伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

どもり

〈第9回静岡県親子わくわくキャンプ2010.10.30〜31〉どもりについて、みんなで語ろう 2

 昨日の続きです。解放出版社から出した『親、教師、言語聴覚士が使える 吃音ワークブック』を子どもたちと読み合わせていく時間は、盛り上がりました。ひとつひとつ読むたびに、歓声があがり、子どもたちが自分の経験を語り始めます。それに反応すると、どんどん広がります。吃音を学ぶ時間は、先生が予め本を読んでおいて、それを子どもに教えるのではなく、子どもの経験を聞きながら、一緒に学んでいく時間です。それができるのも、吃音のもつ力といえるでしょう。

<第9回静岡県親子わくわくキャンプ2010.10.30〜31>
  どもりについて、みんなで語ろう」 2


  吃音を治す方法
(『吃音ワークブック』を手渡され、それを、みんなの前の机の上に置く)
伊藤 はい、じゃあ今から、みんなに教えるよ。治すのにどんな方法があるかな。まず一つ目、〈不自然であっても極端にゆっくり話す〉。『みーなーさーんー、こーんーにーちーはー、おーはーよーごーざーいーまーすー。』こんな方法をやりたい人?
子ども はい。(一人だけ挙手)
子どもたち はははは。
伊藤 ちょっと、みんなでやってみようか。
子どもたち いやだよ。
伊藤 僕もこんな方法いややな。次は、〈語頭を長く引き延ばして発音する〉『わーたしはね、おーーかあさん』
子ども いやいやいやいや、絶対そんなんいやや。
伊藤 ときどきゆっくり言うのはいいのか。『みーなーさーんー』。
子どもたち はははは。
伊藤 食堂で、『てーんーどーんーくーだーさーいー』。
子ども 壊れてるみたい。
子ども 最初の方に言ったこと、忘れちゃうよ。
伊藤 相手が忘れるよね。それやったら、「こここコーヒー下さい」の方が、「コーヒーをーくーだーさーいー」よりいいやろ。次、いくぞ。
〈呼吸に問題があるので、呼吸練習をする〉これ言ったね。インターネットに載ってるけれど、これはダメだよ。
子ども じゃあ、何でその本に載ってるの。
伊藤 これは、これまでアメリカやヨーロッパなど世界中で、どんな治す方法が考えられてきたかということを書いている。
子ども えー、世界中、すごーい。
伊藤 次。〈舌の手術をする〉。
子どもたち えー。やだー。そんなの。(口々に)
伊藤 舌きり雀みたいに、ちょんとやれば?
子ども えー。こわーい。聞いただけで、寿命が縮む。
伊藤 〈電気ショックを与える〉
子どもたち うわーっ。えー。(大騒ぎ)
伊藤 (動作をつけながら)ダン!
子ども うわーっ。やだ。どもってる方がいい。
伊藤 次、〈催眠術をかける〉
子ども えーっ。そんなことで治るのなら、誰でもやってるよ。
伊藤 催眠術で、「あなたはどもりが治る、あなたはどもりが治る。もうどもらない、どもらない」とやるんや。
子ども そんなことやって治るのなら、みんなやってるはずだよ。
伊藤 はい次。<もう治った、もうどもらないと自分で言い聞かせる〉
子ども そんなの僕やったよ。でも効果ない。
伊藤 やったこと、あるの?
子ども やったことあるけど。効果ない。
子ども 「もうどもらない」というそのことば自体をどもってしまうから。
伊藤 「もう僕はどもらない」ということば自体にどもるわけだ。
子ども うん、どもっちゃう。
伊藤 ことばに出さなくて、自分の心の中で言ったらいい。
子ども それもやったけど、効果ない。
伊藤 〈飲み薬を飲む〉。
子どもたち えーっ。
伊藤 どもりを治す薬があって…
子ども それ、飲みたい。
子ども そんなのあったら、みんな治ってるよ。
伊藤 あったら、治ってるよね。
子ども 不思議なものだね。
子ども 人生は分からない。
伊藤 次。〈メトロノームに合わせて発音練習をする〉。
子ども 何、それ。でも、電気ショックよりましじゃん。
子ども 僕たち、人間なんだから、人間らしくどもろうよ。
伊藤 〈不安や恐れていることを恐くないとイメージトレーニングする〉。
子ども そんなん効果ないよ。
伊藤 〈断食する〉。
子ども それ、どういうこと?
伊藤 ご飯を食べないんだよ。
子ども えーっ。そんなん人生、終わるよ。
伊藤 〈おまじないやお祈りをする〉。
子ども なんだ、それ。やったけど、効果なし。
伊藤 どこでやったの?
子ども 神社で。
伊藤 神社で、「どもりが治りますように、どもりが治りますように」とお願いしたのか。
子ども 効果ない。
伊藤 それで治るなら、とっくの昔にみんな治ってるよな。
子ども うん。
伊藤 〈早ロことばの練習をする〉。
子ども 早口ことばだとどもっちゃう。何回やってもどもって言えない。
伊藤 早口ことばなんてしたらあかんで。次、〈はっきり発音をする練習する〉。
子ども まあ、ちょっとは、いいかも。
伊藤 よこやまだったら、よ・こ・や・まと言う。
子ども さっきと同じじゃん。
伊藤 〈気持ちを強くする〉精神力をきたえる。
子ども そんなことで治るのなら、みんなもう治ってるはずだよ。
伊藤 〈斉読法〉って知ってるか?
子ども 知らん。
伊藤 一緒に読んだらどもらないこと、ない?
子ども ああ、ある。
子ども 僕は、なんか効果あった。
伊藤 だから、効果があったのは、一緒に読んでくれる人がいたときで、それはずっと続かない。
子どもたち そうだ。そうだ。
子ども 僕、前、一人で朗読をすることになって、みんながリズムを合わせて、一緒に読んでくれるような感じにしたら、なんとかできた。
伊藤 そういう場面場面で一緒に読んでくれたりすることで、うまく読めることはあるけれど、それでどもりが治るということはない。
子ども そう。治らない。
伊藤 だから、これだけたくさん、アメリカでもフランスでもドイツでも、世界中で考えてきたけど、治りませんよということが言いたかった。これ、伊藤伸二の本なんやで。
子ども えっ、ほんとだ、ほんとだ。どおりで、変だと思ったんだよ。
子ども この本、家にあった。
子ども これは、世界中で考えたの。それを先生が書いたんだね。
伊藤 そう、世界中で考えたことはこれだけある。けれども、これだけ使っても全然治らなかったということが言いたいかったんや。
子ども ということは、舌の手術も本当にあったの?
伊藤 今でもやってるんだよ、アフリカで。
子ども えーっ。そんなあほな。
伊藤 電気ショックは、インドでやっているんだ。
子どもたち えーっ。
伊藤 インドの人が言ってんだけど、電気ショックでやったら、病気になったって。
子ども どもってた方がましじゃん。
子ども どもりって、癖だよ。
伊藤 どもりは、手術しても治らない。薬もない。今、どもりは癖だと言った子がいた。病気だと書いている子もいた。「よくしゃべれないとき、病気でしょと言われます」って。病気でしょと言われたとき、どうするの。
子ども 病気ではない。癖かもしれないし、違うかもしれない。
子ども 病気だったら、治るでしょ。でも、治らない病気もあるけど。
子ども うん、癌。脳卒中。
伊藤 治る病気もあるし、治らない病気もあるね。病気だという人もいるし、癖だという人もいるし、後、どんな言い方がある?
子ども 障害。アレルギー。
伊藤 アレルギー? いいねえ。
子ども よくない、よくない。
伊藤 なんで。
子ども アレルギーになったことない。
伊藤 アレルギーになったら、治らないやろ。
子ども 治らん。
子ども 僕の友だちが、アレルギー、治ったと言ってたよ。
伊藤 そうか。でも、ことばのアレルギーや。勝手に言ったらいいわけよ。病気でも、癖でも、障害と言ってもいいし。だって、僕の中にどもり菌が入って、
子ども 先生の本の中にどもり菌のこと、書いてあった。
伊藤 ははは。どもり菌が入って、僕をどもらせる。原因は全然分かっていないから、病気と言っても障害と言っても、癖でも個性、特徴でもいい。
子ども めっちゃ、多いやんか。
伊藤 これが、僕のしゃべり方の特徴や。なんか文句あるか。自分で好きなのを選べばいい。たくさんあるやろ、ええやろ。友だちが病気やと言ったら、そうや、これ、僕の病気なんやと言ったらいい。そうだよ、病気だよ。だから、からかったり、笑わないでやさしくしてくれよ、と言えばいい。これは、いいのかな。連発と難発も治せません。誰も治せません。皆さんは、これから、どもりながら生きていくのです。OK?
子どもたち (くちぐちに)OK。
子ども ノーノー。
伊藤 原因が分からん。電気ショックや舌を切るとか、いっぱいしたけど、治っていない。となると、治せないんや。治せないと分かったらどうする? 仕方がないと思わないかい? 
子ども 思う。仕方ない。
伊藤 それでもどうしても治したいと、100年も世界の吃音研究者が一生懸命やったんだけど、治せなかった。治らなかった。僕もいまだにどもっている。だから、どもりは治らないのに、治療法がないのに、治したいと言われても無理だろう。
子どもたち うん。うん。
伊藤 無理だよね。今のところまで、分かって、それでも、僕は治すという人、手を挙げて。
(誰も手を挙げない)
伊藤 いないのか。君たちは、えらい。だからもう、あきらめなさい。
子ども 将来、気楽に生きていく。
伊藤 どもっていても、落語、アナウンサー、映画俳優になったり、いっぱいおるのよ。
子ども 先生もいる。
伊藤 この本に、たくさん、どもりの有名人を書いた。ものすごい数、いるけどここに書いたのは、36人だけど。
子ども 伊藤先生も。
伊藤 僕なんか、有名人じゃないじゃん。ブルース・ウィリスって知ってるかい。
子ども あーっ。知らない、知らない。
伊藤 ダイハードっていうものすごくヒットした映画があって、ハリウッドの映画スター。その人はどもりなんだよ。
子ども えっ、マジ?
伊藤 マジだよ。それとか、みんな知らないだろうけど、マリリンモンローという女優も。
子ども そんなん、うそっ。
伊藤 マリリンモンローなんて、知ってるのか、知らないくせに、もういいかげんな反応するな。
子ども なんとなく、知ってる。
伊藤 昔の昔の人やで。
子ども そうそう。すっごく昔の人。
伊藤 それとか、首相に2人もいる。
子どもたち えっ、本当。
伊藤 日本の首相田中角栄は、子どものときからすごいどもりで、何かをしたとき、「おまえだろ!」と言われて、「…」と言えなくて、先生に殴られた。イギリスのチャーチルという首相もそう。たくさんどもりの人が、どもっていても、いろんな仕事に就いている。みんな、こういう仕事に就きたいということ、あるの?
子ども 水泳選手。
伊藤 水泳選手は、どもっていても泳げるわな。
子ども 海洋生物学者。
伊藤 すごい。学者にはなれる。学者にはどもりいっぱいいる。
子ども えっ、そうなん。
伊藤 江崎玲於奈という物理学でノーベル賞をもらった人もそう。もっとほかに何になりたい。
子ども サッカー選手。
伊藤 できるな。
子ども 車の開発チーム。
伊藤 いいね。研究者とか、開発者とか、そういう創造的な仕事に就いている人は、どもる人にいっぱいいる。僕の親しい人に桂文福という落語家がいるんだけど、どもるんやで。高座といって、お客さんがいて、落語をするところだけど、そこで、どもってる。どもりながら、落語をしている。話すことの多い仕事をしている人も多い。学校の先生にも、どもる人はいっぱいいる。どもる先生が困ることはどんなことか、分かる?
子ども 分からない。
伊藤 卒業式。
子どもたち あー。えー。
伊藤 君らも名前が言えない。卒業式のときに、言いにくい名前の子がいたときに、困るやろ。
子ども もしかして、校長先生がどもりだったら、やばい。
伊藤 校長先生でどもる人いっぱいいる。僕の親友も養護学校の校長やで。僕のところに、相談があったんだけど、どもるから、卒業式のある6年生を担当するのが嫌だった先生がいる。子どもに教えているときは、あんまりどもらないけど、卒業式のしーんとした中で、言いにくい名前の子がいる。どうしても言いにくい子がいて、どうしましょうという相談がよくある。そんな相談があったら、どうする?
子ども はー。すみませんと言う。
伊藤 名前を間違って、すみませんでは、あかんやろ。
子ども 言いにくい子は、パス。
伊藤 飛ばされたら子どもが嫌やろう。
子ども 教頭先生に任せる。
伊藤 今、いいこと言ったね。教頭先生に任せる。そういうふうにした先生が実際にいるよ。
子ども あっ、それ、便利、便利。
伊藤 みんながひょっとしたら就けないんじゃないかなと思っている仕事にたくさんの人が就いている。「合点していただけまでしょうか」。
子どもたち 合点、合点。合点、合点

