伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

吃音ファミリー

吃音ファミリー 子どもの作文

 「スタタリング・ナウ」NO.40では、どもる子どもの親、松尾ひろ子さんの体験の後、息子の政毅君の作文が紹介されています。吃音親子サマーキャンプに初めて参加した小学4年生のとき、彼は国語の時間に「どもりになってよかった」という題の作文を書いています。
 その作文と、その後、5年生、6年生で書いた作文を紹介します。題名に、小学3年生までとその後の彼の変容が表れているように思います。

松尾政毅君の作文

【4年生のとき、国語の時間に書いた作文】

    どもりになってよかった
 「ねえ、サマーキャンプという所へ行ってみない」
と母さんが言った。このことばがぼくを大きく変えてしまった。なんで、どもりになったのかなと思う暗い心が、どもりになってよかったという明るい心になったからです。
 こんなにぼくの心が大きく変化したのは、サマーキャンプに行ったことから始まった。
 サマーキャンプというのは、いろいろな人とふれあったり、どもりのことを勉強したり、げきをしたりします。そして、何もかも自分の力でしなければならないのです。ふとんをしいたり、ご飯を作ったり、全部自分たちでしなければいけないのです。
 サマーキャンプに行く目的のひとつは、友達を作ることです。サマーキャンプに来ているみんなはすごくやさしくて、すぐに友達になれます。ぜったい友達になれます。
 サマーキャンプでは、吃音のことも勉強します。勉強といっても、発声練習をしたり、歌ったりです。どもりでこまっていることや、そのときどんな工夫をしているかなど、みんなで話し合ったりします。みんなといっしょにいれることがぼくにとってしあわせです。
 また、サマーキャンプでは、ぜったいげきをします。みんな努力して、工夫して、力を合わせて練習して、その練習の成果をみんなに見せるのです。
 みんなとふれあえる、これが一番の目的です。
 しかし、楽しくてもいっかは別れるときがきます。それが一番悲しいのです。せっかく友達をいっぱい作っても、遊んだり話したりできるのはほんのひとときだけです。
 だから、ぼくは毎日こう思います。(早く一年たたないかなあ)と。もうすぐ夏休みだから、みんなと会えるのはもうすぐです。だから、もう少しがまんして、次のキャンプで遊びまくろうと思います。(1995年)

【5年生のとき、サマーキャンプ作文教室で書いた作文】

    吃音の苦しみ
 ぼくがどもっていることに気がついたのは、小学1年のころでした。友達と話しているときに笑われたり、まねされたりして、そのときやっと自分が他の人と違うことを知りました。
 よく考えてみるとぼくに対してのどもりの悪口の始まりはようち園からだと分かりました。1年のころはそんなにバカにはされていませんでしたが、2年になって自分のクラスのクラスメイトを始め、自分より1年下の1年生や自分より上の3年生、4年生、5年生、6年生、そしてたまには中学生にまでもバカにされました。それが3年生まで続きました。
 3年の2学期、ぼくのたんにんの先生がいじめられていることに気がついてくれて学級会を開いてくれてそのぼくのどもりのことを取り上げてバカにする悪口をやめさせてくれたから、悪口はパッと止まりましたが、5年生になってまた、どもりについての悪口が始まりました。悪口を言うのは自分より小さな子どもばかりでした。だから、何回言っても放っておきました。しかし、だんだん何回も言われていると、だんだん怒りたくなってきました。しかし、怒ると多分その子はたんにんの先生に言いつけると思います。そうなると、どんな理由があっても年が年だから、怒られます。
 8月9日のサマーキャンプの話し合いでのみんなからのアドバイスを元に、どもりの悪口の根を完全に断ち切ろうと思っています。(1996年)

