伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2023年09月

吃音の不思議な縁が、ホームページのリニューアルに結びついた

 2021年6月、僕の自宅に、ひとりの訪問者がありました。その人は、50年前に亡くなった僕の親友であり、言友会活動の良きライバルだった京都言友会の生みの親、吉田昌平さんの娘さんでした。それは、本当に不思議な縁、運命としか言い様のない出会いでした。
 僕が、吉田昌平さんに出会ったのは、どもりを治すために東京正生学院に行き、そこでの訓練に見切りをつけ、治すことをあきらめ、どもりながら生きていこうと、どもる人のセルフヘルプグループを作って活動を始めた頃でした。吉田昌平さんも、1966年、京都から、僕と同じようにどもりを治そうと東京に出てきていました。
 東京のオンボロの言友会事務所に昔からいたみたいに住みついていた吉田さんのことを、僕はブログに書いていました。そのブログを見た吉田さんの娘さんが、「吉田昌平の娘です」と、僕に連絡してくださったのです。その日、初めて出会った僕たちは、長い時間、たくさんの話をしました。昌平さんとの思い出話、娘さんの今の生活のこと、僕が今していることなど、初めて会ったとは思えないくらい、次から次へと話題が出てきました。僕は、亡くなった昌平さんが今、僕の目の前に現れたような錯覚を覚え、今、していること、しようとしていること、したいことを彼女に話していました。
 彼女は、父親である昌平さんが僕と一緒にしたかったことを、私が代わってしたいですと申し出てくれました。
 昌平さんも僕も、どもりがどもりのまま認められる社会を作りたいと思っていました。そして、日本だけでなく、世界の仲間とつながっていこうというのも共通の思いでした。僕の頭の中には常に彼がいました。彼が亡くなった後、「吃音を治す努力の否定」を提起し、「吃音者宣言」を出し、京都で第1回吃音問題研究国際大会を開き、子どもたちと吃音親子サマーキャンプを続けています。これらのことは、僕が昌平さんと一緒にしたかったことです。昌平さんも、きっと一緒に取り組んでくれたことだと確信しています。
 昌平さんが亡くなるとき、僕は、声にはならない昌平さんの思いを聞きました。「伊藤、どもりのことは、お前に頼むよ」と言われているような気がしました。きっと、今、僕が考え、取り組んでいることを、昌平さんは応援し、喜んでくれているだろうと思います。

 今、僕がしたいと思っているのは、吃音を正しく知り、否定的にとらえず、吃音とともに豊かに生きている人の存在を広く知ってほしいということです。そのために、僕たちの考えや活動を社会に発信をしなければなりません。日本吃音臨床研究会のホームページはありますが、僕自身が常に自分で情報を簡単に更新したいし、スマートフォンに対応できるものにしたいと考えていましたが、IT関係が苦手な僕にはできませんでした。そのことを娘さんの谷口弘美さんに話をすると、「それ、私がお手伝いをしましょうか」と言ってくれました。谷口さんは、実はIT企業の経営者だったのです。このようなホームページにしたいと計画書を出し、文章も書きためていたものをまとめました。仕事がとても忙しい中で二度も、手伝ってくれる社員の方とも会って打ち合わせをしました。膨大な文章量で、細かい希望をたくさん出したために、大変な作業だったと思います。コロナ禍でそれでなくても大変だった時期に、僕がお願いしたイメージのホームページをつくっていただきました。50年の歳月を経ての奇跡的な出会いがきっかけで、今、僕たちのホームページのリニューアルが実現しました。
 僕は今、ともに夢を語り合った吉田昌平さんの分まで、吃音に関して、できることを精一杯取り組んでいこうという思いを強くしています。今回、娘さんと出逢えたこと、僕のできないことを娘さんが代わりにしてくださったこと、吉田昌平さんはきっととても喜んでくれていると思います。昌平さんとともにしたかった吃音に関する発信を、昌平さんの娘さんとともにできたことは、僕にとって大きな喜びです。
 では、今回の不思議な出会いのきっかけとなった、1976年に出版された、『吃音者宣言〜言友会運動十年〜』(たいまつ社)の本の中から、吉田昌平さんとの出会いを紹介します。僕はこの本に、「吉田昌平に捧げる」と記しています。


