伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

ことば文学賞

第8回ことば文学賞 2

 先週末の13・14日と、吃音親子サマーキャンプの事前レッスンがあり、それに関連して、うれしい話もあり、ことば文学賞の作品紹介がストップしてしまいました。つづきです。「スタタリング・ナウ」2006.2.25 NO.138より、優秀賞作品を紹介します。

《優秀作品》もう、大丈夫だよ
                    鈴木智恵(神奈川県、36歳、主婦)
 あまりの痛さに声も出ない。天井まで届きそうな、我が家で一番大きなドアに手の指を挟んでしまった。脂汗を流し、その場にうずくまると、父親のことが頭に浮かんだ。
 私がまだ生まれる前のこと、父は岩に手の指先を挟まれ、一本の指の爪が大きく変形してしまったという。「お父さんもこんなに痛い思いをしたのだろうか。今日は元気でいるだろうか…」そんなことを考えていた時、突然、電話の呼び出し音が鳴った。実家の母からだった。
 「お父さん、入院することになったよ」
 父は12年前に、脳内出血で倒れ、リハビリをしながら療養生活を送っていた。大きな病気をして、体が弱くなっていたのか、風邪をこじらせては、時々入院することもあったがいつもすぐに退院していた。今回もきっと大丈夫だろう。思わぬ父の入院騒ぎに、指の痛さのことはもうすっかり忘れてしまっていた。
 父は吃音者だった。と言っても会話に困っている様子もなく、話す声は誰よりも大きかった。消防士として、現場で仕事をしたり、緊急連絡のやりとりをするうちに、鍛えられたのだろうか? 自宅にかかってきた電話を真っ先にとって話す父の声は、家中に響き渡っていた。幼い頃、私は父が吃音者であるとは考えたこともなかった。でもやがて、自分自身の吃音の悩みが深いものなっていくと、父の話し方が、私と同じであることに気づいてしまった。父のどもる姿は、自分を見ているようだった。どもることはいけないこと、劣っていることと思っていた私は、次第に父との会話の場面を避けるようになっていた。その上、「私が吃音になったのは、お父さんのせい」、そう思い込むことで、どもっている自分から何とかして逃れようとしていた。父と吃音について話したことはない。私には、語り合える勇気がなかった。父も同じだっただろう。きっと私が傷ついてしまうことを恐れていたのかもしれない。
 母から毎日のように、父の病状を聞いていた。検査の結果はあまり良くない。ここ数年、父の老いていくスピードが速くなっていったような気がしていた。実家からの電話がだんだんと怖いものになっていった。
 そんなある日、吃音者の人達だけのワークショップが開かれる知らせが届いた。日本吃音臨床研究会が主催する吃音ショートコースで、2回目の開催だという。前回は参加しなかった。どもる姿を見られたくないし、他の人がどもっているのを見るのも嫌だった。自分と同じ吃音の「仲間」を求めていたにもかかわらず、いざとなると、最初の一歩が踏み出せなかった。迷っていた参加だったが、今まで体験したことのない、「どもる人達だけの世界」に身を置くことで、父の入院という現実を忘れられれば…そんな思いで行くことにした。
 当日、ワークショップの会場に恐る恐る入っていくと、そこには暖かい空気が流れ、仲間達が迎えてくれた。どもりながら言葉を交わすと、不安も吹き飛んで、その心地よさに感激して、胸がいっぱいになっていた。ありのままの自分でいられる場所をようやく見つけた瞬間だった。仲間達の語る言葉には力があった。それが、体験であっても、悩みであっても、心の中にスッと入ってくる。今までに体験したことのない、不思議な感覚だった。そして、私の吃音に対する思いを劇的に変えた出来事が起ころうとしていた。ただその時の私は、まだそのことが大きな意味を持っことになろうとは思ってもいなかったのだが。
 その出来事とは、伊藤伸二さんがお話の中で、吃音者であったご自分のお父様がなくなった時、本当に悲しい思いをしたが、お父様が、吃音というプレゼントを自分の中に残してくれたと思うことで、悲しみを癒すことができた。…と語られていたことだった。プレゼントだなんて…。とてもそんなふうに思うことはできない。私の吃音はあくまでも、「お父さんのせい」、治るものなら消えてほしいよ。どもることは自分なりに受け入れていたつもりだったのに、まだ別の思いがあることにも気づかされた。ワークショップの2日間、私の思いは、オセロゲームのようにパタパタと入れ替わっていた。
 仲間達とも別れ、いつもの生活に戻ってからしばらくたったある日、母から電話が入った。
 「お父さん、亡くなったよ・・」
 検査をするたびに悪いところが見つかり、ついには体に負担がかかるからと、検査することさえできなくなっていた。覚悟はしていたが、知らせを聞いて頭の中が真っ白になってしまった。荷物をまとめ、亡くなった父が待つ実家へと急いだ。
 父は和室で静かに眠っていた。入院から3ヶ月、食事がとれなかったので、ずいぶんと細くなっていた。口はしっかりと閉じられ、いい顔をしていた。葬儀屋さんの説明を受けながら、お通夜の準備が進められていった。旅支度のため、父に草履をはかせ、手に杖を持たせようとした時、母が葬儀屋さんに尋ねた。「主人は病気で、右半身が麻痺していたので、杖はいつも左手で持っていました。この杖はどちらの手に持たせたらいいのですか」
 すると葬儀屋さんは、「病気はみんな治って旅立たれていきます」。「じゃあ、お父さんの利き手の右手に持たせてあげようね」とみんなで父の右手に杖を握らせた。私は固く結ばれた父の口元を見つめながら、吃音はどうなるの? 治ってなくなっちゃうの? でもどもりは障害でも、病気でもないと思うし・・。では、父は吃音と一緒に天国へ旅立っていったのだろうか。「ねえ、お父さんはどっちがよかった? 治った方がいいと思っていた? 不自由な体も苦しかった病気からも解放されたけど、吃音の調子は今どんな感じ?」心の中で父に問いかけていた。
 父と娘で語り合うことのなかった「吃音」。3人の子ども達の中で、私だけが父と同じ吃音者であったことを父はどう感じていたのだろうか。ちょっぴり本音を聞いてみたいと思った。もう叶わないことだけど。
 父の葬儀、告別式は大勢の人に参列していただいて、それはにぎやかなものだった。遺影の父は、いつもの笑顔でにこにこと笑っていた。告別式の時、「3人のお子様達は、お父さんに怒られたことがなかったといいます」というエピソードが紹介された。子煩悩で優しい父だった。参列者の中には、「本当に怒られたことがなかったの?」とびりくりしていた人もいた。もちろん本当のことである。
 幼い頃、私は父と過ごすことが多かった。母が仕事で家を空けていたし、交代制勤務だった父は、時間こそ不規則だったが、昼間家にいることが多かったからだ。勤務明けで、疲れていたこともあっただろうが、とにかくよく遊んでくれた。しかし、後になって、私が吃音のことに対して、悩み、嫌悪感を抱くようになると、私がどもるようになったのは、この父と過ごした時間が多かったから、吃音が私にうつってしまったのではないか、と考えたこともあった。キラキラとした楽しくて、素敵な思い出ばかりだったのに。
 最後のお別れの後、ついに父の姿形はなくなってしまった。今までに味わったことのない喪失感である。もう二度と会うことはできない。悲しくて、悲しくて、父のことを思い出さないようにしていても、寂しさは募る一方だった。そんな私の脳裏に、ワークショップのときに聞いた伊藤さんのあの言葉が再びよみがえってきた。「吃音は自分の中に残されたプレゼント」。そうか、その通りなのかもしれない。人一倍寂しがり屋で、心の弱い私。父を亡くしても悲しみにくれることのないよう、神様が父と私に、吃音というものを分け与えてくれたのではないだろうか。
 昔から私は父に良く似ていると言われてきた。そっくりな顔、のんびりとした性格、そして話し方。多感な時期には、そのことが恥ずかしいと思ったこともあった。でも今は違う。私の中に父は確かに生きている。そう実感できることが、心から嬉しい。父の入院によって背中を押され、参加したワークショップ。大勢の吃音者の仲間達との出会い、吃音や父に対する思いを大きく変える出来事にめぐり合えたことは、娘を思う父の想いが、私を貴重な体験へと導いてくれたのだろうか。
 どもりで困ったこともたくさんあった。泣いたこと、悩んだことも数えきれない。もちろん今だって、不便な思いをすることもある。でも、今、「吃音」に感謝している。どもりだったからこそ、いろいろな経験をした。嫌なことの方がはるかに多かったが、そこで考えたこと、感じたことは、私が生きていく上での大きなパワーとなっている。もし吃音でなかったら、人生の中で大切な「何か」に気づくことが出来なかったかもしれない。父への「思い」も少しずつわかりかけてきた、その「何か」の一つだと思う。日々の生活の中、様々なことを感じ、父を思うことができるのは、吃音のおかげである。父からプレゼントされた私の中にある吃音と共に、これからは自分らしく、しっかりと前を向いて歩んでいきたい。
 「お父さん、私、もう大丈夫だよ。どもりで本当に良かったと思っているから。私の中で、ずっと、ずっと一緒にいようね」
 遺影の父がうなずいてくれたような気がした。

