2009年2月5日
2009年1月29日 大阪吃音教室・論理療法実践
伊藤伸二
論理療法は本当におもしろい。大阪吃音教室では何度も何度も取り組んでいるにもかかわらず、いつも新鮮です。今回は久しぶりに参加した女性の今困っている、悩んでいることを論理療法で考えたので、よけいにみんなが真剣に考えました。
悩みはこうです。
「最近電話が以前より苦手になってきた、吃ってうまく話せない。職場の人はその電話を聞いている。上司が彼女の電話での話し方をきいて、声は小さいし、相手にうまく伝わっていない、もっとちゃんとした電話ができないとだめだと叱った。最近電話が怖くなっている。電話が吃らずにできるようになりたい」
この問題を論理療法でどう考えるか。アルバート・エリス提唱する論理療法はABC理論をもっている。
A できごと B 考え方、受け取り方、信念 C 結果、悩み、行動の決定
AがCの悩みを生み出すのではなく、その出来事をどう受け止めるかだとエリスは言います。その日野吃音教室の進行役、担当者は、参加者にうまくそのことを説明する事例はないかと尋ねたところ、ひとりの教師がこんな例を出しました
「教師としての私が一所懸命話しているのに、ある生徒がよくあくびをする。そのあくびがとても腹が立った。そのとき、私は、生徒はどんな時でも教師の話をちゃんと聞くべきだ。あくびをするなんて、教師をばかにしていると考えていた。だからすごく腹がたった。ところが、あくびというのは、生理現象で、聞いていないとか、教師をばかにしているという問題ではないと知ってから、いくらあくびを生徒がしても、何とも思わなくなった」
とても分かりやすい話でした。そこで電話の話を論理療法でどう考えるかをみんなで考えました。こんな手順です。
AとC共通認識、確定。
まず、A できごとを彼女の話をもとに参加者で確認する必要があります。ます、進行者が、「電話で吃るために、声も小さくなり、うまく電話応対ができなかった」をAとしました。そして、結果として落ち込んだと整理しました。
このようにAをしがちでずか、これでは、論理療法のB(非論理的思考)を考える時、浅いものになってしまいます。こうすると、非論理思考としては、「電話がうまくできなかったとして、そんなに落ち込むことはない」。「電話は私の仕事のすべてではなく、ごく一部分だから、それができなかったとして私の全てが否定されたわけではない」の程度しか出てこないのです。論理療法は、考え方の遊びではありません。自分を合理化して気持ちを楽にする方法でもありません。行動を変えることが目的です。その行動を縛っている、行動を制限している非論理的思考に気づき、その非論理的思考を柔らかくして、これまでと違う行動をとる、具体策を考えることが眼目です。そのためには、Aの確定が意味をもつのです。そして、当然、問題を出してくれた彼女の気持ちを確認しつつ、Cの確定もとても大事です。
そこで、みんなで論議しながら、AとCをこのように確定しました。この論議も論理療法の大切なプロセスです。Aは客観的な事実ですが、Cは本人の素直な感情です。本人に確かめながら、AとCを確定しました。
A 「電話で吃るために声が小さくなるなど、電話応対が上手くできずに上司にとがめられた」。
C 悔しい、情けない
ここで、参加者ひとりひとりが、思い浮かんだ非論理的思考を言っていきます。このとき彼女には、みんな気楽にいうことだから、的はずれも、勘違いもあり、気分が悪いことも言うかもしれませんが、遊び感覚で聞いていて下さいと言っておく必要があります。
ひとりひとりが実に的確な非論理的思考を出していきます。長年論理療法に取り組んできた、大阪吃音教室の成果だと思いました。録音していないし、記憶力もおちているので、まちがっているかもしれませんがこんなのが会ったように思います。
「上司にとがめられるなんて最悪だ」
「吃音でなければ、こんなことでしかられずにすんだのに」
「上司の評価は、その人を正しく規定する」
「上司に嫌われたに違いない」
「上司から変な人間だとみられているに違いない」
「上司から、能力のない人間だとみられているはずだ」
「上司はもっと優しく私に接するべきだ」
「上司は私のことを全く理解していない」
「私は、わざと吃るわけではないのだから、とがめるべきではない」
まだまだたくさんあったのですが、それとなく覚えているのはこのようなことだったと思います。このようにBが出てくると、ここで、A出来事の背景を探る必要があります。ります。上司や周りの人が彼女の吃音について知っているのかの問題です。
