伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2024年03月

建設的な生き方 3

 2003年、文化人類学者のデイヴィッド・K・レイノルズさんをお迎えして行った吃音ショートコースの中でのお話を紹介してきました。紹介しているのは、ワークショップ全体の話の中のごく一部分です。話は変わりますが、と前置きして次々と話が展開していくのがとてもおもしろかったと記憶しています。少し長くなりますが、ひとつの塊なので一気に紹介します。
 今日はその最後です。
 
建設的な生き方 3
デイヴィッド・K・レイノルズ(文化人類学者)

人間成長の階段―悟りへの道

 話が変わりますが、悟りの階段について話します。メンタルヘルスへの階段でもいいし、実際的な人間になるための階段でもいいです。私が提案したいのは、いつもハッピーな人じゃない。いつも不安のない人って変ですよ。たとえば、もしこの部屋で火事かなんかあったとしたら、ハッピーな人は変でしょ。「おもしろいな、火事だな、みんな死ぬ、ハハハ」なんて。だから、ときどき不安を感じる人は当然と思うんですよ。実際的です。だから、いつもハッピーとかいつも快適とか、そういうものは望まない方がいい。非現実的です。私が育てたいのは、実際的な人間です。

第一段階 汚い部屋にいても気づかない
 この人は、一番低い段階です。この人は悩んでます。自分の部屋がとても汚いのに、そのことに気がつかない。どうしてこの人が一番低い段階かというと、悩んでいるからじゃない。悟った人でもみんなときどき悩んでいます。悩んでいない人間はいない。私の知り合いには、偉い禅の老師、カトリックの神父さん、政治家や俳優がいますが、みんなときどき悩んでます。
 だけど、この人は、汚れ放しの自分の汚い部屋に気がつかない。事実は見てないからです。周りに気がつかないくらい悩んでいる。そして自分の悩みばっかり見ているんです。ある吃音に悩んでいる人は、自分の悩みばっかり言ってるでしょう。だから、いろいろなおもしろい事実があるのに、それを見ようともしません。気がつかない。現実を知ろうとしないのです。
 今、ちょっと実験しましょう。みなさん、目をつぶって下さい。
 この部屋にはテレビがあります。目をつぶったままそこを指さして下さい。隣に座っている人の洋服の色、分かりますか。観察しましたか。洋服の色、形、どんな柄か気がつきましたか。この部屋にはカーテンがありますが、どこにあるか覚えていますか。指さして下さい。
 はい、目を開けて見て下さい。
 (みんな、目を開けて周りを見る。「おー」の声)
 周りの人たちの洋服の色とか、おもしろいでしょ。だけど、悩んでいる人だったら、自分の心の問題しか見てないですね。後の事実、見てない。自分の心の悩みも事実ですよ。だけど、狭い事実ですね。もっともっといろいろおもしろいこと、あるんですよ。自分の悩みの問題ばっかり考えると、気がつかない。そして、不思議なことは、外の方に向かうと、自分の悩みはある程度は忘れる。森田先生のことばに「努力すなわち幸福」があります。努力して後で幸福になるということじゃなくて、努力していることが幸福だということですね。ある人は一所懸命将来のために、何か努力する。それは、まあ役に立つかもしれないけれど、何か失っている。
 道元禅師も同じことを言っています。座禅は将来の悟りのためにするのではなく、座禅そのものが悟りであると。
 一所懸命何か努力すると、座禅とか周りの環境を観察するとか、私が何を言ってるかを考えるとかをするときは、一時的に自分の悩みは消える。こっちの方に意識が向かうとあっちの方を忘れる。気がつかないから、できるだけ外の方をいろいろ観察すると、心の悩みなどは一時的に消える。

 宿題を差し上げます。今日、お暇なときは、ぜひ外で散歩して下さい。散歩しながら、赤いボールを探して下さい。淋しいボールです。捨てられたとか、忘れられたとか、どこかにあるんですよ。みつけたら誰にも言わないで下さい。次に、小さい雪だるまを探して下さい。一所懸命探しながら、自分の集中は外の方に向かう。そうすると、吃音の悩みも一時的に消えるんですよ。普段、私たちは散歩するときは、自分の心の中にあることばかり考えるでしょう。全然気がつかない。だからわざと外の方に注意を向けるのです。最初の段階としてはまあ十分です。

第二段階 現実に気づいてさらに悩む
 次の段階は、この人も悩んでいますが、部屋が汚いことには気がついて、そのことでさらに悩む。「こんな汚い部屋に暮らすなんて」「こんなひどい人と結婚してしまって」「こんな会社に入ってしまった」。ちゃんと現実を見ていますが、そのためにさらに悩むのです。だけど、その方がまだいいんですよ。ある程度は、外も見てる。段階としては一段目よりはいいですよ。こういう人がほとんどです。悩みは多く、部屋の掃除はしない。この人はただ座って文句言う。
 文句を言うのは、二つの理由でいけない。ひとつは、周りの人たちに悪い。自分の悩みを繰り返し繰り返し言うのを周りの人たちは聞きたくないですよ。周りの人だけでなく、文句言いながら自分の集中は、自分の不満な所に向かってますます悩むから自分にも悪いですよ。
 ある理論によりますと、文句言うと、解決するはずです。こんなの、信じなくていいですよ。みなさん、自分自身の経験で分かると思うんです。ある人は、小さい悩みがあるときに、文句を言い続けると、怒りや悩みは大きくなるんですよ。私の友だちは小さな文句があると、別に怒ってないんだけど、言いながらますます怒ってしまう。
 感情について三つの対処があります。現代の考え方では、〈感情を表現する〉ことはいいと言います。しかし、どんな感情でもそうすると、いろいろな反社会的な感情が湧いてくる。怒りをあまり表現しすぎると、人を殴りたくなり、実際殴ってしまうかもしれない。もう一つは〈感情を抑える〉ことです。怒りの感情を抑えることは、感情は事実だから、できないことだし、いけない。
 私の提案は、自分の〈感情を認める〉ことです。感情はそのままに、とにかく自分の決めた必要な行動をする。みんな毎日そういうことをしてるんですよ。例えば、私は納豆が好きじゃない。食べたくないけれど、出されたものは食べないと悪いと思うから、食べる。「納豆、好き」とか、「納豆が嫌」だとかは言わない。心の中の「納豆嫌いよ」という感情は認めるんです。だけど、納豆を食べることはできる。そして、自分の気持ちはごまかさない。「今日は納豆、好き」だとか言わないし、思わない。そう感じる必要ない。ただ、事実を認めるんです。感情は事実として認め、そして自分のなすべきことはする。みんな、毎日そうしてるんですよ。 とにかく、この人は部屋が汚いことに気がつきますが、部屋を掃除しない。第一段階の人は、部屋が汚いということにも気がつかないから、部屋を掃除することに気がつかない。だから、この2人は、感情中心ですね。行動してないですね。

第三段階 気をそらす人
 この人はおもしろい人ですよ。この人も悩んでいて、自分の部屋が汚いことに気づいて掃除をします。だけど、この人にどうして部屋の掃除してるかと聞きますと、「レイノルズ先生から建設的な生き方の話を聞いて、部屋の掃除をして気をそらすと、自分の悩みを一時的に忘れられるでしょ」と、悩みをなくすために掃除をしているのです。これまでの3人とも感情中心で、気分本意ですね。自分の感情が一番大事なんです。この人の部屋の掃除の理由は掃除をすることで感情をコントロールすることですが、コントロールできないことをするのですから、勝つことはできません。
 ときどきハッピーになっても、ときどき負けちゃうんですよ。好きじゃない感情が湧いてくるから、すごく悩む。一時的に悩みをなくすことを目的にした掃除ですから、気分本意になります。

第四段階 自分の力で生きる
 次の段階は、悩んでます。部屋が汚いことに気づいて掃除をします。部屋が汚いからというのが掃除をする理由です。感情と別に関係ない。汚い部屋を掃除するのは当たり前ですよ。自分の感情を忘れるために掃除をしているのではないですね。これまでの人とはずいぶんと違いますね。
 「私は悩んでいてもいなくても、ちゃんとなすべき事はしている」といいます。森田療法を学んでいる人の中にも少なくないでしょう。
 自分ひとりでちゃんと部屋の掃除ができてるので自力的な人です。自分の力だけでちゃんと自分の部屋を掃除してると、ちょっといばっています。どんな感情があってもなすべきことはちゃんと自分でひとりでできる。でも、ちょっと何かが足りない。

第五段階 別の事実を見た行動
 次の段階は、この人は、悩んでます。部屋が汚いことに気がついて掃除する。どうして部屋、掃除するかというのを聞きますと、部屋は汚いから掃除すると言いますが、もう少し聞きますと、こう言います。
 「部屋の掃除の仕方を母から教えられた。知らない人が掃除機を作ってくれたおかげで掃除をすることができる。掃除機を使うには電力が必要だが、その電力をつくる人たちのおかげで私は部屋を掃除できる。部屋の掃除ができるのはいろいろな人のおかげなのだ」
 と、自分の努力も必要ですけれど、周りの人たちのおかげで掃除ができるという事実を認識しています。私は感謝について何も話していませんよ。この人は事実を認めているだけです。この人の方が実際的です。多くの人のおかげだと気づいています。おかげさまでいろいろできる。生かされていることを実感している人はそう多くはありません。感謝でいっぱいの人がすごく悩んでいるという人を日本でもアメリカでも見たことがありません。だけど自分の意志で感謝の気持ちを作ることはできませんが、事実を認めることはできますね。