  ともだちをつくる
伊藤 次、みんなから出された質問でたくさんあったのが「お友だちをたくさん作るにはどうしたらいいですか。友だちがあまりいないのだけど、どうしたらいいですか」。はい、この中で、友だちがいっぱいいる人?
子どもたち はーい。はーい。
伊藤 ああ、そう。あまりいない人は? 
子ども はい。2,3人でいい。
伊藤 あまりいないことに対して、どう思ってる?
子ども 平気。どうせ、高校に行ったりしたら、今までいた友だちも少なくなる。
伊藤 おもしろいこと言うね。どうせ別れる、か。彼が言ったように、2,3人でいいじゃん。何もたくさん友だちがいる必要はない。友だちがいなくて困っている人、手を挙げて。困っているなら、そのことを考えよう。どうしたら、友だちができるか。何かみんないいアイデアはないか?
子ども その子の好きそうな遊びをする。
子ども 友だちがいないという経験をしたことがなくて。みんなで遊んだりつき合ったりして、みんなが友だちという感じ。
伊藤 それはいいね。でも、彼が困っているから、何かいいアイデアはないかな?こうしたらいいのんじゃないというのはない?
子ども 話しかければいい。
伊藤 話しかけなきゃどうにもならんね。
子ども 一緒に帰る。
伊藤 話しかけるときに、どんなことを話しかけるんや。
子ども 挨拶。
子ども 放課後、一緒に遊ぼうとか。
伊藤 自分から声をかけないと友だちはできないな。向こうから声をかけてくれるのを待ってたらなかなかできないよな。で、声をかけるときにどもるから嫌なんだよな。
子ども だけど、どもることを分かってくれる人と友だちになったらいい。
伊藤 いいね。どもりを分かってくれる人とか、どもっても笑わない人に話しかけたらいいわけだ。笑うような、くだらない人間とはつき合わなかったらいい。みんなと友だちになろうというのは、無理だね。ちょっと難しいか、友だちにしゃべりかけるのは。今、何年生?
子ども 一年生。
伊藤 一年生か。友だちは、ひとりもいない?
子ども ひとりはいる。
伊藤 いいね。ひとりはいるって、いいね。そのお友だちとどうしているときがおもしろい?子ども 遊んでいるとき。
伊藤 その子となら、一緒に遊べるんだね。二人で遊んでいるとき、誰か来ない?
子ども 来るときもある。
伊藤 来るときもあれば、来ないときもある。二人で遊んでいたら、それでおもしろいんだね。じゃ、ひとりいるわけだ。それでもういいよね。
子ども うん、ひとりいたらいいよ。
子ども ひとりの方がいいよ。
伊藤 ひとりの方がいいと言っている人がいる。
子ども そうそう。
子ども でも、いい友だちなら、何人いても困らない。
伊藤 そりゃ、困らないよね。
子ども それはそうだね。
伊藤 みんなはどういう人間だったら、友だちになりたいと思う?
子ども どもりを分かってくれる人。
子ども どもっている人と友だちになったらいい。
伊藤 同じようにどもっている人と友だちになったらいいということやね。それは分かったけど、僕が聞きたいのは、みんながどういう人間になったら、相手が好きになってくれるかな、ということ。言ってること、分かる?自分がどういう人間だったら、相手が好きになってくれるか、友だちになってくれるか、考えたらいいね。
 1時間たったよ。もう終わりでいいかな。お友だちのことは、それでいいのかな。ひとつには、友だちはたくさん必要ない。ひとりでもふたりでもいたらそれでいい。そう考えよう。はい、終わりにします。(了)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/04/27

【当事者研究】どもりを豊かさの糧にして

 大阪吃音教室の定番講座に、「どもる人の当事者研究」があります。ひとりのどもる人にスポットを当て、僕との対話を通して、その人の人生に耳を傾けます。2010年9月、僕との対話の相手は、堤野さんでした。ことばを選びながら、真摯に答えてくれた堤野さんとの時間は、僕にとってすばらしい時間でした。今日と明日の2回に分けて、紹介します。(「スタタリング・ナウ」2011.1.22 NO.197 より)

【当事者研究】
  どもりを豊かさの糧にして

     〜堤野瑛一さんの場合〜

日時:2010/9/3
会場:應典院
担当:堤野瑛一・伊藤伸二

伊藤 31歳の若さで、自分の人生について公の場で話すのは勇気のいることです。「当事者研究」を引き受けてくれたことに感謝します。
 この5月の「東京ワークショップ」で、昔の堤野さんと同じように吃音に悩む若い音楽大学の学生に会いました。堤野さんが吃音のために大学を退学した体験を話しましたが、似たような体験なので参考になったと思います。
 この「当事者研究」の講座が、吃音に悩む人にとって、自分を考えるきっかけになればと願っています。吃音の当事者研究なので、吃音を主軸に、話題を展開しますが、他に話したいことがあれば、話して下さっても結構です。まず堤野さんから、吃音を通じて考えてきたこと、今現在考えていることを話して下さい。

堤野 僕も昔は、吃音が治らないと生きていけないと思っていました。どもりを治すか、首を吊って死ぬかの二者択一でした。今では、どもりであっても生きていけると思っていますが、でもそれは、決して何も悩まなくなったということではありません。今でもどもりでしんどい思いはしますし、逃げたいこともあるし、惨めな気持ちになることもあります。でも、結局はなんとかなっています。仕事をしてお金を得ることができ、人と関わることもできています。これから先も、少々苦しいことが起きても、その都度なんかとかしていけるだろう、絶体絶命なんてことはない、という思いがあります。

伊藤 悩みの真っ只中にいたころは、とてもそうは思えなかったと思うのですが、そう思えるようになったプロセスはどのようなものですか。

堤野 僕は高校2年生のときからどもり始めました。当初は、隠せるくらいの症状で、どもることを隠し続けていました。どもりそうになれば話すのをやめたり、言い換えたり。そして、どもりをごまかしたまま大学に進学したのですが、大学生活を送る中で、ごまかしきれなくなり、挫折し、20歳の時に、ピアノがしたくて苦労して入った芸術大学を中退しました。

伊藤 治らないと死ぬしかないとまで思い詰めたのはどうして?

堤野 どもり始めた当初は、たまたま一時的なことで、そのうち自然に治るだろうと、意外と楽観的でした。でも、いつまでたっても治る兆しはなく、不安を抱えながら大学に入学したのですが、不安は的中しました。ある授業の自己紹介のとき、名前が出ませんでした。それが僕にとって、初めて人前でどもった経験でした。そして、周りからは笑い声やヒソヒソ声が聞こえてきて、耐えられないほどの恥辱を味わいました。
 そのことが本当にショックで、人前でどもることなど耐えられない、絶対にどもりを治したいと思いました。そして、どもる不安から、話すことが必要な場面を避けるようになりました。
 大学では担任の先生がいるわけではなく、事務手続きなども全部自分で事務局に行ってしなければならないのに、それもなかなかできなかった。大学生活でさえこんな状態なのに、将来、社会人としてやっていけるはずがないと思ったのです。

伊藤 自己紹介でどもったときのことを、もう少し詳しく聞かせて下さい。

堤野 ピアノの「演奏研究」という生徒数10人ほどの小規模な授業でした。初回の授業では自己紹介があると予想して、ずる休みをし、二回目のときに初受講しに行ったら、「君は先週休んだから」と、一人自己紹介を求められました。みんなが僕に注目しています。そこで、30秒くらい、声が出ずに力んでいたら、みんなは顔を見合わせ、ヒソヒソ声で笑い合っている感じでした。
 力んだすえ、やっとのことで名前が言えましたが、先生から、「もう少ししゃべってよ。好きな作曲家は?」と質問を受けました。好きな作曲家の名前がたくさん浮かぶのですが、どもって言葉にできずに、「いえ、特に…」とごまかしました。
 これは大変な屈辱でした。音楽が大好きでわざわざ芸大に勉強しにきているのに、好きな作曲家がいないわけがないし、音楽に対しても作曲家に対しても僕には溢れる思い入れがあり、それをぜひとも話したい。それなのに、声が出ずに不本意にごまかしました。「特に…」だなんて、周りからも変なやつと思われたに違いないと思ったし、一刻も早くその場から立ち去りたいと思いました。
 それ以来、その授業には出なくなりました。でも、それは必修科目なので、出なければ卒業できません。そこで、1年間休学をして、どもりを治すことに専念しようと思いました。

伊藤 大阪吃音教室には、大阪市立総合医療センターの言語聴覚士と一緒に参加しましたね。その時のことを僕はよく覚えていますが、総合医療センターに行ったのは、その頃ですか?

堤野 そのあたりの記憶は曖昧なのですが、医療センターには、大学入学の前後から通っていたと思います。初めて吃音教室に来たのが、大学休学後すぐであったことは覚えています。医療センターのセラピストからは、「どもりは治らない」と聞かされていたのですが、僕はどうしても納得できませんでした。どうにかすれば治るはずだ、と。

伊藤 「治るはずだ」と思った理由は?

堤野 僕は多くの人と違い、幼少からではなく、大きくなってからどもり始めた、ということが大きかった。子どもの頃からの吃音と自分の吃音は違うと思ったのです。ついこの間まで全然どもらなかったのだから、またもとに戻るはずだと。

伊藤 初めて吃音教室に来たときの感想は?

堤野 正直言って、ものすごく気分が悪くなりました。そのとき初めて、自分以外のどもる人を見たのですが、その姿を見るのには耐えがたいものがありました。どもっている人の姿が、醜く、無様に見え、自分も周りからはそう見えるのだと思いました。それに、どもりは辛いに決まっているのに、みんなの、「どもっても大丈夫」「どもっても前向きに生きていける」という趣旨の発言が飛び交うのを聞いて、「欺瞞だ」「無理にそう思い込もうとしているだけだ」と思いました。ただ慰め合っているだけの場だと思いました。

伊藤 「どもっても大丈夫」だなんて、普段の大阪吃音教室でそんな発言が飛び交うことはまったくないと思うけれど、そう感じたのかな。

堤野 今思えば、それはたまたまの文脈に応じての発言で、それほど全面的に強調されてはいなかったかもしれません。でも、そのときの僕には、そういったニュアンスの発言が刺激的すぎたので、拡大視されて印象に残っているのだと思います。

伊藤 吃音教室が、どもりを治そうとしているところではないと知っていたのに、来た理由は?

