伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

倉戸ヨシヤ

ゲシュタルトセラピー 〜第18回吃音ショートコース〜

 昨日の続きです。ワークがつづきます。いろいろなワークを通して、「今、ここに生きる」を感じていた3日間でした。(「スタタリング・ナウ」2013.2.22 NO.222)

第18回吃音ショートコース 2012/11/22〜24
   ゲシュタルトセラピー

                    報告:大阪スタタリングプロジェクト堤野瑛一

ワーク 想像と観察

倉戸:現実適応という言葉がある。現実は、自分の目で見、耳で聴き、肌で感じたこと。五感から感じるもの以外には何もない。不安とは、自分が頭の中で考えていることに対する不安で、結論なんて出ないし、解決もしない。過去の事を考えても不安、未来のことを考えても不安。すべてが、「今」考えていることに対する不安。過去や未来に対する対話も、「今」「ここ」でする。
 二人一組になって、一方が、相手をいろいろと想像して、「あなたはこんな人ですね」「あなたはこんな状態ですね」と伝えてみて下さい。「あなたは今、しんどいでしょう」「あなたはいつも、気を遣い過ぎています」と言ってみる。
 さて、言われた方は、どんな経験をしましたか?

参加者:
 「どんなことを言われるんだろうと不安だった」
 「私のことを言う前に、嬉しそうな表情をしてた」
 「全然当たっていなかった」
 「言うことが思い浮かばず、困っていた」
 「この人は、欠点であっても、私を傷っけないように言ってくれるなあと思った」
 「何を言おうか考えながら、目が合っているようで、合っていない感じがした」

倉戸:想像は、相手を見ながらではできない。想像は、頭の中のその人を見ることだから、目の前の相手とは目が合わない。出会わない。データがそこにあるのに、全部逃してしまう。
 想像をした方。どんな経験をしましたか?

参加者:
 「自己イメージと全然違うことを言われて驚いた」
 「相手を傷つけないように気をつかった」
 「想像を言ったら、相手がニヤリとしたので、してやったりと思った」
 「知っているのに、想像が膨らまず、困惑した」
 「顔の表情だけでなく、体全体から何かを読み取ろうと頑張った。」

倉戸:今度は相手のことをじっくり「観察」して、観察したことを、相手に伝えて下さい。
 伝えた方は、どんな経験をしましたか?

参加者:
 「相手の目をしっかり見ることができた」
 「想像では、あまり言うことが出て来なかったけど、観察だと、いくらでも言えた」
 「自分は相手を直視するのが怖いのだなあと感じた。じっくり見るのが怖かった」
 「見たままを言えばよかったから、気が楽だった」

倉戸:では、伝えられた方は?

参加者:
 「じっと見つめられて、心の中まで見透かされているようで怖かった」
 「白髪を指摘されて、何をそんなしょうもないところを見てるんやと思った」

倉戸:「髪が伸びましたね」と観察の結果を言う場合、比較でなければならない。「以前に会った時よりも伸びましたね」と。そうすると、少なくとも相手と、その情報をきちんと共有できる。これが、とても大切なこと。でも当然、リスクも伴う。それは言われたくないことだったのかもしれない。
 観察とは何か。想像とは何か。皆さんで定義をしてみてもらえませんか?

参加者:
 「観察とは、相手と共有できること。想像とは、まだ自分の中にしかない相手。まだ相手と共有できるかどうか分からないこと」
 「観察とは、ほかの人が見ても分かること。想像とは、自分の目と考えからしか出てこないこと」
 「観察は、主観を述べずに事実のみを述べること。想像は、主観を入れて膨らませること」

