伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

ことばの教室

吃音を学び、吃音を生きる子どもたち

 「スタタリング・ナウ」2011.1.23 NO.203 に掲載の、ことばの教室の実践を、2回に分けて紹介します。日々の実践を丁寧に振り返る中に、子どもの様子、気持ち、ことばがいきいきと綴られています。そして、担当者である高木浩明さんの正直な気持ちも素直に表現されています。このような取り組みがされていたら、吃音とともに豊かに生きる子どもたちが増えていくんだろうなとうれしくなります。

  
吃音を学び、吃音を生きる子どもたち
                    高木浩明(宇都宮市立雀宮中央小学校 当時)

1 はじめに
 これまで、ことばの教室で出会ったどもる子どもたちは、自分と友だちの話し方が違うことに、通級開始前から既に気付いていた。「どもることで特に困ってはいない」と言う子もいたが、じっくり話を聞いていくと、病気じゃないかと心配になったり、一人で治そうとしたり、あるいは気付いていることを含めてまわりの人に隠したりしていた。
 そんな子どもたちにとってことばの教室が、まずは安心できる空間、どもる自分を隠さずにいられる場所になって欲しいと思いながら、どもりのことを含めて、ストレートに話し合ってきた。
 子どもたちと、最初に話すのが、どうしてことばの教室に来たのかである。すらすら答えられる子も、なかなかことばが続かず拙い表現になる子もいるが、どの子からも真剣なことばが返ってくる。吃音のことは知らなくても、自分のことばのことは分かっていて、それを何とかしたいと思っている。そんな、自分のことばの問題に、きちんと向き合おうとしている姿がそこにある。
 ことばの教室でのこれまでの実践をもとに、どもる子どもたちが、どんなことに取り組み、その中で何をどう学んでいるのか、整理していきたい。

2 「どもる」を知る
 「ことばの教室に行く前から、みんなみたいに話せない。ことばがすうっと出てこないから、どうしよう、いやだなあと思っていた。病気みたいなもの、治さなきゃならないものだと思った。ことばの教室で、初めてどもるということばを聞いて、そういうのがあるんだと分かった。ぼくだけじゃなくて、どもる子がたくさんいて、大人のどもる人がいて、どもったまま大人になってもいいんだと思った。だから今のままで大丈夫なんだと安心した。」ことばの教室に通い始めた1年前のことを、A君(2年生)は、こう話してくれた。A君だけでなく、子どもたちが「どもる」ということばを全く知らないのが、今では普通になっている。
 昨年、本校の6年生全員を対象に、「どもる」ということばを知っているか調べてみた。その結果、ことばの意味はよく分かっていないという児童を加えても、知っているという回答は1割に達しなかった。その一方で、実際にはどもる人に出会った、テレビで見たという児童が8割強いた。どもるということばが子どもたちのまわりから消えたために、どもる子どもたちは、友だちや家族と違う自分の話し方を意識しつつ、それを「つっかえる」「かむ」「ひっくりする」と自分なりのことばで表現する。
 ところで、吃音を治す、改善する方法が確実にあるなら、その方法を学べばいい。どもるということばを知らなくても特に問題にはならない。知らないうちに、治ってしまえば、それで済んでしまう。
 吃音は自然に変わっていくものだとしても、私はこの「どもる」を知ることが、子どもたちが「吃音を生きる」ために、必要なことだと考えてきた。それは、私はどもりを治せないからであり、子どもたちは自分がどもることに気付いているからだ。そして、「どもる」ということばがあることは、あなた一人ではないというメッセージだからである。
 これまで全く耳にすることがなかったため、子どもたちは、「どもる」を純粋に話し方の状態を表すことばとして受け止めていた。ことば自体にマイナスの意味を持たせたり、差別的な意味合いを重ねることはなかった。どもらない子どもたちも、吃音についての説明を聞いて、同じような反応を示す。だからことばを知った後、それをどう意味づけるのか、どもることをどう捉えるかが、子どもたちが吃音を生きる上で、大切になってくる。どもるのはいけないことだ、治さなければならないと考えれば、当然マイナスイメージが拡がっていく。

 子どもたちは、どもる大人がいることから、2つの意味を読み取っていく。一つは、どもりが治せるのなら、たとえ子どもの時にどもっても、大人になるまでには治している。どもる大人がいるというのは、治らないどもりがあることになる。そう考えて、「ちょっとショックだ」と話した子どもがいた。その一方で、どもりながら仕事をして、結婚をして、生活している大人がいるんだから、自分のどもりが治らなくても大丈夫なんだ。今のまま大人になってもいいんだとホッとした子もいる。
 「どもる子は、どこにいるの?」「何年生?」「会えるの?」と、自分と同じようにどもる子どもがいることに、A君は強い興味を示した。そして、日本吃音臨床研究会主催の吃音親子サマーキャンプの集合写真(「『吃音ワークブック』解放出版社」の表紙の写真と同じもの)を見て、「どもる子がこんなにいるんだ」と、ニコニコ笑顔になった。子どもたちにとって「どもる」ということばを知ることは、どもる子どもやそして大人がいる。どもりながら、みんな生きていると知ることではないか。だから、安心してホッとするんだと思う。どもるということばを知ることの意味は、決して小さくない。

3 「治せない」を知る
 自分の中に何か(問題が)あるから、ことばの教室に行くことになったと思っている子どもたちにとって、それを治したいと考えるのは、ごくごく自然なことである。その気持ちが痛いほど分かる、知っているからこそ、治したいと思うどもる子どもに、「治ったらいいね」「がんばってみよう」とは言えない。「ごめんなさい。私には治せない」と伝えなければならない。重い事実であるけれど、率直にそう言わなければならないと覚悟する。このことを避けて、吃音を生きる子どもに同行することはできない。苦しくても事実を真摯に話すことが、「私はあなたに正直に向き合い、一人の人として真剣につき合おうとしている」と、子どもに伝えることになる。子どもたちには、そう受けとめる力があると信じて、私は話している。
 これまで通級した子どもたちは「ショック」「何でー」と思ったという。その一方で「そんなに落ち込んだりしなかった」「そうなんだ。やっぱり」と思った。さらに、高学年のある児童は「治せるなら、お母さんが、病気でお医者さんに行く時みたいに、『がんばって治そうね』とか言ったと思う。そう言わないから、風邪を治すみたいにはならないと、何となく分かっていた」と話していた。
 治したい、治ったらいいなあという気持ちがある中で、治す方法がない現実と、どう向き合うか、子どもたちと一緒に考えていく。A君は、初回面接の中で、「先生がお医者さんだったらいいのに」「お医者さんなら治せるはず」と言ってきた。治す手術や薬はないと伝えると、「え〜、どうしてー」と反応する場面もあった。そこで、どうして治したいのか一緒に考えると、治したいのは、単に「友だちと同じような話し方になりたい。どもりたくないから」ではないことに気づき、その先にある自分の思いを考え始めた。
 同じ質問に、「よく分からないけど」「何となく」と、少しずつそう考えるようになったと答える子も、「まねされた」「笑われた」「スラスラ話せないと嫌だ」「恥ずかしい」「発表できない」等、具体的な理由を挙げる子もいる。A君は、「友だちに、『だめ』と言われるんじゃないか」「こういう話し方は、治さなきゃいけないと思われるんじゃないか」という気持ちから、ことばの教室に行く前から、治したい、治さなきゃと思い、自分で治そうとしていた。だから、「友だちが、どもっちゃだめと言わなければ、今のままでも大丈夫」と思えるという。

 どもりたくないから治したいと、治すことをゴールにせずに、どうして治したいのか、その治したい気持ちを出発点に、吃音を、自分を見つめ直す中で、子どもたちは、本当にどもることはいけないことなのか、治さなければならないのか考え始める。今まで当然と思っていた考えに、疑問符を付ける。すると、吃音は自分ではどうすることもできない不気味なものではなく、自分が考え、行動することで捉え方が変わる相手だと分かってくる。「みんながどもりのことを、ちゃんと分かってくれたら大丈夫」「親友にどもりのことを話せたから、そんなに心配しなくなった」と話す子どもたちは、どうして治したいと思ったのか、そして自分ができることは何かに気付いている。
 もちろん、この子たちが悩まなくなったわけでも、治さなくてもいいと思うようになったわけでもない。治したい気持ちは自分の中にあるけれど、「何とかやっていけそう」とちょっと思えるようになった、そんな感じである。だから、時には、「治ったらいいのになあ」ということばも出てくるし、隠そう、ごまかそうとしたり、治す方法がないか考えたり、それを試したりもしている。そういう自分を認めつつ、吃音は自然に変化するが、治す方法は分かっていない事実を受け止め、日常生活に出ていくことが、吃音を生きることに繋がっていくのだと思う。

4 吃音について考える・知る
 10年以上前に出会った子どもたちも、ことばの教室は、吃音を学習する所だと認識していた。始めは、「どうしてどもるの?」「どもる人はどれ位いるの?」「どうして歌はどもらないの?」といったシンプルな疑問が中心だった。やがて「友だちは、私がどもっても、別に何も言わないけど、本当は私がどもることに気づいているんだろうか」「買い物する時にどもったら、どんなふうになるんだろう。お店の人に通じなかったり、怒られたりしないだろうか」と、吃音が、自分の生活にどう影響しているのか考える内容に変わっていった。

 吃音の原因に関しては、どもる真似、遺伝、ショックな出来事、弟や妹の誕生、引っ越し、階段から落ちたなど、様々な情報がインターネットなどに出ている。子どもによっては、そうしたものを直接見たり、話に聞いたりして、それがどもる原因だと思っていたりする。さらに、子どもたちには、何かどもる理由を見つからないとよけい不安に感じるところがあるようで、それが自分なりのどもる原因作りに繋がったりする。子どもたちからよく聞くのは、「自分が何か悪いことをした」例えば「ウソをついたから、どもるようになった」といった話である。本当にそう思うのか聞くと、「そう信じているわけじゃないけど、何か理由がないと嫌だし…」ということばが返ってくる。
 吃音の原因はたくさんの人が調べているけれど、未だに分かっていない。でもあなたやあなたの家族のせいではないことは、はっきりしている。病気ではないし、間違ってどもるわけでもない。こうしたことがはっきりすることで、子どもたちは吃音に対してフラットに向き合い始める。だから、吃音の原因についてしっかり考えることは、子どもたちにとって大切なプロセスになる。その上で、子どもたちとの日常的なやりとりの中で、吃音に関してのちょっとした疑問に答えたり、自分で考える手伝いができれば、それが子どもたちにとって、吃音を考え・知る機会になっていく。『どもる君へ いま伝えたいこと』(解放出版社)などを一緒に読むことで、子どもたちの疑問に直接答えることもできる。

 「治療法について」の学習は、もう少し吃音について課題的に取り組んだものである。『親、教師、言語聴覚士が使える、吃音ワークブック』(解放出版社)を参考に、実際に行われてきた14の治療法について、子どもたちと、そういう方法があったと思うか、また自分がやってみたいと思うか考えてみた。
 B君(3年)は「『ゆっくり話す』が一番効果ありそうだけど、本当に治るなら、大人もみんなやってる。そうじゃないし、ゆっくり言うのは、目立って、恥ずかしいから、やってみようとは思わない」と、表をチェックしながら話していた。全部○だと伝えると、「びっくり。手術や電気ショックなんて、すごいのもある。もし、ほんとに手術で治っても、痛いのは嫌だし、どもったままでも生きていけるから、どうするかは分からない」そして、「これだけ科学が発達してるんだから、もし治せる方法があるなら、みんながやって、どもりがどんどん治ってると思う。そしたらどもる大人なんかいない。そうじゃないから、どれも『治せる方法』になってないと思う」さらに「本当はどもりのことをみんなに伝える人になればいい。子どもは、学校やことばの教室で、教えてもらえるけど、大人がちゃんと分かってないと、電気ショックみたいな大変なことになる。どもる大人も、親も、どもらない人も知らないといけない。総理大臣とかプロ野球選手とかアイドルとか有名人になって、それから本当の吃音のことを話せば、みんながどもりのことを分かってくれる。そうすれば、どもったままでも大丈夫」と、考えをまとめていった。
 B君は、吃音が治るならその方がいいし、治したいとも思う。けれども自分が生きやすくなるかは、友だちが自分や吃音をどう受け止めてくれるかによってであって、どもらずに話せるかではない。「どもる自分を認めてもらえれば、悩まない」とも話していた。吃音を治せなくても、吃音とどう向き合っていけばよいか考える姿がそこにある。