第六段階 無我夢中
 次の段階です。この人、悩んでます。部屋は汚いことに気がつき、掃除をする。どうして部屋を掃除するかというと、部屋は汚いから。
 多分、こういうことを言うかもしれない。「現実の部屋は汚くなったので、ただその現実に添っているだけです。ただ今、部屋の掃除中です」
 第四段階の人はひとりでやってると思い込んでる。自分の力だけで部屋の掃除をしてると思うんですよ。第五段階の人は、いろいろな人たちのおかげで部屋掃除することができると思ってる。この第六段階の人は、自分のことが消えてしまっている状態ですね。無我夢中と似ています。
 こういう経験、あるでしょう。あなたが小説を読んでて、2時間の間に、あなたは主人公になっているかもしれません。そして、2時間たって、ハッと目が覚めたように現実の自分に戻る。その2時間の間には、ある意味で自分は消えています。ただ「空」の状態で、自分を失い、なりきる。ことばで表現するのは難しいのですが、自分が消える、なりきるときに問題も消えるのです。

人生は昇ったり降りたり

 心の成長段階には、感情中心から、目的中心、事実中心までの段階まであります。大体こんな感じですね。もし、あなたが第一段階からスタートして、努力して努力しさえすれば、第六段階まで行けると思ったら、あなたは周りを観察してない証拠です。みんな、昇って降りて昇って降りてしています。ときどき、この辺、ときどき、この辺ですよ。世界で有名な禅仏教の老師が、第六の段階の経験もある人だと思うんですが、アルコール中毒になって、ロスアンゼルスのアルコール・リハビリ・プログラムに入っていました。ときどき、第一や第二段階にいたんです。
 悟りの経験がある人でも動きます。人間みんなそういうものです。だから、あなたの理想は高くて、ずっと第六段階で暮らしたいかもしれないけれど、人間はみんな不完全です。この段階でずっと生きるのは、不可能です。あきらめて下さい。

感情には責任はないが、行動には責任がある

 私が強調したいのは、怒りとか絶望は自然な現象だから、どんな感情が湧いてきても悪い人間にならないということ。感情はコントロールできないから、自分の感情に対して責任ない。だけど、自分の行動に対しては、責任は必ずある。建設的な生き方は感情に対して、すごくやさしいですが、行動に対してはすごく厳しいですよ。
 どんな行動にもモラルが、責任があるんです。たとえば、嘘、不倫、とかだけじゃなくて、あなたの座り方に対して、モラルの意味があるんです。書き方とか、歯の磨き方とかにも。たとえば、朝起きて、パジャマを脱いで、パジャマを脱いだままにする、それはパジャマさんに悪い。パジャマさんって、変な言い方だけど、パジャマのおかげで、この人は快適に寝ることができたので、パジャマさんを脱ぐと、やっぱりたたむ方がいい。
 日本人は靴を脱ぐと、ちゃんとそろえるでしょ。いいことですよ。私は最初の頃、これはただ日本人の習慣だと思ったんです。だけど、それだけじゃないですね。靴に対するお返しになるんですよ。ある人は、靴にご迷惑をかけるんですね。靴を履くと、後ろのところを踏みつぶす人がいます。靴に悪いですよ。
 怒ってるときは、犬を殴る、それはいけない。怒ってるということは感情だから仕方ない。いいか悪いか全然関係ない。ただ、殴ることは、行動ですから、責任がある。そういう区別は、すごく大事と思うんですよ。感情は直す必要がないと思うんです。だけど、日本人は、一所懸命自分の心を直そうとする。自分の行動を直す必要はあるかもしれないが、怒ってるときは怒ってる。悲しいときは悲しい。これは、自然なことと思うんです。
(話はまだまだ続きますが、一つの話のまとまりを紹介しました。「スタタリング・ナウ」2003.12.20 NO.112)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/03/21

建設的な生き方 2

 20年以上前にお聞きした話なのに、読み返してみると、レイノルズさんの言い回しというか口調を真似できるほど、よく覚えています。話とワークとを組み合わせた楽しく豊かな時間でした。レイノルズさんの建設的な生き方の提案は、実践できる事ばかりです。以前からしていることもあり、新しくしてみようということもあり、今でも実践していることがあるということは、レイノルズさんの考え方が僕の考え方と共振したということでしょう。森田療法と内観法とのドッキングなので当然のことかもしれません。とにかく役に立つことばかりです。

建設的な生き方 2
                 デイヴィッド・K・レイノルズ(文化人類学者)


コントロールできない感情への一時的な扱い方

レイノルズの本の表紙1.気をそらす―筋肉を使う
 まずひとつは、あなたがすごく困っているとき、興奮してるとき、不安でいっぱいのとき、気をそらして下さい。いろいろなやり方がありますが、一番やりやすい方法は、筋肉を使うことです。例えば、車を洗う、靴を磨く、部屋を掃除するなどしていると、自分の恐い気持ちや、恥ずかしさが、一時的に消えるんですよ。そして、不思議なことは、車や靴や部屋がきれいになるんです。どうして一時的かというと、大体悩んでいる人たちは、ときどき確認するんです。部屋を掃除しながら、「私の恐怖感はなくなった?」。そうすると、パッとまた恐怖感が出てくる。
 私は、飛行機恐怖症だと言いましたが、実はそれは嘘です。私は飛行機が揺れるととても恐くなりますが、飛行機がスムーズに飛んでいるとき、私は、そんなに恐くない。おいしい食事を食べている間とか、かわいいスチュワーデスさんが歩いている時、恐い気持ちに気がつかないことがある。だけど、揺れるときは必ず恐くなりますから、私は、そんな時は本当は機内を掃除をしたいのですが、させてくれません。だから、安全ベルトをしたままで、一所懸命はがきに絵を書くんです。それが、このはがきです。回しますから見て下さい。
 Constructive Livingは、とにかく信じなさいという宗教ではありません。自分の経験で確認できます。役に立つことは使って下さい。役に立たないところは、無視していいですよ。だけど、私の経験では、飛行機の中で揺れてとても恐いとき絵を一所懸命描くと楽になります。

2.待つ一時間の流れで感情は静かになる
 2番目のヒントは、今度すごく困ったときは、待つことです。そういう経験はありませんか。どんなに辛い感情でも待つだけで静かになるんじゃないですか。感情はずっと同じレベルでは続かない。それは、常識だと思うんです。人の前で失敗して、恥ずかしいと思っても、1時間2時間たつともう消えている。別の感情でいっぱいになるから。待つだけで、救いになるんです。
 待つと必ず感情は静かになります。例えば、私の父は食道ガンで亡くなりました。30年くらい前です。父は、8歳からたばこを吸った人で、60代になってすぐ食道ガンで亡くなりました。
母は、すごく悲しかったけど、何週間、何ヶ月経って、ある程度は悲しみは静かになった。しかし、結婚記念日や父の誕生日やクリスマス、父の洋服を寄附したときとかは悲しみは出てくる。だけど、亡くなってすぐの悲しみと、誕生日に味わう悲しみは、似てるけれどちょっと違います。
 ある理論によりますと、子ども時代の悲しみは、無意識なところに抑圧されて、そういう悲しみはまた大人になってまた出るという。そんな理論は信じなくていい。子ども時代の悲しみと、大人の悲しみとは違う。子ども時代の悲しみを思い出すかもしれないが、大人なってから思い出して感じる悲しみとは同じじゃない。
 とにかく悲しみは、ある程度は待つだけで必ず和らぐ。それは、グッドニュースですね。残念ながら、好ましい感情もそうです。日本人もアメリカ人もそうですが、デートするときに、やさしいことばをお互いに言いますね。おみやげを交換して、ロマンチックなディナーを楽しむ。そして結婚して…。(爆笑)そうよ、3年間たって私の所に相談に来る。「結婚生活からロマンチックな愛はなくなりました」って。当然ですよ。私、必ず聞くんですよ。「あなた、ロマンチックなディナーしてますか」って。「いやー」。お互いにやさしいことばがいるんです。「あの人は私の気持ちは分かるはずだ」と多くの人は言いますが、愛のある行動が続かないと、感情は自然に静かになる。もしあなたの結婚生活にロマンチックな愛を続けたいならこういう行動が必要でしょう。

3.行動はある程度感情に影響する
 3番目のヒントは、行動をうまく使うと、ある程度は感情に影響するということです。感情を直してから何かをするというのはいけないですが、逆に行動を直すと、感情にある程度、影響させることはできます。
 例えば、あなたは冬の朝、寒くて起きたくないが、起きなくてはいけない。そのときのひとつの行動としては、かけぶとんを思い切って自分で剥がすことです。寒いから起きると思うんです。起きたい気持ちが出てくるかもしれない。
 あなたは毎日ランニングしたいけれど、ある日、起きて「今日はやる気がしない」と思ったら、ソファに座ってランニングしたい気持ちを作ろうとしないで下さい。今日はランニングしたくないけれど、ランニングウェアーを着てランニングシューズはいて下さい。これが行動です。すると、ランニングしたい気持ちが湧いてくるかもしれない。気持ちが湧いてこなくても、せっかく全部着てしまったんだから、脱ぐのはめんどうなので、ランニングするかもしれない。行動をうまく使うと、ある程度は感情をコントロールすることはできるのです。
 私は昔は俳優でした。ハリウッドでテレビ番組の主人公でした。私は20歳でしたが、若く見えるから、私の役は、12歳の子どもでした。俳優は英語では、アクターと言います。アクターの、アクトは行動するという事です。俳優さんたちは、自分の役に入るために、いろいろ行動します。そうすると役に入れる。舞台には、テーブルやコップが置いてあります。舞台装置は、観客のためでなく、俳優のためのものです。道具を使いながら自分の役に入っていくんです。行動をうまく使うと、自分の役ができるようになるんです。