堤野 言語聴覚士の先生が強く勧め、一緒に行くというので、しぶしぶです。そこに足を踏み入れることは、自分をどもる人間だと認めてしまうことだと思ったし、本当は来たくありませんでした。
 一度きりの参加で、「ここにはもう二度と来ない」「絶対にどもりを治してやる」と決めました。僕には、何かをやると決めたら絶対に努力は惜しまない自信がありました。ピアノで大学を受験すると決めたときもそうでした。受験を決めるのが遅く、周りからも「今からでは合格は無理」と言われていたのに、僕は人一倍努力して合格しました。当時の僕は、努力して出来ないことなどないと思っていました。

伊藤 治すために、具体的にどんなことを?

堤野 家では毎日、本の朗読をしたり、いろいろな発声練習をしていました。そういった自主訓練と並行して、最初は、鍼に半年くらい通いました。そこの鍼は普通の刺す鍼ではなくて、「気」の力を利用した不思議な鍼だったのですが、「病院ではどうしようもなくなった人が行くところ」と聞いたので、どもりも治るかもしれないと思いました。
 そういった治療にかかる費用は高額なのですが、自分では払えないので親に出してもらっていました。決して快く出してくれていたわけではなく、「お前はほんまに金喰い虫や」などと言われ続け、苦い思いをしながらの治療でした。「どもりさえ治れば、働いて返すから」と言い続けていました。
 でも結局は、全然治りませんでした。期待が大きかった分、裏切られたとの思いが強かった。
 べつの鍼灸院にもいくつか通い、新大阪にあるキリスト教系の整体(宗教法人十字式健康普及会)にも通いました。そこでは、西洋医学では手に負えなくなった癌の症状でも改善した人がいると聞いたので、どもりも治るかもと思いました。
 吹田にある催眠療法にも通いました。そこにはかなり期待して行ったのですが、一向に治る気配はなく、高額なこともあり、ある程度のところで見切りをつけてやめました。今度こそ今度こそと思っていろいろなところに通い、どれも最低半年は続けて通ったのですが、どれも駄目でした。

伊藤 堤野さんがいろいろなところをさまよい歩いたのは、結局どのくらいの期間でしたか?

堤野 3年か4年くらいです。でも最終的にはあきらめました。最後に通ったのが新大阪の十字式で、そこをあきらめるころには、どもりは治療して治るものではないと、確信にいたるほどでした。

伊藤 不思議に思うのですが、それだけさまざまなところを渡り歩いていながら、鍼灸とか、僕が腰痛で行ったことのある十字式健康とかで、どもりを治すことを専門にしている吃音矯正所に行かなかったのはなぜですか?

堤野 吃音矯正所でする大体の内容は、スピーチセラピストの先生から聞いていました。発声練習とか、注意転換法を利用した練習とか、ゆっくり話す練習、腹式の練習など、要するに発話に直接アプローチする訓練です。それならわざわざ高額なお金を払って通わなくても、家で自分でできると考えていたのです。だから、家では出来ない鍼や整体、催眠などに通いながら、自宅では吃音矯正所でやるような言語訓練をしていました。

伊藤 治るという根拠もないのに、どうしてそんなところに通ったの?

堤野 どうしても治したいとの思いが断ち切れず、藁にもすがる思いだったんです。

伊藤 治療をあきらめたときの気持ちは、どんなふうでしたか?

堤野 あるときピタッとあきらめたわけではありません。どんな治療も効かない経験を重ねて、数年かかって、徐々に徐々に、あきらめの気持ちが広がっていきました。
 それに、治療に通う傍ら、人との関わりの中で、いろいろと気持ちに変化が起きました。たとえば、知り合いの劇団に音楽スタッフとして参加していた時期があったのですが、そんな人との関わりの中で、気を許せる人には、吃音のことを打ち明けていきました。そんな相手の前では、いつしか隠さずにどもってでも話すようになっていったのですが、どもるからといって人は僕を決して軽く見ることはないし、それどころか、どもっていても、自分を必要としてくれることがわかったし、相変わらず仕事も依頼してくれる。
 そういう経験を重ねるにつれて、どもりのままでも、社会人として仕事もしていけるかもしれないと思うようになっていきました。それに、治すことに固執することに疲れ果ててきたことも相まって、どもりが治ってから社会に出ていこう、という考えから、どもったままで社会に出ていこう、という考えに変わっていきました。

伊藤 そこで数年のブランクを経て、二度と行かないと決めた大阪吃音教室に再び行こうと思ったきっかけは?

堤野 そんなころ、ふと吃音教室のことを思い出していたんです。一度は「気分が悪い」「自分の行くところではない」と一蹴したはずなのに、「あそこには仲間がいる」と思うようになっていたのです。どもったまま生きていこうと思い始めてはいたし、少しずつ勇気も出てきていたのですが、でも、独りでは心細い、仲間がほしいと思いました。自分以外のどもる人が集まる場に行けば、今度は昔とは全然違った光景が開ける予感がしました。

伊藤 再び行こうと思ったとき、勇気がいったのではないですか? あいつ、前に一度だけ来たやつだ、なんて思われるかもしれないし。

堤野 そうですね。もう一度行ってみたいと思い始めてから実際に行くまでに、何ヶ月かかかりました。でも、たぶん誰も僕のことを覚えてはいないだろうと思っていました。

伊藤 数年ぶりの吃音教室はどんな感じだった?

堤野 戦友に会えたようで、嬉しかった。昔のように、他人のどもる姿も「醜い」なんて全然思いませんでした。みんな、ただどもっているだけで、全然普通じゃないかと。それに、昔は「どもり」ということばを聞くだけでも耳を塞ぎたいほどの気持ちだったのに、どもりのことを冗談にして笑えるまでに自分が変化していたことも体感し、驚きでした。人は変わるんだなと思いました。

伊藤 最初と、数年を経て二度目に来たときとで、みんなの見え方が全然違ったということですが、心境に、どういう違いがあったんですか?

堤野 初めて来たときは、僕は自分のどもりを認めることができずに、それを見るのがとても嫌で、蓋をしたかった。他人のどもる姿を見ることは、自分の見たくない恥部を強制的に見せられているようで、とても不快で惨めだったのです。でも、二度目に来たときには、僕はすでに、いろいろなことを通じて自分のどもりを見つめ、向き合うことを経験してきているので、他人のどもる姿を見ても平気でした。どもりに対して免疫、耐性が出来たというか。いつの間にか、僕は自分がどもりであることを認めたのです。

伊藤 堤野さんは、吃音以前に、チック症がありましたね。そのことで、親に「治せ」と言われ続けて、辛い思いをしてきたと話されていましたが。

堤野 はい、四六時中言われ続けていましたし、殴られもしましたし、延々と監視されているような状態で、しんどかったです。

伊藤 ご両親は、治るものと思っていたの?

堤野 僕がいくら、注意されたり治そうと思って治るものではないと言っても、「治す気がないからや!」と怒鳴られました。僕は、医学的な情報に頼らずとも、自分の状態だから、自分の意志でコントロールしきれるものではないということを分かっていたし、親にも分かってほしかった。でも、いくら説明しても駄目でした。親からすれば、しょせん「子どもの言うこと」だったのです。僕の両親は決して僕を対等には見ませんでした。

伊藤 そういったチックによる否定体験と、どもり始めたときに大学を辞めるほどの否定的行動をとったこととは、関係があると思いますか?

堤野 分からないけれど、チック体験が自己否定を助長したことはあると思います。今でこそ僕はだいぶん自己肯定的ですが、昔の僕は劣等感の塊でした。実は今でも、僕は写真を撮られるのが嫌いだし、今日の例会のように、みんなが自分の方を向いて座っているのも、苦手です。人からの注目が嫌いなのです。

伊藤 自分ではハンサムだと思っていないの?

堤野 人から言われるので、平均以上なのだろうとは思っています。でも、チックの症状が人目に触れたり写真におさまることが嫌なのです。

伊藤 現在のチックの症状は、これまでと比べてどうなの? 吃音との相関関係はありますか?

堤野 一番ひどかったころに比べれば、今はだいぶ軽い状態ですが、なくなりはしません。吃音との関係は、自覚的には、ほとんどありません。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/04/21

どもりはどこへ〜チャールズ・ヴァン・ライパーからのメッセージ〜

 チャールズ・ヴァン・ライパーの特集を掲載しています。今日は、チャールズ・ヴァン・ライパーから僕たちに届けられたメッセージを紹介します。1930年代から順に、吃音へのアプローチについてまとめてくれています。歴史は繰り返されるのだなあと改めて思います。
 アメリカ言語病理学があくまでも「どもること」にこだわってきたのがよくわかります。
 1930年から2025年の現在まで、アメリカ言語病理学者の中では、僕の提案する「吃音を治す努力の否定」をし、「吃音と共に豊かに生きる」に徹底する研究者が一人も出てこなかったことに、とても不思議な感慨を覚えます。50年以上前から提案してきた僕の考えは、吃音の領域ではまだ受け入れられていませんが、精神医療、臨床心理学、特別支援教育などの分野では、常識のようになっていることが、僕に勇気を与えてくれます。自分の信じた道を歩んできてよかったと思えるのです。

どもりはどこへ
     チャールズ・ヴァン・ライパー  ウェスタンミシガン大学教授(言語病理学)


◇これまでの歩み◇

 長い間、私たちはどもりの森をさまよってきました。歩き疲れた私たちは切り株に腰をかけ一休みする必要があるのではないでしょうか。
 私たちは、結局は、同じ道をぐるぐるまわってきただけなのでしょうか?
 古くからあるこのやっかいな問題の解決に向かって、本当に前進しているのでしょうか?
 今は亡き多くの探険家がこの森に足を踏み入れたことは、かすかについている足跡を見つけ、直接その道をたどってみて知ることができます。
 どこまでも続く果てしない道に、道標をつけようとしたり、新しい道を自らの手で切り開こうとしている友人が、今もなお森の中にいることも周知の事実です。
 先人が道に迷ったのでしょうか?
 私たちが勝手に道に迷ったのでしょうか?
 この森に入る人、みんなが迷うのでしょうか?
 私たちは今、どこにいるのでしょうか?
 ここからどの道に抜けるのでしょうか?

