伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2023年04月

どもりを個性に 桂文福オリジナルの落語家人生 3

 應典院で開催されたコモンズフェスタでの、文福さんと僕の対談を紹介しています。
 このときの対談は、「スタタリング・ナウ」NO.77とNO.78の2号にわたって掲載されています。文福さんも僕も、吃音についての対談を大いに楽しみ、きっと話も弾んだのでしょう。
 今日は、「スタタリング・ナウ」2001年2月17日 NO.78に掲載されている対談後半の話を紹介します。

應典院・コモンズフェスタ2000
  どもりを個性に 桂文福オリジナルの落語家人生


文福 コモンズフェスタ4伊藤 今こうして僕と話している間、文福さんはようどもりはりますが、子どもの頃のどもりってどんな状態だったんですか。

文福 僕ね、いつからどもったかという意識はあんまりないんです。赤面症というか対人恐怖症というか、あんまり喋れへんかった子ですね。僕は3月31日生まれで、一番早行きで、体も小さかった。生まれた時逆子やったし、健康は健康やったけど、小さかったりして、あかんたれというか、小学校1年まではあかんたれだったですね。人前に行くと、まず顔がガーと赤くなってよう喋らんかった。結局学校嫌やったんでしょうね。運動会も嫌やったし、学芸会も嫌やった。小学校のときの思い出は一個もええのが浮かんできません。不思議やけど。トラウマとまではいかんけど。

伊藤 特にからかわれたり、いじめられたりということはなかったんですか。

相撲が僕を救ってくれた

文福 まあ、いじめられたことはそうなかったんですけど。うちの中学校は相撲部が強くて、1年先輩に相撲部の子が、無理やりからだが小さかったのに、相撲部に引っ張られたんです。僕は小学校のときは走るのも遅いとかソフトボールもよう投げんとか、運動神経ももひとつやし、勉強もできんし。ところが、嫌だったけれど相撲部に入った。相撲そのものは好きで、よくテレビで見てましたから、イメージトレーニングになってたのか、勝つことが出来たんですね。それが自信になった。嫌やったけど、辞めないで、3年間続けて、3年のとき郡の大会で5勝1敗で準優勝しました。それでまた、ものすごい自信がついた。
 主将だと、全校生徒の前で成績発表会がある。普通やったら例えば「野球部ですけど、みなさんご声援ありがとうございました」とか「がんばります」とか言う。ところが僕は、「あのあの、あのあの、4対1とか」それだけ言っただけで後は何も言わんかったです。そやけど、何か自信がついた。その勢いで、高校へ入ったときは、レスリング部と柔道部からひっぱられた。これも嫌やったけども、結局柔道部に入って、辞めないで3年間やって、一応黒帯になった。だから中学校、高校は楽しい思い出がある。高校になったらもう楽しかったです。それでもどもってました。
 例えば柔道をやっていて、先輩と話していて、「先輩、あのあのあの…」と言うと、「おい、誰か通訳してくれ」と言われる。むやみにけんかなんかしませんよ、その先輩を柔道の稽古の時にびゅーんと投げ飛ばす。俺をばかにした奴はきっちり柔道でしめあげる。だんだん身体も大きくなってきたし、相撲にものめりこんでいった。相撲が僕を救ってくれたんですね。
 就職で大阪へ行くときは、落語のことなんか考えてません。その頃、大阪万博の頃ですが、「仁鶴、可朝、三枝」が人気で、和歌山の田舎でも落語の研究会ができたくらいです。ただ大阪へ行きたい。絵が好きだったから。大日本印刷の会社に入って、印刷の仕事をしてました。

落語界に入る

文福 ところが、その当時、大阪へ来たら、落語がブームやから、生で見に行った。生で見に行ったらやっぱりお客さんの若い層の熱気、今ではそうでもないけれど、いっぺん聞いたらまた聞きたいなあと、極端な話、5、6分落語を聞いたら、楽屋に行って、「師匠、弟子にして下さい」と言いに行く人がいたくらいです。僕もそのムードにのせられて、入ってしまった。ところが後でしまったと思ったんですが、同期の連中、鶴瓶君、仁福君、二代目の森乃福郎君らは、みんな落語研究会でそれなりにやってきた人ばかりなんです。学生の頃からのばりばりです。みんなは、俺はプロで力を試すんだとか、俺はおもろいから芸人になるんだと。僕の場合は、どもりでも、人前で喋れるようになるかな、小文枝師匠の所に行ったら喋れるようになるかな、ですもんね。売れたいとかテレビに出たいとか、有名になりたいとか、全然あらへん。人前に出て、喋れるようになれればいいという、まあ喋り方教室みたいなもんやね。

伊藤 柔道で自信がついたけれど、その自信はどもりにはそれほど大きな影響はなかったんですか?

文福 なかったですね。でも、どもっても人前に出ていくという自信はありました。大日本印刷を辞めるときに、みんな心配してくれた。
 「のぼる、お前絶対無理ちゃうか。お前、どもるやんか」
 今でもつきあいさせてもらってるけど。ほんまに心配したみたいやね。だから、誰にも相談せずに落語の世界に入った。何年かたって、「オオあいつちゃうか」と知って驚いていました。親は知ってたけど、親戚には言わなかった。

伊藤 ただ人前で喋れるようになればいい。仕事にならなくてもよかったんですか。お金を稼ぐという。

文福 まあ、なった以上はね、人前で喋って落語家になって、笑ってもらいたい。でも、お金を稼ぐとまでは思わなかったですが、落語家になってからですね、なったからには、なんとかしてがんばっていかないかんなあとは思いました。3年間、師匠のとこで修行して、桂文福として、だんだん師匠のもとを離れて、年もとり、結婚もして子も生まれ生活がかかってくる。なんとかがんばらあかん。その時に、宴会に行ったりすると、宴会の席で、河内音頭なんか好きやったから、音頭なんか歌うと、ことばはなんぼでもぱーと出る。河内音頭をやったのはどもりを隠すためというか、宴席で場をもたすために、手拍子や節なんかやったりするとなんぼでも声が出る。結局どもりやったから、河内音頭をやるという、特徴のある落語家になれたんでしょうね。相撲甚句もやりますしね。
 普通に喋れたら、恐らく平凡な、そつのない落語をしとるでしょうね。自分がどもりやったおかげで、変わっとんなあ、ユニークやなあと言われるようになった。そういう点ではどもりでよかったと今では思います。(「スタタリング・ナウ」2001年2月17日 NO.78) つづく


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/04/18

どもりを個性に 桂文福オリジナルの落語家人生 2

 應典院で開催されたコモンズフェスタでの、文福さんと僕の対談を紹介しています。今日は、そのつづきです。

應典院・コモンズフェスタ2000
  どもりを個性に 桂文福オリジナルの落語家人生


どもりと河内音頭

文福 そやけど、やっぱりどもりのお陰というのは、河内音頭です。人のやらんことをやり出したのは、やらなしゃあなかったんです。どもりの僕が、落語家でなんとか生きていくためには何でもやらなと思っていたから。
 気の合った仲間と飲みに行くの大好きやし、カラオケも大好きですが、気の張る席は今でもしんどいですね。仕事が終わり、主催者が「師匠、一席設けてます」「そうでっか」好きやから、大体地方へ行ったら交流会とかしますしね、地元の人と懇親会して飲んだりします。舞台終わって交流会に行っても僕だけ舞台の延長で、気を張ってる。何も裏表のある人間やないけども、舞台の延長の気でおろうと思ったら楽なんです。ところが、人間って、おもろいもんで、飲んだらその気持ちもマヒしてきます。二次会、三次会になって「文福はん、なんでこんな落語の世界に入ったんですか」と聞かれると、「うううう、わわわ・・・」とすごくどもってしまう。こうなると、気を張り続けていたらよかったと、ものすごくしんどくなって、落ち込んでしまう。
 酒を飲んで、酔うて足とられるとか、酒に溺れるとかは僕はまあない。酒には強いので、そんなに正体を崩すことはないんやけど、僕は口にくる。飲んだらてきめんにひどくどもるんです。
文福 コモンズフェスタ1 昨日も、舞洲で、大阪でねんりんピック2000大阪、まず一部で素人の方の名人芸の司会を僕がして、その後、大阪名物の河内音頭を僕がやる。司会やって音頭をやるという両方できる落語家がいない。大阪の市の大きな仕事、3つ4つのプロダクションが競合したんですが、こんなタレントでやりましょうとプレゼンテーションして、落札するんですが、僕、4つくらい重なったんです。それくらい僕を買ってくれるのはうれしくて、ギャラがなんぼかは関係なくて、先に声をかけてくれたところから受けた。僕もそれなりにプレッシャーかかってましたわね。こんだけいろいろなとこからみんな競合してて、その中で選ばれた舞台やから、結構自分でも盛り上がったんです。うれしかったから、終わってから文福一座のメンバー5人でだいぶん飲んだんです。家へ帰ったら、ほんまにどもって、どもって、子どもも嫁さんも「お父さん、何言うてるか分からん、酔うてるのか、どもってるのか、何言うてるのか分からん」。結局酔うたらほんまに意識はしっかりしてても、口がついていきませんね。ほんまに。

