伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2024年05月

どもりとオナラ

 僕に直接会ったことのある人なら、よくご存じのオナラの話です。最近は、ずいぶん減ってきたような気がしますが、昔からの僕の癖のひとつです。どもりとオナラの共通点がいくつかあります。誰だったか、僕のどもりとオナラのことを川柳に詠んでくれました。「どもりもオナラも、自然体」と。
 オナラに関しては、「スタタリング・ナウ」の一面の巻頭言に書く内容ではないかもしれません。しかし、一面に続くのが漫画家で、京都精華大学教授のヨシトミヤスオさんの「ユーモアセンス」です。なので、この機会を逃すと吃音とオナラについて書く機会はないだろうと考えて書きました。「スタタリング・ナウ」2005.4.24 NO.128

どもりとオナラ
            日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 「プー」
 私の大きなオナラが静かな中学校の体育館に響き渡った。どっと笑い声が起こったとき、ちょうど担任が入ってきた。「静かに座っていろと言ったのにこの騒ぎはなんだ。もう40分座っていろ」。
 中学時代、クラスの連帯責任で正座をさせられていたとき、私は我慢しきれなくなって大きなオナラをしてしまった。「お前のために40分余分に座らされた」と、みんなからこっぴどく怒られた経験から私はオナラ恐怖症になった。どもりと同じように連発するオナラが私を悩ませた。その後病院で診察を受けたが、「体質のようなものだから、我慢してはいけない。出るときは出しなさい」と言われた。医者からお墨付きをもらっても私は人前でオナラはできなかった。どもりと同じで、出したくないと思えば思うほど出てしまう。人前が苦手だったのはどもりのためだけではなかったのだ。人前で平気でどもるようになるにつれ、私はいつしか人前でのオナラを楽しむようになった。
 しかし、できたら出さない方がいい場面がある。
 30年ほど前、あるカウンセリングワークショップのグループで深刻な悩みが話されているとき、我慢できなくなって「プー」としてしまった。くすくすと笑い声が起こったが、グループは何事もなかったかのように進行していく。出ては困ると思えば思うほど、おなかが張ってきて、また「プー」。数回目にとうとう、温厚で当時カウンセリングの神様と尊敬されていた高名な大学教授が「伊藤君、君はオナラに甘えている。いい加減にしなさい」と怒った。恐縮し、我慢すればするほどおなかが張る。下から出るのを我慢していたら、今度は口からゲップのようなものが出始めた。教授も苦笑いをし、私のオナラは許された。
 それから25年ほど後のあるベーシックエンカウンターグループでのこと。その時の私は自分自身がファシリテーターだった。相変わらずグループの中でオナラが出る。
 ひんしゅくをかいつつも、いつしかメンバーに受け入れられ、笑いの絶えないグループになった。そのメンバーの中に、深刻な悩みを抱える二人の若い人がいた。
 コンビを組むファシリテーターにもよるのだが、つい私は大阪人特有のいちびりで、ツッコミを入れては笑ってしまう。「ワハハ、ワハハ」大きな声で笑う私たちのグループに他のグループからは怪訝そうに見られたり、時にうらやましがられたりする。
 「私は親の指示通りに生きてきたので、ひとりで電車に乗って大学に通学する電車の中がとても苦痛で、何をして時間を過ごせばいいか分からない」
 親の指示に従っていいなりに生きてきて、いい子でいるのに疲れて「からだ」が反乱し、ある身体症状に悩まされる女子学生が悩みを出した。
 そこで私はグループのメンバーに、電車の中で何をしているかひとりひりが言おうと提案した。「本を読む」と、ごく一般的なことを言う人もいたが、多くの答えはユニークだった。一際背の高い女性は「私は飛び抜けて背が高いので、男の人のハゲがすぐ目につく。この車両に何人いるか数えている」、ある主婦は「電車が発車したら、えいっと息を止めて、次の駅まで息を止めていられるか測っている」。私は「うるさい音楽をもれさせる人に、くさいオナラをしようと頑張っている」。それぞれが本当かどうか疑いたくなるようなことを真剣に言う。そのたびに女子学生を含めて大爆笑だった。
 女子学生にとって深刻な話が、笑いの渦の中で、「なんだ、こんなことで悩んでいたのか」となったようだ。時には大きな声を出して笑い、また真剣な話には集中していく。真剣な中にある笑いのバランスが私はとても好きだ。
 今年の1月、この女子学生と背の高い女性とあるグループで再会した。「よく笑ったね」とそのグループを振り返った。
 私たちのどもる人のグループも常に笑いにあふれている。この秋の吃音ショートコースは「笑いの人間学」をテーマに、笑い芸人の松元ヒロさんのワークショップと日本笑い学会会長・井上宏さんの講演で、笑い・ユーモアについて学ぶ。
 深刻に悩んだ頃のオナラも今は懐かしい。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/05/19

大阪吃音教室 特別講座 生きてるって何だろう 講師 櫛谷宗則さん

 櫛谷宗則さんを、大阪吃音教室の講師にお迎えして、お話をお聞きすることは、2016年から始まりました。毎回、静かで、豊かで、深い時間が過ぎていきます。
 コロナ禍は、櫛谷さんの坐禅会も、大阪吃音教室での講座も中止になっていましたが、一昨年は、座禅会も開催され、大阪吃音教室にも来ていただきました。昨年に続き、今年もまた来ていただけることになりました。新潟にお住まいなので、大阪に来られるのはそう多くはありません。吃音について理解の深い禅の老師のお話は、きっと参加者の心に響きます。ご参加お待ちします。

日時 2024年5月24日(金)午後6時45分〜〜
会場 大阪ボランティア教会
演題 生きてるって何だろう
講師 櫛谷宗則
〈プロフィール〉昭和25年、新潟県五泉市の生まれ。19歳の時、内山興正老師について出家得度。以来安泰寺に10年安居し、老師隠居後は近くの耕雲庵に入り縁のある人と坐る。老師遷化のあと、新潟に帰り、地元や大阪・福岡等で坐禅会を続けている。
編著 「禅に聞け」「生きる力としてのZen」「内山興正老師いのちの問答」(大法輪閣)「共に育つ」(耕雲庵)等。

櫛谷宗則4 伸二と2人で 櫛谷さんとの出会いは、2004年頃だったと記憶しています。朝日新聞のコラム「小さな新聞」に、僕たちのニュースレター「スタタリング・ナウ」が紹介された記事を読まれた櫛谷宗則さんから、ご自分が編集し出版しておられる「共に育つ」への原稿依頼がありました。仏教関係の冊子への執筆依頼に驚きましたが、当時、仏教に惹かれ始めていた僕にとってはありがたく、書かせていただき、それから、おつき合いが始まりました。
 櫛谷さん編集の冊子「共に育つ」が出版されるたびに送っていただいていますし、僕たちのニュースレターもずっと読んで下さっています。そして、折に触れ、温かさが伝わってくる文字で、感想を書いて私を励まし続けてくださっています。

 櫛谷さんからいただいたことばはたくさんありますが、中でも、次のことばは、心に響き、いつまでも残り続けています。
 
 「治す派との闘いは、対立しないで伊藤さんご自身の、吃音を光とする生き方を深めていかれること、その生活そのものが一番の道(武器)ではないかとふと思いました」

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/05/18

私は書き続ける

 今日は、「スタタリング・ナウ」2005.3.20 NO.127 の巻頭言を紹介します。
 この号の2面からは、ことば文学賞の受賞作品を紹介しています。今も続けていることば文学賞は、体験の宝庫です。

