伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

受容

どもる事実を認める

 昔はあまり気にならず使っていたことばが、使えなくなる、使わなくなるということがあります。吃音者、吃音児ということばがそうです。確かにどもってはいるけれど、どもっていることがすべてではないということからか、いつからか使わなくなり、どもる人、どもる子どもということばを使うようになりました。
 今日、紹介する巻頭言も、「受容」ということばを使わなくなったと書いています。「吃音の受容」というと、なんだか大層なことのように聞こえます。大阪弁の「どもってもしゃあない」「どもってもまあいいか」がぴったりくるようです。
 「スタタリング・ナウ」2005.6.18 NO.130 の巻頭言「どもる事実を認める」を紹介します。

  
どもる事実を認める
                  日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 3月中旬から講義・講演の連続で、疲労もたまっていたのだろうか、5月の初めに、風邪からのどを痛めて声が全く出なくなった。声が満足に出ないまま、熊本、福岡、岩手、岡山、島根、名古屋、神奈川などで話すことが続いている。ひそひそ声とはいえ、声帯は使っているので、元通りの声にはなかなか戻らない。いつもの元気な声ではないので迷惑をかけて申し訳ないと思っていたら、複数回行っている所から一様にこう言われた。
 「これまで何度も話を聞いたが、今回が一番胸に響いた。やわらかく自然体の感じがする」
 不思議な気がした。私の主張は従来と変わっていないはずだ。変わったことがあるとすれば、声が満足に出ないことだ。声が出ないことで気負いがなくなったからなのか。しかし、先日の名古屋での相談会の時、何度も話を聞いているという古くからの知り合いから「吃音を受け入れることが大事だと言っていた伊藤さんが、『受け入れなくてもいいじゃないか』と言ったのでビックリした」と言われた。そう言われれば、吃音に対する私の主張は根本的には変わらないものの、これまで抵抗なく使ってきたことばが使えなくなって、表現が変わってきていることに改めて気づいた。
 そのひとつが「受け入れる・受容」だ。これまでも、「吃音を受け入れよう」とは言ってきたが、受け入れるべきだとは言っていない。また、「吃音を受け入れられない自分も受け入れよう」とも言ってきた。だから際立って違う発言をしたとは自分では思えなかったのだった。しかし、指摘を受けて気づいた。これまでは、「受け入れられないことも受け入れる」と言いながらも、「受け入れる」が前提としてあったのだ。
 私がどもる人のセルフヘルプグループを作る前までは、どもりは治すべき、治さなければならないの情報しかなかった中で、どもる人やどもる子どもをもつ親の苦悩は続いた。どもりを治すべきだ、治さなければならないという大きな流れに対して、私は、「どもっているそのままでいい、どもっているそのままのあなたでいい」と常に言い続けた。それは、「どもりを受け入れよう」という呼びかけとして発信された。「どもりを受け入れる」なんてとんでもないという人に、「仮の受容」ということばを使っていたときもあった。まだ私は自分のどもりを受け入れることができていないと嘆く人を前にして、そもそも、「受け入れる」とはどういうことを意味するのだろうと疑問を持ち始めた。分かったような分からないような分かりにくいことばだ。人によってイメージがかなり違う。
 人間とは不思議なものだと思う。自分も言ってきたにもかかわらず、他人が声高に「吃音受容・障害の受容」を言うのを聞くと、ちょっと待てよと思う。「まだあの親は受容ができていない」などという臨床家の発言を聞くと、「受容」ってそんなに簡単にできるものではないのになあと思うようになった。そして、いつの頃からか私は「受け入れる、受容」ということばを使わなくなった。
 私自身の場合も、まず受容ありきではなく、「どもってもまあいいか」という程度のどもる事実を認めることが出発だった。どもる事実を認めると、吃音を隠し、話すことから逃げていた生活態度が、少しずつだが変わってきた。どもりながら生活をするようになった。7年ほど経過して、ふとふり返ったとき、あまり吃音に悩まなくなっている自分に気づいた。皮膚の傷がだんだんと癒え、薄皮ができてそれがすこしずつ剥がれていくような変化だった。自分がそのような経過を辿ってきたのに、私は「まず受容ありき」のような発言をしてきたのだろうか。
 今、私は、「受け入れなくてもいい。でも、どもっている事実は認めるでしょ?」と問いかける。どもる事実を認めるだけでいい。認めたら、どもることをだんだんと隠さなくなり、話すことから逃げなくなっていくだろう。受容はその生活の中で生涯にわたって続いていく変化のプロセスなのだ。
 声が出ずに、淡々と静かに話したことが、これまでとは違って受けとめられた側面もあるようだ。声が出ないのも悪くはないと思えたのだった。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/05/31

