6月1日、岡山で吃音相談会があった。岡山言友会が開催するものでもう10回くらいにはなるだろうか。古くからの仲間がいる岡山は、島根県と同じようにほっとできるところだ。私の思想、考え方に共感し、それを聞いて下さる人がいるということは、なんと幸せなことだろう。この幸せな気持ちからか、相談会の後必ずどこかの喫茶店のようなところを借り切りってもたれる懇談会で、いつになく饒舌になっていた。
相談会はいつものように質問から始まる。私は質問を受けるのが好きなのだ。まず、その日相談会に参加した人に、どんな相談をしたいのか、どんな疑問をもって参加したのかを尋ねる。自分の希望していることと違う話だけを聞いて帰ったのではつまらないだろう。
全ての質問に答えた後で、私が伝えたいことを話すのだが、毎年行っていると、これまでとは違う話をしたいと思う。そのくせ、私は記録というものをとらない。話の計画も立てない。その場で生まれることを話したい、とは聞こえがいいが、要するにいつも行き当たりばったりなのだ。数回以上毎年行っているところは少なくないが、いつも前の年にはどんな話をしたのだろう、違う話をしたいと思うのだが、記録がないし記憶もないのでいつも綱渡りだ。ブログを始めたのはそれを少しカバーしたい気持ちがあったからだ。
このブログは当然読んで下さる読者を意識して書いている。しかし、私の備忘録でもある。相談会の内容について詳しくは書けないが、何を話したのか少し書き、後は質問についての答えと、印象に残っていることを書きたい。
・どもりは治るか治らないかに関連して、日本の吃音の治療の歴史。
・アメリカの吃音治療の歴史と論争、バリー・ギターの統合的アプローチ。
・安部晋三元総理大臣の発音と、一音一拍。日本語のレッスンと言語訓練。
質問に答える
吃音を理解するとは
「私の夢は、吃音をより多くの人に知ってもらうことだ。今教師になって、自分の学校の生徒に「吃音」のことをいろいろ話している。でもそれではその地区の人にしか広まらない。どうすればもっと多くの人に伝えることができますか」
私たちは吃音について理解が足りないと思っている。理解して欲しいと思っている。しかし、どのように理解して欲しいかについては明確に意識している人は少ない。そこで、参加者にどのように吃音を知ってもらいたいか、どのように理解されたいかを聞いた。
・ことばが出にくい事実を分かって欲しい。
・他の障害は見た目に分かるが、どもりは理解しないと何をしているのか不思議がられる。変な人間だと思われる。
・それまで割と話していたのに急に吃り始めると、その落差に驚かれる。
・話しているとき、吃って間があくことを理解して欲しい。
・病院などで、からだの症状について吃って話すと、うっとうしい顔をされる。
・吃って困ること、悩んでいることを理解して欲しい。
これらの発言から、吃音の特徴や吃る事実を認めて欲しいというのがおおかたの意見のようだ。
では、理解をしてもらうために、私たちはどのような行動をしているかと言えば、質問をした中学校の教師以外は特別にしているわけではない。セルフヘルプグループの活動に参加することが、結果として行動していることになっているには違いないのだが、個人のレベルでは、ほとんどないと言っていいだろう。そこで次の提案をした。
私たちが吃ったとき、間が開いたり、怪訝な顔をされたとき、不思議な顔をされたとき、これが最大のチャンスなのだ。とても難しいことかも知れないが、このような状態になるのが「どもり」なんですと、あらかじめ、説明する内容を考えておく。理解のない態度をとられるのが嫌だと思わずに、そのような態度をとられることを想定して、想定問答のようなものを考えておくのだ。家庭や職場で、吃って理解ない態度をとられた時こそ、その人を理解者にするチャンスだと考えたい。とてもできない難しいことかも知れないが、吃る人一人一人が直接向き合っているその人を理解者にしていく以外、吃音を理解する社会は実現しないだろう。
それをやろうと、多くの人が立ち上がったとき、吃音理解の道がひらいていくのだと思う。だから私は常に、チャンスがある限りどもりについて語っていきたいのだ。