  
私は書き続ける
           日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


毎日毎日、私はなにがしかの文を書いている。文章とはかぎらず、ふと頭に浮かんだことをメモとして残すものも含めれば、おそらく書かない日はほとんどないだろう。
 散歩をしているとき、これまで考えていたことだが、ひとつの固まりとして表せなかったことが、文章としてふと思い浮かぶことがある。忘れないようにと、何度もそのことを心の中で繰り返しながら急いで帰るが、家に着いたときには、肝心の部分が抜け落ちてしまっている。これではいけないと、ボイスレコーダーを買い、さあ、いつ、いい考えが浮かんでも大丈夫だ、と散歩にでかけるが、そんなどきには、あまり浮かんでこない。それがたびかさなると、つい持ち歩かなくなる。そんなときにかぎって、また、ふと思い浮かんでくる。これは、私には書きたいことや書かなくてはならないことがいっぱいあるからだ。しかし、それらが文章として形をなして、他者に読んでいただけるものになるのは、ごくごく一部にすぎない。私のからだは、それを早く表へ出してくれと、ときどき、せかせるのだが。
 日々、いろいろな人と出会い、いろいろな出来事と出会う。その時感じたことや考えたことを文章として残していけたら、どんなにいいだろうと思う。それらが、私が本当に書きたいこと、書かなくてはならないことに結びつくのだと考えた。だから、平井雷太さんの主宰する考現学に入れていただいて、毎日書くことを自らに課した。追い込んだのだ。なまけものの私には、環境を整え、条件を作って追い込んでも、毎日ひとつの作品らしきものとして、他者に読んでいただくものとして、書くことはできなかった。毎日何かは書いているにもかかわらず、である。
 書くことはつくづく不思議なものだと思う。仕事として原稿執筆依頼をうけて書くこともある。自分の身に余るテーマだと思っても、断ることはない。つい何でも引き受けてしまう態度が身についてしまっているからだ。引き受けたからには、まっとうしなければならない。締め切り間際にあわててとりかかることも少なくない。断り切れずに何でも引き受けてしまう自分が嫌いではない。のっぴきならない場に自分を置くと、動かざるを得ない。大きなテーマだとかなりの本を読んで考えを確認し、深めなければならない。これは、狭くなっていく自分を広げていくまたとない機会となる。新しい本との出会いもある。
 こうして、書かなければならない仕事としての書くことが入ると、当然自分の書きたいことがおろそかになって、これはどんどんと引き延ばされていく。このようにして、私のからだは、常に書きたいこと、書かなくてはならないことであふれてしまうのだ。しかし、作家のように書いてばかりの生活をしているわけにはいかない。大学や専門学校での講義はあるし、電話による相談も多い。思いはあっても、それが文章として姿を変えるのは、それほど容易な作業ではない。
 書きたいことがあるのは、つくづく幸せなことだと思う。これは吃音が私に与えてくれた最大の贈り物ではないかとも思う。吃音にあれほど深く悩むことがなかったら、ここまで書きたいという思いが募ることはなかっただろう。また、ひとつの主張をもつこともなかっただろう。
 「どもっていても大丈夫、吃音もいいもんだよ」
 私の書きたいこと、本当に書かなくてはならないのはただ一つ、このことだ。この『スタタリング・ナウ』の巻頭言も127号。以前のニュースレターを含めれば、200号以上になるだろう。
私はこのことだけを書きたくて、書き続けてきたことになる。まだ続いて書くことがあるのかと思うこともある。しかし、吃音は書けども書けども枯れることはないようだ。吃音にはそれほど奥の深い、とてつもなく広い世界があるのだと思う。
 ことば文学賞も今年で7回。書くことの喜び、書くことの意義を知る人々がどんどん広がっていくことはとてもうれしい。
 私は今日も書いている。書き続けている。(「スタタリング・ナウ」2005.3.20 NO.127)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/05/18

奥山大史監督の映画「ぼくのお日さま」、カンヌ国際映画祭へ

奥山大史監督の映画「ぼくのお日さま」、カンヌ国際映画祭へ

今日は、うれしいというか、不思議な縁を思わせるニュースです。

ぼくのお日さま ポスター2024年5月14日(火)〜5月25日(土)開催の第77回カンヌ国際映画祭。日本からは日本人最年少記録での出品となる奥山大史監督の『ぼくのお日さま』が、ある視点部門にノミネート。今年の審査員長は、『バービー』のヒットも記憶に新しいグレタ・ガーヴィグが務め、是枝裕和監督が最高賞パルムドールの審査員に選出されている。

 実は、この奥山大史さんと、2年前に出会っているのです。
 2022年の夏が近づいた頃、映画監督の奥山大史さんから連絡がありました。
 次回作の映画に、どもる少年が登場するので、吃音について、どもる人の生き方について、学びたいとのことで、具体的には、その年の吃音親子サマーキャンプに参加させてもらえないだろうかという内容でした。2022年は、コロナ明けの3年ぶりのサマーキャンプでした。その間、新規の参加者はなく、リピーターだった多くの子どもたちは卒業してしまい、参加者もスタッフも何人集まるか、話し合いはともかく表現活動のプログラムはそれまでと変わらずできるのか、そもそも基本的に密な状態になるキャンプが開催できるのか、状況が全く読めない、不安ばかりが募る中で準備をしていたときでした。
 奥山監督のことは全く知らなかったのですが、その真摯な態度に好感を持ち、快諾しました。サマーキャンプ前日に、コロナ感染者過去最多を記録する中、キャンプを予定どおり開催しました。奥山さんは、サマーキャンプの2日目から参加し、話し合いの場面、表現活動の場面などに静かに参加されました。僕たちも、さりげなく紹介しただけだったので、特別扱いはなく、一参加者として、吃音親子サマーキャンプの場になじんでおられた印象をもっています。全体で、表現活動のエクササイズをしているときも、その場におられたので、リーダーは、つい指名してしまい、奥山さんも、流れに乗って一緒にエクササイズに参加されていたと、後で聞きました。
 それから約2年、今年に入ってだったか、昨年の秋から冬にかけてだったか、奥山さんの関係者から電話があり、「映画のエンディングに、協力者として、名前を入れたい。伊藤伸二と、日本吃音臨床研究会の両方を入れるが、それでいいか」との問い合わせがありました。OKをして、それからまたしばらく時が過ぎました。
 そして、先日、新聞記事で、映画についてのお知らせを見つけました。
 映画のタイトル「ぼくのお日さま」は、映画の主題歌でもある、ハンバートハンバートが歌う歌、「ぼくのお日さま」からとられたそうです。この歌は、以前、話題になり、知っていました。どもることを歌ったものです。
 奥山さんと吃音親子サマーキャンプの出会いが、吃音の少年の描写にどんなふうに反映されているのか楽しみです。

 「ぼくのお日さま」の公式サイト https://bokunoohisama.com

 映画『ぼくのお日さま』今秋、公開決定。
『僕はイエス様が嫌い』の奥山大史さんが監督を務め、池松壮亮さんが出演、ハンバート ハンバートさんの代表曲と同名タイトルの映画『ぼくのお日さま』の公開が決定しました。
映画『ぼくのお日さま』は、雪の降る街を舞台に、吃音をもつホッケー少年のタクヤと、フュギュアスケートを学ぶ少女さくら、そして元フィギュアスケート選手でさくらのコーチ荒川の3人の視点で紡がれる物語。
奥山監督が子供の頃に約7年間フィギュアスケートを習っていた経験から、「雪が降り始めてから雪が解けるまでの少年の成長を描きたい」と本企画をスタート。本作の主題歌「ぼくのお日さま」は、ハンバート ハンバートさんが2014年に発表したアルバム「むかしぼくはみじめだった」に収録された楽曲で、監督がプロットを考える中でこの曲と出会い、その歌詞を聞いた途端、「主人公の少年の姿がはっきり浮かび、物語がするすると動きだした」といいます。

一方、本企画をスタートさせる前後に、奥山監督が総監督を務めたHERMESのドキュメンタリーフィルム「HUMAN ODYSSEY 」で池松さんと撮影を共にした際、奥山監督が池松さんの佇まいに魅せられ、この物語に大人の目線を加えたいと思ったことから「夢に敗れた元フィギュアスケート選手のコーチ」という池松さんが演じるキャラクターが生まれました。

また、デビュー作『僕はイエス様が嫌い』に続き、本作でも監督、撮影、脚本、編集を手がける奥山監督は、スケートを滑りながら、カメラを回しています。
本作は、釜山国際映画祭2022 で行われた世界40カ国288企画からなる「Asian Project Market 2022」で「ARRI アワード」 を受賞しているほか、これまで濱口竜介監督、三宅唱監督らの作品を世界へ紹介してきたフランスの会社シャレードによる海外セールスも決まっており、黒沢清監督や深田晃司監督の作品をフランスで公開してきたアートハウス・フィルムズの配給により11月にフランス公開される予定です。

