伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2022年11月

1998年の吃音ショートコース〜贅沢な二人ゲスト 谷川俊太郎さん・竹内敏晴さん

 1998年の吃音ショートコースは、どもる人よりどもらない人の方が多かったワークショップでした。吃音を考えることは、人間の普遍的な問題とつながっているということの現れだということでしょう。この吃音ショートコースを、長いつきあいになる山口県の上田敬介さんが、報告してくださっています。

  
素晴らしかった3日間
                    山口県身体障害者福祉センター 上田敬介

 第1回の吃音ショートコース以来の、久しぶりの吃音ショートコースの参加だ。
 竹内敏晴さんの著書には谷川さんの詩が多く使われているので、今回のお二人の参加が楽しみだった。お二人のレッスン、トーク、詩のライブだけでなく、3日間のすべてが楽しく、私の仕事やこれからの生活に役立つことばかりだった。
 なぜこんなにわくわくできた3日間だったのか、プログラムにより自分なりに振り返ってみた。

1日目
《出会いの広場》
 ことばの教室の木全さんのユーモアあふれるリードによるゲームですっかり肩の力を抜くことができ、初対面の人たちと気楽に話すことができた。
《臨床家のための講座》
 伊藤伸二さんのリードで、吃音親子サマーキャンプの事例を聞かせてもらい、女性教師の多数参加者や発言に圧倒されながら、吃音を意識しはじめた子どもに対しての向き合う態度、指導法などいろいろなことがたっぷり話し合われた。
 そして、自由参加のコミュニティアワーでは、深夜のロビーで思わず話し込んでしまい、時の経つのを忘れていた。
2日目
《発表の広場》
 山形市から参加の今野さんの中学校の教師の不当な扱いの発表を聞きながら、中学校の国語教員であった者の一人として「堪忍な」と心中で陳謝し、曽我部さんのことば「どもりと漫才は喋ってなんぼ」、斎さんの「人の話を聞き自分を見つめ直す」など日頃忘れている大切なことを思い出させてもらった。
 吃音親子サマーキャンプ活動報告や木全さんの吃音の双子を事例にしたことばの教室での実践発表は、ことばの教室の臨床に役に立つ知恵や情報にあふれていた。
 どもる子どもの母親の体験発表の岡本さん(現在中学1年生男子の母)は、初参加の若い母親の訴えに、もらい泣きしたままマイクに向かった。そのために準備してきたものが言い切れなかったそうだが、心からの話は胸を打った。
 発表の広場は、それぞれが個性的で素晴らしく、あっという間に過ぎてしまった。
《日本語のレッスン》
 竹内敏晴さんのレッスンには谷川俊太郎さんも参加されて、皆と一緒にからだをほぐしたり、声を出したりされていた。谷川さん作詞の「鉄腕アトム」を歌うことから始まり、その作詞のエピソードを谷川さんが話して下さるなど、なんとも贅沢なレッスンだった。
 二人組みになったり、輪になったり、四つん這いになったりしてからだを柔らかくしたり「ラララアー」と発声したり、谷川さんの「ののはな」「かっぱ」「いるか」「スキャットまで」「生きる」などを使った大変役に立つレッスンで、竹内さんが猫と猿の動作をされたときのからだのしなやかさと観察力の鋭さには頭が下がった。
《谷川俊太郎詩と人生を語る》
 大阪吃音教室の若い男女ペアが温かい人柄をにじませながら、詩人・谷川俊太郎さんに迫っていく。幼少時のこと、学童期のこと、親子関係、性格、作詞、吃音についてなどをアンケートのように発問し、それに対して谷川さんが歯切れよく、ユーモアを交えて応答する実に楽しいひとときだった。同感し、印象に残った谷川さんのことばを列挙してみる。
・集中とは意識を深めることで一生懸命とは違う。
・父、徹三の吃音をキュートに感じた。
・詩は蒸留水みたいなもので、日常使わない言葉。
・私は老年期反省症候群。
・けんかや暴力は嫌い。
・吃音は人となりの一部でその人の話し方。
・詩は分からなくてよい、味わえばよい。
・魂には肉体的な概念が含まれる。
3日目
《対談・表現としてのことば》
 この日も昨日と同様に前の席から埋まるといううれしい現象でした。伊藤伸二さんの司会による竹内敏晴さんと谷川俊太郎さんの対談は、テーマにふさわしい内容で、ことばの本質を楽しく分かりやすく教示していただけたような気がした。断片的に耳底に残ったことばを列挙してみる。
・男は矛盾で生き、女は矛盾を嫌う。
・サロン的言語と公的言語。
・聞き手に徹する。
・黙っていてよい場の設定。
・からだとことばの関係。
・緘黙はことばをからだで拒否する。
・西行法師と真言一歌を作るのと仏像を作るのは同じ。
・文学言語には情報伝達と感情伝達がある。
・詩は、意識を取り去り、ニュートラルになったときに生まれる。
・Aは白、明日はAが黒になるのが詩的言語。
・カメレオンマン・ノーセルフ・管になる。
・子どもの指導は自己表現を散文ルールでしつけるため祝い悔やみ、道順などで。
・悪口、俳句、短歌、暗唱などで楽しく作詞を。
《谷川俊太郎・詩のライブ》
 前座は多い方がいいとの谷川さんのことばに乗せられて、次々に自作の詩や、即興の詩が読まれる。谷川さんの「生きる」をもじっての、大阪吃音教室のメンバーの「どもるということ」には、谷川さんも思わず笑いながら拍手。その他、埼玉のことばの教室の高橋さんが谷川さんの詩に曲をつけて唄ったり、前座も大いに盛り上がった後、いよいよ谷川さん自作の詩の朗読。
息子さんと共演する時の詩をうたったり、参加者が希望したたくさんの詩にコメントをつけながら朗読していただき素晴らしい詩のライブだった。
 私も、前日から迷ったあげく思い切ってリクエストとして出した「母を売りに」の詩は、自分自身の亡母に対する慕情がストレートに表現されていて大好きな詩で、作者に朗読していただけて嬉しかった。
 竹内敏晴さんの本、谷川俊太郎さんの本をもっていたので、4冊もサインしていただいた。うれしい自分へのおみやげとなった。
 帰途、京都駅まで数人の女性参加者と一緒だったが、3日間の素晴らしかったことと、仕事にも打ち込める元気が湧いてきた話などで話が弾み、思わず来年の再会を約束してしまった。
 同室になった高校の先生、お二人の学生さんにお世話になり、この久しぶりに楽しく有意義な研修会に参加できたことを、幸せに思った。
 世話役の人たちが楽しそうに動き、竹内敏晴さん、谷川俊太郎さんがとても楽しそうに、リラックスしておられ、それが、参加者の皆に乗り移ったかのような、3日間でした。これが吃音ショートコースのよさなのだろう。
 来年も参加しなければ損だと思った。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/11/10

