少し長くなりますが、今回で、この鼎談の紹介を終わります。この鼎談が行われたのは、今から25年くらい前のことです。読み返してみて、全く色あせていないと思いました。
内須川洸さん、平木典子さん、そして話の中に出てくる竹内敏晴さん、改めて、多くの方の支えの中で活動を続けていることを思いました。
内須川洸さんは、日本の吃音研究の第一人者で、長年、日本吃音臨床研究会の顧問をして下さり、1986年の第一回吃音問題研究国際大会の顧問でもあり、ずっと私たちの活動を見守って下さっていた人でした。今回、僕は、久しぶりにこの鼎談を懐かしく読み、内須川さんのことを思い出していました。
どもる子どもの教育、成人のどもる人たちの生き方にヒントがいくつもありました。
では、1997年9月13〜15日に開催された、第4回吃音ショートコースの最終日の鼎談を紹介します。これで最終回です。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/06/02
内須川洸さん、平木典子さん、そして話の中に出てくる竹内敏晴さん、改めて、多くの方の支えの中で活動を続けていることを思いました。
内須川洸さんは、日本の吃音研究の第一人者で、長年、日本吃音臨床研究会の顧問をして下さり、1986年の第一回吃音問題研究国際大会の顧問でもあり、ずっと私たちの活動を見守って下さっていた人でした。今回、僕は、久しぶりにこの鼎談を懐かしく読み、内須川さんのことを思い出していました。
どもる子どもの教育、成人のどもる人たちの生き方にヒントがいくつもありました。
では、1997年9月13〜15日に開催された、第4回吃音ショートコースの最終日の鼎談を紹介します。これで最終回です。
人と人との触れ合いにも流れがある
内須川 人と人の触れ合いの流れのようなのがあって、リズムよくごく自然の中で言葉が出ると、その言葉は生きてるわけ。言葉だけ取り上げると、どもってる、おかしいと言えるかも知れないけど、人間関係の流れの中に埋め込まれていくと、極めてそれが生きる。そういうことなんじゃないかな。
人間関係の流れを変な方向に断ち切らないようにすることが大事で、そのためには自分の感情を素直に人の前に出せることが前提であって、そのことが大事なんじゃないのかと思います。
そういう関係から引き抜いて、ことばそのものを滑らかにしようと一生懸命になると、流れそのものの中のセンシティビティーがなくなって、おかしなものができると僕は思うんです。
どもる人たちが集まっているときに話す言葉は確かにどもってますよ。どもっているんだけど、そこには笑いがあり、流れがあり、人間関係があるわけでしょう。そういう流れを見てると楽しいですよ。これが生きてるってことじゃないか。関係が生きてるってことだと僕は思う。それがただ、どもらない人の間に入った時に、そう簡単にはいかないんだな。
平木 今の話で、流れという意味では、普通の人達のところで気がつかされることが一つあるんです。
自己表現の中でも、あるいはカウンセリングの中でも、緊張したり、言葉が詰まったり、うまい言葉が思いつかなかったり、どもらない人でもひっかかることってたくさんあります。そういう時に、「今、緊張してるんですけど」と言ったら、緊張は下がるんです。自分の気持ちの流れをちゃんとその人が動かしてるんです、途切れてないわけです。「ちょっと待って下さい」と入れても良いんですけど、そうすると、緊張してる、緊張してる、どうにかしなくっちゃと止まってしまうよりも、ずっと早く元に戻っちゃうんですよね。
「緊張してます。ちょっと待って下さい」「ちょっと今言えません」と言ってると、自分の気持ちが流れていく。ことばの教室の先生方のKJ法図解の中に、先生に「僕はどもるんだ」と言えるようになることがとても大切だというのを見た時に、似たようなことを思ったんです。「僕はどもるんだ」と言うのは「今、緊張してます」と言うのと、似てると思うんです。自分の心の流れの中を表現して言っているわけですから。