精神病院に体験入院

 私はアメリカの政府から研究のための助成金を得て、精神病院の中の自殺を研究をしたことがあります。患者の内面から自殺のことを研究したいと思いました。私は俳優でしたから、自殺願望のあるうつ状態の患者になって、アメリカの精神病院に入院することになりました。ある精神病院のスタッフから許しを得て、誰が入院するかスタッフには知らされずに入院するんです。私の問題は自殺的なうつ的な自分を作ることです。私自身をうつ状態にして、自殺したい気持ちを作り出さなくてはなりません。どういうふうにしたかを教えてあげましょう。こういう行動をとればうつの状態を作ることができます。
 まず、できるだけ暗い部屋に、座るか横になり、力を抜いて、下を向く。これ、全部行動ですね。目に見えることです。そして、「ハー」と溜め息をする。何度も溜め息を繰り返してこういいます。
 「もうだめだ。ハー。どうしようもない。ハー。私のこと、誰も分かってくれない。ハー。私のこと、誰も愛してくれない。ハー。もう、だめだ」
 大体8時間、3日間続くと、だんだん悲しい気持ち、絶望的な気持ちが湧いてきます。興味あったらやってみて下さい。自分や友だちの、そういう行動を見たら気をつけて下さい。
 私は入院し、いろんな心理テストを受けて、専門家からこの人はうつ的な人だと診断されて2週間入院しました。専門家はテストを見て、この人は嘘はついていない。本当にうつ的で、自殺的で本当の問題ですよと言っていましたよ。
 1日目は、抗うつ剤を飲んだのですが、頭痛がして変な気持ちになったので、2日目からは、舌の下に置いて、水をいっぱい飲んでトイレに行って、ピルをはき出していました。とにかく、研究は2週間の予定なので、治らないといけない。ずっと精神病院でうつ的な生活をしたくないですから退院をしなくてはなりません。どういうふうに自分まで戻ったかを教えましょう。あなたがうつ的になったら、こういう行動で、ある程度は、直るかもしれない。
 まず、運動することが必要でした。うつ的な人は大体、暗い部屋で横になるとか、長い間座るとか、運動したくない、運動する気にならない。だけど、運動したくなくても、運動する気がなくても運動すればいい。私はよく散歩しました。散歩したくないけど、あるときは、散歩しながらやっと散歩したい気持ちが湧いてきました。散歩やジョギングやテニスなど何でもいいからまずからだを動かすことです。
 2番目ですが、うつ的な人にすごく悲しいのは、刺激がないことです。暗い部屋で長い間じっと座ったり横になっていると、うつ的な感情は続きます。だから、刺激のあるところに出かけるんです。繁華街や商店街、私はよく商店街を散歩しました。そのような賑やかなところは、目の刺激、耳の刺激などいろいろと刺激がある。そういう所へは本当は行きたくないが、行くといい影響が出ます。
 3番目のヒントは環境の変化です。今でも、私、あの精神病院で、前と同じ椅子に座ると、憂鬱的な部分は少し湧いてくる。そういう経験、あると思うんです。あなた方は、故郷に帰りますと、子ども時代の自分が少し湧いてくるんじゃないですか。環境によって、私たちは変わるんです。
 悩んでいる人が変わりたいと思ったら、自分の環境をチェンジして下さい。引っ越ししなくてもいいですから、自分の部屋の色を変えるとか、家具をアレンジするとか。また、いつもは毎日お昼に、「おもいっきりテレビ」を見る習慣だったら、その代わりに「笑ってもいいとも」を見た方がいい。環墳が変わると、自分が変わる。内弁慶ということばがあるでしょ、日本語には。外と内とで、人が全然違う。これは環境による変化ですね。(「スタタリング・ナウ」2003.12.20 NO.112 つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/03/20

建設的な生き方 1

 2003年11月1・2・3日、滋賀県の近江希望が丘ユースホステルで、第9回吃音ショートコースを開催しました。テーマは、《建設的な生き方に学ぶ》として、アメリカの文化人類学者デイヴィッド・K・レイノルズ博士をゲストに迎えました。ユーモアたっぷりで、独特の味のある話し方のレイノルズさんのこと、鮮明に思い出します。今でもときどき、口をついて出るほどです。流暢な日本語のレイノルズさんの魔法にかかったような、充実した3日間でした。
 また、建設的な生き方の実践者として、落語家の桂文福さんを迎えました。楽しい落語と、どもるがゆえに個性的な落語家になったという、爆笑に爆笑の渦の中で、ちょっと吃音の苦しいエピソードにしんみりしたり、温かいパワフルな時間でした。実践発表も充実していました。
 吃音ショートコースの中の、レイノルズ博士の建設的な生き方のお話の前段の一部を紹介します。

  
建設的な生き方 1
                  デイヴィッド・K・レイノルズ(文化人類学者)

はじめに
レイノルズの写真 今日は話す時間が長いですから、英語でお話したいと思います。(笑)
 私の不十分な日本語を許して下さい。ときどきミスします。でも、大部分は通じると思います。この部屋でことばで本当に一番困っている人は誰だと思いますか。私ひとりですよ。なぜかというと、あなた方は日本語が全部分かるでしょうが、私はそうじゃない。あなた方は話すのは辛いかもしれないけれど、聞くことができて、日本語が分かりますね。これをみなさんは当然なこととして特別に意識はしない。人間は自分のできたこと、できることを大したことじゃないと思うんですね。みなさんのようには日本語を理解できない私にとっては、話が分かるのは大したことです。ところが、できないことや、難しいことはとても意識します。どうしてそういう傾向があるのでしょうか。
 たとえば、100点満点の試験で90点をとる人は、結構「ああ、あの10点はミスした」と強調する。90点とれたことをそんなに大したことじゃないとその人は思う。自分のできるところ、いいところをよく考えて下さい。
 自分の子ども時代の困ったところ、悩んだことをよくみんなの前で話す人がいます。数回くらいはいいですが、毎回毎回自分の苦しみや困ったことばかりを話す必要はないと思うんです。成功したこともあるんですよ。成功したことについて話した方がいいと思うんですが、日本人は遠慮します。自分のいいところを人の前であんまり言いたくないようです。だけど、あなたの過去には実際には、いいところもよくないところもあるんです。だから、悪い所ばかりを強調しないで下さい。

人生でできることとできないことを知る
 建設的な生き方について話します。英語でConstructive Livingといいます。これは、大体ふたつのところから出てきました。ひとつは、森田療法です。森田療法は、慈恵医大の森田正馬先生の思想です。森田療法はもともと神経質の方たちのための治療法ですが、森田のことばでは、森田療法は再教育だといいます。もうひとつは、吉本伊信先生の作った内観療法です。
 森田的な考え方の基本的なことから話します。
 私たちの日常生活には、自分の意志でコントロールできることと、できないことがあります。まず、自分が年をとることは自分の意志でコントロールできませんね。妻や夫をコントロールしようとする人がいますが、完全にはできない。子どももそうです。他人をコントロールすることはできない。ときどき成功しても、基本的にはできません。
 また、自分の感情はコントロールできないですね。人間は一所懸命自分の感情をコントロールしようとする。「感謝しなさい」ということはよく聞きます。意味としては自分の意志で、自分の心の中に、感謝の気持ちを作りなさいという意味ですね。できますか?「悲しまないで」「怒らないで」ということばも、非現実的だと思うんです。怒ってる時は怒ってるし、悲しいときは悲しい。恥ずかしいときは恥ずかしいですよ。スイッチみたいにOFF・ONと、チェンジできない。感情は自然な現象です。
 また、しわが出ることもコントロールできない。ドモルリンクル(ドモホルンリンクルのこと)とかいうクリームを使ってもしわは出るよ。日本の経済の、景気か不景気かも、お天気もコントロールできない。雨が降るときに、無視しないで、雨が降ってると認めて、傘を持って出かけるんです。

感情はコントロールできない
 感情も同じで、お天気みたいにあるがままに受け入れる方がいい。認めるんです。怒ってるときは、ああ今私は怒ってる。悲しいときは、今私は悲しいと。無視しない。お芝居をしない。あるがままに受け入れる。コントロールできないものだったら、仕方ないですよ。だけど、日本人は無駄な努力をするんです。自分の感情をコントロールしようとする。自分と闘うと、自分の感情と闘うと、ますます問題が出てきます。ああ、私、こんな感情をもってはいけない、とか。
 たとえば、今朝、起きたくない人がいるかもしれない。ふとんはあたたかい。「どうして私は起きられないのだ。私はなまけ者だ。朝寝坊をするのはいけない」とか。そして、起きたい気持ちを作ろうとする。これがいけないのです。起きたくないということを認めて、ただ起きることです。そうできる可能性があります。自分の生活で自分の意志でコントロールできることは行動です。自分の行動は自分の意志で大体コントロールできることです。しかし、例外はありますよ。どもることは行動ですが、どもらないようにコントロールしようとするが、ときどきコントロールできない。だけど、吃音者ということば、やめた方がいいと私は思うんですよ。ときどきどもる、ときどきどもらない。そうじゃないですか?だから、この一瞬の間にどもっているけれど、次の一瞬ではどもっていない。だから、吃音者というラベルをつけると、ずっと変わらないイメージが出るんです。
 行動でコントロールできないのは、珍しいんだけど、くしゃみやあくびがそうですね。目に見えるほとんどの行動はコントロールできますね。行動は目で見えるが、怒りとか悲しみとか、寂しさの感情は目で見えない。心の中のことですよ。
 今の時代の人たちの考え方では、まず感情を直して、そして何かをする。こういう考え方をアメリカから輸入してきた。まず自信をつくって何かをしようとします。まず、恐怖感をなくして、人の前で立って話すとか、まず恐怖感をなくして飛行機に乗るとか、そういう考え方は馬鹿げています。コントロールできない自分の感情を直そうとするのは、無駄な努力をしてるんです。
 日本人は自分の弱いところを人に見せたくないようですね。私は昔、日本人に英会話を教えたことがあります。不思議なことに、日本人は不完全な英語では人に話したくないと思っているのか、英会話教室の中でもあまり話さない。だけど、完全な英語ができるのなら、英会話を習うより教えたらいい。私が不完全な日本語で話すのは、日本人じゃないから仕方ない。私には、何か伝えたいという目的があるから、不完全でも、恥ずかしくても、日本語を話すんです。