倉戸:想像と観察。どちらがいいとか悪いとかではないが、人間関係で、相手と「出会う」ことを望むなら、観察が大切だけど、いつも観察ばかりだと、しんどい。
 観察とは、カメラで写せるもののことです。「綺麗だ」は、写真には写らない。こちらの思いや評価を重ねたことで、レッテルを貼る、思い込み、心理学では、投射とか投影と言われます。
 想像と観察の二つをうまく使い分け、きちんと行き来できることが大切。僕の話を聞いてうんうんと頷いてくれている人がいる。これは観察。そこで、僕の話をよく分かってくれているなあと想像する。でも実際は、聴いている振りをしているだけかもしれない。だから、きちんと相手に確認する。「どうですか?」「それでいいですか?」、こういう確認作業が、とても大事。決めつけないできちんと確認をすること。
 首を縦に振っている人に、「どうせ分かってへんでしょ」と決めつけて言ったら、相手は傷つく。こういう時の隠れた主語は、「私」で、述語は「思う」。だから、きちんと言い直すと、「私は、あなたは分かっていないと思う」。日本語では、あまり主語を言わないのが習慣になっているけれど、「私は」ときちんと言うこと。「あなたは分かっていない」は、文として不完全。
 想像と観察を、きちんと自覚して、両方使う。「僕にはあなたはすごく疲れているように伺えますけど、どうですか?」と。表情や歩き方を見て、「疲れてるやろ」と決めつけてしまうと、相手との間にズレが生じ、人間関係がうまくいかない。ズレが出ないようにするのが、私たちの考えです。

参加者の感想:観察だけでは、情報量が限られていたけれど、想像を駆使して、相手に確認しながら話を広げていくと、相手と共有できることがどんどん増えてきて、相手のことを、よりよく知ることができました。

イメージワーク

倉戸:自分を何かに喩えて、喩えたものになりきって、「私は○○です」と言ってみて下さい。僕や皆さんから、質問を投げかけます。これを言ったら、どんな質問をされるだろうと、最初からシュミレートして、不安に思ったりはせずに、とりあえず「今」思ったことを言うように心掛けて下さい。現実の生活でのことを喩えることはないけれど、イメージの力を利用して、現実の出来事だけを見ていては言えないことを言えたり、気づけなかったことに気づければいいなと思います。

〈事例1>
参加者:私は時計の針です。
―どんな大きさの時計ですか?
参加者:壁に掛かっている時計くらいです。
―ではしばらく、あの時計の針になりきって、イメージを膨らませて下さい。あなたは今、どんな状況で、どんな気持ちですか?
参加者:私は最近、カチカチカチカチと、ずっと走り続けています。以前は、流れに任せて来た感じなんですが、今は、自分で走っている。
―走っていて、どんな気持ちですか?
参加者:どこにたどり着くのか分からないという不安があります。でも、そんなに苦しくはないです。
―時計の外には、なにか景色が見えますか?
参加者:外は見えなくて、次に来るものだけが、次々と見えている感じです。
―仲間はいるんですか?
参加者:仲間はいなくて、一人で走っているんですが、ほかの時計でそれぞれ走っている針たちが見えます。子どもが追いかけて来ているような感じがしますが、時計の針なので、ずっと同じ間隔を保って動いているため、追いつかれるという不安はありません。ひたすら前だけを向いて、タッタッタッと走っていて、後ろのことはあまり気にはなりません。
―ほかに話したいことはありますか?もうこれで終えることはできますか?
参加者:はい。

〈事例2>
参加者:私は、タイヤがパンクしているのに走り続ける自転車です。本当はもっとスムーズに走りたいのに、いちいちガタンガタンと蹟いて、気持ちよくない感じがします。
―パンクしてどれくらいになるのですか?走るのを止めることはできないのですか?
参加者:1年くらいです。ブレーキも壊れてしまっています。
―さらにしゃべりたいことは?
参加者:止めることをせずに、走りながら修理することはできるのかな?と思います。
―無理にでも止めることはできないのですか?走り続けていてどんな気分ですか?
参加者:状況が、止めることを許さないというのもあるし、私の能力を超えて走り続けているので、あちこちにガタがきていて、しんどいです。
―走っているのは、坂道ですか?平道ですか?
参加者:平道です。でも自転車自身に欠陥があるので、決してスムーズには転がってくれません。
―何か景色は見えますか?どんな景色ですか。
参加者:何もない真っ白な景色で、早く景色が変わってほしいのですが、ひたすら同じ景色が広がっています。具体的な物は何も見えません。

〈事例3>
参加者:私は毛糸玉です。
―これから何になりたいのですか?
参加者:セーターか手袋になりたいのですが、自分一人ではなれないのです。
―ほかにも同じような毛糸玉はあるのですか?それとも一人ですか?
参加者:今は一人です。
―何色ですか?
参加者:茶色とか、暗い感じの色です。
―上等な毛糸玉ですか?
参加者:800円くらいの、そこそこ高価な毛糸玉です。人に身につけてもらえるような物に誰かに編み上げてもらいたいです。
―今あなたは、どこにどんな状態で置かれてあるのですか? どれくらい、そんな状態ですか?
参加者:家の床に転がっています。もう5、6年になります。
―今の毛糸玉の喩えは、あなたの現実の生活をなにか反映していると思いますか?
参加者:はい。婚活をしているのですが、うまくいかないとか。早く誰かのお役にも立ちたいと思っています。