伊藤 どもる人が発言をする時に、「僕はどもります」と言うと、とたんにどもらなくなることがあります。
どもりたくない、どもってはいけないと思って、その不安が緊張になってどもってしまうわけだから、それを先取りしてしまう。僕はどもるんだから、どもって当たり前。だから、聞き苦しかったり、分かりにくかったら質問して下さいと前置きをするととたんにすっと喋れる。これは、先ほどの「今緊張してます」と言うこととつながる。
平木 それは自分の心の流れには逆らってないですね。
伊藤 今自分の動いている気持ちを口に出すというのが、とっても大事じゃないかと思うんですね。
内須川 僕は吃音の方と接してみて感ずるのは、人間関係の中で、ことばがどもる以外に、吃音の方は心の動きが前に向かない、戻っちゃう。何かあるとすぐ引っ込む。防御の姿勢になるんです。心の動きが戻れば人間関係が遮断される。バックすることで人間の関係の流れを自分で切ってしまうというところがあるんじゃないのかな。だから、切らないように、言葉が出なければ、言葉以外の身振りでも手振りでも視線でも笑いでもなんでもいいからそれを出せば、僕は戻らないですむんじゃないかなと思うんです。
そう考えると、なぜ戻るのかという問題が出てきます。これは吃音にももちろん関係あるけれども、どもったという経験、それによって笑われたとかパニッシュメントを与えられたとかあるかも知れないけども、やはり小さいときからの人間関係のありかたのようなものがあると思うんですよ。
年齢を重ねると人間関係を経験する。しかも人間関係の流れに失敗経験を重ねると、どうしてもそういうものがだんだんと強くなってくる。言葉の症状もだんだんと進んでしまって、困難な状況に入っちゃう。こうなると、言葉の困難性からまた不安の芽が出てくるというふうに循環しちゃう。
平木 そういう悪循環はいろんなところで起こります。
さっきの幼稚園の子どもの家族の話でも悪循環が起こっているわけで、いい循環に変えることは誰でもできるけれど、一旦悪循環にはまるとなかなか出られなくなります。自分の中の循環をいい循環に変えるのもどこでもできるはずなんですけど、それが断ち切らないんですよね。
内須川 難しいですね。そう簡単にはいかないんでしょうね。ですからそういう心理的な背景が仮にあるとすると、心理的なものは自分で自由自在にコントロールできないから、変えていく何かをしなきゃいけないですね。先ほどの例でいえば、今ここに集まっているどもる人たちが、言葉の面ではどもってる。けれども、実際はコミュニケーションがうまくできて、しかもみんな笑ってね、どもればアッハッハアッハッハ笑ってる。ところが、どもりでない人のところでそれができるかというとできないんだよね。
自分の感情を相手に出せるタイプの吃音の方、私は外国でそういう先生にお会いしたのです。吃音学者でね、非常に魅力的な方で、その人ものすごく詰まってどもるんですよ。授業でどもるとね、ニヤッと笑うんですよ。そうすると、ワーッて学生皆笑うんですね。すると場面がパッと変わっちゃう。それで人気が非常にあるという人がいましたけどね。こういうやり方が使えれば良いんですよ。
言葉が詰まるからというのじゃなく、その人が吃音をそういうふうに受けとめて、自分の魅力にしてる。学生はわんさわんさやって来る。そういう人がいらっしゃいます。
伊藤 大人になってから、いろんなしがらみやプライドが出てきた中で、それをしていくというのはすごい難しいんですね。だから、やっぱり子どもの頃からのことを根本的に考えなきゃならないだろうと思います。
去年この吃音ショートコースに来て下さった、竹内敏晴さんが、言語には情報伝達の言語と、表現としての言語と、そして呼びかけの言語があるとおっしゃいましたが、ある話し合いの中で、こんなことを話しました。
言葉が一語文、二語文と発達していく中で、「あんたの言ってることは分からないでしょ。もっとちゃんと言いなさい」と、情報伝達型の言語をちゃんと言うことを子どもの頃から要求され、情報伝達型の言語にどもって生活をしてくると、自分を表現する言葉を忘れていってしまう。そんなすごい欠落をして、情報伝達の言語を滑らかに流暢にしようとばっかり思ってると、ますますできなくなってくる。そこで、しばらくの間は、情報伝達の言語はあきらめて、自分を表現する言葉を徹底してやっておく。それが基礎にならないと、情報伝達の言語まではいかないんじゃないかなあ。
