伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2022年10月

映画に描かれた吃音 2

 昨日の続きです。古い映画なので、今は観ることができないのが残念です。レンタルビデオにあるかもしれません。もし、チャンスがあれば、ご覧ください。僕が言友会を創立した年、1965年から、テレビドラマに「ども安」がありました。砂塚秀夫が主演で、よく覚えています。インターネットで調べると作品が次のように紹介されていました。 
 「幕末の甲州一円に「武居のども安、鬼より怖い。ドドッとどもれば人を斬る」と恐れられた喧嘩っ早くてお人好しの実在の親分「武居のども安」こと中村安五郎や弟分・勝蔵の青年時代を描いた痛快遊侠伝シリーズ」
 「ドドッとどもれば人を斬る」がスタートでした。「どもり」だけでなく、「どもる」すらあまり使わなくなった窮屈な今と違って、おおらかな時代だったのですね。その「ども安」について、喜田さんは『次郎長富士』で紹介しています。
 長いつき合いだった、喜田さんのことについては、今回で終わりです。それにしてもよく、ここまで吃音に関する映画を観て、コメントを記録していたと脱帽です。

『次郎長富士』 1959年 監督:森一生
 やくざ映画に必ず出て来る敵役(かたきやく)が、武井の安五郎です。映画の中では『ども安』と呼ばれています。『ども安』は、清水の次郎長が両手をつき、丁重に頭を下げて挨拶していても、売れない新米セールスマンが来たように、さんざん愚弄します。
 セールスマンなら、どんなに相手から愚弄されても、怒ってはいけないのです。一度でも感情的になろうものなら、もうセールスマン失格です。
 でも清水の次郎長は『ども安』から愚弄されるとサッと立ち上がり、ども安と黒駒の勝藏が楽しんでいる碁盤をひっくり返します。
 それ以後も、無法な横車を押し通す『ども安』は、とうとう次郎長一家に切り殺されてしまいます。
 『ども安』だって、青年時代には『どもり、どもり』と、人々から愚弄されていた筈です。自分が出世して親分になれば、かけ出しの清水の次郎長を頭から愚弄してはいけないのです。


『五番町夕霧楼』 1963年 監督:田坂具隆
 金閣寺・放火事件を『五番町夕霧楼』は『炎上』とは全く違った角度から表現しました。映画全体の半分も進んでから、ようやく吃音修業僧が現れます。
 『炎上』の修業僧が、たった一回、娼婦を買いました。それなのに娼婦に来ている英語の手紙を娼婦に分かるように読んであげただけで帰り、二度と娼婦には会いません。
 『五番町夕霧楼』の吃音修業僧は、たびたび娼婦を買います。彼が少年時代に過ごした海辺の村で、将来を誓った幼馴染みの夕子が、結核の母の医療費を作るために人身売買されて『五番町夕霧楼』の娼婦になったからです。
 太平洋戦争前後の日本の貧困家庭で一人の結核患者が出れば、子どもを売るより他に医療費が作れなかったのです。
 夕子を連れてきた親が「この子を娼婦として京都へ連れていって下さい」と頼みました。貧困、低学歴の泥沼の中に生まれた夕子には娼婦以外に就職の選択は許されないのです。母のために娼婦に売られた夕子は、つらかったけれども、恋人櫟田(くぬぎだ)の住む京都に行ける事は、心の中に秘められた楽しみでした。京都に来てから、時々、櫟田が夕霧楼に来てくれるのも夕子の秘められた楽しみでした。しかし夕子自身も母の結核が感染しました。そのころの日本では結核が死亡率第一位の不治の病でした。
 金閣寺の住職にも、徒弟僧(とていそう)櫟田が娼婦買いをしていると密告する呉服商人があり、処罰された櫟田は娼婦買いが厳禁され、二人は全く会う事が出来なくなりました。
 夕子が娼婦に身を落とした悲しみには耐えられた櫟田も、夕子が不治の病に倒れた悲しみには耐えられなかったのです。生きる望みを失くした櫟田は金閣寺に放火して自殺しました。
 遅かれ早かれ自分も結核で死ぬ身ならば、夕子は一刻も早く櫟田の所へ行きたいです。夕子は幼なかりし日々、二人が一緒に歌を歌った海辺の「さるすべり」の花の下まで帰って来て、櫟田の後を追いました。
 『五番町夕霧楼』の場合、貧困、低学歴、人身売買、結核、不治の病など、個人の努力では解決できない『吃音』以上の重荷を引きずりながら支え合って生きている若い二人に、人生の先輩が、あまりにも無慈悲でした。密告があったとは言え、金閣寺の住職には吃音であっても真面目な徒弟僧に、即刻『不良』との烙印を押さず、せめて一言、櫟田本人の声を聞く配慮が欲しかったです。


『書を捨てよ街に出よう』 1971年 監督:寺山修司
 映画の中で『吃音治します』と言うポスターが登場します。
 言語治療士が吃音を治す病院を新しく開いたのでしようか。
 高松では見た事もないポスターです。繰り返し繰り返し登場した『吃音治します』のポスターが、やたらと目立ちました。