あたたかくて懐かしい。でも、誰も観たことがない“新しい”日本映画が誕生しました。映画『ぼくのお日さま』は《今秋》テアトル新宿、TOHOシネマズシャンテ ほかにて全国公開となります。

主題歌を歌っているハンバートハンバートのコメント
《佐藤良成さん コメント》
 奥山監督から最初手紙をいただきました。今作ろうとしている映画は、私の曲の中の「ぼく」から物語がふくらんだもので、主題歌にもその曲「ぼくのお日さま」を使いたいと。脚本や前作も拝見して、彼と是非仕事したいと思い快諾しました。出来上がった作品は、どのシーンのどのカットも実に美しい光と色で、こんな絵を撮る奥山監督は恐ろしい人だなと思います。自分の曲がこんなにも素晴らしい映画となって生まれ変わるなんて、本当に幸せです。

《佐野遊穂さん コメント》
 とにかく映像の美しさが印象的でした。どこを切り取っても儚さが漂っていて、監督のキャラクターがそこに一番現れてるように感じました。この楽曲の「ぼく」や、タクヤ、荒川コーチ、それぞれに小さな救いがあったように、この映画がまた誰かのお日さまになれば嬉しい事だと思います。
(「ぼくのお日さま」公式サイトより引用)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/05/17

吃音の問題と展望〜第1回吃音問題研究国際大会でのグレゴリー博士の基調講演 3 〜

 1986年夏、京都で開いた第1回吃音問題研究国際大会でのヒューゴー・グレゴリー博士の基調講演のつづきです。今日で最後です。
 治療室の中で流暢性が得られたとしても、それを日常生活に生かすことの難しいことを強調しています。それは、どのような治療法でも同じことです。だったら、なぜ日常生活を治療の場にしてしまわないのか。日常生活で、どんどんどもっていくことを奨励しないのか。その方向転換をしないのか、僕には不思議でなりません。いまだに、治療室での治療をアメリカ言語病理学は手放せないのです。
グレゴリーと伸二 国際大会の20年前の1965年夏、僕は民間吃音矯正所、東京正生学院の合宿生活の30日間の合宿生活の3日目、そのことに気づきました。「どもらずに流暢に話す」も「流暢にどもる」も訓練で決して身につくものではないと確信しました。だから「吃音を完全に治す」も「少しでも改善する」も諦めた僕は、東京正生学院の「どもらずに話す」を身につける方法に逆らって、これまでと同じように「どもって、どもって、どもり倒してやろう」と決心しました。睡眠時間以外の全ての時間をどもることに使えるのですから、30日間の東京正生学院での寮生活はありがたいことでした。おまけに仲間がいるのです。毎日が楽しくて楽しくて、お祭り騒ぎのように「どもり倒す」生活を送れました。おかげで、これまの「どもれない身体」から「どもれる身体」に変わりました。あんなに苦しかった、どもりが治らないと僕の将来はない、絶対に治さなければならないと思い詰めていたのがウソのようです。
 家がとても貧しくて、新聞配達店に住み込んで始まった大学生活。新聞配達以外はできないと思い込んでいたのが、30日間の寮生活中に安いアパートを借りて、東京正生学院を退所してからは、ありとあらゆるアルバイトをしました。どんなに苦しくても30日間は我慢しました。そのアルバイト生活の中で、どもっていても、どんな仕事にも就けると確信しました。
 そして、その秋、グレゴリー博士がふれている、セルフヘルプグループ、言友会を創立したのです。その後も僕たちはどんどん進化しています。ところが、アメリカ言語病理学はいつまでも変わらないままです。どうしてなんだろうと、いつも不思議でなりません。
 その後、僕が、グレゴリー博士のように、世界大会で基調講演をするようになるとは、この第1回の世界大会を開いたときには思いもしませんでした。
 自分のことを書いた文章の後ですが、グレゴリー博士の講演の最後の章を紹介します。

吃音の問題と展望
     ノースウェスタン大学 ヒューゴー・H・グレゴリー(アメリカ)

4 吃音に取り組むにあたっての諸注意
*易から難へ
 吃音の治療における大きな課題に、キャリオーバーがあります。治療機関で一旦変化させたものを徐々に実生活に移していくことです。治療機関において話し方を変えることはそれほど難しいことではないのですが、それを日常の生活の場に移すというのは、大変難しいことです。このキャリオーバーを果たすのに、重要なことがあります。それはまず、易しい場面から経験し、徐々に難しい場面に移すプロセスを踏むことです。話しやすい場面や状況から徐々に難しい場面へと移っていく計画を立てます。まず易しい場面を設定し、ロールプレイをし、十分に準備してから、現実の場に出ていきます。難しい場合は、初めは治療者と一緒に、またはセルフヘルプグループの仲間と一緒に、最後は独りでも出ていけるようにします。この段階を経ないで、つまり中間のプロセスをとばして一気に難しい状況に臨みますと、おそらく失敗してしまうでしょう。成功の確率が高いようにプランを立てる必要があります。
 このように易から難へと徐々に取り組みますと、これまでできそうにないと思っていたこともやればできるようになってきます。私も以前なら尻込みしていた公けの場で思い切って演説をしてみました。予想どおり、どもりました。しかし、どもりながらもとにかくやり終えることができました。このように自分にとって非常に難しい状況の中で話すことができますと、かつて難しかったことが易しくなってきます。公けの場でどもりながらも演説ができたことによって、相手が2〜3人のときの会話、クラスでの発表などがずいぶんと簡単にできるようになりました。そして、そのうちに大勢の人の前で立って話すこともできるようになったのです。

*最初は集中的に取り組む
 恐怖の感情を伴う、吃音のような問題を扱うのは大変難しいことです。しかし、私たちがそのような問題を持っていても、現実の自分を変えたり、より良く生きたいと思うなら、そのために行動を起こさなくてはなりません。できれば、ことばの専門家の手助けを受けるのが望ましいでしょうが、自分ひとりでもできます。
 恐怖や不安をもった行動を十分変化させるには、最初はかなり集中的な取り組みが必要です。しかし、集中的にプログラムに取り組んだとしても、それで終わりということではありません。そこで放置してしまいますと、あまり効果は期待できません。たとえば専門機関などでの非常に集中度の高い訓練期間があって、その次に集中度が少し下がって、そして最後の頃にはほんの少しという形に移行させていきます。そして、治療期間中に変化させた行動や態度を安定、持続させることが大切です。会話というのは、その人の全人格と切っても切り離せないものです。話し方を変えているときには、私たち自身を変えているのだということができるでしょう。この変化を自分自身に完全に取り組むには非常に長い時間がかかります。あせりは禁物です。

*治療者の選び方
 吃音の治療は、言語だけに限ることはできません。人間に対する取り組みでなくてはなりません。人間の問題、その人の感情など、全体として扱わなければなりません。ですからその人の感情、考え方を十分に理解し、それに対する処置を考えなければなりません。言語面だけに注意を集中しますと、その人への注意や関心がおろそかになってしまいます。吃音に悩む人は、自分に対する人間としての関心、理解を示してくれる人を有難いと思います。しかし、吃音の症状には関心を示しても人間的な関心を持ってくれる人はあまり多くいません。もし、治療者と一緒に吃音と取り組む場合には、治療者には、そういう人間的な関心を持つ人を選ぶ必要があります。
 他の諸外国と比較して、アメリカにはスピーチセラピストが大勢いますので、治療者の選び方も重要な問題になってきます。シカゴ等大都市圏の吃る人のセルフヘルプ・グループでの話し合いで、この点はよく論議されます。そこで、どのような治療者がよいか、話してみましょう。
 吃症状のみに注意や関心を示さない人を選ぶことが大前提で、次には、以下のようなことがポイントとなるでしょう。
・吃音のケースをたくさん扱っている人
・独自のプログラムを開発するだけの意欲がある人
・自己教育の機会に、積極的に、継続的に参加する意欲のある人
 たとえば、このような吃音の国際大会やワークショップなどに参加し、絶えず努力して吃音問題に対する理解を深めようとしているような治療者を選ぶべきです。

