伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2024年05月

どもる事実を認める

 昔はあまり気にならず使っていたことばが、使えなくなる、使わなくなるということがあります。吃音者、吃音児ということばがそうです。確かにどもってはいるけれど、どもっていることがすべてではないということからか、いつからか使わなくなり、どもる人、どもる子どもということばを使うようになりました。
 今日、紹介する巻頭言も、「受容」ということばを使わなくなったと書いています。「吃音の受容」というと、なんだか大層なことのように聞こえます。大阪弁の「どもってもしゃあない」「どもってもまあいいか」がぴったりくるようです。
 「スタタリング・ナウ」2005.6.18 NO.130 の巻頭言「どもる事実を認める」を紹介します。

  
どもる事実を認める
                  日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 3月中旬から講義・講演の連続で、疲労もたまっていたのだろうか、5月の初めに、風邪からのどを痛めて声が全く出なくなった。声が満足に出ないまま、熊本、福岡、岩手、岡山、島根、名古屋、神奈川などで話すことが続いている。ひそひそ声とはいえ、声帯は使っているので、元通りの声にはなかなか戻らない。いつもの元気な声ではないので迷惑をかけて申し訳ないと思っていたら、複数回行っている所から一様にこう言われた。
 「これまで何度も話を聞いたが、今回が一番胸に響いた。やわらかく自然体の感じがする」
 不思議な気がした。私の主張は従来と変わっていないはずだ。変わったことがあるとすれば、声が満足に出ないことだ。声が出ないことで気負いがなくなったからなのか。しかし、先日の名古屋での相談会の時、何度も話を聞いているという古くからの知り合いから「吃音を受け入れることが大事だと言っていた伊藤さんが、『受け入れなくてもいいじゃないか』と言ったのでビックリした」と言われた。そう言われれば、吃音に対する私の主張は根本的には変わらないものの、これまで抵抗なく使ってきたことばが使えなくなって、表現が変わってきていることに改めて気づいた。
 そのひとつが「受け入れる・受容」だ。これまでも、「吃音を受け入れよう」とは言ってきたが、受け入れるべきだとは言っていない。また、「吃音を受け入れられない自分も受け入れよう」とも言ってきた。だから際立って違う発言をしたとは自分では思えなかったのだった。しかし、指摘を受けて気づいた。これまでは、「受け入れられないことも受け入れる」と言いながらも、「受け入れる」が前提としてあったのだ。
 私がどもる人のセルフヘルプグループを作る前までは、どもりは治すべき、治さなければならないの情報しかなかった中で、どもる人やどもる子どもをもつ親の苦悩は続いた。どもりを治すべきだ、治さなければならないという大きな流れに対して、私は、「どもっているそのままでいい、どもっているそのままのあなたでいい」と常に言い続けた。それは、「どもりを受け入れよう」という呼びかけとして発信された。「どもりを受け入れる」なんてとんでもないという人に、「仮の受容」ということばを使っていたときもあった。まだ私は自分のどもりを受け入れることができていないと嘆く人を前にして、そもそも、「受け入れる」とはどういうことを意味するのだろうと疑問を持ち始めた。分かったような分からないような分かりにくいことばだ。人によってイメージがかなり違う。
 人間とは不思議なものだと思う。自分も言ってきたにもかかわらず、他人が声高に「吃音受容・障害の受容」を言うのを聞くと、ちょっと待てよと思う。「まだあの親は受容ができていない」などという臨床家の発言を聞くと、「受容」ってそんなに簡単にできるものではないのになあと思うようになった。そして、いつの頃からか私は「受け入れる、受容」ということばを使わなくなった。
 私自身の場合も、まず受容ありきではなく、「どもってもまあいいか」という程度のどもる事実を認めることが出発だった。どもる事実を認めると、吃音を隠し、話すことから逃げていた生活態度が、少しずつだが変わってきた。どもりながら生活をするようになった。7年ほど経過して、ふとふり返ったとき、あまり吃音に悩まなくなっている自分に気づいた。皮膚の傷がだんだんと癒え、薄皮ができてそれがすこしずつ剥がれていくような変化だった。自分がそのような経過を辿ってきたのに、私は「まず受容ありき」のような発言をしてきたのだろうか。
 今、私は、「受け入れなくてもいい。でも、どもっている事実は認めるでしょ?」と問いかける。どもる事実を認めるだけでいい。認めたら、どもることをだんだんと隠さなくなり、話すことから逃げなくなっていくだろう。受容はその生活の中で生涯にわたって続いていく変化のプロセスなのだ。
 声が出ずに、淡々と静かに話したことが、これまでとは違って受けとめられた側面もあるようだ。声が出ないのも悪くはないと思えたのだった。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/05/31

『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』(ナカニシヤ出版)をめぐって《感想》

治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方 表紙 『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』(ナカニシヤ出版)を読んだ人の感想を紹介します。少し長くなりますが、感想を「スタタリング・ナウ」で紹介した全員の分を紹介します。大阪吃音教室の仲間がどのように自分の吃音と向き合ってきたのか、吃音をどう捉えて受け止めてきたのかがよく分かります。

 
「治したくない」と「治りたくない」は違う
                         掛田力哉(養護学校教諭)

 大阪吃音教室に通い始めて1年半になります。
 まだまだ短い期間ではありますが、その短期間の間にも私が見聞きした覚えのあるエピソードや教室での議論の様子が、本書には沢山紹介されています。教室には色々な思いをもって参加している人がいます。正に「例会」の名の通り、週に一度の吃音仲間との語らい、息抜きの場程度に思っている方もいますし、真剣に自身を見つめ、生き方を考える場として考えている方もいます。切実に悩みを抱えている人もいます。人それぞれ思いは違いますが、その様な色々な人が集まり、吃音というテーマについて時には真剣に、時にはバカ話に花を咲かせながら自由に発言しあえるという教室の雰囲気が私は気に入っています。しかし、そんな教室での何気ない会話や議論の中に、吃音を考え、研究する上で重要な要素が多く含まれていることを、本書は改めて教えてくれます。
 愛媛大学の水町先生が、大阪吃音教室での、ある女性をめぐっての参加者たちのアドバイスを例にして「吃音の受容」について述べています。それは、「吃音の受容」というとどもる事が全く気にならなくなる状態と誤解されがちであるが、実はそうではなく、日々吃音に困ったり、「どもりたくないな」という思いを持ちながらも、それに押しつぶされる事なく、自己の責任や役割を果たすべく真摯な努力を続けること、それを通して自身のどもりに対する悩みや困難の比重を結果的に少しずつでも軽くしていく事ではないか、という指摘です。水町先生自身は吃音者ではなく、もちろん最初からその様な見解を持っていたわけではありません。しかし、大阪吃音教室に参加する多くのどもる人たち、どもる人と関わる人たち、また初めてどもる人を見た人たちなど、様々な人たちを対象にした長年の分析、研究、また関わりのなかで、その様な見解に至ったということには、私たちの活動を考える上でも非常に深い意味があるように思われます。治ることない吃音を「治したい」ともがき続けるのではなく、「どもりたくないな」という恥ずかしさを持ちながらも、より良い人生を歩みたい。深く悩む人にはなかなかすぐには理解しがたい事かもしれませんし、悩んでいない人には改めて考えるほどの事ではないかもしれませんが、吃音研究に人生をかけた研究者にそう思わせた何かが、正にこの大阪吃音教室に参加する皆さん一人ひとりの生き方や考え方全てに潜んでいる事だけは間違いなさそうです。全国の書店でこの本を手に取るどもる人たちに思いをはせながら、是非皆さんも本書を通してあらためて、「どもること」について、どもる人が集まって続けているこの活動について、考えてみませんか? 

 ゼロの地点に立ち、そして
                             徳田和史(会社員)

 私が、この本を読むに際し、頭の片隅にあったのは、昨年の大阪スタタリングプロジェクトの忘年会における伊藤伸二さんの、「ようやくこの3月に、『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』が出版されることになった。出版が遅れたのは、どうしても自分自身が納得いかないところがあり、何回も練り直していたからです。私として10冊目の節目ある本となり、吃音問題に関して私の集大成となるもので本望です」とのスピーチだった。
 伊藤さんには大変失礼であるが、私は、どのあたりが何回も練り直した部分なのかを見つけることに興味があった。読み進むうち、このあたりではと想うところがあった。それは、第6章の"マイナスからゼロの地点に立つ"から"未来志向のアプローチ"そして"どもる力"までの展開ではなかろうかと。この展開のなかでは、論理療法はもとより、吃音評価法、交流分析、自己概念等の考え方が取り入れられており、改めて、日頃大阪吃音教室で行われているこれらの講座が意義あるものだと実感した。
 この本を読み終えて私として感じたことは、佐々木和子さんが言っているように、悩める吃音者にとって"居場所"の確保が大切ではないかということ。佐々木さんにとっては、そこが大阪教育大学言語障害児教育課程であったし、私にとっては大阪吃音教室であった。子どもたちにとっては吃音親子サマーキャンプではないかと思う。
 一人悩み、落ち込み、どうしていいか分からない吃音者にとっては、自分の存在を認めてくれる"居場所"があってこそ、そこで情報を得、自ら体験することによって、自己意識・自己概念が芽生え、マイナスからゼロの地点に立つことができ、そして、そこから未来志向のアプローチに向かうこともでき、なおかつどもる力を得ることができるのではないだろうか。

僕が他人に一番解ってほしかったこと
                            堤野瑛一(パートタイマー)

 素晴らしい本でした。この本は、多くの吃音に悩む方たちは勿論のこと、その周りの方たちや、それに、吃音と何の関わりのない方たちにも、出来るだけ多くの人の目に触れて欲しい…、読みながら、そんな気持ちでいっぱいになりました。
 何故なら、この本には吃音のすべてが書いてあるからです。どもりに対しての理解の希薄さや、誤った情報や認識が飛び交う世間に対し、吃音の実態や真実をすべて明かしてくれる。それに、吃音で悩む当事者たちに対して、この先豊かな人生を送るためのヒントを、たくさん教えてくれる。これはそういう本です。
 特に僕は、第2章「吃る人は具体的にどんなことで困り、悩んでいるのか」が感慨深かったです。これは、僕がどもりに独りで悩み、どうしようもなかった頃に、一番他人に解って欲しかった事なのです。この理解が得られず、また伝える事が出来ず、僕は多くの誤解を受けながら独りで苦しみました。自分のどもりを知っている身内ですら、この"どもりの苦悩の本質"は理解してもらえていませんでした。吃音者の多くは、吃音でない人が想像もしないような、特有の事情や悩みをもっていると言えます。著者の水町俊郎さんは、非吃音者にも関わらず、そういった吃音の問題点を的確に鋭く提示され、その研究や調査の結果を著されています。また伊藤さんも、吃音当事者の観点から、それぞれの問題を曖昧にされることなく、ひとつひとつ深く丁寧に掘り下げられています。
 そして何よりもこの本は、問題提示や理解だけに留まらず、行き着くところは"吃音をもちながらも豊かな人生を…"に終結していることが、最も重要なのです。
 このような素晴らしい本が出版されるのもまた、"どもる力"なのです。