『ねむの木の詩』 1974年 監督:宮城まり子
 子どもの施設での運動会の開会式で、選手宣誓をするのが、吃音の女の子です。どうしても言葉が出ません。大勢の前で女の子はシクシク泣き出します。横に来た先生は、いろいろに励まします。
 先生の励ましで、言葉につまりながら最後まで選手宣誓が言えた女の子に、ようやく笑顔が戻りました。


『柳生一族の陰謀』 1978年 監督:深作欣二
 …こんな馬鹿な事があり得よう筈は御座らぬ。かかる悪夢に惑わされて、うろたえるではない。これは夢だ。夢だ。夢で御座る…
 『柳生一族の陰謀』の大詰めで、中村錦之助演じる柳生(やぎゅう)但馬守(たじまのかみ)が絶叫しながら胸に抱いているのが、たった今、切られたばかりの徳川家光の首です。この家光が吃音でした。
 家光は生まれながらにして将軍の長男です。庶民がどんなに努力しても夢にも望めない最高の地位です。
 放って置いても将軍になれるのが約束されている家光なのに、吃音のため父秀忠に疎外され、父秀忠は溺愛している次男政之を将軍にしようと画策していました。それを察知した家光の側近、柳生但馬守が秀忠も政之も謀殺しました。
 さらに柳生但馬守は、おじけついている家光に意見します。
 『あなたが将軍の器(うつわ)です。将軍になるためには佛でも親でも殺すのです』
 権力者の世界では、こんな無法な倫理が通ります。少なくとも父秀忠が、吃音の家光も、吃音でない政之も同じように可愛がっていたら、好臣(かんしん)・柳生但馬守に将軍一家が乗ぜられる隙もなかったでしょう。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/10/31

映画に描かれた吃音

 喜田清さんの紹介と、喜田さんの講演について書かれた文章を紹介しました。今日は、喜田さんが活動されていたユーテ・サークルのニュースレターに掲載されていた「映画に描かれた吃音」を転載します。
 吃音に悩み、苦しんでいた頃、僕の唯一の救いは、映画と本でした。映画館にいるときだけが心安らぐ場所でした。たくさんの映画を観て、僕は、人にはいろいろな人生があることを知りました。つらいことがあっても、人は自分の人生を生きていくものだと教えられました。映画のもつ力を信じています。喜田さんは僕以上に映画を観ていた人かもしれません。喜田さんから観たどもる人が出てきた映画の紹介です。

  
映画に描かれた吃音
                               喜田清(高松市)

 ユーテサークルの初期に「僕の吃音を治して!!」と、大勢が訪ねて来ました。どっちを向いても錆びた鉄ばかりの世界で30年働いただけの私が、かりそめにも人様の吃音を治しますと言えば、『無資格者の不法医療行為』です。ただ私も激しい吃音症状に苦しんだ一人ですから、ユーテを頼ってきたひとりひとりに、今の困難な状況から、一歩でも抜け出す方法を一緒に考えて来ました。
 しかし皆様の要望に対して、私はあまりにも無力でした。あるいは時代や国境を隔てていても、映画に描かれた多くの吃音者の人生の中に、苦しい吃音から脱出する手がかりが、たとえ砂一粒でも見つけられないでしょうか。


『清水港』 1939年 監督:マキノ正博
 どんなに激しい吃音者であっても、歌う時は、どもりません。
 私の鉄工所の経験から言っても、吃音でない人だって重たい鉄を持ち上げて顔を真っ赤にしていれば、激しくどもっています。
 『清水港』では沢村国太郎の演じるやくざが、吃音です。彼がどもれば観客は爆笑しますが、吃音やくざには、生きるも死ぬも一緒だと言う親友がいます。彼が、どもってどもって、どうしても言葉が言えない時に、片岡千恵藏の演じる親友が、吃音やくざの肩をトントンと叩いて言います。
 「シャン、シャンだよ」
 「よし!!わかった!!」
と言うような表情で吃音やくざの言葉が浪曲調になります。もうどもりません。後述する映画『炎上』でも、吃音の僧侶が、お経をあげる時にはどもりません。
 いずれにしても、吃音であろうと無かろうと、親友とは良いものです。