5 セルフヘルプグループ
 私は、この講演の初めに、学童にとっても成人にとっても、「自分の吃音は自分が責任を持って取り組む」という自助努力が、最終的に最も重要なことだと述べました。つまり、私の知識、また経験をもとにしてあなたにアドバイスすることはできます。しかし、治療の本当に大変なところはあなたの手の中にあります。あなたの肩にかかっているのです。さらに大切なことは、治療機関での治療が終わってから、それを実生活に移していくための活動が必要だということです。
 セルフヘルプグループは、この活動、つまり吃音者が治療機関から現実の日常生活の様々な場面に移していくことに対して援助し、さらに自分が自分自身の吃音問題解決への取り組みに責任を持つということを絶えず指摘していくものでなければなりません。私自身も、このようなセルフヘルプグループに所属していたことがあります。私は、セルフヘルプグループは、このように専門家のもとでの治療という形態から自分自身が自分の治療者になるという移行を実現するのに大きな助けになると思います。
 私は、現状では、セルフヘルプグループに、専門家が助言者として一緒に参加する方がよいと思っています。吃音に悩む人が抱えている問題を明らかにし、それに対処していくためには専門家の力が必要だと思うからです。しかし、セルフヘルプグループがどんどん増え、自分たちで問題を解決していく力をつけていけば、専門家の役割は減らしていくことができるでしょう。(「スタタリング・ナウ」2005.2.20 NO.126 より)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/05/16

吃音の問題と展望〜第1回吃音問題研究国際大会でのグレゴリー博士の基調講演 2 〜

グレゴリーと伸二 1986年夏、京都で開いた第1回の吃音問題研究国際大会でのヒューゴー・グレゴリー博士の基調講演のつづきです。抑制法と表出法、そしてその統合の流れが紹介されます。吃音の治療の歴史がまとまって分かる、貴重な講演です。ただ、吃音の流暢性には関心がなく、治す努力も、改善の努力もしていない僕たちとは、随分違いますが。
 舞台の上で、独特のイントネーションをつけて訓練の実際を見せてくださったグレゴリーさんのことを思い出します。

吃音の問題と展望
     ノースウェスタン大学 ヒューゴー・H・グレゴリー(アメリカ)

3 吃音治療の実際
*はじめに
 私は、1979年に「吃音治療をめぐる論争」という本の中で、吃音治療の歴史と論争を紹介しました。
・吃音を治してから流暢に話すか
・どもりながらも流暢に話すか
 この2つのどちらをとるべきか、長い間、論争が続いてきました。
 前者は、いかに吃音を抑えるかを目的にしています。どもることを抑え、それによって流暢な話し方を確立し、吃音を治療するという方法です。いわゆる抑制法といわれているものです。後者は、どもることを奨励し、どもってもどんどん話すようにし、どもった状態を客観的にとらえ、どもり方を徐々に変えていく方法で、抑制法と対比し、表出法ともいわれるものです。

*抑制法
 どもることを抑え、流暢に話すアプローチは、1920年〜1930年代によく使われました。例えば、私が実際に吃音矯正機関で体験したのは、次のようなものです。
 腕を動かしながら話す方法ですが、腕を8の字に振りながら「私の名前は、ヒューゴー・グレゴリーです。私はアメリカのイリノイ州に住んでいます」と話す練習をします。それから徐々に腕の動かし方を小さくしていき、最終的にはポケットに手を入れて8の字をかきます。
 しかし、矯正所でこの方法でどもらずに話せても、治療を受けて家に帰りますと効力が失われます。ポケットの中で8の字をかく手がつっかかってしまうということが起こるのです。
 もうひとつは、シラブル(音声)を伸ばすものです。「アーイ、アーム、グーレーゴーリー…」
というように、音をゆっくりと伸ばします。
 これらは注意転換法と呼ばれ、腕を振ったり、極端にゆっくり話したり、エーとかアノーとかの音を挿入したりすることによって、どもるかもしれないという不安や恐れから注意をそらせ、緊張をとき、吃音を抑制するという方法です。

*表出法
 伝統的な抑制法に対し、ブリンゲルソン、ウェンデル・ジョンソン、チャールズ・ヴァン・ライパー等、アイオワ学派の人々は、「この方法は、吃音者に"つえ"を与えるにすぎない。つまり、その場しのぎでしかない。また、急速に吃音が治っていくということは、突然の再発の前兆である」と批判しました。「どもってはいけない。不自然な話し方でも、またどんなことをしても、とにかくどもるのだけはやめなさい」というこの方法は、吃音の中心問題であるべき「どもることへの恐れや回避行動」を減らすどころか、強化することになると主張しました。
 彼らは、「どんどんしゃべってどもりなさい。しかし、はた目に見て異常だと思えるどもり方をできるだけ少なくして」と、どもってでも話すことをすすめました。彼らは、『どもることへの恐れ』を吃音問題の中心だと考えていましたので、どもることを隠すことより、吃音をオープンにすることによって、その恐れを減らそうとしたのです。さらに吃音から注意をそらすというのではなく、むしろ吃音への注意を喚起して、どうしてどもるのかを自分で観察し、それを徐々に改善し、変えていくことをすすめました。
 吃音があったとしても、どもりながらでも、話した方がよい、しかし、もう少し楽に話せる方法はないかということを考えたのです。どもりながら話していく中で、吃音への恐れを小さくしていくと、結果的に流暢に話せるようになるというのです。
 具体的に言いますと、こういうふうに「(つまって)ジャパン」となってしまうのを、自分のしている行動を分析し、少し発語の仕方を変えます。「ジャジャ、ジャ、ジャパン」と言ってみます。さらにこれをもっとゆっくり気楽に「ジャー、ジャー、ジャー、ジャパン」というふうにするのです。そのように話していますと、次第にどもることへの恐れが小さくなり、だんだんと吃音をいい方に変化させられるという安心感が出てきます。

*抑制法と表出法の結合
 伝統的な「どもることをすぐやめろ」という抑制法の厳しいやり方に対する反動として、いわゆる表出法が出てきたわけですが、パーキンス、ライアン等は、伝統的な抑制法とは少し違う方法をとっています。
 例えば、スピーチ・ジェスチャーという身振りを交えたもの、DAFなどを使う方法です。これによって直接、流暢さを産み出そうということです。
 ところが、このような方法でも最初は、流暢になったとしても、それはなかなか持続しません。流暢に話せるようになることは、それだけだったら決して難しくありません。長期にわたって持続させること、これが大変難しいのです。ですから、直接、流暢さを産み出そうとする方法は、練習を常に継続して行わなければならないことになります。
 そこで「どもりながらもどんどん話す」というアプローチが出てきたわけですが、それがあまり強調されますと、吃音ばかりが目立ってしまいます。正常なスピーチの特徴的なものが十分に引き出せなくなってしまいます。
 ですから私は、2つのアプローチ、つまり流暢にどもるという方法とどもらずに話すという方法の良いところを取り入れ、結合する方法がよいと思っています。

*逆説を受け入れる
 2つの方法を結合していくと、逆説が生まれてきます。それは、知っていなければならない逆説です。「どもりながらどんどん話していく」というアプローチには吃音を受け入れることが前提となっており、これは大変に重要なことですが、これと流暢さを獲得するということは、逆説的な関係にあります。要するに矛盾します。吃音を受け入れ、認めているのに、流暢さが欲しいといっているようで、自分の中で矛盾を起こしているような気がしてきます。認めているのになぜ流暢になりたいのか、ということになってしまうからです。
 しかし、これはどもる人自身が、この2つのアプローチを十分に理解し、また矛盾があるということも自覚し、認めなければなりません。

*私の方法
 この20年間、私たちはいろいろな治療法を検討し、開発してきました。2っを結合したやり方といっていいでしょう。
 最初から流暢な話し方を教えるのではなく、どもっている状態を観察し、徐々に軽くして、それを変化させていくことをします。
 どもっている状態を実際に実演するとき、緊張した声門の破裂とか、突飛なプロソディなど吃音のいろいろな特徴を検出し、緊張をとき、そして繰り返しを少なくし、伸ばす部分を少なくしていくことを目指します。最初にゆっくり、楽に話すことを身につけ、単語と単語をつなぎ合わせて、一つの節にするようにします。さらに節と節の間に十分な休止(ポーズ)をとります。この話し方の習得によってだんだんとスムーズな話し方になっていくわけです。