【6年生のとき、サマーキャンプ後に書いた感想】
 
   みんながついている
 3回目のサマーキャンプ。初めは一日おくれて行ったけど、二日目からはみんなとお話ができました。
 二日目に行ったとき、プログラムでいうと、グループで話し合いの最中でした。とちゅうからいったものの、前から来てたみたいに参加することができました。そこで、二人、友達になりました。話し合いの中で、一緒に話してたりしてなりました。その話は、一人は学校の話ででしたが、もう一人はゲームの話ででした。その学校の話でなったのは、岡本君で、彼とは年も同じで、気が合いました。食事とかに行くときもいつも一緒でした。彼は母に連れられていやいや来たと言いますが、話をしているととてもそうには思えませんでした。
 昼の食事のとき、入り口で、溝部先生に会いました。最初、ぼくは溝部先生のことが分かりませんでした。なにしろ、がらりと変わっていたので分からなかったのです。でも、まあ会えてうれしかったです。次に食べていると、たまに言友会に来る島浦の兄ちゃんが声をかけてくれました。島浦の兄ちゃんはサマーキャンプは初めてで、ぼくは来ているのを知ってびっくりしました。
 食事が終わると、そこらへんを歩いているといろいろな人から声をかけられました。みんな知っている人ばかりでした。知らない人もいっぱいいたけど、みんなはぼくを知っていたので、知り合いになりました。
 その夜のげきの練習のとき、みんな、つまっていない子もいたけど、つまっている子はつまりながらもいっしょうけん命がんばっているのを見て、感動しました。そのとき、ぼくもがんばるぞと思いました。
 次の朝、公民館でのげきの発表会、みんないっしょうけん命がんばっていました。そこで、ぼくはみんながついているという心強さを感じました。その後の集いは楽しかったけれど、これで最後かというのもありました。
 ついに別れのとき、なんといっても別れはつらいものです。ぼくも泣きそうになりましたが、こらえました。みんなとあくしゅをしてバスに乗りました。駅で時間があったので、写真をとったりプリクラをしました。そのプリクラはゆいいつの記念です。また、来年も来たいです。(1997年)

【6年生のとき、書いた《人権作文》】

    やさしさを見つけよう
 人間は、生まれつき皆平等だ。なのになぜいじめは起こる。いじめだけじゃない。差別もなぜ起こる。
 いじめも差別も、している本人はされる人の悲しみ、つらさや痛さなど何も分かっていない。いじめられることの苦しみや、差別されることのつらさは、他の人には分からない。される本人しか分からないのだ。この苦しみは計り知れない。
 いじめられる子はたいてい、いじめられていることを誰にも言わない。それは、こわいからなのだ。親などに言ってたら、余計にひどくなるのではないかと思い、いじめられる苦しみを心の底にしまってしまうのだ。
 このことはぼくもいじめられていたから分かる。いじめられていたといっても、あまりひどくはないが、小学校低学年の自分にはこたえる。
 ぼくは生まれつきことばがつまって、ことばが途中で切れてしまうことがある。このことで一年から三年までずっと毎日、まねされたりばかにされたりした。
 ずっといじめられていると、だんだん今の時代に「やさしさ」などないのだと思えてくる。だって、いじめられているのに周りの人は何もしてくれなかったからだ。いじめられているのに止めてくれない、励ましてくれないというのは、いじめよりも何よりもつらい。そんな日が何日も続いた。
 だけど、三年の時、自分でこのことを勇気を出して担任の先生に言って、クラスの皆に言ってもらった。すると、クラスの中でのいじめは終わった。自分でいじめにピリオドをさした。
 それからは、みんな、つまるときはばかにしなくなった。一部の人は「がんばれ」とか言ってくれた。そのとき僕は、本当の「やさしさ」を見つけた。
 そのときから、僕の考え方は変わった。やさしさはかけてくれるのを待つのではなくて、自分から見つけ出すものだと分かった。
 いじめられている子に必要なものは、やさしさだと思う。
 いじめられる子が、暗くなったり自分の世界に閉じこもるのは、いじめられたからではなくて周りの人々が冷たいからだと思う。
 いじめはこの世からなかなかなくならないかもしれない。でも、いじめられる子がいじめる子に立ち向かっていくか、周りの人が少しでもいじめられている子に対して声をかければ、その子も救われるかもしれない。一番大切なのはひとりひとりがいじめられる子を心配する気持ち、つまりやさしさの心を持つことだとぼくは思う。
 いじめられる子も幸せになる権利がある。しかし、それをふみにじろうとする人は許せない。
 やさしさを受け、幸せになる権利こそ人権だと思う。それをふみにじることは決して許せることではない。       (「スタタリング・ナウ」1997.12.20 NO.40)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/05/25

