伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

ちいさな風の会

セルフヘルプグループ「ちいさな風の会」 5

 1995年11月19日(日)、大阪セルフヘルプ支援センター主催の第7回セルフヘルプ・グループ・セミナー「今、再び生きる力を」の若林さんの「ちいさな風の会」のお話は、今日で終わりです。今、読み直してみても、やさしい会だなあと思います。止まり木論争も、セルフヘルプグループの中では、よく話題として出ました。できる人が、できることをする、これがセルフヘルプグループの原則でしょう。
 日本吃音臨床研究会のイベントも、大阪吃音教室の講座も、今、コロナの影響を受け、中止になったり、休講したりしています。でも、ニュースレターの発行や、このブログやTwitter、Facebookの更新など、できることを続けています。

ちいさな風の会と私
                        若林一美

居場所
 「いつもそこでは自分でいられた」
 「居場所が見つかった」
 会の多くの人がこう言います。
 居場所っていうのはどういうことでしょう。ある意味では、自分が正直でいられるということです。その正直というのは、自分の事をあらいざらい全部話すこととは少し違います。全部話せるから、私達がみんな信じ合えたかっていうとそうじゃなかったと思うのです。話せない人もいます。
 他人が話すのを聞きながら、一杯詰まっていた心の中に少しだけすき間ができたということを感じられた方もいます。
 言葉には出さないけれど、自分の心の中で思いっきり話した人もいると思うのです。
 会の中にはいろんな死亡原因の方がいますが、亡くなった原因を会の人にも言いたくないという方もいます。事故で亡くなったのだと話をしていた人が、何年か経て、原因は交通事故じゃないと話した時に、「えー、私達の中でもあなたはうそをついていたの? みずくさいじゃないの」
 「世間に対してはともかく、私たちも信頼していなかったの?」こんな声は出てきません。本当のことを言いたくなかった「あなたの気持ちが分かるわ」っていう部分に、お互いの共感があるようなグループです。
 自分があるがままでいるということは、言葉でカミングアウトして、「私は何々だ」とか、威勢のいいことを言うことではありません。みんなが同じ悲しみをもっている人たちだから、言いたくない自分、強がってみたい自分、うその自分でもいいんです。
 自分を見せる場が、自分にはあるんだ。そう感じられた時に、それが生きる力につながっていくこともあります。
 よく初めていらっしゃった方が「すごーくやさしい会ですね」とおっしゃいます。その人が、「こんな自分だって、みんなが思ってくれたらいいな」っていう部分を周りが思ってあげられる。
 「こうやったら」「こうやるんだよ」と、いうことではなくて、みんなが自分の痛みを開いていくことによって、互いに共感し合える。そこにやさしさを感じるのでしょう。
 私たちの会には、ゴールがありません。そして誰にとっても良い会ということではないと思うんです。
 逆に誰にとっても良い会だったらやっぱり「ちいさな風の会」は「ちいさな風の会」ではなくなってしまう。人の生き方はいろいろありますから、合う合わないがあってあたりまえなのです。

辛いとき羽を休める止まり木
 卒業していくって言ったら変ですけど、離れたくなる時もあるし、めんどくさくなることもある。
 でも又戻ってきたいなって思った人がいた時には存在していきたいし、止まり木みたいな感じでずーっと続けて行きたい。
 最初会をつくった人達は、とにかく苦しくて、他の人はどうやって生きているのかを教えてもらいたいと言ってきた人達です。それが、ある程度自分の苦しみは少し客観的に見られるようになった。
 そして、自分達と同じような苦しみをもつ人がいたら、いつでも羽根を休められるような場が必要だ。そのためには、努力して続けて行くことが必要なのだという思いによっても支えられている活動になりました。

