伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

ことば文学賞

世界は、変わる〜第14回ことば文学賞受賞作品〜

 昨日のつづきです。第14回ことば文学賞受賞作品を紹介します。
 吃音を治したいと思って、やっとの思いで大阪吃音教室に参加したけれど、そこには、どもりながら楽しく生きている人がいた、吃音を治そうとしていない、吃音は治らないとも言っている、そんな所は私の行く場所ではない、そう思って、参加しなくなる人は少なからずいます。 でも、そういう人に限って、何年か先に、やっぱりここだと、大阪吃音教室に戻ってきてくれます。そうして、巡り巡って戻ってきた人は、今度は、その後長く参加を続ける人がほとんどです。人には、出会うタイミングというものがあるということでしょう。だから、僕たちは、同じ場所で、同じ時間に、ミーティングを開き続けるのです。それが、セルフヘルプグループです。(「スタタリング・ナウ」2011.12.20 NO.208)

  
世界は、変わる
                          藤岡千恵(兵庫県在住)
 「私、吃音のことは、もう誰にも言いたくない。誰にも言わないでお墓まで持っていくつもり。その方がラク。」
 これは、2005年11月18日に、私が日記に書いていた言葉である。
 日記には、当時の職場で何度かほんのちょっとどもり、内心とても焦っていたことや、当時の恋人にどもりだと気づかれたかどうかハラハラしていたことも綴られていた。その数ヵ月後に、私は大阪吃音教室を訪れることになる。
 私と大阪吃音教室の最初の出会いは、1998年だった。
 その時の私は保育士をしており、話す事の多い毎日で行き詰まっていた。吃音教室の存在は、かなり前から知っていた。伊藤伸二さんの新聞記事を切り抜いて大切に持っていたからである。最初に吃音教室を訪れた時、これまでの(21年分の)思いがあふれ、自己紹介の時に号泣してしまった。そんな私を、伊藤さんをはじめ、参加していた仲間たちがあたたかく迎えてくれた。しかし、どもりを受け入れたくなかった私は次第に足が遠のき、7年ほどのブランクが空くことになる。
 大阪吃音教室に通わなかった7年間、私はどもりをごまかして、なんとか生きてきた。保育士を辞め、デザインの仕事に就き、電話や来客対応、取引先でのお客さんとの会話など、相変わらず話すことからは逃げられなかった。時々、私の不自然な喋り方を指摘されたこともあったが、そのつど必死にごまかしてきた。そして、「私はこの先も、自分の吃音のことを誰にも言わずに死んでいくのだろう」と思っていた。だけど、私はだんだんと苦しくなっていた。どもりと自分は切っても切り離せず、どもりの問題は自分の核心の部分なのだろうと、うすうす感じていた。それでも、心療内科で処方された薬を飲んでいれば気分は楽になるのだと自分に言い聞かせていた。しかし、楽になるどころか、しんどい気持ちは一向に晴れなかった。そして「自分の核心部分に向き合わないままだと、私はこの先もずっとしんどいままで生きていくことになるだろう」と気がついた。その時、7年前に私を迎えてくれた仲間たちを思い出した。
 7年のブランクを経て、再び大阪吃音教室を訪れた私は、その時も自己紹介で泣いた。どもりの苦しみを1人で抱えていたことは、やはりとてもつらかったのだと思う。仲間の前で、その思いを吐き出し、「あなたのこと覚えてるよ」「よく来たね」と迎えてもらい、私はどれほど心が救われたかわからない。
 そして、本当にゆっくりしたスピードで、行きつ戻りつを繰り返し、私は変わりはじめたのだと思う。
 どもる自分を認めたい。だけど人前でどもりたくない。大阪吃音教室にいる人たちのように私も、どもりながら明るく豊かに生きたい。でも、恐くてどもれない。そんなことを繰り返し、私はとても時間がかかった。今のように、日常生活でも仕事の場面でも、当たり前のようにどもり、仲間とともにどもりの話題で涙が出るほど笑えるようになるまでの道のりは決して簡単ではなかった。「自分はどもる人間なんだ」と認めることが必要なのだと、頭ではわかっていても、やはり恐かったのだ。教室を一歩出ると足がすくんでいた。そんな中で行きつ戻りつし、仲間の体験を聞き、吃音教室という温かい空間で、少しずつ私はどもりの症状が表に出るようになった。「どもりでも大丈夫」と頭ではわかっているだけの時は、いざ人前でどもる瞬間の恐さがどうしてもぬぐえなかった。だけど、恐いけれど、自分の世界を変えたくて、ほんの少し勇気を持ち、家族や友人の前、会社などで、どもる。「私のどもりがバレたら、関係が変わってしまうに違いない」と思っていた私は、少しずつ、どもりを小出しにしていく中で、「あれ? 私がどもっても、何にも変わらないんだ」と知り、さらにもう少し、どもる自分を出してみる。私が激しくどもろうが、相手はちゃんと話を聞いてくれる。私を見下すどころか、一生懸命聞いてくれ、むしろこれまで以上に心が通うということを知る。そういう道のりだったと記憶している。
 そして今、ふと過去を振り返ると、自分の世界がびっくりするくらい変わっていたことに気がついた。「あなたは、あなたのままでいい」の「あなたのまま」は「どもるあなたのまま」でもあるのだと思う。かっての私がそうであったように、人前でどもること恐さに、どもりを隠して生きている人が、たくさんいると思う。だけど、どもりをコントロールしたり、相手に気づかれたかハラハラし、一分一秒たりとも気が抜けなかった世界から、どもる私のままでのびのびと生きる世界を知った今、私は「どもりを隠して生きていた頃の私には、もう戻れない」と感じている。
 どもりを必死にごまかしていた頃の私は、それはそれで精一杯生きていたのだけど、ありのままの自分で生きる喜びを本当のところ知らなかった。ごまかし、取り繕い、そういう姿勢がしみついていたと思う。どもりと関わる姿が、私の生き方そのものだったのではないかと今は思う。
 長年かけて体にしみこんだものは、そう簡単に、すぐにはぬぐえない。そのことは、今でも感じている。だけど、私の価値観がゆっくりと大きく変わり始めている。劣等感を強く持ち、社会の中で生きることから逃げ腰だった世界から、困難はいろいろとあるけれど、それでもなんとか生きていけるという世界に変わった。もう、どもる自分をごまかさなくてもいい。自分のことばで、話したいことを話したいように話せることの喜びを、今感じている。
 この先も、おそらく平たんではないであろう自分の人生を生き抜いていくのは、正直言って少し恐い。それでも、私はなんとか生きていくのだと思う。どもりとの関わりを通して、私は仲間から"自分の人生を生きる"勇気をもらった。自分自身のどもりが変わるということは、生きる姿勢も少しずつ変わるということなのかもしれない。
 私がこうして、どもりのことで仲間と笑ったり熱く語ったりしているなんて、2005年11月18日の私が知ったら驚くに違いない。そんな私はなんて幸せなんだろうと、思う。

【作者受賞の感想】
 吃音ショートコースの初日の夜、皆さんとともに「ことば文学賞」のノミネート作品を味わいました。どれもユーモアあふれる作品で、笑いがこみ上げました。
 私の作品はユーモアの要素はありませんでしたが、今、自分が感じていることをそのまま書きました。書き始めるとこれまでの思いがこみ上げてきて止まらず、一気に書きました。書きながら、たくさんの人たちの顔が思い浮かびました。
 こんなことを書くのはとても恥ずかしいですが、この自分の作品を読むと、今でもうっすら涙が浮かんできます。
 大変なことがたくさんあった人生だけど、今の私は幸せだと、しみじみと思います。たくさんの仲間とともに歩んできた時間が、ゆっくりと私の世界を変えてくれました。
 こうして文章にして振り返ってみると、「私、意外と、頑張って生きてきたんだ」と少し自分を誇らしく思いました。
 優秀賞をいただき、本当に嬉しかったです。ありがとうございました。

【選者コメント】
 なんて素直な人なのだろう。こんな人だから、今の競争社会は生きにくいに違いない。しかし、その中で流されることなく、素直なままで生きている作者に静かで力強い声援を送りたいと思う。7年という回り道をしたけれど、作者と大阪吃音教室は、出会うべくして出会ったと言えるだろう。
 どもる自分を認めたい。だけど人前でどもりたくない。教室の人たちのように私もどもりながら明るく豊かに生きたい。でも、恐くてどもれない。この揺れや葛藤の中で、作者は静かに目をそらすことなく自分をみつめている。その素直さが、ゆっくりとゆっくりと彼女を変え、彼女の周りへの見方を変えていったのだろう。
 変化は突然に訪れる人もいるけれど、じっくりと薄皮がはがれるように少しずつ少しずつ変わっていく方がほんものかもしれない。
 書き始めと終わりに、2005年の日記を用いていて、文章の書きぶりにも工夫が見られて読みやすい。やさしく温かい文章に触れることができ、読み手である私たちも幸せな気分にさせてもらえた。(「スタタリング・ナウ」2011.12.20 NO.208)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/06/06

チャレンジ―子どもたちとともに―〜第14回ことば文学賞受賞作品〜

 昨日につづき、第14回ことば文学賞の受賞作品を紹介します。どもる教師にとって、最大のピンチは、卒業式。卒業式にまつわるエピソードはたくさん聞いています。この体験も、その中のひとつになるでしょう。「どもってはいけない場など何ひとつない」、その思いをかみしめながら、お読みください。(「スタタリング・ナウ」2011.12.20 NO.208)

  
チャレンジ―子どもたちとともに―
                            橋本久佳(大阪府在住)