〈事例4>
参加者:私は、うるさいラジオです。
―どんな番組が流れてるんですか?
参加者:日常生活の出来事をDJがしゃべっている番組です。
―あなたはどれくらいの音量ですか?いつからそんな状態ですか?
参加者:昔から。かなりの音量ですが、誰も絞ってくれず、放ったらかされています。自分では絞れないので、誰か、ボリュームを絞ってほしい。
―嫌な人であっても、絞ってほしい?
参加者:絞ってくれる人なら好きになります。
―どんなところに置かれてあるの?
参加者:台所の上の方。でも、誰も見てくれない。声だけが流れている。うるさいなあと思いながら、放ったらかされている。
―ボリュームの絞り方は、誰にでも分かるの?
参加者:いえ、分かりにくい。絞るのが難しいのかも。私は無茶な要求をしているのかなあ。私が絞ってあげようという人、現れないのかなあ。
―もうしばらく聴いていようと思われているのかもしれないですよ。
参加者:あ、そう言われたら、嬉しいです。
―誰もボリュームを絞ろうとしないのは、誰もうるさいと思っていないのかもしれない。あなたのからだから聴こえてくる音楽とかがあるのかもしれない。
参加者:いいえ、そうではないと思う。
―ほかに話したいことは?
参加者:私がなぜ自分をラジオに喩えたかというと、私が話しかけたい人に、全然声が届いていないなあと思って。

〈事例5>
参加者:私は自然の中に見えている満月です。
―今から欠けていくという不安はありますか?
参加者:それはありません。
―自分の光がどこに届くか分かってますか?
参加者:自分が意識している以上に、どこかを照らしている気がします。
―綺麗だと言われてどう思いますか?
参加者:事実ではないことでも、その話をすることでワクワクしてくれていれば、嬉しいです。
―太陽は温かい存在ですか?邪魔ですか?
参加者:似ているようで少し違う仲間の感じです。
―雲がかかってきたら憂鬱ではありませんか?
参加者:しょうがない。嫌ではありません。どこまで続くか分からない雲は、ちょっと怖いです。
―湖に映る自分の姿を見て、どう思いますか?
参加者:惚れ惚れとします。

ワーク「私は吃音です。だけどお陰様で……」

倉戸:僕は、吃音の高校の教師から、卒業式で生徒の名前を言うことへの不安の相談を受けたことがあります。私と吃音との最初の出会いでした。その時、私は彼にこんなふうに言いました。
 「君は不安になっているね。卒業式で担任として、一人一人の名前を呼ぶ必要があるからね。保護者や校長、同僚、生徒の前でどもったらどうしよう、声が出なかったら恥をかくことになるとね。君の不安が乗り移ってきて、僕も不安になるよ。だけど、どもっても、声が出なくても、恥をかいても、君は君なんだ。生徒はみんな知っているさ。一年一緒に過ごしてきたのだから。ありのままの君でいいじゃないか。ありのままの君に生徒は一年間もついて来た。反抗もせず、笑いもせず。それは、みんな君にOKを出して、君に感謝をしているからだ。全身で、どもることも含めて、まるまる全部の君でぶつかって来たことに、拍手しているんじゃないかな。生徒も君も、多くのこと、人として大切なことを互いにぶつけ合っで学んだ一年間ではなかったのかな。さあ、明日は卒業式。君は君でしかない。ありのままの、君らしい卒業式になるように、エールを送っているからね」
 皆さんも吃音で辛い体験をしてきたかもしれませんが、きっとそれだけではなかったはずです。こんなふうに、きちんと言葉にしてみて下さい。
 「私は吃音です。卒業式を控えてとても不安です。だけどお陰様で、生徒にありのままの自分で全力でぶつかれました。吃音、ありがとう」

参加者:私は吃音です。長い間一人で悩み、人に自分の弱いところを見せられない寂しい時期を過ごしてきました。だけどお陰様で、いい仲間にたくさん出会えました。吃音、ありがとう。

