伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

からだとことばのレッスン

大阪定例レッスンの旗揚げ講演会『日本語のレッスン―声と出会う・ことばが劈かれるとき』

 1999年2月11日、大阪市内の應典院で、4月から始まる竹内敏晴さんの「からだとことばのレッスン」大阪定例レッスンの旗揚げ講演会が行われました。講演会のその日は、強い吹雪と雨が混じる悪天候でしたが、参加者は予想をはるかに超えて185名でした。その講演会に参加した川井田祥子さんの感想・報告を紹介します。川井田さんは、当時、すくーる・ほろんという、らくだ教材を使った自分で決めて学べる塾を主宰されていました。僕は、この講演会の2年前に、川井田さんのインタビューを受け、それ以来おつき合いさせていただいていました。
「スタタリング・ナウ」2009.10.25 NO.182 に掲載されたものを紹介します。

  
私を丸ごと受けてめてくれる他者として
    ―竹内敏晴講演会に参加して―

                   川井田祥子  すくーる・ほろん主宰(当時)
                   (らくだ教材を使った自分で決めて学べる塾)

はじめに

 2月11日、應典院(大阪市天王寺区)で行われた、講演会『日本語のレッスン―声と出会う・ことばが劈かれるとき」(主催:應典院寺町倶楽部 協力:日本吃音臨床研究会)に参加しました。
 協力とある、日本吃音臨床研究会とは、2年前にインタビューの依頼をしたことがきっかけでお付き合いがありますが、「どもることを否定せず、ありのままの自分を受け入れること」をコンセプトに活動を続けておられます。
 そして、10年前に竹内敏晴さんと出会ったことによってさらに活動の幅が広がったと、機関紙などを拝見すると感じられます。たぶんそれは、言葉というものを通して(からだ)や(こころ)を見つめ直す、人間全体を捉えようとする竹内さんの考えに共鳴するものがあったからだと思います。
 この講演は、竹内さんの自身の体験にもとづく話を聴きながら、「ことばとは」「コミュニケーションとは?」などについて、改めて考えるきっかけになりました。そのあたりのことを書いてみようと思います。
 講演会当日に語られた内容の一部をご紹介します。

「ことばが届くと」とは?

 私は難聴で、子どもの頃はうまく言葉が話せませんでした。「おはよう」が「おあお」ぐらいにしか言えなかったのです。40代半ばになって、言語訓練をしているときに声がはっきりと出るようになりました。相手にじかに言葉が伝わっている感覚というのでしょうか、それまでの、相手との間に厚いガラスの壁があるような感じではなく、「じかに届いている」と初めて感じられたのです。
 それからは毎日がお祭りのようでした。たとえば私が「こんにちは」と言うと、瞬時に相手から反応が返ってくる。自分の話したことが相手に伝わっていることがわかる、そのうれしさ、「ああ言葉っていうのはこういうものか」と本当にうれしくて、何度も繰り返しあいさつをしていました。
 しかし、そのうちに変なことに気づいたのです。それは、自分以外の人はよく話せると思っていたのに、どうも違うらしいということです。たとえばAさんとBさんが話をしている。でも、よく聞いているとAさんはAさんで勝手に話し、BさんはBさんで勝手に話している。お互いのつながりがまったくない状態で話をしている。しかもその状況はよくあるようだと気づき本当にびっくりしました。
 ことばを話すことができるようになると、そんな変なことに気がっいてしまい(笑)、自分が一所懸命にあこがれていたことばとはいったい何なんだろう?」という疑問が浮かび、それから「話しかけのレッスン」を始めるようになったのです。

「情報伝達のことば」と「表現のことば」

 フランスの哲学者メルロ・ポンティという人は、ことばには2つの種類があると言っています。
 2種類とは私流に言うと、「情報伝達のことば」と「表現のことば」です。
 「情報伝達のことば」とは、ひとつひとつのことばの意味が社会的に確定しているもの、誰がどう組み合わせても通じるものです。
 一方の「表現のことば」とは、自分が感じていることをなんとかことばにしようとすること。たとえば生後3、4カ月の赤ん坊が「あー、あー」と話しかけてくるような、文章としてはきちんと成り立っていないけれど全身で話しかけてくる意味がわかるということばです。
 人間にとっての根源的な言葉とは「表現のことば」の方で、それが十分にできるかどうかが「人間が人間である」ことにつながるだろうと、私は思います。つまり、ことばというものは情報を伝達するためだけにあるのではなく、人と人とがつながることそのものとしてあるということ。それをもう一度見つめ直すことが、いまとても大切なことだと思うのです。
 ところが社会は、とくに現代社会は「情報伝達のことば」を早く身につけることを子どもたちにも要求します。そしてそれは、「早く社会に適応しなさい」という要求を押しつけていることだとも言えるでしょう。
 子ども自身は自分の体で感じたことをことばにしたいと思っているのに、周囲からそうでないことを要求される。「早く、早く」とせきたてられ、自分が何を感じているのか、どう表現しようかと考えている時間もない。
 自宅近くに住む小学4年生の男の子は吃音の症状が現れました。その子の場合は自分が自分であろうとすることと、他人からの要求に向かって自分を適応させようとする境目で苦しんでいたのだと思います。

「伝える」から「伝わる」へ

 人と人とがどうやって結びついていけばいいのかを一人ひとりが考え直す、そんな時代に私たちはいま立っているのだと思います。夫婦、親と子、学校で先生が生徒とどう接するか、「こうあるべきだ」という考え方をいったん手放し、「本当につながれるのか、つながれるとしたらどうすればいいのか」を問いかけられているのが現代でしょう。
 私は、自分のことばで自分を表現することができて初めて、社会的なことばを使いこなしていくことができるのだと考えます。つまり、自分が生み出したことばをつなぎ、社会で使いこなしていこうとすることができて初めて、他者とのことばのやりとりが十分にできるのだと思います。
 「表現のことば」が十分に使えないうちに「情報伝達のことば」ばかりを要求されてしまっては、自分自身のことばを見つけることができなくなってしまいます。うまく話せなくて感情的になり、泣いたりわめいたりすることでしか自分を表現できないという事態になるでしょう。
 「自分が生きる」のは「自分のことばによって生きる」のです。自分のことばをどう見つけ、他の人とどうつながっていけるのかということを、一人でも多くの人と一緒に考えていきたいと思っています。