 ついにこの日が来た。教師になって5年目…。一番恐れていた卒業式での呼名だ。児童の名前を一人ずつ呼んで、コメントを言わなければならない。どもらない人にとっては、難しいことではないが、どもる私にとっては、一大イベントである。
 教師になった以上、6年生の担任をすることは避けて通れないことはわかっていた。しかし、いざ卒業式が目の前に迫ると、居ても立ってもいられなくなった。厳粛な場で、自分がマイクに向かって話している姿を想像しただけで、鼓動が激しくなった。
 幸い、今は支援学校に勤務しており、1クラス2名で担任しているので、私か、もう一人の先生が呼名すればいい。前任校は小学校だったので、6年生を担任すれば、必ず自分が呼名しなければならない。今、支援学校で一緒にクラスを担任している先生は、ベテランの先生で、何でもリードしてやってくれるので、きっと「ぼくが呼名するわ」と言ってくれると思っていた。しかし、
 「ぼく、花粉症だから、卒業式の呼名できないねん。前、6年生を持ったときも、声が裏返って、予行練習で交代させられてん」
 と笑いながら言われた。私は心の中で「花粉症で声が裏返るぐらい、何ってことないやん!私なんかどもるねんから!」と叫んでいた。その時、「私はどもるから、呼名できません」と言おうか迷ったが、いずれ、また小学校に戻るし、この先の長い教師生活を考えると、卒業式は避けて通れないので、ここで一度チャレンジしてみるのもいいかなと思った。「もし、練習で無理なときは、もう一人の先生に代わってもらったらいいことだし…」と軽い気持ちで引き受けた。
 ところが、幸か不幸か、練習が始まると、もちろんどもりはするものの、どもって立ち往生することなく、なんとか声が出た。「これなら、本番もなんとかなるかもしれない」と思った。練習を繰り返す中で、自分なりに声を出すタイミングを工夫した。ジェスチャーをつけたり、身体でリズムをとったり、できるだけ声がでやすいようにした。第一声が出にくいので、マイクの前に立ち、礼をして、顔をあげるタイミングで第一声を言うようにした。そして、できるだけ子どもたちの方を見て、子どもに声を届けるように、ゆっくりと言うようにした。最後に、子どもたちに向かって「立ちましょう」と言わなければならないのだが、「タ行」が苦手な私は、いつも言いにくくて焦っていた。何かいい方法はないかなと考え、ジェスチャーをつけることにした。手で合図をしながら言うと、比較的声が出やすかったので、どうしても声が出ないときは、本番もジェスチャーをつけることにした。
 自分なりに声を出すコツはつかんだものの、毎日不安で仕方がなかった。特に卒業式2週間ぐらい前からは、寝つきが悪く、ご飯を食べても味がしないし、精神的にとてもしんどかった。気が休まる時がなく、お風呂やトイレでも呼名の練習をしたり、道で歩きながら、思わず子どもの名前を口にしていたり、卒業式一色の生活だった。今思えば、異様な光景だが、その時はとにかく必死だった。さらに不安が増したのは、高等部の卒業式だ。小学部の教師も参列したのだが、マイクの前で呼名している先生と自分の姿を重ねてしまい、心臓がドキドキして冷や汗が出てきた。そして、今まで以上に、マイクの前に立って呼名するのが恐ろしくなった。
 そんな中、練習も大詰めを迎え、後は予行練習を残すのみとなった。ここまで来たら、呼名を代わってもらうのは、子どもたちに混乱を招くので難しく、もう私がやるしかなかった。しかし、この精神状態で卒業式を迎えるのは不安が大きすぎる。どもって立ち往生したときのことを考えておかなければならない。そこで、勇気を出して、もう一人の先生に自分がどもることを伝えた。
「あっそうなんや。別にどもってもいいやん。卒業式が台無しになるなんて、考えすぎ!」
とあっけらかんと言われた。それを聞いて、気持ちが少し楽になり、
「じゃあ、どもって立ち往生したら、泣いているふりをしますね!」
と笑顔で答えた。
 そして、いよいよ卒業式当日。袴を履いて、教室の鏡の前に立ち、一人で最後の練習をした。他学年の先生に声をかけられた。
「袴きれいー! 私も履きたいな」
「こっちはそれどころじゃないねん。袴を履きたいんやったら、代わりに呼名してよ!」
 式場である体育館へ移動するときに、ある男の子が声をかけてきた。
「先生、ぼくめっちゃ緊張してきたわ」
「そうやな。私も緊張してるよ。でも、今まで練習してきたし大丈夫。がんばろう!」
 男の子に言ったのと同時に、自分にも言い聞かせた。
 拍手と音楽に包まれて入場した。子どもたちの前では、笑顔でいることを心がけているが、この時ばかりは顔がひきっっていたに違いない。校歌斉唱の後、いよいよ卒業証書授与だ。次の呼名に備えて、しっかり声を出して校歌を歌った。司会の先生の「卒業証書授与」と言う言葉を聞いて、マイクの前に移動した。足はガクガク震え、私の緊張は最高潮に達した。でも、もうやるしかない。逃げられない。子どもたちの方を見てから、礼をして、
「小学部の課程を終え…」
と身体でリズムを取りながら第一声を出した。
声は震えていたが、なんとか最初の難関を突破した。名前とコメントは全て覚えていたので、できるだけ子どもたちの方を見て、子どもたちに語りかけるように、一言一言ゆっくりと言った。様々な面でハンディを持っている子どもたちだが、精一杯返事をし、卒業証書を受け取る姿を見て、私も同じ土俵で自分の力を出し切ろうと思った。相変わらず、足は震えていたが、子どもたちの姿を見ているうちに、少しずつ平常心を取り戻すことができた。
 そして、最後の言葉「立ちましょう」を残すのみとなった。マイクに向かって言おうとしたが、声が出なかった。絶対絶命のピンチ!!!焦れば焦るほど、喉が締め付けられる感じで、全く声が出ない。このままではどうがんばっても声が出ないと思い、一度マイクから一歩下がって、一呼吸置いた。そして、気を取り直して、手で合図をしながらもう一度言った。間はあったものの、なんとか声が出た。
 言い終えた後は、ほっとして全身の力が抜けた。「立ちましょう」と、たった一言言うだけなのに、かなりエネルギーを使った。身体でリズムを取ったり、ジェスチャーをつけたり、こんなことをする先生は他にはいなかったが、最後までやり遂げられてやれやれ…これでやっと重圧から解放された! 十数分の時間だったが、ものすごく長かった。
 この一年しんどいことも多かったが、一生懸命生きている子どもたちからたくさん勇気をもらった。不安を抱えながら、卒業式の呼名にチャレンジできたのも子どもたちのおかげだ。それと、もう一つ大きな存在なのが、大阪吃音教室。
 大阪吃音教室に通って7年。たくさんの良き仲間に巡り合い、様々な体験談や考えに触れることができた。朝礼、式典、会議…など色々な場面でどもりながらも、対処法を考えたり、工夫をしたりしながら、困難を乗り切っている人たちの姿を見て、「どんな場面でもどもっても大丈夫なんだ」と気持ちが楽になった。
 これからも、教師をしていく限り、厳粛な場で話す機会は幾度となくあると思うが、大阪吃音教室の仲間と共に、一つずつ乗り越えていきたい。どもってはいけない場所はないのだから…。

【作者受賞の感想】
 「卒業式を経験したら、ことば文学賞を書こう」と決めていましたが、優秀賞をいただけて、とても嬉しく思います。この作品を書いているときに、「こんな恐ろしい経験をよくしたなあ〜!」と他人事のように感心してしまいました。
 卒業式の呼名がうまくいった、いかなかったよりも、逃げないで最後までやり遂げられたことが、今後の自分にとってプラスになったと感じました。卒業式が無事に終わった今だから言えることなのかもしれませんが、卒業式を経験できて、本当に良かったと思います。きっとまた6年生を持つと、今回とは違った不安や緊張感に包まれると思いますが、またその時に悩んだり、じたばたしたりしようと思います。
 大阪吃音教室の皆さんのおかげで、無事卒業式を乗り越えられ、そして、今回の作品が生まれたことに感謝します。ありがとうございました。

【選者コメント】
 どもる人に教師をしている人は意外と多い。教師生活の中で一番苦手だとするのが、卒業式である。これまでも何人ものどもる先輩が卒業式に挑戦してきた。作者とは、教員採用試験に挑戦するころからのつき合いだが、教員採用試験の面接の不安を私たちに話していたのを思い出す。その大きな課題はどもりながら見事にクリアーした。そして、一年一年と教師らしく成長していった。普段の教師生活中では誰でもが経験する苦労だが、どもる教師にとっては、卒業式の場は特別で、一番大きな課題だろう。さすがに、不安があったようだ。厳粛な雰囲気の中、来賓が列席している中、保護者が我が子の成長を喜び、見守っている中で、ひとりひとりの名前を呼ぶ。当然言いにくい名前の子どももいる。それにあえて挑戦した作者、卒業式までの心もようがていねいに綴られている。逃げることもできたのに、そうせず、チャレンジした作者に拍手である。後に続くどもる人たちに大きな勇気を与えることだろう。
 また、随所に、大阪のおばちゃんならぬ、大阪のお嬢さんらしいツッコミがある。緊迫した中でのユーモアは、ほっとさせられる。大阪が生んだ作品だといえるだろう。(「スタタリング・ナウ」2011.12.20 NO.208)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/06/05

どもりの遺伝子〜第14回ことば文学賞受賞作品〜

 NPO法人大阪スタタリングプロジェクトが主催する《ことば文学賞》は、2011年、14回目を迎えました。吃音について、自分について、ことばについて、体験したことや考えていることを綴るこの試みは、読み手である多くの人に勇気を与え、何よりも書き手である自分自身が人生を振り返る機会となってきました。この年の作品も、物事をとらえる意味づけの世界の豊かさを感じさせてくれる体験がそろいました。紹介します。
 今日は、由緒あるどもりの話です。この話からしても、吃音は、昔からの、由緒ある話し言葉の特徴であることが分かります。(「スタタリング・ナウ」2011.12.20 NO.208)  

  
どもりの遺伝子
                            丹佳子(愛媛県在住)