参加者:私は吃音です。若い頃、人とのコミュニケーションがうまくできず、吃音のせいだとずっと思っていました。だけどお陰様で、自分と自分の中にある吃音との関係を理解することで、ほかの人よりも、コミュニケーションについて深く考えることができました。吃音、ありがとう。

参加者:私は吃音です。そのせいで、人生のレールから外れてしまいました。だけどお陰様で、常識から外れる勇気と心地よさを知ることができました。吃音、ありがとう。

参加者:私は吃音です。少年青年時代、ずっと苦しんできました。だけどお陰様で、定年後もずっとつき合える吃音仲間にたくさん出会えました。吃音、ありがとう。

参加者:私は吃音です。恥ずかしい思いをたくさんしました。だけどお陰様で、他で悩むことが少なくて済みました。だから吃音、ありがとう。

参加者:私はどもりませんが、ビクビクしながら生きてきました。だけどお陰様で、ここにいる仲間と出会うことができました。ありがとう。

参加者:私は吃音です。会社の朝礼で、発音の練習をしなさいと言われました。だけどお陰様で、恥ずかしさに耐える力を身につけたし、吃音を開示することもできました。吃音、ありがとう。

エンプティ・チェア

 エンプティ・チェアとは、クライエントの心の中の分身、自分自身、重要な人物、事物、身体の一部、架空のものを対象化かつ擬人化し、クライエントの向かいの椅子に座らせ、対話を進めていく技法。クライエントは、自分自身と対象の両方の役割を交互に繰り返す。参加者の一人が、「どもり」を相手にエンプティ・チェアを体験した。

倉戸:どもりに対する気持ちを言ってみて。
参加者:どもり様、あなたは非常に不気味な存在で、掴み所がありません。あなたのことを分かろうとしても、一向に分からない。あなたのせいで、随分と惨めな思いをしてきました。
倉戸:どもり様に向かって、思い切り思いをぶつけてみて。
参加者:あなたのせいです。
倉戸:十分に言えたと思うまで、何回でも。
参加者:あなたのせいです。あなたのせいです。あなたのせいで、すべてにおいて自信がもてません。他人の評価が、いつも気になります。人の目ばかりを気にして生きてきました。人からよく思われたい、そのことばかりを追い求めてきました。人から無視されるような対応に、たまらない思いをしてきました。
倉戸:何か、ほかに言いたいことは出てきましたか。そんなに憎い相手なのに、どもり様という呼び方でいいですか。気持ちが変わってきたら、もっとしっくりくる呼び方に変えてみて下さい。
参加者:どもりさん。私は傲慢な人間です。自分よりも下だと思う人には傲慢に振る舞って。
倉戸:傲慢な私も、どもりさんのせいなの?
参加者:……違います。
倉戸:じゃあ、それを言ってあげてよ。
参加者:私は傲慢なのは、あなたのせいではありません。
倉戸:じゃあ、もとから傲慢なんだ?
参加者:そうかもしれません。
倉戸:ほかに何か出て来た気持ち、気がついた気持ちはありますか?
参加者:どもりさんと敬遠しながら、実は、どもりさんに包まれていた、守られていたのかもしれないという気持ちがあります。
倉戸:じゃあ、もうどもりさんを嫌って喧嘩するの、もう終わりにする?
参加者:どもりさん、もう終わりにしてもいいですか?
倉戸:どんな返事が返ってきそう?どもりさんになってみて返事してみてください。
参加者:お前次第だ。
倉戸:もう、どもりのせいにでけへんなあ。
参加者:えらいことになりました。
倉戸:ほかに、どもりさんについて思うことは?
参加者:戦友やと思いました。戦友のどもりさん。
倉戸:今、どんな気持ちですか?
参加者:ああ、そうかあ、みたいな。一緒に軍歌でも歌おう。「同期のさくら」をみんなで歌う。

