伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2023年06月

人生脚本

 昨日は、4年ぶりに岡山で吃音相談会が開催されました。岡山言友会が主催で、ずっと僕を講師として呼んでくれています。いつもと変わらないメンバーが僕を迎えてくれました。
 どもる成人だけでなく、二組の小学生と保護者、ことばの教室の担当者に対して、今、僕が注目している健康生成論、そして具体的な提案として「首尾一貫感覚(SOC」」の話をしました。
 後で、とても参考になりましたと、小学生の保護者と、成人で夫婦で参加した人が話に来てくれたので、ほっとしました。いつも話し慣れていることではなく、新しいネタを話す時はやはり、伝わったかどうか、気になります。単に情報ではなく、生活にいかすところまで、新しい知識を理解し、活用してもらえるように伝えるのは、簡単ではありません。
 今週の金曜日には、鹿児島県のことばの教室の担当者の県大会があり、その準備にいかすことができるのは、ありがたいことでした。いつものことながら、ぎりぎりまで粘って、岡山の経験をいかし、鹿児島大会の準備の修正をしているところです。
 
 今日、紹介する「スタタリング・ナウ」2001.12.15 NO.88 は、交流分析の人生脚本について書いています。「どもってはいけない」との思い込みから解放されることで、新しい人生が始まります。交流分析を学ぶ中で、その思い込みの背景に気づきました。個人の人生脚本、社会の文化脚本を書き換えていく、その歩みは今も続いています、健康生成論、首尾一貫感覚というキーワードとともに。

  
人生脚本
                日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 「《どもることが普通》の世界にいられるのはうれしいことです。これは本当にうれしいことです」
 「僕は、《どもってはいけない》と思い込み、鎖が全身にまきついたような状態になっていた。しかし、吃音サマーキャンプでは、その鎖がとけ、どもってもいいという解放感がうまれ安心してどもれた。この経験は生涯忘れない」
 今年の夏、吃音親子サマーキャンプに参加した中学1年生の谷中陽菜さんと、高校1年の安田善詞君のことばだ。数年前には、「高校生のにいちゃんもどもってはったなあ、僕もどもっていいの?」と、母親に問いかけた小学3年生がいた。
 どもる子どもたちや、吃音に悩んだ私たちは、なぜこうも「どもってはいけない」と思い、どもる自分を責めてきたのだろう。
 これを説き明かすには、交流分析の提唱者、エリック・バーンの、人生脚本の理論が役に立つ。それは子どもの頃に親から与えられた禁止令による幼児決断だというのだ。人生脚本とはこうだ。
 「人は、親およびそれに代わる人から影響を受け、自分では気づかないうちに、自分で脚本をつくり、その脚本にしたがって、あたかもドラマを演じるように人生を生きている」
 どもる子ども自身が、自分で「どもることは悪いことだ」と思い始めることは、ほとんどないだろう。親や親に代わる人の「治って欲しい」との願いや、教師を含めた社会一般の、「どもらない方がいい」という価値観が、「どもってはいけない」という禁止令になっていき、その子どもの人生脚本をつくっていく。
 親が子どものどもっている姿を見てかわいそうだと思うことは自然な感情だといっていい。治してあげたいと思うのも親心だろう。しかし、この子はかわいそうな子だ、どもりをなんとか治してあげたいと思うことは、「どもってはダメだ、どもっていては楽しい人生は送れないのだよ」という人生脚本を子どもに手渡したことになる。そして、子どもは、その脚本どおりに自分自身をかわいそうな存在だと思い、どもっている自分は自分ではない、どもりが治ってからの自分が本来の自分だと強く思ってしまう。そこから、吃音に悩む人生がスタートするのだといっていい。
 さらに社会一般の「どもっていては有意義な人生は送れない」「どもりを治しなさい、どもっていてはいけない」という禁止令は、最近でも出版される、『吃音は必ず治る』や『吃音の克服と改善』などの書籍や情報を通してその強化因子として強く働く。
 吃音に悩む人を悩ませるのは、親やそれに代わるもの、社会一般の「どもってはいけない」の禁止令を含んだ個人の人生脚本、また、人間の歴史の中で営々と続いてきた、「吃音の悲劇」をテーマにした吃音についての文化脚本だといえる。
 この秋の吃音ショートコースのテーマは、交流分析で、幼児決断、再決断について学んだ。
 「どもりは悪いもの、劣ったもの、治さなければならないもの」という社会通念への決別は、25年前に、私が《吃音者宣言》を起草して以来、提唱し続け、実践も重ねて来た。そして、今、新たに、交流分析を通して再度、この問題提起を整理する作業を始めたい。人生脚本や文化脚本を書き換えること、それは、この人生脚本に気づいた私たちの責務でもある。後に続く人々に、この人生脚本を手渡してはならない。
 吃音ショートコースの最終日、みんなで語ろうティーチインの、ゆったりとした温かい雰囲気の中で、参加したひとりひとりが、自分の人生を振り返り、それぞれの自分に与える許可証を確認した。
 「どもってもいい」という「許可証」の考え方が、滋賀県のりっとう山荘で出会った仲間たちだけでなく、日本吃音臨床研究会の多くの仲間たちへ、そしてそれを個人の人生脚本だけでなく、社会の脚本というべき吃音の文化脚本を書き換えていく力につなげていきたい。
 そう、「あなたはどもってもいい」 (「スタタリング・ナウ」2001.12.15 NO.88)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/06/12

第12回吃音親子サマーキャンプに参加した人の感想

 2001年というと、今から22年前のキャンプになります。今回、紹介する参加した人たちの感想を読むと、そんな前のこととは思えません。人生のある時期、吃音親子サマーキャンプという場で一緒に過ごしたことは奇跡のようなものです。今回、登場する高校生男子は、今、大阪スタタリングプロジェクトのメンバーだし、保護者は「スタタリング・ナウ」の購読者で、継続の折にはいつも通信欄に、息子の近況を書いてくださいます。

 
吃音親子サマーキャンプに参加した方にはいつも感想を書いて下さるようお願いしています。キャンプのプログラムのひとつである作文教室でしたように、親も子も頭をくっつけてキャンプの感想を書いて下さっているようです。その中から、高校生男子、中学生女子、小学校6年生のどもる子どもをもつお母さん、3人の感想をご紹介します。

