伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

予期不安

吃音の予期不安と恐れに対する対処の仕方 4

吃音にとって大切なテーマである、予期不安と恐れに対する対処について、大阪吃音教室の講座での話し合いを紹介してきました。今日はその最終で、参加者ひとりひとりの感想を紹介します。改めて読み返してみて、充実した講座だったなと思います。吃音は、それだけ、生きることを考えるテーマとなりうるということでしょう。僕たちが伝えたいのは、こっちの道もあるんだよということです。そして、その、こっちの道を、楽しく機嫌良く歩いていきたいと思います。
 「スタタリング・ナウ」2009.9.20 NO.181 に掲載の、2008年10月3日の大阪吃音教室の講座を紹介します。最後の感想です。

《大阪吃音教室2008.10.3》
吃音の予期不安と恐れに対する対処の仕方 4
                             担当:伊藤伸二


参加者の感想

U 自分は、会社の朝礼とかワードトレーニングが苦手で、そういうところでどもってしまって、しゃべれない。みんなは僕がどもるということは分かっている。でも、順番に言わされる。助け船はない。今日のことを聞いて、どもって当然だと思えるようになるかな。
伊藤 僕らは、もうどもってしまうだけでいいのよ。後は、周りの人の責任で、誰か助け船を出すか、あいつはもう挨拶をやめさせようとか考えてくれる。こちらはただどもってさえいればいい。そう考えたら、挨拶とか朝礼に命をかける必要はまったくないのであって、ほかの仕事でがんばればいい。

