伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

ユーモア

第10回ことば文学賞 2

第10回ことば文学賞 2

 昨日につづき、第10回ことば文学賞の受賞作品を紹介します。
 この作品に登場する、夜間に上司に内線で電話をするエピソードは、よく覚えています。
 僕は、「笑いとユーモア」のワークショップを2泊3日で開催したいとずっと思い続けてきました。それがなかなか実現しなかったのは、講師です。大阪は「お笑い」の本場だと世間では言われますが、吉本興業の笑いはどうも好きになれません。講師が決まらないままずっと来ていたときに、松元ヒロさんに出会うことでできました。この人だと思い、名古屋のライブに行きました。ライブ中、もう、腹の底から笑いました。ライブが終わり、ヒロさんに会いに行き、吃音ショートコースというワークショップで、「笑いのワークショップ」をしていただけないかとお願いしました。さすがに、松元ヒロさんも、ライブならいいけれど、泊まり込みのワークショップなんて経験がないと、断られそうになったところを、毎度のしつこさを発揮して、強引に承諾してもらって実現した「笑いのワークショップ」です。
 そのときの、ユーモアスピーチのセッションで参加者みんなで大笑いをしました。ユーモア・笑いの力を改めて感じさせてくれる作品です。

《優秀賞》
  笑いから学んだ言葉
                       川東直(24歳、ガイドヘルパー)