◇◆◇選考委員コメント◇◆◇
 父への思いが大変すなおに綴られている。父の入院、死を経験する中で、自分のどもりと向き合い、どもる人たちのワークショップに参加して自分の視野を広げていった。そして、そこで出会ったことばをかみしめながら前へ向かって歩こうとしている。行動することで、その区切りがついたということになる。人やことばと出会うことの意味の大きさを思う。一人で考えていたのでは堂々巡りになってしまいそうなことも、人との関わりの中で、新しい視点が見えてくる。自分の中で、深く吃音と向き合った作者は、今後、社会に向けて広がっていくだろう予感めいたものを感じさせる。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/07/19

第8回ことば文学賞

 7月に入って、吃音親子サマーキャンプの会場である荒神山自然の家との打ち合わせ、東京での「ぼくのお日さま」の試写会、「スタタリング・ナウ」7月号の編集と、バラエティに富んだ日々が続き、気がつけば、明日からサマーキャンプの事前レッスンです。親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会も、目前に迫ってきました。
 さきほど、「スタタリング・ナウ」の入稿を済ませ、ちょっとほっとしていますが、明日からの事前レッスンの準備もしなければいけません。
 さて、今日は、「スタタリング・ナウ」2006.2.25 NO.138 に掲載していることば文学賞の作品を紹介します。
 NPO法人大阪スタタリングプロジェクト主催のことば文学賞もこの年、8回目を迎えました。ことばを通して、吃音について、人間関係について、生きるということについて、書き記していこうというこの試みは、僕たちの活動の大切なひとつになっています。2006年2月17日の大阪吃音教室は、受賞作品の発表の日でした。
 30名ほどの参加者の前で、全作品が読み上げられ、ひとつひとつの作品に感想が述べられ、選考委員からはコメントが出されました。ひとつひとつの作品に、その人の人生が刻み込まれています。11人の人生に一度にふれることのできる、僕にとって、またとない幸せな時間になっています。事情によって、外部に選考をお願いできなかったので、僕が、選考委員を引き受けました。力作ぞろい、それぞれが率直に自らの人生を綴り、興味がつきませんでした。

《最優秀作品》
   隠していた頃
                 堤野瑛一(大阪府、27歳、パートタイマー)
 何かと、隠しごとの多い子どもだった。ボテボテと太っていて、目は腫れぼったく、口はいつも半開きで表情に締まりがなく、髪にはいつも寝癖がついていた。そんな冴えない風貌だった僕は、生来の内気な性格も加わって、学校でお世辞にも一目置かれる存在ではなかったし、周りの人間の僕に対する扱いも、それ相応なものだった。しかし、見た目以上に僕は、人には言えないさまざまなコンプレックスを抱えていた。
 僕は、小学3年生くらいの頃から、チック(トゥレット症候群)の症状が表れて、よく顔をゆがめたり、首をビクビクとふったり、鼻や喉をクンクンとならしていた。チックを人に知られたくなかった僕は、できるかぎり、人の前では症状を我慢していたのだけど、我慢にも限界がある。自分では症状が人の目に触れないように最善を尽くしているつもりでも、やはり気づく子は気づいていたし、何度か友達に指摘もされた。「何でそんなんするん?」と訊かれるたび、「ああ、最近首が痛くて」とか「鼻の調子が悪いねん」と、その場しのぎなことを言い、笑ってごまかしてきた。ある時教室で、症状を我慢しきれなくて、誰も見ていないことを確認し、顔を引きつらせながら首をガクガクと思い切りふり乱した。しかしふり返ると、クラスではアイドル的な存在だったひとりの女の子がじっと見ていて「頭おかしいんちゃう?」と真顔で一言つぶやいた。僕はその子に特別興味をいだいていたわけではなかったのだけど、その言葉は深く突き刺さった。しかし何ごともなかったかのように振るまい、ショックを押し殺し、自分の傷を見ないようにしていた。残念なことに、僕には当時チックの理解者がいなく、親にはチックの事を責められ、担任の先生にも煙たい顔をされたりで、チックの辛さというのは、僕ひとりの中だけに押し込められていた。また、他人に、自分がチック症という名前のついた病気があることをいつ悟られるかとビクビクし、教室のどこかで誰かが「畜生!(ちくしょう)」と言ったり、「ロマン“チック”」とか、チック症に似た言葉を言っているのを聞くたび、ドキっと心拍数があがり、冷や汗が出た。
 抱えていた悩みはチックだけではなかった。当時の僕は、相当な精神的な弱さからくる、慢性的な腹痛に悩まされていた。授業中の張りつめた空気、トイレに行けないプレッシャーから、毎時間、お腹が痛くなった。テストの時間などは最悪だった。そして、休み時間のたび、友達から隠れてこそこそとトイレに行った。もしも大便用個室で用を足しているのを同級生に見つかり、からかわれるのが怖かったため、万全を期してわざわざ別の校舎のトイレまで行っていた。学校での腹痛を防ぐために、毎朝、登校前には、長時間トイレにこもった。今ここで一生分の排泄物を出し切ってしまいたい…! そう願いながら。また、たいていの子どもにとって、遠足といえば楽しいものだけど、僕には恐怖だった。学校にいる時以上に、トイレの自由がきかないから。も…もれるっっ…、一体何度、その窮地に立たされ脂汗をかいてきただろうか。結果的に一度も“おもらし”をせずにすんだのが、奇跡的と思えるくらいだ。
 まだある。僕のヘソは出ベソで、そのことを、小・中学校にいる間中、ずっと隠し通していた。もしも出ベソがばれたら、からかいの対象になることは目に見えていたからだ。身体測定でパンツー枚になる時など、パンツはいつもヘソよりも上まであげて隠していた。太ってお腹が出ているせいで、しょちゅうずれ落ちてくるパンツを、引っ切りなしに上げ直していた。あまり上まであげるものだから、いつもパンツはピチピチしていて、股の部分は吊り上げられ、今思い返すと見るからに不自然だった。水泳の時間なども、いつも意識は出ベソを隠すことに集中していた。
 他にも、男のくせにピアノを習わされていたことや、誰もが持っているゲーム機を持っていなかったこと…人に知られたくないコンプレックスはたくさんあった。見た目もデブで不細工、くわえて運動音痴、これといって人目をひく取り柄もない。たびたび自分のことを遠くから見ながら、チックの症状を見てクスクスと笑っている女子たちに気づいたこともあった。そんな経験もあって、今でもどこかでヒソヒソ声やクスクス笑う声が聞こえると、自分のことを笑っているように思えてしまう。コンプレックスのかたまり…僕は本当にそんなだった。
 しかし僕は、そんな劣等感のさらに奥深くで、人一倍、自尊心も強かったように思う。どれだけ人からからかわれても、笑われても、大人たちがまともに相手にしてくれなくても、決して自分を卑下することはなかった。「くそ、自分はそんな馬鹿にされた人間ではない。自分にはきっと価値がある」そんな思いが強かった。劣等感と自尊心、一見そんな対極に思えることが、僕の中にはたしかに混在していた。いや、劣等感と自尊心は対極なのだろうか? 自尊心が強いから劣等感をもつ、劣等感が強いから自尊心に火がつく、卵が先か鶏が先か…そんなことは分からないけれど、とにかく両方あるから、自分を変えようとする原動力になる。
 中学生になった頃、僕は自分の容貌の悪さをさらに強く意識するようになった。これでは駄目だ、痩せよう…! そう思い立った。朝食は抜き、昼食はおにぎりかパンをひとつだけ、間食は控えて、夕食もそれまでの大食いをやめた。そして、毎晩、体重計に乗った。日に日に体重が落ちるのが楽しくて、食べることよりも、体重が減っていく達成感のほうが、快感だった。中学二年の頃には、ずいぶんとスマートになっていた。並行して、以前は親から与えられた衣服をそのまま着るだけだったが、自分で洋服を選ぶようにもなり、髪もいじるようになった。また、鏡を見るのが大嫌いだったけど、よく鏡を見るようになった。すると、それまでは半分しか開いていなかった力のない目も、自然とくっきり開いてくるし、ゆるんでいた口元も絞まる。
 また幸運なことに、クラスの同級生にたまたま、自分以外にもうひとり、しょっちゅう大便用個室に行く男の子がいた。「緊張すると、すぐお腹痛くなるんよなー。」その子は恥じらう様子もなく、いつも堂々と、チリ紙を持ち個室へと入って行った。自分ひとりではない、仲間がいる! 僕は嬉しくてたまらなかった。それ以来、その子に便乗して、「あー、またお腹痛いわ」とか冗談混じりに言いながら、人目を気にせずトイレに行くようになった。授業中に「先生、お腹痛い、トイレ!」と大声で言い、笑いがとれるようになるほど、吹っ切れた。
 そんなこともあり、自分の見た目にも以前のようなコンプレックスはなくなり、僕は徐々に明るく活発になった。そうなると、自然につき合う友達のタイプも、活発なタイプに変わってきた。もしも、以前の見るからにコンプレックスのかたまりのようだった僕が、隠れてコソコソとトイレに入って行くところを誰かに見られたら、たしかにからかわれただろう。でも、自分に自信がつき、堂々とトイレに入っていけば、誰もからかわない。出ベソを見られたって、誰も馬鹿にはしなかった。小・中学校は、ずっと地元の公立で、昔から知っている者どうしだったけど、中学も卒業し、高校に行けば、誰も僕が昔あんなだったとは、想像もしなかった。チック症のことは、おそらくたびたび、「ん?」と変に思われることもあったのだろうけど、そのことで日頃から馬鹿にされたり、とりたてて何か訊かれることもなかった。
 “変えられることは変えよう、変えられないことは受け入れよう”…太っていることは努力で解決出来た。腹痛や出ベソそのものには、対処できない。だから自分の持ち前だと認めて、隠すのをやめた。気持ちに余裕ができると、結果的に慢性の腹痛は、徐々に軽くなっていった。チックのことも、自分ではそんなに気にならないようになった。もう自分には、これといったコンプレックスは何もない…そう思っていた。
 高校二年になったころ、僕はどもり始めた。それまでは何ともなかったのに。初めは、そのうちなくなるだろうと楽観的だったのだけど、だんだんと慢性化していった。「おかしいな…」そして気がつけば、いつしか、どもりを隠している自分がいた。会話でどもりそうになると、たとえ、話が支離滅裂になってでも、どもらずにすむことを言ってごまかした。自分がどもることを知られたくない…かたくなにそう思って、隠して、隠して、隠し続けた。どもることを受け入れられず、そして、どもることを隠すがゆえに、自由がきかなくなった。まただ、こんなはずではなかったのに…。
 …あれから、もう10年が過ぎた。あまりに、いろんなことがありすぎた。
 僕は、数年前から、大阪の吃音教室に参加している。そこで、豊かに生きるためのヒントとして、“変えられることは変えていこう、変えられないことは受けいれよう”ということを学び、共感した。僕は中学生の頃、それを体験的に知っていたはずなのに、どうしてまたあの時、どもることを隠してしまったのだろう。「先生、お腹痛い、トイレ!」とか言ったのと同じように、「俺、めちゃくちゃどもるわ!」とか言って、みんなを笑わせてやる選択もあっただろうに。でも、当時はそれができなかった。どもることを、受け入れられなかった。
 今は、多くのどもりの仲間に恵まれ、たくさんの人の考えや体験に触れ“どもりながらでも、豊かに生きられる。どもる事実を認めて、どもりと上手につき合おう”と、前を向いて歩いている。どもりの悩みの真っただ中にいた頃は、自分の未来像なんてまったく描けず、ただただ真っ暗闇だったけれど、今は着実に、明るい道を歩んでいる。僕は、どもる人間だ。どもる人間が、どもりを隠そうとしたのでは、何も出来ない。たしかに、どもりは不便なことが多い。でも、どもることが理由で出来ないことなんて、本当は少ないんじゃないだろうか。ずいぶんと遠回りをしてしまったけれど、どもることが原因で一度は不本意にあきらめたことを、これからじっくり、やり直していきたい。どもりと上手につき合いながら。

