伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

セルフラーニング

気がつくと、先の見えないことばかりやっています。〜仕事とは、『旅』を続けること〜 3

 新鮮な気持ちで、この21年前の話を読みました。聞き手の興味・関心によって、思わぬ自分が引き出されるのだなあと思います。平井雷太さんとの出会いも、とてもありがたいことでした。いろいろと話をして、刺激をたくさん受けました。本当にたくさんの人に出会ってきたなあと、感謝の気持ちでいっぱいです。
 「スタタリング・ナウ」2004.6.19 NO.118 に掲載された文章、今日が最後です。

>気がつくと、先の見えないことばかりやっています。
      〜仕事とは、『旅』を続けること〜
                 伊藤伸二+平井雷太+飯島ツトム(CO-WORKS代表)
                 2003年11月29日セルフラーニング研究所にて

◇チャレンジャーとして、「ひとり・ひとり」が平等な世界
「学び」のプロセスを公開していきましょう!

伊藤 僕は、言語聴覚士養成の専門学校で教えています。大学を卒業してから2年間の研修ですが、多くの人が「私は全然自信がない…。自分をあまり好きになれないし、こんなに弱い人間がスピーチセラピストとして、専門職者として、障害のある人たちと関われるか、すごく不安だ」と言うんです。「だから、いいんじゃない」と、僕は言うんです。つまり、「自分は駄目な人間だ」って自覚していたら、それでいい。上から、治療してやる、教えてやるではなくて、患者さんと、または子どもと一緒に取り組めばいい。病気や障害があるとつい自分が嫌いになったりすることがある、一緒に自分が好きになれたら、一緒に対等の立場で取り組める。そう言うんですけど。

平井 それは、『らくだ』で言えば、教師が、『らくだ』のプリントをやり始めると、いいんですよ。親が『らくだ』のプリントをやり始めるのも…。

伊藤 いいですね。「お父ちゃんお母ちゃんは、やれないじゃないか」って。

平井 そう。全然やれなくなるんですよ、大人の方が。そうすると、子どもがやっていることも理解できる。たとえば、『100マス計算』と『らくだ』と何が違うかというと、『らくだ』の場合には、できる子もできない子も、要するに成績がいい子も成績が悪い子も、やっているところは、全部自分に「ちょうど」の所をやっているから、「できない」という意味で平等なんですよ。

伊藤 なるほど。面白い!

平井 その子にとって、その人にとって、ものすごく大変な事をやるのが、「大変」というレベルで一緒なんです。その人に「ちょうど」の所をやることが、平等なんです。「先に進むことが偉いこと」では、全然ないんです。

伊藤 そうですよね。

平井 ええ。「その子が課題を選んでやる」、「できないところにぶつかる」ということが、すごく大事。だから、できないことを受け入れる『練習』をしている…。

伊藤 『練習』というのがいいですよね。僕は、「できないことはできない」と認めて、受け入れる『練習』というのが、どもりで悩んだことを通してできてきました。練習をしてきたおかげで、他の病気とも上手につきあえるようになりました。「そのままでいい」ということはそうなんだけど、『練習』によって身につけていけることもいっぱいあると思うんです。それで、僕はいろんな『練習』をしてきたな、と思います。

飯島 僕は「常にチャレンジをしている」というのが、とても大事なことなのかな、と思っているのです。平井さんの話と共通したのは、「チャレンジャーとして平等だ」ということですよね。

平井 そうですね。

飯島 日本は、あまりチャレンジャーをティーアップしない文化だと思っていました。伊藤さんが『吃音の世界大会』の第1回目、つまり、非常にそそっかしくも、第1号に手を挙げて始めちゃった。そういう人は、日本では、「そそっかしい、無謀にも何かを始めた人」になるけれども、たぶん世界の基準で言うと、一番初めにそれを開いた人というのは、とっても価値が高いんですよね。