『心の旅路』 1942年 監督:マーヴィン・ルロイ
 映画の始まりから吃音者が登場します。
 『お…お…お父…さん』『お』の一言を発音するのに、聞く側は長く待たされます。
 英国の地方都市メルブリッチの精神病院です。彼は、ドイツ軍との激しい白兵戦で、瀕死の重傷を負って倒れました。気がついた時には今までの記憶をすっかり失くしてしまいました。
 自分の名前も分かりません。仮の名前をスミティと呼びます。
 精神病院には、戦争で行方不明になった我が子を探している親が、萬一を期待して病院に来て、記憶喪失(きおくそうしつ)患者と対面してくれます。スミティは、今度こそ面会に来た人が実のお父さんであって欲しいと願っています。
 『お…お…お父…さん』そう言っているのは、表情と身ぶりだけです。相手も失望の表情だけで部屋を去ります。
 ドイツが降伏した夜は、霧が深いメルブリッチでも戦勝祝いで賑やかです。浮かれた病院の守衛は、門に鍵をかけるのも忘れて、戦勝祝いの町に飛び込んで行きました。スミティも、開いていた門から戦勝祝いの夜霧の町に入って行きました。
 「僕は精神病じゃないんだ」独り言なら全くどもらず話せるスミティなのに、煙草屋へ入って「何を差し上げましょうか」と店の婦人に聞かれたら、もう駄目です。
 「煙草…」と一語を言うのに、口は歪み手はワナワナ震えます。吃音者の随伴運動です。「どの煙草ですか」またスミティは激しい随伴運動ばかり繰り返して、もう一語も言えません。
 この煙草屋で出会った踊り子ポーラが、深くスミティを愛してくれて、スミティの吃音症状は、ずいぶん軽くなりました。
 彼の吃音が完全に消えたのは、彼が交通事故に遭って、再び瀕死の重傷を負い気を失って倒れて、気がついた時です。記憶を喪失する前の自分もチャールス・レーニャと分かり、今までとは、まるで違った大雄弁家です。その代わり、精神病院の記憶も踊り子ポーラの献身的な愛の思い出も、すっかり喪失しました。そうした精神医学の領域になれば、私には、よく分かりません。ただ言えるのは、吃音者は独り言なら全くどもらず、煙草屋へ入って人と会話になれば、とたんに口は貝のように固くなります。私も全く同じです。


『炎上』 1958年 監督:市川崑
 太平洋戦争の日本敗北直後、修業中の青年僧が金閣寺に放火して炎上・壊滅させてしまいました。
 国賊だと罵られた犯人は吃音です。空襲警報が鳴り響いても、防空壕に逃げないで、ひたすら金閣・寺の床を磨いていた修業僧が、空襲警報のサイレンが鳴らなくなった戦後になって、金閣寺に放火しました。吃音修業僧の気持ちが痛ましいです。
 父親に死なれて無一文になった彼ですが、亡父の遺徳で金閣寺の僧侶が学資を無償援助してくれて佛教大学に行き、一途道を求めていました。でも友人が居ないのです。
 同じように道を求める学生が佛教大学に溢れるほど居るのに、誰も吃音の彼と話しかけようとしません。吃音の彼も大学の学生に人間関係を開拓しようともしません。
 ただ一人、足の不自由な学生だけ、彼は友人になって貰おうと、どもりながら一生懸命に話しかけました。『授業で分からなかった所を教えてほしい』とは嘘で、友人がほしいのです。
 吃音者にとって足の不自由な学生だから話し易かったのです。
 残念なのは、友人を求めるためにどもりながら人に話しかける努力を、足の不自由な学生一人で止めてしまった事です。どもりながら人に話しかける努力を、もっと多くの学生の中に実践して行ったならば、新しい光明の世界が広がったのではなかったでしょうか。

『裸の大将』 1958年 監督:堀川弘通
 山下清も吃音で、数学が全く出来ません。汽車の窓越しに駅弁を渡したお客さんが札を見せてくれると、いつまでも計算しています。とうとうお客さんが駅弁と札を持ったまま、汽車は出て行ってしまいます。山下清の無名時代は太平洋戦争の最中でした。戦争の役に立たない山下清は、何の仕事も出来ない無能人間と言われた山下清は、あてもない放浪の旅に出ました。着のみ着のままの服がだんだん破れて、裸同然になりました。こんな裸の旅の中から、山下清は絵の豊かな才能を花のように咲かせていきました。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/10/30

ユーテ・サークルの喜田清さんの講演

 今、島根県に来ています。3年ぶりに対面で、島根スタタリングフォーラムが開催されました。今年で24回目を迎えるフォーラムは、僕が行く、各地で開催されるどもる子どものキャンプの中で、滋賀県での吃音親子サマーキャンプに次ぐ老舗のキャンプです。
 そこでの話は、また紹介しますが、今日は、ユーテ・サークルの喜田清さんの続きです。
 喜田さんが、高松空襲を記録する会に参加していて講演することになったことを書かれています。
 『たとえ、どもってどもってどもりまくったとしても、亡くなった人の思いの千分の一でも、現代の若者たちに伝えることができるならば、私は、この「恥」に堪えよう』
 喜田さんの、この伝えたいという強い思いが、どもることへの不安や恥ずかしさを超えているということでしょう。

