伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

セルフヘルプグループ

大阪公立大学にゲストティーチャーとして

 昨日は、大阪公立大学・教育福祉学の松田博幸さんの依頼を受けて、松田さんの授業のゲストティーチャーとして参加し、学生に話をする機会をもらいました。20年以上続いているでしょうか。かなり前からの恒例になっています。
 松田さんとの出会いは古く、大阪セルフヘルプ支援センターで活動していた頃、知り合いました。セルフヘルプグループについて議論したり、信貴山で合宿をしたり、冊子「セルフヘルプ」を作ったり、土曜日に電話当番をしたり、一緒に活動してきました。もちろんコロナ前で、各地にセルフヘルプグループが誕生していく時代でもあり、セルフヘルプ支援センターの果たす役割は大きかったと思います。
 オープンダイアローグについていち早く情報を得たのも松田さんでした。斎藤環さんより早かったのではないかと思います。僕は、松田さんから教えてもらいました。その松田さんに呼んでもらい、僕は、僕の吃音の体験、セルフヘルプグループでの体験などを話しています。
 昨日も、松田さんの進行で、僕は自分の体験を話しました。社会人学生もいて、僕の話を3年連続で聞いているという人もいました。「すみませんねえ。いつも同じ話で…」と言うと、話している方はそうかもしれないが、聞いている方は、違って聞こえるし、毎回気づきがあると言われていました。
 僕が話した後に、質問タイムがあります。昨年は、合理的配慮の話題で盛り上がりましたが、今年もいくつかの質問から議論がありました。そのひとつです。
 
 「伊藤さんは、いろいろとつらい、しんどい体験をしてきていると思う。私もいろいろと体験はあるが、このように整理して話せないと思う。なぜ、伊藤さんは、自分の辛い過去のことを話すとき、最近のことのように、いきいきと、明るく話すことができるのか」

 確かに思い出すたびに、腹が立ったり、悔しかったりする思いがよみがえりますが、僕には、やはり伝えたい、知ってもらいたいという使命感に似た思いがあります。今の自分をしっかり肯定できているから、整理して話せるのでしょう。吃音を否定し、どもる自分を否定することは本当につらいものでした。自分と同じような思いをしてほしくないという思いから、僕は話しているのです。
また、僕は繰り返し、繰り返し、何度も、自分の体験を話しています。だから、すでに物語になっていて、講談や落語の演目のようになっているようです。そのときの思いがよみがえって、過去の事ながら、聞く人にとっては最近の出来事のように聞こえるのかもしれません。初めての、おもしろい質問でした。
 このように、いろんなところで話をすると、いろんな質問が出てきます。そんな質問に答えていくことがとても好きなのだろうと思います。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/11/29

世界は、変わる〜第14回ことば文学賞受賞作品〜

 昨日のつづきです。第14回ことば文学賞受賞作品を紹介します。
 吃音を治したいと思って、やっとの思いで大阪吃音教室に参加したけれど、そこには、どもりながら楽しく生きている人がいた、吃音を治そうとしていない、吃音は治らないとも言っている、そんな所は私の行く場所ではない、そう思って、参加しなくなる人は少なからずいます。 でも、そういう人に限って、何年か先に、やっぱりここだと、大阪吃音教室に戻ってきてくれます。そうして、巡り巡って戻ってきた人は、今度は、その後長く参加を続ける人がほとんどです。人には、出会うタイミングというものがあるということでしょう。だから、僕たちは、同じ場所で、同じ時間に、ミーティングを開き続けるのです。それが、セルフヘルプグループです。(「スタタリング・ナウ」2011.12.20 NO.208)

  
世界は、変わる
                          藤岡千恵(兵庫県在住)
 「私、吃音のことは、もう誰にも言いたくない。誰にも言わないでお墓まで持っていくつもり。その方がラク。」
 これは、2005年11月18日に、私が日記に書いていた言葉である。
 日記には、当時の職場で何度かほんのちょっとどもり、内心とても焦っていたことや、当時の恋人にどもりだと気づかれたかどうかハラハラしていたことも綴られていた。その数ヵ月後に、私は大阪吃音教室を訪れることになる。
 私と大阪吃音教室の最初の出会いは、1998年だった。
 その時の私は保育士をしており、話す事の多い毎日で行き詰まっていた。吃音教室の存在は、かなり前から知っていた。伊藤伸二さんの新聞記事を切り抜いて大切に持っていたからである。最初に吃音教室を訪れた時、これまでの(21年分の)思いがあふれ、自己紹介の時に号泣してしまった。そんな私を、伊藤さんをはじめ、参加していた仲間たちがあたたかく迎えてくれた。しかし、どもりを受け入れたくなかった私は次第に足が遠のき、7年ほどのブランクが空くことになる。
 大阪吃音教室に通わなかった7年間、私はどもりをごまかして、なんとか生きてきた。保育士を辞め、デザインの仕事に就き、電話や来客対応、取引先でのお客さんとの会話など、相変わらず話すことからは逃げられなかった。時々、私の不自然な喋り方を指摘されたこともあったが、そのつど必死にごまかしてきた。そして、「私はこの先も、自分の吃音のことを誰にも言わずに死んでいくのだろう」と思っていた。だけど、私はだんだんと苦しくなっていた。どもりと自分は切っても切り離せず、どもりの問題は自分の核心の部分なのだろうと、うすうす感じていた。それでも、心療内科で処方された薬を飲んでいれば気分は楽になるのだと自分に言い聞かせていた。しかし、楽になるどころか、しんどい気持ちは一向に晴れなかった。そして「自分の核心部分に向き合わないままだと、私はこの先もずっとしんどいままで生きていくことになるだろう」と気がついた。その時、7年前に私を迎えてくれた仲間たちを思い出した。
 7年のブランクを経て、再び大阪吃音教室を訪れた私は、その時も自己紹介で泣いた。どもりの苦しみを1人で抱えていたことは、やはりとてもつらかったのだと思う。仲間の前で、その思いを吐き出し、「あなたのこと覚えてるよ」「よく来たね」と迎えてもらい、私はどれほど心が救われたかわからない。
 そして、本当にゆっくりしたスピードで、行きつ戻りつを繰り返し、私は変わりはじめたのだと思う。
 どもる自分を認めたい。だけど人前でどもりたくない。大阪吃音教室にいる人たちのように私も、どもりながら明るく豊かに生きたい。でも、恐くてどもれない。そんなことを繰り返し、私はとても時間がかかった。今のように、日常生活でも仕事の場面でも、当たり前のようにどもり、仲間とともにどもりの話題で涙が出るほど笑えるようになるまでの道のりは決して簡単ではなかった。「自分はどもる人間なんだ」と認めることが必要なのだと、頭ではわかっていても、やはり恐かったのだ。教室を一歩出ると足がすくんでいた。そんな中で行きつ戻りつし、仲間の体験を聞き、吃音教室という温かい空間で、少しずつ私はどもりの症状が表に出るようになった。「どもりでも大丈夫」と頭ではわかっているだけの時は、いざ人前でどもる瞬間の恐さがどうしてもぬぐえなかった。だけど、恐いけれど、自分の世界を変えたくて、ほんの少し勇気を持ち、家族や友人の前、会社などで、どもる。「私のどもりがバレたら、関係が変わってしまうに違いない」と思っていた私は、少しずつ、どもりを小出しにしていく中で、「あれ? 私がどもっても、何にも変わらないんだ」と知り、さらにもう少し、どもる自分を出してみる。私が激しくどもろうが、相手はちゃんと話を聞いてくれる。私を見下すどころか、一生懸命聞いてくれ、むしろこれまで以上に心が通うということを知る。そういう道のりだったと記憶している。
 そして今、ふと過去を振り返ると、自分の世界がびっくりするくらい変わっていたことに気がついた。「あなたは、あなたのままでいい」の「あなたのまま」は「どもるあなたのまま」でもあるのだと思う。かっての私がそうであったように、人前でどもること恐さに、どもりを隠して生きている人が、たくさんいると思う。だけど、どもりをコントロールしたり、相手に気づかれたかハラハラし、一分一秒たりとも気が抜けなかった世界から、どもる私のままでのびのびと生きる世界を知った今、私は「どもりを隠して生きていた頃の私には、もう戻れない」と感じている。
 どもりを必死にごまかしていた頃の私は、それはそれで精一杯生きていたのだけど、ありのままの自分で生きる喜びを本当のところ知らなかった。ごまかし、取り繕い、そういう姿勢がしみついていたと思う。どもりと関わる姿が、私の生き方そのものだったのではないかと今は思う。
 長年かけて体にしみこんだものは、そう簡単に、すぐにはぬぐえない。そのことは、今でも感じている。だけど、私の価値観がゆっくりと大きく変わり始めている。劣等感を強く持ち、社会の中で生きることから逃げ腰だった世界から、困難はいろいろとあるけれど、それでもなんとか生きていけるという世界に変わった。もう、どもる自分をごまかさなくてもいい。自分のことばで、話したいことを話したいように話せることの喜びを、今感じている。
 この先も、おそらく平たんではないであろう自分の人生を生き抜いていくのは、正直言って少し恐い。それでも、私はなんとか生きていくのだと思う。どもりとの関わりを通して、私は仲間から"自分の人生を生きる"勇気をもらった。自分自身のどもりが変わるということは、生きる姿勢も少しずつ変わるということなのかもしれない。
 私がこうして、どもりのことで仲間と笑ったり熱く語ったりしているなんて、2005年11月18日の私が知ったら驚くに違いない。そんな私はなんて幸せなんだろうと、思う。

【作者受賞の感想】
 吃音ショートコースの初日の夜、皆さんとともに「ことば文学賞」のノミネート作品を味わいました。どれもユーモアあふれる作品で、笑いがこみ上げました。
 私の作品はユーモアの要素はありませんでしたが、今、自分が感じていることをそのまま書きました。書き始めるとこれまでの思いがこみ上げてきて止まらず、一気に書きました。書きながら、たくさんの人たちの顔が思い浮かびました。
 こんなことを書くのはとても恥ずかしいですが、この自分の作品を読むと、今でもうっすら涙が浮かんできます。
 大変なことがたくさんあった人生だけど、今の私は幸せだと、しみじみと思います。たくさんの仲間とともに歩んできた時間が、ゆっくりと私の世界を変えてくれました。
 こうして文章にして振り返ってみると、「私、意外と、頑張って生きてきたんだ」と少し自分を誇らしく思いました。
 優秀賞をいただき、本当に嬉しかったです。ありがとうございました。

