。
 僕の話の奥には、吃音親子サマーキャンプで出会ったどもる子どもやその保護者、研修会や学習会、講演などで出会ったことばの教室担当者や言語聴覚士の人たちの思いがたくさんあります。それらの声を大切にし、僕自身の体験から見いだしたことばを、今、僕は紡いでいるのです。

 見逃した人へのお知らせです。
 再放送が予定されています。深夜なので録画をしてぜひ、ご覧ください。
   2024年2月9日(金)00:45〜 木曜日の深夜
 また、NHK for school という学校向け教材サイトで、いつでも短縮版が見られるそうです。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/01/30

【お知らせ】1月29日(月)午後8時 NHK Eテレ ハートネットTV「フクチッチ」で、吃音が取り上げられます

 昨年10月、NHK Eテレのディレクターからメールが入りました。フクチッチという番組で、吃音を取り上げたいので、取材したいとのことでした。フクチッチ? さてどんな番組だろうか、調べてみると、子ども向けに、福祉のことを分かりやすく解説し、登場する子どもたちに考えてもらう番組のようです。風間俊介さんがメインの進行役のようでした。フクチッチは、前半と後半に分かれているそうで、後半担当のもう一人のディレクターと一緒に、チームスで、もう少し詳しく打ち合わせをすることになりました。
 時系列で、これまでの様子をお知らせします。

11月1日(水)13:00〜 チームスで取材
 番組で、吃音を取り上げようと考えた経過と目的などを聞きました。吃音者宣言や、東京正生学院での経験、セルフヘルプグループ言友会の活動、ことばの教室でなされているどもる子どもへの関わりなど、僕は、質問に答えながらいろいろな話をしました。どもる子どもの生きる力を育てる取り組みが紹介できればいいなあと思いましたが、さて、どんな番組になるのでしょうか。

11月27日(月)9:30〜 ディレクターが自宅へ
 1日、チームスで話をした、前半担当のディレクターがひとりで、その次の取材についての打ち合わせのため自宅へ来られました。午前9時半から午後1時過ぎまで、4時間弱、たくさん質問が出されました。あの後、いろいろ調べ、取材し、そして、吃音の問題を語るとき、何が一番の転換点かと考えたそうです。はじめは、言語聴覚士の制度ができたことかと思ったそうですが、さらにいろいろ読み込み、調べ、考えた末、大きな転換点は、「吃音者宣言」だと考えたとのことでした。吃音者宣言を出すことになった背景、その頃の様子、出した意図、何を考えていたのか、それらを番組で紹介したいとのことでした。吃音者宣言にスポットが当たることはありがたいことです。古い写真や、セピア色の今にも破けそうなその頃使っていた教本などを引っ張りだしてきました。ディレクターは、「わあ、すごい。こんな資料があるんですね」と感嘆の声を上げていました。でも、番組にどう反映されるのか、未知数です。

12月6日(水)10:00〜 カメラ、音声、そしてディレクター3人が自宅へ
NHK取材1NHK取材2 ディレクターとカメラ、音声の3人が自宅へ来られ、リビングは、撮影現場になりました。ディレクターが質問をし、僕がそれに答える形で撮影が始まりました。1976年に、それまでの多くの仲間の体験と活動の中で得られた結晶として提起した「吃音者宣言」は、今も決して色あせることのない宝物だと思っています。多くの人が「吃音者宣言」に出会い、どもる自分を認めて、自分のことばを磨き、届けたい相手に向かって、ことばを丁寧に伝えていく、それを積み重ねていくことが生きることだと確信していきました。田辺一鶴さんや言友会の初期の活動など、なつかしい写真も登場します。これまでの歩みを整理し、振り返ることができ、僕にとってはいい時間でした。

2024年1月23日 
 放映に関する最終のお知らせのメールが届きました。番宣には、伊藤の名前も、「吃音者宣言」のことばも出てきません。どんな扱いになるのでしょうか。ほんのわずかしか出てこないかもしれません。吃音を治す・改善するというのではなく、そして、周りの理解に助けてもらうことを過剰に期待する弱い存在ではなく、吃音とともに豊かに生きる人がたくさんいることを知ってもらう番組であって欲しい。どもる子どもに「生きる力」を育てることが大切だとする僕たちの思いが反映されている番組になっていることを願うばかりです。
 放映は、1月29日午後8時。NHK EテレのハートネットTV フクチッチ、よかったら、ご覧ください。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/01/24
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