  
初めての講演
                 喜田清(高松市・ユーテサークル)〈1988年記〉

 「オイ! オイ! キタア!」
 私がまだ鉄工労働者であった頃、モーターがいくつも喰っている工場では、人は私の耳に噛みつかんばかりに近寄って、大声で話しかける。耳の不自由な私に対する配慮であろうか、「喜田」ではなく、「キタア」であり、特に「ア」は大音声にしてくれる。
 「お前! コーエンするんか!」
 「や、や、や、やる!」
 「どもりのお前が!」
 「や、や、やる!」
 「どもりのお前が、どんなコーエンするん。そこで、やってみい」
 そう言われても、一生懸命に鉄のサビを落としている工場の真ん中でコーエンの真似などできるものではない。愚弄されていることは明らかである。けれども反論しようにも、言葉に詰まって、私の口からは一語も洩れない。まわりから何と言われても、私は黙って鉄のサビを落とし続けた。
 もう20年も前の話である。
 私の住む高松市内の、あっちこっちに、「反戦集会 喜田清 講演 高松空襲を語る」と書かれたポスターが貼られてあるのを見た同僚が、私をからかうのである。
 無理もない。私は、朝、「おはよう」という挨拶ができないから、「オハ」を省略して、「ヨウ」だけで、朝の挨拶としていた。
 一人では持ち上げられない重たい鉄材を持ち上げるため、同僚の原君を呼ぼうにも、「ハ」が、私の口から出てくれない。そんな時、私はいつもハンマーで「カーン」と鉄を叩くと同時に、「ハ」の音を口から押し出そうとする。でも、一回の「カーン」では「ハ」が出ない。二回、三回、四回とカーン、カーンを繰り返し、うまく口から「ハ」が出た時にすかさず「ラ」の音を出す。そして、「くん」す、す、すまんが、この、テ、テ、テツいっしょに持ってくれ…と、自分の言いたいことを言う。
 そのうち、私がハンマーで「カーン」「カーン」と鉄を叩き出せば、それだけで、私は一語も言わなくても、同僚たちは、私が持ち上げるべき、重量のある鉄材を持ち上げてくれるようになる。
 そんな私でも、鉄工所の仕事が終われば、毎日、ノートと鉛筆と、そして補聴器を持って高松の街を歩き、太平洋戦争最末期、アメリカ空軍の高松空襲で死亡した人たちの遺族に逢って話を聞く。
 耳の不自由な私は、場合によっては、相手の口もとに補聴器をウンと近づけて話を聞く。話を聞く片っ端からノートに要約筆記のペンを走らせる。…それを家に帰って、第三者が読んでも分かるように、改めて文章を組み立てていく。
 そんなことを飽きもせずに繰り返していると、私に講演依頼があった。
 「私は絶対に講演はしません!」
 どんなに私が辞退しても、相手は承知しない。ポスターは街に貼られる。一体どうなるのだろう。私は一日一日、日が過ぎるのが怖くて、夜も眠れない。
 無論、私は夕方など裏山に登って、一人で一時間、二時間、講演の練習はした。
 本当に吃音とは不思議なもの。たった一人で語れば、何のことはない。全くどもらない。とうとう、その日がきてしまった。
 それは高松空襲の日。7月4日の午後7時、市内の公園であった。2〜3000人の聴衆を前に、司会者が私のことを紹介し始めたら、もう私の胸は爆発するように鼓動が激しくなる。
 「では、喜田さん、どうぞ…」
 私は、もし、壇上で立ち往生すれば、一語も言わないで土下座だけして壇を降りるつもりであった。
 ただ、もし、私に一語でも語ることが許されるならば、それは私の言葉であっても、私の言葉ではない。どんな秀才であっても、あの空襲で亡くなった人は一語も語れないのである。その人の思いを、私が代わりに語るのである。
 たとえ、どもってどもってどもりまくったとしても、亡くなった人の思いの千分の一でも、現代の若者たちに伝えることができるならば、私は、この「恥」に堪えよう。
 そう思って、私は何とか与えられた1時間は壇上に立って語った。
 15歳で死んだ少女の話。
 4歳で死んだ男の子の話。
 1歳で死んだ嬰児の話…。
 私が話し終えれば、ものすごい拍手が壇を降りる私を迎えてくれた。
 翌日の私は、相変わらず、鉄のサビ落としとカーン、カーンの繰り返しだった。
 以後、私の戦争体験者の聞き書きは20年に及ぶ。鉄工所は倒産して、今は本のセールスで、いろいろな所に行く。
 私の場合、戦争体験者の聞き書きを続けて来たことが吃音の症状を軽くしてくれたと思う。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/10/29

ユーテ・サークルの喜田清さん

 「スタタリング・ナウ」1998.10.17 NO.50の巻頭言を紹介したのは、9月29日でした。
 1ヶ月が過ぎてしまったことになります。季節も、夏から、すっかり秋に変わりました。しばらく飛騨高山地方に旅行していました。いつもは、旅行する準備のひとつとしてブログに掲載する記事を用意して出かけるのですが、今回はうっかりと持たないで旅立ってしまいました。有名な観光地は、すでに行っているところばかりなので、今、僕たちの旅行は、自然にふれる旅です。今回も名もない公園から眺めた紅葉と、広がる里山の光景が心に残りました。
 数年前から好きになった、北アルプスの白馬村にのんびり滞在するのが好きでしたが、そののんびりする滞在先に、飛騨高山周辺も加えたいと、今回の旅で思いました。ブログをしばらく休んでいると、「元気ですか?」と問い合わせてくださる人がいます。ブログは僕たちが元気でいることの証にもなるのだと、読んでくださる人の存在をとてもありがたいことだと思います。
 今年は、吃音親子サマーキャンプも開催でき、新・吃音ショートコースも開催できました。高山から帰って、今日一日旅の後始末と準備をして、明日から島根に車で向かいます。2年間行けなかった、島根スタタリングフォーラムです。島根スタタリングフォーラムは、僕たちが主催する吃音親子サマーキャンプに次いで、長く続いている吃音親子キャンプです。第1回から参加していますが、今年で24回目です。事務局を担当する中心的な人が、代々途切れることなく続いている、島根の難聴・言語教育の担当者の「島根の底力」を思います。また、その様子は報告します。
 
