應典院で開催されたコモンズフェスタでの、文福さんと僕の対談を紹介しています。
このときの対談は、「スタタリング・ナウ」NO.77とNO.78の2号にわたって掲載されています。文福さんも僕も、吃音についての対談を大いに楽しみ、きっと話も弾んだのでしょう。
今日は、「スタタリング・ナウ」2001年2月17日 NO.78に掲載されている対談後半の話を紹介します。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/04/18
このときの対談は、「スタタリング・ナウ」NO.77とNO.78の2号にわたって掲載されています。文福さんも僕も、吃音についての対談を大いに楽しみ、きっと話も弾んだのでしょう。
今日は、「スタタリング・ナウ」2001年2月17日 NO.78に掲載されている対談後半の話を紹介します。
應典院・コモンズフェスタ2000
どもりを個性に 桂文福オリジナルの落語家人生
伊藤 今こうして僕と話している間、文福さんはようどもりはりますが、子どもの頃のどもりってどんな状態だったんですか。
文福 僕ね、いつからどもったかという意識はあんまりないんです。赤面症というか対人恐怖症というか、あんまり喋れへんかった子ですね。僕は3月31日生まれで、一番早行きで、体も小さかった。生まれた時逆子やったし、健康は健康やったけど、小さかったりして、あかんたれというか、小学校1年まではあかんたれだったですね。人前に行くと、まず顔がガーと赤くなってよう喋らんかった。結局学校嫌やったんでしょうね。運動会も嫌やったし、学芸会も嫌やった。小学校のときの思い出は一個もええのが浮かんできません。不思議やけど。トラウマとまではいかんけど。
伊藤 特にからかわれたり、いじめられたりということはなかったんですか。
相撲が僕を救ってくれた
文福 まあ、いじめられたことはそうなかったんですけど。うちの中学校は相撲部が強くて、1年先輩に相撲部の子が、無理やりからだが小さかったのに、相撲部に引っ張られたんです。僕は小学校のときは走るのも遅いとかソフトボールもよう投げんとか、運動神経ももひとつやし、勉強もできんし。ところが、嫌だったけれど相撲部に入った。相撲そのものは好きで、よくテレビで見てましたから、イメージトレーニングになってたのか、勝つことが出来たんですね。それが自信になった。嫌やったけど、辞めないで、3年間続けて、3年のとき郡の大会で5勝1敗で準優勝しました。それでまた、ものすごい自信がついた。
主将だと、全校生徒の前で成績発表会がある。普通やったら例えば「野球部ですけど、みなさんご声援ありがとうございました」とか「がんばります」とか言う。ところが僕は、「あのあの、あのあの、4対1とか」それだけ言っただけで後は何も言わんかったです。そやけど、何か自信がついた。その勢いで、高校へ入ったときは、レスリング部と柔道部からひっぱられた。これも嫌やったけども、結局柔道部に入って、辞めないで3年間やって、一応黒帯になった。だから中学校、高校は楽しい思い出がある。高校になったらもう楽しかったです。それでもどもってました。
例えば柔道をやっていて、先輩と話していて、「先輩、あのあのあの…」と言うと、「おい、誰か通訳してくれ」と言われる。むやみにけんかなんかしませんよ、その先輩を柔道の稽古の時にびゅーんと投げ飛ばす。俺をばかにした奴はきっちり柔道でしめあげる。だんだん身体も大きくなってきたし、相撲にものめりこんでいった。相撲が僕を救ってくれたんですね。
就職で大阪へ行くときは、落語のことなんか考えてません。その頃、大阪万博の頃ですが、「仁鶴、可朝、三枝」が人気で、和歌山の田舎でも落語の研究会ができたくらいです。ただ大阪へ行きたい。絵が好きだったから。大日本印刷の会社に入って、印刷の仕事をしてました。
落語界に入る
文福 ところが、その当時、大阪へ来たら、落語がブームやから、生で見に行った。生で見に行ったらやっぱりお客さんの若い層の熱気、今ではそうでもないけれど、いっぺん聞いたらまた聞きたいなあと、極端な話、5、6分落語を聞いたら、楽屋に行って、「師匠、弟子にして下さい」と言いに行く人がいたくらいです。僕もそのムードにのせられて、入ってしまった。ところが後でしまったと思ったんですが、同期の連中、鶴瓶君、仁福君、二代目の森乃福郎君らは、みんな落語研究会でそれなりにやってきた人ばかりなんです。学生の頃からのばりばりです。みんなは、俺はプロで力を試すんだとか、俺はおもろいから芸人になるんだと。僕の場合は、どもりでも、人前で喋れるようになるかな、小文枝師匠の所に行ったら喋れるようになるかな、ですもんね。売れたいとかテレビに出たいとか、有名になりたいとか、全然あらへん。人前に出て、喋れるようになれればいいという、まあ喋り方教室みたいなもんやね。
伊藤 柔道で自信がついたけれど、その自信はどもりにはそれほど大きな影響はなかったんですか?