どもりを認めたくない人

G どもりだけれど、それを認めたくないという友だちがいるんです。今日の話はどもる自分を認めるのが前提での不安や恐れへの対処でしたが、認めたくない人には、対処法はないんでしょうか。大阪吃音教室に誘っても来ない。どうにかして、連れてきたいと思うけど、来ないんです。
伊藤 どうしても、どもる事実を認めたくない人はいます。大阪吃音教室のようなセルフヘルプグループにも、サマーキャンプにも、吃音ショートコースにも行きたくないと言う人もいます。そんな人に私たちは何ができるだろうか。
N メッセージを発して、ただ待つだけですね。
G それしかないですかね。
M 『どもる君へいま伝えたいこと』を贈呈する。
G 私も今、それを考えていたんですけど。それを渡して、来るか来ないかはもう、その後の判断は任せるしかないと思っているんですけどね。
M すぐにじゃなくていいやん。
G でも、もう4、5年たっているんですけどね。
N 10年でも20年たっても、いいじゃん。
K 伊藤さんのことばで、僕が好きなのが、「とりあえず言い置く」です。とりあえず言って、待つしかない。
伊藤 とりあえず言い置いて、『どもる君へいま伝えたいこと』をプレゼントすることはできる。読むか読まないかは、その人の勝手でしょう。
V 私はどもることを認められないけれど、この吃音教室に来ている。
伊藤 どもりを認めたくない人も、それも人生でしょう。それでも、あなたはその人を無理矢理なんとかしようとしてるわけだ。僕は基本的にはおせっかいおばさんは好きなんですよ。やっぱりおせっかいはやいた方がいいと思う。あなたは、おせっかいをやいているわけよね、4、5年も。それでも嫌だと言うんだから、それはもうその人の人生でしょう。僕たちは、できたらどもりに悩むできるだけ多くの人の役に立ちたいなあとは思うけれど、それはこの場所に来てくれた人であったり、僕たちの発信する本やニュースレターを読んでくれる人であったりがひとつの条件だと思うんです。なんやこんなもんと言う人には何もできない。それは、もうあきらめなさい。
G 見捨てるってことですか。
伊藤 見捨てるって言っても、その人はそれでいいと言っているんだから仕方がない。その人の人生なんだから。その人はその人で、どもりを否定し、治したい治したいと思い続けて生きる人生を選んでいるわけだから。
H 交流分析で勉強してきたように、過去と他人は変えられないということでしょう。
伊藤 どもる人間のみんながみんな、明るく、楽しく、がんばろうぜ、と生きる人間ばかりじゃない。中には、うじうじ悩む人がいていい。明るく元気で溌剌な人もいていい。いろんな人がいて、ひとつの社会をつくっているのだから。
 アドラー心理学で言う目的論で言うと、どもりを利用して、ある意味、引きこもり、自分がみじめな生活をするということを選択している。どもりを認めたくないという人は、そこに何かの目的がある。その目的のために認めないんだから。
E その人が今、悩んで悩んで何もできない状態だったら困りますが、どうなんですか。
G それは違う。それなりにがんばっています。
E でしょう。だったら、いいじゃないですか。
G どもってどうしても声が出ないとき、手を振ってでも言えばいいけれど恥ずかしくてできないと言います。私は、聞くことしかできないから、そうやね、嫌やねえとか言って聞いている。
E それが言えることっていいですよ。
G そう思って、ずっとつきあっているけれど、それ以上に深まることがないのは寂しい。寂しいと思うのは、私の単なる欲でしかないけど。
L なんでそこで、Gさんが、その人に合わせて、「そうやね、恥ずかしいね」と言うのかな。「恥ずかしいことやないよ」と言ったらいいのに。Gさんは恥ずかしいと思っていないだろうに、一緒になって、恥ずかしいと言っていることが分からない。説得力がないやん。
G そうそうそう。そうなんですよ。
伊藤 さきほど、誰かが言ったように、その人はその人なりに生きているのだから、どもりを認めたくないと言っているけれど、現実的には認めて生きているわけですよ。ことばではどもりを認めると言っていないけれど、現実にどもりながら生きているということは、もうすでにどもりを認めて生きているということでしょ。反対に、私はどもることは認めていると言いながら、肝心のところでは、隠したり、逃げたりしている人は少なくない。何もことさらに、私はどもりを認めて生きていますと言わなくてもいい。自分なりの人生を生きていればそれで十分ですよ。また、仮に社会的に引きこもって生きていたとしても、それでしか生きられないのだから、仕方がない。一所懸命、その人にかかわり、できるだけのことを私たちはしたいけれど、最終的にはその人の人生です。そうとしか生きられない人生もある。他人がそれをとやかく言うことは必要ないんじゃないの。
 そういう生き方しかできないことを、仮にどもりという原因があると思っているかもしれないけれど、ある意味、どもりを口実に、どもりを理由にして引きこもっているという言い方もできる。だから、いいんだよ、人それぞれの人生があって。吃音を治したいと切実に思っている人が、この大阪吃音教室のようなところに来たらしんどいかもしれない。もちろん、私たちは、治したいと考えている人も、本人さえよければ、堂々と、私たちの吃音教室に参加したらいいと思っている。私たちは、自分たちの考えを決して強制したりしませんからね。まだまだ私は吃音に向き合っていない、認めていないと、小さくなることはない。何年かかってもきっと私たちの道筋に立ってくれると思う。だから、その人に参加して欲しいという思いはありますね。
T 今の話も含めて、まったくそのとおりやなあと思います。その人の最終判断で生きていくのであって、こういう生き方だけ正しくて、それを押しつけるというのは傲慢かなと思う。
伊藤 「とりあえず言い置く」ということも含めて、「こうした方が楽だよ」、「私たちはこうして生きてきたんだよ」と自分たちの体験を語り続けていくことは大切ですね。その僕たちの生き方を見てもらう。それを見て、そうだなと思う人もいるだろうし、嫌だなあと思う人もいるだろう。自由だ。自分たちの価値観を、生き方を、押しつけるのは傲慢ですよ。
O 紙に書いて見せるという話がありましたけど、調子が悪いとき、僕もしています。
J どもりの核心というものを改めて感じました。予期不安とかどもりに対する考えを、ひとつひとつみんなで確認できて、わかりやすかった。私も大阪吃音教室に入ってこれたのは、考えを強要しないというか、どんな考えでも、どんな私でもいいという所だったから、自然に入ってこれたんです。どんな状態の自分でもここにいていいんだなあというのを感じています。
伊藤 自分たちの考えていることをかみ砕いて、分析し、整理していくということは、仲間がいるからできることですね。自分ひとりではなかなか気づけないし、発見できない。確かに、吃音は吃音症状ではなく、氷山の海面下にある、吃音を隠したり、話すことから逃げたりする行動、恥ずかしいと思ったり、みじめと感じる感情が吃音の問題の核心であり、大変であり、取り扱いが難しいんだけど、順序立てて考えていけば、対処できることだ。
X どもりながら生きていくのは、そんなに恥ずかしいことではないんだなということが分かった。
伊藤 そういう生き方をしていると、周りに勇気を与えるかもしれないね。
Y ひどくどもったときには、人というものは、応援してくれる。ちょうど、高校時代、返事もできないくらいのとき、同級生が代返をしてくれた。
伊藤 応援してくれるような人間になろうよ。嫌な奴だったら、応援しないよ。吃音とは関係なく、他人に親切で、仲間を大切にして、人の役に立ったりしていたら、いい奴だなあということになって、困ったとき応援してくれるんじゃない。
S だんだんと生き方が楽になってきましたが、どもりがだんだんひどくなってきた。
伊藤 生き方が楽になったが、どもりがひどくなったというのは、老化ですよ。僕も以前よりよくどもるようになりました。でも、なんともないよね。
S それは、この大阪吃音教室に来て、ずっと吃音について考えているからだろうと思います。
U 勇気づけられたことがある。どもるという事実を認めるという前提を私は忘れていたんじゃないかなと思います。どこかで、どもりを隠したいというのがあったけれど、それを聞いて、前提を自分で認めていければ楽になると思います。
B 認めるということができれば、確かに楽になるんだけど、なかなか認められないんだけど。
伊藤 それも一つの生き方ですよ。ぜひ、棺桶に足をつっこむまで、認めない人生を歩んで下さい。
V 認めることを自分は認めていたつもりですけど、認め切れていなかったんだと思いました。
X 小さいときから、どもったら馬鹿にされると思っていた。負けず嫌いだから、誰一人として馬鹿にされたくないと思っていた。でも、馬鹿にされたくないと意地を張っているのに、人に分かってもらいたいという、矛盾している。だから、もう馬鹿にされてもいいかと思った。その方が友だちができるから。
伊藤 そうやなあ。馬鹿にされたっていいよねえ。
I どもりを認めるということはどういうことかなと考えていた。僕は、自分がどもるということは認めているつもりだけど、やっぱり話すときには、どもらないようにしゃべっているので、半分半分かなと思いました。
伊藤 いやいや、それで十分ですよ。僕なんかでもそうですよ。わざとどもることもないので、どもらないように、しゃべっているよ。
P 恐怖と不安を克服するには、どんなに吃音がひどくても前向きに考えたいと思いました。
伊藤 前向きに考えなくてもいいんやけどな。
Q 皆さんが強い、というか、特に年配の皆さんがキャリアを積まれて強くなられているなあと思いました。どもりを認めてそこからスタートする。ほんとにひどくどもったときにどうするかというときに、前向きな意見が出ていましたけれど、なかなかそこまでいくには大変やろうなと思って聞いていました。
伊藤 本当は全然大変じゃないんですよ。前向きとか、プラス思考とか、強くなくてもいい。全然強くなくてもできる。別のことばで言うと、自分の人生を大切にするということですよ。
D そのような生き方は、年齢が上がっていくと、できやすくなるんですか。
伊藤 反対です。年を経るに従って、難しくなります。だから、僕たちが吃音親子サマーキャンプをしているのは、小さい子どもの方がしやすいからです。小学生、中学生がびっくりするくらい変わります。それは、強いからではない。小さな子どもでも、自分の人生を大切にするからです。
I 自分の人生を大切にするというのがちょっとわからない。みんな普通に生きているというのではなくて、べつのものですか。
伊藤 いやいや、普通に生きているということが人生を大切にしているということですよ。際だって大変なことをしているのではなくて、普通に生きていればいい。普通って言い方は変だけどね。あなたはまだ2回目でしょ。2回目で分かってどうするんですか。僕たち、悩んで悩んでここまで来たのですから。まあ、できるだけ続けてここに来て下さい。
Z 僕は、仕事の配属で、来週から関東に行ってしまうんですが、配属先でうまくやっていけるかどうか心配だったんですけど、今日の話で、どもっていても仕事をがんばれば評価されるという話があって、よかった。
伊藤 それは確実です。だから、ほかの人以上にがんばろうよ。がんばろうと他人に言うのは基本的には嫌なんだけど、どもりがまったくハンディがないかというと、そうじゃない。ハンディがある分、ほかの人にないもの、つまり、仕事に対する一生懸命さ、誠実さ、努力が大事だと思う。
D ついつい、人と比較しがちだったけれど、それぞれ違うから、そのままでいいと思います。
伊藤 そうね、やっぱり比べるのはしんどいね。
L 私は長い間、日常生活では、どもりが分からないようにしゃべってきたので、予期不安が大きかったと思うんです。だから、私はこの大阪吃音教室に来てから、吃音を公表できるようになって、予期不安がまったくといっていいほどなくなった。すごく楽。公表してから、予期不安の字が小さい。
伊藤 そうですよね。普段あまりどもらない人ほど、どもりたくないから、どもるかもしれない、どもったら嫌だという予期不安が大きくなりますね。
L ばれたらどうしようと。
伊藤 今までばれてないんやからね。
L 吃音のコマーシャルをしながら、どもりを生きています。
伊藤 いいねえ。楽やねえ。
C どもりに限らず、恐怖とか予期不安というものは、みんないっぱいもっていると思う。先延ばしにするとしんどい。早くぶつかる方がいいなあと思いました。
M 恥ずかしいことって何だろうというのが、今回の吃音教室で印象に残っています。これからも考えていきたいです。
H 僕たちはどもりを認めるのではなくて、どもる事実を認めるんです。どもりを認めるとなると、どもりを受け入れるとなって、受け入れるのは難しい人もいる。どもっている現象の事実を認める意味の深さというか、広さというか、そんなものを感じました。感情、思考も広がりがあって、深さがあるんやなと思いました。
K いろんなことを考えさせられた講座でした。
E 教員をやっていて、肩肘はって、こうあらねばならない、こうあらねばならないと自分をしめつけていた。子どもにもこうしろと言って、お互いに苦しんできたなあと思いました。それを感じました。自然にしたいです。
伊藤 自然に生きるが一番ですね。
N どもりが治らないでよかったとつくづく思います。自分のどもりを含めて、どもりのことをネタに、こんなに長いこと話し合える。治るならこうはいかない。解決しない問題を持っていること、自分がそういう問題を持っていることのすばらしさを感じました。
伊藤 なるほどね。どもりを治す、改善するだったら、最近、どもらないね、調子はいいです、で終わりやもんね。話は深まらないし、自分の人生は何だとか考えない。ほんとに恥ずかしいことって何だろう。汚染米を売りつける農水省の役人の方がよっぽど恥ずかしい。
F 以前、悩んでいたときは、自分は、深く細かく考えることを避けていた。でも、深く細かく考えることって大事だなと思いました。
伊藤 言語訓練なんか必要ないけれど、考える習慣は大事。選択肢は何か。恥ずかしいとは何か。横に広がり、奥に深めることができる大阪吃音教室はいい。どもりは、とてもいいテーマだということでしょう。ということで、今日の大阪吃音教室は終わりです。お疲れ様でした。