おわりに

 竹内さんのお話を聴いた後、私なりにコミュニケーションについて考えてみました。
 最近、マスコミなどで取り上げられる教育改革にまつわる話には、「コミュニケーション能力」をめぐっての議論が活発に行われているようです。
 たとえば、2002年から実施される新学習指導要領では、教師が独自に授業内容を決められる「総合的な学習の時間」が導入されます。そして、「211世紀に向けて国際社会の中で通用するコミュニケーション能力を身につけること」を目的に、ディベートを授業の中に取り入れる試みが広がっているそうです。
 ディベートとは、あるテーマについて肯定側と否定側2つのグループに分かれ、一定の時間内で議論し合い、最後に勝敗の判定を下すというものです。
 けれど私は、コミュニケーションについてまで「評価」が持ち込まれることに疑問を感じるのです。自分を表現しようとすること、それを相手がどう受けとめるかは二人の間の問題であり、評価できるものではないと思うからです。また自分の考えを主張し勝ち負けを争うことがコミュニケーションではなく、話し合いを重ねてお互いの接点を見つけ、まったく別の意見を双方の歩みよりによって生み出そうとすることも必要なことではないでしょうか。
 一方、学級崩壊という問題が起こり、「ムカツク」「キレル」といったことばでしか自分の状態を表現しようとしない子どもたちについて、いろいろな論議が交わされています。子どもたちを問題視してどうにかしようとする前に、ことばにならないものや「表現のことば」を受けとめようとする存在として大人がどのように関われるかが今いちばん必要なことのように思います。
 「自分のことを丸ごと受けとめてくれる他者がいる」と感じられる、つたない言葉でもいいから自分を表現しようと思える、そんな存在でありたい。と同時に、ことばが自分のものになっているか、相手に届いているかを見つめ直す勇気や大切さを、改めて感じる時間でした。

『たけうち通信』第1号1999年4月10日より

 『たけうち通信』は、日本吃音臨床研究会が編集し、10年間発行し続けた。2009年9月、42号の最終号で、竹内敏晴さんと私たちを結ぶ役割を終えた。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/02/21

安らぎを送りあうこと

竹内レッスン 春風社 表紙 1999年2月の旗揚げ講演から2ヶ月後の4月から、竹内敏晴さんの「からだとことばのレッスン」の大阪定例レッスンが始まりました。大阪レッスンは、僕たち日本吃音臨床研究会が事務局になりました。定例レッスンは、大阪の他に東京と名古屋で行われていましたが、大阪の特徴として、どもる人の参加が多いことと、「たけうち通信」という名前の通信を季刊で発行していました。「たけうち通信」は、竹内さんの書き下ろしのエッセイ、レッスンの概要、レッスン参加者の感想、竹内さん関連のイベントの告知など、竹内さんに関するいろいろな情報が満載でした。『竹内レッスン―ライブ・アット大阪』(春風社)は、この「たけうち通信」掲載の竹内さんのエッセイを中心に構成されています。
 今日は、その「たけうち通信」の記念すべき第1号に掲載の、竹内さんのエッセイ「安らぎを送りあうこと」を紹介します。

安らぎを送りあうこと
                          竹内敏晴


ことばの歓び

 この春から、大阪で毎月レッスンをすることになりました。ということにすらすらと運んだのは、ここ十年近くになるけれど、どもりの人たちと年数回ずつレッスンしてきた、その熱意と楽しさの発展形ということになるからだろうと思う。特に昨年の秋に大勢集まった、『どもる人のための公開レッスンと上演』の、ひたむきさのほてりは今でもわたしに脈打っていて、レッスンのために近鉄電車に乗って三輪山の麓や室生の里あたりを巡って大阪へ近づいてゆくと、いつかからだがあったかくなって来る。
 ひっかからずに声が溢れ出て来るためには、まず舌や顎の力が抜けて息を深く吐けること。そのためにはからだ全体がいきいきとはずむこと。またそのためには、まず、からだの方々の、胸だの股関節だののこわばりに気づいて、これが弛んでいくこと、そのためには、と、レッスンはどんどん、言わば元へ元へ、からだの根源へと遡って行くのだが、さてその一つの段階がふっと越えられたとたんに、からだ全体がふわっとゆるんで、声がぽーんと跳び出して来る。それに立ち会い手をかす時の楽しさと言ったらない。
 どもりとかいわゆる言語障害の人に限ったことではない。先日ある町の、女性たち、と言うより母親たちの集まりに呼ばれた時に提案されたテーマは「言いたいことが言えない」だった。―もちろん親も子もふくめてのこととしてだが―話の途中で、まず声を聞かせてください、と童謡を歌ってもらったら、口をほとんど開けない人たちが一杯だったのに驚かされた。まず奥歯に小指をはさんでみて、口腔の内をひろげて、舌を前へ出して、さて一杯に息を吐いてみよう、とオハナシというよりレッスンが始まってしまったのだったが、この、歯を噛み締めている身構えがそもそも、からだの奥から流れ出て来る息を、ひいては「自分のことば」を、「噛み殺している」のではあるまいか?つまり、歯の間をあけて「息を吐くこと」は、自分を閉じている「身構え」をほどいてゆくことに違いないので、ここから出発しなくては「言いたいことを言う」ことには辿りつけまい。知的な理解や心理操作の範囲を越えた、からだの実践の問題がそこにはあるだろう。
 アメリカのフレデリック・ワイズマン監督がフランスの国立劇場を撮った、「コメディ・フランセーズ―演じられた愛」という映画がある。四時間に及ぶ大作だが実に面白かった。芝居の稽古の初めの段階から上演の有様までがちりばめられているのは演出者のわたしにとって力の入るシーンだったに違いないが、座員の選出から座員で構成される委員会の経営討議の模様、特に電機部門機械部門からかつらや小道具の人たちまで二十いくつという組合との交渉と協力、国家予算からの補助額の交渉に至るまで、フランスという、市民社会の先達における、いわば、俳優という市民たちの自立した団体運営のちからとでも呼ぶべきものを浮かび上らせて見せてくれたのが快い驚きだった。
 そのフィルムの一シーンに、初老の幹部女優が若い俳優とせりふを稽古する風景があった。一言二言言い直させてからかの女はこう言うのだ―ことばの一こと一こと、音の一つ一つを言いながら―「口の中で歓びを味わうのよ、歓びを!」これは世界最高水準の、音声言語表現の現場のことだ。しかしやっと一語を、ひっかからずに発することができるという段階でもやはり同じことが目指され、そして味わいうるはずだろう。どもりだけでなく、多くの人々にとって今、語ること、ことばで表現することは、苦しみとなりつつある。豊かに、一語一語を、一音一音を、口の中に歓びをひろげて語れるようになれたら素晴らしい、わたしも、あなたも。あらためて、レッスンに出発しよう。