前向きに生きているのに、落ち込みは激しい
「私は吃音を前向きにとらえることができるようになり、言いたいことは言っていくようにしている。普段はあまり吃音で悩むことがないが、かなりひどく吃ったときは、すごく落ち込んでしまう。前向きに考えているのに、こんなに落ち込むんだったら、前向きに考えていたことは何だったんだ、バカみたいじゃないかと思うことがある。吃音について前向きに考えても、こんなに吃り、こんなにひどく落ち込むのなら、前向きに考えることは意味がないんじゃないか」
私もそう思う。「ポジィティヴ・シンキング」とか「前向きに」と考えることをやめた方がいい。「前向きに吃音をとらえる」と考えること自体が、「前向きに」ということばに引っ張られている。あるいは、そういうことば自体に酔っている。
だから、あんなに「前向きに」考えていたのにと、「前向き」を前提に考えるから、ひどく落ち込んでいることが許せない。「落ち込む」自分に対して「落ち込む」ということが起こってしまう。
人はいろんな苦しみ悩みを抱えて生きている。落ち込むことがあるということを前提にすると、すごく落ち込むときは「前向きに」考えようとするのではなく、落ち込むことが正解で、落ち込むことに身をゆだねればいい。そうすると、自己変化力が働いて、時間やその他の要因で少し元気になってくる。元気になったら「ああ、あんなに落ち込んでいたのに、ずいぶんと楽に、元気になったなあ」と思えばいい。
私も、とても落ち込むことがある。なにもかも投げ出したくなることがある。そんな自分も自分、「落ち込んでいるなあ」とその事実を認めることで変わってきた。
「前向きに考える」をあまり意識しすぎると、「前向きに考える」人は、落ち込まないはずだと、論理療法でいう非論理思考に陥ってしまう。悩むときは悩むがよし、落ち込むときは落ち込むがよし。「前向き」ということばを使わない方がいいと思う。でも、この落ち込みがかなり強いものだったら、論理療法の出番だ。
『やわらかに生きる 論理療法と吃音に学ふ』(金子書房)で柔軟に考える練習をして下さい。
私も時々落ち込む人間だから、このように話した。みなさんはどうですか。
この他、まだまだ質問がありましたが、今回はここまでにします。
2008年6月1日 岡山吃音相談会にて
相談会はいつものように質問から始まる。私は質問を受けるのが好きなのだ。まず、その日相談会に参加した人に、どんな相談をしたいのか、どんな疑問をもって参加したのかを尋ねる。自分の希望していることと違う話だけを聞いて帰ったのではつまらないだろう。
全ての質問に答えた後で、私が伝えたいことを話すのだが、毎年行っていると、これまでとは違う話をしたいと思う。そのくせ、私は記録というものをとらない。話の計画も立てない。その場で生まれることを話したい、とは聞こえがいいが、要するにいつも行き当たりばったりなのだ。数回以上毎年行っているところは少なくないが、いつも前の年にはどんな話をしたのだろう、違う話をしたいと思うのだが、記録がないし記憶もないのでいつも綱渡りだ。ブログを始めたのはそれを少しカバーしたい気持ちがあったからだ。
このブログは当然読んで下さる読者を意識して書いている。しかし、私の備忘録でもある。相談会の内容について詳しくは書けないが、何を話したのか少し書き、後は質問についての答えと、印象に残っていることを書きたい。
・どもりは治るか治らないかに関連して、日本の吃音の治療の歴史。
・アメリカの吃音治療の歴史と論争、バリー・ギターの統合的アプローチ。
・安部晋三元総理大臣の発音と、一音一拍。日本語のレッスンと言語訓練。
質問に答える
吃音を理解するとは
「私の夢は、吃音をより多くの人に知ってもらうことだ。今教師になって、自分の学校の生徒に「吃音」のことをいろいろ話している。でもそれではその地区の人にしか広まらない。どうすればもっと多くの人に伝えることができますか」
私たちは吃音について理解が足りないと思っている。理解して欲しいと思っている。しかし、どのように理解して欲しいかについては明確に意識している人は少ない。そこで、参加者にどのように吃音を知ってもらいたいか、どのように理解されたいかを聞いた。