 「俺にはあいつが無理をしているように思えてならん。出にくい言葉でも伝えようとしてひどくどもり悪戦苦闘。しかもせっかく伝えたものの、結局は相手からの嘲笑を目にすることも少なくないはずや。そんなあいつを見ているのが辛いんや。何とかならんのか、たかがどもりやぞ」
 「されどどもりですよ。あの子ならそう言い返すと思う。私も昔、あなたと同じことを口にしたから。そもそも、たかがの一言でどもりが片付くなら苦労しないわ。あの子なりにどもりと向き合おうと一生懸命なのよ。治らないものを嘆いたって仕方ないでしょ」
 夏の日曜日、ヘルパーの仕事から帰ってきた僕の耳に両親にしては珍しい喧嘩をする声が響いてきた。
 唯一、聞き取れた部分から内容は僕のどもりのことだと察した。2人の会話は平行線のまま続き、その後は話し尽くしたのか互いに沈黙へと突入した。仲裁に入ろうにも、どう切り出していいやらと僕は焦るばかりだった。
 「ねえ2人とも、お茶でもどう?」
 しばらく経ってから、僕は仲裁を試みるべく、グラスに注いだ麦茶を未だに沈黙を続けている2人の前へと差し出した。相変わらずの2人が麦茶を口にした次の瞬間。
 「うえ、何やこれ」
 「ほんと、これ麦茶やないわ」
 二人が何を言っているのか訳がわからない僕は、「そんなはずない。このペットボトルから注いだよ」とすかさず反論した。するとそのペットボトルを見た母が突然吹き出して笑い始めた。何と中身は手作りの麺つゆだったのだ。思いのほかたくさんこしらえてしまった為に、空いたペットボトルに詰めて冷蔵庫に入れたばかりだったらしい。そうとはつゆ知らない僕は、お茶のラベルを鵜呑みにし気づかずにお茶を出してしまったのだ。
 仲裁に入ったはずが、「やっちゃった」という思いで僕はその場でしゃがみ込んだのだった。母と違って普段から頑固で気難しく冗談が全く通じない父を前に、麦茶の代わりに麺つゆを飲ませたことで事態が余計に悪化すると思ったからだ。
 程なくして、大爆笑が聞こえてきた。そっと顔を上げてみると状況を理解した父の「これは傑作だ」との笑い声だった。喧嘩していた両親の声が、今度は笑い声になって響き渡ったのだ。あの父が、あんな笑う表情を見せるとはと、僕は驚くばかり。何よりも信じられないのは、ひょんな失敗から笑いが起こり、気まずい沈黙は崩れ、両親の表情と場の雰囲気も一気に和らいだ点だ。これは僕にとって嬉しい誤算だった。
 その時、ある思い出で得た感覚と類似しているのに気がつき思わず僕は含み笑いをした。その表情の意味を不思議そうに問う両親に、僕は今の胸中を交え、順を追って含み笑いをした意味を説明することにした。2年前の吃音ショートコースで「吃音での失敗や悩みをユーモアを交えてスピーチしよう」の時間の時の僕が話した内容を再現したのだった。
 以前、勤めていた職場で夜勤の時、上司に内線をかけなければならない事があった。電話をかけるときのマニュアルがあり、「夜分恐れ入ります。○○主任・・」といった言い回しで始めなければならなかった。それが、「や」がどうしても出てこない。そこで、仕事上で使うことが多く、幾分慣れていた丁寧語を頭につけて切り抜けようと、とっさに口にした言葉が「お夜分恐れ入ります・・」だった。丁寧語の中でも自分自身が一番言いやすい「お」を頭につける方法を使ったのだ。そうした方法を用いて発した言葉が、相手には「親分、恐れ入ります・・」と本来伝えたい事とは全く別で、しかも変に意味を成して通じてしまっていた事に、とにかく言う事に必死だった僕は、しばらく気づかなかった。後で上司に「親分とは何だ。ふざけているのか」と怒鳴られて気づき、大変恥ずかしい思いをして落ち込んだのだった。
 吃音ショートコースでのこのスピーチは大いに受けみんなはゲラゲラ笑ってくれた。みんながおもしろい話をしていたが、そんなおもしろい話は思い浮かばず、しかたなく、失敗したことだけは話せると話したのだった。
 しばらく不思議な感覚だった。自分にとって恥と落ち込みで、思い出したくない、話したくない苦いエピソードなのだ。みんながそれを聞いて笑っている。笑われているのに、少しも不快感が無くて、ひどくどもって目にする嘲笑とは受ける印象が全く違ったのだ。あとは、あれほど嫌だった苦いエピソードを笑ってもらったことによって、落ち込むほどのことではなかったのかという気づきを得た。そのことで、ひとつ壁を乗り越えたような感情が湧き上がった。あの時のスッキリ感は忘れられない。
 さっきの喧嘩で言っていた僕のどもりに対する父の僕のことを心配してくれている気持ち。べ一ルに包まれたように普段めったに語らないので正直嬉しかった。
 僕は父親に感謝しながら、こころの中で、話しかけていた。
 「安心して。無理なんかしてません。たとえ出にくい言葉でも、しっかり伝えようという、ただ純粋な気持ちで日々の会話に臨んでいるのです。確かに聞き手からの嘲笑が無いと言えば嘘になる。かといって、そういう嫌な思いをする場面から遠ざかってばかりでは、何も変わらないし大事な事に気づいたりさえ出来ない。受け流したり聞き流したりもできるけど、時には正面からぶつかって乗り越えるという選択に打って出る大切さを覚えたのです」。これまでどもりの話は母とばかりしてきた。これから父ともたくさん話ができるようになればと願う。
 改めて吃音ショートコースの時に選んだ、ユーモアスピーチについて振り返ってみると、題材に使ったエピソードは、今は笑って話せるプラスの記憶だが、当時の僕にすれば出来ることなら消したい位のマイナスの記憶だった。実を言うと、いざみんなの前でこのエピソードを話そうとした時も迷いが生じてスピーチするのを一瞬躊躇しそうになったほどだ。それでもスピーチに踏み切れたのは周りの励ましに後押しされたからだ。話した結果、みんなが大笑いをしてくれ、消す事ばかりに視点を置いていたマイナスの記憶が、プラスにとらえられるまでに変える事が出来た。
 当時は、まだユーモアスピーチを、長い間抱えていたマイナスの記憶を乗り越える為の気づきだったとしか僕はとらえていなかった。それが最近、あのスピーチは僕にとって癒しになったという考えが芽生えてきた。そのきっかけが、両親の喧嘩を仲裁に入るものの逆にひょんな失敗をして笑いが起き、全部一転させて和らげた現象だ。家族で笑い合ったあの直後に現れた爽やかな感じには本当に癒されたのだ。
 ユーモアスピーチをするまでは、笑われるというと嘲笑や侮蔑的な笑いしか連想できなかった。それが、スピーチを終えた後からは共感から起こる笑い、ただ素直におもしろいと感じて起こる純粋な笑い等が加わって、同じ笑われるでも大きな違いを知った。笑いという僕にとっては苦手な分野で、ユーモアスピーチと家族と笑い合った経験から次の言葉に辿り着いた。
「笑いは人を傷つけるが、癒しもする」