 婚活中である。40オンナに世間の目はそう温かくないが、まだ婚活中である。確かに美人てもんでもない。昔から「いいお母さんになりそう」とか「雰囲気がいいですね」とは言われてきたが、「きれいですね」なんてことは言われた試しがない。
 中学のときから、私はどもるようになった。それに気づいた父は「うちの家は代々どもりだから…」とぽつりと言った。実際、父もどもりである。そして、うちのご先祖様もどもりだった。
 名を丹(たん)任部(にんぶ)の守(かみ)という。
 豊臣秀吉の軍が四国征伐で攻めてきた際、任部の守の軍はこれを迎え撃ったそうだ。戦いは長時間におよんだ。勝敗がつかないまま夕刻近くになったとき、敵方の大将が任部の守に打ちかかってきた。暗闇がせまってくる中、任部の守の家臣が加勢にきたが、大将二人は似たような甲冑を着けていたため、どちらが任部の守かわからない。そこで家臣は「どちらが丹任部の守様か」と問うのだが、任部の守はどもりであったため、自分の名前がとっさに言えず、その間に相手方が「我こそが丹任部の守である」と言ったため、誤って殺されたという。そういう昔話とその霊を祭るための神社が残っているくらいだから、本当にどもりだったのだろう。
 それまで、国語の朗読を得意としていた私は、どもる自分を受け入れることが全くできなかった。授業中に先生に当てられて、答えがわかっているのに、最初の音がでなくて「わかりません」と言うのはつらかった。また、一生懸命答えを言おうとして真っ赤になっているのを、周りの子たちに笑われるのもつらかった。どもっている自分は本当の自分ではないと思った。最初のころは、そのうちすぐ元のどもっていない本当の自分に戻るにちがいないという期待をしていた。しかし、それが絶望に変わったころ、一つの誓いが心の中で芽吹いた。どもりに対して復讐である。
 「うちがどもりの家系であるなら、私がどもりの遺伝子を断ち切ってやる」と。
 自分のどもっている年月が、どもらなかった年月を追い越した20代後半くらいから、私はどもりは自分が背負うべき人生の重荷なのだと考えるようになり、あきらめと自虐に浸るようになっていた。
 進学のとき一番行きたかった外国語を学ぶ道に行けなかったのも、就職活動の面接で失敗し、希望したところに就職できなかったのも、なんとか就職した会社で電話の取り次ぎや朝礼当番になったときの司会がうまくできないのも、どもりなんだからしょうがないと、なげやりな気持ちになっていた。教師だった母は、私も教師になることを期待していたようだった。しかし、私はどもりなのに、人前で話すことが仕事の教師になんかなれるはずはないと思った。期待に添えないこともつらかった。
 現在はそれほどでもないが、このころの私は、言葉を出そうとする度、最初の音が喉の奥につっかえることが多かった。最初つっかえるとその後は、どんなに音をしぼりだそうとしても全く音がでなかった。違う音を探そうと、言い換えの言葉を探すのだが、あわてているから余計でてこない。顔を真っ赤にして、唇だけパクパクさせている沈黙の時間は、悲しくてみじめだった。その度、自分はやっぱりだめな人間なんだと思った。周りの人たちが、すらすらと話していることがうらやましかった。どもりさえなければ、自分の人生はもっといいものになっていたはずなのに、と自分の運命を恨んだ。だからそんなときは「どもりの遺伝子を断ち切ることが私の使命である」と思うようにしていた。そのとき私はどもりに対して復讐を完成させることができるのだから。
 それでも、それなりに恋をし、恋人ができたこともある。が、彼の前でどもりの自分を見せるのは嫌だったから、必死で隠そうとしていた。また「もし生まれた子どもがどもりだったら」と考えることは恐かった。彼は、結婚したら子どもを持って温かい家庭をつくりたいという、ごく普通の夢を語ってくれた。どこかでどもりの遺伝子が「滅ぼされないぞ」と笑っているような声が聞こえた気がした。結局、私から別れを切り出した。
 30歳のとき、大阪吃音教室に出会った。そこで、「どもりは遺伝しない」と教わった。なんとも拍子抜けをしたような気分になったのを今も覚えている。同時にやっぱりとも思った。どもりの遺伝子という呪縛を作って自分を縛っていただけ……自分のどもりから逃げるために、私はその言い訳として、「どもり」と「どもりの遺伝子」を使っていたと、どこかでは気づいていたのだ。だから、呪縛からの解放は、喜びではなく、今まで気づかないふりをしていたことに、向かいあわなければならないという苦しみをもたらした。面接で落とされ続けたのは、一度どもってしまったら、落ち込んでしまって自信のなさそうな受け答えしかできなかったのが原因だということ、教師にならなかったのは、荒れるクラスを抑えるような力量は自分にはないことがわかっていたこと、外国語の道に進まなかったのは、好きなことで失敗したくなかったこと、恋人と別れたのは……子どものこともあるのだが、本当の原因はみじめな自分を一番好きな人に見せるのが嫌だったこと。心のどこかでうすうすは気づいていたが、「どもり」や「どもりの遺伝子」という言い訳を理由に、気づかないふりをし、努力もせず、ただただ逃げ出してきたことを認めなければならなかった。
 私は単なるプライドだけ高い臆病者のまぬけだったのだ。でも、伊藤伸二さんや大阪吃音教室の仲間と関わるうちに、どもりを肯定することはできるようになっていた。「どもってもいいんだ」と思えるようになったことで、生きることが楽になった。どもりの自分を受け入れることができるようになった。
 実は、大学で外国語を学ぶ道からは逃げたが、結局どこかであきらめられず、20代のころは英字新聞で、どもってもいいんだと思うようになった30の頃からは英会話教室で、地道に英語の勉強は続けていた。今は英語の指導助手として来ているアメリカ人に英語と日本語を交えながら弓道を教えている。昨年暮れにはアメリカの家にも招待されて、昔あこがれたホームステイを体験できた。努力してきたことに救われた気がした。
 いつのまにか、私の心の中にあった憑きものの「どもりの遺伝子」は消えていた。今考えると莫迦げているのだが、つらかった10代、20代を生きる抜くためには、その存在は必要だったのかもしれない。今もどもることはある。でも、楽にどもる方法を身につけたり、言い換えの語彙数を増やしたりしたことで、どもるからつらいということは少なくなった。今はどもりの自分を認めることができている。どもりのある人生をちゃんと生きたいと思う。もし、私に本当に「どもりの遺伝子」があって、それが我が子に遺伝してしまっても、今はそれを受け入れ、大丈夫だと言ってあげられるだろう。正しい知識も教えることができるし、どもりだからこそ深められる人生もあると言ってあげられるだろう。我が子……その前にパートナーを探さねば。これは努力だけではどうにもならないかもしれないが、今は前向きに、婚活、婚活!まあ、見つかっても見つからなくても、私の人生をちゃんと生きようという覚悟はできている。

【作者受賞の感想】
 ありがとうございました。ことば文学賞は、いつか応募して賞をいただけたらいいなと思っていたので、非常にうれしいです。
 今までも何度か応募しようとしていたのですが書けなくて、今年こそはと思い、自分にしか書けないことってなんだろうと考えていたとき、どもりの遺伝子のことを思い出しました。
 でも、最初は、どもりの遺伝子は私の妄想の申し子なので、こんな恥ずかしいことは絶対誰にも死ぬまで言うまいと思って却下していました。そんなとき、今度こそと思ってつき合っていた人に手痛い振られ方をしてしまい、追い詰められたような心境の中、婚活に絡めてどもりの遺伝子のことをちょっと書いてみたら、だんだんその存在が膨張し始め、結局それを核にすることで、今までの思いや今の心情がうまくまとまったので、まあいいかと思い、そのまま応募してしまいました。
 あのとき振られなかったら、おそらくは永久に生まれなかった文章なので、今は振られたのもよかったのかなと思っています。

【選者コメント】
 作者と初めて出会ったのは、もう何年前のことだろう。言いにくいタ行で始まる、珍しい名前だった。そして、出会ってしばらくしてから、「由緒あるどもり」であることを聞く機会があった。へえーっ、と感心したが、今回、そのあたりのことをもっと詳しく知ることができた。
 まず、「どもりの遺伝子」というタイトルに惹かれ、婚活中であるという書き出しにも引きつけられ、読み進めた。
 自分のどもりから逃げるために、「どもりの遺伝子」を使っていたと気づいた作者は、その呪縛から解放された喜びより、今まで気づかないふりをしていたことに向かい合い、認めざるを得なくなった。厳しい直面に立たされた作者は、それまでの自分を真摯に振り返っている。外国語を学ぶ機会を失ったこと、希望した所に就職できなかったこと、司会がうまくできなかったこと、恋人と別れたことなど、一見マイナスのことで、運命を恨んだとあるが、なぜか悲壮感がない。そこにはユーモアがにじみ出ている。
 婚活、婚活、明るくそう言う作者に、白馬に乗った王子様が早く訪れますように祈っている。

【資料 丹民部(たんみんぶ)さん】
 西条市の町はずれには、伊予の人々が讃岐の"こんぴらさん"に参詣するための金毘羅街道が走っている。このあたり町並みも古めかしく旧街道のおもむきをよく残している。
 ここに丹民部さんの墓とお堂があって道行く人の足をとどめさせている。
 丹民部さんは戦国時代の武将であったという。近藤長門守の家来ではあるが、勇将のほまれが高く、一方の旗頭として数十人の部下をかかえていた。
 天正年間に小早川隆景が四国へ来襲して来た。
 そこで丹民部さんも近藤長門守の下にあって、応戦してよく戦った。近藤方は敵兵を西条市の南の野々市原へおびきよせた。この広い原野には、あちこちに木の茂みがあるので、敵兵は方角の勝手が分からない。乱戦となって、地の利を得た長門守方は敵兵多数を討ち取った。しかし、敵の兵は数も多く、戦いは長びいた。夕方ごろになって、敵の武将吹上六郎というものが丹民部さんの前に現れた。そこではげしい組み討ちとなった。丹民部さんはようやくの思いで、やっと吹上六郎を組み伏せた。そしていざ一突きと吹上六郎の首を取ろうとしたときに、丹民部さんの家来数人がかけつけて来た。ところが折からの夕闇である。上になっているのがだれだか分からない。そこで家来が、
「殿は上なりや、下なりや」
と聞いた。ところが丹民部さんは生まれついてのどもりなので、とっさに返答ができない。
 吹上六郎は組み伏せられていたのだが、
「下じゃ、下じゃ」
と言った。そこで家来たちは、上の丹民部さんを敵将と思い、槍で一突きについた。思わぬことから、丹民部さんはあえなく落命してしまった。だが、家来たちはなかなか、そのまちがいに気がつかない。そのすきに吹上六郎は夕闘にまぎれて、そそくさと姿を消してしまった。
 家来の一人が火をともしてから改めて見ると、なんと討ち取ったと思ったのは、わが主君ではないか。あまりのことに皆あきれはてて、物も言えない。
 「かくなるうえは仕方がないわ。われらも討ち死にしよう」
と敵勢の中に斬りこんで、皆々戦死をとげてしまったという。
 やがて野々市原の戦いは終わった。敵も味方もわが陣へと引き揚げて行った。付近の村の人々は勇将丹民部さんが討ち死にしているのを知った。そこで屍を埋めて、その上に墓をきずいた。
 丹民部さんはどもりであったので、やがてどもりの神さんになった。また足を病む人がお祈りをするようにもなった。今、お堂には草履や鉄の鳥居が奉納されている。
      日本の民話(全16巻)13巻 四国 68ページ 研秀出版株式会社
(「スタタリング・ナウ」2011.12.20 NO.208)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/06/04