吃音を持つフレッシュマンへの応援歌
                            西田逸夫(団体職員)

 第7章のまとめとしてある、「フレッシュマンへの応援歌」というのは、元々伊藤伸二さんが書いた文章の表題であり、この本の一節のタイトルでもあります。私はこの本を通読して、このことがこの本の重要なメッセージの一つだと感じました。
 伊藤さんの前著、『どもりとむき合う一問一答』が、どもりを持つ子どもたちとその親達への応援歌なら、この本は、これから社会人になろうとする吃音者とその親達、すでに社会に出て吃音のことで困っている成人吃音者への応援歌なのだと思います。
 【吃音者の職業】特にお奨めなのは、この本の第7章、「吃音者の就労と職場生活」です。ここに、水町先生が吃音者の職業について調査された表が載っているのです。その表によると、調査対象の吃音者ll3名中、23名が、教師や営業職という、人と話すことが専門の仕事をしています。この他、自営業、サービス業の8名を合わせると、3割近い吃音者が、人と話す機会の多い仕事をしていることになります。水町先生のところに卒業後の相談に来た高校生に、この表を見せたところ、本人は大いに驚き、吃音のせいで就職に悲観的になる必要がないと気付いたそうです。吃音だと就職に不利なのでは? これは吃音を持つフレッシュマンが、よく持つ不安です。それに対する明快な答えが、上で紹介した表です。決して不利ではなく、多くの成人吃音者が、人と接する職業人として日常を過ごしているのです。
 【吃音者のコミュニケート能力】吃音者が人とコミュニケートする能力は、一般に思われているより、そして吃音者自身がそう思い込んでいるより、ずっと高いのではないでしょうか。と言うのも、大阪吃音教室に通う人達には、自分が吃音で困った状況を表現するのが巧みな人が多いのです。話題が吃音のことなので、他の参加者にも伝わりやすいとも言えます。でも、吃音教室以外の場で、非吃音者の人達が自分の抱えている問題を話すのを聞いていると、言葉は滑らかでも問題点をうまく表現出来ない人がどれだけ多いことでしょう。吃音者だからと言って、人とのコミュニケーションが下手とは限りません。吃音のままでも、立派に人とコミュニケートし、暮らしている人が大勢います。「吃音は治るもので、治さなければならないものだ」という情報がはびこっている日本で、この本は貴重な存在だし、多くの方に読んで頂きたいと思います。


どもりのマイナス面とプラス面
                           橋本貴子(主婦)

 この本を読んで印象に残ったのは第6章の「吃音はマイナス面のみか―吃音力の提唱」です。改めて吃音のマイナス面とプラス面を考えてみました。
 大阪教室に参加する前まで、どもりはマイナスとしか考えられませんでした。就職に不利、会社でやっていけるか、結婚はできるのか、注文や探しているものが言いにくい言葉のものなら店員さんに聞けないなど「百害あって一利なし」と思っていました。ですが、今の私の気持ちは、私が考えていたマイナス面はマイナスと思わなくなりました。
 しかし、どもりたくない場面でどもるかもしれないなあと思っている時や、スーパーなどで探しているものが見つからないときそれが言いにくい言葉のものだったときは、どもりでなかったらなあと思う時もありますが、私はそれをマイナスとは思いません。
 なぜそう思うのかと言うと、どもりであっても「私は私のままでいい」という自己肯定ができたのと、本に書いてある『どもっていても未来は開かれているという視点、前提がある』ということが実感できているからだと思います。
 また、第6章の第5節(1)の「吃音は意味づけ、受け止め方の問題」の中で『どもっていても、吃音を否定せず、話すことから逃げない生活ができれば、吃音は大きな問題とはならない。吃音の問題を大きくするのは、どもる人の吃音に対する受けとめ方であるといっていい』と書いてありますように吃音に対する受けとめ方が変わったからだと思います。
 どもりだからできないのではなく、どもりは関係なく結局は自分が「やる」か「やらない」かだと思います。どもりのせいにするのではなく自分の問題であると思うのです。
 プラス面は本に『吃音に取り組まなければ出会えなかった書物や出来事、すばらしい多くの人たちと出会えた』と書いてあります。年齢、性別、職業に関わらずたくさんの人と出会えるのはどもりでなかったらなかなか難しいことだと思います。
 また、ことば文学賞や感想文や新生の例会報告など文章を書く機会があります。どもりでなかったら日記くらいしか文章を書いていなかったように思います。それにどもりのことで文章を書くと過去を振り返ったり、しっかり自分の内面と向き合うことができるのも良い点だと思います。
 そして、片頭痛など他にも悩みを持つことがありますが、その時はどもりと同じでなぜ自分だけとか、大事な時に片頭痛になるんじゃないかという不安で片頭痛は治らないものかと治療法を探したりしていました。でもどもりと同じで治療法がありません。そういう時は「治らないのなら仕方ない、どもりながら生きるしかないか」とどもりを片頭痛に置き換えると、肩の力が抜けて楽になれます。どもりで悩んだからこそ、どもりは治らないものだからこそすぐに気持ちの切り替えができるのもどもりのプラス面だと思います。
 この本を読んで、まだ気づいていないだけでたくさんプラス面があるかもしれないなと思いました。新しいプラス面をこれからも見つけられる自分でありたいなと思います。

変わるもの、変わらないもの
                          松本進(ことばの教室教諭)

 この本の中で一番ひきつけられた第3章(佐々木和子さんの例)についての感想です。
 30年ほど前、佐々木さん(旧姓、渡辺さん)が大阪教育大学の学生だった頃、私も東京の大学を出て伊藤伸二さんのいる大阪教育大の言語障害児教育教員養成一年課程に入り直した。だから、佐々木さんの学生時代と、その後の長い空白期間を経て2、3年前の吃音ショートコースで会った最近の彼女の両方を知っているわけです。
 本文にもあるように久しぶりに会った彼女はずいぶんしっかりとし、どもりも驚くほど軽くなっていた。劇的な変化と言える。でも、学生の頃と変わらないものも感じた。どもりながらも大きな目で前をまっすぐ見て話す話し方、物事をまっすぐすなおに見つめる視線は、以前と同じだと思った。この本の中の文章も、何のてらいもなく自分の過去をまっすぐ見つめ、自己分析したことがらを正直に記しており、彼女ならではと思った。高校時代の彼女を指導したという島根県松江市のことばの教室の大石益男先生は次のようにコメントしたとある。「和子の性格の魅力は、内面ウジウジしているのに、表面あっさりしすぎるほどにスパスパと決断し、話していくところにあると思う。…」
 人の復元力(?)みたいなことを考えさせられた。佐々木さんは小学から大学のはじめまで、話す場面から徹底して逃げ続けたという。この本の編著者の伊藤さんも小学〜高校まで学校生活に背を向け逃げ続けたという話をよくする。しかし彼女も伊藤さんも、その後劇的に変わったと言っていい。
 果たして劇的に変わったのか、あるいは彼らのある部分は何も変わらなかったのか。なぜ変わったのか、については本人も周囲もいろいろに語ったり書いたりしているが、なぜ変わらなかったのかについては、よくわからない。彼らの学校以外の環墳が安定していて、どんなにつらいことがあっても癒してくれる帰るべき場所が確保されていたからか? あるいは、どもりで悩む前の幸せな幼児期に確固とした人としての核ができあがっていたのだろうか? 人には復元しようとする力が内在しているのか? そして、どこまで成長・変化できるものなのか? 彼らの経歴を知ると、将来のために今は逃げておく、という戦略もありなのかも、とも思ってしまう。
 この第三章でもうひとつ印象的なのは、社会人となった彼女をずっとそばで見てきたご主人の手記「カミさんの吃音」である。それは、彼女を冷静に客観的に観察しており、透明感のある、それでいて愛情の感じられる不思議な文章である。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/05/30

『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』(ナカニシヤ出版)をめぐって

 不思議なご縁を感じる岩手県盛岡市での講演会、研修会のことを書いた巻頭言を紹介しました。そのときの「スタタリング・ナウ」2005.5.21 NO.129 では、水町俊郎・愛媛大学教授との共著『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』の本をめぐって受けた、教育医事新聞のインタビューや、本を読んだ感想を掲載しています。今日はインタビュー、明日は感想と、2回に分けて紹介します。
治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方 表紙
『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』
            編著:水町俊郎(愛媛大学教授) 伊藤伸二(日本吃音臨床研究会)
            出版社:ナカニシヤ出版
            定価:2100円(本体2000円+税)

 愛媛大学・水町俊郎教授は当初、吃音の問題を、非流暢性を改善することとして捉え、吃音を行動療法で治療する研究グループに加わりました。しかし、その後、吃音研究を続ける中で、どもる人自身の吃音についての捉え方や生き方をも含んだより包括的な問題として捉えるべきと考え方が変わってきました。この変化は、どもる人との深いつきあいや、どもる人本人を対象にした研究を続けてきたことによって得られたものです。その研究を紹介しながら、吃音とのつき合い方を提案されています。
 伊藤伸二は、吃音に深く悩んだ当事者であり、吃音が治らなければ自分の人生はないと思い詰め、治ることを夢見て、実際に治療に明け暮れた経験があります。吃音が治らずに、どもる人のセルフヘルプグループを設立し、多くのどもる人と出会ってきました。その中で、自らの吃音を含めてほとんどの人の吃音が治らなかったこと、また吃音に影響される人とそうでない人、つまり「生き方」によって吃音の悩みや、吃音からの影響に大きな個人差があることなどに注目し、「吃音はどう治すかではなく、どう生きるかの問題だ」と提起してきました。
 