「受容」は、自分らしく生きるスタート地点

 「ステーション」という雑誌があります。神戸の生協が出版している雑誌で、兵庫県を中心に関西地方のさまざまなイベント、グルメ、旅、子育てなどを掲載した情報誌です。以前、定期購読していたのですが、途切れてしまい、また最近、購読を始めました。2000年、その「ステーション」に、吃音のことを取り上げていただきました。とてもいい記事でした。そのとき取材していただいた上村悦子さんとのつながりは続き、その後、『婦人公論』(中央公論社 20001年3月22日発売・4月7日号)にも取り上げていただきました。
 そのときのテーマは、《自分らしく生きるとは?》でした。このようにつながりのある上村さんにお願いして、取材を通して感じられたことをまとめていただきました。「スタタリング・ナウ」2001.5.19 NO.81に掲載したものを紹介します。

 『婦人公論』(中央公論社 2001年3月22日発売・4月7日号)の特集は《自分らしく生きるとは?》でした。日本吃音臨床研究会の活動が、4人の体験を通して紹介されました。その記事を書いたフリーライターの方が、取材を通して感じられたことをまとめてくださいました。

《吃音取材レポート》
   「受容」は、自分らしく生きるスタート地点
                 上村悦子(フリーライター)


 お恥ずかしい話ですが、吃音についての詳しい話を聞いたのは、昨年、『コープ・ステーション』という雑誌の取材で、伊藤伸二さんにお会いした時が初めてでした。子どもの心のケアのページで、連載4年目になり、次は何を取材させてもらおうかという時期での出会いでした。吃音のお子さんのことで悩んでいる親御さんがおられるなら、少しでもお役に立てればといった軽い気持ちでの取材だったのです。
 だからこそ、余計に衝撃が強かったのかもしれません。伊藤さんの幼少時代から現在までの歩み、複雑な吃音の症状、吃音をもつ方々の社会的に厳しい現状などを2時間余りでお聞きした、伊藤さん宅からの帰り道、編集者と東寝屋川駅(現在の寝屋川公園駅)までののどかな道を言葉少なにトボトボと歩きながら、お互いが「閉ざされた世界ってあるんやね」と、つぶやくように語りかけていました。
 そして、それだけ多くの人が悩み、苦しみ、解決できないままに人生を送られているのに、その深さを知らないできた自分に、また、知らされずにきた社会に、呆れ返ってしまったのです。そこで、まず感じたのが、現実をひとりでも多くの人に広めなければ、今の状況はいつまでも変わらないということでした。微力な私たちにできることは高がしれていますが、正しい情報を文章にまとめて送り出すことはできると思ったのです。
 今回また、伊藤さんに無理をいい、『婦人公論』でさらに深く取材させてもらうことになりました。伊藤さんをはじめ、本文にご登場いただいた3人の方には、きっと話しにくい内容だったでしょうに、これまでの人生を事細かに語っていただき、また、吃音研究の権威である内須川洸先生のお話も盛り込ませてもらうことができて、充実したページにまとめることができました。この場を借りまして、お礼申し上げます。
 私にとって今回の取材で特に印象的だったのが、27歳の女性・Aさんでした。吃音であるがゆえに自分自身を否定し、どうにもならない部分を心に封じ込めながらながら成長され、社会に出てからも、どんな理不尽な目に会っても、人を責めることなく、ご自分を周囲に合わせてきたAさん。仲間と出会い、長年背負ってきた重い荷物をおろして、自己を肯定できるようになってのささやかな幸せを、「こんなに幸せでいいのかと思う」という言葉に素直にできるAさんの純粋な気持ちにふれて、逆に芯の強さを感じ、取材しながらも心洗われる思いでした。物欲などに走りがちな同世代の女性たちに、こんな幸せもあることを知ってほしかったし、Aさんのこれからの人生にエールを送りたい気持ちでいっぱいになりました。
 吃音に関しては、多くの方にお話を聞けば聞くほど、体験談を読ませてもらえば読むほどに、個々の悩みの大きさ、奥の深さ、幅の広さを感じずにはいられませんでした。「受容」という地点に行き着くまでの道程も長く苦しいものでしょうが、そこに到達できないで生活する人々の辛さも想像以上のものでした。今の時代、目に見えるハンディキャップはなくても、親の過度の期待や周囲のプレッシャーなどで、「私が私であること」を認められず、心を病む人が増えていると聞きます。
 今回の取材を通して、悩みや不安など、内容は人それぞれに違っても、ありのままの自分を認める「受容」という地点こそ、自分らしく生きていくためのスタート地点であると、改めて思い知らされました。そして、ある方の「どもるのもそう悪くないと思えるようになると、それまで否定してきた気持ち、自分、嫌いだった人たちまでもが許せるようになった」という話を聞いて、受容でき始めるときの心のあり様というか、大きさというか、人はそうして気持ちを切り替えていける生き物なのだと、私自身、とても嬉しい気持ちにさせていただきました。本当にいろいろとありがとうございました。多くの方との出会いに感謝いたします(「スタタリング・ナウ」2001.5.19 NO.81)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/05/07