伊藤 高座とか、緊張してるときは、まあまあ喋れるけど、地が出たりするとどもるという。僕の場合もそうなんですよ。大勢の人の前で喋ったり、この前の、NHKテレビの『にんげんゆうゆう』の収録のときもほとんどどもらないんだけれど、仲良くなったり気が楽になってくると、とたんにすごくどもり始める。

文福 分かってくれてるグループやったら楽しいでしょ。僕は吉本興業を辞めたでしょ。平成元年の秋ですが、嫁はんや、ファンの人も、当時は心配してくれましたね。でもね、大きなとこやったら、○日に新大阪に○時に集合といったら、なんぼええ人でも気を使ってしまう。その人と2時間一緒に新幹線に乗っていくとなると、なんかそこからちゃんと喋らなあかんとなると辛い。3日間同じ旅館に泊まらなあかんとなると、なんかしんどい。でも、今は吉本興業を辞めて、自分が座長をやってるから、特に遠い地方に行くとなったら、まず一杯飲んでて楽しいメンバー、気の合うメンバーを自分で選べるでしょ。だから、気は楽なんです。だから、その連中と車で6時間7時間走ったってその間、楽や。「あわわあわわ・・・」とやっても、みんな分かってくれてるから。
 伊藤さんからもろた、今度のイベントのチラシをみんなに見せたったら、みんな爆笑やったですよ。「どもりを個性に? わーっっ」って。今までやったら僕の講演の演題は、「真の笑いは平等な心から」とか、「私と落語と大相撲」、「人生落語修行」、そういうタイトルやった。なのに今回は、「どもりを個性に! 〜桂文福ユニークな落語家人生を語る」でしょ。みんな笑うた笑うた。ついにやったね。
 カミングアウト、カミングアウトですよ。「俺はどもりですから。みんな見に来てよ」、そんなのは今までなかったですからね。そんなのは今回初めてですね。まあ、一種のカミングアウトですよ。いい機会を与えてもろたと思います。

伊藤 そうですか、それはうれしいです。それだけ人前で喋り、話芸ということでやってこられても、やっぱりどもりというのは消えないですか。治らないですか。

文福 まあ、僕ね、伊藤さんの本を読ませてもらって、テレビも見せてもらって、おっしゃってましたね。初め、どもりは治らないと言ったとき、そのときものすごく反発あったでしょ。僕も駅で「どもりは必ず治る、赤面症、対人恐怖症」の看板を見ると、どきっとするわね。僕はそんな看板嫌いですが、一番何が嫌いかって、薬の《ドモホルンリンクル》あれは嫌やね。「あんなん、誰が買うか!」。再春館製薬、あれ、腹立つ。なんであんな名前つけるねん、「ドモホルンリンクル」。(大爆笑)
 本を読んだとき、どもりが治らないということがすぐ理解できた。結局、どもりは治らんでも、うまいこと、つき合おうてたらいいんです。確かにどもりでうつ病になってる人とかいろいろカウンセラーのとこへ行ってる人もいるやろうけど、どもりはほんまに、どもりの矯正所で「ア・イ・ウ・エ・オ」と練習したりして、その場所では「こんにちは」「どうもありがとう」と言えても、「じゃ先生ありがとうございました」。「田中君、よくどもらずに喋れてよかったねえ。またがんばってね」。「はい、明日もがんばります」と外に出た途端、「ちょっとすんません。駅にはどういったらいいんですか?」と尋ねられたら、途端に「あわあわあわ・・・」となるでしょ。そういうもんでしょ。だから、どもりは治らんというのは、本当にそうでしょね。どもりは治らへんやないかい、和歌山弁も結局なまってもええんです。なまりは国の手形やしてよなー、おいやん(紀州弁)。

全盲の噺家

文福 話、変わりますが、この應典院の本堂ホールの舞台は2回目なんです。「笑福亭伯鶴の会」で出してもろたんです。全盲の噺家です。落語は、目をつぶって聞いている方が状況が浮かんできたり、想像が広がったりして、結構便利な芸なんです。例えば、「わー、ここは生魂の境内か? こんな祭りやってるのか、あっ、タコ焼きやがあるな、おっ向こうに風船売ってるな」、と広がる。ところが、実際芝居で舞台でしようと思ったら、その全部そろえるわけにいかんし、セリフで言うことしか観客は分からへん。やっぱり視覚に訴えるのは限界がある。落語はどないにでもなる。
 伯鶴君は目が見えないけれど自分の世界から絵ができています。えらいんです。松鶴師匠も太っ腹やね。大抵は、目の不自由な者は落語なんか無理無理と断ろうとしたんやけど、松鶴師匠も足が不自由で、落語家になった人やから引き受けたんでしょうね。
 「俺は、ほんまは歌舞伎や芝居が好きやったが、足が悪いから芝居は無理や。そやから、俺は落語家になったんや。だから、何かあったからといって諦めるということに対してひっかかっていたんや。お前は目が悪いからといって諦めるのはあまりにもかわいそうや、弟子にしたろ」
 全盲の落語家は珍しいから入門当時結構テレビでも取り上げられた。そのとき、松鶴師匠はえらいと思いました。
 「おい、伯鶴、お前、目が見えないからといって、これを利用したらあかんぞ。お前はたまたま今テレビに出てるけど、たまたま目が見えないから取り上げられただけであって、お前の力と違うで。こんなんが落語の修行風景やなんて、ただ、お前がたまたま目の見えない子やから取り上げてるけど、それを利用して売れてるなんて思ったら承知せえへんぞ」
 とぽーんと言われた。だから、伯鶴もよう分かってて、彼は目が見えないなんて思えへんくらい、普通なんです。例えば、「伯鶴師匠は目が不自由ですね」「不自由ちがいます、不便なだけですわ」「ハンディ違います。これは個性ですわ」とかね。彼は、ホノルルマラソンも走りに行くし、「昨日見た映画、よかった」と映画見に行くし、山にも登る。ライトハウスにも行って、ボランティアの人に対面朗読してもらう。伯鶴さんは新聞読むためにだけやったら嫌やと。対面朗読してくれた女の子に、ちょっと一緒にお茶行けへんかって誘う。そんなのが彼は自然なんです。
 落語が終わって一杯飲んだ時です。遅くなってタクシーで帰らなあかんことになって、「兄さん、ちょっとうちへ先に回ってから後で兄さんとこへ」と一緒に乗った。車が動き出したとたんに、運転手さんに、そこ行ったら富士銀行、左に行ったら居酒屋があってと指示する。彼はその飲み屋から自分の家までの道を全部覚えてるわけですね。5分走ったらどこへ行くとかね。ところが、運転手さんがそれを真剣に聞いてなかったんで、途中で分からんようになった。ほんで僕が怒って、「ちゃんと道を言っているのにどう思ってるねん」と。運転手さんもその時初めて目の見えない人やったんやと気づいて、「すんませんでした」と言って。もういっぺん現場へ戻らないと、帰れない。
 彼は目が不自由やから、確かに使いにくいですわな。本人は、「ふるさと寄席」連れて行ってやーと言うんですけど、「伯鶴さんって目の不自由な人でがんばってますねん」と前もって言うて、講演やってもらうことはあっても、普通の席で、急に、黒いサングラスかけて出ていくと、ちょっとお客さんには違和感がある。ちょっと気を使って使いにくいことがある。だから、大きな劇場からお声がかからないことがある。ところが、松鶴師匠が亡くなって13回忌・追善興業のとき、一門が日替わりで出演し、伯鶴さんもとうとうやっと浪花座に出ました。
 「伯鶴師匠、やっと大きな舞台に出た」と見に行った知り合いの人がびっくりした。大きなところやから、まずチャカチャンチャンと鳴って出ていって舞台にちゃんと座れるかが心配です。ところが、チャカチャンチャンと鳴って、袖から出て来て、ぴたっと台の上に乗って、落語を一席やってすっと降りてきた。彼は、ちゃんと幕が開く前になんべんも歩いて、歩数を数えてやってたんですね。
 これくらいの角度で回って足を挙げてと、それをみんなが見てる前でやると、いかにもあいつはがんばってるなあと思われるのが嫌で、人が見てないときやから、うんと早い時間に楽屋入りしてきて、そういう努力している。ところが、こんなことがたまにある。前、ある映画館で、伯鶴君と一緒に仕事をしたんです。準備ができたからと喫茶店でお茶を飲んだ。後から聞いたら悪気はないんやけど、他のメンバーが舞台が始まる段になって、「ちょっと、これ低いんちゃうか。お客さん、見にくいで。ちょっと上げよか」と2段ほど上げた。それをスタッフが彼に言うのを忘れたんやね。そしたら、伯鶴さんの出番です。チャカチャンチャン、出たら台の高さが違うから難儀した。ざぶとんを敷く子が、さーっと出てきて、伯鶴さんの手を引いて座らせた。あの時、彼は絶対悔しかったと思う。若い子に手を引いてもらってそんなのをやってもらいたくないのにと悔しかったけど、そういう失敗談がたまにあります。
 彼は、ほんとに目が見えないのは、自分の個性やと言うてる。僕、伯鶴君のそう言うたとき、逆に励まされますね。どもりくらいなんやと思うときある。ただ、障害の大きい小さいに関係なく、そういうふうに頑張っている人がいるからいい。
 車椅子の友達もようけおりますけどね。仕事に行ったら、手話の人がいます。要約筆記の人も。要約筆記って大変やね。しゃべったことをばーっと書いて。僕が講演したとき大変だった。「あわわわわわっ・・・」てなるからね。却ってその人を意識して合わそうとすると、間が狂うしね。
 ある講演に行ったとき、教育委員会の世話人さんが、「今日は手話通訳させてもらうんです」。「ああ、お願いしますわ」。手話ってなんべんもやってるから大体分かってますやんか。ところが、その方が手話通訳の人にこんなことを言う。「君ら、今日は大変やで。今日の師匠、早口やから、手話やるのん大変やで」。もう、ぶちっーですわ。
 「私は舞台はね、ちゃんと喋れまんのやあ!!」先方としては、冗談かなんか知らんけどね。そんなん言われたらええ気しませんわな。楽屋で雑談してるときに、どもってへんでも、早口やと思ったんやろね。「始まったら、ちゃんと喋れまんのや!!」。半分けんかを売ってるみたいやけど。そんなん、ようありますよ。 (「スタタリング・ナウ」2001.1.20 NO.77)つづく