野戦病院からエステティックまで
  あるいは、「からだほぐし」について


 毎月のレッスンに現れる人たちの、初めの声を聞いた時、そして特に、床に仰向けになって相手の人にからだをゆらしてもらい始めるのを見ている時、近頃のわたしはため息が出てしまうことがある。
 ―まるで野戦病院だなあ、こりゃひとりひとりが手負いの戦士に、いや時にはけものに見えて来る。目をつむって横になっているかれの手先をぶら下げてゆらゆらとゆすろうとすると、ごつんとひっかかる。肩甲骨の外側にかたまりができてるみたいだ。抱えおこしてふれてみようとすると背中がごわっごわっと硬い。かれはコンピューターの設計部門で働いている。
 ある女の人は胸を抱くようにそっと入ってきて部屋の隅に静かに横になっている。右を下にしたまま目をつむって身動きもしない。腰も痛む、胸が詰まって息ができない、足の裏まで痛い、と言う。なんでそんなになってまで働いているのと言えば、仕方ないでしょ、と喘ぐように呟く。かの女は養護学校の教員だ。
 かつてレッスンを始めた頃やってきた人たちは、昼間の労働で得たなん枚かのお札を握りしめて、日常生活ではあらわしようのなかった感情を爆発させ、未知の自分に出会い、表現を手探りするためにからだをぶつける時間へと没入していった。
 今来る人々にも同じ願いが秘められていることをわたしは感じ取らずにはいられないのだが、とりあえず、まずは、疲れ切ったからだが休みたい、楽になりたい、のびのびと息をしたい、と坤いている、と感じる。
 人にふれられるだけでイタイ!とわめくからだにてのひらをあて、息を合わせ、いつか仰向けになったからだを、ゆっくりゆらしながら波を送る。
 かつてはこのレッスンは「脱力」と名付けられ、後には「からだほぐし」と呼ばれた。演技者にとって舞台でコチンコチンになってしまうことは致命的だから、これは不可欠の訓練だったが、わたしはこれをただ「ゆらし」と呼び、ちょっとためらいながら「安らぎを送りあうこと」とも言う。
 勿論この変化の間には十数年の過程があるので、かいつまんで述べておくと
 ―「脱力」と呼ぶと、あ、力を抜かなきゃ、と意気ごんでしまう人が多くて、これではますます力が入ってしまう結果になる。「力を抜く」ことが、達成されるべき至上価値に祭り上げられたりもする。力を、意識して抜くことはできない。ただ重さを大地に、ひいては相手の手にゆだね切ることができた時が、結果として「脱力」になっているということに過ぎない。
 それにもっと弱ったことは、たとえ基礎訓練の場でいくらうまく脱力ができて舞台に立ったとたんカチカチになってしまうのは一こうに改まることがない。そこでわたしは、いつ自分に力が入って来るか、その瞬間に気づくこと、に重点を置くことにした。かなりの人は、自分のからだが固まっていることに気づいていない。それが自分の「自然」だと思い込んでいるので、緊張したまま固定してしまった自分のからだを見ると、あっけにとられる。だが、この自己知覚が研ぎ澄まされて来ると、人前に立ってぐっと肘が脇腹にくっ着き始めたとたん、ふっと気付く。そこで息を吐くと共に肩を落としていくことができる。
 社会人や学生へもレッスンが広まるにつれて、「からだほぐし」という呼び名もひろがっていったようだが、この名づけもわたしには初めからしっくりしなかった。「ほぐす」という行為は、もともとはもつれた糸を解いてゆくことだろうが、一般的には固まったものを振ったり叩いたり力まかせにばらばらにしてゆくイメージがある。しめって固まった小麦粉やセメントを崩して粉々にするイメージで、結局のところ乾いた小さい固体の集合体になる感じだ。実は名づけの問題ではなく、ゆすり方がそうなってしまうのだ。
 もっとからだの内に流れているものがめざめて来る感じを言い現したい、と思ってるところへ、若い学生たちが「ゆらし」と呼び始めた。これがいい、からだの内にゆらゆらと波を送るのだ、と。わたしは「ゆらし」に時間をかける。もはやただ肉体の緊張をほぐせばいい、のではない。からだの内にひろがる波に身をまかせてゆられているうちに眠ってしまう人もあるが、突然ふっと全身がゆるんで、息が深ぶかと流れ入って来て、あくびが続けざまに起こり、涙が止まらなくなり、からだが溶けてしまったようになることも多い。からだの知覚の変容が始まるのだ。ゆすられ終わって床に横たわっている時の感じをことばにしてみると、実に豊かで多彩で、浅いのも深いのもあるけれど、さし当たりわたしは「安らぎ」と呼ぶ。その感じは海のようにからだの内に、いや時には外へ地の果てまで、広がっている。とにかくこれが、他人の価値観に追いまわされることからの断絶であり、自分、というものの原点になりうる、と言っておいてもいいか。
 もっとも近頃やって来る若い人たちの中には、Tさんのホームページで、レッスンを受けてびっくりするほどキレイになった人のエピソードを見てやって来た、という人もある。わたしは十年以上前東京で研究所を開いていた当時、年度末の募集のキャッチフレーズに、「シバイをやってキレイになろう!」てのはどうだと言ってみんなを抱腹絶倒させたことを思い出した。イケルイケル、とか、ほんとだもんね、とわめくオチャッピイもたしかにいたのだが。
とにかく、新しく、未知の、からだへの問いかけと表現へのひろがりとへ、出発します。ゆっくりと、息を深く、歩いていきたいと思います。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/02/20

竹内敏晴さん、ありがとうございました

 日本吃音臨床研究会が毎月発行しているニュースレター「スタタリング・ナウ」の最新号である今月号は、先月号に続いて、昨年秋亡くなられた谷川俊太郎さんを特集しています。2000年、全国難聴・言語障害教育研究協議会協議会山形大会で、谷川さんと僕が記念対談をしたのですが、その対談の収録を、2号連続で紹介しました。
谷川俊太郎1 谷川さんとの出会いは、山形大会の2年前、僕たちの主催する吃音ショートコースというワークショップに、ゲストとして、竹内敏晴さんと谷川さんが来てくださったときでした。竹内さんと谷川さん、おふたりからたくさんのことばをいただきました。記念対談での谷川さんの、奥深いことばを懐かしく思い出していたところ、このブログで、竹内さんの特集をしている号を紹介する偶然が重なりました。「スタタリング・ナウ」2009.10.25 NO.182 より、巻頭言を紹介します。

