「スタタリング・ナウ」2011.1.23 NO.203 に掲載の、ことばの教室の実践を、2回に分けて紹介します。日々の実践を丁寧に振り返る中に、子どもの様子、気持ち、ことばがいきいきと綴られています。そして、担当者である高木浩明さんの正直な気持ちも素直に表現されています。このような取り組みがされていたら、吃音とともに豊かに生きる子どもたちが増えていくんだろうなとうれしくなります。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/05/14
吃音を学び、吃音を生きる子どもたち
高木浩明(宇都宮市立雀宮中央小学校 当時)
1 はじめに
これまで、ことばの教室で出会ったどもる子どもたちは、自分と友だちの話し方が違うことに、通級開始前から既に気付いていた。「どもることで特に困ってはいない」と言う子もいたが、じっくり話を聞いていくと、病気じゃないかと心配になったり、一人で治そうとしたり、あるいは気付いていることを含めてまわりの人に隠したりしていた。
そんな子どもたちにとってことばの教室が、まずは安心できる空間、どもる自分を隠さずにいられる場所になって欲しいと思いながら、どもりのことを含めて、ストレートに話し合ってきた。
子どもたちと、最初に話すのが、どうしてことばの教室に来たのかである。すらすら答えられる子も、なかなかことばが続かず拙い表現になる子もいるが、どの子からも真剣なことばが返ってくる。吃音のことは知らなくても、自分のことばのことは分かっていて、それを何とかしたいと思っている。そんな、自分のことばの問題に、きちんと向き合おうとしている姿がそこにある。
ことばの教室でのこれまでの実践をもとに、どもる子どもたちが、どんなことに取り組み、その中で何をどう学んでいるのか、整理していきたい。
2 「どもる」を知る
「ことばの教室に行く前から、みんなみたいに話せない。ことばがすうっと出てこないから、どうしよう、いやだなあと思っていた。病気みたいなもの、治さなきゃならないものだと思った。ことばの教室で、初めてどもるということばを聞いて、そういうのがあるんだと分かった。ぼくだけじゃなくて、どもる子がたくさんいて、大人のどもる人がいて、どもったまま大人になってもいいんだと思った。だから今のままで大丈夫なんだと安心した。」ことばの教室に通い始めた1年前のことを、A君(2年生)は、こう話してくれた。A君だけでなく、子どもたちが「どもる」ということばを全く知らないのが、今では普通になっている。
昨年、本校の6年生全員を対象に、「どもる」ということばを知っているか調べてみた。その結果、ことばの意味はよく分かっていないという児童を加えても、知っているという回答は1割に達しなかった。その一方で、実際にはどもる人に出会った、テレビで見たという児童が8割強いた。どもるということばが子どもたちのまわりから消えたために、どもる子どもたちは、友だちや家族と違う自分の話し方を意識しつつ、それを「つっかえる」「かむ」「ひっくりする」と自分なりのことばで表現する。
ところで、吃音を治す、改善する方法が確実にあるなら、その方法を学べばいい。どもるということばを知らなくても特に問題にはならない。知らないうちに、治ってしまえば、それで済んでしまう。
吃音は自然に変わっていくものだとしても、私はこの「どもる」を知ることが、子どもたちが「吃音を生きる」ために、必要なことだと考えてきた。それは、私はどもりを治せないからであり、子どもたちは自分がどもることに気付いているからだ。そして、「どもる」ということばがあることは、あなた一人ではないというメッセージだからである。
これまで全く耳にすることがなかったため、子どもたちは、「どもる」を純粋に話し方の状態を表すことばとして受け止めていた。ことば自体にマイナスの意味を持たせたり、差別的な意味合いを重ねることはなかった。どもらない子どもたちも、吃音についての説明を聞いて、同じような反応を示す。だからことばを知った後、それをどう意味づけるのか、どもることをどう捉えるかが、子どもたちが吃音を生きる上で、大切になってくる。どもるのはいけないことだ、治さなければならないと考えれば、当然マイナスイメージが拡がっていく。
