伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2023年11月

障害を生きる 4 病気や障害とどう向き合うか〜河辺美智子さんの体験から〜 

 河辺さんの体験を今、再び、読みながら、そのときももちろん感じたと思いますが、本当に壮絶な経験をされたのだと思います。小学1年生の本を買ってきて、「あいうえお」から始めたということ、血のにじむような思いでした、と話されましたが、この体験には圧倒されます。担当の医師もびっくりして、河辺さんの努力を見守っていたことでしょう。この粘り強さには、最大級の敬意を表します。
 僕の電話相談、吃音ホットラインには、吃音について真剣に向き合って、いろいろとネットで探して、やっと僕のところにたどり着いたという、切実な電話も少なくありませんが、「吃音症なんです。どこか、治してくれるところを教えてください」という軽い調子の問い合わせもあります。比較するものではないと思いますが、うーん、なんだかなあと思ってしまいます。1965年頃、僕が「吃音を絶対に治す」のだと訪れた東京正生学院で出会った人たちの中には、血のにじむような、吃音を治す努力をしていた人がいました。僕は30日間の寮生活の3日目には、この方法では治らないと見切りをつけて、30日間をどもり倒して、どもれる体になれたのですが、このように必死で治す努力をしている人には敬意を表していました。河辺さんの努力はすさまじいものです。
 昨日のつづきです。

  
病気や障害とどう向き合うか 2
                       河辺美智子(61歳)


退院
 「24時間世話しないといけないから、娘さんが仕事を休むか、ご主人が仕事を休むかして世話して下さいね、そうじゃないと退院させられません」
 娘の名前も言え、病院とも分かり、自分の脳の障害もだいぶ分かってきたから、退院したいと申し出たとき、こう言われました。家族にそれだけの世話を受けなければいけない、この現実が受け入れられなくて、死にたいと思いました。病室が13階でしたから、飛び降り自殺を実行しようとしたのですが、大きな窓はほんの少しだけしかあきませんでした。
 自殺を常に考えている私に気づいた担当医から、ひとりにしておいては危ないから、誰かついていて下さいと言われて、入院している夜は必ず誰かがついていました。
 それまでは、おしゃべりだったのが、自分がひどい障害者だと気づいたときから、自殺を考え、沈黙するようになりました。無口な人ということになった。私が静かになって無口でおとなしくしているから周りは楽だろうと思ったのに、娘は苦しくなったと言います。自殺しようと思ったときには、幻覚、幻聴が出ました。13階の窓も、くっと押したらあけられるような、そんな幻覚も出てきた。ずっと13階なのに、窓の外から歩いてくる人がいたり。私がベッドに横になって、誰か娘や友だちが来たりしても、誰もいない方に向いて、その人にしゃべっている。そのとき、幻覚で誰かを見ていたということですね。そっちを向いてしゃべっていた。ふんふん、そうやなあと言い返している。
 自殺をなんとか思い止どまったのは、やっぱり娘がいてたからですね。娘が「結婚式も見たいやろ。それまでは、何もできなくていいやん、生きていてくれてるだけでいいやん」と言っくれた。娘たちがなんとしてでも生きていてほしい、何もできなくてもいいから、家でずっといたらいい、と言ってくれました。

日常の生活こそ
 家に帰りたい帰りたいといくら頼んでも、危ないから帰せないと、2ヵ月近く入院していました。それでものすごく退院が早いと言われました。それは、一時帰宅が有効だったからでしょう。
 ホテルと間違っていたのが病院だと分かったり、自分の病気についても分かってきたので、ここにいるのが嫌だから、土日は家に帰りたいとお願いしました。
 「家族がしっかり世話なさるんだったらいっぺん帰らせて下さい。ただし、ひとりで外へは絶対出さないで下さい。必ずここへ迎えに来て、ここへ送りに来て下さいね」
 と、きつく念を押され、金曜日の晩に、娘らが仕事が終わって迎えにきてくれました。タクシーに乗っている時、ビルが車に覆いかぶさる見えたり、駅について歩こうとしたら、下は道なのに、川のように水が流れているみたいに感じ、さわっても水じゃない。こわくてこわくて歩けない。娘にへばりっいていました。
 ところが、家に帰ったとたん、玄関、台所、トイレ、おふろと、分かったんです。ここはトイレや、カギはここやと。月曜日に、そのことを担当医に主人が言ったら、「そうですか。分かったんですか。やっぱり早く家に土日くらい帰らせる方がいいかも分かりませんね。これからひとつの例として考えときます」と言われたそうです。たいがいは、家に置いておくのは大変だから、家族が病院に置いておいて下さいというのが普通なんです。金曜日に帰ってきて、土日はずっと家の中にいるから、料理をしようとしても全然できない。嗅覚がおかしいから、ものを焼いていても気づかないで、真っ黒にもやしてしまいました。それがだんだんと分かるようになり、「タマネギ」、「みじん切り」とは言えないけれど、ちゃんと切っている。ちゃんと切って、いためて、焼き飯を作りました。
 担当医はやりたいと思うんだったら、やって下さいと言いました。家に帰って、今度病院に戻ってきたとき、ものすごく変わり、全然別の人になっていたから、担当医も、早く家に帰らせた方がいい、脳には早くリハビリしないといけないなどと言い出しました。