【選者コメント】
 なんて素直な人なのだろう。こんな人だから、今の競争社会は生きにくいに違いない。しかし、その中で流されることなく、素直なままで生きている作者に静かで力強い声援を送りたいと思う。7年という回り道をしたけれど、作者と大阪吃音教室は、出会うべくして出会ったと言えるだろう。
 どもる自分を認めたい。だけど人前でどもりたくない。教室の人たちのように私もどもりながら明るく豊かに生きたい。でも、恐くてどもれない。この揺れや葛藤の中で、作者は静かに目をそらすことなく自分をみつめている。その素直さが、ゆっくりとゆっくりと彼女を変え、彼女の周りへの見方を変えていったのだろう。
 変化は突然に訪れる人もいるけれど、じっくりと薄皮がはがれるように少しずつ少しずつ変わっていく方がほんものかもしれない。
 書き始めと終わりに、2005年の日記を用いていて、文章の書きぶりにも工夫が見られて読みやすい。やさしく温かい文章に触れることができ、読み手である私たちも幸せな気分にさせてもらえた。(「スタタリング・ナウ」2011.12.20 NO.208)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/06/06

人それぞれの吃音人生

 もうすぐ、今月号の「スタタリング・ナウ」ができあがってきます。今月号は、2024年度、第27回のことば文学賞作品の紹介です。27回も続いてきたのかと感慨深いものを感じながら編集していたのですが、今日は、15年前、第13回ことば文学賞の特集を紹介します。
 僕たちの活動の社会的意義のひとつとして、僕は、吃音体験を整理し、考え、公表することにあると考えています。その具体的取り組みのひとつが、「書く」ことであり、ことば文学賞なのです。まず、今日は、巻頭言から紹介します。(「スタタリング・ナウ」2010.12.20 NO.196 より)

  
人それぞれの吃音人生
                     日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 どもる人のセルフヘルプグループ活動の社会的意義のひとつは、吃音体験を整理し、考え、公表することにあると私たちは考えている。その取り組みとして、週に一度のミーティングである大阪吃音教室では、いくつかの仕掛けがある。
 その中心が、インタビューゲームと文章教室だ。講座の短い時間に、一度にたくさんの人生の貴重なエピソードを聞くことができる。
 インタビューゲームは、20分間、互いに相手の人生に耳を傾け、インタビュアーが文章に編集する。話を聞く力、文章を書く力を磨くことができる。また、文章教室では、吃音の体験を、ひとつのエピソードにしぼって文章にまとめる。最後に全員の文章が読み上げられる。それは、吃音という共通のテーマをもちながら、ひとりひとりの違う人生に出会える、胸が熱くなる大切な時間だ。
 他者にインタビューを受けることで、これまであまり意識に残っていなかったことが思い出されることがある。それは次に文章教室で書かれ、さらに磨いたものが、年に一度の「ことば文学賞」に投稿される。文章教室やことば文学賞が始まった頃と比べ、常に他人の文章やエピソードを常に見聞きしている影響もあってか、多くの人の文章力がついてきたという実感がある。毎年、書き、投稿していると、そろそろ書くことがなくなったという常連投稿者もいるが、大阪吃音教室のこの書く文化によって、新しい参加者も書くので、途切れることなく続き、今年で13回目となった。
 秋に行われる「吃音ショートコース」の中で、受賞作品がみんなの前で読み上げられ、書いた本人、参加者の感想が語られる。年に一度の、吃音ショートコースの重要なプログラムになっている。
 今年受賞の3作品は期せずして、人それぞれの吃音サバイバルが浮き彫りになった。
 鈴木永弘さんは、「私の人生を振り返ると、そこにはいつも吃音が深く関わっていた」として、親友と恋人との吃音に関係する苦いエピソードを書き綴っている。そして、「なんて自分は自分勝手な人間なのだ」と内省する。
 吃音に悩む人が、吃音の苦しみから解放されない大きな要因の一つが、この「なんて自分は自分勝手な人間なのだ」との内省がなかなかできないからだと、私は考えている。目の前の相手と「じか」に関わるのではなく、常に自分の中の「吃音」とまず最初に関わる。そして、吃音が、「ゴーサイン」を出したときだけ、目の前の相手に関わっていく。だから、親友と恋人に申し訳なかったとの思いを、鈴木さんはもったのだった。
 その気づきから、今度は、自分自身だけでなく、他者に関心が向かい、他者に対する優しさが身についてきた。ここに鈴木さんの大きな転換点がある。自分への執着から、他者への思いが強まったとき、吃音の悩みからの解放の道筋に立つ。
 吃音との対話を優先させたことで、吃音の悩みを深めた鈴木さんと違って、吃音との対話を優先させることが、「判断し、決断し、行動することに役立った」という赤坂多恵子さんの視点がユニークだ。吃音と対話し「どもりのお告げ」に逆らわずに生きてきたことを、「どもりに左右されたわけではない」と言い切るところがしたたかだ。
 どもる父親を、「吃音から逃げている」と考えていた藤岡千恵さんは、自分の吃音とのつき合いの中で、自分だけでなく、父親に対してもこれまでと違う見方ができるようになっていく。そして、違う視点で見たとき、普段は早口で話す父親が、仕事の電話をするとき、「ゆっくりと大きな」声で話していることに気づく。そして、仕事に熱意をもって取り組む父親が、得意先から信頼されていることにも気づいていく。
 吃音とのつき合いは、人さまざまだということが、3人の作品から読み取れる。
 今回、私たちとつき合いのない、山口で高校の教師をしている岡本芳輝さんの体験を紹介できた。彼は、「ことばの教室で一番禁物なのは、『治療する』という考え方だ」と、私たちと同じような主張をしている。
 吃音人生は豊かでおもしろい。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/04/15

吃音親子サマーキャンプ〜親の参加〜

 吃音親子サマーキャンプは、親子での参加を原則としています。親は、単なるつきそいではなく、親独自のプログラムがあります。子どもが年代ごとに話し合いをしているとき、親も7〜8人のグループに分かれて話し合いをします。子どもたちが芝居の練習をしているとき、学習会をしています。子どもたちの芝居の上演前に前座をつとめます。そうして、いつのまにか親のセルフヘルプグループができあがるのです。
昨日のつづきです。親の話し合いの様子と、参加した人の感想を紹介します。(「スタタリング・ナウ」2010.10.25 NO.194 より)

〈親の話し合いの報告〉
        親に寄り添う
                 東野晃之(大阪スタタリングプロジェクト会長)

 「どもる子どもの将来は、どうなっていくのか」、どもる子どもの親の心配や不安は、そこにある。
 吃音親子サマーキャンプには、主に小学生から中学生、高校生までが参加する。年齢に違いがあっても子どもの現在と未来に、親の心配のタネは尽きないようだ。どもる子どもへの接し方、進級によって変わる教師やクラスの友人との関係、いじめの問題、将来の進路など、それらは、子どもがどもるがゆえの親の危惧であり、社会で少数派の吃音の悩みでもある。
 親の話し合いは、4つほどのグループに分かれ、1グループ10数名で行われる。進め方は、まず自己紹介として、初参加の親から参加のきっかけや子どもの吃音などについて話してもらう。ここに来るまでの様々な出来事や子どもの吃音の状態、子育ての疑問などが、一気に話される。
 今年は初参加が多く、グループのほぼ半数を占めた。数年続けて参加する親も含め、全員の自己紹介が終わると、初参加の親から、どもる子どもと関わるなかで今、思うことを話してもらう。自己紹介の内容と重なることも多いが、今度は少し整理された発言になる。それを聞いて他の人にば、同じような自分の体験を話してもらう。同年齢の子どもだけでなく、年長、年少の子供をもつ親がいて、さらにリピーターとして参加する親には、サマーキャンプでの経験や学びの経験知がある。親の話し合いは、吃音や子育ての幅広い情報の交換の場となる。特に初参加の親には、参考になることが多いだろう。
 話し合いが進んでいくと、司会進行役の担当者が促さなくても各々が発言し、共通の体験や意見の交換が行われる。話し合いがスムーズに進行する大きな要因は、初参加の親とリピーターの親が、ほどよい割合でグループを構成するところにある。どちらか一方が片寄り過ぎても話しづらく、活発な発言は出にくいようだ。2コマの各1時間半と2時間の親の話し合いは、自己紹介とどもる子どもを育てる親同士の体験の分かち合いで過ぎていく。
 ゆっくりと時間をかけて一人一人の体験に寄り添い、話に耳を傾ける。それはまるで、どもる子どもを持っ親のセルフヘルプグループのようである。
 ここ最近、吃音親子サマーキャンプには、父親の参加が多くなった。両親が共に参加する家庭が多く、なかには父親と子どもで参加するところもある。親の話し合いには、父親が2、3人入ることもある。父親が加わることで、母親とは異なる立場から、吃音や子どもへの思いを聞き、分かち合うことができる。
 また親自身、どもる人が結構いることもわかってきた。今回、10数人のうち、母親2人、父親1人が、吃音経験者だった。親の吃音の経験が、どもる子どもへの接し方などに活かせるのではと思われるようだが、それはごく一部分に過ぎない。子どもは自分の吃音で悩み、生きているのだ。人が一人一人違うように、吃音もまた一人一人違う。親の話し合いのなかでどもる母親、父親の話を聞くと、そのことがよくわかる。どもる当事者が、唯一できるのは、吃音を理解し、どもる子どもに寄り添うことだけだろう。
 「どもる子どもの将来は、どうなっていくのか」という親の気持ちは、自分の吃音体験を振り返ると理解できる。吃音に悩んでいた頃、「このまま吃音が治らなければ、将来どうなっていくのか」、全く未来が見えず、不安で仕方なかった。吃音体験のないほとんどの親は、どもる子どもの現在と未来を想像するしかない。自分では不安や心配に対処する術がないのだ。「吃音が治らなくても大丈夫。吃音を持ちながら生きて行ける」。どもる当事者が、話し合いに入る意味は大きい。多くを語らなくても、生きた見本がそこにあるからだ。親の話し合いは、セルフヘルプグループのミーティングのようだ。多くの体験の分かち合いがあるからだ。吃音に悩んでいるのは、自分ひとりではない。吃音と前向きにつき合っていこうとする仲間がいる。
そんな仲間の存在が、大きな力になるのである。