〈選者コメント〉
 「事実は小説よりも奇なり」は使い古されたことばだが、ユーモアも事実に勝るものはない。本人が笑われたり、怒られたりしたことに全く気づいていないからよけいにおもしろい。日頃実直な作者を知っている人にとっては、なおのことおもしろい。
 作者はかってはどもることなどで笑われることがあり、笑われることに、また「笑い」に対して否定的なイメージを持ち続けてきたのだろう。今回紹介されたふたつのエピソードは、何度思い出してもおもしろい。作者は「親分、恐れ入ります」の体験を、愉快な体験だと思えなかった。吃音ショートコースのユーモアスピーチで率先して話そうとは思わなかったところに、作者の「まじめさ」と「失敗を笑えない」ある意味の生きにくさがあったのだろう。「笑いの人間学」がテーマだった一昨年のショートコースで、自分の失敗談を話したとき、みんなが大笑いをしてくれたことによって、作者にとってできることなら消してしまいたいくらいのマイナスの記憶が、大きく変化し、体験したことの意味が変わったのである。さらに、作者の癒しになった。
 「笑いは人を傷つけもするが、癒しともなる」のしめくくりの意味は大きい。ユーモアや笑いについて、ふたつのエピソードを通して考えさせられた。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/11/23

ユーモアセンス

 「スタタリング・ナウ」2005.4.24 NO.128 の巻頭言だけを紹介して、前号に戻って、ことば文学賞受賞作品を紹介してきました。今日から、「スタタリング・ナウ」2005.4.24 NO.128 に掲載している、京都精華大学のヨシトミヤスオさんのお話を紹介していきます。
 40年以上前に漫才の一大ブームがあり、今またテレビはお笑い系に乗っ取られていると思えるほどの状態になっています。お笑い芸人の養成校が大盛況で、笑い芸人を目指すことが今、ブームになっています。そのような笑いも一つの笑いには違いないと思いますが、僕たちは、ドタバタの笑いではなく、生きる力に結びついていくような「笑い・ユーモア」について、ずっと考え続けています。「吃音を治す」アプローチからは出てこないですが、ユーモアは、吃音を生き方の問題だと考える僕の中心的なテーマです。
 1992年、大阪吃音教室で、ユーモアについて連続して学び、考えた時がありました。その特別講座の講師が、漫画家であり、大学教授の、ヨシトミヤスオさんでした。世界で初めて、マンガの大学院をつくった人として話題になりました。おもしろく、自分自身が楽しそうに話しておられました。随分前になりますが、懐かしく思い出されます。
 ヨシトミワールドを紹介します。
ヨシトミヤスオ写真
  ヨシトミヤスオさん
プロフィール
 動物マンガ家。京都国際マンガ家会議主宰。京都精華大学マンガ学部名誉教授。
略歴
 1938年、京都市生まれ。京都市立芸術大学デザイン科卒。
 1972年、『動物マンガ百科』で第1回日本漫画家協会賞大賞を受賞、
 1991年、京都市芸術功労賞を受賞(平成3年度)。
 2000ハノーバーEXPO、京都国際マンガ展(1〜10回)などの数々の国際展で選考委員。
著書
 『動物マンガ百科』(マンガ 駸々堂)、『びーびぃびーび』(絵本 偕成社)、『ちゃんと作文かかんか!』(絵本 偕成社)、『ぼく図工0点や』(絵 偕成社)、『マンガ漫画の魅力』(評論 青山社)、『手塚治虫』(評論 青山社)、『怪獣のふしぎ』(マンガ 小学館)、
『食べる』(マンガ ユニコン出版)、『新動物マンガ百科』(マンガ PHP)その他多数。