 これまで、吃音研究者とどもる当事者の共同の取り組みが必要だと言われながら、一冊の本を作り上げるというようなことはありませんでした。この本は、吃音研究者として、当事者として、吃音の取り組みをそれぞれ40年近く続けてきた、水町俊郎教授と伊藤伸二が何度も話し合い、内容や章立てなど全体の構想を考え、ひとつひとつの章に枠組みをつくり、その章を執筆するにふさわしい、吃音研究者・臨床家とどもる子どもの親にお願いしました。この本では、吃音研究者、吃音臨床家、吃音に悩んだ当事者、どもる子どもの親がそれぞれの立場から自らの体験や研究や実践を出し合っています。
 どもる人本人、どもる子どもの親、どもる子どもやどもる人を指導している教師や臨床家、言語聴覚士を目指している学生など、吃音にかかわる全ての人々に読んでもらいたいとつくられた吃音の教科書になっています。
 
教育医事新聞  編著者インタビュー   日本吃音臨床研究会 伊藤伸二会長

「吃音とのつきあい方」
「治す」ことから「つき合う」へ  注目される“吃音力”の提唱

 吃音で悩む人は決して少なくない。これに対してこれまではどもらないで流暢にしゃべれるようになることを目標に治療が行われたが、吃音は治すことにこだわらず、どうつき合うかだという独自な考え方のもと、その具体的な方法を展開するのが「治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方」(ナカニシヤ出版・2100円)だ。
 編著者の日本吃音臨床研究会会長・伊藤伸二氏は「この本の特徴は、吃音研究者・臨床家、当事者や親がそれぞれの立場から研究や実践、体験をまとめたこと。このように研究者・臨床家と吃音当事者ががっぷり組んできちんと話し合い、まとめ上げた本は世界にも例がないのではないか」と話す。
 伊藤氏は吃音との取り組みを40年近く続けてきた。その中で、治すことにこだわり続ける限り、吃音者の悩みは解決されないことに気づいた。その結果、吃音の問題を「治す」から「どもる事実を認める」へ、さらに吃音とうまくつき合いながらどう生きていくかという「生き方」の問題として大きく意識転換していく必要があると考えたという。
 内容は、吃音を生き方を含む包括的な問題と捉える意義、吃音者の具体的な悩み、吃音者の生活史から考える吃音とのつき合い方、どもる子どものための吃音親子サマーキャンプ、さらに吃音者の就労の問題やことばの教室での実践にもふれている。
 なかでも注目されるのは第6章で提唱されている"吃音力"だろう。
 「これは共著者である故水町俊郎先生の命名で、どもることは確かに不便だったり、不都合な面もあるけれど、吃音に悩むことで見えてくるものもある。吃音は決してマイナスばかりではないというものです。私自身、21歳まで吃音で悩んだ経験があり、このことは身をもってわかります」
 吃音は2〜3歳で始まるが、最近は、中学、高校、あるいは社会人になってから始まることも少なくない。ストレスの多い現代社会の影響も考えられるという。
 「本書がそういう人たちを励まし、勇気づけるものになることを願っています。また、ことばの教室の担当教師や言語聴覚士、特に言語聴覚士をめざす学生にはぜひ読んでほしいと思います」と伊藤氏は話している。
                     教育医事新聞 2005年4月25日 第248号


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/05/28

3冊の本をお共に

どもりと向き合う 一問一答 表紙 今日は、「スタタリング・ナウ」2005.5.21 NO.129 の巻頭言を紹介します。この巻頭言の書き出しに驚きました。今年、2024年1月、僕は、岩手県盛岡市で講演をしました。そのとき、講演依頼の連絡をくださった人は、おそらく、この巻頭言に書いている、2005年の岩手県難聴・言語障害教育研究会の研修会で、僕の話を聞いてくださったのでしょう。今年は2024年、巻頭言で書いている研修会が2005年、そして巻頭言によると、それから30年前の講演会は1975年。およそ50年の間に3度、岩手県盛岡市を訪れているということになり、歴史を感じます。

  
3冊の本をお供に

                   日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方 表紙 3 「30年前に盛岡に来られたとき、お話を聞きました。その時の伊藤さんは眼光鋭く、気迫がありすぎて、近づきがたい印象をもちましたが、今回、講演の時、懇親会のあいさつと、遠くから、近くから拝見して、全く雰囲気が変わっておられてびっくりしました。穏やかで、とても優しい顔になられましたね」
 岩手県難聴・言語障害教育研究会の研修会で講演をした後の懇親会の席でひとりの女性が話しかけて下さった。30年前の私の講演を聞いた人がまだ言語障害児教育に携わっていることに驚いたが、私の印象をそこまで覚えていて下さり、的確に表現して下さったことにびっくりするやら、気恥ずかしいやらだったが、とてもうれしかった。
 当時、31歳になったばかりの私は、「吃音を治し、改善する」という誰もが信じて疑わなかった吃音への取り組みに、「吃音を治す努力を否定しよう」とまで言い切り、「吃音はどう治すかではなく、どう生きるかにつきる」という主張をもって全国巡回吃音相談会を開いていた時だった。確かに気負っていた。激しさもあったことだろう。
 その翌日、30年ぶりに、岩手県盛岡市の桜城小学校を訪れていた。木造校舎は新しい校舎になり、建物のイメージは違っても、あれから30年も経つのかと感慨深いものがこみあげてきた。桜城小学校で行われた、どもる子どもの親と、ことばの教室の教師を対象にした相談会はしっとりとしたものだった。
やわらかに生きる表紙 21歳までの「吃音を治さなければ人生はない」と思い詰め、吃音に深く悩み、治すことしか考えなかった生活から、セルフヘルプグループを設立し、必死で活動した経験を経て、大阪教育大学聴覚・言語障害児教育教室の教員となった。そして、自分自身の体験、多くのどもる人との出会いの中から、「吃音を治すことにこだわると、さらに悩みを深め、自分の人生を生きることができなくなる」と確信するようになった。この考えは、果たして吃音に悩む人に受け入れられ、吃音に悩む人の役に立つのだろうか。その検証なしには、私は次のステップに進むことができなかった。
 日本全国各地をまわって吃音相談会を開き、私の考えを話し、批判や意見をぶつけてもらい、とことん話し合いたいと考えた。新聞社やNHKによるお知らせの報道協力の支援だけはとりつけた。また、内須川洸・大阪教育大学教授が、全国のことばの教室への推薦文を書いて下さった。しかし、実際に、どのような協力が得られるか分からない。予定もほとんど決まらないままに、とりあえず、会場の設定を引き受けて下さった北海道帯広市に飛び立ったのだった。今では考えられないほどの無謀な全国行脚の旅立ちだった。
 旅を続けていく中で、私の主張が確かな形で伝わっていくのが感じられた。時間制限のない真剣勝負の話し合いの場で、私自身が育てられていくのも感じた。帯広から長崎まで、35都道府県、38会場での相談会は3ヶ月かかった。
 30年前に盛岡を訪れたときと今と、決定的に違うことがある。30年前は、私が企画して「聞いて欲しい」との押しかけの相談会・講演会だった。素手でひとりで大きな壁に立ち向かうという孤独な厳しい闘いでもあった。今回は、「聞きたい」という依頼を受けての講演であり、聞いて下さる人の中には、日本吃音臨床研究会の仲間がいて、新しく発行した3冊の本のお供がいる。
 『どもりと向きあう一問一答』(解放出版社)、『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』(ナカニシヤ出版)、『やわらかに生きる―論理療法と吃音に学ぶ』(金子書房)だ。
 多すぎると思いながらも送った100冊ほどの3冊の本は、余るどころか買えない人もいて、完売した。話を聞いて下さるのはありがたいことだが、3冊の本を手元にもっていて読んで下さることはとてもありがたい。
 その前の週末には熊本県言語聴覚士会総会の記念講演と、北九州市での吃音相談会があった。
 30年前の全国巡回の旅にはなかった3冊の本という強い味方をお供に、私はまた、新たな旅に旅立つ。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/05/27

ユーモアセンス 2

 昨日のつづきです。ユーモアと笑いは、奥が深いテーマだと改めて思います。「吃音とともに豊かに生きる」僕たちにとって、ユーモアと笑いは、大きくて強い味方になります。

ユーモアセンス 2
           ヨシトミヤスオ(漫画家・京都精華大学)


ユーモアの受け手と発信地
 ユーモアの受け手と発信地、ユーモアを作る側と感じて下さる側、このように2つに分けますと、私は発信側に立つわけです。発信元は自分では笑わない。漫画家や落語家さんもそうですね。いつも斜めに物をとらえている。
 一例を上げますと、私は、古典落語が大好きなんです。落語の枕にこんな話があります。「お暑いことで、お元気ですか」「ちょっとそこまで」「よろしいなあ、いっといでやす」これで別れてしまうのですが、相手の状態も判らず『よろしいな』と言ってしまう。
 それがこうじて来ると、米朝氏の落語の枕に、京都人をかなり椰楡した話で"京茶漬け"があります。京都人のいやらしさとおもしろさを判っているつもりですが、これは、どこに自分が住んでいるのか、住所も言わず道も教えず電話番号も言わず、それなのに相手を自分の家に誘って、「約束でっせ」「よっしゃ、必ず」と言って別れるんです。こういうネタを落語家さんは探している。漫画家も同じようにジョークばかり探している。
 仁鶴さんが庶民的な話をする。みんなはロールスロイスで来ている仁鶴さんを知っている。何が畳の波打った家や、立派な家に住んでいて、と思うが、その中でもへりくだってしゃべっているうちに話に引き込まれていく。
 これを漫画に置き換えてみます。昔から漫画は奇麗な紙に刷ったらいかんと言われてました。汚いトイレで使うような紙に印刷する。そういう物で読者を引きつける。例えばゴーギャンやピカソの画集は絶対そのような紙では刷らない。なぜか、あれは芸術作品です。芸術作品とは寝転がって読んでもらっては困る。机の上に広げて読んでもらうものです。ところが、漫画は、どうぞ寝転んで楽な姿勢で読んで下さいと、そういう紙に刷っているんだそうです。
 とにかく笑いをばらまく文化は、非常に安手な出方をしないといけない。これが日本の伝統的なユーモアの送り手の原則になっています。ですから、どんなにお金があっても、大学出の人もへりくだって作品を出すのです。