子どもの頃に、音楽でも絵でも、どんなチャンネルを使ってでもいいから自分をいっぱい表現する、そこらあたりを徹底的にしないと、情報伝達の言語まではいかないかなあと思うんです。
平木 本当にそういう意味では今日本の教育は、その逆の教育をしすぎていると私は思うんです。子ども時代は、言葉の意味が分からないところから育っていくわけなので、どちらかというと、情報伝達的なものは一切なしにして、その人の表情、動き、声の調子とかでみんな情報をもらってるんですよね。だから、ほとんどが非言語的なものから子どもはたくさん情報をもらうことに優れています。
例えば、お母さんが優しい顔をしないでにらんだような目をして「こっちへいらっしゃい」って言ったっで、子どもは来ないんです。どっちかって言うと、「こっちへいらっしゃい」なんか聞いてない。変な目してみてるというのをちゃんと見てるんですよね。それくらい子どもというのは、いろんな伝達方法の中で、言葉以外のものをたくさん吸収して、相手の言わんとしていることを判断することができている。どちらかというと、子どもの方が本音をちゃんと見取ることができるような状況であるのに、言葉の方が本当だっていうことをどんどん宣伝しちゃう。それで子どもは大きくなると言葉でごまかすんです。本当は人間ってもっとすごいいろんなものを使って人の言うことを聞こうとしているんだと思う。言葉なんかできるようになったら、むしろどんどん言葉にごまかされていく。だから、みなさんがここでみんな楽しいというのは、どもらない人より言葉以外で表現しようとしてらっしゃることがたくさんあるからだと思います。おそらく皆さんもそういうふうに、相手が言わんとしていることを他のものでもちゃんと聞こうとしてらっしゃるんじゃないかなあ。そんな感じがします、とっても。
内須川 幼児は成人に比べればまだ未熟ですから、感情は生のままおいておくでしょ。感情は奔放なもので、この時出そうって出るもんじゃなくって、出るとき出ちゃうんです。だからある程度それが出せる自由な環境がなければ、感情は出ないんです。
吃音の方は、非常に優しいという良い面がありますが、私は過ぎちゃうって言ってるんですが、優しいと同時に、真面目なんですね。真面目がくせ者なんです。真面目は大変良いんだけども、くそ真面目だから。くそ真面目は、奔放なことができない。型にはめられると楽にできるが、型をぶち壊して何かやるとなると、なかなかできないんですね。それがくそ真面目の特徴なんです。
だからなんでも壊しちゃうという、現状にあるものを変えちゃうという自由度。これを小さいときから培うことが必要なんじゃないのかなあ。ある程度大人になると、分かっているけどそれはできない問題が出て来る。小さいときに自由奔放に感情を出す。感情は否定的感情から形が出るんですけども。肯定的感情を出すには否定的感情を出さないとダメです。低レベル、基礎レベルは否定的感情を出すっていうことですね。
くそ真面目になると、否定的な感情は出しちゃいけないんじゃないかって考えてしまう。それが抑制力を作るんじゃないかと僕は見てるんです。
家庭の中には何か規範があると同時に、非常に優しさっていう過保護の両方があるところが問題なんです。規範は、どもる子どもを真面目なものに押し上げる。それをぶち壊しちゃうような感情を出す、これは否定的な感情でしょ。だから第1反抗期。反抗が自由に出るような環境を整えておくことが必要で、なかなか出にくかったんじゃないかというふうな感じを持ってるんです。それは非常に重要なベース、基礎になっている。(了)
吃音ショートコース開催は、1997年9月13〜15日
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/06/02