故吉田昌平氏の思い出
 私が言友会の活動の中で涙を流したのは、言友会旧事務所が取り壊される時と吉田昌平氏の死に直面した時の2回である。
 言友会が好きで好きでたまらなかった彼と私はまさに言友会の虫であった。言友会の大会の議事の最中に喧嘩をしたり、意見が合わないと言っては何度も喧嘩をした。「お前みたいな奴とはもう会いたくない」とお互いに何度この言葉を言い合っただろうか。それでも私たちは離れることはなかった。彼は私にとって本気で怒りをぶつけられる相手であった。
 彼との出会いは昭和41年7月の下旬であったろうか。久しぶりに事務所を訪れた私は、見かけない男が一人、自分の家のように住みついているのを見て驚いた。一見おとなしそうで、変に図々しいこの男の間の抜けたけた話しぶりが、この家にいることの正当性を主張していた。
 話してみると愉快な男で、自分が何故ここに住んでいるのかを、おもしろおかしく語ってくれた。どもりに悩み、なんとかどもりを治したいと思いつめた彼は、職を捨て、恋人と離れて東京のどもり矯正所に来たのだった。
 そこで言友会を知り、例会に参加するうちに会がおもしろくなり、京都にも言友会を作ろうと決意したという。
 ちょうど夏休みに入っていた私は、彼と私と、そしてSとIとの4人で共同生活を始めた。彼が土方やダンプの運転手をして稼いだお金は、私たちの夕食代に消えていった。カレーライスやブタ汁を作り、夜も遅くまで語り明かした。2ヶ月にわたる私たちとの付き合いの中で、彼は京都で言友会を作るエネルギーを貯えていった。
 彼は、その後京都に戻り、言友会を作る活動を開始した。9月下旬京都に帰り翌年の6月まで、職につかずに彼は言友会の専従として仲間作りや事務所作りに専念した。
 活動家が育ち、会が軌道に乗ったのを見届けて、彼はタクシーの運転手になった。どもりながらも親切に応待する彼のタクシーは評判であったが、その料金収入のカーブは言友会の活動に対する貢献度と見事に反比例し続けた。
 その後、京都ろうあセンターの職員になった彼は、水を得た魚のように手話通訳や聴力検査・聴能訓練に打ち込んでいった。彼の豪放でユーモラスな性格と、人並み外れた行動力は、ろうあ者と吃音者との結びつきに大きな役割を果たした。彼のシンボルとも言うべき大柄な体と太い手の指で、体ごと語る彼の手話はろうあ者の信頼を得ていった。「僕は手話をやりながら話すとどもらない、君も手話をやったらどうだ」と私たちにも推めたものだ。
 彼は京都、私は東京と生活の場は離れたが、二人は良く会った。彼は、私のことを「千三つ」と言っては良くからかった。大風呂敷を広げた話ばかりで、千に三つしかまともなことを言わないと皮肉るのだ。その彼とて、私に勝るとも劣らず話が大きかった。私たち二人が会うと夢は大きく広がった。
 彼は、良く東京に出てきては私と新宿のサウナで話し合った。私たちは、それをサウナ会談と名付けた。京都では受け入れてもらえない話でも、東京では受け入れられて話が進んでいく。それに力を得ては、彼は「東京は実行することを決意し動き始めた」と京都の会員を説得し、強引とも言えるやり方で京都言友会をリードしていった。
 その現われが、吃音専門雑誌『ことばのりずむ』の発行であり、第1回吃音問題研究集会の開催であった。
 当時、全国に言友会が広がりつつある情勢の中で、彼と私は「吃音児・者の指導はいかにあるべきか」「各地で吃音に対してどのような取り組みがなされているのか」「吃音とは何か」などを全国のレベルで総合的に考える雑誌や研究会の必要性を感じていた。京都と東京が一体となって雑誌作りが進められ、昭和46年9月『ことばのりずむ』が創刊された。その後、彼が病に倒れるまで彼を編集責任者とする京都言友会がその発刊の責任を担っていった。
 昭和47年5月には、彼を実行委員長とした第1回吃音問題研究集会が京都で開かれた。彼なくしてはとても開かれなかったと言われる集会であった。冒頭の「ハヒフヘ本日は……」で始まった実行委員長の挨拶は、未だに参加者の心に残っている。思えば、この吃音問題研究集会が終わった頃から彼は時々頭痛を訴えるようになっていた。
 正月には一緒にマージャンをやろうと言っていた彼が、卓を囲む直前の昭和47年12月29日、病に倒れた。すぐ京都の病院に駆けつけた私は、大きな体の彼が小さくなってベッドに横たわっている姿を見て胸が締めつけられた。「伊藤やで」と言った私の声に頭だけを動かしてわかったという合い図をしてくれた。
 その後、一進一退を続けた彼だが、時には見違える程元気な時もあった。そんなある時、彼は私にこう言った。
 「なあ伊藤、この春大阪教育大学を卒業したら東京へ帰るやろ。オレも病気が治ったら家族みんなを連れて一緒に東京へ行くわ。二人で東京言友会の専従をしたら東京で大きな事ができるで。やはり東京は日本の中心や、東京で活動しなきゃなあ。早く治りたいわ……」
 彼は病の中でも常に言友会のことを考えていた。その彼が、突然、余りにも急に昭和48年3月29日、帰らぬ人となった。病名は脳腫瘍であった。私の胸の中で、彼は今も生き続けている。「言友会を頼むよ」、彼はニッコリ笑ってそう言っているようだ。(1971年9月24日)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/9/25

「吃音の夏」の終わりに〜福島智さんとの、不思議な偶然の出会い〜

 9月半ばを過ぎたというのに、この暑さは何と表現したらいいのでしょう。何年前だったか、今年のようにいつまでも夏の暑さが続いた年の暮れ、立川志の輔の落語会で、志の輔が枕に「この暑さ、大晦日まで続くと思いましたが…」と言っていたことを思い出します。
 いつもなら、吃音親子サマーキャンプが終わったら、それなりに秋の訪れを感じるのですが、今年は全くその気配すらありません。

 今年の「吃音の夏」が終わりました。思えば、6月の鹿児島県の県大会に始まり、全国難聴言語障害教育研究協議会埼玉大会、名古屋市での親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会、千葉県の難聴・言語の教室の教員の県大会、そして吃音親子サマーキャンプ、それぞれに、たくさんの人と出会い、いい時間を過ごしました。秋を迎えるにあたり、何か見落としてなかったかなあと振り返ってみると、ひとつ、不思議な、おもしろいエピソードがありました。

 名古屋市での親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会が終わり、その日のうちに千葉市に移動し、翌日、千葉県の県大会で講演をして、そのまま千葉で一泊しました。大きな仕事をし終えた開放感がありました。翌日、千葉から東京に異動し、銀座を歩き、千疋屋に入りました。銀座の老舗です。「吃音の夏」前半のご褒美にと、季節のフルーツを注文して、食べ始めたとき、白杖をついた人が、介助の人と一緒に入ってきて、僕の隣の席に座りました。見ると、東京大学教授の福島智さんでした。目が見えない、聞こえなくなった、盲でろうの人です。耳は全く聞こえませんが、中途失聴のために話すことはできます。映画『桜色の風が咲く』のモデルになった人です。