《キャンプの感想》
  息子と私のスタートライン

                           溝端しのぶ(滋賀県)
 私の息子は小学5年生です。
 吃音親子サマーキャンプへの参加は私の4年越しの夢でした。去年9月に転勤で宮崎から滋賀に引っ越すまで、宮崎からは遠いし旅費もかかるからと諦めていました。でも長年の夢が叶い参加できるのに大きな不安がありました。
 「ねえ今日からのキャンプ、○○君も来るよね?今日は制服じゃなくていいちゃね」
 息子はキャンプ直前まで、所属するボーイスカウト活動のキャンプだと思っていたからです。
 日本吃音臨床研究会から届いた青い封筒もすぐに隠し、サマーキャンプの案内は「吃音親子サマーキャンプ」の文字にマグネットを置いて冷蔵庫に貼り付けていました。
 私の住む守山市の守山駅から河瀬駅まで25分その間に、実は吃音親子サマーキャンプだと話しました。
 「そう君は話すときに引っ掛かるよね、そう君以外にも同じ話し方をする仲間が沢山いてキャンプするちゃわ」
 息子の驚きはすぐ怒りに変わり、涙をこぼしながら「なんで行かんといかんと? 僕は治りかけてる。なんで隠して連れてきたと? 知ってたら絶対付いてこんかった」
 驚きも怒りも当然でした。自分以外の吃音の人を知らないし、今まで家庭で吃音について全く触れてこなかったからです。2年間程ことばの教室に通級していましたが、それでも家庭では吃音の話はしませんでした。何度か息子から「ぼくは何で引っ掛かると?」「ぼくは障害者やと?」
息子の素朴な質問にもあいまいに答え、さっと話を切り替えてきました。吃音を意識させてはいけないという思いからだったのですが、そんな親の言動が、息子には吃音は悪いこと、吃音の話はしちゃいけない…と思わせていた様です。これはキャンプに参加して初めて気付いたことでした。
 嫌がる息子をなだめ、送迎バスに乗せ、施設に着きました。息子にとっては吃音やどもりという言葉さえ初めてでどうなる事かと心配しましたが、友達もすぐに出来てワイワイ楽しそうにしていたので安心しました。ここでの事はスタッフにお任せしようと思い見守るだけにしました。
 初日のタ方、食堂ですれ違うときに「ぼく以外にもいた」と話してくれました。自分以外にも同じ仲間がいる、それを知って貰えただけで十分でした。
 2日目も食堂で作文を書いた後に「ぼく、気にしてないよ」と私のいるテーブルまで話に来てくれました。家に帰ってもキャンプでの事は本人が話してくれるまで待とうと思いました。
このキャンプは私にとっても同じ悩みを持つ親と話せる初めての機会で、不思議な事に初めてお会いするのに親戚と会えたような感じになりました。
 吃音がひどくなる度に原因を探しては悩み、治す方法を調べては悩み、真っ赤な顔を歪めながらどもる子どもを見ては悲観してきた、自分と同じように悩んでいるお母さん達がこんなにいる、みんな優しい人ばかり、こんな良いお母さん達の子どもだって吃音がある、息子の吃音は私のせいじゃない・・あんなに吃音について話した事も、息子の事を聞いてもらった事もありませんでした。
 3日間どっぷり吃音にはまることが出来てとても満足し、楽になり、救われました。息子の為じゃなく自分の為に参加したかったのかもしれません。
 楽しかったキャンプもあっという間に終わり、帰りの電車の中で「楽しかった?来年はどう?」
「来年も行かんといかんと?」
 ・・キャンプ前は泣くほど嫌がったのに嫌とは言わなかった・・この3日間だけでは、家庭で吃音の話が出来るか分からないけれど、息子と私はスタートに立つことが出来たと思います。
 スタッフの方々、息子と私が吃音に向き合う機会を頂き感謝しております。参加されたお父さん方、お母さん方、元気をありがとうございました。
 まだ1回目、息子と私は吃音について歩き始めたばかりです。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/04/10

吃音ワークブック

workbook cover 吃音親子サマーキャンプの集合写真が表紙を飾る、『親、教師、言語聴覚士が使える、吃音ワークブック』(解放出版社)。この本のために、何度合宿をしたことでしょう。その前に出版した『どもる君へ いま伝えたいこと』の出版のための合宿から数えると、かなりの回数になります。毎月のように、全国から集まって、原稿や実践や取り組みを話し合い、形あるものにしていきました。今から思い出しても、あのときのエネルギーは相当なものでした。16人の仲間との長時間にわたる討議の結晶といえるワークブックです。
 今日は、このワークブックが完成した安堵感と充実感があふれる「スタタリング・ナウ」2010.8.22 NO.192 を紹介します。まず、巻頭言から。

  
吃音ワークブック
                     日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 私は今、ひとつの長い旅を無事に終えた後の安堵感と、さわやかな充実感に包まれている。
 1965年の夏、「吃音を治したい」との苦悩の人生から、治らないのなら「どもってもまあいいか」と、どもる事実を認める、ゼロの地点に私は立つことができた。その後の私の人生と、たくさんのどもる人の人生、100年の吃音治療の歴史や、アメリカ言語病理学を検証し、問題点を整理した。そして、ことばの教室などでどもる子どもの臨床に携わる教師の仲間と、「吃音を治さない、治せない」と、再び、言い切る本を出版できたからだ。
 「吃音は治る、治せる」の長い吃音問題の歴史に終止符を打つために、私は「吃音を治す努力の否定」から、「吃音者宣言」へと進んでいった。
 1976年に『吃音者宣言』(たいまつ社)を出版した。「吃音を治す」発想しかなかった時代に、この本は「吃音を生きる」に立ちきった、画期的なものだったと言えるだろう。批判や反発があったものの、多くの人の共感を得たことは、版を重ねて8千冊も売れたことでも分かる。この私の一連の動きを、「伊藤の提起のせいで、日本の吃音研究臨床は遅れた」と一部の言語障害の研究者から名指しで批判されたこともあった。
 では、日本は、アメリカに比べて遅れたのか。
 確かに、吃音を研究する大学が日本ではほとんどないに等しい。言語聴覚士の専門職者が制度化されたのも、近年のことである。つまり、吃音の研究者・臨床家が欧米諸国に比べて極めて少なかった。これは、日本の吃音についてむしろ幸いだったと私は思う。セルフヘルプグループの活動が活発にならざるを得なかったからだ。そのために、どもる当事者が、自分自身で吃音について深く考え、取り組み、ひとつの方向性を出すことができた。ことばの教室でも「吃音を治す、改善する」にとらわれる人が多くなかったのは、そのためだろうと思う。
 では、「治す、改善する」にこだわるアメリカ言語病理学によって、アメリカの人たちは、吃音が治り、改善され、日本のどもる子どもやどもる人に比べて、幸せに生きられ、吃音の問題の解決ができているのかというと、そうはなっていない。
 その事実は、私が大会会長として開催した1986年夏の京都での第一回吃音問題研究国際大会以来、世界の情報が集まり、3年ごとの世界大会で討議され、明らかになっている。むしろ、日本の私たちの方が、「吃音と共に生きる」ことについての実践は先進的で、世界から注目されてもきた。
 「吃音が治る、改善される」ことに関して、言語病理学が発展しているアメリカも、そうではない日本もまったく変わりがない。治療法といえるものすらない現実の中では差がないのだ。
 このような吃音治療の100年以上の歴史を総括することなく、近年「吃音を治す、改善する」や「流暢性の形成」が、どもる子どもやどもる人の幸せにつながるとして、吃音を治そうとする動きが再び出てきた。インターネットの時代は、「どもりは必ず治る」とするインチキな情報を復活させた。
 また、ことばの教室では、吃音を治したいとの親や子どものニーズに応えるべきだとの声に、見よう見まねで、「流暢性形成」のために、危険な「随意吃音」などを指導するところが出始めたとの話を耳にするようになった。
 「歴史は繰り返す」とは多くの分野で言われることだが、吃音は原因も未だに解明できず、治す薬も手術もないなど、確実な治療法が確立されていない。にもかかわらず、「治す、改善する」が日本でも復活しつつあるように私には思える。
 1976年の『吃音者宣言』の時は、日本の実情だけをもとに、セルフヘルプグループ10年の活動からの問題提起だった。しかし、それから34年、私たちは幅広く活動し、世界大会を開いて、世界の実情も検証している。さらに、様々な分野から多くのことを学び体験を整理した。子どもたちのための吃音親子サマーキャンプの活動も加わった。
 34年間熟成したものを、教師の仲間と長い時間討議し実践する作業は、長い旅だった気がする。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/03/30

講談に賭けた人生

 昨日、遠く宮城県から、インタビューをしたいと、僕を訪ねてこられた方がいました。言友会創立の頃の話も出ました。
 どもる人のセルフヘルプグループ言友会の原点は、田辺一鶴さんが開いた「どもり講談教室」だったと言ってもいいくらいです。田辺一鶴、丹野裕文、伊藤伸二の一癖も二癖もある、ある意味変わった3人が出会ったこと、そして何よりあの時代が、言友会の設立につながったのだと思います。
田辺一鶴 新聞と写真_0001  新 今日は、昨日につづいて、田辺一鶴さんを特集した記事を紹介します。『吃音者宣言』(伊藤伸二編著 1976年 たいまつ社)より、「講談に賭けた人生」と題する、田辺一鶴さんの人生を紹介します。
 後半に、一鶴さんは、こんなふうに語っています。
 「私は自分の体験から、吃音者にどもってでもやりたいと思うことは、どんどん実行したらいいと言いたいのです。どもって恥をかくのがいやさに行動できない人がいますが、本当はどもるのが恥ではなくて、行動できないことの方が恥ずかしいことなのです。勇気がいることかもしれませんが、頑張らなければなりません」
 まさにそのように生きてきた大先輩の一鶴さんのことばを、噛みしめています。