 吃音の治療法の学習は、どもる症状を治そうとすることの限界を知らせ、その上で、どもりが治るというのはどういうことなのか、考えようというものである。すると、「治療法がないと知っている大人が、そのことをどう思っているのか」「治せなくても大丈夫だと思ったり、吃音からマイナスの影響を受けずに生きる人たちがいるのだろうか」と、子どもたちの関心は、治療法そのものから吃音を生きる人に移っていった。また、吃音について知ることで、自分の考え方や行動がどんどん変わることに、気付き始めた子どもたちもいた。
 子どもたちの関心がどもる人に向かう中で、「大人のどもる人は、どんな仕事をしているの?」という疑問が出てきた。どもる人が身近にいない、またテレビにも出ないため、子どもたちは、大人がどもりながらどう暮らしているのか、なかなかその様子を想像できずにいた。そこで『治すことにこだわらない、吃音とのつきあい方』(ナカニシヤ出版)第7章「吃音者の就労と職場生活/水町俊郎」をもとに、33の職業をピックアップし、子どもたちとそれらの仕事にどもる人が就いているか考えた。
 普段は、どもっても平気、気にならないと言っている子でも、全部の仕事にどもる人が就いているとは思えず、「先生やお医者さんは、相手に説明する時、どもると通じないかもしれない」「消防士やガードマンは、早く伝えなければダメだから」と理由を挙げては、×にしていた。全部が○と分かると、パッと表情が明るくなった。全部の仕事にどもる大人が就いているという事実が、子どもたちに与えるインパクトは相当大きい。
 ところが、しばらくすると「全部○にしなかった」と、×を付けたことを気にする様子が見られ始めた。理由を尋ねると、「普段は意識しないようにしていたけど、どもると出来ないと思ったり、避けてることがあると気がついた」と言う。さらに、「アナウンサーの小倉さんはどもる人だと言ってたけど、テレビでは全然どもらないよ」「ビデオに出てきた先生、子どもたちの前では、ほとんどどもらない」と、仕事の時はあまりどもらないから、それほど苦労していない。あるいは、どもらなくなったから、その仕事に就いていると考える子どももいた。
 実際には困ったり、苦労したりするけれど、自分にとって大切だと思うことや、好きな仕事を淡々としている。そんな大人の姿を知らせたく、『吃音を生きる』(大阪スタタリングプロジェクト)を一緒に読んだりした。子どもたちは、どもりながら暮らしている普通の大人がたくさんいることに、これまで以上にほっとした表情を示していた。「自分がこれからどうしたらいいか、すごいヒントがもらえた」と嬉しそうに話した子どももいた。
 子どもたちは生活の中のちょっとした場面で、どもることが気になり、どうしようか考え込んだり、悩んだりしている。そんな子どもたちの日常の様子や、その中にある思いを話し合うことが、吃音を知る学習のきっかけになる。また、子どもたちは、吃音について分からない、知らないために、困り、悩むことも少なくない。だから、吃音について正しく伝え、子どもたちが学んでいくことが大切になってくる。もちろん、子どもたちにとって吃音を知るというのは、単なる吃音の知識を得ることではなく、どもる大人あるいは子どもたちがいることや、その様子に触れることであり、自分がどう生きるかに繋がる学びである。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/05/14

少数派の誇り

 吃音についての僕の考え方は、極めて少数派です。治らないもの、治りにくいものなら、その治らないものと共に、生きていくしかないと思います。音読練習をして、そのときだけ少しどもらずに読めたとしても、それが生涯にわたって生きる力となるかというと、疑問です。それより、吃音と共に豊かに生きるという覚悟を決める方が、生きる力になると思っています。少数派だけど、主流ではないけれど、僕は、この考え方が本流だと信じているのです。
 吃音に対する考え方だけでなく、僕は、いろんな意味で少数派のようです。その立ち位置は、決して居心地が悪いものではなく、むしろ、爽快感を覚えます。少数派だから、しっかり考えます。少数派だから、自分のことばで語ります。そう、少数派であることに、僕は誇りを持っているのです。
 「スタタリング・ナウ」2011.4.18 NO.200 より、巻頭言を紹介します。

  
少数派の誇り
                     日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 「吃音を治し、改善することが、その人が人間らしく幸せに生きる条件だと考えている吃音研究者・臨床家が多い中で、『吃音を治す努力の否定』を提唱し、『吃音と共に、今を生きる』実践を続ける私の考えは、ごくごく少数派です。
 日本でも世界でも、私の主張はとても珍しいんです。言語聴覚士の専門学校でも、私の講義を受けた人と、他の人から学んだ人とでは、吃音がまったく別のものだということを、他の専門学校卒業の多くの言語聴覚士から聞きました。
 皆さんが、私と出会ってしまったことは、幸か不幸か分かりません。圧倒的多数の常識的な吃音とは違う、異端の少数派の意見を学ぶことになるからです。とまどいもあることでしょう。
 しかし、私は、少数派の考え方をもち、長く実践してきたことを誇りに思っています。著名な先生がこう言っている、アメリカではこんな研究や実践がある、と言われても、私は自分のからだに滲みていかないものには、常に疑問をもち、自分の吃音体験と照らし合わせて、独自の思想・理論・技法を提唱してきました。そして、その実践の中で、たくさんのどもる人たち、どもる子どもたち、どもる子どもの親たちが、吃音とうまくつきあっていく場に立ち会ってきました。
 だから、少数派であっても、吃音に悩んできた人の、吃音とともに生きてきた人の、たくさんの体験が私の背中を後押ししてくれていると考えています。私は40年以上、この考えを、様々な分野から学んで検討して深めてきました。だからとても、思い入れが強いです。
 私は自信をもって話しますが、私の主張を押しつけるつもりはありません。『吃音を治す、改善する』理論や技法などの情報は、たくさんの書籍、論文などで得ることができるので、少し紹介する程度にし、私の実践を中心にした講義になりますが、それをどう受け取るか、選び取るかは皆さんの選択です。皆さんは、私の意見を鵜呑みにしないで、疑問を投げかけて下さい。質問や批判は大歓迎です。話し合いながらすすめていきますが、最終的には、皆さん自身の吃音についての考えを作って下さい。とりあえず、私の体験、実践、映像を通して、多くの人の体験に触れて下さい」

 講義や講演で、私は常にこのような前置きを話すことにしている。10年ほど前には、私の講義を聴いた学生の中には、反発したり、反発はしないものの、あまりに自分の考えに固執しすぎるのではと疑問をなげかける人もいた。ところが、ここ数年は、反発する人は皆無で、批判や疑問を投げかける人もほとんどいなくなった。それがなぜなのか、私は判断しかねている。
 「この講義を受けていなかったら、マニュアルに沿った検査をし、治らないのに治療を考えて時間を費やし、効果のないことをして過ごす言語聴覚士になっていたのかなと思う」
 「言語聴覚士としての必要な知識をつけることも大事だが、一人の人間として充実しておくことも大切だと思った。自分の幅を広げ、その上で、柔軟な頭を持って、その人にベストな選択肢を提供できるようなセラピストになりたい」
 「分からなければ聞くという対等の考え方で接していけばよいと知り、楽になった。誠実に対応していけばいいのだと思えるようになった。ことばの指導も、心理的な手助けも、難しいことではなく、ごく当たり前のことだと分かった」
 先だって終わった、2校の専門学校の振り返りの一部だ。このような声が聞ける講義の最終日の振り返りは、私に勇気を与えてくれる。
 国立特別支援教育総合研究所で、長年、吃音の講義を担当させていただいているが、同じような印象をもっている。最初の頃は多少反発があった気がする。その後、全国から来ている研修生が、私を研修会の講獅に呼んで下さることが出始めた。
 11年続く「島根スタタリングフォーラム」も、研修生との出会いから始まっている。よく似た子ども観や教育観を持つ人との、講義が終わってからの懇親会での語らいは楽しい。その席にいつも、牧野泰美さんがいた。ここから、私の思想が、全国のことばの教室に広がっている気がする。
 『スタタリング・ナウ』の200号に、応援の原稿を寄せて下さった牧野さんに感謝します。
 少数派に誇りをもつ人は決して少なくない。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/05/03

どもる子どもへの支援 2

 2008年11月28日、愛知県名古屋市立牧野小学校で開催された、愛知県言語・聴覚障害児教育研究会の研究大会での僕の講演を紹介しています。昨日の、伝統的な治療法に続いて、今日は、僕自身の体験を紹介しています。そして、その体験に基づいて吃音へのアプローチを提案しています。最後に、ことばの教室はどんな所か挙げました。子どもたちの生きる力を育むために、するべきことはたくさんあります。楽しく取り組んでいただければと願っています。
 では、「スタタリング・ナウ」2009.5.24 NO.177 から紹介します。

どもる子どもへの支援 2

                       日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


伊藤伸二の体験

 僕とライパーの違いは、セラピー体験にあります。僕は、吃音治療の限界に早く気づき、「どもりながら日常生活を生きる」中で、吃音そのものも吃音に対する考え方も変わってきました。自分が大きく変わったのを、自分の自己変化力によるものだと考える僕に対して、ライパーは、自分が変わったのは、アイオワ大学で受けたセラピーのおかげだと信じていたのでしょう。

人との出会い

 話すことから逃げて21歳まで消極的に生きてき僕が変わる出発となったのが、人との出会いでした。1965年、21歳の時に東京正生学院という吃音矯正所で初めて大勢のどもる人に出会いました。同じように吃音に悩む人との出会いはとても大きいことでした。さらに初恋の人との出会いによって、僕は大きく変わりました。吃音を否定し、自分を否定し、自分が大嫌いな僕に友達ができるはずがない。まして、女性から好かれるはずがない、愛されるはずがない。そう信じていた僕を、彼女が愛してくれていると実感できたとき、「どもっていても生きていけるかもしれない」と思えました。このことは、僕にとって、とても大事なことでした。
 東京正生学院で、4ヶ月間、必死で訓練をしました。上野の西郷隆盛の銅像の前、山手線の電車の中、毎日毎日訓練に明け暮れました。
 最初に出会ったのが東京正生学院だったことは、僕にとって大きな意味を持ちました。二つの流派の両方を同時に教えてもらったからです。
 梅田薫院長が「み〜な〜さ〜ん〜」という、ゆっくりとどもらないで話すことを教え、息子さんの英彦副院長がアメリカの言語病理学を勉強し、「随意吃音」を教えてくれました。アメリカでその後激しく対立した、二つの全く違った方法を同時に教えてもらったのはラッキーでした。両方に一所懸命取り組みましたが、僕だけでなく、300人の全員が治らなかった。そこで僕はあきらめがついたんです。伝統的な方法と最新の方法の両方を4ヶ月間必死に取り組んだけれど効果がなかったということは、吃音そのものが簡単に治るものではないということです。吃音が治ることをあきらめたら、どもりながら生きていくしかない。どもる不安や恐れを持ちながら、どもりを隠さず、話すことから逃げない生活をしようと覚悟ができました。

貧乏だったがゆえにアルバイト生活

 僕の家はとても貧しかったので、東京での大学生活、授業料など全てを、親の仕送り無しでしなければなりません。どもるからと、アルバイトをやめるわけにはいかない。アルバイトにひとつのルールを決めました。どんなに苦しくても、1ヶ月は働く。どんなに快適な場でも1ヶ月で辞める。次から次へと仕事を変え、たくさん嫌なことを経験し、どもりながらもしゃべりました。キャバレーのボーイが、僕の一番苦しかったバイトでした。
 「鶏の唐揚げ2人前」を調理場に通す。僕の苦手なタ行です。忙しいときに「ととととととりのかかかからあげ…」ともがいていると、「忙しいのに、何やっとるんだ!」と何度も怒られた。本当に辞めたかった。主任と優しいウエイトレスの支えがあって何とか1ヶ月やりました。学習研究社のこども百科事典のセールスも苦しかった。
 ありとあらゆる種類のアルバイトをどもりながら必死でやる中で、吃音に対する僕の考え方が思いこみであったことに気づきました。「どもっていたら人は話を聞いてくれない」「どもっていたら何もできない」と、全て吃音のせいにして逃げてきたが、実際にどもりながら生活していたら、どもりながらできないことなんて何一つなかった。どんな仕事にも就けるという自信がそのとき僕に生まれました。
 僕が持っていた吃音に対する否定的な考え方は、思い込みだったことに気づくのです。吃音を隠さずにどんどんしゃべれば、行動に問題はない。吃音に対する思考も変わった。どもった後の嫌な惨めさである感情も、少しずつ和らいでいった。どもる状態はほとんど変わらないのに、シーアンの言う「氷山の隠れた部分」が解決されたわけです。

吃音は自然に変化するもの

 僕は吃音にとらわれていたために、全然勉強をしなかったので2浪をしてやっと大学に入りました。大学に4年間、別の学部に3年間、二つの学部を卒業したのは、28歳の時でした。
 その後、大阪教育大学の言語障害児教育課程に行きました。興味のある吃音なので、今まで勉強しなかった分、一所懸命勉強したし、とてもおもしろかった。恩師である主任教授から推薦され、大阪教育大学の教員になりました。これは大変ありがたいことでした。
 音読を免除してもらってやっと高校を卒業した人間が大学の教員になり、講義をしたり講演をする仕事に就けるなんて思いもよらないことでした。自分の伝えたいことを、学生や大勢の人の前で丁寧に話していく中で、吃音そのものも変わっていきました。僕だけでなく、セルフヘルプグループの仲間たち、吃音親子サマーキャンプの子どもたちの多くが変わっていきました。多くの人の経験の中から、吃音は治そうとしても変わらないけれど、どもる事実を認めて、話していけば自然に変わるものだと考えるようになりました。
 「吃音は変わるものだ」と断言できるようになったのは、僕が再びどもり始めたからです。僕は、人前ではあまりどもらなくなりましたが、10年ほど前から、再び人前でもどもり始めました。やっぱり吃音は変化するものだと、つくづく思いました。僕があまりどもらなくなったとき、吃音は変化するものだと言ったら、「吃音は自然に軽くなる」とみられてしまう。再び自分がどもるようになったことで、どもるようにも変化すると分かりました。
 「吃音は自然に変わる。変わるのはその人の持っている自己変化力によるものだ」
 今は、はっきりとこう言えるようになりました。
 セラピーによって変わったと考え、セラピーの有効性を信じたライパーと、日常生活の中で自然に変わり、セラピーの有効性を過大視しない僕との違いは、この経験の違いにあるのでしょう。

(統合的アプローチなどの紹介は省略しました。詳細は、『スタタリング・ナウ』NO.161 NO.164 NO.169をお読み下さい)