おわりに
 死別の悲しみは、社会の中で本当に片すみにある、でもものすごく大きなものです。家族の中には、最初の頃、生きてる人を見たら、みんな死んでしまえばいいと思ったり、草や木でも生えてたら、とにかく命の息吹があるものだったら抜きたいと思う。そんな中から自分達の悲しみが癒されるというのは、本当の意味で、世の中が平和にならなければならない。そうでなければ、愛する人の平安もないんだっていうことが、理屈や言葉ではなく、本当にその人達の一人一人の言葉として今表現されています。そのことを本当に素直に受け止められるようになってきています。
 私はこの会に8年ご一緒させていただいて、こういう言葉が、心から出せるような人たちの交わりの中に共におかせていただいています。
 会の人たちが、子どもを亡くしたために払った犠牲というか、失ったものの大きさを思うと、簡単に私のような人間が人に伝えたいとか、分かったって言ってはいけないんだろうと思うことがあります。
 でも悲しみが優しさに変わっていくことがあるということを、悲しい死を体験した人たちのグループの中で一緒に私は今感じさせていただいていることはお伝えしていきたいと思っているのです。

若林一美さんの紹介
 子どもを亡くした親の会「ちいさな風の会」の世話人。
 著書に『安らかな死のために〜ホスピス』『死をみつめるこころ』『デス・スタディ〜死別の悲しみとともに生きるとき』『死を学ぶ』『あ一、風〜愛する人の死を看取るとき』など(了)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/02

セルフヘルプグループ「ちいさな風の会」4

 今日は、3月1日。今年は雪も多かったようですが、それでも3月、梅のたよりも聞かれるようになりました。コロナもまだ落ち着かず、1年の6分の1が終わってしまったことになります。 
 一昨日の続きです。「ちいさな風の会」は、ゴールを決めず、唯一の決まりが、自分のことを自分のことばで話すということだそうです。僕たちも、自分のことを自分のことばで話すことを大切にしてきました。セルフヘルプグループの原点ともいえることだと思います。

ちいさな風の会と私
                        若林一美

ゴールがない、ちいさな風の会
 「ちいさな風の会」は、方法もゴールも何もありません。
 唯一の決まりが、自分のことを自分のことばで話しましょうということくらいです。
 また、決まりではありませんが、こんなことを話し合ってきました。
 「この会に入ったことによって悲しみは癒されないかもしれない。でも少なくとも、もう一つ痛みを背負うことだけはできるだけお互いに避けていきたい」
 「明るく元気に生きよう」「悲しみを乗り越えよう」などとは言わないし、それをゴールにもしていません。こうすれば良いとか、こうしなければいけないとかもありません。ですから8年間続けられたのかなあと思うこともあるんです。
 8年間ずーっと最初の頃から会を作ってきて下さった方が、ついこの間もこうおっしゃったんですね。
 「ちいさな風の会の良いとこっていうのは、元気になろうって言わないことかしら。だから元気になれたのかもしれない」
 「元気になろう」と、もしゴールを決めると、元気になった人となれない人と、境目ができてしまいます。また、一回元気になった人でも、人間ですから心が揺れたり、体調が悪かったり、真空状態の中で生きているわけではないですから、いろんな事があるわけです。揺さぶられたり揺れ動いたりして、元気そうに見えたり、元気に振る舞ってみたいときもあるでしょう。
 いろんなことがあるその人を、そのまんま受けとめていく、ということがなかったら、やっぱりその人らしさというのが出てこないのではないかなと思うのです。
 「ちいさな風の会」は、出発の時、何も求めなかったし、自助グループという言葉も、私も含めて使わなかったし、指導者や、カウンセラーがいたりして、物事をきれいに整理してみせたりっていうことも何もありません。体験者ではない私が、たまたまそこの場にいたということです。

マスコミはシャットアウト
 口コミで広がった会ですから、もっと新聞に載せたらとか、もっと社会的にテレビで紹介したら、ということもありました。
 しかし、一人が痛みを告白して、それをマスコミが取り上げることによって百人、千人の人が救えるかもしれない。でも、マスコミの犠牲になるって言ったら変ですけれども、そのせいで告白した一人が傷つくことがあるのだったら、今そのことを私たちの会の中ではしなくてもいいのではないかとの思いもあって、マスコミとはいっさい距離をおいてきました。秘密結社ではないけれども、最初の頃は、マスコミを全くシャットアウトしたところで始めました。
 とにかく私が悲しみを背負った人たちから感じた印象というのは、もう本当に背負いきれるだけの悲しみを背負ってきているということです。
 一番傷つきやすい人に状態を合わせて、本当にゆっくりゆっくり、最初は17人ぐらいで2年ぐらいやってきました。