あいうえおの学習
 退院して、スピーチセラピーの専門家からの言語訓練は受けないで、辞書で日本語の勉強をし直そうと思いました。
 「あいうえお」から新たに一歩一歩勉強していったら、破壊された脳を使わなくても、残っている脳のどこかに勉強したことが入るだろうと、私は思っていました。私の方針を話しましたら、言語療法士は、それはだめでしょうとはっきり言いました。しかし、担当の医師は、脳のことはまだ分かっていないことが多いので、私には分かりません。全然できない人もあれば、だんだんできてくる人もある。どこの脳が壊れてどこの脳に何が入っていたのか、ということがひとりひとりみんな違うからおやりなさいと言ってくれました。
 担当医は女医で、優秀な人でした。尊敬しています。何でも分かっているという態度をする医者の権力みたいな人が多いから、「分からないんです」と言ってくれる医者ってほんとに素敵だと思いました。
 小学校1年生の勉強の本、国語や算数や理科の本を買って、勉強を始めました。
 不思議ですね。「あいうえお」、「かきくけこ」、「さしすせそ」、「たちつてと」までの単語は、それをひとつひとつ覚えていくのは、それは血のにじむような思いでした。覚えられなくて、できない自分に何度も涙を流しました。ところが、「なにぬねの」くらいから、すすすっと出てくるようになりました。辞書も「なにぬねの」あたりからすーっと頭に入ってきた。
 ひらがなはなんとかマスターし、次に漢字も辞書から勉強しました。しかし、新聞は読めません。人の名前や国の名前がたくさん出てくるからです。カタカナを勉強しないと、新聞が読めないんです。カタカナ語事典も買ってきて勉強しました。
 単語を覚え、辞書でことばを勉強しても、それが何か分からない。「ひ」で覚えた、「ひたい」「ひじ」「ひざ」が、体の部分とは分かるのですが、自分のからだのどこか分からない。「さんま」「さば」「さより」は、国語辞典の「さ」で覚えているので、実際に買い物で、「さんま」を「さば」と言ったり、なすびを見て、「なんきん、ちょうだい」と言ったのか、「えっ?」と言われた。それをきっかけに、本物と照らし合わせて覚えないといけないと思いました。
 ほんものを見て、百科事典で調べ、それを絵に描いていきました。百科事典は、娘の勉強のために買っていたものですが、一番使ったのは、私だったんです。そして、話さなければ買えない小売店を探して、「さつまいも」とか「にんじん」と注文して、勉強していきました。
 こうしてことばはある程度回復したのですが、嗅覚は回復しません。嗅覚がゼロだから、食べ物がおいしくない。匂いは、ことばを覚えるのにも影響します。レモンの匂いで「レモン」を覚えていたのが、匂いはないから、形や色だけで覚えていかないとだめなので、すごい努力をしてきました。
 私は脳をやられたので、記憶もおかしかったんですけど、だんだん記憶するようになってきたし、ゆっくりゆっくりでも脳に入ってくるようになりました。(「スタタリング・ナウ」2002.6.15 NO.94)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/11/11

障害を生きる 3 病気や障害とどう向き合うか〜河辺美智子さんの体験から〜

 昨日のつづきです。心臓手術が縁でセルフヘルプグループとのつながりができた河辺さんは、次に、ヘルペス脳炎になり、言語訓練を受けることになります。
 僕も大阪教育大学の研究生の時代に、失語症のセラピーをした経験があるので、ここでの体験は、とても共感できるものでした。僕がセラピーをしたのは、大阪の有名な大会社の元社長でした。二十代の終わり頃だった若造の私は、これまで大きな会社を長年経営してきた元社長の人間としての尊厳を傷つけないことを最優先に考えました。だから、河辺さんが受けた、絵カードは絶対使わないと決めました。その当時使っていた絵カードは、本当にお粗末なものだったのです。その元社長の秘書部長から様々なことを聞いて、その人に合わせた教材を作りました。その人が謡曲を趣味にしていたことは幸いで、僕の父親が謡曲・能楽の師匠だったこともあり、僕も子どもの頃から謡曲をしていたために謡曲は教材になりました。また、僕の吃音のこともよく話しました。吃音の話にはとても共感をもって聞いてくださいました。短期間でしたが、人生の大先輩のセラピーを経験できたことは僕にとって大きなことでした。
 河辺さんの今回の体験で、失語症のセラピーのことを久しぶりに思い出しました。
 
  
病気や障害とどう向き合うか 2
                     河辺美智子(61歳)


風邪と思ったのがヘルペス脳炎だった
 そんなある日突然、風邪をひいたみたいで、頭が痛い。風邪の薬を近所の医者にもらったが、風邪をひいた時の頭痛にないものすごい痛みが襲います。あまりの痛みに、近所のお医者さんは休みだからと、夜中でも診てくれる、休日救急病院ヘタクシーで行ったんです。そしたら、点滴をされて、風邪の薬を出された。
 その病院から戻ってきたと同時に、もう言動がおかしくなりました。言っていること、することが周りと全然違う。私は全然記憶にないのですが、チョコレートを銀紙のまま口の中に入れるとか、食べてはならないものを口の中に入れたり、変なことばを言ったり。これは特別な病気ではないかと、救急車で大きなS病院に連れていかれました。その時、家族が相当しっかりと私の様子を言わなかったら、やっぱり熱が出てるから変なことを言うのだと、風邪の治療だけで、ヘルペス脳炎の治療まではしてくれなかったと思うんです。
 いろんな科に回されて、神経内科に回ったときに、そんなに家族が言われるんだったら、ヘルペス脳炎ということで治療しましょうということになりました。
 精密に調べていたら2日間はかかり、手遅れになるからと、とにかくヘルペス脳炎ということにして、薬による点滴で治療しましょうとなりました。小さい病院だったら別の病院に移される。ヘルペス脳炎は医者は知識としては全員教えられるが、実際の患者にあったことがない人がほとんどです。薬を投与しなかったら、どんどん広がっていって、2週間で確実に死にます。病院に行っても、担当医が知らなかったら、薬を使わないから、死んでしまう。ひとりで訳の分からないことを言って、高熱を出して死んだという人がいたら、ヘルペス脳炎かもしれないです。