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/04/17

どもりを個性に 桂文福オリジナルの落語家人生

 應典院で開催されたコモンズフェスタでの、文福さんと僕の対談を紹介します。文福さんの温かい、優しい人柄があふれています。対談は、文福さんの落語の後、始まりました。

應典院・コモンズフェスタ2000
  どもりを個性に 桂文福オリジナルの落語家人生


 ♬ てんてんてんまりてんてまり♬ 
 紀州の殿様のお囃子にのって桂文福さんが登場。それだけでもう笑いのモードに入っている。文福さんは多くの著作の中で、「対人恐怖や赤面症」については書いておられるが、どもりについては全く書いておられない。
 NHK教育テレビの『にんげんゆうゆう』を観て、伊藤伸二と出会わなければ、「皆さんが、私のどもりについて、話にきて欲しいと言われても、来なかったかもしれない」と言われる。
 大勢の人の前で、自分のどもりについて話すのは初めてで、これは私のカミングアウトだとおっしゃった。そして随分とどもりについて話して下さった。会場は常に爆笑の渦で、「どもりも悪くないなあ」との、温かい大きな笑いが広がっていった。

よくどもる電話

伊藤 文福さんが僕のところに電話をくださったでしょう。あのとき、実はどもる人の相談の電話がかかってきたのかなあと思ったんです。よくどもっていたのは、僕がどもりだから安心してですか。

文福 いやあ、そうじゃないです。相手によらず電話の場合は特にどもります。104で電話番号を聞くときなんかも、自分が聞きたいところの名前が出ないんです。應典院の「お」も「おおお・・」となる。むこうが「もしもし、」「はー」となると、いたずら電話と思われる。こっちが声が出ないのに、相手に腹が立って、「ええかげんにせえ」と切ったこともあります。こっちが普通に喋っていると思っているのに、向こうが「何ですか。どうしたんですか」とせっっいて言われたら「もうええわ」となったこともある。
 僕は、「わ」がなかなか出ないんです。「師匠はどこの出身ですか」と言われると、「わかやま」と言いにくいから、「紀州ですわ」と言う。
 電話でおもしろかったのがひとつあります。
 僕の『ふるさと寄席』のメンバーの桂勢朝君と電話する時、たいていぼけたりして、しょうもないギャグを言う。いくら互いにあほなことを言い合っていても、肝心な用事は正確に言わなあかんでしょ。
 「明日行くとこは、神戸の須磨の水族館の近くの・・・、今言いにくいんやわ、焼き肉のわわわ・・・・」
 「わかまつ」が言いにくい。勢朝君が「えー?」っとなって、「もしもし、うー・・」となんべんやっても一緒です。しまいには、「うまい焼き肉やがあってね、そんでその場所はね・・」「おい、どこやった?」と弟子に聞くと、弟子が大きな声で「わかまつ!」と言う。「今の聞こえたか。そう、そこが仕事の場所や、分かったか」
 それを聞いて勢朝君が笑った笑った。永久保存版です。
 それを彼が、楽屋で米朝師匠や兄弟子の枝雀さんやざこばさんに話す。「それは、しゃれてるなあ」とか、「粋やな」、とか、「おもろい奴や」とか言って笑う。楽屋でそれを言われることうれしいんです。ところが、それをあんまりおもろいからと、彼が落語会の舞台で、まくらで喋った。ほんならお客も笑いますわな。それ、ごっつう腹立つんです。そんなんは、お客さんには言うて欲しくない。そんなんで笑うギャグは腹が立つ。気持ち、分かるでしょう。
 それをネタにして、笑ってるお客は、ひょっとしたら俺をばかにしてるんちゃうかいなと、コンプレックスがわいてくる。後で、彼は、「いやあ、すんませんでした。僕、ちょっと勉強不足でした」と謝ってくれた。そういうの、すごく微妙ですね。楽屋とか、身内が分かってる場ではいいが、一般のお客さんにはそう思われたくないという気持ちはものすごく強い。それは今でもあります。

伊藤 ということは、高座ではできるだけどもらないように、どもらないようにコントロールされているのですか。

文福 コントロールというよりも、僕の口調になってますから。僕だって、はっきり喋ろうとしてるんですよ。昔、うちの師匠(五代目文枝)から、「お前、出だしはおもしろいが、途中になったらなんであかんようになるねん」と言われた。古典落語をやる時は、はっきり喋ろうとするとよけいにボロが出る。ボロを出さないようにするから、おもしろなくなる。僕の本来の口調とギャップがありすぎたんですね。
文福 コモンズフェスタ2 「お前は気にせんと、まくらと同じような口調で古典をやったらええんちゃうか」
 師匠がそう見てくれましてね、僕はいっとき古典落語しばらくせんとこと思って、新作とか漫談調のをやっていた。そこで、ある程度、自分の文福流ができたと思ったので、今度は古典落語を、僕がやったらこうなりますよというのを、僕流にやっていくと、これは結構受けました。
 自分の師匠の自慢をするのもなんやけど、うちのおやっさん(師匠)は太っ腹のところがあるから、桂三枝、きん枝、文珍という人気者や、小枝もあやめちゃんという女の子もいるし、個性的なメンバーがいます。師匠がそれぞれの個性を大事にしたんだと思うんです。
 「お前、だめやないか。もういっぺんやり直し。もっとはっきり喋れ」
 と言われたら、僕は萎縮して多分だめだった。師匠が認めてくれたんです。だから僕のこの落語は、僕の弟子も真似できないと思う。もちろん弟子に稽古はちゃんとつけますよ。でも、後は自分でやらんとね。僕の独特の《間》なんかは他人が真似はまずできへん。僕も師匠の真似はやってませんしね。確かに伝統芸能だから、伝えていく話や、芸の精神とか芸人としての心構えなんかは教えますが、口調は自分だけのものやから。

伊藤 とってもよく分かります。きちっと喋れ、ちゃんと喋れ、ということを最初にかなり言われていたら、落ちこぼれるか、自信をなくしたでしょうね。

文福 そうですね。でも、落語で舞台に出るようになってからも悔しいことはありましたよ。我々舞台に出る前は、各楽屋の先輩や後輩にあいさつに行く。「失礼します。お先に勉強させていただきます」。終わったら、「お先にどうもありがとうございました」と言うのがまあルール、仁義です。ところが、挨拶に行こうと、戸をノックして、ぱっと部屋の戸を開けた時、緊張する人や人気者がいると、「うーっ」となって次のことばが出ない。「おおお・・」と、そしたら相手も「どどど・・・」、こっちも「ああああ・・」。そこで、腹立てて怒ったらちょっと大人気ない、芸人らしくないと言われますから、「おおお、どどど、きゃきゃきゃ」と歩調を合わせますが、やはり悔しい。
 「よし、絶対こいつらより俺は今日は笑いをとったるぞ」とか、「こいつらより受けたるぞ」とか、闘志がわく。舞台に出たら「わー」とどもらずにやるでしょ。「舞台ではちゃんと喋ってるのに不思議やねえ」と、言われた。僕自身は、普段どもってても舞台でちゃんと喋ってるのは、粋やと思っていました。それは円歌師匠の影響もあります。

