伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

べてるの家

治りませんように

 「治りませんように」とは、なんと衝撃的なことばでしょうか。でも、べてるの家で生活する人々にとっては、それは至極当然で、自分たちの生き方の基盤になっています。治らない・治りにくいものを治そうとすることは、今を否定することでしかありません。このままでいい、どもっている自分のままで生きていく、そう決めたとき、僕は、「どもりが治りませんように」と祈っているのです。
 「スタタリング・ナウ」2010.3.28 NO.187 より巻頭言を紹介します。

  
治りませんように
               日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 一昨年、北海道浦河のべてるの家に見学研修に行った。べてるショップで本を買うと、「べてるな人」の直筆のしおりがもらえる。何冊か分のしおりを、くじ引きのようにして引いた。その中に「勝手に治すな、自分の病気」があった。
 七夕の短冊に「病気は宝、治りませんように」と川村敏明医師に書いてもらって喜んでいる人がいたという話も聞いた。
 私が、「どもりが治りますように」と七夕の短冊に書いたのは、二度や三度ではない。初詣のたびに、「治りますように」と必死にお願いした。御利益のありそうな線香の煙を、口のあたりにあて続けて、変な目で見られたこともあった。
 病気や障害を「治りませんように」という人など、一般的には考えられないことだろう。
 『治りませんように』(みすず書房)を、著者の斉藤道雄さんが送って下さった。
 2005年、TBSのドキュメンタリー番組「報道の魂」で私たちを紹介して下さった人だ。今は、TBS放送を退職し、日本唯一の「手話の学校」の校長をしておられる。「治す文化に対抗する」戦友として私を支えて下さるひとりでもある。この本は、私にとって、大きな大きな励ましになった。
 今、私は吃音についての新しい本を書いている。35年前に「吃音を治す努力の否定」を提起し、その延長上で、『吃音者宣言―言友会運動十年』(たいまつ社)を出版した時と同じくらいの激しさと気負いをもって書き進めている。書けば書くほどに、「吃音を治す」に批判的な文章になっていく。そして、執筆のため、たくさんの資料に再び目を通すたびに、「治す文化」の厚く大きな壁にめまいを覚える。
 新しいことを提言する改革者には、常に伴う孤独との闘いだろうか。法然が宗教・思想の革命児なら、織田信長は政治の革命児だ。信長は激しさばかりが目立つが、法然は、限りなく穏やかで優しい。女性に語りかける数々のことばは、慈愛に満ちている。しかし、内なる古い仏教に対決する情熱は、信長以上のものがある。旧勢力からの迫害は、死後、墓まで掘り返されたほどだった。
 べてるの家には、批判や抵抗があるかどうかは知らないが、独自の道を歩み続け、穏やかに、しっかりと「治す文化」に対抗していく。それができるのは、精神障害者の当事者研究を中心にした、当事者本人の体験を、丁寧にことばにし、本やビデオなどで、発信し続けているからだろう。
 そして、当事者の声に耳を傾け、共感する医師や研究者、専門職者が大勢いて、斉藤道雄さんのように、外部からべてるの家を紹介し続ける人がいるからだ。べてるの家に研修に行ったとき、たくさんの研究者、専門職者が見学研修に参加しているのが、とてもうらやましかった。
 「吃音を治す努力の否定」を提起して35年、吃音は何一つ変わっていないことに愕然とする。
これは、吃音が治ったという人、改善したという人がいるからだろう。はっきりと「治せないもの」と言い切れないところに、吃音の難しさがある。「ろう文化」や「治せない、治さない精神科医」と言うようには、胸を張れないのはそのためだ。
 しかし、圧倒的多数の人の吃音が治っていない現実の中で、治そうとする生き方をやめ、どもる事実を認めて、吃音と共に生きる私たちは、悩みの中から多くのことを学んできた。その体験を、綴り、発信し続けたいと、私たちは「ことば文学書」を制定し、自分を語ることを続けてきた。
 昨年、12回目の授賞式があった。
 今回の受賞作。吃音に翻弄され、劣等感にさいなまれ、もがき、生きてきた人間でなければ書けない心の叫びが、胸をうつ。吃音の悩みは、しっかりと悩めば、これから生きる道筋を、ほのかな明るさで照らしてくれるものだ。また、自分を見つめる感性が養われ、苦しんだが故に得る、本や人や出来事との出会いが、宝物にもなる。
 今回の受賞作品を読んで、明るく、楽しく生きる人生もいいのだろうが、悩む人生も決して悪くないと、私には思えるのだ。
 私は今、「どもりが治りませんように」と祈る。(2010.3.28 NO.187)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/03/15

べてるの家から吹く風 2

 北海道浦河にある浦河赤十字病院の精神科医である川村敏明さんの講演を紹介しています。
べてるの家と関わる川村さんは、「治せない、治さない精神科医」と、自分のことを紹介しています。ソーシャルワーカーの向谷地生良さんは「相談するソーシャルワーカー」。お二人と、当事者であるメンバーの力で、生き生きと生きる「べてるの家」様子が語られました。「スタタリング・ナウ」2009.3.29 NO.175 に掲載の後半を紹介します。

べてるの家から吹く風 2  
                    川村敏明 浦河赤十字病院精神科医


デイケアのプログラム

 病院のデイケアのプログラムの名前だけ見たら、何なのか。実は、私もデイケアに行く時間がないので、参加したことがあるのは、一つか二つです。みんなが語り合う場、そして練習し合う場、自分の苦労を披露して、ほかの人の苦労も聞ける場です。上っ面ミーティングでは、自分にとっての上っ面って何だろうとかという話をしたりする。あじさいクラブは、子どもをもっているメンバーの虐待などを防ぐ、子育ての支援グループです。
 幻聴ミーティングは、自分の幻聴を披露し、それにどうつきあうかなどを話します。今は、医者の前でも普段でも安心して幻聴のことを話しますが、昔は幻聴があるなんて言うと、薬は増やされ、退院は延ばされるから、みんな、絶対言わなかった。特に、精神科医の前ではほんとのことを言わないのは常識だった。例えば、治療を受けているだれかが幻聴があるとあちこちで言ったら、精神科医である私の治療が不十分だったり、失敗していると思ってしまう。だから、昔は、よくなりましたと言うまで、あの薬、この薬とだんだん薬を増やしたくなる。今は、ミーティングがありますから、幻聴ってあってもいいんだと思える。本人に「もっと薬を増やして幻聴を減らすようにやってみるかい」と言うと、「いいや、いいです。このままでいけます。友だちに助けてもらいますから」と言う。そういうやり方で暮らせるということがだんだん分かってくると、いわゆる医者の役割もどこまで必要なのか、見守っていていいのかの私自身の見極めも必要になってきます。こういうプログラムがあって、低脳薬、薬をできるだけ少なくすることができるのです。
 この他、べてるの中でもミーティングはありますし、各職場でもあります。毎日どこかここかで数回のミーティングが行われている。だから、町全体として考えたら、ミーティングは、たくさん行われているわけです。だから、当然、ことばを覚えていきます。話さないとやっていけない人たちが増えてきた。精神病は黙っているのが、30年前の常識でしたが、今は、黙っていると練習が足りないんじゃないかという評価になっていく。