ナラティヴ・アプローチとことば文学賞

ナラティヴとは、物語、語りという意味で、ナラティヴ・アプローチとは、クライアント(相談者)とカウンセラーが対話する中で、直面している問題に対する自分の新しい理解ができ、その意味づけによって新しい可能性を探るカウンセリング技法です。
 相談者が、自分を語ることばをもち、自分の資質や能力を再発見し、自分の内に問題に対処する力を見い出すことを援助します。自分が自分の人生の主人公となるのを助けるのです。
 アカデミー賞を受賞した映画「英国王のスピーチ」は、ジョージ6世とライオネル・ローグによる、ナラティヴ・アプローチで読み解くことができる映画だと、僕は思っています。
 大阪吃音教室のことば文学賞も、ナラティブ・アプローチで読み解くことができる体験の宝庫です。今日は、「スタタリング・ナウ」2011.12.20 NO.208 より、ナラティヴ・アプローチとことば文学賞と題する巻頭言を紹介します。

  
ナラティヴ・アプローチとことば文学賞
              日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 映画「英国王のスピーチ」の話をすることが多くなった。あの映画からさまざまなことが見えてきたからだ。講演や専門学校の吃音の講義の中で、かなりの時間を使って、話をする。そのきっかけになったのが、10月に行われた第10回静岡県親子わくわくキャンプだった。静岡のキャンプは午後1時から受け付け開始なのだが、ことばの教室の教師や言語聴覚士などのキャンプスタッフに、午前中から集まってもらい、2時間30分ほど、吃音の講義をする。昨年度は、どもる子どもの言語指導の理論と実際をテーマに「からだとことばのレッスン」をしたが、今年はスタッフの要望で「英国王のスピーチ」について話した。
 当初、「英国王のスピーチ」だけで、そんなに長く話せるのかと思ったが、話し始めてみると、時間が足りないくらいだった。それほど、あの映画は、吃音について、さまざまな示唆を与えてくれる。
 映画は、ライオネルという、オーストラリア人のスピーチセラピストの、英国王ジョージ6世へのスピーチセラピーの物語だととらえるのが一般的だろう。しかし、映画の冒頭から、第二次世界大戦開戦のスピーチが成功する物語は、今、家族療法や臨床心理などの領域で、新しい動きとなっている、ナラティヴ・セラピーそのものだ。
 ナラティヴとは、物語、語りの意味で、ナラティヴ・アプローチとは、クライアントとカウンセラーの対話で、直面している問題に対する自分の新しい理解ができ、その意味づけによって新しい可能性を探るカウンセリング技法だ。クライアントが自分を語ることばをもち、自分の資質や能力を再発見し、自分の内に問題に対処する力を見い出し、自分の人生の主人公となるのを援助する。
 ナラティヴ・アプローチは、その人が直面している問題は個人だけの問題だと考えず、社会的、文化的な要因が大きいと考える。
 ―「どもりは悪いもの、劣ったもの」という社会通念の中で、どもりを嘆き、恐れ、人にどもりであることを知られたくない一心で口を開くことを避けてきた―
 私が『吃音者宣言』の文言に書いた、社会通念が、ナラティヴ・アプローチで言う、ディスコート(言説)にあたる。
 ジョージ6世は、「流暢に話せない国王なんて考えられない」といったような社会通念と、「どもりの国王をもった国民は不幸だ」と自分自身に物語ることによって吃音に深く悩む。この物語を「どもっていても、自分には語るべきことばがあり、誠実で、責任感があれば、国王として立派に役割を果たすことができる」との物語を変えていったがために、開戦スピーチが成功したのだ。
 吃音は長い歴史の中で、ネガティヴな物語ばかりが語られてきた。アメリカ言語病理学は、治療のプロセスの中で、「吃音を受け入れよう」と言う一方で、吃音をエンストやブレーキの効かないポンコツ車に例えている。
 100年以上の吃音臨床の歴史がありながら、アメリカの最新と言われる統合的アプローチであっても、「そっと、ゆっくり、やわらかく」話す練習しかない。その現実に向き合えば、吃音を個人的なものに帰すのではなく、社会通念などの影響でネガティヴなものと自らに語る物語を、私たちは、新たに紡ぎ直していかねばならない。
 『吃音者宣言』は、私の個人の悩みの歴史と、たくさんの吃音に悩んだ人々の体験をもとに、共通のものとしてまとめた。ひとりひとりの物語を、自分のために、さらには後に続く人々のために物語っていこうとする「ことば文学賞」は、私たちの大切な取り組みであり、誇りでもある。
 今年は14作品の応募があった。その作品のひとつひとつに、その人の悩みの歴史と、そこから新しい物語を語り始めるきっかけを私たちは知ることができる。吃音ショートコースの場で、5作品が読み上げられたとき、幸せで温かい空気が会場を包みこんでいた。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/06/03

人それぞれの吃音人生〜2010年度 第13回ことば文学賞〜

 2010年度の第13回ことば文学賞の作品を紹介してきました。今日で3作品目、最後です。(「スタタリング・ナウ」2010.12.20 NO.196 より)

  
どもりは審査委員長
                          赤坂多恵子
 私の人生の第一次審査は"どもり"が担当する。仕事を探す時は、社名は言い易いか、住所や電話番号すら言い易いかどうか審査の対象となる。そして会社訪問すると電話の台数に目がいった。あんまり多いとパスもした。
 当時は就職口も今より豊富にあり、こんな事も出来たのかもしれない。言い易いと思って入社した会社も、いつの日か言いにくくなる時がある。そんな時は次の会社が私を呼んでいる、待っていると解釈し退職の方向に向かう。彼を選ぶ時も名前は何? がひとつのポイントとなる。言いにくい名前を超えるほどの男であればいいのだが…。これって、どもりに左右されているのか? 私はそうは思わない。どもりが原因で行動範囲が狭くなったらいけないかもしれないけれど、私は"どもり"で選択し判断し決断し行動する事が出来た。私がどもりになった意味はそれを"ものさし"にしろと神様が言っているように思えた。
 選択肢が多くても私は悩むばかりだ。どもりのお陰であまり迷わず生きて来られたように思う。風水も占いも私には関係ない。
 どもりの私が私らしく生きるとは、まずどもりから逃げる方法を考える。そして、逃げられないと思った時は覚悟を決める。何度かエイッと山を越えてきた。
 某生命保険会社に就職した時は学校を担当する事になった。まず、気になる学校名だ。自転車で行ける範囲の学校は…。高鷲南小学校、高鷲南中学校、河原城中学校…。
 「えっ?!」タ行力行のオンパレード。愕然。だが、言い易いとか、言いにくいとか言っていられなかった。毎日のように訪問するので、行きやすさを優先せねばならなかった。逃げる事が得意な私なのだが、この時ばかりは逃げられなかった。生活の為に仕事を辞める訳にはいかなかった。覚悟を決めた。上司に報告する時、学校名を言わねばならず、この時もあの手この手でサバイバル。何とか切り抜けた。"タカワシ"なんかタ行の中でもスペシャル級に言いにくい言葉だ。だが、半年もすると"高鷲南"は言い易くなっていた。"河原城"も。慣れる事はいい事だ。いろんな山はどうにかなるものだ。
 ある時、いつものようにお客様の家のチャイムを鳴らした。「えっ?!」、あんなに言い易かった社名が出ない。予期せぬ事だ。社名を言わずに自分の名前だけを言ったのか、「あのーあのー、すみません」と言ったのかよく覚えていない。その日を境に社名がしんどくなった。ふと、今の自分を見つめ直した。どもりに関係無く仕事も行き詰まっていた。運よく、次の仕事も待っていたので退職した。その一年後、その生命保険会社は破綻した。
 もうひとつ、どもりのお告げは。私は長い間、いろんな事情と言い易さで、別れた夫の姓を名乗っていた。非常に言い易い名前だったのに、不思議な事にだんだんと出なくなった。旧姓に戻す時期が来たんだと考えた。次、今の名前が言いにくくなったら? うん? 何がある? このように、私の人生の選択は、最初に"どもり"がする事になる。どもりを信じ、前へと進む。どもりでなかったら、こんなに決断力、行動力があっただろうか。不安をいっぱいもらったどもりだけれど、人生の不安を軽くしてくれたのも事実だ。それと"ものさし"と表現していいかどうか分からないが、私がどもった時つまった時、相手の表情や態度でその人が少し分かるような気がする。優しく微笑んでゆっくり言葉を待ってくれる人が私は好きだ。これからも、どもりを信じ、どもりにゆだねて生きる。どもり人として、これからも私らしくありたい。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/04/18

人それぞれの吃音人生〜2010年度 第13回ことば文学賞〜

 2010年度の第13回ことば文学賞の作品を紹介します。(「スタタリング・ナウ」2010.12.20 NO.196 より)