彼女は職場では吃ることを話していません。雑談ではよく話すのに、電話となるとしどろもどろになってしまうので、雑談の時元気なのはへんだからと、雑談も気持ちよくできなくなっていると言うのです。Aの出来事とCの結果のためにあらたなCが生まれてきていることになります。
ここで、なかなか本人には気づけない非論理的思考を指摘しました。
「上司は、どんな時でも部下にやさしく、あたたかく接しなければならない」
「私は、常に大事にされ、気持ちよく仕事ができるように周りはしなければならない」 「私が、周りから不当な評価をされるのは耐えられない」
「私が快適に仕事ができるように、周りは最大の努力をすべきだ」
このように指摘をしますと、彼女はそんなことを考えたことはないと、否定しました。そこで、じっくりと考えてもらうと、「自分ではまったく意識はしていんかったげれと、言われてみれば確かにそうだと気づいてくれました。
これが、非論理的思考のひとつ「不当な相手への要求」になります。「過度の一般化」、「絶対論的思考」、「過剰な反応」はきづきやすいのでずか、相手への不当な要求」はとても気づきにくいのです。このことに同意したのは「彼女の考える力」です。こうなると、また一歩進めます。
「変な人間だと思われるよりも、吃音が知られるのが何よりも恐ろしいことだ」
「吃音がばれるより、変な人と思われた方がました」
「本当のことを言わなくても、上司は私のことを理解すべきだ」
このように進んできますと、Aの景色が変わってきます。
吃音を隠して、吃らないようにしているから、声が小さくなり、ごまかすために、とんちんかん応対になってしまうのは、ある意味当然のことなのです。上司は吃音について、彼女が隠しているから、知らないのは当然で、理解しないのはあたりまえのことだとということになります。ここで、彼女が吃音を隠し続けている限り、上司にとがめられたり、理解されないのはごく自然なことだということになります。
ここで、論理療法の眼目である行動への挑戦です。
上司に、吃るからあのような応対になったことを話し、声は大きくして、できるだけの努力をするということでしょう。つまり、Bの考え方を変えることも大事だけれど、Aの出来事そのものを変えていく工夫と努力が必要になるのです。
このように彼女に提案しましたが、「吃音の公表は怖い」といいます。ここでまた、時間があれば、その公表を阻害する、規制する、非論理的思考に取り組むことになるのですが、これで吃音教室は時間切れでした。しかし、せっかく問題を出して下さった彼女にはおみやげが必要です。吃音を公表した体験について、「吃音を公表をしたとして、周りの評価はまったく変わらなかった」「わざわざ公表しなくても、吃ってしゃべっているから公表と同じだ」「私はかなり吃るので隠しようがない」など。ひとりひとりが発言をしていきました。論理療法をグループですることの大きなメリットがここにあります。
今回で2回目の参加となる電話オペレータの仕事を、吃音から逃げるのが嫌になって、わざわざその仕事を選んだ人が、まとめのような発言をしました。
「電話オペレーターの仕事を始めたころは、自分の名前がいえていたのが、最近名前が言えなくなった。そこで、せっぱ詰まって吃音のことを上司に相談した。そこで、仕事の時だけ、本名ではなく、言いやすい名前に変えてもらった。それで仕事が
楽になった」
誰にでもできることではないかもしれないけれど、見事な「吃音サバイバル」です。彼の話が、彼女の後押しになったかどうかは分かりませんが、彼女は最後に、「とても気持ちが楽になりました」と言ってくれました。彼女が今後どのような行動を選択するかは、彼女に委ねられています。
記憶力の落ちている私の、それも一週間も経過してでの報告なので、勘違いや間違いはお許し下さい。でも大筋においては間違いないと思っています。
吃音にとって、論理療法は最大の武器です。興味を持たれた方は、是非私の著書をお読み下さい。
『やわらかに生きる 論理療法と吃音に学ぶ』(金子書房) 1890円
石隈利紀(筑波大学教授)・伊藤伸二共著
アマゾンなどのインターネットショップや大きな書店で買えますが、私たちにご注文いただければ、たくさんの資料とともに、1890円で、送料負担でお送りします。
通信欄に書名を書いて、郵便振替でご注文下さい。
口座番号 00970−1−314142 加入者名 日本吃音臨床研究会