粋な! 三遊亭円歌

文福 昔、「山のあな、あな、あな、あな」と、どもりをネタにしていた三遊亭歌奴さんがいましたね。今は東京の落語協会の会長の円歌師匠ですが、その師匠の、先代円歌師匠も、ものすごいどもりだったんですよ。ところが、新作落語は、爆笑だった。今の円歌師匠が「すいません。ででで・・・弟子にして下さい」と言うと、師匠が「いいい、いい・・・よ」と受ける。ほんまこういうことがあったんですよ。それを週刊誌で読んだ時、なんともすばらしいことだと思った。当時、けいこ中、どもったりしたら豆つぶがぴしっと飛ぶ。一席終わったら「豆、拾え!拾った数だけお前はどもったんや」。20何回とかね。だんだん豆の数を少なくしていったという。
 僕は、小学校、中学校のときどもってたし、高校もそうだった。ただ柔道や相撲で発散してましたから、決して暗い子やなかった。やっぱり話す仕事はあこがれで、絶対自分にはできっこないと思ってた。田舎の子にしたらラジオをよく聞いたり落語の本を読んだりして結構よう知ってた方です。その中で円歌師匠の本を読んで、普段、どもってもええやないか、舞台で喋ったら格好ええ、これは粋やと思った。ところが、時代が違った。
 円歌師匠の時代は、高座だけうまくやったら、うまい噺家といわれる時代。僕らは、マスコミの時代。プロデューサーとかディレクターとか、花月の支配人も事務員さんも、若手の勉強会なんか来ないで、普段修行としての付き人をやっている姿を見て、この子はおもろいな、いけるなと判断する。僕らは、地域寄席を作って、例えば阿倍野青年センターの田辺寄席なんか、27年も続いているんですが、そんなんは見に来ない。その落語会では、ちゃんと喋っているつもりでも、楽屋で、「あああわわわ」と言ってるのを見て、あいつは絶対だめや、あの子は絶対落語できへんと、ずうっと思われていた。長いこと、僕はテレビやラジオの出番がなかった。まして花月の舞台もない。普段のフリートークで判断される時代だったんです。
 早い子で3年で花月の舞台をもらう子もいるけど、僕は10年くらいかかった。だいぶ出遅れたんです。
 あの当時は、普通はラジオでおもしろいとテレビに出られる。僕はテレビからです。

「あのあのあの・・・とほほ」

文福 「君は言語不明瞭やからラジオ向きやない。持っている雰囲気はおもろいから、君を町へばーっとほりだす」と、ディレクターからはっきり言われました。ABCのわいわいサタデー、今から20年近く前のテレビ番組です。
 町の人が、何を考え、何を探り、どんな人生を歩んでいるかを、徹底的に掘り下げて聞くという番組ですが、レポーターって大嫌いでした。乾浩明アナウンサーや上岡龍太郎さんが司会でした。僕は、いつも「あのあのあの・・・」とやってると相手は向こうへ行ってしまう。一回もまともにインタビューできなかったんです。ところが、それを見た松本おさむというプロデューサーが、ラブアタックを作って成功し、今の探偵ナイトスクープを作った人ですが、「文福さん、おもろいわあ。インタビューできんでも、町へ出ていっておろおろしてな、あれ、おもろいわあ」。
 普通は、「ちゃんと人の話、聞いてこんかい」と怒るのが当たり前でしょ。町へ行って「ちょっとあの、すんまへん、・・・あのあの、とほほ」。インタビューできなかったら、ディレクターが横で、おもろいでとパチパチ拍手している。この「とほほ」というギャグが一世を風靡し、それから結構僕の知名度が出ました。失敗したら「とほほ」というのが流行った。
 「とほほ」は、僕にとってはギャグじゃなくて、単なる口癖です。何か喋ってて、うっとどもってことばが出ない時、ごまかすために、「とほほ」。どもりをごまかすギャグが当たったんやろね。
 僕は、当時しょっちゅう家でも「とほほ」と言っていた。困ったときには、「とほほ」。これを見い出してくれたプロデューサーはえらいと思ってね。
 いっときそれを前面に出せと言われ、インタビュ一をして、相手が向こうへ行ってしまったのをカメラが僕をアップで撮り、「とほほ」ですわ。これを、10年くらいやったから、その勢いがあって、吉本興業を辞めても、自分でやることができたんでしょうね。吉本興業を辞めたので、今はあまりマスコミには出ないけど、当時の僕を覚えていてくれる人がいて、あっ、知ってるでと言ってくれる。その番組には感謝してます。自分が「どもりでよかったなあ」と、思い始めたのはその時からです。(「スタタリング・ナウ」2001.1.20 NO.77) つづく


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/04/16

桂文福さんをゲストに開催した、應典院でのコモンズフェスタ〜「どもりを個性に 桂文福オリジナルの落語家人生」

 NHK番組の「にんげんゆうゆう」をきっかけに始まった文福さんとのおつきあいは、当時、大阪吃音教室の会場として使用していた應典院でのイベントにつながりました。そのときのイベントのタイトルは、「どもりを個性に 桂文福オリジナルの落語家人生」でした。文福さんがよく話すのでそうなのでしょうが、このタイトルは、文福さんがつけたものではなく、僕がつけたそうなのです。本人が決めたのだと僕自身は思っていました。チラシが送られきて、このタイトルを見て、家族みんながびっくりしたそうなのです。でも、このタイトルで「吃音を全ての生活で隠さない」と決心したと言っておられました。「カミングアウト」ということばで、この体験を言っておられます。今はもう吃音は全開です。「どもって、なまって」が公開の場でも、どんどん飛び出します。周りの人が吃音について知っていて、それを否定しないけれど、わざわざ自分の口から言うことはないということだったのでしょう。明るい文福さんですが、吃音はやはり大きな重しになっていたのかもしれません。僕と出会ってから吃音は一段と成長されていますが、それも楽しんでいるような趣があります。僕たちの頼りになるひとつのモデルです。
 コモンズフェスタでは、落語という話すことが商売の仕事をしてこられた文福さんの話は、参加していた子どもたち、その保護者、そして僕たち成人のどもる人たちを大いに勇気づけました。「スタタリング・ナウ」2001.1.20 NO.77で特集していますが、まず、その号の僕の巻頭言から紹介します。

  価値観が広がる
                     日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 180度の価値観の転換、逆転の発想、マイナスをプラスに、などのことばが流行ったときがある。プラス思考で生きれば脳内に革命が起きる、との陳腐な本が大ベストセラーにもなった。
 人が変わるとは、どういう道筋を辿るのだろうか。実際に180度の価値観の転換ができて、その人が生きやすくなるのであれば、それはそれでいい。しかし、価値観の転換にどうもついていけない感じがするのは、今在る自分を否定する、あるいは自分が否定されることへの抵抗感、嫌悪感からだろう。
 私がどもりに悩み、苦しみ、将来の展望が全くもてずに堂々めぐりをして悩んでいた21歳の頃から、それなりの自己肯定の道を歩み始めたその道筋は、180度の価値観の転換、どもりをプラスに、などというものでは決してなかった。どもりを治したいと、精一杯治す努力をしたが治らず、「まあしゃあないか」と事実を認めたところから出発したように思う。どもりながらも、隠さずできるだけ逃げない生活を続けて数年後、ふと立ち止まったとき、数年前の自分とは随分変わっていることに気づいた。価値観の転換をし、成長を目指して取り組んだことは何一つなかったから、自分の変化に気づかなかった。おそらく傷が癒えるときに薄皮ができ、その薄皮が1枚1枚はがれるようなものであったような気がする。
 昨秋、應典院で開かれたコモンズフェスタで、桂文福さんがどもりについて語ってくださった。
 桂文福さんの落語家としての半生は、涙と笑いに満ちたものだった。どもりでシャイで対人恐怖で赤面症だった文福さんが、個性派の落語家として歩んでいく道は、最近CDとしてリリースされ、全国でヒット中の『和歌山ラブソング』にも似て、『どもりラブソング』そのものだった。
 しかし、どもるがゆえに起こる数々のできごとは、今は笑いとして話され、聞く方もつい大笑いしてしまうが、その真っ只中にいた頃は、不安、恐れ、悔しさ、腹立たしさ、様々な思いがうずまいていたことだろう。その後、どもるがゆえに失敗するテレビのインタビュー番組で「とほほ…」のギャグが大受けする。
 「そうか、どもって立ち往生し、『とほほ…』となるのもありか?!」
 どもっている自分をそのままに、少しだけ価値観が広がったということだろう。
 価値観の転換などという大袈裟なことでは無く、今の自分を否定しないで、自分のできることに誠実に取り組む。そのプロセスの中で、人はいろいろな人やできごとと出会い、結果として価値観が広がっていくのではないだろうか。
 桂文福さんの落語家としての30年の道のりは、古典落語だけを目指すのではなく、どもっているどもりはそのままに、河内音頭、相撲甚句などと出会い、新しい世界が広がっていった。
 文福さんは落語をするときはどもることはほとんどない。しかし、高座から下りて、どもりについて私と話す時、その後の打ち上げ会での酒席で、文福さんは楽しく自然にどもっておられた。そのどもり方は私たちにはとても心地よく、仲間意識が一段と深まった。なんかほっと安心する。笑いと、あたたかい雰囲気がその場いっぱいに広がっていった。
 私たちが相談会や講演会を開くと、「私はこうしてどもりを治した、軽くした。私もこれくらい喋れるようになったのだから、みんなも努力してどもりを軽くし、そして治せ」と言う人が現れる。その言動はどもりに悩む人たちへは励ましよりも大きなプレッシャーを与える。
 文福さんは違う。どもりを打ち負かして話すプロになったのではない。どもりに勝てなくても、少なくともどもりに負けへんでと、取り組んできたから今の文福さんがあるのだろう。
 「どもってもええやんか。そやけどな、どもっていても、おいやん(おじさん)のように、噺家のプロにもなれるんやで。プロになっても悔しいこと、悲しいこと、いっぱいある。けどな、負けへんで」
 悲しみも苦しみもあっていい。あるからこそ喜びが味わえるのだ。その日、遠く広島から、福井から、和歌山などから来た小学生が前の席にずらりと並んでいた。その子どもたちに、ちょっと太った一茶さんが優しく話しかけていた。
 「痩せ蛙 負けるな一茶 ここにあり」 
(「スタタリング・ナウ」2001.1.20 NO.77)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/04/15