 ずっと吃音の苦しみを抱えてきた一人の仲間の、大きな変化、感動的な場に立ち会うことができた。「あなたのせいです」と涙を流しながらの悲痛な叫びに、私自身の経験が重なり、共鳴し、目頭が熱くなった。対話が進むにつれて、この参加者に余裕と笑顔が見え始め、自分のどもりを戦友だと言った時には、私自身も、その場にいた参加者たちに対して、強い仲間意識を新たにさせられた。仲間意識といっても、閉鎖的な結束感ではない。日常生活の場では当然生きていくのは一人一人だが、帰って来ればいつでも安心して語らい合える仲間がいる。かけがえのない大きな安心感である。
 エンプティ・チェアを終えたあと、この参加者は、その場に居合わせた全員と、ハイタッチを交わし歩いた。私もそのハイタッチを受け、戦友という言葉が、しみじみと胸の奥に心地よく入っていった。会場全体が、なんとも言えない心地の良い温かな光に包まれたように感じた。

 三日間の最後は、倉戸さんと伊藤伸二さんとの対談。「PTSDなんてレッテル貼り」、「勝ち組、負け組という価値観から降りて草の根的存在に」、「どもる人は、スピードや効率ばかりが重視される世の中に待ったをかける重要な存在」など、私の興味を強く引き大きく頷ける話題が繰り広げられ、大変勇気づけられた。これからまた日常に戻り、挫けそうになっても、来年のショートコースまで、気持ちを新たに生きていこうという、清々しい気持ちに満たされて、会場をあとにした。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/09/26

ゲシュタルトセラピー〜第18回吃音ショートコース〜

 2012年秋の吃音ショートコースは、講師に倉戸ヨシヤさんをお迎えし、ゲシュタルトセラピーを体験しました。贅沢な時間でした。(「スタタリング・ナウ」2013.2.22 NO.222)

第18回吃音ショートコース 2012/11/22〜24
   ゲシュタルトセラピー

 倉戸ヨシヤさんの温かく気さくな人柄に委ね、朝から晩までまる一日かけての講習。いたる場面で、ゲシュタルトセラピーのキーワードである「今、ここ」が体現、喚起される、貴重で贅沢な時間であった。私にとって印象的だった模様を紹介したい。
                    報告:大阪スタタリングプロジェクト堤野瑛一

体、どんな状態ですか?

倉戸:今、自分がどんな顔をしているか、声をしているか分かりますか。私は今風邪をひいていて、少し違和感があります。自分の声ではないみたい。自分の体に注意を向けて点検してみて下さい。

参加者:体全体がだるい・顔がこわばっている・肩が凝っている・息が苦しい・腰が痛い・首が痛い・胃が重い・表情が固まっている・目が疲れている・瞼が重い

倉戸:きちんと言葉にして、自分を表現してみる、形にすることをお勧めします。
 自分の体の状態を対象化してください。僕は今、声の調子が悪く違和感があるので、その「声」に話しかけます。「お前、今日は調子が悪いなあ」と。今度は、「声」になったつもりで応答する。「そう言われたって、風邪気味で、予防もろくにしなかったお前が悪いんや」「でも、普段はもっとええ声やのに、しっかりしてくれよ」こんな具合に、会話を続ける。会話が収まる地点に到達できれば幸いです。了解がつく、和解がつく。「もうええわ」でも構わない。とにかく、会話が終わるまでやってみる。決着の着かない人は、「今日は決着が着かなかったが、今は休戦や。また話し合える時が来たら、話し合おう」と考えて下さい。
 どんな経験をなさいましたか?

参加者の感想:
 「楽になりました」
 「最初と少し変わりました」
 「体に血が巡ってきました」
 「気にしなくてもよくなった」
 「とても疲れていたことに気がつきました」
 「余計に肩が凝ってきました」

形にすること

倉戸:大切なのは、言語化して形にし、それに触れること。肩も首も足も声も、全部自分のもの。だけど一方で、いつでもどこかに他者がいる。たとえば、僕にとって伊藤さんは他者で僕の中の伊藤さん像。伊藤さんと会話をしているようで、実は僕の中の伊藤さんと会話をしている。だけど、目の前にいる伊藤さんと会話をしていると、自分の中の伊藤さんとの間にズレが生じることがある。このズレこそが他者。そういう時、そのズレもきちんと形にする。きちんと他者と出会わないといけない。コミュニケーションをとる。理解しようとする。それがピッタリ納得いくと、また次回気持ちよくお目にかかれるでしょ?
 ここは関西ですが、あえて言います。僕はジャイアンツファンです。僕のこと嫌いになったでしょ? 形にするということは、リスクを伴う。だけど、相手に自分のことを分かってもらうには、形にしないといけない。形にしなければ、前に進めない。他方、何でもかんでも形にしないと気が済まない人もいる。こういう人も、生きるのが大変。大切なのは、自分でその都度選択すること。