吃音ファミリー 2

昨日のつづきです。どもる子どもの親が不安の中で、どう過ごしていたのか、細やかな記録が続きます。そのうちに治るから、本人に意識させないように、という指導は今もされているのでしょうか。意識させないようにと思っても、本人は意識しています。しゃべりにくさを一番感じているのは本人なのです。そんな中で始まった小学校生活は、クラスが荒れていて、大変な1、2年生だったようです。

どもり・親子の旅 2
                   松尾ひろ子(小学6年生・松尾政毅君の母)

『どもりのことをちゃんと知りたかったよ!』
 小学校は、地域の公立小学校に入学しました。各学年2クラスという小さな学校です。担任の先生は50歳代の女の先生でした。
 政毅の吃音のことをお話すると、「私の目の届く所で問題が起こりましたら対処しますが、それ以外では責任は持てません」と言われました。多分、吃音のことで起こるであろういじめやからかいのことを言われているのだろうと思いました。現実には、先生の目の届かない所でいろいろな問題が起こっているので、うまくやっていけるのか不安に思いました。しかし、私も小学校に勤めていますので、担任の先生の言われることも分かり、それ以上何も言いませんでした。
 入学した学級は、男子の人数が多く元気すぎてけんかや問題が絶えない状況でした。
 今までの幼稚園の環境とは打って変わって学校から帰ると、とても疲れており、毎日のように昼寝をしていました。体にはアトピー性皮膚炎が出始めました。また、一週間のうちの水、木曜日あたりの欠席が増えてくるようになりました。
 それに拍車をかけるように、毎日出される音読の宿題には親も子も疲れ果ててしまいました。音読も二人でなら読めますので、私と一緒に読んでも納得できず、ますますパニックになっていくのです。体をリラックスさせればよいかもしれないと思い、風呂上がりや寝る前に読んだりしました。しかし、読めることは読めても、政毅自身が納得できる音読はできませんでした。
 たまりかねて担任の先生に相談しました。担任の先生の方から「調子の悪い時はできるところまででいいよ」と言ってもらい、少し気持ちが楽になったようでした。
 その頃、級友から「おまえの話し方、おかしいなあ」と言われ、本人も自覚するのですが、でもどうすればよいのか分からず不安になっていたと思われます。今までも話すことに不自由さを感じていたのですが、級友から直接言われたことで「ぼくはみんなと違う」という思いをいっそう強くしたようでした。
 後に政毅は、みんなから言われる前に、ぼくのような話し方は、どもりとか吃音だということをきちんと教えてほしかったと言いました。

『話すのは死ぬ思いや』
 長男の吃音で障害センターの方に相談した時に、ことばの言い直しなどはさせたり、吃音について話題にすることは、本人に吃音を意識をさせることになるのでしてはいけない。吃音を決して意識させてはいけないのですと、言われたことが記憶として強くあり、家庭の中では吃音には全く触れずに過ごしてきました。「ことばがつまる」とか、「言いにくいね」というように表現をして直接的な表現は避けてきました。
 この頃はよく「話すのは死ぬ思いや!」と言いました。話そうとするとことばがつまるのです。あせって早く言おうとすると息が続かず苦しくなるのです。やっとのことで話し終えた後は「はあー」と大きな深呼吸をしておりました。
 また、どもっていても、私には子どもの話したいことが分かりますので先取りして言ってしまうと、「今、言おうと思っていたのに!」と言って怒りました。
 勉強にっいては何も言わなかったのですが、なわとびや九九などは、学級の誰よりも早くできるようになりたいと、必死に練習に励んでおりました。今から思うと、うまく話せないことの代償だったのでしょう。学級の中での自分の存在を確かめているようにも思えました。
 学級の雰囲気は2年生になっても変わらずで、むしろ男子の乱暴ぶりは、だんだんエスカレートしてきた感がありました。担任の先生も手を焼かれているようでした。
 そんな中、政毅は周りから吃音へのいじめやからかいの洗礼を受けながら2年生を終えました。
 春休みに児童相談所へ行きました。幼稚園の頃と比べて吃音の状態が進んでいるように思えたからです。
 校長先生を退職された方が、政毅と遊んで下さって「この子は、年齢の割に難しいことばをたくさん知っている」と言われました。吃音についてはあまり分からないようなので、結局、一回限りで通うことはしませんでした。遠いということと、学校を早退させて連れていくより今の状態の方がいいだろうと思ったからです。 1997.12(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/05/18
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