子どもたちは、どもる大人がいることから、2つの意味を読み取っていく。一つは、どもりが治せるのなら、たとえ子どもの時にどもっても、大人になるまでには治している。どもる大人がいるというのは、治らないどもりがあることになる。そう考えて、「ちょっとショックだ」と話した子どもがいた。その一方で、どもりながら仕事をして、結婚をして、生活している大人がいるんだから、自分のどもりが治らなくても大丈夫なんだ。今のまま大人になってもいいんだとホッとした子もいる。
「どもる子は、どこにいるの?」「何年生?」「会えるの?」と、自分と同じようにどもる子どもがいることに、A君は強い興味を示した。そして、日本吃音臨床研究会主催の吃音親子サマーキャンプの集合写真(「『吃音ワークブック』解放出版社」の表紙の写真と同じもの)を見て、「どもる子がこんなにいるんだ」と、ニコニコ笑顔になった。子どもたちにとって「どもる」ということばを知ることは、どもる子どもやそして大人がいる。どもりながら、みんな生きていると知ることではないか。だから、安心してホッとするんだと思う。どもるということばを知ることの意味は、決して小さくない。
3 「治せない」を知る
自分の中に何か(問題が)あるから、ことばの教室に行くことになったと思っている子どもたちにとって、それを治したいと考えるのは、ごくごく自然なことである。その気持ちが痛いほど分かる、知っているからこそ、治したいと思うどもる子どもに、「治ったらいいね」「がんばってみよう」とは言えない。「ごめんなさい。私には治せない」と伝えなければならない。重い事実であるけれど、率直にそう言わなければならないと覚悟する。このことを避けて、吃音を生きる子どもに同行することはできない。苦しくても事実を真摯に話すことが、「私はあなたに正直に向き合い、一人の人として真剣につき合おうとしている」と、子どもに伝えることになる。子どもたちには、そう受けとめる力があると信じて、私は話している。
これまで通級した子どもたちは「ショック」「何でー」と思ったという。その一方で「そんなに落ち込んだりしなかった」「そうなんだ。やっぱり」と思った。さらに、高学年のある児童は「治せるなら、お母さんが、病気でお医者さんに行く時みたいに、『がんばって治そうね』とか言ったと思う。そう言わないから、風邪を治すみたいにはならないと、何となく分かっていた」と話していた。
治したい、治ったらいいなあという気持ちがある中で、治す方法がない現実と、どう向き合うか、子どもたちと一緒に考えていく。A君は、初回面接の中で、「先生がお医者さんだったらいいのに」「お医者さんなら治せるはず」と言ってきた。治す手術や薬はないと伝えると、「え〜、どうしてー」と反応する場面もあった。そこで、どうして治したいのか一緒に考えると、治したいのは、単に「友だちと同じような話し方になりたい。どもりたくないから」ではないことに気づき、その先にある自分の思いを考え始めた。
同じ質問に、「よく分からないけど」「何となく」と、少しずつそう考えるようになったと答える子も、「まねされた」「笑われた」「スラスラ話せないと嫌だ」「恥ずかしい」「発表できない」等、具体的な理由を挙げる子もいる。A君は、「友だちに、『だめ』と言われるんじゃないか」「こういう話し方は、治さなきゃいけないと思われるんじゃないか」という気持ちから、ことばの教室に行く前から、治したい、治さなきゃと思い、自分で治そうとしていた。だから、「友だちが、どもっちゃだめと言わなければ、今のままでも大丈夫」と思えるという。
どもりたくないから治したいと、治すことをゴールにせずに、どうして治したいのか、その治したい気持ちを出発点に、吃音を、自分を見つめ直す中で、子どもたちは、本当にどもることはいけないことなのか、治さなければならないのか考え始める。今まで当然と思っていた考えに、疑問符を付ける。すると、吃音は自分ではどうすることもできない不気味なものではなく、自分が考え、行動することで捉え方が変わる相手だと分かってくる。「みんながどもりのことを、ちゃんと分かってくれたら大丈夫」「親友にどもりのことを話せたから、そんなに心配しなくなった」と話す子どもたちは、どうして治したいと思ったのか、そして自分ができることは何かに気付いている。