*訓練の実際
1)話し方の特徴の検出
 どもる人とセラピストが一緒に、どもる人が話したテープを聞きます。何度も再生して聞き、どもり方にどんな特徴があるか、検出していきます。
・最初のシラブルが繰り返される
・発語の直前に急な呼吸がある
・ことばの最初に、緊張からくる反復がある
・母音にブロックがある
 どもっている状態の特徴のリストをあげます。
2)吃音に対する態度
 吃音に対して客観的な態度を持つことは、非常に難しく、勇気を必要とします。しかし、これは、吃音の治療にとって不可欠のことです。
 どもる人は今までの人生で、ずっとある条件づけを受けています。どもって電話してはいけないと思い込んでいます。どもる場面やどもる語をいつも気にしています。しかし、こういうことが条件反射的に起きていることには、多くの人は気づいていません。ですから吃音という問題を机の上に出し合って共通の問題にしようじゃないか、お互い客観的な研究材料として取り扱おうじゃないかということを促すわけです。
 もちろん、これまで隠し、避けてきた吃音をオープンにしているわけですから、勇気がいります。徐々にオープンにしていくことが必要です。最初テープレコーダーを使って、互いのどもる声を聞き、共有していくのです。
3)逆式練習
 吃音治療法のひとつに、逆式練習法があります。意図的にどもらせて吃音を軽くしていく方法です。自分がどもったときの状態を観察し、それを模倣していくのです。
 まず、どもる人にとって言いにくい、どもりやすいことばを選び、自分で真似をします。自分が計らずもどもってしまうことばを今度は意図的にどもるのです。どもっている事実は同じでも、本質的には大きな違いがあります。
 どもるときの口の回りの緊張感、感情も含めて真似することによって、どもるときにとっている自分の行動を理解するのです。
4)緊張を50%ほぐす
 吃音者がどもるときに、どのように緊張しているかを、実際に自分がどもっているように意図的にどもることによって観察します。そしてその緊張をときほぐすことを学ぶのです。
5)ERASM
 イージー・リラックスト・アプローチを略して、ERASMといいます。私が取り入れている方法です。これまでお話してきたことをまとめの意味で再度繰り返して、ERASMを説明しましょう。
1.自分の吃音がどういう特徴を持っているか、テープを聞いて握む
2.自分のどもっているそのままの状態を真似てどもる
3.意図的にどもる練習をする
4.どもっているときの緊張状態を知り、それをときほぐすことを学ぶ
5.ことばの出だしをゆっくりとリラックスさせて発音する
 ここで大切なのは、逆式練習でどもったときの緊張状態と、ERASMを使ったリラックスさせた発音を比べ、その違いを自分のものにすることです。吃音は緊張し、発語の流れがバラバラになったときに起こるのです。どもらずに話せるようにすることは難しいので、より流暢に話すためには何らかの話し方の技術が与えられる必要があります。そのためには、どもったときに生じる不随意な発作の状態を研究し、どもったときに可能な限り、自発的にそれを模倣してみるのです。
 例をあげましょう。単語がいくつか組み合わされたもの、たとえば「バターつきパン」を「ブレッド・アンド・バター」とは言いません。最初に、ERASMを使い、「ブレッドウンバター」と言い、あとは自然の抑揚で続けます。スピーチ全体をリラックスさせるのです。
 ここで重要なのは、ERASMに取り組む態度です。中程度、重度の人が、逆式練習をし、ERASMを使って練習をした後、「これは自分ではないみたいだ」と思えることがあります。実際、話し方を変えると別の人のスピーチのように聞こえます。そこで、この変化を受け入れることが必要になってきます。そのためにビデオは有効な器材です。変化していくプロセスをビデオにとり、それをどもる人に見せます。「自分ではないみたいだ」と言っていた人が、自分の変化を受け入れてきます。変化した自分を不自然だと思うのではなく、受け入れるということは、吃音の受容と同様大切なことなのです。
6)時間のプレッシャーに耐える
 コミュニケーションには、時間のプレッシャーはつきものです。吃音者にはそれに加えて、一旦話がとぎれるともう一度話し始めることができないのではないかという不安と恐れがあります。そのために途中で止めないで急いで話してしまうという傾向があります。
 そこで、時間のプレッシャーや、不安や恐れに対抗することを考えなければなりません。それには、相手に即座に反応しないで反応を少し遅らせることをするのです。心の中で「いち、にい」と数えてから相手に反応すると、時間のプレッシャーが弱められます。沈黙の時間を経験することに抵抗がなくなります。私は「グレゴリーさんは、ずいぶんゆっくりとした話し方をしますね」とよく言われます。私はゆっくりと話しながら、速く話さなければならないというプレッシャーを自らにかけない努力をしているわけです。同時に相手が話しているときには十分に時間を与え、相手にプレッシャーをかけないようにしています。自分も待ち、相手にも待たせるということです。
7)非流暢性の大切さ
 次に大切なのは、自らすすんで非流暢性を取り入れることです。このことはすすんでどもるとか、逆式練習のようにどもるのとは違います。ことばが改善されてきますと、非流暢に過敏になり、流暢になりすぎてしまうことがあります。吃音でない人にも、非流暢さはあります。立板に水のように流暢に話す人はごくまれで、多くの人は「あのー」とか「えー」とかの間投詞は入れるものです。それをときどき使うのです。そうすると非流暢性に対する過敏性をやわらげることができます。
 どもることもあれば、意図的に非流暢に話すこともできるようになれば、本当にどもったとき、あまりそのことに敏感にならずにすみます。
 私は、今こうして皆さんの前に立って話していますが、話す前、つまり壇上に立ったときは恐怖を感じ、本当にあがっていました。
 吃音の思い出は、今でも私にこびりついています。そこで考え、非流暢な話し方を話し初めにしてみたわけです。わざとどもってみると、吃音をあまり意識しないで話すことができます。15年前に分かったことですが、セラピーが終わった後、しなければならないことは、ときにはわざとどもることを生活の中で使っていくことの必要性をとくことです。その他、話し方の速度を変えたり、声の抑揚や声の大きさを変えることも身につけます。これらの話し方の技術をより良く、幅広く改善していくことによって、より良い話し手になることができます。つまり、柔軟性を身につけるのです。これによって話すことにますます自信がついてきます。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/05/15

吃音の問題と展望〜第1回吃音問題研究国際大会でのグレゴリー博士の基調講演〜

グレゴリーひとり 1986年夏、京都で開いた第1回の吃音問題研究国際大会で、基調講演をして下さったヒューゴー・グレゴリー博士と、どもる子どもの指導についてワークショップをして下さったイギリスのレナ・ラスティンさんが、2004年秋から冬にかけて相次いで亡くなられました。
 グレゴリー博士は1985年から2001年までノースウェスタン大学で教えるとともに多くの吃音ワークショップを行い、吃音治療に関する指導的な役割を果たし、レナ・ラスティンさんは、吃音治療のパイオニアであり、1993年、ロンドンに、どもる子どものためのマイケル・パリンセンター設立のために情熱を注がれました。
 1986年8月の京都での国際大会の、グレゴリーさんの基調講演を紹介します。アメリカの吃音事情を知ることができます。(「スタタリング・ナウ」2005.2.20 NO.126 より)


吃音の問題と展望
     ノースウェスタン大学 ヒューゴー・H・グレゴリー(アメリカ)

1 はじめに
 私のどもる人間としての経験、35年間、どもる人や子どもとかかわってきた言語病理学者としての経験からお話をします。
 まず、学童の子どもにとっても、成人にとっても「自分の吃音は自分が責任を持って取り組む」という自助努力が、最終的に最も重要だということを強調したいと思います。そのことを理解させることが、臨床家としての務めでもあります。私自身が私自身の吃音問題にどのように取り組み、そこで何を学んだか、そして私が実際に実践している方法のお話を致しましょう。