2009年1月29日 大阪吃音教室・論理療法実践
伊藤伸二
論理療法は本当におもしろい。大阪吃音教室では何度も何度も取り組んでいるにもかかわらず、いつも新鮮です。今回は久しぶりに参加した女性の今困っている、悩んでいることを論理療法で考えたので、よけいにみんなが真剣に考えました。
悩みはこうです。
「最近電話が以前より苦手になってきた、吃ってうまく話せない。職場の人はその電話を聞いている。上司が彼女の電話での話し方をきいて、声は小さいし、相手にうまく伝わっていない、もっとちゃんとした電話ができないとだめだと叱った。最近電話が怖くなっている。電話が吃らずにできるようになりたい」
この問題を論理療法でどう考えるか。アルバート・エリス提唱する論理療法はABC理論をもっている。
A できごと B 考え方、受け取り方、信念 C 結果、悩み、行動の決定
AがCの悩みを生み出すのではなく、その出来事をどう受け止めるかだとエリスは言います。その日野吃音教室の進行役、担当者は、参加者にうまくそのことを説明する事例はないかと尋ねたところ、ひとりの教師がこんな例を出しました
「教師としての私が一所懸命話しているのに、ある生徒がよくあくびをする。そのあくびがとても腹が立った。そのとき、私は、生徒はどんな時でも教師の話をちゃんと聞くべきだ。あくびをするなんて、教師をばかにしていると考えていた。だからすごく腹がたった。ところが、あくびというのは、生理現象で、聞いていないとか、教師をばかにしているという問題ではないと知ってから、いくらあくびを生徒がしても、何とも思わなくなった」
とても分かりやすい話でした。そこで電話の話を論理療法でどう考えるかをみんなで考えました。こんな手順です。
AとC共通認識、確定。
まず、A できごとを彼女の話をもとに参加者で確認する必要があります。ます、進行者が、「電話で吃るために、声も小さくなり、うまく電話応対ができなかった」をAとしました。そして、結果として落ち込んだと整理しました。
このようにAをしがちでずか、これでは、論理療法のB(非論理的思考)を考える時、浅いものになってしまいます。こうすると、非論理思考としては、「電話がうまくできなかったとして、そんなに落ち込むことはない」。「電話は私の仕事のすべてではなく、ごく一部分だから、それができなかったとして私の全てが否定されたわけではない」の程度しか出てこないのです。論理療法は、考え方の遊びではありません。自分を合理化して気持ちを楽にする方法でもありません。行動を変えることが目的です。その行動を縛っている、行動を制限している非論理的思考に気づき、その非論理的思考を柔らかくして、これまでと違う行動をとる、具体策を考えることが眼目です。そのためには、Aの確定が意味をもつのです。そして、当然、問題を出してくれた彼女の気持ちを確認しつつ、Cの確定もとても大事です。
そこで、みんなで論議しながら、AとCをこのように確定しました。この論議も論理療法の大切なプロセスです。Aは客観的な事実ですが、Cは本人の素直な感情です。本人に確かめながら、AとCを確定しました。
A 「電話で吃るために声が小さくなるなど、電話応対が上手くできずに上司にとがめられた」。
C 悔しい、情けない
ここで、参加者ひとりひとりが、思い浮かんだ非論理的思考を言っていきます。このとき彼女には、みんな気楽にいうことだから、的はずれも、勘違いもあり、気分が悪いことも言うかもしれませんが、遊び感覚で聞いていて下さいと言っておく必要があります。
ひとりひとりが実に的確な非論理的思考を出していきます。長年論理療法に取り組んできた、大阪吃音教室の成果だと思いました。録音していないし、記憶力もおちているので、まちがっているかもしれませんがこんなのが会ったように思います。
「上司にとがめられるなんて最悪だ」
「吃音でなければ、こんなことでしかられずにすんだのに」
「上司の評価は、その人を正しく規定する」
「上司に嫌われたに違いない」
「上司から変な人間だとみられているに違いない」
「上司から、能力のない人間だとみられているはずだ」
「上司はもっと優しく私に接するべきだ」
「上司は私のことを全く理解していない」
「私は、わざと吃るわけではないのだから、とがめるべきではない」
まだまだたくさんあったのですが、それとなく覚えているのはこのようなことだったと思います。このようにBが出てくると、ここで、A出来事の背景を探る必要があります。ります。上司や周りの人が彼女の吃音について知っているのかの問題です。
