伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

優しさ暴力

大阪吃音教室特別講座「鬱と吃音から見えてきたもの」2

大阪吃音教室特別講座
  「鬱(うつ)と吃音から見えてきたもの」 2
            講師   平井雷太さん(セルフラーニング研究所所長) 
            聞き手  伊藤伸二

 優しさ暴力ということばは、インパクトがありました。僕はそれまで、小学2年生のときの学芸会でセリフのある役を外された経験を、担任教師からの不当な差別だと考えていました。担任教師本人に確かめたわけではないので、本当のところはわかりませんが、どもったらかわいそうだとの、優しい配慮だったといえるかもしれない。そう思えたのは、平井さんの詩がきっかけです。どちらにしても、僕は大きく傷ついたのですが。優しさの暴力について、平井さんに尋ねていきました。

◇優しさの暴力
伊藤 僕の個人的な興味でお聞きします。まず、「優しさの心の傷」を「配慮」とし、人の配慮が人を傷つけることがあると、とらえていいですか?
 僕は今まで全然気づかずにきたけれど、平井さんの優しさの傷という詩を読んで、「ああ、配慮が人を傷つけるんだ」と、鮮明に浮かび上がってきました。小学2年の学芸会で、どもるためにせりふのある役を与えられなかったことが、僕がどもりに悩んで、現在もどもりにこだわっている原因なんですけど、そのときは教師が「不当な扱い」をしたと、ずっと思ってた。ところが、この詩に出会って、「教師は、せりふの少ない役を与えて自信をなくすのを防ごうと、配慮をしたのかもしれない」と考えることもできる。そうすると、僕はその配慮によってものすごく傷ついて悩んできたことになる。そんなことと何か通じますか。

平井 今、僕が教育をやることになったのは恐らく、先生方や親が子どもたちにやっていることは全部配慮だと思ったからです。良かれと思って、だれも傷つけようと思ってやる人はいないのに、相手のことを考えることで全部傷ついていくわけです。「教えない」と言っているのも、教えることも「配慮」ですから。子どもの将来のために良かれと思って宿題も出すし、体罰もする。大義名分があって、正義の名のもとに全部暴力が行われている、というふうに考えてます。どもりで、ものすごいいやなこととして印象に残っているのは、配慮です。優しくしてくれたことばかりなんです。どもりでいじめられたことでは、あんまり傷ついてないんです。「このやろう」「ぶっ殺してやろうか」と思ったぐらいだから。

伊藤 実際にいじめられたこともあるんですか。

平井 ある。バカにされても、「ふざけるな」と思えばいい。要するにバカにするやつは、自分より低い人間、品格がないだけの話で、そんなことは別にどうってことない。だけど、僕の親友、僕の好きな女の子、身近な人がいろいろ気を使って、「代わりにキップ買ってあげようか」、「電話をかけてあげようか」と、言われるのがいやだった。
 だから、逆に一番僕が良かったと思っている美術の教師は、5分とか10分とか沈黙がずーと続いても、僕に当て続けた。その教師だけが僕を人間扱いしたと思ってる。そういうふうに思ってるから、気を使う、人として見てない、見下してるのかどうなのか、に非常に敏感だった。その美術の教師だけは、授業が始まったら僕に当てる。それは「どもりに立ち向かえ」みたいにしてたんでしょう。あれはかなり良かったですね。最初は嫌だったけど、僕がこれだけの時間独占できるんだと。(笑い)

伊藤 独占してたと思えたんですか。

平井 だってその時間、「みんな、ざまーみろ」ってことじゃない。僕が一人で全員の注目を浴びるわけだし、言うことないですよね。そのために授業がすごい遅れても当て続けるんだもんね。そういうのって、堂々とどもれる。

伊藤 嫌だというわけではないんですか。

平井 最初嫌でもね、やってるうちに快感になってくるね。わかってるのに当てるわけですね。

伊藤 オレの責任じゃないわけだ、当てるのは。

平井 当てた人の責任なんだから、うまくやる必要もないわけ。だから、だんだん開き直ってきますね。「この教師はなんだ」と最初は思ったけど、そのうちおもしろくなってきた。そのとき、どれくらいどもってどうだったか、あんまり記憶にないんだけど、とにかく行ったら毎時間当てられることだけは覚えてる。だけど、初めて人間扱いされたと思った。いじめてるんじゃないですね、ぜったいにこれは。

伊藤 そういう信頼があったわけですね。

平井 いや、いじめてるんかな、ちがうと思うけどな(笑い)。皆の時間を犠牲にしてまで、教師がわざわざそんなことしないよね。

伊藤 そのころは、それくらいどもってたんですか。

平井 今でもどもりますよ。たとえばさっき、「平野」から来たって言ったでしょ。「駒川中野」と言うとどもりそうだから、「平野」と言ったの。(笑い)