高次脳機能障害と言語訓練
 ヘルペス脳炎になる人は、日本では1年間で200人くらいですが、たいてい高次脳機能障害になる。
 入院している間は、言語療法は受けなければならない。絵カードを見せられて、「はい、これ何ですか?」と言わされる。下手な、線だけの絵の飛行機、その横に同じ大きさでさつまいもがある。滝も縦の線で書いてある。なんでしなければならないのか、言語療法士に怒っていたらしい。そういうことが自分にはできないことがほぼ分かり出したときに、言語治療を断りました。言語療法士は、言語治療を受けてもらわないと困るとものすごく怒るんです。担当医にも言語治療を断ったら、言語療法士が対応を変えてきました。
 絵カードを使っての指導がそんなに嫌なら別のことをしましょうと、「あなたのしゃべりたいことだけここでしゃべって下さい。話を聞くだけにしておきます」と言う。「カードを言わせるような指導はしないですね」と念を押しました。何かしゃべって下さいと言われても、何をしゃべっていいか分からない。セルフヘルプグループの話なんかをしたらしい。私はひとりで一方的にしゃべることはできるようになりましたが、相手との会話はできなかった。残り時間が少なくなってくると、「あと2分だけですから、我慢してやって下さい。これをしないと言語指導になりませんので」と、絵カードを見せられましたが、私はそれは断りました。
 さつまいもとか大根とかを覚えるのだったら、本物を見てやった方がいい。入院していた病院の窓から飛行機が見えるのに、なんで紙に書いた飛行機を飛行機と言わなければならないのか。広告でもカラーになってるのに、言語療法士は、誰も見たくもないようなあんな紙切れで、勉強させていた。新聞に折り込みの、スーパーの広告のくだものや野菜の方がよっぽどいい。

言語療法士のこと
 言語療法士は、指導を受ける患者には、全く同じものを使います。この人にはこの方法でという仕方をしない。全ての人に、絵カードで訓練をしていました。言語指導のああいうようなやり方はおかしいのではないかと思いました。カードを見せられても、「ひこうき」、「さつまいも」と言えなかった。言語療法士の指導はだめだったと思うけど、それがあったおかげで、日常使っているものがこんなに何も言えないのかに気がついたことはよかった。ひとりでおふろに入ったときに、石鹸をどう使うか分からなかった。これは大変なことになったと思いました。自分ひとりで勉強し、言語指導の最後の方では、「飛行機とさつまいもが同じ大きさなんていけませんね」ということも言っていた。「窓を開けたら飛行機が見えるし、さつまいもなんて食事のときに覚えた方がいいですよ」とも言った。言語療法士はびっくりしていましたが。
 こんなことがありました。
 ひとりでは言語治療室へ行けなかったから、必ず家族が後ろで黙って座っています。私は高校時代にアメリカに行っていたし、アメリカの高校生を預かることもしていたので、下手だけど、英会話は少しできました。絵のカードを見せられたとき、「りんご」とは出ずに、どういうわけか「アップル」とは言った。そしたら、言語療法士は、後ろの私の娘を指さして、「この人、英語できるの?」と、不思議そうに言ったらしい。ひどいでしょう。私が「アップル」と言ったら「わー、よかった。英語は残ってたんですね」というのだったら、本当に人間と人間の関係ですよ。
 だんだん人の言っていることが理解できるようになってきてから、娘がいつでもあのときは、おもしろかったなあと、その話をしていました。。娘の話を聞くたびに、なんと無神経な、人を大事にしなかった言語療法士だということを、今、思うんです。その人が、直感的に嫌いだったんですね。
 ヘルペス脳炎になったとき、高熱が下がっても、顔は赤ちゃんの顔です。顔って不思議です。何歳でも、老人でも赤ちゃんの顔になる。赤ちゃん顔の患者が、「アップル」と言ったことが生意気だと思ったんでしょうかね。娘たちが、「お母さんが、その言語療法士のことを嫌っていて当然や。赤ちゃんになっていたから、あれは動物的な直感や」と言うんです。(「スタタリング・ナウ」2002.6.15 NO.94)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/11/10

障害を生きる 2 病気や障害とどう向き合うか〜河辺美智子さんの体験から〜

 大阪セルフヘルプ支援センターで、長く一緒に活動を続けてきた河辺美智子さん。生まれたときから心臓の障害をもち、手術をして心臓病からは解放されるが、その後、ヘルペス脳炎になり、その後遺症とつきあうことができるようになった頃、今度は乳癌を患います。この体験の中から得られた《病気や障害とどう向き合うか》というお話は、強烈で、引き付けられます。特に、言語聴覚士から言語指導を受けて反発する話は、私たちに共通するものを感じます。
 NPO法人大阪スタタリングプロジェクトの大阪吃音教室で話していただいたものを紹介します。

     
病気や障害とどう向き合うか
                             河辺美智子(61歳)