あとに続く人のためになりたい
 「私達は、同じ体験を心置きなく出せるという体験を通してこんなに救われた。だから苦しんでいる人がいたら、やっぱりできるだけ痛みを取り除くためにこの会の存在を機会があったら話して下さい」
 1990年、会ができて2年目のころ、何人かの方たちが言い始めました。それで初めて会の事を、朝日新聞に4回連載しました。そのときにはかなりたくさんの方の問い合わせがありました。
 また、これまでの「ちいさな風の会」の記録を1994年の11月岩波書店の"生きる"というシリーズの中のひとつの号の中で『死別の悲しみを越えて』という本を書きました。これは、「ちいさな風の会」のこれまでの歩みを総括したものなのです。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/01

セルフヘルプグループ「ちいさな風の会」3

 若林さんの自己紹介の後、お話は、「ちいさな風の会」に移っていきました。きっかけは新聞記事で、ゆるやかなつながりを続けてこられました。
 「人はそれぞれに違う、その違いを認めた上で、それでもなお共通のものを求め、認め合い、分かち合うことでこの会は育まれて来たように思う」というところに、僕は惹かれます。

ちいさな風の会と私
                        若林一美
.ちいさな風の会

新聞記事がきっかけで
 1988年の1月から半年間、毎日新聞に、《様々な死の周辺》についての話を連載しました。それを読んだ読者の方から、子どもを亡くした親の会を作れないだろうかという呼びかけがきたのです。
 いろいろな闘病者の会や、子どもが難病で闘病されている親の会はあるけれども、子どもを亡くした親の会はないから、作れないだろうかということでした。
 1988年の夏に「ちいさな風の会」というグループは生まれました。
 会の文集の最初に次の文があります。

 『ちいさな風の会は、子どもを亡くした親の会です。同じ体験を経た者同士が集うことで、悲しみを見つめながらも一筋の光を見い出すことにつなげたいと願っています。一人一人の生き方を尊重し合い、宗教や政治といったものに特定されず小さな交わりの場を育んでいきたいと思います』

 文集やお便りの発行の他に集会を開いています。
 2か月に1度、東京で定期的に開く他、大阪や広島などでも開いています。
 この会は、子どもを亡くしたということだけが共通の核にして人が集まっている会で、子どもを亡くした親たちの切実な思いから生まれた自助グループです。勉強会でも知的なことを追及する研究会でもありません。お互いがあるがままに正直な自分を語る中で、改めて自らを顧み、それと同時に他者への思いやりやいたわりが生まれてきたように思います。
 8年間の歩みはゆっくりしたペースで、互いの中で体験し、実感してきました。
 百人百様の顔があるように最終的にその人が歩んで来た道程はその人のものです。そのことを認めた上でそれでもなお共通のものを求め、認め合い、分かち合うことでこの会は育まれて来たように思います。

何故私が世話人を
 私は、きっかけになった記事を書いていたということがあって、会の雑用を引き受けるような形で、この会と一緒に歩んできました。
 それぞれ痛みを抱えていらっしゃると、365日、ある意味で1日1日すべてにご自分のいろんな辛さとか、裏返せば喜びにもつながるようなものであるとしても、気持ちの揺れ動きがあります。その揺れがあっても、会は続けて行くことが大切ではないかと、経験者ではないが、その揺れのない、私がお手伝いしてきました。
 「あなたは体験者ではないが、どんな人か知っている」と、記事を読んで下さった方たちが信頼して下さいました。また、取材で出会った人からも、すごく親しみっていうか、“sympathy”って言葉でおっしゃった方もいらっしゃったのですが、そんなものを感じると言われたこともあります。不思議な出会いだと思います。
 死をテーマに、取材者としていろんな方たちにお会いし、その人にとって一番辛いことをきっかけに出会った方たちが、私にとっても大事な人たちになったのです。(つづく)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/02/27