べてるの組織図

 べてる大学があったり、しあわせ研究所なんていうのもある。大学の建物があるわけじゃないが、研究をしている。精神障害を持ちながら、あるいは障害がなくても、人としての幸せを追求する、研究する大学といってもいい。理念や考え方をことばにする研究という部分は、べてるにとって非常に大きいものです。
 会社もある。年商1億数千万くらいですが、儲けるために商売をしてるんじゃない。心配するほど黒字には絶対になりません。ただつぶれなければいい、という程度です。課題は、べてるの活動が始まった頃に考えていたように、自分たちは障害者なりに地域に対して何が貢献できるかということです。今も考えているのは、浦河町にどうやって儲けてもらうかです。去年の9月、全国の精神障害者の全国大会が浦河で行われました。毎日1000人くらいの人たちが、浦河の町を、3日間にわたって歩きました。あの過疎の町をぞろぞろと歩いているのは、みんな、べてるに来た人たちです。とにかく集団が歩いていると、みんなべてるです。JRローカル線の日高線浦河駅で降りて、荷物を持ってキョロキョロしていると、JRの職員が「べてるに行くんですか?」と声をかけてくれると、お客さんが感動してました。
 どうやったら、地域活性化に役立ち、地域に暮らす人たちを応援できるようになるか、べてるは取り組んでいます。浦河は、観光の町じゃないので、泊まるお客さんは、べてる以外にはないだろうと思います。町長さんも会うたびに「お世話になってます」と、私の方が言われます。でも、町の一般的な人たちの声ではまだまだですけどね。べてるのおかげで曲がりなりにも潤っている人たちもいますが、均等に1万数千人の地域の人がみんな、べてるで潤っているわけではもちろんありません。当然ながら迷惑をかける人たちも中にはいます。だから、全国から変な人ばかりを集めるとずいぶん批判を浴びることもあります。警察からは長い間叱られています。でも、町おこしになっていると、町も警察の方も慣れてきてくれ、ずいぶん昔と変わってきていると感じます。

苦労の取り戻し

 私たちは、「精神障害者に対する偏見・差別、無理解が地域にあるという偏見」をもっていたけれど、相手に理解を求めるんじゃなくて、地域が抱えている課題を理解する障害者をつくるか。浦河も、町民も、すごい苦労してる。病気でない人たちも大変だ。商店街もお客さんがいない。商売をどう続けていくか大変苦労している。自分たちが苦労してきた経験を、地域で役立てられないだろうか。一方的に理解してもらうのではなくて、自分たちが地域を理解するという力をつけよう。
 私たちは「苦労の取り戻し」と言い、自分も苦労できる人になると同時に、地域が抱えている苦労にも参加させてもらおうとします。最初、昆布の販売をしたのも、地域での商売の同じ苦労に参加させてもらうのが目的でした。商売は難しいものだという、地域の人たちと同じ目線に入っていくということです。「地域のために健常者のために」とは、町の人たちに聞こえるようには言いません。自分たちが元気が出るようにと勝手に言っていることばです。今なら結構言えるようになりましたが、まだ気を悪くする町の人だっているかもしれないので。自分たち用だと理解して下さい。

町おこしとしての商売

 地元でとれる日高昆布を全国に売る。全国に売って町を助けよう。もちろん、べてるが昆布を売っただけで町が救われるわけじゃないんですけど、志、思いが大切です。
 昔は、働けない人をどうにかしてがまんさせて働く人にするかが、いわゆる治療的かかわりでした。しかし、向かない人は使わないで、もっと向く役割はないかと、新しい役割を常に開発するのが、べてるです。3分ともたず、すぐたばこを吸いに行く人に、がんばって作業させるとか、無理に作業させるとか、指導して作業させるとかは一切ない。
 作業所なんかでよくあることですが、作業を本人が一生懸命やらされているというようなニュアンスが多少でもあると、調子が悪くなって、いったん入院したりすると、もうあそこの作業所には帰りたくないということになってしまう。代わりに親が通って、親の割合が多い作業所ができあがるのが全国によくある。親の社会復帰には役立ったけれど、本人の社会復帰には何にも役に立ってなかった。やらされる、やらせる、一方的な方向だからです。べてるは、自分たちがやると言って、やり始めた。家族会は一切関係してません。
 とにかく過疎地ですから、働く場所は自分たちで仕事を作るしかない。昆布の仕事も最初は下請けでしたが、会社から仕事を打ち切られて、仕方なく自分たちで仕事を始めた。元気を出すために、自分たちすら救えないのに、町を救うという、あきれ果てるスローガンで出発しました。その後、べてるもだんだん大きくなります。昆布の仕事ばっかりでなく、自らが仕事や役割をみつけました。
 本の出版や、ビデオを作って全国に販売するなど、東京の人がやることで、最初は、発想のかけらもなかった。ところが、べてるを応援してくれる人がいて、本を出しましょうと言ってくれた。べてるの本が、医学書院やみすず書房などから出るなんて、どう考えたって考えられない。想像もつかないことが、今現実になっているのは、よくよく考えれば自然の流れのような気がしますし、一方では、不思議だなあというような気がします。

体験をビジネスに

 他に何か売るものないかなと思っていたところ、病気を売ればいいんだと、病気をビデオに写して、自分たちがどんな経験をしたのか、病気とはこういうものだと語っていくことをしようとなりました。急に語れと言っても語れないけれども、十数年、二十年来の経験の蓄積があるから、病気を売ろうという話があったときチャンスとして生まれてくる。ただ言われるままにするのじゃなくて、自分たちのことばにしてみる当事者研究をしてきました。もちろん、そこには、医療もあるし、応援も手助けもあります。薬も飲みます。しかし、ただ教えられて、聞かされて、指示されて、うなずいてるだけじゃなくて、自分たちのことばに変換してみる。自分たちが使う日常のことばにしてみる。そのとき初めて、自分たちが主役になって、この病気と、あるいは、自分たちの生活とどう取り組めばいいのかということが見えてくる。
 そこまで深めて、初めてこの病気の意味が見えてくる。「いやあ、いい病気になったと思ってます」ということをよく聞きます。精神分裂病と言っていた時代に、今ここにいる松本君は「分裂病はいい病気です。神様がくれた病気です」言った。「どういいの?」と聞くと、「分裂病は、友達が増える」といいました。この話をしただけで、永久不滅の業績です。精神病に関して、こんな明るい定義をした人って日本には今までいなかったと思います。
 医者は、おそらく、もっと人生を絶望させる説明しかできなかったでしょう。「友達が増える病気だ」と言うのは、ただ分裂病であれば友達が増えるということじゃない。彼は、統合失調症、当時は分裂病といっていたんですが、分裂病体験、幻聴の体験、いろいろの失敗体験を語っている間に、同じ分裂病の人たちがたくさんいるということに気づいて、「先生、分裂病の人っていっぱいいるわ。みんなと友達になってみて、分裂病っていいわと思った」と言ったんです。そういう受け止め方やことばは、私にはとっても新鮮だった。こういう発想は、私たち医療者には真似できない、絶対沸いてこない考え方だと思いました。それが、いわゆるべてるらしいなあという発想で、彼は、べてるの幻覚・妄想大会のグランプリをとっています。
 
自分の悩みと地域の悩み

 今度は逆に、自分の悩みを地域の悩みにしていこう、オープンにしていくということです。ただひとりで悩んでいればいいんじゃない。この悩みは多くの人たちにとっても同じ、共通の悩みじゃないだろうか。子育てで悩むのは、べてるのメンバーだけの問題だけじゃない。そういう悩みをオ一プンにしていく。語りの悩みにしていく。そのことによって、どんどん人がそこに入っていく。
 地域が依存し始めたと私は思っていますけど、そんなにべてるに依存してねえぞという人だって、ずいぶんいると思います。だけど、年間2000人以上の宿泊客が来る人たちが落としていくお金、浦河にとっては外貨が入ってこなくなったら、宿泊施設のいくつかはつぶれているかもしれない。べてるは、黒字か赤字かの微妙なところを担っているんじゃないかと思うんですね。かなり大事なところをべてるは、町の中で貢献できるようになってきているんじゃないかなと思います。働いてその給料だけで暮らせるほどまとまった仕事は地域にはないけれど、ちょっとした小さな仕事で手伝っていけるとところへ、べてるは入っていきやすい。狭間の仕事みたいな、小さな仕事で、これはちょっとべてるに頼みたいなというような仕事は、積極的に受け入れるようにしています。