  
ユーモアセンス
             ヨシトミヤスオ(漫画家・京都精華大学)


出たがりの私
 ご覧の通り、私は足を悪くしました。こうなった小学校の5年生ぐらいのときの思い出話からしていきたいと思います。
 22年位前、私は大学で、漫画を描く漫画専門の分野を作りました。4年制の大学で漫画の分野があるのは、世界でも私の大学だけで、一時マスコミでも騒がれました。その後、いろんなテレビやラジオの取材があり、私は、私の大学で最もマスコミ人と言われています。
 皆さんは、私が出演した番組をご覧になったことはないでしょうね。タモリとか、ああいうふうなジョークを飛ばすのではなくて、真面目にやるんです。NHKテレビのバラエティショーの司会をしていたことがあります。また、KBS京都のニュースキャスターを1年間しました。あるいは、ラジオ番組のディスクジョッキーをずいぶん長くしました。ですから、私の大学では、私のことを出たがりと言うんです。これくらい、口から先に生まれたような男は、いないだろうなと言われています。
 あるときから、私はテレビに出るのをやめました。あるとき、『今晩は、ヨシトミ・ヤスオです』と言って、頭を下げたら、モニターテレビがピカッと光った。これは、ライティングの人が下手だったと思うのですが、あっ、これはもう限界かと思いました。私がというより、妻が私に「ハゲ頭をさらして人前に出るのは止めてくれ」と言いました。それで、私はついに辞めてしまったんです。これは半分冗談ですが。まあ、辞めた最大の理由は、やはり売れなかった、ということなんです。
 漫画も35年位描いているんですが、これも売れません。なぜ、私が漫画を描くようになったか、なぜ出たがりになったか、ということについてお話します。

漫画に目覚めた小学校時代
 私は小学校へ8年行きました。
 今、思うと、私の家は生活保護所帯だったのでしょう。父親が肺結核で入院しまして、母親が一人で行商をしながら一家を支えてくれていました。
 私も肋膜で足を患って家で寝たきりの生活を2年送りました。5年生を2回、6年生を2回、合計8年間、小学校に籍を置いていました。置いているだけで、ほとんど学校には行っていませんでした。小学校の先生が家庭訪問して、「お父さん、ヤスオ君はちょっと問題が多いんです。たまに学校に来ても元気がないんです。『ハイ』も言ってくれません」と言いました。私は全く声を出さなかったようです。
 小学校8年生の時、校長先生が家に来られました。「ヤスオ君はとにかく小学校に8年間来た。そして、ヒゲが生えてきた。ヒゲが生えてきた生徒を小学校に置いておくわけにはいかない」となり、それで、何とか中学校へ行くことになったんです。そのころ、私は寝たきりで、家で留守番をしていました。何もすることがないんです。今のように家庭教師が来るなんてこともなかったのです。
 昭和20年代の後半、『漫画少年』とか『少年クラブ』とかいった雑誌がありました。買うことはできなかったんですが、回覧雑誌といって、月に10冊、3日ごとに貸してくれるんです。その頃、月刊雑誌は7冊、残り3冊は興味のない雑誌をとらなきゃいけなかった。『漫画少年』が来ると、初めから終わりまで30回位見ました。それで3日たつんです。
 そういう生活を繰り返していて、漫画っておもしろい、いい漫画家になれないかなと思い出したんです。
 その頃、私は寝たきりだったでしょう。天井向いたままで、インクを付け、線を引いて、漫画を描いていく。新聞に投書した経験があります。つけペンで黒インクで描かないと新聞の印刷には出せない。インク瓶を置いて描きます。ボールペンは逆さになって描くとインクが出ません。ところが、つけペンは出る。それで線を引いていくんですが、だんだん線の位置が変わってくると、インク瓶を動かしたくなる。インク瓶を狙って、つけるんですが、失敗することもある。場所を間違えてしまうんですね。そういうことを繰り返し、夢中になって漫画を描いていました。
 私を看病している78歳になるばあちゃんが、部屋に入って来て、私を見て、『ギャー』と叫んで、飛び出していったこともありました。インクで顔や手なんかが、真っ黒になっていたのでしょう。そういう状態で描いて、描いて、描きまくっていました。