セルフヘルプグループ「ちいさな風の会」2

 一昨日の続きです。若林さんのお話は、すうーっと僕の心に染み入ってきました。
 アルフォンス・デーケンの「死の準備教育」や、千葉敦子の『ニューヨークでがんと生きる』『よく死ぬことは、よく生きることだ』、『「死への準備」日記』などは、若林さんのお話を聞く7、8年くらい前に読みましたが、通じるものを感じていました。今をしっかり生きることは、僕の心に強く刻まれています。

ちいさな風の会と私
                        若林一美
死は今始まる時
 ホスピスや、小児病棟などで取材を始める前は、また、頭で考えていた時の死は、全部がそこで終わってしまうことでした。確かに、《終わる》こともあるけれど、死によって《始まる》こともある、という思いを、多くの出会いの中で感じ、今はより強くそんな感を抱いています。
 いつか死ぬと漠然と考えていた死が、仮定法でなくなる時、それまでのその人ではなくなります。残された家族にとっても、大事な家族に去られてしまうのですから、新しい自分の居場所、その人の存在のない自分とは何かなど考えなければなりません。死は、死にゆく人にとっても、残された人にとっても新しい時が始まる時ではないかという気がするのです。

頑張れ! に傷つく人々
 死別の悲しみ、苦しみは、有り様は変わるかもしれないが、悲しみは悲しみとしてその人の一生を終えるときまで取り除くことはできないと思います。
 ところが、今の社会では、一般社会の人間関係の中で、背負わなくてもいい痛みや悲しみが、よけいに覆いかぶさっていることがあります。世間の人たちは、悲しんでいる人、苦しんでいる人に、その人のためと思って一生懸命励まします。
 「頑張りなさい。悲しんじゃだめよ。いつまでもくよくよしていたら亡くなった人が成仏できないわよ」
 「暗い顔をしていたらあなたの健康を壊すから明るくしなさい」
 「そんなに泣いてないで、次の子が授かるんだから。明るくしないとご主人に嫌われるわよ」
 例えば、赤ちゃんを流産で亡くした若いお母さんが、その後何人かのお子さんができたとしても、その子はその子であって、亡くなった子はその子ではないのです。
 「泣いている顔なんか見たくない。だからともかく明るい顔をしてちょうだい」
 このようなこちらの気持ちを、あたかも相手に対する思いやりのように投げかけてしまっているということも往々にしてあるのではないかと思えるのです。確かにその人のことを心配してのことかもしれませんが、自分の大事な人を亡くして悲しんでいる時に、笑ったり、明るくせよとは、ずいぶん心ない言葉かけではないでしょうか。

死の教育ゼミ
 私は、アメリカのミネソタ大学の社会学部のロバート・フルトン先生のところに、1983年から2年間勉強に行きました。
 フルトン先生は、死の教育のパイオニア的存在で、1960年代初めてアメリカの大学の講座の中で死の問題を取り上げた方です。現在私が担当している大学院のゼミで、学生の中に高校時代に摂食障害だった人がいます。食べ過ぎたり食べられなかったりの繰り返しの中でとても苦しんだといいます。また、高校が受験校で、不登校になって苦しんだという人もいます。
 そういう学生たちはその時の自分をふりかえり、こう表現します。
 「生きていても、生きている実感がない」
 「私の居場所がなかった」
 「ちいさな風の会」の人たちからも、よく似たような言葉を聞くのです。
 今ゼミの中では、死という問題と同じような形で、摂食障害、不登校の問題、いじめの問題が、取り上げられています。