文福 なかったですね。でも、どもっても人前に出ていくという自信はありました。大日本印刷を辞めるときに、みんな心配してくれた。
「のぼる、お前絶対無理ちゃうか。お前、どもるやんか」
今でもつきあいさせてもらってるけど。ほんまに心配したみたいやね。だから、誰にも相談せずに落語の世界に入った。何年かたって、「オオあいつちゃうか」と知って驚いていました。親は知ってたけど、親戚には言わなかった。
伊藤 ただ人前で喋れるようになればいい。仕事にならなくてもよかったんですか。お金を稼ぐという。
文福 まあ、なった以上はね、人前で喋って落語家になって、笑ってもらいたい。でも、お金を稼ぐとまでは思わなかったですが、落語家になってからですね、なったからには、なんとかしてがんばっていかないかんなあとは思いました。3年間、師匠のとこで修行して、桂文福として、だんだん師匠のもとを離れて、年もとり、結婚もして子も生まれ生活がかかってくる。なんとかがんばらあかん。その時に、宴会に行ったりすると、宴会の席で、河内音頭なんか好きやったから、音頭なんか歌うと、ことばはなんぼでもぱーと出る。河内音頭をやったのはどもりを隠すためというか、宴席で場をもたすために、手拍子や節なんかやったりするとなんぼでも声が出る。結局どもりやったから、河内音頭をやるという、特徴のある落語家になれたんでしょうね。相撲甚句もやりますしね。
普通に喋れたら、恐らく平凡な、そつのない落語をしとるでしょうね。自分がどもりやったおかげで、変わっとんなあ、ユニークやなあと言われるようになった。そういう点ではどもりでよかったと今では思います。(「スタタリング・ナウ」2001年2月17日 NO.78) つづく
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/04/18
伊藤 今こうして僕と話している間、文福さんはようどもりはりますが、子どもの頃のどもりってどんな状態だったんですか。
昨日も、舞洲で、大阪でねんりんピック2000大阪、まず一部で素人の方の名人芸の司会を僕がして、その後、大阪名物の河内音頭を僕がやる。司会やって音頭をやるという両方できる落語家がいない。大阪の市の大きな仕事、3つ4つのプロダクションが競合したんですが、こんなタレントでやりましょうとプレゼンテーションして、落札するんですが、僕、4つくらい重なったんです。それくらい僕を買ってくれるのはうれしくて、ギャラがなんぼかは関係なくて、先に声をかけてくれたところから受けた。僕もそれなりにプレッシャーかかってましたわね。こんだけいろいろなとこからみんな競合してて、その中で選ばれた舞台やから、結構自分でも盛り上がったんです。うれしかったから、終わってから文福一座のメンバー5人でだいぶん飲んだんです。家へ帰ったら、ほんまにどもって、どもって、子どもも嫁さんも「お父さん、何言うてるか分からん、酔うてるのか、どもってるのか、何言うてるのか分からん」。結局酔うたらほんまに意識はしっかりしてても、口がついていきませんね。ほんまに。
「お前は気にせんと、まくらと同じような口調で古典をやったらええんちゃうか」
伊藤伸二:努力なんてしてませんよ。受け入れようとか治そうとか、そもそも、そんな努力をするとできないですよ。はっと気がついたら、あっ俺昔から比べるとずいぶんとどもりを苦にならなくなってるなあという、そんな感じです。
小学校4年生になる息子の吃音が治りません。つっかえても言い直しはさせず、あまり神経質にならないよう育ててきたつもりですが、最近は本人も気にしているようです。今後、どう接するべきでしょうか。(東京都 34歳 主婦)