水町俊郎・愛媛大学教授と吃音 (2)

 昨日の続きです。読めば読むほど、水町先生と僕たちの、吃音に対する考え方がよく似ていることに驚きます。
 昨日、紹介した文章の最後に、水町先生は、最初勉強を始めた頃は、症状をどうやって取るかの勉強を一生懸命していたが、今は、完全にstutter more fluently approachの立場に立っているとおっしゃっています。症状だけやっていても、どうにもならないということが、私なりにわかったから、考え方を変えたのだということです。吃音研究者や臨床家で、これまでの方針を変える人はほとんどいません。吃音について真剣に向き合えば向き合うほど、吃音の当事者の考え方を聞こうとするものですが、内須川先生と水町先生は、それがとても顕著でした。水町先生の誠実さが見えます。吃音の背景にある心理に重点を置くという考え方をしていただいていること、ありがたいと思いました。

吃音について思うこと
                  愛媛大学教授 水町俊郎

どもる人の誤った観念
どもる人の誤った観念の代表的なものが、「デモステネス・コンプレックス」です。「どもりさえなければ人に負けない」「どもりさえなければ幸せになれる」逆に言いますと、どもりがあるから人に負けてばかりいますし、どもりのせいで幸せになれません。どもりのために恋人ができない、どもりのためにいい就職口がない、など、うまくいかなかったことを、何でもどもりのせいにします。そういう考え方が根底にある、「どもりさえなければ」という考え方がデモステネス・コンプレックスです。
このデモステネス・コンプレックスのことを、非常にわかりやすく、もっとひろげて言った人がジョゼフ・G・シーハンです。
彼は、「鎖につながれた巨人のコンプレックス」("Giant in chain”Complex)と表現しました。小人の国のガリバーと同じです。鎖につながれていますから、どうにもできません。しかし、鎖さえはずれたら、自分は何でもできます。
 ところが、これはおかしいのです。私はどもりではない。どもりではないから何でもできているかと言いますと、ほとんどできていません。どもりでなかったら何でもできる、ということは絶対にありません。
 こういうふうに、どもる人ができないことをどもりのせいにする、という考え方に代表されるような歪んだとらえ方を正していく、もっと前向きにしていく、というのがstutter more fluently approachの基本的な考え方であると思います。