  
講談に賭けた人生           
                          田辺一鶴

◆どもりを治したくて

 今日、私が芸能界にいますのは、講談をすることによって私のどもりを治そうとしたのが、そもそものきっかけでした。
 講談は、リズムに特徴がありますが、テンポはかなり日常生活に近いものです。それで、講談をもっと掘り下げて研究していけば、どもりを治す何かがあるかもしれないと思ったのです。
 特に講談の中の「修羅場」では、かなりひどいどもりの私でも、非常になめらかに語れます。そこで、私は多くのどもりの人を集めてみんなで経験を出し合いながら、どもりを治す研究をして行くために「どもり講談教室」を開くことにしたのです。
 その頃、売れていなかった私は「当分この教室の運営に集中してみよう」と思いました。幸い本牧亭は午前中空いていましたので、場所の心配はいりません。新聞社に講談教室を開くいきさつを話し、記事としてとりあげてもらいました。開校日には大勢の吃音者が集まり、会場はどもりを治したいという熱気にあふれていました。
 集まった人達と話し合って、毎週日曜日の午前中に教室をもつことに決めました。生徒が増えたり減ったりするなかで、後で言友会を作った丹野裕文君や伊藤伸二君が育っていってくれました。
 「どもり講談教室」が発展的に解散して、しばらく後に言友会が発足しました。私も続けて参加していく予定でしたが、ちょうど、言友会の創立に参加したころから、私にチャンスが訪れてきました。だんだん売れ始めたのです。
 「パパン、パンパン」と所かまわずたたいてしゃべる講釈師は、これまで一人もいませんでした。どもりの私が話しやすくするために、「パパン、パンパン」とたたくのを、変わった奴がいるぞとお客様が覚えてくれはじめたのです。
 どもり特有の随伴運動を、扇子で机を打つことで生かした私は、どもりであるがゆえに世の中に出てきたとも言えるのです。だんだん売れ始め、忙しくなった私は、もう時々しか言友会に参加することができなくなってしまいました。
 言友会はその後大きく発展しましたが、私自身が言友会から受けた恩恵は、かなり大きいものがあります。それまで他人に教えるという経験がなかった私にとって、講談教室や言友会のクラブ活動で、吃音者に講談を教えたという経験は、私に強い自信を与えてくれました。
 それまでは、うつ向いて、どこかにお金が落ちていないかというような姿勢で歩いていましたが、やっと胸を張って人に会うことができるようになったのです。

◆どもりを治したいと講談の世界へ

 昭和15、6年、私が小学5年生の時に、東京の百ケ原小学校にどもりの小学生が300人近く集まり、どもり矯正教室が開かれました。その時、私は自分のどもりの重さの程度がわからなかったのですが、組み分けをしたら一番ひどい組にもって行かれました。「ぼくのどもりは重いんだなあ」とつくづく思いました。
 それ以来、いろいろなどもりの矯正方法を試しましたが、どもりの方はいっこうに治りませんでした。それでも、どもりを治すために野球の審判をしたり、話術のクラブに入ったりしました。その内に、もっと高度な話術を覚えようと、落語や講談を聞きに寄席へ通いました。
 そんなある日、寄席で田辺南鶴師匠が、一般の人を対象に講談学校を開いていると知りました。個人教授を受けに来た私が、どもって「ククー」「キィキィー」と息をもらすと、師匠はひどく驚いた様子でした。それでも師匠に、「どもりを治すために来ているんです」と言うと、「住み込みでやってみるかあ」と言ってくださいました。私は即座にお願いしました。

◆講談をやめてくれと師匠から

 ところが、どもりを治したいの一念で講談に打ち込んでいるうちに、自然に、どもりを治したいという気持ちが消えていってしまいました。
 どもりが治る治らないよりも、私の関心は、講談そのものに移っていったのです。
 私は、さらに8年間、講談の練習にあけくれました。しかし、私の努力を尻目に、後輩がどんどん私を追い抜いて出世して行きます。すると師匠は、私がかわいそうに思えたのか、「田辺一鶴」という名前を返してくれと言い出しました。講談をやめろというのです。
 師匠は、「お客様の中には『お金をやるから一鶴を出さないでくれ』という人もいる、客席でもそう言っている。どもりも以前より軽くなったんだから、それでいいじゃないか。お前は講談では食っていけないよ」とも言われました。また師匠は畳に手をついて、「頼む、頼むからやめてくれ。かわりの仕事がなかったら、私の本を半分ゆずってやるから本屋をしろ」とまで言ってくれたのです。
 身寄りはない、お金はない、芸はまずい、あるのは重いどもりだけという私を、師匠なりに案じてくれてのことでしょう。
 それでも講談がたまらなく好きになっていた私は、「講談を続けさせてください」と一心に頼みました。師匠はしばらく困っていた様子でしたが、寄席には出せないが、自分の独演会にだけは出てもいいだろうと言ってくださったのです。

◆無名の講談師田辺一鶴、オリンピックを語る

 しばらくは師匠の独演会しか出られない状態が続きました。その頃から私は、今の講談会に新風を吹きこむためには、少々変わった奴が出てこなければだめだと思うようになってきました。
 若い人が「ワァー」と飛びついて聞いてくれる講釈師がいなければと思うようになったのです。そのために、これまで10年近くやってきた古典を投げ捨てて新作をやろうとしました。古典の、古めかしいがすばらしい話術を生かして、全く新しい登場人物に振り替えて、「王だ、長島だ」とやったら、少しは違うかなと思ったのです。それ以来、いろいろな野球物語を作りました。
 ちょうどその頃、浄瑠璃の世界でも野球物をやって、上の方から古典芸能を侮辱する奴だと言われて、新作に取り組むのをあきらめた人がありました。しかし、私はその話を聞いて、私は誰がなんと言おうと新作をやり通そうと、あらためて決心しました。
 私は師匠から、新作はやるなと言われていましたので、新作は寄席以外の所でやっていました。
 しかし、東京オリンピックが行なわれた時は、この時ぞとばかり数々の新作を作りました。そして、これだけは師匠に聞いてもらいました。
 「いま、高らかにファンファーレ……」じっと聞いていてくれた師匠は、こう言ってくれました。
 「今までにいろんな弟子をみたけれど、お前みたいに自分の芸に情熱を持ったやつは初めてだ。お前、出世しなくてもいいな。だったら寄席でも新作をやってみるか、出世すると思うなよ。そのかわり自分の好きなことをやれ、何年かすれば、田辺一鶴の時代がくるかもしれない」
 しばらくたって、師匠の世話で新聞記者がインタビューに来ました。なにしろ初めてのインタビューでしたから、その時のことは今でもはっきり覚えています。
 私は、まだ完成していませんがと前置きして、記者の前で、新作を一時間にわたって披露しました。記者はびっくりして、「今までにあんたみたいな情熱家に出会ったのは、初めてだ。私の目に狂いがなければ、一鶴さんはいっかきっと世に出るよ」と言ってくれました。新聞には「無名の講釈師田辺一鶴氏、オリンピックを語る!」と8段ぬきで出ました。彼は私の恩人の一人なのです。
 それ以来、新作を寄席でやるとこれが意外にうけました。特にお客様に若い方が多いとうけまして、寄席だけではもの足りず、しゃべれるところへは、どんどん出かけていきました。病院とか、養老院とか、施設とか、東京都の周辺での施設で私の行かない所はないほどになりました。自分の芸を完成させたいと必死だったのです。
 それはちょうど、言友会のできる1年前の昭和39年、私が35歳頃の話です。

◆講談の世界では出世できないと言われて

 その後、後輩が私を追い抜いてニツ目に昇進した時、私をかわいそうに思ったのか、師匠は「夢の一日真打ち」という興業をやってくれました。
 「これを胸にたたんで、生涯前座でがまんするんだよ」となぐさめてくれました。後輩が、半年もすれば真打ちになることに決まると、また師匠は、かわいそうにと思って、「一鶴を二ツ目にしてやろう」と骨を折ってくれました。
 神田山陽先生の「一鶴君は、いつか講談界に名をなす人物かもしれない。あれだけ一生懸命にやっているんだし二ツ目にしてもいいではないか」という口添えもあってお情けで二ツ目にしてもらいました。師匠はその時、泣いて喜んでくれました。そして、前例のない、「二ツ目披露興業」をやってくれたのです。
 師匠は、「一鶴はどもりで、素質もない。とても講談の世界では出世できない。人生で一番華やかなのは今なんだ」と、10日間の披露興業をやってくれたのです。祝儀を持って、「お前、これを胸にたたんで生涯ずっと二ツ目でやるんだよ」と言われました。そして、「私が死ぬ時には命とひきかえに真打ちにしてやる」と言ってくれました。

◆どもりがひどくて仕事をほされる

 今までで一番くやしい思いをしたのは、世の中に少し出かかってきた時でした。
 ちょうど新作講談が原稿として、雑誌や新聞に売れてきた頃です。東北放送から連続番組の話が入ってきました。「田辺一鶴のサラリーマンで勝負しろ」という番組でした。1年間契約で、初めての番組だったので大喜びしたのを覚えています。
 しかし、2回分の放送をとりにスタジオへ行ったら、「キィー」「ウー」としか声が出ないのです。放送局の人にしてみれば、2回分だから30分位で終わると思っていたんでしょうが、どもって4時間もかかってしまいました。
 その翌日、私は局から呼び出されて、あっけなくクビになってしまいました。
 同じ頃、文化放送でロイジェームスさん司会のスタジオ番組があり、私は川柳の選者でした。1位になった川柳を読んでくれと頼まれたので、ふと見ると、川柳の最初の音が「タ」でした。顔が真赤になり、全然声が出ませんでした。放送局からは、「一鶴さん、悪いことは言わないよ。芸人では成功しないから止めた方がいい。それに文化放送ではもう貴方は使わないから」と言われました。
 あの頃は、シュンとなって家へ帰ることがよくありました。でも一晩でケロリとなって、翌朝には、「なにおう!」という気になっていました。
 売れ始めた時の失敗と、売れていない時の失敗では、やはり売れ始めた時の失敗の方がショックが大きかったようです。10何年間の下積みからやっと花開こうとする時、横から泥をひっかけられたようなものですから。