  吃音の長所と短所
                  安田善詞(高校1年生・大阪)
 僕たちどもる人間は、普段の生活の中では「どもってはいけない」と思い込み、鎖が全身に巻き付いたように、常に、体に力が入った状態になっている。
 しかし、今回、吃音親子サマーキャンプに参加してみて、全身に巻き付いていた鎖が解けたような状態だった。「どもってもいい」という解放感が生まれ、安心してどもることができた。安心感のせいか普段よりどもっているような気がした。普段の生活では、気にしてあまり話さないように心掛けるのだが、キャンプでは気にすることもなく心に余裕ができていたのか、平気で人前であることも気にせずにどもることができた。このような気持ちで三日間過ごしたのは、生まれて初めてのことで、解放感に浸ることができた。多分、生涯、絶対に忘れることのできない、すばらしい経験ができたと確信している。
 また、このキャンプですばらしい出会いがあった。今まで「どもっているのは、自分ひとりだ」と思っていたが、キャンプに参加してたくさんのどもる人がいて、すごく驚いた。人口の1%ほどだと聞いていたが、もっと数字が高いのでは、と感じるほどだった。「どもりで苦しんでいるのは僕だけではない。ひとりで悩んではダメだ」と思い、すごくうれしくなった。
 また、このキャンプで普段の生活ではできないことができて、すごくよかった。同年代の人と、学校生活の悩みやその他いろいろなことにっいて話し合うことができた。自分の悩みや他の人の思いなどを聞くことができて本当によかった。
 僕が、一番感動したことは、最終日にした劇である。多分、学校の文化祭では、どもる人は舞台に立つこともなく、たいていは裏方の仕事になってしまう。しかし、キャンプでした劇は、練習から参加することができ、学校生活ではできない経験ができた。練習ではどもらずに台詞が言えたのだが、本番では緊張してしまってどもってしまった。しかし、最後までせりふを言うことができてよかった。達成感に満ちあふれていた。
 うけを狙う人もいて、会場を沸かせてくれた。どもりながら、必死にせりふを言おうとする子どもには「がんばれ」と応援したくなった。学校生活では、できないことが経験できてよかった。
 吃音の短所は、これまでたくさん経験し、書くまでもない。このキャンプで、長所をみつけることができた。もし、僕がどもっていなければ、同年代の人しか知らなかったと思う。しかし、このキャンプでいろいろな年代層の人と知り合えてよかったと思う。どもっていなければできないことである。
 今回、キャンプに参加して本当によかった。同年代のどもる子と知り合うこともでき、吃音の長所もみつめることもできた。また、来年もこの感動を味わうために、吃音親子サマーキャンプに参加したい。

  行ってよかったサマキャン
               谷中陽菜(中学校1年・千葉)
 やっぱ、サマキャンの感想は「行ってよかった」でキマリでしょう。本当は何かもっとフクザツな気持ちで、ことばがみつからない。夜だって、おしゃべりしないで早く寝る派の私が2時まで起きて話してたってことがスゴィことですね。
 実は、私、8月30日に部活の大会をひかえていたのですが、そんなものはそっちのけでサマキャンに来ました。大会は大切だけど、サマキャンに来ないとまた来年までやっていけない。(特に、今年、友達が増えたからさらに)おおげさかもしれないけど、このサマキャンがなかったら人生に負けてたかも…とか思ってしまうほど、吃音親子サマーキャンプは人生の支えになっています。勇気や元気、そして根性をチャージだ。
 どうしてそこまでサマキャンが大切なものになっているかというと、やっぱ、「どもることがふつう」の世界にいられるからですね。うれしいことです、これは。本当にうれしいことです。だから、遠かろうと、電車&新幹線でメチャメチャ酔おうと来るんですよね。どもることが普通だと心が安心します。安らぐというか…。なんか自分で「あっ、すっごいどもっちゃってる」とか思った後に「あ、そうか。別にどもったってイヤそうな顔をする人もからかう人もいないし、心おきなく話していいんだ」って思ったことが何回もありました。
 クーラーを使える時間が限られてる部屋と、動くと音がする二段ベッドと、ちょっぴしつらいウォークラリーと、みんなで食べるごはんと、夜更かしと、ラジオ体操など、みんなごくあたりまえの行動が楽しくて、ウキウキして、3日間ずっと笑ってたり笑顔だったり、すっごく楽しかったです。来年は私、キャンプでどうしてるのかなー。
 余談ですが、知人Kの作文に「どもりが直ったらいいなあ」みたいなことが書いてありました。しかーし、と私は思った。「サマキャンに行って、どうしてそう思える?!」と。私はもうこのキャンプを知ってしまった以上、スタッフになるまではどもりは治せたとしても絶対治したくないです。全くキャンプに行ったせいでどもりに対する思いが180度変わってしまいました。すごいことだわっっ。
 だって治っちゃったらサマキャンに参加できないかもだし、参加できても「あー、そうそう中二になるとさあー」とか話せないじゃないですか。そんなの絶対にいやだし、悲しいです。そんなことまでサマキャンに対する思いはアツクなってしまいました。来年も行きますんで、よろしくお願いします。

  親は子どもの伴走者
                 正田知子(どもる子をもつ母親・山口県)
 私は、吃音親子サマーキャンプのことを2年前から知っていました。でも、治ることばかりを願って吃音を受け入れることができなかった私は、参加する決心がつかずに、子どもはもう6年生になっていました。小学校最後の夏休み、「この一年を逃がしたらもう行くことはできないかもしれない…」そう思い、とにかく参加して、吃音について考えてこようと決心しました。
 河瀬の駅で、たくさんの吃音の親子の姿を見ただけで、私は安堵の思いで、どっと涙が溢れてきました。これまで、吃音のことを話題にできる友達もなく、ずっと悩んでいました。
 伊藤伸二さんの本は、新聞に掲載された記事で知り、取り寄せて何冊も読んでいます。でも、吃音を受け入れることを頭で理解していても、子どもにどう接していいのか、現実に難しいことです。でも、このキャンプに参加したことで、私も息子も、吃音を前向きにとらえるという道が開かれたと思います。「治る、治らない」ということにとらわれるのでなく、「治せない」という真実を受け入れることが、初めの第一歩だったのです。
 今回は、私は話し合いの中で、成人のどもる人の話を聞くことができました。立派に社会でがんばっておられる方の話を聞くことは、これまで息子の将来に不安を抱いていた私の気持ちをずいぶん楽にしてくれました。また、お母さんは「とにかくよく話を聞いてくれる人だった」そうです。このことは、私の中に深く刻みこまれた一言でした。
 私は、息子の吃音をこれまでマイナス方向にしか考えていませんでした。でも、それは間違いだったのです。息子には、3歳下の弟がいます。随伴行動のひどい息子は話す時に、よく弟の足を踏んでしまったり、体当たりしてくることがよくあります。でも、弟は一度も文句を言ったことがありません。兄の吃音ということが、弟の優しさを生み出してくれていたのです。本人も、周囲の人たちが口をそろえて「優しい子だよね」と言ってくれます。
 私は、キャンプへの行きの列車の中で、『吃音と上手につきあう吃音相談室』(芳賀書店)を人目につかないように、表紙を隠して読んでいました。でも、帰りの今は、堂々と『どもり、親子の旅』を息子と読みました。これまで、体裁を気にし、不憫に思っていた自分を恥ずかしく思います。
 新学期になって、夏休みの自由研究の発表会があります。これまでとは違った見方で、堂々と子どもを見つめて、発表を聞く自信があります。
 「吃音とつき合っていくことは難しいことだ。でも、親が子どもの伴走者になっていくことで、子どもは方向を見失うことなく、まっすぐ進んでいくことができる」。伊藤さんから教えられたこのことを、忘れずにがんばっていきます。(「スタタリング・ナウ」2001.11.17 NO.87)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/06/10

吃音親子サマーキャンプ、それぞれのプログラムのもつ意味 3

 プログラムのもつ意味について、書いてきました。最後に、プログラムではないのですが、僕たちのキャンプが親子での参加を原則にしていることの意味とスタッフの役割についてまとめています。最近は、キャンプの卒業生がスタッフとして加わってくれています。スタッフの高齢化がすすむ中で、キャンプ卒業生の若いスタッフは貴重な存在です。小学生で参加していた子が、今、スタッフとしてキャンプを支えていてくれる、こんなうれしいことはありません。まさに吃音ファミリーです。