  
どもる、あなたの娘より
                           藤岡千恵
 「もっとゆっくり喋りなさい」
 このメッセージを父が私に向けた一番最初のとき、私は3歳くらいだっただろうか。
 自分と同じようにどもり始めた娘に対して父は、そのようなメッセージを送るようになった。その「もっとゆっくり喋りなさい」には『どもるお前の言葉は聞きたくない』『どもってはいけない』という思いが込められていると私は感じ始めたのだろう。年を重ねるうちに、私は父にも母にも友人にも、自分を取り巻く全ての人に対してどもりを隠すようになった。誰の前でも常に自分の言動に全神経を注いでいた。ちょっとでも言葉がつっかえると、自分のどもりが相手にバレたんじゃないかと冷や汗をかいた。
 新聞記事で伊藤伸二さんのことを知ってからずいぶん経って、私は大阪吃音教室(当時は大阪言友会)の扉を叩いた。しかし、どもりながら明るく生きている人たちの輪の中にどうしても入れず数ヶ月後には通うのをやめた。「私はあの人たちみたいにどもって生きられない」「どもりを治したい」と思う気持ちがぬぐえなかったのだろう。
 それから8年ほど経ち、再び大阪吃音教室を訪れた。その時私は、自分の根本的な問題であるどもりに向き合わない限り、この先生きていくのが大変だろうと感じていた。そして再び訪れたとき、8年前と変わらない例会の雰囲気に安心し、私の心は徐々にほどけていった。
 それから母が亡くなった。私は、自分がどもりと格闘しながらも精一杯生きていることを母に伝えたかった。伝えられなかったことがとても残念だ。しかし、父に伝えたいとは思わなかった。もともと父のことは苦手だったのだ。
 だが、大阪吃音教室に通ううちにどもりの症状が少しずつ表に出始め、父の前でもどもるようになった。それでも私は父とどもりの話をしたくなかった。ある時、どもって喋る私に父は言った。「ゆっくり喋ったらどもりは治る。父ちゃんも昔はどもりやったけど、ゆっくり喋るようになってから治った。ゆっくり喋りなさい。」と。
 ところが父の喋り方は、ゆっくりどころか早口で声も小さい。一度や二度聞き返したくらいでは聞き取れないくらい言葉が不明瞭だ。私には父がどもりを隠しているようにしか思えない。その父に「俺は治った」「ゆっくり喋れ」と言われるのはたまらなかった。どもる私をこれ以上否定してほしくなかった。だから私は大阪吃音教室のことや、どもりは治らないことなど何度も伝えた。何度も伝え、理解させようとしていた。何よりどもる私を受け入れて欲しかった。
 私はどもる仲間と出会い、どもりに対する思いが少しずつ変化してきた。どもりの症状が強い時はとても不便だしストレスも感じる。それでも、どもりながらでも自分の言葉で自分の思いを伝えられる方がいい。でも父は違う。治ったと言いつつ、どもりをごまかしているようにしか思えない。どもる事実を認められずにごまかして生きている父を可哀想だと思った。
 でもある時、私もほんの少し前まではそんな父と全く同じだったことを思い出した。私は、たまたま自分のタイミングが合い、運良くどもりの仲間に出会えたというだけのこと。何も特別な人間なのではない。そう思うと父を可哀想な目で見ていた自分を恥ずかしく思った。
 「俺は治った」と言いながらも、父はどもる自分と今でも闘っているのかもしれない。そういう視点で見てみると、普段は不明瞭な話し方をしているが、仕事の関係者と電話で話すときの父は、すごくゆっくり大きな声で話していることに気づいた。相手に聞き返されている様子もない。言い換えや倒置法なども駆使している。そういえば昔から父は昔から仕事に対する情熱が強い人であったように思う。そのような真摯な姿は得意先の人にも伝わるのか、父を気に入る固定客も少なくないようだ。父も自分なりにサバイバルをしているのだろうか。
 娘の私に「ゆっくり」と言うくせに、普段は相変わらずものすごく早口。どもりたくないがために、言い回しを変えたり「ええと、あれや、あれ」というような前置きが多いため、何を伝えたいのかわからず私はイライラしてしまう。それでも父なりにどもる自分を生きている。30年ほど前「ゆっくり喋りなさい」と言った時、どもり始めた娘と自分を重ねて心配したのかもしれない。娘がどもりを持ったまま生きていくのを見ていられなかったのだろう。
 父は私の中にどもる自分を見、私は父の中にどもる私を見る。それらが交わることは残念ながら今後もないだろうが、お互いにどもりと共にこれから先も生きていくのだろう。

【選者コメント】
 父親からの「もっとゆっくり喋りなさい」のメッセージを、自分を否定するものと受け止めた作者は、どもりを隠し続けてきた。だから大阪吃音教室にであっても、やがて参加しなくなる。その後、どもりと向き合わない限り、自分を生きることができないと思い、再び大阪吃音教室と出会う。そして、徐々に変わっていく。
 しかし、父親は相変わらず「父ちゃんも昔どもりやったけど、ゆっくり喋るようになって治った」と言う。その父親の姿に、以前なら反発していたものが、作者の成長とともに、父親に対する思いが変わっていく。「どもる事実を認められずにごまかして生きている父を可哀想だと思った」という作者も、少し前は自分自身も、吃る事実を認められずごまかしていたのだと気づくなど、どもる父親と自分自身の吃音への洞察がすすんでいく過程が丁寧に、易しいことばで、綴られている。
 そうして、これまでと違った感覚で父親の日常を観察してみると、父親が自分なりにサバイバルして、精一杯生きていることにも気づいた。
 父親とは今後も交わることはないだろうというが、作者の父親への眼差しは確実に変わった。作者にとって、今、父親は、共にどもりながら生きる同志として、存在しているといえるだろう。
【作者感想】
 これまで大阪吃音教室の例会で、私が父のことを話題にする時は、「父との関係がうまくいっていない」という内容ばかりだったと思います。そんな父をテーマに文章を書いてみたいと思ったのは自分でも意外でした。
 この賞をいただいた時の参加者の感想もまた、自分にとって意外なものでした。「これまではお父さんを『自分とは違うもの』だと感じていたのが『自分と同じもの』だと感じるようになったのでは」というような内容だったと思います。
 そう考えると私と父は「どもり」という共通語を持っています。父も、どもる人にしかわからない気持ちや苦労、失敗などをたくさん経験してきただろうし、そういう点では共感できる気持ちがあるかもしれません。
 今はまだ父とどもりについて話してみたいと思いませんが、この文章がきっかけで、今まで感じたことがなかった父への思いを発見した気がします。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/04/17

人それぞれの吃音人生〜2010年度 第13回ことば文学賞〜

 2010年度の第13回ことば文学賞の作品を紹介します。(「スタタリング・ナウ」2010.12.20 NO.196 より)

2010年度 第13回ことば文学賞

 どもる人のセルフヘルプグループである、NPO法人・大阪スタタリングプロジェクトが主催する〈ことば文学賞〉も、今年13回目を数えました。
 大阪スタタリングプロジェクトの活動は、毎週金曜日のミーティング「大阪吃音教室」の開催、月刊のニュースレター「新生」の発行、どもる子どもを持つ親の相談会の開催、吃音親子サマーキャンプや吃音ショートコースの開催協力、などたくさんあります。その中の大阪吃音教室の定番の講座に、文章教室があります。自分の体験を綴ることの目的はいろいろあります。自分の体験を綴ることによって客観的に自分を見つめ直すことができ、また、後に続く人の何かヒントにしてもらえるかもしれないという他者貢献にもつながります。
 今年も、9月の吃音ショートコースのときに、受賞発表がありました。作品を紹介します。

  どもる力
                          鈴木永弘

 私の人生を振り返ると、そこにはいつも吃音が深くかかわっていた。
 小中学校を通して一番の悩みは「どもる」ことだった。授業での本読み、発表、学校行事と、どもらなければどんなに楽な学校生活だったろうか。そして高校に入学するとより一層その悩みを深めていった。毎日が「どもり」との葛藤で、そこから解放されるのであれば、その他の事はどうでも良いというような考えを抱いていたのだが、普段は自分を誤魔化して明るさを装っていた。
 そんな辛い高校生活ではあったが、三年生になってから親友と呼べる友達が出来た。彼とは趣味や考え方が近く、話していて楽しかった。そして何よりもしゃべるリズムが妙に合っていて、話しやすかった。ところが二学期に入ってすぐ、体育祭の応援団に参加しなければならなくなった彼が、一人では参加したくないので、しきりに一緒に参加しようと私を誘ってきた。
 私にとって大声を出さなければならない応援団に入るのは何としても避けたかったのだが、「どもるから一緒に参加したくない」と話すことが出来ずに曖昧な態度をとっていた。そして初練習の日、授業も終わりこれから練習が始まろうとしていた時のこと。午後の日差しがあふれる廊下に、これから一緒に練習に行こうと誘う友人と私の姿があった。
 あの時の彼はかなり強引だった。それほど一人では練習に行きたくなかったのだろう。それなのに、どうしても一緒に行って欲しいと私の手を引っ張る彼を振り切り、私は一人放課後の廊下を走り去った。どもるかもしれない不安から解放されたい一心で、一緒に参加できない理由を説明出来ずに、逃げるように学校を後にした。あの時、チラッと振り返った瞬間目にした、廊下に差し込む光りに照らされた彼の寂しそうな姿を今も忘れられない。
 「なんて自分勝手な人間なんだ」。
 ずっと長い間、私は自分の吃音のことしか考えられない人生を送った。