◆芸能界の第一線へ

 その後、私は運に叶い、NHKテレビの「ステージ101」にレギュラーで起用してもらったのを皮切りに、テレビやラジオや舞台にと、芸能界の第一線におどり出ました。
 昭和47年、第1回演芸選賞をいただき、49年には45歳で念願の真打ちに昇進しました。言友会の仲間がかけつけてくれたなかで真打ち披露興業をしました。また、売れない頃から養成していた弟子達も、各々の努力が実を結び、次々と真打ちに昇進してくれつつあります。

◆私は今でも

 私は今でもどもりますし、どもることでの苦労は、少なからずあります。高座に出て始めの2、3分などは、「タ」「カ」「ト」「オ」「コ」「ク」「ヤ」「シ」に限ってスムーズには出てこないのです。
 ただ長年の経験から、お客様の顔を見ながらゴマかす術を心得ているだけなのです。しかし、この術とても、同じ吃音者が見たら、すぐゴマかしに気がつく程度のものなのです。
 以上ふり返れば、吃音者の私が芸能界入りして20年になりますが、その間に仲間とか後輩たちが、何人芸能界をやめていったかわかりません。それも私からすれば、私よりもやさしい障害を乗り越えられなくて落ちていってしまったようです。私には、今でもいろいろな苦労がありますが、もうだいじょうぶだろうと思っています。
 泥にまみれ踏みつけられ、風雨に耐えて出てきた私には、それに負けない強い精神力ができていると思うからなのです。

◆どもりだからこそ

 私は自分の体験から、吃音者にどもってでもやりたいと思うことは、どんどん実行したらいいと言いたいのです。どもって恥をかくのがいやさに行動できない人がいますが、本当はどもるのが恥ではなくて、行動できないことの方が恥ずかしいことなのです。勇気がいることかもしれませんが、頑張らなければなりません。
 何の苦労も障害もなく、順調にことが進む人は勇気をそれほど必要としません。安定した自分の立場を守ることでこと足りるのです。しかし、私達はどもるという、ある意味ではハンディを持っている者は、守ろうにも安定したものがないのです。守るのでなく、攻めていくしかないのです。
 芸の世界で考えますと、能弁な人、器用な人はそれほど苦労なく、ひと通りの芸を身につけてしまいます。苦労なく人気が出る場合もあります。すると、今度はそれから先、伸びることはむずかしくなります。身につけた芸をこわして新しく作りかえていく努力が足りなくなるのです。今日の芸は明日の芸ではないという自覚が持てないのです。守るのではなく、こわすのには勇気がいるということなのです。
 その点とつ弁の人は、なめらかに話すことでは能弁の人にかないっこありません。そこでどうしたら能弁の人に勝てるかを真剣に考え、工夫をするのです。こうして身についた芸には、能弁の人では表わせない独特の味がでてくるのです。
 何度も何度も自分の芸をこわして新しい芸を身につけることを生涯続け、とつ弁はとつ弁なりの独自なものを作り出していくしかないのです。そこでとつ弁の人は、自然と「攻めの芸」の形となっているのです。
 まして吃音者である私は、「攻めて、攻めて攻めまくる」しか自分を生かせる道はないのです。攻めの姿勢を身につけさせてくれたどもりに、今では心から感謝しているのです。
 周囲から白い目で見られ、直接に反対も受け、また自分のふがいなさを思い知らされながら新作講談にかけることができたのも、私が吃音者であるからではないかと思っているのです。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/03/08

どもって声が出ないときの対処法

 セルフヘルプグループは、ミーティングを大切にしています。いつもの場所で、いつもの時間に、会い続ける。それが、ミーティングです。大阪吃音教室も、基本的に、毎週金曜日、今は大阪市の谷町2丁目、大阪ボランティア協会の2階で開催しています。
 今日は、「どもって声が出ないときの対処法」について、参加者みんなで考えた講座を紹介します。「スタタリング・ナウ」2009.12.22 NO.184 に掲載されたものです。〇印は、参加者の発言を表しています。たくさんの発言が飛び交い、話し合いが深まっていっているのが分かります。

どもって声が出ないときの対処法
   大阪吃音教室 2009.11.6  担当 伊藤伸二


はじめに

伊藤 どもるかもしれないとの予期不安。特定の場面に出るのが怖い場面恐怖。特定の音が出ない吃語恐怖。これらが吃音の問題の中心です。
 不安と恐怖から、吃音を隠し、話すことから逃げる行動へとつながっていく。私は、名前の「いとう」が言いにくい。どもってもいいと思っているから吃語恐怖にはならないが、多くの場合、どもる。
  この音ではどもると確信がある人?  (多い)
  その予期不安が的中してどもる人?  (多い)
 どもるだろうと予測をした音で、必ずしもどもるわけではないが、自分の意識としてはあるのだろう。
 どもってもいい場面と、どもってはいけない、どもりたくない場面がありますか? これまで経験してきたことで、どもりたくない場面は?

○大勢の前で、自分の名前だけを順番に言うとき。
○児童朝会で、全児童の前でしゃべるとき。
○公式な用件を伝えないといけない電話。
○決まったことばを忠実に表現するとき。
○全社で規模の大きな会議で話すとき。
○会社の電話で、社名を言うとき。
○接客用語の練習のロールプレイ。
○全く知らない人に最初に自己紹介をするとき。
○話しづらい上司に、決まった文言の伝言。
○救急車を呼ぶために、名前と住所を言うとき。
○入院した病院でのナースコール。
○再配達依頼の電話で、住所や名前をいうとき。

伊藤 再配達のお願いの電話など、今後その人と会うことが絶対にない場合でも、嫌ですか?

○私はむしろこの先もつき合っていく人なら、いずれ、どもるとばれると思うからいい。
○どもりたくないと思うのは初対面の人の方が多い。
〇二度と行かない食堂でどもってまで食べない。

伊藤 僕も、寿司屋で、必ずどもる「トロ」は注文しないが、店の注文は避けられるけれど、再配達の場合の住所、名前を言うのは避けられない。
 どもりたくない場面として挙げたことを整理していこう。すべての場面でどもりたくないのは分かるけれど、我慢できることは、どもってもいい場面だと考えて、どもってもいい場を増やしていかないと生活しにくい。

 声が出ないときの対処の基本は、どもらずに、吃音をコントロールするということではなく、いかにその場で、用件を伝えたり、したいことができるように、「声」を出すかということだ。吃音を治す、改善ではなくて、いかに生き延びるか、サバイバルするかだ。二度と会うことのない人には、別にどもろうと、時間がかかろうと、構わないと考えた方が生きやすいよ。
 やっぱり嫌だ、できないという人、いますか。

○見たい映画の名前が言えなくて、その映画を見ることができないということは。
伊藤 その映画、本当に見たいの?
○そう言われると…。見たい映画は、どもってでも言って、切符を買って見てますね。

伊藤 それがサバイバルだ。自分が本当に見たいものならどもってでも言う。本当に食べたいものだったらどもってでも言う。でも、どうでもいい、「まあいいか」というときに、逃げることは、山ほどあるんじゃないか。そういうときでも、私は逃げないという人、ちょっと手を挙げてみて。  (ひとり)

伊藤 それはすごい。僕なんか今でも逃げまくっている。ことばを言い換えたり、どうでもいいことは、言わない。昔はことばを言い換えたり、言わずにいることに、抵抗感や罪悪感があったが、今はないし、逃げている意識もない。
 「言いたいことはどもってでも絶対言い切り、言い換えをしてはいけない」と言う、アメリカの言語病理学者がいた。成人のどもる人で、言い換えをしていない人はほとんどいないと僕は思う。吃音が治らないという前提に立つと、私たちは、どんな手を使っても、生き延びることを考えたい。しなければならないこと、したいことからは逃げないということだ。そういう観点で考えてみよう。

自分の名前や会社の名前を瞬間的に言う

伊藤 先日も女子大学生から電話相談があった。出席確認で、名前の「はい」が言えずに、欠席扱いになってしまう。先生に、どもることを話して、出席にしてもらった。その後は、手を挙げるなどでしのいでいるが、それでいいのかという相談だった。
 女優の木の実ナナさんも、「男はつらい」の映画のときに、フーテンの寅さんに言う「おにいちゃん」が言えなくて、2日間撮影がストップした。
 「はい」とか、「会社や自分の名前」など、一言が言えないときに、今まで自分はこう切り抜けてきたという人、いますか。

アクションを使う

○手を振って言う。
伊藤 はい。いいですね。声が出ないとき、動作をしたら声が出たことをきっかけに、どもる時その動作が無意識に出てしまうのが、「随伴症状」と言われています。私たちは、これを症状とは言わないが、自覚的なアクションとして活用したい。手を振るということも、指を折るということも、いいけれど、かっこいい、ユーモラスなアクションを自分なりの工夫で身につける。
 第一回吃音問題研究国際大会で挨拶をしたとき、全然声が出なかった人が、ほっぺたをピシャピシャとたたいて言った。そのユーモラスな仕草が大きな笑いを呼び、場がなごんだ。そのような動作を「なぜそんなことするの?」と聞かれたら、こうすると、声が出やすくなるからと言ったらいい。
 アメリカの吃音学者のヒューゴー・グレゴリー博士が、第一回吃音問題研究国際大会の基調講演で、どうしても自分の名前が出ないときに、オーバーに手を振って言えるようにして、少しずつ動きを小さくして、最後は手をポケットに入れて、「ヒューゴー・グレゴリー」と言うと言っていた。
 そんなことをしてはいけないという専門家もいるかもしれないが、その方が言いやすいなら、それでいい。僕は吃音矯正所に行っているときに、「高田の馬場」の切符が買えなくて、いろんな動作をつけてしのいだ経験がある。
 昔は、メトロノームを使うみたいに、「こ・ん・に・ち・は」と指を折って話す「指折り法」などが、緊急避難の対策としては一般的だ。
 こういう、緊急避難のためだけでなく、普段から、直立不動のようにしゃべるのではなく、もっと表情を豊かに、身ぶり手ぶりを使った方がいい。非言語のコミュニケーションを豊かにしたい。
 竹内敏晴さんが、「ことばはアクション」であると言った。人とかかわろう、人に向かっていこうとするアクションの音声の部分が、ことばだと考えたら、相手に働きかけるアクションをつければいい。