親が参加することの意味
12回サマキャン 3 子どもと同じように、親もひとりで悩んできた。誰にも相談できなかったという人がいるし、相談しても分かってもらえなかったという人もいる。私のせいで子どもがどもるようになったと、自分を責めている人もいる。2回ある親同士の話し合いは、ひとりで悩んできた親のセルフヘルプグループの場ともいえる。そこでは、家族の中や社会の中での役割を捨て、ひとりの人間として存在することになる。辛かった話をし、他人の辛かった話を聞く。子どもたちと同じように、親のグループの中でも、ひとりじゃなかったという安心感がみんなを包みこむ。公式のプログラムが終わった後、深夜まで話しこんでいる親たちがいた。リピーターの親たちが、初めて参加した人の話を聞いてくれている。泣いたり、笑ったり、話は尽きることがないようだ。
 キャンプには各年代の子どもたちが参加する。大人もいる。親にとっては自分の子どもの将来像を目の前で見ることができるいい機会である。どもってはいても、あんな中学生に、あんな高校生に、あんな大人になってほしいなあと、生きている見本がたくさんいる。
 また、過保護で育ててきたからと、キャンプ中ひとりで大丈夫かなあと心配していた親がいたが、子どもは一度も親のそばに来なかったとちょっと寂しげだった。こんなこともできるのか、と自分の子どもを見直したという親もいた。自分の子どもを客観的に見ることのできる場でもある。
 最終日に子どもたちが練習してきた芝居を上演するが、その前座として、親たちも表現活動をする。この親の表現活動は、今年で4回目となった。キャンプ中に偶然に生まれたプログラムだ。家庭でのコミュニケーションの一方の担い手である親も何か表現の方法を身につけて欲しい。親も一所懸命に何かに取り組む姿を子どもに見せて欲しいとの願いから、いつの間にか定番のプログラムになった。子どもの側からは、普段見ることのできない親の顔を見ることができるし、親の側からは、子どもたちの芝居のときのドキドキする気持ちを同じように味わうことができる。双方にとって意味があるようだ。この、親の表現活動を初めて見たことばの教室の担当者が、これがよかったと興奮気味に言った。ここまでできることがすばらしいと。私たちのサマーキャンプでは、親は単なる付き添いではない。親も子どもと同じように、しっかり参加する。父親の参加が多いが、会社でも家庭でも見せないひとりの人間としての顔を見せている。
 4回目となった今回、親の表現活動もだんだんとレベルアップしてきて、練習にも熱が入ってきた。休憩なしに、汗を流しながら自主練習をしていた。どきどきしたり、緊張したり、子どもと同じ思いを持つことができる。

スタッフとは
 サマーキャンプのスタッフは、主としてどもる大人とことばの教室の担当者やスピーチセラピストなどの臨床家とで構成されているが、その他、普通学級や養護学級、幼稚園の教師、学生など、キャンプに興味をもった、さまざまな職種の人が集う。みんな手弁当での参加だ。交通費や、参加費を払ってキャンプに参加するということは、それはもう仕事ではなく、自主的な自分自身のための参加だと考えて下さっている。
 キャンプのはじまりのあいさつで、必ず言われることがある。
 「私たちもキャンプのひとりの参加者です。世話する人、世話される人がいないのがこのキャンプの特徴です。誰ひとりお客さん扱いはしません。スタッフと言われる私たちは、義務でキャンプをしているのではありません。したいからしているだけです。私たちは精一杯キャンプを楽しみますので、みなさんも楽しんで下さい。世話する人がいないので、キャンプの生活は快適ではありません。不自由や不都合なことがたくさんあるでしょうが、お許し下さい。その分、子どもたちと精一杯かかわります」
 子どもとの話し合いや演劇に集中するために、キャンプそのものへの生活の運営はいいかげんというか、いきあたりばったりになることも多い。組織だった運営を最初から諦めている。だからキャンプの準備の会議などもほとんどしない。当日集まった初対面の人たちが、顔をそろえて、基本的に大切にしていることを打ち合わせるだけである。それが、チームワークよく動いていく。140名ものキャンプが、事前の打ち合わせがほとんどないままに、それなりにスムーズに運営されるのは不思議だと言った人がいた。
 大所帯になった最近のキャンプでは、全体で動くことが難しいので、生活グループごとに活動することが多くなった。キャンプ中の活動は、そのグループが基盤となる。スタッフは、目の前にいる子どもにしっかりと向き合っていればいいのだ。その子との関係を大切にし、指示・命令をできるだけ減らし、温かいことばかけを心掛けている。
 キャンプの会場に来て、初めて顔を合わせるスタッフもいる。私たちの考え方を理解し、共感して下さっている方がほとんどだが、キャンプのねらいとしているものをより理解してもらおうと、時間をやりくりして、スタッフ同士の交流の場も設けている。スローガンとして、押し付けているわけではないが、共通する思いが、全体として大きな装置として働いていると言えよう。
 誰のためでもなく、自分のためだと、キャンプを位置付けて、毎年参加して下さっているスタッフもいる。ありがたいことだ。このように多くの人に支えられて、今年のキャンプも無事に終わった。(「スタタリング・ナウ」2001.11.17 NO.87)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/06/09

吃音親子サマーキャンプ、それぞれのプログラムのもつ意味 2

 昨日のつづきです。こうしてそれぞれのプログラムのもつ意味を書き上げてみると、それぞれがなくてはならないプログラムであることがよくわかります。よくできたプログラムだと、自分でも感心するくらいです。