竹内敏晴さん、ありがとうございました
               日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 1999年2月11日、竹内敏晴さんの大阪レッスンの旗揚げとなる講演会の日は、強い吹雪と雨が混じる悪天候だった。参加者は少ないだろうとの予想をはるかに超える185名の参加者に、この時代が竹内敏晴を求めているように感じられた。
 時、バブル崩壊後の不況の真っ只中。社会の閉塞感は人々に緊張を強いている。社会に、がんじがらめに絡め取られた、「からだと、こころと、ことば」が悲鳴を上げていた。吉本興業の陳腐な笑いに代表される、考えることを放棄した、明るく脳天気に生きているかに見える人にとって、竹内レッスンは必要がない。また、強気で、経済評論家の勝間和代を目指す人々や、いわゆる勝ち組にとっても、竹内レッスンは必要がない。自分なりの人生を生きたいと願いながら蹟いたり、生きづらさを強く感じている人。そして、その生きづらさがどこから来ているのか、自分でもつかめない人。しかし、真摯に人生を生きたいと願う人々が集まってきた。
 自分を変えたいと思っても、何を変えればいいのか、その糸口がつかめない。ことばによる説明や説得ではなく、自分自身のからだの実感を通して、他者との関係において、自分でそれに気づいていく。竹内レッスンはそんな場だった。
 吹雪の日から10年間、日本吃音臨床研究会が主催する大阪の定例竹内レッスンは、やすらぎと集中の場となり、大勢の人々が集まった。
 人が変わるには、まず自分に気づくことが必要だ。世間に対し、目の前の他者に対してもつ身構え、相手にあわせてしまうからだ。相手と近づくのではなく、相手を拒否する自分のからだとことば。多くの人々のレッスンに立ち会い、人が気づき、変わって行く現場に出会えたのは幸せだった。
 緊張を強いられる場では、人は自分に気づけないし、変われない。緊張せずに、安心していられる安全な場がまず必要だ。竹内レッスンでは、必ず二人組で、互いのからだを揺らし合い、やすらぐことから始める。心地よい、安心できる場には、常に大きな歌声と、大きな笑い声があった。
 一方、他人の目を意識する緊張の場で、自分を支え、からだとことばで表現する場も必要だ。大勢の観衆の前でひとり舞台に立つ芝居は、多くの人にとってたやすい課題ではない。「12人の怒れる男」「ゲド戦記」「銀河鉄道の夜」などをモチーフに、竹内さんが脚本、演出し、レッスンを重ねた数々の舞台で多くの人が輝いていた。それは、緊張ではなく、集中することを身につけた人々の表現だった。それは日常生活に生かされた。
 私が最初に出会った20年以上前の竹内さんは、精神的にも肉体的にも疲れておられるようで、レッスンも辛そうな時があった。だから、「いつ、竹内さんがレッスンできなくなるか分からないから、今の内に出会っておいた方がいいよ」が、冗談で竹内レッスンに周りの人を誘う私の常套句だった。しかし、いつしか、その常套句は使えなくなった。不思議なことに、年をとるにつれてますます元気になっていく。3年先のスケジュールを話題にする竹内さんに、少なくとも90歳までは現役でレッスンを続けて下さるだろうと、信じていた。
 6月初旬、竹内さんから、「膀胱がんが見つかったが、手術を受けず、現役でレッスンを続けたいので、どんな治療があるか選んでいる」と電話があった時も、不死鳥のようによみがえることを期待した。7月の大阪のレッスンは通常通り行ったものの、8月末の東京のオープンレッスンでは、車いすの姿で見守ったと聞く。
 9月7日、数人のレッスン生の歌う、竹内さんの大好きだった、「ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む…」の歌声と共に、84歳の生涯の幕を下ろした。
 出会いから20年以上。「私も聴覚・言語障害者だ」とおっしゃり、どもる私たちを仲間と考え、常に最優先でレッスンなどの計画に応じて下さった。おかげで、私たちは、たくさんの素晴らしい体験をし、たくさんのことばをいただいた。
 それらを伝えていくのが私たちの役割だ。
 これまで、多くの人に安らぎを与えてこられた竹内さん、今度はご自分がゆっくりとお休み下さい。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/02/19

影との闘い

 竹内敏晴さんの大阪での定例レッスンの旗揚げ講演会を開催したのは、1999年2月11日でした。強風で雨と雪が交じる最悪の天候の中、当初の予想をはるかに超える185名の参加がありました。以来、竹内さんが亡くなるまで、大阪定例レッスンの事務局を続けました。毎月第2土日、大阪市天王寺区の應典院が会場でした。
 生のレッスンを見てもらおう、参加者にもレッスンを体験してもらおう、1年間のまとめとしてレッスンを受けてきた者で小さな舞台を作ろう、そんな思いから始まったのが、公開レッスンでした。2007年の公開レッスンでの、アーシュラ・ル=グウィンの『ゲド戦記―影との戦い』は、竹内さんの脚色によって、幻想的な、迫力ある舞台となりました。僕も、その舞台に出演したのですが、そのときのことを巻頭言を書いています。「スタタリング・ナウ」2007.3.18 NO.151 より紹介します。