 東大3東大2東大12018年9月7日、僕は、東京大学先端科学技術センターで、「どもる人たちの当事者運動を振り返る〜伊藤伸二さんを囲んで〜」との演題で講演をしています。講演の後、福島さんと、熊谷晋一郎・准教授を交えて、パネルディスカッションがありました。その講演と、講演のための準備の中で、僕の過去の経験の意味づけが大きく変わりました。「吃音は必ず治る」と宣伝する、東京正生学院での経験は、「吃音が治らずに、どもる覚悟ができた」としか意味づけられていなかったのですが、「どもれない体」から「どもれる体」になれたという意味づけに変わりました。とても印象に残る東大での講演でした。
 福島さんは、講演、パネルディスカッションが終わった後、大学構内のイタリアンのレストランの食事に招待してくださいました。一緒に食事をしながら、指文字で訳してくださる方のおかげで、ほとんどタイムラグなく、いろいろなお話をすることができました。僕にとって、貴重で、思い出深いひとときでした。
 その時の福島さんが、偶然に、僕の隣の席に座られたのです。話しかけようと思いましたが、しばらく待ちました。福島さんは、注文された桃のパフェをおいしそうに、食べておられました。僕たちも、自分の注文したものを食べました。食べ終わられた頃を見計らって、声をかけました。
 「福島さん、日本吃音臨床研究会の伊藤伸二です」と、挨拶すると、すぐにそばにいた方が指文字で訳してくださいました。福島さんは、「えっ、大阪の伊藤さん?」と驚かれていました。僕は、なぜ、今、ここにいるのかを話し、福島さんは、今、僕と吃音親子サマーキャンプなどで一緒に活動をしている東京大学大学院生の山田さんのことをよろしく頼みますとおっしゃいました。
 こんな不思議な再会があるのですね。東京に行けば銀座に行くことは多いのですが、千疋屋に入ることは滅多にありません。今までに、一度か二度入った程度の店です。そこで福島さんと出会うのですから。
 僕は、今回のような不思議な偶然の出会いを時々経験しています。北海道・べてるの家の向谷地生良さんとは、島根県浜田市の小さなレストランで出会っています。大阪の伊藤と、北海道の向谷地さんが、島根の小さな市のレストランで出会うなんて、どれだけの確率のできごとでしょうか。向谷地さんとはその後、インドレストランでも偶然に会っています。二人で不思議だねえと笑ったことがありました。銀座の千疋屋で福島さんと出会ったことも、不思議な偶然の出会いのひとつとして、記憶に残るでしょう。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/09/18

「福田村事件」を観て 関東大震災・福田村事件の教訓として〜考えること・立ち止まること・主語を「私」で発信すること〜

《事実を事実と認めない、日本政府と東京都》
 福田村事件のように、関東大震災後の、朝鮮の人への集団による残虐な行為を、記録がないとして、日本政府は認めていません。でも、最近、資料がみつかりました。ひとつは、そのころの小学生の作文、そして、もうひとつは、残虐な事件に出会った生存者の声がみつかったのです。クローズアップ現代から紹介します。この事実は認めざるを得ないものだと思うのですが、それでも、政府は認めません。信じられない私たちの日本政府です。小池東京都知事も、長年続けていた朝鮮人犠牲者の追悼文の送付を6年前にとりやめ、哀悼文書を決して送ろうとしません。自分たちが調べて確認した事実ではないから、他の人が調べた事実は、事実とは言えないというのでしょうか。怒りに体が震えます。

 まず、子どもの作文です。
・十二時頃 非常の太鼓が鳴り出した。青年団の人が『朝鮮人が放火しますからご用心して下さい』と言って歩きました。皆は驚いて青い顔をしていました。(西町尋常小学校 6年 男子)
・まるで戦地にいるようでした。通る人通る人皆はちまきをして竹やりを持って中には本当に切れる太刀を持って歩くのでした。(横川尋常小学校 6年 女子)
・橋を渡って一町ほど行くと、朝鮮人が日本人に鉄砲で撃たれた。首を切られたのも見た。
(横川尋常小学校 4年 男子)

 もうひとつは、テープに録音された生存者の声です。
 「(村人が)雲霞のように集結してきました。日本刀を持ったり槍を持ったり竹槍を持ったり猟銃を持ったりして集まってきました。朝鮮人に間違いないからやってしまえと。確認もしないで。一人に15人も20人もたかってきました。血柱がばーっとあがって」

 このように確かな証拠があるのに、認めようとしない背景には、黒い歴史には目をつぶりたいという意識があるのでしょう。なかったことにしたい、これは第二次世界大戦の敗戦の後、ずっと続いてきた日本政府の態度で、一貫した態度です。さらには、それは日本人の正当防衛だったという説も出ているようです。武器も何も持たない人に、正当防衛の主張が出てくることに、恐ろしさを覚えます。

福田村事件 映画パンフレット《この映画から学ぶこと》

☆考えることを放棄しない
 村人は、なぜ、冷静さを保ち、自らの行為を止めることができなかったのか。中には、「慎重になろう」と、止めようとした福田村の村長など、複数の人がいたにも関わらずです。
 僕は、ひとりひとりがしっかり考えるということができなかったことが大きいと思います。朝鮮の人が毒を入れた、朝鮮の人が火をつけた、誰ひとり、そんなことを見たわけでもないのに、信じてしまいました。考えることを放棄したからでしょう。少数派にいると、常に考えなくてはいけませんが、多数派に入ると、安心です。考えなくてもいいのです。「寄らば大樹」です。
 これは、本当か、事実か、真実か、しっかり考えることができたなら、こんな悲惨な出来事は起きなかったでしょう。ちょっと待てよと立ち止まることが必要だったのです。
 在郷軍人の力が大きかったのも、怖いと思いました。軍隊、戦争、力で制すること、なんだか現代にも通じるきな臭さです。

