劣等感のもつ、強いマイナスエネルギー
先だって、本当に久しぶりに、一年以上観ていない映画を観ました。映画狂いの中学生、高校生だった私は、今でも、映画は大好きです。しかし、最近、映画館にわざわざ行く時間がなかなか作れないままに、映画から遠ざかっていました。たまたま用があって難波に出たとき、少しの時間があいたので、映画館に行くと、ちょうど「愛を読むひと」とタイミングがあいました。
「朗読者」という原題で、アカデミー賞のいくつかの部門にノミネートされ、主演女優賞を受賞した映画だという程度のことは知っていました。
ストーリーは、まだ上映されているので控えますが、ネット上で紹介されているストーリーはこうです。
「第二次世界大戦後のドイツ。15歳のミヒャエルは、気分が悪かった自分を偶然助けてくれた21歳も年上の女性ハンナと知り合う。猩紅熱にかかったミヒャエルは、回復後に毎日のように彼女のアパートに通い、いつしか彼女と男女の関係になる。ハンナはミヒャエルが本を沢山読む子だと知り、本の朗読を頼むようになる。彼はハンナのために『オデュッセイア』『犬を連れた奥さん』『ハックルベリー・フィンの冒険』『タンタンの冒険旅行』といった作品を朗読した。
だがある日、ハンナは働いていた市鉄での働きぶりを評価され、事務職への昇進を言い渡される。 そしてその日を機に、ハンナはミヒャエルの前から姿を消してしまうのだった。理由がわからずにハンナに捨てられて長い時間が経つ。 1966年ミヒャエルはハイデルベルク大学の法科習生としてナチスの戦犯の裁判を傍聴する。その被告席の一つにハンナの姿を見つけるのだった。裁判に通ううちに彼女が必死に隠し通してきた秘密にようやく気づき、衝撃を受けるのだった。
与えられた職務を全うした1人の女性。決して許されない罪を犯したのだとしても、彼女は彼女のなすべきことをしたのだ。本作の主題はホロコーストの追及や、禁断の愛を描くことではない。そのとき、もしハンナあるいはマイケルの立場だったら何が出来たかを、観る者ひとりひとりに問う人間性についての映画なのだ。原作はベルンハルト・シュリンクの世界的ベストセラー「朗読者」。念願のアカデミー賞主演女優賞に輝いたケイト・ウインスレットによって、弁解を一切しない孤高の女性ハンナの人物像が小説よりも明確に浮かび上がる。相手役の新人デヴィッド・クロスも好演。監督は『リトル・ダンサー』の名匠スティーヴン・ダルドリー」
ストーリーは控えるといっても、私がこのブログを書くと種明かしになってしまうかとも、恐れます。もし、映画をこれから観に行こうと考えている人は、伊藤伸二のブログを読むのはここまでにして、映画を観てから続きをお読みいただくとありがたいです。
だから、上映が完全に済んでからとも思ったのですが、このブログで観に行こうかと思う人がいるかもしれないので、危惧をもちつつも書いてみます。
私は、吃音に強い劣等感を持ったために、吃音をとても恥ずかしい、みじめなものと思い続けていました。だから、他人に吃音がばれるのが、大げさに言えば、死ぬほど嫌でした。自分の吃音を隠したい、吃音がばれるのが、高校生の当時の私には、一番辛いことでした。だから、何にもまして、吃音を隠すことが優先されました。
高校入学式のとき、見初めた女性が同じ卓球部に入っていることを知り、私は、苦しいだろうと予想する高校生活に光がさした思いがしました。嬉しかったのです。
しかし、5月上旬、新人歓迎の男女合同合宿計画が発表されてから、私の苦悩が始まりました。好きな彼女の前では吃りたくない。どもりを知られたくない。その思いが私の心を占めていきました。苦しかった中学生生活の、唯一の救いの場であった卓球をやめたくない。しかし、このまま合宿に参加すれば、必ず自己紹介があるだろう。当然吃って吃って自己紹介をすることになる。彼女に吃音がばれるのは嫌だ。結局、私は合宿の直前になって退部し、あれだけ好きな卓球をやめてしまいました。それから、私の「逃げの人生」が本格的にスタートしたのです。それから21歳の夏までの苦悩は、何度も書いていることでもあります。
吃音にあれほど強く、堅い劣等感を持たなければ、吃る事実を認めてさえいれば、吃ることを隠そうとしなければ、変なプライドを持たなければ、私の高校生活はまったく違ったものになっていたことでしょう。だから、今現在吃音に強い劣等感をもって悩む思春期の子ども達に、私と同じような道を歩んで欲しくない。祈るような思いで、『どもる君へ いま伝えたいこと』(解放出版)1260円を出版したのです。
この映画、邦訳の「愛を読むひと」のタイトルが極めて不適切です。原題をそのまま使ってほしかったと思います。せめて、ただ「読むひと」と訳して欲しかった。
ハンナの秘密は、ナチスの戦犯であることだけではありません。他人にある劣等性を知られたくない。このことを知られることは、ハンナにとって何よりも辛く、それを隠すことが、何よりも優先するのです。この劣等コンプレックスによってとてつもなく大きな代償を支払うことになるのです。ハンナがその劣等性を認め、公表すれば、この話は全く違う展開になってしまいますので、この小説そのものが成立しなくなります。ということは、劣等感、劣等コンプレックスがこの話の大きなテーマの一つだと私には思えるのです。その後、その劣等性と向き合い、涙ぐましい努力で、劣等性を少し克服するのですが、最後の幕切れは、彼女の劣等感と表裏一体となっている、強いプライドを示して終わるのです。
この映画は人によって様々な感想があるでしょうが、強い劣等感の固まりであった私は、「劣等感のもつ、強いマイナスエネルギー」として、残り続ける映画となりました。日本吃音臨床研究会ではこの秋の吃音ワークシヨップである吃音ショートコースで、アドラー心理学を学びます。劣等生、劣等感、劣等コンプレックスについて考えたいと思います。
2009年7月21日 伊藤伸二