伊藤 それは僕たちと一緒だ。今でもそういうふうにどもるときってあるんですか。

平井 いくらでもある。すしやに行って、「……」今もどもって出ない。ア行がだめなんです。「……」

伊藤 「あじ」がいまおいしいですけど。

平井 今「あなご」と言おうとしてた(笑い)。好きなんだけど、困るんだよね、これが。どもりなんて、治んないですよー。

伊藤 これだけ、方々でいっばい講座を開いて、講演をしたり、いろんなことをやっててもですか。

平井 だから、考えなかったら、あんまりどもってるようには見えないですよね。何か決まったことを言わなきゃいけないと、すごいどもる。とにかく頭をあんまり使わない練習を、日々やってる。

伊藤 僕はどもったときに、そんな優しさを受けた記憶がないんですね。平井さんはぽっちゃりして母性本能をくすぐるような子だったんですか。僕はどうなんだろうな。優しくされた記憶が全くない。

平井 優しさの暴力を一番感じたのは18のとき。僕は長崎県で生まれ、3つで東京に養子に来た。自分の本当の親を知ったのが18のとき。それも親からじゃなくて、2階に下宿していた学生から聞いた。そのとき、そのことを僕の周りの者は全員知ってた。だれも言わなかった。ずっとテニスばかりやってて、高校3年になってひまになって、今の親が本当の親じゃないかもしれない、と、ちょっとだけ思って、それで冗談半分に、下宿の学生に「オレの親はどう考えても本当の親じゃないみたいなんだけど」と言ったら、「えー、知らないの、お前」って言われた。学校の教師、近所の子、八百屋まで、僕の周り中全部知ってる。これが僕にとっては優しさ暴力ですね。みんな僕のことを考えて言わないんだから。
 そのときに、思いやりとは何か、と思った。僕は人間として扱われてないと思った。それがいろいろ考え始めるきっかけですね。だから、それはそれで考えるきっかけになって良かったですね。それまでは本当にテニス馬鹿で、テニスしか、してない。どもってても、そのことはただの悩みで、伊藤さんみたいにこうやってどもる人の会を作るエネルギーはない。

伊藤 平井さんにとって、子どものときから思春期にかけて、どもりはどんな影響を自分に与えたと思いますか。

平井 さっき言った美術の教師に出会ったのが中学3年のとき。それまでは、学校は恥をかかされる場所だった。赤面対人恐怖で、道歩いてたって電信柱に「赤面」「対人恐怖」「どもり」って見るだけで、どきっとしてたもんね。

伊藤 ああ、あれ嫌でしたね。

平井 小学校の通信簿は「内気である」、「言われたことしかしない。自発性がない」。そりゃそうです。授業中手を挙げたことないから、ほとんど。指されりゃ、それなりに答えてたけど。何か言おうかな、と思っただけで言えなくなる状態を想像するでしょ。それでどんどんしゃべらなくなった。通信簿にそういうふうに書かれ続けてきた。今思えば、ものすごい役に立っていますね、書かれたことが。
 通信簿にぼろくそ書くのは、いい子になってもらいたい、という教師の配慮でしょ。いじめようと思って指摘しているのではないでしょ。だけどよく考えると、6年間指導し続けても何も変わらないってことでしょ(笑い)。指摘する側が馬鹿だよね。だから、指摘ということにはほとんど意味がない、ということを学ぶためには、あの6年間は意味があったなと、過ぎてから思う。そのときは本当に僕は内向的で、内弁慶だから、家の中では悪態ついてすごかったけど。外へ出るとおとなしくて、本当にいい子で。一人っ子でね、弱々しくて。そりゃ、助けたくなるじゃないですか。だから、自分は内気だ、みたいに人格形成されてるって思い込んじゃうよね、自分で。(「スタタリング・ナウ」2001.8.23 NO.84)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/05/22

配慮が人を傷つける

 僕が吃音に深く悩むようになった原点ともいえる小学2年生の秋のできごとは、これまで幾度も語り、書いてきました。せりふのある役を外した担任教師、一言も相談してくれなかった担任教師の真意は、悪意からきているのか善意からきているのか、わかりませんが、僕は傷つき、深い悩みの中に入っていったきっかけになったことは違いありません。人権問題としてとらえたとき、あのできごとのもつ意味が明確になります。
 「スタタリング・ナウ」2001.8.23 NO.84 の巻頭言を紹介します。