 今日は、1ヶ月前に紹介した「スタタリング・ナウ」1998.10.17 NO.50で特集していた〈映画に描かれた吃音〉を紹介します。この文章を書いたのは、高松市で、ユーテサークルというグループを運営されていた喜田清さんです。喜田さんはどもる人で、難聴もあります。高松空襲の記録を残す会に参加し、多くの人に出会い、体験を聞き、文章をまとめておられました。
 まずは、喜田清さんの紹介からスタートです。

喜田清さんの紹介
 喜田さんが発行している月刊『ユーテ』の、『映画に描かれた吃音』を使わせていただけないかと、久しぶりに喜田さんと電話で話した。穏やかな、優しい声で「お役に立てることでしたら喜んで」と言ってくださった。
 喜田さんは小学校3年生のころ、吃音と難聴を自覚する。吃音に悩み、苦しみながらも、仕事のかたわら、聞き、話さなければならない高松空襲を記録する会の活動に加わる。
 1977年に旋盤機に上半身を巻き込まれ、入院を余儀なくされたとき、吃音を克服しようと朗読練習の勉強会をきっかけに、ユーテ・サークルを始める。ユーテは、讃岐弁で「言いましょう」の意味で、当初はどもる人に呼びかけていた。その後、喜田さんの関心は、ハンセン病や、障害、在日韓国朝鮮人へと広がり、幅広いボランティアサークルとして発展していく。ユーテの現在は、吃音とは関係がなくなったが、喜田さん自身はいつまでも吃音に関心をもってくださる。『ユーテ』は1978年創刊され、現在242号を数える。
 喜田さんは吃音を治そうと、自律訓練法などの習得のために一人部屋の中に閉じこもった練習で、さらに吃音が悪化した経験をもつ。ところが、空襲を記録したり、ハンセン病者の記録のため、多くの人に出会い、話を聞き、それを記録する中で、だんだんと話せるようになっていったという。
 喜田さんの生き方から学ぶことは多い。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/10/27

「香川吃音のつどい」のご案内

香川吃音のつどい_0001 11月13日、香川県高松市で、第4回香川吃音のつどいが開催され、「吃音と上手につきあうために」のタイトルで、僕が話をします。これは、香川言友会主催で、香川大学と香川県教育委員会が後援しています。
 香川言友会代表の佐々木雅彦さんからメールがあり、何度かやりとりをして、わざわざ僕の自宅にまで来られて、このつどいの開催になりました。
 四国での講演は、2018年12月の高知以来です。
 お近くの方、どうぞ、お越しください。
 以下、つどいの案内が掲載された毎日新聞の記事を紹介します。

 来月13日に「吃音のつどい」 当事者や家族に参加呼びかけ 高松 /香川

毎日新聞 2022/10/20 
 どもって思うように話せない吃音(きつおん)者や関係者らが集まる「第4回香川吃音のつどい」が11月13日午後1時から、高松市幸町1の香川大学教育学部611講義室(北6号館)である。日本吃音臨床研究会会長の伊藤伸二さんの講演の後、参加者らがグループトークで語り合う。主催は香川言友(げんゆう)会で、香川県教育委員会と同大学教育学部の後援。当事者や家族、支援者、関心のある人たちに参加を呼びかけている。

香川吃音のつどい_0002 吃音は、言葉の一部が出づらかったり、出なかったりする言語障害。100人に1人にあるとされる。連発(ぼぼぼくは)、伸発(ぼ――くは)、難発(……くは)の症状がある。からかわれ奇異な目で見られた体験から、話すことに消極的になり、社会に適応できなくなる人もいる。

 香川言友会は当事者の自助団体で会員約15人。例会を毎月1回開いているほか、香川大学などで吃音出前講座を行っている。「吃音のつどい」は、多くの人に吃音を知ってもらおうとこれまで3回開いている。

 今回のつどいは四国労働金庫社会貢献活動助成対象事業。講師の伊藤さんは大阪府在住の当事者。吃音と上手につき合うことを探り、言語訓練に換わる吃音臨床を提案している。 参加申し込みは11月6日までに香川言友会事務局(080・8469・7815)かメール(genkagawa4@gmail.com)へ。参加無料。【佐々木雅彦】

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/10/20

千葉県の言語障害教育研究部会秋期研修会で話をしました

 今日は、千葉県特別支援教育兼杞憂連盟言語障害教育研究部会秋期研修会で話しました。昨年も同じ研修会で話しています。そして、昨年と同様、今年もオンラインでした。コロナが始まって、何度も、オンラインで講演や講義をしていますが、どうも、慣れません。丸1日の講義で、1コマ90分の講義を4コマしたこともあります。受講者の方のほうがしんどいだろうと思いますが、話す僕も、聞き手の反応が分からないことが、何よりもしんどいです。
 今日の研修会は、90分。たくさん資料を用意しました。話したいことは山ほどあるので、90分では到底話せません。後で、補ってもらおうと思って、たくさん用意しました。昨年とかぶらないようにと気をつけました。
 今年の演題は、「どもる子どもが、幸せに生きるために」です。