伊藤 そうらしいですね。18年も前のことなのに世界ではいまだに評価してくれます。日本じゃ、全然駄目ですけどね。

飯島 だから、そういうことは、やっぱり世界の見方のほうが、僕は好きなんです。僕も学生時代に1回飛行機を作って飛ばしたのですが、日本の航空局もやはり何にも評価しないし、学生が飛行機を飛ばしたなんて、無かったことにした。だけど、アメリカの『航空機年鑑』には僕らが作った飛行機が載っているんです。さっき言った、日本の社会というのは、そういうところが多分にあると思うので、自分が良いと思うところにどんどん行けばいいな、と思いました。僕は、今、企業の、本当の意味での『リストラ』をやっているのです。実は、僕たちがあるべき社会から企業はみんな引きこもっている、と。自分たちの利益のためにいろいろやっていて、企業は社会に背を向けて引きこもっていたんですね。僕らが、望ましい、本当の意味で社会と共生していくような、というのは、たぶん、僕は『セルフラーニング』の世界だと思うし、みんながティーアップしない世の中であるけれども、そういうことを大切に育てていければいいな、と思います。
 それで、伊藤さんの話も平井さんの話も、むしろ企業の皆さんが引きこもっている訳ですから、どんどんそういう場面でお話いただくと、普遍的な話になるかな、と思いました。人間が誰しも最終的なところで出会うことじゃないですか、「できない」とか、「障害がある」とか、は。だからこそ普遍的な意味を持っているのではないのかな。逆に言うと、今までの体験が全部、人に対して光を投げかけることになっているのかな、と、今日改めて思いました。そして、そこがたぶん、分からないながら始めても、物事がはっきりしていく秘密のひとつなのかなあ、というふうに…。

伊藤 そうですね、僕は『プロセス』というのが一番大事だと思うんです。そういう『プロセス』をやはり僕たちは出していかないといけないと思います。その『プロセス』が面白いですよね。この作業を今までおろそかにしてきたのだろうと思います。悩んだり苦しんだりする『プロセス』の中で、学んだり気づいたりしてきたことがいっぱいあるのに、「解決した」とか「克服した」とか、そこばかりに注目してしまうような…。途中のプロセスで、揺れ動いたり、悩んだりしますね。そんな一直線にいく訳ありません。ある意味では、人が、その『プロセス』を出そうとすることは、傷ついたり嫌な思いをするかも知れないけれども、それはそれで一つの『プロセス』だし、一つの『経験』だと思うので、それを出していけたらいいな、と思いました。

平井 『プロセス』に注目せず、結果ばかりに関心を向けたことで、おかしくなったのが、教育ですね。「基礎学力をつけなければ…」と考えると、目先の点数を上げることばかりに一生懸命になってしまう。それを指示・命令でやらせられるわけですから、言われたことはやっても、言ってくれる人がいなくなると、何もしない子どもになるのでしょう。
 そこで、結果ではなく『プロセス』に、つまり、学び方に関心を向けたのが、『教えない教育』です。「指示・命令で子どもを動かさない」と決めただけで、それをしないからこそ、子どもは自発的に学ぶ、というのは、本当に発見でした。(「スタタリング・ナウ」2004.6.19 NO.118)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/04/12

気がつくと、先の見えないことばかりやっています。〜仕事とは、『旅』を続けること〜 2

 月刊セルフラーニング『Co:こぉ』の2004年6月号に掲載された、僕と平井雷太さんと飯島ツトムさんとの鼎談というか放談というかを、今、読み直してみて、こんなこと、あったんだというのが正直な感想です。すっかり忘れていました。僕は、同じようなことを話していますが、話す相手が違うと、少しずつ展開が違い、広がっていきますね。ここでは「旅」がひとつのキーワードになっています。
色紙 旅 旅といえば、大学生のとき日本一周をしたことを皮切りに、あちこち旅をしてきました。放浪癖があるのではというくらい、今でも旅が好きです。いつだったか、どこだったか、旅先の無人のお店で「旅」という色紙、誰が書かれたものか分かりませんが、買い求めました。僕の旅好きを物語っているようです。

 昨日のつづきです。「スタタリング・ナウ」2004.6.19 NO.118 に掲載された文章を紹介します。



気がつくと、先の見えないことばかりやっています。
      〜仕事とは、『旅』を続けること〜
                 伊藤伸二+平井雷太+飯島ツトム(CO-WORKS代表)
                 2003年11月29日セルフラーニング研究所にて


◇「理論」を離れ、「リアル」に触れる旅に出る

伊藤 僕の人生の中で考えてきた、「どもりの生き方」というか、「どもってもいい」という生き方が、果たして他の人にも受け入れられるかどうか、北海道から九州まで全国38会場で、相談会・講演会をしました。

平井 どれくらいの期間でですか?

伊藤 3ヶ月くらいです。今日は帯広、明日は札幌…と。旅巡業みたいなものです。

平井 それはいつ頃ですか?