彼女は職場では吃ることを話していません。雑談ではよく話すのに、電話となるとしどろもどろになってしまうので、雑談の時元気なのはへんだからと、雑談も気持ちよくできなくなっていると言うのです。Aの出来事とCの結果のためにあらたなCが生まれてきていることになります。
ここで、なかなか本人には気づけない非論理的思考を指摘しました。
「上司は、どんな時でも部下にやさしく、あたたかく接しなければならない」
「私は、常に大事にされ、気持ちよく仕事ができるように周りはしなければならない」 「私が、周りから不当な評価をされるのは耐えられない」
「私が快適に仕事ができるように、周りは最大の努力をすべきだ」
このように指摘をしますと、彼女はそんなことを考えたことはないと、否定しました。そこで、じっくりと考えてもらうと、「自分ではまったく意識はしていんかったげれと、言われてみれば確かにそうだと気づいてくれました。
これが、非論理的思考のひとつ「不当な相手への要求」になります。「過度の一般化」、「絶対論的思考」、「過剰な反応」はきづきやすいのでずか、相手への不当な要求」はとても気づきにくいのです。このことに同意したのは「彼女の考える力」です。こうなると、また一歩進めます。
「変な人間だと思われるよりも、吃音が知られるのが何よりも恐ろしいことだ」
「吃音がばれるより、変な人と思われた方がました」
「本当のことを言わなくても、上司は私のことを理解すべきだ」
このように進んできますと、Aの景色が変わってきます。
吃音を隠して、吃らないようにしているから、声が小さくなり、ごまかすために、とんちんかん応対になってしまうのは、ある意味当然のことなのです。上司は吃音について、彼女が隠しているから、知らないのは当然で、理解しないのはあたりまえのことだとということになります。ここで、彼女が吃音を隠し続けている限り、上司にとがめられたり、理解されないのはごく自然なことだということになります。
ここで、論理療法の眼目である行動への挑戦です。
上司に、吃るからあのような応対になったことを話し、声は大きくして、できるだけの努力をするということでしょう。つまり、Bの考え方を変えることも大事だけれど、Aの出来事そのものを変えていく工夫と努力が必要になるのです。
このように彼女に提案しましたが、「吃音の公表は怖い」といいます。ここでまた、時間があれば、その公表を阻害する、規制する、非論理的思考に取り組むことになるのですが、これで吃音教室は時間切れでした。しかし、せっかく問題を出して下さった彼女にはおみやげが必要です。吃音を公表した体験について、「吃音を公表をしたとして、周りの評価はまったく変わらなかった」「わざわざ公表しなくても、吃ってしゃべっているから公表と同じだ」「私はかなり吃るので隠しようがない」など。ひとりひとりが発言をしていきました。論理療法をグループですることの大きなメリットがここにあります。
今回で2回目の参加となる電話オペレータの仕事を、吃音から逃げるのが嫌になって、わざわざその仕事を選んだ人が、まとめのような発言をしました。
「電話オペレーターの仕事を始めたころは、自分の名前がいえていたのが、最近名前が言えなくなった。そこで、せっぱ詰まって吃音のことを上司に相談した。そこで、仕事の時だけ、本名ではなく、言いやすい名前に変えてもらった。それで仕事が
楽になった」
誰にでもできることではないかもしれないけれど、見事な「吃音サバイバル」です。彼の話が、彼女の後押しになったかどうかは分かりませんが、彼女は最後に、「とても気持ちが楽になりました」と言ってくれました。彼女が今後どのような行動を選択するかは、彼女に委ねられています。
記憶力の落ちている私の、それも一週間も経過してでの報告なので、勘違いや間違いはお許し下さい。でも大筋においては間違いないと思っています。
吃音にとって、論理療法は最大の武器です。興味を持たれた方は、是非私の著書をお読み下さい。
『やわらかに生きる 論理療法と吃音に学ぶ』(金子書房) 1890円
石隈利紀(筑波大学教授)・伊藤伸二共著
アマゾンなどのインターネットショップや大きな書店で買えますが、私たちにご注文いただければ、たくさんの資料とともに、1890円で、送料負担でお送りします。
通信欄に書名を書いて、郵便振替でご注文下さい。
口座番号 00970−1−314142 加入者名 日本吃音臨床研究会