「スタタリング・ナウ」2010.3.28 NO.187 に掲載の、第12回ことば文学賞の作品を、もうひとつ紹介します。どもらない人にしてみれば、何ともないできごとが、どもる人にとっては、ときとして大きな苦痛になることがあります。そんな日常生活を切り取った作品です。
「吃音と上手につきあうための吃音相談室」の本を読んで、僕に会いに大阪まで来てくれた作者は、大阪教育大学の特別支援教育特別専攻科の学生になり、その後教師の道を選び、教員として活躍しています。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/03/17
「吃音と上手につきあうための吃音相談室」の本を読んで、僕に会いに大阪まで来てくれた作者は、大阪教育大学の特別支援教育特別専攻科の学生になり、その後教師の道を選び、教員として活躍しています。
第12回ことば文学賞 ―机の上―
掛田力哉
職員室の机の上に、見慣れぬ小さな包みが置いてある。誰かがおみやげに買ってきてくれたものだろう、と予測がつく。私はいつもその瞬間、自分の心臓がドクンドクンと大きく波立つのをはっきりと自覚する。
名前が書いてあればいい。その人とすれ違った瞬間などに、礼をいうことができる。私は「おみやげ、ありがとうございます」の「お」も「あ」も出にくいので、ふと思い出したようなそぶりで、「あっ、そういえば、あのっ、あれっ・・」と話を向けてみる。向こうはおみやげの事とすぐに気づいてくれるので、「ああ、どこそこへ行ったので・・」など言葉を返してくれる。そうすると私は安心して、「いつもすみません」とか、時にはスムーズに「ありがとうございました」と笑顔で、さわやかに礼を述べることができるのである。
しかし、誰からのものかわからないとき、事態は一変する。忙しそうに仕事をする人の背中に向かって、「これをくれた人物がだれなのか」を問いかけるのは、私にとって至難の業である。ようやく声がでて、振り向いてくれればまだ救われる。なかなか気づいてもらえないときなどは、逃げ出したくなるほどである。しかし、そうするわけにもいかぬので、軽く相手の肩を叩いてみたり、思い切り顔を覗き込んで「ちょっとすみません」と言ってみたりすることを、私は長年の経験の中で覚えてきた。もちろん相手は驚いた顔を見せるが、仕方がない。「いやあ、すみません」と精一杯笑いながら、「あの、これっ、これは・・」といつもの調子で聞いてみるのである。当人の名が分かればもちろんありがたいが、再び私に待っているのは、その人を見つけ、声をかけ、「ありがとう」の一言を言うまでの、緊張感に満ちたしばらくの時間なのである。
それでも…。以前の私よりは大分ましである。どもることを悟られまいと懸命に隠し続けていた頃。アルバイト先の机の上に置いてくれてあるお茶やら飴やらを、ありがたいと感じた事は一度もなかった。お茶を飲んでしまっては、誰かに礼を言わねばならぬ。私はしばしば「気付かなかった」事にしてそのお茶を放置した。机の上にはいつまでも冷え切ったお茶が置かれており、いつしか、誰かがそのお茶を片付けてくれていた。私は、それも何もかも全て「知らなかった」事にしていた。
吃音の問題は、表面上に見える「吃症状」にばかりあるのではなく、むしろ隠された部分、氷山で言えば水面下にある部分にその多くが存在すると言われる。人と関わることを恐れ、人の厚意を粗末にし続けていた頃の自身を支配していたのは、「自分はなんと情けない、愚かな人間なのだ」という激しい劣等感だった。
それでも、私はいつも何かしらの仕事はしていた。焼き肉屋、スナック、百円ショップの店員、旅行添乗員、遊園地係員、塾講師…。振り返ってみると、人を相手に話をしなければならないアルバイトばかりを選んでいた。あんなにどもりに悩み、ひた隠しにしながらも、私はなぜ話さなくても良い仕事に就こうとは考えなかったのだろうと、我ながら不思議に思う。仕事の中で、どもることで立ち往生した場面は数え切れない。講師をした塾では、帰宅時に玄関前に立ち、職場の全員に向かって「お先に失礼します」と言わなければならない決まりがあった。「お」が出にくい私は仕事が終わっても帰るタイミングがつかめず、ロッカールームでいつも1時間近く冷や汗をかき続けていたものである。