左利きと吃音〜共通点に気づく

 左利きの人は、僕の周りにもたくさんおられるし、その人たちの苦労、しんどさを思ったことはありませんでした。今日、紹介する田原さんに話を聞くまでは、そうでした。お話を聞いて、吃音と似ていること、共通点に初めて気づきました。当事者に言われないと分からないことが、世の中にはまだまだたくさんあります。ちょっと視野を広げることで、同志のような気持ちになれるのだと思いました。自分の吃音を理解してほしいと社会に言うのと同じくらい、自分自身が社会のいろいろな人たちのことを理解したいという気持ちを持ちたい思います。100%は理解できないけれど、少なくとも、理解したいという気持ちは持ち続けたいです。
「スタタリング・ナウ」2000.12.16 NO.76に掲載している田原さんの体験を紹介します。

  
わたしは左利き
                     きこえの教室担当者 田原佳子

「右手を挙げて!」

 えーと、お箸や鉛筆を持つ手が右手だから・・。よく子どもに「みぎひだり」を教えるとき、「箸を持つ手、鉛筆を持つ手が右」と教えます。でも、私は箸を持つ手は右、鉛筆を持つ手は左です。実にややこしいことです。いまだに、「みぎひだり」は反射的には分からず、頭の中でえーとと考えます。助手席に座ってナビゲーターをするときが大変。反射的に答えると必ず右折と左折を反対に言ってしまいます。いい年をして、「みぎひだり」を間違えるなんて脳のどこかがおかしいのではと、いつも家族にからかわれています。

左利きの不便さ

 最近、いろんなことに気づいて驚きます。
 給食を配るとき、麺類を食器に入れるのに人より時間がかかります。先がぎざぎざの麺類用のおたまで配るのですが、つるつる、麺が落ちるばかり。あっ、そうか。みんなこのぎざぎざのところに麺をひっかけて配っている。私の場合、左手で持っているから、ぎざぎざが反対側にいってしまって、ぎざぎざのない丸い方で麺をつかもうとしているから、つるつると麺が落ちるんだ。
 今、駅の改札はどこも自動改札になりました。自動改札ってどうも通りにくいものだと思っていました。あっ、そうか。右手で切符を差し込めばスムーズに通れるんだ。利き手の左手で切符を入れるから、左手がじゃまをして進みにくいということにも最近気がつきました。そうわかってからも、左手で、右側にある差込口に切符を入れて身体の進行を妨げながら、改札を通り抜けています。もたもたして人の流れを止めないようにとあせりながら。
 偏頭痛がひどいのは、そういうたちなのだと思っていましたが、左利きのせいだと思うようになりました。若い頃は感じなかったのですが、左手で右上がりの字を書くためにはけっこう無理な姿勢をしているため、最近とても疲れます。左肩は万年肩こりで、こりごりです。左利きの人が字を書いているのを見ると、とても書きにくそうに見えます。自分もそうなのだろうと思います。
 こう言い出したら、きりがありません。右利き用の道具を左手で使いこなしているので、少しずつ少しずつ気づかないうちに身体に負担がかかっているのかもしれないと思うこの頃です。
 これは私だけで、左利きの人がみんなこう感じているわけではないかもしれません。今時、左利きは珍しくもなく、左利きの人を見ても世の中の人はだれも驚かないと思います。「かっこいいじゃない」と言う人もいます。でも、左利きは今も昔も少数派です。
 少数派で生きていくのって、ちょっとしんどいものがあるなあって思います。私の人生は左利きとともにあり、これからもずっと左利き抜きではあり得ないと思います。
 なんてオーバーな…と思われるかもしれませんが、真剣にそう思っています。

「左利きは直さなければ・・・」

 「左利きを無理に直すと精神発達によくない、言語障害を起こす可能性もある」
 「左利き、まだ直ってないの?」
 「私は字を書くのは、右に直したわよ」
 「左利きなのに字が上手ね」

 何気なく発せられるこれらのことばに、何も感じないふりをしながらも、心の奥底ではなんて無神経なことばを平気で言うのだろうと、実はズキンズキンときています。特に、「私も左利きよ。でも、鉛筆だけは右に直したのよ」は私の心に突き刺さることばです。「私も左利きよ」と聞き、急速にその人に気持ちが接近し、自分と同じ人に出会えたうれしさに鼓動が高まります。ところが「でも、鉛筆だけは右に直したのよ」で、接近した気持ちを叩きのめされます。
 「書くのはちゃんと右に直したのよ。やっぱり書くのは右よね。あなたは直していないの?」
 この意味が含まれていると思ってしまいます。

子どもの頃

 両親共にスポーツ程度の軽い左利きです。妹は、右利き。私が両親から左利きの遣伝子をしっかりと受け止めたようです。あの頃の親としては、かなり進んだ考え方だったのでしょう。両親に左利きを直すように言われたことは一度もありません。3歳からピアノを、小学1年から習字を習いました。これは、できれば自然と右手も使えるようになればという両親の考えからです。
 小さい頃の私は、廊下を走り回っていたように、けっこうおてんばな女の子でした。小、中の先生から、左利きについて指導された覚えはありませんが、小学3年、4年、6年、中学2年と転校が多く、新しい環境になるたびに、私を左利きと知らない人たちからの視線攻撃を受けました。
 そして、「あら、左利きなの」という言葉を、私が左利きだと初めて気づいた人から必ず聞かされました。そういう視線や言葉を浴びるたびに、左利きだと知らない人の前で字を書くことがとてもプレッシャーになっていきました。
 人前で書かなくてすむ方法はないかと常に考え、できることなら、人がいなくなってから書きたいと様子をうかがっていました。それでも人前で書かなければならない場面はたくさんあります。そういうときは、まず鉛筆を左手に持って、相手を上目遣いにちらっと見ます。そして、この人は左利きと知ってどんな反応をするだろう、どんな言葉がくるだろうとどきどきしながら、書き始めます。こんなに転校しなければ、周囲の人が私のことを左利きと知ってくれている環境だから、堂々としていられたかもしれないと思います。
 それでも、小、中の先生から「左利きを直すように」と言われなかったことは有り難いことでした。言われていたら、もっと違った人格が出来上がっていたかもしれません。

左手で絶対書くな

 入りたい高校に入学でき、心はずむ16歳の春、古文の授業のときでした。机間巡視していた先生が、私のところに来てこうおっしゃいました。
 「高校生になっても、まだ、左利きが直っていないのか。今から右手で書くこと。もし左手で書いているのを今度見つけたら、朝礼で全校生徒の前で恥をかかせてやる」
 こう言われても、私は思ったより元気でした。今思えば空元気だったかもしれません。休み時間になって、クラスメイトが男子女子に限らず、私を慰めてくれました。私の他に、左利きの男子が二人いましたが、言われたのは女の子である私一人でした。この古文の先生にしてみれば、
 「女の子なのに左利きが直っていないなんて大変なことだ。なんとかして直してあげなければ」
 こう考えたのかもしれません。
 思ったより元気だったと言っても、次の日から左手で鉛筆を持つことはできませんでした。こわかったからです。右手でも書けるようになりたくて、4年生の頃自主的に日記を右手で書いて練習していたので、全く書けないわけではありませんでした。右利きの人は、「じゃあ、なんともないじゃない」と思われるかもしれませんが、考えてみて下さい。
 右利きのあなたが、右手は絶対使えない状況になったとしたら。高校のノートってたくさん書きます。私は力のない右手で、必死でノートをとりました。何倍も疲れました。
 この事件は、比較的早いうちに一応解決しました。母は、若い頃高校の事務職員をしていました。この古文の先生と同じ学校に勤めていたことがあったので、母が私の左利きに関する育て方を話してくれました。それでその後また私は、左手、つまり利き手で書けるようになりました。
 でも、クラスみんなの前で、左手で書くことを否定されのです。この事件の前と全く同じというわけにはいかないのは当たり前です。私の心の奥深くに、「左利きはだめなんだ」という気持ちが根付いても仕方のないことだと思います。それにしても、よくひねくれなかったと、自分で自分を誉めてあげたいぐらいです。

 大学は、教育学部。
 「左利きはだめ」という気持ちを潜在意識の中に強く持ってしまった私は、左利きの自分が教師になれるだろうかと不安でたまりませんでした。大学での「カウンセリング」の講義が終わるやいなや、その先生のところに相談に行きました。左利きに関する本を教えてもらい、読みあさりました。そして、「何も悪いことをしたわけでもないのにどうして左利きを直さなければならないのだろう!」と強く思うようになりました。
 それでも、潜在意識の中で左利きはだめと思ってしまっている私は、教員採用試験のとき、試験官に左利きが見つかったら絶対合格できないと思い込んでいました。試験官の様子を常にうかがい、近づいてくると、右手に鉛筆を持ち替え、まるで、カンニングが見つからないようにしているような錯覚さえ感じました。
 そんなどきどきした採用試験でしたが、左利きがばれなかった(?)のか、無事に合格し左利きの私は教師になりました。小学校の先生です。