吃音矯正所の盛衰

 「インディアンは迷わない。小屋そのものが迷った」
 この北米の森に伝わる古いことわざは、ことの外、意味深長です。歩き始めた地点と通った道が発見でき、その道をそのままたどっていけば、道に迷うことはないのでしょうに。
 私と一緒に、これまでの道のりをふり返ってみましょう。
 私は、1905年に生まれ、1906年からずっと、時には軽くなったり、重くなったりしながらもどもり続けてきました。この間に、社会のどもりについての理解は、ずいぶん深まりました。
 私の子どもの頃には、吃音は汚ならしい悪癖、また、自らの手で抑えられない言語性てんかんともみられました。更に、「真似をするとうつる」が一般的認識で、どもる人には社会的制裁が加えられたのでした。どもる子をみつけると、通りすがりの人はやめさせようとしたくなりますし、近所の人は、自分の子どもと遊ばせないようにします。学校や遊び場では、からかわれ、いじめられます。まわりがこのような態度だから、父親は、息子がどもることを許さず、どもるたびに注意し、母親は「早く治ってほしい」と神に祈りました。
 これら昔の名残りは、少しは残っているかもしれませんが、以前と比べ大きく変わってきました。社会では現在、吃音を解決しうる問題としで考える傾向があり、スピーチ・セラピストという新しい職種がその解決の責任を持たされています。
 20世紀の初期には、どもる人が受けられる援助は、金もうけ主義の吃音矯正所か、ジプシーのように渡り歩き、どもる人をカモにする吃音巡回矯正師ぐらいでした。この治療は、決まって短期間に集中して行われ、吃音矯正所の宿舎で2〜3ヶ月隔離されて生活し、又吃音巡回矯正師のバラックで一週間ほど、自信を取り戻すことや、どもらずに話すための訓練に明け暮れました。
 大きく息を吸っての呼吸練習や、大声の発声練習や、メトロノームに合わせてゆっくり話す練習がほとんどでした。矯正師は、常にリラックスしろと要求しました。はじめは一斉に、次は一人で、自分でスピードをコントロールしながらゆっくりと、正確に話すことを教えられました。どの練習もほとんど催眠と同じように、強い暗示がかけられた状態で行われていました。
 練習の中でどもった時には、罰が与えられ、どもらない時には、ほめられるのが、練習中のルールでした。食物やお菓子を得る券や、いろいろな不愉快なことから逃れられる特典が与えられました。
 反対にできない場合には、食物やお菓子をもらえないどころか、いろいろな不愉快な罰を与えられたのでした。全くどもらないようにするのが、その目標だったのです。
 かたくなまでのこの厳しいプログラムの影響と、これまでの環境と全く隔離させてしまうことによって、ほとんどの人は一時的ではあるにせよ全くどもらなくなりました。しかし、そのほとんどが逆もどり現象で、すぐ再びどもり始めたのです。
 1913年にブルーメルがこれら吃音矯正所の治療プログラムに批判的な検討を加え、それらが失敗していることを明らかにしました。
 その本が出された後、多くの吃音矯正所や吃音巡回矯正師は姿を消し始め、1930年までには、それらのほとんどは廃業しました。

言語病理学が生まれた初期の時代
 専門職としての言語病理学は、1930年代に生まれました。初期の研究のほとんどは、大学で行われました。研究対象のどもる人を得るために、大学は臨床サービスとして、多くのスピーチ・クリニックが大学の中に作られました。
 この頃の研究は、吃音の症状やどもることによって起こる様々な心理的葛藤などを克明に書き表すことに集中しました。しかし、それと同時に、吃音の原因についての追求も進められました。
 その中から、どもりの本質や原因について多くの理論が打ち立てられました。しかし、その理論にいろいろな角度から検計を加えると、その多くは姿を消さざるを得なくなりました。トラビスの大脳半球優位説もそのひとつにすぎません。
 各年代ごとにどのような理論が出されたか、見てみましょう。

1930年代
 1930年代は、熱烈な弟子を持ったそれぞれの学派が、互いの正当性を主張し、他を批難する理論闘争が特徴でした。精神衛生に対する関心の高まりの中で、精神医学者のひとつの学派が生まれ、その学派は、吃音は本来神経症であるとし、心理療法に深く根ざした療法を主張しました。
 吃音は、けいれん性の神経運動動の機能障害であるとする考え方は、大脳半球優位説だけでなく、ウエストが広めた、小児てんかんの概念の中や、アイゼンソンの固執性理論(吃音者は運動おび感覚を保持する体質的傾向が強く、どもっている時のつっかえ、くり返し、ひきのばしは、そのあらわれ)の中にも見られました。
 これらに反対し、吃音は単に学習された行動であるとする考え方が新たに出されました。ダロッブは、好ましくない癖をなくす場合、故意にその癖を出すことによって、克服できる運動習慣とみなし、意識に出ていたものを自分の意志でコントロールできるようにするという、逆式療法で克服できる単なる運動習慣とみなしました。
 ブルーメルは、パブロフの唱える条件づけによって除去できる言語のひずみだと考えました。
 ウェンデル・ジョンソンは、コーゾブスキーを始めとする一般的意味論の影響を受け、幼児期には誰しもが持つ正常なことばの非流暢性やひきのばしを「どもり」だと誤って認識するところからどもりが始まるという理論を打ち立てました。
 ヴァン・ライパーは、これらの理論の悪いところは捨て、よい面を取り出し、ひとつの理論を作ろうとしましたが、残念なことに失敗しました。
 ふり返ると、1930年代が主に貢献したことは、吃音をひとつの取り組まねばならない問題として、多くの人々に関心を持たせたことでしょう。
 激しい論争や議論のくり返しの中から、広範な調査、近接の専門領域のパイオニアの多くの種類の治療経験から私たちの社会の、吃音に対する見方がずいぶん変わりました。吃音は恥ずかしい、ものではなく、挑戦する価値のある対象となったのです。

1940年代
 どもる人が治療を受けられるスピーチ・クリニックや治療機関が驚く程増え、公立学校で援助を受けることができるようになりました。この年代の最も有力な理論は、ウェンデル・ジョンソンの意味論でした。過大に評価できないにせよ、よい影響を与えたことは事実です。幼児期の正常なことばの乱れを、親やまわりが異常だと意味づけることから吃音が始まると考えたことは、吃音に対する社会の基本的なとらえ方、これまでの慣習を著しく変えました。吃音は決して罰せられるべきものではなく、親がもっとことばに対して寛容になり、子どもをもっと理解しなければならないことを主張しました。
 『どもる人は、どもることを避けたり、うまく話そうともがいたり、恐れたり恥ずかしがったりすることはありません。もし、吃音者がどもってうまくしゃべれなかったら、はずみをつけて私たちみんながよくするように、気楽に力まないでおおっぴらにどもってみせるべきです。どもる人は正常なのです。決して異常ではありません。異常なのはどもる人が話すときにする正常なことばのつっかえを異常とする社会の評価なのです』
 ジョンソンは、大変説得力のある人だったので、吃音を予防しただけでなく、多くのどもる人をずいぶん楽にしました。
 しかしながら、1940年代の吃音治療法の主力をなしたのは、どもる人をリラックスさせて行う治療法でした。ヤコブソンの実験に刺激された我が国のギフォード、ハーン、そして英国のフォガティーによって、どもる人の多くは、深くリラックスの状態に入る訓練を受け、リラックスしている間にはどもらずに話せることを教えました。そのようなリラックスの状態に入るためには強い暗示が使われたのです。さすがに、かって吃音矯正所がしていた呼吸練習はしなかったのですが、ためいきをついたような状態の中で、力まずに発声することを教えました。更に、これらの練習は、精神的に強くなることや、社会に適応していく練習と合わせて行われました。
 40年代には、又、学習理論に基づく対症療法も始められました。異常とみられるどもり行動に対してまわりの人が寛大になり、どもる人がどもることによってフラストレーションを起こさないよう、どもってもなめらかに話そうとするように、という姿勢を作ろうと努めたのでした。
 どもる人は、自分の吃音をおおっぴらにすることや、これまでのどもるまいとして避けたり、かえって余分にどもったりしたことをやめるか、あったとしてもそれを軽減するように教えられました。
 ヴァン・ライパーらによって提起されたこの療法は、どもる人の場面に対する恐れや、語に対する恐れを和らげ、コミュニケーションにおけるフラストレーションに耐える力をつけるのに役立ちました。それは、個人に集中して行われたり、グループで、自宅で一人で行ったりしました。話すことを課題にしているので作業療法と考えられがちですが、心理療法的要素も含まれていたのです。

1950年代
 今は治療場面から姿を消したリラクゼーションに重点が分かれていたことは別にして、1950年代は、旧来の治療や病因論が検計され、選別され、更に発展しようとする時代でした。その時代にあって、ジョンソンとヴァン・ライパーの治療法が最もその傾向が強く、双方ともに、その初期の主張からかなり変化、発展してきているのです。
 私たち言語障害に関わる専門職が、吃音だけでなく、他の全てのコミュニケーションの障害に立ち向かい始めるにつれて、又、言語病理学の領域が発達してくるにつれて、吃音の問題にはかつてのような関心が払われなくなってきました。サイバネティックスに於けるウイナーの研究、リーとブラックによる聴覚的遅延フィードバックの研究によって、どもらない人にも吃音に似た非流暢性を作り出せることが発見され、これがこの年代に新しいアプローチの方向を示したのです。これらの研究は、吃音研究の重要かつ基本的な調査研究へと結びついていきました。例えば、ストロムスタは吃音者の聴覚フィードバック機構が、どもらない人よりもこわれやすいことを発表しました。

1960年代
 吃音に対する関心が再び起こり、研究活動は活発になり、新しい理論的解釈が試みられました。
 新しい理論的解釈とは、様々な吃音行動が古典的もしくはオペラント条件づけでどう理由づけられるかということでした。又、恐怖症、神経症についてのウォルビーとアイゼンクの研究の影響を受けて、系統的脱感作と逆制止の原理が吃音の治療に取り入れられました。それに伴って、リラクゼーションや罰が、今度は全く別の理論のもとに再び取り入れられるようになりました。
 その他昔からある多くの治療法が装いを変えて取り上げられました。話す時にテンポを取るいろいろなタイプの装置が新しい治療対象に使われ始めました。電気メトロノームやパーセブトスコープやどもった語に反響のタイミングを合わせる聴覚遅延フィードバックの装置などがありました。
 長い間取り上げられなかった数々の技法が昔からある吃音の問題に対する新しい解決法として再び取り上げられました。とても長続きするとは思えないのですが、話す速度を落としたり、一斉に朗読したり話したりする技法が、どもらないようにするために再び使われ始めたのでした。
 また、どもらない時には賞賛が、どもった時には罰が与えられるやり方が再び頭をもたげてきたのです。

ジョンソンの意味論
 この10年間「幼児期なら誰しもある話しことばの非流暢性を吃音と診断するところから吃音は始まる」とするジョンソンの意味論は、ウィンゲイトらの強い批判にあい、1960年代が終わるまでに、ジョンソンのこの領域における優位な立場は、行動変容論者にとって代わられました。
 この時代を特徴づけるとすると、学習理論を吃音にも導入したことでしょう。運が悪かったのでしょうが、認識論の立場に立つ学習理論家たちの果たした役割は無視され、古典的な条件づけ、オペラント条件づけが脚光を浴びました。
 また、カール・ロジャースの非指示カウンセリングや精神分析などの吃音に対する心理療法的アプローチは関心を持たれなくなり、それを受けつぐ人もいなくなりました。学習理論ということばでは説明しなかったものの、私のアプローチはその考えに近かったので、初期は、影響を受けずに済みましたが、表面的にとらえる人は、私のアプローチに、伝統的な療法とレッテルを貼ったのです。
 私個人の偏見と見られても仕方がないのですが、以上が私たちのたどってきた道なのです。
 どうやらまっすぐな道はなかったようです。かつて有望とされた多くの道も、たどっていくと袋小路につきあたったり、歩み始めると足跡が消えかかっていて、同じ道をぐるぐる回らざるを得なかった道もあります。引き返した時もありました。
 私たちは、本当に遠くまで来たのでしょうか?
 私たちは、またどもりの森の中でさまよっているのでしょうか?
 確かに多くのどもる人や治療家は、まだ森の中でさまよっていると思っているのです。

◇どもりの現状◇

 ここで一休みして、今私たちがどのような状態でどもりの森の中にいるのか考えてみましょう。
 まず言えることは、私たちがさまよい込んだ森の中の茂みには、たくさんのトゲがあることです。