 今日は、NHKが「きらっと生きる」の取材にカメラが入っています。ディレクターとカメラの方に感想をお聞きしましょう。
◇ひとりひとりの個性を大切にするということを大事にしたいと感じました。ひとりひとりを大切にする。私、正直今回この仕事をいただくまで、どもりということをまったく知らないで生きてきて、今日いろいろみなさんの話を聞いて、しっかりした気持ちを持っているんだなあと感心した。私の方がもっと考えて生きないといけないんじゃないかと自分を見つめ直すいい機会を与えていただきました。
◇皆さんが全員積極的に発言し、ことばに勢いがあります。自信を持っている人もいない人もいるけれど、話されることばに勢いがあり、説得力がありました。いい番組を作らせていただきます。

《編集部から》
 大阪吃音教室の映像は2008年11月7日、NHK教育テレビ「きらっと生きる」で放送されました。反響が大きく、第二弾が翌年2月に新しく製作され放送されました。スタジオ出演した4人の中の2人が再度出演し、さらに吃音の問題を深めることができました。その後、番組を見たという、沖縄や熊本、東京など、遠隔地からの参加がありました。

 活字にすると、固い話し合いが続いているような印象を受けるるでしょうが、大阪特有の「ツッコミ」や「ひやかし」「いちびり」があり、常に笑いにあふれています。その雰囲気をお伝えできないのは残念です。また、脱線していくおもしろい話も、紙面の都合でカットしました。
 吃音にとって、不安・恐怖は大きなテーマなので先月号と2回に分けて紹介しました。(了)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/02/18

吃音の予期不安と恐れに対する対処の仕方 3

 2008年10月3日の大阪吃音教室の講座「吃音の予期不安と恐れに対する対処の仕方」は、「スタタリング・ナウ」2号分にわたって掲載していました。今日は、その続きです。
 2時間半くらいの講座の時間ですが、次々と話題が広がり、話し合いの中で深まっていくのが分かります。参加者の発言で僕自身が活性化され、いろいろな問いかけをしています。そして、ひとりひとりがそれについて自分の考えを話しています。「どもりたくない場面でひどくどもってしまった。だから…に続く選択肢を考えてみよう」には、たくさんの選択肢が出てきました。ひとりで考えていたときには、きっと思いつかないことでしょう。セルフヘルプグループならではの語り合いになっています。

《大阪吃音教室2008.10.3》
吃音の予期不安と恐れに対する対処の仕方 3
                             担当:伊藤伸二


他の人と同じことができない

伊藤 どもることへの不安や恐れとして出された、他の人と同じことができないことが恥ずかしいについて考えてみよう。
L できることはみんな別々でみんな違うから、ほかの人って誰のこと?
伊藤 大抵の人かな。大抵の人が何の苦もなくできることができない恥ずかしさは分かるね。みんなは当たり前のようにできることが自分にはできないこと、どもること以外で何かないかな?
T ものすごく運動神経が悪いこと。大人になってから、コンプレックスではなくなったけど、小・中学の頃は、すごいコンプレックスでした。
K ゴルフの関係の仕事だが、自分はゴルフができない。
伊藤 大学や専門学校の講義で板書をする時、漢字が書けず、ごまかして書いていた。板書の文字が読めないとよく言われ、劣等感になっていた。字が汚いからと言っていたけれど、最近は、漢字が書けないと言えるようになった。
H 階段を手すりを持たずに降りられない。足がどもるというか。体が不自由でもなく、癖みたいなもんですが、みんなが、さっと階段を降りていくのに自分でもかっこ悪いし、不便です。
伊藤 誰でもができることで、できないことってあり得る。だから、ほかのことをがんばろうと切り替えられたらいいよね。ほかの人にはできないことだけど、自分にはできることはないですか。
L 済んだことは忘れる。
K 楽器の演奏。
伊藤 他の人と同じことができないことがあるから、何か一個でもいいから、ほかの人にできないけれども、私にはできるものを持てればいいね。

ばれたらどうしようという不安

伊藤 どもることがばれるのは当たり前だから、最初から自分からばらさないといけない。予期不安は、どもったらどうしよいう不安だから、最初から、「どどどど」とどもってしまえばいい。最初にどもること。何かの拍子にうまくどもらずにできたというのはくせものです。最初に失敗をするに限る。最初につまずいて、最初に赤っ恥をかいてしまえば楽だよね。

何事が起こったか、びっくりする

伊藤 吃音については、最初に説明することが大事。僕たちは、吃音について、これだけは知ってもらいたいということを書いてコピーして10枚くらい持っておく。そして、この人とは仕事上どうしてもつきあわなければならないとか、自分を知ってもらいたい人に読んでもらう。理解を求めるにはそれなりの努力をする必要がある。そういうのを作るのが面倒な人は、「どもる君へいま伝えたいこと」を10冊買って、常に鞄に1冊か2冊しのばせておいて、「これ、読んで」と渡せばいい。

不安や恐怖をもっている場面でひどくどもった。だから…

伊藤 みんながちゃんちゃんとやっていく場面で、私はひどくどもってしまった。今までの僕たちは、だからみじめだ、だから最悪だというマイナスの考え方を後に続く文章にもってきて悩んできた。考え方の練習をしてみよう。ほんとはどもりたくない場面でひどくどもってしまった。だから、に続く選択肢を考えてほしい。思いついた人、どうぞ。
T 自分の吃音を知ってもらうチャンスになった。
C 印象に残って、人から覚えてもらえた。
A おもしろい奴だと思われた。
伊藤 このおもしろいというのはすごく大事だと思う。逆手にとっていいと思う。映画や芝居で演出家は、どういう人物を描写するために、役者にどもらせるか、考えて下さい。
H あわてもんでおっちょこちょい。「たたたたいへんだー」というキャラクター。
P 誠実で純朴な人を設定するときに。
Q 陰気な人もあるかな。
T 感受性の豊かな芸術家を演じさせるとき。
H お人好しで、引っ込み思案。
伊藤 大体そんなもんかな。「カッコーの巣の上で」という映画ではすごく神経質な人、「今を生きる」という映画では、誠実な生徒がどもっていた。昔の映画の「森の石松」は、おっちょこちょいでとてもユーモラスにどもっていた。どもる人のイメージは、陰気で暗くて神経質というものだけではなく、ユーモラス、おもしろいもある。おもしろいと思われることはいいですねそのためには、条件がある。暗いどもり方ではおもしろい人間には見られない。堂々と明るくどもっていたら、おもしろいなと印象づけられる。どっちみちどもるなら、明るくどもるというのも、ひとつのどもり方としてあっていい。
 どもりは治らないけれど、どもり方を工夫して、イメージアップする。セールスマンは、絶対どもる人は有利だ。本当は誠実でなくても、どもりながら、とつとつと説明すると、誠実でいい印象を与えてしまうこともある。ほかにありますか。
L これは私のことですが、がんばって仕事をしているんやなと思われました。
伊藤 ほかの人やったら、何気なくやってしまうことを、どもってするわけだから、がんばり屋さんだなと見てもらうことができる可能性がある。
H これで隠す必要がなくなった。
伊藤 今までは、なんとか隠そうと、ごまかしてきたけれど、これだけひどくどもったら、もう隠す必要はない。隠すことに疲れた。もうこれでいいと、ひとつの踏ん切りがつく。
K 自然と自己開示できているわけで、相手も急に親しくしてくれる。
伊藤 僕たちが親しくしたいと思う人はどんな人だろう。完壁で、何事もそつなくこなす人間かなあ。ちょっとちぐはぐで、欠点がある人間に共感したり、親しみをもつということだってあり得る。
 僕たちがどもりながら生活していることは、ひょっとしたら周りの人に勇気を与えているかもしれない。どもりながらがんばってるんやなあ、自分もやらなきゃなあとなる可能性はないことはない。
K それと似ていて、人に信頼される。どもってしやべったら、相手は、自分のことも言っていいなあと思ってくれる。こちらが自己開示してるわけだから、急に関係が深くなった。
伊藤 かっこよく見せようとして、隠す。でも、それがみえみえになって、この人、何を考えているのやろとなる。ちょっと近づきがたいよね。ところが、どもっているのをさらけ出してもらえると、近づこう、仲良くなりたい、となる。
K ええ人やと思われる。
N うん、ただどもっているだけやのにね。
伊藤 誠実に思われたり、がんばっていると思われたり、おもしろい人に思われたりする。
H 人から同情される。