アサーション(自己主張)の研究
アサーションについての私の研究の一つを紹介します。これはあくまでも仮説ですが、どもる人は吃音であるがゆえに、言うべきことを言わない、やるべきことをやらないで、引っ込んでいるのではないか、ということを私なりに考えました。そのことを、データーの上でどうなっているか、検証しようと思ったわけです。
10年前のその当時、アメリカにおいて、アサーション・トレーニングで吃音の指導をしたという論文に、三つあいました。ところが、一体どもる人は、吃音でない人に比べて、どの程度自己主張できているのか、ということを調べた研究は一つもありませんでした。
 そこで私は、皆さんにお願いして調査をしました。どもらない人とどもる人との間には、違いがあるかどうか調べたわけです。私の予想では、どもる人の方が自己主張ができてなくて、どもらない人の方が自己主張できてるとばかり思っていました。ところが、調べてみると必ずしもそうではない。
 ある面では確かに、どもる人よりもどもらない人の方が主張的でした。ところが別の側面では、逆にどもる人の方が自己主張をちゃんとしていて、どもらない人の方が自己主張をしていません。もう一つ分かったのは、どもる人の中を分けて比較してみますと、自己主張できている人と、できていない人がはっきりと分かれます。
 この二つのグループについて、彼らが自分の吃音をどの程度と考えているか、とか、吃音にどの程度悩んでいるかとか調べますと、これが、主張しているか(高主張群)、していないか(低主張群〉、とものすごく関係します。
 たとえば、「自分の吃音は重い」と考えている人の割合は、低主張群の方が多いのです。高主張群は、重いと考えている人は少ないのです。逆に、自分の吃音を軽いと考えている人は、低主張群では少なくて、高主張群がずっと多いのです。つまり、自分を主張できていない人は、自分の吃音を重いと思っているわけです。
 どの程度悩んでいるかについても、高主張群と低主張群とでは有意差があります。たとえば、非常に悩んでいる人が低主張群にぐっと多いのです。それに対して、高主張群は、非常に悩んでいる人が少ないのです。逆に、ほとんど悩んでいないという人は低主張群には少ないのに対して、高主張群になるとぐっと増えます。
 だから、自己主張できているかいないかということと、自分のどもりにとらわれているかいないか、ということは、非常に関係があるわけです。
 自己主張できていない人は、自己主張できていないだけでなく、自分の吃音にとらわれて、自分の吃音がひどいと自己評価し、思い悩んでいる、ということです。

吃音受容
 今までの話から、吃音の人の問題のポイントは、間違ったとらえ方を正して、自分なりに主張すべきところは主張するということになってくるわけですが、そのためには、自分の吃音を受容する、ということが前提になります。根底にそういうことができませんと、間違ったとらえ方から逃れる、ということができにくくなります。
 受容の問題は、大阪吃音教室ではよく言われていますので、どもる人の専売特許かと思われるかも知れませんが、決してそうではありません。
 受容の問題は、末期ガンを宣告されて死を受容しなければならない人の問題でもありますし、年をとってきて、自分の老いを自覚しなければならないのも、一つの受容です。人間すべてに関係する問題です。
 我々もそうです。理想と程遠い自分を認めないと、どうにもなりません。欠点の多い自分というものを受容していきます。自己受容はすべての人の共通の問題であるわけです。
 私も二十歳の頃がありました。その頃私は自分がイヤでした。男前じゃないし、頭は悪いし、性格は暗い。自己否定的な思いをした時期があります。その頃読んだ本の一つが、高神覚昇という人の「般若心経講義」という本です。その中に「塵(ちり)の効用」という項がありました。
 朝焼け、夕焼けは美しいが、それは、ちりに太陽光線が反射してできるんだ。「ちり、あくた」と役に立たない物として毛嫌いするけれども、そういう一見役に立たないと思われる物があるからこそ、人に感動を与える朝焼け、夕焼けが見れるんです。世の中に役に立たないものはない。
 これを読んだ時、私もまだ生きていく意味があると思いました。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/02/18
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