◇◆◇選考委員コメント◇◆◇
 当時は、話すことさえできないほど嫌だったことでも、年月がたてば、口にすることもできるし、文章に書くこともできる。作者は、書くことを通して、当時の自分に出会っていたのではないだろうか。隠したいコンプレックスが次から次へ、これでもか、これでもかと出てくる。羅列しているかのようにみえて、実はそうではない。一つのテーマにしぼっているので、ひとつひとつのエピソードにつながりがあり、ばらばらではない。読み手をわくわくさせ、次はなんだろう? もっとないの? とさえ思うくらい、読む気を起こさせる。当時は、きっと深刻であったろうことをユーモアを交えて書いている。これは、作者の生きやすさと連動しているようだ。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/07/12

文章を綴るということ

 「スタタリング・ナウ」2006.2.25 NO.138 の巻頭言を紹介しようと読み始めて、ドキッとしました。遅れに遅れた年報の編集をしているとの書き出しに、今と全く同じだと思ったのです。僕は、今、毎月のニュースレター「スタタリング・ナウ」の編集と並行して、年報の編集に取り組んでいます。遅れに遅れとまではいかないのですが、少し遅れています。
 毎日、何か、書いています。書くという作業は、僕にとって、欠くことができない日常生活になっているのです。
 では、文章を綴るということのタイトルの、「スタタリング・ナウ」2006.2.25 NO.138の巻頭言を紹介します。

文章を綴るということ
             日本吃音臨床研究会 代表 伊藤伸二


 今、遅れに遅れた研究会の年報の編集をしている。今年度の分も含めて、4年分が滞っていた。2002年度の年報は「建設的な生き方」だ。
 文化人類学者・デイビット・レイノルズさんとの対談の中に、内観の話がある。「してもらったこと」「して返したこと」「迷惑をかけたこと」の3つを通して自分の過去を振り返っていくのだ。
 吃音内観という、新しい試みを提案してみた。吃音に悩む人たちの中には、どもることで周りに「迷惑をかけたこと」を必要以上に挙げる人がいる。例えば、会社窓口業務は、どもって応対すると、会社の信用を損い、迷惑をかけているというのだ。
 吃音に悩んでいたとき、周りの人から「してもらったこと」はないのかを振り返り、さらには、どもって私たちが話していくことは、誰かに「して返したこと」ことにならないのか。つまり、社会に役に立つことはないのかと、話を展開していった。「迷惑をかけたこと」はすぐに思い浮かんでも、「して返したこと」はなかなか思い浮かばない。そもそも、そのような発想自体が全くないのだ。しかし、結果としては「して返したこと」になるかもしれないということは出始めた。
 その中の大きなことが、私たちが自分の吃音体験を綴っていくことだとは、多くの人が納得した。だからこそ、どもる人のセルフヘルプグループ、大阪スタタリングプロジェクトが、ことば文学賞を制定し、多くの人に参加を呼びかけているのだ。
 今年もll編の大作、力作が集まった。今回は事情によって、初めて選考委員のひとりとなった。作品を気楽な気持ちで楽しく読むのと、選考委員として読むのとでは大きな違いがある。この文学賞に応募した11人だけでなく、読んで下さる大勢の人々のためにも、選考は慎重になる。何度も何度も読み返した。これまでの長い間、選考を続けて下さった高橋徹さん、五孝隆実さんのご苦労に改めて感謝の気持ちでいっぱいになった。
 私たちの周りには、吃音を治すのではなく、どう生きるかを真剣に考え、その道を歩み始めた人は多い。時には「どもりでよかった」とさえ口にする。今の時点のその状態だけを取り出せば、「あれは特別の人たちなのだ。人はそんなに強くなれるものではない」と感想をもたれる人がいるのは、仕方がないことなのだろう。
 今は笑顔でそう語る人たちの、ここまでの道は決して平坦ではない。行きつ戻りつ、悩み、落ち込み、時には人間不信に陥りながらも、やはり、人と直(じか)にふれ合おうとする、人としての営みを通して、やっとの思いで辿り着いた地点なのだ。このことは、ことば文学賞に寄せられた人たちの文章を読めば、分かって下さることだろう。
 人としての苦悩、劣等感、罪悪感など、自分を縛る苦悩をもつのは、どもる人の専売特許ではない。多くの、苦悩をもつ人たちが解放されていく道筋が、私たちにとって大きな道しるべとなったように、私たちの体験も共有できるのではないか。
 私たちが自らの体験を書き続けることは、結果として、誰かに何かを「して返したこと」になる。その、誰かとは、まずは、現在吃音に悩む人たちだろう。「今は苦しくても、ぼちぼちと自分の人生を大切に生きれば、きっと楽になれるよ」と体験を通して応援のメッセージを送っているのだから。さらにそれは吃音理解に結びつき、どもる人をとりまく人間関係にも広がっていく。そして、様々な悩みを持ちながら、自分らしく生きることを模索する多くの人々にも共通の財産になることだろう。
 書くことを仕事にしている人でない限り、自然に書く気持ちがわいてくるものではない。それなりの発表の場があることが動機となる。ことば文学賞がなければ人の目にふれることのなかった文章。その人の人生に触れることの幸せを思う。
 この春には、遅れていた4冊の年報が同時に発行される。その4冊の中にも、私たちならではのメッセージが込められている。
 発行できなかったことへの苦情や批判もなく、私たちを信頼してお待ち下さった皆さんに心から感謝致します。すばらしいものをお届けします。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/07/07