 心臓の障害と出産
 私は、生まれたときから心臓の障害者でした。当時まだ心臓外科という領域はなく・心臓治療そのものもなかった時代です。心臓の何の障害か、病名も知らされませんでした。家で生まれたら分からなかったのが、病院で、心臓の音がおかしいことが発見されました。親は女の子が生まれたことを本当に喜んでくれたのですが、「この子どもは心臓の障害者だから、3歳くらいまで生きてみないと分かりません。かぜをひいただけでも死ぬと思って下さい」と医師から言われて、親は育てるのが大変だったろうと思います。
 心臓病をもちながら生活をするとは、外見上は皆さんには分からないでしょう。皆さんがゆったりとした動作や、ゆっくりと歩いている時、私は常に階段を上ったり走りながら生活しているようなものです。
心臓中核欠損で・心臓手術を受ける48歳まで、私は心臓の障害をもって生きてきました。
 医学の進歩で私の20代くらいから東京女子医大と阪大だけで心臓の手術ができるようになりました。
 私が23歳で妊娠したとき・医師からは「中絶しなさい」と言われました。「心臓がこんなに悪い人が赤ちゃんを産むなんて。産めたとしても育てていくことが大変だ。また産まれても死ぬかもしれない」「どうしても生みたい」というと、「心臓の手術をしてからでないと絶対にだめだ」と言われました。
 心臓病の専門医の所へ相談に行ったら、成功の確立は五分五分だと言われました。ものすごい量の輸血をしないといけないとも。まだ、心臓手術は研究の途上だったのです。
 私は、心臓手術を断りました。そして、ひとりじゃなくて、二人、三人、四人も子どもを産んだんです。30代の初めも、風邪をひいて、病院に行ったら心臓の手術をすすめられました。成功率は7割ということでしたが、私は、下の子が高校を卒業するまでは絶対手術を受けないことに決めていました。

心臓手術
 48歳の時、国立循環器センターから電話がかかってきました。決まっていた人がキャンセルして、手術スケジュールがあいたのでしょう。これもひとつの縁かなあと、これまで拒み続けていた心臓手術を受けることにしました。これまで待ったお陰で、成功率は、98%になっていました。輸血しないで、自分の血液をとっておいて、手術をしました。2%に入らなくて、私の手術は成功し、ものすごく元気になりました。
 子どものころからの障害者から、初めて健常者になったことになります。階段を上がることがこんなに楽なのか、赤ちゃんを抱っこする時あれだけしんどかったのに、大きい子を抱っこしたって何の問題もない。本当にびっくりしました。健常者になって初めて、あんなに悪い心臓でよくここまで生きてきたと思いました。手術したあとは呼吸する度に痛みが残ったので、仕事もやめ、何もしなくなってしまいました。
 それもやっと元気になってきたので、何かしたいと思ったときに、大阪セルフヘルプ支援センターの前身、設立準備委員会と出会ったのです。

セルフヘルプ
 心臓手術を急に受けることになったとき、友だちが見舞いにきてくれます。「こんな有名なところで手術できてよかったなあ、うれしいでしょう」と言ってくれる。どんなに勧められても頑なに拒み続けてきた手術を今やっとする決意をしたばかりです。手術を受ける本人は、そんなどころじゃない。見舞いの人は花を飾って、満足して帰られるけれど、私は見舞い客がくる度に落ち込んでしまいます。手術の前日です。見舞い客が来て、落ち込んだときに、手術受けて何週間かたっていた4人部屋の同室の人が一緒に泣いてくれました。私よりもっと泣いてくれました。
 「私なんかあなたよりもっともっと落ち込んでいたのよ。あんな見舞いの人なんか、病院に入れんかったらいいのにね」
 明日、手術というときに、同じ心臓手術の体験者の、生きたことばに、本当にほっとした思いでした。この人たちに出会えてよかったと思いました。それが縁で、セルフヘルプグループを支援しようというところに入っていったのです。伊藤伸二さんに出会ったのもその活動でです。セルフヘルプグループのセミナーや合宿や月に一度の例会や電話相談など、水を得た魚のように楽しく活動をしました。それは、私のひとつの生き甲斐になりました。(「スタタリング・ナウ」2002.6.15 NO.94)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/11/09

障害を生きる

 吃音の夏、吃音の秋が終わり、いい時間を過ごしたこと、ありがたく思っています。
 さて、このブログ、イベントが重なり、過去の「スタタリング・ナウ」を紹介していくブログのひとつの流れが、7月以来、ストップしていました。戻ります。
 今日は、「スタタリング・ナウ」の 2002.6.15 NO.94 の巻頭言です。タイトルは、〈障害を生きる〉、大阪セルフヘルプ支援センターで共に活動をしていた、河辺美智子さんの体験が、この後に続きます。吃音に悩みながら、治したいと願いながら、何ひとつ努力をしてこなかった私と、河辺さんとの違いは何だろうとの自分自身への問いかけは、今も続いています。河辺さんの体験を紹介できる喜びを感じます。随分会っていませんが、今、どうしておられるのでしょうか。