傷口を閉じる

倉戸:私は昔、小さな娘を亡くし、イメージワークの中で、何度もその子に謝った。現実には、その子は目を開けたことはなかったが、ワークの中では目を開けてくれた。すべては僕の心の中で起こったこと。辛い体験を、必ずしも乗り越えたり克服することはない。僕は「乗り越える」「克服」という言葉は嫌いだし、使わない。ずっとそのままで記念にとっておきたい思い出もある。でも、イメージワークで、日常生活に支障のない程度には回復させた。一時、ロジャーズの来談者中心療法の、受容、共感、傾聴のスタンスで、11年カウンセリングをしていたが、娘の死やいろんなことを体験して、そのスタンスは手放した。傷つき体験を傾聴するだけでは、傷口を開くだけ。開かれた傷口は、きちんと閉じなければならない。このことを、ゲシュタルトセラピーでは大切にします。

気づきに始まり気づきに終わる

倉戸:ゲシュタルトは、ドイツ語で「形にする」「全体」「つながり」「完結する・閉じる」という意味。全体というのは、理想の自分をもつことも、理想と現実のギャップに悩むことも、全部含めて自分だということ。理想の自分が本当の自分でも、現実の自分だけが本当の自分でもない。それまるまるが自分だ。完結する、閉じるというのは、ただ聴きっぱなしでは駄目で、傷口を開いたら、きちんと閉じなければならないということ。被災地では、カウンセラーが、ボランティアであちこちで人の話を聴いているが、閉じることをしない。聴きっぱなし。私たちは、きちんと完結すること、閉じることをする。ゲシュタルトセラピーの、気づきに始まり気づきに終わるプロセスこそが、人を活き活きさせる。こちらが一方的に教えてあげるのではない。私たち心理学者、カウンセラーは、クライアントがそのプロセスを経るための触媒の役割をします。化学で、物質が化学反応を起こすように、クライアント自身が、私たちに触れることで、自ら化学反応を起こしてくれる。こちらの価値観を押しっけて、決まった方向へ導くのではなく、僕なら僕と出会う人が、その出会いをきっかけに、自分で変わる。僕が、そういう触媒の役割を果たせたらいいなと思っています。

ゲシュタルトの詩

私は私のことをする。
あなたはあなたのことをする。
私がこの世に生を受けたのは、あなたの期待に応えるためではない。
あなたもこの世に生を受けたのは、私の期待に応えるためではない。
あなたはあなたであり、私は私である。
でも、もしも期せずして、お互いに出会ったなら、それは美しいことである。
出会えなかったとしたら、それは仕方のないことである。

倉戸:僕はこの詩に出会った時、衝撃を受けました。僕はクリスチャンの家庭で育ち、みんなとても仲が良かった。家族で結束して、外的から守っていた。だから僕には、人生は人のためにとか、一人は万人のためにという価値観が、長い間根づいていた。でもこの詩は真っ向から違う。
 僕の尊敬する先生も、論文の中で、こんな個人主義的、独りよがりな詩はないと書いていた。でも、よくよく考えてみると、僕は阪神淡路大震災の時も、東日本大震災の時も、支援活動をしていたけれど、人のためになんて思っていたら、とてもできない。自分がやりたいから、自分のできる範囲のことをする。それでも時々、自分は本当にこれがしたいのかなあと悩むこともある。だけど、それもこれも含めて、全部まるまる僕。これは詩で、こうしなさいとか、これをモットーに生きなさいとかではない。この詩は、パールズが研修医時代に、通っていたレストランのウェイトレスに宛てて、ナプキンに書き残した詩。その時彼がふと思いついた情緒的なものであって、理念とか思想とか、そういうものではない。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/09/25

今、ここに生きる

 吃音とともに生きることを決めた僕の前には、たくさんの学びたい、学ぶべきことがありました。「吃音を治す・改善する」には、治療法しかありませんが、よりよく生きるためには、先輩が残してくれた大切な、哲学や心理療法や、精神医学、社会学がありました。吃音を否定的にとらえることで起こる行動、思考、感情に対して役立ちそうなことを探して、本を読み、ワークショップに出かけました。そのひとつが、ゲシュタルトセラピーでした。倉戸ヨシヤさんのワークショップに参加し、僕たちの2泊3日の吃音ショートコースというワークショップの講師として来ていただきました。その中で学んだ「ゲシュタルトの祈り」は、ずっと心に残っています。
 「スタタリング・ナウ」2013.2.22 NO.222 より、巻頭言を紹介します。