人の悲しみを聞くということ
 「社会の中で泣ける場がない」
 「自分らしく生きられない」
 この言葉も、様々な悲しみをもつ人たちからよく聞きました。私は、多くの人にお目にかかり、お話を聞いて記事にする仕事をしていた最初の頃、その人が一番辛くて触れてほしくないような話を他人が聞くということが一体どういうものなのか、とても疑問に思っていました。
  
 こんなことを聞いていいのか? とても苦しそうで、泣いてばかりいる姿を見ると、その人をもっと苦しめているのではないか? 聞いてほしくないようなこととか、辛い話は話さず、他人が聞かない方がいいのではないだろうか? こう感じていた時に、こんな体験をしました。

 私が人にお目にかかって、お話をうかがうのは、せいぜい1時間半か2時間です。相手の方が思い出して下さり、今のお気持ちをお話し下さいます。私は、どうしていいか分らないけれどお話を聞いて、筆記することでしかその場にいないわけです。そのようにして、お話をうかがった時に、ある方がこうおっしゃったのです。
 「今日は本当になんか良いお話を伺わせていただいて、心が軽くなりました」
 お話を伺って、と言われても、実は私はほとんど話していないのです。
 誰かに話を聞いてもらうことが、その人にとっては、救いになることもあり、その人自身が自分で自分を話すことを通し、癒されていったのでしょう。
 悲しみ、辛い思いは、なかなか他人に聞いてもらえない。また、話せないのが現状です。
 例えば、夫が亡くなったき、最初の半年から1年位は、周りの人も気の毒がって、「お気の毒ね」とか「かわいそうね」と聞いてくれます。それが5年経ち、10年経っていくうちに、話す場がなくなってくる。自分も、いつまでも暗い顔をしてると人から嫌がられるのじゃないかと思い、話せなくなってしまう。
 「自分が大好きだったその人の事を思いっきり話し、偲ぶ中で、その人が自分の心の中にいてくれることを確認できるし、その人もまた生きているのです」
 こういうことをおっしゃったのです。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/02/26

セルフヘルプグループ「ちいさな風の会」

 1995年11月19日(日)、大阪セルフヘルプ支援センター主催の第7回セルフヘルプ・グループ・セミナー〜今、再び生きる力を!〜が開かれました。その年の1月17日は、阪神淡路大震災があり、関西を中心に活動していた僕たちの仲間は、大きな被害を受けました。そのことを心に刻みながら、神戸バプテスト教会で開催しました。
 震災で子どもを亡くした男親の会ができるなど、これまでなかったセルフヘルプグループができた年でもありました。
 子どもを亡くした親の会《ちいさな風の会》の世話人・若林一美さんのお話は、同じ体験をした者同士が集うことで、悲しみを見つめながらも一筋の光を見い出すことにつなげたいとの願いがあふれたものとなりました。若林一美さん、大阪セルフヘルプ支援センターの了解を得て、日本吃音臨床研究会のニュースレター『スタタリング・ナウ』(1996年12月)に紹介した若林さんのお話を、紹介します。

ちいさな風の会と私
                        若林一美

はじめに
 「ちいさな風の会」という、子どもを亡くした親の会でいろいろお手伝いさせていただいております、若林一美です。
 私自身は体験者ではありませんし、専門家でもありません。そういう人間が何故このような会に関わっているのか? 私の自己紹介のようなものを兼ねながら、会についてのお話をさせていただきます。

1.死について考える

仕事の中で「死」と出会う
 《様々な人間がいて、いろいろな価値観や考え方がある。どうしたら人間が互いに分かり合えるのだろうか》
 私が、教育学を専攻した大学と大学院での中心課題でした。卒業後の選択として、人間と実際に触れ合う仕事がしたいと、ジャーナリズムの世界に入り、月刊雑誌の記者になりました。いろいろな生き方をしている人たちに、インタビュアーとしてお会いし、話を聞くという仕事を始めたのです。
 「人間って、病気って何だろうか。病気は、ひとりの人の体の一部分が故障することだけではなくて、その人の生き方、社会的な生活の場とか、その人と生活を共有している人たちの生き方も全部根底から覆してしまうのではないか」
 ガンの最新医療の現状を特集する医療取材班の一員となって、ガンの最新医療の現場を歩くようになり、病気のしくみ以上に、これらが重い問題として、自分の中に残ってきました。