関係機関とのネットワーク

 地域の中のいろんなつながり、連絡網が非常に有効に動いていると思います。何も精神障害という問題だけじゃなくて、ときに今子育て支援、虐待のネットワークみたいなとことつながっています。いろんな関係機関とのつながりが密になるために、非常に相談しやすい、情報の効率的な交換のできる場になってくれていると思います。

べてるの理念

 理念といえば、会社経営の理念とか、私たちの病院にも、赤十字病院の理念がありますが、恥ずかしいかな、赤十字病院の理念を見ている職員はいません。しかし、べてるの理念は、みんな、誰もが知っていて、自分たちの日常生活に使います。
 「3度の飯よりミーティング」は、べてるのミーティングの多さを表しています。ミーティングというのはとても大事な場だよということを、このことばは表していて、非常に使われています。
 「安心してさぼれる職場作り」は、ビジネス界に衝撃を与えた理念でした。これができた頃に、実際に全員がさぼって来ない日があって、現場が大変困った。後で分かったのは、さぼっている人たちも少しも安心してさぼってなかった。黙ってさぼったものだから、気になって気になって、あわててみんな出てきたということでした。「安心してさぼる」ためには、お互いに、「明日は、僕疲れててちょっと休みたいんだけど」とか、事前の話し合いや相談をした方がいいということが分かった。安心してさぼれる前提には、コミュニケーションが大事だと分かった。今は、勝手にさぼる人はいなくなったそうです。自分たちが決めてしたことの結果を全てミーティングにかけて、どうすればいいか工夫するようになったんです。
 「手を動かすより、口を動かせ」は、普通は、黙って作業しなさいだけど、黙々と昆布の作業をしていると、「あんた、手しか動いてないよ。ここは、ただ作業する場じゃないんだよ。口が動かないとよくならないんだよ。手しか動かな人は、何日かで来れなくなるよ」と。話をしないとただの我慢の場になると辛い場所になってしまう。あるいは、作業が辛いものになっちゃう。口を動かそうとは、経験の中から出てきたことばです。

全国大会

 全国大会では、グランプリの授賞式をするんです。こういう中で賞をいただくのは、誇らしげです。家族の人が見ていて、我が子がここで賞をもらったらもう涙ですよ。しかも、ただ病気がよくなりましたと言って、もらってるんじゃないですから。あなたの苦労やあなたの病気体験には、多くの人たちへのメッセージとなる価値があるので、べてるはあなたを表彰しますということです。だから、グランプリをもらった人たちにとって、病気でよかったと思う瞬間です。また、精神障害の人たちがこういう晴れがましい評価を受けているのを見たというだけでも、自分たちもなんか開放されていくようです。精神病の人というのは、気の毒で、だめな人で、はやく治さなければいけない、なんとかしなきゃいけない人と思われていたのが、病気のままで賞を受けていますから、これは多くの人たちにとっても、どうも目から鱗が落ちるという体験のようです。
 7年ほど前、TBSのニュース23の筑紫哲也さんたちが浦河に来て、1時間半の生中継を放送しました。その時、町の人は、なんでこの町にニュース23が来るのか、訳が分からなかったと言います。それまで、町の人は、べてるを知らない人がずいぶん多かった。外からの評価でやっと、私たちの活動が認められたのです。
 このように浦河でも大変不思議な活動として、認められる。しかも特別努力に向く体質の人たちがいるわけじゃない。努力した人って、あんまりべてるにはいないですね。ただ、とにかく、何が大事だろうねという話をずっと、べてるの人はよくしゃべってるなあと思います。私たちは、昨日、浦河から来ましたけれど、車の中だろうがどこだろうが、よくまあしゃべるんですわ。しかも、それぞれがバラバラなんです。本当に、真剣に聞いていたら嫌になるような。でも、思ったことが語られているという、これは、私たちにとっては、とっても自然に見えますね。まあ、1ヶ月や2ヶ月の練習ではこうはならない。しかも、本人たちだけが練習してたというよりも、もっと前の人たちもしていて、長年の取り組みの中にごく自然に入ってきた「語ることばの力」の大きさを、私たちは、よく言うんです。「治ってるの?」と聞くと、「治ってない」とみんな言います。「治せる先生がいないから」と。浦河なんて、田舎町じゃないですか。名医なんかいたら、すぐ札幌の大学病院に戻って、1年でいなくなるんだとよく言います。私、25年もいますからね。何を期待していいか、期待しても無駄か、みんなよく分かってます。
 一貫して、みんなが取り組んでいます。先生だけが、あるいは病院だけが、がんばっていたら、今のような活動という形には決してなっていません。
 私から多少のアドバイスがあるとすれば、今がんばっている人たちや、今うんと心配な人たちは、ちょっとエネルギーを減らしていいかなという気がします。心配もがんばりも、みんな一緒に分けて、見ていく方が、余裕があります。私も心配で気になって気になって一生懸命やってたときには、あんまりうまくいかなかった。ところが、こっちが心配するのをやめて、その分だけ、相手が心配する、周りが心配する、心配のもとを聞く。そのとき、代わりにすぐ心配を解決してあげるよりも、へこの心配や悩みは、みんなで話し合いをして、やっていこうとしています。解決してあげるよりも、一緒に考える人、あるいは応援する人というような立場、そういうことを大事にしてやっています。(了)(「スタタリング・ナウ」2009.3.29 NO.175)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/01/27

べてるの家から吹く風

 2007年2月3日に行われた川村敏明さんの講演を紹介します。深刻な内容のはずなのに、なぜか笑いがあちこちで起こり、楽しいお話でした。「スタタリング・ナウ」2009.3.29 NO.175 より、今日と明日の2回に分けてお届けします。

べてるの家から吹く風 1  
                    川村敏明 浦河赤十字病院精神科医

はじめに

 今、紹介いただきました川村敏明です。
 北海道の地図を見ると、一番下に南に突き出た所が歌に歌われた「襟裳岬」で、そこから約50キロ、海岸線を北に上がっていった所が浦河です。年間230人くらいのペースで順調に人口が減る過疎の町です。町の将来は真っ暗と言われている中で、一見何の心配もなさそうな集団が〈べてる〉という際だった存在にだんだんなってきています。
 私たちは、この過疎の町で、約30年近くにわたって、精神障害という課題に取り組んできました。田舎ですから、良くも悪くも都会の影響を受けずにきました。不便な過疎の町だからこそできることは何だろうと考えながら、取り組んできました。その結果が、今のべてるの活動です。
 私たちの活動は、全国に悩みを散らばして歩くようなものです。べてるの話を聞いたら、楽しかった、でも、帰ったらすごく悩みが深くなって、却って暗くなったという人も随分いらっしゃいます。そういう副作用の面も覚悟いただいて、この世界は何だろうかを考えます。それこそがべてるの活動の中身なんです。べてるのメンバーはみんな自分が研究員、研究する人だと思っています。
 自分自身の問題、精神障害の問題を、個人だけではなく、全体で考えるべきこと、担うべきことを、みんなで考えていこうとしています。みんな真剣ですが、深刻ではない。そういう合い言葉も大事にして、よくしゃべって、よく笑って、時には怒ったりするにぎやかな人たちです。
 私が最初に浦河に行った頃と比べたら、本当にその存在が目立ちます。町の中でもたくさんの人が生活していますし、町の中の生活に参加しているという姿が見えます。北海道は車社会なので、町を歩いている人は、べてるの人と、べてるを見学に来た人です。そんなふうにつながってきた流れを皆さんに紹介しながら、真剣だけれども、深刻にならない悩みを増やそうと思っています。
 今、奈良の家族会の皆さんが、親としてこのままでは安心してあの世にいけないという話をしていらっしゃいましたが、べてるでは、安心してあの世に行って下さいと言います。どうしてそうなっていったのか、今日の話の中で、皆さんがヒントをみつけて下さればと思います。
 私は浦河赤十字病院で25年働いています。昭和57年からいて、4年ほど札幌の病院に出稼ぎに行った以外はずっと浦河です。私の4年くらい前に、向谷地生良さんというソーシャルワーカーがいました。彼が、べてるの家の活動の最初の一粒のタネを蒔いた人です。4年後に私も行って、彼の話を聞きながら、おもしろいなと思いました。私は医者、向谷地さんはソーシャルワーカー、と職種は違いますが、同じような思いを共有できた。楽しくやってきたところが、今のべてるの楽しさにもつながっているのかなあと思います。私は評判の、治せない医者ですけれども、何かが変わったことは間違いないと思っています。