そんな私が仕事を続け、また新たな仕事へ挑戦することが出来たのは、それぞれの仕事を通じて、「何とかなる」という確信のようなものを培うことができていったからである。塾では、授業時間の数倍もの時間を教材研究に費やした。ある日、自分の授業を見に来た上司が、その内容を他の講師たちの前で褒めてくれた。それ以来、その上司は私が玄関前で足をバタバタさせていることに気付くと、さりげなく目配せして帰宅を促してくれるようにもなった。流暢に話すこと以外でも、仕事で認められる方法はいくらでもあり、また自分なりに努力することで、人の役に立てることも少しずつ知っていった。相変わらず机の上のお茶はなるべく飲まぬようにし、仕事が終わると、誰と話すこともなくそそくさと家に帰っていたが、仕事の面では、私は吃音に困りながらも、吃音に囚われるということはなくなっていた。自分にも出来ることがあると、自信を持ち始めていたのも確かだ。
大学卒業後1年が過ぎた頃、私に小学校の非常勤講師をする機会が巡ってきた。自分と同じ苦しみを持つ子どものために生きたいと願い、苦労して教育大学に進み、やっと手にした教壇であった。意気揚々と通い始めたが、事態はあっと言う間に苦しいものになっていった。授業中に立ち上がり、紙ヒコーキを飛ばし合う子どもたちの言動に振り回され、自分の弱さを知られまいと、大声をあげては自己嫌悪に苛まれた。指導教官からは、厳しく注意されるばかり。他の先生にも相談するべきだったが、忙しそうに働く背中に、どもりながら声をかける勇気がなかった。一人鬱々と悩んだ。かつての劣等感がみるみる自身を襲っていくのを感じた。1年間の契約終了を待たずして、私は半年で職場をあとにした。
念願の教師の仕事に挫折して、私はどん底に追いやられた。しばらくは何をする気も起きず、仕事に向かう母親の弁当を作ったりして1ヶ月半ほどを過ごした。唯一通っていた英語スクールを修了するころ、担当者の方から「自分の会社で働いてみないか」と声をかけていただいた。さすがに躊躇したが、もう失うものは何もなく、こんな自分を拾ってくれるなら思い切りやってみよう、ダメならもうそれまでと、その会社に初めて正社員として就職させてもらった。言語教育を事業とするその会社では、「言葉を獲得するとはどういうことか」といった題材について、社員が毎月交代でエッセーを書き、社員や会員に配っていた。私はその中で、初めて自分が吃音であることを告白し、吃音であるが故に、自身がことばの問題、教育の問題に自分なりにずっとこだわり続けてきたことを素直に書いた。驚いたことに、「とても感動した」という感想をたくさんもらい、私は長年自分が一人で背負い続けてきたものからようやく少し開放されたような、不思議な感覚を覚えた。また、自分が「どもる」ということが、他の様々な人にとっても、何らかの意味をもつことがあるかも知れぬと考え始めるようにもなった。
会社勤めをして2年が経った頃、私は書店で一冊の本と出会った。『吃音と上手につきあうための吃音相談室』(芳賀書店)という本である。「吃音」と大きく書いてあるその本を私は後ろ手に隠してレジへ運び、その夜から付箋をはりながら夢中で読み始めた。本の中の伊藤少年が味わった苦しみは、一人孤独に悩んでいた、ちっぽけな少年の頃の自分のそれと同じだった。気づけば私は何度も独り言に「おんなじだ!」と叫び、涙を止められなくなっていた。どうしてもこの本を書いた伊藤伸二という人に会ってみたい、という思いはどんどん膨れ上がり、2年間働いたその会社を辞め、26歳で一人大阪へ引っ越した。