自慢せず、謙虚に生きる

伊藤 同情の反対は妬みですが、今日の読売新聞の人生案内の「大学の同級生で同じ仕事につき、とても仲のよかった友だちが、私が先に昇進したために、すごくねたみ、仕事がやりにくい」に小説家が回答したが、皆さんだったら、どんな回答をしますか?また、自分が人からねたまれている、うらやましがられていると感じ、その人との関係を良好なものにしたいと思ったら、どうする?
N 仕事の相談を、その同僚にもちかける。
G 仕事以外の時間に二人で会う時間をつくる。
L 仕方がないから離れる。だんだん疎遠になる。
T 自分はねたまれるべき存在だと認める。
伊藤 この世の中に、ねたみがないという世界はない。ねたみはあり得るというのが前提で、「お芝居でもいいから、自分の弱みとか、弱点とか、自分のしょうもなさを言いなさい、演技しなさい」と小説家は回答していた。良い回答とは僕は思わないけれど、劣等感と思われているものを素直に出していくと、周りの人から、ねたまれることは少なくなる。弱みを素直に出して生きている人とは、つきあいやすい。少し脱線しましたが。
 どもりたくない場面でひどくどもってしまった。だから、人生の最大の危機、最悪のことだと思ったとしても、実は選択肢はいっぱいある。できるだけ、奇想天外なこと、そんなことあり得ないだろうということを含めて、だからの後に続くことばを常に考える習慣をつけておいた方がいい。
G さっきの人生相談で、伊藤さんなら、どう回答されますか。気になっていたので聞きたい。
伊藤 うそでもいいから、お芝居でもいいから、というのが嫌ですね。そんなのはばれてしまって、かえって関係が悪化する。
 僕は、ありがたいことに欠点や弱点がいっぱいある。わざとらしく言う必要がない。心臓病の薬、糖尿病の薬などたくさんの薬を持たないといけない、長期の旅行は不便です。列車に乗り遅れそうになっても走れない。僕には欠点や弱点、できないことが山ほどある。挫折をたくさん経験している。それを素直に話すだけです。
G そう回答するということですか。
伊藤 小説家の回答に真似て言えばですよ。優れていること、できることなど、人にねたまれるようなことはあまり言わない。自慢や自己PRをできるだけ普段からしないことでしょうね。就職活動なんかでも、「自己PR」が強調されすぎます。自己PRコンテストのサイトもあるくらいで、自慢合戦になっている。こういう時代だと、つい自慢したくなる。褒めてもらいたくなる。謙虚さが失われていきます。ねたまれそうなら、また劣等感の強そうな人の前では自慢話をしない。この質問者は、なにげないつもりでも自慢話のようなことをしていたように思います。
 幸か不幸かどもる私たちは、芝居ではなく本当にできないことがある。謙虚になれる。これは有利なことでもあると思います。
 予期不安や恐れに関することで、現在進行形の人、何かありますか。Mさん、新郎の父親としての挨拶、すごく不安じゃなかった?
M 不安じゃなかったんですけど、意外と本番ではどもりました。まさかあそこでどもるとは思わないところでつっかえました。
伊藤 で、その結果、
M 別に普通の評価でしょうね。両家を代表して、ということばから始まるんですけど、そこは言えると思っていたのに、言えなかった。最初からことばが出なかった。後で、ビデオを見たけど、それほど気になるほどの難発ではなかったです。
伊藤 すごくどもっているように自分では思えるけど、実際はそれほどでもないんだよね。
 予期不安や恐怖ということで、何かありますか。これまでの話は、吃音の予期不安や恐れの対処に多少は参考になったでしょうか。質問はないですか。じゃ、一人ずつ、感想をどうぞ。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/02/17

最悪の事態

 その真っ只中にいるときは、最悪だと思えることでも、後から考えるとそんなに最悪でもなかったということは少なくありません。どもることは最悪なのか、どもると最悪な事態が起きるのか、よく考える必要がありそうです。「どもる人間がどもって当たり前」と認めることで、最悪の事態は最悪ではなくなり、対処できることに変わります。
 僕は、吃音からたくさんのことを学びましたが、最悪の事態を考える習慣がついたことも、そのひとつです。考えることで、打つ手が見えてきました。
 大阪吃音教室の講座「吃音の予期不安と恐れに対する対処の仕方」のつづきを紹介している
「スタタリング・ナウ」2009.9.20 NO.181 から、巻頭言を紹介します。