囲学、管護、服祉

 30年前に、ソーシャルワーカーの向谷地さんが病院にいた当時の浦河の精神医療を、医学、看護、福祉の漢字を変え、囲学(囲う医学)、管護(管理する看護)、服祉(服従させる福祉)と表現しました。これが、当時の精神医療の実態ではなかっただろうかというのです。精神病はこうするしかないという状況だったような気がします。病院の精神科は、非常にルールや規則が多くて、それが全て、治療のためという名の下に、なされていました。私たちは普通の生活で、こんなに多くの規則の中で動いているだろうか。たばこを吸う時間や本数が決められ、外出は病院の近くで距離や場所が決められていた。外出は3日前、外泊は1週間前までに届け出る。何日前の何時までと細かく決められ、5分遅れると受付つけない。私たちの日常生活とは違った感覚の規則が、治療という名の下に、精神科では大変多かった。だから、長い間入院している人はごく自然にそれに従っていましたけれど、初めて精神科に入院した人にとってはその規則を守ること自体がぴんとこない。自分の実生活との感覚のずれみたいなものがあり、抵抗もあって、時には病院の中で、病気でなくて興奮することがある。すると、さらに薬が増え、注射され、外出が制限される。それが精神科というものだと、私たち自身が思って真剣にやってた時代があります。
 今は、当時の治療者が見たら、とってもいい加減になったとみえるくらい、入院している人たちもごく自然な形で守れるくらいのルールです。
 薬は、管理しやすい。病気の管理と同時に、人間、患者さんを管理するために必要と思われ、今と比べれば大変多かった。私たちは、農業にたとえて、農を脳みその脳に置き換えて、洒落で、低脳薬という言い方をしています。ただ薬を減らせばいい問題ではないので、それ相応の薬以外の工夫や取り組みが必要になってきます。それがあるから薬を減らすことも可能になってきます。
 べてるの家誕生以前は、お任せ医療といって、先生・病院に全てお任せし、従いますというやり方をしていました。本人はあまり悩まないように、頭を使わないようにした。悩むと病気に悪いからと、全て周りがあなたに大事なことや必要なことをやってあげるから、黙って言うとおりにしなさいというものです。私たちのところでも、昔は、「先生や看護士さんの言うとおりにしてすっかりよくなったら退院しておいで」と、ご家族は、入院している人によく言ってました。
 私たちの浦河の病院では今はこれは流行らない。周りから受け入れられません。今は、悩みを増やす治療、病気を語る治療を大切にしています。だから、病気や自分のことを語れないのは、まだ練習が足りないとか、センスがよくないと言います。副作用で口が回らないほどの薬を飲んでいる人は、だいぶセンスが悪い、医者のセンスも悪いと言われる。文句があったら、言えるくらいの状態じゃないといけない。じっと我慢したり、文句も言わないのは、自分で自分を助ける助け方としては下手だとか、まずいという考え方なんです。
 「病院では精神障害者に対する理解があるけれども、一旦外に出ると地域には偏見・差別がいっぱいある。偏見・差別があるから精神障害者は安心して暮らせないんだ」
 一般的に考えられているこの考えを、私たちも持っていないだろうかと問い返してみると、私たちも恥ずかしながらもっていました。これが私たちの偏見だと、逆に考えるようになりました。
 「偏見・差別という冷たい風が吹いてきたら、その冷たい風を暖めて返すのがべてるだ」
 冷たい風をただ嘆いたり、その行為を批判するんじゃなくて、精神障害のことを知らなければ、普通、差別するのがむしろ当たり前じゃないかと、べてるのメンバーはよく言います。「自分たちも病気になるまでは、この病気のことを知らなかったので、差別していた」、「いや、今でもしているよ。メンバーと自分を比べて、あいつよりはオレの方がちょっといいとか、すぐ比べたがる。偏見・差別なんて簡単にしてしまい、なくならない。あってもいいんだ」と言います。ただ、偏見・差別もきついのは辛い。何でもきついのは辛い。思いやりや善意も、きついのは辛いんですよ。
 私たち医療関係者や家族の立揚の人たちは、一生懸命理解しよう、助けよう、優しくしよう、としますが、これがきつい。偏見・差別と同じくらい、きつい。その辺は薄めるセンス、考え方が大事かなと思います。私も、治そう、治そうと必死だった頃は、みんなは少しもよくならなかった。
 今は、治す気満々の医者は怪しいと思っています。もちろんよくなるものはよくするけれど、ただ私が一生懸命になれば、全部が変わるわけではない。私自身の役割のわきまえ、限界を持っていないといけないと思います。私が一生懸命がんばると、患者さんも家族もみんなお願いしますと全部私にやってもらおうとします。ますます私は、神のごとく振る舞っていかなきゃいけなくなり、だんだん追いつめられます。
 助ける側に回る人たちの経験を思い出していただければ分かると思います。助けてあげよう、治してあげようと思えば思うほど、物事は泥沼の方に入っていく経験は皆さんお持ちでしょう。
 治そうとしても正直言って限度がある。私が治すよりもみんなで考えた方が、みんなでやった方がいい。「先生のおかげです」と言って退院していく人で、その後良くなっている人をあまり見たことがない。簡単に言うと、また入院してくる。このような人がどうして長持ちしないのか、ということは考えてみる必要があると思います。
 今は、私の役目は、昔から見たらうんと小さい。むしろ、べてるのメンバーの人たち、病院以外の所での助け合う割合がうーんと大きいですから、先生にだけ感謝する人は、センスが不十分というか、まだまだの人だなという評価をします。

物を言わない、苦労を奪われた人たち

 精神障害の人たちについて、いろんな側面から語られますが、昔は物言わない人たちです。黙って言うとおりにやりなさいと言われ、そのやり方にきちんと合わせてきた人たちです。治療に逆らわず、静かにしていると退院させてもらえるという中では、感じたり考えたりしない。結果として物を言うことは得なことじゃなかった。特に、何回か入退院を繰り返している人たちにとっては、余計なことは言わない方がいいことを、すぐに学習する。日本語を知っていても話せない。特に、自分のために、自分の気持ちを表現することがとても不自由な状態になってしまっていました。
 それと同時に、苦労を奪われた人です。人が人として成長し生きていくために、様々な課題と向き合う、挑戦する。挑戦し失敗してまたチャレンジする苦労のチャンスを奪われてしまう。
 病気に悪いから余計なことするなと、まるで立ち上がったら転ぶからずっと寝ていなさいと言われている人のような扱いです。大変濃い配慮をされていた。だから、べてるの合い言葉のひとつに、「自分のことは自分で言おう。ことばを、そして悩みや苦労を増やそう」があります。
 過疎がすすむ問題だらけの不景気な町で、精神障害という課題を持ちながら生きていくと、町の中の苦労に、自分たちも、病気の苦労の経験を生かして参加しようとする。町への進出です。しかも、この町を助けようという。町の人が聞いたら、気を悪くするだろうから、ちょっと言えない。障害者から助けるなんて言われると、健常者という人は傷つくことが多い。助けてあげることには慣れていますけど、助けてあげますと言われることには、むっとする。
 べてるの家は、何をするために町に進出するのか、どういう問題と取り組むのか。苦労を増やそう、悩みを増やそうということです。必要な悩みや必要な苦労は避けてはいけない、向き合うんだ、ということを大事にしました。その人の力や段階に応じてみんなで取り組む。元気がでる旗印として、「町を救おう」と、内輪の中だけで話してました。