飛行機恐怖症でも飛行機に乗れる
 ある人が、「飛行機が恐いから乗れない」と言います。それは嘘です。恐くても乗れます。私は飛行機恐怖症です。飛行機が墜落して、いつか死ぬかもしれないという恐れがあります。そこで、私は飛行機に乗る前は、必ず遺言書を書きます。原稿なども全部片づけます。この原稿はこの出版社へ送って下さいとか、いろいろ準備をします。それでも、もう35年間、秋と春、飛行機に乗って日本に参ります。必要なことは、恐怖症をなくすことじゃなくて、チケットを買うことです。チケットなしで乗れませんよ。まず感情を直して何かをすることじゃなくて、自分の決めた行動があったら、必要な行動をすればいい。
 ある人は、「私は恥ずかしがりだから女性を誘うことができない」と言います。そんなことない。誘うということは、ことばで、行動です。恥ずかしい気持ちのままで「今晩、一緒に食事しませんか」「お茶、飲みに行きませんか」とことばで言うことはできます。したくない、したことがないとか、いろいろな言い訳をしますが、本当に必要で、本当にしたい行動だったらできます。行動を起こすために、まず恥ずかしいという感情を直すという必要はないのです。私はそれを強調したいです。
 だけど、私の所に相談に来る人たちは悩んでます。そういう人たちに、「いいえ、あなたの感情は仕方ないの。あるがままに受け入れて下さい。そして自分の必要な行動をして下さい。なすべきことをなすのです。いいですか。それでは面接は終わりです。相談料を払ってお帰り下さい」と言ったら、納得しないです。多くの人は感情で悩んでいるんですよ。だから、何か救いがほしい。
 これから、3つくらいの一時的な救いの方法を紹介します。しかし、一時的な救いでしかありません。悩んでいる人に私がほんとに教えたいのは、「どんな感情でも、行動できますよ」ですが、まあ中くらいの段階としての救いを差し上げます。(「スタタリング・ナウ」2003.12.20 NO.112 つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/03/19

他者信頼と内観

 経験してきたことが、後から学んだこととつながり、結びつくということがよくあります。ああ、あのときのあれは、これだったのかと、うれしくなります。
 吃音で深く悩んできた僕にとっては、それはあまりにも多く、吃音の奥行きの深さをいつも感じています。内観法、森田療法、アドラー心理学、ピタッピタッと当てはまるようにつながっていくのがおもしろく、愉快でもありました。「スタタリング・ナウ」2003.12.20 NO.112 の「他者信頼と内観」の巻頭言を紹介します。

他者信頼と内観
            日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 吃音ショートコースで、社会人類学者のデイヴィッド・K・レイノルズ博士から「建設的な生き方」について学ぶことが決まったとき、大阪吃音教室では事前学習として、これに関連する講座をもつことになった。私が担当したのが内観法だった。「建設的な生き方」のベースになっている森田療法はよく分かるが、「内観」と「吃音と上手につきあう」がどう結びつくのかとの質問を周りからよく受けた。
 内観法は、次の三つについて母親との関係をまず最初に、子ども時代から順を追って具体的な事実を調べていくというものだ。
  ・していただいたこと
  ・して返したこと
  ・迷惑をかけたこと
 内観法そのものについてはこれまで何度か内観法の専門家に来ていただいて、大阪吃音教室では学び、私も内観研究所で体験をしている。しかし、「吃音とつきあう」こととどう関係するのかと正面から問われると、明確に答えることができなかった。そこで、もう一度「内観」についてじっくりと考えてみることにした。いつものことながら、自らの体験を通して考え始めると、私は、あの時、内観を知らなかったけれど、内観をしていたのだと思いついたことがある。よく話もし、書いている経験だが、内観という観点からはこれまで考えたことはなかった。
 「うるさいわね。そんなことをしてもどもりは治りっこないでしょ」
 中学2年の夏、私は、『吃音は必ずなおる』(文芸社)という本を読み、大声で発声練習をしていた時に母親から怒鳴られた。私は涙をぼろぼろこぼしながら、「自分で治そうとしている僕に、何でお母さんがそんなことを言うんや」と母親にくってかかり、最初の家出をした。
 ひとりも理解ある教師に出会えずに教師への信頼感を完全になくしていた私は、その時から、家族に対する信頼もなくし、母親へ冷めた思いを持ちながら、最後の家出をしたのが20歳のときだった。
 反発し、反抗している家にこれ以上いたくない。お世話にもなりたくないと、自分の力で、大学に行くことを決心し、私は三重県の津市の田舎から大阪に出てきた。新聞配達店に住み込み、新聞配達をしながら、大学の受験勉強をするためだ。
 大阪での生活は本当に孤独だった。知らない大都会で初めて一人で生活するという、気が遠くなるような孤独の中で、私は母親をよく思い出した。すると、不思議なことに、「うるさいわね」と言った母親よりも、子どものころに私を胸に抱き、『動物園のらくださん』という童謡をよく歌ってくれ、大好きな弁当をよく作ってくれた母親ばかりが思い出された。内観法で言う「していただいたこと」ばかりが思い浮かんだ。母親から、「うるさい」とは言われたけれど、本当は私は母親に愛されていたのだという実感が湧いてきたのだった。
 私はひとりぼっちで、誰からも愛されず、理解もされていないと思い込んでいたのが、少なくとも母親は私の味方だという思いが、強く湧き上がってきた。私は知らず知らずのうちに、内観をしていたことになるのだろう。
 母親への信頼は、その後の初恋の人との出会いや、同じように吃音に悩む人との出会いを通して、他者信頼へと広がっていった。そして、それが、セルフヘルプグループ設立へと結びついていった。
 どもる人が他者への信頼をなくし、聞き手はどもっている私を受け入れてくれないと思ってしまえば、どもる人は話せなくなってしまう。どもってもいいと自ら思えるには、聞き手への信頼がなければならない。他者への信頼を、私は内観をすることによって取り戻すことができたのではないだろうか。
 アドラー心理学は、共同体感覚の育成を目標としている。そして、その目標を実現するためには、自己肯定と他者信頼と他者貢献の三つの体験、実感が必要だという。
 この三つが揃って初めて、自分らしく生きるという道筋に立つことができるということだろう。
 「内観」と「吃音とつき合う」ことを考えていて、私の好きなアドラー心理学のキーワードの共同体感覚と結びついたのはうれしいことだった。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/03/18

どもってもいいって?

 「どもってもいい」って、誰が誰に言っていることばなのか?、昔、そんな話し合いをしたような覚えがあります。そもそも、他人から、「どもってもいいよ」と、どもることを許可されるようなものではないだろうと、その場にいたみんなが納得したような…。
 どもる人がどもってしゃべるのは当たり前のこと、どもる人にとってどもるのは当たり前のことで、他人からも、自分でも言う必要のないことばだと思います。
 このことをタイトルにした巻頭言を紹介します。僕たちは、自分の生き方を通して、「どもっていい」を示していきたいと思っています。「スタタリング・ナウ」2003.11.15 NO.111
の巻頭言です。

どもってもいいって?
           日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 「どもってもいいんだよ」
 こう周りの大人から言われて、どもることをとても嫌なことだと思い、吃音を治したいと思っている子どもの私は、どう思うだろうか。また、「なんでどもってもいいの?」と質問をされて、今度は大人がどう答えるだろうか。

 吃音ショートコース初日の、「臨床家のための講座」は、私にとって、とても大切な時間だ。この場は、臨床家のセルフヘルプグループになり、ゆったりとした時間の中で、日頃の吃音の臨床の中での苦労や、疑問が率直に出され、合宿なので時間制限がなく、じっくりと話し合えるからだ。
 愛知県のことばの教室の担当者から「どもってもいいよ」が最近言われるが、ことばの教室担当者がそれを子どもに直接言うことの意味について話し合ってほしいと提起された。その提起を受けて、この講座の3時間を、そのテーマにしぼって話し合い、実際に子どもならどう思うか、どんな質問をするだろうかなど、様々な角度から話し合った。
 その場の多くの人が「どもってもいい」は、私が言い始めたことだと思っていたようだが、私は、どもる人や子どもに、「どもってもいいよ」などと直接言ったことがあるだろうかと思い返すと、話の流れや、「どもってもいい?」と直接問いかけられたら、「どもってもいいよ」と言うだろうがなあと考え込んでしまった。
 明確にそれを言おうという意識がないため、私自身としては、言った覚えはない、ということになる。しかし、そう思われるのも当然のことだとは思う。
 1997年、「スタタリング・ナウ」NO.36号の一面のタイトルは、「僕、どもっていいんか」だった。吃音親子サマーキャンプに参加した小学3年生が、高校生のどもっている姿を見て、「僕も、どもってもいいんか」と母親に尋ね、「ええんやで」と母親が答えていたという話を書いた。
 また、1999年に開催された日本特殊教育学会北海道大会での、「吃音親子サマーキャンプ10年の活動」の発表では、「私たちのサマーキャンプは、吃音を軽くしたり、治すのを目的ではなく、どもってもいいが前提となっている」と言った。そのとき、吃音研究者から子どものどもりは治るのに、どもってもいいということを言われては困ると批判されたのだった。
 確かに、私は30年以上も前から「どもりはどう治すかではなくて、どう生きるかだ」を主張し、「吃音を治す努力の否定」とまで提起してきた。当然、「どもってもいい」が前提にはある。
 私たちの吃音親子サマーキャンプ。子どもたちは日頃苦手な表現活動に取り組む。脚本どおりにセリフを言うので、どもりそうなことばも出てくる。当然前提としてどもってもいいがある。そうでなければ、劇そのものが成り立たない。
 しかし、改まって子どもたちに「どもってもいいよ」と言っているだろうかと問われると、そのような意識はない。ただ、スタッフであるどもる私たちが、どもることを恥ずかしいことだとも困ったことだとも思わず、自然にどもっている姿を見て、子どもたちが、僕もどもってもいいんだと思えるだけのことなのだろうと思う。
 どもる子どもにとって、どもることは当たり前で自然なことなのに、多くの人が「どもってもいいよ」と言い始めると、一抹の危惧を感じないわけではない。ほんとはどもらない方がいいし、もっとどもりが軽くなった方がいいと思っている人が、どもってもいいよと言っても、そのことばの裏にあるものを、感性のいいどもる子どもは見抜いてしまうことだろう。人は誰でもどもることがあるんだよと、大人がどもってみせるなどしても、そのわざとらしさを簡単に見破ってしまうことだろう。
 なんだかややこしい話になったようだけれど、どもる子どもやどもる大人が「どもってもいいんだ」とどもる自分を肯定するのと、「どもってもいいんだよ」と周りの人から言われることの間には、とても大きな違いがあることは明確にしておきたい。それに気づき、意識した上で、やはり私たちは、「どもっていい」のメッセージは伝えていかなくてはならないのだが、どのような伝え方があるのだろうか。