演劇のもつ意味
 どもることを否定的に考えていると、子どもの声は小さくなり、不明瞭で、相手に届かなくなってしまう。からだはこわばり、緊張が強くなる。その子どもたちのからだや声に向き合う。相手に向き合うからだを耕し、相手に届く声、生きる力となる声をともに探る。さらに、自己表現の喜び、楽しさを体験して欲しいと、キャンプでは演劇に取り組む。
 最終日に上演という目標はあるが、それはあくまでも結果である。練習を通しての、ことばのレッスンを大切にしている。劇を指導する中心的なスタッフは、どもる人のセルフヘルプグループである大阪スタタリングプロジェクトの人たちだ。10年以上も竹内敏晴さんの「からだとことばのレッスン」を受けてきていて、声を出す喜び、劇に皆で取り組む楽しさ、喜びを経験し、知っている人たちである。どもって、なかなか声が出ない子どもに、自分の体験を踏まえながら関わる。休憩時間も、特訓を願い出る子どもがいるくらい、皆熱心に取り組んでいる。だから、劇の練習は、厳しかったが、楽しかったと言う子どもは多い。
12回サマキャン 2 この演劇は実にぜいたくなものだと言える。演劇の演出のプロである竹内敏晴さんが、このキャンプのためにシナリオを書いて下さる。子どもの声のレッスンになるよう、楽しく取り組めるよう、大勢の子どもが出演できるよう、楽しく歌う歌も入るなど、いくつかの条件がある。今年は何をするか、いつも苦労をしながら作られたシナリオに、楽しい、弾む演出をしていく。舞台構成がなされる。参加できるスタッフが1泊2日の合宿で、竹内さんから演出・指導を受ける。この合宿がまた実に楽しい。文字に書かれたシナリオは、正直にいって、あまり楽しいとは思えない。それが実際に演出していただくと、実に楽しくおもしろい。今年は、ミヒャエル・エンデの『モモ』が選ばれたが、スタッフの大人が演じていてとても楽しい。子どもたちもきっと喜んでくれるだろうと確信を持つ。これまで、宮澤賢治の『セロ弾きのゴーシュ』『注文の多い料理店』や木下順二の民話に取り組んできたが、オリジナルのシナリオ集として価値あるものだろうと思う。歌あり踊りありの竹内さんの独特の世界に、今年はどんな劇をするのか、参加する子どもの一番の関心にもなっている。
 大勢の人前で劇を演じる、これほどどもる子どもにとってプレッシャーを感じる場面はないだろう。日常生活で話すことに苦労している子どもたちに、キャンプに来てまで、人前で劇をするような、プレッシャーを与えることはないだろう、とキャンプを始めた頃、反対の声もあった。あえて、キャンプに演劇を取り入れたのには大きな理由がある。
 一日目の夜、竹内敏晴さんに演出・指導を受けたスタッフがみんなの前で見本として演じてみせる。どもるどもらないに関わらず、真剣に、本当に楽しそうに大人が演じている。その姿を見て、子どもたちはおもしろそうだと思うのだろう。その年その年で人気の役がある。グループに分かれて、配役を決め、せりふの練習が始まる。
 《どもってもいい》は、このキャンプの大きな前提だ。その上で、自分で気持ちよく声を出そうとか、相手に声を届けようとか、大きな声を出そうとか、を目指している。どもる大人が竹内さんに指導を受けて感じた、声を出す喜びを子どもたちにも味わってもらいたい。芝居を取り入れた大きな理由のひとつである。
 それにしても舞台に立つということは、緊張感を伴う。後に引けないところに自分を立たせるということになる。その場で何をどう感じるか、だ。
 今年、長崎から参加した小学6年生の男子のひとりは、なかなかことばが出てこなかった。演劇は嫌だと、「演劇はしないからね」と明言してキャンプに参加した子どもだ。だから、練習の場にはいるが、最初は練習に加わらなかった。スタッフも無理強いはしない。無理強いはしないが、ぽんと後押しはすることがある。このタイミングが灘しい。ケースバイケースだが、不登校の初期の子どもに、登校刺激を与えることが功を奏すこともあるという。それと同じように、無理強いはしないが、声はかけてみる。
 彼と同じグループに、同じようにせりふが言いにくく、でもその場から逃げていない高校生がいた。必死でせりふを言っているお兄ちゃんの姿を食い入るように見つめていた彼の姿が印象的だった。その高校生が練習する姿を、ほかのどの子どもより真剣にみつめていた。その時、彼はどんなことを考えていたのだろう。何かが動いていたのだろう。最終的に彼は、上演の場で、一言せりふを言った。結局は演劇に参加したのだ。
 みんなでみんなを支え、ひとつのものを作り上げる喜びを感じることができるのが演劇のもっ大きな意味だ。

作文教室のもつ意味
 話し合いと話し合いの間に設けた作文の時間。話すという表現方法が苦手な子どもにとっては別な表現方法を用いて自分を振り返ることになる。書くことで自分を表現できる子どももいる。
 また、2回目の話し合いは、作文を書いたことで、別の展開ができることもある。中には、作文を書いたことで、深く自分をみつめて、しんどくなる子どももいるが、それは決してマイナスには働かない。今まで閉じていたものを開けてしまった戸惑いはあるが、それは、出発点となる。
 作文は子どもだけでなく、親もどもる大人も書く。ひとりで自分のどもりと向き合う時間となる。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/06/08

吃音親子サマーキャンプ、それぞれのプログラムのもつ意味

 「スタタリング・ナウ」2001.11.17 NO.87 では、2001年に開かれた第12回吃音親子サマーキャンプを特集しています。ドキュメントというよりは、各プログラムの、サマーキャンプでの位置づけ、意味についてまとめました。プログラムのひとつひとつにこめられた僕たちの願い、その願いのもと、プログラムが進行していきます。不思議なことに、それから22年後の今年、プログラムはほとんど変わっていません。

第12回吃音親子サマーキャンプ
12回サマキャン 1 2001年8月24・25・26日、滋賀県・荒神山少年自然の家で、第12回吃音親子サマーキャンプが開かれた。昨年は、146名という大所帯になった。今年はそこまで多くはならないだろうと思っていたが、申し込みの時点では153名という最高の人数だった。病気や台風などの天候のためキャンセルがあって参加者は140名になったが、九州は長崎から、四国から、千葉や東京、埼玉などの関東地方からと全国各地からの参加となった。今回は新聞などマスコミには一切載っていないので、口コミやことばの教室の先生の紹介などで広がっているようだ。このような広がりは、うれしいと同時に、このキャンプに寄せられる思いに、身の引き締まる思いである。
 12回目を迎えた今年のキャンプ。試行錯誤の中で作り上げてきたプログラム内容のもつ意味について、整理しておきたい。

吃音親子サマーキャンプの主なプログラム
1日目 出会いの広場/どもりについての話し合いスタッフによる演劇上演
2日目 作文教室/どもりについての話し合い演劇の練習/野外活動
3日目 演劇の練習/上演/最後のふりかえり

出会いの広場のもつ意味
 キャンプには全国各地から集まってくる。どんな人が参加してくるのだろうか? 何が起こるのだろうか? 演劇をすると聞いているけれど、できるだろうか? 知らない人ばかりの中で友だちができるだろうか? 不安を挙げたらきりがないようだ。行くと決心してからも迷いはあったと親は言う。
 初めて参加する人は親も子もドキドキしながら会場に着く。最寄り駅で、親子サマーキャンプの、『吃音親子体験文集―どもり親子の旅』(日本吃音臨床研究会)の黄色い表紙の見慣れた絵の旗をみつけるとほっとすると言う。たくさんの親子の姿を見て、それだけでも安堵したという人もいる。不安な気持ちの参加者をできるだけ明るく、温かく迎えたいといつも思っている。
 広い集会室に全員が集合する。140名となると相当な数だ。
 最初のプログラムは、出会いの広場。昨年からの再会を喜ぶリピーター、不安なままの初めての参加者、それぞれの心が少しでも早くときほぐれるよう願いながら、出会いの広場が始まる。初めて出会う参加者が知り合い、仲良くなり、気持ちがゆったりとするよう、声を出したり、からだを動かしたり、ゲームをしたりする。プログラムがすすむにつれて、だんだん笑い声が弾んでくる。
 今年は、演劇の練習や野外活動を共にする生活グループを、出会いの広場の時から機能させて、グループ対抗のミニ運動会をした。新聞紙などを使っての砲丸投げや綱引きなど、種目名と実際に何をさせられるか見当がつかないので、親も子どももわくわくしている。子どもたちが必死になって取り組む姿に、グループ全体が声援を送っている。おもしろそうな種目に誰が出場するか、決める時からグループの一員であることが実感できる。応援したりされたりする中で一体感も味わえる。
 出会いの広場で、気分がほぐれたことで、次のプログラムである話し合いの時間、自分のことを率直に語るのにつながった、話しやすかったと子どもたちが言う。出会いの広場は、からだだけでなく、固まっている心までときほぐしてくれるようだ。