 それからも相変わらず「どもり」に悩む生活は続き、毎日が自分の事で精一杯だった。就職も出来るだけ話す事が少ない仕事を選び、目立たないように静かに生き延びたかった。しかし、こんな弱い自分だからこそ、日々の暮らしの中では他人に優しくなろうと思うようになった。そしてそれが生き延びる手段のような気がしていた。
 そんな私にも付き合う人が出来た。そして彼女に対しても出来るだけ優しく寛容に接するように心がけた。関係は長く続き、平穏な日々が流れていた。彼女にだけは自分が「どもる」ことを話していたし、彼女もきちんと理解してくれていた。
 ある日、車で彼女の家に向かっている途中、信号で停車していると背中にすごい衝撃を感じた。後ろから追突されたのだ。「どうしよう?!」この時のどうしよう?は事故のことでは無い。彼女の家に連絡をしなければならないことだ。電話を掛けると、案の定彼女の母親が出た。今まで何度も彼女の母親とは話をしていたが、事故で気が動転していた私は一言も声を発する事が出来ないまま、電話を切られてしまった。もう一度かけ直す勇気もなく、かなり遅刻して彼女を怒らせてしまった。彼女の怒りは遅刻したことよりも、連絡をしなかったことに対してだった。
 でも、この時私がした言い訳は、公衆電話が近くになく、気が動転していた上に事故処理に手間取ってしまって、電話するより出来るだけ早く迎えに駆けつけたかったというものだった。
 自分が「どもる」ことをきちんと理解してくれていた彼女にさえ、「電話したけれど、どもって繋がらなかった」と告げることが出来なかった。その時の私には大事な場面でどもった自分がみじめに感じられたが、それよりももう一度電話をかけ直さなかった自分を許せなかった。大切な要件を伝えるよりも「どもり」から逃げることを選んでしまった自分を。

 私は人生において多くのものを吃音のために失ってきた。「どもる」ために我慢したこと、諦めたことは数知れずある。吃音さえなければもっと違った人生を送れたのではないか、多くのものを失わなくても済んだのではないか、と思うことも良くある。いや、あった。
 しかし今は、「これが私の人生なのだから仕方ないな」と思っている。まだまだ、どもると落ち込むし、喪失感で胸がいっぱいになると苦しくなる。でも、全て吃音が原因だとは思っていない。吃音以外にもいろいろ原因がありそうだが、原因を追及して悩むより、どもれる力、失うことを恐れない力、そして他人と自分を認めることのできる優しさを身につけたい。
 それが生きる力なのかなと思ったりする。気負いなく、ゆったりと力強く生きられたなら、自分の吃音を認めることが出来るんじゃないか。その時に私は吃音で良かったと心から宣言したい。
【選者コメント】
 「私の人生を振り返ると、そこにはいつも吃音が深くかかわっていた」で始まるこの作品のタイトルが「どもる力」となっているのが、次の展開に興味をもたせる。
 確かに、この作品で取り上げられた2つの象徴的なエピソードは、もの悲しく、作者の吃音との葛藤の様子が、吃音に悩んだ経験のある人には痛いように想像できるだろう。大切な親友の頼みを、理由も伝えず断ってしまった自分への後悔の気持ちを、今も作者は持ち続けている。振り返ったときの、光に照らされた友だちの寂しそうな姿の描写は、同時に、自分勝手な自分を影の中に浮かび上がらせる。また、どもることを理解してくれている彼女にさえ、遅刻の理由を伝えることができなかった。電話をかけ直さなかった自分、どもりから逃げることを選んでしまった自分を、作者は許すことができなかった。
 一方で、このようなことを経験し、自分を見つめてきた弱い人間だから、日々の生活の中では他人に優しくなろうと思うようになったと作者は言う。実際、作者は大阪吃音教室の仲間にも、優しく、周りの人への気配り、面倒見がとてもいい。吃音のために失ってきたものは多いかもしれないけれど、吃音のために得てきた「どもる力」に思いが至ったことで、過去の出来事への後悔の念が和らいだことだろう。
 最後の「気負いなく、ゆったりと力強く生きることができたら、自分の吃音を認めることができるんじゃないか。その時には吃音でよかったと心から宣言したい」との締めくくりに、作者の「どもる力」をみた。

【作者感想】
 文章を書き出した当初は、吃音の体験を語るよりも、「どもる」ことに悩み、自分のことばかりを考えていた過去の経験から、読者にメッセージを送りたいと思っていました。「どもり」へのとらわれによる、自分の内側で考えを堂々巡りさせる習慣を、少しでも早い段階で外に向けての注意や行動に変えていってはどうだろうかというメッセージを。けれども、文章を書き進めていくうちに、自分自身が苦しくなっていることに気づきました。
 「まだ、自分は人生に迷っているんだなあ」「これからも悩みながら生きていくんだろうな」と思いました。そして、そんな自分の気持ちを書くことにしました。迷いと悩みと少しのあきらめと、先に見える小さな未来と、ずっと自分に足りない気がしている「生きる力」。それらのことがどれだけ表現できたのかは分かりませんが、評価をいただき、うれしく思っています。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/04/16

人それぞれの吃音人生

 もうすぐ、今月号の「スタタリング・ナウ」ができあがってきます。今月号は、2024年度、第27回のことば文学賞作品の紹介です。27回も続いてきたのかと感慨深いものを感じながら編集していたのですが、今日は、15年前、第13回ことば文学賞の特集を紹介します。
 僕たちの活動の社会的意義のひとつとして、僕は、吃音体験を整理し、考え、公表することにあると考えています。その具体的取り組みのひとつが、「書く」ことであり、ことば文学賞なのです。まず、今日は、巻頭言から紹介します。(「スタタリング・ナウ」2010.12.20 NO.196 より)

  
人それぞれの吃音人生
                     日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 どもる人のセルフヘルプグループ活動の社会的意義のひとつは、吃音体験を整理し、考え、公表することにあると私たちは考えている。その取り組みとして、週に一度のミーティングである大阪吃音教室では、いくつかの仕掛けがある。
 その中心が、インタビューゲームと文章教室だ。講座の短い時間に、一度にたくさんの人生の貴重なエピソードを聞くことができる。
 インタビューゲームは、20分間、互いに相手の人生に耳を傾け、インタビュアーが文章に編集する。話を聞く力、文章を書く力を磨くことができる。また、文章教室では、吃音の体験を、ひとつのエピソードにしぼって文章にまとめる。最後に全員の文章が読み上げられる。それは、吃音という共通のテーマをもちながら、ひとりひとりの違う人生に出会える、胸が熱くなる大切な時間だ。
 他者にインタビューを受けることで、これまであまり意識に残っていなかったことが思い出されることがある。それは次に文章教室で書かれ、さらに磨いたものが、年に一度の「ことば文学賞」に投稿される。文章教室やことば文学賞が始まった頃と比べ、常に他人の文章やエピソードを常に見聞きしている影響もあってか、多くの人の文章力がついてきたという実感がある。毎年、書き、投稿していると、そろそろ書くことがなくなったという常連投稿者もいるが、大阪吃音教室のこの書く文化によって、新しい参加者も書くので、途切れることなく続き、今年で13回目となった。
 秋に行われる「吃音ショートコース」の中で、受賞作品がみんなの前で読み上げられ、書いた本人、参加者の感想が語られる。年に一度の、吃音ショートコースの重要なプログラムになっている。
 今年受賞の3作品は期せずして、人それぞれの吃音サバイバルが浮き彫りになった。
 鈴木永弘さんは、「私の人生を振り返ると、そこにはいつも吃音が深く関わっていた」として、親友と恋人との吃音に関係する苦いエピソードを書き綴っている。そして、「なんて自分は自分勝手な人間なのだ」と内省する。
 吃音に悩む人が、吃音の苦しみから解放されない大きな要因の一つが、この「なんて自分は自分勝手な人間なのだ」との内省がなかなかできないからだと、私は考えている。目の前の相手と「じか」に関わるのではなく、常に自分の中の「吃音」とまず最初に関わる。そして、吃音が、「ゴーサイン」を出したときだけ、目の前の相手に関わっていく。だから、親友と恋人に申し訳なかったとの思いを、鈴木さんはもったのだった。
 その気づきから、今度は、自分自身だけでなく、他者に関心が向かい、他者に対する優しさが身についてきた。ここに鈴木さんの大きな転換点がある。自分への執着から、他者への思いが強まったとき、吃音の悩みからの解放の道筋に立つ。
 吃音との対話を優先させたことで、吃音の悩みを深めた鈴木さんと違って、吃音との対話を優先させることが、「判断し、決断し、行動することに役立った」という赤坂多恵子さんの視点がユニークだ。吃音と対話し「どもりのお告げ」に逆らわずに生きてきたことを、「どもりに左右されたわけではない」と言い切るところがしたたかだ。
 どもる父親を、「吃音から逃げている」と考えていた藤岡千恵さんは、自分の吃音とのつき合いの中で、自分だけでなく、父親に対してもこれまでと違う見方ができるようになっていく。そして、違う視点で見たとき、普段は早口で話す父親が、仕事の電話をするとき、「ゆっくりと大きな」声で話していることに気づく。そして、仕事に熱意をもって取り組む父親が、得意先から信頼されていることにも気づいていく。
 吃音とのつき合いは、人さまざまだということが、3人の作品から読み取れる。
 今回、私たちとつき合いのない、山口で高校の教師をしている岡本芳輝さんの体験を紹介できた。彼は、「ことばの教室で一番禁物なのは、『治療する』という考え方だ」と、私たちと同じような主張をしている。
 吃音人生は豊かでおもしろい。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/04/15

第12回ことば文学賞より 机の上

 「スタタリング・ナウ」2010.3.28 NO.187 に掲載の、第12回ことば文学賞の作品を、もうひとつ紹介します。どもらない人にしてみれば、何ともないできごとが、どもる人にとっては、ときとして大きな苦痛になることがあります。そんな日常生活を切り取った作品です。
 「吃音と上手につきあうための吃音相談室」の本を読んで、僕に会いに大阪まで来てくれた作者は、大阪教育大学の特別支援教育特別専攻科の学生になり、その後教師の道を選び、教員として活躍しています。