表面的な治療
 現在、公立学校では表面的な吃音治療しか行われていません。担当者一人が扱うケースが多くて、十分な治療ができないのでしょうが、もっと大きな理由は、臨床家が適切な訓練と十分な臨床経験を積んでいないからでしょう。現在の制度では、大学院の修士程度で臨床家を養成せざるを得ません。修士課程では、吃音だけでなく各々の障害について数多くの年令別グループにわたった必須実習があるので授業時間はかなりつまっています。治療家のたまごである学生が、多くのどもる人に有効な治療をしたいと思っても、それに必要な能力を身につけることは極めて難しいのです。学生たちは、吃音について書かれた書物を読んだり、講義を聴きますが、吃音の治療上の困難な問題にぶつかった時、それに対処できるだけの十分な経験はほとんどつんでいないのです。
 その結果、表面的な、名ばかりの治療しか受けてこなかった多くの青年あるいは、成人は、吃音に打ち克とうとする望みをすっかり失い、更にはそれ以後、治療を受ける機会があっても、かたくなに拒否してしまいます。これは嘆かわしいことです。なぜなら、吃音の本質についてまだ明らかにされていないことは多く、また、こうすれば治るという治療法が確立されていない現状の中でもある人にとっては、有効な治療が全くないとは言えないからです。実際完全に治らなくても楽にどもるよう手助けする方法は分っているのに、それすら体得している臨床家はほとんどいないのです。
 ソ連をはじめとする鉄のカーテンでおおわれた国の臨床家達による早期教育は、高い成功率を誇っています。どもりは早期教育が大切であると言われながら、悲しいかなわが国では、吃音児やその親が、早期教育を受ける機会は之しいようです。

早期に手がけてない
 どんな手だてを打っても、それが吃音の問題を更に悪化させるかもしれないという危惧が、臨床家にはあり初期の吃音治療には気のりがしないのです。ジョンソンの意味論の立場をとるマイナス点はここにあります。臨床家は、子どもがひんぱんにどもり、将来に大きな影響を及ぼすと予想できても、吃音と診断したり、どもりということばを使うことさえも嫌います。固定し吃音に進展していく危険性は高いにもかかわらず、鑑別診断する能力を持ち、それを進んで行う臨床家はほとんどいません。
 子どもがどもることにフラストレーションを起こしたり、罪悪感を持つなど二次性の吃音の様相を呈し始めているのに、親や臨床家は何も問題がないかのようにふるまい、心の中ではどもりが消えればよいのにと思い続けるのです。

子どものどもりの研究を
 どもりについて莫大な量の研究がなされているにもかかわらず、初期の研究の大部分は、今一度やり直すか、計画をたて直してしなければ、それに基づく独自の理論や治療法を打ちたてることはできません。どもりの進展についての縦断的な研究は特に必要です。
 私たちの研究の対象のほとんどが、大学生以上の成人であり、子どもが研究対象になることはほとんどなく、基本的な研究は行われてこなかったのです。完全に固定してしまった成人の大きな顔をジロジロ見るのはやめ、吃音の進展過程について、神経学上の現象について、もっと子どもの頃からの研究を進めなければならないのです。

明るい見直し
 その反面、将来ほんとうの進歩が期待でき、私たちを元気づけてくれる明るい見通しもたくさんあります。多くの人に共通して有効な治療のプログラムのモデル作りが計画されてきていますし、研究者や臨床家が、吃音が改善した、治癒したと半信半疑ながら主張する時に使う基準は、あいまいな点が多かったのは事実ですが、単に主張するだけではなく、理論や治療プログラムが検討されようとしているのもひとつの進歩と言えそうです。また、臨床家を養成する立場にある大学では、徐々に、そのカリキュラムを改訂し、その内容を向上させる努力が続けられています。

木に登ろう
 こんなわけで、行くてははるかに遠いのですが、どっちの方向に進んでいったらよいか、その光明を見い出すことはできるのです。将来に夢を託し、未来が約束された道を探すために、乱暴な憶測と言われても、一度高い木にあえて登ってみようではありませんか。歴史的な事実が流れている暗い川を向こうみずにも私たちは渡ってきたのです。
 もっと自由に空想をめぐらしてもいいのではないでしょうか。(了)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/03/25

講談に賭けた人生

 昨日、遠く宮城県から、インタビューをしたいと、僕を訪ねてこられた方がいました。言友会創立の頃の話も出ました。
 どもる人のセルフヘルプグループ言友会の原点は、田辺一鶴さんが開いた「どもり講談教室」だったと言ってもいいくらいです。田辺一鶴、丹野裕文、伊藤伸二の一癖も二癖もある、ある意味変わった3人が出会ったこと、そして何よりあの時代が、言友会の設立につながったのだと思います。
田辺一鶴 新聞と写真_0001  新 今日は、昨日につづいて、田辺一鶴さんを特集した記事を紹介します。『吃音者宣言』(伊藤伸二編著 1976年 たいまつ社)より、「講談に賭けた人生」と題する、田辺一鶴さんの人生を紹介します。
 後半に、一鶴さんは、こんなふうに語っています。
 「私は自分の体験から、吃音者にどもってでもやりたいと思うことは、どんどん実行したらいいと言いたいのです。どもって恥をかくのがいやさに行動できない人がいますが、本当はどもるのが恥ではなくて、行動できないことの方が恥ずかしいことなのです。勇気がいることかもしれませんが、頑張らなければなりません」
 まさにそのように生きてきた大先輩の一鶴さんのことばを、噛みしめています。

  
講談に賭けた人生           
                          田辺一鶴

◆どもりを治したくて

 今日、私が芸能界にいますのは、講談をすることによって私のどもりを治そうとしたのが、そもそものきっかけでした。
 講談は、リズムに特徴がありますが、テンポはかなり日常生活に近いものです。それで、講談をもっと掘り下げて研究していけば、どもりを治す何かがあるかもしれないと思ったのです。
 特に講談の中の「修羅場」では、かなりひどいどもりの私でも、非常になめらかに語れます。そこで、私は多くのどもりの人を集めてみんなで経験を出し合いながら、どもりを治す研究をして行くために「どもり講談教室」を開くことにしたのです。
 その頃、売れていなかった私は「当分この教室の運営に集中してみよう」と思いました。幸い本牧亭は午前中空いていましたので、場所の心配はいりません。新聞社に講談教室を開くいきさつを話し、記事としてとりあげてもらいました。開校日には大勢の吃音者が集まり、会場はどもりを治したいという熱気にあふれていました。
 集まった人達と話し合って、毎週日曜日の午前中に教室をもつことに決めました。生徒が増えたり減ったりするなかで、後で言友会を作った丹野裕文君や伊藤伸二君が育っていってくれました。
 「どもり講談教室」が発展的に解散して、しばらく後に言友会が発足しました。私も続けて参加していく予定でしたが、ちょうど、言友会の創立に参加したころから、私にチャンスが訪れてきました。だんだん売れ始めたのです。
 「パパン、パンパン」と所かまわずたたいてしゃべる講釈師は、これまで一人もいませんでした。どもりの私が話しやすくするために、「パパン、パンパン」とたたくのを、変わった奴がいるぞとお客様が覚えてくれはじめたのです。
 どもり特有の随伴運動を、扇子で机を打つことで生かした私は、どもりであるがゆえに世の中に出てきたとも言えるのです。だんだん売れ始め、忙しくなった私は、もう時々しか言友会に参加することができなくなってしまいました。
 言友会はその後大きく発展しましたが、私自身が言友会から受けた恩恵は、かなり大きいものがあります。それまで他人に教えるという経験がなかった私にとって、講談教室や言友会のクラブ活動で、吃音者に講談を教えたという経験は、私に強い自信を与えてくれました。
 それまでは、うつ向いて、どこかにお金が落ちていないかというような姿勢で歩いていましたが、やっと胸を張って人に会うことができるようになったのです。

◆どもりを治したいと講談の世界へ

 昭和15、6年、私が小学5年生の時に、東京の百ケ原小学校にどもりの小学生が300人近く集まり、どもり矯正教室が開かれました。その時、私は自分のどもりの重さの程度がわからなかったのですが、組み分けをしたら一番ひどい組にもって行かれました。「ぼくのどもりは重いんだなあ」とつくづく思いました。
 それ以来、いろいろなどもりの矯正方法を試しましたが、どもりの方はいっこうに治りませんでした。それでも、どもりを治すために野球の審判をしたり、話術のクラブに入ったりしました。その内に、もっと高度な話術を覚えようと、落語や講談を聞きに寄席へ通いました。
 そんなある日、寄席で田辺南鶴師匠が、一般の人を対象に講談学校を開いていると知りました。個人教授を受けに来た私が、どもって「ククー」「キィキィー」と息をもらすと、師匠はひどく驚いた様子でした。それでも師匠に、「どもりを治すために来ているんです」と言うと、「住み込みでやってみるかあ」と言ってくださいました。私は即座にお願いしました。

◆講談をやめてくれと師匠から

 ところが、どもりを治したいの一念で講談に打ち込んでいるうちに、自然に、どもりを治したいという気持ちが消えていってしまいました。
 どもりが治る治らないよりも、私の関心は、講談そのものに移っていったのです。
 私は、さらに8年間、講談の練習にあけくれました。しかし、私の努力を尻目に、後輩がどんどん私を追い抜いて出世して行きます。すると師匠は、私がかわいそうに思えたのか、「田辺一鶴」という名前を返してくれと言い出しました。講談をやめろというのです。
 師匠は、「お客様の中には『お金をやるから一鶴を出さないでくれ』という人もいる、客席でもそう言っている。どもりも以前より軽くなったんだから、それでいいじゃないか。お前は講談では食っていけないよ」とも言われました。また師匠は畳に手をついて、「頼む、頼むからやめてくれ。かわりの仕事がなかったら、私の本を半分ゆずってやるから本屋をしろ」とまで言ってくれたのです。
 身寄りはない、お金はない、芸はまずい、あるのは重いどもりだけという私を、師匠なりに案じてくれてのことでしょう。
 それでも講談がたまらなく好きになっていた私は、「講談を続けさせてください」と一心に頼みました。師匠はしばらく困っていた様子でしたが、寄席には出せないが、自分の独演会にだけは出てもいいだろうと言ってくださったのです。

◆無名の講談師田辺一鶴、オリンピックを語る

 しばらくは師匠の独演会しか出られない状態が続きました。その頃から私は、今の講談会に新風を吹きこむためには、少々変わった奴が出てこなければだめだと思うようになってきました。
 若い人が「ワァー」と飛びついて聞いてくれる講釈師がいなければと思うようになったのです。そのために、これまで10年近くやってきた古典を投げ捨てて新作をやろうとしました。古典の、古めかしいがすばらしい話術を生かして、全く新しい登場人物に振り替えて、「王だ、長島だ」とやったら、少しは違うかなと思ったのです。それ以来、いろいろな野球物語を作りました。
 ちょうどその頃、浄瑠璃の世界でも野球物をやって、上の方から古典芸能を侮辱する奴だと言われて、新作に取り組むのをあきらめた人がありました。しかし、私はその話を聞いて、私は誰がなんと言おうと新作をやり通そうと、あらためて決心しました。
 私は師匠から、新作はやるなと言われていましたので、新作は寄席以外の所でやっていました。
 しかし、東京オリンピックが行なわれた時は、この時ぞとばかり数々の新作を作りました。そして、これだけは師匠に聞いてもらいました。
 「いま、高らかにファンファーレ……」じっと聞いていてくれた師匠は、こう言ってくれました。
 「今までにいろんな弟子をみたけれど、お前みたいに自分の芸に情熱を持ったやつは初めてだ。お前、出世しなくてもいいな。だったら寄席でも新作をやってみるか、出世すると思うなよ。そのかわり自分の好きなことをやれ、何年かすれば、田辺一鶴の時代がくるかもしれない」
 しばらくたって、師匠の世話で新聞記者がインタビューに来ました。なにしろ初めてのインタビューでしたから、その時のことは今でもはっきり覚えています。
 私は、まだ完成していませんがと前置きして、記者の前で、新作を一時間にわたって披露しました。記者はびっくりして、「今までにあんたみたいな情熱家に出会ったのは、初めてだ。私の目に狂いがなければ、一鶴さんはいっかきっと世に出るよ」と言ってくれました。新聞には「無名の講釈師田辺一鶴氏、オリンピックを語る!」と8段ぬきで出ました。彼は私の恩人の一人なのです。
 それ以来、新作を寄席でやるとこれが意外にうけました。特にお客様に若い方が多いとうけまして、寄席だけではもの足りず、しゃべれるところへは、どんどん出かけていきました。病院とか、養老院とか、施設とか、東京都の周辺での施設で私の行かない所はないほどになりました。自分の芸を完成させたいと必死だったのです。
 それはちょうど、言友会のできる1年前の昭和39年、私が35歳頃の話です。