「生きる」と「どもる」

 1998年の吃音ショートコースの最終日、最後のプログラムは、谷川俊太郎さんの詩のライブでした。谷川さんのおしゃべりと詩の朗読をたっぷり2時間。参加者のリクエストにもこたえて、詩を次々に読んでいただきました。満ち足りた時間でした。その前座として、谷川さんの詩『生きる』をもじって、成人のどもる人5人が『どもる』という詩をその場で即興で作ったものを発表しました。谷川さんは「立派な替え歌だ」とほめてくださいました。2つを並べて紹介します。


  
生きる
                 谷川俊太郎
生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみすること
あなたと手をつなぐこと

生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと

生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ

生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまが過ぎていくこと

生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ


  どもる
どもるということ
いまどもるということ
それはのどがかわくということ
まわりの目がまぶしいということ
ふっと嫌なできごとを思い出すということ
まばたきすること
一人で手をふること

どもるということ
いまどもるということ
それは自己紹介
それはデートの誘い
それは羽仁進
それはマリリン・モンロー
それは谷川徹三
すべての個性的なものに出会うということ
そして
効率優先の現代社会を注意深くこばむこと

どもるということ
いまどもるということ
つまるということ
かくすということ
にげるということ
不自由ということ

どもるということ
いまどもるということ
いまハンドルを切りそこねるということ
いま切符を買えず遠くへ行けないということ
いま衆人の注目をあびるということ
いまとっさに言い訳ができないということ
いまいたずら電話と間違えられるということ
いまいまが過ぎていくこと

どもるということ
いまどもるということ
人は注目するということ
人は笑うということ
雰囲気がなごむということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/11/09