第7回ことば文学賞受賞作品 3

 ことば文学賞の優秀賞は、2作品です。今日は、昨日に引き続き、優秀賞の2作品目を紹介します。
 ことば文学賞は、大阪吃音教室が主催して、毎年、募集し、選考を経て受賞発表していますが、日本吃音臨床研究会の会員も応募することができます。今日、紹介する優秀賞作品は、「スタタリング・ナウ」購読者で、岡山県在住の方の作品です。講評の五孝さんも書いていますが、田辺さんの文章はとても素直な「いい文章」で、僕の好きな作品のひとつです。
 僕の身の周りには、自分は苦しみながらも自分の吃音を認めることができるようになったけれども、子どもがどもり始めてショックを受けた人がいます。ところが、子どもと一緒に吃音に向き合っていくなかで、どんどん変わっていきます。そして最後には、子どもと一緒に吃音と向き合った「どもりの旅」は充実して楽しかったと言います。経験した人でなければ分からない不思議な世界です。(「スタタリング・ナウ」2005.3.20 NO.127)

《優秀賞》  マイナス+マイナスは?
                  田辺正恵(岡山県在住・パート職員・45歳)

 45歳の私と19歳の長男には吃音という共通項がある。4歳の息子がどもり始めた時、目の前が真っ暗になった。頭の中が真っ白になって何も考える事ができなかったのを今もよく覚えている。
 私は吃音が原因で小学校の時いじめられた経験があり、この記憶を引きずりながら生きてきたので、どもる息子が自分のようにいじめられる! あんな辛い思いをしたらどうしよう、とそのことばかり気になった。
 コンプレックスと自意識過剰の思春期を送っていた私は中2の時、開き直って自分なりに吃音への姿勢を決めた。それは「どもる事を隠さない」、親しくなりたい人には積極的に自己開示していった。喋れば分かるのだから隠してもしかたない、どもる自分を分かって欲しかった。自己開示してそのために友だちを失う事はなかったからこれは成功したのだと思う。でも、「私はどもるの」と人に言う時、とても悲しかったのも事実だ。どもりさえしなければこんな事、言わなくても良いのだから。心の中で泣きながらそれでも自分を知って欲しくて、どもる事を告白し続けた。
 私のどもる事へのイメージはどう考えてもマイナスだ。自分がどもり出した時から息子がどもるまで20数年の時間が流れていて、その間に学校に行き、就職をし、結婚、出産とそれなりに生きて、小学校のいじめ以外に吃音で決定的に打ちのめされた事がないにもかかわらず、「どもる事は悲しく、辛く、なりたくないこと」だ。だから息子がどもるようになった時、悲しかった。「親子でどもるなんて!」
 どもる息子を育てる事は自分の吃音と向き合う作業でもあった。息子には「吃音は悲しい」イメージを持って欲しくなくて「ことばの教室」にも行かず吃音を矯正する事は一切しなかった。矯正する事は直すべき自分がいる事で、それは自己否定につながると思ったから。
 息子の吃音を否定したくない、自分の吃音は中2の時、認めたのだから息子の吃音も直視できるはずだった。でも、できなかった。思春期に決意したあの覚悟はなんだったのだろうと思うほど、どもる息子を見るのは悲しかった。私が息子にしてやれたのは、「どもるようになったけど、どもる事に負けないで!」とエールを送り、先輩の吃音者として内心のはらはらを隠しながら見守る事だけだった。吃音を言い訳にしない生き方をして欲しかった。私はそうしてきたという自負もあった。でも、そう願いながらその願いの裏側には、私の中の吃音に対する明らかなマイナスイメージがある。どもる自分を隠さない、でも、隠さない生き方をせざるをえないのって悲しい、自分ひとりでも充分辛いのに子どももなってしまうなんてダブルパンチだ。マイナスが二倍になってしまう。
 そんなふうに思いながら10数年が過ぎて、私は近頃、親子でどもる事について以前とはまったく違う考えになっている。
 それは、「どもる息子で良かった!」
 私は息子がどもり出した時、息子に自分を重ねていじめを心配した。自分のようになったらどうしようと思った。事実、息子は吃音をからかわれ、いじめられた。よく、学校から泣きながら帰ってきていた。でも、彼は私と違ってその記憶に引きずられてコンプレックスにさいなまれていない。親子で、吃音という共通項はあるけど彼は私とは違う人間だ。違う人間だから吃音への対応も当然違う。「吃音は悲しい」は私の感情であって誰もがそう思うとは限らない。この事を息子は私の傍で育ちながら私に教え続けてくれた。思い込みの呪縛から解いてくれた。どもる息子を育てなければ、わからなかったと思う。
 親子でどもって悲しいマイナスの2倍じゃなくてマイナス+マイナス=プラスだという事に気付いた。息子は私にとって一番身近な吃音者であり大切な事を教えてくれる人生の師匠だ。育児をして子どもを育てたのは確かに母親である私だが、私を人間として育ててくれたのは子どもだ。
 私には3人の子どもがいる。吃音のある長男からはいろいろな吃音者がいる事を、どもらない長女と次男からはどもらない側から見た吃音者の姿や本当にさりげない優しさを教えて貰った。
 自分が自分らしく、生きていく上で大切な事を子ども達に教わりながら、「親子でどもるのも悪くないかも!」と思っている。「どもることは不幸じゃない」と気付いたこの頃である。

〈五孝さんの講評〉
・どもることのつらさ。誰かも書いていましたが、本人にしか分からないと思います。さらに我が子がどもり出したときの母親の気持ちとなると…。いい文章です。
・やはり心の根っこに吃音へのこだわりが残っているのでしょう、子どもの吃音を機に自分の心の中を冷静に見直し、跳ね返していく力が文章によく出ています。
・「吃音は悲しい」という呪縛を持たない子どもが本当にいるのでしょうか。この思いは私だけではないかと思います。なるほどなあと読む人が分かるように書くことができれば、もっといい文章になったと思います。

※岡山在住の田辺さんの受賞の喜びの声…「伝えたいことを伝えることの難しさ」を思いました。書けば書くほど、自分の想いから遠ざかってしまう、元に戻りたいけど、どう戻ってよいか分からなくなってしまい、途方に暮れながら書きました。改めて文章を書くことの難しさと、自分の文章が下手だという事がよく分かりました。でも、書くことは楽しい! です! そのことも分かりました。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/05/23