第12回ことば文学賞 ―机の上―
                             掛田力哉
 職員室の机の上に、見慣れぬ小さな包みが置いてある。誰かがおみやげに買ってきてくれたものだろう、と予測がつく。私はいつもその瞬間、自分の心臓がドクンドクンと大きく波立つのをはっきりと自覚する。
 名前が書いてあればいい。その人とすれ違った瞬間などに、礼をいうことができる。私は「おみやげ、ありがとうございます」の「お」も「あ」も出にくいので、ふと思い出したようなそぶりで、「あっ、そういえば、あのっ、あれっ・・」と話を向けてみる。向こうはおみやげの事とすぐに気づいてくれるので、「ああ、どこそこへ行ったので・・」など言葉を返してくれる。そうすると私は安心して、「いつもすみません」とか、時にはスムーズに「ありがとうございました」と笑顔で、さわやかに礼を述べることができるのである。
 しかし、誰からのものかわからないとき、事態は一変する。忙しそうに仕事をする人の背中に向かって、「これをくれた人物がだれなのか」を問いかけるのは、私にとって至難の業である。ようやく声がでて、振り向いてくれればまだ救われる。なかなか気づいてもらえないときなどは、逃げ出したくなるほどである。しかし、そうするわけにもいかぬので、軽く相手の肩を叩いてみたり、思い切り顔を覗き込んで「ちょっとすみません」と言ってみたりすることを、私は長年の経験の中で覚えてきた。もちろん相手は驚いた顔を見せるが、仕方がない。「いやあ、すみません」と精一杯笑いながら、「あの、これっ、これは・・」といつもの調子で聞いてみるのである。当人の名が分かればもちろんありがたいが、再び私に待っているのは、その人を見つけ、声をかけ、「ありがとう」の一言を言うまでの、緊張感に満ちたしばらくの時間なのである。
 それでも…。以前の私よりは大分ましである。どもることを悟られまいと懸命に隠し続けていた頃。アルバイト先の机の上に置いてくれてあるお茶やら飴やらを、ありがたいと感じた事は一度もなかった。お茶を飲んでしまっては、誰かに礼を言わねばならぬ。私はしばしば「気付かなかった」事にしてそのお茶を放置した。机の上にはいつまでも冷え切ったお茶が置かれており、いつしか、誰かがそのお茶を片付けてくれていた。私は、それも何もかも全て「知らなかった」事にしていた。
 吃音の問題は、表面上に見える「吃症状」にばかりあるのではなく、むしろ隠された部分、氷山で言えば水面下にある部分にその多くが存在すると言われる。人と関わることを恐れ、人の厚意を粗末にし続けていた頃の自身を支配していたのは、「自分はなんと情けない、愚かな人間なのだ」という激しい劣等感だった。
 それでも、私はいつも何かしらの仕事はしていた。焼き肉屋、スナック、百円ショップの店員、旅行添乗員、遊園地係員、塾講師…。振り返ってみると、人を相手に話をしなければならないアルバイトばかりを選んでいた。あんなにどもりに悩み、ひた隠しにしながらも、私はなぜ話さなくても良い仕事に就こうとは考えなかったのだろうと、我ながら不思議に思う。仕事の中で、どもることで立ち往生した場面は数え切れない。講師をした塾では、帰宅時に玄関前に立ち、職場の全員に向かって「お先に失礼します」と言わなければならない決まりがあった。「お」が出にくい私は仕事が終わっても帰るタイミングがつかめず、ロッカールームでいつも1時間近く冷や汗をかき続けていたものである。
 そんな私が仕事を続け、また新たな仕事へ挑戦することが出来たのは、それぞれの仕事を通じて、「何とかなる」という確信のようなものを培うことができていったからである。塾では、授業時間の数倍もの時間を教材研究に費やした。ある日、自分の授業を見に来た上司が、その内容を他の講師たちの前で褒めてくれた。それ以来、その上司は私が玄関前で足をバタバタさせていることに気付くと、さりげなく目配せして帰宅を促してくれるようにもなった。流暢に話すこと以外でも、仕事で認められる方法はいくらでもあり、また自分なりに努力することで、人の役に立てることも少しずつ知っていった。相変わらず机の上のお茶はなるべく飲まぬようにし、仕事が終わると、誰と話すこともなくそそくさと家に帰っていたが、仕事の面では、私は吃音に困りながらも、吃音に囚われるということはなくなっていた。自分にも出来ることがあると、自信を持ち始めていたのも確かだ。
 大学卒業後1年が過ぎた頃、私に小学校の非常勤講師をする機会が巡ってきた。自分と同じ苦しみを持つ子どものために生きたいと願い、苦労して教育大学に進み、やっと手にした教壇であった。意気揚々と通い始めたが、事態はあっと言う間に苦しいものになっていった。授業中に立ち上がり、紙ヒコーキを飛ばし合う子どもたちの言動に振り回され、自分の弱さを知られまいと、大声をあげては自己嫌悪に苛まれた。指導教官からは、厳しく注意されるばかり。他の先生にも相談するべきだったが、忙しそうに働く背中に、どもりながら声をかける勇気がなかった。一人鬱々と悩んだ。かつての劣等感がみるみる自身を襲っていくのを感じた。1年間の契約終了を待たずして、私は半年で職場をあとにした。
 念願の教師の仕事に挫折して、私はどん底に追いやられた。しばらくは何をする気も起きず、仕事に向かう母親の弁当を作ったりして1ヶ月半ほどを過ごした。唯一通っていた英語スクールを修了するころ、担当者の方から「自分の会社で働いてみないか」と声をかけていただいた。さすがに躊躇したが、もう失うものは何もなく、こんな自分を拾ってくれるなら思い切りやってみよう、ダメならもうそれまでと、その会社に初めて正社員として就職させてもらった。言語教育を事業とするその会社では、「言葉を獲得するとはどういうことか」といった題材について、社員が毎月交代でエッセーを書き、社員や会員に配っていた。私はその中で、初めて自分が吃音であることを告白し、吃音であるが故に、自身がことばの問題、教育の問題に自分なりにずっとこだわり続けてきたことを素直に書いた。驚いたことに、「とても感動した」という感想をたくさんもらい、私は長年自分が一人で背負い続けてきたものからようやく少し開放されたような、不思議な感覚を覚えた。また、自分が「どもる」ということが、他の様々な人にとっても、何らかの意味をもつことがあるかも知れぬと考え始めるようにもなった。
 会社勤めをして2年が経った頃、私は書店で一冊の本と出会った。『吃音と上手につきあうための吃音相談室』(芳賀書店)という本である。「吃音」と大きく書いてあるその本を私は後ろ手に隠してレジへ運び、その夜から付箋をはりながら夢中で読み始めた。本の中の伊藤少年が味わった苦しみは、一人孤独に悩んでいた、ちっぽけな少年の頃の自分のそれと同じだった。気づけば私は何度も独り言に「おんなじだ!」と叫び、涙を止められなくなっていた。どうしてもこの本を書いた伊藤伸二という人に会ってみたい、という思いはどんどん膨れ上がり、2年間働いたその会社を辞め、26歳で一人大阪へ引っ越した。
 大阪教育大学の講義で、本の著者である伊藤伸二という人に出会うことができ、私はどもる人たちがあつまる大阪吃音教室に誘われた。そこでは、皆が自然にどもりながら話し、自分のどもりについて真剣に考え、時には冗談を言い合って大笑いしていた。教室が終わる時間になっても、最寄りの駅の前に立って、同世代の人たちと他愛のない話を延々とし続けた。私は、まるで夢を見ているようだった。仕事以外の人間関係を、これほどに心地よいと感じ、大切に思ったことはなかった。毎週金曜日が来るのが待ち遠しく、自分がそんな風に感じることが信じられなかった。それから7年間、伊藤さん始め、教室の沢山の人たちに出会う中で、自分の吃音について、自分の生き方についてじっくり考える機会を沢山いただいた。そして、もう一度原点に戻って教師になる決意をし、教員の採用試験に合格することができた。4年前には、吃音を通して出会った人と結婚もできた。人との関わりを避け続けていた自分には分からないこと、気づいてこれなかったことを、結婚相手の女性からは数多く教えられてきた。そして昨年は、長年自身を苦しめてきた吃音のことを子どもたちに伝えるという役割で、テレビに出演することにもなった。多くの出会いの中で、私はこれまでの人生で学んでこれなかったこと、経験できなかったことを、一気に取り戻すような7年間を過ごしてきた。そしてそれら全ての時間や出会いをくれたのは、他でもない吃音そのものなのであった。
 今年の夏、私は妻に倣って初めて職場の人にお土産を買ってみた。買ったはいいものの、いざそれを渡す日となると、私は不安を抑えられないでいた。以前の私ならば…、やはり諦めていただろう。しかし、今年はなぜか「渡してみたい」と思う気持ちの方が強かった。職員室を覗き、あまり人がいないのを確認すると、私は一気に机に向かい、隣の同僚に一言仕事の質問をしてから、「あっ、そう言えば…」と思いだしたようなそぶりで、「はい」と渡した。向こうも素直に喜んでくれ、「どこへ行ったんですか?」「ああ、ちょっと横浜に・・」と忙しい朝に少しだけ話に花が咲いた。職場では仕事の話だけをすればよいと長い間思っていた。しかし、それだけでは味気ない。せっかく出会った人と、せっかくだから色々な話もしてみたい。他愛ない話の中にこそ、仕事を豊かにするヒントがあるのかも知れない。そんな風に感じられる自分が、今ここにいる。私がいつも人と関わる仕事を選んでいたのは、やはり私が根本的に人を好きだからなのではないか。不器用ながら、下手くそながら、どもりながらも、人と関わり、人と言葉を交わし、人を知ろうとする自分であり続けたい。そして、いつも私の机の上にお茶や飴をさりげなく置いてくれていた人たちのように、いつか私もさりげなく人を思いやれるような人間になりたいと強く思う。今日も職員室のドアを入る。机の上に何もないことを見て…、ホッとする自分がいるのもまた事実なのだが。

 《読後コメント》
 机の上のおみやげ、机の上のお茶、一般的にはただ「ありがとう」と受け取るだけの話だ。しかし、その「ありがとう」が言えない人間にとっては、苦痛になる。吃音に悩んだ経験のない人なら、想像もできない世界だろう。この日常の何気ない小さなできごとをきりとって、丁寧に書き綴っている。吃音の苦悩を「机の上」にスポットを当てながら、吃音とのつき合いの歴史を綴っていく。こんな、些細な、誰もが難なく通り過ぎていく人と人との関わりの風景で、ここまで、感じ、考えることができる吃音は、なんて人を豊かにさせるものだと、実感する。人生のさまざまな場面で、吃音は常に作者と共にあり、吃音と真摯に向き合うことで、作者は自分の人生をつかみとってきた。不器用だけれども、人が好きで、人と関わり、人とことばを交わし、人を知ろうとする自分であり続けたいと思う作者と、私たちもこれからも長いおつきあいをしたいと願っている。最後におみやげの話に戻る、そんな構成もすてきだ。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/03/17