ユーモアとは、お互いの幸せにつながるもの
 笑いの哲学を研究している人は少ないです。ベルグソンという人がいますが、この人は、「笑いとは残酷なものである。優越感を持つことが笑いを生じる一つである」と言いました。これが講じると、大変怖いことになります。いつでも優越的な立場にいる人が笑えて、真剣なものが笑われる立場になる、これは間違いのユーモアだろうと思います。たとえば、どつき漫才。あれは、ぼけ役が頭をたたかれると見ている人が笑います。そういうユーモアは、まだまだ文化的でないユーモアだと思います。
 現代の世の中すべてがジョークか、駄洒落もジョークか、笑うことが全部ユーモアか、というと私はそうでないと思います。
 ユーモアとは、人間同士が対等の立場で、お互いつき合っていく上で、両方の幸せにつながるものだと思うんです。そういうものが笑いでなかったらいかん、そんな気がするんです。

吃音とユーモア
 映画監督の羽仁進さんがテレビに出ているのを見ていて、いつも女房と言ってるんですが、羽仁さんがどもるたびに、あの人良い人だなあと思うんです。ああいうふうに、堂々とどもって言われるとなぜだか親しみを感じます。
 私も22〜3年前に、突然声が全く出なくなりました。特に、講義をするとき、黒板の前に立ちますと「ウッ」となってしまって、声が出ない。みんな待っていると、よけいに出ない。
 家におりましても、女房としゃべっているときに、電話がかかってくる。電話をとったら声が出ない。もちろん、いろんな病院へ行きました。京都大学病院の脳外科に回され、全部診察をしましたが、それでも分かりません。先生は「少し危険だが、やってみるか。朝からアルコールを飲みなさい」と言いました。私も嫌いな方ではないので、一週間朝からビールを飲みました。効果が出ませんでしたが、「とにかく病院に続けて来なさい」と言われ、「続けて来ます」と言っているうちに、だんだんしゃべれるようになりました。アルコールを飲めと言われるだけの病院に続けて行くのが、あほくさくなり、続けて行くぐらいならしゃべろうと思ったのかもしれません。でも今だに、話し始めは、かなり自分でもおかしいと思います。

ユーモアのある人は聞き上手
 しゃべり上手、聞き上手と言いますけれど、本当にジョークの上手な人は、しゃべり上手な人じゃないんです。例えばアナウンサーですが、彼らがスピーチをするとジョークの下手なこと。話し方は非常にきれいですけどね。
 本当のユーモアのある人は、聞き上手の人に多いので、皆さん方には、聞き上手になっていただきたいと思います。まず笑顔で話を聞くことです。私は中学時代、0点ばかりとっていたでしょう。先生に好かれようと悲しいまでの努力をしたんですね。家庭科の先生で授業が面白くない人がいました。教室がザワザワします。すると、先生は誰か一人を探しているんです。この人は話を聞いてくれるという人を。授業の初めに私が大きくうなずいたら、毎回私に向かって授業をするようになりました。私は居眠りできなくなりました。しゃべるってそんなもので、全体の人に聞いてもらおうと思えば、まず一人にしゃべれと、よく言います。

ユーモアとは
 なかなか難しいのですが、しいて言うと、人生の中で、人間と人間が作り出す遊びじゃないかという気がします。遊び心というものがユーモア。ユーモア感覚とは、遊び心をもつゆとりじゃないかと思います。どうすればユーモア感覚が身につくか、簡単に言うと、ひとりひとりの努力に待つしかないということになるのですが、日常生活の中で、どんなことがあってもゆとりを持って生きていくということが何よりも大事です。経済的にゆとりがなくても、気持ちの上でのゆとりを、ユーモアに置き換えることができます。
 これまでユーモアと全く縁がなかった人はどうすればいいかという質問がありましたが、私はこれ自体ユーモアだと思います。つまり、ユーモアと全く縁がなかったと自分で思われる方ほどユーモラスな人生をきっと送っていらっしゃるだろうと思うのです。ユーモアというものは、特別なものではなく、もっと日常的なものだと思うんです。
 今の桂文枝師匠が、こんなことをおっしゃっていました。あるとき、京都で、一週間、独演会があった。そのときに、京都ほど嫌な所はないと思った、というのです。毎回、たくさんの人が来てくれた。初日、会場でお客さんがわいわいと笑ってくれている中で、一番前の一番真ん中にひとり座っている人が最後まで笑わない。やりにくいなあと弟子に言っていた。明くる日、また同じとこにその人が座っていて、周りがわーわー笑っているのに、その人だけ笑ってない。3日目になっても、同じ。4日目も5日目も、ずっと同じ位置でにこっともせずにいた。いよいよ最後7日目になって、頭にきて、弟子に、帰りかけているその人を呼びに行かせた。そして、こう尋ねた。「お客さん、7日間来て下さってありがとうございました。お客さん、なんですか、私になんぞ恨みがあるのですか」その人は「師匠、なんちゅうことを言うんです。師匠の芸が好きで好きで来てますんや。何をおいてもと思って、仕事を放っておいて来てます」「しかし、あんたを拝見してたら、7日間、一番前につめて、こわーい顔をしてこっちをにらんでいた」「えっ、そうか、師匠、そんな思って見てたんか。そう言われると、よう女房に言われる。あんたは顔で笑ったことがないなあ」という話です。腹の中で笑う人が京都には多いという話です。アハハと笑う人もいれば、ウフフと笑う人もいる。イヒヒと笑う人もいれば、笑わないという人もいる。世の中はこれでいいわけです。ユーモアやジョークを聞いて、心がなごむということが大事です。

ユーモアのトレーニング
 生活の中でユーモアは、簡単にトレーニングできると思います。
 講演で、いろんな所へいきますが、一回ひどい目にあったことがありました。朝10時からの講演で、後ろの方がお母さんたち、真ん中に若い人がいて、一番手前に平均年齢78歳くらいのおじいさんが15,6人並んでいた。この人たちは、お互いに意識してますから、笑わない。日本人は、特に、階層が一緒だと笑いがすぐ起こるんですけど、年齢層が明らかに違うとか、職業が全く違うとかになると、笑わない。5分くらいおきに、ジョークを入れながら話しました。よし、一発目。あかん、シーン。2発目。あかん、シーン。よし、とっておき。これやったら笑うやろ。しかし、また、シーン。もう帰ろかなと思うけど、帰るわけにいかん。30分くらいたったら、前からいびきが聞こえ出しました。ひとりが寝だしたら、連鎖反応で、隣の人も、その隣の人も、そのうちに将棋の駒倒しみたいに、パタンパタンと、ちょうど9割方くらいが寝た。もうどうしようもなくなり、やめました。黙りました。そのとき、はっと気がついたんです。おじいさんたちには、僕の話が子守歌だったんだと。私がぴたっとやめたものだから、おじいさんたちは起きました。私と目が合って、それからみんなどーっと笑いました。笑わそうと思ってユーモアをと思っても笑いません。
 やっぱり人に笑ってもらうことに快感を覚えるというのが、ユーモアのトレーニングだと思います。子どもでも、奥さんでも、いいです。女房なんて笑わしてもしゃあないなあと思わないで、やってみることです。笑わせたら大成功です。大体、嫁さんて笑いませんよ。「あほ」と思ってこっちを見てる人が笑ってくれたら、大成功のギャグやと思って、やってもらったらいい。子どもでも笑いません。親父が「笑え」と言っても笑ってくれません。それでもこりずに日常的に、いろいろ発信していったらいいと思います。
 話のプロでもお客さんがのってこないと、しらけてしまう。上手な聞き手が、上手な話し手を作るということはあると思います。聞き手が上手やったら、なんぼでもしゃべれるもんです。
 これで必ず笑いがとれると思って言ったら、逆に絶対笑いがとれないということがある。そういうときは、後で、反省したらいい。そして、その反省は長くしないですぐやめることです。それを習慣にしたらいい。あほなことを言って、誰も笑わなかった。しまった、ばかにされたかなと思ったら、すぐそこでやめる。でも、また、次やってみる。それをやっていたら、だんだんうまくなってくる、多分ね。言う前にあまり深刻にこんなことを言ってはどうかしらなんて思っていると、誰でも言えなくなります。
 テレビなどの舞台裏を見ることがあるのですが、とにかくひどくて、ジョークまで全部洗いざらい、リハーサルでやるでしょ。あれをやると、もうだめです。誰も笑わない。そういうジョークのしたてかたをするから、かたい感じのする番組になってしまう。ジョークというのは、言う人の人柄が出ますからね。
 僕の名刺には、漫画家・京都精華大学教授と書いてある。その名刺を見る人は、漫画家で大学教授、ほうおもしろいですな、と言う。何がおもしろいねん、と思います。日本画家・京都精華大学教授やったら何もおかしくない。漫画家と大学の教授やから、おもしろい。大学というものは、世間から見るとステイタスが高い。漫画家は低い。その落差がおもしろいのでしょう。分かるけど、面と向かってそれを言われたら、むかっとくるだけで、私は何もおもしろくない。