伊藤 大阪教育大学に就職をして、助手の時代です。まだ講師ではないので、講義を持たなくてもいいですから、自由に動けたんです。

平井 何歳の時に?

伊藤 29か30かな。そんな若くても、やはり田舎のほうでは「大阪教育大学の伊藤伸二が来る!」と言ったら、それなりに「おお、大学の先生が来るのか」という事で人が集まってくれます。新聞社やNHKが宣伝をしてくれました。でも、何の計画もなしに、出発するんです。僕の研究室に研究生が一人いて、連絡を取りながら、相談会を組み立てていくんです。「帯広が終わった。じゃ、札幌に電話してくれ!」と。そうすると、札幌の『ことばの教室』の教師たちが会場を設営してくれる。「次は、青森の八戸でやるから、八戸で誰か協力してくれる人はいないか、当たって欲しい」。今考えたら、無謀も無謀ですね。計画なしのゆきあたりばったりなんですから。でも、それが、35都道府県38会場で開くことができたんだから、おもしろいですね。

平井 でも、それも、吃音のおかげですよね。『吃音ネットワーク』じゃないですか?

伊藤 はい。そんな事ができたというのが、今考えてもすごく面白いです。「どもりはどう治すかではなくて、どう生きるかの問題だ」という、私の経験から得た一つの結論の検証の旅ですが、どもりで悩んでいる人だけでなく、どもりながら平気で生きている人とたくさん出会いました。これは、全国を行脚した最大の収穫です。僕は、自分自身がどもりに深刻に悩んできたし、どもりに悩む人の話ばかりを聞いてきたから、「どもりであれば悩むはずだ」と信じて疑わなかったんです。僕は幸いセルフヘルプグループをつくって、いろんな人との出会いの中で、どもっていても平気で生きられるようになってきた。ところが、吃音の勉強もしてなくて、グループに参加もしてなくて、もちろん治療も受けなくても、普通のおっちゃん、おばちゃんが、平気でどもりながら生きてるんですね。じゃあ、僕の主張もまんざら間違いではないなあと思えた訳です。この、どもってはいるけれど悩んでいない人との出会いは、ひょっとしたらコペルニクス的な新しい発見でした。
 これは、僕が、全国を検証して行く『旅』に出たから知ることができたことであって、理論的に頭の中で「どもっていても、平気でいる人がいるではないか」と言うのとは、全然違う。そこで出会った人たちの話を聞いて、「ああ、そうか。人は、こういうふうに変わっていくのか」と、自分の体験と重なったんです。例えば、町役場の助役になった人が、助役になった事で答弁をしなくてはならない。それで、ノイローゼになる。その助役が、ふと気がついて、「そうだ、どもりを隠そうとするから、上手にやろうとするから、ノイローゼになるんだ。自分は、どもりなんだから、どもって答弁してやろう」と思う。そして、答弁の前に「私はどもりで、みんな聞きにくいかも知れないけれども、いつでも質問してくれ」と言い、そこからスタートしたら、嘘みたいにどもりの悩みが消えた。そんな話をいっぱいいっぱい聞いたんです。

平井 やはり、「情報を収集した」というのは、大きいですよね。

伊藤 学者や研究者が、研究室の中で、理論的に、「吃音を受け入れる」とか、「自己受容」とか、そういうことを言うのとは、全然違う。出会った人たちが、自分のどもりとどう出会い、どう乗り越えてきたかという事を3ヶ月にわたって検証して来た訳だから、出会った人の顔が浮かんできます。これは、やっぱり、「情報収集」ですよ。

飯島 逆に言うと、わずか3ヶ月でリアルに触れられる、ということですよね。やろうとすれば。

平井 そう。連日、「何なんだ、これは!」みたいなことが連続する訳です。見えないことが見えてくるんですよね。

飯島 そういうことが、今の学校も含めて、みんなぶつ切りですよね。だから、分からない。リアルに触れる、までいかないですよね。

伊藤 そうだと思います。連続というのは、すごくいいですよね。

飯島 だから、「全部つながっているんだ」ということも分かるんでしょう。僕も若い頃にヨーロッパを旅行したことがあります。そうすると、日本では、アジアとイスラムとヨーロッパは違う、と教えられるじゃないですか。歩いてみると、「基本的には、あまり変わりがない」というふうに、リアルに思う。「国境なんかない」ということもリアルに思うし。集中してやることが一番リアリティーを実感できます。もちろん、フィールドワークも、少しずつ自分の中に…。