  障害を生きる
          日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 命にもかかわるような大きな病気を3度も経験し、病気の後遺症で脳に損傷を受け、記憶を失い、ことばも失う。他者の世話を受けなければ、退院できないという中で、一度は絶望し死を決意する。その中から、再び生きる意欲を取り戻し、ことばを取り戻すために、国語辞典で一語一語ことばを覚え、実物と百科辞典をひとつひとつ確認し、絵に描いてことばを獲得していく作業は、大変なことだっただろう。
 河辺美智子さんの体験は、状況は違っても、ことばに悩むどもる人や、言語障害の臨床に携わる人々に大きな示唆を与えてくれるだろう。自らの人生を振り返りつつ、河辺さんの生きる力について考えた。
 先だって、ある同じ市で時を同じくして、吃音に悩む人の相談会と、言語聴覚士養成の専門学校での講義をする経験した。その中で、直接はふれなかったものの、河辺さんの体験は常に頭をよぎっていた。吃音を治したいと、治ることをあきらめられない人々と、臨床家の使命として、治さなければならないと考える人達と出会ったからだ。
 最近私は、これまでほとんど使わなかった、「あきらめる」ということばを誤解を恐れずによく使うようになった。吃音の症状を自分の力で治したり、コントロールすることは極めて難しいから、「あきらめて」、ただ、日常生活を丁寧に、誠実に生きよう。具体的に自分のできることから行動しようとの呼びかけだ。しかし、相談会に来られた吃音に悩む多くの人々は、治ることを「あきらめ」られないと言う。あきらめられないと言うのなら、治す努力をしていますか?と、問答が続く。ほとんどの人が何もしていないと答えた。ひとりだけが、本を声を出して読んでいますと言った。
 一方、臨床家の卵の専門学校の学生は、そのように吃音に悩む人々と向き合うと、やはり専門職として治してあげたいと思うと言う。そして、「治そうとすることなしに、治らないとあきらめ、それを受け入れることなどできるだろうか?」と、疑問を投げかけてきた。まずは吃音を治そうと互いに努力すべきだと言う。
 これは、これまでも延々と繰り返されてきた論議だが、答えは簡単なのだ。納得のいくまで治す努力してからでないと、あきらめられないのなら、私たちの失敗の経験が全く生かされないのは誠に残念だが、実際に納得いくまで、とことん治す努力をしてみればいいのだ。しかし、なぜ、それができないのだろうか。ここに吃音治療の難しさがある。
 私は、小学校2年の秋から吃音に悩み始めたが、常に吃音を治したいと思っていた。吃音を否定し、吃音を隠し、話すことから逃げ、不本意な、学童期、思春期を過ごした。治したい、治そうと思いつめながら、結局私が吃音を治すために努力したのは、やっと21歳の夏からの30日だけだった。ほとんどの年月を、具体的な努力をしないで、ただ、治したい、治るはずだ、との思いだけで過ごしたことになる。私の知る限り、吃音を治したいと願う人の多くは、ただ思うだけで、実際の真剣な努力はしない。民間の吃音矯正所や、催眠療法や、治ると宣伝するところに、ちょっと参加してみるだけのことが多い。自らの力で治すではなく、治してくれる所を探しているにすぎないのだ。
 河辺さんのように、言語聴覚士の言語治療を拒否し、自らの力で、このように意欲をもって懸命の努力をしている人に、私は会ったことがない。この意欲は、自分は何もできないことを受け入れることから出発しているのも興味深い。この意欲、努力と、私を含めてどもる人のことばに対する意欲、努力とはどう違うのだろうか。それは、命と向き合っているかどうかの違いではないだろうか。どもることは恥ずかしいと思う人も、その恥ずかしさに耐えれば、生活できる。さらに、吃音を隠し、話すことから逃げていれば、恥ずかしさ、悩むことからも一時的だが逃れることができる。
 心臓病とつき合いながら、苦しい生活を続けるのとは、質的に違うのだろう。河辺さんの、この心臓病とのつき合いが、絶望してもおかしくない状況で、ことばを再学習しようという、ヘルペス脳炎の後遺症とのつきあい、乳癌とのつきあいにも生かされたのだろう。
 自分が自分の病気の主人公だという考え方の徹底ぶりにも、治療に対する自己決定の力にも驚かされる。出産か死かの瀬戸際の選択の中で、心臓の手術を拒否し続け、そのことで起こる苦しさは自らが引き受ける。そして、手術を受けることも自ら決断する。言語治療も専門家の治療を拒否し、自らの力を信じて、血の滲むような地道な努力で、ことばを獲得していく。
 吃音を治したいと思いながら、自分では何も努力をしないで、21歳まで苦しんで来た私との違いを思った。河辺さんの体験に私たちが学ぶものは多い。(「スタタリング・ナウ」2002.6.15 NO.94)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/11/08

「広報ねやがわ」の〈ひと物語〉に掲載されました

寝屋川広報 寝屋川市の広報の方から、「広報ねやがわ」の〈ひと物語〉に掲載したいので、取材したいと連絡がありました。自宅で90分くらいの取材を受けました。90分ほどでは収まりきらない79年の人生ですが、改めていろいろなことがあったなあと思い返していました。たくさんの人、たくさんのできごとに出会い、支えられてきたことを実感しました。取材の後、雑談をしていたとき、読売新聞で僕のことを8回シリーズで紹介した文化部の記者森川明義さんと、その方が読売新聞福井支局時代の同僚だったとわかり、それもまた不思議なご縁でした。
 広報が寝屋川市民に配布された直後、同じマンションの15階に住む、名前は知らないけれどよく立ち話をする人から「広報に載ってたね。びっくりした」と声をかけられました。顔をまじまじと見て「写真と同じ顔や」とも。また、妻の寝屋川市の小学校の教師時代の同僚や教え子からも、「広報、見ました」と連絡がありました。ひょんなことで、互いの近況を知ることにもなったようです。

 「広報ねやがわ」令和5年11月号 2023年11月 No.1448に掲載された〈ひと物語〉vol.84を紹介します。

日本吃音臨床研究会会長 伊藤伸二(いとう しんじ)さん(79歳、打上高塚町)
  「正しく理解し心豊かに」吃音と共に生きる

 言葉がスムーズに出ない吃音(きつおん)から逃げてきた思春期を乗り越え、自助グループの設立や国際大会の開催に心血を注いできた伊藤伸二さん。「どもりはどう治すかではなく、どう付き合っていくかが大切です」と呼びかけてきました。

学芸会の配役で吃音意識
 吃音は3歳の頃からありましたが、意識したのは三重県津市に暮らしていた小学校2年生の学芸会でした。出し物は「浦島太郎」。明るくクラスの副委員長も務めた伊藤さんは主役級の役を期待しましたが、割り当てられたのは村人で、せりふも一言でした。「先生の配慮だったかもしれませんが、このときから強い劣等感を持つようになりました」。
 つらい学校生活が続きましたが、高校生のときに東京の有名な矯正施設を知りました。「ここに行けば吃音が治り、人生も変わる」。そう信じ、親元を離れて大阪市内の新聞配達店に住み込み、学費を稼いで二浪の末に明治大学へ。夏休みの1か月間、矯正施設の寮に入りました。