世界のユーモア
 世界で一番ユーモアのセンスのある国は、イギリスです。イギリスは、圧倒的なユーモア大国です。チャールズ皇太子が演説のときにジョークを言います。ジョークを言わなかったら名演説だと言われないくらいですから、とにかくジョークというのは、ものすごく洗練されています。
 ユーモアに関していえば、イギリスの漫画は非常に品がよくて、笑いの質が高いです。イギリスに、今年の3月に廃刊になったんですけど、「パンチ」という週刊誌がありました。パンチテーブルという楕円形のテーブルがあって、立派な椅子がある。1841年から毎週金曜日にワインとかいろんなものを用意して、そこへいろんな名士がやってきて、その週の「パンチ」の漫画を批評し合うんです。そして、帰りに、自分のイニシャルを木に彫って帰る。チャールズ皇太子、アン王子、サッチャー首相など、いろんな人がびっしり彫ってあります。それを見ているだけでも、イギリスがユーモアを長い間温めてきているのだなということが分かります。
 風刺漫画というのがあります。風刺というのは、本来ごんべんの「諷刺」を書くのですが、ことばの風、今流に言うと、風で刺す、つまり針で刺すよりももっと穏やかで、風でふわっと刺すように、遠回しに娩曲に何かを言って、それを権力者に当てるということです。これが風刺につながるわけです。風刺漫画の笑いというのは、対等の人間のつき合いの上での社交術というのではなくて、自分よりうんとはるかに権力をもった人に対して、弱い人間がユーモアでやっつけるといいますか、射るというか、そういうことだと思います。風刺漫画が一番好きな国民は、フランスです。フランスは風刺の国、イギリスはユーモアの国と言われます。アメリカは雑居です。
 気楽にユーモアをおつくりになったり、ユーモアを好きになっていただくのが一番いいかなと思います。
 イギリスの漫画に、こんなのがあります。はげ頭のおじいさんがいて、はげた頭の上にハエがとまっている。そのハエをじっと見て、キリをもって、ハエを突こうとしているのです。口で言うとおもしろくないけれど、漫画でみると非常におもしろいです。次に何が起こるかとみんな思っている。まあそんなことばっかり漫画家というのは考えているわけです。多弁の必要は全くない。もちろん、短いことばで何かを言われた時、非常にそれがおもしろいということはあります。みんなが互いに、優越感を持つということでなくて、お互いに笑えるような世の中をつくっていかなきゃいけないなあと思います。笑いが出ないような、殺伐とした世の中だけは作りたくないなあと思っています。漫画を見て、笑ってもらえる読者を作っていかなければ、商売にならないのです。ゆとりのある人たちが増えていくことを期待しています。(「スタタリング・ナウ」2005.4.24 NO.128)

日本吃音臨床研究会の伊藤伸二 2024/05/25

ユーモアセンス

 「スタタリング・ナウ」2005.4.24 NO.128 の巻頭言だけを紹介して、前号に戻って、ことば文学賞受賞作品を紹介してきました。今日から、「スタタリング・ナウ」2005.4.24 NO.128 に掲載している、京都精華大学のヨシトミヤスオさんのお話を紹介していきます。
 40年以上前に漫才の一大ブームがあり、今またテレビはお笑い系に乗っ取られていると思えるほどの状態になっています。お笑い芸人の養成校が大盛況で、笑い芸人を目指すことが今、ブームになっています。そのような笑いも一つの笑いには違いないと思いますが、僕たちは、ドタバタの笑いではなく、生きる力に結びついていくような「笑い・ユーモア」について、ずっと考え続けています。「吃音を治す」アプローチからは出てこないですが、ユーモアは、吃音を生き方の問題だと考える僕の中心的なテーマです。
 1992年、大阪吃音教室で、ユーモアについて連続して学び、考えた時がありました。その特別講座の講師が、漫画家であり、大学教授の、ヨシトミヤスオさんでした。世界で初めて、マンガの大学院をつくった人として話題になりました。おもしろく、自分自身が楽しそうに話しておられました。随分前になりますが、懐かしく思い出されます。
 ヨシトミワールドを紹介します。
ヨシトミヤスオ写真
  ヨシトミヤスオさん
プロフィール
 動物マンガ家。京都国際マンガ家会議主宰。京都精華大学マンガ学部名誉教授。
略歴
 1938年、京都市生まれ。京都市立芸術大学デザイン科卒。
 1972年、『動物マンガ百科』で第1回日本漫画家協会賞大賞を受賞、
 1991年、京都市芸術功労賞を受賞(平成3年度)。
 2000ハノーバーEXPO、京都国際マンガ展(1〜10回)などの数々の国際展で選考委員。
著書
 『動物マンガ百科』(マンガ 駸々堂)、『びーびぃびーび』(絵本 偕成社)、『ちゃんと作文かかんか!』(絵本 偕成社)、『ぼく図工0点や』(絵 偕成社)、『マンガ漫画の魅力』(評論 青山社)、『手塚治虫』(評論 青山社)、『怪獣のふしぎ』(マンガ 小学館)、
『食べる』(マンガ ユニコン出版)、『新動物マンガ百科』(マンガ PHP)その他多数。


  
ユーモアセンス
             ヨシトミヤスオ(漫画家・京都精華大学)


出たがりの私
 ご覧の通り、私は足を悪くしました。こうなった小学校の5年生ぐらいのときの思い出話からしていきたいと思います。
 22年位前、私は大学で、漫画を描く漫画専門の分野を作りました。4年制の大学で漫画の分野があるのは、世界でも私の大学だけで、一時マスコミでも騒がれました。その後、いろんなテレビやラジオの取材があり、私は、私の大学で最もマスコミ人と言われています。
 皆さんは、私が出演した番組をご覧になったことはないでしょうね。タモリとか、ああいうふうなジョークを飛ばすのではなくて、真面目にやるんです。NHKテレビのバラエティショーの司会をしていたことがあります。また、KBS京都のニュースキャスターを1年間しました。あるいは、ラジオ番組のディスクジョッキーをずいぶん長くしました。ですから、私の大学では、私のことを出たがりと言うんです。これくらい、口から先に生まれたような男は、いないだろうなと言われています。
 あるときから、私はテレビに出るのをやめました。あるとき、『今晩は、ヨシトミ・ヤスオです』と言って、頭を下げたら、モニターテレビがピカッと光った。これは、ライティングの人が下手だったと思うのですが、あっ、これはもう限界かと思いました。私がというより、妻が私に「ハゲ頭をさらして人前に出るのは止めてくれ」と言いました。それで、私はついに辞めてしまったんです。これは半分冗談ですが。まあ、辞めた最大の理由は、やはり売れなかった、ということなんです。
 漫画も35年位描いているんですが、これも売れません。なぜ、私が漫画を描くようになったか、なぜ出たがりになったか、ということについてお話します。

漫画に目覚めた小学校時代
 私は小学校へ8年行きました。
 今、思うと、私の家は生活保護所帯だったのでしょう。父親が肺結核で入院しまして、母親が一人で行商をしながら一家を支えてくれていました。
 私も肋膜で足を患って家で寝たきりの生活を2年送りました。5年生を2回、6年生を2回、合計8年間、小学校に籍を置いていました。置いているだけで、ほとんど学校には行っていませんでした。小学校の先生が家庭訪問して、「お父さん、ヤスオ君はちょっと問題が多いんです。たまに学校に来ても元気がないんです。『ハイ』も言ってくれません」と言いました。私は全く声を出さなかったようです。
 小学校8年生の時、校長先生が家に来られました。「ヤスオ君はとにかく小学校に8年間来た。そして、ヒゲが生えてきた。ヒゲが生えてきた生徒を小学校に置いておくわけにはいかない」となり、それで、何とか中学校へ行くことになったんです。そのころ、私は寝たきりで、家で留守番をしていました。何もすることがないんです。今のように家庭教師が来るなんてこともなかったのです。
 昭和20年代の後半、『漫画少年』とか『少年クラブ』とかいった雑誌がありました。買うことはできなかったんですが、回覧雑誌といって、月に10冊、3日ごとに貸してくれるんです。その頃、月刊雑誌は7冊、残り3冊は興味のない雑誌をとらなきゃいけなかった。『漫画少年』が来ると、初めから終わりまで30回位見ました。それで3日たつんです。
 そういう生活を繰り返していて、漫画っておもしろい、いい漫画家になれないかなと思い出したんです。
 その頃、私は寝たきりだったでしょう。天井向いたままで、インクを付け、線を引いて、漫画を描いていく。新聞に投書した経験があります。つけペンで黒インクで描かないと新聞の印刷には出せない。インク瓶を置いて描きます。ボールペンは逆さになって描くとインクが出ません。ところが、つけペンは出る。それで線を引いていくんですが、だんだん線の位置が変わってくると、インク瓶を動かしたくなる。インク瓶を狙って、つけるんですが、失敗することもある。場所を間違えてしまうんですね。そういうことを繰り返し、夢中になって漫画を描いていました。
 私を看病している78歳になるばあちゃんが、部屋に入って来て、私を見て、『ギャー』と叫んで、飛び出していったこともありました。インクで顔や手なんかが、真っ黒になっていたのでしょう。そういう状態で描いて、描いて、描きまくっていました。

天才漫画少年、あらわれる
 『毎日中学生新聞』に常連で掲載してくれることになりました。最初、プロの漫画家の4コマがあり、その横に私の漫画がその倍のスペースで出ておりました。すごいなあと思ったのですが、翌日、プロの漫画家の4コマの大きさは変わらないけれど、私の漫画のサイズは半分になっている。つまり、記事の多い日には新聞社の方で勝手に私の漫画はサイズを変えてしまうんです。どちらにせよ、どしどし入選していきます。そこで賞品としてもらえる大判の大学ノートをためるのが、家で寝ている私の慰めだったんですね。
 そして、中学校へ行きました。家で漫画ばかり描いている私に、中学校の勉強が分かるはずがありません。化学記号の試験をいきなりやらされましたが、0点でした。生物も0点、英語ももちろん0点でした。半年ぐらいで成績は上がってきました。でも、駄目なのが数学でした。
 人間の一生は、不思議だと思うんです。
 最初に出会った数学の先生は、いつも試験の答案を返す時に、100点から順に返していきました。毎回同じパターンで返しました。「さあ、全部返した。前日に比べると、良くなった。さあ、授業に入ろう」と言うのですが、私のだけが返されていません。しばらくすると「一枚、残ってた。誰や。ヨシトミ。おまえや。これ0、0、0点や」と、こうです。これが繰り返されるうち、私の数学嫌いは決定的になりました。
 ある日、この先生を見返すことがありました。あるときの、嫌な数学の時間に、校長先生がドアを開けて、数学の先生を呼びました。そして、先生が「校長先生がお見えになった。まだ授業があるが、これで止める」と言った。なんで止めるんかと思ったら、「さあ、これから机を全部後ろに引いて、ヨシトミを真ん中にして、みんなで周りを取り囲め」と言う。私が数学で0点ばかりとるので、みんなで糾弾するのかなと思いました。それも校長先生を巻き込んでやり出したと本当に思いました。校長先生は、一度戻られて、次に大きな模造紙と硯と筆を持って来られました。それを、数学の先生に渡して、「ヨシトミをみんなで取り囲んだか。ヨシトミの手元をみんなで覗きこめ。ヨシトミ、そこで描きなさい」と言う。私は「はあ? はい、何を描くのですか」と聞いた。「何をって、おまえ、しょっちゅう漫画を描いとるやろう」「いやあ、描けません」「校長先生がおっしゃっとるんだぞ、君」「描けません」「描きなさい」などとやり合っていると、カメラを持った新聞記者が来て、「記者が写真を撮るから描きなさい」となった。僕は、何のことだか分からないが、とにかく言われたので、筆に墨をたっぷり付けて、描いてみんなに見せた。「さあ、みんな、笑って」と先生が言って、写真を撮った。
 あくる日は、大騒ぎでした。新聞には、大きな活字で"天才漫画少年あらわる"とあります。
 それを家で見て、父親に「お父さん、お父さん、出てる」「わあ、すごいなあ、おまえ。天才って書いてある。それで記事読んだか」と父が言います。読んでいなかったので、父親が読んでくれました。「ここんとこや。『ヨシトミ少年は幼少の頃から、家庭が貧しく、貧困のどん底に喘ぎながら、漫画を描き続け、やがて、二代目のウォルト・ディズニーになろうと嘱望されている、天才漫画少年である。ヨシトミ君は、小学校5年生の時、右足を患い、太ももから切断し』…」そこまで聞いていて、何でや、僕の足はあるわな!と思いました。
 それからマスコミ不審に陥ったのです。つまり、話題性のため勝手に新聞社が僕の足を切ったんです。いまだにちゃんと指まであるんですよ。それから、私は俄然有名になりました。