どもる子ども、どもる人の言語訓練

1.情報伝達のことばと表現のことば

 仮に、統合的アプローチの練習の成果が上がり、「コントロールされ流暢性」が獲得されたとしても、それが果たして人間のことばなのかと僕は思います。例えば子どもが、学校で楽しくておもしろいことがあって、お母さんに早く話したいと思って帰ってきたとします。「楽しいことは、すごくどもりながら一所懸命話します」とは保護者からよく聞きます。バリー・ギターの、4つの技法を身につけて、話そうとしたらどうなるか。
 弾んだ気持ちで家に帰ってきて、「おおおおかあちゃん、きょきょきょうねえ、ががががっこうで、ここここんなことがあああああってね」と、一所懸命言おうとした時に、ふと4つの技法が浮かぶ。「(だめだ。言い直そう)お〜か〜あ〜さ〜ん、きょ〜う〜ね〜」と、どもらないように気をつけて言ったらどうでしょう。楽しい気持ちも一瞬で萎えるし、それを聞くお母さんも何か切ない。そういう、勢いのない、いわば「死んだことば」を、言語の臨床家である私たちが子どもたちに教えていいのか、というのが僕の持つとても強い疑問です。
 私たちが使うことばには、意味・内容を伝える「情報伝達のことば」があります。これが、学校でも社会でも全ての一般人間社会の中で使われていることばです。文字の音声化と言っていいでしよう。「今日の会議は、第3会議室で行われます」は、Aさんが言ってもBさんが言っても同じです。情報伝達としての言語を、効率よく正確にちゃんと伝えることが、学校教育の中でも重要視され、一般企業もこのことばを使える人を求めます。この情報伝達のことばは、とても大事なのですが、僕たちはこのようなことばだけで生きているわけではありません。
もうひとつ、表現としてのことばがあります。さきほどの学校での楽しいできごとをお母さんに話すときのことばです。これを、僕は「自分を表現する、自分を語ることば」と言っています。
 「コントロールされた流暢性」を身につけよというアメリカの言語病理学は、情報伝達のことばばかりを目指そうとすることです。自分の気持ちなんかはお構いなしです。どもらないでうまくごまかせて、相手から「この人、どもらないね」と思われたら、それはそれでいいのだという発想です。

2.仮面としてのことば

 これは人間のことばではなくて、単なる文字の音声化で、「仮面のことば」だと思います。
 僕は世界大会を最初に開催しましたが、その後3年ごとに世界大会が開かれています。昨年5月はクロアチアでした。その3年前のオーストラリア大会を開催したのが、ジョン・ステグルスです。彼は「流暢性」を追い求め、どもらないことだけを意識した訓練をずっと受けてきました。すごく、ゆっくりと、抑揚のない話し方です。彼は会計事務所に勤めているのですが、自宅から出るときに、どもらないために仮面をかぶり、家に帰ってきたら、その仮面を外して「どどど…」という彼本来の話し方に戻るのだそうです。仮面をつけたり外したりという生活をしているわけです。
 「その生活、しんどいんじゃないの」と聞いたら、「しんどいけれど、仮面をはずすと、自分がガタガタになるからやめられない」と言うのです。まったりした、抑揚のない話し方を、外では今更変えられないのだそうです。そんな、偽りの「仮面のことば」を子どもたちに教えていいのか。私は、どもる人間として、悔しいし、悲しいです。

ことばの教室とはどんなところか

 時間がなくなりました。学童期の吃音の子どもにとって、何が大事かの話でしめくくります。

1.吃音について話せる場
 幼児吃音の指導は環境調整が大事だと今でも言われていますが、その元になっているのが、ジョンソンの言語関係図のY軸へのアプローチです。そこから、吃音を意識させてはいけない、聞き手が吃音を意識しないことで、子どもも意識しないで済むからと、吃音について話題にしないことがずっと続いてきました。子どもたちは、家庭でほとんど吃音について話していません。この「意識させてはいけない」は吃音の指導にとって大きな弊害です。幼稚園の時代から十分に吃音を意識している子どもは少なくありません。それを、意識させないようにと話題にしないのは、吃音をマイナスに意識することにつながります。悪いのは、吃音を意識することではなくて、吃音をマイナスのものと意識することです。
 ことばの教室へ入級されるときに、なぜ入級するのか、吃音について話しておくことが大切だと思います。

2.吃音について役に立つ知識・情報を得る場
 ことばの教室は、担当者と子どもが一緒に吃音について勉強する場だと言えます。吃音は治療法が確立していない現在、治すことにこだわらず、吃音をマイナスのものと考えないで、吃音とどう向き合い、どうつき合うかを考えることが大切です。つき合うためには、つき合う相手の吃音について知る必要があります。吃音とはどのようなものなのか、原因としてどんなことが考えられてきたか、どんな指導法があってどんな効果があったのか、どもる人はどんな仕事に就いているのかなど、子どもが知っておくといい大切なことがたくさんあります。私は吃音についてひとりで悩んでいたけれど、吃音について何一つ知りませんでした。だから将来にとても不安をもったのです。

3.どもることのできる場
 吃音親子サマーキャンプでは、子どもたちはすごく嬉しそうにいっぱい話します。平気でどもっています。学校ではあまりどもれないのです。でもキャンプではみんながどもっているから、安心して、心置きなくどもってしゃべっています。どもれるということが実はとてもありがたいことなんです。

4.楽しく基礎的なことに取り組む場
 ことばにとって大事なのは、息です。吐く息が深くなることです。皆さんはあまり意識しないで子どもと相撲を取ったり、ドッジボールやキャッチボールをして、思い切り体を動かして遊んでいますね。その時、息が深くなっています。発音発声にとって大事な吐く息が深くなっているのです。腹式呼吸法だと言って大げさな練習をする必要はなく、力いっぱい遊ぶことに意味があります。

5.表現としてのことばを育てる場
 吃音に限らず、自分自身を語れる場があることはとても大事です。自分の悲しいこと、うれしいこと、腹が立ったことなどをいっぱいしゃべれる場、それがことばの教室ではないかと思います。僕は、これらができていれば、それだけで十分だと思うのです。それ以上のことはないだろうと思います。これで十分、吃音の臨床になっています。
 だけど、「随意吃音」を教えなければいけないとか、軟起声とか構音器官の軽い接触をとか、そういう提案をする動きが出てくると、ことばの教室で言語指導をしなければと思われるかもしれません。そう思われたら、吃音の言語指導ではなくて、日本語を話す人、誰にとっても必要な「日本語のレッスン」をして下さい。今日はレッスンの時間がありませんが、少しだけ説明します。

6.日本語のレッスンをする場
 「からだとことばのレッスン」の竹内敏晴さんは、ことばを「アクション」としてとらえようと私たちに提案しています。ことばを口先だけのものとしてとらえるのではなく、アクションとしてとらえるということは、相手に全身で関わっていこうとすることです。全身で相手に触れよう、関わろうとするときの音声的な部分がことばなのだ、ということです。だから、相手に対して向かっていくからだを作ってほしい。話すことに不安があると、どうしても緊張して、身を固め、身構えたり、引いてしまうからだがあります。だから、ことばの教室の中で、からだほぐしをしたり、安らいだりして、声が出るからだ、相手に関わろうと、相手に向かうからだを育ててほしいのです。
 「ことばの教室」というと、どうしても「ことば」を重視して、「からだ」を重視しているところはあまり聞きません。
 今日はこれくらいしか話ができませんが、先週は島根県の言語障害児教育の2日間の宿泊研修会があり、1日目は吃音の講義をして、2日目は体をほぐしたり、声を出すという演習をしました。今日は時間がないので、『どもる君へいま伝えたいこと』の本の中で、竹内敏晴さんがどもる子どものために、ことばのレッスンについて書いて下さっていますので、是非読んでみて下さい。
 日本語は全ての音に母音がついている。これがとても特徴的なんです。ひとつだけ具体例を話します。
 普段かなりどもる静岡の男の子が、吃音親子サマーキャンプに参加しました。どもりながらもよく発言する子です。キャンプの演劇の稽古の時、ナレーターをしたいと立候補し、長い文を読み始めたけれども、「次の日…」の「つ」の音が出ない。みんなが、あれこれアドバイスするのに腹を立てて泣き出した。アメリカの言語病理学の「随意吃音」だと、「つつつつつぎのひ」とまず練習をさせることになる。こんなことをすると、今の僕でも「つつ」と止まらなくなってしまう。これをやられたら、どもる子は悲鳴を上げます。
 彼に、日本語には母音がついていて、「つ」の母音は「う」で、「ぎ」の母音は「い」です。全部母音で「ういおい」と言わせた。その子は母音が言える子だったので、しばらく、自分の分担するナレーションの部分を、全部母音にして言っていました。「次に『ういおい』にちょっとだけ子音をつける。でも『ういおい』を意識して言うんだよ」と言うと、「次の日」と言えたんです。
 最終日の劇の上演で、彼はものの見事にナレーターをやり遂げました。「次の日」と、いっぺんに言おうとしないで、母音を意識して、1音1音同じ長さで言っていく。これは、どもる、どもらないにかかわらず、日本語の発音の基本です。それを一緒に勉強をしていくのです。そのためには、谷川俊太郎さんのことば遊びの詩を一緒に読んでみたり、童謡、唱歌を一緒に大きな声で歌う。そういうことができていったらいいなあと思います。

おわりに

 最後に一番言いたいのは、吃音をマイナスのものと思わないでほしいということです。どもりながら豊かに自分の人生を生きている人はいっぱいいる。どもっても自分の人生は生きられるのです。
 子どもは、自分の力で困難に立ち向かっていかないといけない。どんなに大変であったとしても、いつまでもお手伝いはできません。子どもが自分の力で未来を切り開いていくために、生きる力、サバイバル力というか、生き延びる力を身につけるために、皆さんの力を貸してほしいのです。(「スタタリング・ナウ」2009.5.24 NO.177)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/02/04

どもっても言いたいことをあきらめたくない

 「スタタリング・ナウ」2008.7.22 NO.167に掲載したもう一人の同行者の記録を紹介します。自分の耳のことを正直に自己開示したことで、展開していったどもる子どもとのつきあい、その様子が詳しく書かれています。尾谷さんは、島根の吃音キャンプの時、僕を広島駅まで車で送ってくれたことがあり、車の中で、いろんな事を話したことが懐かしく思い出されます。島根の人たちには、本当にお世話になっています。

  
どもっても言いたいことをあきらめたくない
     Mさんと私の1年 〜通級指導教室の初任担当者として〜

         尾谷昌子 島根県邑智郡 瑞穂小学校通級指導教室(2008年当時) 

 はじめに 私自身のことについて
 私は大学時代、声楽を専攻した。オペラのアリアを歌ったり合唱したり、いろいろな演奏会に出演していた。卒業して教員になってからは音楽の授業を担当し、子どもたちを指導して、コンクールに出たり、音楽会で発表したり、時には頼まれてステージに上がったりもしていた。
 ところが9年前のある日、突発性難聴により、文字通り突然に片方の聴力を完全に失った。以来、音のひずみと絶え間ない耳鳴りにより、音が聞きづらく、複数の音を聞き分けることが出来なくなった。人前での演奏はもちろん、教員になって以来続けてきた合唱指導にも自信をなくしていった。
 それがひょんなことから「愛と地球と競売人」というミュージカルのバックコーラス隊の一員としてステージに立つことになった。たくさんの人に混ざって支えられながらであれば歌えるかも、と思い、練習に参加したのだが、ソロで歌うことになっていたキャストの降板により急遽私に役が回ってきた。
 「お願いしますよ」とみんなの前で言われ、「実は耳が…」と言えずにもじもじしているうちに周りから拍手が起き、歌うことが決まってしまった。そう長いフレーズでもなかったので、そのときは半ば焼けくそで「やったるわい」そして、「もしかしてできるかも」とも思ったのですが、演奏会が近づくにつれ、心配でたまらなくなりました。ひとりで練習しているときはできるのに、楽団と合わせるとずれてしまう。ちょうど学校では、学習発表会の時期だったので、自分の状況が劇の発表をすることになっていたMとダブり、気になりました。あの日、暗いステージ裏で、Mを思い出したときの目の前がぱあっと開けるような奮い立つような気持ちがなかったら、たぶん人目を気にし、自分を疑いながらの演奏になっていたと思う。
 そのMとの関わりをふりかえる。

初めてどもる子どもと出会う
 M(小学5年生・女子)は、3年生の終わりに母親と教室を訪れた。4年生の初めから毎週1回の通級をしてちょうど1年になる。
 これまでの教師経験の中で「吃音」に関わったことのなかった私は、Mを担当することになり大いに戸惑った。まず「吃音とは何か」から始まり、ことばの教室担当としてどんな「役割り」があるのか、どうつきあえばよいのか・・等々テキストを次々読んではみたものの、実際のMを目の前にすると「どもる」という言葉を出すことさえも、いつ、どんな風に、とためらうばかり。

どもりを話題に話したい
 担当者仲間に「いつも遊んでばかりでいいのかなあ」と愚痴ると、「まずは人間関係を作ってから」と言われ、ちょっと救われたような気がした。
 何も話せぬまま日は過ぎてく。「今週こそは」と思いつつMと向き合うことを怖れている情けない自分がいた。「もういいのかな?」と窺う私にとって、彼女との遊びは吃音を語るための手段であり、どんなに楽しく遊んでも、吃音に結びつかない時間を評価はできない私だった。
 求められるままにトランポリンの遊びを毎週続け、手を振って帰っていく後ろ姿を見送っては、無力感を噛み締めていた。
 ある日、決死の思いで出た言葉は「最近つまることある?」これだけ。でも「この頃は、・・」とぽつりぽつり答えてくれ、ことばについて話したいと言うと、あっけないほどにあっさりと頷いてくれた。もしかして聞いてくれるのを待っていたのかもしれないとも思ったほどだ。
 この日の会話を頼りに、「言い換え」などについて少しずつ話を出すようになったが、Mはいつも質問に答える形だ。やっとどもることを話題に出せるようになっても、義務感で交わす会話に楽しさはない。私は自分の語ることばが本や先輩からの受け売りであることを感じていた。