仲間との出会いが転機に
 「ゆっくり歌うように話せばどもらない」と午前は呼吸法や発声の訓練。午後は道行く人に「警察署はどこですか」と話しかけました。
 「こんな方法で治るのか」と疑問を持ち始めた頃に同じ悩みを抱える女性と知り合い、「どもりながらも話ができるのがうれしく、しっかり聞いてくれる喜びを感じました。この出会いがターニングポイントになりました」。

「治すことにとらわれず」
 仲間11人と自助グループ「言友会」を結成し、会長に次ぐ幹事長に。発声練習なども行いましたが、それ以上に交流の輪を広げるサークル活動を重視しました。
 当初の吃音を治す会から徐々に脱皮。導き出したのは、「治すことにとらわれず、吃音と共に生きていくことでした」。大阪教育大学で言語障害児教育を学び、講師になった年の言友会創立10周年大会で「どもりだからと自分の可能性を閉ざしている固い殻を打ち破ろう」と全国の仲間に呼びかけました。

国際大会の夢実現
 大のカレー好きが高じ、36歳のときに大学を辞めてカレー専門店を大阪市内に開店。「いずれはチェーン店にして仲間のたまり場にしたいと思いました」。その願いはかないませんでしたが、国際大会の夢を実現しました。カレー店を拠点に約2000万円の開催費用確保に奔走。昭和61年8月、京都市で開かれた第1回吃音問題研究国際大会には11か国から約400人が参加し、海外の吃音の人たちと思いを分かち合いました。

 第1回大会の4年後に始まり、今年で32回目となった吃音親子サマーキャンプには延べ3400人を超す親子が参加。『どもる君へ いた伝えたいこと』など多くの書籍をとおして「吃音との共生」を呼びかけ、来年、30周年を迎える日本吃音臨床研究会のホームページもリニューアルしました。大阪教育大学の教え子という妻の稚佳子さんと二人三脚で活動してきた伊藤さんは「吃音と共に豊かに生きている人々がいることを、今後も発信していきたい」と話します。
 写真メイン 伊藤伸二さん
 写真サブ 京都市で開かれた第1回国際大会。自助グループ設立時からの夢をかなえました


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/11/7

原爆の惨禍を伝える童話「おこりじぞう」  民話の語り部、沼田曜一さんと思いがけない再会

原爆の惨禍を伝える童話「おこりじぞう」((https://www.asahi.com/articles/ASN84744PN6ZPTLC05M.html )おこり地蔵の語りの感動がよみがえる
    民話の語り部、沼田曜一さんと思いがけない再会

  
 第25回島根スタタリングフォーラムが終わった後、松江での夕食会のことは、先日、ブログで書きました。ご褒美のような時間でした。その翌日は、大好きな松江の町でゆっくりし、大阪に戻る途中で、もう一泊しました。前から行きたいと思っていた湯原温泉です。温泉街をぶらぶら散歩していると、1枚のポスターが目にとまりました。見たことがあると思っていると、それは、映画俳優・民話の語り部として活動していた沼田曜一さんの写真でした。
沼田曜一ポスター 沼田さんが、今、なぜ、ここで?と、とても不思議でした。観光センターで聞いてみると、沼田さんの出身地が、湯原温泉で、今年は生誕99年になるとのことでした。
 僕たちが、沼田さんのポスターになぜ惹かれたのかというと、40年前にさかのぼります。その頃、僕たちは、言友会の全国大会として、吃音ワークショップという名前の、2泊3日の合宿による体験学習の研修会を開催していました。その後、言友会から離れたために、吃音ワークショップは、吃音ショートコースの名前に変わり、精神医学、演劇、教育、心理学など、各分野の第一人者を講師としてお呼びして学び続けてきました。吃音ワークショップは、吃音ショートコースの原型ともいえる研修でした。
 1983年、吃音ワークショップの講師に、民話の語り部として全国を講演して回っておられた沼田曜一さんに来ていただきました。その頃、僕たちは、吃音を治すためではなく、自分の声、表現を磨くことを考えていました。そのために、沼田曜一さんをゲストにお呼びしたのです。沼田さんは、大きな病気をしたことをきっかけに人生を振り返ります。華やかな芸能界に見切りをつけて、民話の語りの世界に転身します。そのいきさつや平和への思いを話した後、いくつかの民話を語った後、「おこりじぞう」を語ってくださいました。平和への思いがあふれ、その声の力強さ、語りの豊かさに圧倒されました。2メートルも離れていないすぐ近くで聞いていただけに、表情、声を今でもよく覚えています。
 前年は、表現よみの東京都立大学教授の大久保忠利さん、その年は民話の語り部として沼田曜一さん、翌年は、童話の語り部をされていた、後にテレビドラマの「水戸黄門」役になった佐野浅夫さんにゲストとしてきていただきました。佐野さんの「島ひき鬼」もすごい迫力でした。本物の語りを身近に聞いた幸せは、今も心を豊かにしてくれています。
沼田曜一1 そんなつながりがあったので、ふとみつけたポスターがとてもなつかしかったのです。観光センターの人に、そんな話をすると、珍しそうに聞いてくださいました。沼田さんのご夫人も参加されるというイベントは、11月3日から。また来てくださいと言われましたが、そうもいきません。
 おもしろい出会いでした。40年前の出会いがよみがえり、改めて、大勢の人に、本当にたくさんのことを学んできたなあと思いました。
 