 
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/03/17

元気が出るサマーキャンプ〜第14回吃音親子サマーキャンプに参加して〜

 第14回吃音親子サマーキャンプでのできごとを、巻頭言で紹介しました。毎回、参加者ひとりひとりにとってのドラマが展開されています。参加しているみんなが主役になるサマーキャンプです。その第14回のキャンプに参加した、千葉のことばの教室担当者の渡邉さんの感想を紹介します。現在も、ずうっと続けて参加してくれている常連のひとりです。渡邉さんが書いている「劇の取り組み」の中で紹介している劇をしたくないと泣いて叫んでいた小学1年生の男の子のことは僕もよく覚えています。「したくないことはしなくてもいい」を基本にしているために、「劇をしたくない」という子どもに強制することはありません。しかし、不思議なことに、最後にはどの子も参加しています。今まで劇の上演に参加しなかった子どもはいません。「子どもが劇をしたくないと言っています」と心配顔の保護者によく話すのが、第14回のキャンプの時のこのエピソードです。たくさんの子どものことが、僕の頭のデーターベースに入っていることが僕の強みで、講演会や研修会などでもよく話しています。吃音親子サマーキャンプが好きで好きでたまらない、渡邉美穂さんの報告です。

元気が出るサマーキャンプ
              千葉市立誉田東小学校ことばの教室 渡邉美穂

はじめに
 私が、初めてどもる子どもを担当した時、ことばの教室の教師として何をすればよいか、子どもとどう、かかわればよいか分からなかった。吃音親子サマーキャンプで、是非、教えてもらおうと、研修を受けるような感覚で、筆記用具片手に参加したのが最初だった。今思い出すとちょっと笑いそうになるが、その時は、真面目にそう思っていた。
 このように参加し始めたキャンプだが、今はキャンプに参加すると私自身がとても元気になる。それは、なぜだろう。キャンプの空間が妙に居心地よく、集う人々との出会いは、いつもドラマがあって感動的だ。また行きたいと思うサマーキャンプの元気の源を改めて考えてみた。

話し合い
 キャンプのメインである話し合いは、学年ごとにグループを作る。私はまた、高校生グループ(中学3年1人含む)の担当になった。普段、高校生と話す機会がないので、今時の話題に刺激される。吃音に対する思いや考えを小学生や中学生よりストレートに話してくれるので話が具体的だ。回を重ねて参加している子どもたちが多いので、男女問わずにとても仲良しなのが見ていて気持ちがいい。始まると、一人一人がこの話し合いの時間をとても大切にしているので、表情が真剣である。
 「自分の学校にどもる先生をみつけたので、その先生と吃音について話をしようかと思ったけれど、その先生が自分自身の吃音を受け入れていなかったら悪いから、やめたんだ」
 この発言には驚いた。吃音に対する思いをしっかりもっている。千葉に帰ってから、以前一緒にサマーキャンプに参加した小学6年生にも、偶然同じようなことを言われた。ここに集まってくる子どもたちはすごいと思う。ふと自分を振り返ってみる。私は、子どもの時に、他人のことを思ったり、自分でこのようなしっかりとした考えをもっていただろうか。
 「吃音についてどう思う?」「吃音症状の波をどうしてる?」など、この話し合いはいつもストレートなことばがどんどん飛び交う。時間が足りなくて、休憩時間や深夜まで話し続けている。「吃音についてオープンに話し合う」ことが大切だとは思っていても、ことばの教室で同じようにはできないだろう。2泊3日の共同生活で生まれてくる話しやすさであろうか。それではことばの教室でもお泊まり会などをすれば、うまくできるのか。やっぱり、まだ何か足りない気がする。もう少しキャンプの魅力を探ってみよう。

劇の取り組み
 もう一つのメインの活動は劇の練習と上演だ。劇は、このキャンプをとても大切に考えておられる竹内敏晴さんの脚本をもとに、合宿で演技指導を受けたスタッフが中心になって進められている。幼児から高校生まで、どもる子とその兄弟を年代ごとにほぼ均等に分け、スタッフもそれぞれ入って、4つのグループに分けられ、話の場面ごとに練習をする。学校現場のことばで言うと、縦割りグループだ。文字が読めない子には、台本にフリガナを書いてあげたり、読んであげたりする姿が自然にできている。リーダーはいないけれど、温かくまとまっている。今回の劇は、竹内さんのオリジナル作品でとても長い話だったが、最終日の上演では、みんなが飽きることなく見入っていた。
 私は、この上演の場でいつも練習中のエピソードを思い出して泣いてしまう。例えば、学校では劇のセリフのある役をしない子が、ここでは率先してセリフを練習している。そして、「本当は学校でやりたかったんだ」というつぶやきを聞いてしまうと、キャンプで演じることができて良かったと、涙が出てくる。
 劇をしたくない子もいるが、無理に押しつけたりはしない。けれども、いつのまにか劇に参加している場合が多い。今回、私のグループにいた小学1年生が、最初は「やりたくない」と言っていたが、次第に参加するようになった。セリフはないが、役が決まり、本人も結構楽しんで練習に参加するようにもなっていた。しかし、劇の上演の部屋の入口まではみんなと一緒に来たが、上演前の雰囲気に緊張したのか、今までの「やりたくない」とすねたように言っていたことばではなく、「入りたくない!」と泣き叫んで、部屋から出て行った。泣いて叫ぶことで、自分の気持ちを表現できたと私は少しうれしかった。「したくないことはしなくていいよ」と、スタッフは無理に入れようとはしない。彼は祖母と共に出て行った。残念ながら彼は上演には参加できなかったのかと思っていたが、たくさん泣いて落ち着いたのか、彼の出番のところで、祖母と一緒に彼が戻ってきた。すっきりした顔で舞台の位置につき、役割である幕間の拍子木を「カン」と打った。彼のグループの上演に間に合ったのだ。自分の役を果たしてニコリとした彼の顔がとても素敵だった。私は、やはり今年も感動して泣いてしまった。

食堂の席
 キャンプが始まる前はわくわくするが、2泊3日はあっという間に終わってしまう。「あ〜、もっと一緒にいたい」子どもたちの声が聞こえてくる。親やスタッフも同じような思いなのだろう。劇の上演の後の最後の食事のときは、みんなはとにかく時間を惜しむように話している。
 食堂は、いつも席を固定せず毎回いろいろな人と座って食べる。どこに座っても、みんなが楽しく食事をしている。当たり前のように思っていたこの雰囲気は、ちょっと不思議なのかもしれないと思い始めた。この参加者の一体感、温かい雰囲気はどうやって生まれているのであろう。スタッフに関西弁の人が多いことも関係があるように思った。私も徳島の生まれなので、関西弁が体になじんでいるせいか心地良い。優しくて、温かいことばが親しみやすい。この雰囲気は本当にすばらしい。千葉県から毎年参加するのは、関西はちょっと遠いので、たまには関東でも開催してほしいとお願いしたことがあるが、参加者が関東中心になると、これと同じ雰囲気にならないかもしれないとも思った。関東中心だとどんなふうになるか、も興味がもてることなのだが。

オープンマイク
 今年のキャンプの締めくくりは、話したい人ひとりひとりが、みんなの前に出て順番に話す「オープンマイク」だった。劇が楽しかった人、出会いがうれしかった人、今回の参加者のドラマに感動した人など、どもる子どもも親もスタッフもいろいろな思いを語る。最後の長尾君、安野君の卒業式は感動的だった。キャンプの参加は高校生までとなっているので、高校3年生の彼らは、どもる子どもとしての参加は今年で最後になる。手作りの卒業証書を伊藤伸二さんが読み上げた。彼らは、涙を拭きながら思い出やお礼のことばを話した。特に、長尾君は小学生4年生から1回も欠かさずに参加しているので、長いキャンプの歴史をもっている。私は、前日に長尾君が持ってきた今まで参加したキャンプの思い出の写真集を見せてもらった。そして、たくさんの人との出会いを話してくれた。その写真の中に、私もいた。人の歴史の一部になっているかと思うとすごくうれしかった。
 これから彼らがスタッフとして参加した時に、吃音に対する思いを子どもたちにどんなふうに伝えてくれるか、とても楽しみに思う。来年も楽しみだ。