・ことばが出にくい事実を分かって欲しい。
・他の障害は見た目に分かるが、どもりは理解しないと何をしているのか不思議がられる。変な人間だと思われる。
・それまで割と話していたのに急に吃り始めると、その落差に驚かれる。
・話しているとき、吃って間があくことを理解して欲しい。
・病院などで、からだの症状について吃って話すと、うっとうしい顔をされる。
・吃って困ること、悩んでいることを理解して欲しい。
これらの発言から、吃音の特徴や吃る事実を認めて欲しいというのがおおかたの意見のようだ。
では、理解をしてもらうために、私たちはどのような行動をしているかと言えば、質問をした中学校の教師以外は特別にしているわけではない。セルフヘルプグループの活動に参加することが、結果として行動していることになっているには違いないのだが、個人のレベルでは、ほとんどないと言っていいだろう。そこで次の提案をした。
私たちが吃ったとき、間が開いたり、怪訝な顔をされたとき、不思議な顔をされたとき、これが最大のチャンスなのだ。とても難しいことかも知れないが、このような状態になるのが「どもり」なんですと、あらかじめ、説明する内容を考えておく。理解のない態度をとられるのが嫌だと思わずに、そのような態度をとられることを想定して、想定問答のようなものを考えておくのだ。家庭や職場で、吃って理解ない態度をとられた時こそ、その人を理解者にするチャンスだと考えたい。とてもできない難しいことかも知れないが、吃る人一人一人が直接向き合っているその人を理解者にしていく以外、吃音を理解する社会は実現しないだろう。
それをやろうと、多くの人が立ち上がったとき、吃音理解の道がひらいていくのだと思う。だから私は常に、チャンスがある限りどもりについて語っていきたいのだ。
前向きに生きているのに、落ち込みは激しい
「私は吃音を前向きにとらえることができるようになり、言いたいことは言っていくようにしている。普段はあまり吃音で悩むことがないが、かなりひどく吃ったときは、すごく落ち込んでしまう。前向きに考えているのに、こんなに落ち込むんだったら、前向きに考えていたことは何だったんだ、バカみたいじゃないかと思うことがある。吃音について前向きに考えても、こんなに吃り、こんなにひどく落ち込むのなら、前向きに考えることは意味がないんじゃないか」
私もそう思う。「ポジィティヴ・シンキング」とか「前向きに」と考えることをやめた方がいい。「前向きに吃音をとらえる」と考えること自体が、「前向きに」ということばに引っ張られている。あるいは、そういうことば自体に酔っている。
だから、あんなに「前向きに」考えていたのにと、「前向き」を前提に考えるから、ひどく落ち込んでいることが許せない。「落ち込む」自分に対して「落ち込む」ということが起こってしまう。
人はいろんな苦しみ悩みを抱えて生きている。落ち込むことがあるということを前提にすると、すごく落ち込むときは「前向きに」考えようとするのではなく、落ち込むことが正解で、落ち込むことに身をゆだねればいい。そうすると、自己変化力が働いて、時間やその他の要因で少し元気になってくる。元気になったら「ああ、あんなに落ち込んでいたのに、ずいぶんと楽に、元気になったなあ」と思えばいい。
私も、とても落ち込むことがある。なにもかも投げ出したくなることがある。そんな自分も自分、「落ち込んでいるなあ」とその事実を認めることで変わってきた。
「前向きに考える」をあまり意識しすぎると、「前向きに考える」人は、落ち込まないはずだと、論理療法でいう非論理思考に陥ってしまう。悩むときは悩むがよし、落ち込むときは落ち込むがよし。「前向き」ということばを使わない方がいいと思う。でも、この落ち込みがかなり強いものだったら、論理療法の出番だ。
『やわらかに生きる 論理療法と吃音に学ふ』(金子書房)で柔軟に考える練習をして下さい。
私も時々落ち込む人間だから、このように話した。みなさんはどうですか。
この他、まだまだ質問がありましたが、今回はここまでにします。
2008年6月1日 岡山吃音相談会にて