千葉研修オンラインの様子 まず、人が幸せに生きるために必要なものから話を始めました。まず、空間・時間・仲間の三つを指す「三間」。これは、トーベ・ヤンソンのムーミンの話からヒントを得たものです。多くの人がムーミンの話をご存知なので、すっと入るようです。ことばの教室が、どもる子どもにとって、ムーミン谷であってほしいと思っています。
 次に共同体感覚。これは、アドラー心理学の大切な3つの概念です。自己肯定・他者信頼・他者貢献、この3つの感覚を共同体感覚といいます。
 そして、交流分析の中から、プラスのストローク。プラスのストロークには、言語的なもの、心理的なもの、身体的なものがあります。反対のマイナスのストロークについても触れました。無視が一番嫌なので、プラスのストロークが得られないなら、マイナスのストロークを得ようとするのは、よく理解できるようです。
 どもる子どもはもちろん、担当者自身も、幸せに生きてほしいと思いながら、話していました。

基本的な吃音の基礎知識は、資料として配付しました。今日は、簡単に、吃音について、治療の歴史、治療がなぜ失敗するのか、それでも少しでも改善してあげたいと思う人たちのことなどに話を進め、吃音についてのまとめました。
 吃音は、ひとりひとり違います。ひとりの中でも、ライフスタイルによって変わります。多様性と大きな変動性があるのです。その吃音について、吃音検査をして、把握しようとする人がいます。検査は、その後の処遇に結びついてこそ意味があるのですが、細かい検査をしても、対策としては、ゆっくり話すという訓練しかありません。意味のない検査ではなく、その子どもの吃音について、その子ども自身について、対話を通して、担当者と子ども自身が知ることが大切です。
 吃音の影響には、大きな個人差があります。あまりどもっていないのに、とても悩んでいる人もいますし、ひどくどもっていても、豊かに自分らしく生きている人もいます。症状の改善を目指すことは、それほど大きな意味がないのです。
 子どもが幸せに生きるために、吃音に大きく影響を受けず、自分らしく生きていくために、ことばの教室担当者として、何ができるだろうか。吃音をマイナスのもの、劣ったものと思わないような子どもになってほしい。どもる子どもをかわいそうな子だととらえてほしくないのです。吃音についてマイナスの物語を持っている子どもなら、その子と一緒に、吃音肯定の物語を作り替えていくことを、一緒にしていただきたい。それこそが、教育の場である、ことばの教室でこそできることです。教師は、子どもの同行者であっていただきたいと願います。
 そのためには、担当者自身も、自己肯定感を持ってほしいと思います。自己肯定感を持つのは難しいのかもしれません。他者に敬意を示し、他者を大切に親切にすることから、自己肯定感が生まれます。これは、自分が嫌いで、自己肯定できなかった僕が、自己肯定の道筋に立てたのは、セルフヘルプグループで仲間を信頼し、大切して一緒に様々な活動を通して得られたものだからです。その活動を通して他者貢献感が持て、それで初めて、自己肯定ができるようになったという僕自身の経験によります。
 共同体感覚のもつための三つ、他者信頼→他者貢献→自己肯定と進んでいったのが僕の歩んだ道でした。初めに、自己肯定感を高めることはから入ると難しいのですが、ことばの教室の担当者が、子どもとともに、自己肯定感を高めていくことができれば、すばらしいことだと思います。
 最後に話したのは、半径3メートルの幸せです。自分の周りの人、顔を思い浮かべることのできる半径3メートルの人たちを大切にすることです。ちょっとしたことばをかけ、相手を尊重し、それらの人への愛を惜しまないこと、愛をケチらないことです。
 話したいことがいっぱいあって、やっぱり、時間が足りませんでした。後半は、早口になってしまったかもしれません。
 でも、こうして、自分の考えたこと、思っていることを伝える場があることは、僕にはとても幸せなことだと思いました。コロナが落ち着いて、対面でお会いし、やりとりをしながら、お話したいなあと思いながら、90分の話を終えました。このように機会を与えていただいたこと、感謝しています。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/10/19

落語会・三福会 久しぶりに桂文福さんに会いました

 今朝8時半、電話がありました。誰から?と思ってとると、桂文福さんの元気のいい声でした。開口一番、「昨日はありがとうございました」と。実は、昨日、文福さんの落語会に行ってきたのです。

三福会チラシ 10月16日(日)、大阪市内の高津の富亭で、三福会という落語会がありました。
 これは、長いお付き合いのある桂文福さんから案内を送っていただいたものでした。桂文福さんとのお付き合いは古く、いつも、一門新聞や新聞・雑誌の記事のコピーを送っていただいています。僕たちも、毎月「スタタリング・ナウ」をお送りしています。コロナ禍では、大阪吃音教室にも顔を出していただいたこともありました。久しぶりに文福さんの生の声を聞きたくて、出かけました。
三福会は、桂文福さん、森乃福郎さん、笑福亭仁福さんの三人の会です。送っていただいたチラシには、「今春、五十周年を迎えた同期三人衆が、秋の夜長、皆様に福をお届けします」とあります。
 会場の高津の富亭は、大阪市内の高津の宮にあり、高津の宮の境内には、五代目文枝の碑がありました。ちょっと早く着いたのですが、聞き慣れた声が響いてきます。文福さんの声です。ご挨拶をして、教えていただいた桂文枝の碑をまず見に行きました。亡くなる2ヶ月前に、この高津の富亭で最後の落語をされたとか、立派な碑がありました。後ろには、この碑を作った人の名前が刻まれていました。もちろん、文福さんの名前もありました。