  
影との戦い
                    日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 寒さが戻った早春の日。日本吃音臨床研究会主催の、竹内敏晴さんの公開レッスンが行われた。今年は、アーシュラ・ル=グウィンの『ゲド戦記―影との戦い』。竹内さんの脚色によって、幻想的な、迫力ある舞台となった。
 『ゲド戦記』を一年かけてみんなと読み進む中で私は、「影」とは、吃音に悩む人にとっては、吃音だと強く思った。私と同じような感じをもったどもる青年が自ら希望して、死人の霊を呼び出してしまう場面のゲドを演じた。「影」への不安と恐怖におびえながらも戦い、敗れ、瀕死の傷を負う。九死に一生を得たゲドに、私が演じる大賢人ジェンシャーが優しく、そして厳しく語りかける。
 「そなたが呼び出したのは死人の霊だが、それと一緒に死の精霊のひとつまでそなたは、この世に放ってしまった。そやつはそなたを使って災いを働こうともくろんでおる。そなたは、もはやそやつとは離れられぬ。そやつは、そなたの投げる、そなた自身の無知と傲慢の影なのだ。いいか、ここにいるのだ。十分な力と智恵を獲得して、おのれの身を守れるようになるまでは」
 私は、大賢人を演じながら、吃音に不安や恐れをもち、吃音に闘いを挑み、悩む若い人たちに語りかけているような気分になった。ゲドはその後、再度、影に挑んで敗れる。助言を求めるゲドに、師オジオンがこう語りかけるところで、舞台は終わった。
 「向き直るのじゃ。このまま先へ先へと逃げてゆけば、どこまで行っても、見えぬものに駆り立てられて、見えぬところにさまようしかあるまい。今までは向こうが道を決めてきた。これからはそなたが決めるのじゃ。追われるものが向き直って、狩人を追いつめるのじゃ」
 舞台が終わって、観客との交流のために舞台をおりたとき、一人の若い女性が「伊藤さん、長縄です」とまっすぐに私に近づき、声をかけてきた。思いがけなく、一瞬驚いたがすぐに分かった。翌日が大阪の大学の入学試験で、私に是非会いたかったのだと涙ぐみながら話し始める彼女に、私も目頭が熱くなった。『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』(ナカニシヤ出版)の感想がびっしりと書かれた2通の手紙をいただいていた、岐阜の女子高校生、長縄美帆さんだった。
 「初めて読んだときは、つらかったことをすべて分かっていただけた気がして、涙が出ました。どもるのに教師になれるのかという不安も、佐々木和子さんの話からなくなりました。この本に出会っていなかったら、今の私はありません。伊藤さんに本当に感謝しています。ゼロの地点に立ってからは本当にすごい日々を実感しています。私立の面接の時に面接を恐れなかったことです。以前なら、面接のある大学は避けようとしたと思います。志願理由書にも、吃音の経験から自分の進む道を決めたことを堂々と書きました。どもったらどうしようとは思いませんでした。吃音がきっかけで見えてきた道を叶えるための面接なのに、どもることを恐れるのはおかしいと思えたのです」

 『どもりと向きあう一問一答』(解放出版社)を読んで、北九州での吃音相談会に私に会いに来てくれたのが、広島大学大学院の原田大介さんだ。
 「2005年1月から吃音と向き合うようになり、様々な吃音臨床の場に参加するようになった私の背中を絶えず押して下さったのが、伊藤さんでした。第16回吃音親子サマーキャンプでは私に発表の場を与えて下さいました。2005年7月に演出家・竹内敏晴さんとの個別レッスンを体験できたことや、2006年11月に大野裕さん(慶應大学教授)と私の公開カウンセリングが実現したのも、伊藤さんのご配慮によるものでした。当事者の立場から吃音についての語りを続ける伊藤さんの存在そのものが、私にとっての救いです。私もまた、自分の経験をもとに語り続けていくつもりです」
 送られてきた博士論文の後書きの謝辞に、私との出会いが書かれていた。吃音は闘うのではなく、向き合うものなのだと言い続けてきて、ふたりの若者と出会えた。向き合うとは、揺れ動き、迷い、立ち止まり、時に逃げたりしながらのものだと、大野裕教授の原田さんへの面接に深く共感した。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/09/10

竹内敏晴・大阪からだとことばのレッスン 公開レッスン 2004年3月

 昨日の日曜日は、絶好のお花見日和でした。マンションの敷地の桜も、1週間前には堅いつぼみだったのに、一気に満開に近い状態になっています。今日の雨が花散らしになってしまわないか、少し心配です。もう少し、あの淡いピンクの花を楽しみたいです。
 現実の社会は、世界の情勢も日本の政治も、嫌なニュースばかりですが、自然は変わりなく移ろい、そのありがたさを感じています。

 公開レッスンを終えた竹内敏晴さんのエッセイ「春 うごく」を紹介しました。そのときの公開レッスンに参加出演した2人のどもる人の感想をします。吃音のために、積極的にコミュニケーションをとってきたとはいえない2人の、舞台を経験した後のみずみずしい気持ちが綴られています。

  
観客の空気を感じながら
                                  藤谷征一
 朝9時から舞台を作って、ライトの下で実際に練習してみると、暗い客席の部分が少し不気味で、普段の練習とは全然感じが違いました。客席に観客が入っても同じ事ができるんだろうか、と不安になりました。普段より動きがぎこちなくなって、今まで言われた事が出来ているんだろうか、本番で出せるんだろうか、と思いました。
 6月から定例レッスンに参加させてもらって半年経ちましたが、だんだんと「声が出てきたね」と言われる様になって、自分でもそれを感じる事ができて来ました。
 中二の時に友達に吃音をからかわれて以来、吃音を隠そうとして会話を避ける様になって、できるだけ話さない様にしました。
 一年前から毎週、大阪吃音教室に通い出して、最近やっと吃音がある自分を受け入れる事ができてきて、前より自分からだいぶ話しかける様になってきました。
 苦手な会議での学生の発表でも、発表中にどもって声が出なくなって「まずい!」と思ったときに、竹内さんに教わった感触が湧いてきてなんとか言い切った場面がありました。
 定例レッスンで気付かされる事は多く、例えば感情的になった方が相手によく伝わる、と思っていたのですが、そうではない事を呼びかけで体験して気づくことができました。
 吃音を少しでも軽くしたいと思うばかりだったのですが、それよりも人間関係や表現や発声をする上で大切な事があったんだ、と気付かされました。
 四郎は普段の自分とは違って、引っ張っていく役だったので、自分には違和感がありましたが、でもこうなれればいいなあという役で、やってみてよかったです。
 さて、会場いっぱいに観客の方々が入って、うれしい半面緊張が高まりました。自分の番が近づいて来て、どもって芝居の流れを止めないか不安になりましたが、笑う所は思い切り笑おう、考えずに思い切りやろう、と自分に言い聞かせました。
 いよいよ自分の番で、頭が真っ白になりながらとにかくセリフを言っていきました。竹内さんに言われた、お腹いっぱい・・のセリフは堂々とあごを引いて、不思議なものに対する訝しいさも出す、と、セリフを言ったあと身を引かない、が頭に浮かびました。
 吃音の不安は常に頭をよぎっていましたが、吃音のことは全然感じさせず楽しんでいたと言ってもらい、うれしかったです。自分の番の終わりごろに疲れて声が出にくくなりましたが、なんとか言い切れてほっとしました。観客の空気がよかったそうで、後から考えると自分も観客の空気のおかげで声が出せていた感じがしました。
 狐の生徒で観客の方々も参加されて、よりおもしろくなったし一体感を感じました。参加された方みんな練習より本番の方がよりよくて、いきいきして見えました。終わってから、今でも時々芝居中の四郎の感触がよみがえってきます。充実した時間に参加させてもらって、よかったです。