生徒会の選挙をきっかけに
 生徒会の選挙がありました。漫画は上手と言われているが、成績はどん底です。年がちょっと上だけの事で生徒会会長の選挙に出ろと言われました。「出ません。人前でしゃべったことがありません」と言うが、担任の先生も「これだけ有名人になったのだから出てみなさい」と言う。みんなから「出ろ、出ろ」と言われ、頭がボーとして「うん」と言ってしまった。みんなで原稿を作るから、それを読んで演説したら良いということになりました。
 いよいよ当日、グランドに全校生の1000人くらいが集まりました。そこで、朝礼台に上り、演説をするんですが、聞いているとほかの立候補者は「もし当選しましたら、先生方と協力して明るい学校をつくります」などとみんなうまい事を言う。いよいよ僕の番。朝礼台に上がろうと思ったら、僕は松葉杖をついていたもんですから、足がガタガタ震えて、上がれません。みんなが両脇から支えて上げてくれました。上がって、パッと目をあけたら、1000人の顔がジャガイモみたいに見えて、おまけに湯気が上がっている。頭がボーとしてきて、これはえらいこっちゃと思っていると、昨日まで覚えていた演説のことばをすべて忘れてしまった。黙っていたら、クラスメイトが「ヤッチャン、言いな、言いな。忘れよったんと違うか」と心配し出しました。周りの連中が冷や汗をかいたんです。
 人間とは恐ろしいもので、普段思っていることが出るものです。覚えていたことをすべて忘れてしまった僕は、こんなことを言い出しました。
 「皆さん、僕は皆さんより年が2歳上です。だから皆さんよりお兄さんです」と言うと、みんなはワーと笑った。「僕は皆さんのお兄さんだから、皆さんが困ったことがあって相談にきたら、僕は真剣に相談にのることを約束します。さようなら」その時の選挙、最高点で当選です。それ以来、性格が120%変わりました。

自分が確信をもつこと
 とにかく、人前でしゃべるのが楽しくてしょうがない。しかも、自分がしゃべって人が笑ってくれると、無上に幸せを感じるようになりました。そして、テレビやラジオに出演するようになり、出たがりと言われるようになりました。今、僕が悲観主義者だったと言っても誰一人信用しません。楽天家で明るくてジョークが好きだと思っているでしよう。
 実は私自身は、半分半分で両方を兼ね備えていると思っています。自分の人生の中で、自分の性格やしていることを変えようと思えば変えられるんだということは実感として感じています。
 うちの大学の学生を見ていても、「どや、漫画家になるか」と言うと、「ハイ、なれれば」と言う。別の学生に「君は?」と尋ねると「出来るだけ」と答える。これでは、なれない。「なります」となぜ言わないのか。「なります」と言ったら「なれる」んや。そんな甘いものではないかもしれないけれど、だから余計に自分が確信を持つことが大切なんです。自分がなります、と言うと、そうならなかったら世の中に嘘をついたみたいになる、だからがんばる、それでいい。人前で宣言しろと、学生には指導しています。
 『成せば成る、成さねば成らぬ何事も、成さぬは人の成さぬなりけり』これは、子どもの頃から私の一番大好きな言葉です。また、人生観でもあります。何かをやってみようと思えば、やれば必ずできるのです。やらなければ当然できないのです。何事もそうです。できない、できないといっているけれど、それは、結局本人がやらないからできないのです。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/05/24

第7回ことば文学賞受賞作品 3

 ことば文学賞の優秀賞は、2作品です。今日は、昨日に引き続き、優秀賞の2作品目を紹介します。
 ことば文学賞は、大阪吃音教室が主催して、毎年、募集し、選考を経て受賞発表していますが、日本吃音臨床研究会の会員も応募することができます。今日、紹介する優秀賞作品は、「スタタリング・ナウ」購読者で、岡山県在住の方の作品です。講評の五孝さんも書いていますが、田辺さんの文章はとても素直な「いい文章」で、僕の好きな作品のひとつです。
 僕の身の周りには、自分は苦しみながらも自分の吃音を認めることができるようになったけれども、子どもがどもり始めてショックを受けた人がいます。ところが、子どもと一緒に吃音に向き合っていくなかで、どんどん変わっていきます。そして最後には、子どもと一緒に吃音と向き合った「どもりの旅」は充実して楽しかったと言います。経験した人でなければ分からない不思議な世界です。(「スタタリング・ナウ」2005.3.20 NO.127)

《優秀賞》  マイナス+マイナスは?
                  田辺正恵(岡山県在住・パート職員・45歳)

 45歳の私と19歳の長男には吃音という共通項がある。4歳の息子がどもり始めた時、目の前が真っ暗になった。頭の中が真っ白になって何も考える事ができなかったのを今もよく覚えている。
 私は吃音が原因で小学校の時いじめられた経験があり、この記憶を引きずりながら生きてきたので、どもる息子が自分のようにいじめられる! あんな辛い思いをしたらどうしよう、とそのことばかり気になった。
 コンプレックスと自意識過剰の思春期を送っていた私は中2の時、開き直って自分なりに吃音への姿勢を決めた。それは「どもる事を隠さない」、親しくなりたい人には積極的に自己開示していった。喋れば分かるのだから隠してもしかたない、どもる自分を分かって欲しかった。自己開示してそのために友だちを失う事はなかったからこれは成功したのだと思う。でも、「私はどもるの」と人に言う時、とても悲しかったのも事実だ。どもりさえしなければこんな事、言わなくても良いのだから。心の中で泣きながらそれでも自分を知って欲しくて、どもる事を告白し続けた。
 私のどもる事へのイメージはどう考えてもマイナスだ。自分がどもり出した時から息子がどもるまで20数年の時間が流れていて、その間に学校に行き、就職をし、結婚、出産とそれなりに生きて、小学校のいじめ以外に吃音で決定的に打ちのめされた事がないにもかかわらず、「どもる事は悲しく、辛く、なりたくないこと」だ。だから息子がどもるようになった時、悲しかった。「親子でどもるなんて!」
 どもる息子を育てる事は自分の吃音と向き合う作業でもあった。息子には「吃音は悲しい」イメージを持って欲しくなくて「ことばの教室」にも行かず吃音を矯正する事は一切しなかった。矯正する事は直すべき自分がいる事で、それは自己否定につながると思ったから。
 息子の吃音を否定したくない、自分の吃音は中2の時、認めたのだから息子の吃音も直視できるはずだった。でも、できなかった。思春期に決意したあの覚悟はなんだったのだろうと思うほど、どもる息子を見るのは悲しかった。私が息子にしてやれたのは、「どもるようになったけど、どもる事に負けないで!」とエールを送り、先輩の吃音者として内心のはらはらを隠しながら見守る事だけだった。吃音を言い訳にしない生き方をして欲しかった。私はそうしてきたという自負もあった。でも、そう願いながらその願いの裏側には、私の中の吃音に対する明らかなマイナスイメージがある。どもる自分を隠さない、でも、隠さない生き方をせざるをえないのって悲しい、自分ひとりでも充分辛いのに子どももなってしまうなんてダブルパンチだ。マイナスが二倍になってしまう。
 そんなふうに思いながら10数年が過ぎて、私は近頃、親子でどもる事について以前とはまったく違う考えになっている。
 それは、「どもる息子で良かった!」
 私は息子がどもり出した時、息子に自分を重ねていじめを心配した。自分のようになったらどうしようと思った。事実、息子は吃音をからかわれ、いじめられた。よく、学校から泣きながら帰ってきていた。でも、彼は私と違ってその記憶に引きずられてコンプレックスにさいなまれていない。親子で、吃音という共通項はあるけど彼は私とは違う人間だ。違う人間だから吃音への対応も当然違う。「吃音は悲しい」は私の感情であって誰もがそう思うとは限らない。この事を息子は私の傍で育ちながら私に教え続けてくれた。思い込みの呪縛から解いてくれた。どもる息子を育てなければ、わからなかったと思う。
 親子でどもって悲しいマイナスの2倍じゃなくてマイナス+マイナス=プラスだという事に気付いた。息子は私にとって一番身近な吃音者であり大切な事を教えてくれる人生の師匠だ。育児をして子どもを育てたのは確かに母親である私だが、私を人間として育ててくれたのは子どもだ。
 私には3人の子どもがいる。吃音のある長男からはいろいろな吃音者がいる事を、どもらない長女と次男からはどもらない側から見た吃音者の姿や本当にさりげない優しさを教えて貰った。
 自分が自分らしく、生きていく上で大切な事を子ども達に教わりながら、「親子でどもるのも悪くないかも!」と思っている。「どもることは不幸じゃない」と気付いたこの頃である。

〈五孝さんの講評〉
・どもることのつらさ。誰かも書いていましたが、本人にしか分からないと思います。さらに我が子がどもり出したときの母親の気持ちとなると…。いい文章です。
・やはり心の根っこに吃音へのこだわりが残っているのでしょう、子どもの吃音を機に自分の心の中を冷静に見直し、跳ね返していく力が文章によく出ています。
・「吃音は悲しい」という呪縛を持たない子どもが本当にいるのでしょうか。この思いは私だけではないかと思います。なるほどなあと読む人が分かるように書くことができれば、もっといい文章になったと思います。