あきらめない
 そんなある日、Mが国語の学習で書いた『自分新聞』に、自身のどもりについて書いていることを担任の先生が知らせて下さった。
 大きな集団の中で、迷った末に思い切って手を上げ、みんなの前で意見を言えた時の嬉しかった体験をもとに書いた。題名は「あきらめない」。このことばの意味を知りたいと思った。担任の先生は、「やっぱりどもらないようになることを諦めたくないんですねえ」と仰っていたが、通級にやってきた本人に問いかけると、そうではなかった。少し考えてからはっきりと、「どもっても言いたいことをあきらめたくない」と言ったのだ。
 このエピソードは、その時のMの表情とともに強く私の胸に残った。
 学習発表会の時期になり、気になっていた台詞のことを話した。「つまることがあるけど、止まってもう一度言う」とMは言った。
 誰しも、みんなの前で格好良くやりたいと思うだろう。もし私だったらどう考えるだろうかと自問する毎日だった。ちょうどその頃が、突発性難聴で耳が聞こえなくなっていた時期だった。ある音楽会で歌うことになっていたが、人前で歌うことが怖くなっていた。思い切って出演することにしたものの、楽団の演奏がはっきり聞こえないために、うまく合わせられないまま本番を迎えようとしていた。知った人たちのたくさんいる地元で失敗したくない、格好良くやりたい、という思いがあり、「やめればよかった」と焦るばかりだった。当日、ステージ裏で出番を待つ私の胸に、なぜか突然Mのことが浮かんできた。
 「つまっても言いたいことを言う」というMのことば。「あきらめない」と言ったMの顔。
 見ている人みんなが「失敗なくよくできた」と褒めてくれることを「格好いい」と思っていた私だったが、「自分らしく堂々としていた」と自分自身に胸を張れることこそ本当の「かっこいい!」なのだと思いあたり、とてもすっきりした気持ちでスポットライトの中に飛び出すことができた。
 次の日、ステージ横でMのことを考えて励まされたこと、自分らしい納得のいく演奏ができたことを、感謝と共に伝えた。Mはじっと聞いてくれました。そして、少し考えてから「今日、つまったんですよ」と突然話し始めた。これまで、こちらから尋ねたことには答えても、自分から言い出すことはなかったMが、その日、音読中につまったこと、どうしても次のことばが出ずに泣いてしまったことをゆっくりと話してくれた。私はこの日、初めて自分のことばでMと気持ちを伝えあうことができたような気がする。Mは帰ってからこの日の音読で感じたことを日記に書いたそうだ。この日記をMと学級の友だちの前で読むことが本人の了解のもとにできたことを担任の先生から聞いた。
 この日からMと私の間の何かが少しずつ変わり始めたのかもしれないと思っている。どもるからこそいろいろなことにぶつかり、その度に自分を見つめなおして真剣に向き合おうとしているM。これから思春期に向かい、いろいろなことに気づいたり、揺らいだりしながら成長していくことだろう。会うたびに新しい表情を見せてくれるMと、自分自身丸ごとでつき合っていきたい、一緒に学んでいきたいと思っている今の私である。(「スタタリング・ナウ」2008.7.22 NO.167)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/12/20

どもる私がどもる翔くんと向き合って学んだこと

 臨床家は、同行者であってほしい。これは、どもりながら生きてきて、多くのどもる子どもやどもる人に出会い、ことばの教室の担当者や言語聴覚士と研修などで学び合ってきた僕の心からの願いです。
 今日は、昨日の巻頭言につづき、「スタタリング・ナウ」2008.7.22 NO.167 に掲載している、ことばの教室の、どもる子どもとのつきあい方の記録を紹介します。佐々木和子さんは、どもる子どもと過ごす時間の中で、自分の吃音とのつきあい方を、正直に誠実に振り返っています。
 大阪教育大学に僕に会いたいと入学してきた佐々木さん。こんなにどもる女性に会ったことがないというほどにどもっていました。教員になった彼女、それは数知れないほどの苦労を重ねながらも教員生活を続けたことでしょう。その中で、僕の提案する「自覚的に、吃音と共に生きる」を貫き、ことばの教室で出会った翔くんとの取り組みの中で、再び「吃音と向き合う」作業を余儀なくされ、どもりとは一筋縄ではいかない、なんとやっかいなものなのだろう、と振り返っています。

  
どもる私がどもる翔くんと向き合って学んだこと
             佐々木和子  島根県立浜田ろう学校(2008年当時)

 〈背景〉
 私は3歳でどもり始めて現在に至るまで、どもりと共に歩んでいる。大学を卒業してろう学校の教員になり、現在は通級指導教室を担当している。
 私と翔君との出会いは2年前の秋だ。1年生になった翔君のどもりを心配されたご両親が相談に来られた。初めて会った日、私は彼がやりたいと言ったサッカーゲームをして遊んだ。
 彼は自分の言いにくさをしっかりと意識しているようで、自分から話しかけてくることはなく、私が問いかけたことのみに最小限のことばで答え、言いにくい時は、身体を持ち上げるような動作をしてその勢いでことばを発していた。ことばを発することに渾身のエネルギーを使う彼の姿やその時の彼の表情から、親しくなろうと思って私があれこれ話しかけることは彼には迷惑なことではないかと感じた。そこで私は答える必要のない、聞き流せるようなことばかけをしていった。
 通級指導を希望する両親に、「私はどもりを治すことはできないけれど、どもりと共に生きる彼が暮らしやすくなるお手伝いをすることはできる」と話した。どもりを治して欲しいと願う両親が、治すことはできないと言った私のことばを失望せず受け止めてくださった背景には、子どもの時からどもり、今もどもっておられる彼の伯父(母親の兄)を母親が尊敬していることが大いに関係していると思われた。
 2学期から通級による指導を始めるに当たって、私はひどくどもる彼が通常学級でどのような生活を送っているのか知りたくて、授業を参観させてもらった。彼は背筋をまっすぐ伸ばし、担任の先生をみつめ、積極的に手を挙げ、堂々と音読や発表をしていた。どもっている姿を人に見られたくなくて発表する勇気などなかった私とは違う姿に、何て強い子なのだろうと感じると同時に、自分で自分の道を切り開いている彼に、私は必要なのだろうかと思った。
 毎週火曜日の放課後、私が彼の在籍する小学校に巡回するという形で指導が始まった。通級指導の初日。なぜ彼が放課後、私と過ごすのかを尋ねた。すると彼は「話す時つっかえるから」と答えた。私は、これから二人でどもりについて学び、彼が小学校生活をサバイバルしていく方策を考えていくための時間であることを伝えた。

エピソード1 「どもりは笑われるから嫌だ」
 ある日私は彼に「どもって嫌なことは?」と、尋ねた。彼はきっぱりと「笑われることが嫌!」と答え、「どもると友だちに笑われる。笑われると嫌な気持ちになる」と説明してくれた。彼のことばを聞いて、私もかつて経験した記憶が鮮やかによみがえり、「そうだよね、何とか声を出そうと、もがきながら一所懸命に話しているのに、その陰の努力を知りもしないで笑うなんて失礼だよね」と、話した。
 私は、彼に笑う立場になってもらい、その時の自分の気持ちを振り返ることで、相手は悪意があって笑っているのではなく、ただ面白いから笑っていることに気づいて欲しいと思い、「翔君はどんな時笑うの?」と尋ねた。
 「…間違えた時」「えっ?面白い時、笑わない?」「・・うん笑う」「そうだよね、きっと、どもりって人には面白く見えるんだよ」
 私は彼の前でどもりながら話して見せた。
 私の話し方を見て笑う彼に、「ねっ、面白いでしょ。友だちはきっと、君の話し方が自分と違うしゃべり方だからびっくりして、自分とは違っておもしろいと感じるから笑っちゃうんじゃないかな。君も一緒に笑っちゃうといいね」と話した。私は笑われることイコール馬鹿にされることではないという私の伝えたかった思いを彼が受け取ってくれたような気持ちになっていた。

考察1 
 話の中で、生真面目でプライドの高い彼が、人から笑われることに許せない思いを抱いていることが彼の表情や口調から伝わってきた。
 かつて、私も笑われることが嫌だった。しかし、本当に辛いのは笑われなくなった時であり、笑われるどもりはその場が和んで救われるものであること、笑われることはそんなに悪いものではなく、積極的に笑いを認めて共に笑い飛ばすことで、自分自身が救われることを経験してきた。私は笑われることで悩んでいる彼に、その解決策として、自分の経験から導いた方法を押しつけて、彼の悩みに応えた気持ちになっていた。
 彼と別れて指導記録をまとめながら、私は彼が「間違えた時」と答えていることに気づいた。その答えから考えると、どもりは「間違った話し方」をしていることになる。翔君は運動や勉強もよくできる優等生だ。勉強で間違うことはあまりない。間違える人をちょっと馬鹿にする気持ちがないとは言えない翔君は、間違った話し方をしている自分を馬鹿にされたと感じていたのだろうか。
 流暢に話すのが正しい話し方で、どもりは間違った話し方だと考えているのだろうか。私は、翔君が投げかけてくれたこの疑問をその場で取り上げ、彼と共に考えることが必要だったのだ。私がどもる当事者であるが故に、彼の気持ちを自分の気持ちの中に取り込んでしまい、彼の気持ちをそのまま受け止めることを難しくし、結局、独りよがりの指導に終わってしまったことになる。

エピソード2 「僕はどもらないように工夫している」
 学習発表会に向けての呼びかけ劇の練習が始まり、自分のセリフ練習に励んでいる彼に「調子はどう?」と、聞いてみた。
 すると、彼は「僕、セリフを言う時、どもらないように工夫している」と言う。私は彼がどんな技を考えたのかワクワクして、「どんな工夫?」と尋ねました。「えーと、何だったけな。わざと息を吸って話すと言いやすいから、息を大きく吸って言うようにしている」「身体に力を入れて、それをきっかけに声を出すようにしている」「小さくジャンプして言うと言いやすい」「小さな声でしゃべるとどもらない。とにかく2回連続して言わないようにしている」と、流暢にしゃべれない自分と向き合い、どもらずに言えるように自分で編み出した方法を一つ一つ思い出すように話してくれた。
 私は彼の工夫を聞いて、暗い気持ちになった。よりにもよって、全てどもりを重くさせる結果をもたらす取り組みをしているように思えたからだ。彼が一所懸命に考えた秘策を「それはいい考えだね」と賛同することはできなかった。
 「その工夫は、翔君を余計に言いにくくさせるんじゃない?」と言った私の言葉は暗に、「そんな工夫はダメだ」と彼の工夫する気持ちを否定するものだ。発表会の場で絶対にどもりたくないと願う彼に、納得できる策を授けることができないまま、私は「やっぱり、どもったらいけないのかな」と、話題をすり替えてしまった。

考察2
 私は彼が「どもらない工夫」と言っているにもかかわらず、「話す工夫」と勝手に思い、彼がどもる場面から逃げることを考えるのではなく、自分のどもりと向き合い、前向きに困難な状況を打開しようとしていると感じ、嬉しく思ったのだ。しかし、その彼の工夫が、どもらないようにするためのものであり、どもりを隠すためのものだったので、落胆したのだ。
 どもりを隠したい気持ちは彼に限らず私を含めて多くのどもる人が強く抱いている感情だ。私はこの感情に支配されて、学生の頃は話す場面から徹底的に逃げていた。どもりは話をしないと、その症状が表れない。隠そうと思えば、話すことを止めてしまえばいいのだ。
 学生時代、私は自分に課された学習や仕事など、やるべきことを全てどもりを言い訳にして、その責任を果たさなかった。自分の人生を逃げていた。当時を振り返ると、そうせざるを得なかった自分に納得しながらも、「どもりにとらわれて、もったいない生き方をしていたのだろう」と、後悔する気持ちも起こってくる。
 彼には私と同じ後悔はさせたくない、今を精一杯生きて欲しいという思いから、「どもりたくない」と正直に自分の気持ちを伝えてくれた彼に、「どもりを隠すと却ってどもりにとらわれる、だからどもりを隠す気持ちを持つことは良くないことである」と私の勝手な理論を押しつけてしまったのだ。私が彼と同じ年齢の頃、生活の全てを支配していた「どもりたくない思い」は、長い月日を経て、どんどん小さくなっていき、今ではわずかなものになっている。
 経験者であるが故に、切羽詰った彼の気持ちに鈍感になり、彼の「どもりたくない」思いに寄り添うことができなかったように思う。
 私自身、未だに正々堂々と自分のどもりを口にすることはできない。どもりが目立たないよう、うまくコントロールしながら話している。どもりたくない思いの中で、自分のどもりと向き合い、どもらないように話す工夫をしていくことで、自分なりの話し方を身につけてきたように思う。そんな私が彼の工夫を認めず、彼には正々堂々とどもって欲しいと、自分にできない理想を押しつけていたのだ。
 これからも彼はどもりたくない、隠したい思いと日々向き合っていくことだろう。私にできることは、彼の思いを認め、本音でぶつかり合える存在として彼のそばにいることだと考えた。

エピソード3 「えっ、何で?」
 学級での終礼を終えて、いつものように彼が巡回指導の教室に入ってきた。制帽を取って、ランドセルを降ろして椅子に腰掛け、私と話をしているところに、一人の男の子が「失礼します」と教室に入り、「これっ」と言って彼にノートを手渡した。ノートを受け取った彼は、それが自分の連絡帳だとわかると「なんで?」とつぶやいた。なぜ連絡帳が自分のランドセルの中ではなく、友だちが持っているのかに納得できない彼は、目の前の友だちにお礼を言う気持ちより先に、頭の中は記憶を辿ってどうしてこのような状況になったのかを解明することで一杯の様子だった。彼から、何のことばかけも無いので、その子はこのまま帰っていいものかどうか判断しかねている。
 私は見かねて「わざわざ持って来てくれたんだね。ありがとう」とことばをかけた。すると彼は「僕は忘れるはずがない。なんでかな?」と、つぶやいた。「どうしてなのか考える前に、君のノートをわざわざ届けに来てくれた友だちに先ずお礼を言わなくっちゃ」と私が言うと、あらぬ方向を向いて「ありがと」とつぶやいた。そのことばを聞いて友だちは頭を下げて出ていった。