言いやすいことばを先につける

○自己紹介のとき、みんなは名前だけを言っていたけれど、不自然で、おかしいと思われてもいいやと思って、言いやすい自分の住所を上につけて、勢いで言った。
伊藤 これもいい手だね。「何々の・・」と、言いやすいことをつければいい。極端に言ったら「に」が出やすかったら、「日本人の○○」でもいい。
○そしたら、私の次の人から、私と同じように、住所を言うようになった。
伊藤 それはおもしろいね。自分がルールを作るくらいのおおらかさがあるといい。前の人の言った通りにしないといけないと思うからしんどいので、自分の所から変えてやろうと思えばいい。
 自分の名前を言わなければならないときに、ちょっとかっこいい「ことば」をいくつかレパートリーとして持っておいたらいい。名前を言わなければならないときには、これとこれとこれとを使おうとか、場面に応じて準備しておけば安心する。不安のプラス面は、準備ができることなのだから、そのときのために、準備をすればいい。
 名前の前に、住所をつけるのは誰でもが考えることで、もっと何かかっこいい、ユーモアのあるものをつけるといい。自分をアピールできる、「えっ」と思うような、形容詞でも副詞でもつければいいと、思う。

○私は名前の最初の「と」が言いにくいから、「えー」を言って、「えーと」にして、「とくだ」と、弾みをつけて、つないでいくんです。
伊藤 これも昔からあった方法。日本音声医学会の颯田琴次初代会頭が、「ん」をつければと提案した。「うん、いとうです」と言う。緊急避難のときに、使える。「えー」でも、「うん」でもいい。「うん」をつけたり、「えー」をつけたりすることが一般的だけれども、これもできるだけもっとかっこいいのをつける。
 望月勝久という、リズム効果法を提唱した吃音臨床家は、どもりは絶対治ると言い、「あのー、えー、あのー」を40%つけろと言った。アナウンサーでも、ニュースを読むときはすらすら言うけれど、対談などでは「えー」や「うー」と言う。それをつけない人はほとんどいないから、どもる人が、「あのー」「えー」をどんどん使い、40%つけて話しても、「相手がどもっていると気づかなければ、もはや、吃音ではない」と、むちゃなことを言いました。たしかに、結果として「あのー」は言うが、わざわざ言う必要はない。40%もつけたら、聞いていられない。

○声が出ないとき、息が止まるので、息を吐いて深呼吸してから、言う。
伊藤 これもいいね。声がブロックして出ない時、どもったままで出そうとしないで、いったんやめて息を吐いてやり直す。ヴァン・ライパーの吃音治療法の一つにこの「キャンセリング」がある。
 深呼吸と言ったが、吐くのはいいが、吸ってはだめ。吸うと、また力が入る。どもったままの状態で言い切ろうとしないで、いったんやめて、「はあーっ」と、少し声を出すようにして上あごに息をぶつけるように吐く。緊張をとく一番いい方法は、息を吐くことです。吐く息で言ってみる。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/03/05

吃音の予期不安に対する対処の仕方

  吃音の問題の核心となるのは、予期不安です。どもるかもしれない、どもったらどうしよう、そんな予期不安にどう対処したらいいのか、参加者ひとりひとりが考え、自分の体験を話し、それを聞いて体験を重ね合わせていくセルフヘルプグループならではの時間を再現しました。
 僕が担当した、2008年10月の大阪吃音教室の、「吃音の予期不安に対する対処の仕方」の講座の様子をお届けします。(「スタタリング・ナウ」2009.8.24 NO.180)

  
《大阪吃音教室2008.10.3》 吃音の予期不安に対する対処の仕方
                     担当:伊藤伸二


はじめに

伊藤 吃音の大きな問題は、みんなも知っているように、予期不安です。どもるかもしれないという予期不安を持ってしゃべると、普段よりもよけいにどもってしまう。さらに強い不安をもつと、話す場面に出ていけない。吃音の予期不安と、話さなければならない場面に出ていけない場面恐怖が、吃音の中心的な問題です。まず、自分がこれまで、吃音に関して、経験したものすごく不安に思った場面、恐怖にまで高まった場面を書いて、それに対して自分はどう対処したか。その場面から逃げたか。どういうふうな工夫をしたか。思い出せる範囲で、書ける人だけ書いて下さい。

世界の論議から

伊藤 今、国際吃音連盟で論議されていることを紹介します。吃音氷山説です。海面に浮かんでいて、目に見える部分は吃音の症状で、吃音の全体のごく一部です。本当の大きな問題は、海面の下に沈んでいる。その主なものが不安、恐れ、恥ずかしさ、みっともないという感情。僕はこのシーアンという人の氷山説(『スタタリング・ナウ』152号参照)を30年以上も前に翻訳して出版しましたが、今になって、急に世界のセルフヘルプ・グループの人たちが、吃音の問題は氷山の海面に沈んだ部分にあると言い始めた。それは、吃音が治っていない現実に、世界もやっと目を向け始めたということで、歓迎すべきことです。しかし、海面下の問題を、「吃音シンドローム」と名づけて、この不安や恐れや恥や感情は大変大きな問題で、セラピーの重要な部分だと、吃音治療の臨床家に認識させなければならない。そう認識しないセラピストは失格だとまで言われると、とてもおかしなものになる。つまり、専門家に海面下の問題をセラピーしてもらおうという考え方なんです。
 吃音をそのように定義しようとする動きに、僕は強く反対しています。吃音シンドロームという名前をつけられたら、病的なものになって、自分自身では解決できないから、専門家にセラピーしてもらって、不安や恐れや恥ずかしい感情からちょっと楽になろうという論理なんです。
 僕が真っ向から反対しているのは、どもる人がもつ不安や恐れや恥ずかしいという感情は病的なものじゃないからです。吃音で悩んでいる人だけでなく、どもる人の誰しもが持つもので、自分で対処不可能なものではないと僕は思うからです。
 僕は氷山説を昔から評価しています。氷山の海面上のどもるということに関しては、長年臨床研究が続けられてきたけれどほとんど効果がない。でも、海面下の吃音の大きな部分に対してはアプローチできる可能性があるととらえる。ところが、アメリカやオーストラリアでは、これは、非常に大きな問題で、セラピストに委ねなければならないと考える。僕とずいぶん違うと思うんだけど。
T これだけ問題があると言われるのと、これだけ可能性があるんだと言われるのとでは、取り組み方が違ってくる。
伊藤 もっと変なのは、吃音を「オバート吃音」、「コバート吃音」、「吃音シンドローム」の3つに分けて定義するという提案です。ただ単にどもるのを「オバート吃音」。どもることばを言い換えて言ったり、回りくどい言い方をしたり、話す場面を避けると吃音は表面に出ない。つまり、吃音が分からない部分が「コバート吃音」。強い不安や恐れなどネガティブなものをもっているものが「吃音シンドローム」。そして、3つそれぞれに治療が必要だと言う。
 そこで、みんなに聞いてみたいんだけど、「コバート吃音」、つまり、言い換えたり、逃げたりすることを生活の中でやっていないという人、手を挙げてみて下さい。(誰もいない)
 じゃ、自分は、「コバート吃音」もあるなあという人、手を挙げてみて。(全員)
 コバート吃音をいけないことだ、それをなんとか治さなければいけないとなったら、僕たちの、なんとかどもりながらこの社会で生き延びようとする「吃音サバイバル」は、ちょっと難しいよね。どこでもどもることから逃げないで、いつでも吃音と向き合い、吃音と共に生きている。それが「吃音と共に生きる」ことだと言われてしまうと、僕はだめです。
 僕は、大事なことでは逃げないけれど、どうでもいいことだったら、いっぱい逃げている。寿司屋で、「トトトトトトロ」ってひどくどもって食べることもないから、「まぐろ」と言うことはある。小さいことを言ったら、みんな逃げていると思う。自分の言いにくいことばを、いっぱい言い換えをしていると思う。僕も、無意識に近い状態で、瞬間的に言い換えをしています。それがだめなことで、そうすることが治療の対象になるのなら、僕は話せなくなってしまう。このように、吃音を3つに分けようと強く主張するのが国際吃音連盟の前会長です。
 それに対して、僕らは、弱い部分もあるし、隠したい部分もあるし、恥ずかしい思いもある。そんなものを抱えながら生きていくという感じで、いつでもどこでも元気で、どもっても平気というわけにはいかない。それでも基本的には自分の人生を誠実に、大切に生きようと主張しています。この吃音定義の論議がどう決着がつくか分かりませんが、僕は徹底して反対していきます。
 不安や恐れや恥ずかしさは、仲間の力を借りるにしても、自分の力で向き合って対処していくことができる。治療を必要とする病的なものではないと思うんです。ここまでのことは、「合点していただけますでしょうか。(合点、合点)
 オバートであったり、コバートであったり、シンドロームであったり、ぐるぐる回って、この全体が吃音だと思うんだけどね。
N 鴻上尚史さんが、どもる人のことと英語ができないこととを合わせて文章にして下さった中に、自分は英語が下手だから、言いたいことがあっても、簡単な言い回しにするとか、時には発言をやめてしまうこともある。コバート吃音と同じことを外国語が苦手な人はしょっちゅうやっている。じゃ、その人に対して、語学の先生が指導の対象にするかといったら、しないでしょ。
 仕事柄、いろんな障害のある人たちとつきあっているけれど、右手が不自由だったら左手でカバーするとか、いろいろしますよね。あきらめるとか。ちょっとがんばったらいいのに逃げてしまうとか。それを治療の対象とは誰も考えない。どうしてどもる人だけがそう考えるのか非常に不思議。
H どもらない人であっても、ちょっと言いよどんでなかなかことばにならなかったり、言いかけてちょっとこれはやめとこかとやめるときもあるわけで、何もどもる人だけのことではないような気がしますね。なんで、どもる人が、完壁に話をしないといけないと思うのか。
伊藤 そうやね。それがどもる人が持ちやすい完全主義なんだね。デモステネスコンプレックスという名前をつけたりするけれども。ほかの人でも経験するようなことでも、完全にしゃべらなければならないと、思ってしまうと、つらいよね。
 不安や恐れは、克服はしなくていい。上手に不安や恐れにつきあえばいい。対処すればいい。今、皆さんに書いてもらったことは過去のことが多かったようです。過去より現実の、あるいはこれから起こるであろう不安や恐れについて、どんな場面がありますか。