◆講談の世界では出世できないと言われて

 その後、後輩が私を追い抜いてニツ目に昇進した時、私をかわいそうに思ったのか、師匠は「夢の一日真打ち」という興業をやってくれました。
 「これを胸にたたんで、生涯前座でがまんするんだよ」となぐさめてくれました。後輩が、半年もすれば真打ちになることに決まると、また師匠は、かわいそうにと思って、「一鶴を二ツ目にしてやろう」と骨を折ってくれました。
 神田山陽先生の「一鶴君は、いつか講談界に名をなす人物かもしれない。あれだけ一生懸命にやっているんだし二ツ目にしてもいいではないか」という口添えもあってお情けで二ツ目にしてもらいました。師匠はその時、泣いて喜んでくれました。そして、前例のない、「二ツ目披露興業」をやってくれたのです。
 師匠は、「一鶴はどもりで、素質もない。とても講談の世界では出世できない。人生で一番華やかなのは今なんだ」と、10日間の披露興業をやってくれたのです。祝儀を持って、「お前、これを胸にたたんで生涯ずっと二ツ目でやるんだよ」と言われました。そして、「私が死ぬ時には命とひきかえに真打ちにしてやる」と言ってくれました。

◆どもりがひどくて仕事をほされる

 今までで一番くやしい思いをしたのは、世の中に少し出かかってきた時でした。
 ちょうど新作講談が原稿として、雑誌や新聞に売れてきた頃です。東北放送から連続番組の話が入ってきました。「田辺一鶴のサラリーマンで勝負しろ」という番組でした。1年間契約で、初めての番組だったので大喜びしたのを覚えています。
 しかし、2回分の放送をとりにスタジオへ行ったら、「キィー」「ウー」としか声が出ないのです。放送局の人にしてみれば、2回分だから30分位で終わると思っていたんでしょうが、どもって4時間もかかってしまいました。
 その翌日、私は局から呼び出されて、あっけなくクビになってしまいました。
 同じ頃、文化放送でロイジェームスさん司会のスタジオ番組があり、私は川柳の選者でした。1位になった川柳を読んでくれと頼まれたので、ふと見ると、川柳の最初の音が「タ」でした。顔が真赤になり、全然声が出ませんでした。放送局からは、「一鶴さん、悪いことは言わないよ。芸人では成功しないから止めた方がいい。それに文化放送ではもう貴方は使わないから」と言われました。
 あの頃は、シュンとなって家へ帰ることがよくありました。でも一晩でケロリとなって、翌朝には、「なにおう!」という気になっていました。
 売れ始めた時の失敗と、売れていない時の失敗では、やはり売れ始めた時の失敗の方がショックが大きかったようです。10何年間の下積みからやっと花開こうとする時、横から泥をひっかけられたようなものですから。

◆芸能界の第一線へ

 その後、私は運に叶い、NHKテレビの「ステージ101」にレギュラーで起用してもらったのを皮切りに、テレビやラジオや舞台にと、芸能界の第一線におどり出ました。
 昭和47年、第1回演芸選賞をいただき、49年には45歳で念願の真打ちに昇進しました。言友会の仲間がかけつけてくれたなかで真打ち披露興業をしました。また、売れない頃から養成していた弟子達も、各々の努力が実を結び、次々と真打ちに昇進してくれつつあります。

◆私は今でも

 私は今でもどもりますし、どもることでの苦労は、少なからずあります。高座に出て始めの2、3分などは、「タ」「カ」「ト」「オ」「コ」「ク」「ヤ」「シ」に限ってスムーズには出てこないのです。
 ただ長年の経験から、お客様の顔を見ながらゴマかす術を心得ているだけなのです。しかし、この術とても、同じ吃音者が見たら、すぐゴマかしに気がつく程度のものなのです。
 以上ふり返れば、吃音者の私が芸能界入りして20年になりますが、その間に仲間とか後輩たちが、何人芸能界をやめていったかわかりません。それも私からすれば、私よりもやさしい障害を乗り越えられなくて落ちていってしまったようです。私には、今でもいろいろな苦労がありますが、もうだいじょうぶだろうと思っています。
 泥にまみれ踏みつけられ、風雨に耐えて出てきた私には、それに負けない強い精神力ができていると思うからなのです。

◆どもりだからこそ

 私は自分の体験から、吃音者にどもってでもやりたいと思うことは、どんどん実行したらいいと言いたいのです。どもって恥をかくのがいやさに行動できない人がいますが、本当はどもるのが恥ではなくて、行動できないことの方が恥ずかしいことなのです。勇気がいることかもしれませんが、頑張らなければなりません。
 何の苦労も障害もなく、順調にことが進む人は勇気をそれほど必要としません。安定した自分の立場を守ることでこと足りるのです。しかし、私達はどもるという、ある意味ではハンディを持っている者は、守ろうにも安定したものがないのです。守るのでなく、攻めていくしかないのです。
 芸の世界で考えますと、能弁な人、器用な人はそれほど苦労なく、ひと通りの芸を身につけてしまいます。苦労なく人気が出る場合もあります。すると、今度はそれから先、伸びることはむずかしくなります。身につけた芸をこわして新しく作りかえていく努力が足りなくなるのです。今日の芸は明日の芸ではないという自覚が持てないのです。守るのではなく、こわすのには勇気がいるということなのです。
 その点とつ弁の人は、なめらかに話すことでは能弁の人にかないっこありません。そこでどうしたら能弁の人に勝てるかを真剣に考え、工夫をするのです。こうして身についた芸には、能弁の人では表わせない独特の味がでてくるのです。
 何度も何度も自分の芸をこわして新しい芸を身につけることを生涯続け、とつ弁はとつ弁なりの独自なものを作り出していくしかないのです。そこでとつ弁の人は、自然と「攻めの芸」の形となっているのです。
 まして吃音者である私は、「攻めて、攻めて攻めまくる」しか自分を生かせる道はないのです。攻めの姿勢を身につけさせてくれたどもりに、今では心から感謝しているのです。
 周囲から白い目で見られ、直接に反対も受け、また自分のふがいなさを思い知らされながら新作講談にかけることができたのも、私が吃音者であるからではないかと思っているのです。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/03/08

どもりに向き合える自分になりたい

 「スタタリング・ナウ」2008.6.22 NO.166 に、僕の書いた巻頭言はありません。それ以前にも、そしてそれ以後も、一度もないことです。僕の代わりに一面で紹介するのは、岡山県のことばの教室に通っている5年生の女の子でした。ことばの教室の実践報告、母親の体験、私への手紙は、2回に分けて掲載しないと収まらない長文でした。それを掲載したくて、初めて、巻頭言から伊藤伸二の文章が消えました。3人の文章を一度に掲載したかったためです。 あるひとりのどもる女の子の物語です。
 あれから16年。ゆうちゃんは、どんな女性になっているのでしょう。どもりながら、どもりと向き合い続けていてくれると信じています。

  
どもりに向き合える自分になりたい
                         岡山市立石井小学校5年 ゆう

 伊藤伸二さんへ
 私は、石井小学校のことばの教室へ通っています。幼稚園の頃から通い出して、今は5年生です。
 幼稚園の頃の事はあまり覚えてないけれど、年長さんのクリスマス会の時のことは、5年生になった今でもよく覚えています。それは、劇の練習の時の事でした。セリフを言うのに、いつもどもっていました。だからいつも、練習の時間はとてもつらかったです。
 小学生になってからは、「どうしてそんな話し方するの?」と、聞かれる事がよくありました。でも、私は答えられなくて、ごまかしていました。そんな時、私を助けてくれたのがママでした。ママは、「私の癖みたいなものだから、気にしないで。って答えたら?」と、言ってくれました。すぐには言う勇気がなくて、ほんの少しの間はごまかしていました。でも、少しずつ、少しずつ、言う勇気が出てきて、気がついたら、聞かれるとすぐ答えることができるようになっていたのです。
 でも、そんな私を変えてしまったのが3年生のある出来事です。3年生になった私は、国語の勉強で説明文として書いた、ママがよく作ってくれる「ささみのしそ妙め」の作り方を、みんなの前で読んだ時がありました。この頃の私は、自分がどもりやすい言葉がわかっていました。予想通り、サ行がうまく言えませんでした。自分の発表が終わり、机に戻っていると、私がどもっていた言葉の部分を真似していた人がいました。
 私はこうなるとは思っていなかったので、すごく泣いてしまいました。真似していたのが聞こえたのか、担任の先生が発表を途中でやめて、真似していた人を注意して、みんなに私の話し方について説明してくれました。どもる事をみんなに知ってもらったので、少しは安心したのかもしれないけど、私の心の傷は深くて、その日から、本読みが出来なくなり、発表が出来なくなりました。
 4年生になった私は、やっぱり自己紹介がうまく出来ませんでした。でも、隣の席の男の子が、「少しつまったけどいいじゃん」と、言ってくれました。参観日の日には、「すごく緊張してつまったけどまあいいじゃん」と、言ってくれました。
 その日から私は、その男の子の事が好きになりました。
 その年の夏休みに、ママと二人で、「岡山ちびっ子吃音キャンプ」に参加しました。とっても会いたかった伊藤伸二さんに会えて、感動しました。自己紹介はうまく言えなかったけど、最後まで言いきった自分に感動しました。
 5年生になって、2回目のキャンプに、パパと二人で参加しました。今回の自己紹介は余裕でクリアしました。次に、吃音に関わるクイズをしたりしました。いつもは、わかっていても手をあげて発表出来ないのに、進んで手をあげて発表することが出来たのです。また自分に感動してしまいました。今回は泊まりで参加したので、夜の部では、伊藤さんとたくさんお話をしました。
 「吃音は病気だ」と言う人と、「吃音は障害だ」と言う私がいました。その答えに伊藤さんは、「みんないろいろな考え方があるから、別にちがっていいよ」と、言ったのを覚えています。また、夜の部が終わろうとする時に、伊藤さんが、「ぼくなんか60年以上もどもりとつき合っているのだから、君たちも治ることはあきらめなさい」と、言ったのを覚えています。この伊藤さんの言葉に、まだ、治したいという気持ちもあるけど、治す事にこだわらないというのもいいと思う気持ちも出てきました。
 私の周りには、私を支えてくれる「先生」「友達」「家族」がいる。つらい思いも、くやしい思いもしたけれど、それはきっと私を成長させてくれたと思います。これからも、少しずつ、少しずつ、どもりと向き合える自分になりたいです。
 また、伊藤さんに会える日を楽しみにしています。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/12/15