  
最悪の事態
                  日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 木々が芽吹き、春の息吹を頬に感じ始めると、今でも胸がキューンとなる。吃音に悩んでいた頃、新しい学年が始まる早春は、不安が徐々に高まり、気持ちが沈んでいく季節だった。
 まだ、小学校5年生になったばかりだというのに、私はもう中学校の自己紹介に、大きな不安と恐怖を抱いていた。「伊藤」の「イ」が言えない私は、何度も自己紹介でひどくどもり、立ち往生をした。中学校の自己紹介でも、確実にどもると予想がつくから大きな不安が広がる。その場に出ていくのが恐怖だった。しかし、実際はどもってでも自己紹介はしているのだ。
 高校1年の時、入学式で見初めた女子生徒が私と同じ卓球部に入った。同じ体育館で練習できることがうれしくて、練習に励んでいたが、男女合同合宿の計画を知って、不安と恐怖が私を支配する。辛かった中学時代を支えてくれ、これからの高校生活の唯一の救いになるはずだった卓球を、私は合宿の前日、自己紹介が嫌だというだけの理由でやめた。どもることへの不安、恐怖が私の行動を縛っていたのだ。ここから私の逃げの人生が始まるのだが、卓球をやめたことは今でも悔しい。
 あれだけ長く私を苦しめてきた、どもることへの不安や恐怖は、今はない。どもらなくなったからではない。今でも、自己紹介ではどもる。通信販売や、病院で名前を言わされるとき、「・・イイイ」となる。住所も数字の「イチ」では必ずどもる。しかし、少し時間がかかるだけで、生活に支障はない。
 吃音の問題の核心は、吃音を隠し、話すことから逃げることだと確信したのは、私のこのような悔しい体験があるからだ。そして、逃げる行動の背景には、吃音を大きなマイナスのものとする考え方と、どもるかもしれないとの不安と恐れがある。
 なぜ、どもることへの不安や、話すことへの恐怖を抱くのか、悩みの渦にいる当時には、そのようなことを考えることはできなかった。
 21歳の夏、4か月間、必死で民間吃音矯正所で訓練したが、治らなかった。仕方がないと、「治ること、治すこと」をあきらめた。ここから私は変わり始めた。どもりを受け入れたわけではないが、「どもるのが僕の話し方」とどもる事実を認めざるを得なかったのだ。
 「どもる人間がどもって当たり前」だと考えることで、どもることへの不安、恐怖はほとんど消えた。どもった後の恥ずかしさや、罰の悪さはその後も少し残ったが、不安や恐怖をもちながらでもどもって話しているうちに、それも数年で消えた。
 吃音とはいったい何なのか。あれだけ苦しめてきた、不安や恐怖は何者なのだ。吃音にしっかり向き合い、その正体を考えた。どもること自体が不安や恐怖を生むのではない。どもること、どもった後の結果をどう受けとめるかの問題だったのだ。ポジティブ思考、前向きに、というようなことではなく、事実に向き合い、どもる事実を認めるかどうかで、吃音への対処が大きく違ってくるのだ。
 吃音に悩む人は、ある場面ではどもってはいけない、どもりたくないという。ここでどもることは最悪の事態だと考える。しかし、果たして、本当にどもることが最悪なのか、どもると最悪の事態が起こるのか、検討する必要がある。どもりながら話す話し方を認めれば、最悪ではない。予想した最悪のことは、実際、起こらないことが多い。また、仮に予想した最悪のことが起こったとしても、対処は十分に可能なのだと学んだ。
 私は、吃音に限らず、何かを選択し、行動を起こすとき、常に「最悪の事態」を考える習慣がついた。考えると、打つ手が自ずと見えてくる。最悪の事態が最悪ではなく、対処でき得る事態であることがほとんどだ。これは、大学教員を辞めるとき、第一回世界大会を開催するときなど、その後の私の人生に大いに役に立った。

 「大雨でも三日は続かない、台風は二日も我慢すれば過ぎてしまう。自然界ですらそうなのだ。人間界では、噂をしたり悪口をいったりしても、じきに過ぎてしまうのさ」(老子 加島祥造訳) (つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/02/16

大阪吃音教室 吃音の予期不安に対する対処の仕方 2

 2008年10月3日の大阪吃音教室の様子を掲載しています。その日の講座は、僕の担当で、「吃音の予期不安に対する対処の仕方」でした。不安や恐れに対処する前提は、どもる事実を認めているということを、参加者みんなで確認してから、話は進んでいきました。
 どもって立ち往生したとき、どうするか、恥ずかしいとはどういうことか、参加者の発言が白熱していくのが紙面からも伝わってくるようです。

《大阪吃音教室2008.10.3》 吃音の予期不安に対する対処の仕方 2
                     担当:伊藤伸二


どもって立ち往生したときの対処

伊藤 この前提で、立ち往生したときの対処は、考えた方がいいね。どもる事実を認めている人が、立ち往生したときにどう切り抜けるか。
N たとえば、「今、どうしてもうまく読めません」と言う。「調子が悪いです」とか。
伊藤 立ち往生しているということを言語化する。僕の昔の文章に、「どもっているならどもっていると言わねばならない」と、とても難しいことを言っています。たとえば、順番が回ってくると、「…」と、話す努力はしないでただ黙っている。黙っていたら通り過ぎていく。どもっているふりをしてその場をしのごうとした経験のある人、いないですか?(ふたり手を挙げる)。あっ、いますか。順番が通り過ぎて、くやしいと思うけれど、一方ではほっとしたりする。
I そんなん、ずっこい。
伊藤 ずっこいけど、それもひとつのサバイバルですよね。立ち往生しているときは、立ち往生しているとほんとは言いたいんだけど、それもどもって言えないときは、どうする?
J ひどくどもっていたら、社長さんがメモ帳を貸してくれて、ここに書けと言われて書いたことがあった。
伊藤 いやな人は必要はないけれど、立ち往生したときの対処のひとつとして、書くのもいいね。病気や障害のある人が、「私は何々ができません」とカードを持ち歩いている。僕も糖尿病だから、発作を起こしたときに頼むという糖尿病カードを持っている。それと同じように、「今、私はどもって言えません」とか持っておくというのはどう?
T 前もって、自分がどもって立ち往生したときのことを周りの人に頼んでおく。立ち往生したら合図するから出てきてと言っておく。
伊藤 それもいいね。僕が現実に経験したことでいうと、中学校の教員から、卒業式で生徒の名前が言えないとき、どうしたらいいかという相談を受けた。校長、教頭、同僚、生徒にもどもる事実を話して、どもって言えない生徒のときに、教頭に代わりに言ってもらうことを提案した。彼の場合は、実際、立ち往生して教頭が代わりに言ったけれど、あらかじめ計画していたことだから、あまり落ち込まなかったと報告してくれた。準備しておくと、安心感で、言える場合もある。
 今のAさんの例で言えば、40人の中の1人か2人と、仲良くなっておく。普段から大事にして、お酒を飲みに行ったら、ときどきおごる。そういう出費は必要経費ですよ。何かのときに、ぱっと手を挙げて、「今、Aさん、すごくどもって苦しいので、僕が代わりに読みます」と言ってくれる人間がいてくれると、楽だよね。僕はそれがサバイバルだと思う。全部自分の力だけで乗り越えようとすると、やっぱり難しい。限界がある。
 立ち往生したときに、誰でもできるのは、竹内敏晴さんのレッスンで僕たちが学んできた、息を吐いて、一音一拍で母音をつけて言うこと。最後は、吃音矯正所の、極端に母音を伸ばしてゆっくり言うこともあっていい。社訓を読むのに、2分以内というルールがあったとしてもそれは無視するしかない。5分かけて読む。すると、Aさんに読ませると、時間がかかるから、あいつはパスしよう。そうなったら、ラッキーだよね。
A ラッキーです。
伊藤 だから、そういう場面をできるだけ早く作ってしまう。早く立ち往生してしまうというのもひとつの手だと思うよ。僕たちの苦しみは、常に「普通にする」ことを要求され、自分もそうしなければいけないと思うことです。例えば、足が不自由な人に走れとは周りの人は言わない。ところが、僕たちは、悲しいかな、ありがたいというべきか、どもってもしゃべれるから、周りの人たちから、周りと同じことを要求されて、それを果たさなければならないと思う。それをもうやめたい。
 「私は、みんなのように、時間内に社訓を読むことはできませんが、時間がかかっていいですか」と言えるくらいになったらいい。同じように何かをしようという思いを捨てる。その代わり、ほかの、吃音とは関係ない部分で、一生懸命がんばる。そのがんばりは、どこかで評価されると思う。
 「どもりたくない」というのは無理な注文だね。どもりたくないのは分かるけれど、どもって当たり前。どもって当たり前というのを徹底して、頭にたたきこんでおく必要がある。
 恥ずかしいとか、嫌だとかという気持ちに関しては、どうだろう。
A それは、自分の中で考え方を変えていけば、結果として、変わってくるのではないでしょうか。
伊藤 どもると、恥ずかしいという考え方の奥にある考え方を、自己概念とか、スキーマという。恥ずかしいの背景にある自分の持っている考え方にはどんなものがあるだろうか。さっき、誰かが言ったのがそれに近いかもしれないね。
T 社訓も読めないなんて、決まり切ったことも読めないなんて、自分はなんて劣った人間なんだろう。
伊藤 劣った人間だという考え方。ほかには?
K 読めて当然だ。
伊藤 そんなもの、ほかの人なら何の苦もなく、読める。それを自分は読めない。読めて当然である。ほかには?
H 劣った人間に見られる。
T 自分が、どもらずにスマートにしゃべることに価値を置き過ぎている。
伊藤 流暢に話すことに価値を置く。価値の置き方やね。これが、その人が持つ自己概念、その人の考え方になる。どんな考え方をもつから、恥ずかしいとかになるんだろう。
E 私は教員ですが、教員になってから感じたことはないけれど、教員になる前は、どもっていてはしゃべる仕事のプロとしてはだめなんじゃないか、もっと訓練しないとだめなんじゃないかとか考えたことはある。
伊藤 教師になる前は、教師は、話す仕事のプロとして、ちゃんとしゃべれなければ失格だし、ちゃんとしゃべれなければならないというものをもっていたわけね。で、実際に仕事をやってみて、
E やってみると、どもってもなんとか通じるし、分かってもらえる。私は大した人間じゃないので、すごい仕事ができたかというと、そうじゃないけど、自分なりの仕事はやってきた。それは、大きな自信になった。
伊藤 ちゃんとしゃべらなければならないという不安が大きくて、教師にならなかったら、今のように、どもっていても教師はできるとは考えられなかったかもしれないね。
E ええ。でも、話を蒸し返すようですけど、恥ずかしい気持ちは今もあるんです。教員研修に行って、一緒に採用された人たちと会うと、みんな話がおもしろくて、すごい上手なんです。そういう人たちと一緒になると、やっぱり違うなあと。それはいつまでたってもなくならないです。恥ずかしい気持ちを全部なくそうと思ったら無理で、あっていいんじゃないかなと思う。
伊藤 そういうことだね。恥ずかしいという気持ちは、行動を制限したり、めちゃくちゃ落ち込んだりということがなければ、あっていい感情だよね。恥も何もなくやれるのは、日本の二世の国会議員だ。
 恥ずかしいという思いがあるのが、真っ当な人間なんじゃないかな。無理をして、完全になくそうとしなくてもいい。いくら頭で恥ずかしくない、と思っても、感情は自然にもってしまうものだからね。それは、持ち続けることかもしれない。