《沼田曜一プロフィール》
 沼田曜一は、(1924年7月19日 - 2006年4月29日)日本の俳優。岡山県真庭郡湯原村出身。
 NHK大阪放送劇団研究生を経て、1947年(昭和22年)、東横映画に入社。1950年に大ヒットした『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』で性格温情で清廉な学徒士官役で注目を浴びる。1953年(昭和28年)、新東宝に移籍。丹波哲郎・天知茂らと新東宝で長く活躍した。1950年代の新東宝映画には大抵顔を出している。1959年(昭和34年)、『闘争の広場』に主演。1960年(昭和35年)、『スパイと貞操』に主演。新東宝倒産後はフリー。主に悪役として活躍する傍ら、民話の語り部としても活動していた。第39回芸術祭優秀賞受賞。
 2006年(平成18年)4月29日、心不全のため埼玉県所沢市の自宅で死去、81歳だった。
沼田曜一2
《企画展 沼田曜一 生誕99年 生き様展 の案内》
沼田曜一 奥深いその生き様 11月3日から企画展 岡山・真庭

 ホラー映画「リング」などで不気味な役を演じる一方で、「現代の語り部」と言われた俳優の沼田曜一を知っていますか――。今年が生誕99年にあたり、その生涯を紹介する企画展が11月3日から3日間、沼田の本籍地である岡山県真庭市で開かれる。企画展では渋い声の語りや表情豊かな映像が上映される。主催者は「波瀾(はらん)万丈の人生を送った沼田曜一の奥深い、人間的な魅力を知ってほしい」と話している。

 企画展の名称は「沼田曜一 生誕99年 生き様展」。
 地元の有志約10人でつくる「温故知新の会」が、湯原ふれあいセンター(真庭市豊栄)で開催される湯原文化祭(湯原文化協会主催)の中で企画した。
 温故知新の会事務局長の浜子尊行(はまごたかみち)さん(73)によると、企画展では沼田が語りをした「民話紙芝居」の映像2本が毎日、5回ずつ上映される。
 このうち「絵本 おこりじぞう」(約10分)は、広島の街角にあった柔和な顔だちの地蔵「わらいじぞう」の話。原爆投下後、地蔵のもとで倒れた少女が、「水が飲みたいよう」と絞り出す声が弱々しくなると、地蔵の顔は怒りに満ちた表情に変わった。地蔵の目からこぼれ落ちた涙を少女は口に含み、やがて息絶えた、という話だ。
 山口勇子原作の絵本「おこりじぞう」は四國五郎が挿絵を担当し、語り文は沼田自身がつくったもの。かつては教科書にも掲載されたベストセラー作品。
 企画展には、沼田の妻で91歳になる雅子さんが埼玉県から駆けつける。沼田の絵に雅子さんが語りを担当した「語り絵本 よだかの星」(約20分)も上映される予定だ。
 沼田の本名は美甘正晴(みかもまさはる)。銀行員だった父親の仕事の関係で、1924年に大阪で生まれたが、本籍地は祖父がいた旧湯原町湯本(現在の真庭市)だった。
 日本大学に在学していたが、学徒出陣のために現在の真庭市内にある旧遷喬(せんきょう)尋常小学校で徴兵検査を受け、蒜山原陸軍演習場に向かった。終戦は内地で迎えた。50年に制作された沼田の代表的な出演作「きけ、わだつみの声」は学徒兵の物語だ。
 ほかに映画「リング」「リング2」や、テレビに脇役として多数出演した。東北地方の旅で民話と出会い、70年代から民話の語り部としての活動や、民話劇の全国公演もしていた。
 湯原では83年、浜子さんが沼田に手紙を出したことで民話の一人語りの公演会が実現した。当時、会場の湯原小学校には市民ら約350人が訪れたという。
 88年にも旧ふれあいセンターで公演会が開かれ、約600人が詰めかけ満員となった。湯原では民話を収集していた人を訪ねたこともあったという。
 沼田は2006年4月、81歳で亡くなった。
 企画展では、沼田の出演作品の年譜をはじめ、雅子さんから提供された沼田の舞台写真や沼田が描いたちぎり絵、絵本の挿絵の原画なども展示される。
 長年親交のあった浜子さんは「民話の世界を広め、作品を通じて戦争の悲惨さも訴えていた沼田さんの生き様を、今の世代の人たちにも伝えたい」と話している。
 企画展は入場無料。問い合わせは真庭市湯原振興局(0867・62・2011)へ。(礒部修作)

 日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/11/5

中学校、最後の同窓会に行ってきました

 先週の土曜日、10月28日、三重県津市立西橋内中学校の同窓会があり、これが最後の同窓会だと案内されていたので、行ってきました。
同窓会1 小学校2年生の秋の学芸会での担任の対応で、それまでどもっていても、元気で明るく活発だった僕が、どもりの悩みの中に入っていったことは、何度も話したり書いたりしてきました。吃音に劣等感をもった生活は、当然、中学校、高校まで続きました。その中学校の同窓会です。何のいい思い出もないはずの中学校生活でした。それが、こうして同窓会に行ってみようかと思わせてくれたのは、「新・吃音者宣言」の本の書評を芹沢俊介さんが月刊「エコノミスト」(毎日新聞社)に書いてくださったのを偶然見た同級生が強引に僕を引っ張り出してくれたおかげでした。このことも、よく話したり書いたりしています。
 もうひとつ、中学校生活といえば、夏休み、発声練習をしていた僕に投げかけられた母のことば「そんなことしたって、どもり、治りっこないでしょ!」がありました。そのときから、僕と母の関係は悪くなり、映画館に入り浸っていました。その母との関係も、大阪の新聞配達店に住み込んでの浪人生活の寂しい生活の中で、基本的に愛されていたという確かな思い出から、母への恨みは消えていきました。確かな思い出とは、童謡の「動物園のらくださん」です。今年の島根キャンプでも、その話をして、童謡を歌いました。母親に愛されたという証拠なのです。