人間関係の障害

 精神障害は関係の障害と説明されるときがあります。人間関係がうまくとれない。特に支援をする側と支援をされる側の関係です。支援する側は上の方からの指示的・指導的・管理的なコミュニケーションです。病気のために、あるいは失敗しないために、こうしなさい、こうしてはいけない、などいろいろ指示する。もちろん治療上とか、失敗しないための思いやりがいつもある。だけど、指示や指導をする方は、常にそれは正しいこと、善意だという思いがあるから、自分たちがやっていることにあまり疑問を感じない。
 そういう関係の中では、当事者は依存的になり、ことばを使わなくても全部してもらえるので、ことばを使わず、病気を使ったり、爆発的な問題行動に走ったり、間合いをコントロールしたり、依存したりということが起きてしまう。これは、危機のサイクルです。悪循環のサイクルです。

「非援助論」

 非援助とは何か。私たちは、管理することや助けるということ、治療も管理的な治療ですが、ここに疑問を持っていた。病気の人を診るよりも、自分たちのやってることって何だろうということに疑問を感じ始めました。
 30年くらい前の、当時の精神障害者、当事者は、自分たち自身がどんな悩みを抱えているか知らなかったという人が多い。自分が困っていることって何だろうと、みんなで語ろうとした。「悩み、ある?」と聞くと、「退院したいけど、行く場所がない」と言う。住む場所もないし、仕事もないし、友だちもいない。自分にとって必要なことをやっと語り始めた。
 今、べてるの社長、理事長の佐々木さんが30年ほど前、入院中に、ソーシャルワーカーと一緒に語り始めたのが、べてるの第一歩だろうと思います。当時は、一方的に関係者が援助をするわけですが、私たちはそこに疑問を持った。悩みを語る場を提供することは、ただ、してあげるんじゃなくて、本人たちが自分の問題に気づくようになる。このことも大変大事な援助だということです。
 そのコミュニケーションを抜きにして、今までは、全部提供して、「はい、用意しましたよ。だから、あなたたちはここを利用しなさい」としてきた。そこに本人たちがいるといっても、あまりに用意されすぎの状況の中では却って与えられたチャンスを生かす力もない状況でした。悩みの中で、苦労して獲得した結果と、用意されすぎた状況の中とでは、その後の結果が違うんじゃないか。私たちは、管理的な医療ではなくて、本人たちが悩みをもつことを大事にする、応援する医療ともいえます。私はあえて、それを、支援型の医療ということばを使います。本人たちは悩み、課題をもっている。病気を繰り返して再入院を繰り返している。ならば自分のやり方をもう一回考えてみるために、本人が自分の課題を研究することを応援、支援していくことも大事ではないかと思います。
 今、浦河では、当事者研究が大変盛んです。みんな自分の問題が何なのか、自分の病気はどこがポイントなのか。社会生活はしているけれど何が課題なのか。きちんと自分の問題を整理して、スライドにしてみんなの前で発表する。自分の悩みを、みんなと一緒に見る。1対1で病気に向き合うのとは違います。自分の病気、自分の失敗、自分の悩みが、大きなスクリーンで、ぱーっと写っているときの、本人の誇らしげな顔。オレの病気はあれだ、みたいな自分の問題や病気と向き合うことは、昔では全く考えられなかったことです。
 病気というのは、人に知られずにこっそりと静かに治していく、克服していくもの。その結果、何事もなかった人のような顔をして社会で暮らすというのが、最も成功した人のあり方のような気がしていました。自分の病気をぱーっとスクリーンに映すのが、今の浦河での成功したあり方です。
 統合失調症の症という文字も、病気の症じゃなくて、一等賞の賞と書いて、統合失調賞と、表彰されたような病名をつける人もいます。みんな誇らしげにみえる瞬間です。症状はひとつでも早く消さなくてはいけないという考え方ではない。この症状とかつてはこう取り組んでいたけれど、今はみんなのアドバイスを受けて、こんなやり方に変えている。その結果、前できなかったことがこんなふうにできるようになった。実にきめ細かく、自分の問題を自分でちゃんと自覚できる。
 研究をずっとすすめていくと、5年前の自分はこう考えていたけれど、5年たったらこうなったとか、みんなで客観的に見ることのできる時代になってきた。病気であることが何なのか、べてるは、長い間そういうことをやってきましたが、精神病に対する受け止め方、見られ方も、変わちてきたという感じがします。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/01/26

治せない、治さない精神科医

 北海道・浦河にある「べてるの家」。統合失調症という病気と向き合い、自分で自分を助ける取り組みの中で育まれてきた「べてるの家」の文化は、僕たちが吃音と向き合い、吃音とともに豊かに生きる歩みの中で生まれてきたものと重なります。
 「治せない、治さない精神科医」と誇らしげに自分のことをそう呼ぶ、浦河赤十字病院の精神科医・川村敏明さんの講演を紹介する「スタタリング・ナウ」2009.3.29 NO.175 の巻頭言を紹介します。