☆集団の力
 農作業や冠婚葬祭のときの助け合いのための共同体は、いいものです。村という共同体の一員であるという意識は、安心・安全にもつながります。ひとりひとりの力は弱くても、みんなで助け合って生きていくのは、貧しい農村であればなおのこと、必要なものだったと思います。しかし、一旦悪い方向に歯車が回り出したときの集団の力は、とてつもなく大きくなります。同調圧力は、今も日本社会では重く感じます。

☆集団の力に対抗するもの
 集団に抵抗、対抗するものは、何か。監督の森さんのことばを紹介します。

 「集団が一斉に同じ振る舞いをするとき、少し周りと違う動きをする。それはちょっと大切な、ある意味で希望という言い方は大げさすぎるが、人間にはこういう可能性があるんだということは示したかった。そうした意識を持つ人がいることは絶対救いになる。それは映画の中でしっかりと描きたいと思った。同時にこうなってしまっては、もうそういう人たちを止められないというその無慈悲なまでの集団のメカニズムもしっかり描きたいと思った。
 集団に帰属することは人間の本能だから、それはどうしようもない。これは大前提。そのなかで埋没しない。集団を主語にしない。大勢の人を主語、つまり、われわれとか僕たちとか私たち、あるいは集団の名称を主語にしてしまう。会社であったりNPOであったり町内会でもいい。こうしたものは主語にしないことが大切だと思う。
 集団のなかの情報に対しても疑いの目を向ける。今、「クローズアップ現代」でこういうことを言っているが、これは本当にどうなのか、どこまでこれが正しいのか、と情報に対しては信じ込まない。多層的、多重的、多面的です。ちょっと視点をずらせば違うものが見えてくる。その意識をもつことが、僕は、リテラシーの一番基本だと思っている」

 映画を観て、集団が暴走するとき、個人はどうあるべきなのか、考えさせられました。映画の中に、ひとり、同調圧力が強い村の中で、集団に流されない存在として、東出さんが演じる渡し船の船頭さんがいました。監督の森さんが、自分の思いを重ねたのが、その船頭さんでした。事件の瞬間、倉蔵は村人の暴走を制止しようと最後まで立ちふさがります。役を演じた東出さんは、集団の中で個を保つ難しさを強く感じたといいます。

☆私たちに何ができるか
 森監督は、集団を主語にしないことだと言いました。私たちは、我々は、と集団を主語にして話すとき、注意深くならなければいけません。
 「吃音は治す・改善する」が圧倒的多数の中、僕は、常に「私は」を主語にして話したり、書いたりするように意識してきました。
 僕は、ガンジーのことば、「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。それをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」を思い出しました。
 
 また僕は、朝鮮の人が虐殺されたときに、吃音の人も間違って虐殺されたという話はよく知っていました。映画の中で、「十円五十銭と言ってみろ」と村人が迫るシーンで、どもって言えない自分自身の姿が思い浮かびます。これでは、僕も殺されるだろうとと、恐怖を覚えました。これに似たようなことが、今後も起こりそうな気がします。コロナ禍で田舎に帰省した大学生の家の玄関や車に「帰れ」と張り紙をされたのは、ちょっと前の僕たちが目撃した事実です。
 この映画は、ぜひ、多くの人に見ていただきたいと思います。事実を知ること、集団の力の怖さを知ること、個として考えること、それら多くの大切なことを、この映画が教えてくれています。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/09/16

「福田村事件」を観て 関東大震災の時、朝鮮の人たちに混じって、吃音の人が虐殺された

福田村事件 映画パンフレット 「福田村事件」という映画を観てきました。からだが震え、心がえぐられるような、怒り、哀しさ、憤りなどが入り交じった複雑な気持ちです。ここまで人間は愚かになれるのか、人間のもつおぞましさを見た思いです。僕たちは、シネ・リーブル梅田へ、予約をして観に行きましたが、予約せずに来た人ちは、何人もの人が満席で入れませんでした。平日なのに多くの人が観にきていて、この映画が、ミニシアターでの上映の映画としてはヒットしていることに、少し救われた思いをしました。
 今回、コロナ禍の中での「同調圧力」「マスク警察」を経験した私たち日本人が観なければならない映画の一つだと強く思いました。

 今年は、関東大震災が起こって100年、防災について考えようという教訓も含めて、関東大震災にまつわるさまざまなことが、いろいろなところで発信されています。
 僕は、関東大震災直後、朝鮮の人が「井戸に毒を入れた」とか「火をつけた」とかの流言・デマがとびかい、朝鮮の人を極端に恐れた人たちが、国や自治体などがあおったこともあって、朝鮮の人を虐殺したという話はよく知っていました。
 また、朝鮮の人だけでなく、どもる人が朝鮮の人と間違われて殺されたという話を、僕の著書『吃音者宣言』(たいまつ社・1976年)に文章を寄せていただいた、哲学者の高橋庄治さんや中神秀子さんからよく聞かされていました。だからよけいに、「福田村事件」は観に行きたかったのです。どもる人が殺された話は知ってはいたものの、「福田村事件」のことは知りませんでした。吃音と関係がありながら、詳しく調べることもなく、今日まで過ごしてきました。 映画を観て、どもる人が朝鮮の人たちに混じって、殺されたいきさつがよく分かりました。そして、なぜこのような大事件がもっと早く映画や小説として広く社会に知らされなかったのかと不思議な思いにも駆られました。この映画を制作した森達也監督に敬意と感謝の気持ちが強くわいてきます。
 あの時、関東大震災の影響を受けた場所にもし僕がいたら、殺されていたかもしれないと思いました。恐怖に支配された緊張の場面で、多くの殺気だった多くの人たちに取り囲まれて、「十円五十銭と言ってみろ」と言われたら、「十円五十銭」ときちんと言えないだろうと思うからです。日本人と朝鮮人をとっさに判断するために、「十円五十銭と言ってみろ」は確かに簡単な見分け方だったでしょう。朝鮮の人、どもる人以外にも、ちゃんと言えない人はいただろうにと思うと、そんな簡単な判別で人を虐殺してしまう、いわゆる普通の人間の残虐さを思います。現代でも簡単にこのようなことは起こる、いや、SNSが発達した現代だから、余計に起こってしまいそうに思えます。現実に、ウクライナで起こっていること、プーチンに洗脳されているロシアの人たちのことを思わざるを得ませんでした。
 