  引き出してもらった声
                               新見哲也
 声が自分でもびっくりするほど出たので、とても気持ちよかったです。とにかく勢いよくいこうと思っていたのですが、いざとなると足がすくみ、浮き足だっような感じだったのが、(ずいとはいって)で、舞台にあがってから何かふっきれたような感じがしました。後は上田さんに後押しされるような感じで、自然にからだが動いていったように思います。また、「うるさいわい。さあ来い」と言って中野さんのうでをつかんでひっぱる時に、その場でぐっとふんばってもらえたので、私もその分ぐっと力が入り、舞台から力強く押し出すことができたので、声も力強く出たように思います。ふり返ってみると、自分で声を出したというよりか、何か声を引き出してもらえたような感じがして不思議でした。今回、みなさんからよかったと言われ、また自分なりにも精一杯だし切れたので、とてもうれしくて楽しかったです。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/04/08

春うごく

 竹内敏晴さんがお亡くなりになるまで、僕は、大阪での竹内さんの定例レッスンの事務局を10年以上していました。定例レッスンは、大阪の他に東京、名古屋でもありましたが、大阪は、日本吃音臨床研究会が事務局をしていたので参加者にどもる人が多かったこと、年に4度季刊紙として「たけうち通信」というニュースレターを発行していたこと、毎年3月に、舞台を観に来た観客も一緒になって舞台をつくる公開レッスンをしていたことが特徴でした。その公開レッスンについて、竹内さんが書かれた文章を紹介します。「スタタリング・ナウ」2004.5.18 NO.117 に掲載しているものです。

        
春うごく
        竹内敏晴 演出家


  キックキックトントンキックキックトントン
  堅雪かんこ しみ雪しんこ
 呼びかけに応えて客席からばらばらと立ち上がって来た人々が舞台いっぱいにあふれて、出演者といっしょになって踊っている。客席の人たちが笑いながら手を打ってはやし出した。
  キックキックトントンキックキックトントン

 三月の第二土日、大阪のオープンレツスンが始まると、ああ春が立ち上がってきたなあ、と思うようになった。
 應典院というお寺さんの円型のホール一杯に、すわりこんだり椅子に腰掛けたりしているお客さんに、わたしが「こんにちは」と言って、まず歌ってみませんか、と呼びかけると、とたんにわらわらと立ち上がる。「そうら出て来た」という感じさ、とだれかが言っていたが、のどをあけて息を入れてー、止めて、吐いてーから始まって、どうも背中が固まってるみたいだ、二人組みになって、一人が四つんばいになってみて下さい、背中はぶら下がっている? もち上がっていないかな? と始める。背中をゆすってもらって、ぶらんと胸やおなかがぶら下がったら、さて、そこで、膝を床から離して、サル歩きをしてみよう、前足に、いや手に―どっと笑いが起こる―体重をかけて歩いてみて。相手をみつけたらアイサツしてみるとか。とたんにわらわらとみんな動き始めたのには、わたしの方が驚いた。テレたりとまどったりする人がたくさんいるだろうと思いこんでいたので。わ、なんというあったかさ。苦笑いしながら相手の背によじのぼる人もある。大あくびしているサルもいる。それから立ち上がっていって、ヒトに、直立二足歩行のいきものになってと、さて、歌だ。
 「どこかで春が生まれてる」。百田宗治詩、草川信曲。この中に五つ「どこかで」が出てくる。どこかで「春が」「水が」「ひばりが」「芽が」そして最後にもう一ぺん「春が」。この五つはみんな違う。ひとつひとつ、ことばで眩いて、声をひろげて、見回しながら、聞き耳を立てながら、そしてメロディとひとつにして、ことばを歌ってゆく。車椅子のお年寄りたちも介添えのスタッフとうなずきながらからだをゆらしている。お、いい声になってきたなあ、と思いながら歌い納めたが、たまたま後で録音を聞いてびっくりした。なんと澄んだのびやかな声だったろう。

 これから第二部、毎月レッスンに来ている人たちによる朗読劇に入ります、と言ってから、ふつうこういう場合の配役というと、持ち味とかしゃべり方が巧みだとかいうことを基準にして、適材適所という選び方をしますが、ここでは全く違います、言うなれば、不適材不適所、と続けたら客席がどっと沸いた。
 いささか慌てて、つまり、今この人はこんなことにチャレンジしてみたらなにかひとつ突破できるかも知れないな、とか、この人はとても感受性がいいのだけれど、自分の思いに閉じこもってしまう傾きがあるから、今回は他の人や客席の反応にまで向かいあってみる語り手をやってみたらどうか、とか、いうことです、と述べた。そういういわばこちら側の都合による試みというか冒険に立ちあっていただくのは恐縮なのですが、お客さんの前に立った時、もうノッピキならなくなる、後に退く、逃げ出す、ということができない場に立って、エイと自分を前に押し出すことが、ひとつ自分を超えてゆくことになるので、どうか、笑ってそれをはげまし、支え、時に叱って下さることをお願いいたします―
 そして「雪渡り」が始まった。四郎とかん子の兄妹がとびはねながら出て来る。お、やった!実を言うと妹役の山本さんは、先月のレッスンではまことに楽しく充実してやっていたのに上演が近づくにつれ気持ちが不安定になり、当日朝は行方知れず、仕方なく代役の稽古まで終えたところへ、硬い顔して姿を見せた。ヤルカナ? ニゲルカナ? とはらはらして見ていたのだった。伸びやかないい声でぽーんと「かた雪かんこ…」。引っ張られるように兄役の藤谷さんが、詰めた息を吐き出すように「しみ雪しんこ」。いつも背を丸めて下ばかり見つめている顔が、まっすぐ顎を上げて、目は少しまぶしそうにパチパチするが精一杯に雪を踏み立てて来る。
 やれやれよかった。これでまず第一ハードル突破だ。