話し合いの持つ意味
 このキャンプの大きな柱のひとつは、吃音についての話し合いである。自分の吃音をどう考えているか。どもって笑われたりいじめられたりしたらどうするか。どもるためにしたいことでしなかったことがあるか。もし吃音が治らなかったらどうするか。将来の仕事をどう考えているかなどについて話し合う。今の辛さだけでなく、今後の展望も話される。
 年代ごとに分かれての話し合いは、今年は、幼稚園・小学校1年、2・3年、4・5年、6年、中学1・2年、高校生の6グループに分かれた。
 キャンプに参加する前には、特に低学年の場合、どもりについて話したこともなく話題にしてこなかった場合が多い。これは幼児吃音の指導法の中に、「吃音を意識させてはいけません」がかなり定着し、吃音を意識することが、吃音を悪化させる大きな要因になるという説を信じ過ぎているからだ。親も、これまでどもりについて説明も話もしてこなかったので、《どもり》ということばもキャンプで初めて知ることになるが、大丈夫だろうか?とまず不安になると言う。
 小学校中高学年になると、嫌なことを経験したり、将来への不安も出てくる。どもりとは何なのか?これからどうなっていくのか?吃音について知りたい、話したいことがいっぱい出てくる。関心があり、話したい吃音の話題について、普段の生活の中で子どもたちは話していない。そのため、この話し合いの時間をとても楽しみだ、もっと時間をとって欲しいという子がいる。ここではどれだけどもっても誰も笑わないし、からかわない。
 どもってこんな嫌なことがあった、こんなに悲しかった、悔しかった、そんな話にみんなうなずきながら聞いてくれる。初めて参加した子どもは、初めのうちはみんなの話を聞いているだけだが、ぽつりぽつりと自分も話し始める。今まで閉ざしていた心を開かせてくれるのだろう。
 どもるのは自分ひとりだと思いこんでいた子どもたちにとってほかのどもる子どもの話は大いに共感できることが多いようだ。ほかの子どもの話を聞きながら、それまで話さなかった子が、そういえばと言いながら思い出した話を始める。どもりながら話しても、ゆっくりと聞いてもらえるというこの体験のもつ意味は大きい。自分だけじゃない、ひとりだけじゃないということを実感できる時間でもある。
 話し合いの中には、ファシリテイターとして、どもる大人と、ことばの教室の教師か言語聴覚士がコンビを組んで入る。どもる大人を初めて見たという子どももいる。どもりながら自分を語る大人を間近に見て、大人になっても治らないのかとも思うようだが、治らなくても大丈夫だとも思える。高学年以上になると、大人たちへの質問もどんどん出てくる。高校生の年代になると、かなり深い話になり、人生論や生き方を語っている。それぞれが厳しい状況の中でもがんばっている話を聞くと、子どもたちは互いに元気をもらうし、勇気ももらう。(つづく)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/06/07

どもり往生記

 先日、第32回吃音親子サマーキャンプについて、ホームページで、また、ブログやTwitter、Facebookで案内しました。参加申し込み第一号がありました。昨年、初めて参加してくださった方からでした。いよいよ、始まったなという気持ちです。
 今日、紹介するのは、「スタタリング・ナウ」2001.11.17 NO.87 の巻頭言です。

 「自分に対して誠実であれば自分の言いたいことをどもってでも言うだろう。他者に対して誠実であれば、言わなければならないことはどもってでも言うだろう。自他に誠実であれば、強くなくても、行動的な人でなくても、吃音を隠したり逃げたりしないで、自分を大切にし、吃音と共に生きることはできる」

 このことは、いつも僕が言っていることです。誠実に生きるという道を歩いていきたいものです。

  
どもり往生記
                 日本吃音臨床研究会代表伊藤伸二

 「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
 歎異抄の有名なことばだ。
 戒名はいらない、葬式はしない、骨はガンジス川に流してほしいと願う私に宗教心があるとは思えないが、道元、法然、親鸞などの宗教に関する本が、本棚の一角を占め続けている。若い頃から、これらの本に何度も挑戦したが、そのたびに、難しく諦めてきた。ところが、最近、ふと本棚から歎異抄を取り出して読み始めた。不思議なことに、若い頃に読んだ時とは違う感じが迫ってきた。さらに、今まで全く気づかなかったことにも気づいた。「善人でさえも往生するのだから、どうして悪人が往生できないことがあろうか」と、冒頭の常識を逆転させた、有名な一節をはじめとして、歎異抄の序章から後章までが、私が従来から主張してきたことと結びついていると思えた。親鸞上人には恐れ多いが、遊び心で援用してみよう。
 仮に、親鸞の言う善人を《吃音が軽く、積極的で強い人》、悪人を《吃音の重い人や消極的で弱い人》とたとえてみよう。私が吃音を治そうとするのでなく吃音を受け入れ、吃音と共に生きることを主張し始めたとき、多くの人々から、積極的で強い人(善人)ならいいが、症状が重くて弱い人(悪人)には無理だと言われた。私は、強くなくても、誠実でありさえすればいいのだと主張してきた。自分に対して誠実であれば自分の言いたいことをどもってでも言うだろう。他者に対して誠実であれば、言わなければならないことはどもってでも言うだろう。自他に誠実であれば、強くなくても、行動的な人でなくても、吃音を隠したり逃げたりしないで、自分を大切にし、吃音と共に生きることはできる。また、症状の重い人ほど、結局は吃音を受け入れざるを得ないだ、と言い続けて来たのだった。
 どもりを治そうと自力で試みるのは、親鸞の言う善人だ。意志の強い人、努力家なら、デモステネスのように口に小石を入れての発声訓練や、聴衆を畑のかぼちゃと思え式の精神強化法ができるのかもしれないが、一般凡人である私たちには、そのようなエネルギーのいる努力はできるものではない。ただ、どもりを否定せず、自分を否定せず、自分を大切にして生きる、ことしかできない。こうして自分を大切に誠実に生きることが、どもり往生の唯一の道なのだと私は信じている。
 吃音を自力で、自分の納得のいくまで軽くしたり、治したりすることは実に難しい。「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり」と親鸞は言う。道元などの禅や厳しい修行、つまり聖道門の悟りは、それができる人に任せて、法然や親鸞は、凡人はただ、信心し、念仏を唱えさえすればいいと、誰もができる易行をすすめる。自力を捨て、他力に生きようと言う。
 これは文字どおり、私が30年来主張してきた、「吃音を治す努力の否定」そのものだと言える。私は、21歳の頃、「精神一到何事かならざらん。艱難汝を玉にする」などの格言を、民間吃音矯正所で大声で斉唱させられ、精神強化法を教えられ、自力で吃音を治そうと、一所懸命4カ月の難行に取り組んだ。しかし、私の吃音は治らなかった。そこで、私は吃音を治すことを諦め、吃音が治らぬものとして吃音と共に生きる道を探り始めた。以後、吃音症状に対しては一切の自力を捨てた。
 親鸞の念仏に代わる、吃音にとって他力とは、「日常生活を、丁寧に、大切に生きる」ことである。実際、自力を捨てた私は、どもりを隠さず、恥ずかしい思いをしながらも、どもりながら話し、自分のしたいこと、しなければならないことをした。日常生活に身を投げ出した。それは、上野の西郷の銅像の前で演説したり、山手線の電車の中で毎日車内演説をしたり、練習のための電話を100件ほどかけ続けることより、はるかに楽な、易しい行動だった。
 そして、自力で治そうとしたときには一切の変化のなかった私の吃音が、日常生活に身を委ねた時、随分変化していった。そして、どもった後での羞恥心や嫌悪感なども、ほとんどなくなった。私の吃音は、自力を捨て、他力によって往生したのである。
 これは私だけの経験ではない。36年間のセルフヘルプグループの活動の中で大勢の人が、吃音親子サマーキャンプに参加した大勢の子どもたたちが、実証してきた、どもり往生の道なのである。(「スタタリング・ナウ」2001.11.17 NO.87)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/06/06