  
今、ここに生きる
                       日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 ゲシュタルトセラピーは、私の好きなものの一つだ。吃音ショートコースに講師として来て下さり、久しぶりにお会いした倉戸ヨシヤさんとは、苦い思い出がある。
 20年以上も前のことだが、倉戸さんが私たちの集まりに講演に来て下さったことがある。倉戸さんの開口一番のことばが、「私は、以前、伊藤さんにつれなくしましてね」だった。
 私は「吃音を治す・改善する」はきっぱりと捨てていたが、吃音を否定的に捉えて悩むことで起こってくるマイナスの影響に対してのアプローチをずっと模索していた。役に立ちそうなものは、貧欲に学び、吸収したかった。
 私のゲシュタルトとの出会いは、随分前の、あるワークショップで知った、ゲシュタルトの哲学の九つ原則だった。

1 今に生きよ、過去や未来でなく現在に関心を持て。
2 ここに生きよ。眼の前にないものより、眼の前に存在するものを取り扱え。
3 想像することをやめよ。現実を体験せよ。
4 不必要な考えをやめよ。むしろ、直接味わったり見たりせよ。
5 操縦したり、説明したり、正当化したり、審判しないで、むしろ表現せよ。
6 快楽と同じように、不愉快さや苦痛を受け入れよ。
7 自分自身のもの以外のいかなる指図や指示を受け入れるな。偶像礼拝をしてはならない。
8 あなたの行動、感情、思考については完全に自分で責任をとれ。
9 今のまま、ありのままのあなたであることに徹せよ。

 吃音に深く悩んでいた21歳までの私に対してカツを入れてくれているような内容だったが、ゲシュタルトセラピーそのものがどこで体験できるかを知るにはしばらくかかった。身近にいた友人の紹介で、高野山のワークショップに参加した。
 その後何度も参加し、多くの人の人生の悩みに同席し、さらに学びたいと思っていた時、2年間メンバーを固定しての集中訓練の募集があり、申し込んだが、私は断られてしまった。
 私は当時、ほとんど自分が抱える問題はなくなっていたためワークを必要としない。いつもワークを支える外側にいるメンバーだった。加えて、吃音の問題に生かしたいと、ついメモをとっていた。その態度が、倉戸さんにとっては、常に第三者的な傍観者と映ったのだろう。
 私は、ワークこそしないが、傍観者でいたことはない。心は常に動かされ、ワークをした人と共にいた。ただ、吃音に生かしたいとの思いが強すぎ、感じるよりは、頭で学ぶ姿勢が強すぎたことは反省した。そのことを伝え、是非、メンバーに加えてほしいと、お願いの手紙を書いた。
 一度断られたものに、手紙を出してまで再度お願いするのは、よほど、今吃音に悩んでいる人に何らかの役に立つから体験したいという思いが強かったのだろう。その思いは伝わり、倉戸さんは一度断った私をメンバーに入れて下さったのだ。
 今回の吃音ショートコースで2人がワークをした。ひとりは、親との関係について、あとひとりは、自分の吃音との関わりについてだ。
 今回の報告で、エンプティチェアのワークを紹介しているが、残念ながら文字で伝わるのはごく一部だ。声の大きさが、姿勢が、からだがどんどん変わっていくのは、その場でいなければ分からない。終わった時のなんとも言えない、安堵した表情。「どもり様」が「どもりさん」に変わり、恨み辛みをぶつけていたのが「戦友」に変わる瞬間。私も彼女と共に今を生きていた。彼女がどもりを戦友と呼びかけたとき、私も泣いた。
 このような瞬間に立ち会ったとき、私はかって、メモをとったことがあった。その人の世界に、その人と共にいたら、とてもメモなどとれるものではない。傍観者ではないと、私は倉戸さんに手紙を書いたけれど、その自信が揺らいだ。倉戸さんが、つれなく当たったのも無理はない。
 25年の歳月を経て私はそのことに気づいた。
 二人とも胸に迫るワークだった。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/09/24
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