天才漫画少年、あらわれる
 『毎日中学生新聞』に常連で掲載してくれることになりました。最初、プロの漫画家の4コマがあり、その横に私の漫画がその倍のスペースで出ておりました。すごいなあと思ったのですが、翌日、プロの漫画家の4コマの大きさは変わらないけれど、私の漫画のサイズは半分になっている。つまり、記事の多い日には新聞社の方で勝手に私の漫画はサイズを変えてしまうんです。どちらにせよ、どしどし入選していきます。そこで賞品としてもらえる大判の大学ノートをためるのが、家で寝ている私の慰めだったんですね。
 そして、中学校へ行きました。家で漫画ばかり描いている私に、中学校の勉強が分かるはずがありません。化学記号の試験をいきなりやらされましたが、0点でした。生物も0点、英語ももちろん0点でした。半年ぐらいで成績は上がってきました。でも、駄目なのが数学でした。
 人間の一生は、不思議だと思うんです。
 最初に出会った数学の先生は、いつも試験の答案を返す時に、100点から順に返していきました。毎回同じパターンで返しました。「さあ、全部返した。前日に比べると、良くなった。さあ、授業に入ろう」と言うのですが、私のだけが返されていません。しばらくすると「一枚、残ってた。誰や。ヨシトミ。おまえや。これ0、0、0点や」と、こうです。これが繰り返されるうち、私の数学嫌いは決定的になりました。
 ある日、この先生を見返すことがありました。あるときの、嫌な数学の時間に、校長先生がドアを開けて、数学の先生を呼びました。そして、先生が「校長先生がお見えになった。まだ授業があるが、これで止める」と言った。なんで止めるんかと思ったら、「さあ、これから机を全部後ろに引いて、ヨシトミを真ん中にして、みんなで周りを取り囲め」と言う。私が数学で0点ばかりとるので、みんなで糾弾するのかなと思いました。それも校長先生を巻き込んでやり出したと本当に思いました。校長先生は、一度戻られて、次に大きな模造紙と硯と筆を持って来られました。それを、数学の先生に渡して、「ヨシトミをみんなで取り囲んだか。ヨシトミの手元をみんなで覗きこめ。ヨシトミ、そこで描きなさい」と言う。私は「はあ? はい、何を描くのですか」と聞いた。「何をって、おまえ、しょっちゅう漫画を描いとるやろう」「いやあ、描けません」「校長先生がおっしゃっとるんだぞ、君」「描けません」「描きなさい」などとやり合っていると、カメラを持った新聞記者が来て、「記者が写真を撮るから描きなさい」となった。僕は、何のことだか分からないが、とにかく言われたので、筆に墨をたっぷり付けて、描いてみんなに見せた。「さあ、みんな、笑って」と先生が言って、写真を撮った。
 あくる日は、大騒ぎでした。新聞には、大きな活字で"天才漫画少年あらわる"とあります。
 それを家で見て、父親に「お父さん、お父さん、出てる」「わあ、すごいなあ、おまえ。天才って書いてある。それで記事読んだか」と父が言います。読んでいなかったので、父親が読んでくれました。「ここんとこや。『ヨシトミ少年は幼少の頃から、家庭が貧しく、貧困のどん底に喘ぎながら、漫画を描き続け、やがて、二代目のウォルト・ディズニーになろうと嘱望されている、天才漫画少年である。ヨシトミ君は、小学校5年生の時、右足を患い、太ももから切断し』…」そこまで聞いていて、何でや、僕の足はあるわな!と思いました。
 それからマスコミ不審に陥ったのです。つまり、話題性のため勝手に新聞社が僕の足を切ったんです。いまだにちゃんと指まであるんですよ。それから、私は俄然有名になりました。