朝日新聞の「小さな新聞」がきっかけで

 それまで全く面識のなかった人から連絡をいただいて、それからお付き合いが始まるという不思議なご縁を何度も経験しています。
小さな新聞 朝日新聞 先日、大阪吃音教室に特別講師として来てくださった、新潟県五泉市の禅僧、櫛谷宗則さんが連絡をくださったのは、今日、紹介する朝日新聞に掲載された「小さな新聞」をお読みになってのことでした。
 2001年6月28日の朝日新聞を紹介します。

吃音とともに生きる「スタタリング・ナウ」
【スタタリング・ナウ 77号(2001年1月20日)】
 〈価値観が広がる〉私がどもりに悩み、苦しみ、将来の展望がまったくもてずに堂々めぐりをして悩んでいた21歳のころから、それなりの自己肯定への道を歩み始めたその道筋は、180度の価値観の転換、どもりをプラスに、などというものでは決してなかった。どもりを治したい、と精いっぱい治す努力をしたが治らず、「まあしゃあないか」と事実を認めたところから出発したように思う。どもりながらも、隠さずできるだけ逃げない生活を続けて数年後、ふと立ち止まったとき、数年前の自分とは随分変わっていることに気づいた。成長を目指して取り組んだことは何一つなかったから、自分の変化に気づかなかった。おそらく傷がいえるときにできる薄皮が、1枚1枚はがれるようなものであった気がする。
 価値観の転換などという大げさなことではなく、今の自分を否定しないで、自分のできることに誠実に取り組む。そのプロセスの中で、人はいろいろな人やできごとと出会い、結果として価値観が広がっていくのではないだろうか。

【スタタリング・ナウ 79号(2001年3月17日)】
 〈どもる権利〉吃音児・者とは、何か。私はこう定義したい。「吃音を通して、からだとことば、人間関係、生きることなどを考え、行動するテーマを与えられた人のことである」。どもる人間には、どもる権利があるのだ。

【スタタリング・ナウ 81号(2001年5月19日)】
 〈どもり塚〉「死ぬまでに一度で良いから、どもらずに、何の不安や恐れももたずに自由に心おきなく話したい」。先日、70歳を過ぎた人から相談を受けた。長い年月、人がおしやべりを楽しみ、新しい人間関係をつくっていくのを、指をくわえて見ていた。人と話すときはからだを固めていた、と言う。私がもし、同じような悩みをもつ人と出会わず、セルフヘルプ・グループをつくらなかったら、この人のように思い続けただろう。
 吃音は人を深く悩ませる一方で、人生を考えるきっかけを与える。現在吃音の深い悩みの中にある人々には誠に気兼ねをしつつ言うしかないのだが、私は死ぬまでどもりを続けたい。また、天国があるなら、どもる人のセルフヘルプ・グループをつくりたい。どもり塚の建立が私の新たな夢となった。(日本吃音臨床研究会代表伊藤伸二)

「スタタリング・ナウ」
日本吃音臨床研究会(大阪府寝屋川市、072-820-8244)の会報。毎月発行。B5判8蓮F姥Φ羃颪94年9月発足。会員は吃音者やその親、教員やスピーチセラピストら約700人。吃音親子サマーキャンプや吃音教室などを開催。吃音をどう治すかではなく、いかに生きるかを探っている。
(小さな新聞 朝日新聞 2001年6月28日)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/06/05

【再掲】第6回 新・吃音ショートコースのご案内

第6回 新・吃音ショートコースのご案内

 僕たちが「吃音の夏」と呼ぶ季節がめぐってきました。そのスタートとなるのが、今月24・25日に開催する、新・吃音ショートコースです。
 僕たちは、吃音ショートコースという2泊3日のワークショップを20年間続けてきました。精神医学、臨床心理学、教育学、演劇など幅広い領域の第一人者を講師に迎えて、体験型・参加型のワークショップでした。そこでの体験や学びは、書籍として僕たちの財産になっています。
 その後、吃音ショートコースは、宿泊を各自の自由にして、講師を迎えず、参加者ひとりひとりが作り上げるワークショップとして、日帰りで参加できる新・吃音ショートコースに変わりました。
 今まで学んできたものを基に、これらを、日常生活に、これからの人生設計に、また、どもる子どもの支援に、どう活かすかを探っていこうと考えています。
 新・吃音ショートコースは、今、生活であまり困ることがなくても、こう考え、こう取り組めば、より楽しくより豊かに、より幸せに生きることができるとの視点で、生活、生き方、人生を見つめ直すことのできる場です。吃音を切り口に、生きることを考える「吃音哲学」が、大切なテーマになっています。
 大きな特徴は、最初からきちんとしたプログラムがあるわけではないということです。とりあえずのおおざっぱな流れはあるものの、参加者の希望や要望で、柔軟に変えていきます。
 今、ここで感じたことを率直に出し合い、対話を通して自分に気づき、他者に気づいていく、そんな時間を共有していただければと思います。
 事前に希望、要望、提案をしていただければ、それに沿ったプログラムを組み立てます。参加者のみなさんとともに、自分のこと、グループのこと、どもる子どもへの支援のあり方など、生活、人生を振り返り、今後の展望を考えましょう。ご参加をお待ちしています。

 大阪近郊にお住まいのみなさんは、毎週金曜日開催の大阪吃音教室がありますが、どうしても金曜日は仕事の都合で参加できないという方もおられるようです。大阪吃音教室よりも、ゆったりとした時間の中で、学び、考えることができます。
 どもる人だけでなく、ことばの教室担当者や言語聴覚士などの臨床家も参加します。立場の異なる人との出会いの中で、新しい発見もあるでしょう。
 大阪吃音教室に参加したいと思いながら、ちょっと遠くて諦めていた方も、ぜひ、この機会にご参加ください。
 お待ちしています。

                日本吃音臨床研究会 伊藤伸二

2023年度 第6回新・吃音ショートコース
           吃音哲学〜吃音の豊かな世界への招待〜

日時 2023年6月24日(土)13:00〜22:00
        6月25日(日) 9:00〜17:00

場所 寝屋川市立市民会館
    〒572-0848 寝屋川市秦町41-1 TEL 072-823-1221
       最寄り駅:京阪電鉄「寝屋川市駅」駅 東口下車後、徒歩15分