※岡山在住の田辺さんの受賞の喜びの声…「伝えたいことを伝えることの難しさ」を思いました。書けば書くほど、自分の想いから遠ざかってしまう、元に戻りたいけど、どう戻ってよいか分からなくなってしまい、途方に暮れながら書きました。改めて文章を書くことの難しさと、自分の文章が下手だという事がよく分かりました。でも、書くことは楽しい! です! そのことも分かりました。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/05/23

第7回ことば文学賞受賞作品 2

 昨日の最優秀賞作品につづき、今日は、優秀賞作品の紹介です。

《優秀賞》  三つ子の魂、百までも
                      峰平佳直(大阪 会社員 47歳)
 今年47歳になった私のどもりが、突然大きく変わった。症状がひどくなり、どもりの不安不満が激減した。
 平成15年11月、通勤途中にある羽曳野病院結核病棟で、85歳の父親が私に話した。
 「こここ〜んど来る時、いいいいいいいそじまん、も・・もって来てくれ。」
 父親が他の病院に移動するまで2ヶ月間、私は毎日、着替えを持って通い続けた。そして、父親の、子どもみたいな素直などもりを聞き続けた。
 それまでの父親は、どもる事を嫌い、「どもる人はだめだ」と感じている人間だった。私は父親と同じようにどもりがちであったため、幼年期の私は「どもる人はだめだ」を父親の暗黙の「教え」として受取り、46歳までしっかりと持ち続けた。
 小学校、中学校、高校時代、暗くて寂しい時間を過ごした。「どもる人はだめだ」を心の中に持って。友達と、どもりながら楽しく会話をする事など考えられなかった。
 18歳、今の会社に就職して、心やさしくしてくれた先輩が私に聞いた。
 「峰平君は、なぜ自分の事をそこまで卑下して、悪く言うのか」
 だめな人間だと思っていた私には、その質問が不思議な気がした。会社の電話は恐怖だった。電話の用事は、すぐには済ませられない。どもりそうだと感じたら、自信が湧いてくるまで半日ぐらい後回しにしたり、トイレや屋上で小さな声で発声練習をして、気合をいれてから電話をした。
 自由に使えるお金ができ、どもりを治そうと決意して、大阪の民間吃音矯正所に通い続けた。そこは、「堂々と、ゆっくり話す習慣が身に付けば、どもりは治りますよ」と教えていた。
 3年間、本の朗読、外に出て道を聞きながら歩く実地訓練、人前でスピーチをする。私はがんばった。私は矯正所の中では堂々と話す事が出来た。
 今思い返せば、まわりみんなが「どもる人はだめだ」ばかりである。自分ひとりでは無い、劣等感を持つ事が無かったのだろう。
 出来るだけ目立たないように、暗く、おとなしく、静かにしている習慣が染み付いていた私に、大きな転機を与えてくれたのは、地域の青年会活動だった。多くのイベントをこなしていくには、他人との挨拶、お付き合い、気配りが必要で、自分の殻に閉じこもっていられなくなった。
 22歳の時、同じ道を堂々巡りをしている自分の言葉に限界を感じていた。会社に4ヶ月の休職願いを出し、どもりの東大と言われていた東京正生学院に入学した。どもりが治らない事を、ここで初めて知った。紹介された本を読みあさり、自分のどもりを考え直す時間を持てた。発声練習、上野公園で演説、自律訓練法、催眠術、ディスコ、風俗。泥酔するほど酒を飲み、どもりの集まりには進んで参加した。
 大阪に帰り、アメリカの50年前の学者が書いた、「吃音の治療」に書かれている方法を、実験して見ようと決意した。
 吃音を改善する為には、動機づけとして、日常生活で平気でどもれるようになる必要がある。一大決心をして、家族、友人、職場、近所で、どもりまくった。しかし、頭がおかしくなってきた。
 さあ今日もどもるぞう。いやどもりたく無い。弱気な事を言うな。恐い、嫌だ。
 完全な敗北である。
 「どもる人はだめだ」に対抗するだけの気力は、2日が限界だった。
 どもりでかなり悩んでいた女性の友達に、半年ぶりに電話をかけた。彼女は変わっていた。「どもりは、もう、どうでもよくなった」と言う。これが、森田療法に興味を持ったきっかけである。恐怖、不安にさからうな。そのままで良い。今、すべき事に手を出しなさい。この考え方は私を救った。電話でどもりそうで不安の時、先ず受話器をとった。次にダイヤルを回した。声が出るのが遅いので、相手は電話を切った。用件を伝えるのがすべき事なので、すぐにまたダイヤルを回した。
 続けて3回目の電話は、私の声が出るまで切らないで、待ってくれる事が分かった。
 24歳の時、東京で知り合った友人の紹介で、大阪のセルフヘルプグループの例会に参加した。23年前の例会は、毎週日曜日に開いていた。3〜4人が集まり、本を朗読したり、人前でスピーチをしたりしていた。
 近くに4畳半の事務所が有り、水炊きを作って味ポンでみんなで食べた。すっかり気に入ってしまって、2回目の参加から、例会の担当者をさせてくれと、当時の実行委員に申し込んでいた。
 「どもる人はだめだ」を、心の奥にしまい込んでいた私は、何処にいても居場所が無いような疎外感を、いつも持っていた。しかし、どもる人ばかりに囲まれるのは、自分の存在を確認できた。
 伊藤伸二さん、東野晃之さんが本格的に乗り込んできて、今のようなりっぱな大阪吃音教室になる以前の6年間、集まるだけの質素な例会の輪の中にいつもいて、周りをかき回した。担当が自分一人になっても、例会を続けていく気持ちだった。しかし、不思議に次々と新しい担当者が現れて、仲間を増やした。「10年遅れた青春だった」
 例会で、「吃音の受容」が言われ出した。私は、どもりを持ったままで生きて行こうと、人に言っていたが、しかし、「受容」の言葉に嫌悪感をはっきり持った。
 ダブルスタンダード。2つの標準を持つ。表と裏がある。理性と感情が違う。言葉と行動が違う。
 どもりを持ったままで生きる事と、受容するは、どこが違うのか。受容の言葉は私には向かないと、矛盾を感じながら背を向けた。
 どもる事にアンテナを張り、仲間を作ってきたので、親しくなる女性も、どもる人が多かった。しかし、どもる彼女に、いちずにはなれなかった。
 女性の彼女は好きだけど、どもる彼女は嫌い。中途半端な、煮え切らない男。空回りの20代の恋だった。
 親戚には、あいもかわらず、話す事ができない。
 無口で、暗く、真面目なんだけど、ちょっとたよりない印象だったと思う。当時は不思議で、何故かわからなかった。今は分かる。どもって話したら、父親が嫌がるからだ。
 父親が、大阪市内の病院を入退院繰り返していた時、自分の葬式が近い事に気がついて、「わざわざ」、結核を発病して、私の会社の近くに強制入院してきた。
 「こここ〜んど、来る時、いいいいいいいそじまん、も・・もって来てくれ。」
 2ヶ月間、父親は子どもみたいな素直などもりを、「強制的に」私に聞かせた。そして、何故か2ヵ月後、結核菌は消えて退院した。
 父親は、幼い息子に「どもる人はだめだ」の種を植え、あらゆる攻撃にも耐え抜いて、しっかり実らせ、収穫期にすべて刈り取っていった。来年の春は自分で決めた種をまきなさいと、言い残して。
 平成16年6月5日、朝ご飯を食べて、昼穏やかに、85歳で他界した。
 完全犯罪を成立させて、真実が分かったときは、天国へ高飛びである。
 今、天国で悪意のある顔をして、ニヤっと、こちらを見ている気がする。
 葬式では、父親の計画どおりに、私は親戚の前で、子どもみたいに素直にどもりながら、堂々と威厳を持って、喪主の挨拶を済ませた。

〈五孝さんの講評〉
・構成がうまいです。最初の段落、えっと思わせる。相矛盾するような表現を並べ、どういうこと?と、読み手の興味をつなげています。そして、最後の段落で見事にまとめています。構成を考えているなあと思ったのはこの作品だけです。段落ごとに話を変えて展開しているのもいい手法だと思います。
・どもりを持ったまま生きていこうという境地に達しても、「どもる人はだめだ」という父親からの呪縛から逃れられなかった、父の死で初めて解放され、素直にどもれた、というのが大意なのでしょう。しかし、私には父親の呪縛だけの問題かと感じました。うまく説明できないのが残念ですが、筆者が心の中をもっともっと見つめれば、違う文章になったような気がします。
・また、いらないと感じる段落がありました。個々の文章でも、分かりにくい個所があります。特に最後の3段落はとくに分かりにくいです。説明不足、舌足らずというより、もっと分かりやすく説明することから逃げているような気がしました。惜しいです。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/05/22

第7回ことば文学賞受賞作品

 前回、受賞発表の日の大阪吃音教室の様子と、選考をお願いした五孝隆実さんの文章を紹介しましたが、今日は、受賞作品の紹介です。改めて読み直して、ひとりひとりの物語の豊かさを感じます。

《最優秀賞》  母との思い出
                       橋元貴世(大阪 主婦 28歳)