どもると恥ずかしいことについて

伊藤 でも、ここで大事なことは、恥ずかしいとは何かについて考えることです。僕たち、吃音に悩んできたおかげで、このような論議ができるのだと思うけれど、「どもることは恥ずかしい」と思うのは何なんだろう。恥ずかしいというのはほんとはどういうことなんだろう。
 ちょっと吃音から離れてみて、「恥ずかしい奴だなあ、恥を知れ」という、ほんとの意味での恥ずべき人間、恥ずかしい行動を思い浮かべてもらいたい。どういう場面で、あいつ恥ずかしい奴だなあと思う?
U ごみやタバコをポイ捨てする人。
N 自分が仕事ができていないのに、一向にそのことに気がつかない人。
E 無理矢理自分を強く見せている人。
K 自分のことしか頭にない人。
H 自己顕示欲の強い人。
M ずるい人。
C 本来自分がしなければならないことを人任せする人。
L 横入りとか、順番抜かしをする人。ルールやマナーを守らない人。
S 電車でお年寄りが来ているのに、居眠りをするふりをする人。
J 人に迷惑をかけていて、平気な人。
T 自分はえらいと思っている人。
P 平気でうそをつく人。
Q 約束を守らなくても平気な人
R ほかの人と同じことができない人。
伊藤 「同じことができない人」は、ちょっと違うので後から考えますが、今、うそをつく人とか、ルールを守らない人とか、いろんなことが出てきた。
 どもるということは、ルールやマナーを守らないことだろうか。中には、迷惑を掛けていると言う人がいるが、どもると人に迷惑をかけていることになるのか。ちょっと違うよね。僕たちは、どもることを恥ずかしいと思うことをできたらやめたらいい。やめようと決心するだけでいい。そう決心しても、なかなかそうはいかないけど。たばこをやめようと決心してもなかなかやめられないように。恥ずかしさは、100%なくならないけれど、どもることを恥ずかしいと思うことをやめようと決めようよ。
 ほんとは世の中には恥ずべきことはいっぱいある。僕たちは、人を蹴落としてたり、だましたりしているわけじゃない。だから、どもっていることを恥ずかしいと思う論理的根拠がない。そのことを頭で考えておく必要があると思う。《この講座の続きは、次号で収録します。》


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/02/15

吃音の予期不安に対する対処の仕方

  吃音の問題の核心となるのは、予期不安です。どもるかもしれない、どもったらどうしよう、そんな予期不安にどう対処したらいいのか、参加者ひとりひとりが考え、自分の体験を話し、それを聞いて体験を重ね合わせていくセルフヘルプグループならではの時間を再現しました。
 僕が担当した、2008年10月の大阪吃音教室の、「吃音の予期不安に対する対処の仕方」の講座の様子をお届けします。(「スタタリング・ナウ」2009.8.24 NO.180)

  
《大阪吃音教室2008.10.3》 吃音の予期不安に対する対処の仕方
                     担当:伊藤伸二


はじめに

伊藤 吃音の大きな問題は、みんなも知っているように、予期不安です。どもるかもしれないという予期不安を持ってしゃべると、普段よりもよけいにどもってしまう。さらに強い不安をもつと、話す場面に出ていけない。吃音の予期不安と、話さなければならない場面に出ていけない場面恐怖が、吃音の中心的な問題です。まず、自分がこれまで、吃音に関して、経験したものすごく不安に思った場面、恐怖にまで高まった場面を書いて、それに対して自分はどう対処したか。その場面から逃げたか。どういうふうな工夫をしたか。思い出せる範囲で、書ける人だけ書いて下さい。