 午後2時開演の会場は、満席でした。最初は、文福さんの息子の鹿えもんさんの落語でした。文福さんと僕たちが出会う直接のきっかけを作ってくれた息子さんです。NHKの「にんげんゆうゆう」に僕がスタジオ出演した番組を録画して、巡業から帰った文福さんに見せたのが息子さんです。すぐに文福さんから電話がかかってきました。デビュー当時を知っているので、だんだんと高座に慣れてこられたことが分かる舞台でした。
 中入り後は、文福さん。相撲甚句に、歌謡ショー、とても賑やかな舞台でした。吃音の方も絶好調でした。最後に、三人がそろって、歩んできた五十周年についてお話されました。同期には、鶴瓶さんがおられるとのこと、鶴瓶さんからのメッセージも紹介されていました。

 話すことが商売の落語家、文福さんにもいろいろと苦労があっただろうと思います。でも、やっぱり、好きな道を歩んできたということは、その苦労を補って余りある喜び、楽しさがあったのだと思います。
 そして、今朝の僕への電話のように、こまめに連絡をとり、人を大事にする文福さんだからこそ、五十年、芸の道を歩んでこられたのだろうと思いました。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/10/17

第5回 新・吃音ショートコース、終わりました

 10月8・9日、吃音哲学〜吃音の豊かな世界への招待〜をテーマとした第5回新・吃音ショートコースを開催しました。
 親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会、吃音親子サマーキャンプに続く、僕たちが大切にしている秋のイベントです。これも、コロナのために中止が続き、3年ぶりの開催でした。

 今年は、全て、対面で開催することができました。セルフヘルプグループ型の僕にとって、直に出会い、参加者の顔を見ながら、ことばや表情の温かさや豊かさを感じながらのミーティングは、何にも代えがたい大切な時間だったことを改めて感じました。
 参加者は、大阪吃音教室のメンバーが多かったのですが、遠く千葉や東京、山口からも参加してくださいました。16名の参加でした。
 申し込んではキャンセル、申し込んではキャンセルを繰り返した会場の寝屋川市立市民会館は、僕の地元です。初めてこのような集まりの会場として使用しました。広めの会場を予約していたので、ゆったりと使うことができました。

吃音SC    2 8日(土)午後、参加者の自己紹介から始まりました。名前、どこから来たのか、このショートコースで経験したいこと、ちょっとした自己開示など、さらーっと回るかと思ったら、そうはならず、何度も立ち止まり、立ち止まったところから、広がり、深まり、いろんな話が飛び出しました。最初から、豊かな吃音の世界にみんなで入っていったような感覚でした。

吃音SC 1 ホワイトボードの左に、参加者の吃音ショートコースで何がしたいかのリクエストを書き挙げました。2日間で、この全てを、なんとか行うことができました。僕はこのようなリクエストが大好きです。随分昔ですが、藤山寛美が会場に来た人のリクエストで新喜劇の舞台をしていました。これは、劇団員全員がいくつもの演題をいつでもできるようにしておかなければならず、大変なことです。僕の場合は一人で話すのですから、楽です。講演会は、いつもそのような形にしたいくらいです。さて、みんなからのリクエストは、次のようなことでした。

・竹内レッスン…からだほぐしで脱力し、身体の緊張をほどいて対話に入ったら面白そう。可能なら声出しのレッスンもしてみたい。
・今、会社勤めで、教育の現場に関わっているわけではないが、住んでいる地域で、どもる子どもたちと交流を持ちたいと考えている。何かよいアイデアがあれば。
・もし、「何が何でも吃音を治したい。どもっている自分はだめだ」と、自分の吃音を受け入れず、吃音を治すことに必死な人に出会ったら、どう声をかけるか。
・20年間くらいどもりを否定してきたので、日常生活でどもらずにしゃべる自分なりの調整方法を持っている。最近は自分の吃音を受け入れつつあるので、時々連発でどもるが、まだまだ「どもれない体」になっていると思う。「どもれる体」になりたい気もあるが、どちらが自分にとって生きやすいのか分からない。「どもれる体」に変化した人の話を聞いてみたい。
・他の人が考えていることを共有してもらって、学びたい。
・「コミュニケーションとどもり」「対話とどもり」をテーマに話したい。そう思った背景は、どもる人の話を思い出しているとき、その人はどもっていない。どもり方に注意を向けると思い出すことができるので、忘れているわけではない。話の内容が重要でどもり方は重要ではないということだろう。一方、どもることに馴染みのない人は、内容よりどもり方に驚き、どもることばに注意が向いてしまうのだろう。また、記憶に残る魅力的などもり方をする人もいる。
・吃音で良かったことを考える
・来年度の「ことば文学賞」のテーマを考える
・文章の書き方講座
・吃音とは直接関係ないかもしれないが、コロナ禍の生活の中で考えたことや悩んだことなどについて、共有できたらと思う。
・どもる人が職場や地域などの社会で、力強く前向きに生きている様子、またサバイバルしている体験を聞きたい。