もちろん、この子たちが悩まなくなったわけでも、治さなくてもいいと思うようになったわけでもない。治したい気持ちは自分の中にあるけれど、「何とかやっていけそう」とちょっと思えるようになった、そんな感じである。だから、時には、「治ったらいいのになあ」ということばも出てくるし、隠そう、ごまかそうとしたり、治す方法がないか考えたり、それを試したりもしている。そういう自分を認めつつ、吃音は自然に変化するが、治す方法は分かっていない事実を受け止め、日常生活に出ていくことが、吃音を生きることに繋がっていくのだと思う。
4 吃音について考える・知る
10年以上前に出会った子どもたちも、ことばの教室は、吃音を学習する所だと認識していた。始めは、「どうしてどもるの?」「どもる人はどれ位いるの?」「どうして歌はどもらないの?」といったシンプルな疑問が中心だった。やがて「友だちは、私がどもっても、別に何も言わないけど、本当は私がどもることに気づいているんだろうか」「買い物する時にどもったら、どんなふうになるんだろう。お店の人に通じなかったり、怒られたりしないだろうか」と、吃音が、自分の生活にどう影響しているのか考える内容に変わっていった。
吃音の原因に関しては、どもる真似、遺伝、ショックな出来事、弟や妹の誕生、引っ越し、階段から落ちたなど、様々な情報がインターネットなどに出ている。子どもによっては、そうしたものを直接見たり、話に聞いたりして、それがどもる原因だと思っていたりする。さらに、子どもたちには、何かどもる理由を見つからないとよけい不安に感じるところがあるようで、それが自分なりのどもる原因作りに繋がったりする。子どもたちからよく聞くのは、「自分が何か悪いことをした」例えば「ウソをついたから、どもるようになった」といった話である。本当にそう思うのか聞くと、「そう信じているわけじゃないけど、何か理由がないと嫌だし…」ということばが返ってくる。
吃音の原因はたくさんの人が調べているけれど、未だに分かっていない。でもあなたやあなたの家族のせいではないことは、はっきりしている。病気ではないし、間違ってどもるわけでもない。こうしたことがはっきりすることで、子どもたちは吃音に対してフラットに向き合い始める。だから、吃音の原因についてしっかり考えることは、子どもたちにとって大切なプロセスになる。その上で、子どもたちとの日常的なやりとりの中で、吃音に関してのちょっとした疑問に答えたり、自分で考える手伝いができれば、それが子どもたちにとって、吃音を考え・知る機会になっていく。『どもる君へ いま伝えたいこと』(解放出版社)などを一緒に読むことで、子どもたちの疑問に直接答えることもできる。
「治療法について」の学習は、もう少し吃音について課題的に取り組んだものである。『親、教師、言語聴覚士が使える、吃音ワークブック』(解放出版社)を参考に、実際に行われてきた14の治療法について、子どもたちと、そういう方法があったと思うか、また自分がやってみたいと思うか考えてみた。
B君(3年)は「『ゆっくり話す』が一番効果ありそうだけど、本当に治るなら、大人もみんなやってる。そうじゃないし、ゆっくり言うのは、目立って、恥ずかしいから、やってみようとは思わない」と、表をチェックしながら話していた。全部○だと伝えると、「びっくり。手術や電気ショックなんて、すごいのもある。もし、ほんとに手術で治っても、痛いのは嫌だし、どもったままでも生きていけるから、どうするかは分からない」そして、「これだけ科学が発達してるんだから、もし治せる方法があるなら、みんながやって、どもりがどんどん治ってると思う。そしたらどもる大人なんかいない。そうじゃないから、どれも『治せる方法』になってないと思う」さらに「本当はどもりのことをみんなに伝える人になればいい。子どもは、学校やことばの教室で、教えてもらえるけど、大人がちゃんと分かってないと、電気ショックみたいな大変なことになる。どもる大人も、親も、どもらない人も知らないといけない。総理大臣とかプロ野球選手とかアイドルとか有名人になって、それから本当の吃音のことを話せば、みんながどもりのことを分かってくれる。そうすれば、どもったままでも大丈夫」と、考えをまとめていった。