世界の論議から

伊藤 今、国際吃音連盟で論議されていることを紹介します。吃音氷山説です。海面に浮かんでいて、目に見える部分は吃音の症状で、吃音の全体のごく一部です。本当の大きな問題は、海面の下に沈んでいる。その主なものが不安、恐れ、恥ずかしさ、みっともないという感情。僕はこのシーアンという人の氷山説(『スタタリング・ナウ』152号参照)を30年以上も前に翻訳して出版しましたが、今になって、急に世界のセルフヘルプ・グループの人たちが、吃音の問題は氷山の海面に沈んだ部分にあると言い始めた。それは、吃音が治っていない現実に、世界もやっと目を向け始めたということで、歓迎すべきことです。しかし、海面下の問題を、「吃音シンドローム」と名づけて、この不安や恐れや恥や感情は大変大きな問題で、セラピーの重要な部分だと、吃音治療の臨床家に認識させなければならない。そう認識しないセラピストは失格だとまで言われると、とてもおかしなものになる。つまり、専門家に海面下の問題をセラピーしてもらおうという考え方なんです。
 吃音をそのように定義しようとする動きに、僕は強く反対しています。吃音シンドロームという名前をつけられたら、病的なものになって、自分自身では解決できないから、専門家にセラピーしてもらって、不安や恐れや恥ずかしい感情からちょっと楽になろうという論理なんです。
 僕が真っ向から反対しているのは、どもる人がもつ不安や恐れや恥ずかしいという感情は病的なものじゃないからです。吃音で悩んでいる人だけでなく、どもる人の誰しもが持つもので、自分で対処不可能なものではないと僕は思うからです。
 僕は氷山説を昔から評価しています。氷山の海面上のどもるということに関しては、長年臨床研究が続けられてきたけれどほとんど効果がない。でも、海面下の吃音の大きな部分に対してはアプローチできる可能性があるととらえる。ところが、アメリカやオーストラリアでは、これは、非常に大きな問題で、セラピストに委ねなければならないと考える。僕とずいぶん違うと思うんだけど。
T これだけ問題があると言われるのと、これだけ可能性があるんだと言われるのとでは、取り組み方が違ってくる。
伊藤 もっと変なのは、吃音を「オバート吃音」、「コバート吃音」、「吃音シンドローム」の3つに分けて定義するという提案です。ただ単にどもるのを「オバート吃音」。どもることばを言い換えて言ったり、回りくどい言い方をしたり、話す場面を避けると吃音は表面に出ない。つまり、吃音が分からない部分が「コバート吃音」。強い不安や恐れなどネガティブなものをもっているものが「吃音シンドローム」。そして、3つそれぞれに治療が必要だと言う。
 そこで、みんなに聞いてみたいんだけど、「コバート吃音」、つまり、言い換えたり、逃げたりすることを生活の中でやっていないという人、手を挙げてみて下さい。(誰もいない)
 じゃ、自分は、「コバート吃音」もあるなあという人、手を挙げてみて。(全員)
 コバート吃音をいけないことだ、それをなんとか治さなければいけないとなったら、僕たちの、なんとかどもりながらこの社会で生き延びようとする「吃音サバイバル」は、ちょっと難しいよね。どこでもどもることから逃げないで、いつでも吃音と向き合い、吃音と共に生きている。それが「吃音と共に生きる」ことだと言われてしまうと、僕はだめです。
 僕は、大事なことでは逃げないけれど、どうでもいいことだったら、いっぱい逃げている。寿司屋で、「トトトトトトロ」ってひどくどもって食べることもないから、「まぐろ」と言うことはある。小さいことを言ったら、みんな逃げていると思う。自分の言いにくいことばを、いっぱい言い換えをしていると思う。僕も、無意識に近い状態で、瞬間的に言い換えをしています。それがだめなことで、そうすることが治療の対象になるのなら、僕は話せなくなってしまう。このように、吃音を3つに分けようと強く主張するのが国際吃音連盟の前会長です。
 それに対して、僕らは、弱い部分もあるし、隠したい部分もあるし、恥ずかしい思いもある。そんなものを抱えながら生きていくという感じで、いつでもどこでも元気で、どもっても平気というわけにはいかない。それでも基本的には自分の人生を誠実に、大切に生きようと主張しています。この吃音定義の論議がどう決着がつくか分かりませんが、僕は徹底して反対していきます。
 不安や恐れや恥ずかしさは、仲間の力を借りるにしても、自分の力で向き合って対処していくことができる。治療を必要とする病的なものではないと思うんです。ここまでのことは、「合点していただけますでしょうか。(合点、合点)
 オバートであったり、コバートであったり、シンドロームであったり、ぐるぐる回って、この全体が吃音だと思うんだけどね。
N 鴻上尚史さんが、どもる人のことと英語ができないこととを合わせて文章にして下さった中に、自分は英語が下手だから、言いたいことがあっても、簡単な言い回しにするとか、時には発言をやめてしまうこともある。コバート吃音と同じことを外国語が苦手な人はしょっちゅうやっている。じゃ、その人に対して、語学の先生が指導の対象にするかといったら、しないでしょ。
 仕事柄、いろんな障害のある人たちとつきあっているけれど、右手が不自由だったら左手でカバーするとか、いろいろしますよね。あきらめるとか。ちょっとがんばったらいいのに逃げてしまうとか。それを治療の対象とは誰も考えない。どうしてどもる人だけがそう考えるのか非常に不思議。
H どもらない人であっても、ちょっと言いよどんでなかなかことばにならなかったり、言いかけてちょっとこれはやめとこかとやめるときもあるわけで、何もどもる人だけのことではないような気がしますね。なんで、どもる人が、完壁に話をしないといけないと思うのか。
伊藤 そうやね。それがどもる人が持ちやすい完全主義なんだね。デモステネスコンプレックスという名前をつけたりするけれども。ほかの人でも経験するようなことでも、完全にしゃべらなければならないと、思ってしまうと、つらいよね。
 不安や恐れは、克服はしなくていい。上手に不安や恐れにつきあえばいい。対処すればいい。今、皆さんに書いてもらったことは過去のことが多かったようです。過去より現実の、あるいはこれから起こるであろう不安や恐れについて、どんな場面がありますか。