2 私の体験
*初めての治療経験
 私は15才のとき、初めて吃音の治療を受けました。アンカーサスにある私の家から2400キロメートル離れたところに、その吃音矯正所はありました。その施設で母音を長く引き伸ばしたり、子音を軽く発音しながら話すことを教わりました。この練習によって、私は安心感を得、以前と比べ、随分楽に話せるようになりました。これこそ、私を長い間苦しめてきた吃音から解放してくれる方法だと思いました。また熱心に教えられたとおり練習すれば、吃音の治療は短い間、長くても1年や2年で終わるだろうとさえ思いました。
 しかし、家に帰って2、3ケ月もたたないうちに、私はまたどもり始めました。次の年、またその矯正所に行き、もっと楽に話す訓練を受けました。
 当時、私は自分の吃音を「抑制」することばかりに熱中し、どもりたくない一心で努力しました。ところが、話し方にばかり意識を集中することがかえって大きなマイナスの作用を及ぼすことに、その当時の私は気づきませんでした。自分がなめらかに話せるか、そうでないか、ばかりに敏感になり、ずっと吃音を隠し続けました。そして、吃音を隠そうと思えば思うほど、どもることへの恐怖心が増していきました。そうすると、少しでもどもるとパニックに陥ることが往々にしてありました。それでも、どうすればこの恐怖から逃れることができるか、さっぱり分かりませんでした。
 このままいくと泥沼に落ち込んでしまうと思った私は、自分の吃音に対するこれまでの態度を振り返ってみました。その中で、これまで話すことにのみ集中しすぎて、吃音に対する態度に関するセラピーをおろそかにしていたことに気づき始めました。どもっているときには、いかに自分自身に対する評価が厳しく、まるで大変なことをしでかした失敗者であるかのように自分をみなしていることが分かってきました。

*ウエンデル・ジョンソンから学んだこと
 後に、大学に進んでから知ったウェンデル・ジョンソンの考え方が、私にとって大いに役立ちました。ジョンソンは、「どもる人間か、それともどもらない人間か、で自分を二分評価すべきではない」と言っていました。ジョンソンのおかげで私は、「話すときに、ときどきどもるひとりの人間」として自分を考えることができるようになりました。さらに、吃音そのものや吃音に対する態度などは、ある程度の時間をかけて変化していくもので、今、その変化の中に自分はいるのだと考えるようになりました。
 その過程は、次のような段階をたどって変化していきました。
 どもったときに自分が何をしているか考えてみる→話し方を変えてみる→変えてみてどうだったか、再び考える→その上でさらに話し方を変えてみる
 もし治療を受けている人であれば、治療者と一緒になって考え、このプロセスの中に入っていけばいいのです。こういうプロセスをたどって徐々に行動を変えていくのです。もちろん、それは吃音に対する態度の変化も含みます。

*自分が考えるほどは他人は気にしていない
 これらの変化のプロセスの中で、私はこれまでの人生で、吃音による影響をあまりにも意識しすぎてきたのではないか、あるいは他人が私の吃音をどうみるかということを意識しすぎてきたのではないかと考えるようになりました。他人は、自分が考えているほどには、私がどもることを気にしていないことも分かってきました。人は、吃音に限らず、人生において、何かを意識する、気にする、という敏感な点が必ずあるはずです。そして誰しもがその敏感な点に集中する傾向があるようです。その態度そのものを点検し、より正しい態度がとれるよう、自己開発のプログラムを立てる必要があります。
 私の親戚にベスというおばさんがいますが、彼女はとても神経質です。私は彼女の前に出ると吃音がひどくなりました。反対にジョーというおじさんは物静かな人で、彼の前では比較的スムーズに話ができました。誰でもジョーおじさんのようであればいいなあと思いましたが、それは無理なことです。そういう人ばかり捜して歩くわけにはいきません。そこで私は、自分自身を変えることを考えました。つまり、相手が気楽になれるように、自分がなればいいのです。私たちが自分自身の吃音に敏感にならなければ、周りの人たちはもっと気楽になり、さらにそれがどもる人も気楽にさせ、どもることも少なくなります。このように、悪循環とは反対の方向に自分をもっていくことが必要だということが分かってきました。

*意図的にどもることを知る
 私が自分の吃音に取り組み始めた頃、どもることへの恐怖をどう処理すればよいか分かりませんでした。大学に進んで、ヴァン・ライパーの著書で、意図的にどもることを知りました。そこで、わざと目立ったどもり方をしたり、いろいろなどもり方を試みました。どもっているという事実は変わらなくても、どもるパターンは変えられることを学びました。「ここーこれ、あーれ、すすする」といった、半ば遊びのようにわざとどもって話をしました。このように意図的にどもることによって、私のどもることへの恐怖は徐々にやわらいでいきました。大学1年生のときに、自己紹介ができるよう、この意図的な吃音を使って取り組みました。
 吃音に悩む人であれば誰しもがそうであるように、私も自己紹介が大の苦手でした。自己紹介のある場に出ていくのは恐怖そのものでした。その場から逃げることもたびたびありました。大学1年の頃、どもる人のセルフヘルプグループに入っており、毎月曜日に夕食会がありました。そのときは必ず自己紹介をすることになっています。私はいつも「ヒューゴー…」となり、ヒューゴーの後がどうしても出てきませんでした。そして、ヴァン・ライパーの意図的な吃音を知り、それをやってみようという気になりました。ある日の夕食会の席で、「ヒューゴー、グレ、グレ、グレゴリー」とわざとどもってみました。その後、そのようなどもり方をしようと決意したおかげで予期不安や恐怖心がなくなりました。1年ぐらいたったでしょうか。自己紹介をするとき不安や恐怖がなくなり、自己紹介をすることを決して避けなくなりました。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/05/14

矛盾を受け入れる

 どもってもいいと吃音を認めているのなら、つまり吃音を受け入れているのなら、なぜどもり方を変えようとするのか、単純に考えれば矛盾が出てきます。そのことを矛盾と認識した上で、その矛盾を受け入れようと提案したのが、1986年、京都で開催した第1回吃音問題研究国際大会で基調講演をしたヒューゴー・グレゴリー博士でした。
 矛盾ということばをあえて出した考えは、新鮮で興味深いものでした。僕たちも、どもることは決して悪いものでも劣ったものでも、まして恥ずかしいものでもないと主張していますが、どもっている自分を受け入れながら、もしどもり方を変えたいなら変えてもいいのではないか、とは考えています。でも、それは、アメリカ言語病理学のいう「楽にどもる」とは全く違うものですが、その違いをことばで説明することの難しさを感じています。
 今日は、「スタタリング・ナウ」2005.2.20 NO.126 の巻頭言を紹介します。グレゴリー博士が亡くなられたと知り、懐かしいお顔や姿を思い浮かべながら書いたものです。