私のホスピス体験
 ちょうどそのような時に、ホスピスが、私がいっぱい抱えている疑問点を解決する糸口になるのではないか、これまでの医療とは少し違ったものなのではないかと感じ、1970年の暮れからアメリカ、ヨーロッパのホスピスを見に出かけました。
 ニューヨークで、若い一人のガンの患者さんに出会いました。20代の男性で、リンパ系のガンでした。治療の術がなく、ホスピスチームの人たちがその人の介護にかかわっています。そのチームカンファレンスの中で、その男性の患者さんの話が出てきたのです。
 薬や放射線を使ったガンの治療で、夫がインポテンツになり、性行為がもてなくなりました。
 「治療でこの結果が起こり得るなら、なぜ事前にきちんと私たち夫婦に話してくれなかったのか、夫も苦しみ、私もとても満足できない、納得できない」
 妻が夫の担当である看護婦さんに訴え、カンファレンスに出されたのです。
 死ぬか生きるかという、命の尊さとか、どう支えるかという話が交わされる場で、突然、性行為の話が耳に入ってきました。一瞬これは聞き違えていると思いながら一生懸命神経を集中して聞いていると、やはり、その話題なのです。
 私自身は、大学院で学んだのは性心理学という分野で、大学の中ではセックスという言葉は比較的頻繁に口にし、性の問題を、変に偏見なく、語ったり考えられたりする人間だと思っていたのですが、ホスピスの取材で、突然思いもかけないところでセックスの話題がでてきたので、私は非常にとまどいを感じました。
 「少なくともその人の残された時間を長くさせるために、セックスが犠牲になっても、仕方がないのではないか。ましてその不満を本人でなく、元気な妻がどうこう言う筋合いのものではないのじゃないか」
 あまり明確ではないけれど、このようなものが違和感としてあったのでしょう。
 そのカンファレンス後、その看護婦さんに素直に自分の思いを伝えました。
 すると、私とほとんど年齢の変わらない若い看護婦さんが、この人は何を言っているのだろうといった表情で言いました。「だって、死にそうな人だってごく普通の人間ですよ」これを聞いたとき、はっとして、「あー、そうなのだ」と思い致りました。
 英語では、dying patientといってdieに、進行形のingをつけて末期患者と呼びますが、dying patientの状態になっても、私たちと同じ人間なのです。
 当たり前のことなのですけど、確かにそのとおりだと、その時初めて私は気づかされたような気がしました。
 どんなに病気が重かろうと、残された時間が短かかろうと、やっぱり生きている人間なのです。その人それぞれの好みや生き方、考え方があります。例えば性に関しても、セックスライフを取ってしまえば生きている価値がないという人もいれば、あまり関係ないという人もいるかもしれません。それはその人の感じ方や生き方のことであって、他人がそこに分け入って、そんな状況にある人が、こんなことについて話すなんておかしいということ自体、とても僭越なことなのだと思ったのです。
 医療の現場でも、クォリティ・オブ・ライフとか、人間の尊厳とか、難しい言葉が使われて、こういう言葉が使われるとなんとなく納得してしまうようなところがあります。言葉では理解しても、自分自身に置き換えたとき、抽象的な言葉になればなるほど中身が薄れていって、よく分からなくなります。こういう言葉を他人と交わしてしまうと、その人との間に溝が生じてしまういう気さえするときがあるのです。
 1970年代の半ば頃から、私は、現在の医療では治せないと言われ、死と対峙して生きている方たち、その生活を支えている人たち、大事な方を亡くされた遺族の方たちに、お会いしてお話を伺うことが仕事の中心になり始めました。この20年で、250人ほどの遺族の方たちとお会いしてきました。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/02/24
Archives
livedoor プロフィール

kituon

QRコード(携帯電話用)
QRコード