40名の前での社訓の朗読が不安

A 今度の職場では、朝礼のときに、社訓を章に分けて読ませて、その後に、感想とか意見とかを述べるというコーナーがあるらしい。果たして、人前で社訓を読めるかどうか、とても不安です。
伊藤 はい。ではこの問題を通して、不安や恐れに対しての対処を一緒に考えていきましょう。
人前で社訓を読めるかという不安、恐怖があったとしたら、どういうことが考えられる?
K 社訓を読むということですが、どもらずにきちんと読むことを言っているのか、どもりながらでも読むことを言っているのか。
A どもりながらでも読んでいかざるを得ないなとは思っています。
K そうですよね。じゃ、どもりながらだったら、読めるんじゃないですか。
A そうですけど、もし、ことばが出ずに、止まってしまったら、し一んとなってしまって、「あいつ、どうしたんやろ?」となってしまったときに、手を動かしてでも出ればいいんですけど。
H 「どうしたんや?」と思われることがひっかかっているんやったら、簡単やないですか。どもっていると言えばいい。
伊藤 簡単やなんて、言ってしまったら、結論が早すぎます。物事には順番がある。Aさんのことだけを考えるのではなくて、みんなが同じようなことを経験するとして考えていきたい。社訓を章に分けて読まなければならないということは現実に多くの人に起こりうるので、一緒にそのような場にあったらどうするか考えましょう。
 僕らは、一瞬一瞬何かが起こったときに、いろんなことを考えて、それを心の中でことばにしてつぶやいている。認知療法では、自動思考といいますが、どもって声が出ないときにAさんや皆さんは、瞬間的にどういうことばを思いつく?
A 恥ずかしい。
C かっこわるい。みっともない。
D どもりたくない。
E 立ち往生したらどうしよう。
F 叱られたらどうしよう。
G 馬鹿にされる。
H どもりがばれたらどうしよう。
I 流れを自分のところで止めてしまう。
J びっくりされ、引かれる。
K 何事が起こったかと思われる。
伊藤 こんなくらいですか。このような、瞬間的に思い浮かぶことをことばとして覚えておくと、いろんなときに役立つ。僕らが、不安とか恐れを持ったときに、自分は心の中で瞬間的にどんなことをつぶやいているか、浮かんでくる自動思考をみつけ、そして、浮かんできたこれらのことを点検してみる。浮かんだことは浮かんだことで仕方ないけど、論理療法で言えば論理的に当たっているのか、自分自身を楽にするのか、それとも却って不安に陥れていくのかを検証していくことが必要です。
 「馬鹿にされる」、これはあり得えますか。
A あると思います。どもりについて知らない人は、ことばにつまって、「どどどど」とどもっていることに関して、おかしいな、変なしゃべり方をしていると見てしまって、おかしいんじゃないの、というふうに理解される。
伊藤 問題を自分の力で切り開いていくためにという前提だから、ちょっと考えてね。じゃ、おかしいと思われる、馬鹿にされるという奥には、吃音に対する理解が周りにないからだといえる?
A そう思います。
伊藤 と考えたら、その対処としては、どんなことが考えられる?
A どもりとはこういうものであって、僕のしゃべり方は治らないんですと、分かってもらうしかない。
伊藤 何人くらいの前で社訓を朗読するの?
A 40人くらい。
伊藤 じゃ、対処法を考えましょう。40人が吃音を理解してくれたら、どもっても馬鹿にされることはないわけですね。中には、どんなに説明しても理解してくれない人はいる。弱いところを突いてくる人はいる。でも、多くの人は、吃音とはこういうものだと理解したら、少なくとも馬鹿にはしないね。となると、Aさんのすることは?
K まず説明した上で、どもることはしょうがないから、仕事はきっちりする。どもっていて、仕事をしなかったらどうしようもない。仕事はきっちりする。それでいいんとちがうかなあ。
伊藤 仕事をきっちりとするということが大きな前提となると、僕たちがしなければならないことは、40人の前でちゃんと読むための練習ではなくて、吃音以外のところでちゃんと仕事をして、自信をもつことですね。
 仕事をきっちりした上で、どもりのことを理解してもらうためには、『どもりと向き合う一問一答』や『どもる君へいま伝えたいこと』をしっかり読んで、自分なりにまとめて、私はこういう人間なんだと説明する。しゃべってもなかなか理解されにくいなら、文章にまとめて40人に配布する。そうすることで、少なくとも馬鹿にされるということからは解放されませんか。
A そうですね。
伊藤 はい、これでひとつ、解決策ができました。じゃ次に、「立ち往生したらどうしよう」はどうですか。すごくどもったときに、立ち往生した経験はありますか?
E 電話でまったく声が出なくて、どうにもこうにもならないときが、何度もありました。
伊藤 で、そのとき、どうしたの?
E どうしたんだろ。なんとかかんとかしたんだろうけど、一回電話を離して一息ついた。
伊藤 ちょっと一呼吸おいたりね。ほかに何かある? 僕は、立ち往生しそうな場面には出ていかず、逃げて逃げてばかりしていたから、立ち往生することはなかったけど。立ち往生したときに、こうしたということ、ないですか?
M 立ち往生しても、ひどい連発、醜いどもり方でもいいから、言おうとしたら、なんとかことばはつながりますね。
伊藤 はい。どもってなら突破できますね。そこで、これも常に考えてもらいたいことですが、仮に立ち往生した。最悪の場合、どういうことが起こりますか?
H どうしたんやと声をかけられるとか。
M 低い評価をされて、
H そこまでいかんやろ。
伊藤 それは、ずっと後のことですね。
T 聞いている人が、ざわざわし始める。
N 発言者を変えられる。
伊藤 Aさんの場合、最悪の場合には、どんなことが考えられる?
A 最悪の場合、ほかの人が手をさしのべてくれて、どうしたんやと言ってくれて、私はどもって読めませんと言うしかない。
伊藤 それは、最悪の場面ですか? 最高の場面と違う? 最善の方に、ジャンル分けできるよ。
S 交代させられる。
伊藤 交代させられたら、ラッキーですね。
B くびになる。
伊藤 これが最悪やね。だけど、こんなことでくびになると思う? 仕事ができないというのではなくて、ただ社訓を朗読するだけのことですよ。朝礼は仕事の本筋ではない。自分の仕事として評価されるんじゃなくて、ただ社長の哲学・方針を書いた文章を読むというセレモニーでしょ。
A そうです。
伊藤 その、セレモニーで立ち往生したからといって、くびにはならない。最悪の事態というのは、たかだか笑われるくらいですよ。僕らは立ち往生したら最悪の場面が起こりそうだと思うけれど、たいしたことない。命をとられるわけではない。
 こういうとき、いつも思い出すのは、今から25年も前、第一回の国際大会を開こうと言ったときのこと。みんなが、不安や恐れがある、参加者が少なかったら、資金が集まらなかったらどうしようと反対した。そこで、最悪の場合は何だといったら、赤字が出ることだと言う。赤字が出たら、実行委員のメンバーがボーナスを一回パスしたらいい。それで済むことだから、やろうとなった。そして開催して成功した。最悪のことを考えても大したことはない。そういうふうに考えられたら。
K 今だったら、よく分かりますが、自分がどもりを必死で隠していたとき、自分のどもりがばれたら最悪と思っていたから、そういうときに立ち往生したら最悪です。みんなに自分のどもりが分かってしまう。
伊藤 だから、対処として一番大事な前提は、今の話でいうと、「どもる事実を認める」しかない。どもる事実を認めたくないのであれば、不安や恐れや恥ずかしさは、一生続きます。だから、どこで踏ん切りをつけるかになる。私はどもるのだという事実を認めることができなかったら、残念ながら吃音の恐怖や予期不安の対処は無理です。どもる事実を認めるところが出発じゃないかな。じゃ、どもる事実が認められない人にどうするか。何かある?ここに来ている人たちは、内心は分からないにしても、どもる事実を認めないとしゃあないと思ったり、本気で認めている人であったりする。でも、どもる事実を絶対認めたくない人は、現実にはいっぱいいる。そういう人には、どうしたらいい。
G 知り合いにいる。友だちになって、食事に誘ったりして、この吃音教室の話をしたりする。
伊藤 どもる事実を認められない人に対して、僕たちに何ができるかは、セルフヘルプグループの大きな役割だよね。吃音親子サマーキャンプでも、絶対どもることを認めたくない、そんなキャンプに行きたくないと言う子を母親が無理矢理連れてきて、どもる人たちの中に入れて、自分だけじゃないんだ、どもる事実を認めても最悪のことは起こらないんだ、ということを目の当たりに経験して変わる例はたくさんある。では、どもる事実を認めたくないのはなんでやろ。
N 吃音を知られたら、自分が吃音であることを認めたら、自分が終わりになると思っている。
伊藤 終わりって何やろ。
H 僕は、認めたくなかったときに、このままどもりであったら、僕の人生は展望、未来が開けないとずっと思っていた。まともな社会人になれないんじゃないか、一人前になれないんじゃないか、果たして結婚できるんやろか、とか。
伊藤 それは、Hさんがひとりで悩んでいたからでしょう。自分だけの世界の中での想像だったり、思い込みだったりしたんでしょう。それが、どもりながら、しんどいこともあるだろうけれど、仕事に就き、結婚もしているどもる人たちと出会ったら、どもる事実を認めたくないと思っていた人であったとしても、どもりながらでもこうして豊かに生きていけるなあと思える可能性がある。となると、僕らNPO法人大阪スタタリングプロジェクトの社会的な責務としては、確かに苦しいことや困難なことはあるけれども、どもりながらでもそれなりに生きていけるんだという見本を見てもらうことですね。大阪吃音教室に来てもらったり、情報を提供したりということは可能かな。
 不安や恐れの対処の前提は、どもる事実を認めているということで、スタートしていいですか?
(「スタタリング・ナウ」2009.8.24 NO.180)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/02/13
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