《福田村事件とは》
 内閣府中央防災会議の専門調査会の報告書によると、当時、関東地方各地では「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「火をつけた」などの流言(デマ)が広がり、多くの朝鮮人や中国人が民衆や軍、警察によって殺傷された。
 関東大震災から5日後の大正12年9月6日、甚大な被害が出た都心部からおよそ30キロ離れた千葉県福田村。香川県から来ていた薬売りの行商の一行が神社で休憩していたところ、地元の自警団に言葉や持ち物などから、「朝鮮人ではないか」と疑われ、幼い子どもや妊婦を含む9人が命を落とした。事件後、殺害を主導した自警団の8人が有罪判決を受けたものの、その後、大正天皇の崩御に伴う恩赦で釈放されている。

《映画のあらすじ》
 事件の前の福田村の村人たちは、平和でのどかに暮らしていました。福田村は、東京都心から30キロほど離れた農村地帯で、農作業や冠婚葬祭など、みんなで助け合い暮らしている、共同体意識の強い集落でした。また、村の中では軍隊経験のある人たちで組織する「在郷軍人会」が大きな力を持っていました。
 そんな村に、関東大震災で大きな被害を受けた人が、東京などから逃れてきました。そして、都心で発生したデマも伝わってきたのです。村人たちは恐怖と不安に駆られていきます。その後、村では「自警団」を組織します。これは、国も自治体も、自分たちで自分たちの村を守るようにと指令があったからです。人々は、徐々に朝鮮人を取り締まろうと殺気立っていきました。
 そこに、香川からの行商団15人がやってきました。地震から5日後の9月6日。神社の前で一行が休んでいたその時、事件は起きました。言葉が違っていることなどから朝鮮人だと疑われたのです。そして、村人たちの集団はパニックになり、到底考えられないような残虐な行為に及びます。大勢でひとりを囲み、竹槍で何度も何度も突き刺したり、幼い子どもを抱いて逃げる母親を川まで追いかけていって殺したり、お腹に赤ちゃんがいる妊婦も殺したりしました。
 中には、そんな村人を止めようとした人もいます。村長も、村に戻ってきたばかりの夫婦も、そして船頭も。しかし、集団の力は大きく、動き出してしまった大きなうねりは、冷静な判断などを蹴散らしてしまうのです。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/09/13

濃密な3日間をふりかえって〜「吃音の夏」のしめくくり 第32回吃音親子サマーキャンプに参加しての感想2〜

 荒神山 丘初めて参加された方の感想を紹介しました。今日は、同じく初めて参加されたスタッフの方の感想です。吃音親子サマーキャンプは、どもる子どもとその保護者が参加するものですが、ことばの教室担当者や言語聴覚士の参加も大歓迎です。リピーターのスタッフが多い中で、初めて飛び込んできてくださった、ことばの教室担当者の感想を紹介します。その後にもうひとり、昨年初めて参加し、今年2回目の人の感想も、あわせて紹介します。
いつ頃からか、吃音親子サマーキャンプを参加者はサマキャンというようになりました。


 
この度は、吃音親子サマーキャンプに参加させていただき、ありがとうございました。初参加でしたが、不安なこともありましまが、スタッフの方に優しく声をかけていただき、心強かったです。
 参加しようと思ったきっかけは、ことばの教室の教員になり、担当の吃音をもった子どもたちと過ごす中で、吃音のことや支援方法を学びたい、吃音をもつ人やその保護者とかかわりたいと思ったからです。
出会いの広場 実際にスタッフとして参加させていただき、1番心に残っていることが、2つあります。
 1つ目は、吃音を持ちながらも、それを受け止めてたくましく生きておられるサマキャン卒業生やそれにかかわるスタッフの皆さんと一緒に活動できたことです。今担当している子どもたちにも、卒業生の皆さんのように、自分の吃音と向き合い、自分らしくすごしていけるような力を身につけられるように、共に寄り添っていきたいと思いました。
 2つ目は、サマーキャンプのプログラム構成がよくできているなと実感しました。特に話し合いが印象深かったです。2回の話し合いでは、小5、6年生グループで、サマーキャンプに参加したきっかけ、吃音のことを知らない友達に、どんな言葉で何を伝えたらよいのかについて、率直に語っていきました。吃音のことを気にしているのは、本当は自分であることに気づき、説明する人を見極めることが大切だという結論をみんなで出していきました。グループにいる人が、みな対等に、応答性をもち、ゴールが見えなくても耐えて対話を続けるという場面を目の当たりにし、吃音と自分から向き合うということは、こういうことなのだと知りました。
劇の練習1 劇づくりでは、積極的に役に立候補し、グループでもアィディアを出し合う子どもたちの姿や本番でどもりながらも、一生懸命に演じる姿に胸が熱くなりました。子ども達の、保護者、そしてサマキャンのスタッフの方の心の通い合いを見たように思います。
 3日間、貴重な経験をさせていただき本当にありがとうございました。
 これから二学期にことばの教室に来る子どもたちに、サマーキャンプの体験を話したいと思います。そして、さらに吃音に関する知識や対話の方法も学びつつ、子ども達やその保護者の方に還元したいと思います。(兵庫県 ことばの教室担当者)
  

                
 