40名の前での社訓の朗読が不安

A 今度の職場では、朝礼のときに、社訓を章に分けて読ませて、その後に、感想とか意見とかを述べるというコーナーがあるらしい。果たして、人前で社訓を読めるかどうか、とても不安です。
伊藤 はい。ではこの問題を通して、不安や恐れに対しての対処を一緒に考えていきましょう。
人前で社訓を読めるかという不安、恐怖があったとしたら、どういうことが考えられる?
K 社訓を読むということですが、どもらずにきちんと読むことを言っているのか、どもりながらでも読むことを言っているのか。
A どもりながらでも読んでいかざるを得ないなとは思っています。
K そうですよね。じゃ、どもりながらだったら、読めるんじゃないですか。
A そうですけど、もし、ことばが出ずに、止まってしまったら、し一んとなってしまって、「あいつ、どうしたんやろ?」となってしまったときに、手を動かしてでも出ればいいんですけど。
H 「どうしたんや?」と思われることがひっかかっているんやったら、簡単やないですか。どもっていると言えばいい。
伊藤 簡単やなんて、言ってしまったら、結論が早すぎます。物事には順番がある。Aさんのことだけを考えるのではなくて、みんなが同じようなことを経験するとして考えていきたい。社訓を章に分けて読まなければならないということは現実に多くの人に起こりうるので、一緒にそのような場にあったらどうするか考えましょう。
 僕らは、一瞬一瞬何かが起こったときに、いろんなことを考えて、それを心の中でことばにしてつぶやいている。認知療法では、自動思考といいますが、どもって声が出ないときにAさんや皆さんは、瞬間的にどういうことばを思いつく?
A 恥ずかしい。
C かっこわるい。みっともない。
D どもりたくない。
E 立ち往生したらどうしよう。
F 叱られたらどうしよう。
G 馬鹿にされる。
H どもりがばれたらどうしよう。
I 流れを自分のところで止めてしまう。
J びっくりされ、引かれる。
K 何事が起こったかと思われる。
伊藤 こんなくらいですか。このような、瞬間的に思い浮かぶことをことばとして覚えておくと、いろんなときに役立つ。僕らが、不安とか恐れを持ったときに、自分は心の中で瞬間的にどんなことをつぶやいているか、浮かんでくる自動思考をみつけ、そして、浮かんできたこれらのことを点検してみる。浮かんだことは浮かんだことで仕方ないけど、論理療法で言えば論理的に当たっているのか、自分自身を楽にするのか、それとも却って不安に陥れていくのかを検証していくことが必要です。
 「馬鹿にされる」、これはあり得えますか。
A あると思います。どもりについて知らない人は、ことばにつまって、「どどどど」とどもっていることに関して、おかしいな、変なしゃべり方をしていると見てしまって、おかしいんじゃないの、というふうに理解される。
伊藤 問題を自分の力で切り開いていくためにという前提だから、ちょっと考えてね。じゃ、おかしいと思われる、馬鹿にされるという奥には、吃音に対する理解が周りにないからだといえる?
A そう思います。
伊藤 と考えたら、その対処としては、どんなことが考えられる?
A どもりとはこういうものであって、僕のしゃべり方は治らないんですと、分かってもらうしかない。
伊藤 何人くらいの前で社訓を朗読するの?
A 40人くらい。
伊藤 じゃ、対処法を考えましょう。40人が吃音を理解してくれたら、どもっても馬鹿にされることはないわけですね。中には、どんなに説明しても理解してくれない人はいる。弱いところを突いてくる人はいる。でも、多くの人は、吃音とはこういうものだと理解したら、少なくとも馬鹿にはしないね。となると、Aさんのすることは?
K まず説明した上で、どもることはしょうがないから、仕事はきっちりする。どもっていて、仕事をしなかったらどうしようもない。仕事はきっちりする。それでいいんとちがうかなあ。
伊藤 仕事をきっちりとするということが大きな前提となると、僕たちがしなければならないことは、40人の前でちゃんと読むための練習ではなくて、吃音以外のところでちゃんと仕事をして、自信をもつことですね。
 仕事をきっちりした上で、どもりのことを理解してもらうためには、『どもりと向き合う一問一答』や『どもる君へいま伝えたいこと』をしっかり読んで、自分なりにまとめて、私はこういう人間なんだと説明する。しゃべってもなかなか理解されにくいなら、文章にまとめて40人に配布する。そうすることで、少なくとも馬鹿にされるということからは解放されませんか。
A そうですね。
伊藤 はい、これでひとつ、解決策ができました。じゃ次に、「立ち往生したらどうしよう」はどうですか。すごくどもったときに、立ち往生した経験はありますか?
E 電話でまったく声が出なくて、どうにもこうにもならないときが、何度もありました。
伊藤 で、そのとき、どうしたの?
E どうしたんだろ。なんとかかんとかしたんだろうけど、一回電話を離して一息ついた。
伊藤 ちょっと一呼吸おいたりね。ほかに何かある? 僕は、立ち往生しそうな場面には出ていかず、逃げて逃げてばかりしていたから、立ち往生することはなかったけど。立ち往生したときに、こうしたということ、ないですか?
M 立ち往生しても、ひどい連発、醜いどもり方でもいいから、言おうとしたら、なんとかことばはつながりますね。
伊藤 はい。どもってなら突破できますね。そこで、これも常に考えてもらいたいことですが、仮に立ち往生した。最悪の場合、どういうことが起こりますか?
H どうしたんやと声をかけられるとか。
M 低い評価をされて、
H そこまでいかんやろ。
伊藤 それは、ずっと後のことですね。
T 聞いている人が、ざわざわし始める。
N 発言者を変えられる。
伊藤 Aさんの場合、最悪の場合には、どんなことが考えられる?
A 最悪の場合、ほかの人が手をさしのべてくれて、どうしたんやと言ってくれて、私はどもって読めませんと言うしかない。
伊藤 それは、最悪の場面ですか? 最高の場面と違う? 最善の方に、ジャンル分けできるよ。
S 交代させられる。
伊藤 交代させられたら、ラッキーですね。
B くびになる。
伊藤 これが最悪やね。だけど、こんなことでくびになると思う? 仕事ができないというのではなくて、ただ社訓を朗読するだけのことですよ。朝礼は仕事の本筋ではない。自分の仕事として評価されるんじゃなくて、ただ社長の哲学・方針を書いた文章を読むというセレモニーでしょ。
A そうです。
伊藤 その、セレモニーで立ち往生したからといって、くびにはならない。最悪の事態というのは、たかだか笑われるくらいですよ。僕らは立ち往生したら最悪の場面が起こりそうだと思うけれど、たいしたことない。命をとられるわけではない。
 こういうとき、いつも思い出すのは、今から25年も前、第一回の国際大会を開こうと言ったときのこと。みんなが、不安や恐れがある、参加者が少なかったら、資金が集まらなかったらどうしようと反対した。そこで、最悪の場合は何だといったら、赤字が出ることだと言う。赤字が出たら、実行委員のメンバーがボーナスを一回パスしたらいい。それで済むことだから、やろうとなった。そして開催して成功した。最悪のことを考えても大したことはない。そういうふうに考えられたら。
K 今だったら、よく分かりますが、自分がどもりを必死で隠していたとき、自分のどもりがばれたら最悪と思っていたから、そういうときに立ち往生したら最悪です。みんなに自分のどもりが分かってしまう。
伊藤 だから、対処として一番大事な前提は、今の話でいうと、「どもる事実を認める」しかない。どもる事実を認めたくないのであれば、不安や恐れや恥ずかしさは、一生続きます。だから、どこで踏ん切りをつけるかになる。私はどもるのだという事実を認めることができなかったら、残念ながら吃音の恐怖や予期不安の対処は無理です。どもる事実を認めるところが出発じゃないかな。じゃ、どもる事実が認められない人にどうするか。何かある?ここに来ている人たちは、内心は分からないにしても、どもる事実を認めないとしゃあないと思ったり、本気で認めている人であったりする。でも、どもる事実を絶対認めたくない人は、現実にはいっぱいいる。そういう人には、どうしたらいい。
G 知り合いにいる。友だちになって、食事に誘ったりして、この吃音教室の話をしたりする。
伊藤 どもる事実を認められない人に対して、僕たちに何ができるかは、セルフヘルプグループの大きな役割だよね。吃音親子サマーキャンプでも、絶対どもることを認めたくない、そんなキャンプに行きたくないと言う子を母親が無理矢理連れてきて、どもる人たちの中に入れて、自分だけじゃないんだ、どもる事実を認めても最悪のことは起こらないんだ、ということを目の当たりに経験して変わる例はたくさんある。では、どもる事実を認めたくないのはなんでやろ。
N 吃音を知られたら、自分が吃音であることを認めたら、自分が終わりになると思っている。
伊藤 終わりって何やろ。
H 僕は、認めたくなかったときに、このままどもりであったら、僕の人生は展望、未来が開けないとずっと思っていた。まともな社会人になれないんじゃないか、一人前になれないんじゃないか、果たして結婚できるんやろか、とか。
伊藤 それは、Hさんがひとりで悩んでいたからでしょう。自分だけの世界の中での想像だったり、思い込みだったりしたんでしょう。それが、どもりながら、しんどいこともあるだろうけれど、仕事に就き、結婚もしているどもる人たちと出会ったら、どもる事実を認めたくないと思っていた人であったとしても、どもりながらでもこうして豊かに生きていけるなあと思える可能性がある。となると、僕らNPO法人大阪スタタリングプロジェクトの社会的な責務としては、確かに苦しいことや困難なことはあるけれども、どもりながらでもそれなりに生きていけるんだという見本を見てもらうことですね。大阪吃音教室に来てもらったり、情報を提供したりということは可能かな。
 不安や恐れの対処の前提は、どもる事実を認めているということで、スタートしていいですか?
(「スタタリング・ナウ」2009.8.24 NO.180)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/02/13