主催 日本吃音臨床研究会 
    〒572-0850  寝屋川市打上高塚町1-2-1526  TEL/FAX 072-820-8244

参加費 5,000円(宿泊費・食事代は各自ご負担下さい)

参加申し込み方法
〔樵亜´⊇蚕蝓´E渡暖峭罅´そ蠡亜´ゥ廛蹈哀薀爐砲弔い討隆望や要望 Φ媛擦亡悗垢觴遡筺,魑入し、FAXかはがき、メールでお申し込み下さい。
参加申込書を、日本吃音臨床研究会のホームページからダウンロードすることもできます。

※参加費は、当日、受付でお支払いください。

プログラム
セッション 出会いの広場・自己紹介…新しく出会う人が互いに知り合うと同時に、2日間で何をしたいか出し合い、2日間の計画をみんなで考える時間。

セッション 発表の広場…どもる人本人は自分の体験を、どもる子どもの親は子どもとのかかわりでの体験を、ことばの教室担当者やスピーチセラピストの方は実践を、研究者の方は研究を発表し、参加者全員で分かち合います。ことば文学賞の発表も行います。
 発表希望者は、申し込みのときにご連絡下さい。要項をお送りします。ことば文学賞の発表も行います。

セッション みんなで語ろう、ティーチイン…参加者全員で吃音ショートコースを振り返ります。

 その他のセッションは、参加者の要望によって、組み立てます。
たとえば、以下のようなことができそうです。
☆公開面接<対話>…今、困っていること、悩んでいること、みんなで考えたいことがあれば、伊藤伸二と対話をして、今の課題を明らかにして、展望を探ります。
 
☆論理療法、交流分析、アサーション、認知行動療法、健康生成論、ナラティヴ・アプローチ、ポジティブ心理学などのエッセンスを学ぶ…今まで学んできたものを生活に生かす具体的方法を探ります。初めての人もよく分かるように解説します。

☆日本語のレッスン…言語訓練とは違う、竹内敏晴さんから学んできた、日本語のレッスンを体験します。日本語の発音・発声の基本を学び、日常生活の中で使えるトレーニングです。歌を歌ったり、詩を読んだり、芝居のせりふを言ったり、からだを動かし、声を出す楽しさを味わいます。

※当日は、会場特別販売価格で、書籍の販売も行います。

問い合わせ・申し込み先
 日本吃音臨床研究会 〒572-0850  寝屋川市打上高塚町1-2-1526
   TEL/FAX 072-820-8244  mail jspshinji-ito@job.zaq.jp
日本吃音臨床研究会のホームページ http://www.kituonkenkyu.org/
伊藤伸二のブログ http://www.kituon.livedoor.blog

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/06/04

第1回 臨床家のための吃音講習会 〜参加者の声〜

 2001年、岐阜大学で開催した第1回臨床家のための吃音講習会を特集した「スタタリング・ナウ」2001.10.20 NO.86 から、概要を紹介してきました。「今日は、岐阜が、日本で一番気温が高いらしい」とのニュースが流れたので、外へ出てその気温の高さを肌で感じてきました。でも、きっと、研修室内での熱気の方が高かったのではないかと思います。
 参加された方の感想を紹介します。

第1回 臨床家のための吃音講習会 〜参加者の声〜
                  岐阜県立長良養護学校 部主事 村上英雄
 
 初の講習会で運営は不慣れ、おまけに予想以上の申し込みに急遽会場の変更を余儀なくされ、会場はすし詰め状態。加えて2日間とも酷暑。それでも、強力な講師陣に助けられ、参加者の熱心さに支えられ、ほとんどの感想は「大変良かった」「よく分かった」と記されていた。参加者の感想等を要約してまとめたものを紹介したい。アンケート総数は78名。

○成人のどもる人、保護者の体験発表はこの会ならではであり、心に残った。
○理論あり、実践あり、体験からの考察あり、レッスンありで楽しかった。
○「あなたは一人ではない、あなたには力がある」などは、経験した方の話だからこそ、心に響き得た。様々な悩みをもつ人が待っていることばだろうと思った。
○吃音は訓練したから治るものではない、人の優しさがどもる子どもを傷つけているという意見に驚きであった。ならば、ことばの教室では何ができるのか、私はどうしたらよいのかと考えさせられた2日間。
○吃音をもつ子どもの内面を少し理解できたが、実際子どもを目の前にするとどこまで変われるか不安がある。
○ことばの教室は楽しいだけでよいのかという思いがあったが、ホッと安心できる場であっていいということばに力を得た。
○吃音を治してあげることがどもる子どもにとって一番してあげたいことと思っていたが、吃音をテーマに人生を生きていける人になるように支援できることは何か、と思えるようになった。吃音でよかったと思える人生を送れるように関わっていきたい。
○今回の講習会は、吃音を窓口にみんなの生き方をみんなで考える会だと思った。
○一緒に考えていける関係が作れるように日々を大切にしていきたい。その子の苦手な部分を見つめ合うことが生きることに繋がるという言葉が印象的であった。
○「どもってもいいから表現を」の目標で指導してきたが、やはり症状を軽減する方法が自分の知らない所にあるのではと、捨てきれずに参加したが、自分の目標が間違っていなかったことを確認できた。同時に目標の奥深さを考え直すことができた。
○どもってでも出来た体験をさせること、吃音に対するマイナスの概念を持たさないことの話が印象的だった。
○自分の吃音に対する知識不足に大変大きなショックを受けた。
○教師側からの発表、見方に終始する研修会が多い中、保護者発表の指摘は指導を受ける子どもの視点が提示されたのはとても新鮮で、こういう視点が大切だと思った。
○どもる人、保護者の話を聞いて、内面の大変さが分かった。子どもや保護者の気持ちにそった支援が出来そうである。
○いずれも刺激的で、特に実践発表に心を強く打たれた。指導者自身の自己満足に終わってはいけないということを学んだ。教師が無造作に心をひっかくようなことはしないようにと強く思った。
○とても充実していて、心の底から熱くなった2日間だった。症状を軽減するのでなく、個性的な話し方を見つけるという講師の話は説得力があった。
○ことばの教室の実践例や様々な立場からの実践が聞けた。吃音の考え方は様々だが、1つの大きな考え方をまとめた形での企画に感謝する。
○実践発表やキャンプ(VTR)の様子を見て、吃音について深く考える機会がもて、印象深かった。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/06/03

第1回 臨床家のための吃音講習会〜どもる子どもへの支援のあり方を探る〜 2

 6月に入りました。24・25日の新・吃音ショートコースに始まり、7月29・30日は愛知県で親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会、8月18・19・20日は滋賀県で吃音親子サマーキャンプと、わくわくするイベントが続きます。まさに「吃音の夏」です。
 今日は、一昨日のつづき、岐阜大学で開催した第1回臨床家のための吃音講習会の報告です。「スタタリング・ナウ」2001.10.20 NO.86では、村瀬さんの総括の後、板倉さんの報告が掲載されています。紹介します。

