1986年の夏、京都で開催した第1回吃音問題研究国際大会。今から38年前のことですが、会場の京都国際会館のホールも、参加した海外のどもる人たちの顔も、閉会式のとき流れた「今日の日はさようなら」の音楽も、鮮やかに思い出すことができます。
21歳まであれほど悩み、憎んでいた吃音が、世界の人とつながる大切なものになってくれるとは思いもしませんでした。吃音のおかげで広がった世界は、楽しく豊かな世界でした。
大谷翔平さんの通訳として、長年彼を支えてきた水原一平さんのことが連日報道されています。英語を苦手とする日本人が海外で活躍するには優秀で相性のいい通訳者が必要です。英語がまったくできない僕が海外で活躍できたのも、いい通訳者がいたからです。今でも、その人に僕はとても感謝しています。世界大会の夢を実現させてくれた人でした。
今日は、「スタタリング・ナウ」2004.3.21 NO.115 の巻頭言を紹介します。1986年の8年前、1978年の初夢の話から始まります。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/03/29
21歳まであれほど悩み、憎んでいた吃音が、世界の人とつながる大切なものになってくれるとは思いもしませんでした。吃音のおかげで広がった世界は、楽しく豊かな世界でした。
大谷翔平さんの通訳として、長年彼を支えてきた水原一平さんのことが連日報道されています。英語を苦手とする日本人が海外で活躍するには優秀で相性のいい通訳者が必要です。英語がまったくできない僕が海外で活躍できたのも、いい通訳者がいたからです。今でも、その人に僕はとても感謝しています。世界大会の夢を実現させてくれた人でした。
今日は、「スタタリング・ナウ」2004.3.21 NO.115 の巻頭言を紹介します。1986年の8年前、1978年の初夢の話から始まります。
世界大会の夢
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二
―A君、私は今、10階の大ホールのコントロール室にいます。今、まさに私たちの念願だった、どもる人の世界大会が開かれようとしています。
司会者がどもりどもり、しかも非常に晴れやかにあいさっを始めました。でも、残念ながら同時通訳の人は、ユーモアあふれるそのどもりを再現できずにいるようです。かつて、嘆き、嫌ったどもりがその人にとってかけがえのないものとして尊重されています。世界各国のどもる人がその国の様々な障害を乗り越えて次々と「吃音者宣言」をし、その成果が今、各国の代表によって発表されています。
一国の大統領がいます。教師や医師もいます。コックさん、トラックの運転手さんがいます。この大会期間中、様々な分野の人々がどもりだけでなく自分たちの職業に関しての交流も進めています。…
A君、私の初夢はここで終わってしまいました。でも、いつかこの夢が夢でなくなる日がきっと来ることを信じてペンを置きます。
1978年1月 初春
ニュースレターの「吃談室」のコラムにこの文を書いたのは、夢の一歩が実現した、1986年の第一回吃音者国際大会の8年前のことだった。
京都大会。海外から参加した人たちが、「夢の世界にいるようだ」と口々に言った。大会のフィナーレ、京都国際会館の大会議場に400の人の輪が幾重にも重なった。キャンプファイアーで歌う「今日の日はさようなら」を、肩を組み、隣の人の温かさを感じながら歌った。最後に目を閉じてのハミングに変えてもらった。そのハミングに合わせて、私は大会会長として、最後の挨拶をする。
「私は、どもりに深く悩み、どもりが大嫌いでした。でも今、こうして世界の仲間達と出会い、語り、笑い、泣いた。このような体験をさせてくれたのは、どもりに悩んだおかげです。私は今、どもりが大好きになりました」
これまでの、どもりに苦しんできた出来事が走馬燈のように浮かび、涙があふれた。そしてその涙は、しばらくして喜びの涙に変わっていった。私だけが泣いていたのではなかった。世界大会の記録のビデオを見ると、ほとんどの人が泣いていた。
久しぶりに参加した、オーストラリアのパースで開かれた第7回世界大会は、参加国が格段に増え、文字通りの世界大会に成長していた。そのウェルカムパーティーの会場に大きな男が飛び込んできた。「シンジ!」と叫ぶ声に、私も瞬時に「マイク・マコービック!」と叫んでいた。抱き合い、18年の年月が一瞬に縮まった。彼は、京都での大会の、きつつきのロゴの入った大きな黄色のネームプレートを首からぶら下げていた。
今回の大会開催のグループの会長で、この大会を開催したのが、これも京都大会に参加したジョン・ステグルスだった。さらに、大会初日、当時のドイツの会長だったディータ・スタインとも喜びの再会をした。彼も最後に泣いたと言っていた。
英語ができないと評判のアジアの日本人が、なぜ、第一回の国際大会が開催でき、その後も、国際吃音連盟の創立に貢献ができたのか。一人の女性との運命的な出会いがあったからだ。
20年前、私は当時大いにもめながらも蛮勇で強引に世界大会開催を決めた。しかし、どこの国にグループがあるかも知らないし、世界各国機関や大学への手紙など、何をするにしても英文の文書がいる。大会中の同時通訳は予定していたものの、準備段階の活動にこれだけ英語が必要なのかと、途方に暮れていた頃、親友の吉田昇平の7回忌の法事が京都であった。私と同じ「どもりの虫」で、吃音に命を賭けていたライバルだった。法事の時間に遅れてひとりで行ったことが幸いし、進士和恵さんと出会うきっかけとなったのだった。若くして病で亡くなった彼が、親友の私の窮地を救った。
Kazue Shinjiと、Shinji Ito。海外ではよく夫婦と間違えられる。20年間、国際的な活動に対する進士さんのサポートがなかったら、私の夢は夢のままで終わっていたことだろう。改めて感謝する。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/03/29