  
治せない、治さない精神科医
                    日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 「勝手に治すな自分の病気」
 「べてるに来ると病気が出る」
 「自分でつけよう自分の病名」
 これらは「べてるの家」の理念ともいえるもので、統合失調症という病気と向き合い、自分を助ける取り組みの中で、育まれてきたことばだ。「治療文化」「治す文化」を覆す考え方だと言っていい。
 北海道・浦河にある精神障害者の作業所には、「べてるな人」といわれる人たちが集まっている。その人たちを温かく見守っているのが、「治せない、治さない精神科医」と自ら誇らしげに言う浦河赤十字病院の精神科医・川村敏明さんだ。
 「病気は宝物、治りませんように」と、川村さんに七夕の短冊に書いてもらったと喜ぶ人がいる。
 このように思えるようになるには、ひとりの力では到底無理なことだ。長年病気に向き合っている先輩がいる。一緒に泣き、一緒に悩んでくれる仲間がいる。さらに浦河という地域の風土による力も大きいだろう。しかし、当事者だけで今の「べてるの家」があるのではない。ふたりの卓越した寄り添い人がいたから、「べてるの家」の今がある。私から言えば、奇跡のようなものだと思う。
 ソーシャルワーカーの向谷地生良さんと、精神科医の川村敏明さん。このコンビが、「べてるの家」の活動を生み、育て、発展させてきたのだ。二人を抜きに、「べてるの家」は語れない。
 僕が高校生のときからつきあっている青年は、ひどいいじめや吃音に対する周りの無理解によって深く傷つき、統合失調症を発症した。その青年と私は、今も家族ぐるみでつきあっている。彼に、「べてるの家」を紹介し、行くことを薦めたことがあった。母親がまず浦河に行き、その取り組みに共感し、所属する奈良の精神障害者家族会が、川村敏明医師を招いて講演会を開いた。
 「べてるの家」の活動は書物で知っていたが、スライドや3人の当事者の体験を交えての講演会は、圧倒的な力で私に迫ってきた。遠慮をしてか、笑える場面でもあまり笑わない家族の中で、私はひとり声をあげて笑っていた。
 当事者が自分の病気を研究し、ユーモアを交えて話している。病気から起こってくる様々な、本当は深刻な問題を、他人事のように話す当事者の姿が、私には何ともうれしく、楽しかった。吃音に取り組んでいる私たちの理念、姿勢に共通することがとても多かった。
 生活に大きな支障がある病気や障害で、「治るもの、治せるもの」なら、治す方向で努力するのは当然のことだ。しかし、「治らない、治せない」ものは現実には少なくない。その現実に向き合ってもなお、なんとかして治そう、治さなければならないというのが「治療文化」だ。治そうとする人たちがいて、治されようとする人たちがいて、両者がその文化を支えている。
 「治される側」の私がそれに反発し、「治す努力の否定」とまで過激に提起したのは、「治療文化」があまりにも巨大だったからだ。それからすでに35年経つというのに、「治す側」の人たちの中から、「治せない、治さない吃音の専門家」と誇らしげに公言する吃音の臨床家や研究者は未だに出ていない。とても寂しく、残念なことだ。
 文化人類学者が「べてるの家」の活動をビデオに記録し、アメリカで紹介した。「治せない、治さない精神科医」を翻訳するのが一番難しかったと言う。韓国では、家族から「治せない精神科医は許せない」と言われたそうだ。やはり、「治療文化」は根強いということだろう。
 2007年2月3日の「べてるの家」講演会で、川村医師に講演記録を「スタタリング・ナウ」で使わせていただきたいとお願いした。ご快諾いただきながら、今になってしまった。私が大笑いした当事者の話を紙面の都合で掲載できなかったのは残念なことだが、講演は収録できた。お忙しい中、ご校閲下さった川村敏明さん、素晴らしい講演会を開催して下さったあらくさ家族会に感謝します。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/01/25

「治す」という前提

 「普通」とは違うことに悩む人々、何らかの生きづらさを抱えている人々が、その状態からなんとか抜け出したいと思うのは自然なこと、「治したい、治りたい」と思うのは当然のことだと言えます。小学校2年生の秋から、吃音に悩んでいた僕が、「治したい、治りたい」と思ったのは、何の不思議なことでもありませんでした。社会にも、「治す、治せる」という前提がありました。疑問、異論をはさむ余地はなかったのです。でも、その前提によって、悩みはより深くなりました。世の中には、治らないものも少なくないからです。
 その前提を、本当にそうだろうかと立ち止まり考えることから、新しい生き方が見えてきました。
 2008年の夏、「べてるの家」の研修・見学に出かけた報告から、「スタタリング・ナウ」2008.9.22 NO.169 の巻頭言は始まっています。

  
治す」という前提
                      日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 この夏、つき合いのある精神障害者の家族会に同行させてもらい、精神障害者の作業所、北海道浦河の「べてるの家」を研修・見学をした。
 いくつかの書籍やビデオによって文字や映像では理解していたが、「治せない、治さない」実践がどのようになされているか、実際に生活する人々に、じかに出会いたかった。
 年間2500人ほどの人が、交通の便の悪い、北海道・襟裳岬の近くの浦河を訪れる。その日も、私たち家族会だけでなく、医師、医療従事者、研究者のグループが研修に来ていた。当事者の声を聞き、当事者の姿から学ぼうとするその姿勢がうらやましい。どもる当事者の声がなかなか吃音研究者・臨床家に届かないことを経験しているからだ。
 べてるの家が制作している製品を販売するショップが、浦河のメインストリートにある。まだ持っていなかった書籍もあったので買った。書籍を買った人だけにプレゼントされるという、当事者直筆のしおりがかごにいっぱい入っていた。しおりをくじのように一枚引き出した。私が手にしたしおりには、「勝手になおすな自分の病気」と書かれてあった。胸が熱くなり、何度も口ずさんだ。
 誰がどのような思いでこれ書いたのか。その人のべてるにたどり着くまでの人生、その後の人生へと、いろいろな思いが巡る。これを受け取る人の受け止め方は様々だろう。たくさんの種類のメッセージが書かれたしおりから、このしおりを私が手にしたのは、何か意味があるような気がした。
 病気や障害のある人々、いわゆる「普通」から逸脱していることに悩む人々、何らかの生きづらさを抱えている人々が、この状態からなんとか抜け出したいと思うのは自然なことだ。「治したい、治りたい」と思うのは当然のことだろう。
 治したい、変えたいと願って、実際に治るもの、変えられるものなら、そうなることがいいのは当たり前のことだ。しかし、現実の問題として治せない、治らないものは少なくない。自分の力ではどうしても変えられないものはある。その場合、治らなくても、その状況が変わらなくても、その場に踏みとどまって、自分で自分を助けながら生きていくしかない。べてるの人たちもそうだろう。
 小学2年生からの私の吃音の苦しみ、悩みは相当に深かった。生きている実感がもてないほどに、吃音にがんじがらめになった、無気力な、孤独な生活だった。その私をかろうじて支えていたのは「いつか治る」という期待だった。それだけ「治る」ことへの願いは切実で巨大だった。
 21歳の時、「治る」と宣伝する民間吃音矯正所で必死に努力したにもかかわらず、私の吃音は治らなかった。そこで私は治ることへのあきらめがつき、どもりながら生きる覚悟ができた。
 私と同じように努力したが治らなかった人々は膨大な数になる。いやほとんどの人が治らなかっただろう。しかし、「治る」ことにあきらめがつかない人は少なくない。何度もその矯正所を訪れたり、他の治療法を求めるのはそのためだ。
 世界も日本も依然として「吃音を治す」ことにこだわっている中で、私だけがなぜ「治す努力の否定」を提起し、34年まったくぶれることなく「治す前提」を取り去ろうと言い続けるのだろう。不思議な思いで改めて考えてみた。
 それは私が人一倍吃音に悩み、治すこと治ることにこだわったからではないか。そして、そのこだわりが悩みを深めたという強い認識があるからだろう。その後多くの人と一緒にした、べてるの家の言う「当事者研究」によって、どもる人の悩みの源泉は「治る・治せる」との前提を持ち続けることだと確信をもったからだろうと改めて思った。
 21歳という若さではあったけれども、私は十分すぎるほど深刻に吃音に悩み、「悩むことに飽きた」からだ。その結果、新しい方向に歩み出す決意を固めたのだ。その後、多くの人と出会い、吃音を学び、私の提案は、吃音の悩む人の一つの選択肢になり得ることを確信したのだった。
 べてるの家の存在は、「治す前提」に抵抗し続ける私への応援のような気がする。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/12/28

場の力

 2005年秋、TBSのディレクターである斉藤道雄さんが新しく始められた番組「報道の魂」、その初回に取り上げられたのが「吃音」でした。取材を通してたくさんのことを語った僕は、斉藤さんに、原稿をお願いしました。「スタタリング・ナウ」2005.11.22 NO.135 の巻頭言は、原稿を寄せてくださった斉藤さんへの僕からの返信の形をとっています。
 今、自分で読み返してみても、温かく、大きな力を得て、胸が高鳴るような喜びを感じているのが伝わってきます。斉藤さんは、今も「スタタリング・ナウ」を読んでいてくださるし、ときおり、自分の知り得た吃音の情報を知らせてくれます。バイデンが大統領選挙を戦っているときの記事を紹介してくださったのも斉藤さんです。
 人と人とのつながりの不思議さを思わずにはいられません。
 タイトルの「場の力」、吃音親子サーキャンプだけでなく、親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会にも大阪吃音教室にも、場の力を思います。人が出会い、語り、聞き、つながる、そんな場の力に支えられ、これまで僕は生きてきたのだとしみじみと感じています。