同窓会3 同窓会は、これまでに亡くなった同窓生への黙祷から始まりました。会場の壁に、亡くなった人の名前が貼られていました。60名の名前があり、僕が覚えている人の名前も少なからずありました。同窓生は300人。今回、参加している人は、60名でした。みんなそれぞれに、これまで生きてきた年輪を思わせる風貌になっていました。コロナの影響を受け、この4年間、同窓会ができなかったので、本当に久しぶりでした。

 僕は本当に何も覚えていませんでした。話す場面に出ていかなかったし、友だちとつきあうこともなかったし、勉強もした記憶がありません。ただただどもりを恨み、どもりに悩んでいました。でも、何人もの人が、僕のそばに来て、「伊藤、おまえは足が速くて、いつも負けていた」とか、「一緒によく映画館に行っていたから、おまえと俺の二人は、先生によく怒られたな」とか、思い出話を聞かせてくれました。近所に住んでいたという人が何人も話しかけてくれ、その人たちは、僕がかなりどもっていたことも覚えていました。そんな昔のことを事細かく覚えているなあと感心するばかりです。ところが不思議なことに、同窓会が終わろうとするころになって、名札の名前と、子どもの頃のその人の顔が、なんとなく浮かんできました。その人のところに再度行って「思い出したわ」と伝えると、「そうやろ、しんちゃんやんか」と笑顔になっていました。一気に距離が縮まりました。
 友だちは一人もいないと記憶していたのですが、みんなの輪の中で、確かに僕は存在していたのだということを確認することができました。あの頃は、見えていなかったことなのでしょう。友だちもいなくて、ひとりぼっちだったというのは、僕の思い込みだったのでしょうか。ある面、それは真実で、そう思わせるような日々が続いていたことには違いありません。

同窓会2 多くが79歳なのですから、病気の話、からだが弱ってきた話など、話は尽きませんが、閉会の3時が近づいてきました。正午から始まって3時間弱、ゆったりとした時間が流れました。やはり、故郷はいいものです。参加していた人は、それなりに元気そうなので、最後の同窓会だと念押しをされても、二年後に開催されそうな雰囲気でした。二次会もしませんと宣言され、本当に最後なのでしょう。寂しい思いが広がっていきましたが、もう再び会うことのない人たちに、別れを告げて会場を後にしました。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/11/04

ご褒美のような時間〜島根は第二の故郷〜

 第25回島根スタタリングフォーラムフォーラムが終わった後、一気に車で大阪に帰るのはしんどいので、松江に一泊することにしていました。長い間、年末年始に2週間ほど滞在していた、懐かしい玉造温泉のホテルを予約していました。
夕食会 そのことを知った島根大学教授の原広治さんが、どうしてもフォーラムには参加できないけれど、私たちに会いたいと、「伊藤夫妻を囲む会」を計画してくれました。コロナの影響を受け、原さんとも久しく会っていないので、喜んでそのお誘いを受けました。フォーラムの会場からホテルまで約2時間、ホテルに着いた頃に、6時前にホテルまで迎えに行くと、原さんからメールが入りました。
 車に乗せてもらって、夕食会場に着くと、なんと13人もの人が集まってくれていました。フォーラムに参加していた人も何人かいます。片付けをして、駆けつけてくれたのです。古くからつきあいのある人たちもいます。島根の大石益雄さんと親しかった大坂さんや安部さん、僕たちの仲間である佐々木和子さん、国立特別支援教育総合研究所の研修の受講生だった、吾郷さんなど、こんなにたくさんの人が集まってくれているとは全く思わず、びっくりしました。
 話は尽きることなく、わいてきます。島根スタタリングフォーラムを始めるきっかけとなったのは、1999年の年末のことでした。恒例の、年末年始を玉造温泉の厚生年金保養ホームで過ごしていた僕が、国立特別支援教育総合研究所で、島根に行ったら電話をすると約束していたらしく、僕の方から吾郷さんに電話をしたらしいのです。僕は、吾郷さんから電話を受けたと記憶していました。玉造温泉に今来ていると話したようで、それならと急遽、学習会のような研修会のような相談会のようなことをしようということになり、暮れも押し詰まった12月27日に、松江市立内中原小学校が会場になりました。そんな急な話だったのに、結構な人数が参加してくれました。そして、その後の打ち上げの場で、どもる子どものキャンプをしようということになったのです。その場に、原さんも、大坂さんも、安部さんも、吾郷さんもいたということでした。本でしか知らなかった伊藤伸二が目の前にいる!と思ったという話を聞いて、僕の方がびっくりしてしまいました。
 それから、島根の言語障害や聴覚障害の子どもを教育する教師の集まりである、島根聴言研とのつきあいが始まったのです。長いお付き合いになりました。フォーラムだけでなく、島根県の県大会など、いろいろな研修会に招いてもらいました。
夕食会2 シリーズ1の、第4回臨床家のための吃音講習会の会場も島根で、そのときのゲストは島根県出身のノートルダム女子大学学長の梶田叡一さんでした。
 2001年、第30回全難言大会島根大会の大会事務局長は安部さんでした。また、2009年の第38回全難言大会山口大会での、吃音分科会の発表者は佐々木和子さんでした。2016年の第45回全難言大会島根大会の吃音分科会の発表者は、黒田明志さんと、今、フォーラムの事務局を担当している森川和宜さんでした。僕は3回とも、吃音分科会のコーディネーターとして参加しました。
 そんな昔の話や、今、担当している子どもの話、これからの研修についてなど、ほんとに尽きることなく、話が弾みました。安心して、いろいろなことを話していました。これが、第二の故郷だと呼んでいる所以のようです。
 こうして、フォーラムが終わったあとに、これだけたくんさの人が集まってくださり、いろいろなことを自由に語り合う、こんな幸せなことはありません。どもりのおかげで、大勢の仲間に囲まれて、幸せな生活を送っていることを再確認しました。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/11/1
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