スタッフの皆さん、2泊3日お世話になりました。サマキャン2回目の参加の母です。感想が遅くなってしまい、申し訳ございません。
 昨年、初参加したのですが、娘自身、吃音のみんなと一緒に生活することが楽しく、また、心に残る大切な時間を過ごしたようで、「今年も参加したい!」という本人の思いを尊重し、参加させていただきました。
 私は、昨年参加した時の、「親がすることは、サマキャンに連れてくること」と言う言葉が、ずっと頭に残っていました。それはまるで呪文のようでした。
 連発のある娘ですが、昨年からの1年間、私の知る限り、悩んでいる様子は見られませんでした。なので、参加時アンケートで「悩んでいることはありますか」の欄を見たとき、特に書くことがないなぁと内心思いつつも娘にどんな感じか聞いてみたのですが、からかわれたりすることがある、との返事に、私はとても驚きました。なぜならば、本当に落ち込んだり、消極的になったりしたことがなかったからです。
 小学校の個別懇談のときも、先生から、「よく手を挙げる。声が小さかったり、少し黙り込むこともあるけれど、それでも手を挙げている。私にもよく話しかけてくれるので嬉しい」という話をお聞きするのですが、その度、私は、すごいなぁと思っています。
 これはやはり、本人も言っていましたが、サマキャンで勇気をもらった、ということに繋がるのだと思います。自分は1人ではない、たとえ普段はまわりに吃音の子がいなくても、同じ吃音のみんながいるんだ!と思えたことは、何物にも変え難い体験になり、力になっているんだと感じます。正直なところ、親としては、吃音で悩んだ時、どうやって関わっていけばいいのかわかりません。しかし、家族の共通認識として、吃音は個性と思っているため、あえて意識して生活する必要もなく、吃音に限らずですが、子どもの様子がおかしいなと思った時は、話を聞く、一緒に寄り添う、それでいいのかなと思います。
 サマキャンで学んだ、親はこどもの犠牲にならず、自分の生活を楽しむ、逆も同じ。転ばぬ先の杖はよくない。ごはんをきちんとつくる。結局は、子どもが自分自身で乗り越えていかなければならないことであるからこそ。
 きっと辛いことは今後出てくると思いますが、そんなとき、伊藤さんもおっしゃっていた、レジリエンスが大切になるのだと思います。押しつぶされても元に戻る力、心のしなやかさは、人生においてとても重要で、サマキャンで手に入れた新たなお守りを胸に、楽しいことや辛いことなど、様々な体験を通して、レジリエンスを培っていってもらいたいと思います。
 娘は、学校の吃音通級教室では、短時間のため、あまり発言はしません。自分の意見を言うのは苦手らしく、いつも静かです。(だから余計に、学校の先生から聞いた話は本当なのか?と思ってしまうのですが、本当のようです)
観客と伸二 しかし、サマキャンでは違います。劇など大勢の前で何かをする時は恥ずかしい気持ちが先行するようですが、昨年よりは声も出ていたように思いますし、また、みんなとの話し合いをする時も、自分の意見を言ったと本人から聞きました。2泊3日、同じ生活することで、心を許していくのだなと思います。
 吃音のみんなが、一堂に会し、生活する機会を作ってくださっていること、心から感謝しております。また、来年も参加できますように。長文乱文失礼しました。本当にありがとうございました。(小学5年生の母親) 


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/09/08

濃密な3日間をふりかえって〜「吃音の夏」のしめくくり 第32回吃音親子サマーキャンプに参加しての感想〜

荒神山 丘 2泊3日の吃音親子サマーキャンプの報告をしてきました。濃密な3日間でした。毎年、いいキャンプだったなあと思います。そして、今年も、いいキャンプでした。スタッフにとっても、きっと参加者にとっても、いいキャンプだったろうと思います。そう思える時間をともに過ごせたことを幸せだと感じています。
 参加した全員に向けて、感想を書いてほしいとお願いしました。今、メールや手紙やFAXで、感想が届いています。それぞれにいろいろなことを考え、感じた3日間だったようです。
 届いた感想の中から、今年初めて参加された方の感想を紹介します。

 
はじめての参加でしたが、帰ってきて思い返してみると、「参加してよかった」と心から思います。キャンプ中は正直、大変でした。息子は、初日から帰りたがっていました。初めての場所は苦手で、家でいつもペースで過ごすことが好きな息子は、大勢の人や音にも敏感に反応していました。何度も荷物をまとめて帰ろうとして、時に大声で帰ると泣く息子にどうすればいいのかと思いました。
 でも、初日からことばの教室の先生に、2階の遊びのスペースで輪投げをしていただいたり、声をかけてもらえたこと、同じ部屋になった他のお母さん方からも、私にも息子にも声をかけてもらったこと、他にも大学生のスタッフからも何度も息子を誘ってもらったり、ごはんを一緒に食べてもらったりと、親子共々みなさんにとても支えていただきました。息子もイヤだと言いつつも、逃げ出しはしなかった。いろんな方に話を聞いてもらえていることは本人も嬉しかったと思います。そして、自分以外の吃音の子に会うのも彼にとって初めてです。肌で「自分だけじゃない」と思えたことはとても大きいことだと思います。高校生や大学生のお兄さん、お姉さんが楽しそうにしていることも親子共々希望が持てました。
子どもの劇8 劇も初めての経験でした。本人が本番、楽しんでいるのは見ていてよく分かりました。この経験が自信になっているのもすごく感じます。他の子ども達のいきいきとした姿にも心が熱くなりました。
 あと、親同士の対話、伊藤伸二さんとの対話もすごく心に残っています。
 息子だけじゃなく、私自身も悩んでいるのは自分だけじゃないと思えたことは、これからの心の支えになります。
 これからも、悩むことも多いかもしれませんが、なんとかなりそうと思えます。
 来年も参加します。2回目はどんな姿が見れるのか今から楽しみです。本当にありがとうございました。
 吃音親子サマーキャンプに参加できたこと、とても幸運でした。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/09/05