 
場の力
                    日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


斉藤道雄様
 「勝手すぎる書き方かもしれず、ご希望に添えなかったかもしれません」の前置きの後、「メッセージ」と題した力のこもった文章を一気に読みました。読み進み、涙がにじんできました。ここに私たちを深い部分で共感し、理解して下さる人がいる。大きな力強い援軍を得た、そんな気がしました。うれしい原稿ありがとうございました。
 長い時間カメラが回っていました。吃音親子サマーキャンプの2泊3日間、大阪スタタリングプロジェクトの大阪吃音教室、さらに私の自宅や大阪教育大学にまで来て下さいました。かなり大量の取材テープだったことでしょう。私もインタビューでいろんなことを話したように思います。
 取材に来られた日の大阪吃音教室は、今秋の吃音ショートコース、「笑いとユーモアの人間学」の前段階として、自分の吃音からくる失敗やかつては嫌だった体験を笑い話として笑いとばす講座でした。笑いやユーモアについて考える時間であるため、大きな笑い声に満ち満ちていました。斉藤さんに代わって取材に来られた方が、予想をしていた内容、雰囲気とは全く違うと本当に驚いておられました。編集作業が始まった頃、斉藤さんからも「どの部分を切り出しても、伊藤さんたちの笑いや明るさが際だっている。吃音に悩む人にこのまま紹介したら、どのようなことになるか、ちょっと心配もあります。でも、本当のことだし…」といったような内容のメールをいただいていました。苦労をしながらの編集作業だったと推察します。
 「報道の魂」は、私たちの明るさよりもむしろ吃音に悩む人々への思いに満ちていました。どもる人のもつ苦しみと、苦しかったからこその明るさを表現して下さっていたように思います。
 世界の日本の吃音臨床・研究の主張は依然として「吃音の治癒・改善」を目指しています。私たちの考えや実践は少しずつですが理解されるようになり、仲間も増えました。しかし、少数派であることに変わりはなく、時に大きな壁、流れに空しさを感じることもあります。そんな時、いつも私たちを励ましてくださるのは、不思議なことに言語障害の研究や臨床にあたる人々よりも、今回のように、違う領域で活動をされている方々です。
 以前、NHKの海外ドキュメンタリーで「もっと話がしたい、吃音の克服への道のり」という番組がありました。吃音が改善され、幸せになった、だから、「吃音は治る、改善できる」というような内容だったように記憶しています。今回、メディアを通し、あのような切り口で吃音が扱われたのは恐らく世界でも初めてのことではないでしょうか。「どもっていても大丈夫」「吃音に悩むことにも意味がある、悩んだからこそ今がある」という私が伝えたいことのほとんどは、あの番組の中で、私以外のどもる人や子どもたちも語っていました。本当によく切り出して下さったと感謝しています。
 「どもりは差別語か?」の問いかけに対する高校生たちの意見。話し合いをしたこともないテーマに、自分のことばで自分の意見を語る子どもたちに、本当にびっくりしました。私たちが考えている以上に子どもたちは育っていました。子どもたちのすごさに驚き、誇りに思えました。
 斉藤さんが最後に書いて下さったように、あの映像から私が一番勇気づけられました。私が主張し活動してきたことは間違いではなかった。あんなに大勢の子どもや親やどもる人たちが私に、「これまで言ってきた、そのままでいいんだよ」「あなたはひとりじゃない。大勢の仲間がいる」「あなたには、40年も継続してきた力がある」このメッセージを送ってくれたんですね。また、斉藤さんがこれまで取材されてきた、先天性四肢障害の人、ろう者、べてるの家の精神障害者と斉藤さんを通してつながることができました。私の主張は何も奇をてらったものでも、非現実なことでもなく、人がそれぞれに豊かに生きていくためのキーワードなのですね。 これからも、私たちの考えや活動を見守って下さい。ありがとうございました。出会いに感謝します。伊藤伸二

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/06/26

鴻上尚史さんとの濃密な時間 3

 今日は大晦日。2023年の最後の日です。改めて、早かったなあと思います。年々、時が経つのが早く感じられるのは、年齢を重ねてきた証拠でしょうか。残された時間が限られたものであることを自覚しながら、誠実に丁寧に日々を過ごしていきたいと思っています。
 このブログ、Twitter、Facebookなどを通じて、今年も発信を続けてきました。読んでくださった方、本当にありがとうございました。読んでくださる人を意識しながら、今後も書いていきます。新しく始まる2024年も、よろしくお願いします。
 今年最後は、鴻上尚史さんをゲストに迎えた吃音ショートコースの報告のしめくくりです。参加者の感想を紹介します。

吃音ショートコースをふりかえる
 最後のプログラム、みんなで語ろうティーチインが始まった。参加者全員がまるく輪を作ってすわる。ひとりひとりの顔がよく見える。この吃音ショートコースに参加しての体験をひとりひとりが語っていく。ひとりが語り終わったら、次の人を、「〜の時大笑いしていた○○さん」などと、名前の前に自分らしい紹介のための形容詞や副詞をつけて指名する。その形容が、今回の吃音ショートコースをふりかえることにもつながった。ああ、そんなことあったよなあ、そうそう、こんなこともしたよなあ、と場面が鮮やかによみがえってくる。あのとき言ったことばを覚えてくれていた。あのときしたことを見てくれていた。そんなひとりひとりのつながりが見えた時間ともなった。
 帰途につくマイクロバスに手を振りながら見送る。疲れてはいるけれど、満ち足りた思いである。また、来年!!