考察3 
 私はノートを届けてくれた友だちに、自分からお礼を言わない彼に違和感をもった。彼の日ごろの言動から、彼が自分に対して絶対的な自信(失敗はしない、間違ったことはしない)を持っていることは感じていたが、自分の問題解決を優先し、目の前の友達に対してあまりにも無頓着な態度に私は驚いた。「これで、友だちとうまくつき合っているのだろうか」と不安になり、天才肌の彼には、ことば以前に、人との気持ちのやりとりを耕すことが必要なのではないかと余計な心配をした。
 また、私は、彼と友達とのやりとりを客観的に見ていて、彼のことばが人に届かないものであることを感じた。私は彼とのおしゃべりの中で、彼のことばが聞こえなくて、何を言っているのかよくわからないことがよくあった。
 「えっ?」と、何度も聞き返したり、「もう少し大きな声で話してよ」とお願いし、何とか彼の話を分かろうと身を乗り出して聞いてた。私が身を乗り出せば出すほど彼のことばは遠ざかっていく。
 その時は、どもりの症状が重いからわかりづらいのだろうと思っていたが、彼の話がわかりづらいのは、つっかえが多くて、ことばがバラバラになっているからではなく、ことば自体が私に届かないためであることに気づいた。
 私も、どもっている時は、自分の身体の中で渦巻いているエネルギーに気をとられ、相手の存在は私の意識から消えてしまう。どもるだろうという予期不安を抱いた途端に、相手は見えなくなり、相手を置き去りにして、自分だけが異空間にワープし、自分一人でどもりと格闘している状態になる。どもった声を聞かれたくないという気持ちが、本来相手に向かって発せられることばを、自分の空間内に留めてしまうのだ。
 彼がお礼を言う時、相手を見ずにそっぽを向いたのも、相手にどもる自分の声を聞かれたくない思いが潜んでいたからだと思う。彼がどもりながら言った「ありがと」とは、本来友達に向かって発せられる筈なのに、友達とは逆方向の床に向かって出ていった。
 どもりと格闘している彼のおしゃべりは独り言の域を越えていない。あの時、友達は彼のことばを受け止めてくれただろうか。せっかく誠実に一所懸命にどもりながら話しているのだから、努力のたまものであることばが相手に届かなくては何のためにエネルギーを使ってことばを出しているのかわからない。これから彼と、相手に向かって声を届ける練習をしていきたいと思う。

エピソード4 「今、どもったでしょ」
 彼が昨年から参加している島根スタタリングフォーラムの日が近づいてきた。今年の参加に向けて気持ちを高めていこうと思い、昨年のまとめと感想文集を見ながら活動内容や話し合ったことを振り返っている時、突然「今、どもったでしょ」と、彼がニタッと笑って言った。
 私は話すことに一所懸命になっていたので、自分がどもったのかどうか、全く気にとめていない。彼の突然の脈絡のない突っ込みに内心ムカッとしながら、「えっ?そうかな。話すことに一所懸命で気がつかなかったけど」と答えると、これを曖昧にされては困ると思ったのか「ことばとことばの間でかっかって、つまったよ」と主張した。
 「私はどもりだからどもるよ。これが私のどもり方なんよ。ことばとことばの間に不自然な間ができるでしょ。それが私のしゃべり方なんよ」
 力でねじ伏せるように、自分のどもったことを正統化する説明をした。

考察4
 私は、彼から「どもり」を指摘されたことに対して、腹立たしさを感じた。「今は私のどもりの話なんかどうでもいい。よけいなお世話」という気持ちと、「あなたは、私のどもりを見つけようと思って話を聞いていたのか。ことばの表面にばかり気を取られて、話の内容はどうでも良かったのか」という怒りがあったように思う。
 何の脈絡もない場面でどもりを指摘した彼の無神経さに腹が立つとともに、彼の表情を見て、一瞬だが、弱みを握られてしまったという思いが頭をかすめた。
 うまくごまかす技を身につけ、どもりが表面上目立たなくなった私だが、私が電話をしている姿を見ている息子から、「母さんは電話で話す時、足をどんどん床に打ちつけながら話すよね。どうして?」と言われることがよくある。「そうなんよ、電話は苦手なんよ。言いにくいわ。きっと、足で声を出すきっかけを作っているんだと思うわ」と、返す私のことばに怒りの気持ちはない。
 彼にどもりを指摘されて、怒りの感情がわき起こったのは、私は彼の前ではどもりたくないという思いをもっていたからであることに気づいた。彼との通級指導を始めるにあたって、私はどもる先輩として、ありのままの自分で彼とつき合っていきたいと考えていた。しかし、いざ指導が始まると、心のどこかに通級指導の教員として立派な指導者、吃音の専門家として臨まなくてはならないという気持ちが出てきたように思う。立派な指導者はどもっていてはいけないという思いを抱いた私の意識の中には、やはりどもりは劣っているという価値観が潜んでいたのだ。
 長い月日を経て、私もようやくどもりを正しく認識することができるようになったと思っていたが、今なおどもりに劣等意識を抱いている自分に気づかされた。どもりとは一筋縄ではいかない、なんとやっかいなものなのだろう。

まとめ
 私はどもる子どもとの出会いを求めて通級指導教室の担当になった。どもりは本人が努力すれば必ず治せると考えられている社会の中で、どもりと格闘している子ども達に、成人してもなおどもりを持ち続けている私の経験が生かせると思ったからだ。
 私は「今のままの私でいい」というメッセージを送ってもらって、自分のどもりを認めることができるようになった。どもりがあるから自分にはできないと思っていた多くの事柄が実は私の思い込みに過ぎず、どもりがあっても世の中なんとかなる、恐れることはないことを、社会に出て生きていく中で実感することができた。どもりで悩んでいる子ども達に、今度は私が「今のままのあなたでいい」とのメッセージを送る役を担いたいと思ったのだ。
 しかし、この記録をまとめてみて、私がどもる経験者であるが故に、自分の思いが先に立ち、彼が抱えている問題の解決を先取りしてしまい、彼の思いに添っていない場面が多くあることに気づいた。彼の悩みは、かつて私が経験したことであるだけにその苦しさは分かり過ぎるほど分かる。早くその苦しさから解放してやりたいと思うあまり、彼自身が試行錯誤しながら解決していく時間が待てず、「こうすればいい」と私が獲得した解決策を押しつけてしまっていたのだった。
 私は彼に「今のままのあなたではいけない、もっとこうなって欲しい」というメッセージを送っていたことになる。彼が私に求めていたことは、彼が自分なりの解決策を見っけていく間「それでいいんだよ」と全面的に彼を認めるまなざしを送る人としての存在だったのだ。
 私は中学3年生の時、どもりの呪縛にかかり、あまりに無気力な生活を送っていた私を心配した担任が、相談に行くきっかけを作ってくれ、ことばの教室に出会った。私は自分の居場所を見つけた。ことばの教室は、どもりがある、ありのままの自分で居られる場所だった。
 ことばの教室の大石益男先生は、最初専門家として私に音読や伝言など、私が苦手とする話す場面に対する対処療法を試みられた。しかし、私が練習を拒否したので、その指導を実践することをあっさり諦めてくださった。
 私たちは教室を飛び出していつもドライブをしていた。世の中から逃げて卑屈に生きていたどうしようもない私をありのまま受け止めて、いつかこの子もきっと自分の力で歩み出す時がくると、私の成長する力を信じて、横にいて待ってくださった。どもりに苦しむ私を目の前にして、自分の専門性を振りかざし、どもりの症状を改善することを強要されなかった大石先生の支援を受けて、私は「今のままの私でいいかもしれない」と自分を許す土台を作ることができたように思う。
 自分の力で、この子を変えてやろう、救ってやろうという気負いを捨て、子どもの成長する力を信じて待つことが、通級指導教室の担当者としての私の役割であることを35年前の恩師の実践から、改めて確信することができた。
 彼とどもりについて話すことは、私にとって、自分自身のどもりと向き合うことでもあった。
 「どもりは笑われるから嫌」「恥ずかしい」「隠したい」という彼のキイワードは、形は非常に小さくなってはいるが、今なお私の中にも、突然現れる。私は身体の中に沸き起こるこの気持ちに耳を傾け、対話しながら、自分自身のどもりに対する価値観を明らかにしていく中で、どもることは良いことでも悪いことでもなく、どもる話し方に過ぎないこと、そしてどもりをあってはならないものとマイナスに価値づける自分の価値観が自己否定の連鎖を生み出し、自分を暮らしにくくさせているものであることに気づくことができ、どもりの囚われから解放された。
 彼もきっとこのからくりに気がつくことと思う。私は彼の歩みを見続けていきたいと思う。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/12/19

吃音臨床家は同行者

 今年も残り少なくなりました。時間の経つのが早く、あっという間に1年が過ぎたような気がします。今年も、吃音親子サマーキャンプや親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会、各地のキャンプや研修会などで、たくさんの人と出会いました。どもる子どもや保護者だけでなく、ことばの教室の担当者、言語聴覚士にも会いました。直接会い、話をして、今日、紹介する巻頭言のことばどおり「吃音臨床家は同行者」だという思いを強くしました。僕は、オープンダイアローグが大切にする「対等性」について、ずうっと考えてきました。
「スタタリング・ナウ」2008.7.22 NO.167 の巻頭言を紹介します。

  
吃音臨床家は同行者
                  日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 ・対等性を常に自覚すること
 ・否定から肯定へと向かうもの
 ・社会適応のための治すではなく、その人の生きる意味と結びつくもの

 言語聴覚士養成の専門学校や大学のソーシャルワーク演習などの講義で、対人援助の専門職を目指す人たちに、専門職者とは何かについて、私が常に強調してきたのがこの三つだ。
 援助を必要とする人にとって、専門職者は構造的に、役割として指導する立場にある。役割としては確かにそうなのだから、人間としては対等であることを常に強く自覚しないと、指導しなければならないと、ともすれば上から見てしまう。
 吃音の臨床家にとっては、ことのほかこの三つを考えることは重要だと私は思う。
 専門学校の学生は、「言語聴覚士として、専門家として、専門的知識と技術で吃音を治療し改善してあげたい」と意気込んで私の講義を受ける。学生は、最初は私の講義と、これまでの他の講義との違いにとまどうが、吃音が原因も未解明で、治療法がないと知って、少しずつ、私の考え方に共感してくれるようになる。
 専門職者として何ができるか、講義の中で、一緒に考え、話し合う中で、専門家としての立つ自分の位置をそれぞれが考えていく。それでもやはり、「治してあげたい、軽くしてあげたい」と食い下がる学生に、私はいつもこう答えている。
 「世界一の吃音臨床家と言われ、たくさんの弟子の研究者や臨床家を育てた、プロ中のプロと言われている、チャールズ・ヴァン・ライパー博士でも治せなかった吃音だ。あなた達に治せないのは当たり前なのだから、治せないと自分を責める必要はない」
 吃音は薬や手術などの誰にでも効果的で確実な治療法がない。また、最新の言語訓練と紹介された、「コントロールされた流暢さ」の形成法にしても、「ゆっくり、軽く言う」という、100年以上も前から取り組まれてきて、多くの人に役に立たなかったものなのだ。
 もうそろそろ、吃音臨床家は、吃音について専門家として「無力宣言」をした方がいいのではないか。吃音については無力だが、その人が「どう生きるか」については、決して無力ではない。
 「たいしたことはできないけれど、その人に誠実にかかわれば、何かが変わる」と、私は人間の変わる力を信じて、どもる子どもや、どもる人に向き合ってきた。吃音そのものは治らなくても、軽くならなくても、その人の行動、吃音についての考え方、どもることから生まれる様々な否定的な感情は、変化していく。すると、吃音にはあまり変化がなくても、吃音と共に生きていくことができる。
 そして、自覚的に吃音と共に生きることによって、自己変化力が働き、直接吃音にアプローチしないにもかかわらず、吃音そのものも、多くの場合変化していく。この変化のプロセスに同行するのが、専門家の役割なのだ。
 吃音臨床家の対等性とは、その人を尊重するという意味合いだけではない。自分にはたいしたことはできないという「無力宣言」が背景にある。
 だから、どもる当事者と相談しながら、一緒に悩み、一緒に考え、迷いながら取り組んでいくものだ。共に学び合うもので、臨床家の一方通行の指導ではない。
 今号の、ふたりのことばの教室の、どもる子どもとのつきあいの報告は、私が大切にしていることと、共通することが多くて興味深い。
 佐々木和子さんとは、彼女が大阪教育大学に入学してからのつきあいだ。これほどどもる女の子がなぜ、教員養成大学に入学したのか不思議だった。彼女自身も教員になれるとは、微塵も思っていなかったようだ。言語訓練は一切しない彼女が、教員生活の中で、どんどん変わっていった。その彼女がどもる翔君とのつきあいを正直に語っている。
 尾谷さんも、自分の耳の障害とMさんとのことを語って下さった。ここに吃音の同行者がいる。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/12/18

どもりに向き合える自分になりたい―ゆうちゃんを支えた人 2―

 どもりに向き合える自分になりたいというゆうちゃんを支えた人、昨日のことばの教室担当者につづいて、今日は、ゆうちゃんのお母さんの文章です。前回も、今回も紹介されている、岡山吃音キャンプは、2020年、新型コロナウイルス感染拡大の影響を受けて、中止になりました。そして、残念ながら、中心的に取り組んでいたスタッフの定年退職などで、再開されることなく終わりました。僕としても大切にしていた岡山吃音キャンプだったので、とても残念なことですが、仕方がないことですね。岡山吃音キャンプではいろいろな良い出会いがありました。とてもありがたいことでした。
 ゆうちゃんを支えた人としましたが、担当者もお母さんも、ゆうちゃんに支えられたともいえます。お互いがお互いを支え、成長していった物語のようでした。しっかりと振り返り、言語化してくださったこと、ありがたいことでした。

  
我が家とことばの教室
                                 ゆうの母親

 4歳の夏の終わり、上の娘の友達のお母さんから、「ことばの教室」の存在を知り相談に行った。その頃の娘は連発が激しく、言っている途中で自分が何を言いたかったのかを忘れてしまうことも度々あったほどだ。しかし、当日、前日までの連発が嘘のように消失し、ちっともどもらない。一体何をしにここへ来たのか?と思う私の気持ちとは裏腹に、娘はことばの教室が妙に気に入ったらしく、帰りの車の中で、「次はいつ来るの?」とうるさかった。しかし、「もう少し、様子をみましょう。気になるようだったらまた連絡して下さい」と言われ、娘はとても残念がっていた。
 自宅である教室をしている私は、子どもが帰宅する夕方には生徒達が来る事になり、まだまだ母親に甘えたい年頃の娘達とゆっくり接してやれることが出来ないでいた。唯一、夕食の時間がその日一日の報告タイムとなるのだが、小学校へ通う姉の話を優先している自分に気づき、姉にも了承を得て、この日から、下の娘の話を先に聞く事になった。それは、主人にもお願いした。
 主人の仕事の転職などの関係で、私たちの精神状態がいっぱいいっぱいだった夏の終わりに、娘の吃音が出始めた。この頃、私達夫婦は自分達の生活設計のことが精一杯だったのだ。

・子ども達にちゃんと目を向けていただろうか?
・イライラして子ども達に当たらなかったか?