 なんともバラエティに富んだ内容が並びました。関係ないようで、どこかでつながっていて、おもしろい時間になりました。まじめに考えたり、大笑いしたり、いつもの僕たちのスタイルで濃い時間を過ごしました。竹内敏晴さんに教えていただいたからだ揺らし(ぶら下がり)や、歌を歌うこともできました。
 毎週金曜日の大阪吃音教室の開催時間は、2時間くらいと短いです。時間を気にせず、ゆったりと過ごせるこの新・吃音ショートコース、来年も開催しますので、今回、参加できなかった人、どうぞ、来年、ご一緒しましょう。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/10/10

ちば吃音親子キャンプ、無事終わりました

 しばらくお休みしました。
ちばキャン9 旗ちばキャン3 渡邉さん 10月1・2日は、第4回ちば吃音親子キャンプでした。僕たちの仲間の、ことばの教室担当の渡邉美穂さんが中心になって、企画・開催してくれました。僕は、第1回から参加しています。今年は、呼びかけるのがとても送れたので参加者が集まらないかも、と聞いていたのですが、渡邉さんもびっくりの60名の申し込みがありました。
 3年ぶりの対面での開催、やはりこのような機会を待っていてくださったのだろうと思います。会場は、千葉市少年自然の家です。緑豊かな自然の中、さわやかな風が吹き抜けるすてきな会場でした。
ちばキャン1 受付ちばキャン4 全員 10月1日の昼過ぎ、参加者が集まってきます。出会いの広場で、ゲームなどを楽しんだ参加者の顔を見ると、初めの緊張がだんだんと緩んでいきました。
ちばキャン8 伸二 14時から17時まで、僕は、保護者やスタッフを対象に話をしました。初めは、参加者に質問を書いてもらい、それにすべて答えました。聞きたかったことがあるのに、違う話を聞いた、ということにならないよう、本当に知りたかったことを知って、帰っていただきたいと思うからです。思いのほかたくさんの質問が出て、時間が足りなくなりました。
 すべての質問に答えてから、後半は、子どもにとって、大切な「三間」の話をしました。これは、トーベ・ヤンソンのムーミンの話を聞いて、それを僕なりに吃音とからめてよく話をしているものです。「三間」とは、空間・時間・仲間のことです。家庭やことばの教室が、子どもにとって大切な「三間」になってほしいと思っています。そのために、子どもにどのようなことばをかけたらいいのだろう、どのような姿勢でいたらいいのだろうと、話をすすめ、プラスのストロークについて、みんなから意見を出してもらいました。
 プラスのストロークを、言語的・非言語的・身体的の3つに分け、ホワイトボードに書き上げました。たくさん出てきました。これらを浴びるように日常生活を送ると、子どもたちはきっと自己肯定感が高まることでしょう。
ちばキャン6 フィッシュボウル 夕食の後は、全員が集まって、吃音について考えました。人数が多いから難しいかなと思ったのですが、真ん中に椅子を4脚並べて、そこに話したい人が出てきます。話したいことを話せたら、外に出ます。周りは、聞く人ですが、椅子が空いたら、出てくることができます。オープンダイアローグのひとつの手法、フィッシュボウルの形を取り入れてみました。いい意味での緊張感があり、集中できて、いい話し合いになりました。
 2日目の午前中は、作文教室からスタートです。エピソードをひとつ思いだし、それについて書いていきました。書きにくそうにしている子どもたちもいましたが、そばに行って、少し話をしていくと、思い出すようです。保護者も含めて全員が書きました。作文と平行して、スタッフ向けに話をしました。二回目の吃音について話し合いをしたり、吃音キャラクターを描いたりして、昼食です。最後は、全員が輪になって、ふりかえりをしました。広い研修室いっぱいになったその光景は、迫力がありました。
ちばキャン7 ふりかえり
 7月末の、親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会、8月の吃音親子サマーキャンプ、そして、10月初旬のちばキャンプ。いずれも、対面で開催しています。
 相手の表情を直に感じ取り、ことばの温かさや優しさを肌で感じ、自分の感情がしっかりと相手に届いているのを確かめることのできる、とてもいい時間でした。

 大阪に帰ってきてすぐに、「スタタリング・ナウ」の入稿に向けての準備をしていて、しばらくブログをお休みしました。入稿は終わりました。そして、今週末は、第5回新・吃音ショートコースです。準備不十分のまま、突入しそうです。まず、参加者が集まって、プログラムを作ることから始まるワークショップなので、まっ、いいかと思っています。
 新・吃音ショートコースの申し込みは、ぎりぎりまでOKです。ぜひ、ご一緒してください。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/10/07
Archives
livedoor プロフィール

kituon

QRコード(携帯電話用)
QRコード