新米の教師時代

 新米先生の私は、だれかに何かを言われたわけではないのですが、なぜか右手でチョークを持っていました。ペンも右手を中心にしてときどき左手で書いていたように思います。そうなんです。私は、なんと《右手に直した左利き》を演じていたのです。本当の自分ではないことを痛いほど感じながら…。
 教員2年目のとき、1年生の担任になりました。クラスにとってもかわいい左利きの女の子がいました。とても上手な字を書きます。ご両親は左利きに関してなんら抵抗を感じておられなかったので、私も同じ考えで支援できました。彼女は堂々と左手で字を書き、おおらかに成長していきました。左利きの子の気持ちはよく理解できるつもりですので、「左利きの子の指導は任しといて!」と胸を強く叩きたくなります。
 今は、オバタリアンで、開き直り、左手で堂々と書いています。それでも、初めての人の前ではほんのちょっぴりびくびくしながら左手で書いています。特に校長先生の前では。これって、変ですよね。変だと思っていても、無意識にびくついてしまいます。もちろん、他人には悟られないようにびくついていますが、このびくつきは、あの高校のときの事件のせいかなあって思います。
 こんなふうに無意識にびくついてしまうことには、我ながら嫌悪感を感じています。
 「どうして左利きを直さないといけないの!」こう憤っているのも同じ私なんですから。人間が同じ人間である自分自身に「直せ」なんて言えるでしょうか。傲慢もいいところです。病気なら何か手立てをするでしょう。いけないところがあったら、もちろん直します。けれど、どうして、左利きがいけないのでしょうか。
 左利きに限らず「直す」、「治す」という言葉は、よほど慎重に使われるべきだと思います。教育界では案外簡単に使われているのではないでしょうか。その人のために直してあげなければいけないという使命感に燃え、本人はとてもいいことをしていると思い込んでいるのではないでしょうか。そう言われた相手がどんな気持ちか、自分が言われたらどんな気持ちがするか、よく考えて発するべきだと思っています。こういう思いというのは、その当事者でないとよくわからないものです。
 《ことば》は、あるときは人を励まし、勇気づけるけれど、残酷なものに変身する可能性を常にもっています。そして、その《ことば》は、その人の考え方、価値観でもあります。子どもたちと日々接する私たち教師は、まず、相手のそのままを包み込み、一つのものさしで見ないようにすることが大切だと思います。その上で、《ことば》を大切に使っていく必要があると思っています。

〈難聴理解の絵本紹介〉
 私は今、難聴教育に携わっています。難聴児とかかわる中で、きこえの教室では生き生きとしていても、学級ではなかなか自分を出せないでいることを知りました。そして、難聴児を取り巻く環境を整える必要性を強く感じました。
 そこで、難聴理解の絵本『ハートはなにいろ』を作りました。できるだけ多くの人に読んでもらい、難聴児のことを理解してもらいたいと思っています。
(「スタタリング・ナウ」2000.12.16 NO.76)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/04/14

映画『独立少年合唱団』試写会&シネマトーク 〈後半〉

 昨日のつづきです。「スタタリング・ナウ」2000.12.16 NO.76に掲載されているものを紹介します。

独立少年合唱団 シネマトーク1
緒方明:治す、治さないは、本人の自由ですよ。何か欠けていることって誇りですよね。才能を持っている人って、何かを持っているから表現するのではなくて、大体何かが欠けている人が表現してますよ。欠け方が半端じゃない。欠けてて当たり前ということはずっと言い続けたい。こんな話をすると、緒方さんは健常者だし、どもらないから、それは健常者の発言でしょうと言われますけど、そういうことじゃないと思うんです。それは、例えばある人が肌が汚いと思っている悩みと、自分はどもっているというのは同等ですからね。

伊藤伸二:全くそうですよ。そういう意味で僕、とってもうれしかったのは、ことばが詰まるとか、吃音だとかいうふうに言い換えをしないで最初からどもりという三文字をきちっと出してくれたことです。あれはとってもうれしかったですね。

緒方明:放送禁止用語ってよく言いますが、ほんとは放送禁止用語ってないんです。自主規制ですから。今回も製作の過程で《どもり》がまずいという人もいたけど、そういう人は呼んでこいということでいった。ただ、おもしろいのは、来週、角川書店から原作が発表されるんですが、そこからは消えました、どもりが。

伊藤伸二:結局どもりをマイナス面としてしかとらえてないんですよね。個性としてとらえてないんです。

伊藤由美子:どもるということですが、私は、最後までどもりを続けてほしかったんです。どもりをどうしてやめちゃったのかしら。そういう障害というのは、ふとしたころに現れるんですよね。忘れた頃にひょっこり顔を出す。だから障害は消えない。死ぬまで持っていかないといけない。だから、どもりを最後までどもってほしかった。最後に泉谷しげるが「おまえ、うまいなあ」という一言が出るのはちょっと疑問に思いました。

緒方明:結局、どもることそのものに重きを置いてないですから、少年のターニングポィントとして、ひとつは声変わりです。ひとりの男の子が声を無くしたときにひとりの男の子が声を勝ち取るというところでのつながりの物語で見てますので、そこに交わりができる。私は、交わるということが大好きで、十字架とかクロスロードなんか大好きなんです。そうなってくると、ふたりの人生があって、その人生が交わっていくとなると、片方をどもりのままでいくということでは交われないんです。だから、治したんです。

伊藤由美子:伊藤さんは、自分がどもることを受け入れていくのに、どのような努力をされたんですか。

独立少年合唱団 シネマトーク2伊藤伸二:努力なんてしてませんよ。受け入れようとか治そうとか、そもそも、そんな努力をするとできないですよ。はっと気がついたら、あっ俺昔から比べるとずいぶんとどもりを苦にならなくなってるなあという、そんな感じです。

伊藤由美子:伊藤さんが書かれた本の中に、どもりを治すために発声練習をなさっていたとありましたが。やっぱりそれは治したかったからですか。

伊藤伸二:そりゃもう、当時は、治したいという必死な思いですよね。発声練習も呼吸練習もしました。でも、欠けたものを治そうとしている限りは、全然だめなんですよ。

緒方明:そう、そう、そう、そう。全くそうですよ。映画づくりでも、合唱でも、うまくなろう、うまくなろうなんて思っているうちはだめです。いい映画をとろうなんて、多分、映画監督は誰も思ってないと思うんです。いい映画なんてどうでもいいですから、自分の見たことが真実なのかどうかというだけ。だけど、子どもはうまい演技を求めるんです。それは、ほめられたいんです。それは、分かりますけど。ほめられたいと思っているときは、監督はほめないんだよなあとずっと言い続けていました。

伊藤伸二:結局、人が成長していくひとつのきっかけとして、表現ということをテーマにされたんですけど、僕の場合は、自分のことを自分のことばで語るということが出発でした。どもりのことを誰にも言えなかった、その苦しみを自分のことばでなんとか人に喋ってそれを聞いてもらえたということです。

緒方明:自分のことばを喋るためには、他者のことばを聞くということです。そこで、あるとすればその勇気かな。

伊藤伸二:そうでしょうね。

緒方明:人の話を聞くのって勇気がいりますよね。自分のことを喋るのは簡単ですからね。

伊藤伸二:教員研修なんかに行きますと、話し下手という意識を持っている教師はいっぱいいるんですが、聞き下手と思っている人はあまりいない。

緒方明:そりゃ、おもしろい。

伊藤伸二:ということは、やっぱり聞くということができたときに、話すということもそれなりにできていくのかなあと。

緒方明:話し上手よりも聞き上手の方がもてますよ、飲み屋に行っても。

◎シネマトークの中の、吃音にかかわる部分だけを取り上げて紹介しましたので、多少つながりの悪いところがあります。ご理解下さい。(「スタタリング・ナウ」2000.12.16 NO.76)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/04/13

映画『独立少年合唱団』試写会&シネマトーク

 昨日の巻頭言につづき、映画『独立少年合唱団』の試写会とその後のシネマトークの様子を2回に分けて紹介します。「スタタリング・ナウ」2000.12.16 NO.76に掲載したものです。
 2000年10月25日、大阪市天王寺区にある應典院で、どもる少年を主人公にした映画『独立少年合唱団』の試写会と、監督・緒方明さん、音楽療法士・伊藤由美子さん、日本吃音臨床研究会会長の伊藤伸二によるシネマトークが行われました。
 約1時間のシネマトークでした。いろいろな視点からのトークで膨大な量になりますので、その中から、吃音に絡んだ話の一部を紹介します。