 藤谷さんはかなり強い吃音である。伊藤伸二さんの紹介ではじめてレッスンに来た時、ほとんど後ろにひっこんでいて、レッスンで前へ出る時はまっ赤になっていた。集まった人々は別にはげましたりはしない。だが見守っている。歌のレッスンが巡っていって、わたしとかれの一対一になると、試みの度にまわりで息を呑んだりほっとしたり息づかいが動く。それがかれをどれだけ支えたかは判らない。が、かれは粘り強く息を吐き、深め、姿勢を整え、相手に手をふれ、足踏みをし、退いてはまた進み、くり返し、からだ全体がいきいきと動く方向へと、探り続けてきた。
 さて、今、まっすぐに、ただまっすぐに、引きこもろうとする自分を見ながら、ひたすらまっすぐに前へ、からだの動きも声の発し方も。そのひたむきさが際立った純粋さを舞台に立ち現わさせた。時におじけづき、ひっかかりながらも、少年の一途な、不器用な、雪の中から狐の子を呼び出してしまう無垢さが、生きた。
 お客さんの中で「あの人のあんな大きな声はじめて聞いた」と言っているのを聞いた。

 大阪のレッスンは、日本吃音臨床研究会の主催だ。どもる人がなん人も参加して来た。
 と言っても、別に吃音を「なおす」ためのレッスンをするのではない。(どもりに限らず、わたしは一般に治療のためのレッスンはしない。ただ、人が自分のからだや声やの有様に気づき、おどろいてそれを見つめ、そこから出発し直してみることがここで起こる。その手助けをするというだけのことだ。)
 わたしは、声の産婆と言われたりするが、ただことばを発するとき、落ち着いて息を吐き、自分のことばを、ぽつぽつでもいい、ひっかかってもいい、語っていけるように、からだを、そして相手とのかかわり方を、整えられればいいな、と願うだけだ。
 念のためにつけ加えると、自分を意識的に強くコントロールしてどもらないようになることは、レッスンの過程で、結果としてはかなりな程度できるようになることもある。しかし、それは、自分のことばを語り、自分を表現することではない。実のところ、自分になり切らない、時には鋭く他人のことばを語っている、という感じがつきまとうこともあるのだ。伊藤伸二さんもそうだが、それに気づき、今は平気でどもり、それをその人の語り口の個性として生き生きとしゃべっている人がなん人もいる。

 新見さんもどもる人の一人だ。はじめてかれに会ってからもう四年近くなろうか。かれは以来、ただの一度も休まなかった。なにがかれをそれほど呼んだのかはわからない。ひっかかったり、口ごもったりしてわたしにはよく聞き分けられなかった声が、じりじりと拡がり、他人と話し交わすのが見られるようになった。そうなってみると、かれの声には他に比べようのないリアリティがある。温かくて強く、重い。柔らかいがずんと人を打ち動かす力がある。しかしどういうわけか、歌う時になると少し困ったような顔をして口ごもるふうだ。わたしは、なんとか、一気にまっすぐに相手に向かって大声を吐き切る、いや叩きつける躍動を、からだ全体で吹っ切ってほしいと思い始めていた。
 前に立つわたしの肩をぐいと押しては一気に相手に向かって声をぶつける。くり返し、くり返し。当日午前の舞台稽古でも、「正面向いて! 大きく足を踏んで!」とわたしは怒鳴っていた。
 いよいよ登場。客席から歩いていった新見さんが一問答の後、一尺高の舞台へぐいと登って「おやじはおるか」と言った時、力強い声がびしっと会場全部を圧した。胸も背もまっすぐに伸び、もともと大柄のかれが、頭ひとつ抜き出て大きく立ちはだかっている感じがした。
 後でかれが言ったところによると、「ずいと土間に入って」とト書きがある、その瞬間に全力を集中していた、と言う。役の行動全体の核心をみごとに掴みとっていたのだ。
 ここまで書いたところで、かれの感想文を読んだ。終わりの方に「自分で声を出したというよりか、なにか声を引き出してもらえたような感じがして不思議でした」とある。自分の努力を超えてなにの力が働いたのだろう。
 「姿が変わる」一瞬に立ちあうこと。これこそレッスンにおける最上のよろこびだ。

 笑い声と拍手のうちに客席が明るくなり、舞台を下りてゆく出演者たちと、立ち上がって来るお客さんとが入れ混じり始めた時、だれかに呼ばれてふり返ったら車椅子に乗った白髪のお年寄りが花束を抱えて若い女性に押されて近づいて来られた。あっと思った。去年「鹿踊りのはじまり」で、客席一杯に手に持ってもらってすすきの原を幻出した。そのすすきの一本一本を作って下さった、当時中野さんの勤めていた福祉施設の、最高齢の人である。今年も、つきそいの若いスタッフと総勢十数人で来て下さった。「来年もまた」とにこにこして言われる。この方は九十歳近いはず、「わたしも頑張ります」と握手した。
 春が始まったなあ。
(「たけうち通信」2004年春号特集=公開レッスンより)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/04/07

「じか」であること

 吃音はどう治すかではなく、どう生きるかだ、これは僕たちの活動の基本中の基本で、このことを一番大切に活動を続けてきました。伝えたいことはどもってでも伝えるし、どもりながらでも必要なことは伝えてきました。でも、同じどもるにしても、きちんと相手に届く声をもちたいし、相手に働きかけることばをもちたいと考えていました。
 「吃音を治す」ではなく、「吃音とつきあう」にしても、ことばへの取り組みはしたいと思い、単調でつまらないこれまでの言語訓練とは違うものを探していた時、「竹内敏晴・からだとことばのレッスン」に出会いました。竹内さんのレッスンに参加したり、竹内さんに来ていただいてレッスンを受けたりして、からだの中から声を出すことの気持ちよさ、声を出すことの喜び、楽しさを味わいました。その中で、1998年には、どもる人だけの劇団をつくり、竹内敏晴さんの演出で170名もの観衆の前での舞台に立ち、演じることのおもしろさも味わいました。
 竹内敏晴さんの大阪の定例レッスンの事務局も、竹内さんがお亡くなりになるまで、10年以上続けました。レッスンの場以外でも、竹内さんとはたくさんお話をしました。月に一度、第2土日の2日間、竹内さんとの贅沢な時間を過ごしたなあと、なつかしいです。
 竹内さんが書かれた文章と、春に行われた大阪のオープンレッスンについて紹介している「スタタリング・ナウ」2004.5.18 NO.117 を紹介します。

  
「じか」であること 1
                        演出家 竹内敏晴


1.養護学校にて
 ある時わたしは養護学校に人を訪ねて、重複障害児の部屋を通り抜けていった。
 四角い、大きなかごみたいな箱のそばを通った時わたしはふと中をのぞきこんだ。3歳か4歳にしか見えない女の子が箱の底に横たわっていた。ぱっちり開いた目がわたしをむかえた。
 わたしは顔を近づけた。かの女はまじまじとわたしを見て目を離さなかった。わたしはもう一度顔を近づけた。するとかの女の目がふっと笑った。わたしはおでこを寄せてかの女のおでこと軽くごっつんこをした。かの女がククッと声にならない声を立てた。わたしはうれしくなって、今度は鼻の先でかの女の鼻の先をそっと押した。かの女がクックッと笑った。少し離れて二人で見つめあっていて、またおでこを近づけた時、駆け寄ってくる足音がして「あらタケウ…」と呼んだ。わたしが顔を上げる前に「まあ、この子は!」とその声が叫んだ。「この子はゼッタイひとの目を見ない子なのに!」。わたしはびっくりして駆け寄ってきた教員を見、また少女を見た。少女はおだやかにかすかに笑みを浮かべじっとわたしを見ていた。
 どういうことなのだろう? 叫んだ人はこの子とふれあうことはなかったのだろうか?