内的などもり

 「スタタリング・ナウ」NO.51(1998.11.19)の巻頭言を紹介しました。
 その号の特集は、その年の9月に開催した吃音ショートコースでした。ゲストは、詩人の谷川俊太郎さんと、演出家の竹内敏晴さんでした。テーマは、《表現としてのことば》。楽しかったなあと、今でも思い出します。終わった後、谷川さんからいただいた私たちへのメッセージを紹介します。谷川俊太郎さんのお父さんの谷川徹三さんは、僕たちと同じように、どもる人でした。

'98吃音ショートコース 表現としてのことば
1998.9.12〜14  奈良県桜井市・『大和路』
特別ゲスト 
  詩人・谷川俊太郎さん
  演出家・竹内敏晴さん

年報用 竹内写真2  98ショートコース 谷川と 4回目となる'98吃音ショートコースは、《表現としてのことば》をテーマに、特別ゲストに、詩人の谷川俊太郎さんと演出家の竹内敏晴さんをお迎えし、100人を越える参加者と共に、3日間、笑い声が溢れる温かい雰囲気の中、行われました。
 昨年のショートコースでは、どもる人とどもらない人がほぼ半数ずつでしたが、今年はとうとうどもらない人の方が多くなりました。成人吃音者だけでなく、ことばの教室の担当者をはじめ、スピーチセラピストの方、どもる子どもをもつ親、吃音問題やコミュニケーションに関心を持つ方など、幅広い方々と、楽しく満ち足りた時間を過ごせたこと、大変うれしく思っています。
 吃音ショートコースの帰り、厚かましくも谷川さんにお願いした私たちへのメッセージが早速届きました。《内的などもり》と題されたこの文章、吃音ショートコースでの、あの谷川さんのすてきな笑顔を思い出しながら、読んでいます。

    内的などもり
                          詩人・谷川俊太郎
 父がどもりだったので、吃音に私は違和感なく育ちました。父は大学教師でしたが、講義や講演などはどもらずにしていたようです。しかしうちではときにどもることがあって、ふだんは少々もったいぶって喋る美男子の父がどもると、私はどこか安心したものでした。英国の上流階級の喋り方を映画などで聞くと、ときどきどもっているように聞こえますが、あれは一種の気取りでしょう。どもることで誠実さを仮装する習慣のようにも思えます。
 どもるとき、父の言葉はどもらないときよりも、感情がこもっているように聞こえましたが、それはどもらない人間の錯覚かもしれません。しかし私にはあまりになめらかに喋る人に対する不信感があるのも事実で、これは自分自身に対する疑いと切り離せません。私もいわゆるsmooth-tonguedの一人なのです。
 でも私だって自分の気持ちの中では、しょっちゅうどもっています。それは生理的なものではないので、吃音とは違うものですが、考えや感じは、内的などもりなしでは言葉にならないと私は思っています。言葉にならない意識下のもやもやは、行ったり来たりしながら、ゴツゴツと現実にぶつかりながら、少しずつ言葉になって行くものではないでしょうか。
 そうだとすれば、どもりではない人々と、どもる人々との間には、そんなに大きな隔たりがあるとも思えません。せっかちに聞くのではなく、ゆっくり時間をかけて聞けば、吃音は大きな問題ではないはずです。ビジネスの多忙な会話の世界ではハンディになることが、人と人の気持ちの交流の場ではかえって有利に働くこともあると思います。こんなせわしない時代であるからこそ、話すにも聞くにも、ゆったりした時間がほしい。
 先日、日本吃音臨床研究会の活動の一端に触れて、私は言葉についての自分の考えを訂正する必要がないことを確認できましたが、それが吃音のかかえる苦しみや悩みを軽視することにはならないと信じています。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/11/08