生徒会の選挙をきっかけに
 生徒会の選挙がありました。漫画は上手と言われているが、成績はどん底です。年がちょっと上だけの事で生徒会会長の選挙に出ろと言われました。「出ません。人前でしゃべったことがありません」と言うが、担任の先生も「これだけ有名人になったのだから出てみなさい」と言う。みんなから「出ろ、出ろ」と言われ、頭がボーとして「うん」と言ってしまった。みんなで原稿を作るから、それを読んで演説したら良いということになりました。
 いよいよ当日、グランドに全校生の1000人くらいが集まりました。そこで、朝礼台に上り、演説をするんですが、聞いているとほかの立候補者は「もし当選しましたら、先生方と協力して明るい学校をつくります」などとみんなうまい事を言う。いよいよ僕の番。朝礼台に上がろうと思ったら、僕は松葉杖をついていたもんですから、足がガタガタ震えて、上がれません。みんなが両脇から支えて上げてくれました。上がって、パッと目をあけたら、1000人の顔がジャガイモみたいに見えて、おまけに湯気が上がっている。頭がボーとしてきて、これはえらいこっちゃと思っていると、昨日まで覚えていた演説のことばをすべて忘れてしまった。黙っていたら、クラスメイトが「ヤッチャン、言いな、言いな。忘れよったんと違うか」と心配し出しました。周りの連中が冷や汗をかいたんです。
 人間とは恐ろしいもので、普段思っていることが出るものです。覚えていたことをすべて忘れてしまった僕は、こんなことを言い出しました。
 「皆さん、僕は皆さんより年が2歳上です。だから皆さんよりお兄さんです」と言うと、みんなはワーと笑った。「僕は皆さんのお兄さんだから、皆さんが困ったことがあって相談にきたら、僕は真剣に相談にのることを約束します。さようなら」その時の選挙、最高点で当選です。それ以来、性格が120%変わりました。

自分が確信をもつこと
 とにかく、人前でしゃべるのが楽しくてしょうがない。しかも、自分がしゃべって人が笑ってくれると、無上に幸せを感じるようになりました。そして、テレビやラジオに出演するようになり、出たがりと言われるようになりました。今、僕が悲観主義者だったと言っても誰一人信用しません。楽天家で明るくてジョークが好きだと思っているでしよう。
 実は私自身は、半分半分で両方を兼ね備えていると思っています。自分の人生の中で、自分の性格やしていることを変えようと思えば変えられるんだということは実感として感じています。
 うちの大学の学生を見ていても、「どや、漫画家になるか」と言うと、「ハイ、なれれば」と言う。別の学生に「君は?」と尋ねると「出来るだけ」と答える。これでは、なれない。「なります」となぜ言わないのか。「なります」と言ったら「なれる」んや。そんな甘いものではないかもしれないけれど、だから余計に自分が確信を持つことが大切なんです。自分がなります、と言うと、そうならなかったら世の中に嘘をついたみたいになる、だからがんばる、それでいい。人前で宣言しろと、学生には指導しています。
 『成せば成る、成さねば成らぬ何事も、成さぬは人の成さぬなりけり』これは、子どもの頃から私の一番大好きな言葉です。また、人生観でもあります。何かをやってみようと思えば、やれば必ずできるのです。やらなければ当然できないのです。何事もそうです。できない、できないといっているけれど、それは、結局本人がやらないからできないのです。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/05/24
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