おわりに
 私の参加のきっかけは、ことばの教室の教師としての研修の意味合いが強かった。しかし今では、私の元気の源になっている。教師としてではなく、人と人との心の通い会う場としてこれからも参加したい。以前、私の教室に通級していた子と一緒にキャンプに参加したことがあるが、教室とは違う表情や行動に出会うことができた。その後、キャンプをきっかけに、もっと子どもたちと仲良くなることができたので、ことばの教室のように個別の場だけではなく、このようなグループ活動の良さを年々感じている。
 「どもってもいい」と実際にことばとして言っている訳でも、大上段に構えている訳でもないが、スタッフがごく自然にどもりながら、子どもに関わっている。このキャンプは、子ども自身が自然に、「どもっていい」と感じられる空間なのだ。この体で感じることの喜びをもっと、多くの子どもたちに体験させてあげたいと思う。また、縦割り活動によって、自分の将来を想像しながら楽しい毎日が続くようになってほしいと思う。
 このキャンプには、ことばの教師でも親でもなく、どもる人でもない人がスタッフとしてかなり参加している。吃音があってもなくても関係なく、人が集まってくる。このキャンプは、温かく人を受け入れてくれる伊藤伸二さん始め、大阪スタタリングプロジェクトのみなさんの人柄と、そこに集まる人たちが「どもってもいい」という雰囲気をつくり出しているのだと改めて感じた。そして、その空間は、スタッフだけでなく、子どもや親など、参加者全員によって作られていることにも気がついた。参加者がスタッフになったり、親になったりしながらキャンプが続いている。そうやって、人と人がつながっている。これからも、このつながりに私も入っていたいので、参加し、一緒に素敵なキャンプにしたい。(「スタタリング・ナウ」2003.10.18 NO.110)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/03/16

伝えたかったこと

 最近の政治家のことばの軽さに辟易していますが、今回、紹介する「スタタリング・ナウ」2003.10.18 NO.110 の巻頭言を読み返してみて、よりその思いを強くしました。
 第14回吃音親子サマーキャンプで、初めて卒業式をしたときのことを書いています。高校3年生で、3回以上参加しているという条件を満たした子どもに卒業式をするということが、今、定着していますが、そのスタートだった年でした。
 僕は、卒業する子どもたちの見事なあいさつにいつも驚かされます。サマーキャンプには、この文化、この伝統が受け継がれています。
 2024年度がもうすぐ始まりますが、今年の吃音親子サマーキャンプは、33回目となり、8月16・17・18日、滋賀県彦根市の荒神山自然の家で開催します。詳細は、6月頃に、月刊紙「スタタリング・ナウ」や、ホームページでお知らせします。

伝えたかったこと
             日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


14回サマキャン 私の小学2年生からの学校生活には、何の楽しい思いも、感動もない。入学式は、不安と恐れの最たるものであったし、卒業式は過去の自分への決別であると同時に新たな苦痛の始まりでもあった。
 第14回吃音親子サマーキャンプ。小学4年生のときから9年間連続して参加した長尾政毅君と3年前から参加している安野善詞君が高校3年生になった。このキャンプは、小学生、中学生、高校生を対象としているため、参加者としては最後の年となった。これまでも高校3年生がキャンプを経て飛び立っていったが、卒業式は一度もしたことがない。しかし、小学4年生のときから参加している長尾君の成長を、私たちスタッフは、我が子のように、見守ってきた。
 前から計画してきたわけではなかった。キャンプが始まって2日目に、ふと、これはやはり卒業式をやらなきゃあなあ、という思いがふくらんだ。卒業証書も最終日の朝、ありあわせの画用紙に書いて作った。
 そして、これも急に小学6年生から連続して4回、千葉県から参加している中学3年生の谷口陽菜さんに送辞を言ってみないかと提案してみた。彼女が実際の中学校の生活の中で、この3月の卒業式で送辞を読んだビデオを見せてもらったからだ。送辞の内容もさることながら、送辞を読む彼女の、どもるということを見事に生かしている、そのしゃべり方に感動した。どもるがゆえに身につけたのであろうか、絶妙な話すスピード。速くはなく、かといって不自然なゆっくりさではない。そのスピードと、どもるがゆえに自分で工夫した間の見事なハーモニーが、耳に心地よく響いてくる。そのビデオを見ていたから、ふと長尾君たちの卒業式をしようと思いたったのかもしれない。
 卒業式を入れるため、これまで毎年続いてきた最後のセレモニーのあり方を変えた。話し合いのグループでこのキャンプを振り返り、そして最後のお別れをするというパターンをやめて、話したい人が自ら申し出て大勢の前で話すというオープンマイクというスタイルをとった。25人もの人たちが、思い思いの自分の思いを語った。その中で、この子が人前で自ら進んで話すかと思う子どもや、すごくどもりながら最後まで話しきる子ども、父親、母親の子どもへの思いや、なぜ自分が参加するのかという思いをスタッフが語った。卒業式の十分な雰囲気がもうすでにできあがっていた。
 卒業生の2人をみんなに紹介し、卒業証書を手渡し、しっかりと握手した。そして感想を述べてもらった。安野君が一言一言どもりながら自分の思いを語ろうとする。終わったかと思うとまた話し出す。内容が感動的だったわけではないが、どもりどもり、一言一言かみしめるように、サマーキャンプに出会ってよかったと、時間をかけて語る中に、彼の学校生活の中での苦しみ、その中から誠実に生きようとする決意が感じられ、私も思わず涙があふれた。長尾君も、ことばにならないほど泣きじゃくりながら話す姿に、これまでの、一直線ではなかった、学童期、思春期の大きな揺れの中で、しっかりと歩んできた道のりを思った。
 送辞の谷口さんが話し始めた。「私はこの先輩の2人から、考える力と、自分を表現する力を教えてもらった」。今度は彼女の話す内容に驚いて、胸がつまった。私たちが吃音親子サマーキャンプを続け、子どもたちに、保護者に伝えたかった「吃音はどう治すかではなくてどう生きるかだ」の主張。どう生きるかには、考える力が不可欠だ。そして、自分らしく生きるためにはまず、自分のことばで自分の吃音についての苦しみや思いを語ることだ。そのことなしには、吃音と共に生きる出発点に立てないと思ってきた。だから、考える力と伝える力は、私たちがサマーキャンプで最も大切にしてきたことだ。それを、中学3年生の谷口さんが、先輩の高校生から学んだという。
 私たちは、14年間吃音親子サマーキャンプを小学生、中学生、高校生という年代を含めて開いて来たことの意義、そして継続してきたことの意義と喜びを感じていた。私はこの年になって初めて、本当の感動的な卒業式を経験できたのだった。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/03/15

どもる子どもの支援につながる評価とは 3

 岐阜で開催された第3回臨床家のための吃音講習会で、僕が話した講座内容を紹介してきました。今、読んでも、全く同感ですと言える内容です。大勢の参加者に向けて、一生懸命話していることが、文字からも伝わってきます。今日で最後です。 

どもる子どもの支援につながる評価とは 
                       日本吃音臨床研究会 伊藤伸二


子どもにどのような支援ができるか
 これからは、契約の社会だ。子どもがどうしたいのか、まず尋ねてみることだ。子どもは、「どもりを治したい、治してほしい」と言うかもしれない。そう言えば、「それは無理だ」と言うしかない。できることとできないことがある。「子どものニーズに合わせなければならない、親のニーズに応えなければならない」とよく言われるが、吃音に悩んできた人や子どもや親が、吃音を治したいと思うのは自然な気持ちだ。だから、それに寄り添って、「そうだよね、どもりを治したいよね」とそこに止まっていたとしたら、それは専門家とは言えないのではないか。効果があるかないか分からないままに、「ゆっくりと話す」しかない治療法を導入することの功罪を考えなくてはならない。薬に必ず副作用があるように、吃音を治す試みにも、副作用があると私は考えている。「どもりを治したいというあなたの気持ちはとってもよく分かる。でも、今、どもりを治す確実な治療法はない。少なくとも私には治せない。でも、だからといって、何もできないというわけではない。一緒にあなたのどもりについて考えたり、共に取り組むことはたくさんある。少なくとも一緒に悩み、考え、あなたと共に歩いていくことはできる」とは言える。子どもが「吃音と上手につきあう」ための支援は、たくさんある。それを考えていくのが専門家であり、臨床家だと思う。
 子どものニーズに寄り添うというのは、今流行の、きれいなことばだが、できないことを請け負うことになってしまう。ウェンデル・ジョンソンにも、チャールズ・ヴァンライパーにもできなかった、吃音を治すということを、自信をもって治すことができると言い切れるだろうか。日本よりはるかに言語病理学の研究臨床がなされ、スピーチセラピストの養成も大学院のレベルでなされ、臨床システムがそれなりに確立されているアメリカのスピーチセラピストの9割以上の人が吃音を苦手としていると、アメリカの吃音臨床の実情報告があった。
 治せないにしても、吃音を改善するということはできる。どもらずに話すことを目指す「流暢に話す」ことは難しくても、「流暢にどもる」ならできると考える人がいる。アイオワ学派の人たちが、流暢にどもる、楽にどもるを提唱し始めて50年以上にもなるが、臨床家が吃音を苦手にしているのはどういうことだろう。「流暢にどもる」が実際に指導できていれば、苦手意識などもつ必要はない。理論的には、「流暢にどもる」は分かっても、それを実際に指導することはとても難しいということではないか。どもる人本人にとっても、「流暢にどもる」はとても難しいことなのだ。
 吃音が軽くなったり、楽にどもる人がいることは事実だ。私も30歳をすぎてから、どもり方がずいぶんと変わった。吃音検査をすれば、以前よりは軽減されていることになるのだろう。しかし、私はその状態を「治った。軽くなった」とは言わない。「どもり方が変わった」と言い、それは現在も変化し続けている。その変化は自然治癒とも言えるもので、いつか気がついたら前よりも話しやすくなっていたということで、治そうとして、努力の結果得られたものではない。そして、私は55歳をすぎてからまた、再び21歳のころのどもり方に戻りつつある。吃音検査をすれば悪化をしたことになる。このように吃音症状が変化しても、吃音についての考え方は変わらないから、吃音に悩むことはなく、吃音が日常生活に影響することはない。
 自然治癒力という言い方は適切ではないかもしれないが、それに似たようなものだといえるだろう。アイオワ学派の「流暢にどもる」を吃音治療法だと考えるところに無理があるが、「吃音と上手につき合う」という枠組みの中で、吃音への対処・対策と考えて、活用することはできる。その程度のもので、結果として「流暢にどもる」ようになることはある。
 吃音症状の消失、改善を治療の目的にしていたら、臨床家の苦手意識は消えないだろう。しかし、日本のことばの教室の教師や臨床家の中には、吃音を苦手とは思わず、吃音の子どもと向き合うのは楽しいし、好きだという人がいる。この講習会に参加している人々の中にもきっとたくさんいる。それは、吃音症状に向き合うのではなく、子どもに向き合っているからだ。どもりの子とつき合うのが好き、という人たちが増えてきたら、日本の吃音の臨床を世界に発信できるのではないだろうか。