根っこの部分である「生きる」こと

 島根スタタリングフォーラムの後、せっかく車で島根に行ったので、萩、津和野を回り、関門海峡を越えて小倉にも足を延ばしました。萩、津和野は初めて訪れる町でした。穏やかな秋晴れの中、落ち着いた町並みをのんびりと歩きました。
 小倉へ行ったのは、僕が大阪教育大学を辞めてカレー専門店「タゴール」を開くため通った辻調理師学校で一緒だった森田順夫さんのお寿司屋「寿司 もり田」に、久しぶりに行きたいと思ったからです。調理師学校には若い人が多いのですが、森田さんと僕と、後何人かの年配者がいて、同志のような気分になり、仲がよかったのです。一緒に香港の満漢全席にも行きました。調理師学校を卒業してから「寿司 もり田」を開店されました。
 2014年に訪れて以来の久しぶりの訪問でした。お元気かなと思いながら、電話で予約したのですが、今年の3月に亡くなられたとのこと。森田さんに握ってはもらえないけれど、あのカウンターに座るのを楽しみにしていました。お連れ合いに会うことができ、元気だったころの写真をみせていただき、調理師学校時代の思い出話もできました。森田さんが作り上げた丁寧な仕事は息子さんに受け継がれていました。
 あるネット情報ではこう書かれていました。
 「日本一の鮨屋は小倉にある。福岡に来るなら、しかも小倉に用事があるなら寿司を食べてもらいたい。この小倉には天寿しという日本中からその道のプロも寿司を食べにくる超有名店がある。もちろん予約は取れるはずもなく、電話してみたがやはり満席。そしてもう1店、天寿しの先代を師匠に修業された方が「もり田」という店を開かれていて、大将は80歳を超えても現役でこちらも数か月先まで予約が取れない」
 森田さんの寿司屋は、知る人ぞ知る天下の名店になっていました。うれしいことです。

 大阪に帰ってきてから、今月号の「スタタリング・ナウ」の編集に取りかかっています。ということで、ブログをしばらく休んでいましたが、再開します。以前の「スタタリング・ナウ」の紹介です。
 今日は、1998年11月19日発行の「スタタリング・ナウ」NO.51の巻頭言を紹介します。

  
生きる
                    日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 ―土をつかんではなさぬ根と、風にたえて風をきって突っ立つ幹が、花の中の花を咲かせるのだ―

 これは、夏に東京、秋に名古屋で私が舞台に立った、秋浜悟史作「ほらんばか」の主人公のセリフの中で一番好きなセリフだ。

 吃音については、さまざまな考えや実践があるが、ちょっと聞いただけでは双方に大きな違いがないように思えるのか、結局基本的には同じではないかと言われることがある。
 土から出ている花は同じように見えても、土をつかんではなさない根っこの部分では本当は随分違うと思うのだが、花は見えても、土の中の根っこはなかなか見えにくい。その根っこに、少しでも吃音を否定する匂いをかぐと、私は身を固めてしまう。吃音を否定して生きることがどんなに辛いことかが、からだにしみているからだ。
 《吃音受容》《吃音との直面》《どもっても言いたいことを言う》など、私たちが言うのと同じようなニュアンスで言われていても、根の部分は随分と違う場合がある。そのことは、インターネットで交わした海外のセルフヘルプグループとの議論でよく分かった。
 違いをはっきりと認識し、その違いを明らかにするのは、ある意味で勇気がいり、エネルギーを必要とする。同じだと思えば摩擦が少なく楽なのだが、前進がない。違うものが、互いがしっかりと根を降ろしてこそ、きちんと向き合え、何かが探れ、何かが生まれるのだと思う。この秋、4つの対談やシンポジウムに出てそう思った。
 吃音ショートコースでは、谷川俊太郎さん、竹内敏晴さんの対談の司会をしたが、全く違う二つの花が、互いにしっかりと根を降ろし、向き合っている趣があって心地良かった。
 また、吃音に悩み、ことばに恨みをもつ私たちが、《ことばの人》と言われ、ことばを生業とする谷川俊太郎さんに、正面からぶつかっていけたのも、私たちなりのしっかりとした根を張っているとの確信があるからだ。
 だから、谷川さんが、私たちとの2日間の出会いの中で感じたことをこう書いて下さったのだと思う。

 「日本吃音臨床研究会の活動の一端に触れて、私は言葉についての自分の考えを訂正する必要がないことを確認できましたが、それが吃音のかかえる苦しみや悩みを軽視することにはならないと信じています」