B君は、吃音が治るならその方がいいし、治したいとも思う。けれども自分が生きやすくなるかは、友だちが自分や吃音をどう受け止めてくれるかによってであって、どもらずに話せるかではない。「どもる自分を認めてもらえれば、悩まない」とも話していた。吃音を治せなくても、吃音とどう向き合っていけばよいか考える姿がそこにある。
吃音の治療法の学習は、どもる症状を治そうとすることの限界を知らせ、その上で、どもりが治るというのはどういうことなのか、考えようというものである。すると、「治療法がないと知っている大人が、そのことをどう思っているのか」「治せなくても大丈夫だと思ったり、吃音からマイナスの影響を受けずに生きる人たちがいるのだろうか」と、子どもたちの関心は、治療法そのものから吃音を生きる人に移っていった。また、吃音について知ることで、自分の考え方や行動がどんどん変わることに、気付き始めた子どもたちもいた。
子どもたちの関心がどもる人に向かう中で、「大人のどもる人は、どんな仕事をしているの?」という疑問が出てきた。どもる人が身近にいない、またテレビにも出ないため、子どもたちは、大人がどもりながらどう暮らしているのか、なかなかその様子を想像できずにいた。そこで『治すことにこだわらない、吃音とのつきあい方』(ナカニシヤ出版)第7章「吃音者の就労と職場生活/水町俊郎」をもとに、33の職業をピックアップし、子どもたちとそれらの仕事にどもる人が就いているか考えた。
普段は、どもっても平気、気にならないと言っている子でも、全部の仕事にどもる人が就いているとは思えず、「先生やお医者さんは、相手に説明する時、どもると通じないかもしれない」「消防士やガードマンは、早く伝えなければダメだから」と理由を挙げては、×にしていた。全部が○と分かると、パッと表情が明るくなった。全部の仕事にどもる大人が就いているという事実が、子どもたちに与えるインパクトは相当大きい。
ところが、しばらくすると「全部○にしなかった」と、×を付けたことを気にする様子が見られ始めた。理由を尋ねると、「普段は意識しないようにしていたけど、どもると出来ないと思ったり、避けてることがあると気がついた」と言う。さらに、「アナウンサーの小倉さんはどもる人だと言ってたけど、テレビでは全然どもらないよ」「ビデオに出てきた先生、子どもたちの前では、ほとんどどもらない」と、仕事の時はあまりどもらないから、それほど苦労していない。あるいは、どもらなくなったから、その仕事に就いていると考える子どももいた。
実際には困ったり、苦労したりするけれど、自分にとって大切だと思うことや、好きな仕事を淡々としている。そんな大人の姿を知らせたく、『吃音を生きる』(大阪スタタリングプロジェクト)を一緒に読んだりした。子どもたちは、どもりながら暮らしている普通の大人がたくさんいることに、これまで以上にほっとした表情を示していた。「自分がこれからどうしたらいいか、すごいヒントがもらえた」と嬉しそうに話した子どももいた。
子どもたちは生活の中のちょっとした場面で、どもることが気になり、どうしようか考え込んだり、悩んだりしている。そんな子どもたちの日常の様子や、その中にある思いを話し合うことが、吃音を知る学習のきっかけになる。また、子どもたちは、吃音について分からない、知らないために、困り、悩むことも少なくない。だから、吃音について正しく伝え、子どもたちが学んでいくことが大切になってくる。もちろん、子どもたちにとって吃音を知るというのは、単なる吃音の知識を得ることではなく、どもる大人あるいは子どもたちがいることや、その様子に触れることであり、自分がどう生きるかに繋がる学びである。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/05/14