「吃音の夏」のしめくくり 第32回吃音親子サマーキャンプ 最終日

荒神山背景 サマーキャンプ最終日、朝からいいお天気でした。空の青さと、荒神山の木々の緑が、目にまぶしい朝でした。最終日は、いつもの音楽が鳴りました。「年に一度は、この曲を聞かないと」と言うスタッフもいます。ラジオ体操の後、いくつか連絡をするのですが、シーツを担当してくれているスタッフが、自分たちのことを「シーツシスターズ」と名付け、シーツのたたみ方などをみんなの前で見せてくれました。ポーズも決めていました。何をするのも、ユーモアあふれるスタッフです。
シーツシスターズ ポーズ朝のつどい みんな 


 朝食後、子どもたちは、劇の最後の練習です。上演場所となる学習室でのリハーサルを順番に行いました。そしてその間、保護者も、表現活動に取り組んでいました。
劇練習1劇練習2
 実は、この親の表現活動、サマーキャンプの隠れた名物プログラムになっています。始まりは、ほんのちょっとしたことがきっかけでした。子どもたちが、苦手な劇に挑戦しているのだから、親も何かしようか、そんな始まりだったと思います。歌を歌ったこともありました。谷川俊太郎さんの「生きる」の詩を、ひとり1行ずつ読んだこともありました。それが、いつのまにか、定番になって、ここ最近は、工藤直子さんの「のはらうた」を、グループごとに表現することになってきました。題して、「荒神山ののはらうた」です。今年で17回となりました。
 毎回、話し合いのグループごとに集まり、のはらうたの一つを表現します。ことばに合うふりつけを考え、声を出し、動き回り、踊り、汗をいっぱいかきながら、開演ぎりぎりまで練習している親の姿を、僕は毎年、感心して見てきました。そして、子どもたちの劇の前座をつとめるのです。子どもたちは、自分の出番を控え、どきどきしています。そこへ、普段見ることのない親の弾けた姿を見ます。そして、自分たちもと、上演に向かうのです。親たちも、子どもたちの緊張感を共に味わうことで、何ともいえない一体感が漂うことになります。
 でも、今年は、この親の表現活動をするかどうか、実は迷いました。初参加が多く、今までのようにリピーターがリードしていくことが難しいのではと思ったからです。どんなものになるか分からないが、ちょっと負荷のかかることに取り組むことも意味があるだろうと考え直し、いつものように行うことにしました。だんごむしとかぶとむしとかまきりが登場する詩を選びました。みんなで声を出し、グループごとに詩を読み合いながら、後は、自由に練習してもらいました。1時間弱くらいだったでしょうか。リハーサルをして、手直しをして、上演を待ちました。
親の表現1親の表現2親の表現3 午前10時、荒神山劇場が開演しました。保護者の前座「荒神山ののはらうた」の後、子どもたちによる「森は生きている」の上演でした。どちらも見事でした。どもりながらも、せりふを言い切る子、声を届ける相手の存在を確認してせりふを言う子、短い時間にせりふをしっかり覚えてしまった子、普段の学校では劇に出ることなどないのに今回は役を全うした子、おもしろいアドリブを考え、それを取り入れて受けたので大喜びの子、たくさんの子どもたちのいきいきした姿を見ることができました。
 終わった後、今年は、卒業式がなかったので、少しだけ時間に余裕があったので、初参加の人全員に感想を聞きました。スタッフにも感想を聞くことができました。
子どもの劇1子どもの劇2子どもの劇3子どもの劇4子どもの劇5子どもの劇6子どもの劇7子どもの劇8
 僕は、今年、79歳です。以前は、何も考えずまた来年会いましょうと言っていましたが、ここ最近は、そう簡単には言えません。いつまで続けられるかと、ふと思います。今年も、今年が最後のつもりで荒神山に来ました。そして、終わった今、とりあえず、来年は開催しようと思いました。一年一年、その思いで続けていくことになるのだと思います。
 しかし、今回、小学5年生から参加しているスタッフのひとりが、仲間と話し合って「どもる子どもの未来を考えると、吃音親子サマーキャンプの火を消してはいけない。だから、私たちが引き継ぎます」と言ってくれ、最終日の振り返りの時に表明してくれました。若いスタッフの熱い想いが、僕に新たなエネルギーを注入してくれました。僕が倒れても、吃音親子サマーキャンプが続くと思うと、まだまだ続けられそうだとの思いがふくらんできます。
 最寄りの駅である河瀬駅に向かうバスを見送って、サマーキャンプは、無事終わりました。

 たくさんの人が、例年以上に「参加してよかった」と具体的なエピソードを添えて感想文を送ってくれました。サマーキャンプが大切にしてきたことをしっかりつかんでくださったことが、とてもうれしかったです。 
  あなたはひとりではない
  あなたはあなたのままでいい
  あなたには力がある
 このことを伝えたくて、僕はまた来年、この場に来たいと思います。
観客と伸二帰りのバス
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/09/03

「吃音の夏」のしめくくり 第32回吃音親子サマーキャンプ 二日目

 いつの間にか、9月に入りました。毎年、サマーキャンプが終わると秋の訪れの気配を感じるのですが、今年はまだまだ暑いです。みなさん、夏の疲れが出ませんように。

つどいの広場 吃音親子サマーキャンプ、2日目の朝がきました。
ラジオ体操 いつもなら、自然の家の音楽が流れるのですが、何か不具合があったらしく流れません。でも、サマキャン卒業生の若いスタッフが、子どもたちに声をかけ、朝のスポーツに誘っていました。基本的には、参加自由の朝のスポーツです。僕が、ラジオ体操が始まるぎりぎりの時間に、つどいの広場に行くと、みんな、バドミントンをしたり、フリスビーをしたり、思い思いに遊んでいました。子どもたち、今日も元気です。