 この頃の事を言葉にすると『後悔』の文字しか浮かばない。やり直しが出来るなら、ここへ戻りたい。私のせいでどもり始めたのかもしれない。娘がどもるたび、そんな風に思う自分がいた。
 一旦は消失したと思われた吃音は、どもったりどもらなかったりと色々で、やはりもう一度、ことばの教室を訪ねることにした。その頃、我が家に大きな転機が訪れた。夫が家で仕事を始めたからだ。家に帰れば両親がいる。家族4人が夕食を共に出来る。娘と一緒にお風呂に入る。何でもないようなことが、家族の落ち着きを取り戻した。
 5歳の春、ことばの教室への通級が始まった。
 週に一度、お弁当のない水曜日。みんなより少し早めのお迎えに行って、ことばの教室へ行く。先生方は皆優しく朗らかだ。マンツーマンで一人の子だけを相手にしてもらえる。小学校に通う姉を思った。40人近い生徒を一人の先生が相手にするのに比べここは何て贅沢な空間なんだ。私にも、待ち時間という今までになかった時間が与えられた。本が読める。同室しているお母さん方と話ができる。それに、行き帰りの時間は、下の娘が私を一人占め出来る時間にもなった。
 しかし、問題はこれからだ。娘には吃音があるからことばの教室へ行くとは言ってはいない。「発音がちょっとおかしいから行くのよ」と言っていた。この時点では、私自身に治してやりたい強い気持ちがあり、治らないかも?と思わないようにしていたのだ。ここは、私の勉強の場でもあった。

小学入学
 小学校に入学し、ことばの教室の先生も、小学校の担当の先生へとバトンタッチされた。毎週の通級は隔週になり、授業に支障が出ない夕方の時間になった。夕方になると私の仕事への支障が出るが、私の開く教室の先生の代わりはいるが、親の代わりはいない。仕事を減らして調整した。
 小学生になり、ことばの教室の先生方の配慮から、吃音をオープンに話せる関係になっていた私達家族は、家の中でもよく話題にするようになった。時々壁にぶつかることがある。本読みや計算カード等々、どもる子ならではの悩みだ。その一つ一つを担当の先生に相談しながら解決していく。
 私の教室にどもる子が二人来ていた。とてもよくどもる男の子と、お母さんに言われるまで全く気がつかなかった女の子だ。二人ともことばの教室へは通級していない。家庭によって考え方もそれぞれだ。女の子のお母さんとは吃音の話を時々するようになり、「うちの子は、人に聞かれたら、私はこういう話し方なの。癖みたいなものよ」と言っているという。それを娘に話すと、同じように質問してくるお友達に自分のことを話せるようになった。また一つ問題が解決した。

姉の問題
 下の娘が安定していると思っている矢先、上の娘の方に問題発生だ。5年生になった娘はしっかりもので、口も達者なのが裏目に出た。高学年の女の子によくある問題なのだが、娘ひとりが孤立してしまった。この一年で、帰宅してから遊びに出たのはたった一度という苦しい年だった。この頃、親子3人でことばの教室へ通っていた。ことばに問題のない姉までがここで癒されていたのだ。
 現在中学3年生になる姉は、思春期真っ只中で問題も多々あるようだが、5年生の経験は確実に彼女を強くした。聞き流すことも覚え、言いたいことはしっかり言う。決して流されない。壁にぶつかることで、人間は必ず成長する。何かを得ることが出来る。そう実感する一年だったと思う。

3年生
 3年生になり、初めて、「吃音の生徒は経験があるからわかります」と言われる先生が担任になった。色々な場面で発言する機会を与えてくれた。彼女なりに過ごしやすい一学期を終えると同時に、その先生が結婚退職された。二学期を迎えると新しい先生との初顔合わせが待っている。中学年になり、自分自身の吃音が気になりだした娘にとって、担任が代わるストレスは大きかった。自己紹介が苦手になり、発表が出来なくなり、本読みが出来なくなった。家に帰っても、「今日はどもりまくった」と言っては泣き、泣きながら本読みの練習をすることが多々あった。
 そして迎えた三学期。娘の吃音を真似て笑う子が出てしまい、娘は教室で号泣した。とっさの先生の判断で、その時その場で、娘の吃音についてクラスのみんなに話をしてくれた。その夜、担任の先生から電話があり、泣きながら謝られた。
 「私のせいで傷つけてしまった」と言われ、何も出来ないご自分を責められていた。そこで私は担任の先生にかけた慰めの言葉は本心だが、少し違う。本当は悔しくて泣きたかったのだ。次の日、何もなかったような顔で登校した娘を見て、先生も安心されたと思う。クラスで笑う子もいなくなった。先生への私の言葉も、翌日の娘の笑顔も、私達に出来る精一杯の強がりだったと思う。

4年生
 4年生になった娘を待ち受けていたのは、恐怖の自己紹介だ。予想通りうまく言えなかったらしい。ところが、隣の席の男の子に、「少しつまったけどいいじゃん」と、今まで言われた事のない言葉をかけられたのだ。その後も彼は、「すごく緊張してつまったけどまあいいじゃん」など、さりげなく言葉をかけてくれた。うれしさのあまり、それらのことを娘は日記に書いている。そして、それを読まれた担任の先生が、「みんなの前でこれを読んでもいいかな?」と聞いてきた。娘は、みんなに吃音のことを知られる恥ずかしさからか、躊躇していたが、私や姉に、「読んでもらえばいいのに。みんなに知ってもらえるチャンスよ」と言われてその気になった。次の日先生は、黒板に「吃音」と書き、娘のことについて説明をされた。
 どんなにどもっても誰も何も言わない。それでも、みんなと同じようにすらすら話せる自分になりたい。いつか治るだろうと信じている娘に、治らないかもしれないと自分で伝えられない私は、夏に行われる吃音キャンプの参加を決めた。

岡山吃音キャンプ
 キャンプが始まっての自己紹介。家族単位で誰がマイクを握ってもいいのだが、娘は私に言って欲しいと懇願する。「何のためにこのキャンプに来たの?自分で言わなきゃ意味がないよ」私に諭されて覚悟を決めたのか、番がきたらすっと立って難なくクリアした。と同時に大粒の涙がぼろぼろ溢れ出る。それを見た私までもが泣いてしまった。その後の娘は、憧れの伊藤伸二さんとゲームをしたりと上機嫌だ。この日、伊藤さんは親の私達に、「コンプレックス」についてお話をされた。
 「誰しもコンプレックスはある。しかし、コンプレックスがあることで、違う何かをがんばれる」
 我が家の二人の娘達はそれぞれ個性があり、それぞれ色々な壁にぶつかってきた。その度に考えさせられ成長してきたように思う。それは親である私自身も同じだ。伊藤さんの言葉が胸に響く。
 日帰りのキャンプでの参加だったが、確実に娘は成長した。たくさんのどもる子どもに出会い大人のどもる人にも出会った。治らないかもしれないと思ったのもきっとこの頃だと思う。それからは、治るだろうという言葉を言わなくなった。

5年生
 始業式の翌日、娘は「私の吃音のことをみんなに話して下さい」と担任の先生に手紙を託した。「本読みなどはつまりやすいので、みんなで読むようにして下さい」と、変なお願いも書いてある。「ちょっと待ちなさい。これは他の人の学ぶ機会を奪ってしまうことになるからダメ。自分のことだけお願いしなさい」と、つい言ってしまった。娘は、「どうしても言葉が出てこない時は少し助けて下さい」と書き直した。そして、簡単に娘のことが説明されたらしい。自分から先生にお願いできたことに、娘は満足していた。後に聞いた話だが、前年度の担任の先生から、「早い時期にクラスのみんなに話した方がいいよ」とアドバイスを受けられていたらしい。そこへ娘から手紙を託されたものだから、「いつ話そう」と思われていた先生は、「彼女からタイミングをもらいました」と家庭訪問で言われた。娘に関わるたくさんの先生方に感謝せずにはいられない。

2回目の夏の岡山吃音キャンプ
 吃音キャンプに、主人が同行してくれることになった。5年生になると、伊藤伸二さんや成人の方達と話が出来る「夜の部」がある。それにどうしても参加したかったのだが、一泊が難しい私に代わり、主人が引き受けてくれた。子どもはとても可愛がるが、学校やことばの教室等々、私任せのことが多い主人にとって、しっかりした意見を述べられるお父様方に驚いていた。娘は、「パパありがとう。来年も行こうね」と言って抱きついていた。
 今回のキャンプは娘に大きなプレゼントを残してくれた。帰ってから感想文を書いていたのだが、夜の部での伊藤さんの言葉が娘の心に響いたのは確かなようだ。
 「ぼくなんて、60年以上もどもりとつき合っているのだから、あきらめなさい」と言われたらしい。吃音と向き合いなさい。受け入れなさい。というメッセージだと素直に受け止めている。実際、娘の書いた感想文には、それらしきことが書かれ、前向きになれたと書いている。夏休みの宿題に出される作文にも、同じように書いていた。
 娘は確実に成長している。それは私達家族も同じだ。壁にぶつかった分だけ強くもなった。そして、「ことばの教室」の存在が私達をどんなに助けてくれているか、言葉で表すのは難しい。我が家にとってことばの教室は、初めは確かに治しに行く所だったが、次第に学ぶ場所になった。そして今はと言えば、癒しの場所だと言っても過言ではない。通級は小学校終了までとなっている。現在中学3年生の姉を見ていると、思春期になってからの下の娘がどうなっていくのか不安なのは確かなことだ。中学生になれば、授業は教科ごとに先生が変わる。今までのように担任の先生に託せばいいというわけにはいかない。他の小学校も一緒になるので、娘のことを知らない子達にまた説明していくのか?また、つらい日々が続くのか?考え出したらきりがない。課題は山積みだ。
 子ども達は学校という小さな社会の中に過ごしている。学校で起こったことは、私達親にはほとんどが事後報告だ。親の私達が出ていく前に解決していることがほとんどだ。助けてやりたくても、結局は自分で解決していかなければならない。そのためには「生きる力」が必要なのではないか。
 我が家では、子ども達の口から「学校が楽しい」「ご飯がおいしい」この二つの言葉が聞けたら心が元気な証拠だと思うことにしている。「がんばれ」と言うこともある。時には、「がんばらなくていいよ」と言わなければならないこともある。子育てに教科書はない。一つ一つの経験が、私達家族に「生きる力」を与えてくれる。
 「吃音は大人になってからより、子どもの頃に受け入れる方が簡単だ」と伊藤さんから伺ったことがある。自らが吃音で苦しんだ人ならではの言葉だが、娘を見ていると、正にその通りだと思う。そして、ことばの教室で学んだことの一つ一つが、将来の娘の「力」になってくれると確信している。
 我が家にとっての「ことばの教室」とは、子育ての分岐点に必ず登場してきては助けてくれ、慰めてくれ、癒してくれた。言葉にしきれないほど感謝の気持ちが詰まった場所だ。下の娘に吃音がなければ、ことばの教室の存在すら知ることもなかっただろう。伊藤さんとも、もちろん出会えなかったし、今の我が家の形も違ったものになっていたかもしれないと思う。ことばの教室に通うようになって6年目だ。いつか必ず「卒業」しなくてはならない。吃音を受け入れられた私達親子にとって、本当はいつ卒業できてもいいはずなのに、それがなかなか出来ないでいる。次々入級してこられる新しいお子さん達の対応で、先生方も本当に大変なのは知っている。子どもにとってのことばの教室は文字通りだが、私にとってのことばの教室は、弱音の吐ける場所でもある。それだけに、子どもよりも私が卒業出来ないでいるのかもしれない。
 先生方も卒業して欲しいとは言われない。でも、娘が小学校を卒業する頃には、強制的にことばの教室も卒業させられてしまう。ここはもう少し、居座らせていただいて、卒業を延ばして頂くことにしよう。我が家はもう少しお世話になります。(了)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/12/17