  
キーワードは「臨床家」
                         岐阜県立岐阜聾学校  板倉寿明

 昨年の吃音ショートコースの休み時間のことでした。「どもる人自身が悩んでいる場合も多いが、実は臨床家も困っている」「本人や家族から治ることを期待されて臨床家のもとに来ているのになかなか治らない。したがって臨床家も頭を抱えているケースが少なくない」「それなら臨床家を対象にしぼって一緒に考えたり、提言をしていくことはできないか」と伊藤伸二さんと話していました。構想はすばらしいけど実際やるとなると大変という雰囲気が流れる中で、伊藤さんから「岐阜でできるんじゃないか」と思いがけない一言。この一言からこの臨床家のための吃音講習会は開催に向かうことになりましたが、かなりの珍道中でもありました。

《作戦開始》
 当時、岐阜には「仲間とともに吃音を考える会」というどもる子どもたちを中心にした会がありました。とても素敵なセルフヘルプ・グループなのですが、設立半年、実際の活動2回といういささか頼りないものでした。しかし、スタッフ5名、よくわからないけど「よしやろう!」と盛り上がっていました。開催時期にはスタッフは総勢12名ほどになりましたが、実は直前に集まったスタッフだったのです。学生も含めてにわかスタッフでよくやったと自画自賛している今日この頃です。
 まず私たちが取り組んだことは案内状作りとその配布です。今年は岐阜で東海四県の言語難聴研究会が行われることになっていました。その案内に便乗してこの吃音講習会の案内を入れる、大学で行われる障害幼児や言語障害児の研究会に出かけていき、PRと配布を行うという作戦を展開しました。「A3版の印刷機がない」「印刷ミスが発覚、回収」といった困難を乗り越え、夏を迎えました。

《参加者、何人?》
 打ち合わせのたびに参加者の人数が話題に出ないことはなかったのですが、「100人は絶対超えることはない」と誰もが言っていました。誰もが根拠もなく確信的に言っていたのです。私たちは予想以上に多いことより、予想以上に少ないことが心配でした。当初予定していた岐阜大学の障害児教育実践センターの収容能力は100人、締め切り間際になって私たちは大いに慌てることになりました。
 20人、30人と村瀬会長から参加者状況がメールで届きます。「50人突破」の時は胸をなで下ろしました。しかし、締め切り間際になって「130人突破」のメールに喜ぶのもつかの間、「会場を変更しなくてはいけない」ということになりました。岐阜大学に教室はたくさんあるのですが、冷房装置のある教室はほとんど予定が入っています。やっとのことで150人収容、冷房のある教室が確保でき、ほっと一息とともにたくさんの人に関心をいただいていることに身の引き締まる思いでした。

《講習会概要》
 連日続く猛暑のなか、総勢146人の参加者で教室は隅々までいっぱいです。岐阜吃音臨床会の村瀬忍会長、日本吃音臨床研究会の伊藤伸二会長の挨拶で始まりです。各講座の概要を紹介します。

どもる子どもをもっ親への支援「初回面接で親に何を伝えるか」
                     村瀬忍(岐阜大学助教授)
 どもる子どものお母さんや家族の「この子の吃音は治りますか?」という質問にどのように答えるかという視点から自然治癒の問題、幼児期・学童期の吃音児の割合等、最近の研究成果等が紹介された。これらの研究から吃音の問題は吃音を恐れ、回避する行動がさまざまな行動の制限に結びついていること、親を理解するためには親の心理プロセスを推察することが必要である。

どもる子どもにかかわる教師への支援「学級担任、教師へのコンサルテーションを中心に」
                      水町俊郎(愛媛大学教授)
 吃音の根元的な問題はどもることから派生する消極的、自己否定的な生き方であるという立場から最近の一般的な「臨床」の潮流やコンサルテーション・モデルが紹介された。
 最近の「臨床」の考え方は患者のQOL(人生の質)を向上させることに直結しなければいけない、治療介入の対象は異常行動を示す"個人"ではなくて、患者と重要な他者との関係ととらえるべきである。治療は一人の専門家だけではなくて、専門家以外の優れた人材も援助資源となるなど従来の考え方とは異なってきている。
 どもる子どもの指導にあたっては必ず、「家庭や学校での子どもの日常生活をもっと豊かなものにする」ということを親や学級担任の指導・相談のなかで考えるコンサルテーション・モデルが有効であることやことばの教室の担当者が学級担任と連携するにあたっての留意事項などが提起された。
 余談になりますが、この時間帯、岐阜の最高気温は39.7℃という最高気温を記録するなか、冷房がストップしてしまいました。暑さからくる汗と水町先生やみなさんに申し訳ない冷や汗で大汗でした。

実践発表1「どもるわが子と歩いて」
                     上野雅子(岐阜吃音臨床研究会)
 子どもがどもりはじめたころの、新聞で知ったことばの教室で子どもとともに親も癒された経験、自己紹介があるから学校を休むと言ったときなどのはらはらしながら見守ってきた親の気持ちがよくわかりました。母親の発表をじっと聞いている高校生になった子どもの姿が印象的でした。

実践発表2「吃音を飲み込んでしまおう」
                     結城敬(長野県外科医)
 どもることは逃げても苦しいし、逃げなくても苦しいことである。親を恨み、人を恨み、自分を否定ばかりしていた今までの自分のこと。インターネットで日本吃音臨床研究会に出会い吃音を受け入れることができるようになったこと。これから吃音の受容とは別に医者として吃音を客観的に見極めたいという抱負が語られました。

実践発表3「吃音ある暮らしへの援助〜ことばの教室でできること〜」
                     青山新吾(備前市立伊部小学校)
 S君という一人のどもる子どもと出会い、ことばの教室でできることを模索するなかで、彼と一緒にしたいこと・できたことを紹介していただき、どもる子どもの指導の広がりの可能性が示された。また、揺れる母親の思いとつきあい、吃音のある暮らしを考えることは、吃音との間合いの取り方について考える実践でした。

どもる子どものことばへの支援
                      竹内敏晴(元宮城教育大学教授・演出家)
 レッスンを中心に予定していたが、会場が狭くレッスンはできないと思っていたところ、竹内先生が動かなくてもできるレッスンを工夫された。声を出す時、からだがどのようになっているか、のびやかに声が出る時のからだはどのような状態かなどをフロアーの代表の声を例にわかりやすく教えていただいた。みんなが大声で歌った「お手々つないで」は気持ちよかったです。情報伝達としてのことばより今、生まれてくる表現としてのことばを大切にすることが、どもる子どもへのことばへの支援の基本であることが提起された。

学童期の子どもへの支援
                      伊藤伸二(日本吃音臨床研究会会長)
 学童期に吃音に向き合った子どもたちは何とか思春期を乗り切っているのに、吃音にふれることのなかった子どもは逃げる人生を考えるのではないだろうか。学童期に吃音と向き合っておかなければ、思春期を乗り切ることは難しい。思春期の前段階である学童期に、吃音について臨床家がどのように向き合ったかがその後の人生に大きな影響を与えるのではないかと提起された。

ティーチイン どもる子どもへの支援
                   水町俊郎・村瀬忍・竹内敏晴・伊藤伸二
 一人一人の講座を縦糸にたとえるならテーチインでは「臨床」や「学童期」をキーワードに横糸をたどるような話し合いでした。フロアーからの質問も活発に出てこの会を締めくくるにふさわしいものでした。(「スタタリング・ナウ」2001.10.20 NO.86) つづく


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/06/01
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