 吃音ショートコースの翌日、日本特殊教育学会の自主シンポジウムの席にいた。ことばの教室の担当者とのディスカッションだが、まるっきり見当違いの、頑なな主張をしない限り、結局は同じようなことを言っていると思われてしまう。根っこの部分では、かなり違うと私には思えたのだが。
 11月初め青森で開かれた、日本デザイン会議は「異話感・・」をメインタイトルに、50に近いシンポジウムが組まれた。私は、劇作家・演出家の鴻上尚史さんがコーディネートした《表現・からだ・癒し》のシンポジウムに出た。鴻上さんと野口体操の羽鳥操さん、新進女優の上野可奈子さんと、全く違う4人だが、あのチームワーク、楽しさは何だったのかと後で話し合うほどに話が弾んで楽しかった。深い根っこの、生きるという部分で、共通するものがたくさんあったからだろう。
 その1週間後、「それぞれの歩き方」の中のシンポジウム「セルフヘルプ・グループって何?」
では、口唇口蓋裂児とともに歩む会の中田智恵海さんの司会で、インターセックス(半陰陽)の人たちのグループを日本で初めて作った橋本秀雄さんと対談をした。お互いの体験は全く違うのだが、参加者の発言を含めて、「それは普遍的な事だ」と認識したことが少なくなかった。
 「結局は同じようだ」が、とても納得できるときと、そうではないときがある。この違いは、根っこの部分に共感できるものがあるかどうかの違いなのだろう。その根っこの部分とは「生きる」ということなのだと思う。(1998.11.19「スタタリング・ナウ」NO.51)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/11/06

島根スタタリングフォーラムで食べたお弁当の話

 第24回目となった今年の島根スタタリングフォーラム。当初、予定していた会場がコロナの関係で使えなくなり、急遽会場を変更。そのために1泊2日を1日だけの日帰りにしなければならなくなりました。初め、リモートでの参加も計画されていたのですが、僕たちが吃音親子サマーキャンプを対面で開催したと聞いて、それならばと、対面での開催を決定してくださるなど、柔軟に対応し、なんとか開催にこぎつけました。
 そうして、全ての準備をしていた実行委員長から、大阪を出発する前日に、家族がコロナに感染したために、本人が参加できなくなったと電話がありました。でも、他のスタッフの方が力を合わせて、無事に開催することができ、無事終わりました。
出会いの広場は、いつも担当している流水さんが、テンポ良く参加者をリードしていきます。ポンポンポンという3つの手拍子がリズムを作り、いつのまにかみんなが笑いの中でリラックスしていくのが分かりました。見事です。流水さんのマジックを見ているようでした。
 その後は、親と子どもに分かれ、僕は、親グループを担当しました。参加者に質問を書いてもらい、それに答えることから始めました。一方的に話すと、どうしても、参加者が持っていた「これが聞きたかったのに…」に答えられない可能性が出てきます。そうならないよう、聞きたかったことには全てお答えしたいと思って、最近は、どこの会場でもこんな形をとっています。1時間の枠内では収まらず、質問に答えるコーナーは、午後に続きました。
 昼食後、午後は質問の続きに答えて、その後は、「どもる子どもが、幸せに生きるために」のタイトルで話をしました。「幸せに生きる」が、今年の僕のテーマになっています。
 昼食は、お弁当でした。普通のお弁当のようですが、プラスチックの蓋の上に、一枚の紙がはさまれていました。そこに書かれていたことばを紹介します。

島根スタタリングフォーラム参加者のみなさまへ
 今年もみなさんと逢えましたね
  新たな出会いも加わり
   今日一日がみなさまにとって
    実りある良い一日になりますように

「悩み」は、いずれ「思い出」に変わり、
「涙」は、いずれ「経験」に変わる。
「キズ」は、いずれ「キズキ」に変わり、
「出逢い」は、いずれ「絆」に変わる。
「育児」は、いずれ「育自」に変わり、
「苦労」は、いずれ「感謝」に変わる。
「試練」は、いずれ「宝物」に変わり、
「哀」は、いずれ「愛」に変わる。
フォーラム弁当
 島根スタタリングフォーラム参加者のみなさまへ、という書き出しに、おやっと思いました。フォーラムの最後に、急遽、実行委員長の代役を務めた人が、お弁当について話をしてくれました。
 当日、参加できなくなった実行委員長が、お弁当を注文したときに、島根スタタリングフォーラムについて、お弁当やさんに話をしたそうです。どんな子どもたちや保護者、スタッフが集まるのか、どんな思いで集まってくるのか、どんなことを目指そうとしているのか、そこでの出逢いが参加者にどんなことをもたらすのか、きっと、そんなことを語ったのでしょう。その話を聞いたお弁当やさんが、話からヒントを得て、ことばを書いてくれたのだそうです。こんな粋なことをするお弁当やさんもおられるのかと、うれしくなりました。島根スタタリングフォーラムのことは、もう少し書きます。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/11/01
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