どもりに向き合える自分になりたい―ゆうちゃんを支えた人―

 初めて、巻頭言から伊藤伸二の名前が消えた「スタタリング・ナウ」2008.6.22 NO.166 を紹介しています。一面に掲載したゆうちゃん、そのゆうちゃんを支えた人の文章を紹介します。今日は、ことばの教室の担当者です。担当者の実践報告も、明日紹介予定のお母さんの体験も、丁寧に詳しく書かれていました。かなりカットを了解していただき、大幅に編集をしました。カットをしたために、文のつながりが悪いところがあるかもしれません。責任は編集部にあります。

  
ゆうちゃんありがとう
               岡山市立石井小学校 ことばの教室担当者 

1 はじめに
 私は、一般の小学校に3年間勤めた後、県立聾学校に11年間在籍した。その間の発音指導の経験が活かせるようにとの配慮からか、通級指導教室、通称「ことばの教室」へ転勤した。
 初めての経験の連続だった。中でも、どもる子どもたちとの出会いは、私の十数年の教職生活の中でも、全く経験がない。
 学生の頃、不思議な話し方をする教授の授業を、半年間受けたことがあった。その話し方が「連発・伸発・難発」の全てを含む吃音だと今は分かる。当時吃音について全く無知だった私は、教授を揶揄するような態度を示す学生に反感を持ったり、なぜ、この先生は、『大学教授』の仕事を選択したのだろうと疑問に思ったりした。
 私は、ことばの教室のおかげで、数々の素晴らしい出会いに恵まれた。迷い、悩んだ分だけ、ご褒美のように子どもたちやご家族の「成長」という素晴らしい場面に立ち会えた。私に「吃音」について、一緒に考える楽しさを学ばせてくれた「ゆうちゃん」との4年間をふりかえりながら、私の「学び」の記録として書き留めておきたい。

2 出会いととまどい
 赴任して1ヵ月が過ぎ、どもる子どもたちとの初対面の日。ドキドキしながら過ごした40分ほどを全く憶えていない。記録によると、インタビュー形式でゆうちゃんの好きなものをいろいろ尋ねたとある。「とりあえず出会ってみてから」と言い訳のように自分に言いきかせ、どんな指導方針を立て、どんな活動内容を考え関わっていくか、考えようと思ったのだが、全く思い浮かばない。
 発音指導を受けたと記録にあったので、まず、その状態を確認してみた。「キ・ケ」の音が歪んでいる。おかあさんにそのことを伝え、さらに今後の関わり方として、「ゆうちゃんの吃音のことを、ことばの教室で話題にしていってもいいですか?」そう尋ねてみた。お母さんはこう答えた。
 「吃音は、吃音が始まった頃や幼稚園の一時期はとてもひどく、本人も『どうしてこんなふうになってしまうん?』と泣いて訴えることもあったが、今はほとんどなくなっている。このまま自然に消えることを願っているので意識させない方がいいと思う。家族でも、話題に取りあげたことはない。とりあえず、発音指導をしてもらいたい。吃音のことでことばの教室に通っているのは、何かのための『保険』だ考えている」

3 きっかけとなった「本読み」と「計算カード」
 一年生になったら、宿題が出るようになる。「本読み」と「計算カード」。たいていの場合、その評価基準に「すらすらと」「つまらないように」という項目がある。その頃、「最近症状がひどくなってきているんです」と、相談を受けることになった。
 「吃音」を「話題」にしたことのない家族にとって、大きな転機の訪れだった。そのとき、他の担当者から、どもる女児のグループ指導に、「ゆうちゃんも参加してみてはどう?」と誘いを受けた。
 「吃音のことにふれないでほしい」と希望していた年度当初なら「ノー」だっただろうが、「ゆうちゃん自身がそう望むんだったら参加させてやりたい」に、お母さんの考え方の変化が現れている。
 「本読み」「計算カード」の課題が解決しないまま、初回のグループ指導の日を迎えた。
 普段、自分よりも年上の家族と暮らしている彼女にとって、年長の3人との会話は、抵抗なく受け入れられるだろうと担当者は予測し、不安はなかったが、お母さんと、偶然同行した姉の2人には、ドキドキの時間になっていたらしい。
 4人の小学生が初めて顔を合わせ、会話が始まる前に、担当者から「4人はみんな『吃音』があるお友達なんだよ」と、ゆうちゃん以外はそれまでに数回のセッションを繰り返していたメンバーだったので、主に彼女に向けての紹介をした。
 ゆうちゃんはいつもと変わらない表情で話したいときに話し、笑いたいときに笑っていた。
 翌週の指導日、お母さんとの懇談の時間に、「先週のグループはいかがでしたか?ゆうちゃん、何か言ってました?」と水を向けてみると、お母さんは、多少興奮気味に話し始めて下さった。
 「先週、帰りの車の中で、『今だ!』って思ったので、『今日の女の子たちなあ、みんなゆうちゃんみたいな話し方になる人ばっかりだったんよ』と話しかけたらケロッとした顔をして『うん、知ってる。だって最初に先生がそう言うとったもん』ですって。一緒に乗ってたお姉ちゃんも、真剣な顔して聞いてたのに、二人して拍子抜けしましたが、なんかすっきりしました」
 この家族にとって、大きな一山を越えた瞬間だったと感じた。その後は、堰き止められていたものが一気に流れ出るようにどんどん変化し始めた。
 まず、「本読み」と「計算カード」。
 一旦、「吃音」を話題にできた一家にとって、それらはどうってことのない問題になっていた。
 お母さんは、吃音でつまったのか、練習不足でつまったのか、見分けがつくようなので、「練習不足だから△、吃音でつまった場合は◎だね」と話し合いながら評価することを提案した。
 家族がこのルールの適用ができ、ゆうちゃんは納得のいく宿題の評価を受けられるようになった。その後は、来室されるたびに、お母さんから様々なエピソードを聞き、家族の中で、ゆうちゃん自身もお母さんもどんどん変化していった。

4 ことばの教室でできること
 最初、何をしていいのかわからなかった、教室での子どもたちとの時間。この頃になると、ゆうちゃん親子を始め、どもる子どもたちや家族がくる日を心待ちにするようになっていった。
 「ことばの教室でできること。それは、吃音のある暮らしをともに考えること」
 担当者になってすぐに教わったこのことばの意味が、この頃の私には、なんとなくわかりかけてきたような気がしていた。吃音に関する基本的な知識を勉強し、それらに関する情報を収集する。その中からそれぞれの親子にとって必要と思われる「情報」を選択して、適切な時期に提供する。
 大切に考えていきたいのは、子どもが「自分のことが好き」と思えるような時間の過ごし方、人間関係づくりをいつも心がけて関わっていくことだ。
 その上で、それぞれの親子にとって、話題を共有できる、ともに考えることのできる時期が来るまで、「機が熟すのを待つ」ということを、ゆうちやんやさまざまな親子との出会いの中で学んだ。

5 内面の成長
 3年目の指導が始まった。中学年になったゆうちゃんの心の中に、それまでとは違った気持ちが表れるようになっていった。

・どもることを恥ずかしいと思う気持ち
・誰にも知られたくないという気持ち
・失敗したらどうしようと恐れる気持ち

 本読みの宿題や、翌日発表することが決まっている課題など、家で何度も繰り返し練習に励むのに対して、「どうしてそんなに何回も読むの?」とお母さんが尋ねると、「読んでいないと不安」だと言う。それまでのゆうちゃんは、発表したいときにはし、当てられたときには答える。構えている様子はなく、本読みも特に苦手意識を持っているようではなかったが、3つの気持ちが芽生えるとともに、たちまち発表できなくなった。
 手が挙げられない。当てられても思い通りのことばを口にできずに、ゆうちゃんは悩んでいた。
 しかし、「吃音」の話題を共有できる関係になっており、ゆうちゃんは毎日、学校での様子をお母さんに相談した。「今日はどうだった?」と尋ね、「今日もダメだった」のやりとりが何日も続く。ある日、お母さんは「毎日毎日確認するの、しんどくない?やめようか?」と聞くと「言えるようになるまで毎日聞いて」と答えた。
 「わかった。それじゃ毎日確認するからね」
 この会話にも、この親子の優しさと強さが表れていると思った。
 その後も、ゆうちゃんにはつらい日々が続いた。
 「サ行」がうまく言えないゆうちゃんが、国語の時間に説明文として書いたのは、お母さんの得意料理「ささみのしそ妙め」だった。ゆうちゃんの不安は的中し、「ささみ」も「しそ妙め」も、思い通りに言えなかった。それを大きな声で真似をする子がいて、ゆうちゃんはみんなの前で号泣してしまった。そのとき、クラス全員の前で、担任の先生はすぐに話をしてくださった。
 ゆうちゃんのことばは、自分の思い通りにならないけれど、勇気を出して発表していることを。
 担任の先生は、その夜の電話で、「私のせいでゆうちゃんを傷つけてしまいました」とお母さんに泣きながら謝った。
 お母さんは、「いつか必ず、娘が通る道だったのだと思っています。それが、たまたま今日になっただけのことです。その日が、今日でよかった、先生のクラスでよかったってそう思います。みんなの前で説明して下さって、本当にありがとうございました」と先生を慰めたのだそうだ。
 でも、「本当はね、悔しくて悔しくてたまりませんでした」と、お母さんは後になって本音を明かして下さった。

6 「発表をほめてくれる友達」との出会い
 ゆうちゃんは、新学期の自己紹介が苦手だ。4年生の新年度。緊張感と「あきらめ」にも似た気持ちでの新クラスでの自己紹介、一生懸命に話し終え、腰を下ろそうとしたゆうちゃんに、クラスメートが何気なく、「それほどつっかえてなかったじゃん」「上手に言えとったが」と言った。
 前年度味わった「不安」「悲しみ」「悔しさ」を抱えて迎えた新年度、不意にかけられた声のあたたかさ。ゆうちゃんはとても嬉しかったのだろう。その喜びを勇気を出して文章に書き綴った。
 前担任の先生より、丁寧な引き継ぎを受けていた担任は、ゆうちゃんの思いをクラスメートに伝える機会を待っていた。ゆうちゃんにもお母さんにも、「みんなの前で読んでもいいか?」と了解を取った上で、学級全体の前で、あくまでも「さりげなく」読み聞かせて下さった担任の先生の配慮に、私は本当に頭が下がる思いだった。
 その後も、自己評価では「めちゃくちゃどもってる」発表の直後に「そんなにつまってなかったが」という声がかけられることが何度も続く。「自分で思っているよりも周囲は気にしていないのかもしれない」。家族や担当者が声をかけても、不安に苛まれている最中には心に届かなかったことばが、ストンストンとゆうちゃんの心の中に落ちていく。

7 憧れの存在
 ゆうちゃんの同じ学校の3学年上の男の子と、同じ曜日の同じ時間に指導枠を組んだ。待合室で指導終了を待つ間の時間に、お母さん同士が自然に会話を交わすようになっていった。先輩のお母さんとの待ち時間はとても有意義なものだったようだが、ゆうちゃんにとっても大きく、3歳年上のお兄ちゃんの具体的な姿に、「しんちゃんって、運動会のときに、マイクで話す役に立候補したんだって!」と、憧れるようになっていった。
 ちょうど中学年になって、「友達と違ってうまく話せない自分」を強く意識し始め、コンプレックスを持ち始めていたゆうちゃんの目に、しんちゃんは「すごい人」「かっこいい人」に映ったようだ。
 お母さんの「伝え方」もうまかったと思う。
 「しんちゃんはすごいけど、あなたはダメよね」というメッセージが伝わってしまっていたら、ゆうちゃんにとって、しんちゃんは、「目標」にはなり得なかったのではないかと思う。こういう思いが、「キャンプ」へ一歩踏み出す行為につながった。

8 姉の成長
 ゆうちゃんには、4歳年上の姉がいる。クラスの中にどもる子がいて、5年生のとき。「何それ、変な話し方」と近くの男子たちが数人笑い声を上げた。「それ、吃音なんだから笑ったらだめ」と言いかけたことばを飲み込んだ。当事者の男児自身が一緒に笑っていたから、今は言わない方がいいと判断できる思慮深さが彼女にはあった。
 中学生になってからも、級友の話し方に気づく。
 「ときどき語頭が出にくそう。難発かも。でも、たぶん他の人は全然気づいてないよ。その子ね、話しにくくなったら、指を喉のところに持って行ってる。そんな癖になってるみたい」
 その出来事も、母親に対してのみ、オープンに話す。学校では誰にも話さない。「ゆうちゃんを支える存在は、ここにもいてくれるんだな」とうれしく思った。そして、それだけの配慮ができる彼女に、年齢の違いを超えて尊敬の念を持った。