私の長所はどもりです

 「就職の面接をどもらずに乗り越えたい、なんとかならないか」
 就職面接を控えた人からの電話相談を受けることがあります。就職面接は、人生の中で大きなことなので、なんとかどもらずにやり過ごしたいという気持ちは分からないわけではありません。でも、面接だけどもらずに通過したとしても、それからの長い仕事生活の中で、どもらないで生活できるはずもありません。そんな電話相談に、僕は、面接では自分のことを知ってもらうのが一番なのだから、どもっている自分を見てもらうことが大事なのではないかと返します。そうですねと言う人もいるけれど、納得できずに電話を切る人もいます。
 今日、紹介する「スタタリング・ナウ」2004.6.19 NO.118 では、もう一歩踏み込んで、履歴書の長所欄に「私の長所はどもりです」と書いてはどうかと提案しています。それは、僕の個人的な意見だけではなく、どもる人たちとのワークショップで実際に出会った二人の女性の体験を聞いて、考えたことでした。
 自分の吃音のことを「特別感がある」と表現した小学5年生もいました。
 また、日本吃音臨床研究会のホームページの動画のコーナーで、吃音と就職について、様々な質問に答えています。よかったら、のぞいてください。
 「スタタリング・ナウ」2004.6.19 NO.118 の巻頭言「私の長所はどもりです」を紹介します。

  
私の長所はどもりです
                 日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 「私はどもります」と履歴書に書いた方がいいか、書かない方がいいか、今年高校を卒業した安野君が大阪吃音教室でどもりながらみんなに尋ねた。「君くらいどもっていたら、わざわざ書かなくても面接者はすぐに分かるよ」という外野の冷やかしもあったが、これまでひどくどもっていたときに無視されたり、誤解されたりした経験から、履歴書に書きたい気持ちはよく分かるので、「長所の欄があって、そこに書くのなら賛成だなあ」と冗談ではなく、私は本気で答えていた。
 どもりに悩み、真剣に自分について考える。ひとつのことにしっかりと悩み、考えてきたことは、その人にとって実績だ。また、悩みの中からわき上がってくる、サバイバルとしての工夫や努力は、その後の人生に大きな長所になりうると思うからだ。
 先日、東京スタタリングネットワークが企画した一泊二日のワークショップに行ってきた。その中でも、ひとりの女性から就職活動の中で履歴書にどもりのことを書くかどうかの話が出された。そのことをきっかけに、吃音のプラスの面について話し合ったが、二人の女性の話がおもしろかった。
 ひとりは、どもりは絶対に面接で有利だと言った。面接のときには、流暢にしゃべる人よりも、面接者は彼女のどもりながら、必死に話す真剣さに引き込まれてしまうのだと言う。それが一度や二度の経験ではないとの話に、私はうれしくなった。
 もうひとりの女性は、販売の仕事にどもりは有利だと言った。そして、やはり面接試験でかなりどもっていても、「あなたの笑顔がとても素敵ですね」と言われて、ほとんどの面接試験で合格するのだと言う。彼女は子どもの頃、消極的で、問いかけられても、いつもにこにこしているしかなかった。その、子どもの頃にはやむなくだったかもしれない笑顔がその人のからだに沁みていき、素敵な笑顔が財産となった。どもるからつい話を聞くことの方が多くなり、お客の好みに誠実に向き合う。一度来た人の好みをよく覚えており、驚かれ、喜ばれると言う。吃音に悩んできたからこそ、人に優しく、そして思いやりが人一倍ある人になったのだろう。
 ワークショップの翌日、東京・八王子市の第六小学校で、どもる子どもと保護者と、ことばの教室の担当者との懇談会に呼ばれていた。子どもとの話し合いの時間に、「どもりでよかったことは何ですか」と質問を受けた。子どもとの話し合いなので、「世界のどもる人と友だちとなったことかな」と答えたが、親との懇談会では早速前日に会った女性の話をしていた。
 高度経済成長期の時代には強さやたくましさが必要とされたかもしれない。しかし、バブルが弾け、マイナス成長になった今は、弱さはマイナスではない。優しさ、思いやりの時代がきたのだとと思う。老人介護や障害福祉関係の職場は、以前よりは格段に広がっている。また、教育の世界でも子どもを威圧する強い教師の時代は去った。
 私が吃音親子サマーキャンプなどで出会うたくさんのどもる子どもたちは、ときにいじめられ、からかわれ、他人と違うことによって悩む。その悩みの中から、子どもたちはやさしく、思いやりのある子どもに育っている。この子どもたちが、福祉関係の仕事、販売、接客等のサービスなどの仕事につくと、いい仕事をするだろうなあと思う。
 小学校2年のとき吃音に悩み始めてから私は何事に対しても消極的だった。何かに挑戦するという薪(まき)が手つかずのまま残っていたのだろうか。どもりが治ることをあきらめた後の私は挑戦者になっていた。1965年、日本で初めてセルフヘルプグループを作る。1986年、世界で初めて国際大会を開く。1975年、全国吃音巡回相談会で35都道府県に出掛けるという今では考えられないことに挑戦できたのも、吃音に深く悩んだできたからだろう。
 吃音はプラスの面があると言い切った二人の素敵な女性も私も、最初から吃音をプラスと思ったわけではない。吃音は治らないとあきらめ、どもる事実を認めたとき、これまでマイナスだったことが一気にプラスに変わっていく。オセロゲームの黒いコマが一瞬のうちに白に裏返っていくように。
 私の長所はどもりですと言う人が増えれは、どもる人や子どもは随分生きやすくなることだろう


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/04/09

今は“ぞうさん”の気持ち

 「吃音は遺伝しますか?」の質問を受けることがあります。吃音が遺伝するかどうかについては、昔から、遺伝するとは言えないが、家族性はあるというのが共通見解のようです。大阪吃音教室の参加者に時々家族の中にどもる人がいるか聞くことがありますが、家族にはいない人がほとんどです。僕の父親、祖父はどもりました。でも、僕のきょうだいの、姉、兄、弟はどもりません。いわゆる純正の「遺伝」とはいえないでしょう。
 自分がどもっていて、自分の子どもがどもり始めると、受け止め方は、自分のときとは異なるようです。その心情を正直に綴ってくれた、佐々木和子さんのこの体験は、印象に強く残っている体験談です。佐々木さんは、今でも、僕たちと一緒に活動を続けています。
 吃音とともに豊かに生きる見本になることができる、そんな体験を「スタタリング・ナウ」2002.2.16 NO.90 から紹介します。

今は"ぞうさん"の気持ち…吃音ショートコースに参加して…
                 島根県立浜田ろう学校教論 佐々木和子

 1年半前のある日、息子が突然、“つっかえ”始めました。バスが大好きで、江津に行く途中、車窓から見えるバス停名をいつものように唱えていた時、たまたま「新敬川」のバス停の前で「新ううううやがわ」とつっかえたのです。このつっかえに私は動揺しました。「まさかどもったのではないでしょう」と、襲ってくる不安を押さえて、今までとは何も変わらない、何事もなかったと信じようとしました。しかし、この一言をきっかけにして、息子は話すことば一言ひとことにつっかえるようになりました。「なぜ?」「今まで流暢に話していたのに、どうして話せなくなってしまったの?」と私はその事態を受け入れることができませんでした。
 私自身も“どもり”です。今も、自分の意志に反してことばが出ない状態に陥ります。その私が、自分の“どもり”は棚に上げて、息子の“つっかえ”は何とか治そうと、やっきになりました。つっかえようと思ってつっかえている訳ではなく、自分ではどうすることもできないのが“どもり”であることを知り尽くしているはずの私が、幼い息子につっかえる症状を自分でコントロールして流暢に話すことを要求し続けました。息子の気持ちを一番わかってやれるはずの母親である私が、息子の“つっかえ”にこだわり、息子の“つっかえ”を拒否し続けました。息子がつっかえ始めてからは、どんなに楽しいひとときを過ごしていても私の心が晴れることはありませんでした。いつも心の奥に重い気持ちを引きずっていました。
 主人からは、「どもったっていいじゃないか。なぜ、自分の“どもり”は認めることができるのに、息子の“つっかえ”を認めることができないのか」と不思議がられました。「どもることイコールマイナスではない」「どもってもいい」と頭ではわかっていても、目の前でつっかえる息子を見ると、心にさざ波が立ち始め、それが大きな波のうねりとなり爆発するのです。「どもらないで!」と。
 2002年秋、吃音ショートコースに参加し、私の心に重くのしかかっていたこの大きな問題を解決することができました。キーワードは「諦める」ということばでした。
 話し合いの中で『諦めること』とは“明らかに見極めること、こだわらないこと、ほったらかすのではない、物の道理を明らかにすること”であることを学びました。
 今、私は、自分の“どもり”で悩み苦しむことからは解放されています。幼い頃から、人一倍“どもり”に嫌悪感を持ち、しゃべることから徹底的に逃げていた私が、なぜ自分の“どもり”を受け入れることができるようになったのか、と考えていくと、「諦めた」からだということに気づきました。ひょんなことから、しゃべる職業に就き、初めの何年かはうまくしゃべれないことに落ち込む日々を送っていましたが、いつもいつも落ち込んでいられないほどにどもる場面を経験すると、「まっ、いいか」という気持ちになっていきました。私は自分の`どもりrと向かい合い、葛藤する中で「まっ、いいか」と自分の“どもり”を諦めていったのです。流暢な話し方ができない自分、ブロック症状が激しくて立ち往生している自分、緊張すると何を言っているか相手に伝わらないしゃべり方になってしまう自分…様々な自分の姿を「まっ、いいか」と諦めることができるようになったのです。諦めるとは、今のままの自分でいいと自己肯定することなのです。“どもる”ことが私のセールスポイントだと、どもることに価値を見出してくれていた主人のお陰で、私は自己肯定の道を歩き始めることができました。今度は私が、息子の“どもり”に価値を見出してやれば良いのです。
 私は今まで『諦めること』は悪いこと、負けることだと思っていました。何事に対しても、最後まで諦めない、努力し続けることが良いことだと考えていました。だから、親である私は、息子の“つっかえ”を諦めてはいけないと思っていたのです。流暢に話せるようになるまで諦めないで、“つっかえ”にこだわって“つっかえ”を消さなくてはならないと考えていました。こだわり続けていると、息子がつっかえるその一言ひとことが無性に気になってきます。言い直しをさせることは良くないことであることを十分知っているのに、つっかえの症状が妙に痴にさわり、言い直しをさせ、つっかえを消していくことにとらわれてしまいました。まさに、母親である私が我が子に自己否定の呪いをかけていたのです。
 吃音ショートコースに参加されていたある女性のスピーチセラピストの方が、「自分は20歳の時、親が諦めてくれたお陰で楽になった」と語ってくださいました。この話を聞いて、私は親が子どもを「諦める」ことが「今のままのあなたでいい」という自己肯定のメッセージを送ることになるということに気づきました。
 私は息子を自分の理想に近づけようとしていたのです。だから絶えず今の息子の姿に満足することができず、「今のままのあなたではいけない」「もっと素晴らしい子どもになりなさい」と自己否定のメッセージを送り続けていたのです。自分に自信が持てず、不安定な状態で暮らしていた息子がつっかえ始めたのは、その苦しい胸の内のSOS発信だったのかもしれません。私は息子を自分の理想像に近づけることを諦めてやらなくてはならないことに気づきました。この気づきの後、目の前でつっかえている息子が急にいとおしく思えてきました。今のままの
大ちゃんでいいのです。つっかえてしゃべるのが大ちゃんなのです。このように考えることができるようになって、私は楽になりました。息子との関係も良くなりました。
 今、私は息子が“どもり”としての人生を歩むことになっても、ならなくても、どちらでも良いと思っています。私自身、“どもり”を抱えて、それなりに生きてきました。私にできたことなのですから、息子にできない訳がありません。
 話す時に“つっかえる”症状を“どもり”と思うか思わないかは、その人の感性によって決められるものであると考えます。そして、“どもり”を魅力的な武器にできるかどうかも、その人の気持ちの持ち方次第であると考えます。息子には潔く、しなやかに、そして楽しんで“自分のつっかえ”に向き合ってほしいと思います。彼のために私にできることは、ぞうさんの歌に歌われているような自慢できる魅力的な“どもり”の母親になることでしょうか。
(「スタタリング・ナウ」2002.2.16 NO.90)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/07/09