大阪吃音教室

 毎週金曜日、いつもの時間に、いつもの場所に集まる、会い続ける、だから、ミーティングと呼ぶ。―こんなセルフヘルプグループの活動を、僕は60年間、続けてきました。もちろん、時間も場所も集まる人の顔ぶれも変化してきましたが、変わらないのは、セルフヘルプグループの活動の底に流れる、気持ち、情報、考え方の分かち合いです。お互いが対等な立場で、会い続け、話し合い続ける中で、大切な価値観が生まれ、多くの人が自分らしい生き方をしていく姿をたくさん見てきました。僕は、セルフヘルプグループが好きです。つくづくセルフヘルプグループ型の人間だなと思います。
 僕にとって大切なセルフヘルプグループ、大阪吃音教室での一コマを紹介します。
 大阪吃音教室は、今も、金曜日の午後6時45分から、大阪市中央区谷町2丁目のCANVAS大阪の2階で、開いています。
 「スタタリング・ナウ」2009.8.24 NO.180 より、まず巻頭言です。

  
大阪吃音教室
                    日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 ひとりで悩み、苦しみ、絶望してきた人たちが、同じような体験をしている人々と出会い、これまで誰にも話せなかった、理解されないと思ってきた悩みや苦しみの体験、気持ちや情報や考え方を語り合い、自分らしく生きる道を探る場を、セルフヘルプグループという。簡単には癒えない心の傷や生きづらさ、治らない・治りにくい病気や障害だからセルフヘルプグループが必要なのだ。
 国際吃音連盟で、世界のどもる人のセルフヘルプグループの情報に接するにつけ、吃音のグループの難しさを思う。吃音が治らない現実に向き合っても、やはり吃音を治したい、治さなければならないと、効果を疑問視しながらも言語訓練に励むグループ。集まって吃音について話し合うだけのグループ。親睦を重視しているグループなど様々である。そして、それらのグループは、決してそのグループ活動に満足せず、どのような活動やミーティングができるか、常に迷い、探っている。
 どもる人のセルフヘルプグループの場合、グループの意義である気持ちの分かち合いは行われていても、体験、情報、考え方の分かち合いの部分が十分ではないグループが少なくない。特に、考え方、価値観の分かち合いは、ほとんどなされていないといっていい。
 吃音は自然に変化し、時に、治した、治ったという人がいるために、治ることへの諦めがつかず、どもる事実を認めた上での活動を徹底できないからだろう。吃音に対するとらえ方、価値観という軸足がしっかりしていないからだともいえる。
 私たちの大阪吃音教室は、吃音は治らないものとして、どもる事実を認めた上で、吃音教室を毎週開いている。世界でも極めて特異な存在だ。
 1987年から、今の大阪吃音教室のスタイルが確立した。それまでは、世界のセルフヘルプグループと同じように、言語訓練的なことと、吃音についての悩みを話し合う親睦が中心だった。それが、大きく変わったのは、第一回吃音問題研究国際大会がきっかけだった。
 私たちの、「吃音と共に生きる」主張は理解できるが、セルフヘルプグループのミーティングでどのようなプログラムを組むのかを提案すべきだと、どもる当事者だけでなく、吃音研究者、臨床家からも指摘された。その翌年から3年ほど大阪吃音教室は試行錯誤をくりかえしながら、現在の大阪吃音教室をみんなでつくりあげていった。
  ・吃音の正しい知識を持つための基礎講座
  ・コミュニケーション能力を高めるための講座
  ・よりよい人間関係をつくるための講座
 この3つを柱とする講座を、20名ほどの運営委員が入れ替わり立ち替わり進行・担当する。30年のベテランから、2年しかたっていない人、年齢も25歳から60歳を超える人、職業も、性格も楽天的で社交的な人や、繊細で物静かな人など様々である。一人一人が講座を担当するにあたって、いろいろな所に出かけて学んだり、書籍や資料で勉強して工夫をしている。担当をやり終えると、充実感が残り、担当を引き受けて良かったと思う。責任を分担することによってやる気も出、自分が分担した部分の内容の理解が深まる。また、準備を含む努力を、他人から認められて意欲が湧いてくる。これまでどもるため人前で話をするのが苦手で、できるだけ避けてきた自分でも、担当ができたということは、大きな自信につながる。また、同じどもる人がどもりながらも担当しているのを聞き、自分にもできるかもしれないと思うようになる。大阪吃音教室の参加者のこんな感想をもつ。
  ・個人の悩みに対応してくれた
  ・発言を強要されず、黙っていてもいい
  ・幅広い友人ができた
  ・明るく、楽しく、元気が出た
  ・吃音の知識がついた
  ・心理療法は職場や家庭で役立った
  ・吃音に対する考えや行動が変わった
 「治らないなら何もすることがないじゃないか」との私たちへの批判に対して、どもる事実を認めた上で、吃音について取り組むことはたくさんあると私たちは主張する。この大阪吃音教室の実践を記録として残すことが、私たちの責任だろう。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/02/12

セラピー中心主義から生活中心主義へ

 セラピー中心主義と生活中心主義、吃音へのアプローチとして両極端にある考え方だと思いますが、僕は一貫して、生活中心主義を提案してきました。21歳までの自分の体験をもとにした、体験にもとづくアプローチです。「スタタリング・ナウ」 2009.5.24 NO.177 より、巻頭言を紹介します。

  
セラピー中心主義から生活中心主義へ
                       日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 吃音へのアプローチを、私は、セラピー中心主義と生活中心主義に分けている。私たちはセラピー中心主義を捨て、生活中心主義を選び取った。
 セラピー中心主義とは、吃音症状を吃音の中核的な問題ととらえ、専門家によるセラピーを受ける、受けないにかかわらず、吃音をコントロールする努力をし、吃音症状を改善して、問題を解決していこうというものである。
 生活中心主義とは、基本的には専門家のセラピーを受けず、また、仮に受けたとしても、セラピーは単なるきっかけで、どもる事実を認めて、吃音を隠さず、話すことを回避しないで、どもりながら日常生活を丁寧に生きていこうというものである。
 1974年の、私の「吃音を治す努力の否定」の提起は、セラピー主義との決別宣言である。
 吃音に悩む人が有能なセラピストに出会えるとは限らない。また出会えたとしても吃音のコントロールは本人の強い意志力と不断の継続した努力が必要だろう。それができる人はいいが、特別の能力や忍耐力、集中力がない私たちのような凡人には、とても難しい。セラピストのいない地域でも、誰でもが吃音の苦悩から解放されるアプローチはないのか、私たちは試行錯誤を繰り返し、生活中心主義を選択した。また、セラピー中心主義を選択した人々も、いつまでもセラピーのプロセスに居続けるわけではなく、生活中心主義に転換していかざるを得ない。私は、最初からセラピー主義を捨て、生活中心主義に徹することを薦める。
 その成果は、セルフヘルプグループの43年の活動や、吃音親子サマーキャンプの19年の活動で立証済みである。生活中心主義は、セルフヘルプグループの活動の成果、財産とも言える。
 確実な吃音治療法がないにもかかわらず、アメリカ言語病理学は、セラピー中心主義をとり、「流暢性」にこだわり続けている。それはなぜなのか、私はずっと疑問に思っていた。
 比較することは誠に畏れ多いが、長年同じように、一所懸命吃音に取り組み、数千人というどもる人とかかわってきたチャールズ・ヴァン・ライパーと伊藤伸二の、どもる人間としての体験の違いに注目すると、疑問が少し解ける。
 ライパーは、1994年88歳で亡くなったが、現在でも吃音臨床に大きな影響を与え続けている。ライパーは、アイオワ大学で、ブリンゲルソンの「随意吃音」のセラピーで、劇的に変わった。自分が変わったのは、セラピーのおかげだと考えただろう。アメリカの言語病理学者やセラピストが流暢性にこだわるのは、このライパーの強い影響があるのではないか。その後、ライパーは、多くの後継者を育てた。『学齢期の吃音』(大揚社)の著者、カール・デルも、『吃音の基礎と臨床』(学苑社)の著者、バリー・ギターも、吃音であり、ライパーのセラピーを受け、吃音の指導者として訓練を受けた弟子だ。他の、自分自身が吃音の言語病理学者も、セラピーを受けていることだろう。
 民間吃音矯正所しかなかった日本では、効果がなければ、自分の力で、吃音に取り組まざるを得ない。治らなかった私は、治す努力のエネルギーを、日常生活を大切に生きることに振り替えた。吃音を隠さず、話すことから逃げないで、どもりながら精一杯生きる中で私は大きく変わった。
 西洋医学が対症療法の短期決戦なのに対して、東洋医学は、時間はかかるがその人の体質をゆっくりと変えていく。私が変わっていったのは、まさに、自然なゆっくりとした歩みだった。変わったのは、私の自己変化力によるものだ。
 セラピーのおかげで自分は変わったと考え、セラピストを多く育ててきたライパー。生活を大切に生きる中で自分は変わったと信じて、どもる子どもやどもる人たちと共に、日常生活をどう生きるかを常に考えてきた私とは大きな違いがある。
 この原体験の違いが、「セラピー中心主義」と「生活中心主義」になってあらわれているのだろう。(「スタタリング・ナウ」2009.5.24 NO.177)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/02/02
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