大阪教育大学の講義で、本の著者である伊藤伸二という人に出会うことができ、私はどもる人たちがあつまる大阪吃音教室に誘われた。そこでは、皆が自然にどもりながら話し、自分のどもりについて真剣に考え、時には冗談を言い合って大笑いしていた。教室が終わる時間になっても、最寄りの駅の前に立って、同世代の人たちと他愛のない話を延々とし続けた。私は、まるで夢を見ているようだった。仕事以外の人間関係を、これほどに心地よいと感じ、大切に思ったことはなかった。毎週金曜日が来るのが待ち遠しく、自分がそんな風に感じることが信じられなかった。それから7年間、伊藤さん始め、教室の沢山の人たちに出会う中で、自分の吃音について、自分の生き方についてじっくり考える機会を沢山いただいた。そして、もう一度原点に戻って教師になる決意をし、教員の採用試験に合格することができた。4年前には、吃音を通して出会った人と結婚もできた。人との関わりを避け続けていた自分には分からないこと、気づいてこれなかったことを、結婚相手の女性からは数多く教えられてきた。そして昨年は、長年自身を苦しめてきた吃音のことを子どもたちに伝えるという役割で、テレビに出演することにもなった。多くの出会いの中で、私はこれまでの人生で学んでこれなかったこと、経験できなかったことを、一気に取り戻すような7年間を過ごしてきた。そしてそれら全ての時間や出会いをくれたのは、他でもない吃音そのものなのであった。
今年の夏、私は妻に倣って初めて職場の人にお土産を買ってみた。買ったはいいものの、いざそれを渡す日となると、私は不安を抑えられないでいた。以前の私ならば…、やはり諦めていただろう。しかし、今年はなぜか「渡してみたい」と思う気持ちの方が強かった。職員室を覗き、あまり人がいないのを確認すると、私は一気に机に向かい、隣の同僚に一言仕事の質問をしてから、「あっ、そう言えば…」と思いだしたようなそぶりで、「はい」と渡した。向こうも素直に喜んでくれ、「どこへ行ったんですか?」「ああ、ちょっと横浜に・・」と忙しい朝に少しだけ話に花が咲いた。職場では仕事の話だけをすればよいと長い間思っていた。しかし、それだけでは味気ない。せっかく出会った人と、せっかくだから色々な話もしてみたい。他愛ない話の中にこそ、仕事を豊かにするヒントがあるのかも知れない。そんな風に感じられる自分が、今ここにいる。私がいつも人と関わる仕事を選んでいたのは、やはり私が根本的に人を好きだからなのではないか。不器用ながら、下手くそながら、どもりながらも、人と関わり、人と言葉を交わし、人を知ろうとする自分であり続けたい。そして、いつも私の机の上にお茶や飴をさりげなく置いてくれていた人たちのように、いつか私もさりげなく人を思いやれるような人間になりたいと強く思う。今日も職員室のドアを入る。机の上に何もないことを見て…、ホッとする自分がいるのもまた事実なのだが。
《読後コメント》
机の上のおみやげ、机の上のお茶、一般的にはただ「ありがとう」と受け取るだけの話だ。しかし、その「ありがとう」が言えない人間にとっては、苦痛になる。吃音に悩んだ経験のない人なら、想像もできない世界だろう。この日常の何気ない小さなできごとをきりとって、丁寧に書き綴っている。吃音の苦悩を「机の上」にスポットを当てながら、吃音とのつき合いの歴史を綴っていく。こんな、些細な、誰もが難なく通り過ぎていく人と人との関わりの風景で、ここまで、感じ、考えることができる吃音は、なんて人を豊かにさせるものだと、実感する。人生のさまざまな場面で、吃音は常に作者と共にあり、吃音と真摯に向き合うことで、作者は自分の人生をつかみとってきた。不器用だけれども、人が好きで、人と関わり、人とことばを交わし、人を知ろうとする自分であり続けたいと思う作者と、私たちもこれからも長いおつきあいをしたいと願っている。最後におみやげの話に戻る、そんな構成もすてきだ。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/03/17