作文教室 2日目は、作文教室から始まりました。
 どもる子ども、保護者、きょうだい、スタッフ、参加者全員が、原稿用紙に向かいます。吃音にまつわるエピソードをひとつ、タイトルをつけ、様子がよく分かるように丁寧に書いていきます。「国語教育と吃音」をテーマに大学院で博士論文を書いているスタッフが、書く前にみんなに「自分と向き合うために、吃音と向き合うために、思い出して書きましょう」と声をかけていました。この作文教室が、この時間に設定されていることも、僕はとても絶妙だと思っています。一日目の夜に話し合いをし、この作文の後にも話し合いをします。作文教室は、話し合いにサンドイッチされた状態で行われます。
 話し合いは、ほかの人たちがいる中で、触発されながら、自分のことを考えます。
 作文は、ひとりで、自分や自分の吃音に向き合う時間です。また、話し合いは、話すというコミュニケーションのひとつで、作文は書くというコミュニケーションのツールを使います。話すことか書くことか、自分の得意なツールで自分を表現することができるのです。そして、それはお互いに影響し合います。いつだったか、作文を書きながら、これまでのことを振り返り、ちょっとしんどくなった女子高校生がいました。2回目の話し合いに参加せず、近くを散歩して、気分を整え、次のプログラムには元気に加わりました。
 また、書けない子もいます。僕は、それはそれでいいと思っています。無理矢理書かせるのではなく、みんながそれぞれに書いている中で、書けない自分と向き合うことも意味のあることだと思っています。小さい子にはお手伝いをしたり、絵日記風にしたり、支援をしますが、基本的には、この時間は、自分ひとりで向き合う時間です。
基礎講座 作文と平行して、参加経験の浅いスタッフ向けのサマーキャンプ基礎講座を設けています。特に、初めて参加するスタッフは、ほとんど何も事前の打ち合わせをせず、サマーキャンプが始まります。とまどいの中で一日を過ごしたこの時間に、自分が感じた疑問や質問を出してもらい、僕やそのほかベテランのスタッフが自分の経験を話します。サマキャン卒業生も、ここで、サマーキャンプの舞台裏を知ることになります。一参加者として参加していたときとは違うサマーキャンプの意味づけができるようです。何か気の利いたことを言おうとしなくていい、アドバイスする必要もない、吃音と共に生きているそのままの自分を出してくれたらいいと思っています。
 作文が終わったら、2回目の話し合いです。作文を書いたことで、より深まったり、1回目の続きで広がったり、それぞれのグループで展開されました。僕が参加していた小学生5、6年生の話し合いは、とても興味深いものになったので、別の機会に報告します。
劇の練習1 午後は、親子別々のプログラムです。子どもたちは、劇の練習が始まります。昨夜見たスタッフによる見本の劇を思い出しながら、初めは、配役を決めず、自由にいろいろな役になり、やりとりを楽しみます。誰に向かってことばを届けるのか、相手のからだに届く声を意識して取り組みます。みんな、真剣に、でも笑いの中で練習が続きます。
 そして、3時過ぎ、子どもたちは野外活動に出発します。近くの荒神山へのウォークラリーです。生活・演劇グループごとに出発です。ここでも、サマキャン卒業生スタッフが大活躍です。毎年、登ってきた荒神山、途中いろいろな話をしながら歩くこと、山頂での眺めの素晴らしさ、そんな楽しさを伝えるため、事前に打ち合わせを行い、出発前の説明も自主的にしてくれています。
親の学習会 子どもたちの活動と並行して、保護者は、親の学習会を行います。
 これまで、親の学習会では、論理療法、アサーショントレーニング、ポジティヴ心理学、レジリエンスなど心理学を、エクササイズを通して学んだり、グループごとに分かれて模造紙にまとめて発表したり、さまざまな形で行ってきましたが、今年は、初参加者が多いこともあって、初心に戻り、参加者から質問を出してもらい、それに答えていきました。 ひとつの質問から話は広がり、時間がどれだけあっても足りません。予定の時間を40分もオーバーして、午後1時に始まった親の学習会は、5時40まで続きました。出された全員からの質問に答えることができました。何度か強調したのは、親の課題と子どもの課題を分けること、どもる子どもをかわいそうと思わないこと、子どもの力を信じて見守ることの大切さでした。
 荒神山から帰ってきた子どもたちと合流して夕食です。
 コロナの前までは、この夕食を外のクラフト棟で食べていました。メニューは、カツカレー。20回だったか、25回だったか、記念の年に、何か記念になることをと思って、食堂に無理をお願いし、カツカレーにしていただいたことがその後の定番になっていました。緑のきれいな自然の中で、みんなでカツカレーを食べる光景は、どこを切り取っても絵になります。写真を見ると、みんな笑顔です。僕は、この光景を見ると、「吃音ファミリー」ということを思います。大きな輪になってみんなが笑っている、温かい空間なのです。コロナ後、それができなくなりました。蚊が大量発生し、とても外で食事をとることができなくなったのです。残念ですが、今年も食堂でいただきました。
 食事の後は、子どもたちは、劇の練習です。保護者は少し休憩をかねて、フリートーク。午後の学習会の疲れを少し癒やしていただきました。
スタッフ会議 午後10時、スタッフ会議です。長い二日目が終わりました。話し合いや劇の練習を通して、子どもたちの様子を交換し合います。劇の仕上がり具合を聞くと、どのグループも、「順調です。どうぞ、お楽しみに」「○○君の演技、お見逃しなく」など、翌日への期待をもたせてくれます。このスタッフ会議も、スタッフが子どもや親の様子を気にかけてくれていることが分かる、僕の好きな時間です。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/09/01
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