 吃音ショートコースに初めて参加されたお二人の感想をご紹介します。

  心が太って、元気になりました
         神奈川県・横須賀市立諏訪小学校ことばの教室 鈴木尚美
 吃音ショートコースの3日間は、自分でも驚くほど明るく笑顔に満ちたものでした。
 この吃音ショートコースに私が参加し、心が満たされ、ここにこのように感想を書くなどということは、その一月前まで思ってもみないことでした。
 8月に大阪で行われた『臨床家のための吃音講習会』に参加したのは、ことばの教室の担当者として、吃音の子どもたちの指導について、いろいろ迷っていたからです。講習会で講師の方々の講演や成人のどもる人の生の声を伺い、私の中の“吃音観”とでもいうものが変わっていきました。それは、戸惑いを覚えるほどの大きなものでした。けれど、それだけなら、多分、私は吃音ショートコースに参加はしていなかったと思います。
 8月のその時期、私はものすごいストレスの中で、身も心もやせ細っていました。それを処理できないままに参加したのでしたが、「Z軸へのアプローチ」の伊藤伸二さんの講義を聴いているうちに、吃音ではなく、人生とでもいう深い部分で私に響いてくる温かなものを感じました。そこで出会った伊藤さんのことばのひとつひとつは、傷ついた私を、“自分らしく生きればいいんだよ”と、温かく包んでくれるものでした。ストレスの具体的な話はしないままに、私は講義の直後に伊藤さんに話しかけていました。その時本にサインして下さった、“あなたはあなたのままでいい。あなたはひとりではない。あなたには力がある”のことばに涙がこぼれました。
 その後、伊藤さんにお手紙を書く形で、それまで目をそむけていた事柄と向き合い、自分をみつめて考え、整理することができ、ストレスから一歩踏み出すことができました。そして、そのお返事で、吃音ショートコースに誘っていただきました。“ぜひ、参加されませんか。いい人たちが集まりますよ”の一言に参加を決めた私でした。そして、翌日には、申し込みをし、新幹線の切符を取りました。
 栗東駅で、マイクロバスに乗り込んだときには、まだ緊張していた私でしたが、日赤りっとう山荘の玄関で、スタッフの方が笑顔で迎えて下さいました。その明るく温かな空気に触れたとたん、一気に緊張がほぐれて、自然に私も笑顔になりました。
 「出会いの広場」のゲームや、鴻上さんのレッスンをする中で、参加されている全員の方とことばを交わし、一緒に体を動かし、触れ合って、笑い合いました。私は、“人と人が知り合い、仲良くなるって、こういうことだなあ”と思い、“人間て、何て温かくて柔らかい存在なのだろう”と感じました。
 こんなに多くの吃音の方たちと一緒に過ごしたのは、初めてだったので、少々戸惑いもありましたが、一緒にいるうちに、自然に話しかけ、どもったのを聞いている私でした。この3日間で、吃音について、頭の知識だけでなく、皮膚を通してしみてきた感覚として理脾することができてきたように感じています。
 最終日の鴻上さんと伊藤さんの対談のとき、吃音の方からの質問に、鴻上さんが、「んー、…どうするかなあ…」と言いつつ、経験の中から、いくつもいくつも例を挙げて答えるのを見て、鴻上さんの世界の豊かさを感じ、私も、あんなふうにたくさんの選択肢をもてる人間になりたいと思いました。そして、ことばの教室に通級して来る子どもたちに、明るく、「こういうのも、どう?」(大阪弁なら“どや?”と言うのをコミュニティアワーのとき習いました)と声がかけられる先生でありたいと思いました。
 吃音ショートコースに参加した後、私のところに通級してくる吃音の子(小学5年生)と、力まずに吃音の話をすることができました。
 「○○君のように、ことばを繰り返したり、つまったりする話し方を、どもりとか吃音と言います」
 「吃音の人は、どこの国でも人口の1%いて、日本では人口が約1億人なので、約100万人います」
 このような情報を伝えました。これは、その子が知りたいと思っていたことだったようで、いつもなら絵を描いても、「先生にあげる」と持ち帰らないのに、それを書いた紙を丁寧にたたんでポケットに入れ、帰りがけにお母さんに見せていました。うれしい光景でした。
 吃音ショートコースに参加していなければ、吃音について子どもと話し合う必要性は感じても、躊躇してしまい、話をすることができなかったと思います。それが力まずにできたのは、私のためにも、通級してくる子どもたちのためにも、参加してよかったです。
 温かく優しい方々に囲まれ、ゆったりと学ぶことができた3日間で、私は心が太って、元気になりました。
 そして今、来年も参加したいなあと思っています。

  割り切れなさと共に生きる
               東京都・湘南病院精神科デイケア勤務 松平隆史
 「松平さんってどもりなんですよね〜」
 「そうだよ!!」
 吃音ショートコースから帰ってきた翌日、職場でこんなやりとりがあった。私は病院の精神科ディケアという部署で働いているが、ある若い男性患者さんから言われて私は勢いよく明るい大きな声でそう答えた。
 吃音ショートコースに参加してその勢いが余韻として残っていたこともあるが、以前の私だったらおそらく違った反応をしていたと思う。バツが悪そうにお茶を濁していたか、ちょっと卑屈に笑ってごまかしていたか…。患者さんのほうも少しビックリした様子だったが、何も考えずに思わずそういう言葉が口から出た私の方も意外だった。
 今回、私は初めて吃音ショートコースに参加した。吃音に関するグループに参加するのも全くの初めての経験だつた。それ自体も私にとっては一つの大きな変化だと思う。昨年、伊藤伸二さんの『吃音と上手につきあうための吃音相談室』の本を読み、自分のこれまでの経験や思いなどをふり返って、心の中でモヤモヤしていたものがだいぶハッキリした感じがした。また、吃音に関して正面から向き合うことを避けてきた自分がいることを再認識した。「どもっていては半人前」「他の普通の人のようになめらかに話すことのできない自分」ということを意識して劣等感を持っていたし、自分の思いをうまく他人に伝えられないもどかしさや周りの人から取り残される感じを抱いていた。何とか少しでもどもらないようにと、吃音とは「闘う」ような気持ちだったし、そういう姿勢だった。
 今回ショートコースに参加して、その明るさ、さっぱりした雰囲気が私にはとても心地よかった。また、多くの人と出会えて話が聞けたことも大きな収穫だった。本当に世の中にはいろんな人がいで、いろんな生き方があるのだと思った。私のこれまでの狭い視野では、まさか吃音の人で言語聴覚士をやっている人がいるとは思いもよらなかった。
 吃音はたしかに日々の生活の中で「不便さ」を感じることも多いが、吃音もその人の持ち味の一部であってすべてではない、表現はその人によっていろいろ違いがあっても良いのだと思えるようになってきた。人としての幅を広げ、懐を深くしてゆくこと、土壌を豊かにしてゆくことが大切なことなのだと思う。結局は、「自分は自分なりにどう生きていくのか、どのように生きていきたいのか」であり、それは吃音があってもなくてもすべての人にとって共通するテーマに行き着くのだと思う。
 以前の自分は吃音ということで縮こまる傾向があったし、今も常にその葛藤の中にいると言っても過言ではない。でも、それで縮こまってばかりではせっかくの人生もったいないし、あまり何事もない人生よりも、失敗や後悔を重ねながらもいろんな経験のある人生のほうが良いのだと、今回の吃音ショートコースに参加してその思いがより強くなってきた。
 ショートコースの2日目、伊藤さんお二人(伸二さんと照良さん)の会話のやり取りで“吃音のかけあい”(失礼!?)を見ていて、何かベテランの名人の漫才を見ているような気がした。円熟味のある、その人にしかできないかけがえのない芸とでも言うか…また、鴻上さんのお話も魅力的だった。ユーモアを忘れずに、良い意味で自分を突き放して自分のことをとらえるというのはなるほどな、と思った。
 そして、吃音を受け容れること=受容について、そんなにあっさりカンタンに受け容れられたらウソじゃないか、とも思うことがある。それは精神障害や他の障害についても言えることなのかもしれないが、それぞれの人のペースや道のりがあり、ある程度時間を費やして、いろんな経験や思いをしながらじっくりと受け容れていくものなのではないだろうか。そういった意味で、私はまだ割り切れていない。吃音ショートコースが終わって、今また日々の生活を送っているが、吃音に関してはやっぱり一筋縄には行かない。どもっている自分が恥ずかしいとも思うし、「どもりじゃなかったらなあ〜」なんて思いも正直言ってある。でも一方で、何でもかんでもどもりのせいにしていては自分自身が前に進んで行かないとも思う。
 そういった割り切れなさを抱えつつも、吃音と付き合いながら日々生きていきたい。その、イメージとしては“自分の中にいる居候”、いや“同じ寮仲間”というか“親友”“悪友”みたいな感じで自分の吃音と付き合っていければ最高なのでは、とも思う。泣いたり笑ったり、時にはケンカしたり、文句や愚痴も言い合いながら。でも、私の場合はそうなるまでにはまだまだ時間がかかりそうかなあ……若いし!?(笑)

【おまけ】精神障害の分野の本ですが、「べてるの家の『非』援助論」(浦河べてるの家、医学書院、2002年、2000円)という本はオススメです。“諦めが肝心”“昇る生き方から降りる生き方へ”“そのまんまがいいみたい”“弱さを絆に”“「超えるべき苦労」と「克服してはならない苦労」とをきちんと見極めて区別する”などなど、面白いテーマがいろいろ書かれています。よろしければご一読を。吃音に関して考える際にも、何かヒントとなるかも??
 (「スタタリング・ナウ」 2002.11.27 NO.99)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/12/31
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