伊藤伸二:どもる少年をテーマにしたのは、どういう意図だったのでしょうか。

緒方明:私は、ドキュメンタリーをずっとやっていて、朝日放送製作の『驚き桃の木20世紀』を番組開始のときから関わってきました。あの番組は20世紀に起こったさまざまな事件や人物やできごとをドキュメントとノンフィクションとフィクションで構成していくもので、いろんな事件を扱いました。
 やっていくうちに、ドキュメンタリーの限界を感じました。起こったことに対して僕が意見を述べるしかないわけです。取材とは時代の最先端で何かをやった人、成し遂げた人、あるいは犯罪者であったりと、先端にいる人たちであって、でも歴史というのは、先端の人たちだけが作っているのではなくて、歴史の後ろ側にいた人も歴史の証言者であり、歴史を作った人ですよね。そういう人間を主人公に70年代を描けないかというのがひとつ。そして、もうひとつは、その人たちは表現が下手な人にしたかったんです。ともすれば、70年代以降というのは、声の大きい人であったり論客であったり、そういう人たちが前に出て来ましたよね。それじゃなくて、映画的には物語にしにくいのですけど、何か主人公の少年たちが能弁では困る。何か心の傷か肉体の傷を持っていることにしようと。そのときに、どもりという設定を借りています。ドキュメンタリー出身なので、合唱とか70年代の学生運動はかなり調査したんですけど、どもりに関しては全く調査してません。あくまでも表現のひとつの方法として使った。

伊藤伸二:そうでしょうね。そうだろうと思いました。映画の最初はかなり吃音に焦点があたっていた。
 「どもり、どもり、どもり」と、どもりというのが出てきますね。ところが、後ですうっとどもりが消えていく。治ったということも含めてですが。そこらへん辺りに、あっ、これはどもりの映画ではない、主人公の少年はどもりでなくてもよかったんだという感じはしました。

緒方明:そうです。まあ、聾者でもよかったんです。片腕のない人でも、いろんなハンディキャップということであっても、社会の後ろ側にいる人間、欠けている人間、コミュニケーションできない人として描きたかった。

伊藤伸二:「歌うときはどもらないじゃないか」と合唱団の教師から言われて、そこで主人公が歌ではどもらないことに気づき、そして合唱に入るという設定ですよね。そこは、どもりの側から見れば、とてもおかしいんです。というのは、どもる人が歌ではどもらないというのは、他人から言われて気づくことではなくて、自分がもうすでに子どものころから、熟知していることなんです。

緒方明:歌うときはどもらないというのはおかしいですか。

伊藤伸二:いや、そのことがおかしいのではなくて、どもる人は子どもの頃から、普段はどもるけれど歌ではどもらないことを皆知っています。それを、他人に言われて初めて気づくという設定がおかしいのです。

緒方明:吃音者の日常ではないということですか。
 ところで、15歳ってコミュニケーションとるのがみんな下手だと思うんです。コミュニケーションをとるのがうまいって一体何なんだという気がする。相手の話にうなずいてへえーと言うのがうまいのかといったら、決してそうではないし、自分のことをべらべら喋る奴がうまいのでもないし。コミュニケーションって一体何なのか。ことばが通じなくても、あるいはほかの形でつながれるというか、そのことに対する回答みたいなのを出したかった。

伊藤由美子:中学生で、コミュニケーション上手なんていないと思う。特にあの時代、どこか抑制されているという時代に、コミュニケーションをとることはなかなかできないと思います。かといって今の時代、コミュニケーションが上手かというと、単に仲間に迎合しているということではないか。

緒方明:コミュニケーションってうまい下手の問題じゃないから、昔は下手でもよかったわけだと思う。下手の先に、殴り合いのけんかがあったり、あるいは仲間外れがあったり、それが社会だと思う。今、本屋さんに行ったら、○○とうまくつき合う方法とか、スピーチをうまくしゃべる方法とかあるけど、頭にきますね。別にうまくなくていいじゃん。もっと言えば、分からないけどつながれることはあるわけだし。そこに、合唱という、ひとつの同じ方向を向いて歌うということの意味をみつけたかった。ここに合唱をモチーフに使ったというのがあるんです。

伊藤伸二:この映画のテーマは、少年の成長ということですが、その成長のひとつのポイントはここだなという思いがあるんですけれど、監督としてはどこが彼を成長させたポイントだとお考えになって演出をされましたか。

緒方明:先に言って下さいよ。

伊藤伸二:僕の想像では合唱や歌ではないだろうと思います。それよりも、喋れるはずの康夫がどもる道夫に言った《僕の言葉になって》。あれで初めて彼は、自分が他者から必要とされている人間だと思えた。そして、否応無しに話さなければならないはめになった。僕は芝居の経験があるので多少分かるんですけど、他人の言葉を言う場合には比較的どもらないんですね。自分のことを探り出して言うときはどもるんです。だから、康夫の言葉の代弁者というのは、ある意味では芝居の台詞を言うことと同じです。そんなことを繰り返していく中で、自分は喋っていけるという思いが出てきて、それが彼が成長していくきっかけではなかったかなと僕は見たんですけど。

緒方明:全くそのとおり、おっしゃるとおりです。例えば、現場で子どもたちは、ほとんど素人ですから、俳優としてのいろはが分かってない。態度悪いし、生意気です。アメとムチとか、ムチとムチとかいろいろ使って演出していたけれど、一番彼らがぴっとなったのは、「俺、ずっと見てるからね」という言葉だったんです。ずっと見続けていれば彼らは立ち上がってくる。もっとこうしろ、なんでできないんだ、ということじゃなくて、「俺、ずっと見てるからね。お前の芝居が必要だから見るんだからね」と言うと、子どもは考え始める。必要性で大人になるというか。コミュニケーションって難しいけれど、恐れるものでもないし、なんかへたっぴでいいじゃんというか。
 今日、伊藤さんに言いたかったのは、僕の理想というのは、街には、例えば吃音者であったり障害児であったり、やくざであったり、チンピラであったり、みんないるのが僕の街なんですよ。足の遅い人もいれば、めちゃめちゃ美人もいたり、とかそういうことで都市というか社会は進んでいかないとだめだと思う。多分、70年代以降、何か分からないけど、ふたをし始めました。例えばくみ取り便所が水洗トイレになっていったのは、清潔ですけど、ふたをしたことですよね。地下には糞尿が流れているわけですし。ごみ収集の問題にしても同じ。大人になるって、人間をふたせざるを得ないわけです。15歳の頃は、皮をはいで稲葉の白うさぎ状態です。そこにかさぶたを作っていくことが大人になることですけど、そのかさぶたをもういっぺんひっぺがしてやりたいというのが今回の映画だった。

伊藤伸二:確かにくさいものふたをする、違ったものは見ないふりをする。一般社会では違ったものを認めているような格好はするけれど、実は昔よりもそうじゃない時代だと思えます。どもりが最近減ったんじゃないかと言われることがあるが、発生率が下がったのではなくて、社会の圧力によってどもれなくなっているんじゃないか。昔はもっとどもってもいけたような気がするんです。
 僕らの日本吃音臨床研究会では、どもってもいい、そのままのあなたでいいと、言い続けているんです。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/04/12

どもる少年の映画「独立少年合唱団」

 吃音を扱ったドラマが一時流行ったことがありました。今日、紹介する映画「独立少年合唱団」は、2000年制作のもので、23年も前のものです。監督を交えてのシネマトークも行いました。まず、その特集号の巻頭言から紹介します。巻頭言に続いては、シネマトークの様子を紹介しています。この巻頭言だけでは、分からなかったことが分かると思います。また、《左利き》の話が巻頭言に出てきますが、これも巻頭言に続くページで紹介しています。