第12回ことば文学賞より 劣等感

 「スタタリング・ナウ」2010.3.28 NO.187 に掲載の、第12回ことば文学賞の作品を紹介します。自分を深くみつめ、生まれた作品です。
 
第12回ことば文学賞 ―劣等感―
                                堤野瑛一
 僕は、ずっと孤独だった。
 幼少のころから、他者と関係をもつことが苦手であり、億劫だった。友達と外で遊ぶよりも、家の中でひとり、電車の模型や、おもちゃのピアノで遊んだり、絵を描いていることが好きだった。そこにはいつも、自分だけの自由な世界が広がっていた。誰にも邪魔をされたくなかった。
 当時は、男の子といえば、おもてで駆けまわったり、公園で野球をしたりするのが普通だったが、僕はそういうことには、まったく楽しさを見出せなかった。
 小学生になっても、中学生になっても、一貫して極度に運動音痴だった僕は、体育の授業が大変な苦痛だった。普通の男の子なら、誰にでも楽々とこなせるようなことが、僕にはうまくできずに、いつも恥をかかねばならなかったし、ドッヂボールなどは、僕にとってはただの拷問だった。父親はいつも、そういう僕を、男のくせに情けないやつだ、と嘲笑していた。
 僕は、緊張感ですぐにお腹をくだしてしまう体質だったので、授業中には毎時間、脂汗を流しながら、便意と戦っていた。
 遠足や修学旅行といえば、みんなにとっては喜ぶべき行事だが、トイレにいつでも行ける自由のきかない遠足とは、僕にとって恐怖でしかなかったし、他人と一緒だとほとんど眠れない僕には、修学旅行とは気の遠くなるような苦行だった。
 遠足や運動会の前日、みんながわくわくと明日を待ち望んでいるのをひしひしと感じながら、僕はひとり、明日が雨になることを、切実に願った。そういうときにはいつも、泣きたくなるような孤独を感じた。僕が切実に望むようなことは、いつだって、ほかの誰も望んでいないことなのだから。
 みんなが好きなことが嫌いであるだけではない。僕は音楽といえばクラシック音楽が好きだったが、音楽の授業でのクラシック音楽鑑賞の時間とは、みんなが退屈するもの、嫌な顔をすべきものであり、自分がクラシック音楽を好きであることは、誰にも言えなかった。
 とにかく僕は、趣味趣向や、興味の対象、物事の感じ方が、みんなとは極端に違っていて、書き出せば切りがないが、好きなことを堂々と好きだと言えない、嫌なことを嫌だと言えない窮屈さに、日々悶えていた。
 小学四年生のころには、僕にチックの症状が出はじめた。そのことで、級友にからかわれたり、担任の教師には煙たい顔をされたりもし、自分はみんなと違っている、自分は劣等品種であるという意識は、それまで以上に顕著なものとなった。
 家にいれば、早くチックを治せと父親には罵倒され、ときには殴られ、蹴られ、母親には、いつになったら治るのだと毎日責められ続けた。かと思えば、弟と母親が一緒になって僕のチックの真似をし、二人して大笑いすることもあった。そういう生活が、延々と続いた。
 学校にも家庭にも、心安らぐ場所はひとつもない。いつどこにいても、他者とは自分を傷つけるもの、脅やかすもの、はずかしめるものだった。
 集団の中で生きていくとは、なんて苦しいことなんだろう!? 人生とは、なんて過酷なんだろう!? こんなにも生きる適性を欠いた自分が、この先生きていけるのだろうか?ああ、誰とも関わらずに、ひとりで生きられるような世界があったなら! 僕は、そんなことばかりを考えていた。将来大人になり、自立して一端の社会人になっている自分の姿など、まったく想像出来なかった。
 それでも、自分の劣等性を可能なかぎりごまかし、背伸びをして「普通」を演じようと努め、ほとんどギリギリの状態で、なんとか学生生活をやり過ごしていたのだが、高校生のとき、そんな僕にとどめを刺すようなことが起こった。僕は、どもりになってしまったのだ。その挙句、せっかく必死に努力をして入学した大学さえも、どもりによる不自由、劣等感にくじかれてしまい、退学してしまった。
 僕は、自分の境遇、人生を、心底憎んだ。なんで俺ばかりがこんな目に!? なんで俺ばかりがこんな目に!? もはやそんな言葉しか浮かばず、それまでずっとこらえてきて溜まりに溜まっていた涙が、一気に流れ出た。僕は、本当に孤独だった。
 それ以後数年間は、無気力で、荒れた生活が続いた。精神的にかなりすさんでいて、犯罪にも手を出し、絶望的な気持ちで日々を過ごしていたが、他方、完全にぐれたり、死ぬ勇気もなかった僕は、なんとか生きる術を身につけなければならないと、常に頭の片隅では考えていた。
 僕が考えていたこととは、どもりを治すことだった。どもりさえ治ってくれれば、もうほかにはなにも望まない。どもりに比べれば、以前より抱えていたほかの劣等性など大したことではない。どもりが治るためならば、どんな苦しいことだってする。どもりさえ治れば、あとはどうにだってなる―そう考えていた僕は、毎日毎日発声練習を続け、どもりを治してくれるかもしれないと思えば、どんな治療機関にでも駆け込んだ。
 しかし、なにをやっても、どもりが治るような兆しは一向にみられず、何度も何度も期待をくじかれ、疲れ果て、僕はもうボロボロになってしまった。
 とことんまで落ち込み、消耗しつくしたとき、自分は一体なんのために一生懸命になっているんだろうという疑問が、頭をかすめるようになった。僕は、どもりが治ることだけを夢に見て、それに莫大なエネルギーを注いできたが、仮にどもりが治ってみたところで、それはなんてことない「普通」である。僕のこれまでの人生の苦しみは、「普通」でないことへの苦しみだった。なぜ「普通」でないことに、そこまで劣等意識をもつ必要があろうか?なぜいつも自分だけが、たかだか「普通」のために身を削って努力せねばならないのか? ああ、なんて馬鹿らしいのだろう!? どもりは治らないとわかった今、もう「普通」ではない自分を認め、「普通」をあきらめるほんの少しの勇気さえあれば、僕は生きていけるのではないか!?
 僕には、ありのままの自分でいる権利があるはずではないか!?

 僕は、どもりを治す努力を一切やめ、どもる人間として生きていく決心をした。その決心の表れとしての大きな第一歩が、大阪吃音教室への継続的な参加だった。そこで僕は、以前はまともに向き合うことが嫌で嫌で仕方がなかった自分のどもりと正面から向き合い、自分がどもる人間であることを素直に認めた。それだけではなく、チック症や、そのほか以前より抱えていた自分の劣等性、劣等感すべてと、僕は正直な気持ちで向き合うようになった。
 どもりを認めたといっても、その瞬間から劣等感が消えうせたわけではない。人前でどもってどもって話すことは、たしかに少々こたえるものがあったが、少なくとも、背伸びをしたり、借り物の衣装を無理に着ているのではない〈自分自身〉を、そこに感じることができた。チックの症状が人目に触れることに、なんの抵抗も恥ずかしさもなくなったわけではないが、しかし、それが自分なのだと認め、開示をすることで、僕はほかの誰でもない自分自身を生きているという感じがした。
 僕は自分の人生においてようやく、優劣や価値にとらわれない、ただあるがままの〈自分自身〉になることができた。
 大阪吃音教室でのどもる仲間との出会いは、戦友を得たようで頼もしく、嬉しかった。週に一度の例会には、毎週積極的に参加をした。
 しかし、そういう仲間の中にいても、僕は安易にみんなと同化してしまうのではなく、あくまで自分固有の感じ方、考え方、自分の体験を通じての直観を大切にし、自分の言葉で発言をしていった。日常のあらゆる場でも、僕はあくまで、僕個人の言葉を語り、相手の話にも真剣に耳を傾け、良くも悪くも、他者と正面からぶっかるようになった。
 その結果、他者と大きな対立をし、相手も自分も大きく傷つけることもあったが、他方で、(僕の勘違いかもしれないが)僕をとても信頼してくれる人も、ポツポツと現れだした。劣等感に苛まれつづけた昔の僕には考えられないことだが、あらゆる他者との正面きってのかかわりの中で、自分の人生の主体はあくまで自分であるという感覚や、自分は一個人として共同体の中で生きているという感覚がもてるようになった。
 僕は今でも、劣等感のすべてから解放されたわけではないし、僕は今でも孤独である。しかし、孤立はしていない。この世界には自分のような人間でも生きられる空間がある、僕は生きていける、という思いがある。
 劣等性や劣等感は、人生の過酷さだけではなく、その過酷さを生き抜いてきたからこそ味わえる喜びを教えてくれた。それに、こういう境遇を生きてこなければ、たぶん味わえなかったような人の温かさを、ほんのときどき感じさせてくれる。
 どのように生きたって、いずれこの人生は終わる。それなら、僕はあくまで自分自身を生き、自分自身をもって他者とかかわり、そして、自分自身を死にたい。

 《読後コメント》
 読み始めから、ぐんぐん引き込まれ、一気に読み進んでしまう。その文章力に圧倒される。「劣等感」というひとつのテーマを深く掘り下げ、自分をみつめていく。同じような体験をしてきた人なら、作者の心の軌跡を一緒に辿りながら読み進めることができるだろう。淡々と、飾り気のない文章は、余分なものがなく、表現は実に細やかである。自分の内面を手探りしながら、自分のことばを探るときの、ことばのもつ力強さを感じさせてくれる。
 理想とする自分と、現実の自分とのあまりの違いに立ち尽くし、自分を変えたいと莫大なエネルギーを使い、疲れ果て、ボロボロになる。もがき尽くした絶望があったからこそ、作者は、〈あるがままの自分自身を生きる〉ことを選択することができたのだろう。孤独だが、孤立はしていないということばに、ほっとさせられる。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/03/16
Archives
livedoor プロフィール

kituon

QRコード(携帯電話用)
QRコード