2.ことばはコミュニケーションのための道具―ではない?
 コミュニケーションとはなにか? 原義にさかのぼれば、ラテン語で「共に、分かちあう」となるが、では、なにを「共に分かつ」のか?
 わたしは幼い頃耳が悪くことばが話せなかったから、他の人との断絶に苦しんだ。16歳でようやく右耳が聞こえ始めたが、40歳を過ぎても、声は内にこもってうまく話せなかった。それでも芝居の演出をやったのだが。
 ある日、ヨーロッパの前衛的な演劇人の発声訓練の文章を読んで、仲間と共に試みていた。突然頭蓋骨全体がピインと鳴り響いた。声が1本の光の柱のように噴き上がった。天井から壁から声がはね返ってくる。
 びっくりした目で見ている仲間の一人を呼んでみた。相手があっという顔になって息づかいが変わった。声がやってくる! わたしの体に滲みてくる。わたしのからだがはずんで、また声が出た。声が相手のからだにふれてゆくのが見える。わたしは喘いだ。声とは、話しことばとは、これほど「じか」になまなましく行ったり来たりするものなのか。
 わたしには毎日毎日お祭りだった。出会い頭に「おーい」と呼びかける。ぱっと相手が振り向く。「こんにちは」と言えば、声がすっと相手のからだに沈んでゆき、相手のからだがするすると動き出して、すうっと声がこっちへやって来る。呼びかける、とは、まわりの人やものがいっしょくたの混沌から、ひとりの「あなた」を呼び出すことなのだ、とわたしは知った。同時に、あなたと向かいあう「わたし」が現れ出る。
 世界は動いている、生きている―わたしはあっけにとられた。今まで自分は厚いガラスのケースに閉じこめられていたのだ、と気づいた。相手の姿は見えているが、声はそこからやってはこない。見えないスピーカーから空間を漂ってくる。呼びかける声もあてどなくひろがって、内容=情報だけは相手に伝わったらしいとガラス越しに見てとることはできる―。そのガラスの壁が吹っとんだ。風にさらされた「わたし」が立っていた。
 しばらく日にちが経って、わたしは奇妙なことに気がっいた。今までわたしは、会話とは向かいあう二人がキャッチボールのようにことばをやりとりしているものと思いこんでいた。が、どうも様子が違う。二人ともそれぞれ勝手なことを勝手な方向へ、代わりばんこにわめいたり眩いたりしているように見える。
 これでいいのだろうか? 人と人とがほんとに話しあうということは、どうすればいいのだろう? わたしはそれを確かめたいために「呼びかけ」「きく」レッスンを始め、やがて「ことば」を語る主体である「からだ」のあり方に立ち戻って考えるようになった。
 たとえば、「夕焼け小焼け」を、集った人々と一緒に歌ってみると、みんな直立不動、電信柱のように突っ立ってお互いのつながりもなく、か細い声でメロディを合わせている。
 「お手てつないでみな帰ろ」と歌詞にあるのに、なぜだれかに駆け寄って手を取って歩き出さないのだろう? 
 「ぞうさん ぞうさん おはながながいのね/そうよ かあさんも ながいのよ」って、いったいだれがだれに話しかけてるのだろう? 呼びかけるものと「そうよ」と答えるものと二人組になってみたらどんな感じになる? 人と人とが顔見合わせ、手を差し出し、関係が変わってゆくと、一人ひとりの息づかいが、身ごなしが、柔らかくひろがってゆく。ことばの様相が動いてゆく。それは実に楽しい発見だった。
 しかし、数年経ったころ、わたしは立ちすくんでいた。人間にとって「ことば」とはなんなのか、わけが分からなくなっていた。
 わたしはことばがしゃべれなかったから、からだの奥にうごめいて形のはっきりしないイメージの切れ端を、なんとかことばに、文章に組み立てて、ひとさまに差し出し分かってもらいたいと必死になっていた。ところが、どうやら世間の人にとっては、「話す」とは、ありあまる備蓄から巧みに取り出した用語を並べ立てて自分を隠すための壁を立て回したり、自分に都合のいい方向に相手を誘い出す道筋を作り出したりする、つまり他人と距離をおき他人を操作する目くらましの術なのだ。ことばはコミュニケーションの道具だと? ウソつきやがれ! かくれみのじゃないか!
 哲学者メルロ=ポンティは、社会のルールを構成する、精密に組み立てられた、情報伝達のための言語と、今生まれ出てくる「なま」なことば、子どもが母に呼びかけたり、恋人への愛の告白や詩など、人のいのちの表現としてのことばとを区別する。かれは後者を第一次言語とし、それが使い古されて社会に定着した用語による前者を第二次言語と呼ぶのだが、これこそ百鬼夜行の壮麗な迷宮だ。それならさらに、とわたしは思う。うまくことばにならない、身悶えや呻き声や叫びなどを第0次言語と呼んでもいいだろう。子どもは(そしてことばの不自由なものも)もともとこの世界に棲んでいる。
 第0次の「からだ」、第一次の切れ切れのことば、をまるごと受けとめ感じ取ることをコミュニケーションと呼ぶならば、これは第二次の、組織立て技術化して訓練することのできる情報言語の場合とは別種のコミュニケーションと言うほかない。おそらく十全のコミュニケーションは、イエスが、送り出す使徒たちに言ったように、鳩のように柔和で、かつ蛇の如く慧く、ウソを見破れなければならないのだろう。
 社会=世間の言語は、人と人のかかわりでさえも情報の交換の範囲に押しこめる。相手に対して礼儀正しく修飾し偽装する「ウソ」のことばである。社会人はどうやってこれを捨てて、なまで「じか」な世界に入ることができるのだろうか。(つづく)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/04/05
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