 私が母に真剣に吃音の相談をしたのは5年前のゴールデンウィークです。
 社会人になってまだ1ヶ月程で、会社での電話に相当まいっていた時期でした。私は吃音の正しい知識もなく毎日家に帰っては受話器をもって、電話の練習をしたり発声練習をしていました。
 大学の友だちと卒業以来久しぶりに集まると、皆はまだ仕事に慣れないけれど、少しずつ覚えてきて楽しくなってきているようでした。電話で悩んでる人もいましたが、私のように電話の取り次ぎや会社名が言えないなどのそんな単純なことではありませんでした。そんな友だちの話を聞くと、私は皆がとても生き生き働いているように思い、うらやましくなりました。私は皆とは違うんだとますます落ち込みました。
 その翌日だったでしょうか。父は出かけており、姉も妹もそれぞれ彼氏とデートの為に朝から出かけて私は母と2人でした。その日は本当にいい天気でした。私は家で何をするのでもなく、ボーッとテレビを見たり、姉や妹のことをうらやましく思い、またどうして自分だけ吃音なんだろうと考えたり、ダラダラと過ごしていました。
 そんな時、私に元気がないのがわかったのか、急に母が「貴ちゃん、お弁当持って浮見堂に行こう! こんないい天気に家にいても仕方ないやん」と誘ってくれました。私は、落ち込んでいたので外に出る気持ちにはなれなかったのですが、せっかく誘ってくれているのに断るのも悪いなとそんな気持ちで家を出ました。浮見堂は家から歩いて10分もあれば着くのですが、本当に久しぶりでした。
 久しぶりの浮見堂は、新緑がきれいで、観光客がたくさんいて、ぽかぽか陽気でとても気持ちよかったです。芝生の上でお弁当を広げて食べました。いつもと変わらないお弁当なのにすごくおいしくて来てよかったと思いました。お弁当も食べ終わり、2人で少し歩いてベンチに座りました。
 そこで、私は急になぜ話そうと思ったのかはわかりませんが、吃音で悩んでいることを話しました。就職活動の時に少し言ったことはあるのですが、会社に入って慣れてきたら吃音は治ると思っていたので、真剣には話していませんでした。
 「カ行とタ行が言いにくい。最近、ア行も言いにくくなってきて、電話で最初にありがとうございますのアが出ないのがすごくしんどい」
 「えー! そんなん初めて知ったわ。そんなことってあるんや。でもいつも言えてるやん」
 「それは私が言い換えしてるからやねん」
 「それやったら貴世のタも言いにくいん?」
 「うん」
 このような会話が続いて、母はすごく驚いた様子でした。私は言いたいことが言えて少しすっきりしましたが、母は考え込んでいるようでした。
 それからしばらくたったある日、テレビか雑誌で見たのか分かりませんが、左利きを右利きに無理矢理直すと吃音になるという情報を聞いたらしく、「お母さんのせいかな?」と言いました。確かに私は小さい頃お腹が一杯になると、食べるのがいやになるのか左利きになっていたような気がします。しかし、私は中学2年の時の塾の先生のことが怖くて、発表するときにだんだん言いづらくなって吃音になったと思っているので、それは違うよと母に言いました。
 就職活動の時には、「気」というか「念力」をかけたメダルをもっていると吃音も治ると言われ、母もなんとかしようと必死だったようで、遠い地方へそれをもらいにいってくれました。そのように心配をかけていたのに、就職してからもまた母に心配をかけてしまったと、本当に申し訳ないと思っていました。
 それから、私はこのままだと会社にいられなくなると思って、吃音を治しに「話し方教室」へ行きました。母も賛成してくれていましたが。かなりの高額な為に心配もしていました。ですが、1年程たっても効果はありません。ここでは吃音は治らないと見切りをつけ、次に私が行ったのが大阪吃音教室でした。「吃音と上手くつきあおう」というのがどんなのか知りたかったのです。
 そこではみんなが堂々と楽しそうにどもっていて、前の「話し方教室」のようにどもったら注意されていた世界とは全く違っていました。私はとても満足した気持ちで家に帰ると母が玄関の前で待っていてくれました。私は「どもってもいいんやって」と教室での様子を話ました。母も「そうやで、どもったっていいんやで」とこたえてくれました。
 その日以来、吃音の相談は大阪吃音教室でするようになり、母にはしなくなりました。
 そして、家でもどもれるようになってきました。それでもたまに吃音の話になると「なかなか人にわかってもらえない悩みを抱えてがんばっている」と言ってくれます。ところが今の私は母が思っているよりもずいぶん楽になっています。「今は本当に、全然、吃音には悩んでないから心配はいらないよ」というのですが、わかっているのかわかっていないのかよく分かりません。ですが、吃音について母にわかってもらおうと話し合うつもりはありません。説明するよりも私が元気でいる姿を見せるのが何より母に心配をかけた恩返しだと思っています。
 あの日、浮見堂で真剣に話を聞いてくれたことは私にとってとてもよかったことでした。
 否定されたり、そんなことで落ち込んでどうするのなど言われていたらもっと落ち込んでいただろうと思います。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

〈五孝さんの講評〉
・最初に読んだ時は、さほど強い印象はなかったのですが、2度目、3度目になるといいなあと感じました。飾り気のない、素直な文章。たんたんと書いています。すっと読めました。分かりにくいところは、「メダルをもっていると……」の一個所だけでした。
・テーマも、お母さんとのからみだけに統一されています。「どもってもいいんやって」「そうやで、どもったっていいんやで」。なにげないやりとりのなかで、親子の愛情が描かれています。お母さんの愛情をしっかりと受け止めていることが伝わってきました。
・吃音と上手につきあおうという気持ちになるのは難しいことだと思います。でも、この筆者はやり遂げるような気がします。読者にそう思わせるというのは、この人の文章の力でしょう。
・難は句読点の打ち方。もっと考えた方がいいでしょう。句読点の打ち方は人によって様々のようですが、私はかなり多く打つ方です。私は皆さんと違って実際に声を出して読むことはしませんが、頭の中では書きながら声を出しています。リズムを考え、言葉を切った方が良いと思ったところで句読点を打ちます。

※注紹介した文章は、五孝さんの指摘を受け、句読点が少し修正されたものです。また、分かりにくいと指摘されたメダルのところも少し加筆・修正されています。

 この五孝さんの講評を聞いて、橋本さんは涙した。この素直さが、きっと最優秀賞につながったのだろうと思う。…筆者はやり遂げるような気がします…との五孝さんのことばは、橋本さんにとって、静かで大きな応援になったのではないだろうか。(「スタタリング・ナウ」2005.3.20 NO.127)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/05/21

第7回ことば文学賞

 「スタタリング・ナウ」2005.3.20 NO.127 の巻頭言、「私は書き続ける」の紹介後、ことば文学賞の受賞作品を紹介するつもりでいたのですが、うっかりして、次の号の巻頭言を紹介してしまいました。元に戻ります。
 大阪スタタリングプロジェクト主催の第7回《ことば文学賞》の受賞作品を紹介します。
 ことばや吃音について、そして自分について、文章に綴り、私たちの体験を多くの人に届けよう、文章を通じて語り合おうと始まったことば文学賞は、ひとりの人の人生にふれることのできるいい機会ともなっています。
ひと欄 第7回の応募作品は、前年と同じ15点でした。これまでの選考者の高橋徹さんに代わり、高橋さんの朝日新聞記者時代の後輩であり、日本吃音臨床研究会とのおつきあいの長い五孝隆実さんに、講評と選考をお願いしました。五孝さんは、自分自身がどもる人であり、仲間として強い関心をもって、1986年8月、京都で開いた第1回吃音問題研究国際大会会長の伊藤伸二のことを、朝日新聞の名物コラム「ひと」欄で紹介してくださいました。

 2005年1月21日(金)の大阪吃音教室は、ことば文学賞の発表でした。誰が入賞したかは、誰も知りません。応募した人はもちろん、大勢の参加者が、わくわくしながら集まってきました。
 では、その日の教室の様子から紹介します。

 
第7回ことば文学賞 受賞作品発表の大阪吃音教室

 まず、薄緑色の冊子にまとめられた応募の全作品を読んだ。作者自身が読んだものもあるし、参加していない場合は、代わりの者が読んだ。15点全てを読むと、かなり長時間になるが、どの作品にも、作者の思いがあふれていて、うなずきながら聞き入った。そして、その中から、まずは参加者で、いいなあ、気に入ったなあと思う作品を挙手で選んでみた。
 「どれにしよう」、「あれはもよかったなあ」、「こっちもいいなあ」、そんな声があちこちから聞こえてくる。上位3点が決まった。
 いよいよ五孝さんによる選考の発表だが、この日、どうしても参加できない五孝さんに代わって、コメントを紹介しながら発表した。今回、私たちが選んだ作品と五孝さん選考の作品が見事に3点とも合致した。違うのもおもしろいけれど、ぴったり合うというのも、なんともいえずうれしくなってくる。
 選考にあたって、五孝さんは、《書くこととは》《応募作品を読んで》という2つの文章を寄せてくださっている。これまで文章を書くことを生業としてこられた人のもつ厳しさと、同じどもる人としての温かさを両方味わうことのできる文章である。受賞作品につけられたコメントも、うなずけるものばかりだった。長く、私たちの活動を見つめ続けてきた方ならではの視点がうれしい。

◇◆◇書くこととは◇◆◇
・書くということは、自分の考えや思いなどを人に伝えることです。人にきちんと伝わらなければ意味がありません。わかりやすさが基本です。いわゆる名文であることは二の次です。読む人の心、頭にすっと入っていける文章の構成、言葉の選択が問われます。
・何を伝えたいのか。書く作業を通して、考えや思いを整理する、掘り下げる、突き詰めていくことが大切です。どこまで整理し、掘り下げ、突き詰めていけるか。その作業が書く本人にとっても魅力だし、読む人を引き込む原動力になります。
・他人の文章を読むのは、かなりしんどい作業です。たいがいの人はしたいことがいっぱいあります。だから、書く側は簡潔な文章に徹した方がいいでしょう。意味不明なところなど、ちょっと蹟く個所があると、もう読んでもらえないものだと考えた方がいいでしょう。

◇◆◇応募作品に寄せて◇◆◇
・どの文章も、吃音をどう受け容れるか、その苦悩を語っていて、同じ経験をしている私は胸をうたれました。
・スムースに言葉が出ないことはつらいに決まっています。伝えたいことが伝えられないし、ほかの人と違う自分が恥ずかしい。どもりであることが自分のすべてだと思ってしまい、劣等感にさいなまれます。ここまでは自然な心の動きでしょう。要は、このあと、どうするかです。
・伊藤伸二さんの文章の魅力は、悩みながら繰り返し繰り返し考え抜いてきたことから来ていると、いつも感服しています。作文のテクニックではなく、内面の葛藤が文章力を鍛えたのだと思います。
・初めて読ませてもらって素直な文章が多いのに感心しました。逆に言えば、もっと心の中を掘り下げてほしかったという気持ちも否めません。人を引きつける文章は心の葛藤をさらけ出して初めて書けるような気がします。
・ただ、文章の巧いか下手かは、人によって評価が異なると思います。素直に書くのが一番だと私は思っています。
・技術的なことを少し書けば、全体に文章が詰まりすぎています。もっと整理し、さらに改行をもっと増やした方がいいと思います。それだけでも読みやすくなります。少なくとも途中で読むのを放棄されることから、いくらかでも免れます。(「スタタリング・ナウ」2005.3.20 NO.127)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/05/20
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