平井 たぶん、普段の生活の中からストップアウトすることに意味があるんですよね。「離れる」というか、「居る場所から離れると、居た場所が見えてくる」というのがあるんでしょうね。

伊藤 そうだと思います。大学の研究室にだけ居たのでは、絶対見えてこない。そこを飛び出すことによって、見えてきたのでしょう。

平井 それに、行ってみないと、予定が立たないですよね。

伊藤 そうだと思います。とりあえず、フッとした思いつきで行ってみるという。

平井 「予定がない」というか、「先が見えない」ということですね。それに、『旅』のメリットは、やっぱり困ることなんじゃないんですか?明日どこに行くか決めなきゃならないし…。「決めること」の連続ですよね。

伊藤 そう「一瞬の判断」。でも、先の見えないことばっかり、僕はやっているような気がします。セルフヘルプグループを創ったのも、世界大会を開いたのも、です。

飯島 だから、『旅』になるんですよね。

平井 今もまだその続き…みたいな。

伊藤 その続きみたいなものですよ。だって、『吃音の世界最初の国際大会』にしても、それが本当に開くことができるかなんて誰にも分からないわけですよ。当時は、どこの国にどもる人のセルフヘルプグループがあるのか、という情報さえなかった。だけど動き始めたら、情報は入って来るんですよ、不思議と…。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/04/11

気がつくと、先の見えないことばかりやっています。〜仕事とは、『旅』を続けること〜

 平井雷太さんとの出会いは、たまたま図書館で手にした詩集の中にあった「やさしさ暴力」の詩でした。その後、平井さんに来ていただき、私たちの集まりで話してもらったり、インタビューゲームの合宿をしていただいたりしました。また、私も平井さんの集まりに行って、話をさせてもらったりして、いろいろな機会にたくさんの話をしたと思います。平井さんと僕には、共通する部分も多いのですが、違う部分もあり、お会いするたびに新しい発見があります。 2003年11月に、セルフラーニング研究所で話したことが、月刊セルフラーニング『Co:こぉ』の2004年6月号に掲載されました。編集委員会の許可を得て、「スタタリング・ナウ」2004.6.19 NO.118 に転載したものを紹介します。

気がつくと、先の見えないことばかりやっています。
      〜仕事とは、『旅』を続けること〜
                 伊藤伸二+平井雷太+飯島ツトム(CO-WORKS代表)
                 2003年11月29日セルフラーニング研究所にて


◇「お金」・親からの自立

伊藤 僕にとって、父親・母親は、随分ありがたい存在でした。中学、高校のころ、僕は、勉強はしないし、警察や学校からは呼び出されるし、本当にどうしようもない人間でした。今で言うところの非行少年でした。ところが、母親も父親も僕に、責めるような、非難するようなことは何も言わなかったんです。
 僕が、やっと就職したのは29歳です。今でこそ『フリーター』とか言われていて、そんな人は多いけれど、大学を卒業したらみんな就職する時代に、大学はふたつの学部に行って、いつまでたっても、まともな仕事に就かずにブラブラしている僕に、親は「お前、ちょっとええ加減にせえよ。大学を卒業して何年になるんだ? ちゃんとした所で働いたらどうか?」と、言わなかったんです。
 僕のことをあきらめて、もうどうしようもないと思って見捨てていたのか、それとも僕を信じ切っていたのか、それは分かりませんが。

平井 すごいですね。信じ切っていたんですね。

伊藤 たぶん、そうでしょうね。僕は、大学に7年間いて、ブラブラしていました。親から援助は一切受けずに、学費も生活費も全て自分がアルバイトで稼いでいました。ある時、勉強したい事ができました。それは『吃音』のことなんです。大学生活をしていた東京から、大阪教育大学へ言語障害児教育を学びに行くことにしました。
 その時に、父親の所へ行って、「僕は今まであまり勉強しなかった。だけど、大阪で勉強したいことができた。これまではアルバイトで生活してきたけれども、大阪に行くからには僕はアルバイトを一切したくない。自分のやりたい勉強を一所懸命やりたいから、親父、お金を出してくれ」と、言ったんです。そうしたら親父が、「情けない」とも何とも言わず、「いいよ」と、生活費を出してくれた。「あいつはあいつなりに、人生を生きるだろう」と、思っていたんでしょうね。だから、本当に放っといてくれた。

平井 すごいですよ! 