  
矛盾を受け入れる
                    日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 「ドドドドーン、ドドドドーン」
 吃音だけの共通項で京都に集まったどもる人、吃音研究者、臨床家。ウェルカムパーティが最高潮に達したとき、演奏された和太鼓が参加者にも開放された。一番に太鼓に向かっていったのがアメリカの吃音研究者、ヒューゴー・グレゴリー博士とイギリスの吃音臨床家、レナ・ラスティンさんだった。ふたりは、ドンドンドドドンというどもる音にも似た連打を愉しんでいた。さよならパーティのときもハッピを着て盆踊りを楽しんでいたふたりの姿がとても強い印象として残り続けている。
 1986年夏、京都で私が大会会長となって世界で初めて開かれた国際大会。吃音にかかわる多くの人々は、おそらくこのときが来ることを夢みていたことだろう。この実現を大いに喜び、からだごと表現していたふたりだった。
 ヒューゴー・グレゴリー博士とレナ・ラスティンさんのおふたりが、昨年続いてお亡くなりになった。ひとつの時代が終わったような寂しさを覚える。
 グレゴリー博士は大会の基調講演者として、レナ・ラスティンさんはどもる子どもの指導についてのワークショップを担当し、さまざまな場面で積極的に発言していた。
 私たちが開いた第1回吃音問題研究国際大会の意図した「研究者、臨床家、どもる人たちが、互いの体験や実践・研究を尊重して耳を傾け、共に歩む」という姿勢にとても共感して下さっていた。
 第2回大会をドイツのケルン市で開いたときも、グレゴリー博士は参加し、日本から参加した私たちにいつも親しく話しかけ、ドイツの大会と比べて、いかに京都の大会がすばらしかったか、どもる人たちや吃音関係者に意義深いものであったかということを話されていた。だから、その後、第3回サンフランシスコ大会へと引き継がれるにつれ、吃音研究者、臨床家が対等の立場で協力し合うという傾向が薄れていくのをとても残念がっておられた。実際、ドイツの大会では、シンポジウムの公開の場で、臨床家とどもる人のセルフヘルプグループとの厳しい対立が見られた。サンフランシスコ大会では、吃音研究者や臨床家がほとんど関われなかったことを強く嘆いておられた。第1回の京都大会をひとつの理想的なあり方として、グレゴリー博士はもっておられたのだろう。
 それでも、京都大会の経験が生かされ、吃音研究者・臨床家はIFA(国際吃音学会)を、どもる人々はISA(国際吃音連盟)を設立し、このふたつの世界的な組織は協力関係を保っている。これはグレゴリー博士の願いであった。
 京都の講演の中で、特に印象に残ったのは、「矛盾」についてだ。流暢に話す、つまりどもらずに話すという流れと、流暢にどもるという論争の中で、その統合を強く訴えていた人だった。吃音そのものを認めた上で、どもり方を変えよう、これは、チャールズ・ヴァン・ライパーがずっと主張していたことだが、グレゴリー博士も同じ立場だった。しかし、そうすると、どもってもいいと吃音を認めているのなら、つまり吃音を受け入れているのなら、なぜどもり方を変えるのか、という矛盾が当然出てくる。そのことを指摘した上で、グレゴリー博士は、その矛盾を受け入れようと提案する。それは、矛盾を認めたことが新鮮で興味深いものだった。
 私たちは、どもることは悪いものでも劣ったものでも、まして恥ずかしいものでもないと主張している。そして、吃音を治す、改善するための努力はしない。しかし、どもっている自分を受け入れながら、もしどもり方を変えたい人がいるのなら、変えてもいいのではないかとも考えている。それは、グレゴリー博士の言う、流暢にどもるという限定された狭いものではなく、どもっている沈黙の状態も生かした、どもり方を磨くというものだ。
 この、吃音を認め、そしてそのどもり方に磨きをかけていくという発想は、矛盾したものにはならないと私は考えている。が、グレゴリー博士の、矛盾を矛盾として認め、それを受け入れるという発想もこれまでと違う素敵な発想だと思う。
 第一回吃音問題研究国際大会から19年たった。
 あの大会でひときは輝いていた、お二人に感謝し、冥福を祈ります。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/05/13

10冊運動のお願い

 今日は、「スタタリング・ナウ」2005.1.22 NO.125 の巻頭言を紹介します。2005年のこの文章の中でも、僕は、時代は変わったと書いていますが、それから19年、またまた時代は変わりました。10冊運動とは、今の時代にはとてもできそうにないことをお願いしていたんだと、僕自身、とても懐かしく読んだ文章を紹介します。
どもりと向き合う 一問一答 表紙 ここで紹介している「知っていますか? どもりと向きあう一問一答」は、2004年に出版しました。多くの版を重ねてたくさんの人に読んでいただきましたが、絶版となりました。何でも、手軽にインターネットで調べられる時代です。ページをめくり、活字を読むことは、あまり流行らないのかもしれません。でも、僕は、本から情報を得ることも大切にしたいです。本を手に取って読んで欲しいとの僕の思いがあふれています。
 先日、ドラマ「舟を編む」を見ました。辞書づくりについて描かれていました。ことばを大切にすること、紙のもつ触感、インクの匂いなど、本づくりに通じるものを感じました。
 「どもりの相談」も「知っていますか? どもりと向きあう一問一答」も絶版ですが、そのほかにも、僕はたくさん本を書いています。ホームページから検索してみてください。興味がもてた本から読んでいただければうれしいです。
 今も、吃音への正しい理解を広げるため、できることを続けていきます。

10冊運動のお願い
                   日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 「そちらは吃音ホットラインですか?」
 不安そうな第一声の電話が、私の開設している吃音ホットラインに毎日全国からかかる。成人の相談だけでなく、中学生や高校生、どもる子どもの親、児童相談所などの相談機関からの問い合わせも多い。インターネットが普及していなかった頃は、新聞やテレビで紹介された直後はたくさんの問い合わせがあるが一時的だ。今ほど日常的で頻繁なものではなかった。どもり始めてまだ3日目という母親からの電話などに接すると、ホームページを開設していることの大きな意義を思う。
 その吃音ホットラインに、最近民間吃音矯正所に対する苦情や相談の電話が増えてきた。器具の購入を含めて40万円以上使ったが、全く治らない、インチキではないか、という問い合わせや、高校生の子どもが「どもりは必ず治る」という本を読んで、そこへ行って治したいと強くせがむが、信用できるのか、という親の問い合わせなどである。まるで消費者センターのようである。
 今から40年前の1965年、私がどもる人のセルフヘルプグループの設立に動いた頃は、民間吃音矯正所盛況の時代だった。私が通った東京正生学院には私が在籍していた4か月の間に、300人以上の人が集まっていた。都内にはその他数カ所類似の矯正所があり、大阪や九州にもあった。
 その後の私たちの活動は、ある意味、「どもりは治る」と宣伝する民間吃音矯正所との闘いでもあった。「治らなかった」人々がセルフヘルプグループに大勢集まり、なぜ治らなかったのか、そもそもそんなに簡単に治るものなのか、検討を加えていった。その結果、これまでなら、繰り返し通っていた人々が、二度と「どもりは必ず治る」という甘いことばにだまされなくなった。かっての吃音矯正所は経営が立ちゆかなくなり、多くの矯正所は規模を小さくするか、完全に消滅していった。
どもりの相談 表紙 1978年「どもりの相談」という小冊子は、300円という安さとコンパクトさも手伝って、3万部を完売した。ひとりが10部20部と周りの人に広めていった成果だった。これら地道な活動の中から、どもりは簡単には治るものではないという認識は広がり、セルフヘルプグループの積極的な活動や、長年のことばの教室の実践や、言語聴覚士の法制化によって、吃音は「治すことにこだわらない、吃音とつきあう」方向へと向かうものと希望的に考えていた。
 ところが、インターネットは民間吃音矯正所をを復活させた。インターネットのおかげで、吃音ホットラインで出会う人たちは増えたが、その一方で、矯正所的なるものも復活させてしまった。皮肉なことである。それだけでなく、以前よりはずっと高額で悪質な、サギ商法にも似た「民間吃音矯正所」が現れ、インターネットや宣伝用の自費出版の書物が出版されるようになった。地方の小さな町の図書館に「どもりは必ず治る」とする本が著者から寄贈されていたのには驚いた。宣伝はより巧妙になってきたのだ。
 これらに対抗するには、正しい情報を広げていくしかない。かっての『どもりの相談』が3万人に読まれたように、『知っていますか? どもりと向きあう一問一答』を広げていかなくてはならないと考え、ひとつの運動として、「10冊運動」をお願いしたい。
 昨年は新聞で紹介され、多くの人が「知っていますか? どもりと向きあう一問一答」を読んで下さった。また、全国難聴・言語障害児教育研究協議会や講演会、相談会などで、私たちは積極的に販売した。一冊1050円という定価の安さと手頃な文章量で読みやすさがあったからだが。半年で1200冊が売れた。
 吃音は周りの理解が不可欠である。吃音の当事者だけでなく、周りの人に読んでいただくことが必要になる。ひとりでも二人でも、周りの人に売っていただくか、プレゼントしていただくか、できるだけ多くの人にご紹介いただけないだろうか。10冊とはいかくなても、1冊でも広げていって下さることが、吃音への正しい理解を広げる、私たちでできる取り組みではなかろうか。
 私たちも全力を挙げて取り組みます。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/05/10

ふたりの心の旅路 2

 まさき君に続いて、もうひとり、あやみさんの体験を紹介します。
 宮崎県からの依頼に一番驚いていたのが、あやみさん本人でした。当日の発表原稿の後に、依頼を受け、準備しているときの様子を振り返った文章も載せています。僕の「どもっておいで」のことばに、ホッとして、自分らしく参加できたというあやみさん。今も、常連のスタッフとして、吃音親子サマーキャンプを大切に思ってくれています。

  
私の生きてきた道程
                        あやみ(大阪府)