  
ああ、独立少年合唱団
                日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 「どどどどもり、どもり、どもり、どもり」
 深夜の寄宿舎にこだまのように響く、どもる少年につきささることば。このいじめ、からかいに耐えられずに少年は寄宿舎を抜け出そうとする。
 この映画の出初めは、吃音の少年がどう描かれていくのか、大きな期待を抱かせるのに充分だ。その後、合唱団に入った少年は成長し、自信を得ていく。そして・・・・少年の吃音は治る。
 緒方明監督の「独立少年合唱団」は、今年のベルリン国際映画祭で新人監督賞を受賞した評判の映画だ。映画大好き人間の私にとっては、映画そのものは素晴らしいと思った。今年の朝日ベストテン映画祭(朝日新聞社他主催)でも、ベストテンの5位にランクされた。
 しかし、吃音という視点からだけ見ると、不満が残った。その不満は、シネマトークの直前に実際に緒方監督と出会って、製作意図の話を聞いて、頂点に達してしまった。シネマトークはどもる人間として発言する立場だけでなく、私は司会をすることになっていた。発言者の役割だけなら、自由に自分の思いをぶつけることならできるが、進行役まで引き受けるとは、急に重いものが胸いっぱいに広がった。
 吃音だけに固執し、吃音の扱いに不満ばかりぶつけても、監督に失礼だし、このシネマトークは、全国ロードショーに先立って開くもので、宣伝の意味合いも濃い。だからと言って、本音は押し込めたくない。自分の中での激しいせめぎ合いの中で、シネマトークは始まった。
 緒方監督は、吃音について深く知れば、映画そのものが吃音に負けてしまうから、あえて、調査をしなかったのだと言う。表現者としては、当然のスタンスなのだろう。しかし、描かれる側のどもる人間としては、主役なのだから、当事者として、もっと調べて欲しかったとの思いは残る。
 しかし、よく考えれば、監督が緻密な取材調査をしたとしても、誰に、どのように取材調査したかが問題になる。吃音の場合、人によりとらえ方、アプローチの方法はかなり違うからだ。
 シネマトークも、深夜にかけての打ち上げ会も穏やかで、楽しいものだった。露骨に自分の思いばかりをぶつけなくてすんだことにほっとした。
 吃音が主人公の映画で私が満足するためには、自分で映画をつくるしかない。35年前セルフヘルプグループを作った頃、様々な夢を抱き、語り合った。専門書をつくる、全国相談会をする、国際大会を開くなど、当時は夢物語のように言われもしたが、そのほとんどが実現している。熱っぽく語りながら実現していないのが唯一、どもる人を主人公にした劇場映画の製作だ。その思い入れが未だに強く残っているために、緒方さんへの的外れの不満となったのだろう。映画作りの夢は、あきらめていたのだが、再び頭をもたげてきた。
 2000年4月、千葉市で2日間行われた吃音を考える会の後で、田原佳子さんが、私になら分かってもらえるのではと、私に話しかけ、《左利き》のご自分の体験を話して下さった。
 《左利き》が何で問題なの?
 20数年前、大阪教育大学の集中講義の合宿で「デブとどもりは悩みとしては等価か?」という話題でかなり盛り上がったことがある。どもりに悩む人は、「デブでもコミュニケーションに支障がないのだから、どもりの方が悩みが深い」という。「デブは死や病気に繋がるから悩みは深い」との意見も。人の悩みはその人固有のもので、他者がそんな事ぐらいでと言うことではない。悩んでいるその人にとっては、とても大きな事柄なのだ。
 吃音が描き切れていないと映画に不満を持った私自身が、田原さんの体験に触れなければ、《左利き》の人の思いを知らなかった。でも、聞いてみれば、ああそうだろうなあと、田原さんが左利きを隠そうとしたあたりは誠によく分かる。
 人間がそれぞれに違うことを常に意識しながらも、自分を語り、他者の話に耳を傾けることで人はつながっていける。他者への想像力、他者への共感、更には当事者に対する謙虚さを、もち続けたいものだとつくづく思う。その一方で、当事者はどんどんと声をあげなければならないとも。
 そういう意味で、どもる人間としての思いをそれなりに話せた、緒方明監督とのシネマトークは大いに意義があったと言うことができるだろう。(「スタタリング・ナウ」2000.12.16 NO.76)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/04/11

2023年度の大阪吃音教室の、いいスタート

 2023年度の大阪吃音教室が、4月7日(金)午後6時45分からスタートしました。
 年度の初めの講座は、毎年、「吃音と上手につきあうために」というタイトルで、この1年間の大阪吃音教室の基本的な背景となるものを、参加者みんなで確認し合います。
 この日、新しく大学生が参加しました。最近、高校生や大学生の参加があり、高齢化してきた平均年齢を少し下げてくれています。こうして、年齢も、職業も、これまで生きてきた背景も違う者が、吃音というひとつの共通項で集まり、ともに話し合うことができることが、大阪吃音教室のおもしろいところです。
 一人一人が少し自分を語る時間が最初にありました。半年ほど参加をしている大学生が、「今、ボランティアをしています」と、短いフレーズで終わろうとするのが気になり、「それじゃ、自分を語ったことにはならない。もう少し、話してごらん」と提案すると、「○○大学○○学部の学生で、講義の延長としてボランティア活動をし始めた・・・・」と、ボランティアをするようになったきっかけ、どんな仕事内容で、そのボランティアをどう思っているのか、など、これまで半年ほど通っていた中で、一言二言しか話さなかった彼が思いがけず、長く話をしました。たくさんの話が聞けました。
 短い単語を並べただけでは分からなかったことが、長い文章にした、まとまった話をしてもらったことで、初めて、その人がどんな人なのか、どんな経験をしてきたのか、どんなことを大切に生きているのか、などが分かってきました。すると、聞いている人たちも、もっと聞いてみたいと思い、質問することができました。
 僕は、これまで、若い人が、ぽつりぽつりと短いことばで、その場を済ませようとしているのが気になっていたのです。その場を済ませよう、その場をやり過ごそうという気持ちはないのかもしれません。謙虚なのか、自分が話すことで、みんなの時間をとってしまうことに申し訳ない気持ちを持っているのか、自分が長く話すことを遠慮しているのか、そもそも長く話すことができないのか、いろんな理由を考えていました。
 今回、思い切って、長い、まとまった話をしてほしいとお願い、提案してみたのですが、それを聞いていた他の大学生二人も、ちゃんと話してくれました。参加していた人たちも、それを真剣に聞いて、レスポンスしていました。
 自分の話を真剣に聞いてくれていることは三人の大学生にもちゃんと伝わったと思います。二人とも、手応えを感じたことでしょう。
 21歳までの僕は、どもることが嫌さに、無口になっていました。まとまった話をしたことがありませんでした。それが、以前、紹介してきた「初恋の人」が真剣に興味をもって聞いてくれたおかげで、それまでの人生で自分が話した量をはるかに超える量の話をしました。そのことで、話すことの喜び、聞いてもらうことの喜びを味わいました。その喜びは、どもる人のセルフヘルプグループの設立につながり、互いの話を尊重してしっかりと聞くという、僕たちの文化が根付きました。僕たちは、その文化をもちながら、これまで、若い人たちが、話を早く終わらせようとしたり、話を端折ったりしてしまいがちになっているのを見過ごしてきたように思い、今回、思い切って、若い人に挑戦してみたのです。
 若い人たちと常に接している高校の教諭の坂本さんからメールがきました。

 「昨日は、これまで参加していた大学生二人がよく話していましたね。特に就活をしている彼に対する印象が、その話によってすっかり変わりました。彼もわれわれの反応に手ごたえを感じたと思います。復学した彼の話もこれからゆっくり聞いていけたらと思います。初参加の大学生も継続してくれればいいなと思います。そうしたなかで、彼が昨日「話せない」と言ったことが語れるようになることもあるでしょう。いいスタート、開講式でした」

 僕も坂本さんに同感で、2023年の大阪吃音教室のいいスタートが切れたと思います。
 今度の金曜日、4月14日の講座は、〈吃音一問一答 どんな質問にも答えます〉です。
 吃音について、どもる自分について、疑問に思うこと、質問したいこと、知りたいこと、何でも、どんな質問にも、僕なりに答える企画です。これまでたくさんのどもる人、どもる子どもたちに出会ってきた僕が、自分のことも含めて、質問に答えていく大阪吃音教室です。参加をお待ちしています。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/04/10

賢い患者に

 小学館発行の雑誌『だいじょうぶ』の中に、《賢い患者になりませんか?》と名付けられたコーナーがありました。2000年11月号に掲載された相談と、それに対する、僕が書いた回答を紹介します。吃音が患者扱いされているのは問題ですが、《賢い》ということばに、全くそのとおりだと思います。インターネットでたくさんの情報を得ることができる今、何が本当か見極める賢さが求められていると思います。
「スタタリング・ナウ」2000.11 NO.75に掲載されていた記事を紹介します。

賢い患者になりませんか?
    『だいじょうぶ』(小学館)2000年11月号

【今月の相談】
吃音が治らない小学生の息子。どう接したらいいですか。

小学館だいじょうぶ 小学校4年生になる息子の吃音が治りません。つっかえても言い直しはさせず、あまり神経質にならないよう育ててきたつもりですが、最近は本人も気にしているようです。今後、どう接するべきでしょうか。(東京都 34歳 主婦)

【回答】
大切なのは吃音を受け入れること。「どもってもいい」と思える援助を。

 「どもり」の多くは2歳前後で始まります。環境の変化などでいくつかきっかけはあるようですが、原因はわかっていません。このうち、成長とともに消えるのは40〜50%くらい。小学校4〜5年で続いている場合、完全に治るのは難しいと考えたほうがいいようです。
 となると、この時点から、大切になるのは「どもってもいい」「このままの自分でいい」と本人自身が思えること。どもる事実を受け入れ、どう上手につきあっていくかが課題です。
 むろん、これは楽ではありません。しかし、本人がどもりを意識し始めたのはむしろいいチャンス。どもるという「事実」にフタをするのではなく、正面から向き合うことが大切なのです。それは家族も同じでしょう。
 役立つのは、どもりながらもごく普通に生きている先輩たちの存在でしょう。たとえば、私たちは年に1回、吃音親子サマーキャンプを実施しています。そこでは大人もどもりながらキャンプ運営をしています。どもりながらも明るく、ごく普通に生きている高校生もたくさんいます。
「あの人も、どもってはったなあ…。僕、どもっていいんか」
「ええんやで、どもっても」
 そんな親子の会話もたくさん交わされています。
 どもる状態に注目し、それを治そうとすることは、その子自身を否定することにもなりかねません。どもりを認め、受容すること、まずはそれが重要です。
 親子でオープンに「どもり」について語り合ってみる、そんなことから少しずつ始めてみては、いかがでしょうか。

●今月の回答/日本吃音臨床研究会
吃音児・者と家族、研究者や臨床家の集まり。会報、本の出版、サマーキャンプやワークショップの開催など多彩な活動を展開。役立つガイドブック『吃音と上手につきあうための吃音相談室』(芳賀書店)も発売中。
(「スタタリング・ナウ」2000.11 NO.75)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/04/09
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