臨床家とは
 どもる子ども、どもる人とは何かについて、私はこう定義している。
 「人間関係やからだやことば、コミュニケーション、生きることについて、吃音を通して考える、テーマを与えられた人のことである」
 どもる子どもに関わる臨床家は、世間ではマイナス、欠点だと思われているこの吃音に対して取り組もうとしている子どもを支援しようとする人だと言える。子どものテーマを共に生きるのが、臨床家の役割ではないだろうか。
 弱さ、不安、世間でマイナスだと思われているものを持っていること、それは決して悪いことではなく、それを持っているが故に考えたり悩んだり、解決に向けて取り組んだりできる。作家の五木寛之さんも、「不安の力」という本などを書き、「諦めて生きる」ことを説いている。これは、仏教文化の中から出てきたものだ。アメリカにはない、日本の文化の中から、吃音の臨床を考える時期にきていると私は思う。

吃音評価の今後に向けて
 吃音症状に焦点をあてた吃音評価ではなく、子どもの学校や家庭地域での日常生活に焦点をあてる。子どもが吃音についてどう思っているのか。子どもがどういうことで生活の苦戦をしているのか。どういうときに喜びや楽しみを感じているかを知ること。評価のための評価ではなく、それをもとにして、それを題材にして、子どもと話し合いができ、一緒に考え、一緒に取り組むことができるもの。それが評価といえば評価なのだ。
 吃音親子サマーキャンプでキャンプが始まって直後と、3日目の終わってからの吃音に対する意識を尋ねると、大きな変化がみられる。両親のための吃音相談会で、相談会が始まる前に、親に「吃音へのとらわれ度」をチェックしてもらい、3時間ほどの情報提供や体験を語る相談会が終了した後、再度チェックを試みると親の吃音へのとらわれ度に変化が見られる。子どもの吃音をできれば治したいという思いは、変わらないけれど、将来に対する不安や就職の項目などは大きく変わる。
 「吃音へのとらわれ度」「日常生活の回避度」「人間関係の開放度」の3つから構成されている私たちの吃音チェックは、その名称を含めて問題点はあるだろう。大人用であったために、「吃音へのとらわれ度」という表現を使ったが、この表現自体も変えていく必要がある。問題点はあるが、一応学童期の子ども用に作り替えてみた。
 実際にどもる子どもと試みてみようという方がおられたら、ことばの教室で実施してみてほしい。実施してみての問題点、項目の変更などを集めて、検討し、次回の臨床家のための講習会でよりよいものを再度提案したい。多くの人々と一緒によりよいものを作り上げていければと願っている。臨床家のための吃音講習会の次回の開催地が島根県に決まった。宇野正一さんが集計して下さることになった。実施してみたデータと、意見や提案をお寄せいただきたい。できるだけ多くのことばの教室で取り組んでいただくことで、問題点などがより明らかになるだろうと思う。
 やってみようと思われる方がおられましたら、日本吃音臨床研究会事務局まで請求下さい。子ども用のチェックリストと資料をお送りします。

 ☆この文章は、2003年に書かれたものですが、吃音チェックリストは2024年現在もお送りします。ご請求ください。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/03/13

どもる子どもの支援につながる評価とは 2

 昨日の続きです。
 今、吃音検査法は、どの程度浸透し、広まっているのでしょうか。少なくとも、僕と親しくしている多くのことばの教室では使っていません。「吃音症状」といわれるものを評価しても何の役にも立たないことは、長い吃音研究・臨床の歴史でも明らかになっているにも関わらず、吃音の専門家はなぜ「吃音症状」にこだわるのでしょう。どもる人の人生を展望しての「吃音評価法」であるべきなのですが。検査のための検査ではなく、どもる子どもやどもる人の日常生活につながるものであってほしいと思います。そのためにも、僕たちの提案した、吃音チェックリストを活用してほしいと願っています。今回紹介するのは、20年以上も前に書いた文章ですが、今また、書くとしても同じ文章を書くと思います。変わらない吃音の世界ですが、どもる子どもやどもる人たちはこのような検査法に影響されることなく、生きています。それは大きな救いです。
                       
どもる子どもの支援につながる評価とは 
                       日本吃音臨床研究会 伊藤伸二

吃音の問題とは何か
 私がこうまで吃音検査法にこだわるのは、この検査法が広く行き渡り、定着してしまったら、ますます、吃音の問題は吃音症状にあるということが強調され、吃音症状の消失・改善を目指す吃音臨床が幅をきかせるようになってしまうと危惧しているからだ。子どもに対する吃音の検査について検討することは、吃音の問題とは何かの本質的な問いかけに他ならない。吃音の問題とは何か。
 吃音は、言語障害のひとつだが、障害ということばについて考えたい。
 日本では、ハンディキャップを障害と訳したが、1980年版の世界保健機関(WHO)の定義によれば、「障害」は次の三つのレベルでとらえられる。
 第一が「インペアメント」(impairment=機能・形態損傷)。例えば手が両手がない等心身の医学的な損傷という現実。
 第二が「ディスアビリティ」(disability=能力不全)。両手がないため物を持つことができないように、客観的事実に基づき、ある課題を達成しようとした時に二次的に現れてくる障害。
 第三が「ハンディキャップ」(handicap=社会的不利)。偏見の眼で見られ、就職が難しくなるなど。
第一、第二の障害に、社会的価値判断や仕組みが作用して、障害のある人に体験される社会的不利。
 この三つのレベルを吃音にあてはめると、こうなる。

  一次的な障害  吃音症状
  二次的な障害  人前で話せない。電話ができない。自己紹介ができないなど。

 定義通りに解釈するとこうなるが、どもっていても平気で人前で話す人はいる。ひどくどもりながら電話をし、セールスマンや教師など話すことの多い仕事についている人はたくさんいる。客観的事実よりも主観的事実が第二の障害を生み出すところが、吃音が他の障害と大きく違うところで、障害の程度が必ずしも、二次障害や三次障害を規定しない。吃音にとっての二次障害は、WHOの定義とは違う視点からとらえる必要がある。
 吃音にとっての二次障害とは、吃音をマイナスのものとして強く意識することだといっていい。そうすると、吃音を隠すこと、話す場面から逃げることが起こる。その結果、社会的な経験が不足し、コミュニケーションや言語能力に影響する。これが二次障害であり、そのような生活を続けることで、結婚、仕事、昇進などで社会的な不利益を被ることが起こりえる。それが三次的な障害となる。吃音の問題は、二次、三次への取り組みだといえる。

私の体験
 私自身のことを点検すると、私の悩みは、どもるという症状からくるものではないことがよく分かる。小学2年の秋まではかなりどもりながら、友だちもたくさんいて、発表もよくし、吃音は全く問題とはならなかった。ところが、吃音を「悪いもの、劣ったもの」と強い劣等意識をもったことから、自己を否定し、自尊感情がもてなくなった。『吃音と上手につきあうための吃音相談室』(芳賀書店)に詳しく書いたが、それには担任教師の不適切な対応が影響している。
 吃音に強い劣等感をもった私は、どもりのままでは、有意義な人生は送れないと思い込み、どもるからだめだと、小さな困難を感じると、すぐ逃げた。回避することで現実に向き合わないことは、水漏れ症候群という状態で、逃げたことへの嫌悪感と罪悪感に苦しんだ。また、現実にぶつからないので、何をしてもだめだという自分に対する過小評価と、どもりさえ治れば何でもできると思うジャイアントコンプレックスのために、非現実的な願望を持ち、今を生きることができなかった。完全主義で、失敗恐怖が大きく、特に人に拒否されることに対しては過敏に反応していた。このころの生活は充実した楽しいものではなかった。
 21歳の時に民間の吃音矯正所で治療を受け治らなかったことが、大きな契機になった。4か月間、あれほど頑張ったのに治らなかった。そしてそれは私だけでなく、吃音矯正所で出会った300人ほどの人が全く治らなかった。この現実に向き合い、どもりを治すことをある程度諦めてから、私の吃音とのつきあいが始まった。すると、吃音症状は全く変わらないのに、吃音からくる二次障害がほとんどなくなった。どもりながらも電話はできるし、大勢の前でもどもりながら話せるようになった。これまでどもるからできないと思ってしなかったことが、どもってもできることを発見した。これは大きな発見で、二次障害は全くなくなり、その後の人生で、三次障害を意識することはない。
 これが他の障害と吃音が大きく違う特徴だといえる。吃音を「悪いもの、劣ったもの」とマイナスにとらえず、自分の人生を誠実に生きることで、吃音は二次障害、三次障害とならない場合が多い。私が何千人と直接出会ったどもる人の中に、一人だけ、一語一語ひどくどもり、電話をするのも大変だろうなあと思った人がいた。実際には対人関係で苦労することが多かったが、明るく自分なりの生活を楽しみ、仕事にもついていた。