9 伊藤伸二さんとの出会い
 石井ことばの教室親の会主催で、伊藤伸二さんの講演会をしたのは平成15年11月のことだ。
それまではキャンプの話を話題にしても、「いつか都合が合えば」と積極的に参加したいとは口にしなかったお母さん。講演会終了後、他の吃音のお母さんとともに「キャンプ、一緒に行こうな!」そう誘い合う姿が見られた。
 お母さんの話を伝え聞いたゆうちゃんも、「伊藤伸二さんに会ってみたい。話してみたい」
 そう口にするようになっていった。
 4年生の夏、その願いが叶い、岡山ちびっこ吃音キャンプに日帰りでの参加が可能になった。最初の「自己紹介」の時間。同じ学校の先輩でもある1人の男児が、堂々とマイクを持って自己紹介をした。前述した「しんちゃん」である。
 ゆうちゃんの中に、「自分で話さなきゃ」ではなく「自分で話したい!」という思いがつのってきたらしい。まわってきたマイクを躊躇なく手に取り、4年生らしく落ち着いて話すことができた。
 お母さんに「自己紹介がんばったね」と話しかけると、事情を話してくれた。「自己紹介がある」とわかったとたんに「お母さんが言うてよ」と言っていたゆうちゃん。お母さんは、無理だったら私がと思いながらも「あなたが言いなさいよ」と突き放したそうだ。
 話し終えて、次の家族にマイクを回した後、大粒の涙をポロポロこぼしたゆうちゃん。それを見て一緒に涙ぐんでしまったお母さん。その話を聞きながら、私も涙ぐんでしまった。
 また、一歩この親子は前に進んでいる。
 憧れの伊藤伸二さんともペアを組んでゲームをすることができた。その後のグループでの話し合いで、「何でそんな話し方になるん?」と尋ねられたときの対応の仕方について担当者が話題をふってみた。ゆうちゃんは、自ら挙手して話す。
 「2年生のときにママに教えてもらって、『癖みたいなものだから気にせんとって』って言いました。そうしたら、しっこく聞かれなくなった」
 他の友達の前で、自分が経験したことを進んで話すことができていた。
 私は、その頃のことがすぐに口をついて出てくるほど、彼女の中に印象深く残っていることにも驚いた。2年生の頃、「何度も聞いてくる人がいて、いつもは無視してるんだけど、ママから聞いたように言ってみたち、そのあとしっこく言ってこなくなった」と驚いたように報告してくれたことがあった。
 幼稚園の頃から、何度も尋ねられるたびに、どう答えていいかわからず、適当にごまかしてきたことも聞いていた。相手の質問に、逃げないで答えられたこと。その相手を納得させることができたことで、すっきりしたのだろう。だからこそ、グループ討議の場面ですんなり発言ができたのではないだろうか。そう思った。
 「吃音について知っていることは?」の問いに対しても、「3種類ある!」「波がある」「大きくなっていろんな仕事に就いている人がいる」など、いつもグループ指導でコンビを組んでいる3年生の児童と競うように次々と口にするゆうちゃんを見て、「今日、『吃音キャンプ』の場に参加させてあげられてほんとによかった」と心から思った。
 キャンプ2回目の夏、ゆうちゃんは5年生になっていた。ちびっ子吃音キャンプには「夜の部」がある。5年生以上の子どもたちは、中・高校生のお兄ちゃんお姉ちゃんたちと一緒に、伊藤さんや岡山言友会の成人の方たちと同じ場にいて話の輪に加わることができる。
 今年のゆうちゃんは、その「おしゃべりTime」の開始が待ちきれず、部屋の入口の柱に、蝉のようにくっついて、目を輝かせて待っていた。
 その場には、憧れの「しんちゃん」も、伊藤さんもいる。私は、一泊での参加が難しかったお母さんの代わりに仕事の都合をつけて一緒にやってきて下さったお父さんに、感謝せずにはいられなかった。

10 これからのゆうちゃん
 「本読み」と「発表」が苦手なのは高学年になった今も続いている。4年生のときには、授業中「ここはどう?」と、ゆうちゃんの言いにくそうな表現が続く場面で、担任の先生が尋ねてくれた。
 「う〜ん…無理!」と答えるゆうちゃん。「そっか。それじゃ次の人に読んでもらおう」
 そういった担任の先生の配慮もあったそうだ。
 その話を自宅に戻っておかあさんに話すと、お母さんは「それじゃずっと読めるようにならないが」と次のステップをめざして厳しく求める。
 また、5年生になったときに、「一人で読むのはしんどいから、全員で読む機会を増やして欲しいって、担任の先生に頼みに行こうか?」と相談したゆうちゃんに、お母さんはこう返した。
 「あなたのわがままで、他の人の学ぶ機会を奪ってしまうことになるんよ。」
 つい甘えがちになるゆうちゃんを、今までと変わらずに「叱咤激励」し続けられるお母さん。
 大きな山をいくつも越えてこられたゆうちゃん親子にとって、「ことばの教室」はもうその役目を終えたのかもしれないとも思っている。
 来年度以降も、この親子から学んでいきたいことはたくさんある。けれども、年々ニーズの高まっている通級指導教室で6年生になったゆうちゃん親子に通ってきてもらえるかどうかは、まだわからない。
 「一期一会」。通級指導教室での親子との関わりには、このことばがぴったりだなあと思ったことが何度もある。
 今年度が終わるまで後数か月。もしも、来年度も通ってきてもらえることになったとしても、一緒に過ごせるのはそれプラス1年間のみ。
 多くのことを学ばせてもらったゆうちゃんとそのご家族に感謝しながら、残された大切な時間を有意義に過ごしたいと願っている。
 ゆうちゃん、本当にありがとう。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/12/16

第6回千葉県吃音相談会&学習会 午後の部 担当者対象

6千葉相談会&学習会 11月30日の千葉県吃音相談会&学習会の報告をしています。
 午前は保護者、午後はことばの教室の担当者と対象を分けていました。対象がはっきりしている方が話の内容が絞れるからです。もちろん、両方に参加してもいいことにはしていました。
 午後は、担当者対象の時間です。担当者のほとんどの方が午前中から参加していたので、僕の3つに分かれる人生については再度時間をとることなく、始めることができました。
 僕は、僕の人生を賭けて、吃音について考え、取り組み、提案してきました。論文に書いてあるからとか、海外の文献や専門書などからの知識ではなく、自分の体験を通して、考え、学び、身体に染みこんできた納得できたことだけを伝えてきました。3歳から小2までの僕は、どもっていましたが、元気で明るく活発でした。小2の秋の学芸会から僕は変わりました。おそらく担任の配慮だったのでしょうが、どもらないで済むよう三人で言うせりふでした。そのことで、「僕がどもるから、セリフの多い役を外されたのだ」と、僕は吃音の悩みの深い淵に落ちました。それからの暗黒の時間は、学童期・思春期、そして21歳まで続きました。
 よかれと思っての配慮が、生きる力を奪ってしまう可能性があることは、心に留めておいてほしい。直接どもる子どもにかかわる担当者には、どうしても伝えたいことです。
 大切なことを伝えた後は、質問タイムです。
 事前にもらっていた質問は、下記のとおりです。

・かなりどもるのに、子ども自身は困っていないと言う。そのような子どもにはどう対応したらいいのか。
・随伴症状がかなりあるときの対応はどうすればいいか。
・親の相談を、伊藤さんがどう対話していくかを見たい。
・吃音の原因を「体質」だとする記事を新聞がリーフレットかで読んだが、どう思うか。
・吃音のグループ学習の進め方について知りたい。

千葉相談会&学習会7 これ以外にも、たくさん質問が出されました。ひとつの話題から次の話題が生まれてくるのは、直接出会い、話をし、対話を続ける醍醐味だと言えます。吃音は人生のテーマとして、ちょうどいい。吃音のテーマが生きる力となるために、子どもには、正しい情報を伝え、ともに考え、ともに取り組む担当者であってほしいと思います。不確実なこの時代に生きる子どもたちに、生きる力をつけたい、そのために背中を押すのが、担当者の役割でしょう。午後1時から始まって4時まで、話は尽きませんでした。
僕の個人的な体験を話し、聞いてもらい、振り返ることは、僕自身の大切な体験になります。その体験をまたどこかで話したり、書いたり、他者の体験や考えを聞き、さらにメタ認知を働かせて振り返ることで、体験したことが経験になり、学びと変わっていくことを実感しました。
 今年も残り1ヶ月となったこの時期、こうして吃音について、たくさんの質問をもらい、自分の体験を通して考えたことを話す機会をもらえること、本当にありがたいことだと感謝しています。
 
 今年の公式のイベントは、これで終わりです。来年は、1月11・12日、東京で、仲間のことばの教室の担当者と「どもる子どもの非認知能力を育てる」についての学習と、夏の講習会の準備のための合宿。そして、合宿の翌日、1月13日は、東京都北区の北とぴあで、「伊藤伸二・吃音ワークショップin東京」で、始動します。ことばの教室の仲間との、取り組みたいテーマがはっきりしてきました。12月は、その準備期間になります。80歳を過ぎましたが、まだまだ学びの「薪」は残っているようです。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/12/04

千葉市のことばの教室訪問

 いつの間にか、12月に入りました。今年も後1ヶ月となり、あまりにも時間の経つのが早く、びっくりしています。
 11月29日金曜日の朝早く、大阪・伊丹空港から東京・羽田へ、そして、千葉へと向かいました。この日は、千葉市立登戸小学校のことばの教室を訪ねることになっていました。
千葉登戸小学校ことばの教室訪問1 登戸小学校は、千葉市で4番目にできた伝統ある学校でした。グループ学習の時間を設定し、子どもたちだけでなく、保護者も集まってくれました。子どもたちは、事前に、NHK Eテレの子ども向け福祉番組「フクチッチ」の吃音の歴史で紹介された僕の映像を見たり、『どもる君へ、いま伝えたいこと』(解放出版社)に書かれている僕の人生やプロフィールを読んだりしています。そうして、「伊藤伸二」について学習し、僕に聞きたいことをまとめて、当日、直接質問してくれます。
 登戸小学校では、最初に、学校名、学年、名前と、自分の強みを発表した後、質問タイムになりました。子どもたちからの質問は、次のようなものでした。

千葉登戸小学校ことばの教室訪問2・みんなはならないのに、どうして100人に一人は吃音になるのですか?
・本当に吃音は治らないのですか。伊藤さんは治らなくてどう思いましたか?
・伊藤さんはそんなに吃音が出てない気がします。どうすればそうなりますか?
・伊藤さんはどういうときに吃音が出やすいですか。ぼくは授業中に発表するときに出やすいです。
・小学校の時、吃音が出たらどのような対処法をしていたのですか?
・手を挙げて発表する勇気が出ません。どうしたらいいですか?
・小さいときの伊藤さんは、勉強や友だち作りをしていない時、どういう気持ちでしたか?
・大人になって吃音のことで困ったことはありますか?
・大人になって吃音のことを笑われたりバカにされたりしたことはありますか?
・大人になって吃音で困ることはありますか。僕は今困っていることはありません。
・吃音でよかったことは何ですか?

千葉登戸小学校ことばの教室訪問3 僕が小さいとき、勉強をしなかったり、友だちがいなかったことを、子どもたちは知っていました。事前に、僕が吃音に悩みすぎて、吃音を口実にして勉強もせず、友だちの輪の中に入っていかなかったことを知っていたからできた質問です。勉強や友だち作りをしていなかったときの気持ちを質問した子に答えた後で、「なんで、そんなことを聞くのか?」と逆に聞いてみたら、「勉強しないなんて、そんなことあり得ないと思ったから、聞いてみたかった」とのこと。子どもたちは、僕よりずっとまじめで一生懸命がんばっているということです。
 「手を挙げて発表する勇気が出ません。どうしたらいいですか?」と聞いた子には、「勇気が出るまで、自信がつくまで待っていたら、僕みたいに老人になってしまうよ。勇気がなくても、ただ、手を挙げることなら誰でもできるでしょ」と僕が言って、手を挙げてみせたら、お茶目な子が自分も手を挙げてみんなにも挙げようと目配りしていました。大笑いです。「手を挙げてもし当てられたら、がんばって発表すればいいし、当てられなかったらそれもよし。失敗したり、うまくいったり、そうしているうちに、手を挙げることが平気になるよ」と答えました。グループ活動がすべて終わって、スタッフと振り返りをしている時、その日の子どもたちの感想をみせてもらいましたが、「勇気が出るまで待っていたら、伊藤さんのような老人になってしまうので、明日から手を挙げます」というような事が書いてありました。その子に伝わったようでうれしくなりました。
 
千葉登戸小学校ことばの教室訪問5 子どもたちからの質問タイムが予定よりかなりオーバーして終わり、その後は、保護者との時間でした。ここでも、保護者から、今一番聞きたいことを質問してもらいました。
 その中からひとつだけ。ちょっと珍しい質問がありました。
 
 「今と、伊藤さんが生きた昔と、吃音をめぐる問題で、何か違いはありますか?」
 この質問に対して、僕は、最近の大阪吃音教室に参加した大学生の保護者のことを話しました。その大学生は、小学生や中学生の時、音読や発表を免除してもらえるように合理的配慮を求めて過ごし、大学生になりました。入学した大学にも、吃音について配慮して欲しいと伝えていました。にもかかわらず、発言を求められ、パニックになり、そのために大学に行けなくなったというのです。
 今と昔の違いの大きなことは合理的配慮があるかないかでしょう。合理的配慮は基本的には必要なことで、必要な人にとっては、合理的配慮があることで、安心して学童期・思春期を送ることができます。しかし、いいことばかりではないようです。小学生、中学生の時に過剰に配慮されて、どもって嫌な思いをすることがなく、高校、大学、社会人とすすみ、自分の期待する理解が得られなくなったとき、この大学生のように、挫折してしまう恐れがあります。
 僕たちの生きた昔はそのような配慮はなく、吃音に悩み、苦しくて、挫折や傷つき体験をしてなんとか立ち直って生き延びてきました。今は、合理的配慮のために、どもる子どもが脆弱になることを危惧していると話しました。いつも言うことなのですが、比較的安全な小学生時代に、苦手な場面に出ていって、どもって嫌な思いや失敗をして、そこから立ち直る経験をしておくことが、大事ではないかと思います。傷ついた時に、それを受け止めて一緒に考えてくれることばの教室があるのは、どもる子どもにとっては幸せなことです。これからますます不安定で、不確実な時代に入っていきます。ストレスを避けるのではなく、ストレスへの耐性をつけることが大事だと思います。
千葉登戸小学校ことばの教室訪問4
 もうすっかり外は暗くなってしまいました。
 こんな形で、千葉市内のことばの教室訪問をさせていただくのは、今回で6校目。千葉市内には13校あるので、約半分の学校に行ったことになります。こうして、子どもたちや保護者の生の声を聞くことは、僕にとっては、新しい風が入ってきて、新鮮で、刺激的です。とてもありがたいことです。
 その後、翌日の土曜日に開催される、第6回千葉県吃音相談会&学習会の会場である柏市に移動しました。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/12/01
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