第7回ことば文学賞受賞作品 2

 昨日の最優秀賞作品につづき、今日は、優秀賞作品の紹介です。

《優秀賞》  三つ子の魂、百までも
                      峰平佳直(大阪 会社員 47歳)
 今年47歳になった私のどもりが、突然大きく変わった。症状がひどくなり、どもりの不安不満が激減した。
 平成15年11月、通勤途中にある羽曳野病院結核病棟で、85歳の父親が私に話した。
 「こここ〜んど来る時、いいいいいいいそじまん、も・・もって来てくれ。」
 父親が他の病院に移動するまで2ヶ月間、私は毎日、着替えを持って通い続けた。そして、父親の、子どもみたいな素直などもりを聞き続けた。
 それまでの父親は、どもる事を嫌い、「どもる人はだめだ」と感じている人間だった。私は父親と同じようにどもりがちであったため、幼年期の私は「どもる人はだめだ」を父親の暗黙の「教え」として受取り、46歳までしっかりと持ち続けた。
 小学校、中学校、高校時代、暗くて寂しい時間を過ごした。「どもる人はだめだ」を心の中に持って。友達と、どもりながら楽しく会話をする事など考えられなかった。
 18歳、今の会社に就職して、心やさしくしてくれた先輩が私に聞いた。
 「峰平君は、なぜ自分の事をそこまで卑下して、悪く言うのか」
 だめな人間だと思っていた私には、その質問が不思議な気がした。会社の電話は恐怖だった。電話の用事は、すぐには済ませられない。どもりそうだと感じたら、自信が湧いてくるまで半日ぐらい後回しにしたり、トイレや屋上で小さな声で発声練習をして、気合をいれてから電話をした。
 自由に使えるお金ができ、どもりを治そうと決意して、大阪の民間吃音矯正所に通い続けた。そこは、「堂々と、ゆっくり話す習慣が身に付けば、どもりは治りますよ」と教えていた。
 3年間、本の朗読、外に出て道を聞きながら歩く実地訓練、人前でスピーチをする。私はがんばった。私は矯正所の中では堂々と話す事が出来た。
 今思い返せば、まわりみんなが「どもる人はだめだ」ばかりである。自分ひとりでは無い、劣等感を持つ事が無かったのだろう。
 出来るだけ目立たないように、暗く、おとなしく、静かにしている習慣が染み付いていた私に、大きな転機を与えてくれたのは、地域の青年会活動だった。多くのイベントをこなしていくには、他人との挨拶、お付き合い、気配りが必要で、自分の殻に閉じこもっていられなくなった。
 22歳の時、同じ道を堂々巡りをしている自分の言葉に限界を感じていた。会社に4ヶ月の休職願いを出し、どもりの東大と言われていた東京正生学院に入学した。どもりが治らない事を、ここで初めて知った。紹介された本を読みあさり、自分のどもりを考え直す時間を持てた。発声練習、上野公園で演説、自律訓練法、催眠術、ディスコ、風俗。泥酔するほど酒を飲み、どもりの集まりには進んで参加した。
 大阪に帰り、アメリカの50年前の学者が書いた、「吃音の治療」に書かれている方法を、実験して見ようと決意した。
 吃音を改善する為には、動機づけとして、日常生活で平気でどもれるようになる必要がある。一大決心をして、家族、友人、職場、近所で、どもりまくった。しかし、頭がおかしくなってきた。
 さあ今日もどもるぞう。いやどもりたく無い。弱気な事を言うな。恐い、嫌だ。
 完全な敗北である。
 「どもる人はだめだ」に対抗するだけの気力は、2日が限界だった。
 どもりでかなり悩んでいた女性の友達に、半年ぶりに電話をかけた。彼女は変わっていた。「どもりは、もう、どうでもよくなった」と言う。これが、森田療法に興味を持ったきっかけである。恐怖、不安にさからうな。そのままで良い。今、すべき事に手を出しなさい。この考え方は私を救った。電話でどもりそうで不安の時、先ず受話器をとった。次にダイヤルを回した。声が出るのが遅いので、相手は電話を切った。用件を伝えるのがすべき事なので、すぐにまたダイヤルを回した。
 続けて3回目の電話は、私の声が出るまで切らないで、待ってくれる事が分かった。
 24歳の時、東京で知り合った友人の紹介で、大阪のセルフヘルプグループの例会に参加した。23年前の例会は、毎週日曜日に開いていた。3〜4人が集まり、本を朗読したり、人前でスピーチをしたりしていた。
 近くに4畳半の事務所が有り、水炊きを作って味ポンでみんなで食べた。すっかり気に入ってしまって、2回目の参加から、例会の担当者をさせてくれと、当時の実行委員に申し込んでいた。
 「どもる人はだめだ」を、心の奥にしまい込んでいた私は、何処にいても居場所が無いような疎外感を、いつも持っていた。しかし、どもる人ばかりに囲まれるのは、自分の存在を確認できた。
 伊藤伸二さん、東野晃之さんが本格的に乗り込んできて、今のようなりっぱな大阪吃音教室になる以前の6年間、集まるだけの質素な例会の輪の中にいつもいて、周りをかき回した。担当が自分一人になっても、例会を続けていく気持ちだった。しかし、不思議に次々と新しい担当者が現れて、仲間を増やした。「10年遅れた青春だった」
 例会で、「吃音の受容」が言われ出した。私は、どもりを持ったままで生きて行こうと、人に言っていたが、しかし、「受容」の言葉に嫌悪感をはっきり持った。
 ダブルスタンダード。2つの標準を持つ。表と裏がある。理性と感情が違う。言葉と行動が違う。
 どもりを持ったままで生きる事と、受容するは、どこが違うのか。受容の言葉は私には向かないと、矛盾を感じながら背を向けた。
 どもる事にアンテナを張り、仲間を作ってきたので、親しくなる女性も、どもる人が多かった。しかし、どもる彼女に、いちずにはなれなかった。
 女性の彼女は好きだけど、どもる彼女は嫌い。中途半端な、煮え切らない男。空回りの20代の恋だった。
 親戚には、あいもかわらず、話す事ができない。
 無口で、暗く、真面目なんだけど、ちょっとたよりない印象だったと思う。当時は不思議で、何故かわからなかった。今は分かる。どもって話したら、父親が嫌がるからだ。
 父親が、大阪市内の病院を入退院繰り返していた時、自分の葬式が近い事に気がついて、「わざわざ」、結核を発病して、私の会社の近くに強制入院してきた。
 「こここ〜んど、来る時、いいいいいいいそじまん、も・・もって来てくれ。」
 2ヶ月間、父親は子どもみたいな素直などもりを、「強制的に」私に聞かせた。そして、何故か2ヵ月後、結核菌は消えて退院した。
 父親は、幼い息子に「どもる人はだめだ」の種を植え、あらゆる攻撃にも耐え抜いて、しっかり実らせ、収穫期にすべて刈り取っていった。来年の春は自分で決めた種をまきなさいと、言い残して。
 平成16年6月5日、朝ご飯を食べて、昼穏やかに、85歳で他界した。
 完全犯罪を成立させて、真実が分かったときは、天国へ高飛びである。
 今、天国で悪意のある顔をして、ニヤっと、こちらを見ている気がする。
 葬式では、父親の計画どおりに、私は親戚の前で、子どもみたいに素直にどもりながら、堂々と威厳を持って、喪主の挨拶を済ませた。

〈五孝さんの講評〉
・構成がうまいです。最初の段落、えっと思わせる。相矛盾するような表現を並べ、どういうこと?と、読み手の興味をつなげています。そして、最後の段落で見事にまとめています。構成を考えているなあと思ったのはこの作品だけです。段落ごとに話を変えて展開しているのもいい手法だと思います。
・どもりを持ったまま生きていこうという境地に達しても、「どもる人はだめだ」という父親からの呪縛から逃れられなかった、父の死で初めて解放され、素直にどもれた、というのが大意なのでしょう。しかし、私には父親の呪縛だけの問題かと感じました。うまく説明できないのが残念ですが、筆者が心の中をもっともっと見つめれば、違う文章になったような気がします。
・また、いらないと感じる段落がありました。個々の文章でも、分かりにくい個所があります。特に最後の3段落はとくに分かりにくいです。説明不足、舌足らずというより、もっと分かりやすく説明することから逃げているような気がしました。惜しいです。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/05/22

第7回ことば文学賞受賞作品

 前回、受賞発表の日の大阪吃音教室の様子と、選考をお願いした五孝隆実さんの文章を紹介しましたが、今日は、受賞作品の紹介です。改めて読み直して、ひとりひとりの物語の豊かさを感じます。

《最優秀賞》  母との思い出
                       橋元貴世(大阪 主婦 28歳)