  
配慮が人を傷つける
                    日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 「私の吃音の長い苦しみの旅は、小学校2年の学芸会でセリフのある役を外されるという、教師の不当な扱いから始まった」
 私は長い間そう思っていた。小学校から、高校を卒業するまで、どもる私の苦しみを理解しようとした教師はひとりもいなかったから、よけいに「不当な扱い」だと思っていたのだろう。
 しかし、平井雷太さんの詩、『いじめられっ子のひとりごと』に出会い、教師の対応は、意図した不当な扱いではなかったのかも知れないと思い始めた。
 平井さんは、「いじめっ子よりも、私がどもると、私のそばで一生懸命助けてくれた友だちの優しさに傷ついた」といい、優しさ暴力という表現を使う。
 「学芸会は大きなイベントだ。成績は一番だが、どもる伊藤には、セリフの多い主役はさせられない」
 担任はこう考えたのだと思って来た。しかし、そうではなく、優しい配慮だとも考えることはできる。
 「どもる伊藤にセリフのある役をさせて、人前でどもって失敗したら、自信を失わせ、かわいそうだ。だから、どもらないですむよう3人でセリフを言わせよう」
 どのように考えたにせよ、教師からは一切相談や説明はなかったから、教師の真意は分からない。どのような意図があったにせよ、仮に優しさだったとしても、私が大きく傷ついたことに間違いはない。
 「なぜ僕はセリフのある役をさせてもらえなかったのか。それは僕がどもりだからだ。どもってセリフを言ってはいけないのか。どもりは悪いもので、劣ったものなのか。どもる僕はダメな人間なんだ」
 それまで、いくらどもってもどんどん発言し、吃音が日常生活にマイナスの影響を全く与えなかった。どもることすら自覚していなかった私が、どもりをマイナスのものと、強く意識してしまった。どもりを否定し、自己を否定し、吃音の悩みに入っていった。
 教師は、私への露骨な差別意識から、不当な扱いをしたのではなく、よかれという善意からの配慮だったとしたら、その配慮が裏目に出て、人を深く傷つけたことになる。平井さんのクラスの友だちの優しさも裏目に出た。私の教師も、平井さんのクラスの友だちも、おとしめよう、いじめようとしたわけではないから、悪意はないだろう。だから、本人は相手に悪いことをしたという意識は全くないだろう。
 今年の6月、3年目になる、どもる子どもたちのための、島根スタタリングフォーラムが開かれた。私は、今年も保護者の話し合い、学習会を担当した。
 その中で、「今、目の前でどもっている子どもを見てどう思うか?」と尋ねたとき、ほとんどの親が、「かわいそうと思う気持ちになる」と言った。「かわいそうと思う気持ちは、分からないではないが、その気持ちが子どもを否定することに繋がるんですよ」と私は指摘し、「お母さん、あなたがもし、誰かに、『あなたはかわいそうな人ですね』と言われたら、どんな気持ちがしますか?」と尋ねていた。仮にかわいそうと思われる状況だったとしても、他人から「かわいそう」と思われるのは嫌だと、その場の保護者の方々は言ったのだった。
 話し合いの振り返りで、どもる子どもの親で、自身もどもる人が、最後の感想にこう言った。
 「私は、今まで、どうして私が吃音についての強い劣等意識をもつようになったのか、疑問がずっと残っていました。私の記憶の中では、誰からも『どもりは悪いもの、劣ったもの』と直接言われたことがありません。それなのに、強い劣等意識と嫌悪感、どうしても治さなければならないとの思いを強くもっていました。それがなぜなのか今やっと分かりました。周りの人が、私のどもっている姿を見て、『かわいそう』と思う、一見善意の気持ちが、逆に私に強い劣等意識を植えつけたのです。ことばでは、いくら『どもってもいいんだよ。どもりは悪いことではないんだよ』と言っても、子どもは、『かわいそう』という本音を敏感に感じ取っていたんです。『かわいそう』の裏には、自分よりも劣っている人を哀れむという優位性が隠されているのではないでしょうか。かわいそうだと思われている子どもは、『どもることはかわいそうで、悪いことなんだ。本当はどもってはいけないんだ』と、どんどんどもりを否定する気持ちをもっていったんですね」
 『かわいそう』『優しさ』『配慮』の裏には、その人の人権を踏みにじっている場合があることを、知っておきたい。子どもと、吃音についてオープンに話が出来ないのは、吃音を少なくとも肯定していないからではないか。子どもを無力な存在だと大人が思っているからではないか。その子の人権を尊重すると、また吃音を否定していなければ、子どもと吃音を率直に話せるのではないか。
 吃音との直面を、人権という角度から考えたい。

(「スタタリング・ナウ」2001.8.23 NO.84)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/05/18
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