どもりは差別語か

 昔、どもりに悩んでいた頃は、「どもり」ということばが嫌いでした。「どもり」だけでなく、「いもり」も「やもり」も、「けれども」も、嫌いでした。今は、「どもり」は、なくなってほしくない、死語にしたくない、大切なことばです。
 「どもり」は差別語だから使ってはいけない、そんな単純なことではなく、ことばのもつ意味や歴史を考えて、誠実に使っていきたいと思います。ことばに悩んできた僕たちだからこそ、ことばは大切にしたいのです。
 今日は、「スタタリング・ナウ」2002.2.16NO.90 の巻頭言を紹介します。

どもりは差別語か
                   日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 「ことばがつまる・・」
 「ことばがつっかえる・・」
 ふたりで、一所懸命考えてみたが、これ以上は思い浮かばない。「どもる」をどう言い換えられるのか。
 先だって、自分自身がどもる、ことばの教室の担当者から、「どもり」は差別語かどうか、統一見解はないのかという問い合わせがあった。行事の案内に、教育委員会の後援をとるとき、文面に「吃音(どもり)」や「どもる子」の表現があり、インターネットで調べると、「どもり」や「どもる」は差別語の上位にランクされているが、問題にならないのかと言われたというのだ。
 『「どもり」は使わないというマスコミも、「どもる」現象を表す動詞はいいはずやで。「どもる」もいけないというのは、聞いたことがないよ。「どもる」がだめなら、どもる状態をどう表現するんや?』
 こんな話を、どもるふたりが電話していることにまず違和感を感じた。どもる私たちが、自分自身のことを表現するのに、何故、こうも気を使わなければならないのか、誰に対して気を使うのか。
 実は私もふたつ経験している。
 かなり前だが、大阪府下のある学校主催の吃音相談会が開かれた。そのとき、私が原案として出した案内の「どもり」の表現が「吃音」に変えられていた。
 最近では、ある県の親の会の会報に文章を頼まれて書いた文の「どもり」という表現が大きな問題となった。親の会でいろいろな議論がなされたが、結局はそのままは使えないと押し切られた。文章の内容を読んでいただくことに意義があると、「吃音」と変えることに同意したが、釈然としないものが残った。
 一時、「ことば狩り」の嵐が吹き荒れた時期があった。様々なメディアが表現に神経をとがらせた。差別表現や差別語の議論は今も続いているのだろうが、随分と自己規制はゆるやかになってきている。
 たとえば三島由紀夫の小説『金閣寺』の映画だ、市川雷蔵主演の『炎上』では、原作通り、「どもり」「どもる」のことばが頻繁に飛び交っていたのが、ある時からかアートシアター系の映画館で上映される場合でも、「どもり」と役者が言うそのセリフは無音化され不自然なものになっていた。しかし、最近、NHKの衛星放送で放送された『炎上』は、無音化された「どもり」が復活していた。
 どもりが、「めくら」や「びっこ」とならんで、いわゆる差別語の中に入ったのはいつ頃のことだろうか。誰がそう言い出したのだろう。近年の障害児教育や臨床の専門書の中で、「めくら」や「びっこ」という表現が出てくる書物はおそらくないだろう。タイトルには、なおさらのことだ。しかし、「どもり」は、私の手元にある本の中でさえもいくつもあるのだ。

『どもり』日本文化科学社 1970年
『どもりの相談』日本文化科学社 1972年
『NHKどもりの子の母親教室』日本放送出版協会 1974年
『こどものどもり』日本文化科学社 1976年
『どもりの話』東京大学出版会 1976年

 日本人は言い換えの名人だと言っていい。何かに脅えたり、ごまかすときに、見事にことばを言い換えたり、あいまいな表現をする。国のリーダーであるべき政治家や官僚の、最近は大きな会社の経営者の、ことばを聞いていれば良くわかる。ことばをごまかすことで、現実から目をそらさせようとする。弱い立場の人への配慮だとすることばの言い換えは、差別の実態を覆い隠す危険をはらんでいる。自主規制をして、その時を無難にやりすごそうとする姿勢そのものが本質をくもらせてしまう。「どもり」が言い換えをしなければならない差別語と考える人は、「どもり」をもっている私たちの存在そのものどう考えているのだろう。
 「どもり」という表現を使って差別的に表現するのでなく、「私はどもりに苦しんで…」「どもる子どもの相談会」などとする文章の中で、「どもり」という表現を問題にされるのであれば、その「どもり」を差別語だとする意識の中に、大きな差別意識が潜んでいると言わざるを得ない。
 私は全てを「どもり」に言い換えたいと言っている訳ではない。現実には、「吃音」と「どもり」を意識しないでごく自然に、自由に使っている。大阪吃音教室を大阪弁を教えてくれる教室と間違われたほどに、吃音はまだ一般的ではない。使い慣れた「どもり」を私たちは死語にしたくない。
 ことばに対する不誠実さは、そのことばを表す存在、実態に対する不誠実さへのあらわれでもある。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/07/06

ことば文学賞作品 1998年

 「スタタリング・ナウ」(1998.8.15 NO.48)で掲載していることば文学賞受賞作品を紹介します。選者の高橋徹さんのコメントつきです。

   
ことばよ
                          西村芳和
ことば ことば ことば
もし呪うことができるなら
僕はことばを呪いたい
映画『八ツ墓村』のように
頭にロウソクを突き刺し
桜並木を疾走して
ことばを
次から次へと
叩き斬ってしまいたい
尽きることなく押し寄せることばを
そして最後に
ことばの神を引っつかまえて
5寸釘で打ち付けてやりたい

その時ことばは
やっぱり断末魔の叫びを
ことばを使って発するのだろうか
そうだとすれば
僕はその断末魔の叫びのことばを
また生け捕りにして
またまた5寸釘で打ち付け
その断末魔の叫びのことばの
そのまた叫びのことばを
生け捕りにしなければならない
つまり終わりがない
もしかするとことばは
こうして何度も滅ぼされそうになりながら
生き続け繁殖し続けているのかもしれない

それにしてもことばよ
たまにはことばを使わず
その姿を顕してみせろ

そして
僕と勝負しろ

ことばよ
僕の前に現れ出るのがコワイのか
コワクないなら今すぐ出て来い

ことばよ
勝負だ

【高橋徹さんのコメント】
 「ことばよ」は、まずその発想、展開の仕方、ことばの使い方、構成、どれをとっても吃音者の問題を扱う詩としては出色の出来栄えでした。想像するに、どもりの問題をもっている方々は、それぞれことばに対してえも言えない気持ちを抱えていることでしょう。人間が音として発するだけのことばを、作者はポエジーという、詩的な考え方の中で、まるで不思議な独立して存在するものであるかのごとくイメージした。大層力強いものを感じました。ことばとの闘争心をもつ人、どもる人でないと、またときにはことばへの激しい憎しみがないと、こんな表現はできないと思いました。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/09/24

こっちの道もあったんだ

 「どもりは治る、治せる」、「どもりを治さないと大変なことになる」
 1965年の21歳まで、僕にはこの情報しかありませんでした。吃音を治すことが、唯一の道のように思わされていたのです。しかし、大勢のどもる人が集まり、自分の人生を語り、対話する中で、「どもっているまま、豊かに生きる」という道があることに気づきました。まさに、「こっちの道もあったんだ」です。僕は、僕の意見を押しつけようとは思いません。ただ、こっちの道もあるんだよということは伝えたいと思っています。
 吃音親子サマーキャンプが1週間後に近づいています。新型コロナウイルスの感染拡大がかつてないほどに拡大している中でも、初参加の人のキャンプへの申し込みがあります。コロナウイルスの感染には最大限注意しながら、今年は開催しますが、今回紹介するのは、吃音親子サマーキャンプに参加した人たちの声を特集した「スタタリング・ナウ」からの紹介です。
1998年7月18日の「スタタリング・ナウ」NO.47の巻頭言を紹介します。

こっちの道もあったんだ
              日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 「どもりでちょっとよかった」(高校1年女子)
 「僕、どもってもいいんか」(小学3年男子)

 30数年前、どもる人のセルフヘルプグループを創った頃、どもりを治したいとの思いはとても強く、このようには考えられなかった。このような考え方ができるとは想像すらできなかった。
 吃音親子体験文集『どもり・親子の旅』には、小学生・中学生・高校生、そして親の、従来なかった視点からの体験があふれている。それは、新しい価値観、新しい文化とも言えるものだろう。

◇私はいろんなおともだちとしゃべりたい。その時私がどもっても平気です。だって、キャンプでどもっている大人の人が平気なのを見たからです。(小学4年生・女子)
◇親の話し合いのスタッフは、出された疑問や質問に自分の経験を交えて、かなりどもりながら応えていた。その姿を素敵だと思いました。(親)
◇同室のどもる子どものお母さんが「私もどもります」と少しどもりながらいろいろと話して下さいましたが、どもっている彼女に嫌悪感など、みじんも感じませんでした。(親)
◇劇の上演の時、すごくどもっていたけれど、それはそれは一生懸命に言葉を言おうとしている青年の姿に感動しました。(親)

 吃音親子サマーキャンプに取り入れている芝居。緊張する状況に身を置き、大勢の前で舞台に立つ。
 《大勢の人の前で劇をすることを避けなかった》
 《練習の時よりも大きな声が出た》
 《みんなが真剣に聞いてくれてうれしかった》
 これらの体験によって、子どものどもりに対する見方が、これまでにない広がりをみせる。私にもできるのではないかと少し自信が生まれる。
 吃音親子サマーキャンプのスタッフの多くは、どもる人たちだ。どもりながら明るく笑い飛ばす大人がいる。大人がどもりどもりキャンプの説明をしている。どもりは悪いものでも劣ったものでもないと信じる大人のどもる姿は、どもってもいいとの安心感を与える。どもりが治らずに大人になっても大丈夫なのだという見本がいっぱいいるのだ。子どもたちはその全体の雰囲気、大人たちの姿に影響を受ける。
 どもりながらやり遂げたという体験と、このどもる大人との出会いによって、価値観は広がりをみせる。
 吃音を否定し、自己を否定することによって自分を見失ってしまった私たちが、後に続く人たちにできることは、「どもっていてもいい」「あなたはひとりではない」と言い続けることしかない。
 しかし、この私たちの価値観や文化を主張することは、他の価値観や文化を抑圧することに繋がる危険性があることは意識しておきたい。
 だから私たちは、私たちの価値観を子どもたちや親に押しつけ、サマーキャンプで、それを声高に叫んでいるわけではない。ことさらにどもりを受け入れようと強調しているわけでもない。ただ、どもりと真剣に向き合い、自らのどもりを、気持ちを自分のことばで表現しているだけだ。
 一般的によく使われる《180度の価値観の転換》とは言わず、価値観を広げるという表現をする。それは、ひとつの道しか考えられなかったところに、「こっちの道もあるのだよ」と伝えることだ。どの道を選ぶかはその人の自由なのだ。
 この子どもたちも、今後どもりに悩むことはあるだろう。どもりを治したいと願う時期もおそらく来るだろう。しかし、一度は吃音と真剣に向き合い、複数の仲間と語り、自分ひとりではなかったと実感したことは確かなのだ。そして、どもりながら、自分なりに豊かな人生を生きているどもる人に出会ったことは、「こっちの道もあったのだ」とまた思い出させ、気づかせてくれることだろう。
 「どもりは治さなければならない」
 ひとつの道しか考えられなかった私たちの時代とは、明らかに違うのだ。
           「スタタリング・ナウ」1998.7.18 NO.47


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/08/11
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