 私が母に真剣に吃音の相談をしたのは5年前のゴールデンウィークです。
 社会人になってまだ1ヶ月程で、会社での電話に相当まいっていた時期でした。私は吃音の正しい知識もなく毎日家に帰っては受話器をもって、電話の練習をしたり発声練習をしていました。
 大学の友だちと卒業以来久しぶりに集まると、皆はまだ仕事に慣れないけれど、少しずつ覚えてきて楽しくなってきているようでした。電話で悩んでる人もいましたが、私のように電話の取り次ぎや会社名が言えないなどのそんな単純なことではありませんでした。そんな友だちの話を聞くと、私は皆がとても生き生き働いているように思い、うらやましくなりました。私は皆とは違うんだとますます落ち込みました。
 その翌日だったでしょうか。父は出かけており、姉も妹もそれぞれ彼氏とデートの為に朝から出かけて私は母と2人でした。その日は本当にいい天気でした。私は家で何をするのでもなく、ボーッとテレビを見たり、姉や妹のことをうらやましく思い、またどうして自分だけ吃音なんだろうと考えたり、ダラダラと過ごしていました。
 そんな時、私に元気がないのがわかったのか、急に母が「貴ちゃん、お弁当持って浮見堂に行こう! こんないい天気に家にいても仕方ないやん」と誘ってくれました。私は、落ち込んでいたので外に出る気持ちにはなれなかったのですが、せっかく誘ってくれているのに断るのも悪いなとそんな気持ちで家を出ました。浮見堂は家から歩いて10分もあれば着くのですが、本当に久しぶりでした。
 久しぶりの浮見堂は、新緑がきれいで、観光客がたくさんいて、ぽかぽか陽気でとても気持ちよかったです。芝生の上でお弁当を広げて食べました。いつもと変わらないお弁当なのにすごくおいしくて来てよかったと思いました。お弁当も食べ終わり、2人で少し歩いてベンチに座りました。
 そこで、私は急になぜ話そうと思ったのかはわかりませんが、吃音で悩んでいることを話しました。就職活動の時に少し言ったことはあるのですが、会社に入って慣れてきたら吃音は治ると思っていたので、真剣には話していませんでした。
 「カ行とタ行が言いにくい。最近、ア行も言いにくくなってきて、電話で最初にありがとうございますのアが出ないのがすごくしんどい」
 「えー! そんなん初めて知ったわ。そんなことってあるんや。でもいつも言えてるやん」
 「それは私が言い換えしてるからやねん」
 「それやったら貴世のタも言いにくいん?」
 「うん」
 このような会話が続いて、母はすごく驚いた様子でした。私は言いたいことが言えて少しすっきりしましたが、母は考え込んでいるようでした。
 それからしばらくたったある日、テレビか雑誌で見たのか分かりませんが、左利きを右利きに無理矢理直すと吃音になるという情報を聞いたらしく、「お母さんのせいかな?」と言いました。確かに私は小さい頃お腹が一杯になると、食べるのがいやになるのか左利きになっていたような気がします。しかし、私は中学2年の時の塾の先生のことが怖くて、発表するときにだんだん言いづらくなって吃音になったと思っているので、それは違うよと母に言いました。
 就職活動の時には、「気」というか「念力」をかけたメダルをもっていると吃音も治ると言われ、母もなんとかしようと必死だったようで、遠い地方へそれをもらいにいってくれました。そのように心配をかけていたのに、就職してからもまた母に心配をかけてしまったと、本当に申し訳ないと思っていました。
 それから、私はこのままだと会社にいられなくなると思って、吃音を治しに「話し方教室」へ行きました。母も賛成してくれていましたが。かなりの高額な為に心配もしていました。ですが、1年程たっても効果はありません。ここでは吃音は治らないと見切りをつけ、次に私が行ったのが大阪吃音教室でした。「吃音と上手くつきあおう」というのがどんなのか知りたかったのです。
 そこではみんなが堂々と楽しそうにどもっていて、前の「話し方教室」のようにどもったら注意されていた世界とは全く違っていました。私はとても満足した気持ちで家に帰ると母が玄関の前で待っていてくれました。私は「どもってもいいんやって」と教室での様子を話ました。母も「そうやで、どもったっていいんやで」とこたえてくれました。
 その日以来、吃音の相談は大阪吃音教室でするようになり、母にはしなくなりました。
 そして、家でもどもれるようになってきました。それでもたまに吃音の話になると「なかなか人にわかってもらえない悩みを抱えてがんばっている」と言ってくれます。ところが今の私は母が思っているよりもずいぶん楽になっています。「今は本当に、全然、吃音には悩んでないから心配はいらないよ」というのですが、わかっているのかわかっていないのかよく分かりません。ですが、吃音について母にわかってもらおうと話し合うつもりはありません。説明するよりも私が元気でいる姿を見せるのが何より母に心配をかけた恩返しだと思っています。
 あの日、浮見堂で真剣に話を聞いてくれたことは私にとってとてもよかったことでした。
 否定されたり、そんなことで落ち込んでどうするのなど言われていたらもっと落ち込んでいただろうと思います。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

〈五孝さんの講評〉
・最初に読んだ時は、さほど強い印象はなかったのですが、2度目、3度目になるといいなあと感じました。飾り気のない、素直な文章。たんたんと書いています。すっと読めました。分かりにくいところは、「メダルをもっていると……」の一個所だけでした。
・テーマも、お母さんとのからみだけに統一されています。「どもってもいいんやって」「そうやで、どもったっていいんやで」。なにげないやりとりのなかで、親子の愛情が描かれています。お母さんの愛情をしっかりと受け止めていることが伝わってきました。
・吃音と上手につきあおうという気持ちになるのは難しいことだと思います。でも、この筆者はやり遂げるような気がします。読者にそう思わせるというのは、この人の文章の力でしょう。
・難は句読点の打ち方。もっと考えた方がいいでしょう。句読点の打ち方は人によって様々のようですが、私はかなり多く打つ方です。私は皆さんと違って実際に声を出して読むことはしませんが、頭の中では書きながら声を出しています。リズムを考え、言葉を切った方が良いと思ったところで句読点を打ちます。

※注紹介した文章は、五孝さんの指摘を受け、句読点が少し修正されたものです。また、分かりにくいと指摘されたメダルのところも少し加筆・修正されています。

 この五孝さんの講評を聞いて、橋本さんは涙した。この素直さが、きっと最優秀賞につながったのだろうと思う。…筆者はやり遂げるような気がします…との五孝さんのことばは、橋本さんにとって、静かで大きな応援になったのではないだろうか。(「スタタリング・ナウ」2005.3.20 NO.127)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/05/21

第7回ことば文学賞

 「スタタリング・ナウ」2005.3.20 NO.127 の巻頭言、「私は書き続ける」の紹介後、ことば文学賞の受賞作品を紹介するつもりでいたのですが、うっかりして、次の号の巻頭言を紹介してしまいました。元に戻ります。
 大阪スタタリングプロジェクト主催の第7回《ことば文学賞》の受賞作品を紹介します。
 ことばや吃音について、そして自分について、文章に綴り、私たちの体験を多くの人に届けよう、文章を通じて語り合おうと始まったことば文学賞は、ひとりの人の人生にふれることのできるいい機会ともなっています。
ひと欄 第7回の応募作品は、前年と同じ15点でした。これまでの選考者の高橋徹さんに代わり、高橋さんの朝日新聞記者時代の後輩であり、日本吃音臨床研究会とのおつきあいの長い五孝隆実さんに、講評と選考をお願いしました。五孝さんは、自分自身がどもる人であり、仲間として強い関心をもって、1986年8月、京都で開いた第1回吃音問題研究国際大会会長の伊藤伸二のことを、朝日新聞の名物コラム「ひと」欄で紹介してくださいました。

 2005年1月21日(金)の大阪吃音教室は、ことば文学賞の発表でした。誰が入賞したかは、誰も知りません。応募した人はもちろん、大勢の参加者が、わくわくしながら集まってきました。
 では、その日の教室の様子から紹介します。

 
第7回ことば文学賞 受賞作品発表の大阪吃音教室

 まず、薄緑色の冊子にまとめられた応募の全作品を読んだ。作者自身が読んだものもあるし、参加していない場合は、代わりの者が読んだ。15点全てを読むと、かなり長時間になるが、どの作品にも、作者の思いがあふれていて、うなずきながら聞き入った。そして、その中から、まずは参加者で、いいなあ、気に入ったなあと思う作品を挙手で選んでみた。
 「どれにしよう」、「あれはもよかったなあ」、「こっちもいいなあ」、そんな声があちこちから聞こえてくる。上位3点が決まった。
 いよいよ五孝さんによる選考の発表だが、この日、どうしても参加できない五孝さんに代わって、コメントを紹介しながら発表した。今回、私たちが選んだ作品と五孝さん選考の作品が見事に3点とも合致した。違うのもおもしろいけれど、ぴったり合うというのも、なんともいえずうれしくなってくる。
 選考にあたって、五孝さんは、《書くこととは》《応募作品を読んで》という2つの文章を寄せてくださっている。これまで文章を書くことを生業としてこられた人のもつ厳しさと、同じどもる人としての温かさを両方味わうことのできる文章である。受賞作品につけられたコメントも、うなずけるものばかりだった。長く、私たちの活動を見つめ続けてきた方ならではの視点がうれしい。