伊藤 だから、うちの親父はすごいなあ、すごい親だなと思いました。あれだけ待てるというのは…。27、8まで大学でブラブラしていた人間に、それまで愚痴の一つもこぼさず、今度は「お金を出してほしい」と言ったら、「いいよ」と、ふたつ返事でお金を出す親って一体何なんだろう、と…。

平井 そうですか…。僕の場合は、親にうるさく言われっぱなしですよ。お金は出してくれたけど、条件があってね。
 要するに「学生運動するなら、お金は止める」と。だから、「親の思い通りになるのなら、あなたは私の子どもでいていい」という条件つきなんです。だから、僕は、お金は条件つきでもらうけど、いつ止められるかわからないからアルバイトしたんです。

伊藤 条件つきですか…。なるほど。

◇自分の「苦手」に向き合うのが「仕事」?「働くこと」と生きる実感。

平井 僕は、人に会うのが大嫌いで、話すのも苦手でした。人が居るところで喋るのなんて、冗談じゃなかった。だけど、バイトせざるを得なくなった。

伊藤 そうなんですか。

平井 選んだのは、市場調査です。知らない人に会ってインタビューする仕事ですよ。僕は学生時代に、個別にいろいろな家に行って3,000件位インタビューしました。それは、親からの制約みたいなものがあったから、一番苦手だった『話すこと』をせざるを得ないような状況になったってことで、本当に何が幸いするか分からないです。

伊藤 分からないですねえ。

平井 ええ。だから、『苦手』というのは、時々どうしてもそっちの方に引っ張られていくことがあるから、苦手意識を持つのはそんなに悪くないんじゃないかと。今、思えば、ですけどね…。

伊藤 本当にそう思います。

平井 できないと思ってたことができてしまうんですから…。『欠損』とか、『欠ける』というのは、そういう意味では、ものすごく重要だと思います。

伊藤 そう言えば、僕も、人が怖くて、新しい場に出て行くのが苦手でしたが、おかげで、とてもいい経験ができましたね。
 大学では、受験料も何もかも全部自分で工面したんです。当時、父親とも母親とも喧嘩をして反発していたから、「経済的な援助を受けるなんて、反発している人間としては沽券にかかわる」と、一切援助を受けずに生活しました。1年間浪人をした時は、大阪で新聞配達しながら、入学金から授業料から全部貯めて、それで受験して、大学生活をしました。東京の大学に出て来る時も、住むところがないから、やはり新聞配達店を探して、そこから私の大学生活はスタートしたんです。
 僕は「どもり」のせいもあって人が怖かった。特に新しい環境に出るのが怖かった。それで、せっかく自分で金を稼いで大学生活を送ろうと思っているんだから、新しい場にできるだけ出よう、いろんなアルバイトをしようと思ったんです。そのため、どんなに居心地のいいところでも絶対1ヶ月以上は居ないでおこうと決めたんです。キャバレーにも行った、新宿のスナックでバーテンもした、新幹線の工場で働いたし、商店で販売もした。数えたらきりがないほどのいろんな仕事に就きました。小学2年からずっと、他人に対する信頼、他者信頼をもてなかったから、孤独で、あまりにも強烈に人が苦手だったので、何か自分を変えたいなあと思っていたんでしょうね。昔は『学徒援護会』というのがあって、たくさんの仕事が貼り出されていました。やった事のある仕事はやらない、一度もやってない仕事をやろう。だから、『靴磨き』とか『泥棒』以外、…(笑)ほとんどの職種につきました。何百種とはいかないにしても、百種類位のバイトをしました。そんな中で思ったのは、「どうやってでも人は生きていける」でした。「こういう世界も知っている」、「こういう世界で生きても、まあ何とかやっていける」、そう思いました。ああいうやり方でバイトしていなかったら、新しいことに挑戦することや新しい出会いが億劫になっていたかしれません。「怖いながらでも、やってみよう」という気にはならず、ただ「怖い」だけで終わっていたでしょう。
 学習研究社の百科事典を売るときの経験は、すごく面白かったです。"ピンポン!"って、玄関のインタホンを押しますよね。応答なく留守だったら、ホッとするんですよ。自分で売り込みに行っているのに、「留守で、ああ、良かった」なんて思ってね。「これじゃ売れないな」と思いました。そんなことなど思い出しますが、本当にいろんなものを経験していたんです。
(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/04/10
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