アメリカの3人の巨人
 アメリカの著名な言語病理学者、ジョゼフ・G・シーアンは、自分自身の吃音の体験を踏まえながら、吃音を氷山に例える。水面の上に浮かんで、周りの人にも見えているのが吃音症状で、それは吃音の問題のごく一部だ。水面下に大きく沈んでいる部分が、恥ずかしい、みじめだという感情や、悪いもの、劣ったものだという考え方、吃音を隠し、話す場面から逃げてしまう行動で、それこそが吃音の問題なのだと言った。そして、「吃音は治らないかもしれないが、ハンディキャップをもたない吃音者になることはできる」と主張した。
 ウェンデル・ジョンソンは、吃音は吃音症状だけの問題ではなく、聞き手の問題でもあり、本人が吃音をどう考えているかの問題だと言い、Z軸へのアプローチの必要性を説いた。
 ヴァン・ライパーは、病気で治せないものがあるように、吃音が治ると考えるのはもうやめよう、どもりを受け入れようと提起した。
 アメリカの言語病理学の巨人である3人は、厳密に言えば実際のところは違うかもしれないが、「吃音を治し、改善する」ことよりも、「吃音と上手につき合う」ことを提唱していると私は受け止めたい。吃音症状へのアプローチがほとんど出尽くして、それでも治っていない現実に向き合ったときの、良心的な臨床家としての当然の結果だと言えるからだ。この3人の巨人が亡くなった後、吃音について何か臨床に役立つことが解明されただろうか。画期的な治療法が出現しただろうか。残念ながら何一つ変化はない。そして、3人と同じくらいか、それ以上に「吃音と上手につき合う」ことを本音で提唱し、臨床の中心にすえるような人も、ほとんど現れていない。そのような現実を前にして、吃音症状にこだわった臨床を続けることはもうやめたいというのが私の提案だ。(「スタタリング・ナウ」2003.9.21 NO.109)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/03/12

どもる子どもの支援につながる評価とは

 もう13年、いや、まだ13年なのか、2011年3月11日の東日本大震災から13年の日を迎えました。今年の正月には、能登地方で大きな地震がありました。東日本大震災では吃音親子サマーキャンプに宮城県女川町から3回連続して参加した女子学生とその母親が亡くなりました。一昨年、女川町に行き、お墓に参ってきました。また、能登地方にも友人がいます。まだ電話での連絡はついていませんが、被災地で被災者でありながら多くの人の支援をしていることを、ネットのニュースで知って安堵しています。日常の生活が戻っていない被災地のことを忘れないで、僕は僕にできることを続けていこうと思います。

 板倉寿明さんによる、第3回臨床家のための吃音講習会の概要報告を紹介しました。最後に書いていたように、翌年、第4回臨床家のための吃音講習会は、梶田叡一さんを特別ゲストに迎え、島根県浜田市で開催しました。その後も続く予定だったのですが、常任講師である、水町俊郎さんが病気でお亡くなりになり、吃音講習会も途切れてしまったのです。
 でも、岐阜に始まった吃音講習会の熱気は静かに燃え続け、シリーズ2の「親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会」として、復活しました。
 第3回吃音講習会で、僕が話した「どもる子どもの支援につながる評価とは」の前半部分に加筆し、「スタタリング・ナウ」2003.9.21 NO.109に掲載されたものを紹介します。

どもる子どもの支援につながる評価とは
                       日本吃音臨床研究会 伊藤伸二

 今回吃音評価をテーマとしたのは
 1981年、日本音声言語医学会は、言語障害の検査法を確立しようと、障害別の検討委員会を設置した。吃音検査法検討小委員会が出した試案は、アメリカの言語病理学の検査方法の翻訳を中心としたものを、無批判に受け入れて日本の吃音臨床に導入しようとするもので、私は強い違和感をもっていた。成人のどもる人だけでなく、この検査法がことばの教室の教育現場でどもる子どもたちに使われたら、どもる子どもやことばの教室の担当者は辛いだろうと思っていた。それでも、吃音の指導事例の論文でその効果を示すときにこの検査法は使われる程度で、広がりはなかったので大きな影響はないと思っていた。
 ところが、言語聴覚士の法制化に伴って、言語聴覚士が大学や専門学校で養成されるようになり、吃音に関する専門書が出版され、その中でこの吃音検査法が紹介されるようになった。子どもに使う人が出てくるのではないかと不安になった。この検査方法が今後使われるのは見過ごすことができない。どもる子どもに真に役立つ評価とは何かを考えなければならないときがきたと思い、吃音講習会のテーマを吃音評価とした。

日本音声言語医学会の吃音検査法
 1983年に開かれた筑波大学での第28回日本音声言語医学会総会で、私はその検査法を批判した。聞き手や場面によって大きく吃音症状が変わる。子どもなら学校での朗読時間や遊びの時間に、社会人なら会社の重要な会議や得意先に電話をしているときに、吃音症状を検査してはじめて、妥当な検査になる。また、吃音には波があり、その日の体調や気分によって大きく変化する。血液検査やレントゲン検査とは本質的に違う。
 仮にその検査結果が妥当であったとしても、その検査結果をもとにどのような治療プログラムを立てられるのか。細かく分類された吃音症状に応じた治療方法があるわけではない。いたずらに細かい吃音症状面に注目し、検査をされ、それがその後の指導に反映されないとしたら、どもる人にとって検査は本意ではないだろう。
 私は糖尿病患者だが、血液検査を受ける。その数値が医師によって私に示され、それを基に生活指導がなされる。今後の私の糖尿病とのつきあいに、検査は不可欠だと思うから、半日がかりでも診察の一週間前に血液検査を受ける。検査結果をもとにして指示された食事療法や運動療法を行えば、示された検査結果の数値は、確実に変化する。
 吃音検査法を使っている人は、どもる子どもに、吃音の検査結果を、「あなたの吃頻度は何パーセント、持続時間は何秒、緊張性は何文節に2回以上あります」と知らせ、その結果をもとに指導されているのだろうか。もし、知らされていないとすれば、その後にも生かされず、自分に知らされもしない、検査をされるだけの吃音検査を誰が望むだろうか。

吃音自己チェック―私たちの吃音評価
 私は、日本音声言語医学会の吃音検査法を批判し、学会の検査法に代わる評価方法を提起した。それは、吃音症状ではなく、吃音が生活にどのように影響しているのかをみるためのものだ。吃音は対人関係の中での問題だ。吃音のために、対人関係がどのように影響されているのかをみることは、その後の指導や対処につながる。他人から検査されるのではなく、自分がチェックし、その結果をもとに、今後どのように吃音に対処するかを考え、その計画を立てることができる。
 20年以上も前、日本吃音臨床研究会の顧問である、内須川洸・筑波大学名誉教授とどもる子どもの親、私たち成人のどもる人とが、何度も合宿をし、2年ほどかけて吃音評価のチェックリストを検討し作成した。その内容は、学会の検査法批判とそれに代わる新しい評価法の提案として、1984年の日本音声言語医学会誌(VOL.25,NO.3)に掲載された。スタタリング・ナウ57号(1999.5.15)でも要約は紹介している。
 この検査法は、一部の人からは評価されたが、私たちがどもる子どもの臨床に広めようという努力をしなかったために、残念ながら一般の目に触れることはなかった。ただ、どもる人のセルフヘルプグループの大阪スタタリングプロジェクトの大阪吃音教室では、毎年使ってきた。
 大阪吃音教室は、1年ごとに、年間スケジュールを作って、「吃音と上手につき合う」ことを学ぶ。当初は初参加の人に必ずこの評価法にチェックしてもらっていたが、最近は、年度の初めに参加者が、評価法を使って、自分の吃音に対する意識や日常生活の態度をチェックしている。吃音症状の消失や改善を目指すのではなく、日常生活に吃音がどのように影響しているかを探り、その影響を少なくすることを目指し、自分が取り組む方向を決める。吃音に対するマイナスの意識や感情はそうは簡単に変えられないので、変えることができやすい行動から変えていくためだ。まず吃音による日常生活からの回避行動をできるだけ逃げない行動に、少しだけ変える。この日常生活を変えていくために、吃音のチェックが役に立つ。そして、また年度末に再びチェックすると、多くの人に変化がみられる。
 自己チェックをしてみると、吃音症状が自己判断で重いと思っている人が必ずしも、吃音が生活に影響しているわけではなく、周りからは、吃音だとは思われていないような軽い人が、吃音についてマイナスの意識度が高く、回避度も高い場合がある。症状は軽くても、吃音からくる影響も悩みも大きい人が少なくない。
 日常生活の行動や人間関係が変化すると、吃音症状は変わらなくても、吃音に対するマイナスの意識や感情も変化する。吃音の症状の改善を目指さなくても、その人の日常生活は充実したものになる。吃音のマイナスの影響は大きく変化するのだ。それは、大阪や神戸の吃音教室、吃音親子サマーキャンプなどで大勢の子どもやどもる人が実証していることだと言える。

ことばの教室での活用
 成人の吃音に悩む人のために作成した吃音チェックリストだが、学童期、思春期の子どもに活用できる。ことばの教室で使う場合、チェックリストをそのまま子どもに手渡して記入させるのではなく、子どもと質問項目を読み合わせながら、チェックする。低学年でまだ難しいと思われる場合には、担任教師や親のチェックを参考にする場合もある。日常生活への吃音の影響度を探った結果をもとに、学級の中で何をしたいか、どうしたいかなどを話し合い、今後のプログラムを相談しながら、子どもと共につくることができる。自己チェックそのものが、子どもと吃音についてオープンに話し合うための教材となる。自分の問題を自分の力で解決していく力が育つことにつながっていく。
 私たちの吃音チェックリストは、大人用につくったものだが、学童期や思春期の子どもに活用することで、項目や表現を修正し、子どもの支援に役に立つ吃音の評価を作っていきたい。そうしないと、日本音声言語医学会の吃音検査法が唯一のものとして使われ始めることになるかもしれないからだ。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/03/11
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