◇◆◇書くこととは◇◆◇
・書くということは、自分の考えや思いなどを人に伝えることです。人にきちんと伝わらなければ意味がありません。わかりやすさが基本です。いわゆる名文であることは二の次です。読む人の心、頭にすっと入っていける文章の構成、言葉の選択が問われます。
・何を伝えたいのか。書く作業を通して、考えや思いを整理する、掘り下げる、突き詰めていくことが大切です。どこまで整理し、掘り下げ、突き詰めていけるか。その作業が書く本人にとっても魅力だし、読む人を引き込む原動力になります。
・他人の文章を読むのは、かなりしんどい作業です。たいがいの人はしたいことがいっぱいあります。だから、書く側は簡潔な文章に徹した方がいいでしょう。意味不明なところなど、ちょっと蹟く個所があると、もう読んでもらえないものだと考えた方がいいでしょう。

◇◆◇応募作品に寄せて◇◆◇
・どの文章も、吃音をどう受け容れるか、その苦悩を語っていて、同じ経験をしている私は胸をうたれました。
・スムースに言葉が出ないことはつらいに決まっています。伝えたいことが伝えられないし、ほかの人と違う自分が恥ずかしい。どもりであることが自分のすべてだと思ってしまい、劣等感にさいなまれます。ここまでは自然な心の動きでしょう。要は、このあと、どうするかです。
・伊藤伸二さんの文章の魅力は、悩みながら繰り返し繰り返し考え抜いてきたことから来ていると、いつも感服しています。作文のテクニックではなく、内面の葛藤が文章力を鍛えたのだと思います。
・初めて読ませてもらって素直な文章が多いのに感心しました。逆に言えば、もっと心の中を掘り下げてほしかったという気持ちも否めません。人を引きつける文章は心の葛藤をさらけ出して初めて書けるような気がします。
・ただ、文章の巧いか下手かは、人によって評価が異なると思います。素直に書くのが一番だと私は思っています。
・技術的なことを少し書けば、全体に文章が詰まりすぎています。もっと整理し、さらに改行をもっと増やした方がいいと思います。それだけでも読みやすくなります。少なくとも途中で読むのを放棄されることから、いくらかでも免れます。(「スタタリング・ナウ」2005.3.20 NO.127)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/05/20

私は書き続ける

 今日は、「スタタリング・ナウ」2005.3.20 NO.127 の巻頭言を紹介します。
 この号の2面からは、ことば文学賞の受賞作品を紹介しています。今も続けていることば文学賞は、体験の宝庫です。

  
私は書き続ける
           日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


毎日毎日、私はなにがしかの文を書いている。文章とはかぎらず、ふと頭に浮かんだことをメモとして残すものも含めれば、おそらく書かない日はほとんどないだろう。
 散歩をしているとき、これまで考えていたことだが、ひとつの固まりとして表せなかったことが、文章としてふと思い浮かぶことがある。忘れないようにと、何度もそのことを心の中で繰り返しながら急いで帰るが、家に着いたときには、肝心の部分が抜け落ちてしまっている。これではいけないと、ボイスレコーダーを買い、さあ、いつ、いい考えが浮かんでも大丈夫だ、と散歩にでかけるが、そんなどきには、あまり浮かんでこない。それがたびかさなると、つい持ち歩かなくなる。そんなときにかぎって、また、ふと思い浮かんでくる。これは、私には書きたいことや書かなくてはならないことがいっぱいあるからだ。しかし、それらが文章として形をなして、他者に読んでいただけるものになるのは、ごくごく一部にすぎない。私のからだは、それを早く表へ出してくれと、ときどき、せかせるのだが。
 日々、いろいろな人と出会い、いろいろな出来事と出会う。その時感じたことや考えたことを文章として残していけたら、どんなにいいだろうと思う。それらが、私が本当に書きたいこと、書かなくてはならないことに結びつくのだと考えた。だから、平井雷太さんの主宰する考現学に入れていただいて、毎日書くことを自らに課した。追い込んだのだ。なまけものの私には、環境を整え、条件を作って追い込んでも、毎日ひとつの作品らしきものとして、他者に読んでいただくものとして、書くことはできなかった。毎日何かは書いているにもかかわらず、である。
 書くことはつくづく不思議なものだと思う。仕事として原稿執筆依頼をうけて書くこともある。自分の身に余るテーマだと思っても、断ることはない。つい何でも引き受けてしまう態度が身についてしまっているからだ。引き受けたからには、まっとうしなければならない。締め切り間際にあわててとりかかることも少なくない。断り切れずに何でも引き受けてしまう自分が嫌いではない。のっぴきならない場に自分を置くと、動かざるを得ない。大きなテーマだとかなりの本を読んで考えを確認し、深めなければならない。これは、狭くなっていく自分を広げていくまたとない機会となる。新しい本との出会いもある。
 こうして、書かなければならない仕事としての書くことが入ると、当然自分の書きたいことがおろそかになって、これはどんどんと引き延ばされていく。このようにして、私のからだは、常に書きたいこと、書かなくてはならないことであふれてしまうのだ。しかし、作家のように書いてばかりの生活をしているわけにはいかない。大学や専門学校での講義はあるし、電話による相談も多い。思いはあっても、それが文章として姿を変えるのは、それほど容易な作業ではない。
 書きたいことがあるのは、つくづく幸せなことだと思う。これは吃音が私に与えてくれた最大の贈り物ではないかとも思う。吃音にあれほど深く悩むことがなかったら、ここまで書きたいという思いが募ることはなかっただろう。また、ひとつの主張をもつこともなかっただろう。
 「どもっていても大丈夫、吃音もいいもんだよ」
 私の書きたいこと、本当に書かなくてはならないのはただ一つ、このことだ。この『スタタリング・ナウ』の巻頭言も127号。以前のニュースレターを含めれば、200号以上になるだろう。
私はこのことだけを書きたくて、書き続けてきたことになる。まだ続いて書くことがあるのかと思うこともある。しかし、吃音は書けども書けども枯れることはないようだ。吃音にはそれほど奥の深い、とてつもなく広い世界があるのだと思う。
 ことば文学賞も今年で7回。書くことの喜び、書くことの意義を知る人々がどんどん広がっていくことはとてもうれしい。
 私は今日も書いている。書き続けている。(「スタタリング・ナウ」2005.3.20 NO.127)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/05/18

第6回ことば文学賞〜書き続けてほしい〜

 「スタタリング・ナウ」2004.2.21 NO.114 に掲載している受賞作品をもうひとつ紹介します。目でさっと読むだけではなく、声に出して読んでみると、この作品の面白さが見えてきます。
 作品の紹介の後に、選者の高橋さんのコメントも紹介します。長年、僕たちの「ことば文学賞」に関わり、文章を書くことの楽しさ、喜びを伝え続けてくださいました。
 阪神淡路大震災の時、お見舞いに行くと、家が壊れ、たくさんの書籍が散乱し、「本棚の書籍に殺されそうだった」と避難所になっている体育館でお話くださったことを、今、懐かしく思い出しました。ありがたいおつきあいでした。
 「長く書き続けてほしい」のことばを僕はしっかりと受け止め、毎日、書き続けています。

《優秀賞作品》
   吃音に捧げるあいうえお
                  掛田力哉(大学生・27才)

  あいさつ
ありがとうさえ
言えないわが身の
うらめしさ
笑顔をせめて
思いに代えて

  吃音に捧げるかきくけこ
カケタコケタ(仮名)は
吃音です。
苦しんだけれど
けっこう最近
これに夢中!

  詩歌もよう
さみしさのつれづれに
詩をしたためています あなたに
すぎゆく思い出 かなしいでしょ
   だから書きたいのよ わかるでしょう
責め続けた思いを 詩につめて
   私の中の あなたにおくる
そんなあなたとの日々が
   季節の中でうもれてしまわないように

  ため息
他愛もない言葉が何よりも欲しい
ちょっとした冗談がうらやましい
積もる話を何時間でもしてみたい
定型詩には
とても収まらぬあれこれが言いたい

  寝床の夢
悩んだのはやっぱり恋、恋、恋!
逃げて帰ったふとんの中で、
   ペラペラ話す妄想にふける
塗り替えたい記憶の数々
寝言でなら言えるかしら?
残された現実と相変わらずの片思い

  変だなあ?
「話し方がすき」
「一言ひとことが面白い」
「雰囲気がある」
「弁論大会代表になってください」
本当に私が言われたことなのですよ、
   変でしよう??

  むかしむかし・・
真面目な少年がおりました。
ミジメなのが本当の所でした。
無口で一言も話さないものですから
目立たないはずでしたが、
   叱られてばかりなので目立っていました。
物語は大した変わりも無いままに、
   そのままずうっと続いてゆくようでした。

  止めたくない
やめないで、
勇気を出して書いてこれたのは
読んでくれる仲間ができたから。

  ロック21世紀
ランドセルしょって
   もう一度やり直したくはないけれど
リレーゾーン 吃音のバトンを受け取って!
ルート21 コトバの新しい道を走り続けて!
レボリューション
   きっと何かが変えられるはずさ!
Rock'n'roll ドッドッドモリの熱い魂で!