仮の人生
 両親の話では、私は2歳頃からずっとどもり続けています。今になって、やっと辛い過去が宝物と考えられるようになりました。
 小学校、中学校で、どもることでからかわれ、いじめを受けながら毎日を過ごす中で、「どもる私は他の人と違う。違う私ではいけない」と考えていて、いつも「私はダメな人間で、生きている価値がないんだ」と自分が嫌いで自分を卑下していました。
 どもる私の言うことより、どもらない他の人の言うことが認められるのが当たり前と、本気で思っていました。どもりが治ってからが本当の私の人生だ。今のどもっている私は仮の私であり、仮の人生なら、何をがんばっても無駄だと思い、学校の勉強や人間関係の結び方などしなければならないことからいつも逃げていました。そうして私は、自分に自信が持てなくなりました。

吃音親子サマーキャンプとの出会い
 そんな私にも転機が訪れました。高校に入って間もない頃、母に連れられて、今も通っている大阪スタタリングプロジェクトの「大阪吃音教室」に行きました。そこは、「治らないどもりを治そうとするよりも、どもりと上手につきあっていこう」というスタンスでしたが、当時の私には、その言葉を受け止めることはできませんでした。
 その夏、日本吃音臨床研究会主催の『吃音親子サマーキャンプ』に参加しました。そこには、小学生の子どもから私と同じくらいの年齢の人も参加していて、私には、その人たちの笑顔がものすごく輝いて見えました。同じ吃音で、同じような辛く悲しい経験をしているはずなのに、どうして、そんなに笑って、キャンプを楽しめるのかとすごく不思議でした。キャンプでは話し合いの時間があり、初めて同年代の人の吃音の悩みや苦しみを聞きました。それまでは、周りにどもる人はいませんでした。キャンプで初めて同じ苦しみを分かち合える仲間に出会え、ほっとしました。キャンプに続けて参加する中で、人間不信が少しずつなくなっていきました。サマーキャンプに参加するようになって、大阪吃音教室の「どもりとつきあう」が少しは理解できるようになり、どもりを受け入れようと思えるようになりました。
 それは、「どもりをなんとか治したい」と長い間思っていた私にとって決して楽な道ではありませんでした。私も、サマーキャンプの友達のようにどもりながら、笑って毎日を過ごしたいと強く思っていたので、サマーキャンプの友達と、私との違いは何だろうと真剣に考えました。そして、思いついたのが、彼らはどもりを受け入れているんだ、ということでした。本当のところは今でも分かりませんが、当時はそう思いました。

どもっても言い換えない
 どもりを受け入れるには、どうしたらいいんだろうと考えた末、私が思いついたのは、どもっても言い換えをしないことでした。これまで、言いにくい言葉や表現は、言いやすい言葉や表現に言い換えていました。言い換えをしている自分は、自分の本当の気持ちを言っていないと思っていたので、「言いたいことはどれだけどもろうと、どもりながらでも言おう」と決めました。言い換えをせずに、どもりながらしゃべっている私は、どもりを受け入れていることになるんだと思っていました。
 それから数年後、あることで「私はどもりを受け入れているんだ」と思っていたことが、実は無理やり思い込んでいたということに気づきました。「言い換えしないことが受け入れること」と考えていたことが意味のない、バカな事をしていたんだとかなり落ち込んでいました。

仮の受容
 そんな時、日本吃音臨床研究会発行の機関紙の巻頭言で伊藤伸二さんが『仮の受容』ということについて書いている文章を読みました。この文章を読んでると、強がりでもいいから「どもりを受け入れている」と思うことが、吃音の受容につながるという文章をみつけ、今までの強がりながらどもりを受け入れていると思っていたのは無駄なことではなかったんだと、そしてこれまでは、『仮の受容』をしていたんだと気づき、ホッとしました。
 『仮の受容』を読んでから、言い換えはどれだけしても嫌にはならなくなりました。よくどもる私がどもりとつきあい生活するには、言い換えは必要不可欠なことだと思えるようになりました。どんな時も言い換えずに言うとは決めていても、実際多少は言い換えをしていたのですが、言い換えをせずにどもったら、そこで否応なく話が中断されます。日常会話では内容と同じくらいテンポも大事だと気づいたので、テンポが大事かなと思える場面では言い換えをしています。そして、大事な、その言葉がないと話が進まないとか、どうしても言いたいことは、言い換えをしなければいいと思っています。そんなこんなをしているうちに、「どもってもいいかな」と思えるようになりました。

どもりでよかった
 今は、毎日がとても楽しいです。でも、私がそう思えたのはつい、何年か前のことです。まだまだ悩まなくていいところで悩んだり、本当はしなければならないことを、やらなくていいように自分を納得させる方法が身にっいていて、それが邪魔をすることが多々あります。それでも、「大阪吃音教室」でたくさんの仲間に出会って、助けられています。
 吃音親子サマーキャンプに参加して、「どもりでよかった」と思えたことが私にとっての最高の財産で、幸せです。今では、そのキャンプにスタッフとして参加しています。キャンプで、どもりながら話している私をみて、「どもってもいいんだ」と私自身がかつてどもる大人をみて感じた事を伝えられたらいいなあと思っています。
 私はどもりそのものではないけれど、どもりがあってこその私だと思えるようになれました。このことがどもりを通じて得たものです。《発表原稿》

  宮崎に行って来ました
                          あやみ
 2004年11月5日、宮崎県精神保健福祉センターで行われた【第2回セルフヘルプセミナー】に、大阪スタタリングプロジェクトの会員として、体験を発表してきました。
 私が宮崎まで行くことになったのは、2月7日、大阪ボランティア協会で行われた【第15回セルフヘルプグループ・セミナー】に参加し、午前の部で私が発言したことを、宮崎でセルフヘルプ支援センターを立ち上げた方が聞いていて、4月中旬に体験発表とシンポジウム出席の依頼がきたのです。

 「あやみさんは、どもってるから宮崎に行けるんやで」「宮崎ではどもっておいでや」と言われたことで、胸のつかえがとれました。それまでは、「どもってもいい」という趣旨で活動をしていても、宮崎で思い切りどもったら、自分の言うことが伝わらない。できるだけどもらずにしゃべらないといけないと思っていました。「どもっておいで」はどもらないとしゃべれない私に、至極当たり前のことを思い出させてくれました。その言葉があったから、私はがんばれたんだと今振り返ってみても思います。
 予行演習のつもりの吃音ショートコースでは、ひどくどもって、予定原稿を最後まで読めませんでした。原稿を読んでいる私に、「読んでもいいが、前も向いた方がいい」「原稿は大きい字で印刷したら」など指摘をしてもらいました。
 宮崎でも最後まで読めない時のために、発表の内容を資料として入れてもらうことにしました。
 発表の当日、午前中は基調講演。午後からが親の会、本人の会、きょうだいの会、などの体験発表とパネルディスカッションでした。
 昼の休憩の時に、発表者全員が顔を合わせ順番を決めました。私は早く緊張から逃れようと思い、トップバッターで発表しました。
 初めて、大阪吃音教室や吃音ショートコース以外で発表します。セルフヘルプグループに関心のある人たちとはいえ、吃音を理解する人が前提ではない、大勢の前での発表にものすごく緊張しました。60名程が大きな会場にぽつぽつと分かれて座っていたのが幸いしました。視線を集中して浴びないし、前方を向いてしゃべり、右を向きながら会場の人達の顔を見ながらしゃべったこともあり、どもっても割とすぐに声が出てきて、手を振り回して随伴を使いながらしゃべる余裕も出てきました。
 予定の時間の20分を30分かかりましたが、発表原稿を全て読みきることが出来ました。発表原稿を読み切ったことで安堵と達成感が沸いてきました。この日のために、私は半年がんばったんだという達成感を味わいました。
 体験発表の後のパネルディスカッションでは、体験発表で会場の人が温かく聞いてくれた安心感からか、ほとんどどもらずに話が出来て、私としては、思い切りどもると想像していただけに、どもらなければそれはそれでちょっと残念な思いでした。私自身回答する予定外の質問にも、気がついたら手を挙げて答えていた自分には、正直驚きました。
 この発表の依頼を受けたときは、当日は何を言ってるのか分からないくらいどもる場面を想像していて、怖かったのですが、「どもっておいで」という言葉で、その想像を吹っ切ることが出来、又、そうならないためにも事前に準備をきちんとしたことが実を結んだんだと思います。こんないい経験ができたのも仲間のおかげです。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/05/09
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