  吃音に捧げる和音(わをん)
われいまこそ どもりそなたに
ゐやまうしたし
ゑんずることなく
をしみたまへん
  (現代語訳)
わたしは今こそ 吃音あなたに
お礼申し上げたいのです
恨むことはもうありません
ずっと大切にさせて頂きたいと
   そう思っているのでございます。

〈高橋さんのコメント〉
 うかつにも、最初は「目読」してしまい、すべてが五十音の仕掛けに気がつかなかった。
 口ずさんで、そして…。作者の言葉に対する感性に脱帽。


作品を読んで
                  高橋徹


 15点の作品を読ませて頂いた。
 その感想を記す前に選者自身のことを書かせて頂くことをお許し頂きたい。
 実は、昨年の夏に体調を崩し入院加療を続けている。夏風邪、急性の脱水症状などで救急車騒動であった。秋口に入りようやく落ち着いてきたのだが、自分が自分でなくなっていることに気付いた。「読み書き」が変わっているのだ。
 思い感じた詩の一節を口ずさむのだが、周囲には捻っているとしか聞こえていないようだ。あとで手を入れようと思っていた殴り書きが自分でさえも読めない。頭の中では、確かに読んでいる、創っている、書いているのだが思うように表現できない。これが「老い」というものかと愕然とした。

 ええいと息子の手を借りることにした。(お預かりした原稿を)自身で読んだあと、音読してもらう。広辞苑もひかせる。書き出すのはもう少し大変だ。自分しかわからないメモを拾い拾い読み上げ、彼しかわからぬ乱筆で文章に。ワープロ打ちしてもらい、それを目で読み、また音読させ、さらに注文をつけて清書へ。

 こんな過程を経て皆さんの作品を読んで一番驚いたのは言葉への敏感さである。教室などでよく話すことに「とにかく声に出して読んでごらん」がある。リズム、係り言葉、過剰や言い足り無さ…その殆どが、声に出して読むとわかってくるものなのだ。
 この点において、どの作品もとても心配りが出来ている。あるいはしようとしている。細部においては「こうしたら…」と思う箇所もあったが、常日頃、発する言葉に気を遣っているのだなあと改めて思わせてくれた。

 さて、音読によって表現の調子をわかってきたら、次は、もっとギュッと刈り込むことを考えたい。ひとつの作品のテーマは基本的にひとつの筈。なのに、どんどん枝葉が繁ってしまっている。直感的な言い方だが、どの作品もあと2割から3割は短くなると感じた。そうすればもっとテーマが鮮明に浮かび上がってくる。
 文章を書くと自分が見えてくる。書き続けて欲しい。(「スタタリング・ナウ」2004.2.21 NO.114)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/03/28

第6回ことば文学賞

 ことばについて、吃音について、そして自分について、しっかり向き合い、綴ることで何か見えてくるものがあるだろう、また後に続くどもる人たちに大切にしているものを伝えたい、そんな思いで始まったことば文学賞。たくさんの人の人生にふれることができる絶好の機会となっています。
 第6回目は15編が集まり、元朝日新聞記者、カルチャーセンターなどで文章教室を開いておられる高橋徹さんに講評と選考をお願いしました。体調が悪い中、息子の順さんにもお手伝いいただいて、一編一編丁寧に読んでいただきました。
 「スタタリング・ナウ」2004.2.21 NO.114 から、受賞発表の日の大阪吃音教室の様子と、作品を紹介します。

ことば文学賞発表の日〜大阪吃音教室〜
 ことば文学賞発表の1月16日、大阪吃音教室は、35名の参加があり、熱気に包まれていました。参加している作者がそれぞれ自作を読みました。
 聞いていた参加者がふと思い浮かんだことや感想を話します。作者に質問したり、自分の体験を思い出して話し始めることもありました。
 作者も作品への思い入れを語ります。その後で、高橋さんのコメントを紹介しました。参加者の感想とぴったりだったり、なるほどそんなふうに表現できるのかあと、納得したり…。
 このとき、まだどの作品が受賞したのか、参加者は知りません。作品朗読の後、いいなあ、気に入ったなあと思う作品を、参加者全員による挙手で選んでみました。そして、いよいよ高橋さんによる審査の発表を行いました。温かい拍手の中、記念の楯と副賞の図書券が手渡されます。喜びいっぱいの受賞者の横顔が輝いた瞬間でした。
 2時間の吃音教室があっという間に終わったような気がしました。
 悩んでいた頃は、あれほどまでに嫌いだったどもりについて綴った文章が、こんなに心地よく耳に入り、やさしく温かい気持ちにさせてくれるなんて、参加した人の多くが、そんな不思議な空間を味わっていたことだろうと思います。
 受賞作を紹介しましょう。

  仮面
           堤野瑛一(大阪スタタリングプロジェクト・会社員・25歳)

 つい最近になって、やっと実感出来る様になってきた事である。僕は確実に、昔の僕ではない。僕はようやく、仮面をはずす事が出来たのだ。
 昔、僕は人前でどもる事を恐れ、人前で自分がどもる事がバレる事を恐れ、ずっと無口な人間を演じていた。必要最低限の事以外、何も言葉を口にしなかった。でも僕の中にはいつも不完全燃焼な気持ちが残り、大きなストレスを抱えていた。
 「本当は違うんだ、僕には喋りたい事がもっと沢山あるんだ。意見だって自論だって興味だって、もっと口にしたい事が山ほどあるんだ!」
 僕はいつも、心の中でそう叫んでいた。
 でも今は違う。今では訊きたい事を人に訊き、喋りたい事を何でも喋り、以前の様な不快なストレスは殆どない。決して吃音が治ったわけではない。人前でどもりながら喋っている。思い切りどもっている。
 昔の僕は、注文を言う事が出来なかったので、一人で喫茶店に入れなかった。コンビニで煙草を買う事が出来ず、いつもわざわざ自動販売機を探し買っていた。店にいって、分からない事があっても店員に聞くことが出来なかった。仲間との会話で、どもる事が嫌なばかりに、知っている事や分かっている事を、知らない、分からない振りをして何も喋らなかった。でも今は、この全部が出来る様になった。
 そう、僕はどもりを隠さなくなった。どもる自分を認める事が出来る様になったのだ。今になって考えてみると、それは当然の事の様にも思う。目の見えない人間が見える振りを出来ない様に、耳の不自由な人間が聞こえる振りを出来ない様に、片足のない人間が松葉杖を使わずに歩く事が出来ない様に…、又、どもる僕がどもりでない振りなど出来る筈がないのである。
 …どうしてこんな事に今まで気がつかなかったのだろう。認められなかったのだろう…。結局僕は昔、背伸びをしていただけなのである。自分を実際より大きく見せようとして無理をしていただけなのである。健常者という名の仮面をつけていたのである。だけど今になって、ようやく等身大の自分を人前にさらけ出す事が出来るようになった。仮面をとる事が出来た。
 自分を実際より大きく見せる、格好良く見せる、こんなしんどい事はない。人間は所詮、等身大でしか生きられないものである。確かにどもりは格好悪い。しかしそれが自分なのだ。実際の姿なのだ。
 しかし何も僕は、自分一人の力だけで今の自分になれたわけではない。僕の周りには、ちゃんとモデルがあったのだ。どもる事を受け入れ、人前で堂々と等身大でどもりながら喋る人間が、僕の周囲にいる。そう、見本があれば、人間というのは生きやすいものである。自分が理想とするものが、実際にモデルとしてあれば、非常にその理想の姿に近付き易いものである。そういったモデルの方々のお陰で、僕はその人達を具体的な理想とする事が出来、そして一歩一歩近付く事が出来たのである。そのモデル達に、僕は感謝したい。
 …今でも、この時はどもりたくないなとか、今どもってしまって恥ずかしいなと思う瞬間はしばしばある。しかし、もう僕は仮面を付ける事は望まない。仮面を付けると、視界が狭いし、息苦しいのである。これから僕は、素顔をさらして生きていく。そう、仮面なんてない方が、顔が涼しいし、生身の空気を肌で感じる事が出来るから…。

〈高橋さんのコメント〉
 段落ごとの入り方がうまい。「つい最近」「昔、ぼくは」「でも今は」「そう、」「…どうしてこんなことに」…。惹かれるように次の段落へと進む。多重人格、仮面夫婦などが現代社会の問題となっているが、「仮面をつけると、視界が狭いし息苦しい」に仮面の負の本質を言い当てている。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/03/27
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